対岸の火事

 対岸の火事を見ている。
 それはことわざでも比喩でもなく、小高い丘に腰を下ろした喜多は、眼下に広がる民家がもうもうと煙を上げて燃えさかっているのをただ黙って見つめていた。残暑を過ぎ、空気が乾燥し始めた九月末の出来事だ。少し前に、第一志望の企業に内定したのだと従妹の政恵が喜多の住む社員寮まで報告に来ていた。あのとき見せてくれた都会的な新品の制服も、今頃あの炎のどこかにあるのだと思うと、自分のやったことが少しだけ悪く思えた。だが、彼はこれを天災だと思い込もうとしている。
 目を閉じ、回顧する。遡るのは、かつて彼が子供だったとき。

 喜多の両親は、彼を才能のある子供だと長らく勘違いしていた。親の欲目だ。彼らは、貧乏家庭ながら自らを犠牲にし、少ない金を必死に作って喜多を進学させ、大学にまで通わせようとした。そこで喜多は不合格通知を受け取った。両親は、息子が不出来であることが信じられなかったのか、彼に二度の浪人生活を味わわせ、やっとのことで「お前は親不孝者だ」と項垂れながら彼を解放した。
 喜多は単純に、頭が悪かった。暗記をしようものなら右から左に抜け、計算をしようものなら不可解な結果を導き出す。両親になにもかもの援助を断ち切られた喜多は、地元の工場を一軒一軒回って、雇ってくれと直談判した。何件目かで、人手が足りていないから是非来い、という工場に行き当たった。喜多はその日から大きな縫製工場の住み込み社員となり、縫製する布を事前に大量に切り出しておく仕事に就いた。
 今まで衣服になんの頓着もなかった喜多にとって、縫製工場はなにもかもが未知である。
 とにかく女の多い職場で、社長と副社長を除いて男は三人ほどしかいなかった。ミシンを踏むのは女の仕事、それ以外の力仕事を男が受け持つ。喜多は来る日も来る日も反物を担いで裁断していた。
 八月中旬。ある蒸し暑い夏の日だ。涼しげな麻の生地を、ノースリーブのワンピースにするために裁断していた喜多は、女たちに誘われて終業後に食事に出る予定になっていた。ミシンの音が絶え間なく響き、カタカタと工場全体が痙攣しているかのようだ。喜多はその中で、一等、真剣に作業へ没頭する女の姿を盗み見た。紺色で丸襟のワンピース。黒くて太い髪を強引にひっつめにした女は、名前を亜紀(あき)といった。誘いをくれた女たちの中には名を連ねておらず、喜多は一度として亜紀と食事に行ったことはない。

「――同じ工場の、髪をひっつめにした女がいるだろう。確か、名前は亜紀だ」

 まだ往来は昼間のように明るかった。仕事を終えた喜多と女三人は、連れ立って馴染みの居酒屋の暖簾をくぐる。活気に溢れた店内。店主のしゃがれ声が響き、その女房が彼らを奥のボックス席へと案内し、すばやく注文をとっていく。喜多は慣れた様子で机の端に重ね置かれた銀色の灰皿を一枚ずつ彼女らの手元に配った。自らにも引き寄せ、咥えた煙草にマッチで火をつける。女たちの吐いた煙が喜多の顔面を撫でた頃、喜多は亜紀のことを問いかけた。

「なあに、喜多さん、彼女に気があるの」

 喜多の真正面、狐のように目を細めた女が言った。

「そうじゃない。ただ、おれは一度もあの女と食事どころか話をしたこともない。話しているところを見たこともないんだ。もしかして()じゃないのか、と疑問に思っただけだ」

 ドンと音をたて、汗をかいたビールのジョッキが目の前に四つ並んだ。店の女房が「リョウリ、チョット、マッテ」と片言の日本語で伝えて戻っていく。喜多らは一旦会話を中止し、ジョッキに並々と接がれたそれで喉を潤した。夏のうだるような暑さと、仕事の疲れが一気にすっと冷め、各々、歓喜の声を上げる。

「――で、なんの話だったかしら。社長の禿げ頭の話?」
「亜紀さんの話よ。彼女は唖か、と喜多さんは聞いたの」
「そうそう、そうだった。実は、アタシもあの子とは一度も話したことがないの。アタシが入社したのは二年前だから……二年間ずっと」
「あら。三年前に入社したあたしたちだって、話したことないわよ」
「覚えてる限りじゃ、そうだわ。きっと職場の誰も、あの子の声を聞いたことがないんじゃないかしら」
「最(うぶ)は、すましてるかひねくれてるか、そのどっちもかで、口をきかないのかと思ってたけど、こっちが目を見て挨拶すればちゃんと会釈するし、仕事だって人一倍頑張ってる。だから……」
「多分だけど、あの子は話せない上に耳が聞こえない――聾唖(ろうあ)ね」

 目の前に、餃子の皿が置かれた。喜多は「そうか」と頷いた。そうして餃子に箸を伸ばし、口の中に放り込む。女たちもそれに続いた。
 奥歯で噛みしめると、ジュワッと魚介の風味があふれ出し、芳醇な香りとなって鼻に抜けた。店の女房の、里の味だ。細切れにしたエビやイカなどの魚介をミンチ肉に練り込み、ニラとネギをそれに混ぜる。喜多たちはこの雑多で独特な風味のする餃子がお気に入りだった。

「喜多さん。一度、亜紀さんを食事に誘ってみたらどう」

 何気ない口調で女の一人が言う。客たちが吸う煙草が、紫煙の雲となって店内の上半分を埋めており、女の顔も喜多の顔も、霧がかかったように不明瞭である。

「耳も口もきけない女と、なにを話せば良いんだ? おれは自分で言うのもなんだが、話が得意じゃない」
「アハハ! 確かに、喜多さんは口下手よねえ。社長や副社長なんかと食べに行くと、あの人たちは決まって私たちを持ち上げて気分を良くさせるのよ。働きアリにはもっともっと働いてもらわなくちゃ」
「利益って名前の女王アリを満足させてやれないものね」
「その点、喜多さんは私たちと対等な立場だもの。ゴマを擦る必要がない。まあ……男と女なのだから、たまには持ち上げてみたらどう、と思わないでもないけど」

 女たちはドッと弾けるように笑う。喜多はどうにも居心地が悪く、箸を置いて煙草ばかりを吸っていた。聾唖者とどうやって話せば良いのだろう、そもそも食事に誘って、素直に頷いてもらえるものだろうか。料理は次々と四人の前に置かれていき、話題は工場や同僚の愚痴に移っていった。喜多も「賃金が少ない」と不平不満を漏らし、「女たちの服装の乱れが気になる」と言ってまた彼女らを笑わせた。夏場の女たちはシュミーズかスリップのような下着じみた服を着ており、忙しさにかまけて肩から紐がずり落ちていたりする。ブラジャーの紐が明らかに露出しているのも喜多の目にあまる光景であった。

「本当に、喜多さんは初だわ。だから私たち、あなたと食事するのが好きなのよ」

 入り口のドアはガラス戸になっており、往来が見渡せる。どうやらもう、ずいぶんと日が落ちてきたようだ。喜多は初任給で買った安物の腕時計に目を落とし「そろそろお開きにするか」と言った。机の上に置かれていた料理皿は数分前に店の女房が片付けた。たわいもない話をしながら、繰り返し灰皿に灰を落とすだけの時間。女たちは「そうね、明日も仕事が早いもの」と重い腰を上げる。無理に会を引き延ばしたりしないところが、喜多が彼女たちと食事に行って、良いなと思う部分であった。女たちは「誘ったのは私たちだから」と言って、喜多が出そうとするのを断り、三人で食事代を割って出し合った。喜多はなけなしの尊厳すらなくなったような気がして、またしても居心地が悪い思いをした。いくら彼女らと給料が同じだからと言っても、食事代を奢ることすらできないなんて男の面目は丸つぶれである。喜多は「次はおれが払うから」と何度も言い伝え、帰り道にある洋菓子屋で小さな菓子を買って彼女らに持たせた。女たちはみな嬉しそうな顔で社員寮に帰っていき、喜多は落ち着きを取り戻して自身も社員寮へと帰宅した。



「――亜紀さん。今晩、食事に行きませんか」

 この間の居酒屋での会話が喜多の背中を押した。やや間を置いて三日後。彼は仕事終わりを狙って、亜紀に話しかけたのであった。初め、亜紀は喜多に背中を見せていた。数秒の沈黙の時間が続き、喜多は相手が聾唖だったことを思い出し、慌てて彼女の前に回り込む。亜紀はビクリと肩を上げ、突然現れた男に驚いている様子だ。

「亜紀さん。今晩、食事に、行きませんか」

 もう一度問いかける。彼女の視線がじっと喜多の顔面に注がれ、その真剣さに彼はドキリとした。まるで身体の奥を見透かされているような心地。捕食者に怯える小動物さながらの心境で答えを待っていると、亜紀は小さく頷いた。

「それって、行くってことで良いのか?」

 間を置いて、形の良い丸い頭が縦に揺れる。なるほど、相手の唇が読めるのか。喜多は、読唇術というのを聞いたことがあった。そうとわかれば、まだ手立てはある。喜多は彼女の前に立ち、場所と時刻を伝えた。亜紀はまた頷いた。その表情には喜びや困惑は浮かんでおらず、ただ垂れ気味の眉尻が喜多にとって印象的だっただけだ。喜多は社員寮に帰ると、一目散に銭湯に向かった。貧乏な喜多は、普段は寮の水で頭を洗い、濡らしたタオルで全身を拭いていた。わざわざ銭湯に行くのなんて、頭や身体が痒くなってからだ。喜多は、亜紀との食事に向けて、清潔な自分でありたいと思ったのである。
 馴染みの居酒屋の前に、静かに佇む女の姿を遠くから発見し、喜多は大きく手を振った。その大げさな動きは、嫌でも相手の視界に入り込むことができたらしい。亜紀は喜多の姿をみとめると、ゆっくりとした仕草で会釈した。喜多は足早に亜紀の元へと駆け寄った。夏の夜風が風呂上がりの肌に心地よく、草むらから聞こえる虫たちの羽音が、風情を感じさせる。

「ごめんな、待たせちまったか」

 はっきりと言葉を句切りながら伝えると、亜紀は首を横に振って否定の意を表した。軒下に掲げられた赤提灯の光が、亜紀の白い肌を染めている。いつも着ている濃紺のワンピースも、俗っぽい色を帯びてしまったようで、喜多は店選びに失敗した気がした。だが、ここ以外に安い店を知らない。「入ろう」と促した。亜紀は頷き、喜多の後に続いて暖簾をくぐる。
 店主のしゃがれ声が響き、女房の快活なかけ声で席へと通される。客入りは少なく、前回と同じボックス席に座ることができた。喜多はいつものように机の脇に置かれた灰皿を手に取り、ぴたりと動きを止める。

「亜紀さんは、吸わない?」

 問いかけられた意味がわからないのか、きょとんとした様子で喜多の顔を見つめる亜紀。喜多は自分の煙草を箱ごと取り出し、それを見せながら、指を立てて吸う真似をした。最後に亜紀のほうを指さす。彼女はハッと唇を開き、顔の前で片手を振った。

「吸わないってことだな。わかった」

 喜多は灰皿を戻し、煙草の箱をズボンのポケットに詰め込む。亜紀が吸わないのなら、自分も吸うのはよそうと、自然に心が動いたのだった。他の女たちがスパスパ吸っていても特になにも思わないが、亜紀の薄い唇が煙草を咥えるのは、間違っている気がする。喜多は彼女の返事にホッとしていた。
 店の女房が傍らに立ち「ナニニスル」注文を催促する。

「とりあえずビールで。亜紀さんは、お酒は飲む?」

 店の壁に貼り付けられた手書きのメニューの中から酒を指さす。その指の先を視線で辿り、亜紀は再び否定した。喜多は店の女房に問いかける。

「ジュースだったら、なにがある?」
「リンゴ、オレンジ……シュッ、ト、スルノモ、アル」

 喜多は指を折りながら、いま聞いたばかりのものを復唱した。亜紀に指を選ばせる。すると彼女は『シュッとするもの』を選んでみせた。普段、酒しか飲まない喜多にはいまいちピンとこなかったが、彼女が望むならそれにしよう。同時に、いつもの餃子と、料理をいくつか頼む。

「……亜紀さん。おれと食事をするのは、これが初めてだな。嫌いな食べ物、聞いておけば良かったなって、注文してから気付いちまった。すまん」

 亜紀は首を横に振った。

「おれは頭がわるいから、色んなことを間違える。なにか、おれが間違っていたら、これに書いて見せてくれないか」

 喜多は懐から、小さな手帳と鉛筆を取り出した。
 銭湯の近くにある文房具屋で目にして、思わず、購入したのである。これを使えば、こちらが一方的に話すだけではなく、亜紀の気持ちを言葉で知ることができるはずだ。銭湯に金を払ったばかりで、その上、今晩の食事代をもつつもりでいた喜多にとっては痛い出費である。だが、女たちにケーキや菓子を買ってやると喜ぶことを知っていた喜多は、きっと亜紀も、女好きしそうなものなら受け取ってくれるのではと考えた。可愛らしい小花柄の手帳を選んだのはそれが理由だ。

「もらい物なんだが、こんな柄だから、男のおれは使えない。もらってくれたら、助かるんだが」

 亜紀は目を見開いて驚いている。恐る恐る受け取り、小花の散った表紙をめくって、罫線のひかれた真新しいページを見つめた。削った鉛筆を差し出す。やけに用意周到だと思われて、拒絶されないだろうか。喜多はそんなことばかりを考えて、不安になっていたが、亜紀はふたつとも受け取り、静かに動かし始めた。

 ――ありがとうございます。うれしいです。

 喜多は対面から身を乗り出し、書かれたばかりの文字を目で読む。あまりにも平凡な感謝の言葉。しかし喜多にとって、これ以上のものはなかった。小さく、美しい文字をしている。まるで彼女そのものだ。

「喜んでくれたなら良かった。手帳が無駄にならずに済んで、おれに渡した奴も喜んでいる」

 相手が気負わないようにと、何気ない口調と表情を意識して、言った。
 飲み物が届いたのはそのときだ。亜紀はシュッとするもの――ラムネの瓶を受け取り、ただただ目を丸くしていた。どうやら開けかたがわからないらしい。喜多はビールで喉を潤しながら笑い、瓶を奪ってビー玉を落としてやった。亜紀は、口を開いて驚いている。

「おれで良ければ、なんでも頼ってくれ。できることは少ないが、助けになれるかも――」

 ビー玉が上下して上手く飲めないようだ。困惑する亜紀の姿を見て、また喜多は笑った。二人の間に料理が次々と運ばれてくる。亜紀はラムネを脇に置き、それらを眺める。

「好きに食べてくれ。これがおれが気に入ってる餃子だが、エビやイカ、ニラやネギが入っている。そっちの餡がかかったものは……見ての通り、よくわからんが、野菜と肉が入った……炒めものだ。あとは……いや、冷めちまうな。苦手なものがあればおれが食う。亜紀さんは避けて食ってくれたら良い」

 亜紀は頷き、小皿にちょこちょこと取り分け始める。仕事終わりで腹が空いていたのだろう。遠慮して全く口をつけなかったらどうしようかと思っていた手前、喜多は亜紀の食欲には感謝した。
 喜多は食べながら、できる限り亜紀に話しかけた。好物について、職場のことについて。あまり話すのが得意ではない喜多であったが、亜紀は必ず相手の顔をじっと見て、首を縦に振るか横に振るかして意思を示す。なんであれ、亜紀に見つめられるのが嬉しく、気付けばいつもより饒舌になっていた。これまで亜紀を食事に誘わなかった日々が、もったいなく感じられるほどだ。

 ――おかねを、はらいます。

 食事を終え、会計を済まそうとする喜多に、亜紀はそう書いた手帳のページを必死に見せてきた。間違ったことをしたら書いて見せろと言ったのだから、その通りにしたのだろう。喜多はそれを「おれが払いたい気分なんだ」「本当に気にしなくて良い」「おれが誘ったんだから、払わせてくれ」と言葉を重ねて説得した。亜紀には、少しでも男らしいところを見せたかったのだ。
 連れ立って社員寮に戻る最中、亜紀は俯き、書き記した手帳のページを表にしたまま両手で握りしめていた。喜多は沸き上がってくる罪悪感にも似た複雑な感情にいてもたってもいられず、彼女の手からそれを奪い、ページを破ってズボンのポケットに押し込んだ。目を白黒させる亜紀に「気にするな」と喜多は言ったが、女性寮の前に来てもなかなか中に入ろうとしない。それは喜多が男性寮の中へ完全に姿を隠すまで続いた。その手に握りしめられた、小花柄の手帳。
 男性寮に帰宅し、身を横たえてから、彼女が書いた手帳の一ページを取り出して眺める。小さく、端正で、亜紀の性格を如実に表した美しい筆致だ。喜多は、先ほど見た亜紀の申し訳なさそうな顔を思い出す。そして、その肌の白さを。他の女には感じなかった感情が、確実に頭をもたげ始めていた。



 × × ×

 八月末。夏も盛りで、蝉の鳴き声は熾烈に変化していた。
 その日も喜多は変わらず、朝早くに出勤。裁断機に油を差し、試運転をしているところ、女たちが次々と出勤してくる。だが、いつまで経っても亜紀の姿が見えない。風邪でも引いたのだろうか、と喜多は心配になり、後で女たちの手を借りて差し入れを渡してやろうと決めた。延々と終業時間まで布を裁断し続け、終わりを知らせるチャイムを聞き、喜多は女たちの憩う、喫煙所まで向かう。
 解放した入り口から漏れ出る紫煙。自らの煙草をズボンから取り出しながら、喜多はそこへ入っていった。「お疲れ様」と声をかけると、女たちは「お疲れ様」と鼻から口から、煙を吐き出して言う。亜紀のことを聞こうとしたとき、誰かがその名前を発した。

「可哀想にねえ。亜紀さん」

 喜多は一度口に挟んだ煙草を、指に戻す。

「なにかあったのか」

 思わず、女に向かって問いかけた。知らない顔の女だったが、向こうもそんなことは気にしていない様子。煙をゆったりと吐き出している。

「知らない? 亜紀さん、結婚したのよ。その相手が、あの有名な大谷物産の社長らしいの」

 聞きたくない、と喜多は瞬時に思ってしまった。だがその先を聞かないと、ずっとモヤモヤとしたものを抱えることになる。遅かれ早かれ知るのだから。喜多は自分を奮い立たせ、言葉を重ねる。

「……社長夫人か。玉の輿じゃないか、めでたい話だ」

 女は顔を歪ませた。

「やだ、本当に言ってるの? この街じゃ、大谷社長のことを知らない人はいないでしょう?」
「どういうことだ」
「一人目の奥さんも二人目の奥さんも、自殺してるのよ」

 大谷物産の名前は知っていても、その社長の私生活について知らなかった喜多は、そのまま煙草を床に取りこぼした。

「その二人の嫁は、自殺するほど、気の弱い女だったのか?」
「違うに決まってるじゃない。あそこの社長は他人に厳しいらしいから、きっと奥さんにもひどくあたったんだわ。役立たず、なんて言ってね」
「……滅多なことを言うなよ」
「あら、案外外れてないはずよ。今に亜紀さんも、旦那様に追い詰められて死んじゃうんだから」
「お前、亜紀さんが社長夫人になったものだから、嫉妬してるんだろ。女が女をひどく言うなんて、醜いとは思わないのか」
「失礼ね! あんたみたいな愚鈍な男に言われる筋合いなんてどこにもないわ!」

 女は怒って喫煙所から出て行った。周りにいた女たちはずっと二人の会話に聞き耳を立てていたのだが、それを尻目にそれぞれの会話に戻っていった。ぽつんと残された喜多は宙を眺め、煙草を吸うでもなく、副流煙に包まれ続けた。



 少ない金を祝儀袋で包んだ喜多が、亜紀の実家を訪ねたのはそれから数日後のことである。
 工場の女から住所を聞き出すと、それは隣町にあった。小さな町工場で、少人数がすし詰め状態で働いている。どこで寝起きしているのかと工場のぐるりを歩いてみると、隣接した物置同然の小屋がそうだと気付く。喜多は、彼らが仕事を終えるのを見計らい、小屋の呼び鈴を静かに押した。中から現れたのは、肥え太った中年の女だ。なんのようだい、と怪訝そうな表情の女に祝儀袋を見せると、みるみるうちに表情が明るく変化していく。

「あの子に結婚を祝ってくれるような友達がいたなんて初めて知ったよ。嬉しいねえ。嫁入り道具もなにも持たせてやれなかったから、これで亜紀になにか買ってやろうかしら。外で話すのもなんだから、三和土まで入っておくれ」

 招かれるまま足を進めたが、玄関口まで物で溢れかえり、散らかっていた。おそらく奥はさらに乱れているのだろう。喜多はそれ以上進むのを止めた。

「亜紀さんはご在宅じゃないんですか。直接、お祝いの言葉を伝えたくて」
「あら、ごめんね。もう、亜紀は大谷さんの邸宅に住んでるのよ。まだ荷物はこっちなんだけどね。すぐにでも来てくれって熱望してくださったものだから」

 亜紀の母の陰から、小柄な男が現れた。父親だろう。

「あんな出来損ないを嫁にもらってくれるんだから、俺たちとしちゃ本当にありがたい話だ」
「お父さん! 黙ってて!」

 フンとわざとらしく鼻を鳴らして、父親は奥の部屋に戻っていく。喜多の気分が、どっと落ち込んでいた。会話を適当に切り上げ、亜紀の住み家を辞して、近隣宅の呼び鈴を押して鳴らす。どれだけ気分が落ちたとしても、情報を集めておくに超したことはない。寂れた一軒家から姿を現したのは、年甲斐もなくベビーピンクのブラウスを着た老婦人であった。

「あそこの家の亜紀さんが、大谷物産の社長とご成婚されたそうですが」

 喜多は開口一番、そう言った。老婦人はいぶかしげな視線を送っている。喜多は言葉をさらに重ねる。

「実は、大谷物産について調べてくれと調査を依頼されましてね。ご協力願えると助かります」

 老婦人はハッと目を見開き「まあ!」と言って「まあ! まあ!」と自分の声に驚くように、さらに声をあげてみせた。噂好きの女の反応だ。喜多は職場の女たちがこの手の表情をよく見せるのを知っている。

「やっぱり……やっぱり、誰でもおかしいと思うわよね、あの結婚。だって一回りどころか二回りも歳が離れてるじゃない? それに、大谷物産の社長といえば二人の奥さんが……その、自殺しているでしょう。わざわざそんなところに嫁に行くんだもの。訳ありに決まってる。……実は私、聞いたのよ。あそこの社長が秘密の倶楽部に出入りしているってこと……」

 知らない世界の言葉だ。喜多は「秘密の倶楽部ですか」とわけもわからず復唱した。老婦人はうんうんと頷いてみせる。

「そう。あれよ、若い女の子を呼んで、叩いたり、縛ったりするの。サディストたちの集まる倶楽部よ」
「サディスト、の……?」
「女をいたぶって遊ぶ、変態の集まりってことよ!」
「……じゃ、じゃあ、そこに社長が通っているということはつまり……亜紀さんは、変態の倶楽部へ招待するために結婚させられた、と……?」
「そうなんじゃないか、って私は思ってるの。だって二回の結婚で二回とも奥さんを亡くしているでしょう。どっちも自殺なもんだから、社長に言い寄っていた女はみんな一目散に逃げ出したわ。社長は女に飢えてたの。だから亜紀ちゃんを――」
「亜紀さんはそのことを知らなかったんですか? さすがに、彼女の両親の耳には入っていた話でしょう?」
「入っていたはずよ。でも、亜紀ちゃんの家族が経営する工場が、大谷物産の下請けなのよ。もうずっと経営不振で、いつ契約を切られるか怯えていたところに社長の声がかかったみたい。助かった、って亜紀ちゃんの父親が言っていたのを私の夫が聞いているもの。自分の娘を差し出して工場を立て直すなんて、ひどい親がいたもんだって夫が激怒していたわ」

 本当に、亜紀ちゃんが可哀想。老婦人はそう言って言葉を締めくくった。
 うるさいばかりに高鳴る胸の鼓動。喜多は礼を言って、その場を去った。夫人の言葉に、どこまでの信憑性があるかわからない。だが、いてもたってもいられなかった。
 気付けば、三駅も離れた大谷物産の工場の前まで歩き続けていた。大きな工場だ。亜紀の家業はおろか、喜多の働く工場ですら、ちっぽけに見えてくる。夜も深い時刻だ。すでに全ての社員が帰っており、工場の照明は落とされ、巨大なオブジェのように街はシンと静まりかえっていた。喜多は工場裏に回り込み、大谷の、工場にも負けないほどの巨大な邸宅を仰ぎ見る。二階建ての洋風建築である。二階の照明がついており、誰かが在宅していることがわかった。少し躊躇ったが、喜多はすぐに呼び鈴を鳴らした。走って木陰に隠れ、門扉を監視する。

 ――こんな時間に誰だ?

 野太い声が聞こえた。夏の暑さから、窓を開けて外気を取り込んでいるのだろう。二階のカーテンが揺れている。

 ――いたずらかも知れん。人が準備に忙しいときに……おい亜紀、ちょっと外を見てきてくれ。
 ――おい! 亜紀!

 バシンとなにかを叩く音がして、次いで、大きな物音。カーテンに大柄な男のシルエットが映り、その端で小さなシルエットが狼狽えるように左右に揺れている。

 ――ここまで役に立たんとはな……! わかるか? 玄関の様子を見てこいと言っとるんだ!

 階段を忙しなく駆け下りる音すら喜多の隠れる木陰まで届いてきたものだから、この周辺の住人はこの二人のやり取りを黙認しているか楽しんでいるかの二択だろうなと思い至った。金属の擦れる音がして、喜多は視線をそちらに向ける。そこには、門扉を開いて、外の様子をうかがう亜紀がいた。
 息を飲んだ。その風貌に驚いたからだ。
 職場でミシンを熱心に踏んでいるときの彼女は、いつも紺色のワンピースを着て、頭をひっつめにしていた。全体的にさっぱりとした印象で、彼女自身もそういった気取りのない服装を選んでいるようだった。だが、夜の闇に佇む亜紀は、発光するように周囲から浮いていた。亜紀は真っ赤なミニドレスを着て、肩に毛皮のガウンを羽織っていたのだ。足元だって、いくら夏場とはいえ網タイツにピンヒールはいささか日常生活からはかけ離れすぎている。
 亜紀はしばらくきょろきょろと辺りを伺っていたが、やがて無人なのを確認したのかまた邸宅の中へと引っ込んでいった。喜多は呆然と、その場に立ち尽くして思考を巡らせた。何分、いや何時間そうしていたかはわからない。喜多の視線の先。邸宅の前に、黒いハイヤーが一台停まって、着飾った二人を乗せてどこかへと走って行った。
 喜多は、次の日も同じ時刻に、大谷邸の呼び鈴を押し、門扉から外を確認する亜紀の姿を木陰から見た。てらてらと怪しく光るシルクのナイトガウン。その次の日も、彼女はナイトガウンを着て、寒そうに身体を自分の腕で抱きしめていた。どうやら、あの真っ赤な装いは特別な日のみで、毎日どこかに出かけているわけではないらしい。気付いて、喜多はホッと胸を撫で下ろした。これ以上呼び鈴を押すと大谷に怪しまれてしまうと思った喜多は、次の日からは呼び鈴を押さずに大谷邸を見上げるだけにした。亜紀は、いたずらに連日呼び鈴を押されたことで不安になったのか、何度もカーテンを開いて外を眺めていた。そのたびに大谷の怒声が響き、肌を叩くような音がして、二階の照明が落ちる。完全に邸宅が静かになるのは十二時を回った頃だ。
 この時点で、喜多は確信していた。亜紀は大谷に強制的に秘密倶楽部に連れて行かれ、そこで想像するのも嫌になるほどひどい仕打ちを受けているのだ。サディストが集まる倶楽部かなにかは知らないが、非道なことだけは確かだった。
 喜多はとにかく日常の浪費を切り詰め、女たちとの食事も全て断って金を作った。



 九月末。初めて亜紀の真っ赤な装いを見てから三週間が経過した。ここ一週間はいたずらに怯えることもなくなったのか、亜紀が窓から顔を覗かせることもなく、それがまた喜多の心をやきもきさせた。そんなものだから、再び邸宅の前に黒いハイヤーが止まったとき、まるで夢から覚めたように喜多の視界はクリアになった。
 邸宅から現れた亜紀は、やはり真っ赤なドレスに毛皮のガウン、網タイツにピンヒールといった装いであった。しかしなぜか足取りはおぼつかなく、大谷は引きずるようにして彼女を車内に押し込む。無事に発進したのを確認し、木陰から飛び出した喜多は呼びつけておいたタクシーの運転手に言った。

「前の車を追ってくれ」

 夜の街。鮮やかな街灯が両脇に流れていく。今日までの日々、仕事の合間にも、少しの時間を見つけてひたすら考え続けた。だが、頭の悪い彼に名案など浮かぶはずもなく、ただ亜紀を助けたいという思いだけが日ごと濃度を増すようだった。もう亜紀を取り巻く全員を殺して逃げるしかないと思い、次に二人が秘密倶楽部に向かうときを決行の日と決めた。
 何人殺せば良いのかわからないため、貯めた金で小型のナイフを何本か買って身体の各所に仕込んだ。他にもなにかが必要な気がする。しかし、考えても考えても、迷宮に入り込むばかりで答えが出てこない。街の喧騒を抜け、閑静な住宅街に差し掛かる。そこからさらに進んでいき、この先は工場地帯しかないぞ、と思ったところで眼前の黒いハイヤーが速度を落とした。距離を置いてタクシーを止めてもらい、喜多は金を払う。からっぽの財布。もう必要もないとばかりに側溝に投げ捨て、ハイヤーから降りた二人の後を追った。
 通りから奥まったところにある、背の低い建物。空き物件となった工場らしく、付近一帯に『貸します』の看板がぶら下がっていた。ひと気のないところは、秘密倶楽部の連中にとって好都合なのだろう。もちろん喜多にとっても、近隣住民のことを考えなくて良いのは好都合だ。
 ナイフのカバーを外した。柄をしっかりと握り込む。
 足音に気をつけながら前進していく。工場の中は入り組んでおり、以前使われていたらしい機械が撤去されないまま置かれていた。身を隠すにはもってこいである。

 ――初めが肝心なんだ。中に入って一人目を殺したら、間髪入れずに二人目を殺す。亜紀さんを人質に取られないように、亜紀さんの周囲にいる人間を優先的に殺すんだ。あとは切りかかってこようとする人間から順番に殺せば良いし、逃げる奴は追いかけて殺せば良い。入り口の鍵は、ちゃんと閉めてきた。

 ふと、鼓膜が震えた。空気を切り裂くような感覚が喜多を襲い、それは足を進めるたびに強固になっていく。脳裏では、考えたくもないのに、縛り上げられた亜紀が男どもにされるがままになっている姿が浮かぶ。涙と鼻水とよだれを垂らし、声を発することもできずにただただ首を横に振る亜紀。喜多はたまらなくなって、ほとんど走っている状態で工場内を進んだ。
 バシン、バシン、と。どこかから激しい破裂音が聞こえた。次いで、荒い息づかいも。男どもの声だ。喜多は駆けた。ナイフをもう一本取り出し、両手でそれぞれ握りしめて振った。殺す、殺してやる。彼女を貶める者は、一人残らずおれが殺す――。

「ハアッ……ハアッ……な、なんだ、君は!?」

 工場の最も奥。赤い緞帳が四方に張り巡らされた異質な空間で、喜多の姿をみとめた大谷が野太い声でそう言った。

「……どういうことだ」

 喜多は、これまで高ぶっていたはずの心が、急速に萎んでいくのがわかった。大谷は服を身につけておらず、でっぷりと肥え太った身体を丁寧に縄で縛りつけ、冷たい床の上で四つん這いになっていた。そして、その周辺には、同じような姿の男たちが、犬同然となって群がっているのだった。
 喜多は両手に握ったナイフを取り落としそうになり――慌てて握り直す。犬どもの輪の中心で立っていた亜紀が、喜多のほうを振り向いたのである。喜多は悲鳴を上げた。
 亜紀の目は、両方とも、醜く潰されていた。
 ほとんど発狂寸前とばかりに、喜多は犬になった大谷に向かって駆け出す。ナイフの切っ先に怯えた大谷が「待て! 待ってくれ!」声を張り上げ、ばたばたと床の上を四つ足で駆けていく。近くにいた犬も同じように四方に散った。喜多の目の前では、一回りも二回りも年上の男たちが、そうして股間を縮み上がらせ、肛門を晒しながら慌てふためく光景が広がっている。

「待て、とにかく待て! なにを誤解しているのか知らないが、亜紀の両親と話はつけてあるんだぞ!」

 大谷はなんとか喜多の気を静めようと、逃げ回りながら説得にあたった。周りの男たちもそれに同調する。

「そうだ! 亜紀様は、我々の願いを叶えるために、こうして自ら鞭を振るってくださってるんだ!」
「お前のような下っ端にはわからんだろう!」
「上に立つと嫌でも虚勢を張ってなきゃならんのだ! たまにはこうして、誰かに屈服して、息抜きしないとやってられん!」

 喜多は、ナイフを持ったまま、呆然とした。亜紀はどんな心境でこれを聞いているのだろう。喜多は彼女の姿をのぞき見る。亜紀の着ている真っ赤なミニドレスは、なぜかべっとりと汚れており――彼女の股間からは男の性器を模した張り型が、黒い革のバンドで固定されていた。手に持った武器は――鞭だ。持ち手の部分も、男の性器の形になっている。
 喜多の許容範囲を遙かに超えていた。喜多は亜紀の、潰れた――硫酸で焼かれたように爛れた――目元を見つめ、静かに息を吐いた。赤い緞帳に囲まれた秘密倶楽部。四つん這いに縛った全裸の男たち。武器を持つ二人。

「亜紀様は、我々の女王様として君臨したんだ! わかるだろ? 前の女も、その前の女も女王様としての器じゃなかった。だから自らに罰を、死という罰を与えたのだ。死は、私たちのどんな遊びよりも罪深い、やってはいけないことだ。しかし、亜紀様は、彼女らと同じように首を吊ろうとした。だから、私は目を潰してやったのだ。世の中には、見ないほうが良いもので溢れかえっている。私は亜紀様の命を助けてやったんだよ。な、だから、人を殺すなんて馬鹿な真似は……」

 喜多は亜紀に問いかけた。

「……で、おれはどうすれば良い? おれは頭がわるいから、今の話じゃよくわからなかった」

 目が見えないとなれば、亜紀は喜多の唇を読むことができない。だから喜多は「そうか、わかった」とだけ頷き、目の前の醜い男たちにナイフを突き立てた。汚い悲鳴を聞けば喉を切り裂き、助けを求める手は千切ってやった。逃げ出そうとする足は全て骨を折り、ゆっくりとその心臓にナイフを沈めていく。真っ赤な緞帳が、血を吸って黒くなっていった。喜多が人を肉塊に変えていく中で、亜紀はぼうっとそこに立っているだけだった。
 全てが終わったあと、喜多は工場に置かれたままになっていた機械から油を見つけ、亜紀の手を引っ張りながら夜の街を静かに駆け抜けた。喜多の後ろにはナメクジの這った後のように油分がきらめき、街の端に辿り着いてからようやく一息ついて喜多は煙草を吸った。吸わない亜紀に申し訳ないと思ったが、このときばかりは自分の勝手を優先した。一口吸った煙草を、ふっと地面に落とす。瞬間、緩やかな火種は来た道を遡り、あっという間に業火となって街を浸食し始めた。空気の乾燥した、放火に適した絶好の日であった。

 小高い丘の上。街を見下ろす喜多の後ろから、足音が近付いてくる。
 喜多は振り向いた。そこには、喜多の服を肩に羽織った亜紀が立っていた。話しかけようとしたが、駆け寄ってきた亜紀の指が唇に添えられ、喜多は口をつぐんだ。言い訳を聞きたくないのか、それとも、聞かなくてもわかるのか。喜多は視線を再び、燃えさかる炎の中に転じる。
 空は真っ赤に染まっていた。舞い上がる熱風が全身を蹂躙し、焦げ付くような臭いが粘膜を刺す。息をするだけでも苦しく、締め付けるような頭痛が絶えず襲ってくる。
 亜紀は喜多の隣に腰を下ろし、なにやら胸元を探り始めた。現れたのは、かつて喜多が渡した小花柄の手帳である。亜紀は震える手で、なにかを書き留めようとしている。だが、喜多はそれを掴んで、丘の上から投げ捨てた。彼女は狼狽え、立ち上がる。そうして、手帳を探して、火の気配のするほうへ足を進めていく亜紀の後ろ姿を、喜多はただただ見つめた。放っておけば、足を踏み外して炎の中に身を投じることになるだろう。
 喜多は考えた。亜紀は背中を押して欲しいだろうか、それともおれに手を引いて欲しいのだろうか。
 白い首筋。真っ赤なミニドレス。小さな尻が揺れ、骨と皮だけの足に張り付く網タイツはどこまでも亜紀に似合っていなかった。喜多を取り巻く環境や、亜紀を取り巻く全てのものが眼下で燃えている。おれのせいでもなければ亜紀の、誰のせいでもないのだと思い込む。

「……おれは頭がわるいからさ」

 何度も口にした言葉を呟いた。背中を向けたままの亜紀には聞こえないだろうと思ったが、亜紀は自然な仕草で振り向いた。潰れた瞳のその奥、彼女の心と見つめ合った気がする。喜多は考えるのを止め、空気を掴むようにして手を差し出した。



対岸の火事

対岸の火事

対岸の火事を見ている。それはことわざでも比喩でもなく、小高い丘に腰を下ろした喜多は、眼下に広がる民家がもうもうと煙を上げて燃えさかっているのをただ黙って見つめていた。/2018年製作。聾唖の女性と恋をするお話です。ややグロテスクなシーンがあります。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-01-21

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