フーアムアイ

天国

 夏が去り、秋を飛ばして冬が来た。
 私はそれを喜ばしいことのように思う。
 冬は冷たい心を曖昧にしてくれる。

 息を吸うたびに鼻の奥がツンと痛み、吹き抜ける風を冷たく感じることで私がここに存在している証拠があり、当たり前のようだがそれに心から安堵する。
 厚手のニットを着て更にその上からコート、首にはマフラーを巻いて家を出た。行先は特に決めては無いが、とにかく電車で行けるとこまで遠くに行きたい気分だった。日常から離れ、私のことを誰も知らない私も誰のことも知らない、そんな所に行きたかったのだ。とは言っても私は有名人でも何でもなくあり溢れた一般人にすぎないのだが何となくそんな気分だったのだ。
 何回か乗り換え、二、三時間経ったところで、私は電車を降りた。全く知らない所だった。家を出たときよりもぐんと気温は下がっているように思え、それに伴って空気もずっと澄んでいた。やはり呼吸をするたびに鼻の奥が痛んだが寧ろ心地がいいと思えるほど、珍しく私は気分が高揚していた。
 人は少ないがどうやらここはちょっとした観光地のようで、駅を出るなり情報屋があり、その隣には土産屋が軒を連ねていた。左手には所々看板の塗装が剥げ錆びた鉄が露出した如何にも老舗のような蕎麦屋があった。入るなり、後退りしてしまいそうなほど迫力のある歓迎の言葉を受け圧倒されつつも席に座りビールと蕎麦を頼んだ。普段は酒を全く飲まないが、この街の雰囲気や既に食べ始めていた他の客のテーブル、そして何よりすっかり有頂天になっていた私の気分がそうさせたのだった。空腹と酒の相性は良くない。私は一口、二口飲んだだけであったが、既に頭の芯が柔らかく膨張しており周囲のばらばらなはずの話し声が一つの風船になってふわふわと私の周りを漂っているように感じた。運ばれてきた蕎麦をほとんど無心で食べ終えてしまい、しかしそれがとても美味しかった事だけは意識のどこかに残っていた。
 ぱあんぱあんという音が私の頭の両側を冷たい何かで叩きつけたように、はっと意識を戻させると、間も無くしてそれよりも大きな音で電車が通り過ぎていった。私は席を立ち、ご馳走様でしたと言って店を出た。外の冷たい空気は過剰に私の意識を取り戻させたが、それは興奮までをも冷めさせる程ではなく、辺りの美しさを再認識するには丁度いいといった具合だった。踏切を越えた先にも土産屋は連なり、もう葉は全てついていないが木立がそれらを優しく包んでいるような印象を与えた。幾分と財布の紐も緩くなった私は何やら聞いた事ない名前の漬物と真ん中に読めない漢字で焼印された饅頭を二つ買った。軽快に二つの袋を揺らしながら歩いていた。
「そんなに有頂天になってるけど、あなたに土産を渡すほどの間柄の人間が居るの、大体何であなたみたいなのが昼間から酒なんか飲んでるのよ」
 その言葉は黒い塊となりずしんと音を立てて心の中に居座った。結局こうなった。
 ここに着いてからあれだけ身体が軽くなって寒さなんかも忘れていたほどなのに、突然思い出したように手が冷え始め、頭がぐっと重くなった。今だけはやめて。そう言い聞かせても黒い塊は重さを増し、それはとても固いもののようなのに、みるみる膨張し始め液体のようにもなって全身を満たした。何でこうなるの。気がつくと深い溜め息をついていた。それは目にみえるように形となって白く現れ風と共に流れていった。もう帰ろうかと思ったが、重くなった体を動かしてなんとか歩いていると、とても大きなそれでいて流れの緩やかな川に辿り着いた。静かに流れる川と砂利を踏みしめる音以外には何も聞こえなかった。
「意味もなくこんな遠くに来て、私を忘れるつもりでもいたの?」
「うるさい、黙って、出てこないで」
「出てこないで?あなたは私、私はあなたなの。高い電車代を払って誰に渡すわけでも無いものまで買って、気の慰めにもならないわよ」
「違う」
「違わない、ちっとも違わない。あなたが私を忘れようとすればするほど、それは私を意識するってことなのよ。あなたが勝手に生み出して、私をダシにして自己憐憫に陥って、芸術家気取り?幸せは自分以外に頼るくせに、悲しみは自分で勝手に生み出すんだもの、本当悲しいよねあなたは」
「分からない、あなたは私なの?じゃあ今ここにいる私はだれなの?ここに来て楽しいと思ってた私は誰なの。あなたはいつから私と分裂し始めたの」
「あなたが一番分かっているでしょうに、気づかないフリして。全部あなたのせいでしょ。分かってるくせに。もうどうしようもないわね。ほらあなたが高いお金を出してここまで来た理由はあったわよ。目の前に。丁度いいじゃない。奥まで行けば結構深いわよ」
 私は腰の位置にまで水があることに気がついた。さっきまで座っていたはずのところを見るときちんと靴を並べ隣には袋が二つ置かれていた。遠くで人の叫び声が聞こえた気がしたがそちらを見る気にはなれなかった。やはり流れは緩やかでどんどん奥へ進んで行って胸の位置にまで水が流れるようなところへ来ても立っていられることは容易だった。しかしそろそろ川の中央だなと思われるとこに一歩踏み入れると、下の方でぐっと流れが強くなり体が押し流されていくのを感じた。意識に反して体が取り乱し、川辺に戻ろうとするが上手くいかない。鼻や口に今まで触れた中で一番冷たいと思うほどの水が入って体や顔全体が痺れてくるのをどこか冷静に感じていた。反射的に動いていた体も動くことをやめていた。どこか暖かい布団の中にいて夢を見ているような感覚になった。


私はセーラー服を着ていた。机を挟んで私の前にお母さんが柔らかく微笑んでいて、私は、それでねそれでねと言って何かをずっと楽しそうに話していた。お母さんはうんうんと頷き、お母さんの柔らかくて暖かい微笑みが私の全てを包んでいた。私はとても幸せだった。私が話し終えるとお母さんは席を立って私の横に移動すると、ごめんねと言って私を抱きしめた。あなたは何も悪くないの。お母さんのせいでこんなに苦しめてごめんね。もっとたくさん聞きたいから、あなたの話を。結婚したら、子どもができたら、孫ができたら、たくさんたくさん聞きたいから、お母さんよりもたくさん色んなこと経験して教えてちょうだい、お母さん楽しみにしてるから。


 目を開けると私は毛布に包まれており、さっきいた川辺に横になっていた。どうやら周りにはかなりの人がいて、救急隊員がしきりに私に話しかけていたが、頭に半透明な膜が張られているみたいで何を話しているかを理解することはできなかった。すぐ横に流れている川に目をやると、私と似た格好をして、しかし私であって私ではないような、真っ黒な物体が流されていくのがみえた。
私はそれを見えなくなるまで、じっと見届けるとふっと体が軽くなったのと同時に頭に貼られていた膜がなくなっていくのを実感した。じゃあねと言葉になっているのか、なっていないのか分からないくらいで、そう呟くと意識は薄らと遠のいていき、やがて深い眠りについた。
暖かい光が私の体中を照らした。それは涙が出るほど懐かしく、優しい光だった。

 
 

フーアムアイ

フーアムアイ

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-10-18

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