ウィークエンド・ジャーナル【1-2】

古瀬 深早

ウィークエンド・ジャーナル【1-2】

June,30 ウェブサイトとダムカレー(上)

June,30 ウェブサイトとダムカレー(上)

「放っておくと、延々歯を磨いてないか」
 後ろから笑われながら尋ねられた。
 歯磨きをしながら、何となくパソコンデスクの前に腰を下ろしていた。そのまま、再び集中しかけていたらしい。歯ブラシを口にくわえたまま、画面の中に意識を奪われていた。
 我に返って顔を上げると、倫明(みちあき)はすでに歯磨きを終えていつものTシャツ姿でそこに立っていた。一日の終わり、二十三時半を過ぎているのに今日はあまり疲れが顔に出ていない。
「――うん」
 泡を口からあふれ出させないように頷く。椅子をぐるっと廻して立ち上がり、洗面台に向かう。1LDKの間取りの中でうろうろしていると、行動と場所はすぐにかみ合わなくなってきてしまう。
「ああ、だから(せい)ちゃんの歯ブラシだけ先に広がっちゃうんだ」
 倫明は納得したような声で続けた。
 暇そうに見えるということは、もう明日の支度をすべて終えてしまったのだろうか。鞄のチェック、目覚ましのセットや、スマートフォンの充電なんかを。
「そもそも、歯磨き苦手なの。力加減とか、難しい」
 口をゆすぎ終えてようやく反論できるようになったものの、さっぱりとした口から出てきたのは言い訳に近いものだった。
「スリッパも一緒に買ったのに、星ちゃんのだけ先っぽほつれかけてるじゃん」
「それは、単に使用時間の差だよ」
 週の半分は自宅作業員のわたしと、本人曰く毎日せっせと「山に柴刈り」に行っている彼とでは、劣化に時差があるのは当然のことだ。
 倫明は何か言い返したそうだったけれど、まあいいかという感じで浅く頷いた。

 ケーキ屋をやっている遠い親戚から突然連絡が来たのは、ひと月ほど前のことだった。
 町の洋菓子店として地元ではすっかり定番化しているその店の、ウェブサイトを作ってくれないかと頼まれたのだ。
 ――やっぱりそろそろ代も変わるから、ここらで一回、ちゃんとしとかないとって。星子ちゃん、そういうの得意でしょ。
 どういうわけかパソコンは「てんでだめ」な一族の一員である彼に、別にいいけど、今は作りっぱなしにして全然動きがないかたちのサイトは流行らないかも、と答えた。
 SNSで店主自ら最新情報を発信、などと勧めたら、彼は怯えながら苦笑いして言うだろう。そこまではなあ。こういう人達だっていっぱいいるんだった、と今更ながら思い出した。自分の周囲にいる、新しいウェブサービスもスマホアプリもいつの間にか器用に使いこなしている人達をどこかで基準にしていたのかもしれない。新しいもの好きとも言えないわたしだって、先陣を切っている好奇心豊かな友人達の後ろを追従しているだけなのだけれど。
 専門の業者に依頼するとしたら、彼だってきっともう少しきちんと準備もしたのだろうと思う。内容もレイアウトもとにかく任せるし文句も言わないから、という血縁関係の気安さをフルに使った丸投げっぷりに笑ってしまった。
 それなら好きにやらせてもらおうと、メニューと価格表を送って、とトークアプリに打ち込んだ。すぐに返信はないだろうと別の作業をしていると、四時間ほど経ってから「実家にファクスしといたよ^^」と返って来た。
 ――わかってる。直接何でも言い合えるほど近いわけでもない関係の相手に、カメラで撮影してここに貼り付けてと書かなかったわたしが悪い。
 そう反省して、実家暮らしの兄に縮こまって頭を下げている柴犬のスタンプを送信したのだった。

「それで、もうすぐ完成?」
 コンピュータの電源を切ったところで、寝室のほうから問われる。
「本当に簡易的なのだけどね。でも正直、あれで集客はどうでしょうか。通販とかもするわけじゃないし」
 ウェブサイト制作は、わたしの本業じゃない。以前働いていた会社で必要に迫られて覚えただけだ。
「でも、可愛いよ。昔ながらの洋菓子屋さんって感じで」
「ありがとう、ご親切に」
 倫明ははいはい、と笑いながらタオルケットを広げている。
 
 彼と暮らすようになって、生活の中のある時間が突然際立って感じられるようになった。
 一人暮らしをしていた頃は、ひとつのことから他のことへ行動を変えてもなかなか気持ちが切り替わらなかった。いつも、一定の集中ですべてをこなしていた。集中したまま作業をして、集中したまま料理をし、集中したままそれを口に運んだ。自分の中に潜り込んだままで終わってしまう日も、珍しくなかった。それなりに努力していたつもりだったけれど、健康的な暮らしの手ごたえは得られなかった気がする。
 倫明がいることで特にはっきりと色づいたのは、眠る前の時間だ。
 実際は、特別なことなんて何もしていない。テレビやスマホに飽きた彼がそろそろと立ち上がり、仕事用の鞄の中を確認したり、明日の靴下を引っ張り出したり――小さな頃に徹底的にしつけられて以来、翌日のぶんの服と靴下を揃えないと夢見が悪い気がするのだそうだ。そのために天気と気温も調べることになるので、あらゆる意味で丁度いい、らしい――し始める。何種類かのストレッチをし、スマホを充電ケーブルに差し込む。そして再びのろのろと立ち上がり、鼻歌を歌いながら洗面所に向かっていくのだ。
 Tシャツをまくって片手で背中を掻いたりしながら、彼は少しけだるげな顔をして歯を磨く。眉や髭が伸びすぎていないかチェックする。時々思い出したように、星ちゃん今日のサプリメント飲んだ? などと確認してくる日もある。仕事で疲れている時は少し動作が速く、雑になる。早く横になりたいから。
 こちらの目に映っていなくても、彼のするその行動は一日の終わりをわたしに教えてくれる。ゆるやかに、確かな区切りを作ってくれる。
 倫明は荒っぽい男ではないし、所作も軽い。滅多に不機嫌にならないし、なっている時は大抵、自己嫌悪がセットだ。マイナスの感情は自分のほうに向かう人なので、八つ当たりなんかもしてこない。共同生活のしやすい人だな、としみじみ思ってしまうくらい。
 そんな雰囲気の人なのに、彼は充分わたしの一日に動きをつけてくれる。快く空気を乱され、時間に色がつく。別の生き物が同じ空間で活動しているということの影響を、いやでも教えられてしまう。
 
「明日、いつもの時間?」
「そう。あ、でも明日雨らしいから、早めに起きないとだ」
 カッパ要るかもなあと呟きながら、彼はMARKS&WEBのアロマランプにラベンダーとベルガモットの精油を一滴ずつ落としている。わたしの持ち物の中で、一番に気に入った物らしい。香りつきの柔軟剤は苦手だけど、これは好き、と毎晩消灯前にまめまめしくセットしてくれる。
「カッパ」
「レインコートなんて歯が浮く言い方、俺はいや」
 特別気取った言い方ではないはずだけど、好みの問題だろうか。彼は時々、こういうことにこだわる。
 森林公園の指定管理局職員という仕事を、倫明はとても気に入っている。
 なるべくシンプルに働きたいんだよ、といつか言っていた。頭と同じくらい身体も動かして、それなりに疲れて、あー終わったって感じで晴れやかに家に帰りたい、と。彼が自分の持っている労働のイメージにしっくりくる職場にたどり着けたのは、とても幸運なことだと思う。

「星ちゃん、もう、やることない?」
「ないです」
「それなら、電気消してください」
 まめまめしい恋人はすでにベッドの中で横向きになり、わたしが横たわるスペースを作ってくれていた。タオルケットを持ち上げ、時々発動させる彼特有の謎の母性すら漂わせている。
「了解。では」
 わたしは部屋のライトを消した。
 さっきまであかるく照らされていたわたし達の空間が、アロマランプとスマホの充電ランプだけが光る暗闇になった。

June,30 ウェブサイトとダムカレー(下)

June,30 ウェブサイトとダムカレー(下)

 至極マイペースな、時に少し難しい人と住んでいる。
 というと後悔しているように聞こえるだろうか。そんなつもりはないのだが。
 
 昔ほど訊かれなくなった質問がある。
 ――彼女さんって、誰かに似てる?
 ここ数年は、個人的な交際事情を話すほどに打ち解けるような出会いはほとんどなかった。彼女が僕の職場に遊びに来ることもあって、同僚にその手の質問をされることもない。
 それでも、何かの拍子にされるかもしれないその問いの答えとして出てくる有名人はひとりだけだった。
 ケイト・ウィンスレットだ。正確に言うと、十年くらい前の。
 ハリウッド女優を似ている相手として挙げるなんて、大それたことかもしれない。実際に星子はグラマラスとは言いがたいすとんとした薄い身体の持ち主で、そのスタイルとまったく矛盾のない顔つきをしている。
 だからこの、似ている、は造形という意味ではない。僕が彼女達を頭の中で似たものとして結び付けてしまうのは、映像の中で幾度となく目にしてきた、あの神妙で少し気難しそうに見える独特の表情のせいなのだ。
 普段はあらゆる物事を淡々とこなしていたい星子は、それが許されない場面でよくあの顔をする。
 眉をわずかに寄せて顔を強張らせ、やや警戒を含んだ目で相手を見遣る。その表情は硬い印象を与えるものの、攻撃性はまるで感じさせない。少しの混乱、違和感、それから不安混じりの疑い。
 いつかさりげなくそう告げると、狭いキッチンでカレーを仕込んでいた星子はさっそくその表情を作り、思案のためにしんと黙った。
 気を悪くしたかと思っていると、数秒後に彼女はふっと力を緩め、
「――まずわたし、彼女の映画をそんなにたくさん見てなかった」
 静かな声でそう言って、野菜の溶け出した鍋を再びかき混ぜだしたのだ。
 
 そんなことを思い出したのは、キッチンからカレーの匂いが漂ってきたからだった。
「また、ダムカレーにしたんですね」
 もうちょっとで出来るよと言われてから、彼女が実際にトレーをテーブルに運んでくるまで十五分近くかかっていた。何をそんなにすることがあるんだと思っていたけれど、どうやら白米での堤防作りに時間をかけていたらしい。
 どこで知ったのかはわからないけれど、星子はダムカレーのファンだ。今まで二度ほど、彼女の調べた店に出向いて注文したことがある。ソーセージを抜くと放水されるかたちのものと、素揚げの野菜が森みたいに配置されているものだった。若干水気の多い、さらさらとしたカレーにフライドオニオン、じゃがいもの岩とブロッコリーの森。
 箱庭みたいなものなんだね、と感心して呟くと、彼女はきょとんとした顔をして、倫明さん、これはダムカレーです、と静かな声で言った。それ以上でも以下でもないんだけど、といった表情の中には、この困惑をあまり表に出しすぎないように気をつけなくては、という気持ちが見えた気がした。静かに奔放な人ではあるけれど、星子は自分の言動によって他人を傷つけてしまわないか常に気をつけている。

「今日の堤防はなかなかだと思う」
 自画自賛、と微笑んで、ことんと僕の前にカレー皿を置いた。
「新技術か何か使ったの?」
「ううん、ただのわたしのコンディション」
 あっさりと答えるので笑ってしまう。

 君はまんまるだね、といつか彼女に告げると、彼女は少し傷ついた顔をして自分の腰まわりを見下ろした。そうですか、と突然しょんぼりするので慌てた。
 ――いや、見た目じゃないよ。性格、性格。
 そういう誤解をするとは思わなかった。女性というのは本当に体型に繋がるような話には敏感だと思う。
 星子はほっとした顔をしたけれど、もう少し補足が必要そうだった。
 勤め先の昼休みに、散歩にやってきた彼女とベンチに並んで座っているところだった。わたし今日お休みなのでそっちに散歩に行きます、噴水の前のベンチで昼食にします、と朝に連絡が来たのだ。当時の僕達はまだ別々の部屋に住んでいて、付き合って初めての秋を迎えていた。
 誘われているのか、ただの報告なのか、数秒間悩んだ。その後に「あなた次第ではお昼を"うっかり多めに作りすぎるつもり"ですが、どうしますか」と続いたので、お願いしますと返信した。彼女のよくする、この一見可愛くないような物言いがどうにもツボに入ってしまって、面倒くさがりなくせに自分からメールやメッセージを送ってしまう男になっていた。
 ――わたし、そんなに豊かな感じじゃないよ。
 思い悩むような口調で、彼女は言った。
 彼女がその日あえて作りすぎてきたものは炒飯だった。ぱらぱらに仕上がった完璧なそれを、星子は紙製のランチボックスに大胆な感じで詰めてきた。周囲にぐるりといくつかのおかずが盛られていた。今思えば、あれもおそらくダム的な何かをイメージしていたのかもしれない。そういう何らかの意図を感じるような配置だった。
 野外のランチとして食べやすいと思われるおにぎりやサンドウィッチのようなものを想像していた僕は、それを見てやや目を見張っていたらしい。星子は首を傾げて、わたし何かおかしいことしましたか、と僕に尋ねた。ペーパーナプキンで包んだスプーンを僕に差し出しながら。
 ――好きなもので、世界を確立しているんだな、と思って。
 あまり活発そうな人ではなかったけれど、一歩中に入ってみるとすべてが決まっていた。好きなもの、苦手なもの、近くにあって欲しいものと遠ざけておきたいもの。それらが絶妙な具合で配置されていた星子の生活は、独特のユーモアと彼女なりの平和主義に包まれて、ひとつの国みたいに見えた。小さな、隙がありそうですみずみまで整備された王国。
 倫明と一緒にいるようになってから、好きなものがいくつか増えた、と彼女は言う。
 わたし、こんなに枯葉の感触を好きになるとは思わなかった。紅葉がきれいだからって上ばっかり見てたのかな。
 下を向きながら、彼女はぱりぱりと乾いたプラタナスや桜の葉を踏んで歩いていた。どこか控えめな、感覚を研ぎ澄ませたみたいな足取りで。

「ウェブサイト、うまくいった?」
 皿の中のダムを大方決壊させた頃に訊いてみた。
 星子はミニトマトを慌てたように飲み込んで――急がなくていいといつも言うのに、頭の中では答えているのに口が動いていないのはすごく変な感じがすると言ってきかない。質問のタイミングが大事なのを忘れていた――ぱっと顔色をあかるくした。
「本日公開しました」
「え、あとで見せてよ」
「最後に見てもらったのとほとんど変わらないよ。まあ、言いたいことは色々あるけど、ひとまずはこれでおしまい」
 祖母の実家に住んでいる兄の末娘の婿、という、もはや僕には関係の名称すら浮かばない相手から依頼された仕事だという。地元、田舎だからね、と本人はあっけらかんとしているけれど、以前も妹の旦那の弟の結婚式で読み上げるという新郎父の挨拶文を代理で書いていたことがあった。わたしそんなに文章上手くないんだけど、妹はわたしが国語が得意ってイメージがあるみたい、と。そうやって妙なところから頼られては、お礼にと新しいケトルやトースターや全国百貨店共通商品券を貰ったりしている。これ最新型だ、朝のトーストがおいしくなるねと嬉しそうにしているのを見ていると、これはこれで美徳なのかもしれない、と思ったりもする。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます。明日からは映像屋さんに戻るよ」
 ひとまずはほっとしたようだ。冠婚葬祭や学校行事や誕生日などで使う、フォトムービー制作の仕事をしているのだ。何でもアプリで簡単に作れる時代になっても、実際に自分で長い映像を編集するのはまだ一部の話らしい。
「倫明は」 
「今週は特にイベントはないね。同僚が、ちょっと足を怪我したアフリカヤマネを拾った」
 思い出しつつ答えると、星子は興味深そうに顔を上げた。
「それ、野生の?」
「どうだろう、元はペットだったのかも」
 仰向けでうまく起き上がれずわたわたしているのを見ていたらかわいそうになって、と、彼はそのヤマネを事務局に連れてきた。段ボールに古タオルを詰めて、水とエサを与えていた。その後どうしたかは知らないけれど、動物病院にでも連れて行っただろうか。
 星子はそうなんだ、と返事をして、ちょっと俯いた。
「ねえ、ニホンヤマネはまだ一般家庭では飼えないんだよね」
「まだっていうか、国の天然記念物になってるから、もう飼えないんだよ」
 僕の返答に、彼女はあの顔をして言った。そっか、残念。
 そして進みすぎた想像から一歩戻って、そのアフリカヤマネ、元気になるといいね、と続けた。
 
 食後に皿を洗いながら、思いついて再び尋ねた。
「ねえ、そこのケーキ、うまいの?」
 星子は後ろでテーブルを拭きながら口をひらいた。
「ものによる」
 正直な答えだった。ものによる。
「おすすめは」
「モンブランと、生パイ。ショートケーキより、チョコレートのほうが好きだったな」
 記憶を呼び起こしながらの回答に、なるほど、と返事をする。
「それ、俺には食う機会なさそうなの?」
「その、こんなこと言うのあれなんだけどね。わざわざ一時間半かけて買いに行くようなお店とも、言えないというか」
 困ったな、という顔をしているのがおかしくて、声を出して笑ってしまった。正直さと気遣い。その二つの要素が星子の中でゆらゆらとしているのを見るのは楽しい。
「まあ、地元っ子がそう言うなら」
「今度帰省した時に買って来るよ。顔出してって言われてるし」
「そしたら帰り、近くまで迎えに行くよ」
 彼女の地元には一度だけ行ったことがある。ここよりさらに人の少ない、小さな町だ。
「倫明がわたしとケーキを迎えに」
「別にそのふたつ同等じゃないから、誤解しないで」
 カレー皿を水切りにふたつ重ねながら言った。
 テーブルを丁寧に拭き終わった星子は、少し笑って頷いた。うん。

 僕と出会ってから彼女が好きになったもの。
 枯葉。マレーバク。ナンプレ。
 彼女と付き合いだしてから僕が好きになったもの。
 Windowsの終了音。海野十三。ダムカレー。

September,3 夏の名残、風邪の休日(上)

September,3 夏の名残、風邪の休日(上)

「目に来る風邪なんてあるんだね」
 雨の雫に滲んでしまった『おくすりのご説明』を見ながら、星子(せいこ)が言う。
「こんなの俺も初めてです」
 体温計を彼女に手渡しながら、そう答えていた。

 疲れが溜まっていたところで、いつもとは少し違う風邪を引いた。
 とにかく頭がぼうっとして、目の奥がずしんと痛む。鼻水が止まらなくなったと同時に瞬きすら引きつれたように痛くなって、観念して仕事の帰りに遅くまでやっている耳鼻科に立ち寄った。星子には早めに病院に行ったほうがいいよと言われていたけれど、寝れば治ると思うと拒否していたのだ。
 副鼻腔炎、というらしい。
 虚弱体質でもない単純な健康体の男として生きていると、とにかく病名というものに疎くなる。体調を崩しやすい星子が当たり前のように自律神経の話をしたり、ビタミンの種類と効能に詳しかったりするのが不思議だったのだ。難しい身体の持ち主は大変だな、と思っていて、あまりにそれを表に出しすぎたせいで彼女を本気で怒らせたことがあるくらいだった(星子は怒るとものすごく怖い。悲しい時ほど理詰めになる性格だからだ。言葉で粛々と僕の甘えを削ぎ落としていく)。

 ――自分の知っている痛み以外の痛みも世界にはいくらでもあるって、倫明(みちあき)はもっときちんと腑に落とすべきよ。

 ひとしきり僕を叱ったあとに、星子はそう言った。まるでどちらが責められていたのかわからないような、傷ついているような響きだった。僕は狙撃手化した恋人のあまりに的確すぎる数々の指摘に心が蜂の巣になっていて、ふたつの台詞をただ繰り返した。おっしゃるとおりです。ごめんなさい。
 幸運にもこの年齢になるまで大病も事故も人生を根底から揺るがすような出来事にも縁がなかった僕は、恋人の言うとおり他人の痛みに対する想像力が豊かな人物ではなかった。星子の眉根を定期的に寄せさせながら、いい歳を迎えた状態でいわゆるデリカシーというものを学び出したのだ。

 味がわからないのが残念、と言われながら、彼女の作った小田巻蒸しをずるずると食べた。
 星子と暮らすようになるまで、茶碗蒸しにうどんを入れた料理があるなんて知らなかった。冬のある休日、昼近くまで寝ていてやっと起きた僕に、午後から外出の予定があった星子がお昼ですから起きてくださいと湯気のあがるそれを運んできたのだった。
 それなに? 小田巻蒸し。その答えに、僕はもう一度同じ質問を繰り返していた。ええと、それって、なに?
 出されたものに警戒していると、彼女は少し顔を背けて、くく、と笑った。そして、料理に関しては男性のほうが固定観念強いよね、と言った。兄も父も、カレーはじゃがいもとたまねぎと人参で作るものだと思ってて、たまになすとしめじなんかで作ったりするとそんな顔してた、と。
 気恥ずかしくなって少し拗ねた顔をしてしまった僕に、彼女は続けた。大丈夫、なんてことないよ。おまけの入った大きい茶碗蒸しだよ。
 食事を作ってもらっておいて拒否するのもいけないと、手を合わせてから箸を手にした。初めて食べたそれは、彼女の言ったとおりの味がした。あいにく今日は熱と食感だけしか伝わってこない、確かに残念なそれだったが。

 食器をまとめながら、星子は僕に尋ねた。
「やっぱりちょっと、食欲がない?」
「そうでもないよ。味がわからないから、いつもみたいに進まなかっただけ」
 器を空にはしていたが、やはりいつもより食事に時間がかかってしまった。
 薬を飲んで、また横になる。ダイニングと寝室を隔てる扉は開けっ放しだ。
 食事のために起きているあいだに、星子は皺のよったシーツを直し、枕にかけていたタオルを交換してくれていた。ベッド下に置かれた小さなごみ箱いっぱいのティッシュが捨てられ、ビニール袋が新しくかけられている。
 ボックスティッシュの横に置かれた小さな霧吹きは、鼻をかむ前にティッシュに吹き付けるためのものだ。いくらやわらかいのでも、一日に何十回と使ったら鼻の皮膚が傷むかも、と星子は水の入った霧吹きを用意してくれた。面倒に思ったものの、言われた通りに使ってみると赤くなるはずの鼻の周囲がいつものままだった。こういうことを、ただ静かに当たり前にやる人なのだ。
 優しいよな、と言ったことがあった。少なくとも僕には、星子のしてくれることは思いやりに満ちたもののように映ったから。
 少し考えてから、彼女は例の表情をして首を傾げた。そして、整った状態を作るのが好きなだけかもしれないんだよね、と白状し、僕を若干悲しい気分にさせた。そこまでしなくていいと思うほど正直さが細部に宿る人なのだ。
 それでも、星子はそのままふっと声をあかるくして続けた。
 でもその相手が倫明ならいくらでもしてあげたいなって思うから、やっぱりこれは愛かもしれない、と。
 彼女の言葉に小さく振り回されるのは、なかなかやめられないことのひとつだ。

「休園日に合わせて体調を崩すなんて、真面目だよね」
「別に、そんなつもりは」
 休園日は九月に入ってすぐに五日間ほど続く。今日はその一日目だ。
「気を張ってたのかもね。夏休み、子連れ多いから」
 その一言は、何となく気持ちの余裕がなかった八月を思い出させた。

 事務局の前にある浅い噴水に、今年ははしゃぎすぎた男児が三人突っ込んだ。
 僕の腿ほどの高さの、しかも奥行きが三十センチ以上ある生け垣をどうやって越えたのかはわからない。水遊びができる場所とでも勘違いしたのだろうかと悩んだあとに、自分の幼い頃を思い出していた。まあ、小学校低学年の男子なんてそんなものか。少なくとも小二の僕は前後左右と大人の事情なんてまるで気にしていない生き物だった。
 一応公共の施設として定期的に安全点検と設備の検査も受けているのだが、やはりそれだけですべてのトラブルを防ぐのは難しい。
 大きな怪我人は出なかったものの、擦り剥いた膝の手当てのためにとその子達を医務室に案内した。うち二件は親の不注意だからと謝罪されたが、最後のひとりの親にはちゃんとしてくれないと困りますと言われてしまった。メインで対応に当たった同僚は、あれでちゃんとしてないならレジャー施設なんて全滅ですよとぼやいていた。警備員もろくに配置してないなんて、とも言われたらしい。
 うちの公園、だいたい四十ヘクタールあるんですよ。それで入園料無料なんですよ。巡回だけで精一杯でしょ、何十人も配置したら今度は税金の無駄遣いってどれだけ言われるかわからないですよ。
 室温二十八度に設定された事務局の中で、労わりの意味をこめて出された麦茶をぐいぐい飲みながら彼は言った。まあ、毎年この時期は何かしらあるもんですけどね、と。
 夏休みの小さなトラブルを何とか切り抜けて、九月を迎えた事務局からは安堵と疲労のため息が何度も漏れていた。秋の行楽シーズンまで、少しだけ客足の遠くなる日々が続くはずだ。
 慣れない痛みが目の奥のほうで起きたのは、そんな日のことだった。

「悪いね、ソファで寝かせて」
 寝室に持ち込んだ、座椅子に近いかたちのローソファにタオルシーツを敷いている星子に言った。真剣な顔をして、ソファの隙間にシーツを詰め込んでいる。
 否定のニュアンスで、ううん、と返ってくる。
「共倒れになったら、何もしてあげられないから」
「恐れ入ります」
「でも同じ部屋だから、あんまり期待はしないで」
 風邪の一歩手前くらいの症状を頻繁に起こす星子は、子供から飲める風邪シロップを愛用している。普通の風邪薬を服用するには症状が軽すぎる気がして、と言いつつ、用法用量を正しく守って飲んでいる。半分くらいはプラシーボ効果だよと言いながらも、二回ほど続けると浅いところで折り返してこられる気がする、と言っていた。付属の軽量カップに十ミリリットルのシロップをぴったり注いで、難しい顔をしながらシンクの前でちびちび飲んでいるのをよく見る。一息に流し込むとむせてしまうらしい。
 自分の寝床を作り終えた星子が、パジャマ姿で僕のほうに歩いて来る。
 無言で、そっと額の上に手が置かれる。まだちょっと熱い、と静かな声で呟いた。
 触れた時と同じやわらかさで手を離そうとするので、待って、と言った。
 彼女の腰に手を伸ばして、そのままそこに座るように導いた。
「手、冷たくて気持ちいい」
「洗ったばっかりだからね」
「しばしそのままで」
「いいよ」
 ベッドの脇に浅く腰掛けた恋人は、優しげに笑っている。

「ああ、明日には完全回復していたい」
「それはちょっと難しいんじゃない?」
「せっかく休みだったのにな。ねえ、今行きたいところとか、ある?」
 額に置かれた手が、そっと僕の前髪をかきあげる。
 星子はあまりあちこち出かけたがらない。そのくせ、少しの外出が楽しいという。僕の税金なんかのちょっとした手続きにもちょこちょことついてきて、フロアのベンチに座って窓口に向かう僕を見ている。ひとりでも銀行にも郵便局にも来るけれど、何となく見え方が違うのだという。自分の用事じゃないから気を抜いてるのかな。こんなのあった? って思うものがいっぱいある、と。
 紙に書かれた番号が呼ばれ、僕はひとりで立ち上がる。待ってて。星子は静かに頷く。うん。
 彼女は僕が誰かと話している姿を見るのが好きだという。窓口に座っている女性に、僕がきちんとした態度で接しているのを見ると嬉しくなるらしい。彼女に妬かれた記憶はあまりない。逆に、僕は星子が異性の書店員や薬剤師などとにこやかに話している姿を見るのが苦手だ。何でもないふりをしてしまうけれど、時々ばれて笑われる。
 
 行きたいところ、特に今はないかな、と返ってくるかと思っていた。
「――実はね」
 彼女はそっと立ち上がって部屋を出て行くと、一枚のチラシを持ってきた(星子のワークスペースは寝室を出てすぐの、ダイニングの壁にそってある)。
「プラネタリウム、カフェ?」
「夜に、映画の上映があって」
 隣の市に新しくできた店らしい。秋のシネマウィークとして、一週間の上映スケジュールが書かれていた。ソファ席は予約が可能、とも。
「四日目だね?」
「正解」
 星子の一番好きな映画監督の、DVDになっていない作品だった。
 九月の三週目。ふたりとも、仕事のある日の夜だ。八月の疲れを引きずっていた僕の様子によっては、言わないつもりだったかもしれない。

「これは、逃しちゃいけないな」
「うん」
「定時で職場を逃げ出さなくては」
「できるの?」
「する。この日、星ちゃんは事務所?」
「わたしもその日は打ち合わせだから、出勤」
「なら、車に着替え詰めておこうか。仕事終わったら、そのまま迎えに行くよ」
 きっと彼女は、先月買った紺色のワンピースを着るだろう。仕事の資料を探しに書店に行ったついでにと、夏物のセールに立ち寄ったのだ。そこで細いレースの縁取りのついたワンピースを一枚買ったのを知っていた。次に遊びに行く時にと言ったまま、クローゼットに押し込まれたままなのも。彼女の中にある、夏の小さな思い残し。

「寝る前にこんな楽しみになったら、すんなり眠れない」
 ふふっと笑ったあとに、彼女は言った。
「昼間あんなに寝たのに、俺はまだ全然寝れる」
「風邪だもん。しっかり治さないと」
「元気になったら、また今日の作ってくれませんか」
「いいよ。ゆずと三つ葉が入ったものがすごい好きって、倫明渋いよね」
 くすくすと笑っている。

 うつるなよ、と念じながら、一度引き寄せて抱きしめた。
 彼女は小さな歓声をあげて、僕の抱擁にこたえた。

September,3 夏の名残、風邪の休日(下)

September,3 夏の名残、風邪の休日(下)

 仕事をしていたら、夏が終わっていた。
 大人になるとこういうこともあるのだ、と、ここ数年は毎年思っている気がする。季節というのは自分から向かい合わないと意外にあっさりと通り過ぎていくものらしい。花火大会や浴衣や西瓜みたいな、一番手前に出ているものに手を伸ばさないとどこか他人事のままさっさと引き上げていってしまうのだ。
 そんなことを去年も思っていたのに、今年もやはり何も実行しなかった。
 毎日のように洗濯してくたびれた、脇の部分のほつれたUVカットカーディガンを小さく畳みながら笑ってしまった。

 夏になると血が騒ぐという倫明と、梅雨明けと同時にユニクロに出かけたのは覚えている。専用のインナーをそれぞれ三枚ずつ買って、気づけば向かいの店の入り口にかかっていた薄手のカーディガンに足を止めていた。
 きれいなサックスブルーのそれを見て、倫明はいつものあかるい口調で言った。ああ、絶対星ちゃんに似合うやつだ。雑貨店のようなその店で取り扱っている衣類はどれも安価で、この夏いっぱいだろうなと思いながらもサイズを確認してレジに持って行った。
 それ以降、ふたりで出かけた記憶がないのだ。

 手帳をひらいて、思わず出勤日を確認していた。
 勤務先の小さな映像会社は専門学校時代の同級生が副業として立ち上げたもので、ゆるい雰囲気で運営されている。共同編集のできるクラウドにすべてのデータがアップロードされているので、自宅作業も可能だ。もちろん、諸々のセキュリティ対策が必要だったけれど。
 小さい規模の会社ではあるものの、仕事内容に関してはきちんとしている。それでも基本のノルマは多くなく、あとは各自のモチベーションに任せる、と言われていた。君達の自主性を重んじるから働きたいだけ働きたまえと日焼けした顔で笑う社長の本業は果物農家で、わたしも収穫時期には配送業務のバイトもさせてもらっている。社屋として使っているプレハブ小屋も、昔は直売所だったらしい。夏にはかき氷とソフトクリームなんかも出していて、果物狩りに来た観光客の休憩所にしていたと聞いている。会社の設立時に周囲の友人達に声をかけて、補修と簡単なリノベーションを行ったと懐かしそうに語っていた。
 少子化と若手の都会進出が止まらないのもあって、この辺りは基本のパソコン操作ができるというだけでひどく重宝される。アラサーのわたしより上の世代はあまり普及していなかったと言い、下の世代はもうスマートフォンのほうが馴染む子が多い。刺激のない田舎といえばその通りなのだけれど、シンプルにマイペースに暮らしたいわたしにとってはすべてが小さく揃っているという感じで快適なのだった。
 ――しかし星ちゃん、今年の夏は働きすぎじゃね?
 八月の終わり、わたしよりふたつ年上の社長はオフィスチェアに座って足を組み、ホワイトボードを見上げながら言った。わたしの名前の横には、納品した映像のキャプチャー画像を印刷したB5用紙が十枚近く貼られている。
 日中外に出歩く気にならず、気づけば夏の二ヶ月を涼しい部屋でひたすら仕事をして過ごしていた。ひとりで電気代を増やしてごめんと倫明に謝ると、帰って来て倒れてるほうが怖いからそういうことは言わないでと怒られた。君は時々自分を当たり前のように粗末にしようとするけど、俺はそれ良く思ってないよ、とも。
 窓の外にはのどかな田舎の田園風景が続いている。さらにむこうに連なっているのは果樹園だ。
 窓から見える景色は、空と植物とアスファルト。三色あれば描ける。そんな、だだっ広いところにぽつんとあるこのアパートがいたく気に入ってしまったのだった。

「あー、って言ってみて」
 寝起きの倫明を見下ろして告げると、彼はおはようを言う前でも律儀に言うとおりにしてくれた。
 副鼻腔炎を発症して五日目。病院に行った翌日から、二日間ほど臥せっていた。微熱程度ですぐに平熱に戻ったものの、声は昨日と変わらずプールではしゃぎ倒してきた子供みたいだ。
 倫明は自分の声を耳にして、ああ、という悲しい顔をした。全然変わってねえ、と荒っぽく寝返りを打っている。
「もしかして俺、ずっとこのままなんじゃ」
「薬飲みだしてまだ三日だよ?」
 普段が健康体なだけあって、体調不良に慣れていないのだ。簡単に気弱になってしまうらしい。いつもより少しだけ甘えたい気持ちが強くなっているのか、わたしをしきりに近くに座らせようとする。そんな姿を見ているとかわいそうにと思う反面、つい笑ってしまうのだった。
「健康のありがたみが、わかる」
 ベッドの上でしみじみと呟き、また鼻をかんでいる。俺のそこまで大きくない頭蓋骨のどこにこんなに水分の溜まるスペースがあるわけ、と昨日から何度も繰り返している。
 
 
 本当は一度、会社の庭でするバーベキューの予定があった。
 毎年恒例のことで、社長一家――つまり、果樹園と映像制作オフィス両方の――が開催するものだ。早朝の市場で肉や野菜を仕入れ、社長のお母さんが何十個ものおにぎりと大鍋の豚汁を作る。夏の終わりに行われるその二時間ほどの宴に、わたしももう二回ほど参加している。
 中止になったのは、週末に超大型の台風が直撃するかもしれないというニュースが出た五秒後のことだった。
 桃もぶどうも梨も育てているその果樹園では、すべき対策がいくらでもあった。延期という言葉を使ったけれど、日を改めたとしても秋祭りの頃だろうとそれぞれが思っていた。
 結局、その日は自宅で編集作業をして過ごした。和歌山のある施設からの注文で、秋の謝恩会で流す予定のものらしい。超大型と呼ばれていた台風はそれほど大きいものではなく、本州に上陸してすぐにあっけなく温帯低気圧に変わった(これをうちの社長の家は揃って『成仏した』と言う)。
 プラスチックのコップに缶ビールを注いで手渡すことはあっても、いかにもなお酌は必要のない、くだけた雰囲気の宴だ。楽しみと言い切るには少し気を遣う行事ではあったものの、それが中止になるとわたしの夏の予定はさらにまっさらになってしまったのだった。年齢層も高めののどかなそれを、わたしはどこかで夏っぽいイベントのひとつと認識していたのかもしれない。大人になってからのわたしは海と山は遠くから見るもので、遠方への旅は一念発起でもしなければなかなかしたいと思わないことだったのだ。

「今年の夏は、ふたりともいやに働いたな」
 今日はもう横にならなくていいやと、倫明はシーツとタオルケットを抱えて洗濯機まで持って行く。うちは間取りの割にベランダが大きいから、たっぷり広げて干せばすぐに乾くだろう。からっと晴れているけれど、今日の最高気温は三十度だ。風もあって、窓を開けていると室内の空気が動いて心地良い。
「そういうつもりなかったんだけど、どうしてだろうね」
「ストイックだったね。星、(はるか)さんとも全然遊んでなかったもん」
 近所に住んでいる、書店員をしている友人だ。
「もうちょっと気温が落ち着いたら、また買い物とか誘ってみるけど」
「行っておいでよ。少し気晴らししないと」
「暑すぎたんだね、きっと」
「これから夏はずっとこうかと思うと、ちょっとめげるな」
 洗面台のほうから、洗濯機の廻り出す音が響いてくる。
 倫明は何となく手持ち無沙汰な感じで部屋をうろついている。まだあまり身体を動かさないほうが良さそうに見えるけれど、そうでもないのだろうか。
「でも、森の中のほうが涼しいでしょ」
「そう、真夏は労働環境に自然と感謝が沸く」
 わたしの座っている椅子の後ろにやってきて、彼はわたしの両肩にそっと手を置いた。肩が凝っていないか確認しているのだ。こういう仕事をしている割にはわたしは肩が凝りにくい体質なのだけれど、倫明は時々思い出したようにマッサージをしてくれる。
 力が入りすぎないようにと注意されながら動く、大きな手。彼はわたしの肩を掴む度に、星ちゃんの肩は小さいなと笑う。

「夕方、買い出し行こうよ」
「もう、外出るつもりなの?」
「どっちにしたって休み明日までだもん。もう寝てるの飽きたし」
 元気な人だな、と思う。完治までにはまだ数日かかりそうだけれど。
「スーパーと、あと何かある?」
「ドラッグストアと――あ、電球」
「そうだ、キッチンの」
 小さな蛍光灯がちかちかし始めているのを思い出した。
 パソコンのディスプレイを置いている台の引き出しを開けて、メモを取り出す。ふたりともどこかうっかりしがちなわたし達は、よく買い物リストを作るのだ。

「それでさ、西瓜、買おうよ」
「うん」
「小さい花火も、買おう」
「煙でまた鼻水出るよ」
「河川敷でちょっとするくらい、何てことないでしょ」
「心配だよ」
「なら来週までここに飾っておく」
 デスクについている棚の一番上を指差している。
 九月半ばの花火。まあそれもいいか。秋祭りでも打ち上げ花火はあるし。
 そうだね、と頷いた。
 
 長く続く気がしていた夏は、あっけなく終わっていた。
 それでも、残り香を手繰り寄せるように今日はふたりで西瓜を買おう。小玉西瓜を職場で振舞われたことはあったけれど、真っ赤なそれは実は一度も食べていなかった。
 メモの一番上に、大きめの字でスイカ、と書いた。
 倫明はメモを覗き込んで、相変わらず丸っこい字だなと笑っている。

ウィークエンド・ジャーナル【1-2】

ウィークエンド・ジャーナル【1-2】

大きなことは何も起きない、 森林公園で働く男性と家で仕事をする女性が向かい合って喋って食べて、静かに平和に暮らしているお話です。

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更新日
登録日
2021-09-30

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