ハルカ

霧島

 もう歩けない。
 足の裏、ふくらはぎ、膝、太もも、全部が痛む。
 上半身にも力が入らない。起き上がることさえままならない。
 こんなことにならなければ、もっと頑張れたのに。
 でも、朝食の時間だ。食べたら、いくらか元気が出るかもしれない……。

 やたらにレンコン推しの食事。食欲はあんまりなかったけれど、とりあえず食べた。
 というか、この時間に食べているのはわたしだけだった。
 みんな早くに出ていったらしい。今日のうちに、山を二つ越えないといけないから。
 わたしがそうしていないのは……昨日のうちに、戦意を失ってしまったから。

 一昨日買ったばかりの白衣と菅笠。身に着ける勇気が出ない。
 いっちょ前に、「変わりたい」なんて願い事を書いた納札。
 そして、まだ八分の一も使っていない納経帳。
 そらみたことか。わたしには無理だったんだ。

 でも、このまま何も得ずに帰りたくはなかった。
 例えばどこか人もまばらな田舎に行って、綺麗な風景を見たら、心を入れ替えて頑張ろうと思えるかもしれない。
 信仰もしていないお寺をただただ歩いて巡るよりは、いいかもしれない。
 そうだ。わたしは修行のために来たんじゃない。

 白衣は着ないでリュックにしまったけれど、菅笠はしまえなくて、帽子代わりになった。
 あのとき勧められた杖も、買わなくて良かったと思う。
 あのゴテゴテした装備を見ると、お接待をしてくれる人がいる。
 来る前に動画で見た。それはただの施しじゃなくて、願いを託しているのだと。
 そんなもの、わたしにはもう、受け取る資格がない。

 近くの駅から電車やバスを乗り継いで、とにかく巡礼の道から離れようとした。
 不思議と気楽だった。昨日まで歩いていたときは、ちゃんと歩き通せるか、道を間違えないか、真剣に心配していたのに。
 もう歩く気もないし、正しい道なんてとっくにない。それでも平気なのは……。
 多分、わたしも自分が成功するとは思っていなかったから。

 ありのまま、身の丈に合った人生を歩んできた。
 勉強は苦手じゃなかったから、とりあえず実家から通える大学に進んだ。
 今は、なんとなく日本文学を勉強している。好きとか興味があるとかではなくて、なんとなく。
 就職するために大学に行くんだから、それでいい。そう思っていた。あの日までは。

 一か月前。大学の就活セミナーで、自己分析をしたときだった。
 これまでの人生で、何が好きだったとか、何を思って進路を選んだとか、何を頑張ったとか。
 そんなもの、私に言えるのはただ一つ。
「なんとなく楽そうで、得をしそうな道を選んできました」
 嘘偽りのない真実なのに。講師のおじさんは腕を組んで不満そうに唸った。
「もっと具体的に考えてみましょう。他人と比較して、輝かしい成功をしてなきゃいけないというわけではありませんよ」
 違う。わたしはそうじゃない。
 努力なんて、小学校くらいからずっと、一度たりともしたとは思っていない。
 でも、遅刻も忘れ物もしなかったし、赤点も取らなかったし、受験も失敗しなかった。
 自分の身の丈を考えて、やるべきか、やらざるべきか。それだけがわたしだった。
 わたしはその場で、講師のおじさんに訴えた。
「目の前にやるべきことがあれば、期日までにそれをやります。必要な勉強はします。当たり前のことですよ。そこに、努力したとか苦労したとか感動したとか、感想を持つ必要はないですよね。全部、得をするため、楽な暮らしをするため。それだけです」
 そうしたら、軽く睨まれて。
「企業は、命令すれば動くロボットが欲しいわけではないのです。確かにあなたの言う通り、それは当たり前かもしれませんし、ある意味では、当たり前のことができるのは、素晴らしいことかもしれません。しかしですよ。あなたには、それ以上のことができますか?
 本当の価値は、当たり前の中にはありません。当たり前以上のものを生み出して初めて、利益を得られるのです。就職活動ではその力があることを、言葉だけで伝える必要があります。必ず、具体的な経験をもとに語る必要があります。今はその練習です――おわかりいただけましたか?」
 言い返せなかった。わたしには何の価値もない。仮に価値があったとしても、誰にもそれを証明できないのだから、ないのと同じだ。

 思えば、アルバイトすらなかなか決まらなかった。就活では何十社も受けてようやく内定がもらえるのだから、アルバイトも十件くらい落ちるのは普通だと思っていたけれど、違ったのかもしれない。
 そして、ようやく決まったラーメン屋のアルバイトも、売上が落ちたのを理由に解雇されることになった。
 就活セミナーのすぐ後だったから、どうしても自分を責めてしまう。
 わたしには、本当に価値がなかったんだ。

 でも、春休みの時間は空いたし、お金も少しは貯まっていた。
 自分を変えるきっかけが欲しい。真っ先に思いついたのは、どこか遠くへ旅に出ること。
 その行き先を考えているときに見つけたのが、猪尾六月(いのおむつき)という人のお遍路動画だった。
 四国を一周する一千キロ以上の道のりを女性が一人で歩いて巡る様子が、面白おかしくときには真面目に紹介されているシリーズだ。チャンネルの登録者は二十万人を超えていた。
 わたしはそのシリーズを再生数の順に何本か見て、これだと思った。


 路線バスに一人で乗っていると、また少し気が楽になった。
 これでもわたしはオンリーワン。昔からマイペースと言われるのには悪い気はしなかったし、そのままで良いと思っていた。
 でも、少しの疑念もあった。こんな壁に当たるような生き方をしていたわたしを、周りは誰も止めてくれなかった。親も先生も、社会のことを知らなかったはずがない。間違った生き方があるなら、どうして教えてくれなかったのだろう。
 さては本当に、正しい生き方も間違った生き方も知らなかった?

 合計一時間くらい座席に座っていると、脚の筋肉痛は少し治まってきた。民宿のある集落の近くでバスを降りる。インターネットで調べたから間違いない。
 山と川と畑に囲まれた、本当の田舎だ。坂と階段をなるべく避けて、ふらふらと歩いてみる。
 なんだか自分探しというより、死に場所を探しているようだと思った。
 死ぬのは楽じゃない。自分で引き金を引くなら猶更だ。だから結局、生きてしまう。

 少し歩くと、野菜の直売所を見つけた。お腹が空いてきていることに気付く。でも、売っているのは生野菜だけ。
 食堂でもないかと辺りを見回していると、オレンジのTシャツが目立つお姉さんが近づいてきた。年齢はわたしより少し上に見える。大学生かもしれない。ここに住んでいるとは思えないから、旅の人?
「こんにちは。あなたはお遍路さん?」
「こ、こんにちは。その……」
 急に話し掛けられてしどろもどろになる。この人はわたしの菅笠を見て声を掛けたのだろう。相手は厚意。「違う」とは言いにくい。
「区切り打ちの、帰りです。十番まで」
 合ってるかはわからないけれど、動画で覚えた言葉でごまかした。とりあえず、十番まで行ってきたのは嘘じゃない。
「へえ。お疲れ様。三百段の階段、辛かったでしょ」
 優しい笑顔。落ち着いて聞くと、雑音の少ない声。思ったより、話しやすい人かもしれない。
「今朝は、布団から出られませんでした」
「序盤は特に難所が多いから、慣れないうちは区切るのが正解かもね。うちにこない? お昼、ご馳走してあげるけど」
 来てしまった、お接待。考えることがいろいろあって止まっていると、お姉さんはさらに続けた。
「この近くは食堂なんてないし、宿もなくなっちゃった。迷ってる暇はないんじゃない?」
 まさか。でもそれが本当なら、うかつに断れない。バスのあるうちに、別の宿を探す必要がある。
「えっ、じゃあ、その……よろしく、お願いします」

 忘れないうちに、自己紹介も兼ねて納札を一枚渡した。
「あの、茅部春佳といいます。大学一年生です」
「あら、ご丁寧に……ちょっと待って」
 お姉さんはわたしの納札を見て、すぐに突き返してきた。
「春佳さん。願い事を書いた納札を渡すのは良くないの。知っておいて」
「すみません、不注意で」
 忘れていた。動画で見たところだ。そのために、名前だけを書いた札も用意していたのに。急いで交換する。
「こちらで、お願いします」
「ありがとう。わたしのことは、ユノって呼んで」
 最初に渡したほうには住所も書いていたから、さっきの嘘が見破られてしまう。でも、ユノさんは内容を読む前に返してくれたみたいだった。

 苔の生えた塀に囲まれた、表札のない一軒家に案内された。外観は年季が入っていて、平屋だけど十人暮らせそうなほど大きい。ユノさんが一人で暮らしているとは思えなかった。
 表戸は鍵が掛けられていなかったらしく、ユノさんは軽々と戸を開けて玄関に入っていく。
「お邪魔します。立派な家ですね」
「借りてるの。たまたま空き家になるタイミングでここに来て」
「住んでどのくらいですか」
「一年くらい」
 台所に通されたけれど、他の部屋は戸やふすまが閉じられていて、様子はよくわからない。
「お仕事は、何をされているのですか」
「フリーランスみたいなものね。ここにいても、インターネットがあるから大丈夫。そうめんでいい?」
「はい。ありがとうございます」
 するとユノさんは、戸棚から桐箱を取り出した。明らかに高級品だ。でも、お接待をされる身で遠慮するのも野暮だと思う。
「それは、その……高級なものですか」
「小豆島のそうめん。知り合いにもらったけど、一人じゃなかなか減らなくて」
 ただ、さすがに見ているだけでは申し訳なかったので、きゅうりや小ねぎを刻むのは手伝わせてもらった。麺が茹で上がったときの香りが懐かしかった。

 食べ終わった後、わたしは今日の宿を探そうとスマホを取り出した。ユノさんは洗い物をしながら、心配そうに声を掛けてくれる。
「帰りって言ってたけど、どこまで行くの?」
 この質問は必然。わかっていたけれど、わたしはこれ以上の嘘を用意していなかった。だから、沈黙するしかなかった。
「……」
 すると不意に、ユノさんは語気を強めた。
「嘘ならもうバレてるから、ちゃんと話して」
 それはそうだ。
「……ごめんなさい。本当はただ、行く当てもなく歩いていたんです」
 下げた頭は、もう上げられないと思うくらい重かった。

 洗い物を終えたユノさんと食卓で向かい合う。あの就活セミナーを思い出して身体が震えた。
「それで、どうしてそんな恰好で、こんなところに?」
 でも、説明はしなきゃいけない。ユノさんは、最初と同じ優しい笑顔を見せてくれている。
「自分を変えたいと思って、この春休み、歩いてお遍路に挑戦してみようと思ったんです。でも、十番札所で心が折れてしまって。このまま帰るのも嫌だったので、やけになって、ここまで来てしまいました」
「なるほどねえ……」
 少しの間をおいて、ユノさんは首を傾げながら質問を返す。
「お遍路が修行だっていうのは知ってるよね」
「はい」
「本当の昔は当然歩いて巡るものだったけど、最近はどうだと思う?」
 歩いた場合の距離とかは動画で見たけれど、他の手段については何も知らない。
「わかりません」
「多いのはやっぱり車。バスツアーで巡るのも、根強い人気って感じかな。全部の札所に駐車場があるし、期間も費用も抑えられるから、予想以上に手軽かもしれない。歩きは一番大変だし、期間が長い分旅費もかさむし、危険も多いし、生半可な気持ちじゃ成し遂げられない」
「はい。よくわかりました」
 わたしはお遍路を甘く見ていたし、自分の能力を過信していた。何もかもが独りよがりな思い込みで、その通りに世界が回ることを疑わなかった。
「それでも春佳さんには、歩いているから偉いみたいな傲慢さがない。いるのよね、本当に修行中なのかと疑いたくなるくらい欲深で、全く自分のことしか考えていない人間が」
「そんな風には、なりたくないです」
 口ではそう言ったけれど、もしあのまま首尾よく成功していたら、わたしは間違いなく誤った自信をつけて、却って人の道を外れてしまったかもしれないと思う。
「反省したなら、これからどうしたい?」
 だから、その質問が一番困る。あれもダメ。これもダメ。見える範囲には、ダメなわたししかいない。何か動かなければいけないけれど、具体的な将来像は全くなかった。
「……今は、よく考えたいです。これからのこと。自分のこと」
 そう伝えると、ユノさんは今晩、わたしをここに泊めてくれると言った。帰りのバスもないらしい。わたしは一晩だけのつもりで、その厚意に甘えさせてもらうことにした。

 ユノさんの家は本当に広かった。でも、全く使っていない部屋がいくつもあって、わたしはその一つに居させてもらうことになった。約束は、ユノさんの仕事部屋に入らないことだけ。
 最初の一時間くらい、ユノさんは仕事があったので、わたしは一人だった。
 考えたいと言ったけれど、冷静になるほど醜い自分が目に付いて嫌になる。
 衝動的にスマホを取り上げて、動画アプリを開いた。
 タイミングが良いのか悪いのか、おすすめに上がってきたのは猪尾六月さんのお遍路動画だった。
 無知を思い知らされたわたしは、復習のためにシリーズの最初から見ることにした。納札のマナーや、車やバスでのお遍路についても、わたしが見ていなかっただけで、しっかりと解説されていた。
 猪尾六月さんは、顔出しをしていない。多分手持ちか、頭に装着するようなカメラで撮影をしている。でも、動画にはそのときの本人の声が入っていて、聞き取りにくいこともあるけれど、とても臨場感がある。
 その声が、妙にユノさんに似ていると思った。もしかして、本人?
 でも、猪尾六月さんは今も週一回くらい動画を出していて、八十八か所編の後は別格二十霊場編と四国ご当地グルメ編を交互に投稿している。こんなところでのんびり暮らしていては、動画のネタも尽きてしまうような気がする。

 そもそも助けてもらっている身で、ユノさんのことを詮索するのは良くない。
 煮物にするフキやレンコンを切る間にも、わたしからは何も聞けなかった。
 でも、ユノさんはわたしのことをまだ知りたいらしい。
「春佳さんは、お遍路を何で知ったの?」
「動画です。歩いて巡る様子を紹介している動画があって、それを見ました」
 とりあえず、投稿者の名前は出さなかった。
「あるね。何人か出してるけど、いろいろ見た感じ?」
 そこを深掘りするとは。そうしたら、わたしももっと話したくなる。
「猪尾六月さんの動画だけ、全部ではないですけど」
 するとユノさんは不意に静かになって、真顔で「そっか」と呟いた。何とも言えない反応だけれど、こんな話題を振ってきたからには、少なくとも猪尾六月さんを知らないわけではないと思う。
「ユノさんはお遍路に詳しいですけど、巡ったこととか、あるんですか」
「一度ね。それで四国が好きになって、今はここに住んでる」
「そのときは、歩きで?」
「基本は歩きだったよ。たまに、車に乗せてくれる人もいたけどね」
 そんな様子も、動画の内容と重なっている。ほとんど決まったようなものだ。
 でも、わたしが本当に知りたいのは、ユノさんが猪尾六月さんなのかどうかではないと思う。
「すごいです。その……途中で辞めたくなったり、しませんでしたか」
「あったよ。何度も。雨の日、体調の悪い日、暗くなっても宿にたどり着けなかった日……。始めるためにも覚悟は必要だけど、そんなもの全然頼りなくて、すぐに折れちゃうんだって思った。それでも周りの励ましがあったし、何より自分のために歩いていくうちに、新しい覚悟……続けていく覚悟ができていったの」
 ユノさんにあって、わたしに足りないもの。「続けていく覚悟」というのは、その中でも大きなものだと思った。

 ここからお遍路に復帰すれば、わたしも少しは「続けていく覚悟」ができるのか。最後まで行けなかったとしても、変わることができるのか。
 夕飯を頂きながら、今度はわたしからユノさんに質問してみた。
「ユノさんは、お遍路をやって、変わったと思うことはありましたか」
「ないかな」
 即答。反応に困るわたしを見て、くすくすと笑う。
「あったって言ったら、どうするつもりだったの?」
「それは……」
 わからない。でも、わたしは真剣だったのに。
「それね、すごくよく聞かれるの。何かご利益はあったか、とか。変わるためとか、ご利益のためとか、そんな漠然とした主観的な目標のことなんて、どうして他人に保証できると思うのかしら」
 本当は何か言い返したかった。でも、ユノさんの言葉はあまりにも強すぎて、わたしのなけなしの反抗心は一瞬にして引っ込んでしまう。
「例えば歩いてお遍路をすれば、痩せたりもするかもしれない。でも、帰って元の日常に戻れば、遠からずリバウンドするものよ」
 それなら、変わるにはどうすればいい?
 何の価値も生み出せない、世間知らずで自己中心的で根性なしのわたしには、いったい何ができる?
 もはや泣きそうだったけれど、自分たちで作った煮物は美味しくて、遣る瀬無さが少し和らいだ。
「ごめんね。厳しいこと言っちゃって」
 しばらくして、ユノさんはまた笑顔を見せてくれた。
「いいえ、わたしも悪かったので。ごめんなさい」
 でも、そうして今の振る舞いが許されたかと思った瞬間、わたしは自分の中に確かな「甘え」が生まれたことに気付いた。そうしてまた、元の自分に戻っていくのだ。
 これではいけない。
「……ユノさん。自分を変えるためにお遍路をするのは、変なことでしょうか」
「変だと思う」
 今度はこうして即答されるのを、想像することができた。
「自分を変えるとか、変わるって表現、はっきり言って嫌いなの。『成長したい』じゃダメなの?」
 でも、やっぱりユノさんはわたしの考えの及ばないところから言葉を突き刺してくる。「成長」なんて、もう忘れてしまったような言葉だった。
「それは、どういうことですか」
「『成長』って、子供が大人になるとか、未熟だったものが成熟するとか、プラスの意味合いでしか使わないでしょ。対して『変わる』っていうのは、良いほうでも悪いほうでも、結果的には横ばいだったとしても、全部『変わる』よ。
 『変わりたい』って言う人は意思があるように見えるけれど、必ず良い結果にするっていう覚悟も感じないし、そもそも自分が未熟だってことを認めていないようにも思えるし、この上なくダサい」
 ユノさんの言うことは、半分くらい理解できた。でも、「変わる」という表現だけでその人を判断できるものかは疑問に思う。
「わたしの考えは、少し違います。わたしはもっと根本的に、違う自分になりたかったんです。『成長』って、元の自分が残ってしまうような気がして。『変わりたい』というのは、価値のない自分に嫌気がさして、それをきっぱり捨てたいという気持ちです」
 そこで意見が言えたことには、自分でも少し驚いた。ユノさんも、一瞬目を見張ったように見えた。
「そんなことが、自分の意思だけで本当にできると思う?」
 現実は見えていないかもしれない。それでも、考えていることは本当だ。
 結果的にそれ以上は言い返せなかったけれど、考えは大きく前に進んだような気がした。

 食後一息ついて、お風呂まで頂いて、申し訳なく思う自分がいる一方、もうしばらくここに滞在させてもらえないかと考え始める自分もいた。
 ここで強い意志を持って、明日からまたお遍路に復帰することができたら、「変わった」と言えるのだろうか。
 そんな気はしない。
 でも、「成長した」とは言えそうな気がする。具体的にどこが違うとは言えないけれど、なんとなく思う。
 夜八時。今日もすごく疲れたけれど、昨日までの疲れとは違う、物足りない疲れだった。筋肉痛はほとんど治っていたし、不思議と、明日なら山でも越えられるのではないかと思えるくらいの余力を感じた。
 それを伝えるために、わたしはユノさんの仕事部屋の前で声を掛けた。ここだけ鍵の掛けられる、頑丈そうな扉になっている。
「ユノさん。中にいますか」
 でも、返答がない。物音は聞こえるから、こちらからも声は届くはずだった。
「ユノさん」
 二回目は少し大きな声で。少し間があって諦めかけたとき、扉がほんの少し開く。
「ごめんね、何かあった?」
「わたし、明日から戻ってお遍路を続けようと思うんです。それを伝えに来ました」
 仕事中で忙しいのかもしれない。遠慮する気持ちもあったけれど、とりあえず要件を言う。
 やっぱり、少しの間があった。それが何を意味したのか、わたしにはわからない。
「話しましょう。そっちで待ってて」
「はい」

 言われるまま、借りている部屋に戻った。間もなく現れたユノさんは、使い込まれたガイドマップを手に持っている。
「さてと。明日からお遍路に戻るって言ってたけど、計画はどこまで決まってるの?」
「明日、元の場所に戻って……そのまま十一番、十二番を目指したいと思っています」
 その質問は、わたしの決心を試しているのだと思った。その実、戻るためのバスや電車、その後の道のりなどはまだ調べていない。それでも、前に進む意思があることは伝えたかった。
「遭難するよ」
 その結果、ユノさんはあきれ果てた表情で、冷たい言葉しか返してくれなかった。確かに十二番札所までの道のりは険しい山道だと聞いているけれど、遭難は大袈裟だと思った。
 そんなわたしに、ユノさんはガイドマップを開いて見せた。
「ここからだと、スムーズに行っても十一番に着くのはお昼過ぎ。その後、十二番への道のりはおよそ十三キロ。上下の激しい山道で、春佳さんなら休憩を入れると六時間以上かかる。そうすると、どうなる?」
「……山の中で、夜になります」
 本当に、ユノさんは何でも知っているし、わたしの浅い考えも完全に見透かしている。
「だから、行くとしても明日は、十一番の近くで宿を取ること。これは絶対ね」
「わかりました」
 でも、厳しいばかりじゃなくて、戻るためのバスや電車の時刻表も見せてくれた。
 見切り発車で、出せる保証もない気合に頼った脳内の計画が、しっかりと根拠のある行程表に置き換わっていく。
 とてもありがたかった。
 でも、そこでわたしはもう一つ、解決しなければならない疑問があることに気付いた。
「ユノさん。今日は助けてもらった上、こんなにいろいろお世話になって、本当にありがとうございました。でも、どうしてここまで、良くしてくれるんですか」
 わたしは今日のことを、最初はユノさんのお接待だと思っていた。でも、ユノさんは最初からわたしがちゃんとしたお遍路でないことに気付いていた。それなのに助けてくれたのだ。
 理由を聞くのは野暮かもしれないけれど、わたしはどうしても、ユノさんの当たり前以上の心配りを学ぶ必要があった。
「……先達としての責任感、かな」
 先達。動画では、お遍路の先輩と紹介されていた。特に公認の先達さんは、巡礼を何周もして知識と経験を備えた、大先輩かつ大先生だ。
「もちろん、わたしは高々一周しかしていないし、公認の先達さんには遠く及ばないけど……」
 そう言って、ユノさんは部屋着の胸ポケットから名刺を取り出した。
 受け取って名前を見ると、「猪尾由乃」とある。メールアドレス、電話番号に続いて、動画サイトのアカウント名の表記もあった。
「本当にいるんだ、って思ったよ。わたしの動画を見て、お遍路に挑戦しようとする人がいるなんて」
「じゃあ、その……猪尾六月さんって」
「わたしのこと。でも、その苗字、名前で呼ぶの禁止ね」
 ああ、知らずになんと無礼をはたらいたことか。卒倒しそうなほど恥ずかしくて、でも、ここに来て一番安心した瞬間だった。
「困ったら連絡していいから。助けには行けないけど、相談相手くらいにはなる」
「本当に、ありがとうございます」
 優しさと厳しさ。どちらも、当たり前に与えられるものではない。

 翌朝、出発するわたしに、ユノさんは大きな丸いおにぎりを一個と、小粒のチョコレートを三個持たせてくれた。
「あとは、水分補給を忘れずに。チョコレートは、山を越えるときに食べると良いよ」
「本当に、お世話になりました」
 それから最後に、玄関の隅に立て掛けてあった杖をもらった。上部に紅色の布が被せられ、鈴が結び付けられている。そして、びっしりと書かれた漢字。お遍路用の金剛杖だ。
「あると全然違うと思う。持って行って。ただし、橋の上では杖を突かないこと」
「本当にいいんですか」
「もう使わないし、遠慮しないで。でも、ほとんど新品だから」
 杖を突いてみると、二つの鈴がそれぞれ鳴る。音は小さいけれど、わたしを励ましてくれるような響きだった。
 いよいよ出発だ。
 山を越えられないかもしれない。道に迷うかもしれない。また歩きたくなくなるかもしれない。
 いくつもの不安が頭に浮かんで、全部、ユノさんに聞いてもらいたいと思った。
 でも、もう止まっていてはいけない。
「ユノさん……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 南無大師遍照金剛。二人で合言葉のようにご宝号を唱えて、合掌する。
 一歩、二歩。玄関を出て三歩。
 このまま、行くんだ。
 わたしは振り返らずに、バス停までの道のりを歩き出した。

 十一番札所までは、勢いで行ってしまった。ユノさんの言う通り、杖があると鈴の音のリズムもあって、夢中で先に進むことができた。
 ここまでは、準備運動みたいなもの。納経をした後、本堂の裏にあるこの先の山への入口を見に行った。
 先が長いことを伝える立て札や看板がいくつも立っていた。ユノさんの言った通り、『平均六時間』と書いてある。
 近くにいたお遍路のおじさんにも、「今日はやめたほうがいい」と言われた。
 もし、ユノさんと相談せず無鉄砲に飛び出してきたとしても、さすがにその日はこの先へ進まなかったと思う。でも、そのときは宿探しに困っただろう。わたしの考えの甘いところが、だんだんと理解できてきた。
 体力を温存するために、その日はなるべく早く宿に入った。

 二日掛けて、長い夢を見ていたような気がする。
 でも、わたしがユノさんに教えてもらったことは、全部はっきりと思い出せた。部屋で予習のために猪尾六月さんの動画を見ていると、もはやあの家での一日を懐かしく思った。
 とりあえず、納札に書いた願い事は変えたい。今日、納札を奉納するときに『変わりたい』という願い事が目に入って、我ながら痛々しさを感じたから。
 そんなことが、自分の意思だけで本当にできると思う?
 そもそも『変わりたい』とは何なのか。それが達成されたことを、誰がどうやって判断できるのか。考えれば考えるほど、その願いがひどく曖昧で、脆いものだと思い知る。
 明確な目標があるならまだしも、わたしにはそれすらなかった。そして、元の自分を捨てたいと言う。叶うはずがない。
 それでもわたしは今、大きな成長の途中にいるような気がしている。それは間違いなく、こんな願いよりも大事なことだと思う。
 何の価値も生み出せない、世間知らずで自己中心的で根性なしのわたし。全部の短所をきっぱり捨て去って、完璧になるなんてことは絶対にない。それはこのお遍路に近道がないことと似ていると思う。
 結局、正しい遍路道を地道に歩くのが一番近くて、安全なことが多い。お接待で車に乗せてもらえることもあるらしいけれど、ずるをして楽になるようなショートカットやワープは一切ない。
 だからこそお遍路は修行だし、人は成長できるのだと思った。

 十二番札所までの山道には、遍路転がしと呼ばれる急坂がいくつもあるらしい。区間の距離もこれまでで一番長い。参拝を終えた後も必ず下りの道を歩くことになるから、宿に着くまで油断はできない。
 インターネットを調べると、なんだかんだで越えた人の声ばかり出てくる。まるで途中で引き返したり、諦めたりした人がいないかのように。
 わたしも歩き始めれば、なんだかんだで最後まで行くしかなくなると思う。でも、知れば知るほど不安になってきた。自分に限って、諦めるようなことになるのではないかと。
 夜、早めに寝ようと思ったけれどなかなか眠れなくて、ユノさんに電話をした。
「はい、猪尾です」
 電話だと声を作っているのか、ユノさんは少し高い声だった。
「ユノさん。春佳です」
「おお、春佳さん。今どこ?」
 相手がわたしだとわかると、対面しているときのような調子に戻る。
「十一番の近くの宿です。予定通り、明日山を越えます」
「よしよし。明日の宿は決めてある?」
「はい。山を下りてすぐのところにしようと思います」
「いいね。七時くらいから動き始めると、余裕を持って宿まで行けると思うよ」
「わかりました」
 ここまでの動き方は、動画でも紹介されていた。でも、今のわたしに必要なのは知識じゃない。
「あの、ユノさん」
「どうした?」
「ユノさんはこの遍路転がしを越えるとき、どんな気持ちでしたか」
「なるほど。春佳さんの励ましにはならないかもよ?」
 励まし。それもまた、欲しいものではある。でも、本当に必要なものとは少し違うかもしれない。
「それでも、いいです。聞かせてください」
 電話から離れて咳払いをする音が聞こえた。何か思い出話を聞かせてくれるのかと思ったけれど、意外に、ユノさんの答えは短いものだった。
「早く越えたい! それだけ」
 なるほど、と思うばかりで、すぐには言葉を返せなかった。
 もっと弱気になって、あれこれ考えるものかと思っていたけれど。
「そこの山道、何か所か見どころはあるけど、基本的には同じような林が続くだけだからさ。先が見たい一心で進んでたよ。余計なこと考えずに越えちゃえば、意外とどうってことなかったりしてね」
 ユノさんはかなり軽い調子だ。
「遍路転がしと呼ばれる難関なんですよね?」
「まあね。だから、計画と準備は必要。でも、変に意気込んで緊張したりペースを乱したりするのは良くないでしょ」
「はい……」
 わたしはまさにそうなりそうだった。やっぱり、ユノさんはわたしの考えをしっかり見抜いて、いつも一番欲しいものをくれる。
「もっと先に行くなら、まだまだ険しい山道もあるし、平坦だけどひたすら長い道もある。いちいち動じていられないから」
「……それが、続けていく覚悟ですか」
「うん。だから、今日はもう何も考えずに寝る! それが一番いいんじゃない」
「はい。ありがとうございます」
 とにかく、もう行くしかない。
 とりあえず布団に入って、何も考えないようにしていたら、いつの間にか眠っていた。

 歩く。ひたすら歩く。
 夢の中から、ずっと歩いていた。
 でも、嫌ではなかった。もう辞めたいとは思わない。
 急な坂でも、ユノさんからもらった杖がしっかりとわたしを支えてくれた。
 ユノさんからもらったチョコレートが、疲れを和らげる何よりの薬だった。
 よく晴れていて、幸いなことに道もぬかるんでいない。
 二つのお堂を過ぎて、冷たい湧水を飲んで休憩したら、また山道を進んでいく。
 ひときわ大きな一本杉の広場を過ぎてしばらく坂を下ると、少し開けた谷間の集落に出た。
 ここで初めて時間を確認した。十二時過ぎ。夢中で五時間以上も歩いてきたのだ。
 ここまで来たら、次で最後。
 遍路転がしの坂は六つもあったけれど、わたしには覚悟ができている。
 最後、長い上り坂と階段の先にお寺の門が見えたとき、心の中で叫んだ。
 わたしだって、やり遂げられる!

 境内のベンチに腰を下ろすと、もう体勢を変えることすらできないほど力が抜けた。
 でも、嬉しかった。続けて良かったと思った。
 世界の全てが明るく見えた。
 ほとんど無意識に、スマホの通話履歴を開く。
「もしもし、ユノさん」
「どうした、嬉しそうな声で。十二番、無事に行けた?」
「はい。ユノさんのお陰で、ここまで来ることができました」
「どういたしまして」
 初めて逆上がりができた子供のようだと、ユノさんは笑った。わたしもその通りだと思って笑った。


 春休みのうちに松山までは行ったけれど、八十八か所を巡るには時間が足りなかった。
 でも、その夏。松山から先の道のりもしっかり歩いて、九月になる頃、わたしは結願した。
 その証明書を携え、今度は帰りの計画も立てて、ユノさんの家に向かった。
 サプライズのつもりで、連絡は取っていない。
 でも、動画は相変わらず投稿されていたから、まだここで働いているのだと思っていた。
 少し緊張してきたけれど、すぐに呼び鈴を鳴らす。
 反応がない。
 買い物にでも出かけているのだろうか。
 そこで、思い出した。少し出掛けるくらいなら、ユノさんは鍵を掛けない。
 玄関だけ覗かせてもらうつもりで、わたしは戸を引いた。
 抵抗なく開く。玄関に靴はない。
 でも、上がったところの床に白い封筒が置いてある。
 拾い上げてみると、『春佳さんへ』と書いてあった。
 ユノさんは、わたしがここに来るのをわかっていたのか。
 封筒を開くと、二枚の便箋が出てきた。

 春佳さんへ。
 猪尾由乃は預かった。
 返してほしければ、動画の視聴と高評価を忘れるべからず。

 一枚目はこれだけ。下のほうに、『猪尾六月』と書いてある。
 半分困惑、半分わくわくしながら、二枚目も読んでみた。

 次の動画のネタバレになるから、どこにいるかは言えません。ごめんね。
 でも、ここに来てこれを読んでいるということは、きっと結願して、報告に来たのだと思います。
 そうじゃなかったら出禁です。もう来ないでください。
 なんちゃって。
 お遍路なんて、したくもないのにするものではありません。
 もし最後まで行ってなかったとしても、多分あの後の春佳さんなら、自分で前向きに決めた道をたどって、わたしにまた顔合わせできるだけの理由を持って来たのだと信じています。
 願いは叶いそうですか?
 あのとき、たとえ生半可なものだったとしても、春佳さんの「変わりたい」という願いを否定するようなことを言ってしまって、わたしは少し後悔していました。
 炎上したことはないけれども、まるで炎上したかのような不安がありました。
 でも、春佳さんは奮起してくれて、前に進んでくれて、わたしも本当に嬉しかったです。
 人間は海原の舟です。人生はあるかもわからない陸地を目指す、途方もない大航海です。
 そこでは多分、舟に穴が空いてしまったり、性能に不安があったとしても、船体を丸ごと取り換えることはできません。
 でも、みんな少しずつ自分の舟を補修して、出会った誰かと物資を分け合ったりして、旅を続けるのです。
 これからも、ずっと。

 手紙を読んでいると、旅の思い出が次々と頭に浮かんだ。
 十二番を越えた後も、大変な道はたくさんあった。でも、それ以上に出会いや交流があって、いつも前に進むことができた。
 変わることに固執していたら、辛くなったときに何か言い訳を探して、また逃げ出してしまっていたかもしれないと思う。
 代わりのない自分で乗り切っていく大航海。お遍路は終わったけれど、人生はこれからも続いていく。
 やっぱり、ユノさんにはお礼が言いたい。
 スマホを取り出す。
 そして、聞いてもらいたい。わたしのこれからの行く先を。

ハルカ

ハルカ

春佳は価値のない自分を変えるため、徒歩でのお遍路に挑戦する。 しかし、三日目にして早くも挫折。帰ることもできずに彷徨い、山間の集落に流れ着く。 そこで見つけたものは、たくさんの現実と、一つまみの理想だった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-24

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