イタイノイタイノ
イタイノイタイノ
「にいに、おうちまだ?」
妹はぼくの手を握りながら、つぶやいた。幼稚園の年長さんの妹は、ぼくより四つも年下だ。身長差があって、ぼくの手を握るとちょっと手が疲れると言う。
「もうちょっとだからな、ぼくの手を放しちゃいけないよ」
もうちょっとだから、と何回言っただろう。妹はここがどこだか知らない。きっと、知らない方がいい。僕にだって、ここがどこだかなんてわからない。ぼくは、わからなくちゃいけない。
ぼくらの正面には、燃えるような夕焼けが広がる。カラスが鳴く。風が涼しくなる。それなのに、妹の手を握るぼくの手のひらはじっとりと汗をかいていた。
「ママは、おうち?」
「そう、ママは家にいるから、急いで帰ろうね」
きっとこっちに行けばぼくらの家がある、と思って進んでいても、本当は自信なんてない。こっちの方から来た覚えがあるだけだ。
ぼくの中には、「来なきゃよかった」とか「やってしまった」という気持ちが沸き上がる。コウカイというやつだ。コウカイ、こうかい、後かい。頭の中にたくさんのコウカイが浮かびあがっていく。
そもそも、ぼくらがこうして迷っているのは、妹がいけない。妹が「ばあばに会いたい」なんて言うから、ぼくが連れ出した。ぼくはばあばの家の周りの景色を知っていたし、パパの車で何回も行ったことがあるから道がわかるつもりだった。
妹が「ばあばに会いたい」って言わなければよかったのだ。こんな小さな妹だから、きっと「ばあばに会いに行く」ということがどんなことか、わからなかったのかもしれないけれど。
じわり、じわりと太陽が山に隠れていく。じっと見ていると、目の奥がツンと痛い気がする。それに、太陽をじっと見た後に違うところを見ると、なんだか色がおかしくてよく見えない。
「にいに、おひさまが真っ赤だよ」
「おひさまは夕方になると真っ赤になるんだよ。綺麗だけど、あんまり見ちゃいけないよ?」
「どうして?」
「おめめが痛くなる」
「あたし、痛くならないもん」
「わがままは言っちゃダメ」
ぼくは妹の前で手をかざして、影を作る。歩く揺れで影がずれてしまうし、繋いでいる方とは反対の手だから、ちょっとしたコツが要りそうだ。前だって見て歩かなきゃいけない。
「にいに、おてて、いや。おひさまが見えない」
「見えなくていいの」
「ママに言いつけるもん。おうち、まだ?」
そんなの、ぼくが知りたいよ、と言いかけてやめた。妹の前でぼくがそんなことを言ったら、あんまりにもかわいそうだ。
すれ違う車は明かりをつけていたし、自転車もそうだった。散歩している犬はカラフルに光るキラキラな首輪をつけていたし、田んぼの真ん中にポツンと見えるショッピングモールの看板にも明かりが灯っている。
夜がぼくらに追い付いて来ていた。
田んぼに囲まれたショッピングモールなら、パパの車で来たことだってあるし、ママと妹とバスで来たことだってある。それが、ぼくらの家から近いのか遠いのかなんてことは、ぼくにはわからなかったけれど、見知ったものを見つけて少しだけホッとした。
「ちかれた」
「え?」
「あたし、ちかれた。歩きたくない」
そう言うと、妹はその場にしゃがみこんでしまった。おうちに帰ろう、と促すけれど、いやいやをする。ちょっと強引に手を引いてみたら、痛いと言って泣き出してしまった。
「痛いよう。ママ。おうちに帰りたい。歩きたくない。ママに帰りたい」
「ママに帰るんじゃないよ。それじゃあ赤ちゃんだ。ママのところへ帰るんだよ」
「帰りたい。ママ。ママ」
妹は泣いて、地面の砂を握って、それをぼくに向けて飛ばしてくる。大声で叫んで、涙を流して、ママ、と言い続ける。
「ぼくだって、早く帰りたいよ」
ぼくは妹に怒ってしまった。怒っているのに、涙が出て来て、心臓がバクバクしている。ぼくが怒ったから、妹はもっと大きな声で泣き叫んだ。
ぼくだって、もっと泣きたいんだ。泣いて、泣いて、パパやママに泣きつきたいんだ。「にいにのばか」
妹は泣きながら、走って行ってしまった。
「待って」
ぼくが手を伸ばしても、届かなかった。ばたばたばたと、妹は離れていく。
走り始めてすぐ、妹は転んだ。ひときわ大きな鳴き声になる。
「痛い。痛いよう、にいに、にいに」
ぼくは妹に駆け寄って、膝の砂を払った。血がたくさん出ているけれど、これくらいの怪我ならぼくだってしたことがある。これは痛いし、お風呂だってしみるけれど、すぐに治るやつだ。
「怒ってごめんよ。ほらほら、大丈夫。痛くない、痛くない」
「痛い、痛い、痛いよう、にいに、にいに」
ぼくはシャツの裾で妹の血を拭いた。拭いてもすぐにじんわりと滲んでくる。見るからに痛そうだった。
「よし、痛いやつはどっかに飛ばそう」
「痛いのどっかに飛ばしてよう、痛いよう、にいに」
「いくよ、イタイノイタイノ、飛んでいけ」
ぼくは妹の膝にかざした手を、夜空に向けて大きく振った。
その「イタイノイタイノ」が飛んで行った方向。ちょうど、さっきの夕焼けとは反対の山はすでに真っ黒に沈んでいた。
けれど。
「ほら、見てごらん、お月さまが見えるよ」
ぼくが飛ばした「イタイノイタイノ」は綺麗な満月になっていた。それを見て、妹はピタと泣き止んだ。
それを見て、ぼくは思い出した。パパの車でばあばの家から帰る時、ちょうど目の前に大きな満月が浮かんでいた。あの日、月を見たのは、ショッピングモールの前を通ったくらいだったはず。その時、パパが教えてくれたことがあった。
「お月さんが帰り道を教えてくれるんだよ」
「にいには、お月さんとお話できるの?」
「そうだよ。お月さんは、イタイノイタイノを無くしてくれるし、おうちへの道を教えてくれるんだ」
「お月さんは見てもいいの?」
「いいんだよ、よく見てごらん。何が見える?」
「お月さんが見える」
ぼくは妹をおんぶした。年長さんになったから、ちょっと重たくなっていた。けれど、怪我している妹を助けてあげるのは、ぼくなんだ。だって、ぼくはお兄ちゃんだから。
「お月さんの中を見るんだよ。ウサギさんが餅つきしているんだ」
「わかんない」
そうか、わからないかあって笑いながら、満月に向かって歩いた。ぼくが疲れても、妹が寝ちゃっても、ぼくは止まらなかった。
ようやく家の明かりが見えてきて、パパとママの叫ぶ声が聞こえていた。
◇
「ぼくね、お兄ちゃんだから、ちゃんと傷を拭いてあげて、イタイノイタイノ飛んでいけってしてあげたんだよ」
ママは「心配したんだから」と、もう一度ぼくら二人を抱きしめた。パパは「お兄ちゃんとしてよく頑張ったな」って褒めてくれた。
「にいに、たくさん泣いてた」
それはパパとママには内緒にしてほしかったなあ。
イタイノイタイノ