柔らかな皿
誰にも侵入されないように下ろした、窓のクレッセント錠。閉め切ったベージュのカーテンに、肌寒い冷房の風が当たって静かに揺れる。
私の心も、こんなふうに不安定に見えるのだろうか。
ふつふつと嫌な気持ちが込み上げていた。慌ててカーテンから目をそむければ、美枝子の心はまた別の嫌なものをとらえてしまう。
「あなた、そんなに端っこに置いたら落ちるじゃないの」
「……そうか、すまん」
密室の中に二人きりだ。
二人は確かな婚姻関係にあり、妻である飯田美枝子は身を投げ出すようにして横たわっていた。夫、飯田勇次はその身体を見下ろす体である。
「……あなたって、いつもそう。それがだめなことだってわかってても、私が言わないとずっとそのままにしておくでしょう。事なかれ主義は若い子だけの特権だ、って昨日テレビで言ってたんだから」
美枝子は目を三角にしながら勇次の行動に抗議する。
「……ほら、ちゃんと直したぞ」
「言われて直すのなら誰にだってできるわ。私はもっとあなたに自主的にねえ……」
じっとこちらの様子を伺う勇次の真っ直ぐな瞳に気付き、美枝子は口をつぐんだ。
静かになった二人の間。一秒、また一秒と刻むごとに。美枝子の中で言いしれぬ感情が肥大していた。皮膚の上にぽつぽつと浮き出る鳥肌は決してエアコンから放たれた冷風のせいだけではないのだ。
――ねえ、あなた。今、どんな気持ちで私にこんなことしてるの。
問い質してみたかった。だが、そうすることで勇次は美枝子との行為の馬鹿馬鹿しさを実感し、全てを放り出してしまうかも知れない。三十年前に買った夫婦箸が視界の端で動く。几帳面な彼の性格を如実に現わす丁寧な箸捌き。美枝子は言いかけた言葉を、乾いた喉に強引に押し込む。
七月十五日、土曜日。大阪の青空に、太陽がゆっくりと頂点へ向かっている。
近所の公園ではきっと、若い夫婦が愛しい子供を中心にして歩み、芝生の上を跳ね回る犬たちが飼い主同士を引き合わせ、高校生の仲良しグループが勉強会にかこつけてお喋りに夢中になっていることだろう。
「……ねえこれって、のせたあと、私も食べなきゃいけないのかしら」
「……どうだろう。量的には俺だけで食べられそうだが」
特売シール付きのパックから、勇次の箸によって取り出された刺身のサーモンが宙に浮く。食卓は、美枝子が三十年前に嫁入り道具として持ってきたウォールナットの年代物だ。
本来なら料理を並べるための場所。
今、そこへ美枝子は四肢を投げ出している。胸の真ん中を狙って降りてくるサーモンを静かにねめつけながら、冷えた身体に、ぺとりとなめらかな感触が張り付くのを見た。
「……私、絶対に食べたくない」
どろりとだらしなく左右に垂れた乳房の谷間には、すでに先客の赤褐色が疲れた様子で鎮座している。相席となった鮮やかなサーモンは、先客マグロに少し肩身が狭いようだ。
× × ×
そもそも子供があまり好きではないから、子孫を残すという大義名分をもったそれを愛情表現の延長としてとらえられない。
「っ……真利奈……っ好きだよ、真利奈……」
成人男性の言葉と体重が、真利奈の思考にずっしりとのし掛ってくる。あまりの重さから小さく悲鳴をあげた。身悶えしながら相手の皮膚を叩いて訴える。
「ちょっと、啓太、苦しいから、そんなにっ……激しくしないでっ……!」
「無茶言うなよ、俺、気持ち良くてっ……!」
「待って、ひっ、……あっ……!」
喉から絞り出すようにして発した抵抗の言葉も、恋人の前では甘い睦言に変換されてしまう。啓太の逞しい両腕に抱きかかえられた真利奈は、相手の肩口から顔だけを出して浅い呼吸を繰り返す。上下に激しく揺さぶられる身体。全身の穴という穴から体液が流れ出し、粘着質な音と、肉のぶつかり合う破裂音が次第に大きくなっていく。
まるで遠い国の知らない民族ダンスだ、と真利奈は律動の最中で思う。
「っ啓太……ンッ!」
咄嗟に啓太の背中を掻き抱いた。熱っぽい口付けが降ってきて、目蓋や頬、鼻先や唇で何度も受け止める。繰り返し囁かれる愛の言葉。はっきりとした好意を示され、自然と真利奈の下っ腹が熱くなっていく。
ようやくそこで、真利奈は自分の中にある啓太に対する愛情を実感した。
婚前交渉を許さない国だってあるし、セックスをしない恋愛関係だってどこかにはある。だが、世間の考える男女の関係には必ずセックスが内包されていると真利奈は思う。
今をときめく若手アイドルが業界人のマンションから朝方出てくる、メディアおあつらえ向きのお泊まり報道などが顕著だ。いくら本人が「なにもなかった」と言っても、すっぱ抜かれた写真を証拠取って世間は「なにかあった」ことにしてしまう。男女がそこにいるだけでなにかあると考えるのが一般的なのだ。だから、できるだけ他者の目を意識してマイノリティー側の人間にならないように努めたい。そんな強迫観念にも似た複雑な感情が真利奈の中で渦巻いていた。
「……なにか、別のこと、考えてる?」
汗ばんだ啓太の手のひらが、目の前で上気する頬を撫でた。真利奈は静かに首を横に振って否定し、彼の指をそっと唇で食む。上目遣いで見つめると相手は焦れた様子で腰を動かした。
「あっ……ああっ……!」
天井に貼り付けられた見慣れた鏡。このラブホテルの鏡に映り込むのも何十回目だろうか。ありのまま映し出される、必死に腰を振る啓太の背中……。六年前に出会ったときには筋肉質だった彼の後ろ姿も、三十歳に近付くにつれ段々と弛みが目立ち始めた。今は啓太の上半身によって覆い隠されているが、真利奈の身体もきっと、年齢のぶんだけだらしない贅肉を蓄えているのだろう。
「……っ出すよ、良い……?」
真利奈が頷いて答えると、啓太は上半身を起こした。打ち付けられるたびに激しく揺れる互いの肉。真利奈はぎゅっと目をつむってそれを視界から追い出した。快感の波が一気に押し寄せ、弾けるようにして全身に行き渡る。頭の先からつま先まで走る鮮やかな刺激に、真利奈は甲高い声をあげて身体をのけ反らせた。
「はあっ……はあっ……ふう……」
ずるりとペニスが出て行った。啓太はベッドサイドに備え付けられたティッシュケースから素早く数枚抜き取り、精液だまりが膨らんだコンドームを外して包む。ゴミ箱に捨て、さらに抜き取ったティッシュでペニスの先端をぬぐいながら、真利奈にも数枚寄越した。
「……そういや、生でやるのってどんな感じなんだろうな」
ふと、啓太が視線をそらしたまま言った。真利奈は小首を傾げる。
「いや、ほら、今でも気持ちいいけどさ、ゴムなしでやるともっと気持ち良いって聞くだろ。今から待ち遠しいな……なんて……」
真利奈の表情が次第に曇っていくのを見て、啓太の言葉尻が静かに消えていく。
「……そんな顔するなよ。だって俺らももう……付き合って六年だぜ。そろそろ真利奈の親御さんに顔見せとかないとやばいって。俺の親だってお前の顔を見たがってるし……」
言っている意味はわかる。だが、付き合って六年、今年で二十九歳を迎える二人がそれぞれの両親に顔を見せるということはつまり――。
今までに結婚の話題は二人の間に何度か出た。しかしいつだってそれは友人の話であり、テレビに映る有名人の話で。どこか自分とは切り離された世界の話題として扱っていたのだ。
「……まあいいけどさ。俺もお前も、もう若くないんだし……わかってると思うけど……」
真利奈はシーツを引き寄せ、ぼんやりと天井を見た。二十九歳の女の、若いような若くないような顔が鏡に映っている。どうすれば良いの、と誰にでもなく問いかけた。
× × ×
七月十四日。翌日にセンセーショナルな出来事が控えていることなど露知らず、飯田美枝子は最寄りのスーパーで買ったわらび餅を食べながら、冷房の効いた部屋でワイドショーを見ていた。
おしどり夫婦で有名だった俳優・谷崎大治と女優・永沢明美が離婚したことで、世間はひっきりなしに騒いでいる。熟年離婚が急増中だとテレビで耳にすることはままあったが、まさか理想の夫婦ランキングで何十年も一位を独占していた彼らが分断するとは誰も思っていなかったのだ。
谷崎夫妻にはそれぞれ、長い年月を共にしたパートナーがいたらしい。いわゆるダブル不倫だ。互いがその事実を知ったとき、すぐにでも離婚しようと行動したが、彼らが作り上げた円満夫婦のイメージを壊すわけにはいかないと所属事務所がそれを却下。谷崎夫妻はビジネスと割り切り、腕の立つ演者らしく「夫婦」を今日まで演じていたというわけだ。
――早く離婚すれば良かった。夫婦には賞味期限があるのだと気付いてから、随分と時間がかかってしまった。離婚がこれほどお互いのためになるとは思ってもみなかった。
離婚会見で、横並びになった二人がいつものように落ち着いた様子で発した言葉だ。
どうやらそれが国民の心に触れたらしい。あの谷崎夫妻ですら結婚を後悔していたのだから、と後を追うように熟年離婚が急増し始めた。しかもお茶の間ワイドショーは、それらに警鐘を鳴らすならまだしも「早い者勝ち離婚」として揶揄する始末。
「……早い者勝ち」
その言葉は美枝子の胸をハッと突いた。
「……早い者、勝ち……」
この、怒りとは似ても似つかない感情はなんだろう。いつもの美枝子ならメディアのそういった露悪的な言葉に腹を立て、テレビに向かって唾を飛ばしていてもおかしくない。
美枝子は持ち上げたわらび餅を静かに元のトレイに戻した。
夫、飯田勇次はなんでもかんでも黙って妻に従う癖があった。いや、そうさせたのは美枝子である。付き合い始めの若い頃から、口の立つ美枝子は勇次がなにかするたびに重箱の隅を突くように文句を言ってきたのだ。数年足らずで無事に無抵抗夫に仕上がったが、弊害が出たと気付いたときには遅かった。
――なんでも思い通りに動き、稼ぎも安定している旦那に恵まれて私は幸せだわ。
そんな優越感に浸っていたのは一瞬だったように思う。一人娘が就職と共に自立し、大きな一軒家には均衡の取れない夫婦だけが取り残された。張りのない生活。一気に人生の潤いを失った気分だった。
――早い者勝ち離婚。
美枝子にとって谷崎夫妻の決断は渡りに船だ。現状を打破したいという願望に、具体的な選択肢が与えられたのである。
きっとあの旦那のことだから、私が離婚したいと言えば離婚するだろうし、定期的にお金を送ってくれと言えばそれに従うはずだ。大事な一人娘のこともあるから、決してその母親である私を無碍にはしないだろう。
そんなことを考えながら、仕事を終えた勇次が帰宅するのを待った。ほうれん草のおひたしに砕いたピーナッツを和え、湯がいた細うどんの隣に梅干しと蒸し鶏入りのめんつゆを並べる。七月も半ばを過ぎれば本格的な夏だ。晩飯はさっぱりしたものが食べたくなる。
玄関の鍵を開ける音がして、近付く足音。寝室のクローゼットに立ち寄ってスーツを脱ぎ、洗濯機に汗ばんだワイシャツを放り込む。そうして勇次はリビングに顔を出した。
「ただいま、美枝子」
「……おかえりなさい」
なにか文句のひとつでも言ってやろうかと粗を探したが、美枝子に従い続けた勇次には目につく欠点がない。冷蔵庫から取り出した麦茶を、美枝子は二つ出したグラスになみなみと注いでいく。ありがとう、と勇次は椅子に腰を下ろした。
「……あの、食べる前に聞いて欲しいことがあるんだけど」
「なんだ?」
そうして美枝子は、離婚の件を持ち出したのだ。
勇次の眉間にしわが寄っていく。壁に掛けた振り子時計の音がやけに大きく感じられた。逡巡しているのか、美枝子の言葉を最後まで聞き終えた勇次はじっと食卓を見つめている。
「……もう少し、待てないのか」
美枝子は驚いた。返ってきたのは思ってもみない言葉だったからだ。
「もう少しって……こんなこと、先送りにしたって仕方がないでしょう?」
谷崎夫妻から得た受け売りである。善は急げとばかりに、美枝子は目の前で俯く勇次に詰め寄った。
「……真利奈はどうするんだ」
「真利奈? あの子だって、もう家を出て七年ですよ。仕事も順調らしいし、私たちに仕送りを頼むことだってない。金銭的に困っている様子はないじゃない」
「違う。あいつはまだ……結婚、していないだろう」
「結婚って……」
なるほど。両親が揃っていないと真利奈の体裁が保てないと言いたいのだ。確かに一理ある。だが、勇次の意見は古い考えだ。熟年離婚がこれほどメジャーとなった昨今で、一人親であることをとやかく言ってくるような相手がいるのなら、それは真利奈の結婚相手のほうに問題があるのだ。
「真利奈はもう子供じゃないのよ。言っちゃなんだけどあの子の人生はあの子が決めるものだから。問題は私たち二人よ。それに真利奈が結婚してからとあなたは言うけれど、そうやって先延ばしにしたら次は孫が生まれてからと言い出すに決まってる」
声に出すことで美枝子の決心は固くなっていく。
「……なにが不満なんだ」
「なにもかもよ! あなたはちゃんとお金を稼いできてくれるから、その点だけはとても助かってるけどねえ、夫婦にだって賞味期限があるの。美味しく食べられる期間はずっと前に終わってるのよ」
「……」
「腐ってるの。私たち。それなら腐った部分を捨てて、まだ食べられるところを探したほうが良いんじゃないかと思うの。それがきっと、お互いのためだわ」
「……谷崎夫妻の離婚会見だろう。それ、今日行った取引先でも聞いたぞ」
まさか図星を突かれるだなんて。美枝子の顔がかっと熱くなる。
「……とにかく! 私はもうこの生活にうんざりなのよ! これから死ぬまであなたと過ごすなんてつまらない! 私は人生を謳歌したいの!」
自分で言っていてひどい言葉だなと思った。だが、一度火がついてしまったものを鎮火するのは難しい。燃え盛る美枝子の口ぶりに勇次はただただ困惑している。
「なにか言い返したらどうなのよ! こんなにひどいことを言われて腹が立たないの!」
「……あ、新しいことをしてみたら良いじゃないか」
「例えばなによ! 言ってみなさいよ! 料理だの編み物だの語学教室だの、あなたが考えそうなことはこの五十年のうちに全部やったわよ! それでもつまらないから言ってるの!」
「そんなに決めつけなくても……」
「じゃあなに? あなたが協力してくれるっていうの? 一体、なにを協力してくれるの? いっつもいっつも私から提案するばっかりであなたなんにも言わないんだから!」
言えないようにしたのは美枝子自身だ。勇次は、なにか思い出したのか急に立ち上がり、寝室に置いたビジネスバックを手に食卓に戻ってくる。
「もしかすると参考になるかも知れん。今日、取引先で週刊誌を何冊かもらったんだ。噂の谷崎夫妻の件も載っていたからな、目を通しておいても損はないかと持って帰ってきたんだが……ほら、これだ」
老後の楽しみ方、でも載っているのだろうか。ムシャクシャする気持ちで勇次の手から週刊誌をひったくり、ぱらぱらとめくっていく。若手アイドルのお泊まりや政界での買春の横行など、いかにもな三文記事が並んでいて美枝子は顔を歪ませる。
「俺はまだ読んでいないけれど、取引先の若い子が面白いと言っていたから……どうだ、なにか参考になりそうなものが載っ……」
「馬鹿にするのもいい加減にして!」
食卓の上に叩きつけるとエアコンの風に晒されて勝手にパラパラとページがめくられていく。
極彩色が目に飛び込んだ。素人の投稿特集だろう。イロモノ自慢、と銘打たれ、縛られた女性の写真や淫猥な文字が飛び交っている。美枝子は目を剥き、自棄を起こしてページを指さして叫ぶ。
「あなた、もし私がこんなこと望んだらどうするの! 離婚が先延ばしになるなら喜んで命令通りに動くって? 動かないでしょう!?」
「……わかった」
ぜえぜえと呼吸を整えながら美枝子は勇次を見た。そうしてゆっくりと肩を落とす。
やっぱり、あっという間に話し合いは終わってしまった。一人娘の真利奈のことを持ち出されたとき、少なからず勇次の意思が感じられて心の底では嬉しかったのだ。
――どうして私、こんな頼りない人と結婚したんだろう。
週刊誌を持ち出し、ふざけた投稿記事でこちらをなだめようとしている姿を見て美枝子は「やっぱりこの人とはこの先やっていけない」と確信した。
「……離婚のこと、真利奈にいつ言うか考えなきゃね」
吐き捨てるように言うと、勇次はこれまでと同じ声色で「とりあえず明日、寿司を買ってくるよ」と言った。
「……は……?」
「だから、寿司。終業後にスーパーに寄って帰るから、良いものは残ってないかも知れないけれど……明日は俺も休みだし、挑戦するなら土曜の朝になるな」
美枝子は不可解な勇次の言葉に、慌てて週刊誌に目を落とした。そこには一糸まとわぬ姿の女性が仰向けで寝ており、皮膚表面に丁寧に盛られた――寿司や刺身。写真の横には「女体盛り」の文字が大きく並んでいた。
美枝子の心がざわめいた。
× × ×
「それじゃあ、静香の帰国を祝してカンパーイ!」
グラスを掲げ、合図と同時にそれぞれが端を当てた。小気味良い音が響き、注がれたアルコールのビビットなコントラストが照明に反射してきらきらと揺れる。その幻想的な光景は、四人が集まった「不思議の国のバル」の名に相応しい。
「すみませーん! 注文お願いしまーす!」
グイと一気飲みした酒豪の一葉が店員を呼び止め、空になったグラスを渡しながら二杯目を頼む。友那はそんな一葉を指差しながら「こんな姿、一葉の子供が見たらびっくりするね」と転がるように笑う。下戸の静香はジャスミンティーで悠々自適に喉を潤し、酒に強くもなく弱くもない真利奈は二、三口飲んでグラスをテーブルに戻した。
――あの頃と変わらないわ。
先日、海外に勉強に行っていた静香が三年ぶりに帰国したのである。大学時代から続く友人たちは彼女の慰労会を開くべくこうして集まった。賑やかに酒を飲み交わしていると、まるで学生時代に戻ったみたいで真利奈の心は躍る。
静香ってカナダに行ってたのよね、と一葉が興味津々で問いかけた。
「そうよ。ずっとってわけじゃないけど、ほとんどはカナダにいたわ」
友那が一葉と静香を交互に見てから、傾けていたグラスを置いた。そういえば今日の彼女は酒を飲んでいない。記憶の中の友那は、一葉と同じく大の酒好きだったはずだが……真利奈は彼女のグラスに注がれたメロンソーダをじっと見つめた。
「そういや私、カナダのことなにも知らないんだよね。なにが有名なの? コアラ……はオーストラリア? ん? オーストリアだっけ?」
顎の下を人差し指で押さえながら、右に左に首を傾げる友那。長い睫毛が伏せられ、あざとい仕草を艶やかに見せる。大学時代、四人の中で一番モテたのが友那だったことを真利奈は思い出した。
「カナダはメープルシロップが有名じゃなかった? 前に雑誌で読んだことあるわ」
真利奈の言葉に、静香がニイと口角をあげた。いたずらっぽい表情で大きめのトートバッグからなにかを取り出す。三人の友人はぐいと顔を寄せて彼女の掌の中を覗き込んだ。
「そう、そしてこれがカナダ直輸入のメイプルシロップですっ!」
きゃー! と悲鳴があがり、嬉しい、ありがとう、と三人は感謝の言葉を繰り返しながら静香から小さな瓶を受け取った。貼られたラベルにはもちろん判読不明の英語が並んでいて、異国情緒を強く感じさせる。
「あとサーモンの缶詰も持って帰ってきたわよ。カナダのお土産といえばこのふたつかなあ。まあ向こうでは私、どっちも全然食べなかったんだけどね」
アハハと白い歯を見せて静香は笑う。
「日本でも特産品って地元の人はあんまり食べないもんねえ。私は滋賀出身だけど、ふな寿司なんて一度も食べずに上京しちゃった」と一葉。
「わかる、私の場合は、はちのこ」と友那が言った言葉に「はちのこって、まさか」と全員が息を飲む。友那の実家は確か長野にあったはずだ。
「で、でも! 食べないにしても名刺代わりになるから便利だよね。地元の特産品を手土産にしていくと相手から色々聞かれたりして話のネタに困らない」
「確かに。食べられる名刺だ」
そんなふうに四人で談笑していると、次々に料理が運び込まれてきた。不思議の国らしく様々な料理が並ぶ。真利奈の目の前に置かれたのは赤や緑、青や黄色で着色された皮に包まれた……なんだろう。食べてみないとわからない。
四人はそれぞれ、小皿を片手に気になるものを取り分けていく。
「……ところで、カナダでは……どうだったの? 良い男と運命的な出会いとかって……」
赤色で包まれたものは、エビシューマイとチーズを足して割ったような味がして美味しい。熱心に食べている真利奈の横で、伺うような仕草で一葉が静香に問いかけた。女が四人集まれば恋愛話に発展するのは定説だ。全員の視線が静香に向けられる。
「出会いはあったわ。運命的だとも思った。でも……帰国の話を進めていくうちに喧嘩になっちゃって」
「どうして?」
「私、ある程度日本でお金を貯めたらまた海外に行くつもりなのよ。でも、どうせ行くなら一度行った国じゃなくて別の国を見てみたいじゃない? そのことを伝えると……カナダに帰ってこないのなら別れるってばっさり振られちゃったの」
「……そうだったんだ。嫌なこと思い出させちゃってごめんね」
「ううん。そういう一期一会なところも、私は海外の魅力だと思ってるのよ。……まあ、結構好きだったから、飛行機の中では溺れるほど泣いたけどね」
困ったように微笑む静香が痛々しい。こういうときに一番頼りになるのが一葉だ。案の定「じゃあ今日はパーッと飲みましょ!」と立ち上がり、全員が待ってましたとばかりに乗っかった。飲み物と食べ物があっという間に彼女たちの胃に落ちていき、静香の表情も明るいものへと変化する。ふと、思い出したように静香が真利奈のほうを向いて言った。
「そういえば真利奈はどうなのよ。私が日本を出るときに付き合っていた彼がいたじゃない。確か社内恋愛だったかしら」
「……すごい記憶力ね」
二人の会話を聞いた友那が、骨付き肉を器用に箸で食べながら笑い出す。
「ふふっ、それがね……聞いてよ静香、真利奈はまだその彼と付き合ってるんだよ」
「えっ! それなら、結構長いんじゃない? 何年?」
「六年だよね? 真利奈?」
全員の視線が真利奈に集中する。小さく頷いた。
「……驚いた。六年なんて、一期一会とか言ってる私には信じがたい期間だわ。えっと、突っ込んだ話で悪いんだけど結婚の話は……?」
「……実は最近、ちょっと」
「えっ! 私聞いてないわよ真利奈! おめでたいじゃない!」
顔を火照らせた一葉が再び立ち上がった。静香がそれを座らせる。
「でも……なんだか……その、私が乗り気じゃなくってね。相手の親にも自分の親にもお互いの顔を見せに行ってないの」
「……えっと、彼、そんなに……言い方が悪かったらごめんなさい、変な人なの? 紹介できないくらい……」
「ううん。変な人ではないと思う。むしろ私には勿体ないというか……仕事もできるし、最近は昇進の話も出てるみたい」
静香の顔がグイと真利奈のほうへ近付く。
「……ご実家にクセがあるとか? ご兄弟がちょっと……とか?」
「……ないわね。聞く限りでは、さっぱりしてて快活そうなご両親だし。定年してもボランティアとか地域のイベントに積極的に参加してるって……ご兄弟も、彼は二人兄弟の弟だから跡継ぎ問題も今のところはなし」
「……なにひとつ問題ないじゃない。仕事が一番大事……ってタイプでもなかったわよね、真利奈は」
当事者以外の三人が不思議そうに旧友を見つめる。うん、と小さく頷いた。
「……うーん。そこまで土台ができてて、なんで結婚しないのかわからないわ。子供は? 欲しくないの?」
「……特に。すごく望んでいるわけではない……かな。魅力がわからないし……」
四人のうちで唯一の既婚、子持ちである一葉が「なんとなく真利奈の言ってることわかった」と言った。
「私はほら、いわゆるデキ婚じゃない? 出産も結婚も全部が洪水みたいに襲ってきて、迫ってくるものを考える暇もなく選んでいったけど……もう一回スタート地点に戻ってやり直すとしたら別の選択をしたかもって、ときどき思うもの。真利奈は今、恋愛も仕事も、選択肢がある状態だから悩んでるのよ、きっと」
ちょっと早いマリッジブルーね、と一葉は微笑む。
もしそうなのだとすると、真利奈は無意識のうちに彼氏である啓太を結婚相手だと決めていたことになる。世間の既婚者たちは皆こんな曖昧模糊とした思いを抱えたまま結婚しているのだろうか。
両親の顔が浮かんだ。
口達者な母と、母が作ったご飯を黙々と食べながらそれを聞く父。記憶の中の彼らは、楽しそうには見えなかった。
「ところで、ずっと聞きたかったんだけど友那がお酒を止めた理由、教えてくれるかしら」
静香が言った。友那は明らかにギクリとした様子で、身体を小さくさせる。
「……もしかして。あなた、子供ができたんじゃないの」
少しの間があった。まさか、と思って真利奈は彼女を見たが、友那は降参とばかりに頷く。弾ける祝いの声と乾杯の合図。あっという間に真利奈のマリッジブルーはどこか別の場所に吹き飛んでいった。
× × ×
切り出した離婚の話がなぜか「女体盛りをする」だなんて突飛な話にまで発展してしまった木曜の夜。昨晩はどんな顔をして夫を迎えれば良いのかわからなかったが「取引先と飲み会が入ったから」と連絡があったので、美枝子は作りかけの夕飯を冷蔵庫にしまってすぐさま寝室に飛び込んだ。
しかしなかなか寝付けず悶々とした時間を過ごし、もしかするとあれは離婚という結論から逃れるために夫が急に言い出したものだったのかも、と美枝子がそのことに気付いたのは翌日土曜の午前四時だった。しかたなく就寝するのを諦め、リビングでテレビを眺めながら熱いお茶をすする。
三時間後、諸悪の根源が寝室から顔を出した。
「おはよう、美枝子」
「……お、おはよう」
――なに、のんきに挨拶しちゃってるのよ。やっぱりあれは私を言いくるめるために言った冗談だったんでしょう?
美枝子は洗面所へと向かう勇次の後ろ姿を睨み付けた。戻ってきたら、ちゃんと離婚の話を進めなくては。
「……昨日はこっちで夕飯を食べられなくてすまなかった」
濡れた顔をタオルで拭きながら、勇次は美枝子の脇を通り過ぎて冷蔵庫に向かう。作りかけといっても、そぼろ豆腐とキュウリの酢の物はできあがっていた。それを朝ご飯にするつもりだろうか。いつもの美枝子なら「謝るくらいならもう少し早く連絡して」と悪態をついているところだが、もごもごと口が動くだけで肝心の言葉が出てこない。
「……朝食はもう済ませたのか?」
美枝子は逡巡した。どういうつもりで言っているのかまるで見当がつかないからだ。
「ちょっと食欲がなくってね。……見て、谷崎夫妻の息子って、ずいぶんと商魂たくましいのね」
美枝子は行き場のない視線をテレビに向けた。土曜朝のニュース番組では、話題の谷崎夫妻の一人息子、谷崎令太が出す暴露本を特集している。その名も「おしどり夫婦の水面下! ただれたバタ足生活!」。円満離婚、早い者勝ち離婚とメディアから持てはやされた谷崎夫妻を、一番近くで見ていた息子がもの申すという構図だ。
勇次は冷蔵庫の中のそぼろ豆腐とキュウリの酢の物だけを持ってきて、急須に入った熱いお茶を湯飲みに注ぎ入れる。
静かな咀嚼音が続く。
「……すごい人気ね」
早くも予約が殺到していると司会者が言った。次いで、両親が偉大なばかりにずっと芽が出なかった息子の売名行為だと、辛辣な言葉が続く。確かに、と美枝子は頷いた。
「そもそも親の離婚をネタにするなんて下品というか、それで上手く売れたとしても良い印象持てそうにないわ」
食べ終わったのか、勇次はシンクに食器を持って行った。我が家では水を張った洗い桶に食器を浸けておく決まりがあるため、美枝子は特にそちらに意識を向けない。勇次は冷蔵庫の中からなにかを取り出した。
「すまん、やっぱり夜中じゃ良いものは買えなかった」
食卓に、トンと置かれたものを見て美枝子は目を丸くする。
「……え、これは?」
「寿司は売り切れでな、ひとつも残ってなかったんだ。刺身も少ししかなかったから、とりあえず三種類入ってるものを買った」
は? と素っ頓狂な声が出た。しかし窓を閉め切り、エアコンの温度を下げ始める夫の姿を見て、美枝子はゆっくりとこれが現実であることを知った。
夫はやるつもりなのだ「女体盛り」を。
特売パックを手にした勇次が、真剣な目でこちらを見つめる。啖呵を切った手前、美枝子は引き下がるわけにはいかなかった。従来の強情張りも作用して、あっという間に衣類を脱ぎ捨て、嫁入り道具の上に四肢を投げ出すに至る。
いつも見ているはずの天井が、別の模様に思える。ぶるりと身震いした。まさかリビングで真っ裸になる日が来るとは……。
「ちょ、ちょっと待って、せめてラップを敷いて!」
私はなにを言っているんだろう。自分の口から飛び出した言葉を美枝子は恨んだ。勇次は箸で取った刺身を、仰向けに横たわった妻の身体に乗せようとしていた。込み上げてくるのは、生理的な嫌悪だ。
「わかった」と言って勇次はラップを長く取り、胸元からへそにかけてそれを敷いた。
美枝子の身体にマグロを始めとした三種の刺身がゆっくりと置かれていく。慣れない作業だからか配置が微妙で「端っこに置いたら落ちるじゃないの」と美枝子が口を出すこともあった。もしかして、乗せたあとは私も食べなくちゃいけないのかしら。勇次に問いかけると、曖昧な答えが返ってくる。
「けんはどうする」
「知らないわよ」
「菊は? 載せておくか」
勇次はパックの中身を全て美枝子の身体の上へ配置した。胸の谷間にサーモンとマグロ、へそに向かってブリの切り身が点々と並ぶ。刺身のドリップを吸った大根の千切りも、まさか萎びた五十代女の皮膚の上に載せられるとは思っていなかっただろう。
「じゃあ……食べるぞ」
陶器の醤油皿に、たまり醤油を入れて練りチューブのわさびを溶いていく。
箸の先端がゆっくりと自分に伸びてくる。刺身を取り損ねて、箸の先端が肌を押すとき、言い様のない刺激が背筋を震わせた。口から変な声が出そうになって下唇を噛む。
これじゃ女体盛りというよりもまな板の上の魚だ。
だから勇次が食べ終わったとき、人質から解放されたように美枝子はほっとした。醤油皿と箸をシンクに持っていった勇次がぽつりと声を発する。
「次はいつにしようか」
× × ×
天王寺動物園に最後に来たのは、大学生のときだ。
真利奈たちと同い歳か、それよりも若い夫婦の間を子供たちが楽しそうにはしゃぎまわっている。
「子供って、なにしてても楽しそうで可愛いよな」
ベンチに横並びになった啓太が遠くを見つめながら言った。真利奈はそちらにではなく、象がゆっくりと歩く姿を眺めている。学生時代に行って楽しかった、という会話から、それなら行こうと終業後に啓太が誘ってくれたのだ。
「俺も歳取ったのかなあ、昔は子供見てもうるさいとしか感じなかったんだけどさ、なんか走り回ってる姿とか見てると和むよ」
「……そう」
二人の間に沈黙が続き、セミの鳴き声だけがやかましく空気を震わせる。啓太が真利奈の顔を覗き込む。
「そういえばさ、昔は大阪にもアブラゼミがいたらしいんだけど、今はクマゼミばっかりなんだって。都会は緑が減ったから、それでセミの種類も変化して……」
「……時間が経てば変わるって言いたいの?」
意図せず、トゲのある言い方になってしまった。
「どうしたんだよ真利奈。おかしいぞ、最初は乗り気だった癖に……」
啓太は立ち上がり「つまらないなら帰るか」と言った。
ここで「帰る」とはっきり言えるような女なら、うじうじ悩まずに全てをぶつけることができたはずだ。だが真利奈は首を横に振って、身体の内側から無理矢理に愛想笑いを引き出す。ごめん、と謝る。
「なんだか暑さにやられたみたいで。休憩すれば大丈夫だから。自販機で水でも買ってくるわ」
「いいよ、俺が行く。そこに座ってろ」
啓太は優しい。優しくて、普通の男だ。普通の、家庭を築けるはずの男。
真利奈は両手で顔を覆った。私はどこかおかしいのだろうか。普通じゃないのだろうか。どうして一歩が踏み出せないのだろう。
金銭的な理由? それとも単純に子供が欲しくないから?
前者はもう、静香の慰労会のときに「理由ではない」と判断している。後者に対してはまだ答えが出ていない。子供が欲しくない、と言い切ってしまうほど子供が嫌いというわけでもない。
真利奈は、ぼんやりと自分の中に浮かんだものがあった。
――私には目的がないんだ。
仕事に対してもそうだ。昇進願望があまりないから、与えられた仕事をこなしていればそれで済む。
両親は目的があって結婚したのだろうか。私という子供を産んでいるのだから、出産が目的だったのかも知れない。専業主婦の母には金銭的な部分にも願望があったかも。それじゃあ、父はなにが目当てで結婚したのだろう。母はお世辞にも家事が万能ではないし、絶世の美貌とは言いがたい……。
――妥協?
なんとなく、真利奈は父と話してみたくなった。これまで相談事があれば母に話していたが、もしかすると自分の感性に近いのは父のほうなのかも知れない。真利奈は思わずその場で電話をかけた。もしかすると、なにかに気付けるのかも――。
「留守電が入っていたから驚いたよ。こうしてお前と飲むのは……初めてだな」
「急に呼び出してごめんなさい。でも、来てくれて嬉しい」
店内は仕事を終えたサラリーマンで賑わっていた。仕事中の父の携帯に留守電を残したのが数時間前。真利奈とその父は案内されたカウンター席に並んで座った。
「なにかあったのか」
「……特に深い意味はないんだけどね。お父さんが……」
お父さん、と呼ぶのがなんだか気恥ずかしくて口の中がもぞもぞした。一緒にお酒を飲むのが初めてなら、父親を「お父さん」と呼ぶのも久しぶりのように感じる。実家を出て一人暮らしを始めてからは、たまにかかってくる電話も母からのものばかりだった。
「……なにか食べ物を頼もうか。父さんは少しで良いよ。帰って食べるから」
「いらないって今からお母さんに電話すれば間に合うんじゃないの?」
「いや、いらないって言うとだめなんだ。帰りが遅くなるとだけ連絡しておく。なにか適当に好きなものを頼んでおきなさい」
真利奈が頷くのを確認し、携帯を手に店外へと向かう。真利奈は父の薄っぺらい背中を見て、なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。口の立つ母と無口な父。力関係に差がある夫婦だと子供ながらに思っていたが、父は確かに母のことを気にかけている。
これが夫婦というものだろうか。真利奈はこの際だからどんどん質問してみようと思った。店員を呼び止め、生ビールを二杯注文する。
× × ×
谷崎夫妻の一人息子が出した暴露本が空前の大ヒットを記録した、というのが今朝のトップニュースだ。長年それぞれにパートナーがいたと離婚会見でも言っていたが、蓋を開けてみれば谷崎夫妻の住まう大豪邸では月に一度、様々な業界人を招いてスワッピングを行っていたらしい。芋づる式に業界夫婦のただれた性生活が暴露され、世間はお祭り騒ぎ、メディアは水を得た魚である。
「……どれにしようかしら」
「あれ? 飯田さんですよね! 久しぶりじゃないですか!」
近所のスーパーで夕飯の買い出しを行っていると、美枝子を呼ぶ声がした。駆けよってくる顔を見ても名前が思い出せず、失礼ですが……と言葉を濁すと相手は豪快に笑う。
「私ですよ、金田! 以前、市民プラザの料理教室でご一緒した金田です!」
「ああ、金田さん!」
旦那に浮気され、離婚届を叩きつけた金田さんだ……確か、小さなお嬢さんがいたはず。二年前に通った料理教室での記憶を思い起こし、美枝子は小さく頷いた。一人娘を育てるために手に職をつけたいと、働きながら料理教室に通っていたのだ。当時は若くして苦労する彼女の境遇を思って「大変ね」と同情したものだが、今の彼女の姿を見て驚いた。
「元気だった……と聞きたいけれど、あなた、すごく元気そうね?」
「ええ! 実は料理教室で習ったことを、子供たちに教えるボランティアを始めたんですよ。そしたらテレビの取材が来て、本を書くことになったんです。最近では子供向けではない家庭料理の本も出すようになって……」
すごい、と声が出た。まさかそんなことになっていたなんて。つまらない生活を送っている自分がみすぼらしく思えて、美枝子はそそくさと退散しかけた。しかし、金田はその腕を取って「今日のお夕飯は決まってるんですか?」と問いかけてくる。
「え……? まだだけど……」
「飯田さんは、料理教室で一緒に習ったからお魚捌けますよね? 私は今日それを買うために来たんです! 今が旬だからきっと旦那さんも喜びますよ!」
「……と、いうわけなの」
「ほう……それだけ勧められたら、すごく期待できるなあ、どれどれ……」
料理教室で魚を捌いたのは二年前の出来事だ。それが最初で最後の捌き体験になると思っていた美枝子は、帰宅後、記憶を必死に辿りながら青く光る美しい身体を三枚におろした。もちろんうまくできず骨に肉を持って行かれてしまい、やや不格好な刺身がトレイの上に並んでいる。
「……そういえば俺、トビウオの刺身って初めて食べるよ。いや、どこかに旅行に行ったときに食べたかな。会社の懇親会で海に近い料亭に……いや、あれは天ぷらだった」
「実は私も食べたことないの。金田さんにそう言ったら、すごい勢いで推されちゃったから、引くに引けなくって……」
「とにかく食べてみよう」
勇次の声は弾んでいた。その様子がなんとも新鮮で、美枝子は食卓の上に裸で寝そべっているのを忘れそうになる。今日はラップさえ敷いていない素肌だが、事前にしっかりシャワーを浴びて消毒をした。勇次の箸が伸び、たるんだ腹の横線に沿って置かれたトビウオが一切れさらわれていく。
「……どう? 美味しい?」
「うん。あっさりしてて美味しいぞ。結構歯ごたえもある。美枝子も食べるか?」
食べたほうが良いぞ、とまで勇次は言った。躊躇っている美枝子の口元に「ほら」と箸で摘まんだそれを近付ける。美枝子はおそるおそる咀嚼した。ほんのりとした甘みが口内に広がる。
「あら、本当に美味しいわ。癖がなくて、するっと喉に通って……確かに夏向きの味ね。ポン酢で頂いても美味しいかも」
「ああ、箸が止まらないよ。まさか、五十年経ってからこの旨さに気付くとはなあ。なんで今まで食べなかったんだろう。惜しいことをした気分だ」
美枝子は「そうね」とおかしくなって吹き出した。
しばらくそうして、勇次は自分の口と美枝子の口にトビウオを運んだ。ふと、思い出したようにお茶を飲みながら言う。
「この間、真利奈と初めて飲んだよ」
「えっ……いつ?」
そんな話、真利奈からは聞いていない。美枝子は思わず上体を起こしそうになり、おっと、と落ちそうになる刺身を箸ですくわれる。ツンと皮膚を箸先が突いた。
「ご、ごめんなさい……それで?」
「いや……なんというか、特に大事な話をしたわけじゃない。女の子は、男親と話すよりも……女親と話すほうがなにかと良いだろう、と、ずっと思ってたからさ。でも、一緒に生ビールなんて飲んで……ああ、そのとき真利奈はタルタルソースがいっぱいかかったチキン南蛮をぺろりと平らげてた。若いからできる芸当だな、って言って、笑った」
勇次は口元をほころばせながら言う。
「……そのとき、そういえば真利奈は今年何歳になるんだろうって思ってさ。俺、自分の娘の年齢も知らなかったんだ。……聞かないでおこうかと思った。知らないだなんて親として失格だし、なにより女性にそういうことを聞くのはよくない。それがたとえ自分の娘だとしてもプライバシーの問題もあるだろう……って、俺、また自分が楽なほうに逃げてるのに気付いた」
じっと美枝子は勇次を見つめた。もしかすると丸裸の妻を前にして、夫はいつもの自衛を忘れているのかも知れない。次々に言葉が美枝子の皮膚をなぞる。
「だから、聞いたよ。恥を忍んでね。お前今年いくつになるんだ、って。真利奈はなにか、ハッとしたような顔をしてた。俺にはその表情の意味がよくわからなくて、もうこの際だからとプライベートの部分も聞くことにした。酒が入ってたから、お互い、大きな声で笑ったりもしてね」
目を細めて語る姿は、まぎれもなく彼が父親であることを示している。
「すごく楽しかったよ。だから俺は……なにか、今までずいぶん勿体ないことをしてきたんだな、と思った。だから、今更遅いかもしれないけど、俺は……」
美枝子は食卓から飛び降り、その辺のカーディガンを引っ掴んで慌てて寝室に入った。なぜか、勇次の次の言葉は、美枝子のさらなる部分を暴くような気がしたのだ。
姿見に映る、だらしなく肉の垂れ下がった自分の身体。記憶を辿りながらなんとか捌いたトビウオ。夫にそれを乗せられた部分が、ナメクジが這った後のようにてらてらと光っている。
私は一体、どんな言葉を欲しているのだろう。
× × ×
「えっ……事務主任、ですか? 私が?」
突然の呼び出しに驚いた。主任は真利奈の顔を見ると微笑みながら昇進の打診を告げたのである。
「新人の子たちに聞いたら、あなたの教え方が一番上手いって」
真利奈はその場で考え込んでしまった。主任もそれを見越していたらしい。あなた、吉村君とお付き合いしているのよね、と言葉を続ける。重要なポジションに移ってしまうと退社し辛いことを理解した上で、この話を真利奈に振ったようだ。
「もう結婚が決まっているなら断ってくれても良いの。でもそういう話がないのなら考えて欲しい。私は女一人でここまで来たからね。自分で選んだ道だけど……男たちの中で孤立無援で戦うのは本当に苦しかったの。だから、若い女の子が働きたいっていうなら応援したい」
ひとまず感謝の言葉を述べて、返答は後日ということで会社を後にした。その足で、別の部署での仕事を終えた啓太と落ち合った。西日が差し込む夕方のカフェでアイスコーヒーを二つ買い、大阪湾を臨む見晴らしの良いテラスで隣り合って座る。
なにか悩んでいるのか、とすぐに聞かれてしまった。
どうも自分は顔に出やすいらしい。真利奈はアイスコーヒーで喉を潤し、少しの沈黙を経て主任との話を啓太に打ち明けた。
「おめでとう! 良かったじゃないか!」
真利奈は拍子抜けした。でも、と言い淀む。
「私、悩んでるのよ。この話を受けたら……しばらくは退社できない。その……あなたとの将来の話がなくなるってことよ。でも、まだ決まってもいないことに対して、ああだこうだというのはおかしいし……って嫌ね、私、混乱してるみたい」
結婚について意識し過ぎている自分に気付き、真利奈は発言を取り消してもらおうと口を開いた。だが啓太はしっかりとこちらを見て話を聞いていた。ああ……と情けない声が出る。アイスコーヒーの容器に浮かんだ水滴に、西日が反射してひどく眩しい。
「なんで二択なんだ?」
ふと、啓太が言った。
「結婚するかしないかとか、結婚か仕事のどっちかを選ぶとか……いつも真利奈はゼロかヒャクで悩んでる。仕事も、結婚も、すれば良いじゃないか」
「で、でも、それじゃあ子供が欲しくなったらどうするの? 仕事が忙しくなればそれこそ無理よ、ゼロかヒャクで考えなくちゃ」
「……真利奈は今、子供が欲しいのか?」
啓太の問いかけに真利奈は少し考えてから「今は欲しくない」と答えた。じゃあそこまでは考えなくても良いんだよ、と啓太が微笑む。
「でも、あなたが欲しくなったら……」
「そのときはそのときだ。仕事だってもしかすると、思っているよりも忙しくないかも知れない。馬鹿みたいに忙しくなったのなら、自分が主任になるんだから部下に協力してもらえば良いし……とにかく二択じゃないんだよ。真利奈にはいろんな選択肢があるんだ」
「でも……でも、私がそんなに上手くいくはずないわ。どれだけいろんな選択肢があったとしても、きっと間違った道を選んでしまう」
啓太はごくりとアイスコーヒーを飲んだ。西日を吸った瞳がぎらぎらと輝いている。吸い込まれそうだ、と真利奈は思った。
「俺は、そこまで甲斐性なしじゃない。なんのために、六年も一緒にいると思ってるんだ。支えになるかはわからないけど、俺は真利奈を支えてやりたいし、俺も真利奈に支えてもらいたい。言い方は悪いかも知れないけど、利用すれば良いんだよ、俺を」
まあ、甘えてくれるともっと嬉しいんだけど。啓太は唇を尖らせて真利奈を見る。
「……俺さ。レストランとかちゃんと予約して、なんなら夜景とか見ながらプロポーズするつもりだったのに。もうこれじゃあ言ったも同然じゃないか」
真利奈は熱くなる目頭を押さえながら、暮れゆく夕日に染められた恋人の横顔を見つめる。
「……じゃあ今度、改めてプロポーズしてもらおうかしら。ううん、男の人からするなんて決まりはないんだもの。私、実は指輪のケースをパカッてやるの、やってみたかったの」
「えっ! それ、俺もやりたいってずっと思ってた」
向かい合って指輪のケースを開ける姿を想像する。さぞ馬鹿馬鹿しい光景だろう。
だが、そこには二人でしか作り上げることのできない暖かい世界があった。
× × ×
「おーい美枝子、そろそろ出てきてくれないか。今、テレビで滝の特集やってるんだ。美濃の滝だよ。すごく綺麗だから出てきてくれ」
声に起こされ、寝ぼけ眼をこすりこすり時計を見れば朝の八時だ。私にしては寝坊助だ、と美枝子は身体を起こした。リビングに足を踏み入れ、テレビに意識を向け……ようとしたが、食卓に並んだ皿に気を取られる。
「……なにこれ」
美枝子は指を指して問いかけた。
「トースト……だが……」
オーブンで焼く前に無理矢理バターを塗り込んだのだろう。焼き上がったそれは表面がひどくえぐれていた。美枝子は大きなため息をつき、ちょっと待ってて、と言い置いた。
トーストの載ったふたつの皿を手にキッチンへ移動する。冷蔵庫を開け、昨日使ったトビウオの残りを取り出した。火をかけたフライパンにバターを引き、トビウオを投入し、数種類のスパイスを混ぜ込んだ塩を振りかけて炒める。トーストのくぼんだ部分に入れればきっと見た目も美味しく食べられるだろう。
勇次が慌てて美枝子の背後に走り寄り、狼狽えた様子で「良いのか」と問いかける。
「だってこれ、トビウオじゃないか……良いのか、その……」
「女体盛り?」
「そう、それ……使う予定だったろう」
ジュウジュウと小気味良い音が聞こえ、バターが焦げる香ばしい香りが立ちこめた。美枝子はこの数日間で、豊かな夫の表情を溢れるほどたくさん見た。
「……もう、良いのよ。あれは私には刺激的だったわ」
声に出してみればわかる。美枝子が求めていたのは、刺激ではなく転機。我が子一人分広くなった一軒家に漂う淀んだ空気を、窓を開け放して換気する勇気が欲しかったのだ。一人で開けようとしたって無駄だ。重くて大きい扉は、夫婦が息を合わせて、せーので力を込めなければ開かないのだとようやく気付くことができた。
「そうだわ、今日はあそこに行きましょう」
できあがったトビウオトーストを手に、美枝子はテレビを見た。瑞々しい緑に囲まれ、鮮やかな太陽の光を吸い込みながら、きらきらと、そして大胆に岩を打ちながら流れ落ちる箕面の滝。美枝子の言葉に勇次は「えっ」を言葉を詰まらせる。
「あなたはさっき、綺麗だから私にこれを見せたいって思ったんでしょ? 私も、あなたに見せたい。そして、ここであなたにたくさん謝りたい」
美枝子、と勇次が妻の名前を呼ぶ。
「ふふっ、二人でどこかに出かけるのなんて何年ぶりかしらねえ。もしかすると観光が趣味になったりして」
忙しくなるわねえ、と美枝子が微笑んだとき、チャイムが鳴り響いた。
「誰かしら」
美枝子は足早に玄関へ走って穴を覗き込む。見知った顔がこちらを伺っており、おもわず「真利奈だわ」と背後にいた勇次を振り返った。
玄関扉を開ければ、確かに一人娘の真利奈が立っている。妙にそわそわとした様子で落ち着きがない。どうしたの、と問いかける前に「今日来るって連絡しようとは思ったんだけど」と真利奈は突然話し始めた。
「でも、決まった途端、もう、それどころじゃなくて……いてもたってもいられなくて。お母さん、いま時間ってあるよね、大丈夫だよね?」
「なに、なんの話、ちょっと一気に話さないで頂戴」
「その、いきなりで悪いとは思ってるんだけど、紹介したい人がいるの。吉村啓太さんという人で、もうそこまで来てもらってるから、話したいこともいっぱいで……」
いつもなら「なに馬鹿なこと言ってるの」と叫んでいるところだった。
「なんだ、ちょうどいい。それなら今日は四人で滝を見に行くか?」
勇次の嬉しそうな声が飛び出し、美枝子はたまらず白い歯を見せて笑った。
了
柔らかな皿