つづく道行きの途中に

そうげん

全文

〈秋の日はつるべ落とし〉のことわざどおり、十一月初旬の夕空はたちまち夜の暗色へと染まって行く。秋の冷たい風に身体がふるえる。
 勤務中、津川に懸けられたちょっかいが思い出された。ちょっかいというより言いがかりというべきか。ことのあらましはこうだ。もともと不備があったか、津川自身がやったことなのか、わたし自身がまったく関与していない事柄について、わたしの責任をあげつらわれたのである。降りかかる火の粉はすぐさま払うべきだったが、わたしは躊躇した。自分に責任のないことを主張するのが恥ずかしくなったせいだ。自分はちがうと主張することがミスを隠蔽しようとしているように見えるのではないかとの危惧が脳裏をかすめたせいだった。わたしは津川の怒りをそのまま受けとめ、そこから十分以上彼の小言を聞き続けた。彼が怒り疲れるのをじっと待ちながら。
 小言の最中、まだ入社して一年も満たない伊崎が通りがかった。津川は自分が怒っている理由を彼に説明した。身に覚えのないミスをきっかけに、二人から猜疑の目を向けられる立場に追い込まれる。なるようになれ。いまさらちがうと言ったところで何もはじまらない。もともと当事者ではないのだから二人のやり取りは傍観者の立場で聞いてやれ。
 津川は言った。使えない奴がいつまでこの会社に居座るんだ。俺らは遊びに来てるわけじゃないからな。一度のミスがどれくらい仕事を滞らせると思ってるんだ。若くもない。手も遅い。のんびりやってるやつと組まされた日には罰ゲームとしか思えないね。
 伊崎はなぐさめる。河野さんだって困らせようと思ってやってるわけではないですし。人には向き不向きもあるし、コンディションもありますから。腹を立てるより寛容の精神をもってゆったり構えましょうよ。
 二人のやり取りを聞きながら、自分のことを話されている意識からは遠いところに気持ちを置いていた。伊崎からすればたしかに自分は先輩だけれど、四十代という年齢からみても中途入社で五年目は短い。ほかの二十代・三十代に比べて経験が浅いこともあって社内でのこちらの評価は低かった。年齢と立場がつり合わず、周りもわたしの存在を持て余すようである。問題が起きれば自然とこちらに矛先が向く。ふだんからそういった役回りだった。
 わたしの人生には、以前から同様の気はあった。幼少期からそうだったといえる。集団でよくないことをしたとき、決まって怒られるのが自分の役回りだった。口うるさい相手に抗弁することもなく、弱りきった表情で話に耐えるような態度をとるからだろうか。くみしやすい相手をターゲットに選びたがるのは万人共通だ。ようは腹を立てているんだということを周囲に示せればいい。そんな相手にとって、わたしのような人間は格好の的だった。
 津川も伊崎もこの会社の誰もわたしのことを知ろうとはしない。誰だってそうだろう。表に見えるもの以外見せようとするもの以外見ようとしないし、さらに深く見つめようとすることもない。自分の核を切り開き、それを示し、さて誰に理解できるかなんて期待もしないし、それが可能であると信じるような若い時代はとっくに過去のものだ。
 津川とのやり取りが終わった伊崎君はわたしに向き直っていった。「話は分かりました。河野さんだってわざとじゃないんですし、津川さんの言葉は水に流してやってください。河野さんは同じミスを繰り返す人じゃないってわかってますから」その言葉は彼なりの気遣いなんだろう。それはわかる。しかし実際自分がやったことではないし、気遣う前に確かめるべきことがあるだろう。いや。不満は飲みこんでおくべきか。波風を立てるくらいなら、こちらの不快なんて安いものだ。
 そんな態度で過ごす会社での半日が心地いいわけがない。とはいえ、何もせず家で燻るよりは断然好ましい。物事には好い面もあれば悪い面もある。悪いところばかり見ようとさえしなければ、少々の困難であればそれなりに堪え、わたって行ける。その余裕は四十歳を超してもまだのうのうとこの世で生きていながら得ることのできたほぼ唯一のものだ。ようやく生き方が定まってきた、いや、年を重ねるうち、年々の過ごし方が自身にだんだんに理解されてきたのだろう。おそらく自分はこのまま十年・二十年とこれからの人生をつないでいくのだろう。なにかの間違いがない限り、その未来は確定事項のように思える。誰かから懸けられるちょっかいや負担をうまくいなしながら、とくに大きな目標のあるわけではない人生をそれなりに捌いて行く。それは必ずしもこの会社に留まり続けることを意味するものではない。人生の立ち位置そのものが、大体その強度・その角度において定まってきたようなのだ。
 風が湿り気を帯びている。宵闇の中、どこを飛ぶものかカラスの鳴き声が聞こえてきて、びくっとなる。学校で同級生たちが爪で黒板をひっかいたときのことを思いだす。カラスの鳴き声にも黒板の音にも共通するのは乾いている・乾ききっているというイメージだった。忘れていたはずの心の乾きがよみがえる。ひどく迂遠な同族嫌悪か。
 隣の車道をひっきりなりに走る車両の速度が、歩道を行く自分の弱さを際立たせる。なぜこんなに多くの車が走るのか。猫も杓子も豚も狐も誰も彼もが車を乗り回す。家から目的地まで車でショートカットして、そこから先の用を済ませている。歩道を歩く人は少ない。車に対する歩行者のように、強者に対する弱者のように、優勢な者に対する劣勢な者のように、暗い感情が渦を巻く。弱さによって制限される者の中身を覗く機会を失った多くの人には、弱さが胚胎する生きづらさなんてきっとわからないだろう。わかるわけがない。わかる見込みもない。それだけはたしかだ。逃げているのはどちらだろう。弱さを見つめることから逃げているのは弱者の側か強者の側か。決まっている。どちらもだ。どちらもが困難な道から逃れて、誰も彼もが見ないことにしているから、見つめ直されることのない問題は未来へと維持される。問題の根はのうのうと生きながらえる。
 津川はこんな困難があることを知っているだろうか。年齢が下の伊崎はわかってくれるだろうか。知っているだろうかわかってくれるだろうかというのは他者にかける一方的な期待でしかない。軽はずみな期待は裏切られるし、切実な願望だってさらに輪をかけて裏切られる。いまの世の中、期待は割に合わない。何かに望みをつなぐことは無用であるし、望みの欠片を得たがることすら世の中に対する甘えでしかない。生きていく以上、当然に持つべき前途への期待や希望といったものを自分で握りつぶし、あるいは押し込めることで、叶わなかったときの落胆や気落ちの機会を減少させ、細々と生きることを選択するのが標準的といえる社会。自然とはいえないけれど、不自然とまではいいきれなくて、結局のところ、それが平成から令和へと続く、けして好況とはいえない社会情勢のなかで比較的自身を揺さぶられない生き方として通用する順当な世間の処し方だった。明日への不安に怯えることは無駄であるし、もとより不穏な気配は濃厚なのだから、なんとか食べるもの・生活する空間・生きる気力の続くあいだは稼げるときは稼ぐ・打ち込むときは打ち込む・楽しむときは楽しむ・危なければ逃げる、それでのらりくらりと問題を避けながら一日また一日と自分の寿命を延ばしにかかる。
 慈しみの心の萌すときはあるか。困ってる人がいたら助けようと素直に思える心はまだ内面に残っているか。相手を思うより先に困難を避け、自分を守る方へと気持ちが向かってやしないか。
 さいきん余裕がなくなっているようだ。自分自身に。こいつは使えないと対面でバカにされようが、たとえ年下の有用な社員に陰口を叩かれようが、それはそれとして受け取るだけの余裕はある。耐えられないのは精彩を欠いた灰色の日常がこれまで通り、これからもその先もそのまた先の先の命の尽きる直前まで付きまとうだろう見通しの悪さに対して覚える不快である。諦めることを受け入れた社会は他者の諦めない心を踏みにじり、これを亡きものとして葬り去る。厚い雲に覆われて陽の光もほとんど遮られた昼のにぶい見通しのなかで近くに遠くに一面灰色のフィルターに懸けられた風景は、それに直面せざるを得ない魂のことごとくから熱度を奪い去る。何処をみても灰色の風景が広がり、灰色の風が吹き、ときに灰色の雨にさらされ、灰色の残光にかろうじて照らされている。薄弱たる光は人や物の正体(せいたい)をあきらかにしてくれるものか。ひょっとするとまやかししか見せないのではないか。まやかしをまやかしと見破れないのは、すでに心の奥深くまで鈍い灰色に塗りこめられて正しい判断から遠ざかっているからではないか。世界がまだ彩り豊かな色味に埋め尽くされていたころ、心は機敏に動き回り、僅かの刺激にも繊細な反応を返し、明日の楽しみを期待して眠りにつく喜びがあった。年齢の重なりが内面に鈍さを孕んだために感覚が鈍磨したのか。本当にそれだけか。これまでにあったものを維持して引き延ばす方向に舵を切っている。所与のものが失われることに恐怖するかのようだ。死に体になってなお形あるものを求め、生き永らえさせようと躍起になる、人も物も国も社会も心でさえも。割に合わない出費に家計が火の車になろうとも、もともと自身の財布が痛むものでなし、勢いのあったころと同じように考えなしにばかすか資金を投入する。無くなることを恐れると同時に新しいことを始めようとする存在にも怯えている。いままでのように、が求められる。上昇したくない。下降もしたくない。ただいまあるようにこれからも居残りたいと願う。現状維持に望みをつなぐ精神は肉体の老化を計算に入れたか。人は新たな命をつないで更新される。更新されることのない社会は、やはり刻々と老化の道を歩んでいるのだろうと思う。老化が進み、動脈硬化や心臓発作によって息の根が止まる未来。そこまでたどり着かなければ究極的に社会はなにも変わらないのだろうか。死に絶えた社会の遺骸こそが、新たな生命が芽吹く端緒になるのか。津川だって伊崎だってもちろん自分だってその頃には命は尽きているかもしれない。死に体の社会の延命治療に供される投入薬物のようなものでしかないわたしたちの存在。なんのために生きているのか。目的が失われ、希望は潰え、明日も明後日もその先も昨日や今日とそう変わらない灰色の風景の中で絶え絶えの息を吐きながらあくせく生き抜いて行く。
 明日目が覚めたらなにか変わるだろうか。思ってもないことを考えつく。津川がいなければ少しは世界もましになるか。伊崎ともっと話せば、彼の考えていることがわたしにも理解されるだろうか。この前の月曜日、首都圏の私鉄の通勤電車のなかで刃物を振り回した四十男が逮捕された。三人を殺害し、十数人を重軽傷に追いやった。日本では何年も前から誰でも構わない誰でもよかったという目標を定めることのないままに人に危害を加えることを目的にした殺傷事件が頻発している。さいきんは事件が発生してもまたかという意識しか浮かばなくなってしまって、おそらくそれは心の麻痺だけれど、実際そういった種類の事件の発生を知るたびにやっぱりなという気持ちになる。自分たちの周りにも、類似の事件を起こしかねない人間が溢れていることが当然のように意識されるのだ。もしかすると知らないのは自分だけで、わたしだって誰かには、いつか無差別殺人を起こすかもしれない要注意人物と目されているかもしれないのだ。元来人に対して腹を割って話すたちではなかった。何を考えているのかよくわからないヤツというレッテルを貼られることも多い人生だった。自分でも自分が本当のところは何を考えたくて何をしたくて何を思うことを理想としているのかすら把握できていないことに無念の気持ちを抱いているほどだった。行動の理由を言語化することにためらいがあった。言葉にした瞬間に内面のすべてが崩れて行きそうで、だからこそ言語化することの危険性を意識せざるを得なかった。言語化とは正体不明なものを当たりの好いもので包んで覆い隠す、苦い薬に纏いつかせる糖衣のようなものと思っている。任意の行為の説明を求められるとき、きまってわたしは躊躇した。どうしてこんなことをした。むしろ黙り込んだ。つきつめて考えるほどに唯一の正解は黙すことしかないように思えた。この口から洩れる言葉はかならず語るべき対象から逸れて行く。何をどう語ったところで何も話さない時よりも状況は悪くなる一方なのだ。
 交差点で赤信号につかまる。車のヘッドライトのまぶしさに目を細める。右側から走行してくる車はあきらかに速度超過だった。通り過ぎる時の風圧が強かった。何かの間違いでドライバーがハンドルを不意に切り替えたら自分は逃れる隙もないまま一瞬で病院のベットに直行か具合が悪ければこの世からおさらばすることだろう。誰がどんな腹積もりで生きているのか当人以外の誰にもわからない。わたしすらわたしのことをよくわかってないのだから、もしかしたら自分の生きる理由をわかってる人なんていないのかもしれない。理由なんて無理から拵えればどんなにでも当てはめられる。とはいえ、それは当座のことであって、建前のことであって、いくつかある候補からの限定的な選択の結果でしかないだろう。生あるうちにできることを厳選してその目標に向かって邁進するという、単純だけれども強い、愚直だけれども眩しい、そんな純粋な核を備えた生き方からはほど遠かった。そのような核を身内に保持している人が、いったい自分の周囲のどこに居るだろう。世のため、人のため。お題目のように子供のころから耳にしてきた言葉。かつての事業の創業者にはこの志を持った人も多かったと聞く。全体は死に体でも部分的には勢い盛んな部隊があるのかもしれない。自分がそれに触れられない立場にいまあるだけで。低俗なところを徘徊することが常態化した魂には自分に似た魂しか周囲に見えなくなるのだろう。掃き溜めに鶴がいればその鶴を殺してしまうか掃き溜めにふさわしい落魄を願ってあれやこれやの妨害工作を働くものか。低俗の低俗たる所以。劣悪な環境は劣悪さの拡大を助長する。浸食の範囲を年々広げて行くことを是とする。きっとそれは社会の停滞を生む元と共通だ。信号を待ちながらずっとひとつの考えに陥る自分も相当に毒されている。これでよく頭がふらふらとしないものだ。感心する。
 明日も今日と同じ日が継続する。信号が青にかわる。左右を確認して一歩を踏み出した。信号を渡り切る前に背後で急ブレーキの音がした。不穏なものを感じて咄嗟に振り返る。急ブレーキをかけた車は速くもなければ遅くもない速度でわたしがいま渡ったばかりの横断歩道を抜けて走り去っていった。次の車もいったん止まるかに見えたが大きく道を逸れながら先に進んだ。歩道になにかが転がっている。土嚢袋よりは小さい、――小動物の姿のようだった。歩道は、じきに赤にかわるだろう。わたしはいったん渡り切った歩道の対岸で、中ほどに転がっている物体に目を凝らした。次の車がやってきたときヘッドライトがその正体をあきらかにした。黒猫。品種まではわからない。黒猫の身体が半分おしつぶされて、血液のしみが歩道の白いラインを赤黒く染めつつあった。わたしは躊躇していた。あえて遺骸をのけてやるために歩道に戻る? わずかの逡巡のうちに左右のラインが青信号に切り替わる。それはもう容赦がなかった。歩道上の障害物に構うことはない。それこそほかのゴミと同じような扱いだ。自身の目的地に向かっておのおのの車は走り去っていく。ある車は気がついて可能な限りよけようと試みる。ある車は気づくのが遅れてかつて黒猫だったものの上を乗り越えて行く。そのたびに毛むくじゃらの遺骸はその高さを減じていく。わたしは無念の中に思い出していた。子供のころ、親がしていた近所のうわさ話のこと。どこそこのおばあさんがきょうの昼、前の道で轢かれた犬か猫かわからないのを回収して埋めてやってたと。その口ぶりは善行を感心するものでもなければ、純粋な報告の態でもなく、よくそんなことができるものだという忌避感情の籠った、あるいは禁忌に触れるような事柄を話すようなひそひそしたものだった。子供ながらにそのような口ぶりで話し合う親の心根に好ましくないものを感じていたものだった。すでにおばあさんは亡くなっている。あのころ生きていた戦争を知る世代は寿命に追いつかれ、近所でも数人が残っているだけだった。あるいは老人ホームに入り、あるいは寝たきりになって。生きる者の背中をめがけ、死はいつも追いかけ、迫りくる。いま轢かれたばかりの小動物に対してなにもできない自分は何だ。できることがどんどんなくなって、できないことばかりが無駄に増えていった結果、なりふり構わず誰かのために何かのためにこの身をすり減らすことができなくなってしまった自分。それは社会のせいか。自分だけが悪いのか。けれど当然のように自分は背を向ける。所詮自分はこういう人間なんだ。だからこそいまこういった立場にいて、一日一日を同じトーンで過ごすことになっている。この生き方に劇的な変化が訪れる見込みはない。周りで何かが起こってもそれに左右されない自分を確保してしまった。踏み外さないことを心がけるといいながら、その実あえて踏み外すという選択肢が選べなくなっているだけのこと。慎重策とか安全策とかいうことではない。勇猛心とか果敢さとか前向きな気持ち・衝動がどんどん損なわれていくことを意識させられる。底をつくほどになった。こんな自分があえて歩道を進んで、骸となったものを掬い上げてどこかに埋めてやるなんてそんな殊勝なこと、できるわけもない。
 後味の悪さを覚えながら、あとわずかとなった家までの道を歩いていく。背後に気配を感じる。引け目・負い目を感じさせるのは、あの黒い毛並みだった。どうしてよりによっていま轢かれるのだと思ってしまう。きっとこの気持ちは引き摺るだろう。
 ご近所からカレーの匂いが流れてくる。スパイスの刺激的な香りだ。お腹が空いていたことを思い出す。他者の死を前にしても空腹はちゃんと思い出す。現金なものだ。他者の不幸を憐れむでもなく悼むでもなく、早く家に帰りついてわずらわしさから開放されてしまいたいと願っている自分の姿。その浅ましさ。カレーを囲む食卓はきょういまこのときに一つの命の失われたことにまったく気づくことなく、ふだんと変わらない団欒のひとときを持つのだろう。夫がいて妻がいて子供は二人ないし三人いて世間的にみれば幸せな家庭を築いているのかもしれない。もちろんそこには外には見せない不幸の影が落ちていることも考えられる。しかしいま自分が身内に感じるような不安感や不全感とはちがった種類の翳りであるにちがいない。人はいまあるようにしかなれなかった。嘆いても仕方ない。決まった通りの道順を辿っていまある地点はいずれ通るべき道であったに違いなく、そしてあたかも何者かに導かれるようにしてその先の道のりも操り人形のようにふらふらと進み行くようにできているのだろう。人はそれを運命と呼ぶ。自分では選択しているつもりなのだ。しかし十年後の進みゆきを、二十年後にいる地点から眺めればやはり決まったルートを辿らされてきたのだと言った感慨を覚えるのにちがいない。明日の日をどう作っていくかなんていう無用のあがきを試す歳ではなくなった。四十歳をすぎれば多かれ少なかれそういった境地に落ちつくのが自然だ。それをいつまでも若いつもりで新しいものに飛びつこう、目新しい物こそ素晴らしいと願望することに、なんの望みがあるのか。もうすぐ家につく。なんの感慨も浮かぶことのない寝るためだけの住まい。
 寝床に落ちつくまでに自分は何度、きょうあったことを反芻するだろう。狭い世間をさらに狭くする料簡で自分の中には辛うじて津川と伊崎という他者だけが存在している。自分にとっては究極的には毒にも薬にもならない存在。ときどきちくりと胸を刺すような痛みをもたらす両者は自分にとっていったい何者だろうか。家に帰れば津川だって子供の親だろうし、その子供はすでに成人になっているかも知れず、その子供にはクソ親父うざいと思われているかもしれない。妻に頭が上がらないから仕事場で高圧的な態度をとって内心の平衡を取っているだけかもしれない。案外自宅では料理や洗濯といった家事を率先して行う家庭的な父親という線も考えられる。伊崎はどうだろう。付き合ってる相手はいるのだろうか。そもそも誰かと付き合ったことはあるのか。彼もいつか子供の親になることがあるのか。順当に行けばきっとあるんだろう。普通に生きていれば大抵子供の親になるのは当たり前と言える。ならば結婚もしなかった、子供もいない、そんな自分のこの社会での役回りはなんなのか。息をして飯を食べてわずかな気晴らしに趣味の時間をもって寝るだけ。仕事をするのは無聊をかこつための方便でしかない。自分の果たすべき最低限の役割を担うためだけにいまの仕事に自分の時間をあてることに決めているだけのこと。義務感に気負いを覚えることもなければ、誰が好き好んであんな職場で働くものか。しかしこの社会の一隅に住まわせてもらう以上、ほんの少しくらいの貢献はしておかなければ座りが悪い。報酬としての給金を目的に働くというよりは、社会に対して何も益することのない存在としてのうのうと生きることに耐えられないからこそだった。ただそのためだけに自身の貴重な時間を浪費する。
 全体の利益にも供しない。欝憤だけをためて引きこもる。無為の存在として命をつなぐことだけを目的に生きる人。あの通勤電車の刃物男のことを思い出す。どう控えめに見積もっても、今後この社会に類似の犯罪の発生を押しとどめる力はないように感じる。他者のために生きる気持ちをはなから失った人たちに、余所から外圧という形で権力を介入させれば、自身の中に溜め込んだ不如意による欝憤は一気に弾け飛ぶだろう。社会のあらゆる場所に時限爆弾が仕掛けられているみたいなものだ。知らずに触れてしまって誘爆に巻き込まれる人はきっと不運でしかない。目に浮かぶようだ。一人静かに死んで行け。多くの人はそう思うだろう。おそらく向こうだって一人にしておいてほしかったんだろう。しかし一人にさせてくれない周囲に対する怒りが、他者への攻撃性となって牙をむく。立場の強い弱いに拘わりなく、人はもともと一人で居たいものなのか。多くの人は鉄の箱から降りることなく、見向きすらせず、目的地に向かって乗り物を飛ばすだけのこと。他者に構っていられない。構っている時間が勿体ない。自分だって歩道の前で黒猫を見なかったことにしたんだ。人を咎める資格はない。
 むかつくからという理由で津川を刺すことはできるか。伊崎の若さに嫉妬して彼を害しようとすることはできるか。できるわけがないと思っていても、もしかすると、彼らにとってわたしはそういうことをしでかしそうな存在として認識されているやもしれない。無差別殺傷事件が起きるたびに自分と犯人を重ね合わせる気持ちが消せなくなっている。自分がそっち側にいる世界がもしかすると千分の一か万分の一の確率であったかもしれない。そんな考えは妄想にすぎるだろうか。もうよそう。そんなことを考えても始まらない。
 家の敷地に入り、玄関扉をあける。家の中は外よりも暖かく感じられた。ふだんよりも多くの靴が玄関に並んでいる。弟家族が来ているらしい。弟と奥さんと二人の子供。リビングに繋がる戸の向こうに談笑する気配が感じられた。顔を合わせる気がしない。わたしは靴を脱いで揃えると、そのまま二階の自室に引っ込んだ。すでに所帯を持っている弟たちと対面するのに抵抗があった。正確に言えば、弟とは子供のころからそれほど仲が良くなかったし、その奥さんとも何を話していいのかわからず、結局この五年の間に話したことといえば二言三言の社交辞令的言辞でしかなかった。彼女の方もわたしとの会話を望んでいるわけではなさそうだった。子供たちは推して知るべしで、結局この家にあって異物はこの自分一人だ。

(了)

つづく道行きの途中に

世間的に氷河期世代と呼ばれる年代のマインドを押し出せるようにと思いながら書いてゆきました。
重くてなかなかに救いのない話であります。しかし救いなんてなさそうな社会情勢ではありませんか、この現代社会というのは。
もともとが重くて暗さが色濃くにじむ社会を題材に書くのだから、出来上がるものもそういった属性を帯びるのは無理もないかと思いました。

つづく道行きの途中に

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-11-15

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