科学者Hの研究報告書

 私は、過去五年にわたってある研究をしてきた。
 今回、その成果が徐々に上がってきたので、報告書(レポート)として書き残すことにした。
 なお、その目的ため、詳しいデータは添付していない。あくまで研究の概要と、その大筋の結果だけである。この研究が、いつか日の目を浴びるのを、研究者として心の底から願っている。

 私は―――
 いや、このレポートにおいて私の名前など不要だ。
 そうだな、私は科学者H、とでもしておこう。
 なんてことはない、イニシャルのHだ。深い意味はない。


 さて、本題に入る前に、ひとつだけ確認しておかなければならないことがある。

 「我々は人間である。」
 
 今そこでこのレポートをしまおうとした御方、しばし待たれよ。
 何を当たり前のことを言っているのだろうと思った方も大勢いるだろう。別に、私は研究のしすぎで頭がおかしくなってしまったわけではない。

 ただ今回、この、至極当然の事実を、私は再確認した。

 人間の生命活動というのは、実に興味深い。学べば学ぶほど、研究すれば研究するほど、その単純さと奥深さに驚かされる。

 人間の生命活動は、全て化学式で記述することが可能である。

 まさか、と思われる方もおられるだろう。だが事実なのである。
 例えば、あなたはお腹がすいている。そして、目の前にはリンゴが転がっている。当然、あなたはそれを取って口へ運ぶ。そうやって、飢えを満たす。この一連の動作も、全て化学反応と伝達物質のやり取りでしかない。

 あなたの血中のブドウ糖が減少すると、脳の視床下部に存在する摂食中枢がそれを検知する。いわゆる、お腹がすいた、という状態である。そうするとあなたの目は、さらに厳密に言うと網膜の視細胞が外界の光をキャッチし、脳に伝える。こうしてあなたはりんごが転がっていることを認識する。そうして手を伸ばす。動けという脳の命令も、単純な活動電位、いわば電気信号であり、それを受け取った腕の筋細胞は、カルシウム等の物質を介してその筋肉を収縮へと導く。食べたリンゴは解糖系とクエン酸回路を通じてエネルギーへと変換される。こうして、次の行動へのエネルギーとなる。
 とまあ、こういったところだろうか。

 とにもかくにも、人間というのは、恐ろしく簡単な化学反応が幾千にも幾万にも組み合わさり、恐ろしく複雑な一個の生体として活動している。

 それでは逆に、この反応が起こるものが存在とすれば、それは人間だろうか。

 ―――否。断じて、否。

 仮に、この複雑な反応系がすべてミスなく起こる個体があるとしよう。んん?ややこの表現では分かりづらいか・・・。―――ゾンビ、そう、ゾンビだ。ゾンビも電気信号と化学物質のやり取りできちっと動く。だからといって、ゾンビは人間か、人間だろうか。

 ―――否。断じて、否。

 ここに、私が言いたかったことがある。「我々は人間である。」決してゾンビではない。
 人間と、ゾンビ(あるいはそのようなもの)。そのあいだには、大きな隔たりがある。この隔たりこそ――科学的に証明することはできないが――魂、というものであると考えられる。


 さて、勘のいい方は、そろそろ私のしていた研究の内容に気付くだろう。

 ―――人体実験。

 私のしていたのは、そういった類の実験、研究だ。


 

 このあたりで、この研究を始めた経緯に触れねばなるまい。
 五年前、私はそこそこ名の知れた分子生物学の研究者であった。論文はいくつも出していたし、某科学雑誌に論文が載ったこともある。
 私の専門は遺伝子操作であった。といっても、遺伝子を組み替えて新たな生物を作ったり、あるいはキメラを作ったりということは(少なくともこの時は)していなかった。私がしていたのは、大腸菌に遺伝子を組み込み、新たなタンパク質を精製したりといったことであった。くすりとして、世に出まわることを期待してのものだった。

 しかし、研究自身はあまりうまくいかなかった。何しろ、人体には謎が多すぎる。薬として入っていくものも、生体内では毒物だと認識され、代謝されてしまう。この代謝機構自身、わかっているものとないもの、様々だった。

 理由は明白だった。

 生きたサンプルが存在しないこと。
 
 倫理的な理由から、世界中で人体実験は行われていない。表面上は、ということだが。ただ、生体サンプルさえあれば、今の医療技術が飛躍的に向上するのは火を見るより明らかだった。多くの研究者が辛酸を舐めたことだろう。あと少し分かれば、もう少しで私の研究は成功する。そういった人達も、決して人体実験には手を伸ばさなかった。社会的批判を恐れて、というのもあったが、それ以上に良心の呵責があった。私もそういった研究者のひとりであった。

 だが、転機は急に訪れた。

 あるとき、スーツに身を包んだ男が私の研究室(ラボ)を訪ねてきた。彼の詳しい身分は明かせないが、政府の関係者とだけ言っておこう。彼は研究の依頼があるといって、私に広辞苑並みの厚さの計画書を渡してきた。
 そこには驚くべき内容が記されていた。

 「Case003 遺伝子改変における人体への種々の影響調査」

 はじめは、なんかの冗談だと思った。だがその男は、至って真顔でプレゼンを始めた。
 嘘をついているわけではなかった。
 彼が話したのは、人体実験には死刑囚を用いるということ、国のもとで行う実験のため越権が認められるということであった。

 越権――何をしても、罪には問われない。

 実に、悪魔的な響きだった。いや、実験内容自体が悪魔のようなものだった。実験の報酬、資金も申し分無かった。しかし、それだけなら丁寧にお断りしていただろう(その後どうなるかは知る由もない)。だがこの悪魔が、いともたやすく私に人間の壁を超えさせた。
 軽蔑してくれていい。私はこの依頼を受けたのだ。
 受けてしまった。本当はこの時気付くべきだった・・・。

 おっと、すまない。いささか感情的になってしまったようだ。
 これはレポートだ。もっと淡々と書かねばなるまい。

 続いて、私が今研究で行ったことを記していく。


 簡単だ。人体の細胞、また、その設計図であるDNA、すなわち遺伝子の改変。それを死刑囚を実験台に行った。
 はじめはうまくいったかのように思えた。数個、遺伝病の原因遺伝子が見つかった。また、特定の遺伝子を改変することで、筋肉量、臓器の機能に有意の変化が見受けられた。
 ただ、そこまでだった。
 実験はいきなり暗礁に乗り上げた。

 当然といえば当然だった。
 これらは、既に人間として確立されたサンプルの遺伝子を操作している。いくら頑張っても、既に存在する細胞の遺伝子すべてを操作することはできない。ある細胞の遺伝子を書き換え、その細胞が分裂して、遺伝子組み換え細胞が増えていく、というのが一般的なやり方だからだ。

 ならば、と、代案が出た。
 ――0から人間を作ってしまおう、と。
 ラットやマウスであれば、容易くこの発想に至る。キメラマウス、とでも言えばもしかしたら耳にしたことのある人もいるかもしれない。

 しかし、これもすぐに座礁した。
 できたのは人形だった。人にそっくりな、少なくとも機能形態学的には人間に類似した、ただの肉塊だった。
 脳に電流を流したところで、その体は動きはしなかった。
 何が原因でうまくいかなかったのか、結局特定はできなかった。

 私はしばらく考えた。どうやったら人間が作れるか。この時既に、実験の目的は当初から大幅に乖離していた。だが私は、学術的興味の向くまま、あらぬ方向への暴走に気がつかなかった。
 考えて、考えた。何か方法はないものか。
 その時だ。
 耳元で、何かが囁いた。

 「死体を使えばいいじゃない。」

 自分の声ではなかった。聞いたことのない、しかしどこか懐かしいと思わせるような声だった。
 今考えると、まったくもって悪魔の戯言だ。しかし、当時の私には、天使の囁きに聞こえた。

 死体は、生きているあいだは間違いなく動いていたものだ。
 プログラムを全て消されたコンピュータの抜け殻、と置き換えてもいい。理論上、プログラムさえ入れてしまえば、すなわち脳さえ機能させてしまえば動くはずだった。
 臓器を作ることは可能だ。脳であろうと、話は同じ。
 
 私は早速、その実験にとりかかった。新鮮な死体を集めるのに手間取り、思ったよりも時間がかかってしまった。
 最初に動いたのは、被検体007。しかし、彼は培養器から出るなり、暴れに暴れて数分で事切れてしまった。自身の力で動いたにもかかわらず、関節は逆側にねじれ、筋肉は断裂し、皮膚はボロ雑巾のようになっていた。
 詳しく調べてみると、大脳辺縁系が異常に活性化していたことがわかった。この、大脳辺縁系は、俗に言う『本能』を司る部位である。『本能』が賦活化するあまりに、大脳新皮質が司る『理性』によるブレーキが効かなくなっていたのだ。

 よって、次にすべきことはすぐ決まった。
 大脳新皮質を活性化した個体を作り出すこと。『理性』を、0から生み出すこと。
 大脳の遺伝子を操作し、わざと大脳新皮質の機能を増す。

 流石にこちらは順調に、というわけには行かなかった。
 100例近い失敗を繰り返した後、被検体095がその心臓を拍動させた。

 被検体095(以下、彼女と呼称)は培養器から起き上がると、薄い膜のかかった目で、どこか焦点の合わない、遠くを眺めていたようだった。そうして、直立不動で、ただただたっていた。肌の色は、死体の薄紫から綺麗な薄ピンクに戻り、頬も紅潮していた。彼女が息を吐くたび、その口の周りに小さな雲が出来上がった。私は自分の心臓が高鳴るのを感じた。
 生きていた。彼女は生きていた。そして私の問いかけに振り向き、静かに質問に答えたのだった。

 「おはよう、095番。気分はどうだい?」
 「どなたでしょうか。」
 「Hという。キミは自分の名前を覚えているか?」
 「・・・いいえ。」
   注)実際の音声データは「Case003/No.095 sound sample01.wav」に収録。

 なんということだ。私は自分のしでかしたことの大きさよりも、科学者としての知的好奇心が先行していた。
 実験は成功したのだ。
 私は、人間を生み出すことに成功した。

 すぐに私はこのことを上に報告した。また同時に、類似のサンプルを十体ほど作ることに成功した。

 この後しばらくは、彼女たちの観察に明け暮れた。多少の知識こそ欠落していたものの、彼女の挙動は人間そのものだった。『理性』を持った、人間のあるべき姿そのものだった。無口ではあったが、質問にはしっかりと答えてくれる。毎日三食食事をとり、夜になれば寝る。そこらにいる、至って普通の人間。私は彼女達を、被験者、として見れなくなってきていた。

 私は死体に魂を吹き込むことに成功したのだ、あの日まではそう思い込んでいた。


 あの日、政府の男がラボを訪れた。曰く、彼女の出来を見たい、といった。私は彼を彼女のもとへ通した。

 「彼女は他人の命令を聞くかね。」
 彼はいきなり、このようなことを聞いてきた。私は、質問の真意こそ測りかねたが、はい、と答え、今までしてきた実験の内容を話した。

 「そうか、では被検体095番、自分の指を折ってみなさい。」
 私が「は?」と聞き返すのとほぼ同時に、バキィ、という乾いた音が聞こえた。竹を割ったときのような、不自然な音。

 彼女の方を見ると、右手の中指が不自然な方向に曲がっていた。
 
 私は言葉が出てこなかった。私の横で男は、ニタァ、と嫌な笑みを浮かべた。

 「素晴らしい、本当に命令を聞くのだね。じゃあ次は、」
 そう言って男は彼女にカッターナイフを渡した。

 「それで、喉元を切って自害したまえ。」

 男がそう言うと、彼女はそれを自分の喉元に突っ立てて、深々と自分の喉を切り裂いた。

 鮮血が中を舞った。彼女の頚部は傷口と反対側に傾き、だらっと力なく頭部が乗っかっている。血の雨が降る。そのまま彼女は崩れるように跪き、自分の体を地面に叩きつけた。そこで彼女は息絶えたのだった。
 「おお、これは素晴らしい。H君、よくやったものだ。彼女らは国益になる。駒として、な。なにせ普通にしていればほかの人間と区別できないのだから。」

 立ち尽くすだけだった私にそう言い残すと、男は静かにラボを去っていった。この男は、彼女たちの従順性を試していたのだ。自分たちの命令をどこまで聞くのか、彼女らを駒として利用するために。『本能』が拒否するであろう、死という命令。これも乗り切るのであれば、いかなる命令でも聞くだろう。

 「なんで、なんで彼女を殺した。」
 私は、彼に噛み付いた。噛み付くことに意味があると思わなかった。しかしながら、怒りを抑えることができなかった。

 だがこれに対する男の回答は冷たいものだった。
 「彼女は人間ではないだろう?―――」


 そこで初めて、私が作ったものが人間でないことに気づいた。胃酸が逆流する。吐き出しそうになるのを、必死でこらえる。私に残ったのは底なしの絶望だった。
 完璧だと思っていた。『理性』さえあれば人間になれると思っていた。でもそれは違っていた。彼女たちは意思のない、生きるプログラムになった。
 人間は、こうもあっさり死なない。たとえ死ぬことになったとしても、死の淵でもがき苦しみながら、ギリギリのところまで生にしがみつこうとする。醜く生きようとする。『理性』が死のうと思っても、『本能』がそれを拒否する。こんなに綺麗には死なない。

 彼女には生存『本能』がなかった。彼女には魂が宿っていなかった。
 ―――彼女は人間ではなかった。


 やっとのことで理解した。『理性』だけでも、『本能』だけでも人間たりえない。

 魂とはきっと、『理性』と『本能』の葛藤そのものである。私はそう思う。大脳新皮質VS大脳辺縁系。だから人間は、魂を持った人間は、あんなにも悩み、わけのわからない選択をしたりするのである。とても、プログラムとか化学式、そういった無機物では書き表せない。
 
 私はこう定義したい。

 『理性』『本能』その二つのバランスにもがき苦しみながら苦心して生きる、それが人間なのだ――と。
 どちらか一方でも欠落してはいけない――と。

 先に述べたように、私たちは単純な化学式の総体である。
 だが、それだけではないはずだ。
 私たちには魂がある―――彼女にはそれがなかった。
 我々は人間であるから、ときに苦悶し、ときに迷い、幾人かは自らその命を投げ捨て、それでも多数は生にしがみつく。
 それが人間だ。魂を持った人間だ。
 我々は化学式ではない。
 計算できない何かを持った、そんな不確定な人間だ。


 「我々は人間である。」
 未だに我々の多くが人間である。
 ここである疑問を投じよう。
 
 では私は?

 ――否。断じて、否。

 私は既に人間ではない。

 私は実験、研究をするプログラムになってしまった。脳に描かれた知的好奇心というプログラムに従う。
 この研究を続けるために、私はあまりにも殺しすぎた。
 そのことに、何の感情も芽生えないでいる。

 私の『理性』は自家中毒を起こして吹っ飛んでしまった。



 私は、過去五年にわたってある研究をしてきた。
 今回、その成果が徐々に上がってきたので、報告書(レポート)として書き残すことにした。
 なお、その目的ため、詳しいデータは添付していない。あくまで研究の概要と、その大筋の結果だけである。この研究が、いつか日の目を浴びるのを、研究者として心の底から願っている。

 日の目を浴びて、誰かが止めてくれるのを、心の底から待っている。

 これは最後の『理性』。

 彼らは人間と変わらない。脳の電気信号で動き、代謝によってエネルギーを産生し、筋肉で動く。日常生活に紛れていても、きっと誰も気づかない。ただ彼らには葛藤がない。何かをなすときに、そこに良心の呵責など生じない。彼らは世に放たれてはいけない。これ以上増えてはいけない。それを誰かが止めねばなるまい。それはこの文章を読んでいるあなた、であって欲しいと心の底から祈っている。


 さて、私は、自分の業を償わなければならない。
 自死する勇気はないが、ここならば命令すれば彼らが殺してくれる。

 責務を果たせず逃げ出すことを許して欲しい。




注)この文書は、I県の山奥にある研究所のパソコンから見つかったものである。また、同研究所からは本田博士と「彼女」と思われる2名の遺体が発見された。なお、本文に記述のある「彼女」に類似のサンプル十体は、未だに見つかっていない。

科学者Hの研究報告書

科学者Hの研究報告書

科学者H、彼が行っていた実験の、概論をまとめた報告書。そこには、目を疑うような事実が書かれていた。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-07

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