くいつなぎながら/富田 作
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好きな季節は、と聞かれたことはなかった。いかにもという名前をしているから、そうなんでしょうって決めつけられて。勝手なことを言わないで、って。自分で決めたいんだって、思っていたけれど。
結局、名前に縛られているのか。それとも、ただただ偶然なのか。分からないけれど、でも。目がチカチカするぐらい眩しい日差しの、氷みたいに融けてしまいそうな暑さの中。
きっと、私は。この夏が好きなんだって。初めて思った。
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リン、と鳴る音が耳をくすぐった。うだるような暑さの中、民家の軒下から響いてきたガラスの風鈴が奏でた音。昔は金属製のものが主流だったのだけれど、今では滅多に見かけなくなってしまった。
目を向けると、縁側で鳴る風鈴の下では三毛猫がくるりと丸くなっている。チリリ、リリン、と絶え間なく風鈴が音を奏でて。きっとその木陰の座布団の上には、そよそよと穏やかな風が吹き込んでいるのだろうと思えた。お昼寝にはぴったりか、と思わず唇が緩んでしまうのは、その光景があまりにも平和そのものであったからだ。
世間は八月を迎え、夏休みの真っ只中にある。プール用具を担いで自転車で駆け抜けていく小学生や、部活帰りなのか、水筒からお茶をあおって息をつく中学生の顔は喜色に満ちていた。けれども対照的に、制服を着こんで学校へと向かう高校生たちは、重い溜め息をこぼしている。夏休みだからといって自由を与えられるわけではなく、むしろ大量の課題と、何故だか学期中より朝早く夏遅い夏季補講に駆り出されてしまうのだから無理もない話だった。特段、受験生の顔ときたら暗くて、大変なことだ、と同情の念が湧きあがる。他人事のように、と詰られるかもしれないけれど、その実その通りなのだからどうしようもない。
さて、八月の暑さと来たら笑ってしまうほどで、太陽は燦々とした日光を調子よく地に降り注がせていた。前からそんなに元気だっただろうか、と思うといっそ調子に乗っているようにも思えて、はぁ、とため息がこぼれてしまった。光と共に注ぐ熱に、身体を潰すような圧力を感じる。じりじりと、肌の表面や、髪の先から焼かれ、焦げていきそうにも思えて。逃げ込んだ校舎裏に腰掛けると、隣り合った民家の穏やかな光景だとか、鬱蒼と茂る楠の葉のお陰だとかで、ようやく暑さという魔物から逃れられたような気がした。
手入れが行き届いていないだけの葉だけれど、日差しと共に人の目も届かなくしてくれる。ほんのりと暗く、ジィジィと蝉が鳴く空間は、昔に行った林間学校を思い出させた。暑いけれども、どこか心地良い、と。それは、絶えず届く風鈴の音だったり、小学生の楽しそうな声だったり、さわさわと葉が揺れる音のお陰かもしれなかった。
校舎の壁に背を預け、そっと目を閉じると音は深く広がって聞こえる。ざわ、さわり、リン──リリン、早くコッチ、ねぇ、待って、さわさわ……リリン……。余韻の残る音に感じ入っていると、途端に腹に響くような大きさで鐘が騒いだ。顔を上げれば真上にスピーカーがあって、あぁもう、とうんざりとした気持ちで悪態をこぼした。
二回繰り返しの鐘が鳴り終わると、終わったぁ、なんて歓喜の声が校舎から届く。お昼時だから、ようやく昼食にありつける喜びに満ちているのかもしれない。今の高校生はまったく大変なことで、と。まだ高校生になってもいないので、他人事めいて呑気にそう思った。あるいは、この高校がやたらと過保護に補講を行っているのかもしれないと思うのは、隣の高校は夏には閑散としていた印象が強いからで。自主性ってやつだろうか、と首を傾げて、どうでも良いなぁ、とそのままこてりと窓の下で横になった。昼食の良い香りがこちらまで届いて、ぐぅ、と小さく腹が鳴る。
「ご飯かぁ……」
呟くものの、うぅん、と悩むように声を上げて寝返りをうった。一度横になると、夏の風も悪いものではなく、起き上がる気力が奪われていく。さっき喜んでいた生徒たちとは違って、あまり気分が高揚していないせいだろう。だって、どうにも、普通の食事と言うのはあまり楽しいものではなかった。
咀嚼して、嚥下して、器を空にして。そんな達成感だけ味わって、きっと腹は満ちなくて。何より、誰かと一緒に食べないことには食事と言うのは馬鹿らしくなるほど虚しく、意味がないものだと思えるから。今、共に食事をしてくれる友人は居ないし、そも、こんなところで寝ている奴を見つけてくれる人も居なくて。
んにゃぁ、と呑気な猫の声が聞こえた。彼女から秋刀魚を奪ったのは去年だったか、一昨年だったか。結局美味しく食べられなかったのだから、悪いことをしてしまったと思う。もう食べたじゃない、と飼い主のお婆さんにたしなめられる様など可哀想で見ていられないほどだった。ああ、ごめん。一緒にご飯を食べたかっただけなんだ、と。そんな軽い謝罪では許してはもらえないだろうし、猫語を話せないせいで通じもしないだろうし。つまらないなぁ、と指先を揺らして遊んでみようとしても、彼女は飼い主の猫じゃらしにしか食いついてくれないようだった。
のんびりと考えている間にまた腹が減って、あぁ、と浅く息を吐いた。このまま寝転んでいると、その内午後を告げる予鈴が鳴り響くだろう。うるさいだろうから、それまでにはここから逃げておきたいような気もする。それに、また食いっぱぐれてはそろそろ空腹で死んでしまいそうだ、とありもしない心配をして。暇つぶしにもなるだろうか、と勢いをつけてようやく腰を浮かせた。
勉強ばかりに追われているつまらないこと尽くしのこの高校で、今一番、生徒たちの噂話が盛んなのは屋上についてだ。普段は開放されていないから入れるはずもないその場所について、誰が最初に言いだしたのだか。みんな恐れて、楽しんで、尾ひれをつけて遊んでいるのは──「繰り返し飛び降りる女子高生」というよくある七不思議の内の一つの話だった。今や、それを見ると呪い殺される、とか逆に受験に落ちなくなる、とか。勝手なことを言われているから、本当はどうなのか、と少しだけ気になった。だから何となく、足をそちらの方に向けて。
渡り廊下から校舎内に入り、スニーカーの底を鳴らして廊下を進んだ。購買の傍の廊下は学生で溢れているけれど、その隙間を上手くすり抜けていく。半袖の白いシャツから覗く腕は若者らしく焼けていて健康的で、羨ましい、と鍛えようにも細いままの腕をゆるりと学ランの上から撫でさすった。
一歩、一歩と足を進めれば、リン、と鈴の音が近くなる。さっきの耳に心地よい風鈴とも、昔の鉄の風鈴とも違う、小さな、安っぽい、根付についているような小さな鈴が鳴らす音。
四階分の階段を上りきり踊り場に立つと、正面には鎖と南京錠で閉じられた扉があった。階段の際に立ち、ふぅ、と空腹を紛らわすように息を吐いて。目を瞑り、パッと開いた瞬間、前方から強い風が吹きつけた。ぶわり、と髪を浮かせた風は開いた扉の向こうから。──音を立てることもなくその口を開いた屋上には、夏の日差しが煌々と照り付けて、陽炎が揺れていた。目を刺すような眩しさが、コンクリートの屋上に照り返して。蝉の音も遠いこの空の真下、一面変わらぬ青空の中に、ぽつん、と一つ黒い点。
夏に似合わぬセーラー服を着こんだ少女は、ゆっくりとこちらを振り返り、ぱちり、と目を瞬いてから、ゆぅるりと笑った。それが、嫌な思い出とあまりに似ているものだから、苦いものを噛んだように顔を歪めて。手を伸ばす暇もなくぐらりと傾いていった身体がどしゃりと地面に落ちたことを聞き、瞬くと同時にまた、ぽつりと点が現れて。
あぁ、本当に繰り返しているのか、と。噂も馬鹿にしたものではないらしいと感嘆の息を漏らし、また、短く瞬いた。一瞬の間に消えた点が現れて、また空の向こうに消えて、現れて。どしゃんと痛そうな音と、耳を劈くような悲鳴と。リン、と紛れて鳴る鈴の音と。振り返って笑う、その笑みの穏やかなことと。なんで、みんな、救われたように笑うのだろう。と、そんな疑問はまた彼女に聞けばいい、と今は胸にしまい込む。
踊り場の暗がりからタッと踏み出せば、太陽の熱が途端に重くのしかかってくるけれど。駆けだした勢いのまま、消える前の腕を捕まえて、ふわりと唇をつり上げた。彼女はまだここに居るのに、どしゃり、と耳に痛い音が遠く地面から響いて届く。死んで、死んで、死に続けて。それでも離れがたいのは、下らぬ未練のせいなのか、この世に杭を繋いだからか。冷たい掌同士が触れ合って、夏の暑さがぽかりとここにだけ空白を生んでいた。
「……ねぇ」
あぁ、もう、早く。全部忘れてしまえたら楽なのに、とは。下らぬ八つ当たりなのかもしれなかったけれど。すぅ、と一つ息を吸って、僅かに心を落ち着かせ、呆けた顔の少女ににこりと笑いかけた。胸元の臙脂のスカーフが、屋上に吹く強風にたなびいて。せっかく綺麗に結ばれたそれに、勿体ない、と脳裏の端でちらりと思って。ねぇ、ともう一度繰り返してから。生命力がないとか、覇気がないとか、散々な言われっぷりの暗い声を、少しだけ上擦らせて。
「ご飯、一緒に食べない?」
問いかけると、きょとりと丸くなった目に、はは、と喉の奥から乾いた笑みがこぼれた。薄い茶色のその瞳が、こぼれ落ちそうなほど大きく開かれて。ちょっとだけ訝しむような色が混ざるのに、いいでしょ、と追い立てるように付け加えれば、動揺と、喜色とが良い塩梅に混ざり合う。困らせている、とは思うけれど、それでもどうにもこうやって、この言葉一つでこれからも。食い繋がねばならぬから、ちょっと必死になるぐらいは許してくれないか、と。誰にともなく言い訳をして、自分で自分を許したフリをする、と、そんな。
淋しがり屋が繰り返す、下らぬ夏の一幕に、リン、と涼やかな風鈴が一抹の趣を添えていた。
四季があるからこの国は美しい、だとか。そんなことを言う人たちは皆、朝陽が昇る恐ろしさも、明日が来る絶望もちっとも知らずに生きているのだろう。ベッドに入る時間を遅らせる無意味な抵抗も、そんなことせずとも寝つけやしない心臓のうるささも、アラーム音に込み上げる吐き気も。どれをもきっと、馬鹿らしいと言って笑うのだ。
春には、新生活だ新学期だ、とまた新たな地獄が出来上がる。友人の輪なんていう不可視の壁にいつだって拒まれて、挟まれて、逃げ出して。制服に腕を通す指先が震えて、スカーフを結ぶのにやたらと時間がかかる朝なんて思い出すだけで泣き出してしまいそうになって。
夏の夜は、孤独が怖くなる。まだ一年生だからと自由参加の夏季補講は遠ざけて、課題と共に家にこもれば、その時間のなんて快適なこと、と思うのに。誰とも話さず一日が終わっていく恐ろしさと、この夏季休暇がもうすぐ終わってしまうというカウントダウンが、ぎりりと胸を締め付ける。
秋にもなれば、また独りに慣れきって。銀杏の降る並木を踏みしめながら歩いていれば、カラスでさえ連れ立って寝床に帰っていく姿に、あは、と今日初めての笑いを溢す。家に帰る気にもなれず、早くなった夕暮れを待っていれば、遠くからの鈴虫の声がやたらと呑気に聞こえるのだ。
冬になって、今年度という地獄の終わりが近づいて。眠れず迎えた早朝の朝陽と、新聞配達の自転車が遠ざかっていく音に息苦しさを覚える。道に積もった雪は灰のように薄らとしていて、到底休校になるような大雪とは呼べなかった。
──あぁ。今日も、また震える手でスカーフを結んで。学校に行かないと。そうして独り教室の隅で、ただ勉強に励めばいい。それでいいんだ、だって高校生だから。勉学が本分だって、教師だってそう言っているから。私は何も悪くない。私は、何もこわくない。私は。
「……、……はは」
本当は、ちゃんと、普通の高校生みたいに。なんて。自分で勇気を出せもしないのに、自分から話しかけようともしないのに。私に話しかけてくれない周りが悪いんだって、私を無視する皆が悪いんだって。知らないことばかり言われても困るって、ちっとも知ろうともしなかった私となんて、喋ったって面白くないって知っているのに。
もうすぐ、地獄が終わって、新しい一年が始まって。春が来て、夏が来て、秋が来て、また、すぐ冬が来て。それらの全部、きっと、私は嫌いになるんだろうって。思うと、悲しくて、かなしくて。あぁ、せめて──。
「起きてるの、南月、早く準備しなさい」
「……はぁい。おはよう、お母さん」
ひとつぐらい、好きになれたら良かったのにな。
くいつなぎながら/富田 作