ウィークエンド・ジャーナル【2-2】

古瀬 深早

ウィークエンド・ジャーナル【2-2】

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November,1 バナナサンデーとおばけケーキ(上)

November,1 バナナサンデーとおばけケーキ(上)

(せい)ちゃんてさ、そんな年寄りみたいな生活続けて楽しいの?」
 雨の滴るガラス窓に目をやっていた(はるか)は、少し気だるげな調子でわたしのほうに顔を向けた。
 秋雨という括りの中にはもう入らない、十一月の長雨の中に覆われて三日くらいになるだろうか。べたっと暗いグレーの雲に空が覆われて、雨雫を受け止めた木々は重くくすんでいる。
「楽し、い?」
 イエスもノーも適当ではない気がして、思わず尋ね返していた。

 友人からお茶でもしようと連絡が来て、バスの時刻表を調べて出かけた。うちのほうから駅に向かって出るバスは多くない。一本逃せば途端に予定が狂ってしまう。
 一緒にいるようになってから、倫明(みちあき)はわたしが雨の日に原付に乗ろうとすると苦い顔をするようになった。可愛いパスケースを買ってあげるからバスにしときなさいよ、と説得するように言われて、正直ちょっと気分を損ねた。この人はけっこう物で釣ってくるタイプなのよねと思いながらも、確かに持っていなかったな、と気づいてしまう。
 いつもより厚めのハンカチや換えのパンプスカバー、濡れた折りたたみ傘を入れられる、高吸水性素材で作られた傘用ポーチなんかを鞄に入れた。わたしはこの季節の冷たい雨がとても好きなのだけれど、濡れるとすぐ風邪を引くのだ。風邪を引くと身体は途端に煩わしくなる。だからできるだけ避けなくてはいけない。
 商店街の中にある、気に入りのカフェの前での待ち合わせだった。
 終点の駅前広場でバスを降りた。商店街のアーケード内に一歩入るだけで、温かい感じがした。
 遥はすでに黒いタイツにショートブーツを履いていた。ベージュのニットに黒のスカート。甲の上できれいな曲線を描いているブーツだけ、コーヒーみたいな焦げ茶色だった。エナロイドの、アンバーカラーの眼鏡。オフの日の書店員、というのにあまりにぴったりきすぎる服装だった。
 『枯葉』のかかっている店内に、並んで入った。重厚な木製のテーブルの上で、チョコバナナサンデーを注文する。
 横長の真鍮の器で出てきたそれを、遥はスマートフォンですばやく撮影した。言い訳みたいに呟く。SNSのネタがないのよ。個人ではなく、働く店のスタッフ同士でひとつのアカウントを運営しているらしい。本の宣伝用なんだけど、日常の話題なんかもないとあんまりフォローされないみたい。
「アラサーってもっとさあ、色々してみたい年頃なんじゃないのって、思って」
 絞られたホイップのてっぺんでチョコレートソースをつつきながら、遥は言った。バナナを口に入れたばかりのわたしは、それにすぐに答えられずに慌ててしまう。
 わたしの様子を見た遥は、いや、いいんだけどね、と付け足した。

 遥の言うとおり、倫明と暮らすようになってからのわたしはすっかり落ち着いてしまっている。自分の中を占めていた、本来の内向性を誤魔化す必要がなくなってしまったからだ。
 以前は、そういう自分を少し恥じていた。意識していないとつい刺激のない生活を選び続けてしまうのを、いけないことだと思っていた。わたしは自分の中にこもりきりの人間というわけじゃありません、と、外側へアピールするように振舞っていたのだ。おそらく、必要以上に。
 本来の性格だけでは、自分は大人としてやっていけない。そう思っていたのだと思う。もっと背筋を伸ばして、もっと大きな声で、誰とでも話せるような大人でいなきゃいけない。はきはきと生きなくちゃ。そう思っていた。
 そうやって重ねていた小さな無理は、どうやらわたしの中に少しずつ降り積もっていたらしい。月に一度、週末のわたしを起き上がれなくした。身体のどこが痛むわけでもないのに、部屋中を締め切って臥せっていなくては回復できなかった。巣穴にこもる獣みたいに。手負いの狸みたいに。

 佐原倫明という存在は、そんなわたしのぎくしゃくした部分にするすると染みていく何かを持っている人だった。
 彼の登場によって、わたしの中にあった上手にいかなかった部分が途端に円滑に働き出したのを感じた。倫明によって、わたしは水を貰った植物とか、油を差された機械みたいになった。必要なものが与えられた、と思えた。
 それまでのわたしがしていたのは、心身が追い詰められるほどの無理というわけでもなかった。それでも、その負担が無くなったことでわたしの暮らしは丸く優しいかたちに整っていた。彼はごく自然に、そこにいるだけでわたしをわたしに戻してくれる。
 多くの社交を必要としないわたしのことを、彼は微笑ましいと言う。砂場で黙々と遊んでる子供みたいだ、と。声をかけたら恥ずかしがってさーっと帰ってしまいそうな、そのくらい内気な子供みたいで可愛い、と。楽しい時、邪魔されたくないんだよな。
 三十手前の女を捕まえて言うような台詞ではないと思うけれど、それは倫明にとってはすごく平和な、わたしのあるべき姿らしい。
 実際のわたしは、もう少し図太く強かなところもある。決まりきった、そう多くない人間関係の中にいるものの、特別守られるべきか弱い存在というわけでもないつもりだ。
 それでも彼は言う。ちゃんと見てるから大丈夫だ、と。
 だから、好きなように暮らしていいんだよ、誰に迷惑かけてるわけじゃないんだし、と。
 彼と出会ってからのわたしは、カーテンを開けずに土日を過ごすということをしなくなった。どうにも重い気分を引きずってお風呂の中でぶくぶくと沈んでしまうことも、金曜の朝、あと一日だけだから我慢ね、と自分に言い聞かせて、泣き出しそうな気持ちを心の隅に隠して玄関を出ていくことも。

「――楽しいけど」
 コーンフレークをざくざくと噛んでいる遥に告げた。
 眼鏡の中で、彼女の目がふうん、という相槌を打っている。
「まあ、不満も不安もないなら一番よ」
「遥は」
「疑わしきは罰せずな夫と一緒にいますよ、相変わらず」
 半年前、旦那さんが勤めている会社の神戸の事業所に異動になった。二度目の結婚記念日直前のことだ。
 寝耳に水の話だったらしく、実家の事情でここを離れられない遥は夫に言ったらしい、単身赴任して欲しい、と。それなりに揉めたものの、最後は彼も承諾したのだそうだ。
 むこうで独身気分になった彼女の旦那さんは、遠距離であることも手伝って若干心が緩んでしまったようだ。遥がサプライズで訪ねて行った日、彼女の夫の部屋には知らない色のペアマグが仲良く並んで置いてあった。
 ――景品だって言ったけど、自分のものがあるのにわざわざ出して使うと思う? 旦那、何かちょっと、香水臭かったし。
 決定的な証拠もないし、本人も強く否定していたからと今は保留にしているのだ。正直に言うと、今はそういう面倒なことに対処できるほど暇じゃない。仕事も忙しいし、と。
「でも、時間ができると出かけたくなっちゃうの。だから星ちゃん見てると、静かすぎて退屈しないのかなって」
 しないのね、と自分に言い聞かせるように遥は言った。

 店を出てから、平日の百貨店を巡って帰った。
 バスに二十分乗れば田畑と果樹園で景色が溢れかえるような場所にある、小さな百貨店だ。
 きれいな柄のプリントされたポーチや切りっぱなしの合皮バッグを見ながら、彼女はぽつぽつと話した。
 ――この周辺って新幹線も『ちょうど』通ってないじゃない? だからいつも高速バスで大阪まで行っちゃうんだけど、それも疲れる。
 思いつく色々なルートを提案したけれど、反応はいまいちだった。そういうことじゃないのだろう。もっと根深くて、面倒で、わかっているけれど触れたくないこと。
 ハリオのミルクフォーマーと、海外小説の文庫を一冊、社会学を判りやすく解説した新書を一冊買った。最近は昔ほど小説は読まなくなった。わたしは読書に一貫した好みがないので、そういう時期、というだけだとは思うけれど。
 あまり元気のなかったように見えた遥は、それでも途中で気分を取り戻したみたいだった。生きていかなきゃね、強かに。小学校受験のために毎日塾通いをしている甥のいる遥は、今は一週間のうちの半分ほど姉の家の夕食を作りに行っているらしい。

 帰り際に、尋ねられた。
「ねえ、今度そっち遊びに行っていい?」
「いいけど、畑ばっかりで何にもないよ?」
「この辺りはどこもそうだって。わたし、星ちゃんのお手製ミートソース食べたい」
 ピザとかお酒買って行くからさあ、と付け足されて、笑ってしまった。いいね、そういうの。しよっか、うちで。
「じゃあ、またね。たまには遠出もしなさいね」
 遥は笑って言った。了解、と答えた。

 地下で買い物をしてから帰ろうかと思っていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。いつものアプリを立ち上げる。倫明だ。
『おばけケーキの残党を連れて帰ってくれたら嬉しいんだけど』
 貼り付けてあるURLをタップする。地下にあるケーキ屋は、ハロウィンを過ぎてもしばらくはおばけ風のケーキを販売しているらしい。
『何匹連れ帰る?』
『俺のは一匹。星ちゃんのぶんは、飛びついてきただけ』
 想像して、つい口元が緩んでしまう。
 けっこう大きなケーキなのに、そんなにいくつも食べられるわけないでしょう。そう送ろうと思ったけれど、帰ってから言えばいいかと思ってやめた。隅に移動しているものの、わたしは雑踏の中で文字を打つのは苦手だ。
 倫明は、わたしほどのんびりとした性格じゃない。学生時代はバドミントン部で良い成績を残したと言うし、わたしがつい避けてきた類の喧騒を楽しんで歩いてきた人だ。それでもわたしのような人間の扱いが上手ということは、根が優しい人なのだろう。
 了解、と打ち込んで、しばらく待った。
 倫明が嬉しい時に使う、ふわふわした輪郭の不思議なキャラクターが万歳をしながら『ヤッタ!』と飛び跳ねているスタンプが送られてきた。

November,1 バナナサンデーとおばけケーキ(下)

November,1 バナナサンデーとおばけケーキ(下)

 なぜか、機嫌がいい気がする。
 キッチンの前の丸椅子に座って足をぶらぶらとさせながら、星子はロールキャベツが煮えるのを待っている。高くごく小さな声で、鼻歌を口ずさんでいるようだ。
 家に帰るとすぐに部屋着に着替えるはずなのに、今日は帰宅してもまだ襟元から細長いリボンが垂れているワンピースを着ている。紺色に緑と白の鳥が描かれている、動くとリボンが揺れるやつだ。このワンピースを着ている時、星子はいつもより少しお嬢さんぽくなる。
 朝食の席で、今日は友人と会うために街のほう――としか言いようがないのだ――に行くと言っていた。何か欲しいものがあったら十六時くらいまでに連絡くれたら買ってくる、とも。
「星ちゃん。やっぱり、その服着てると可愛いね」
 話しかければ何か喋り始めるかと思ったけれど、彼女は鼻歌を一旦とめて僕を見て、ありがと、と笑うだけだった。

 
 夏が長くなったせいだろうか、日没の体感が狂ってきた気がする。気温の高さから、つい外はまだあかるいだろうと思ってしまうのだ。
 十七時に閉園した公園では、守衛の男性陣と保育園のお迎えがあるふたりの事務局員から帰り支度が始まる。閉園の音楽はオルゴールの『ふるさと』で、園内に設置された複数のスピーカーで再生される。閉園前の巡回はあるものの、取り残されたところで外に出るのは簡単だ。塀が張り巡らされているわけじゃないし、国道に繋がっている道が林のすぐ脇にある。
 事務局の片付けを終えてから、鞄を肩にかけて館内の鍵閉めと点検に向かう。今週の当番なのだ。
 さすがに夏ほど色々な昆虫が館内に入ってくることはないものの、廊下で侵入者のカマキリに唐突に威嚇されることはある。影になっている場所に虫取り網はいくつも隠してあるから、捕まえて外に逃がしてやるのも簡単なのだが。
 十一月。冷暖房のどちらもが必要ない、木々の匂いがまた大きく変わる時季だ。
 すべてのドアと窓の戸締りをしてから、電気を消して外に出た。朝から降っていた雨は、昼過ぎにはやんで晴れていた。濡れた植物と土の匂いが薄い霧と共に漂っている。
 十七時四十五分。外は、すっかり暗くなっていた。

「佐原さん、もう事務局閉めた?」
 守衛の草野さんに尋ねられた。駐車場の門を閉めるために、最後まで残ってくれていたらしい。
「閉めました。僕が最後ですー」
 大きめの声でそう告げると、彼は了解、という意味のジェスチャーを寄越した。僕閉めるんでいいですよ、と付け足すと、それなら、という仕草で駐輪場へ向かっていく。草野さんはバイク通勤だ。
 駐車場に残る最後の一台になった、自分の車へ向かって歩き出す。
 木々のつくるシルエットが、そろそろ夜空の色と同化してきた。
 このまま飲まれて消えてしまいそうだ、と思いながら、鍵を差し込みエンジンをかけた。

 星子が夕食を作ることがほとんどなので、風呂掃除は僕の仕事になった。
 膝までスウェットパンツを持ち上げていると、星子はちょっと笑う。それ、かっこいいわけじゃないのにすごく男っぽく見えるの、と。あなたがグレーのスウェットで腕と脛出してお風呂スポンジ持ってる姿、わたし異様に好きな気がする。そうしみじみと述べながら、風呂場まで見物に来ることもある。
「完了しました」
「こちらも、もう完成です」
 鍋をかき混ぜながら、星子は答えた。
 近づいて、後ろから鍋を覗き込む。和風だしのロールキャベツだ。野菜が何種類も入っていて、彩りもいい。
 星子はおたまを僕に手渡すと、トースターのほうに向かっていった。フランスパンの上に甘辛く炒めたきのことチェダーチーズ、それからきざみのりを乗せて焼いた、照り焼ききのこのチーズトーストだ。菜箸を使って大皿の上にそれを並べている。
 パンだけじゃ足りないかな、と訊かれたので、今日は大丈夫と答えた。こういうメニューの日、僕が特別空腹だと言うとおにぎりをひとつ握ってくれるのだ。
 リクエストしたおばけのケーキを、星子はふたつ捕獲してきた。
 小さなドーム型のスポンジにキャラメルクリームとフルーツを重ねて、上からぎゅうひを被せたものだ。ハロウィン限定のものかと思っていたけれど、現地の日程に合わせてあと数日販売しているという。職場の新聞紙をまとめているところに偶然目についた、折込チラシに写真が載っていた。
 ――何か欲しいものがあったら、十六時くらいまでに連絡くれたら買ってくる。
 時計を見上げて十六時前だったことを確認してから、トイレに駆け込んで星子にメッセージを送った。星子にしか言ったことはないけれど、僕はおばけのキャラクターが好きなのだ。

「今日、何かいいことがあったの?」
 いつもの小さなダイニングテーブルで、向かい合って座って尋ねた。
 今日はこのまま部屋着を挟まないでパジャマにする、と言っていた星子は、ワンピース姿のままで僕を見た。
 ふたりのあいだに、温かな湯気が上がっている。ペットボトルから注いだ、常温の緑茶。ざくざくと切ったきゅうりとスライスオニオンに、ツナマヨネーズを絡めたサラダ。冷蔵庫には、おばけのケーキが二匹。
「何にもないよ。でも何だか、今日はいい気分だったから」
「そうなんだ」
 まあ、上機嫌ならいいか。
 スプーンを合掌した親指と人差し指のあいだに挟みながら、星子はいただきますと頭を下げた。慌てて声を揃える。
 
 遥さんとの外出は、普通に楽しかった、らしい。
 喫茶店でチョコバナナサンデーを頼んだの、と話し始めた。
 思った以上に大きくて、でもカラースプレーがかかっていたのが可愛かった。カラースプレーって、なくてはならないものじゃないから好き。何だか懐かしくない? 子供の頃、一粒一粒摘んで食べたりしなかった?
 わたしが地味に暮らしてるから、少し心配されちゃった。こんなにリラックスして生活できるのって、大人になってからは初めてなんだけどな。『ギブミー・ザ・シンプルライフ』って曲、思い出した。知ってる? キジ料理じゃなきゃ嫌なわけじゃない、トマトとマッシュポテトでいいって歌詞があるのよ。知らなかった、キジって高級食材なんだね。まずキジを食べるっていう発想がない、わたし。
 喋るトーンが静かで一定なせいか、星子の言葉はぽつぽつと零れ、そのままさらさらと流れていってしまう。理解も共感も求めていない時の喋り方だ。淡々とした、ただの報告。
 ロールキャベツを歯で噛み切りながら、またはきのことチーズのトーストの、カリカリになった角のところをつまみあげながら、僕は適度に相槌を打つ。相槌上手は聞き上手。うん、うん。そうか。それ、俺もやった。やって怒られた、と。僕達はよほど観たい番組がある時以外は、食事中にテレビをつけない。

 二分間ほどかけた報告を終えてから、星子は付け足すように口をひらいた。
「帰りのバスで、わたしずっと倫明のこと考えてた」
「え」
「ああ、あとミルクフォーマー新しくしちゃった。前の、錆びて使えなくなっちゃったでしょ? やっぱりないと物足りなくて」
「え?」
「え?」
 話題の変遷についていけずに出した声に、不思議そうな顔で見上げられた。贅沢だったかな、と苦い顔をしているので、そんなことないよと声に出す。星ちゃん、コーヒーないと生きていけないじゃん。
 どきっとしたのに、解説はなしか。
 そう思ったものの、スープを口に含んだ星子がにっこりと笑うのを見てそれ以上の追求は必要ないかと思った。
 透き通ったたまねぎがスプーンから零れ落ちそうになって、彼女は少し眉根を寄せている。やり直し、とばかりにもう一度スプーンを器の中に沈めている。金魚すくいみたいに。僕と付き合うまではロールキャベツはトマトソース派だった星子は、今はすっかり和風派だ。
「あとで早速、コーヒー淹れて使ってみようよ」
「夜だから薄くね。寝られないって、星ちゃん遅くまでパソコンするでしょ」
「わかってます」
 僕のおせっかいに、下を向いたまま彼女は笑っている。

 どういうわけか、昔からこの手のマイペースで繊細な感じのする人間を構うのが好きだった。
 男女問わず、年齢問わず。一緒にいると妙に落ち着いて、何かしてやりたくなってしまうのだ。友人も、若い頃に好きになった女の子も、気になるアイドルや女優だってそういうタイプだった。
 相手に受け容れられると、ほっとした。臍の下のあたりがどんどん温められていくような感覚があった。気恥ずかしいけれど、それは僕にとって幸福という状態なのだと思う。自分が善良な、何か健やかなものを持っている人間だと思えてくるのだ。
 星子はそういう性質を極めつくしたような人で、一緒にいても全然飽きない。

 最後のふたつになったパンをひとつずつ分け合う。皿を僕のほうに寄せながら、星子は笑った。良いことを思いついたように。

「ねえ」
「うん?」
「おばけのケーキ、かわいい顔のほう、あげるね」

 遥さん、もしかして何かいい仕事をしてくれたんじゃないだろうか。
 ありがとう、と答えた。
 何だかとても、くすぐったかった。

January,20 春になるまで寄り添って(上)

January,20 春になるまで寄り添って(上)

 出力ボタンの中で、MP4形式だけはどういうわけか独特の音がするようにできている。
 編集の終わった映像を一通り確認して、星子はそれをクリックする。その指示を受け止めたとばかりに、コンピュータからぱきゃ、という音が響いた。通常二十分ほどかかる、音声や画像を最終的にひとつのファイル形式にまとめる作業だ。エンコード、というらしい。 
 結婚式の余興で上映するという、リレー型のメッセージムービーだと言っていた。
 小学校の頃の友達で今でも連絡先を知っている子なんてひとりしかいないよと笑う星子は、すべての学生時代の友人と部活、そして職場の同僚までが一丸となって新婦を祝福しているそのムービーをとても楽しそうに編集していた。自分では絶対にありえない人生だ、と。それにまったく引け目を感じていないところが、何というかこの人の性格なのだ。
 開始時のエラーが出ていないことを確かめて――設定が間違っていたり、必要なファイルが揃っていない時なんかに大袈裟な注意音と一緒に表示される――星子はそういえば、と口をひらいた。
「ドープさんが胃炎を起こしてね」
「はい?」 
 咄嗟に、頓狂な声を出していた。
 読んでいた漫画に飽きてしまって、こたつに寝転がったまま恋人の後姿をぼんやりと眺めていたところだった。この作業が終わったら一緒に外出する予定なのだ。個人情報がいっぱいだから作業中は画面を覗かないでと言われるので、僕の視力では文字も写真も見えない角度に座るようにしている。

 僕達の住む自然豊かな緑の町は、冬になると驚くほど静かになる。
 そもそもが賑やかな場所では決してないのだが、温かい季節に何となく届いていたあらゆる気配が、意識しなければ気づかないところまで潜ってしまうのだ。地面から上空まで、一律にしんと静かになる。僕は冬の森も嫌いじゃないけれど、やはりどこか味気ない。
 目に映る景色の中から緑がなくなるだけでこんなにすることがなくなるなんて、わたし達自然児ね、と星子は笑う。
 趣味の重なる部分がそんなに大きくない僕達の、共通の好きなもののひとつが樹木だった。とにかくここにはいっぱい木があるのが嬉しい、と彼女は言う。詳しくなりたいとかナチュラルライフを強く志しているわけじゃないけど、木に囲まれているところに住んでいると落ち着く、と。
 それでもうら寂しい景色に飽きてしまうこともあって、僕達が共に暮らす家の中には反動のように色が溢れていた。
 昨年の年末休み、星子は京都にあるという糸の専門店からきらきらしたモールやラメの入った糸を何種類も取り寄せた。そしてキャンバス地の布にそれらを縫ったり貼り付けたりして、大きくカラフルなタペストリーを作った。真っ白いフェイクファーや木綿のレースなんかも使って、三日くらいかけて仕上げていた。
 ポンポンもついてるんだ、いいね、と感想を述べると、彼女は照れたように笑った。頭の中にはずっとあったアイデアだったけれど、その通りに作れるか自信がなかったのだそうだ。
 クリスマスのライトをそこに絡ませ、合図と共に点灯した。
 寒々しかったダイニングスペースの壁が、突然楽しげな雰囲気になって驚かされた。陽気な、または陽気であるべきだという気分が沸き上がってくるような場所になっていた。
 
「ええと、誰のことだっけ」
 外国人の知り合いなんていただろうかと思い返していると、星子はああ、とひとり納得したような顔をしながら椅子をくるりと回転させた。
「うちのボスの家の裏に住んでる、サンタさんみたいな人、覚えてる?」
「ああ、松川さん?」
「そうそう」
 恰幅が良く白髪頭で赤ら顔の、ひとり暮らしの老人だ。都会に住む中学生の孫から貰ったという、妙にファンキーなキャップを愛用している。後ろからはホワイト地のシンプルなキャップに見えるのに、正面にはストリートアート風の文字で大きく『Dope Spirit』と書かれている。そのインパクトがあまりに強すぎたからと、星子は僕の前でだけ彼のことをドープさんと呼び始めてしまった。もちろん、スラング的な褒め言葉の意味として、だ。
「胃炎?」
「そう、県立病院に入院してたんだって」
 ずれた肩掛けを直しながら、星子は言った。
 
 彼女の職場は、従業員が五人ほどの小さな映像会社だ。もともとは同じ専門学校の同級生同士で立ち上げたものらしい。
 ――夜間コースだったから、専門学校っていうよりスクールに近かった。
 星子はもともと趣味でパソコンを始めた人で、スキルにむらがあるからと社会人になってから入った学校だったのだそうだ。好きなことしかしないでいたら、わかることとそうでないことに驚くほどの差ができてしまった、らしい。色々な年齢の人が集まっていて面白かったよと彼女はよく話している。わたしは学校があんまり好きじゃないタイプだったけれど、あそこは良かった、と。今の彼女のボスはその学校では優等生ではなく、星子はよく試験前に勉強を手伝ったのだそうだ。
 卒業した後に思うところがあってそれまで勤めていた職場を辞めた星子を自分の立ち上げた会社に誘ったのには理由があるのだと、以前酔っ払った彼に説明されたことがある。技術が確かだから、それから星子が何だか放っておけない人に見えたから。
 田舎の果物農家の長男だという彼には、内向的な個人主義という性質を持て余しながら生きている星子のことがどこか頼りなく見えたらしい。生きていく力が弱そうなのが気になって、と。うちの周囲は農家だらけだから食費も浮くし、星ちゃん機械に詳しいから、うちの仕事以外にも小遣い稼ぎする方法なんていくらでもあるよ。思い切って出てきなよ。
 学校の成績は良くなかったもののある種のリーダーシップを持っていた彼の言葉に、星子は従った。自分は田舎の距離の近い人間関係は得意ではないと思っていたらしいけれど、身体の感覚として覚えがあったようだ。地元でうまくやれていた気はしなかったのに、肌では雰囲気を覚えていたのかもしれない。
 ――それに、出身地じゃないぶんやっぱりちょっとよそ者じゃない? それも良かったんだと思う。
 映像の仕事だけではなく、彼の家にDM制作や果物の発送手続きのアルバイトに行くことも、事務職に就職の決まった知り合いの若いお嬢さんに数回契約でワードとエクセルを教えに行くこともある。ここはいろんな仕事をしながら、マイペースに暮らしていける環境らしい。
 社長の果樹園に出向けば、いつかの言葉の通り一家揃って本当にやたらと食べさせてくる、とも言っていた。その上、煮物やおこわやけんちん汁や果物なんかをお土産にたんまりと貰ってくるのだ。ちょっと変わってはいるけれど、面白くて優しい子だと周囲には思われているようだ。
 松川さんはその席に共に招かれることが多い人で、星子のことをせっちゃんと呼ぶ。八十代半ば、元は農協職員だと聞いている。

「もう退院してるの?」
 お見舞いに行きたかったのだろうか、と思って尋ねた。
「うん、三日くらいだったって」
「そうなんだ。良くなったんだ」
「うん」
 星子は微笑んで頷いた。
 椅子から降りて、彼女はシンクに手を洗いにいく。何か飲みたいけど飲んだらホットチョコレートがおいしくなくなりそうだよねとぽつぽつ語っている。近所のカフェにある苦めのホットチョコレートが飲みたくなったと、今朝から何度も誘われていたのだ。
 日曜のカフェはいつもより混雑していそうだし、正直に言うとあまり乗り気じゃなかった。
 去年久しぶりに見て気に入ってしまったからと、彼女はキッチンにカラースプレーを常備するようになった。空になったりんごジャムの瓶の中にそれをざあっと入れて、見えるところに置いている。飾っている、も兼ねている。見ていて何だか嬉しそうだから。ココアを作る時も、彼女はそれを使う。ハリオのミルクフォーマーでふわふわにした牛乳にむかって、ひとつまみ、ぱらぱらと。
 わざわざ出向かなくても、それで良くない? そうも思っていた。
 星子はそんな僕を見て、そっか、じゃあわたしあとでひとりで行ってくるねと気持ちをさっさと切り替えた。
 こういう時に不機嫌になるという選択肢を持たない彼女は、倫明さんも何か楽しいことをしていて、と僕に言う。そして机の棚の左上――星子のハイデスクの棚の部分は仕事道具が占めているけれど、そこだけ趣味の本が並んでいる――から文庫本を一冊取り出して、ディスプレイの脇に静かに置いた。 
 あまりにあっさりとした割り切り方に何となく突き放された気がして、行かないなんて言ってないでしょと言い訳していた。行くよ、俺も。だからそれ、しまって。

「あのおじさんにね、以前言われたことがあって」
 ハンガーラックからキルティングコートを引っ張り出しながら、星子は続けた。
「なに」
「ひとりで死ぬような暮らしをしてるけど、いざって時にはせっちゃんが側にいてくれたらいいよなあって」
 星子はそれを、いつもの口調で述べた。どの感情も喚起させないような、静かな喋り方だ。
「え」
「ああ、酔っ払った調子でね。お年寄りってそういう、お迎えの話題、よくするじゃない?」
 社長のおばあちゃんとかもよく言っている、と続けている。
「おじさんね、あんまり情緒的なことが好きじゃないんだって。それが理由で、あそこでひとりで暮らしてるのね。ご家族はもう都会に家を新築して、和室を用意して待ってるんだけど」
 そうなんだ、と答えた。ずいぶん個人的な話を聞いていたんだな、と思わされる。酒の勢いだろうか。あの人はけっこう呑むと聞いたことがある。
「今際の際でおいおい泣かれたり、引き止められたり、そういうのは気恥ずかしくて興醒めなんだって。興醒めした気持ちで死ぬっていうのもいやだから、寝てるあいだにすぽっと逝けねえもんかな、とかよく思ってるらしいの」
「はあ」
「でも、せっちゃんみたいな子なら、最期に一緒にいてくれたら嬉しいと思うって」
 コートのかかっていたハンガーをラックに戻しながら、彼女は言った。

 なるほど、と思った。
 星子は、確かにそういう時に取り乱したりはしないだろう。好きな相手でも、そうはならないはずだ。ただ静かに、手を取って共にいる。そうして欲しいと願う相手には、そうする人だ。それが薄情に見えるということも、ない。
「それで、星ちゃんなんて答えたの」
「もしそれが許される状況なら、もちろんいいですよって」
 星子は優しげに、それでいてさっくりと答えた。
 他人の臨終の立会いを名指しで望まれる、というのもなかなか珍しいことだ。そのくせ、何だかしっくりきてしまう。共に暮らしていても、星子は僕の知らないところで変わった友情を育んでいる。
「喜んでた?」
「ちょっとほっとしてたみたい」
 彼の願いに、そんな悲しいこと言わないでください、というような返答を彼女はしない。わたしからそんな返事貰っても嬉しくないと思う、とすら言うだろう。だから頷く。もしそれが許される状況なら。そんな言葉をつけることで、その約束を一番ふさわしいやわらかさに整える。そうなってもならなくてもいい、でもしたことは忘れない、そんな約束。少し清らかな、夢みたいな。
 実際は松川さんだって、その時は家族と共にいたいだろう。たとえぐしゃぐしゃに泣かれて、追いすがるようにされてでも。
「入院したって聞いたから、ちょっとひやっとしたんだけど。でも、無事で良かった」
 温かなコートに袖を通し、前のボタンをきちんと閉めて彼女はにっこりとした。倫明さんも上着を着てください、と催促される。
 同じラックから、彼女が僕のブルゾンを取り出す。丁寧に、ハンガーから外す。ちらと振り向いて、ディスプレイを確認している。長いし動画も多いから、これは四十分以上かかるかな、と呟く。あとは機械に任せて、出ようよ。ネットも切ったし。
 こたつの中ですっかり温まっていた身体を、ずるずると引っ張り出した。
 本当は、彼女より僕のほうがあの店を贔屓しているのだ。ゆったりしたソファ席が落ちつくし、やたらと窓が大きくないところもいい。気泡の入った分厚い窓ガラスの中を通った西陽が少しやわらかくなって、窓際に腰掛けているだけで穏やかに眠くなる。
 ブレンドの匂いを思い出して、気分があかるくなった。渋ったのはただ寒かっただけなんだよ、まだ二月前じゃないか。
 それでも、手渡されたブルゾンに腕を通しながら外出が楽しみになっていた。何気ない、ご近所のカフェへの小さな外出。
 星子と出会ってから日々の見え方が変わってきた気がする、と時々思う。僕が今まで何気なく見逃してきた、通り過ぎた出来事は、本当はもうちょっとだけ素敵だったのかもしれない、と。言葉にしたことはないけれど。
 
 承知した、と言いながら、勢いをつけて立ち上がった。
 立ちくらみになるよと、星子はくすくす笑っている。

January,20 春になるまで寄り添って(下)

January,20 春になるまで寄り添って(下)

 少し後ろのほうで、倫明は機嫌良く鼻歌を歌っている。何の歌だったかなと思ったら、普通にスーパーの特売日の時に流れている威勢のいいマーチだった。
 振り向いて尋ねた。
「どうしてその曲?」
「思いついたから」
 彼は大して気にもしていないような様子で、そう答えた。

 本当は、彼は歯笛のほうが得意だ。付き合い始めた頃は、頻繁に吹いていた。鼻歌になったのは、わたしの聴覚がそれをどうしても受け容れてくれなかったからだ。
 手持ち無沙汰な気分になったりその日にすると決めていた何かを果たした後、倫明はよく歯笛を吹いた。出会ってから彼はずっと楽しい人だったけれど、率直に言って、それだけは苦痛だった。下手というわけではなかったのだけれど、その音はわたしの耳に届くと同時に黒板に爪を立てた時と同じ感覚を発生させていた。
 すかさず話しかけて中断することはできたけれど、相手の性格もあまり理解していない状態で「それやめて」とも言えなかった。当時のわたしは、倫明と会っているあいだにあの歯笛を聴かずに済むのをいつもこっそり祈っていたのだ。それは彼が上機嫌にならないように祈っているのと同じかもしれないと思ったら、さらに気が滅入った。

 我慢できなくなったのは、身体のほうが先だった。

 その週は珍しくもハードな仕事が続いて、月曜から金曜までくまなく忙しかった。飛び込みの上に急ぎの大型注文が入って、事務所で慌てて制作作業をしていた。写真のスキャンが二百枚分、その中の半分に大幅な補正が必要だったのだ。条件を一括で指定してフィルターをかけてみたもののうまくいかず、結局一枚一枚作業するしかなくなってしまった。
 わたしと、元同級生であり現在は同僚の織部ちゃんふたりで、向かい合わせに座り黙々と画像を加工し続けた週だった。人物の輪郭切り出し四十七人目で織部ちゃんはテンションがおかしくなり、わたしは珍しくも眼精疲労から来る頭痛に何度か泣きたくなっていた。

 何とか納品を終えた金曜の夜、約束していた彼との食事に出かけた。
 カジュアルなイタリアンレストランで食事をして、そのままドライブしようという話になった。
 楽しみで幸せな気分だったはずなのに、それは長く持たなかった。倫明が、車のラジオでかかっていた山崎まさよしの『全部、君だった』をいつものように歯でハミングしたからだ。
 耳の後ろから、ざわざわとその音に引っ掻かれた気がした。頭部を伝って、首から下へ、胸のあたりまでそれが降りてくる。ちょうど弱っているところまで。
 まずい、と思った時は、もう頬に涙がぼろぼろ零れていた。
 それは無音の出来事だったのだけれど、狭い空間の中でわたしが黙って泣き出したのが彼に伝わるのに、そう時間はかからなかった。
 当然、彼はひどく動揺した。
 ――うわ、ごめん、俺何か言った? この歌、いやだった?
 何となく飄々としたようなところのある彼がそこまで慌てるとは思わなくて、わたしは急いで鞄からハンカチを取り出して頬を押さえた。違う、違うの、ごめんなさい、と。
 とりあえず停めるよと、彼は目に付いたコンビニの駐車場に車を停めた。そして気まずそうに、わたしを見た。
 感情が昂ぶってしまったからじゃない、とわたしは説明した。風邪の時とかに、しんどくて、何だかわからないけれど身体が勝手に涙を出すこととかない? 誤作動みたいな。そういう感じだったの、と。
 きっと、本当に疲れていたのだ。だから身体のほうが先に泣き出してしまった。大人になって理性をそれなりに使いこなせるようになっているはずなのに、こらえ切れなかった。
 一生懸命説明したけれど、彼は不思議そうな、釈然としていないような顔でわたしを見るだけだった。
 男の人ってどうして、こんなに涙に対して簡単に戸惑うんだろう。申し訳なさと不思議な気持ちを胸の中で混ぜ合わせながら、わたしは小声になりつつそれを打ち明けた。

 ――ごめんなさい、その、わたしの耳にはあなたのその音、痛いみたいに感じるの。鼓膜を直接、尖ったもので掻かれてるみたいに。

 倫明はぽかんとした顔でわたしを見た。
 そして、ゆっくりとわたしに訊いたのだ。俺、星ちゃんの前で歯笛吹くの初めてじゃないよね、と。
 うん、と頷くと、彼は続けて確認するようにわたしに尋ねた。
 我慢してたの? と。
 複雑な気持ちのまま、わたしは頷いた。

 ――なんで、言わなかった?

 倫明は、わたしに精一杯優しく訊いた。
 伺うような視線に、責められている気はしなかった。

 ――その、楽しそうだったから。

 やっとのことで、そう答えた。
 彼はわたしの答えに、数秒黙った。そして、そっか、と言った。そっか。そしてさらに数秒後、いや、と続けたのだ。
 ――それは、言ってもらわないと困るな。楽しませたいと思って連れ出してるのに我慢させてたとか、へこむわ。
 そう言って、一瞬だけハンドルにもたれかかった。
 ごめんなさい、と繰り返した。彼を不愉快にさせたいわけでも、音楽がいやなわけでもなかった。ただその音が、だめだった。気持ちに水を差す気がして、言い出せなかった。
 俯いていると、倫明はふっと笑ったみたいだった。伸びてきた手に、何度か頭を撫でられる。ゆっくりと、大丈夫、と言っているみたいに。

 彼が何も言わないのが気になって顔を上げた。
 その動きに合わせたように、やわらかく唇が重なった。

 ――でも俺は、そういうことがすぐ言えない子に、すごい弱い。

 唇が離れてすぐに、耳元でそう囁かれた。苦笑いしているのが雰囲気で伝わってくる。
 いやなことを言ったのに、彼は気を悪くしなかった。
 そのことに、わたしはさっき以上に泣きたくなった。
 やわらかな目で、彼はわたしを見ていた。慎重に添えられた手に、後頭部を包み込まれた。わずかな苦笑。その奥に、優しい、許しみたいな気持ちが湛えられている。
 大丈夫、本当のことを言っても、この人は大丈夫。
 そう思ったらほっとした。
 言い出せなかったのは、それによって彼とぎくしゃくしたくなかったからだ、と気がついた。この人のことを好きになったから。好きになった人に、嫌われるようなことは言いたくなかった。自分のしていたことの理由がまるで少女漫画みたいだったと気がついて、今更恥ずかしくなった。
 倫明は、わたしの頭をまたゆっくりと撫で始めた。

 ――星ちゃんは可愛いな。

 彼は言った。何度も、繰り返して言った。言う度に声がやわらかくなっていく。
 恥ずかしさが募って、わたしは彼の胸に張り付いた。もういい、と言ったけれど、甘えた響きになってしまった。彼はもちろん、言いやめたりはしなかった。
 ごめんね、いやなことをして。彼はそう付け足した。
 いやだと言わなかったのはわたしだったのに、言わなければわからないようなことだったのに、倫明はわたしの身体に腕を廻しながら囁くみたいに謝った。ごめんね、気付かなくて。
 エンジンを切った静かな車内の中で、しばらく彼にくっついていたのを覚えている。


「あんなからかわれかたするとは思わなかったね」
 曲名を知らない鼻歌を止めて、倫明は後ろからわたしに言った。
「嬉しそうね」
「いいことがあったんだもん」
 彼はわざとらしくわたしに告げる。
 
 あの店のほろ苦いホットチョコレートが飲みたくなったのは、目覚めてすぐのことだった。
 砂糖代わりに蜂蜜で甘みをつけた、わずかなシナモンとラムの香りのするホットチョコレートだ。ホイップの上には、クラッシュしたココアクッキーが大胆にかかっている。
 急ぎの仕事が入っていたわたしは午前中いっぱい机にかじりついていて、倫明は少し離れた場所にあるこたつにのんびりと寝転がっていた。LDK部分は、キッチンから斜め前がわたしの作業スペース、そこからさらに斜め前にダイニングテーブルがあって、部屋の一番奥にこたつとテレビが置いてある。予定のない日曜日、彼は大抵十時過ぎまで寝ている。活動を始めるのは午後になってからだ。
 昼食に、倫明はラーメンを作ってくれた。冷凍のものだけれど、上には彼の作った野菜炒めが乗っていた。仕事してる人に飯作ってなんて言わないよ、ちゃちゃっとやるから待ってなさい、と。デリバリーでピザを頼んでくれることもある。この地域はお店が選べないから、頼むのはいつも同じものだ。
 昼食を終えた彼が食器を重ねながら、星ちゃん午後も仕事なら洗車でもしてこようかな、と言った。
 もうすぐ終わるからやっぱりあのカフェに行きたい、一緒にどうですかと彼に訊いた。徒歩でも行ける、ちょっとレトロでかわいいお店だ。オーナーは元々隣県に住んでいた人で、親戚がやっていた古い店を買い取ってリフォームし、お店を始めたらしい。ふたりでよく行く店だ。
 少し渋っていた恋人に、気が乗らないならひとりで行くし無理しなくていいよ、と言っていた。そうだなあ、とか、日曜だし、と言っているのを聞いたら、連れて行くのが悪い気がしたのだ。倫明は、乗り気の時はわかりやすく即答するから。わたし達は休日の別行動に傷ついたり不満に思うようなふたりじゃない。
 読みかけの本を持って、一時間くらいひとりで過ごすのもいいかもしれない。
 そう思ってデスクの棚から文庫本を選んで取り出していると、倫明はびっくりしたような声を出した。
 行かないなんて言ってないでしょ。行くよ、俺も。だからそれ、しまってよ、と。


 一時間後、目当てのホットチョコレートを堪能してわたしはとても満たされていた。濃厚なチョコレートとラム、シナモンの香り。湯気が温かな店内の空気に溶けていく。ブラウンガラスのコップ、押し花の時計、背の高いサイフォンの作る、長い影。小さな欲望をひとつひとつ叶えていくのは重要なことだ。ささやかな喜びでも絶えず灯していかなくては、と思う。
 倫明は、向かいの席でいつものブレンドをゆっくりと味わっていた。
 一月の下旬、西陽が強いようでも外に居ると頬が冷たくなる。温かく暖房のきいた小さなカフェで、わたし達はとても平和な気分でいた。
 カフェオーナーの女性である柳沢さんが、氷水のピッチャーを持って近づいてきた。そして、わたし達を見ながらふふ、と笑った。
 ――最初の頃は、佐原さんのほうが星子さんに夢中って感じだったけど、最近はもう変わらないね。
 突然の冷やかしに――しかもそれは、あきらかにわたしに対するものだった――思わず目を見開いていた。そんなこと、いきなり言われるなんて思わなかった。予想していなかったタイミングで飛んできたその一言を、受け止めきれずに戸惑った。
 返答できずにいると、彼女は今度ははは、と軽やかな笑い声を出した。ごめんなさいね、お得意さんだからって言い過ぎたかしら、と。
 目を輝かせていたのは倫明のほうだった。
 ――わ、そう見えます? いや、僕も実はそう思ってたんです。
 わたしより社交上手ではあるけれど、倫明だってそこまで積極的にコミュニケーションを楽しむような性格ではない。そんな彼が、お調子者みたいに答えている。
 柳沢さんが笑う。おふたり、どんどん馴染んでるみたい、と。
 倫明は柳沢さんの言葉に嬉しいなあ、と返した。見てくれてる人は見てくれてるんですねえ、と。自分でも若干白々しいと思っているような口ぶりだった。
 柳沢さんは笑いながら、この店に通い始めた頃のわたし達のことを話し始めた。倫明は何だかいつも張り切っていて、わたしは若干おどおどと、彼からの好意を持て余していた。
 ドラえもんとミイちゃんみたいだったよね、と柳沢さんは言った。古い、ずっと昔のほうの。倫明が言い返す。ひどいな、そんなこと思ってたんですか。
 話題に入りそびれてしまって固まっているわたしのほうを、倫明はさりげなく見た。そして、唇だけでいたずらっぽく笑ったのだった。

「買い物して、早く帰ろう」
 彼の揶揄の口調に恥ずかしくなってそう言うと、星ちゃんつれない、と彼は拗ねた真似をした。
 そうだよな、俺達もう三年になるもんな、攻守交替してたって不思議じゃないよな、と。そろそろあれ、提出したっていい頃だよな、と。
 提出。
 そう言われて、一年ほど前に書いて引き出しにしまったままの書類を思い出した。
 ずっとこんな生活がいいから、そういうことにしようとふたりで決めたのだ。行動に踏み切れなかったのはわたし側の家の事情があったからで、実はまだ収束していない。その上わたしの実家も親戚達もなぜか派手好みの団結力にあふれた一族で、報告するだけである程度の予定と予算が自動的に算出されてしまうのはあきらかだった。彼との関係を公的なものにするまでにすべきことに、一族でひとりだけ毛色の違う、忙しさに息切れしやすい性格のわたしは圧倒されていたのだった。
 わたしの顔色を見て、少しはしゃぎすぎたと思ったらしい。倫明は、まあ大した違いはないよと付け足した。あと五年は余裕でこうしていられるよ、と。もちろん、そんなことしないけれど。

 返事をしないまま、紺色になっていく空を見上げた。
 冬の、透き通った空だ。夕暮れと夜空のちょうど狭間、黄色からうすい紺色。一番星が光をぎゅっと固めたみたいに強く輝いている。
 この町に引っ越して四年になるけれど、わたしは全然この景色に飽きていなかった。いまいち上手にやれなかった前の仕事を辞めて、社長に呼ばれるままに荷物をまとめて引っ越して、もう四年。翌年にはこの男性と出会って、さらにその翌年には部屋を借り直して一緒に住んでいた。そうすべきだと思うと彼が言ったのがきっかけだった。俺達は一緒にいたほうが、きっと全部うまくいく、と。
 本当に、その通りだった。彼と共にいることで、いちばん世界がきれいに見える距離と場所をわたしは理解することができたのだ。
 今は静かに楽しく暮らしている。掴みどころのないようで、心楽しい男の人と。

「わたしの名前の由来って、話したことあったっけ」
 後ろから追いついてきた彼に手を取られる。
 依田星子。おかしな名前だと言われたことはないけれど、ちょっと変わってるね、と言われることはけっこうある。
「いや、ないな。何?」
 倫明は少し新鮮そうに尋ねた。じゃれあうように色々なことを話してしまったから、秘密にしていることはもうあまりない。
 夜空にむかって浮かばせるように、わたしは答えていた。
「天文部の部長だった父と、松田聖子ファンの母の、話し合いの末」
 言いながら、愉快な気持ちになっていた。
 いかにも両者が折り合ったという感じの名前だ。実際、名づけの話し合いでちょっと険悪になったと聞いている。本人達は愛情ゆえだととぼけているけれど、娘の名前の中で仲直りしたみたいで気恥ずかしい。もう少し可愛らしい名前が良かったと思ったことも、正直に言えば何度かある。
 それでも、この人はわたしの名前をいつも優しく呼んでくれる。
 星子、星、星ちゃん。ねえ、また不思議な顔して、何考えてたの?

「知らなかった」
 倫明はくく、と笑っている。
 ウールの入ったやわらかなブルゾンの左腕に、そっと身を寄せる。触れている頬が温かい。春になるまで、もう少しこの感触を楽しめるのが嬉しい。倫明の腕はしなやかだ。

「でも、その名前、すごく合ってるよ」
 倫明は、いつものあかるく静かな口調で言った。
 あなたもだよ、と言い返した。


(了)

ウィークエンド・ジャーナル【2-2】

ウィークエンド・ジャーナル【2-2】

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-30

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  1. November,1 バナナサンデーとおばけケーキ(上)
  2. November,1 バナナサンデーとおばけケーキ(下)
  3. January,20 春になるまで寄り添って(上)
  4. January,20 春になるまで寄り添って(下)