養分

 白い息が締め切った窓硝子にぶつかって楕円形に広がった。それは知代圭介(ちしろけいすけ)の吐き出した深い溜め息であり、部屋の中にまで侵入してくる冬の寒さを物語っていた。

「遅いなあ……あいつ……」

 すっと指を突き出し、作られた白い楕円の中を泳ぐように動かす。ポタポタと指先から水滴が落ちると同時に、一時間前から圭介が眺め続けている景色が現れた。
 時刻は午後三時。雪解けの道を照らすように太陽の光がきらきらと反射している。その中を、ランドセルを背負った小学生たちがこちらに向かって歩いている姿が見えた。今日は金曜日だから、明日が楽しみで仕方がないのだろう、小学生たちは「公園」だとか「お弁当」だとか休日の予定を口々に言い合いながら、決まって嬉しそうな笑顔で圭介の家の脇を通り過ぎていく。

「……僕にも、」

 あんな頃があったなあ、と小さく呟くと、圭介は昔を懐かしむように身体を乗り出し、硝子に顔を近付けた。今しがた小学生たちが歩いてきた、家の右側に伸びる通学路の先を目で追って眺める。
 そこには圭介が十五年間見続けてきた、変わらぬ存在があった。
 日野川だ。
 両脇を桜の木に囲まれた日野川は、冬の凍えるような寒さを織り交ぜながら通学路を横切るように流れていて、小学生たちは今もその上に架けられた橋をじゃれ合いながら渡っている。
 その小学生たちの姿を見ていると、圭介の脳裏にふと母親の言葉が浮かんできた。

 ――子供にとっては大きいけどね、大人になったら、なんでも小さく感じてしまうものよ。

 あの言葉は一体いつ言われたのだったか。圭介の頭の中で母親の言葉は浮かんではまた沈み、やがて疑問をまといながらまた深く落ちていく。
 確かに日野川は泳ぐほど深いわけではないが、雨になれば水位も増して大人の腰をゆうに超す高さになる。となれば、小学生がひとりで遊ぶには危険な川だろう。
 しかし、圭介は知っている。
 今はまだ春の兆しを蕾に秘めたあの桜の木が満開になったとき、日野川の水面は、散った花びらで薄ピンク色になるのだ。その幻想的な風景が小学生の時分には夢の中のように感じられたものだ。
 春だけじゃない。夏になればザリガニやエビやタガメが捕まえられることも知っているし、秋になればトンボが来る。冬になれば一面雪景色で――。
 あの橋を渡る小学生たちの笑顔を見れば、日野川が危険なだけの場所ではないことは一目瞭然だ。
 圭介は日野川が大好きだった。今となっては川に入って遊ぶことはなくなったが、小学生の頃の思い出だけは色褪せることなく圭介の心の中にある。だからこうして身を乗り出して川を眺めていると、窓硝子越しだというのに聞こえてくるのだ。
 静かな日野川のせせらぎが――。

「……ん?」

 そのとき圭介の中に、なにか小さなノイズが走った。ザザっと、僅かではあるが圭介自身にも自覚できるような違和感だった。圭介は小首を傾げると、額に手をやった。冷たい窓硝子にずっと顔を近づけていたから冷気にやられてしまったのだろうか。

「もう……それもこれもあいつが遅いせいじゃないか……」

 圭介は片手に握り締めたままであった、買ったばかりの携帯電話を不慣れな手つきで操作する。手こずりながら呼び出したアドレス帳の一番上。ディスプレイには圭介が一時間以上も前から待ちわびている人物の電話番号が表示されている。

「まさか、事故にでもあってたらどうしよう……電話とかした方が良いかな……でも、電話とか、緊張するしなあ……」

 そうして通話ボタンを押すか押すまいか悩んで親指を行ったりきたりさせているうちに、圭介は自身の瞼が重くなってくるのを感じていた。 時刻を見れば約束の時間から二時間も過ぎている。
 二時間ずっと緊張して待ち続けていたから、ふっと気が緩んでしまったら最後。圭介の目の奥がじりじりと熱を持ち、立っているのが億劫になり、やがてそれが睡魔の到来だと知る頃には圭介の意識は独り手に歩き出していた。
 意識は、器用に後ろ足で進み、しまい込んだ詰襟の学生服を壁にかけて、閉め切った窓を開け放つ。そして頭を抱え、突然に部屋を飛び出し、爪先に力を入れて駆け始めた――。
 向かうは、あの夏の日野川まで。

 × × ×

 鼻の奥に鎮座している血の塊を、何度も息で押しやって地面へと噴出した。カリカリに乾いた先端部に続いて、どろりとした血がまるで蛇のようにくっ付いて落ちる。知代圭介は赤黒いそれをじっと見つめながら、鈍く痛む鼻骨を指で触った。

「っ……いてて……」

 触ったことを後悔するような鋭い痛みが襲い、圭介はやり過ごすために鉄の味のする痰を鼻血の上にぺっと吐き出す。合体した赤黒いそれはなにかの生物のように風に揺れて動いていた。

「はあ……」

 やるせない。もう、入学してからずっとこんな生活だ。
 圭介は、ぎしぎし軋む身体を折るようにして境内にある階段に腰を下ろした。まるで秘密基地のような佇まいの小さな神社だった。
 ここで数分前、圭介は顔面を殴られたのだ。
 相手の名前は思い出せない。
 でも圭介はその相手が同じクラスの男子生徒だということは分かっていた。
 あれは入学して次の日だったか。圭介は東郷はじめという生徒に放課後校舎裏に呼び出され、唐突に顔面に拳を食らった。
 東郷はじめのことは、この小さい町で誰もが一度は聞いたことがあるほど悪名高かったから、圭介も知っていた。万引きをしただとか、恐喝をしただとか、悪い大人と裏で繋がっているとか。しかし、生まれてこのかた目立ったことを何一つしたことがない圭介に、東郷との接点があるはずもない。圭介は東郷に呼び出されたときもなにかの冗談だと思っていたので、いざ殴られたときは痛みよりも驚きのほうが勝っていた。
 そうして東郷は圭介を一発殴りつけると、まるで道に落ちた昆虫でも見るようにそっけない目を向けて「お前を教室から追い出ないといけないんだ、絶対に」とだけ言った。立ち去る東郷の後姿を唖然としたまま眺めていた圭介は、意味が分からずに次の日も登校した。
 そして、殴られた。今度は東郷とは違う男子生徒だった。これがまだ、呼び出されたのが放課後だったなら少しは警戒したかも知れないが、呼び出されたのは昼休みの男子トイレだった。そして相手は印象のまるで残らないひ弱そうな風貌の男子生徒だったから、圭介は完全に油断しきっていた。
 名前すら思い出せない男子生徒は、蚊のなくような小さな声で「ごめん」と謝罪すると細い腕を目一杯震えさせた。風を切る音が聞こえて、昨日の痛みを思い出させるような衝撃が圭介の鼻先に訪れる。今まで人を殴ったことなど一度もなかったのかも知れない、その男子生徒は今にも泣きそうな顔で圭介を見つめて言った。

「こうしないと、僕が東郷さんに怒られるんだ」

 ごめん。男子生徒はもう一度小さく謝罪すると、大きくずり下がった眼鏡を上げることも忘れてその場から逃げ去っていった。
 ここからはもう、圭介は殴られるために登校していたようなものだ。
 どうやら同じクラスの男子生徒が、一日交代で圭介に暴力を振るうことにしたらしい。確かな理由は分からない。だが、暴力の始まりは東郷はじめという悪名高い男子生徒によるもので、どういうつもりか圭介を教室から追い出さなくてはいけないらしい。
 その宣言通りに、一回目は東郷はじめによって放課後に殴られ、二回目は昼休みに知らない男子生徒に殴られた。そして三回目は朝の会の間で、四回目は正門の前。五回目は学校から少し離れた神社に連れ込まれて。六回目は―ー。
 授業開始のチャイムが、どんどん遠くなっていったのを覚えている。圭介は道の脇に無造作に生えた雑草の中にうずくまり、身体と心が上げる悲鳴が、チャイムと反比例して大きくなっていくのを感じていた。
 そして乾燥した犬の糞や、死んだ野良猫の干からびた白骨を何度か目の前で眺めたところで、圭介は学校へ向かうのをやめた。最後に圭介の自宅近くで殴ってきた男子生徒の名前も、やはり思い出せなかった。

「もう二ヶ月も経ったのか……」

 枕元に転がったカレンダーに目をやった。母親が気を利かして置いていった日めくりカレンダーだったが、最後にめくったのがいつかなど、圭介にとってはどうでも良いことだ。雑草を構うように何枚かまとめて破り、顔の横にばら撒いた。そのとき一番前にきた日付が七月五日だったのだ。
 七月五日なら、あの暴力の日々からおよそ二ヶ月も経っていることになる。気まぐれのような蝉の声が、開け放った窓から聞こえていたから今日の季節が夏であることは間違いないだろう。
 圭介は、とっくに月日の流れというものが感じられなくなっていた。
 自分の身体から立ち上る熱気と臭気。それらがむわりと充満する部屋の中で、圭介はゆっくりと窓を見上げる。四角のアルミサッシで出来た枠の外。日は落ち、群青を塗り重ねたように暗い。その夜の様子は、まるで圭介の心を表しているようだ。
 あの暴力の日々は、一体なんだったのだろう。
 圭介は殴られている最中、常にその疑問を抱いていた。そして何度か殴ってくる相手に問いかけてみたが、決まって返ってくるのは「東郷さんに怒られたくない」だから圭介を殴る、という答えだった。その答えを聞くたびに、圭介の中にあった疑問は泥にまみれて重さを増し、ゆっくりと底なし沼に落ちていった。
 今もまだ、その沼に落ち続けているような心地がする。いや、今だけではない。今日も、明日も、だ。圭介は窓の外の群青をぼんやりと見つめ続けていた。
 やがて群青を捕らえていた四角の輪郭が曖昧になり、圭介はすうっと息を吸い込んだまま眠りについた。

 なにもかも、夢だったのかも知れない。
 それとも、自分が作り出した幻覚か……。

 圭介は突然の違和感に、飛び跳ねるように上体を起こした。なにか不吉な夢を見ていたような気がするが、思い出せない。しかし目の前に広がっていた光景によって、圭介は自らの「逃避」の果てを見た。
 裸の女の子が、腹の上に乗っている。
 女の子はきょとんとした顔で、口をだらしなく開いていた。そこから唾液がゆっくりと落ち、生暖かい液体となって圭介の首元に到達する。それを目で追うことしか出来ない圭介は、金縛りにあったように自分の身体を跨ぐ女の子を再度見た。
 風を孕んだ黒い長髪がふわりと揺れ、切れ長の瞳は熟れた果実のように赤い。圭介はただただ唖然として彼女を見ていたが、次第に制御を忘れた機械のように、心臓がばくばくと脈打ち始めた。事態の非常識さがやっと圭介の身体に追いついてきたのだ。

「だっ……だだ、っ……なんっ……!?」

 誰? なんで?
 なんでハダカ?
 その質問のどれもうまく言葉にならなかった。気が動転して舌が回らないのだ。
 しかし、その圭介の驚き以上に相手は驚いていた。鳩が豆鉄砲を食らったような顔という表現を聞いて、どんな顔だと首を捻ることがあったが、このときの彼女がまさしく鳩が豆鉄砲を食らったような顔だった。赤い目を見開き、口をぱくぱくさせながら両手を前に突き出したり横に広げたりしている。

「あっあわっあわわ」

 その慌てっぷりは、圭介が起きることを全く想定していなかった、といわんばかりの反応である。圭介は彼女が動くたびに揺れる膨らんだふたつの「それ」から意識がそらせずに別の意味で慌てたが、どうにか深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。

「ばっ! ばれたときの対処法、確か後ろのほうのページに、あわわ」

 そう言って女の子は、所有物なのか圭介が知らないボロボロの本を手に取ると忙しなくめくり始めた。右に左に、大きな赤い眼球がうろうろするのを圭介は見つめ続ける。そうして彼女が目的のページを見つけるまで、圭介は自分の腹の上の光景を理解することに努めた。
 深夜。裸の女の子。馬乗り。
 そこから連想されるのはやはり邪なことだけだったが、なぜ僕が、という気持ちが勝って、圭介は頭をぶんぶん振ってやましい気持ちを払い落とした。悲しいことに圭介は女の子に夜這いされるような優れた容姿でもなければ、菩薩のような性格でもない。だから平凡を極めたような圭介にとって、こんな都合の良い展開があるはずがない。圭介の脳裏には、暴力の日々がパラパラ漫画のように連続して映った。
 やがて目的のページを発見したのか、女の子は「これだ!」と叫ぶと手をピンと上げて宣言した。その言葉に、圭介は全てを悟った。

「失礼しました! 私は新米ヴァンパイアのアヤです! あなたの血を貰いに来ましたが失敗したので私のことは忘れてください!」

 女の子は勢い良くそう言って、ボロボロの本を小脇に抱えたまま開けっ放しの窓から外へ出ようとした。圭介は目の奥から、ぬるい液体がこぼれ落ちそうな気持ちで彼女の腕を取った。さっき頭を振って否定したことが、正解であるのがとても悲しく、むなしかったのだ。
 これは、僕にとって都合の良い展開なんだと思う。

「君、本当にヴァンパイアなの?」

 その問いかけすら見逃してくれと言わんばかりにアヤは窓枠に手をかけて身を乗り出していた。圭介は、咄嗟にアヤの手首を掴んだ。

「僕の血、あげるよ、欲しいんでしょ?」
「えっ……」

 予想外の言葉だったのかアヤは振り向き、圭介の顔を見つめた。その瞳には不安の色があり、赤色にうまく溶け込まずに渦巻いた。

「好きなだけあげるからさ、僕の傍にいてよ、僕、毎日こうしてひとりでいるのに飽きたんだ。話し相手が欲しいんだ。血ならいくらでもあげるから、傍にいてよ、アヤ」

 その必死さに気圧されたのか、アヤは一度外の景色に視線をやってから、考えるように頭を揺らして、やがて圭介に向き直った。

「……少しの間ですよ」

 アヤが快諾することを圭介は予想していた。
 足元に転がった、一冊の本に目をやる。それは母親が気を利かして購入してくれたもの達のひとつで、ヴァンパイアの少年が敵と戦う小説だった。圭介は暇つぶしに一度読んだことがある。その記憶が今、目の前に妄想の形となって現れているのだ。
 圭介は確信していた。
 遂に、自分の頭はおかしくなってしまったのだ。
 最近、運動もしていないのにやけに眠気が訪れるなあと思っていた。倒れるように眠るときもあれば、視界がもやのようなものに包まれて静かに寝入るときもある。だがそのどれもが、決まって人生に疲れて絶望し、日常から逃げる為の睡眠だった。
 今から考えればその過剰な睡眠欲も幻覚の前兆だったのかも知れない。
 なにが圭介にとって悲しいかといえば、小説に登場するのは筋肉質なヴァンパイアの少年だったはずだ。が、目の前に佇んでいるのは華奢で色白な女の子。そんな姿を思い描いてしまう自分の脳みそに対して悲観していた。
 そして、もうひとつ。

「あなたのお名前を教えて下さい」
「圭介でいいよ、アヤ」
「……じゃあ、圭介さんって呼びます」
「堅苦しいな。呼び捨てて良いのに……」

 アヤという名前は、今はもう一言も話すことのなくなった幼馴染の名前だった。


 皆城亜矢(みなしろあや)とは、生まれる前から幼馴染だった。それは比喩的な表現ではなく、元から友人であった圭介と亜矢の母親が、同じ時期に妊娠し、それならいっそと同じ病院に入院したのである。だから生まれたときの圭介は必然的に亜矢と保育器を並べたし、幼稚園も一緒、小学校も一緒、中学校も一緒。圭介が亜矢の隣にいない日はなかった。圭介にとってそれは日常であったし、亜矢にとってもそうだった。はずだった。
 日常が突然崩壊したのは小学三年生のときだ。
 圭介はいつも通り、皆城亜矢の横を歩いていた。亜矢の顔がどこか辛そうだったのは知っていたが、食あたりか、風邪かなにかだろうと二人で言い合って納得したところだった。

 亜矢の可憐な白いワンピースの裾が、赤く色付いたのを鮮明に覚えている。

 圭介は壊れたように慌て、亜矢にその場にいるように伝えて亜矢の家へと向かった。圭介は亜矢がなにかとんでもない病気にかかったのだと思ったのだ。母親を連れて、再び亜矢の下へと戻ったときには、亜矢は今にも死ぬのではないかというほど衰弱していた。亜矢の股の間には、脚を伝って真っ赤な水溜りが出来ていた。
 次の日から、皆城亜矢が圭介の隣にいることはなくなった。
 圭介は意味が分からなくて、悲しくて、なにより身体の具合は大丈夫なのかと何度も問いかけた。しかし亜矢はきゅっと唇を引き締めて、静かに首を横に振った。これ以上話しかけないでくれ、と表情で語っていた。それでも納得できない圭介は引き下がらなかったのだが、はらはらと、亜矢の目から涙がこぼれ落ちたところで全てから身を引いた。それは幼馴染であること、友人であること、知り合いであること、つまり圭介と亜矢を繋ぐ絆の全てだった。

 赤いランドセルを背負った亜矢。飴玉を転がすような声で笑い、圭介のことを気軽に呼び捨てにし、手を繋いで一緒に日野川の橋を渡って通学した日々。大切な大切な、亜矢との記憶。圭介にとってその記憶は、暴力から逃げるように篭城したこの部屋から見ればきらきらと輝く希望だったのかも知れない。
 だから、この幻覚は圭介にとっての希望そのものだ。

「僕はもう寝るよ。アヤも一緒に寝よう」
「分かりました圭介さん。おやすみなさい……」

 おかしくなった圭介の脳から視覚へ呼び起こされ、身包みを剥がされた皆城亜矢は、真っ赤な目を持つヴァンパイアとして圭介の身体に寄り添って寝息を立て始めた。
 血ならいくらでもやる、と圭介は小さく呟いて窓の外を見やる。知らない昆虫たちがジジジと鳴いていた。

 すっと息を吸い込んだ。
 それが睡眠からの目覚めだと知るよりも早く、視界に赤が飛び込んでいた。どちらともなく「おはよう」と言う。
 開けっ放しの窓からは蝉の声と暑い日差しが飛び込んでいた。うるさいし、あつい。でも、圭介はアヤがいればなんでも許せる気がしていた。自分が生み出した女の子。自分だけの女の子。それが例えイカれた産物だとしても、目の前でこうして圭介に微笑みかけてくれるアヤが何よりも真実だった。
 ピン、と一旦弾けて、ポーン、と軽快な電子音が鳴った。
 次いで、パタパタとスリッパで廊下を走る音。圭介の母親だろう。圭介の部屋から地続きの玄関までスリッパの音が移動していく。どうやら誰か、来客があったようだ。圭介の母親の声が開けっ放しの窓から遠い世界のラジオ放送のように聞こえてくる。

 ――そう、あの子、まだ具合悪いみたいで。

 愛想笑いが言葉尻に付け足されている。母親のこんな声を聞いて、心が痛まなくなったのはいつからだろう。圭介はアヤと見つめあいながらその頬へ手を伸ばした。驚くほど柔らかく、そして冷たく感じられた。

 ――今日もありがとう。これ、あの子に渡しとくわ。気をつけて帰るのよ。

 短い会話が終わり、玄関から遠ざかる足音と、またスリッパの音。しかしパタパタという音はさっきよりも短く、それは圭介の部屋の前で止まった。部屋の向こうで閉め切られた扉を見据える母は、一体どんな表情をしているのだろう。圭介はいつもぼんやりと考えるが、すぐに思考は飛散していく。

「圭介、さっき、亜矢ちゃんが来たよ」

 扉一枚を隔てて、長い沈黙の時間があった。
 圭介はアヤに伸ばした手を頬から唇に移動した。ふるっと薄い唇の肉が揺れる。そっと指を差し入れると、指の先がアヤの唾液で濡れた。引き抜いた指に唾液の糸が透明に伸びる。

「圭介。亜矢ちゃん、この間の試験で学年四位だったんだって」

 伸びた糸をアヤの目線が追っていた。圭介は濡れた指先を宙に漂わせる。

「凄いわよね。でも亜矢ちゃん、三位以内に入りたかったから悔しかったんだって。国語が特に苦手って言ってたわ」

 漂わせた指をそっと。圭介は自分の唇に持っていく。粘着質な音が耳に心地良く、アヤの目線が圭介の視線と絡み合った。そして互いが吸い込まれるように――。

「圭介、ねえ、寝てるの?」

 触れ合う感触があった。

「圭介……」

 圭介の母親は小さく溜息をつくと、いつものように「これ、今日の連絡らしいから。読んでおきなさい」と言って部屋の前から立ち去った。
 圭介は思った。今、母親が考えているよりも僕は手遅れなんだろう。
 引きこもるようになってから皆城亜矢は一日も欠かさずこうして圭介の家へ連絡プリントを届けてくれる。その意味なんて分からないし、真意だって分からない。分かりたくもない。皆城亜矢なんて初めからいなかったんだ。僕にはアヤというヴァンパイアがいればそれで良いんだ。この部屋でずっとアヤと生きるんだ。
 圭介はまるで自分の身体の延長のように続くアヤの唇を、確かめるように何度もついばんだ。アヤは圭介の身体に手を回し、嫌がることなく受け止め続けていた。
 僕はこのまま、この部屋でアヤと一緒に死んでいくんだ。
 そんなことを考え、考え、また眠りについた。


 アヤがふざけたことを言い始めたのは何度目の眠りから覚めたときだろうか。

「学校、行ったほうが良いですよ、圭介さん」

 自分が作り出した妄想が反抗するなんて聞いたことがなかった。それと同時に、圭介はアヤが自分の血を一滴も吸わないことが疑問だった。
 幻覚だから血液は吸えないのだろうか。じゃあ何度も繰り返し確かめたあの柔らかい感触は? それすらも都合が良く作られているのか?
 圭介はむしゃくしゃする消化不良の想いを感じながら、隣で心配そうに眉尻を下げるアヤの美しい黒髪に指を通して頭を撫でた。
 小さな頭。女の子の頭だ。

「どうして学校に行った方が良い、なんて思うの? 僕は学校にくるなって言われて、毎日殴られてたんだよ?」

 自分が引きこもった理由を圭介はアヤに話していた。アヤは小さく頷いて圭介の傍に寄り添い続けてくれたから、圭介は理解してくれたものだと思って安堵していた。それが今、崩れようとしている。
 アヤは圭介の手のひらを頭に受けながら「だって圭介さんのお母さん、凄く心配してます」と言った。

「……そうだね」

 知ってるよ、と言ってやりたかったが、圭介にはその資格がないように思われた。心配されていると自覚した途端に、正体不明のプレッシャーが襲い掛かってくるのだ。それは圭介にはひどく重たかったし、避けたかった。それに、とアヤが言葉を次ぐ。

「それに、亜矢ちゃんも心配してます」

 カッと熱いものが頭に充満する。圭介は何度か聞いたアヤのこの言葉を、まるで聞き間違いでもしたのかな、という風に小首を傾げてやり過ごした。

「アヤはたまに変なことを言うね」
「変なことじゃないです。亜矢ちゃんは圭介さんのことを心配しています、じゃなきゃ毎日来ないです」
「はは……本当におかしいよ、アヤ……」

 居心地の悪さから圭介は別の話題を振った。

「そういえばアヤはヴァンパイアなのにあれから僕の血を一回も吸わないね? 好きなだけ吸っても良いんだよ?」

 しかしそれは失敗だったようだ。アヤは今までに見たこともないような悲しい顔をした。目を伏せ、唇をきゅっと結んで――。
 それはあの日の、皆城亜矢の表情と一緒だった。あの、圭介が必死で口をきいて貰おうとしていたときに泣きながら拒否をした亜矢の顔。
 圭介はびくりと肩を揺らした。そしてそれきり、何かを話すのが怖くなった。アヤは圭介の様子を察したのか、ふっと唇の力を抜くと「せめて、外に出ましょう」と言った。
 アヤの姿が消えたのはその数時間後だった。


 圭介は呆然と、広くなった部屋に佇んでいた。アヤがいなくなった。その事実は、圭介が部屋をやたらめったらにひっくり返し、ヴァンパイアの小説を一ページ一ページバラバラとめくって壁を爪でかきむしってもアヤが見つからないことに気付いたときに実感を増した。
 アヤがいなくなった。
 アヤが、いなくなった。
 圭介にとってそれは生きる希望をなくしたも同然だった。圭介はゆっくりと窓に近付いた。時刻は夜の七時くらいだろうか、遠くの空に星が散りばめられているのが見える。開けっ放しにした窓からは夏の風が圭介の心とは裏腹に涼やかに吹いていた。ぐっと唾を飲み込み、足の爪先に力を込める。
 アヤが出て行ったとしたら、この窓からだろう。わざわざドアから出て玄関の鍵を開けるとは考えにくい。
 圭介は窓の外を確認したかった。しかし、ずっと引きこもっていた圭介にとって、窓の外へ首を出すと考えるだけで息遣いが荒くなる。でも、確認しなくては。
 はあ、はあ、と圭介は息を吐き出しながら震える右手を震える左手で強く握りながら身体を動かした。
 圭介は身体全体を窓から乗り出した気分でいたが、実際には目だけがにゅっと出た状態だった。それでも大きな進歩だった。圭介はアヤの姿を視界にとらえるべく、一ミリ、一ミリと顔を窓から出していった。まるで断頭台に頭を預けるような気分だ。
 アヤは、いた。
 窓からほんの少し離れたところで微笑みながら手招きしていた。圭介は顔面に光をぶつけられたような気分で咄嗟に手を伸ばした。そしてその反動で、ごろん、と一気に身体を窓の外に放り出してしまった。身体が地面の上を転がっていく。
 そのとき全身にまとわりついた外の空気は、まるで圭介をよどんだ部屋から遠ざけようとしているみたいだった。
 圭介は転んだ拍子にくっ付いた土や雑草を払うことも忘れて、アヤの姿を追いかけた。運動していなかったせいで圭介の足は思うように前へ進んでくれなかったが、それでもアヤに追いつきたい一心で両腕を振り、脚を次々前へ出した。荒々しい呼吸の中で、身体に滑り込んでくる空気の新鮮さ、瑞々しさに圭介は内心で打ちひしがれていた。


「あれ……? 圭介……?」

 気が付けば日野川のほうまで走ってきていたらしい。圭介は膝に手を置き、身体を折って上がる息を整える。結局アヤはどこに行ったのだろう。追いかけても追いかけても追いつけなかった圭介は日野川にかかる橋を前にして一旦足を止めたのだった。
 そこで背後から名前を呼ばれた。
 振り向くと、目を丸くさせて驚く皆城亜矢の姿があった。
 圭介は咄嗟に来た道を帰ろうと思った。しかし背後にいた亜矢が両手を広げてそれを阻止する。圭介が右に行くと亜矢も右に手を伸ばし、左に行くと左に手を伸ばして妨害する。何度かそのやりとりをしたところで、馬鹿馬鹿しくなって圭介は動くのを止めた。
 圭介と亜矢の間に、日野川から流れる静かな水の音が絶えず通り過ぎていく。
 何分もそうしていた。いや、何十分かも知れない。その沈黙は永遠に続くように感じられ、部外者の虫たちの声がどこか馴れ馴れしくて圭介は目を細めた。
 ここにいる虫たちは、もしかすると彼女が僕を置いて大人になったあの変化の日を、端から傍観していた虫たちの子孫なのかも知れない。

 ごめんね、と先に謝ったのはどちらだったか。
 生まれる前から一緒だったのだ。そんな強い絆が簡単に解けるはずがない。圭介だってそう思っていたが、幼い二人にとって突然現れた性別の違いは理解しきれなかったし、デリケートな問題に向き合うにはあまりも経験が足りなかった。
 今、中学一年生の二人には、小学生の頃の二人にはなかったものが確かにあった。

「……ごめんね、圭介」
「……ううん、こちらこそ、ずっと謝りたかった。ごめん、亜矢」

 それっきり圭介と亜矢は一言も話さなかった。しかしそれは不快な時間ではなかった。圭介も亜矢も陽だまりの中にいるような穏やかな表情で、月の光を溶かしながら流れる夜の日野川を眺めていた。
 もう小学生のときみたいに手を繋いだりはしない。だが、圭介と亜矢は見えない絆で結ばれたように互いの家への帰り道を一緒に歩いた。


 圭介はその後、母親に土下座して、家庭教師を雇って貰うことにした。本当は学校に通いたかったのだがいつどこで殴られるか分からないことと、あの辛い日々の出来事がトラウマじみて圭介の記憶に残っていたから今後のことを考えると家庭教師を雇うことは最良の選択だったと思う。

「子供にとっては大きいけどね、大人になったら、なんでも小さく感じてしまうものよ。だから圭介には前を向いて強く生きて欲しい」

 土下座する圭介を前にして、母親は堰を切ったように涙を流しながらそう言った。圭介の瞳からは感謝の気持ちが次々に溢れ出した。
 家庭教師の遠藤先生が圭介の家に来たのは次の日だった。
 母親が色々なところに掛け合ってくれたのだろう。遠藤先生は県内にある名門大学の大学生で、その気さくな人柄もあって圭介ととても相性が良かった。圭介は遅れていた分の学習をどんどんとこなしていった。そして毎日、日野川から自宅までの距離を散歩した。
 あれから二週間経ったが、アヤの姿は一度も見ていない。
 やっぱり自分の頭がどこかおかしかったんだろう、幻覚か、妄想に違いない、と圭介は結論付けていた。少なくとも、勉強を見に来てくれていた遠藤先生が圭介の部屋に落ちていた一冊の本を手にするまでは。

「なに、圭介くん、変な本持ってるね」

 圭介が教科書に載っている問題を唸りながら解いているときだった。遠藤先生は手持ち無沙汰で圭介の部屋の一角を占領している小説本を物色し始めたらしい。

「ああ、母が少し前にいっぱい置いて行ってくれたんですよ。でも引きこもりに対してヴァンパイアは変ですよね」

 圭介はてっきり、遠藤先生は例の筋肉質なヴァンパイア少年の小説を手にしているのだと思った。しかし遠藤先生は「違うよ、これ」と言って本をペラペラとめくり出した。

「なになに……バレたら吸血鬼だと言いましょう、それなら人間は怯えるので殺されずに済みます……って、なんの本だこれ」

 圭介はばっと立ち上がって遠藤先生の方を見た。
 遠藤先生の手には、今にも崩れそうなボロボロの本があった。それは紛れもなくアヤが始めて圭介の目の前に現れたときに持っていたあの本で、タイトルは。

「……吸血教本」

 圭介は口の中に広がる、どこか鉄の味に似た不可解なものを唾と一緒に飲み下しながら吸血教本を手に取った。そして、書かれている内容が圭介の内部に染み込んだ途端、弾けるように部屋を出た。
 遠藤先生はそんな豹変した圭介の後姿を見送りながら「恋か」と笑った。

 恋ならどれだけ良かっただろう。
 圭介はいつも日野川まで散歩するとき、橋を渡りきらない。それに対した意味はなかったのだが、圭介は走りながら、ひどく後悔していた。日野川は圭介の家のある側とは反対の橋を挟んだ向こう側を少し上流にいったところに、桜の木に囲まれたとても水流の緩やかなポイントがある。圭介や亜矢は子供の頃、よくそこに捕まえた魚や昆虫などを放り込んで動きを眺めていたのだが、夏になると決まって困ることがあった。
 圭介は頭の中に増殖するそれらを振り落とすようにただただ走った。
 そうして鈍い音を立てて日野川の橋を渡りきり、圭介は上流に目をやった。夜目にぼうっと発色するなにかが、桜の木の間からちろちろと動いているのが分かる。圭介は静かに息を吸い込み、足を進めた。
 信じたくなかった。
 アヤは発光するように白い身体を両手で抱きながら小刻みに震えていた。アヤの膝くらいしかない静かな水に、割って入るようにぼたぼたと落ちるもの。それはアヤの股の間から粘り気のある丸い玉となって大量に水底に沈んでいく。
 圭介は目をそらしたかった。でも、圭介の気配に気付いたアヤの表情を見たときにそれは叶わなくなった。
 アヤは、ひどく自嘲じみた笑みを見せた。
 それは圭介の作り出した妄想の産物などではなく、独立した強い憎悪の塊だった。アヤはそうしてひとしきり腹の中の玉を股から排出すると、水の中をゆっくりとした足取りで圭介の方へと動き始める。圭介は後ずさりしそうになった。そんな圭介の姿を見て、アヤは足を止めた。

「本当は、あの日、」

 アヤの声は、今にも泣き出しそうなほどにか細かった。そして圭介に向けられた瞳は、血液のように赤く、それでいて黒く濁っている。

「本当はあの日、亜矢ちゃんのところまで導くつもりはなかったんです。本当は、ただ圭介さんと外で一緒に遊べたら、と思って。追いかけっこだ、なんて私、凄く楽しかったんです。ほら、私と圭介さんって家の中でしか会ったことなかったから」

 でも途中で木の中に飛び込んでしまって。
 気付けば、もう圭介さんに会えない身体になっていました。
 アヤはそこまで言うと、ゆっくりと目線を下に落とした。アヤの周りの水面が、ボコボコと、不可解に揺れている。圭介は揺れる水面を眺めた。先ほどアヤが産んだ玉とは別の、動きのある何かが大量にアヤの足元に集まってきている。
 圭介は、口を押さえた。
 そうしないと、悲鳴がこぼれそうだったからだ。アヤはそんな圭介の全てを見抜いていた。足元のそれらを愛でるように素足で撫でる。

「凄いですよね、みんな、生きてるんです」

 でも、と言葉を切ってからアヤは自分の腹に爪を立てた。

「まさか、自分の身体がこんな風に変えられてしまうなんて、思ってもみなかった」

 その声は喉の奥から無理やり吐き出すような苦しさを伴っていて、圭介は口を押さえ込む両手に力を込める。目からは勝手に涙が流れ出していた。

「実は私、少し前に圭介さんの部屋に忍び込んで吸血したんです。本当はそんなことしたくなかったんですけど……圭介さん、ずっと窓を開けっ放しにしてるから……」

 どこか諦めたようなアヤの声が圭介の耳に届く。

「……圭介さんの血、すごく、おいしかったんです。分かりますか? 私、大切な人の血を吸って、おいしい、って思ったんですよ……」

 圭介の首のところにはかきむしった跡があった。そういえば三日前に目覚めたときに何者かに首筋を噛まれていた。
 アヤは僕に助けを求めていたのだ。
 涙で歪んだ視界の中で、アヤの足元の無数の生物がゆらゆらと揺れながら一斉に圭介の方へと顔を向けた。アヤの面影のある白い身体のそれらが、圭介を求めて両手を伸ばしていた。ぱくぱくと口を開いて何か言葉を繰り返している。
 二文字の、単語。

「私、あなたの血を養分に、他人の子をいっぱい産みました。この子たちを育ててくれますか?」

 どうやって部屋まで帰ってきたのだろう。遠藤先生は圭介の帰りを待っていてくれたようで、例のボロボロの本を片手にこう言った。
 これは蚊が書いた本か?
 圭介は耳に飛び込んでくる遠藤先生の声を、ぼんやり聞きながら、夏の間ずっと開けっ放しにしていた窓を閉めた。ガラス一枚の隔たりで圭介の行き場のない想いが塞げるとは思えなかったが、圭介にはそうせざるを得なかった。四角に縁取られたアルミサッシの向こうで、日野川は絶えず今も流れ続けているのだろう。
 遠藤先生は、帰る前に圭介に次のことを聞かせてくれた。

 蚊のメスが吸血するのは産卵のためである。吸血は産卵の前でも後ろでも良いのだが、メスはオスの群れである蚊柱に飛び込むと、そこで子供を産むための精液を一生分もらう。たった一度の交尾で永遠の母となったメスの蚊は、子孫を残すべく人間や動物から吸血し、死ぬまでそれを繰り返す。

 吸血教本の最後のページに書かれていたらしい。もしアヤが圭介の部屋にこの本を忘れていかずに、最後のページまで読んでいたら。アヤの身体はずっと女の子のままでいられたのだろうか。
 圭介は閉めきった窓を見やり、風の通らなくなった部屋にうずくまった。


× × ×

 圭介は志望校の合格通知が届いたとき、一番に連絡したのは皆城亜矢だった。あれから圭介と亜矢は二人で日野川をよく散歩した。たまに町まで出て、お洒落な喫茶店で圭介が挙動不審になるのを亜矢が指をさして笑う場面もあった。だから圭介の合格をメールで知らされた亜矢から、すぐに折り返しの電話があり、おめでとうと激励してくれたことには圭介も純粋に嬉しかった。
 例え、あの入学と同時に始まった暴力事件の原因が、東郷はじめと付き合っていた皆城亜矢が痴情のもつれで圭介の名前を引き合いに出したことが発端だったとしても。
 亜矢が泣きながらこの事実を打ち明けてきたのは圭介との仲がもっと深まったときだった。日野川の水流を聞きながら、亜矢は本当にごめんなさい、今まで黙っていてごめんなさい、と何度も圭介に謝罪した。東郷はじめはとても独占欲が強いらしく、亜矢が他の男子生徒と話すだけで怒り出すらしい。だから亜矢は、少しは圭介のことでも見習えば、などと軽い気持ちで圭介の名前を持ち出した。記憶の端にあった小学生の頃の出来事の中で、最終的に身を引いた圭介の潔さが印象に残っていたのだろう。まさか、それが原因で圭介が不登校にまで追い込まれるなんて思わなかったの。亜矢はひどく嗚咽を繰り返しながら泣き続けた。
 圭介はそんな亜矢の涙を見ながら言った。

「今が良ければ僕はそれで大丈夫だよ。今まで黙ってて、辛かったでしょ、亜矢」

 亜矢は今まで泣いていたのが嘘のように晴れやかな顔になり、心の中のわだかまりが消滅したのは一目瞭然だった。
 それから圭介は、亜矢と会うたびに東郷はじめとの相談事を聞いた。一緒の高校に行くためにはじめが猛勉強してるの、だとか、この間二人きりで旅行に行ったの、だとか。時には二人の生々しい話だって聞いた。しかし圭介が嫌な顔を見せることは一度もなかったし、圭介が亜矢に嫌な顔をさせることも一度もなかった。圭介と亜矢は、知り合いに戻り、友人に戻り、幼馴染に戻ったのである。

 圭介ははっと顔を上げた。どうやら、携帯電話を持ったまま眠っていたらしい。携帯の液晶画面を見ると、亜矢から一通のメールが来ていた。無事合格しました、今から帰ります。自然に圭介の口角が上がる。受信時間を見ると一時間前だ。随分と長く眠っていたなあ、と思って身体を起こした。玄関のチャイムが鳴ったのはそのときだった。ドアのノブを回し、玄関のドアを開ける。

「おめでとう、亜矢」

 亜矢は白い息を吐きながらダッフルコートの前のボタンを外し、圭介に預けると「ありがとう」と言って満面の笑みを見せた。

「さっきまで中学のみんなで集まってたんだよ、圭介だって来たら良かったのにってみんな言ってた」

 亜矢は玄関に踏み入れると靴の数を見て首を傾げた。

「あれ? 今日って圭介のお父さんもお母さんもいないの?」
「うん、なんか結婚記念日とかで。いくつになっても夫婦なんだよ、僕の両親」

 へえ、そうなんだ。靴を脱ぎ、慣れた様子で圭介の部屋を目指す亜矢の後ろ姿が見えたと同時に、圭介は亜矢の口を手のひらで押さえながら足を払った。乾いた床に亜矢の身体が叩き付けられる。鈍い音を聞きながら、圭介は亜矢がコートの下に着ていた濃紺に白ラインのセーラー服を見た。スカーフをするりと抜き取り、亜矢の手首をそれで縛る。
 亜矢は事態が飲み込めないまま、言葉にならない声を漏らしていた。それがやがて「なんでこんなことするの」という言葉になったとき、圭介は顔の筋肉が緩むのを感じた。

「僕もずっと、ずっとそう思ってたよ」

 圭介は視点の定まらない目で亜矢のセーラー服に手をかけた。お前も僕の血を吸うんだろう、などと亜矢が理解出来ない言葉を繰り返し吐き出す。
 ブン、と、圭介の耳を何かがかすめたのはそのときだ。
 圭介は一瞬だけ身体を痙攣させると、それっきり電池のなくなった機械のように動かなくなった。圭介の周りを、一匹の羽虫が飛んでいる。さっき亜矢を家に招き入れたときに一緒に入り込んでしまったのだろう。亜矢は動きを止めた圭介と羽虫を交互に見た。
 圭介が、口の中でもごもごと何かを呟いた。

「ごめん、僕、どうかしてたみたい。今日は帰ってもらえる?」

 亜矢が「でも、」と言いかけたところで圭介は遮断するように「出来ればもう、二度と来ないで欲しい」と言った。
 亜矢は逃げるように圭介の家から飛び出して行った。圭介はその後ろ姿が暗闇に消えていくのを眺めながら、視界の端で羽虫が腕に止まるのを見た。暫く、そうしていた。
 そうして羽虫の腹が膨らんだところで、ゆっくりと、もう一方の腕を羽虫へ振りかざす。パン、と皮膚を叩く音が響く。手のひらで潰れた羽虫の無残な死骸を見下ろし、圭介はやがて痒みを生じ始めるであろう腕を想った。



養分

養分

白い息が締め切った窓硝子にぶつかって楕円形に広がった。それは知代圭介の吐き出した深い溜め息であり、部屋の中にまで侵入してくる冬の寒さを物語っていた。/2014年製作。古い作品です。稚拙すぎて恥ずかしいのですが自分が書きたいことは伝わってくるので記念として投稿しておきます。

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更新日
登録日
2022-01-22

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