ヒトとして生まれて・第4巻

第4巻 南十字星の下でのファンタジー

第1部  マウントクック村における異次元体験

はじめに

 我々夫婦で建てた「T&K:ついの棲家Ⅱ」の10年点検において
外壁の変形やクラックが発見され、建材メーカーにおいて過去の製造
ロットについて調査を行ったところ、該当製品は工場移転直後のもの
であり残念ながら不適合製品と断定された。

 結果、建材メーカー側から、当時は10年間保証の製品であったが
建材メーカーのご好意によって新たに15年間保証の新製品が市場化
されているという背景から外壁の全面的な交換が約束されて、新建材
選択のためのカタログが提供された。

 今回の 「T&K:ついの棲家Ⅱ」の建設に際しては、外壁などの
カラーコーディネートは家内のセンスの良さに任せて・・・
「従来、久保稲荷に住んでいた頃の『煉瓦調のサイディング』から」
「今回、入間が丘の住居では、暖かみのある 『土壁風』に変えた」

 そのような変遷も踏まえてJグループのデザインセンターを久々に
訪問、今回いただいた新建材カタログの現物を手にして、あらためて
新建材の感触を確認することにした。
(今回も、カラーコーディネータ役は、家内が担当)

 今回、家内が手にした、優れものは 「石積み調」のものであった。
さらに新建材では、現在の土壁風の外壁の新商品も開発しており興味
を持ったが、デザインセンターにはサンプル見本が届いていないため、
建材メーカーから取り寄せることにした。

 結果、土壁風と石積み調ではいずれも優劣付けがたく大いに迷って
いると建材メーカーの営業の方が外壁の仕上がり状況を総合的に判断
できるシミュレーションプログラムによる「仕上がり想定図」を提供
して下さることになった。

 外壁のシミュレーション画像は電子メールを介して私が授受を担当
したので画像の出来栄えなど、私も確認したが、土壁風は現状のもの
とはやや異なるが出来栄えは優れており、一方で、石積み調の外壁も
明るい印象で、優劣は付けがたかった。

 家内にとっても優劣付けがたい印象は同じで、しばらくの間、熟慮
していたが最終的には両者のサンプルボードを太陽光の下で照らして
みて、デザインセンターにて家内が最初に手にしたところの・・・
「石積み調のサイドボード」を家内のセンスで選択することにした。

 実際の換装工事は2021年3月下旬に着工、約1か月の工事期間
を経て、4月下旬に外壁工事が完了した。外壁の出来栄えは、想像を
超えた完成度で従来の土壁風外壁の明るい印象とはまた違った印象で
すっきりとした「アーバン調」の仕上がりとなった。

 ニュージーランドで、自然保護運動を展開した政治家ハリーエルが
建てた英国風の建物を見学してからというもの「石積み調の外壁」に
憧れて来たが、ニュージランドで目にした外壁と比べても、我が家の
外壁の出来上がりには満足した。

 そのようなことを思い出している内に、あのニュージーランド旅行
では別の意味で異次元体験を経験しており、その時の体験をモチーフ
にしてファンタジック小説を書き記していたことを思い出し、あれが
現実のものならば「何処の時点で、パラレルワールドの世界」に移行
して行ったのか?

「あらためて物語を辿ってみることに気持ちが動いた」

 ファンタジック小説では、洋介と美里を主役にして「夢か幻か?」
の視点で物語を進行させているが、ここで「8日間に渡る旅物語」を
あらためて辿ってみることにしよう。


【クライストチャーチの大聖堂】

 あの日、成田空港に集まったツアーの仲間は多彩であった。新婚組
の若手が2組、60歳代後半の夫婦が3組、そして親子連れの混成組
が2組、70歳代の友人ペアのお二人、シングルで参加されたお二人
そして「年齢的には、平均に位置するところの洋介と美里であった」

 まだ、初対面で気心も分からずツアーの女性コンダクターが掲げる
旗に連なって、ぞろぞろと歩いた。出国手続きが済むと出発時刻まで
は、それぞれ自由時間である。成田の出発ゲートにおいて手荷物だけ
を持って、洋介と美里は、一緒にベンチに並んで腰をかける。

「この待機の時間は、なんとも夢があっていいわね」と、美里が云う。
「海外に向けて飛び立つ時間が刻一刻と近づく感覚が好きなのかな」
と思う。それとも、松尾芭蕉翁の 「奥の細道」の序章にある風情
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」という、心境
なのかと、美里の発した言葉から、次々と、勝手に想像してみる。

 やがてNZ090便に乗り込む。機内に乗り込むとJL090便と
共同運航便になっていた。機内で通路を挟んで隣り合せたツアー仲間
のご夫婦と挨拶を交わすと、ご主人が名刺を差し出して挨拶されるの
で、洋介もつられて財布のポケットに名刺が入れてあったことを思い
出し少し遅れて名刺を差し出す。

 いただいた名刺から、新橋で弁護士事務所を開設されていることが
分かる。他のツアー客にも機内を歩き回って盛んに名刺を配っている。
「仕事には常に全力投球して、他の人に役だとうとする商売熱心な方」
なのかなと勝手に想像する。洋介も、美里を挟んだ隣席の親子連れの
母親と思われる60歳代後半の女性に名刺を渡す。

 洋介には、こういう場面での名刺交換の経験はあまりない。しかし
それも自然な成り行きであった。弁護士さんの気さくな態度に学んだ
のと、同時に、新幹線における5分間の理論を思い出していた。

「新幹線に乗ったときに、東京駅などで、隣席の方がシートに座った
ときに、目安として5分間以内に、なんでもいいから、一言でも声を
かけておくと、後の時間を気持ち良く過ごせる」と、いう経験則で
「この5分間に沈黙を保てば以降は沈黙を保てるというもの」である。
そんなことを思い出していると美里を挟んで名刺を渡した女性が唐突
なことを云い出す。

「小田さんは、出世をあきらめての海外旅行ですか?」と、
「なんということを」と、思ったが、しばし沈黙を保つことにした。
「これには、さすがの洋介も、面食らった」
「会社の永年勤続の表彰旅行です」と、間をおいて答えると
「おみかけするところまだ働き盛りのご様子でこんな時期に海外旅行
とは、出世をあきらめた方かと思いました」と、なんともハッキリと
したものいいには恐れ入った。

「そうでしたか、永年勤続のご旅行でしたか」
「銀行関係では勤続15年くらいで海外旅行させるようですよ」
「そして本人が旅行中に身辺調査をして不正が起こっていないか?」
「審査をするそうですよ」と、女性が続ける。

 そして、その後、ツアーに単身参加の銀行員が、勤続15年で参加
していることを知って、この女性の話題には真実味が帯びてくること
になる。そして、新々人類を思わせる情報通のその女性には旅の途中
で、何度も貴重なアドバイスをいただき、お世話になることになる。

 このやり取りを聞いていたかどうかは定かではないが前列の娘さん
が席を立ちあがって、振り向き・・・
「お母さん、チョコレート食べる」と、すらっとした手を差し出す。
「長女です」と、紹介され、聞けば、システム・エンジニアである
という。洋介たちも「よろしくお願いします」と挨拶する。彼女も
「こちらこそよろしくお願いします」といって前の席に座り直した。


【冬の雷は幸運の知らせ】

 ぼんやりとした感覚の中で 「なにか?」光のようなものを感じる。
だんだんと、その光のようなものが閃光となって、目に強く感じられ
低い音響に目が覚める。飛行機の前方から光りが届いてきている。

 とっさに南極からの 「冬の雷」 を想像する。

 これは幸先の良い幸福を運ぶ天使からのメッセージと感謝しながら
身体を起こす。洋介が起き上がると、待っていたかのように、美里が
笑顔で手を差し伸べてくる。

 昨夜は機内で希望者には、キャビンアテンダントからブランケット
が配られやがて周りの灯りが暗くなって行ったが、すぐには眠れなく
て手元の照明灯を付けて雑誌を読んでいた。

 エアラインの刊行物と思われるが 「ボーダレス」と、いう文字が
目に付いた。境目をなくすという言葉だが、ニュージーランド行きの
航空便についてもJAL便とニュージーランド航空便とで成田からの
搭乗口は、別々になっていたが内部では合流して、同じ飛行機に乗り
合わせたことを思い出していた。

「これも、ひとつのボーダレスか?」と、美里と話していると小声で
キャビンアテンダントの方がハッキリとしたものいいの女性に向けて
「後部座席にゆとりがございますので、ご希望どおり、奥様とお嬢様
のお二人で隣り合ったお座席を利用できますがいかがなさいますか」
と云って、迎えに来て下さり、母娘で移動していった。

 洋介と美里は三人がけで窮屈だったシートが二人がけになったので
お互いの足を投げ出して対面した。足を伸ばしきるまでは少しムリで
あったが、お互いの自由さが増したので身体を折り曲げるようにして
横になりいつの間にか、寝入ってしまったようである。

「今、どの辺を飛んでいるのだろうか」日本から南下する飛行コース
の下には、想像するところ・・・
「小笠原諸島に始まり、マリアナ諸島、トラック諸島、ソロモン諸島、
フィジーなど南国の楽園が点在するが飛行コースまでは知らない。

 それに飛行機の窓の外は暗くてよく見えないので、その手がかりは
まったくつかめなかった。

 やがて、かいがいしくキャビンアテンダントたちが、機内を廻って
朝食の準備を始める。まだ夕食をすませたばかりなのに、もはや朝が
来てしまったという印象は時差による感覚の違和感から来ているもの
である。それでも、日本とニュージーランドとの時差の影響は小さい。

 実際、日本での日常生活においても平日と休日とでは、3時間程度
の生活の時差は日常茶飯事である。「あまり、食欲がわいてこない」
ので、やわらかそうなものから口にする。美里も同じように軽いもの
から手に取っている。

「なんの気なしに顔を見合わせて笑う」この感覚的な幸福感
「朝起きて家内が傍にいる」この些細ではあるが
「実は一番幸せなこと」

 この種の幸福感についてアメリカの雑誌などでは「女性特有のもの」
として紹介している。しかし、洋介は、長い間(5年間)単身赴任で
仕事と自分だけの家事を両立させている内に、この女性特有の幸福感
も感じ取れる様になった。

 そして美里もまた自宅で単身で子供たちを育てていくために時には
父親役を引き受けて心の中でネクタイを締めて女性と男性役の生活圏
を行き来していた。

 洋介はある時「めめしい」という表現に疑問を感じて広辞苑を引き
その意味を、再確認したことがある。漢字では 「女々しい」と書き、
その説明書きには・・・
「女々しいとは、ふるまいが女のようである。柔弱である。いくじが
ない。未練がましい」と書かれている。

 しかし、昨今は「聡明な女性の活躍が職場では目立ち女性が業務を
リードする場面も増えてきている。物事をてきぱきと処理する女性の
姿を目の当たりにしていると、女々しさという表現は当たらない」と
考える。

 最近は、市役所などに出向くと・・・
「頭に婦人と付く看板は消えて女性という表現に変わってきている」
これは、女性だけが箒を持つ訳ではないという理由からの記述変更と
聞いている。かなり前から病院でも・・・
「看護婦さんから看護師さんに変わっている」

 同様のことは、アメリカなどにおいても・・・
「ファイアーマンから、ファイアーファイターに変わってきている」

 最近の英和辞書にも「気を付けて知っておく必要のある性に関わる
差別用語の注釈が載っている」 これらのことから・・・
「女々しさというより、未練がましさなど」と、いった方が適切かも
しれない。しかし美里が云うには「めめしい」という表現の方が全体
を良く云い尽くしている面も否定できないのだという。

 洋介は、そんなことを思い出しているうちに、今度は深層心理学に
出てくる「心の中の異性の存在としてのアニムとアニムスのこと」を
思い出していた。

○ アニムは、男性の心の中に存在する異性のイメージとしての存在
○ アニムスは、女性の心の中にイメージとして存在する異性の存在
であるという。

 洋介は、自分の気持ちを厳密に分析した訳ではなく、その論理とは
多少のズレがある可能性を承知した上で、誤解を恐れずに、繰り返し
考えたことを整理してみた・・・
「洋介が、美里に対して、結婚の決意を固めたのは、最初の段階では
美里の清楚な女性的な面に魅かれたが、交際を重ねるにつれて、より
魅かれたのは内面の男性的な凛とした姿勢や決断力の素晴らしさでは
なかったか?」

「美里もまた、最初は洋介の男性的な快活さに好感をもったが交際の
過程で、内面に潜んでいる女性的な優しさや慈しみに安堵感を覚えた
のではないか」

「このことは、洋介と美里の内面にある反転した立場での洋介の心の
中のイメージとしての異性と、美里の心の中のイメージとしての異性
が恋をしたことが結婚という一大決心をしたということではないか」

「このことは性的な関係よりも、より深い、人としての人間的な結び
つきを基盤においたものではないか」
と、確信に近い思いを抱くに到った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 やがて入国手続きの書類が女性コンダクターから、それぞれに渡さ
れて、それぞれに記入を終わり、身の回りの整理や整頓が始まる。
「クライストチャーチにおける入国手続きは意外とあっさり
と、していた。手元にある古ぼけたガイドブックの記述には・・・

「ニュージーランドでは、入国の際には、頭から薬剤をふりかけられ
農産物に害が及ばないようにする」などと、書かれていたが、だいぶ
観光化が進み手続きが簡略化されたようである。

 空港には見るからに頑丈そうなベンツ製のバスが待機していて洋介
たちは、そのまま市内観光に向う。バスのシートは広くて大型バスを
借り切っているため快適な観光ツアーの始まりという印象を受けた。

 やがて、バスは花壇がよく整備された建物の前に到着する。花壇を
通り抜けて行くとエイボン川の畔に出た。
「あら鴨がゆうゆうと泳いでいるわ」と、いう声をきっかけにツアー
仲間がいっせいに、鴨の泳ぐ姿を背景にして、お互いの連れや家族に
カメラを向けて写真を撮り始める。

 その場所がすっかり気に入ったツアー仲間は、一時、皆でその場所
で寛ぎ、ゆっくりとした気持ちで、奥に行くとなんとグランド一面が、
バラ園になっていて、ほとんど同時に全員が歓声をあげる。

 ほど良く手入れされたガーデニングを楽しんで、バスに乗り込むと、
「さすがに、全員がいっせいに『疲れた疲れた』と口に出しはじめた」
「思えば成田空港の出発ゲートを通り抜けて飛行機に搭乗、出発予定
の17時25分よりも30分間も遅れて飛び立ち、それ以来の安堵感
であった」

 クライストチャーチ着は、現地時間で、朝の7時35分であった。
「日本とニュージーランドでは時差が3時間あるので、日本での現地
時間に換算をすれば、明け方の4時半に叩き起こされての入国手続き
ということになる」

 まだ気持ちの上では、半分、寝っている状態の寝ぼけ顔のままでの
観光であった。大型バスの中ではあのハッキリとしたものいいの女性
が飛行機の出発が遅れた事情をみんなに聞かせている」

「あの日は外資系ファッションメーカーのセールス・レディ500名
が大挙して、チャーター便に乗り込んだのよ」
「それでもって、機内食の積載に手間取ってしまい、他の便にも影響
が出たのよ」という。
「もっともらしい説明であり、さすがに情報の入手が早いと考えると
こういう人と一緒の旅だと、ある面で安心である」

 洋介と美里との間では、この女性に敬意を称して「ミセスCIA」
と、呼ぶことにした。やがてバスは市内の大聖堂に到着する。英国
ゴシック様式の大建築物は尖塔が空よりも少し濃い青色で、大窓の
エンジ色とのコンビネーションが、お洒落な印象で見栄えが良い。

 建物の縁取りは、白色で統一されており、英国を訪れたことのある
洋介は英国の影響を感じ取った。洋介と美里はツアー仲間に、お願い
をして、ツーショットの写真を自分たちのカメラに納めた。

「尖塔まで、写真に納まりますかね」と、ツアー仲間が心配するほど
の高さである。広場では芸人たちのパフォーマンスが繰り広げられて
いて、行き交う観光客を飽きさせない。

 聖堂の中に入っていくと・・・
「これは素晴らしいステンドグラス」と、洋介は、思わず声を挙げて
しまった。最近は日本からの結婚式の申し込みが多くなってきていて、
結婚式の申し込みを制限しているのだという。

 後日、マウントクック村で会うことになる異次元の世界からの使者
でありソムリエを思わせる紳士:神崎氏はこの大聖堂の尖塔部に設え
た広角の監視カメラで洋介の姿を捉えていたというのである。


【オータムショック】

 次いでカンタベリー博物館を訪問する。ここでニュージーランドの
歴史を学ぶ。ニュージーランドは地形的に日本列島から北海道を取り
外したほどの大きさであり北島と南島からなる。クライストチャーチ
は南極寄りの南島の東岸に位置している。

「クライストチャーチの丘の上からの眺めは素晴らしく」市内を一望
できる。旅程における天候が快晴ということも手伝って旅先での秋を
大いに満喫できる幸運に恵まれた。

 丘陵からの視界には背の高い建造物はなく、秋が一面に横たわって
いた。洋介は、この旅行の出発前に東京の勤務先で、これがはじめて
ともいえるほど「見事な桜を会社の桜祭りで満喫」した。

 そして、地元の入間市にある稲荷山公園で美里と一緒に桜を楽しみ
成田空港から旅立った。
「海を越え一瞬にして、秋の眺望に変わるなんて、なんとも不思議な
体験だね」と、美里に呼びかけると
「素晴らしいわ、これが、ほんとうのオータム・ショックね」
と、美里も目を丸くして喜んでいる。

 洋介は、この感動を俳句にして・・・
「桜愛で一路海越えニュージーの秋」
と、詠んだのであった。この俳句には、春と秋が、十七文字のなかに
同居しており、松尾芭蕉翁も絶句するであろう珍句といえる。

「ニュージーランドでは、眺めの良い丘陵地帯に、家を建てることが
ひとつの憧れになっています」とは、女性コンダクターからの説明で
あり、丘陵から、広がった景色を見て「なるほどね」と、美里と二人
で一緒になって納得する。

「そういえば、高級住宅が、丘陵地帯に密集しているわね」
と、いう美里の感想に続けるようにしてミセスCIAから、
「この丘陵地帯には、自然保護運動を展開した政治家ハリーエルが
建てた英国風の建築物があるのよ」と、いうことで、みんなで現地
に見学に行くことになった。

 その建築物は、さすがに、どっしりとした佇まいであった・・・

「現在は、レストランに改造されていて、一般にも公開されている」
「ロビーに設えられたテーブルに、座るとなんとなく気持ちが落ち
着き、外の景色も、居ながらにして手に取る様に見える」
「建屋の周りは石積調でどっしりとしていて風格がある」
「洋介と美里にとっては『理想的な住居』を見付けた思いがした」

 市内観光も終わり、今晩の宿泊ホテルに着くと、それぞれに部屋の
鍵が渡されて、ディナーでの再会が女性コンダクターからアナウンス
される。部屋に入って旅行カバンを片付けてから二人でロビーに行く
とツアー仲間の若いカップルから声がかかる。

「ちょっとすいません教えて下さい」と、云われて、洋介が、
「なんでしょうか?」と、答えると、若い女性から、
「先程、ディナーの案内がありましたが、どんな服装で出ればいいの
でしょうか」

 ここは、美里の出番である。
「くつろげる感じの気軽な服装で大丈夫じゃないかしら」
と、答えると、若いカップルは安心した様子で部屋に戻って行った。

 やがて暖炉の火がチロチロと燃えているレストランに、ツアー客が
集まって来る。席は自由のようである。先ほどの若いカップルが会釈
をして近づいてくる。その後から、すっかり有名人になってしまった
ミセスCIA親娘と60才代後半のご夫婦が談笑しながら歩いてくる。

 洋介と美里もレストランの係りの女性に案内されて席に着く。洋介
と美里の前には、若い新婚夫婦、隣の席には、ミセスCIAチームの
4人が席に着く。

 大きな8人掛けのテーブルがいっぱいになる。隣席のテーブルには
弁護士さんたちが、友人と一緒に案内されて席に着く。

 こちらのテーブルでは、最近、出かけられた旅行の思い出から話し
が始まっている。ミセスCIAとは親友と思われる女性がスイス旅行
の話しを、ご主人と掛け合いよろしく楽しそうに紹介して下さる。

「スイス旅行では登山電車での山登りが一番楽しかったわ」と、いう。
「あっそうそう。ビデオが撮ってあるから、日本に帰ったら家に遊び
にいらっしゃい」と、いう話しに発展する。

「自宅には、海外旅行のビデオを、たくさん保存している」という。
ミセスCIAの友人が 「どちらに、お住まいですか」と聞くので
「埼玉県入間市です」と答えると「私たちは新所沢よ」と・・・

 ニュージーランドからの距離感では、ほとんどピンポイント的に
同じ地域といって良い。世間は狭いものである。新婚夫婦の新居は
相模原だという。

「今度この旅行から帰ったら我が家に遊びにいらっしゃい」と両家
で誘って下さる。
「ありがとうございます」と、いいながら、ご近所のしかも隣組と
いう、親近感が湧いてくる。

 やがて、ディナーが、当日のメニューに沿って運ばれてくる。
「どちらかというと薄味だね」と、お互いの感想を述べあって運ばれ
てきた料理を口に運ぶ。新婚夫妻は「海外旅行は今回が初めて」だと
いって、とても楽しそうに、皆さん方の話しを聞いていた。

 すると、今度はミセスCIAが、唐突に新婚夫婦に向って・・・
「あなたたち新婚組だけのツアーでなくて良かったわよ」と云い出す。
「なんでも、最近、新婚さんだけのツアーで地中海に出かけた」
「ツアー客にとっては12日間の豪華旅行、添乗員さんが途中で異変
に気付いた」


 旅先でもあり、必死の思いで場をとりなして、全員一緒に帰国した
ものの、そのなかの三組が、帰国後に別れることになったのだという。
しかもその赤い糸の混線模様の中から、なんと、1年後に違った組み
合わせで、2組のペアが再生したという。

 なんともビックリするニュースの紹介であった。そこに居合わせた
一同はただ唖然としてその話を聞くばかりでお互いに顔を見合わせた。
食事の途中、女性コンダクターから今回の旅程の概略が、あらためて
紹介された。

「昨日は、機内泊のため、そろそろ、眠くなってきたと思いますので」
という気遣いで、要点だけが説明される。
「明日はマウントクック村からクイーンズタウンへ行きオプションと
なるが、4日目には、ミルフォードサウンドの観光が計画されている。
そして後半には、北島のオークランド泊が、旅程の仕上りとして用意
されている」という。

 今回の旅程では随所で自由時間が工夫されており、その時の過ごし
方については大いに話が盛りあがる。旅慣れたミセスCIAチームや
お友達のご夫婦からの旅関連の情報提供は、洋介や美里たちにとって
大いに参考になるトピックス続出で、同席していた新婚組も目を丸く
したり目を細めて笑顔になったりと忙しかった。

 話題満載のディナーは、あっという間に時間が過ぎた。的確な会話
は食事の調味料というが今回について云えば、話題そのものがメイン
ディッシュという盛りあがりようであった。

 皆さんパワーに満ち溢れていてパワーを分けていただいた気がする。
「ご一緒しているだけで、自然に、気持ちが明るくなってくるね」と
その日のことを振り返りながら、早目にベッドに入ることにした。

 充分に睡眠をとったこともあり翌朝は早起きして外に出るとテカポ
湖の水面が目に入ってきた。 「あら、もう霜がおりているわよ」と
美里が枯れた芝生の上を歩いて行く。「記念に写真を撮っておこうよ」
と、美里に振り返ってもらってスナップ写真を撮った。

 やがて、レストランにおける朝食が済むと・・・
「希望される方には、今からバスの出発前に、テカポ湖周辺のご案内
を致します」と、いう案内がありガイドさんに付いて行くことにする。
「ここは善き羊飼いの教会です」と、説明があり内部に入って行くと
外からの見た目では小さな教会だが内部からの景色は大きく広がって
おり、厳粛な空気が伝わってくる。

「きれいにしてるわね」と、美里が感動の声をあげる。たしかに内部
の掃除が良く行く届いている。近くには、犬の銅像が建っていた。
「ニュージーランドの犬たちは羊たちの面倒を良くみる」
「犬たちの活躍が羊毛産業を支えているといってもよいだろう」
「その中にあって銅像になっている忠犬は、ある時、牧場主の危機を
救ったのだ」という。

 詳しいことまでは分からなかったが銅像になるくらいの忠犬なので、
「そのご主人思いの行動はニュージーランド版の忠犬ハチ公といった」
ところなのであろう。


【最高峰マウントクックの眺望】

 雪に覆われたマウントクックの姿は秀麗で、ずっと観ていても飽き
が来ないという印象である。ミセスCIA親娘は大型バスの最前列に
陣取り、娘さんが盛んにビデオで前方の風景を撮影している。

 南島の屋根といわれているサザンアルプスの最高峰マウントクック
は、探検家キャプテン・クックの名前を記念して、命名されたもので
ある。しかしながらニュージーランドを3回も訪れたという、英国の
探検家キャプテン・クックは、この秀麗な山を一度も見ていないのだ
というから驚く。

 ベンツ製の頑丈なバスは全員にシートベルトを着用させて制限速度
なしの高速運行で突っ走って行く。バスの進行方向の左手には、秋の
野原が、一面に広がっている。

「春には野原一面が花でいっぱいになります」と、いうガイドさんの
説明がある。この野原で、採れる蜂の巣は、そのままスライスカット
されて、天然産の蜂蜜として、お土産屋さんで売られている。

 右手には長手方向に沿って湖が続いている。空が写っているような
水面の青さが印象的である。我々のバスに地元の案内役として同乗し
た日本人ガイドさんは、ニュージーランドがすっかり気に入って住み
ついてしまったというだけあって土地の事情に詳しい。

「皆さまの右手に見えております、湖には、2メートル級のうなぎが
棲みついております」
「ときには水を飲みにくる子羊を呑みこんでしまう」と、聞いており
ますという説明に、洋介は内心「本当かいな」と思いながらも、情景
を想像しているうちに背筋が寒くなってきた。

 湖面に沿って走るバスの左手に目をやると風景が牧草地帯にとって
変わる。羊の群れが牧草をもくもくと食べている。バスを止めて一緒
に写真を撮ろうとすると、羊たちがいっせいに逃げ出してしまう。

 羊たちは、全てが雌であるという。雄は、子羊の段階で食肉になる。
そして種羊に選ばれた雄だけが残されるのだという。この種羊も時折、
生殖能力の検査が行われて、役にたたなくなったら食肉になるという
から厳しい世界である。

「どのようにして検査をするのですか?」と、ガイドさんに質問を投
げかけると「簡単な方法ですよ」・・・
「種羊の股間に、チョークを塗り込んでおいて、そのチョークの粉が
雌の羊たちに付着していなければ、役立たずと判断されるのです」と
いう説明に思わず「厳しい世界だな」と驚く。

 牧場での飼育は、羊だけではなく、鹿も放し飼いにされている。
「鹿のフェンスは高くしてあるので鹿を飼っている牧場はすぐに分か
ります」と、ガイドさんから説明が加えられる。やがて、トンネルに
入る手前で休憩となる。

 道路脇には小川が流れている。その水の清らかさに誘われて思わず
手で水をすくう。「心が洗われるような清清しさね」と、美里が目を
細めて喜びを表現する。

「目の前にあるトンネルは、最近の雪崩のときに、山から流れてきた
大雪により埋まってしまってブルドーザーで掘り出した」のだという。
ミセスCIA親娘が「あっ、虹よ」と、ビデオで盛んに撮影している。

 地平線上に、完全な形で跨ぐ虹を見たのは、洋介も初めてのことで
あった。地元のガイドさんが・・・
「ニュージーランドでは、虹は、あちこちで、頻繁に見られますよ」
と、説明している。

 バスから降りて手足を伸ばしたついでに辺りを散策することになり、
もう一度、虹の頂上部を見た時に、天空の光が洋介の目に糸のように
つながった。状況が飲み込めずに立ちつくしていると・・・

「さっきの滝は迫力があったわね」と、美里がついさっき滝を上から
見おろした時のことを思い出して、話しだす。洋介の感覚でも、通常、
滝は下から見上げるが、上から見おろす滝の迫力は凄かった。

 バスの運転手さんが地元のことを知り尽くしており、ガイドさんと
相談しては観光化していない穴場に案内してくれるので、ツアー仲間
は大喜びである。

 やがて、それぞれに休憩を終わりバスに乗り込む。バスがトンネル
に入ってから間もなくのこと、突然、バスのライトが消えて、車内が
真っ暗になる。
「キャー、どうしたのかしら」と、女性たちが騒ぎだす。
「すぐに、ライトが点灯される」

 しかし、その時には愛嬌たっぷりの運転手さんのいたずらであった
と思い込んでいたが、後日になって、気付いたことであるが・・・

「後刻、ソムリエ風の紳士:神崎氏に異次元の世界に案内されること
になるのであるが、トンネル内での暗闇作業こそがパラレルワールド
に向けての、軌道が用意された瞬間ではなかったか?」と、思われる
懸念が感じ取れる事態が訪れることになる。先程の虹の頂上部からの
天空の光が洋介の目に飛び込んできたのもバスの運転手さんたちへの
天空からの合図であったとも、受け取れる場面に直面するのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「トンネルを抜けるとマウントクック村です」と、ガイドさんからの
案内がある。話題は変るが、ニュージーランドに来てから随所で環境
保護への配慮を感じ取った。

 例えば、ゴミ捨て用の袋には燃えやすく工夫された、特別製のもの
を使っている。また公衆トイレにおいては施設全体がステンレス製で
建設されており、天上から一気に水が流れる仕掛けになっている。

 そして、トイレ内の清掃についても、小まめに実施されている様子
であり、あのトイレ特有の異臭感は「まったくない」と、いって良い。
「ハイキングコースなども、有名な景勝地を訪れる登山者は、登録制
になっていて登山者に対しては『登山をする上でのエチケットが徹底』
されていて厳格に守られているのだと」という。

 マウントクック村に着いて、最初に、目から入ってきた印象はゴミ
ひとつない清潔感であった。村からの眺めはマウントクックが目前に
迫ってきて圧巻である。

 標高3764メートルもある最高峰は、最近の大きな雪崩で標高が
変ってしまったという。このマウントクックに、さらに近づきたいと
いう人のために、軽飛行機で頂上付近の氷河に着陸する航空サービス
が用意されている。

「風の強いときに飛行機に乗ると、機体がかなり大揺れしますよ」と、
ガイドさんから説明があったが 「私たち飛んで来るわ」と、ミセス
CIA親娘と友人夫婦は、一番乗りで名乗りをあげる。

 さすがに、好奇心旺盛で反応も俊敏である。新婚夫婦も同行すると
いう。洋介は、美里に向かって「どうする」と、聞くと・・・
「私は、まだ子供たちを育てきってないから、やめておくわ」という
返事が返ってきた。洋介は、美里と一緒に、ミセスCIA親娘と新婚
夫婦の乗った軽飛行機が飛び立つのを見送ってからレストランで昼食
を取ることにした。

 二人でレストランに入ると、店内は、大賑わいの盛況ぶりであった。
「あの人たち、本当に元気ね」と、ミセスCIA親娘やお友達夫婦の
パワフルさに驚きながら、チーズ味の食事を心ゆくまで楽しんだ。

 昼食を終わって隣の部屋に移ると「真正面にマウントクックを眺望
出来るよう」に寛ぎの間が用意されていた。中央の大きなソファーに
座ると目の前に広がった深い森林に吸い込まれるようにそして優しく
包み込まれるような感覚に陥って思わず睡魔に襲われた。


【マウントクック村での異次元体験】

 洋介は、自分専用のカメラを一眼レフにしてからというもの、旅に
出掛けたときの写真の出来上がりが楽しみになった。マウントクック
を背景にして、美里を左側の自動焦点に合わせて、一枚、二枚と少し
ずつアングルを変えながら撮影して行く。

 最近は、デジカメの一眼レフが全盛だが洋介はいまだに前から愛用
している一眼レフにこだわり続けている。洋介と美里のツーショット
の場面ではハンディーカメラに取り換えて、リモコンの2秒タイマー
を使って撮影していると「小田洋介様ですか」と、蝶ネクタイの紳士
が、こちらに向かって真っ直ぐに歩きながら会釈をして来る。

「小田洋介様ですか」と、再び、尋ねてくるので、
「はい、小田洋介です」と、答えると、
「閣下が、洋介さまに、是非、お会いしたいと申しまして、お迎えに
あがりました」
「家内が、一緒ですが」と、いって、美里のほうを振り返ると、
「お時間は取らせません」と、いって、美里に視線を合わせた。

「バスツアーの出発時刻までには必ず間に合わせますので」と、なに
もかも、お見通しのようである。
「あなたバスの出発までには時間がありますから、いってらっしゃい」
「私はこの辺りで時間を過ごして待っていますから」と、うながされ、
ようやく心が動いた。

 蝶ネクタイの紳士に案内されて、外に出ると、目の前には黒塗りの
ロールスロイスが止まっている。
「どうぞ」と、ドアが開かれてゆったりとした後部座席に案内される。

 洋介はだいぶ昔のことであるが、イギリスで航空機用のエンジンを
製造していたロールスロイス社を訪問した際にイギリスのダービーの
ホテルまで、同じタイプのロールスロイスが迎えに来て、上司と一緒
に乗ったことがあるので、室内の様子はだいたい分かっている。

 蝶ネクタイの紳士は後部ドアを閉めると前室に乗り込んだ。そして
前室で運転手さんに、なにか盛んに指示を与えている。運転席までは
離れていて良くは聞き取れないが・・・
「時間経過の設定を百万倍速にしておくように」
「バスの発車に遅れないように、セフティーロック付きのタイマーを
かけておくように」と、いうようなことを云っているようだ。

やがて後部座席のドアを開けて蝶ネクタイの紳士が乗り込んできた。
「小田様、バスの出発までに丁度2時間の余裕があるとお聞きしまし
たが、念のためタイマーの磁気を手首に塗布させていただいて、よろ
しいですか」と、聞いてきたので・・・
「ああ、このことを話していたのか」と、自問しながら
「はい、よろしくお願いします」と答えた。

 ロールスロイスの車内は、後部座席がそこだけでも、ちょっとした
応接室のように設計されている。後部座席の前方には補助座席が後ろ
向きに設けてある。その座席に蝶ネクタイの紳士は天井を気にしなが
ら窮屈そうに腰掛けて、なにやら機器をセットしている。

「小田様、恐れ入りますが、この筒の中に手首を差し入れていただけ
ますか」と、声をかけてくる。
「はい完了しました」というので手首を見ると東京ディズニーランド
に行った時に、一時的に外に出て、お土産を買おうとした時に手首に
付けてもらった蛍光マークのようなものが塗布されていた。

「それでは出発させていただきます」と、いって蝶ネクタイの紳士は
運転席の方に移って行き、やがて車は静かに走り出した。しばらくの
間、市街地を走り抜けると、小さな港には、軽量ヘリコプターが用意
されていて蝶ネクタイの紳士は自らパイロット席に座りヘリコプター
の操縦桿を握った。

「ところで、洋介さまはニュージーランドは初めてでございますか」
と、親しみを込めて聞いてくるので「はい初めてです」と、答える。
「閣下は、大聖堂で、お父上の竹次郎さまに、そっくりな洋介さまを
お見かけして、ずいぶんと驚かれた」とのことでした。警戒心の強い
洋介にレストランにおいて蝶ネクタイの紳士が説明した話では、父親
の竹次郎とは知り合いの方だというので安心して同行してきた。

 美里もまた父親の竹次郎の知り合いということでもあり人物的にも
安定感のある印象を受け、安心して送り出したのであった。
「父親のことを良く知っている閣下とはどの様な方なのだろうか?」
「どのような関係の知り合いなのだろうか」と、自問を繰り返す。

 やがて軽量ヘリコプターは、大きく旋回して海面上に浮かんだ簡易
エアーポートに着陸する。そこから、またジェットボートに乗り込み、
しばらくの間、洞窟の中を抜けて行くとそのまま大きなエレベーター
の中に飛び込んだ。

 そこからは猛烈なスピードで地下30階と標示されたフロアーまで
高速移動した。ジェットボートは、そのまま、後ろ向きに外に出ると
ターンテーブル上で向きを変え、また、一気に突っ走る。
「いったい、ここは、どこなのだろうか?」と、少し不安になる。

 ジェットボートから降りて蝶ネクタイの紳士に案内され正面の部屋
に入って行くと「ここで、時空交換をします」と、云う説明があって
座り心地の良いソファーに案内される。

 ゆったりと腰掛けていると、ブーンと云う唸り音とともに目の前が
真っ白になった。
「これで時間軸が百万倍モードになりました」と、云うのだが、その
意味がまだ良く呑み込めないでいると・・・
「これも百万倍モードで、収録されていますので、ご覧になっていて
下さい」と、カセットが差し出される。

「これは、なんのカセットですか?」と、おたずねすると・・・
「閣下が申すには、日本の政府機関である機械振興協会の連載記事で
著者の藤波修氏が各種文献から編集されたものを、デジタル加工して
百万倍速で聞き取れるようにしたものだそうです」
「日本の航空機産業の歴史が、よく整理されていて分かりやすく解説
されている」と、申しておりました。

「洋介さまの感想も、お聞きしたいと申しておりました」と、いって
ヘッドホンの様なものを差し出す。
「これは、なんの機器ですか?」
「ヘッド・シミュレーターです」
「洋介さまが感じ取られたことを、そのままテキスト・データとして
書き出す機器が内臓されています」
「そんなことが出来るのですか?」
「はい、最近の脳科学の進歩で可能になったのだと閣下からは聞いて
おります」

「洋介には半信半疑であったが乗りかかった船ということで信頼して
行くことにしようと腹を括った」
「アイマスクのような装置を目に当てて、ヘッド・シミュレーターを
ヘルメットのようにして、頭からかぶると、やがて目の前をタイトル
文字が走っては消えた」

「日本の航空機産業の起源を辿る」と、声を出して読んでみる。

 今度は、解説文が、ゆったりとしたペースで、目の前を流れて行く。
これをテロップというのだと過去の記憶から思い出していたが、別に
読もうと努力しなくても頭に入ってくる感覚は新鮮であった。同時に
耳からも音声が聞こえてくる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【日本の航空機産業の起源】

 日本の航空機産業を論じる時に、造船産業と自動車産業とを合わせ
て見ていく必要がある。軍の影響を大きく受けてきた造船業は、戦前
から技術的に世界水準に達していた。その造船技術と設備が、戦前の
航空機産業の隆盛につながった。

 しかし、その技術も世界を圧倒するレベルではなかった。そのため
に、その技術力がかえって戦争を長引かせることになり、犠牲を大き
くしたと云われている。

 一方で造船業よりも遅くスタートした自動車産業は、戦前は世界の
技術水準に遠く及ばず家電製品と同じく粗悪品の代表といわれていた。
しかし、戦後の連合軍による航空機産業の禁止令の空白期に、多くの
航空機技術者が自動車産業に流れて行き、その結果として現在の世界
的な自動車産業の成立につながっていった。

 この三つの産業の歴史を辿るとき、将来の、我が国の航空機産業に
おける未来像も見えてくるかも知れない。そこには、我が国の航空機
産業の限りない発展性が見え隠れしている。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 気のせいか、遠くのほうから、足音が近づいて来る。
「紅茶をお持ちしました」と、いう言葉が、後方から聞こえてくる。
洋介はヘッド・シミュレーターなど機器一式を頭と目と耳から外す。
「ロイヤルミルクティーをお持ちしました」
「いかがですかテロップは、ちゃんと流れておりますか?」

「閣下は、日本政府の刊行物をデジタル処理して、正確に、音声化
したといっておりましたが」と、先程の蝶ネクタイの紳士が小脇に
アルバムを抱えながら話しかけてくる。
「お父上は、そのミルクティが、とても、お好きだったようです」

 たしかに、洋介の父親は紅茶好きである。夜などはチーズと共に、
紅茶を楽しんでいた。
「閣下のお話では、若いときの竹次郎さまのお写真が、洋介さまに
そっくりであると申しまして」

 アルバムには、若いときの父親が写っている。後方には、飛行機が
写っている。首には、絹の光沢感のある白いマフラーを巻いている。
洋介は、かつて父親の若いときの写真を見ておりたしかにパイロット
の格好をしているが、父親に間違いない。

「お父様は閣下の秘蔵子といわれた優秀なテストパイロットでした」
「終戦までの間に、百機近くを乗りこなされたようですよ」と、いう
説明に、洋介は耳を疑った。

 当惑した表情の洋介の顔を見て・・・
「閣下は、フューチャー・エリアで、飛行準備を進めております」
「洋介さまに、是非とも、搭乗していただきたい」と、云って楽しみ
にしております。

「それまでの間、私に、イエスタディ・エリアをご案内するように」
と、申しまして・・・
「今、ご覧いただいております、カセットは百万倍速ですので短時間
で、目を通すことが可能です」

「ここでカセットをご覧いただきますと、後でイエスタディ・エリア
において実際に搭乗体験されるときに役立つかと考えます」と云って
洋介が飲み干した紅茶を片付けるように、と、アシスタントの女性に
指示すると、そそくさと、そこから立ち去って行かれた。

 洋介にとって、テロップは目の前をゆったりと流れており、これで
百万倍速なのだろうかと疑問に思いながらも信じてかかることにした。
アシスタントの女性が 「自分の名前は、白木であり」用事があれば、
リモコンスイッチを押すようにといって引き揚げていった。

 洋介は、ヘッド・シミュレーターを装着して続きを見ることにした。
テロップによって、小見出しが最初に示されるので、頭の中で整理が
しやすいという仕掛けになっている優れものである。

・・・・・・・・・・・・・・・

【造船業からの近代化の始まり】

日本の造船業は幕末に始まっている。動力のない木造船は、太古の昔から作られて
いたが、動力付きの鋼鉄製の造船は幕末からであった。それまでの和船は、龍骨の
ない底の平らな帆船で、外洋航海には不向きなものばかりであった。

1853年に、浦賀沖にペリー提督が率いる黒船が突如として現われ、この蒸気船
が、日本の造船業を近代化に導いた。それから、150年間たった現在においても、
なにかにつけて、アメリカから変化を促されて、日本の社会構造を変えようとして
いる姿は、今も昔も変わっていないところが興味深い。

幕末には、日本でも造船ラッシュを迎えることになるが、コスト面などから、外国
からの輸入にかなわないことがすぐに判り、ほとんどの造船所は閉鎖されていった。

しかし水戸藩が江戸の石川島に開設した造船所は生き残り、1867年に平野富二
が払い下げを受けた。これが日本最初の民営の造船所となった。この石川島造船所
では船体の建造が盛んに行われた。

一方で、幕府の長崎造船所は、明治政府に引き継がれ、後に三菱に売却された。

その後、第一次大戦後は、国産艦船だけで、艦隊を構成できるまでに建造力を
向上させていった。

民間需要も第一次大戦を経てから著しく伸びて、1919年(大正8年)には、
国内需要のほとんどをまかなえるまでに成長した。

時期を同じくして工作機械メーカーや製鉄業も、世界的産業に発展していった。
このようにして、日本の工業生産力は、造船技術の総力を高めて行き、第二次
世界大戦前の1939年(昭和14年)には、日本の造船技術は、イギリス、
アメリカに続く、世界で第三位の造船国になっていた。

・・・・・・・・・・・・・・・

【 航空機産業の始まり 】

日本において、初めて空を飛ぶ快挙は、松山藩の二宮忠八が・・・

1891年(明治24年)に、ゴム動力によって鳥を真似た模型飛行機を製作。
空中を30メートル飛ばした。その後、実用機を設計して、陸軍に提案したが
採用されなかった。

その後、二宮忠八は、ライト兄弟による人類初の動力による飛行を新聞で読ん
で知るところとなり、涙を流して悔しがったと云われている。

ライト兄弟は、1903三年(明治36年)12月に、アメリカのノースカロ
ライナー州において、人類初の動力飛行に成功した。

日本における動力飛行は、1910年(明治43年)12月に、フランス製の
アンリ・ファルマン機によって、徳川大尉が飛行に成功した。
一方、ドイツ製のハンス・グラーデ機は、日野大尉によって飛行に成功した。

この2機の記念すべき初飛行は、代々木練兵場で行われた。

日本における、航空機製造の取り組みは、1909年(明治42年)の研究会の
発足からである。陸軍は、1911年(明治44年)、所沢に、日本初の飛行場
を建設した。一方で、海軍は、横浜の金沢海岸に、飛行艇の基地を開設して航空
機製造のインフラを整えた。

そして、海軍は、海軍士官7名をヨーロッパとアメリカに派遣して、フランスから
は、ファルマン機を二機。アメリカから、カーチス機二機を持ち帰った。

その後、海軍は、ファルマン機の輸入を促進。さらに、海軍は保有する船の一隻を
空母のように改装した。

一方で、陸軍は、1911年(明治44年)に、フランス製ルノーのエンジンを基
にして、エンジンの生産に成功している。

1915年(大正4年)には、陸軍に、航空隊が設立され、翌年、海軍にも同様の
組織が設立された。このような状況のなかで、航空機開発の必要性が盛り上がって
行き、やがて、航空技術者の養成が急務となって行った。

東京大学工学部には、航空研究所と、航空学科が設置され、航空技術者の養成が、
急ぎ進められた。

1917年(大正6年)頃になってからは、民間の航空機メーカーが続々と設立
された。

中島飛行機や、三菱重工、川西航空機、川崎航空機、愛知航空機、九州航空機、
立川航空機などは、いずれも大正時代に設立された。このなかで、三菱、川崎、
立川は造船業に源を発している。

三菱航空機の発祥は、大正9年、三菱内燃機製造が、名古屋大江町に設立された
ことに始まる。昭和3年には、三菱航空機と改名され、さらに、造船部門と合併
して、昭和9年、三菱重工に改められた。

三菱は、日本初の独自の設計による海軍九六式艦上戦闘機の開発をはじめとして、
世界をあっと驚かせた零戦を開発。終戦直前にロケット航空機秋水を完成させた。

川崎航空機は、大正8年の川崎造船飛行機科の設置が、航空機メーカーとしての
始まりである。昭和12年、岐阜県各務原に工場を新設して独立し、川崎航空機
とした。高速戦闘機飛燕の開発が有名である。

立川飛行機は、最初は石川島飛行機と称して、石川島造船の子会社として、大正
13年に東京月島に創設された。その後、立川に移転し昭和11年に立川飛行機
と改名され、川崎航空機や中島飛行機の機体を数多く転換製作した。

昭和15年、日本紀元二六○○年記念行事として、朝日新聞が主体となって製作
されたA26は、東大航研の設計チームの下、立川飛行機にて製作が進められた
ことは有名である。

中島飛行機の成立は、海軍機関大尉であった中島知久平が1917年(大正6年)
に退役後、郷里の群馬県太田市にて、航空機研究所を創立したのが始まりである。
これは日本において民間航空機工場の第1号といわれている。

中島知久平は、さらに繊維会社を経営していたところの川西清兵衛との共同事業
として、1918年(大正7年)には、合資会社日本飛行機製作所を設立したが、
翌年に中島式四型のエンジンに係わるトラブルが原因で川西との提携を解消した。
その後は、社名を中島飛行機製作所に変更して、数多くの名機を送り出した。

中島飛行機製作所では・・・

陸軍機では鍾馗、呑竜、疾風など。海軍機では月光、天山、銀河、富嶽。そして、
終戦間際には、我が国初のジェット戦闘機「橘花」を誕生させた。

・・・・・・・・・・・・

洋介は、目が疲れたこともあり、ヘッド・シミュレーターを取り外した。日本の
航空機産業に関するテロップを垣間見ただけであったが自分たちを取り巻く因縁
の深さに驚いたのであった。

父親の竹次郎が、生まれた年は、 1909年(明治42年)で、日本において、
航空機製造の取り組みが、始まった年である。

今回の旅で一緒のミセスCIAや洋介が住んでいるところから近い所沢はまさに
日本の初期における飛行現場である。

そして洋介が生まれた群馬県太田市は飛行機の神様と云われている中島知久平氏
の郷里である。終戦間際に飛行試験に成功した、橘花に搭載のジェットエンジン
は、洋介の勤務先の石川島播磨重工業の武蔵野にある事業所に現存している。

そういえば、洋介が入社して配属先が航空機用エンジン部門と知ったときの父親
の喜びようは並大抵のものではなかったことを思いだした。

現在、洋介が勤務する航空エンジンの事業所は武蔵野に在る。洋介の航空機分野
への就職を自分のことのように、喜んでくれた父親竹次郎の気持ちのなかには、
航空機に関する並々ならぬ意味深いものがあったのではないかという印象が脳裏
によみがえってきた。
 
しかし、父親の竹次郎が航空機の飛行試験に携わっていたことを、洋介には一言
も語ったことがないのはなぜだろうか?

ここで洋介は、記憶の彼方から子供の頃に父親と一緒に飛行場で見た、あの燃や
されていた飛行機のことをフラッシュバックのように思い出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・

洋介は桐生工業高校卒業まで父母兄弟と一緒に群馬県に住んでいた。

父親は群馬県前橋市の出身であるが、第二次世界大戦の時に、中島飛行機に勤める
ようになって、群馬県太田市に住むようになり、そのまま、太田市に住み着いた。

第二次世界大戦が終わってからのことであるが、飛行場で日本の飛行機が燃やされ
る姿を見て、洋介は、子供ながらに、背筋が寒くなったことを今でも覚えている。

父親は、そんな光景の中で、燃やされてゆく飛行機を黙って見ていた・・・

「洋介、行くか」という掛け声は、父親が休みになると決まって飛行場に行く合図
であった。父親は乗物を自分で動かしたり、エンジンを分解して、調整したりする
ことが部類に好きであった。

そういえば、正月に父親のところに大吟醸をぶらさげて遊びに行ったときに父親の
若かりしときからの乗物好きに話が及んで、おおいに正月の宴が盛り上がったこと
を思い出した。



【 新春の家族 】

あの年は小寒を過ぎてからも、いつまでも暖かさが続いていた。その暖かな陽気は、
元日から続いているもので、会社からの帰宅時など、暖房の効いた電車に乗り込ん
でいると、コートの下で、背中や胸に汗を感じるほどの暖かさであった。

洋介は、久々に実家に帰って奥の部屋で着替えをしながら、ふと裏庭を見て小寒を
詠んだ俳句を思い出した。

「小寒となりしは名のみあたたかや」    星野立子

この部屋の外側にある縁側では、高校生の頃、よく英単語を覚えた。いまだに英語
をはじめとして外国語は苦手である。日本でも、英語教育の在り方を英会話中心に
転換するという、新聞記事を正月に読んだせいか、そんなことをぼんやりと思い出
していた。

今日は洋介の父親竹次郎が目を細めて喜ぶ大吟醸をぶら下げての帰省である。父親
はアルコール類は苦手な体質だが、微量の大吟醸を嗜むことだけは好きなようだ。

どうやら、父親も弟も出掛けていて留守のようである。

玄関口で声をかけた洋介に、大急ぎで出て来た母親が思いがけないことを云いだす。
「洋介が、今年の十月に乗る船に、美里さんの義弟の徹さんも一緒に乗船するそう
だよ」 なぜ、そんなことを母親が知っているのだろうか?

「だれに聞いたの」というと、母親は間を置かずに、
「美里さんの妹さんからの年賀状に書いてあって知ったのさ」

「彩子さんからの年賀状に?」
「やだね、他に、だれがいるのさ」
「いやあ、まいりましたね、あまりにも唐突な話で頭の整理がつかなくて」

「そりゃあ、私も、思わず眼を疑ったよ」
「年賀状で彩子さんのご主人が洋介と、同じ・頃に、船に乗る」
と、聞いてピンと来て電話で、
「詳しくお聞きして同じ船に乗ると分かったのさ」
と、昔から勘の働く母親は、洋介のことになると特に勘が働くらしい。

これは母子で、戦友のような、強烈な戦争体験を経ているためと、洋介は受け止め
ている。洋介は、1942年(昭和17年)生まれのため、生まれたときには既に
第二次世界大戦に突入していた。

終戦のときには満三歳であり、終戦前には真っ暗な防空壕の中からB29の標識灯
を見た記憶がある。

「洋介は、母さんと一緒に、防空壕のなかで、かろうじて生き残ったのさ」という
話を聞いたことがある。

戦時中、父親は中島飛行機に行ったままである。空襲警報が鳴ると、母親は、洋介
を抱えて社宅の近くの防空壕に避難していた。これは、当事者の母親さえも、後に
なって知らされたという話であるが・・・

「母さんと洋介が隠れていた防空壕の上を、三機の戦闘機が、辺り隈なく機銃掃射
して行ったのだ」と、いうのである。

母親と洋介は、たまたま機銃掃射の間隙に位置していたために母子ともに助かった
のだという(洋介は、まさに、このとき生かされたのであった)

今回も母親から、三菱重工業に勤める義弟と一緒に、同じ船に乗ることを、真っ先
に言い当てられたが、その前の予定で、今年は、永年勤続表彰旅行として会社から、
特別有給休暇五日間と副賞の三十万円をいただけることになっている。

これに、通常の年間休暇と自前の費用を加えて、今年四月になったら美里と一緒に、
ニュージーランド旅行に出掛けることを考えている。

義弟と一緒に乗る船は、秋に、洋上大学の講師として、二週間ほど、シンガポール
や香港に出掛ける内容のものであり、義弟は社内で選抜された受講生として乗って
来るようだが、初対面なので人となりは存じ上げていない。

今年、まだ、時期が未定なのは砂漠の実態調査であるが、今のところ、計画だけが
先行している。

これは、昨年から始まったプロジェクトで、二人乗りの超軽量ヘリコプターの設計
と試作が完了して、その飛行試験の場所を探すためである。

このヘリコプターは操作性が極めて簡単でエアーの流れを電子制御することにより、
騒音が少なく都市部での利用が容易なことに特徴がある。

これをカーフェリーなどと組み合わせることにより、横浜地区に設けたヘリポート
基地などから、各都市にリース方式で、お客さまに供給をしていく、画期的な航空
輸送方式を計画している。

そのテスト空間の確保とやがては飛行訓練場。さらには、飛行ゲームエリアとして
の発展的な利用空間を計画している。

そのためには地球上のデッドエリアと思われる砂漠の利用がコストパフォーマンス
的にも有利ではないかと考えている。また実機検証を兼ねた飛行テストを同じ場所
で実施することも考えている。

そんな洋介の変化を、勘の良い母親が、見逃す筈がない。
「洋介、おまえ目が輝いているね。何かいいことでもあったのかい?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

洋介は、自分が勤務する会社において、愛社精神を目一杯に発揮できるのは、なん
といっても、人命尊重を第一に考える企業だからと考えている。お客さまの人命を
託されている企業は、安全飛行を達成するため、徹底的に設計に時間をかけ、実験
を繰り返す。

そして、設計が決まれば、製造までの段階で徹底的なコストダウンを図り、高品質
の製品を最少のコストで造り上げる。

運用支援の面からは、お客さまの必要なタイミングに合わせて的確な支援を継続的
に展開して行く。そして、最終的なお客さま満足と感動の共有は輸送段階における
超スピード化の実現である。

お客さまのスピードへのご満足を安全面からも支えてゆく。したがって、生産工場
には、いつも、適度な緊張感が漂っている。今回の飛行試験による実機検証につい
ても、お客さまの人命尊重第一の考え方に基づいて計画が練られてきた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・

やがて、玄関口から、父親の声が聞こえてくる。

「洋介、帰ってきたか。美里さんも一緒か」と、いう父親の後ろから、弟の彰次が
やってくる。

「兄さん、お帰りなさい」と、上背のある彰次が人なつっこい顔をして頭を下げる。
「あれ、幸枝さんは」と、いう洋介に、弟が振り向いて、
「今、鮮魚センターで買い込んできた魚貝類を車から降ろしているから、もうすぐ、
こっちに来るよ」

すると、父親が、洋介と彰次との会話が終わるのを待っていたかのように、

「おい洋介、久しぶりに、蟹のしゃぶしゃぶで、一杯いくか」というので、洋介は
手をたたいて、

「そう思って、大吟醸を用意してきたよ」と、笑顔で応えた。
「いいね、洋介は相変わらず気がきくね」と、奥に居る母親に向かって声をかける。

母親の節子が、急ぎ足で奥から出てくる。
「お父さん。早かったわね」
「そりゃ洋介が、久々に、嫁さんを連れて帰って来るっていうから、買い物も大急
で済ませたよ」

「洋介、奥の部屋に食事の支度をしたから、皆に声をかけておくれ」
縁側を通って奥の部屋に行くと、七畳半の部屋を二つ隣同士で開け放った部屋には、
テーブルが二つ並んでいた。銅製のしゃぶしゃぶ用の鍋も、既に、用意されている。

この家は、豪商の妾宅を解体して、ここに運び再組み立てしただけに凝った造作に
なっている。周りは回廊のような縁側風にしてあり、表側にはガラス戸があるので、
冬場は、よく遊びのための自由エリアとして使った。

そもそもの狙いは、それぞれの部屋への出入りが、しやすいように工夫したもので
ある。洋介は、高校生の時代に勉強に飽きると、ここを気分転換の場にしていた。

そんな昔の思い出に浸っていると、みんながそれぞれに、何やら手に持ってワイ
ワイガヤガヤと集まって来た。

父親竹次郎の乗り物好きは、今に始まったことではない。父親が、青年時代を
過ごした群馬県前橋市は、養蚕が盛んな土地で、祖父は生糸を製造する工場を
前橋で経営しながら絹を外国に輸出するという製販一体の事業を経営していた。

竹次郎は、次男として生まれたのだったが、長男が武術家を目指し家業に全く
興味を示さなかったために、竹次郎が青年時代から後継者として育てられた。

地域では、負けず嫌いな性格から、地元の野球チームのエースとして期待され、
祖父もそんな性格を見込んで事業運営の初歩から熱心に仕込んでいた。

そんな竹次郎が仲間と熱中したのが、ハーレーダビットソンやインディアンと
いった大型オートバイによる競い乗りであった。

工事現場にダイナマイトを運ぶプロフェッショナルなサイドカーと、群馬県の
山道で競い乗りをしたというから、相当にあぶない遊び仲間だったようである。

しかしさらに乗り物への興味を深めたのは、当時の小型自動車ベビーフォード
へのあこがれであった。これが今日にまで到る熱狂的な乗り物好きに、決定的
な影響を及ぼしたようである。

祖父の性格を熟知していた竹次郎は、群馬県の田舎道で、親友から車を借りて、
練習を重ね、先ず、自動車運転の免許証を取得してしまった。その上で祖父に
「車を買って欲しい」と陳情した。

当時の感覚では、とんでもない陳情であった。それでも、祖父の顔を見る度に
陳情を重ねた。

「車を運転するには、免許証が必要だというじゃないか?」
「免許証が取れたら考えても良い」と、当時、車の運転は難しくて、免許証を
手に入れるのはたいへんなこと、と、知り合いから聞いていた祖父はそうして
諦めさせようとしたという。

竹次郎は黙って免許証を差し出した。武士に、二言はないが口癖だった祖父は、
竹次郎に一本取られた。

父親から聞いた、ベビーフォードでの失敗談には、洋介も目を丸くした・・・

「愛車のベビーフォードを悪友たちと走らせ、当時の鉄道の線路に嵌めてレール
運転を楽しんでいたら、当時、鉄道の運行数が少なくて、汽車は来ないと決めて
かかっていたところ汽笛が聞こえた」

「慌てて、土手の下にハンドルを切って脱出した」と、いうのである。

「危機を脱したものの、車内は上も下もない大混乱で、あの時は、さすがに驚き、
そして、まいったよ」と、いう父親竹次郎からの仰天話であった。

「今、そんなことをしたら、あの世行き」と、いうのが洋介の率直な感想である。

またハーレーダビットソンによる工事現場のプロフェッショナルとのオートバイ
競争では、当時の踏み切りの遮断機には、鉄製の鎖を使っていたため競争に夢中
になりすぎた同僚が、無理な踏み切り横断をして、鎖が身体に巻きついて大怪我
をしたという。

「今の若い者は、どころか、昔の若い者は」と、いったところだが、どこからが、
危ないのかを、若いときから、肌で感じ取っていたために、昔の人は、戦時下を
生きのびてきたのだと、洋介は考えている。

戦時下では、予想もしない出来事が発生する。現に、美里の父親はマレーシアに、
陸軍士官として、従軍中に炊事当番が、突然、姿を消したため、周辺一帯を捜索
したところ、水を汲みにいった帰り道、虎に襲われたことが分かり部隊が総動員
で虎退治に当たったという体験談を聞いた。

戦時下における予想外の出来事に例外はなく、それは女性たちにも襲いかかった。
洋介の父親の妹である春子は、銀行員として同僚とともに満州に渡った。

そして終戦、日本に帰るためには夫婦の形態をとっての帰還でなければ、極めて
危険な状況にあったため、同僚の助けを得て、仮の夫婦を装い命からがらの思い
で、日本に帰ってきた。

当然のことだが、戦争が終わっても、そこに居合わせた人たちは、引き続き戦争
の余波を受け続ける。先ず、帰還しても仕事がない。春子は兄の竹次郎のところ
に身を寄せた。

当時の記憶は、洋介にはないが、食事の時に、
「叔母ちゃんが、ご飯をみんな食べちゃう」といって、春子叔母さんを困惑させ
たというのであるが、まったくといってよいほどに記憶は残っていない。

心理学教室において・・・

「幼い頃の記憶を、何歳までたどれるか」という設問があったが、防空壕から外に
出て、おしっこをしようとして空を見上げた時に、B29の標識灯を見た。これは
三歳時の恐怖感の記憶であるが春子叔母さんとの食事時の問題発言の記憶はこれが
まったく残っていないのである。

ただ、子供心に・・・

「綺麗な女の人だなあ」と、いう印象は記憶に強く残っている。その後、春子叔母
さんは洋介の父親の知り合いの紹介で東京の遊覧飛行機の案内嬢として職が決まり、
居候生活にピリオドを打った(当時、母親の食事代の工面は、困難を極めた様だ)

当時、洋介は、まだ幼く、父の竹次郎が、どのような経過で航空関係者に知り合い
をもっていたのかは知らない。

何年かして、子供ながらに・・・

「これが人間の運命なのか」と、思わせる出来事が起こった。あの春子叔母さんを、
お嫁さんとして迎えたいという人が登場したのである。しかも、茨城県から本人が
父親と一緒に、親代わりの竹次郎のところに、たずねて来るという。

当日は、前日の晩から、泊まり込んでいた春子叔母さんと、父親の前に、テーブル
を挟んで来客のお二人が座って話しが始まった。プロポーズのご本人は、春子叔母
さんが満州から日本に帰還する時に、仮の夫婦を装ってエスコートしてくれた同僚
であった。

帰還後、日ごとに、春子叔母さんへの思いを募らせていったのだという。

春子叔母さんは東京の遊覧飛行の案内嬢が脚光を浴びはじめ、エアーガールと呼ば
れて憧れの職業になりつつあり、その仕事に自分でも相性の良さを感じていたので
結婚には躊躇感があった。

春子叔母さんにプロポーズしてくれた本人に好意は感じていたが先方の家が茨城県
の大農家ということもあって、春子叔母さんは、
「大農家で、やりこなして行く、自信がない」と、いっていた。

やがて、見るからに、豪農の旦那様という風格の父親と優しそうな元同僚は・・・

「急ぎませんので、好いお返事をお待ちしております」と、云い残して、お帰りに
なった。洋介は、このやり取りを縁側で学校の宿題の写生を仕上げながら一部始終
聞いていた。

やがて、お客さまが帰った後で 「洋ちゃんは、飛行機は好き?」と春子叔母さん
から聞かれて「はい、好きです」と、答えると、春子叔母さんは見るからに重そう
なボストンバックから、一枚の写真を取り出して、見せてくれた。

「わ~格好いい」と思わず、洋介は叫んでしまった。遊覧飛行機の前で、春子叔母
さんがスカーフをなびかせて写っていた。そして、洋介は春子叔母さんから飛行機
の写真を一枚いただいた。

それから、一年後に、春子叔母さんは、茨城県の元同僚のところに、嫁入りをする
決心がついたことを、手紙で、父親の竹次郎に知らせてきた。

嫁入り後、春子叔母さんは農家の行事や仕事を覚えながら、男の子を二人も産んで、
りっぱに育て上げて、今は、孫たちに囲まれた生活をしている。

戦時下、そして戦後の影響は、洋介の従兄弟たちにも影を落とした。洋介は、今でも
覚えているが、前橋市から従兄弟の明さんが、父親のところに、ひょっこりと現れて、
「これから、東京に行って働くことになったので、挨拶に伺いました」といって一晩
泊まっていった。

明さんの父親は、武術家としては地元に弟子も多く、全国的にも良く知られた武術家
で身体の頑健さが自慢であったが、フイリッピンで戦死した。父親の竹次郎は、次男
であったが、このような事情も含めて家業を継ぐ修行をしていた経過もあり、明さん
の親代わりとなって、自立するまでの間、面倒をみていた。

その後、突然の知らせで・・・

「予科練に入った」と知らされ、間もなく終戦を迎えた。そのような状況の中での東京
行き。そして「仕事が見つかりました」と、いう挨拶だったので、すっかり安心してい
たのだが、その後、便りも途絶えて、心配になり、就職先をたずねたところ、友人で
あったという方から、

「浅草の闇に消えたまま、いまだに、なんの連絡もない」と、いう状況が分かって春子
叔母さんも一緒に東京の知人の助けを借りて探してくれたが消息は、まったくつかめな
かった。

これには、さすがに冷静沈着な、父親も、すっかりまいった様子で、
「兄の浩太郎に申し訳ない」といって、仏壇に手を合わせていた。

父親は、終戦後の勤め先でも、なにかと人に頼りにされるところがあり、職場の人が、
ときどき悩みごとの相談に見えていた。父親が、いつも輝いて見えたのは、自己実現
を越えて他己実現のために走り廻っていたためと気付いたのは、洋介が子供を育てる
実体験を重ねてからであった。

暖かな楽しい家族団らんを重ねた三連休明け後の出勤。仕事を終わって、帰宅すると、
夕刊の紙面には、富士山を背景にして、ドクターヘリの躍動する後姿がカラー写真で
紹介されていた。

思わず新聞記事を目で追っかけてゆく。医者が同乗して治療しながら患者を運ぶ海外
でおなじみのドクターヘリが、日本でも活動を始めているという書き出しで、詳しい
記事が紹介されていた。

記事の結びのところでは弱点が挙げられていた。ドクターヘリのカバー範囲は、半径
約50キロあるが離着陸の場所の確保が難しく、夜間に飛べないことが、二つの弱点
として並べられていた。

しかし、これを本格導入した東海大病院の猪口助教授の言葉によれば・・・

「スキューバーダイビングで、五十代の女性がおぼれ、救急車だと、約2時間かかる
ところを、ドクターヘリの出動によって救急手当できたため、一命を取りとめた」

「各地に救急センターを設置するよりも、広範囲をカバーするヘリコプターのほうが
安上がりである」と、指摘している。

同時に政府では、この実績を踏まえて、ドクターヘリを全国展開する考えであること
が紹介されていた。洋介は、この記事をみながら自分たちが進めている計画が、地域
レベルにとどまらず、地球規模で展開可能であることを再認識した。

葛飾区の美里の実家に泊った晩に、美里の父親から、貴重なアドバイスをいただいた。

「洋介さん、砂漠でのヘリの飛行実験というけれど、今の世界情勢からいって実現性
は難しいと思うよ」

洋介は、実家では話題にしなかったが、今年、砂漠の実態調査に出掛けるとなると、
美里がその間は、時には、葛飾の実家で、お邪魔することになるかも知れないと考え
て、話を切り出したのだった。

美里の父親は、陶器の研究で砂漠巡りをしたことがあるという。洋介たちの計画では

「砂漠でのテスト飛行は、地球のデッドエリアと思われる場所を利用できるが、実地
検証が必要である」
「海上でのテスト飛行は、選択エリアを広範囲に確保できるが、制空権の問題がある」
として、二つの案が浮上していたこともあり、義父の話に引き込まれてしまう。

洋介が、参画しているプロジェクトでは、今までにない画期的な新交通システム開発
の主軸に、超軽量ヘリコプターを据えて、それを具現化するために、ヘリの動力源と
してのエンジンは、従来の十分の一の重量に軽量化する。

機体は墜落しても人命が守れるように、超軽量剛性の特殊ボデーにする。また機体が
墜落しても地上に接触する瞬間に、機体の外壁が無数の風船状に膨張して、搭乗者を
保護する特殊な構造になっている。

しかも、デジタル制御のパワー源はマイクロ波によって人工衛星から受信するという
画期的な設計になっている。その動力源は宇宙基地で太陽エネルギーから電力に転換
して、それをマイクロ波で地上基地に送り使用電力への整調を行い、再度、宇宙基地
の電力設備に戻して、地球の周囲八箇所に配備した宇宙ステーションに配電。地球の
周囲を回る人工衛星を経由してヘリコプターに電力供給する。

この新交通システムが完成すると、ヘリコプター群は、地球上の全域で人工衛星から
パワーを受信できるようになる。しかも都市部では航空路として、新幹線や私鉄電車
の線路上空および主用幹線道路の上空を活用する。

ヘリコプターの航路は何層かに分けて、複数のヘリコプターが高度を分けて飛び交う
という構想である。課題は、最近のヒートアイランド現象にみられる、上空の水蒸気
処理をどうするかにある。

この特殊なマイクロ波による電力送受の実験を実施する地上基地としては石川さゆり
の演歌にも出てくる竜飛岬周辺を計画している。その際には施設の強風対策が必須に
なってくる。

合わせて距離的には離れているものの三内丸山遺跡の文化遺産保護にも、配慮が必要
であると考えている。

砂漠における飛行テストと並行して計画されているのが、日本海溝に沿った上空での
飛行実験である。この場合は福島県相馬市を発進基地にする計画である。この地方は
雪が少ないために、年間を通してテスト飛行が実施できることから、砂漠でのテスト
よりも有力視されている。

両者の飛行テストでは共に搭乗者の人命尊重最優先の設計思想から綿密に練り上げた
実機検証が、繰り返し計画されている。

同時に実機が実用化されたときの飛行地域への環境アセスメント面から、複合騒音に
よる影響調査を計画している。具体的には百機のヘリコプターを二群に分けて相互に
飛び交うテストが主要な飛行計画として練られている。

単体ヘリによる飛行データは、バーチャル・シミュレーションによって確認できる
レベルまで技術力がついてきている。しかし、複合での飛行実態の把握には実機に
よる飛行テストが繰り返し必要である。

美里の父親の砂漠巡りによれば・・・

「砂漠といえば誰しもが最初に頭に思い浮かべるのがサハラ砂漠でしょう。地中海
を挟んで欧州諸国とアフリカ大陸がつながっており、多くの冒険家たちが北欧から
アフリカ最南端までの縦走を夢に描いた」

「モロッコからアルジェリア、リビア、エジプト、スエズを経てイラク、イラン、
アフガニスタンの横断などを考える勇者が出てきても不思議ではない地形をして
いる。映画で、一躍有名になった、アラビアのロレンスが活躍したのもこの砂漠
地帯である」

「その地形の中心ともいえる位置にサハラ砂漠が存在する。最も砂漠地帯の多い
地域だが、常に紛争の火種が尽きない複雑さがつきまとっている」と、前置きを
して、美里の父親は、この地域ではエジプトのギザで、陶器について多くのこと
を学んだという」

「このギザはエジプト北部のカイロの砂漠上に密集する古代遺跡であり、有名な
三大ピラミッドがある。特に人面獣身の大スフィンクスがあることで有名な場所
である」

「そこから出土した遺品の中には、珍しい陶器類が美術品として保管されており、
陶器から当時の生活がよく分かり陶器から当時の生活を知るという視点を学んだ」
という。さらに、言葉に熱が入ってくる。

「ちょっと待って」と、云って、書斎から地球儀をもって来る。

「次に行ったのがモンゴルのゴビ砂漠だがモンゴル高原北方にノイン・ウラがある」
「ここには、山中に墳墓が約200基もあって武器・容器・衣類・装身具・鏡など、
中国からの移入品が多い。当時は、シルクロードを通じた交易も盛んでバクトリア・
パルティア・小アジア産の毛織物なども保管されている」

「これらの品物からも、当時の東洋の生活様式がよく分かる」
「また東洋における生活文化において、陶器の文化的価値の位置付けの高さもよく
理解できた」という。

この調子で地球儀をぐるぐると回しながら・・・

ご自分の体験を通して、行ったことのない洋介にも目で見て分かる解説をしていた
だき、ありがたいことであると、その親切な説明に頭が下がる思いであった。

次に、これも地球儀の上に指差されたのが、南アメリカのブラジル高原であった。

「この地域ではマラジョー島を訪ねました」
「マラジョー島はブラジルのアマゾン河口にある島です。最初の文化は初期農耕・
採集・狩猟文化で、大量の土器を出土しています」
「この地域では、次いで定住農耕を確立し、最後の文化では社会階層があったと
いわれています」

「この時代の生活の変遷に合わせて土器も変わってきており、時間の流れや生活
の変化を土器から感じとれた」と、いう。

いずれの地域においても、ご自分で体験した感想からは、とても飛行テストなど
考えられない地域であると云われる。

そして、最後に飛行テストが出来る可能性が、あるかも知れないといって示して
くれたのが、オーストラリアのグレートビクトリア砂漠であった。

美里の父親は、この地域ではエアーズ・ロックに興味を持っているがまだ訪ねた
ことがないので詳しいことは分からないと云う。

「聞くところによると、オーストラリア中央部にある小山のような岩の巨石で多数
の洞穴があり、白人の渡来以前から原住民が住んでいて、食料・住居・水に恵まれ、
宗教儀式も盛んであった」と、いう。

その生活のなかで、どのような土器や陶器が使われていたのか見たいがまだ夢がか
なっていないのだと云う。ただ、砂漠地帯は、一日を通して温度の寒暖が激しく、
そういった面での難点を心配されていた。

それぞれに、どれをとっても貴重なアドバイスであり、洋介は、綿密にメモにして
残した。このメモをめくりながら、洋介は、かたわらの新聞記事に目を通した。

日本からフィリピンに違法輸出され、現地で、激しい非難を浴びている大量のごみ
問題。医療廃棄物も含まれているという。しかも廃棄物処理業者は行方不明である
というのだ。

ここで洋介は考え込んでしまった。自分たちが砂漠地帯において飛行テストを行う
という考え方も根っこのところで自分たちの都合だけを優先させていないか。

相手先の国のことや、そこに住んでいる人たちのことを考えていないのではないか。
洋介は二階の書庫の住まいの環境学のテキストのことを思い出した。

洋介は住まいの環境学の頁をめくりながら砂漠の緑化に努力している人たちの存在
をあらためて認識した。

テキストには、荒涼とした、それでいて起伏のある砂漠風景の写真が載っている。

その下にはイスラエルのベングリオン大学砂漠研究所の写真が載っている。今や
砂漠の緑化について、国家事業としての研究が活発に進められており各国が協力
体制をとっている。

美里の父親から教えていただいた陶器類の話も、考えてみれば、それが例え荒涼
とした砂漠地帯であっても、そこには、人間が住んでいたということである。

また、その砂漠地帯を各国が協力して本気で、住みやすい環境に変えて行こうと、
緑化などの研究が本格化している。

事実、日本企業も積極的に緑化に協力している。その活躍する姿は、テキストに
添付されたビデオの中でも紹介されている。

・・・・・・・・・・・・・・・

洋介は美里と一緒に、今回のニュージーランド旅行に出かけて、現地で実際に
マウントクック村の自然環境に触れ随所で積極的に環境保護に取り組んでいる
姿を見て大いに考えさせられた。

同時に、このニュージーランド旅行があらゆる面で、一大転機であったことは、
時間を経て、本人も後になって知ることになるが、これは、結果的に、この旅
こそが 「神様のおぼしめし」 であった可能性もある。

今回のニュージーランドの旅の案内は新聞広告で知った。洋介は美里とのハワイ
空路の旅がとても楽しかったことから、フルムーンの旅よもう一度の連想が働い
てニュージランドの旅を決めたのかも知れない。

ハワイ旅行は二人しての初めての海外旅行と云うこともあって豪華旅行を選んだ。

「ハワイのカウワイ島のホテルでは、海岸に、かがり火が灯され、ムード溢れる
レストランでの豪華ディナー」

食事中に、ツアー・コンダクターの女性から・・・

「皆さん、当ホテルの宿泊案内が気に入って、今回のハワイツアーを選んだ方は
いらっしゃいますか?」と、云う問いかけがあった。

そのとき、洋介と美里は、今回の豪華ホテルの宿泊が気に入ってハワイツアーを
申し込んだ経緯から、ほぼ反射的に「ハイ、います」と手を挙げた。

「おめでとうございます。これは、当ホテルからのプレゼントでございます」と
記念品をいただいた。
(豪華コースだけに割高ではあったがいたれりつくせりのおもてなしであった)

しかし、今回の永年勤続の表彰旅行においては、ツアーの内容などを会社に報告
する必要があり、比較的、リーズナブルな旅として 「ニュージランドの旅」を
選んだが、ホテルは豪華でなくても、今回の旅の内容は充実していた。

・・・・・・・・・・・・・

父親の竹次郎が、戦時中にテストパイロットをしていたという衝撃的な話を聞いた
ことから、洋介は、直近の記憶として、正月からの父親との会話などを思い出して
いるうちに、頭や目の疲れもやわらいできた。

再び、ヘッド・シミュレーターを装着して、カセットの残りの情報を一気に脳内に
記憶した。それは・・・

◯「世界大戦の始まり」から
◯「自動車産業の始まり」
◯「戦後の航空機産業の始まり」へと連なる内容で構成されていた。
(次に、戦後の航空機産業の始まりを抜粋して紹介する)


【 戦後の航空機産業の始まり 】

第二次世界大戦後は航空機関連産業の全ての活動が禁止された。

設備は没収され破壊されて航空機メーカーは解体され、あるいは小規模の会社組織
に分割された。1952年(昭和27年)に禁止令が解かれるまでの7年間に渡り
これらの企業は、バスの車体、スクーター、自動車部品、農機具など、民生用生産
へと大きく転換させられていた。

戦時中には、約70万人の雇用を有していた航空機産業は、こうして崩れていった。
この7年間の間に、技術者の転用が激しい勢いで進んでいった。

1952年(昭和27年)に、民間航空と航空機製造事業が再開されて、この年に
航空法と航空機製造法が制定された。

通産省には航空機課が設置され、この法律は、航空機に関する高い技術水準を維持
する狙いで制定されたものである。

1954年(昭和29年)には、これを航空機製造事業法として改め、優秀な技術
と健全な経営が可能な企業だけが、航空機の生産を承認されるとして規定された。

1954年(昭和29年)には防衛庁が設置され日本は冷戦の緊張が高まるなかで、
アメリカとのライセンス協定の下、防衛庁向けの軍用機生産が始められた。

最初のプロジェクトは・・・

◯ ノースアメリカン製のF86戦闘機と
◯ ロッキード製のT33A練習機のライセンス生産であった
F86戦闘機は新三菱重工(現三菱重工)、T33A練習機は川崎重工が担当した。

その後・・・

◯ ロッキード製のP2V7
◯ ロッキード製のF104J
◯ マクダネルダグラス製の F4、F15が、ライセンス生産された

これらのライセンス生産は、航空機製造における生産技術や生産管理などの技術力
の向上に大きく貢献した。1955年(昭和30年)防衛庁からの強い要求で国産
ジェット練習機T1の開発が決定した。

戦後初の国産ジェット練習機の契約は富士重工が受注。1958年(昭和33年)
に1号機が納入された。

エンジンは、最初は輸入エンジンを装備していたが、2年後からは国産エンジンの
J3が搭載され、完全な国産機となった。

J3エンジンは、石川島、富士、三菱、富士精密(後のプリンス自動車)からなる
ところの日本ジェットエンジン製作が開発。その後は、石川島に移管された。


【 国産民間機の始まり 】

1957年(昭和32年)に、国産のジェット練習機T1が飛行試験に成功した頃、
もう一つ国産機のプロジェクトが立ち上げられていた。輸送機設計研究協会である。
協会は2年後には、日本航空機製造株式会社(日航製)に発展し、YS11が開発
されることになった。

この会社は航空機製造振興法の下で設立され、政府が60パーセントの出資をして、
資本金5億円で、スタート。民間の出資会社は三菱、川崎、富士、新明和、日飛の
機体メーカー5社が中心であった。

YS11は、1962年(昭和37年)に、初飛行に成功した。

しかし、操縦性能の問題で、計画に遅れが生じ、1964年(昭和39年)に計画
から1年以上遅れて、運輸省航空局の型式承認を取得した。

翌年、1965年(昭和40年)には、米国FAAの型式承認も取得し輸出の準備
を整えた。しかし、この一年間の遅れの影響は大きく計画の300機を大幅に下回
ることとなり、182機(内輸出は82機)の生産で打ち切られた。

結果として、多額の赤字(36億円)を抱えて、1971年(昭和46年)に生産
を終了することになった。

日航製は、1966年(昭和41年)からは、防衛庁向けの戦術輸送機C1の基本
設計を開始した。C1は、川崎重工を主契約として機体メーカー五社のもとに生産
された。

1950年(昭和45年)に初飛行に成功したC1は、全部で30機が生産された。
この機体は、後に、航空技術研究所の研究機「飛鳥」に改造された。

日航製は、1983年(昭和58年)に最終的に清算されて三菱重工に移管された。

その後は、超音速練習機T2が、三菱重工を主契約として開発され・・・

1971年(昭和46年)に初飛行した。

この超音速機は、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスおよびスエーデンに続いて
6番目の飛行成功である。

航空機用のエンジンについては、純国産ジェットエンジンJ3を石川島が量産化し、
その後も防衛庁向けエンジンのライセンス生産が石川島播磨重工を主体にして着実
に続けられた。

ライセンス先は、ジェネラル・エレクトリック(GE)、ロールスロイス(RR)
およびプラットアンドホイットニー(P&W)と多様であった。

国内的には、石川島播磨重工を主軸に、川崎重工(KHI)、三菱重工(MHI)
も、エンジン生産に加わった。通産省は、J3の次の国産エンジンプロジェクト
を真剣に考えていた。

1960年代から、純国産のFJR710エンジンの開発が始まり試作第1号機が、
1973年(昭和48年)に完成した。

その後、数台が製作され1985年(昭和60年)に、C1を改造した飛鳥に搭載
されて試験飛行に成功した。

この開発成功に注目したのが英国RR社であった。

彼らは、新しい中型エンジンの開発パートナーとして日本を指名した。

1979年(昭和54年)FJRの開発が一段落した時点で、このプロジェクトは、
日英共同開発に発展した。

新しいエンジンは、RJ500。通産省のプロジェクト名は、XJBと命名された。

その後、このエンジンは、五カ国共同開発に発展。今日では、V2500エンジン
として世界中の空を飛んでいる。

このエンジンは、国内では、石川島播磨重工が中心になって、三菱重工や川崎重工
との協業で、日本をはじめ、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアの五カ国との
間で共同生産している。

日本における運営共同体は日本航空機エンジン協会(JAEC)であり、通産省が、
1983年(昭和58年)に発足させたものである。

こうして、通産省の真剣な取り組みは、民間航空の分野でも実現した。

石川島播磨重工は、これ以前においても、1970年(昭和45年)から、イギリス
のRR社、フランスのターボメカ社との三社による共同開発エンジンであるアドアを
成功させている。

アドアエンジンは国産超音速機T2およびその派生型のF1に搭載され活躍している。

また、石川島播磨重工が中心になって開発した国産のF3エンジンは、T4の機体に
搭載されて活躍しており、同規模の民間向け仕様であるCF34エンジンは、GE社
との共同開発で飛行試験に成功して、実用化の道を歩んでいる。

また、大型エンジンの開発分野においても、国際的なエンジン共同開発や飛行試験に
成功しており、機体に比べて、エンジン開発のスタートは遅れたものの、現状では、
確実に技術力を積み上げて、世界の市場に乗り出しているといえる。

・・・・・・・・・・・・・・・

洋介は、全部の監修データを見終わっての感想として、日本政府の刊行物を基にして
監修したものだというが良くまとまっていることに驚いた。もの凄い情報量をあっと
間に脳内で整理できる。

「こんなマシンを自宅でも活用できたらいいな」と、いうのが、洋介の率直な気持で
あった。まるでタイミングを測ったように蝶ネクタイの神埼さんが顔を出された。

「お名前を確認しておいてよかった」と、洋介は内心で思った。
神崎さんのお名前をアシスタント役の白木さんに教えていただいたのであった。

先程、白木さんがみえたときに・・・

「失礼ですが、マウントクック村に、お迎えに来ていただいたときに、お名前をうか
がったのですが、漢字ではどのようにお書きするのか、確認するのを忘れまして」と
いう言葉に、白木さんがとっさに反応されて、

「かんざきのことですね。神様の神に、山崎などに使う崎です」
「あの俳優の山崎努の崎ですね」
「その通りです」
「ありがとうございました」

こんなやりとりで、神崎さんのお名前を、確認しておいたのだった。

洋介は、早速・・・

「神崎さん、この装置は、ほんとうに良く工夫されていますね」
「短い時間で頭の整理が出来るのでたいへん便利ですね」
「家に持って帰りたいくらいですよ」

「洋介様、このヘッド・シミュレーターは、日本にお持ち帰りになっても残念ながら
ご利用いただけません」と、応えながら、神崎さんは少しだけ間をおいて、

「閣下から、フューチャー・エリアでの飛行準備は、順調に進んでいるとの伝言が
ありました」
「洋介様には、是非とも、新鋭機に搭乗していただきたい」と、申しておりました。

「その前に、テロップで紹介させていただきました、戦時中の飛行機を、ほぼ原形
に近い形で復元して、イエスタディー館内に、展示してありますので興味がおあり
でしたら、是非、ご覧になって下さい」

「ほとんど全機いつでも飛行できるように、整備してありますので、おっしゃって
いただければ、私から操縦案内させていただきます」

「実際に、飛行できるということですか?」

「はい、飛行できます」
「複座の飛行機であれば、私の操縦で飛行体験していただけます」
「ツディー館もございますが改装中でして、残念ながら、ご覧いただけません」

「洋介が、子供の頃に、飛行場で父親と一緒に見た、あの燃やされていた飛行機も、
同じ型式のものが、置いてあるのだろうか?」と、いう好奇心が湧いてきて思わず、
「イエスタディー館を是非とも拝見させて下さい」とお願いをすると、

「はい、承知しました、それでは参りましょうか」と神崎さんに促されて、後から
ついて行くと、エレベーターで地下五十階に到着する。

高速エレベーターの扉が開くと、目の前には通路が広がっていて、一直線に奥まで
見通せる。通路の両脇には、飛行機が、びっしりと並んでいて圧巻である。

幼い頃に父親と一緒に見たあの燃やされていた飛行機はどの機体だろうかと興味が、
そこに集中する。

「機体が燃やされる瞬間ヒューヒューという虎落笛(もがりぶえ)のような叫び声
をあげていた飛行機は、どの機体なのだろうか?」

イエスタディー館のフロアーは、天井が高く、真中を走る通路は、奥行きが500
メートルを越えるという。それだけにそれぞれの機体はゆったりとした間隔で置か
れている。

飛行機の前に掲示してある看板から飛行機の名前とエンジン性能の特質を興味深く
読み取って行く。

「紫電改。海軍戦闘機」 沖縄戦で、アメリカ艦船に向けて、特攻で活躍。
「三菱九六式艦上戦闘機。海軍戦闘機」 日本初の独自設計機。
「雷電。海軍局地戦闘機」と、ある。

この飛行機の名前は父親から何度も聞いたことがある。

「飛燕。陸軍戦闘機」 日本の本土防衛に活躍した。
この名前も父親から良く聞いた。

「月光。陸上偵察機」 夜間戦闘機として活躍した。
と、案内板に書かれてある。

「三菱キ51九九式。陸軍偵察機」 神風特攻隊で数多く使われた。
「彗星。海軍艦上爆撃機」 ミッドウェーで最初に使用された。
「零戦。海軍艦上戦闘機」 約10500機が製造され、神風特攻隊として
優秀機の生涯を終わった。

「三菱九六式陸上中型攻撃機」 海軍、陸上基地攻撃隊の主力機であった。
「愛知零式水上偵察機」 海軍、カタパルトを付けた水上偵察機である。
「隼。陸上戦闘機」 マレー、ジャワ、スマトラ、レイテで活躍した。

「三菱四式重爆撃機」 陸軍、硫黄島、マリアナ、沖縄で活躍した。
「呑龍。陸軍重爆撃機」 初めて尾部銃座をもった機体である。
「銀河。海軍陸上爆撃機」 夜間用に初めてレーダーを装備した機体である。

「疾風。陸軍戦闘機、急降下爆撃機、夜間戦闘機、迎撃機」など幅広い用途で
使用され、約3500機が製造されて、最後の首都防衛の任務を果たした。

ここで、洋介は、幼い頃に目の前で燃やされていた飛行機は、この機体ではないか
と直感した。機体のシルエットがよく似ている。あの飛行場で、父親と一緒に見た
燃やされていた飛行機は、この疾風にちがいない。

あの時は子供ながらに背筋に寒さを感じた。ヒューヒューと、飛行機が泣いている
ような、虎落笛に似た音が、かすかに聞こえていた。



異次元世界の超軽量ヘリコプター

洋介は、両側に整然と並んだ傑作機の一群をみて、神崎さんに話しかけた。

「これだけの日本の技術力をみたら、アメリカは当然のこととしてアメリカ本土の
防衛の観点からも、戦後の日本における飛行機製造の取り組みを禁止しますよね」
と、洋介が感想を述べると、神崎さんが・・・

「しかし、この航空機にかかわっていた技術者が、今度は自動車産業に移って行き、
その技術力が結集して、今度は日本からの自動車輸出という形に発展してアメリカ
本土に、上陸するというところまでは、想像していなかったでしょうね」
と、感想を付け加えられた。

「たしかに産業の発展史として、最近の中国の急速な発展をみても、産業が海から
岸辺に向かって起こり、陸へ、さらに内陸部へと発展していますね」
と、洋介も応える。

「日本も、海を活躍の場とした造船が、やがて、世界一となって、空の飛行機への
発展につながり、さらには、自動車に波及効果を広げていった」
というのが、日本の産業の発展史です、と、神崎さんが話をつなげる。

洋介は、ここで自問した・・・

「日本が通常の産業発展モデルといわれている、海から陸へ、そして、陸から空へ
という進化の過程ではなく、太平洋戦争という特殊な環境下にあって一気に海から
空に向かったというところが技術力において一大飛躍を成し遂げた要因かも知れな
いですね」と、声に出す。

「昭和初期の航空機の生産台数は、年間で400機程度だった。それが昭和19年
(1944年)には、年間24000機という、ピークを迎えたということ自体が
想像を絶することですね」と、投げかける。

「また、製造機数だけでなく、昭和17年(1942年)には、東大航空研究所が
長距離飛行機を完成させ、当時、飛行距離の世界記録を達成している」と、驚愕の
様子を示す。

「また新技術という面では、終戦直前に、ネ20のジェットエンジンを完成させて
橘花に搭載、初飛行にも成功している」と、今回の監修データから再認識したばか
りなので自然に声が大きくなる。

洋介は、さらに、自問を続ける・・・

「日本の産業が造船で世界一になり、その技術力を生かして、第二次世界大戦では
飛行機の製造数を飛躍的に高め、戦後は、その技術力が、自動車産業に移植されて、
自動車産業発展の基盤を形成した」

「そこには、海から空へ、空から陸へと駆け抜けた頭脳の存在が鍵をにぎっていた」
と、ここで声を大にする。

「これらの史実を、現代に生かす術は、なんだろうか?」と、声にする。

「本来的に技術者魂はそれが戦時下であっても純粋な性格を有していることが多く、
国家間の平和的な関係維持や、平和的な環境維持の中にあってこそ、技術者たちの
ずば抜けた頭脳は生かしきれる」と、一人で熱弁をふるう洋介に口をはさむことも
なく、神崎さんは一緒に歩を進めて行く。

「今や日本の置かれた状況は、バブルがはじけて以来の長引く閉塞感から、完全に
は脱しきれておらず、日中間の関係悪化の兆しなどは見方によっては、第二次世界
大戦突入前の手探り状態に似てきているのではないか」

「現状において日本の対外的な平和の均衡は、戦後の反省の重要項目として一貫し
て推進してきた良好な日米関係の堅持が唯一の救いになっている」と、洋介の考え
方を声にする。

「この戦前の閉塞感に、似たところのある状況の中にあって、戦争への道ではなく、
平和を希求する道を選び、どのようにして、バブル後における日本経済を建て直し
それぞれの企業復興を成し遂げて行くか。ここを平和的に難しい関係にある諸外国
を含めて信頼関係を取り戻し、より連携を深め、かつての窮余の中でのいちかばち
かの決断ではなく、戦争によらない解決策としての第二、第三の道探し」

「そして、技術立国日本として、最大の国家的財産ともいえる技術者たちの頭脳を
マーケティングの知恵者との協働で国家的に産業再創業を成し遂げ、継続的な思考
として第二次世界大戦の二の舞は避けたいという感想」がイエスタディー館を拝見
させていただいた、洋介の素直な感想であることを神崎さんに声にして伝えた。

神崎さんは、この洋介の感想に対して・・・

「閣下も、洋介さまの感想を聞きたがっておりましたので、早速、お伝えすること
にしましょう。洋介さまのそのような熱い思いを込めた感想を聞かれたら、きっと
喜ばれることでしょう」

「それでは戦後の日本における現実の世界ではどうか」と、洋介は自問を繰り返す。

既に、戦後の産業の苦境の中にあって、その苦境をばねにして飛躍への道に転換さ
せていった異色の偉人として、身近に知るところの人物としてはと考えて、さらに
自問を繰り返す。

「戦後、海と空を経営力と技術力を駆使して、つなぎなおした土光敏夫翁の存在は
大きい」

「また、土光敏夫翁は、経営力において重電・家電・情報技術の面にも新風を吹き
込んでいった」

「その経営力の総仕上げは、国家事業の立て直しであった」
「国鉄の民営化および電信・電話分野の民営化に先鞭をつけた」
「その好ましい影響は、今日において、郵政の民営化にも影響を及ぼした」

陸の世界において、大いなる夢を切り拓いた本田宗一郎翁にも、熱血漢であり
ながらも、清廉にして、潔白な人間像から、日本を代表する類まれな経営力と
技術力を感じ取れる。

ここで、洋介の自問は・・・

「本田宗一郎翁の天才的な技術者魂とブラジルの希望の星アイルトン・セナとの
出会いは、まさに運命的なものであった」

「天才的なドライブ技術力が、本田宗一郎翁の天才的な頭脳に点火、F1レース
における世界一の座を獲得した」

洋介は、本田翁には実際にお会いしたことがある。そのお人柄からも多くの偉業
は必然的なものと考える。

ここで、洋介は、テロップでみた記事のことを思い出していた・・・

「中島飛行機で、エンジン設計に従事していた中村良夫氏は、くろがねに入社」
「くろがねが倒産した後は、本田技研に入社して、F1エンジンの開発に成功した」

ここにも、空から陸への技術移転が見られるが、本田翁の人間的な魅力を考えた時
に中村良夫氏の本田技研への入社も、必然的であったような気がしてくる」

テロップを見ながら考えたことを回想しながらさらに洋介は自問を繰り返す・・・

「心理学において、ルビンが研究した有名な心理学実験にルビンの図と地の研究が
あるが、描かれた絵の外側を地として見ると、中央に盃が図として浮かび上がり、
絵の内側を地として見ると、左右に二つの横顔が図として浮かぶ。これは、ものを
みるときに、どこを地にして視点を当てるかで、目方がまるっきり、ちがってくる
ということである」

洋介は、長い間、航空分野で働いてきた。そして多くの航空人識者から空白期間の
虚しさとして航空機事業にたずさわれなかった焦燥感を聞かされてきたが、ルビン
の図と地の関係を参考にすれば、航空分野の空白の期間を地としてみるとき、そこ
には自動車分野が図として浮かび上がってくる」

このことは、戦前・戦中・戦後の産業史において、それぞれの産業分野の中だけで
の歴史のみを語るのではなく、海と空と陸とを関連付けた、立体的な歴史観として
解析していく必要がある。

それにしても、イエスタデー館で、目の当たりに見た飛行機群は圧巻であった。

そして洋介の思いは航空分野の世界にあって異色の天才を挙げるならば・・・

「中島知久平翁と確信するにいたった」
「恐らくこれは、幼い頃、父親から中島知久平翁の偉業を聞かされていたからかも
知れない」

自問の沈黙を破って、神崎さんに、その話をすると、驚くべき答えが返ってきた。
洋介は、思わず耳を疑ったが、
「今から、お会いする閣下が、中島知久平翁。その人である」というのである。

洋介と神崎さんの乗ったエレベーターが最上階に止まる。目の前に広がった空間は
落ち着いた雰囲気で奥には大きな扉がある。神崎さんが手の平を扉に向けると大き
な扉は自動的に開いた。

「中島総裁。洋介さまをご案内しました」と、声をかける。

「閣下が中島知久平翁、その人であり、今度は中島総裁という呼び方で、神崎さん
が声をかけているが、ここには、公社のような組織でも存在するのであろうか?」
と、洋介は自問する。

中島総裁と呼ばれる風格のりっぱな人物は、大きなテーブルに図面を広げて、何か
盛んに書き込んでいたが、こちらに向かって立ち上がると洋介と握手をしてから、
大きな図面が広げてあるソファーに、腰掛けるよう、親切な手振りで、ソファーに
ご案内いただいた。

テーブルの上に広げられた図面を見て思わずつぶやく。

「あっこれは、超軽量ヘリ」

とっさに、洋介たちが百機編成による飛行試験を計画している超軽量ヘリコプター
のシルエットに似ていることを感じ取った。

中島翁は落ち着いた口調で・・・

「これは、今からご案内するエアーポートに準備した超軽量ヘリコプターの実験機
の図面です」

「ところで、イエスタディー館で、飛んでみたい飛行機はありましたか?」
「父君の竹次郎さんは、あの疾風が、一番のお気に入りでしたよ」

洋介にとって、父親の竹次郎が中島知久平翁の腹心の部下であり、腕利きのテスト
パイロットであったという説明は、いまだに信じ難いことであった。

父親からは、そのような話は、今までに一度も聞いたことがなかった。

確かに動力ものが好きで大型オートバイや自動車が部類に好きだったことは幼い頃
から、何度も聞かされてきた。事実、自動車のエンジン好きは、たいへんなもので
あった。

自動車のボンネットを開けて夜遅くまでいじくりまわしている姿は、中学生の頃の
記憶として強烈に頭の中に刻み込まれている。

このことから、父親が飛行機のエンジンに興味を持つことは、必然的な成り行きと
は考えるが、そこまでの経緯が分かっていないので合点が行かなかった。

しかし、ここで、洋介が自問したのは・・・

「確かに今にして思えば、戦後、自転車の後ろに洋介を乗せては遠くの飛行場まで
出掛けて目の前で燃やされる飛行機を寂しそうに凝視していた姿は、子供ながらに
いとおしさをこらえている様子として、敏感に伝わってくるものがあった」ことは
事実である。

それは、一緒にいた幼い洋介にも、なにか感じるものがあって、父親から伝わって
くるものがあったが、まさに、あの飛行機は父親が大好きだった疾風だったのだと
ふと我に返った洋介は、

「イエスタディー館の飛行機で飛ぶなんて、とんでもないことです」と、答えると
中島翁の目が笑っていた。

中島翁は、目の前に広げている超軽量ヘリコプターの図面に話題を戻すと・・・

「このヘリコプターは、操縦が簡単だから、洋介さんも飛んで見ませんか」
と云うのである。

「洋介さんにとって、父君が私たちと一緒に飛行機を飛ばしていたなどということ
は、なかなか信じられないことでしょう」と、好々爺風の優しそうな目で笑う。

中島知久平翁の、お名前は子供の頃から航空界における神様のような存在として、
父親から聞かされてきた。しかし今までに一度として、父親が飛行試験にたずさ
わっていたなどという話は聞いたことがなかった。

洋介が、中島知久平翁のお名前をこれほどまでに鮮明に記憶しているというのも、
父親がたまに、飛行機の話をするときに、必ずといってよいほど中島翁の名前を
出していたからであるが、それほどにつながりが強かったという話は聞いたこと
がなかった。

洋介が図面に目を落とすと、超軽量ヘリの外形部分に矢印が飛んでいて、バイオ
チップスという文字が目に入ってきた。

「バイオチップスですか」と、洋介が声に出すと、
「バイオチップスです」と、中島翁が即応された。
「このバイオチップスの働きによって、太陽の光を化学的に電気に変えるのです」
と云われる。

洋介たちが計画している超軽量ヘリでは太陽の光を宇宙基地で物理的に大規模施設
によって電気に変える。そのために、機体の開発から実験機完成までは早いのだが、
宇宙ステーションを含めた総合システム構築までに20年間は必要と見ている。

洋介は、咄嗟に、この仕様だと、大規模な発電用システムを必要としないのではと、
推測して・・・

「この超軽量ヘリの実用化は、どれくらいの期間で可能になりますか」
と、おたずねすると、

「現在の計画では、三年先です」という答えが返ってくる。

「バイオチップスなどの新技術を導入しての条件下にあって、ずいぶん短期間での
実用化ですね」と、洋介は率直な感想を述べる。

「いや、それでも、終戦直前に実験機として開発、飛行試験まで一気に駆け抜けた
日本初のジェットエンジンネ20に比べたら、実用化までに三年間は、まだまだ、
長いほうですよ」といって、中島翁は、テーブルの上に一冊の著書を置いた。

なんと「海軍特殊攻撃機橘花 『日本初のジェットエンジン・ネ20』技術検証」
石澤和彦著であった。

洋介も、既に、この著書には目を通している。この著書の記述によれば・・・

ネ20ジェットエンジンは、1年未満のごく短期間で、初飛行に成功している。

その時間軸に沿った経過を追って行くと、その俊敏さが伺い知れる。
1944年7月にBMW003A縮小断面図を入手してから、同年10月には、
ネ20計画図を作成

◯ 同年同月に、艦政本部の技術者を投入して、2ヶ月間で設計陣を強化
◯ 同年12月末に、ネ20の設計作業を開始
◯ 翌年1月中旬には、一部の部品の製作を開始

◯ 3月中旬に、全部品を完成
◯ 3月末には、組立を完了して、エンジン試験開始
◯ 4月に、神奈川県秦野で試験本格化

◯ 同月には、橘花への搭載決定
◯ 6月に、耐久試験を完了
◯ 7月には、1式陸上攻撃機に懸架して、三沢で空中試験

◯ 同月には、橘花を分解梱包して木更津に発送
◯ 同月に、木更津にて運転開始
◯ 7月末には、橘花に搭載して地上滑走

◯ 8月には、12分間の初飛行に成功
◯ そして、8月15日に終戦

このように、日本初のジェットエンジンネ20は、ものすごい勢いで開発が進めら
れて、橘花に搭載され、初飛行は8月7日に高度にして600メートルを12分間
飛んだ。

ネ20の開発を、耐久試験の完了をもって、終了とすれば、設計図作成の段階から、
開発の完了までに、僅か、8~9ヶ月間であり、米国が英国のエンジン図面と現物
およびその指導者を手中に入れながら、エンジン完成までに約1年間を要している
ことからも、いかに短期間で開発したかが分かる。

しかも、次のような記事を読むと、尚のこと、当時の状況の凄さが良く理解できる。

「本来なら、BMW003Aエンジンの設計図は、詳細なものがもたらされるはず
だった。しかし、その図面を積み込んでいた潜水艦が撃沈された」

「幸いにも入手できたのは途中で下船した巌谷中佐が、僅かに持参していたBMW
003Aの縮小された断面図と見聞録だけであった」
と、ここで、洋介と中島翁の見方が完全に、一致したのは・・・

「既に、同じような設計構想が、日本においても出来上がっていたのではないか」
「それが、仮に図面になっていなくても、技術者の頭脳の中で描かれていた」
という考え方である。

これをまさに裏付ける記事を洋介は再認識して、声に出して読み上げた。

「巌谷中佐が持ち帰った、たった一枚の縮小図面で十分であった」
「これを見たとき、瞬時に、全部が理解できた」
「その原理は、日本の技術者が、研究を進めていたものと同じであった」

「ただ、違う点は、遠心圧縮機の代わりに、軸流圧縮機を用いている」
「しかも、回転は低く、タービンの設計を楽にしてある」
「燃焼器は、直流型で、伸び伸びとした設計になっている」

「日本の技術者は縮小図面を見ただけで、設計的に上手い」と、思った。

まさに、この記事が、当時の状況を良く物語っており、既に、構想が良く練られ
ていたことが分かる。

さらに、これを裏付ける記事としては・・・

「ネ20の設計作業では、技術者が2名。技術者補助が5名。図工が5名」
「これに加えて、若い女性トレーサー:20~30名が任命された」
「彼ら、彼女らは、蔽内に住み込み、昼夜を徹して設計に従事した」
ということから、その技術リーダーの卓抜な方向付けは容易に想像できる。

同じ、著書には、終戦後の米軍からの報告記事として・・・

「終戦後、日本において何人かの航空技術者にインタビューをしたが、全体を通じ
てみても、永野中佐はジェットエンジン計画の分野で傑出した権威である」

「彼は、大変聡明で、精力的で、自信に満ちている。また、彼は、要求された情報
を提供することを嫌がる気配もなく、また、提供された情報は、どれも信頼に足り
るものであった」と、記述している。

日本におけるジェットエンジンの創世記において種子島時休大佐と永野治技術中佐
のお二人のリーダーシップがあってこそ、短期間での開発成功があったといっても
けっして過言ではないだろう。

偶然にも、中島翁と洋介は、著書に掲載されている写真を見て、お互いに声を出し
声が重なった。

写真は1962年頃のもので、当時の石川島播磨重工の土光社長と永野治取締役が
写っている。

この写真から推測したことは、ネ20の基本にあるジェットエンジンの設計思想は、
戦後の純国産ジェットエンジンJ3につながり、さらには、T4中等練習機に搭載
された、F3エンジンにも影響を与え、さらには、小型民間機用ジェットエンジン
への発展につながって行った。

その道筋は、明確にイメージでき実像としても見えてくる。これを可能にしたのが、
天才技術者である永野治翁の頭脳であったと考える。

このことは、戦後、航空機に関する事業が全て禁止となっていた期間も天才技術者
永野治翁の脳内においては、ジェットエンジンの根幹は、進化を続けていたという
ことではないか。

石川島播磨重工に在職中の永野取締役に、お会いしたことのある洋介は、そのとき
の雰囲気から・・・

「大局においては哲学的に全体を把握され、実際の場面での物事の処置に当たって
は、物理的に、理にかなった行動をされる方」と、いう印象を受けた。

天才技術者の永野治翁であれば、例え、現物のジェットエンジンが、目の前に存在
しなくても脳内でジェットエンジンの性能解析が出来てしまう、超能力に近いもの
をお持ちであるという思いがした。

ここで、中島翁から、面白い言葉が飛び出してきた・・・

「ネ20のジェットエンジンを開発した当時は、材料などにも恵まれず、設計仕様
は極力低めに抑えたものであった。例えば、タービンの入口温度などは、低く設定
せざるをえなかった」

「そこに着目して、中島翁たちの設計チームは、材料などに恵まれた現在の環境で、
当時の制約条件を解除して、現状で活用できる特殊鋼などを設計に取り入れて設計
をしてみたというのである」

「その設計には、二年間を要したという」
「機体も、零戦を基にして、民間仕様に設計をやり直したという」

「しかも、この飛行機は飛行試験にも成功して、戦後の沖縄における慰霊の願いを
込めて、沖縄の上空を旋回した後、空からの献花を行った後に沖縄では観光の名所
になっている玉泉洞の奥にあたる地元でも知られていない洞窟に奉納して、永遠の
鎮魂を祈念した」と、いうのである。

「玉泉洞といえば、沖縄の天然記念物として沖縄県の博物館担当施設になっている
あの洞窟ですか」

「そうです。洞窟の中に岩窟王という名所があるが、そのさらに奥に地元でも知ら
れていない洞窟がある。そこに機体とエンジンが一緒に安置してある」

「どうして飛行機の安置までに、そんなにも手間と時間のかかることを計画された
のですか」と、たずねると、

「沖縄といえば第二次世界大戦において、最も激戦地であったこと。それは広島や
長崎の被爆とは、また違った意味で戦前から航空機に携わってきたものとして軍需
に割いてきた時間に匹敵するだけの手間と時間をかけることは無理としてもそれに
見合うだけの追悼をしなければ、沖縄で戦渦に巻き込まれて他界した人たちに申し
訳がたたない」と、いう思いからだという。

「今や、それができるのは、私たちのような天界に住んでいる人間のみです」
「そこで、私たちは、天界に天空社という法人を設立しました」
「天界から法人登録することはできないので、神崎君にほとんどの手続きをやって
もらっています」

「そして、天空社の総裁に、私が就任したということです」
「天空社にとっても、この沖縄での飛行機の奉納を機会に事態が好転しました」
「この玉泉洞の奥に、飛行機を奉納してから、新しい出会いがあったのです」

「たまたま、沖縄の現地で神崎君が、たいへんな情報を入手してきました」
「沖縄のベンチャー企業が、サトウキビをスライス状にカットしてバイオ加工し、
IC回路と結合することで太陽光を電気に転換する化学反応を発見したのです」

「まさに、バイオとICそれにプラスチックの加工技術によるメタ(結合)理論
の成果ですね」

「沖縄には、サトウキビ畑が、無数に存在します」
「私たちは、これを航空技術と結合させることを考えました」
「その答えが、この超軽量ヘリコプターとしての具現化だったのです」

「それは、どんなきっかけで、そこに行き着いたのですか」

「いや、それが、ネ20のジェットエンジンにまつわる話で、昔、ネ20を飛ばす
のに燃料がなくて松脂から燃料を精製したという話を聞き、この面からも私たちは、
当時の苦労を研究する必要があるということになって、沖縄でもそれが可能か否か
の調査をはじめていたのです」

「そのときに、沖縄のベンチャー企業の名前が挙がりました」
「早速、たずねたところ、バイオチップスの存在を知ったのです」
「そこで、私たちは沖縄での鎮魂だけにとどまらず、もっと積極的に沖縄の人たち
の未来に、貢献できることをしよう」と、天空社の人たちは考えたのだという。

「これは、実際に現世において戦後の日本復興に大いに貢献されて、後継者に道を
譲り天界の人となった土光敏夫さんや本田宗一郎さん、そして永野治さんの、お話
を伺ってから、私たち天界の人間も、大いに触発された結果なのです」

最初のきっかけは天界での講演会でした・・・

「天界の学術院が計画したものです」
「第1回目は、マズロー博士をお招きしての基調講演会でした」

「その時、実業界で活躍の著しかった方々の経営実践における、よもやま話も、
順次、輪番制でお聞きしたいということになりまして、その第一弾に選ばれた
のが土光敏夫・本田宗一郎の両先生のご講演だったのです」

「最初の基調講演のマズロー博士のお話は、マズロー博士が、かねてから唱えて
いたところの、あの有名な欲求の五段階説に、晩年になってから、さらに一段階
を加えた」と、いう講演でした。

「これを欲求の六段階説という」

「具体的には、従来は、五段階目が自己実現で、これを最高次としていましたが、
さらに加えて、最高次には他己実現を六段階目として位置づけたということです」

「これはマズロー博士も、晩年になってから気付いたもので、自愛的な考え方の
上に、愛他的なものがくると考えたのです」
「そして、自己実現と他己実現を含めて、高次の存在価値とした」

「そして、これらの欲求は持続され、より高められて行く性質がある」
と、したのです。
「そして、これらのことは最近の大学生のテキストには反映されています。
問題は、多くの企業研修のテキストです」
「今でも、自己実現を最高次に位置づけているテキストが多いのです」

「そして、この話がたいへん盛り上がったのは午後の講演で土光さんと本田さん
の講話を聞いた天界人が、お二人ともに他己実現を、まさに実践してきた経営者
として絶賛された」と、いうことであった。

さらに、話題が盛り上がったのは、その後の懇談会において・・・

「最近、現世においては、他己実現に熱心な企業が著しく業績を伸ばしている」
「自己実現にばかり、目が向いている企業は、軒並み業績が悪化している」
「他己実現に向けて注力が著しい企業としては、筆頭にトヨタが挙げられた」

「あのすっかり有名になった、トヨタ生産システムをワールドワイドに公開して、
数多くの企業の業績向上に寄与して、自らも継続的に大発展している」

「一方で、自己実現にのみ走りすぎ、倫理観を失った企業や団体は惨憺たる状況に
陥っている」
「いわれてみれば、その通りである」と、洋介は、その考え方に納得した。

天界人の世界でも大いに盛り上がった懇談の場での結論としては・・・

「日本政府の刊行資料からのヒントもあり、天界人から、現世への他己実現的な
贈物として、戦前・戦中・戦後の技術立国日本の産業史として 『海から空へ』
『空から陸への』技術移転と発展史を、それぞれの実機を集めてモニュメント風
に展示する」

「そして、これからの技術を担う人たちの参考にしていただこう」
「これによって、天界人も、他己実現における一翼を担って行こう」
「この具現化は、海と空と陸のそれぞれに公社を設けて、本格的に推進しよう」
ということになったのだという。

「その空の公社が天空社で、総裁が中島知久平翁ということですか」と、洋介が、
おたずねすると、
「その通りです。早速、取り掛かったのが、先程、見ていただいたイエスタディー
館です。これは過去の史実を忠実に再現しようという趣旨で進めています」

「ツモロー館は現代史ですが、飛行機は大物だけに、現物の入手をどうするかで
苦戦しています」
「フューチャー・エリアでは、実際に役立つ実機を未来に向けて創造して行きます」

「沖縄の玉泉洞の奥に、奉納した小型民間ビジネス機は、その手始めの作品です」
「現在、進めている超軽量ヘリこそが、天空社の主力商品です」

「天界人同士の申し合わせで空の分野を展開中の天空社はニュージーランドおよび
オーストラリア周辺において、着々と準備を進めています」

「船の分野は、ブラジル地域で準備を進めており、陸の分野は日本近郊で準備を
進めています」

「先日の定例連絡会議では、大規模モニュメント全体の設置場所として、やはり
沖縄が最有力候補地として挙げられています」
「やはりという意味は、沖縄県全体の現況を見たときに、既に、地形的に、戦前・
戦中・戦後のイメージが、南から北に向かっているように見て取れるからです」


「この大規模モニュメントから、日本の皆さんに感じ取っていただきたいと考えて
いるものは、完成品からのハードとしての素晴らしさやイメージではありません」
「日本の産業の歴史において、日本人の頭脳こそが、その史実を支え、隆盛なもの
に発展させていったという事実を再認識していただきたいのです」

「日本における唯一の財産は、昔から、いわれているように頭脳です。これからの
技術立国日本を支えて行くのは、あらゆる分野から成る頭脳であり、その人的財産
の育成が大切です」

「今日の日本において、まだまだバブル後の閉塞状態から抜け出せないでいる企業
が中小企業を含めて、規模の大きな企業にあっても、なかなか、黒字化が果たせず
倒産の危機にさらされています」

「このジレンマが続くと、あの第二次世界大戦前夜の状態に酷似した環境になって
くる恐れがあります」

「私たち天界人も、海と空と陸をつなぐ大規模モニュメントの製作や、未来産業に
向けた具現化の必要性を痛感して、具体的に、超軽量ヘリなどの創作による協力が
不可欠と考えました」

「日本が、再び、あの第二次世界大戦前夜と同じ決断の過ちを繰り返さないために、
天界人にも出来ることがあるのではないか」と、いう議論が出て、みんなで真剣に
話し合いました。

「一方で、今日の日本にとって、先行き、最も、危険なことは少子化問題です」
「過去に戦争の大過によって、日本の人口が減少するという悲劇がありました」
「しかし、あの戦時下においてすら、多くの戦没者たちは、国を守り子孫繁栄を
願うがゆえに、尊い命を犠牲にしたのです」

「しかし、現代の深刻さは、日本人が自らの意思の必然性として、生じさせている
少子化問題であり、それは日本の国の自然消滅への道なのです」
「今日の家族構成において、核家族化という現象の進むなかで、夫婦二人に子供が
一人という家庭を、数多く見てきました。この視野の狭さが先行きの見通しを悪く
しているのです」

「これを一世代前まで、視野を広げて見て行きますと、今や、二組の祖父母に孫が
一人という時代になってきているのです」

「これは現代においては、学歴が江戸時代の士農工商に代わる身分制度として頑なに
定着しつつあるという現実が、ひとつの根深い問題として浮かび上がってきます」

「今や、企業などで盛んに学歴重視の撤廃を呼びかけていますが世の中のお母さん方
は、その呼びかけには、耳を貸そうとしません」
「ご自分の、ご亭主の二の舞はさせない」と、いう悲痛な思いが、一部では、少子化
を加速させています。

教育社会学のテキストなどでも、日本の世代間のケース研究として大学や大学院と
いった高等教育の機会に恵まれなかった親が子供たちに夢を託すリレー競争として、
「再加熱化という現象」で、その核心を捉えている。

「少なく生んで少数精鋭的に育てる」
この傾向が打ち破れない限り少子化は続きます。

この少子化と再過熱化現象は、既に、次世代にまで及んでいると洋介は考えた。
「お母さんの嘆きを毎日のように聞いて育ってきた娘たちが、今度は自分の父親
の、二の舞はさせない」と、考えるからである。

ここで、洋介は、和歌山周辺のツアーに参加したときのことを思い出した・・・

「和歌山周辺に出掛けたときのツアーでは、一日目は、高野山の宿坊に宿泊した」
「二日目はホテル浦島に泊まり海が見える洞窟内での温泉を楽しむという、異色の
組み合わせの宿泊プラン」であった。

この一泊目の高野山の宿坊で高野豆腐をいただきながら、若い僧侶から面白い講話
をお聞きした。

「ここに集っておいでの皆さん方は、ご夫婦での参加が多いと聞いております」
「さて、皆さんは、ご先祖さまのご供養ということでお墓参りに行かれますが、
皆さんは、ご先祖さまの人数を数えたことがありますか?」

「恐らく皆さん方の想像を越えた、すごい人数になります。今回ご夫婦でご参加
の皆さんのご先祖を十代、昔にさかのぼりますと、その人数はなんと1024人
になります」

「従って、ご先祖さまのご供養を熱心に行なうということは約千人規模の応援団
によって皆さんへの後押しをしていただけるということです」

ここで、洋介は、この数字のもつ意味を少子化に当てはめて考えてみた。

「今のような、一人っ子の傾向が、これから先まで、それぞれのご家庭で、十代に
わたって続くと人口はやがて千分の一になってしまう」と、いうことになる。
「もちろん、全部のご家庭で一人っ子という訳ではない」

現に、最近、知り合った友人は、
「奥さんのお腹に、五人目の生命が宿っているので、しっかり働かなくては」
と、気を引き締めていた。

しかし、現状において日本国内の高学歴化は、ますます進む傾向にあり、これも
少子化による影響として、大学への無競争での全入時代が予測されており、その
結果としての晩婚化による、少子化への悪循環に歯止めがかからない状況が予想
される。

現に、洋介の友人宅では、次男が調理師になりたいという希望を親に伝えて調理
や料理の専門学校に入学したいという意思表示をしたところ、とにかく大学だけ
は卒業しておきなさいという親の願望に云いまかされて、大学卒業後にどうして
も調理師になりたいという夢を叶えるために専門学校に通っている。

このケースにおいても、親のエゴで子供にとっては晩婚化に追い込まれることは
十分に考えられ、短期間に余程の努力がなければ、一人っ子になる可能性は高い
と考える。

少子化が引き起こす問題は年金問題よりも先に今まで日本が誇ってきたあらゆる
分野における優秀な人的財産としての頭脳が、確実に、減少してゆくことであり、
それは、誰の目にも明らかなことである。

かつてのローマ帝国の例を引くまでもなく、日本国家という存在が内部から崩壊
していく現象は、極端なまでの高学歴志向による晩婚化。それに伴う少子化現象
という連鎖の呪縛から解き放たれない限り、時間の流れに沿って、確実に優秀な
頭脳が消滅して行こうとしている。

一方、ここで、もう少し視野を広げた友人から、少子化傾向は高学歴志向だけが、
その要因ではないという反論を得て、洋介は 「生涯発達心理学」のテキストを
めくった。

女性の生活意識の志向性にスポットを当てた記事である・・・

そのなかから、昔ならば結婚して子育て期に相当する年齢層の女性を対象にした
意識調査である。

その結果からは、

◯ 自立社会派層
◯ 主婦エンジョイ層
◯ 良い嫁志向層
◯ 生活不満層
◯ さらに高級生活志向層へと続き、多様な生き方がみられる。

これらの層別からも、少子化につながる傾向は、見てとれるのではないか?

ここで洋介は中島翁の視線に気付いて顔を向けると、中島翁から熱弁が飛び出す。

「そこで天界人に出来ることとして、その具現化のためには、戦火の激しかった
沖縄への慰霊にのみとどまらず少子化対策も含めて本格的な産業起こしを沖縄発
で企画、優秀な頭脳の需要創りから実践して行こう」と。

「そのための産業モデルとしての選択を、超軽量ヘリの工業拠点造りに絞り込む」
「先ずは南の島、沖縄から少子化に歯止めをかけ、新しい形態の技術立国日本を
再生して行こう」と、いう構想が、天界から湧き上がったのだという。

「昨今を通じて話題になっている遷都よりも、地方から人口増を推進して日本の
復興を実現させるモデル地区を創って行こう」と、いう結論に達したのだという。

そのような経過を汲んでと前置きをして、中島翁は・・・

「洋介さんには、是非とも、そのモデル機である超軽量ヘリに試乗していただいて
感想をお聞きしたい」
「その感想も超軽量ヘリの操縦性のみではなく、企業人の経験も生かして、それを
量産化して行く上での、ご意見なども合わせて、お聞かせいただければ、たいへん
ありがたい」

「クライストチャーチの大聖堂で、父君の竹次郎さんに、そっくりな・洋介さんを
お見かけしなければ、こんな出会いもなかった訳ですが、これも一期一会のご縁か
と考えおりますので、是非とも、ご搭乗を」と、懇願されてしまった。

「超軽量ヘリの操縦は、だれにでも操作できるように極めて簡単にしてあります」
という言葉に誘われて、実機がおいてある場所に行くことになった。

フューチャーエリアに出ると周囲は海に囲まれていた。

機体の格納庫は、スケルトン調になっているので内部の状況が外からも透けて良く
見える。

洋介は、すぐに気付いた。

「あの奥にある機体が超軽量ヘリですね」
「はい、そうです」
「その隣に置いてある黒い物体はなんですか?」
「卵を平べったくつぶしたような形状をしていますね」

「さすがに洋介さんは目が早いですね」
「あれは、まだ試作中の超軽量ヘリです」
と、いいましても、従来のヘリコプターの設計概念からは飛び外れたコンセプトに
なっています。

「ただいま呼び名を募集しているところですが、飛び方が、カブトムシに似ている
ところから、ビートルズと呼ぶ天界人が多いようです。いずれの超軽量ヘリも操縦
する際には専用ヘッド・シミュレーターをかぶって、操縦していただきます」

「これは、先程、テロップで学ばせていただきましたときのヘッドシミュレーター
と同じものですか?」



超軽量ヘリからのお伽の世界(夢か幻か)

~ 超軽量ヘリコプターへの搭乗前の会話 ~

「はい搭乗時の専用ヘッド・シミュレーターは先程のものと原理的には近いですが、
使い勝手の面でその機能が大分違っています」

「どこが、違うのですか?」

「この超軽量ヘリで使う場合はこれを頭からかぶって操縦桿を握っていただきます」
「そうしますと、例えば、右に旋回という思考をします、と、操縦桿を少し右に倒す
だけで、後は、シミュレータが適正な操縦をします」

「また、目的地が明確な場合は、行く先を意思決定していただければ自動操縦で現地
に向かいます」

「ここで例えば、行く先は沖縄と意思決定しますと、その意思決定がナビゲーターと
連動して、自動操縦に切り替え、現地に向けて自動的に離陸・発進します」

「さらに細部において、住所が明確なら、それを脳内にイメージすることで、現地に
着陸できます」

「したがって、超軽量ヘリのヘッド・シミュレーターの場合は、洋介さんが操縦桿を
握れば、洋介さんの操縦に関する思考だけを、ピックアップしてくれるというのが、
このシステムの特徴です」

「これに対して先程のテロップ表示で大活躍したヘッド・シミュレーターの場合は、
テロップ表示に連動した洋介さんの思考だけを、より深い思考レベルでデジタル化
するという特徴をもっています」

「例えば、洋介さんがテロップ表示による解説のなかでイギリスのエンジンの話題
に触れたときに思考したことなどは、全て脳内の働きとしてデジタル化します」

「実際に、洋介さんは先程の反応として、イギリスという言葉に対して連想的に、
ロンドンからダービーへの移動の際に、急行列車から見た、広大な芝生の景色の
中にあったクロッカスの花を綺麗だと感動した記憶の描写に思考が飛んだときに
それも合わせてデジタル化しております」

「これは、脳内の働きを全て記録する、いわば大福帳のようなものです」

「しかし、そのままでは、ヘッド・シミュレーターをかぶった人の脳内の働きの
全てをのぞかれてしまうという疑心暗鬼的な精神的負担をかけてしまいますので
現在では、さらに研究が進んで、デジタル化されたデータのなかで、その人の
アイデンティティ(その人らしさ)に特有なものと推論される深層心理データは
取り除いています」

「言い換えれば論理的な思考部分のみを抜き出すように改造されてきています」
「これによって、読み手の側でも余分な混乱や解析を減らせる効果があります」

中島翁の説明によれば、これはカオス学と脳の科学的な研究および心理学のメタ
(結合)理論による成果なのだという。

21世紀に入ってからは、日本においてもカオス学と脳の科学の結合的な研究が
盛んになって、それを情報工学に応用する動きが出てきているが心理学との結び
つきまでは、まだ表面化していないという。

それを天界では、既に、具体的な研究テーマを設定して活動が動いているという。

「今回の自動操縦システムも、そのような研究のなかから脳の働きをシンプル化
して、制御システムに連結させるという面において天界人には適用可能であって
も、洋介さんたちにも問題なく適用できることを実証したいのです」

「ちなみに、神崎には適用可能であることが確認されています」といいながら、
中島翁は打ち出された資料を見ながら、これは、余談ですがと前置きをされて、

「洋介さんも心理学教室で学ばれたことと思いますが、一つの例を挙げますと、
フロイト博士が、心の構造を自我・イド・超自我に分けて説明しています」
「また、ユング博士は、自我と自己という構造の他に、原型的なものとして、
もう一人の自分よりなる心的構造を想定しています」

「これらのことを考えただけでも、天界人は、まだまだ、引き続き研究が必要と
考えて、その発展分野を模索している段階にあります」

「したがって、ヘッド・シミュレーターの一般市場への普及は、もっと、ずっと
先になると考えております」

「ところで、洋介さんの場合は、心理学でいうところの影の存在が表面に出ていま
せんね。影が、本来の居場所であるところの無意識な領域に落ち着いているという
ことでしょうね」

「えっ、そんなことまで、分かってしまうのですか?」

「はい専門の心理学者がデータ分析しますとより深層心理の部分も分析できます」

「ちょっと怖いものがありますね」と、洋介は、率直な感想を述べる。

「超軽量ヘリのヘッド・シミュレーターは、このような過程を経て脳内の操縦に関
する思考だけを機能的に簡素化して把握しますので、洋介さんはただ操縦桿を握る
だけで、機能的な信号に転換して、自動的にピックアップします」

洋介は、少しばかり難しい話に頭が疲れたこともあり、話題を変えることにした。

「実際に、沖縄に旅すると、戦後は、終わっていないという感想をもちますよね」

「そうです。私たち天界人も沖縄に新たな産業を立ち上げて、21世紀における
新都市構想として、産業に基盤においた活況が創れないかと考えたのも同じよう
な思いからです」

「安心して子供が産める」
「そして安心して育てていける」
「そのためには日本型モデルとしての産業基盤の整備が必要です」

「沖縄は南から戦中の傷跡、中部の復興への道、北の未来への発展地区と大きくは
三区域に分かれており、それぞれに歴史的なものを背負っている印象があります」

「21世紀における沖縄を考えた時に、新都市構想として全体のバランスを考えた
産業の基盤造りが、今や必須と考えています。その面からも超軽量ヘリの製造工場
を造る構想は素晴らしいことですね」

「ところで超軽量ヘリの量産となりますと、実機による飛行試験などで、居住地区
における騒音問題などが、起こりませんか?」と、洋介が質問をすると、

「全く問題ありません。騒音についてはシミュレーション技術によって問題を起こ
さないことが確認されています。デジタル・シミュレーション・ルームを、ご覧に
なりますか」

思いがけず、超軽量ヘリの飛行前に、天空社のシミュレーション・ルームを拝見
出来ることになった。

「飛行状態をあらゆる面から、検証するために、シミュレーション用に、大型の
電算機をセンターに置いて、端末にはパソコンを連結させ、使い勝手を良くして
いる」のだという。

「こちらが、基本設計と構造解析を専門に行うシミュレーターです。こちらは、
コンポーネント設計室でパソコン端末でほとんどの設計を済ませております」
「こちらは、環境アセスメントの面から解析を行うシミュレーターです」

「このシミュレーターでは、超軽量ヘリ単体での単独飛行から、複数での飛行
分析まで満遍なく実施できます」
「理論的には500機までの同時飛行が解析可能です」

「えっ、500機までのシミュレーションですか?」 と、洋介は思わず耳を
疑って聞き返した。
「500機のシミュレーションの他に、実機による飛行試験は、どうされるの
ですか?」

「現在では、実機での飛行試験は、ほとんどといってよいほど行う必要があり
ません」
「ただ、操縦室の計器類と人間の五感との相性などは、感性を伴う分野なので、
可能な限り実機での検証を行っています」
「この自動操縦システムも生身の人間感覚による実地検証が必要な部分です」

「総勢500機のシミュレーションとは、いずれにしても、凄いことですね」
と、洋介は、感動の声をあげるばかりであった。

洋介たちが開発している超軽量ヘリのことは、自分が置かれた立場上、明かせ
なかったが、まさに、この目の前のシミュレーション技術には、頭上から滝を
浴びせられたような衝撃であった。

このシミュレーション技術が確かなもので、既に、実用化されているものなら、
現在において、洋介たちが計画している砂漠または海上での飛行試験は不要に
なってくる。

それは、自然環境保護の面からも、経済性の面からも好ましいことであるので、
さらに技術的な面も含めて、ご指導をお願いすることにした。

この超軽量ヘリ500機によるシミュレーションを可能にした理論はカオス学
の分岐構造をモデルにして考え出したものだという。

洋介は、今までに学んだカオス学は入門コース程度なので、ここで少し時間を
いただいて、カオス学の実務編について、ご指導をあおぐことにした。

・・・・・・・・・・・・

ここで 「カオス学」 を入門コースから振り返ってみることにしよう・・・

カオス学におけるカオスという言葉は、日本語読みであって、欧米においては、
ケーオスと発音する。

また、辞書などでは、カオス学を説明する言葉として「混沌や無秩序など」の
説明があるが、電子辞書などでは、初期状態のわずかな違いにより、その後に
生成されるものが大きく異なるような現象、と、して本格的に突っ込んだ説明
をしているものもある。

本来、カオス学においては「この混沌のなかに無限の秩序構造を見出そう」と
する学問で、これを決定論的カオスと呼んでいる。

時間的・空間的スケールのなかに、 このような秩序を明快に見出せるように
なったのは、ここ四半世紀のことでコンピュータの高性能化による成果が寄与
している。

このカオス学のなかで、分岐構造という考え方が、天界でも脚光を浴びて研究
が重ねられ超軽量ヘリ500機ものシミュレーションを可能にしたのだという。

・・・・・・・・・・・・・・・

シミュレーションエリアで、この実演を見せていただき、その俊敏な解析手順
に洋介は、思わず仰け反り、目を見張り、うなってしまった。

「このシミュレーションを習得できれば砂漠や海上での飛行試験は、まったく
不要になる」

ここで、洋介は、より詳しいシミュレーション技術のご指導を中島翁にお願い
して外に出ると超軽量ヘリコプターが並んでいるエリアに出た。

「ここでは、実際に人間が操縦する際の五感との対応および脳機能とシステム
の連携に対象を絞り込んでテストを進めています」と、中島翁から説明がある。

洋介は、その隣の機体に目が飛んで・・・

「あの卵を押しつぶしたような機体がまったく新しいコンセプトによる超軽量
ヘリですか?」

「たしかに、カブトムシに似ていますね」と、洋介は、少し興奮気味の自分の
声に気付くと、

「形状だけではなく、飛び方もカブトムシのように飛び廻ります」と、中島翁
の解説にも熱がこもる。
「したがって、従来のヘリコプターの特徴でもある回転翼がありません」

「やはり、ヘリコプターという従来からある分類よりも、ビートルズという
呼称で、新しい分野を設けたほうが良いのかも知れませんね」と、洋介の顔
を覗き込んでくる。

「カブトムシ式の飛び方ですと、従来のヘリコプターよりも騒音レベルを低く
抑えることが出来ます」

「こちらの今からご搭乗いただく超軽量ヘリにおいても騒音レベルは低く抑え
ることに成功しています。現在は、沖縄の北部において現地生産が可能か否か
のフィージビリティスタディ(可能性調査)を始めています」

「沖縄現地における機密の生産準備室は玉泉洞の奥の洞窟内に建設済みです」

ここで、一瞬、中島翁の目が輝いた・・・

「さて洋介さん。実際に超軽量ヘリを操縦してみて下さい。私も同乗します」

洋介は、お言葉に甘えて、早速、超軽量ヘリコプターに乗り込むことにする。

「離陸がとてもスムーズですね。それに音も静かですし、この超軽量ヘリを
飛ばして富士山の上空を旋回できたら、さぞかし気持ちが良いでしょうね」

「それはもう、マウントクックを遊覧飛行で、眺めるのと同じで絶景と思い
ますよ」

「そういえば、日本において、富士山は世界遺産に匹敵する山岳美を誇りながら、
ゴミ問題などの障害があって、いまだに、登録が難航していますね」
(その後の日本国民の総力を挙げての努力で世界遺産に認定されている)

「ここ、ニュージーランドでは、真っ先に、環境保護を考える国民性からいって、
そのような事態は、まったくといってよいほど想像のつかないことです」

「最近の日本の国民性には、ごく一部のことでしょうが、自己実現や自己満足に
走り過ぎてしまって、他己実現の世界まで視野が広がらない傾向が出てきている
のではないでしょうか」

「例えば、最近の加熱した受験戦争も、かつて親たちが果たし得なかった、自分
たちの夢の再加熱ということで、自分の子供たちに夢を託し過ぎている」

「これは見方によっては他己実現のようにも見えますが、子供たちへの他己実現
を考えてのことであれば、超一流大学への入学だけが選択の対象ではなく、子供
たちにとって自分の意思で自らが選べる、複数の選択肢が用意されていても良い」
と天界人たちは考えています。

「そのためには、選択を間違ったと気付いた子供たちには、敗者復活の道も用意
しておくような、ここでも線形の連続的な考え方のみではなく、非線形なカオス
学的な考え方があっても良いのです」と、中島翁は熱弁をふるう。

・・・・・・・・・・・・・・・

洋介が操縦する超軽量ヘリの前方に急に視界が広がる。

「あっマウントクックですね。地上からの眺めとはまた違って素晴らしいですね」

「素晴らしい眺めでしょう」

「感動的な光景ですね、山頂が白銀に輝いて、お伽の世界にいるようです」

「それでは、この辺で旋回することにしましょうか」と、中島翁から、洋介に声
がかかる。

「洋介さんの頭の中で行く先をスケルトン・エアー・ポートとイメージしてみて
下さい」と、中島翁が云われるので、そのように言葉には出さずに頭のなかだけ
でイメージする。

「はいこれで、自動操縦に切り換わりました」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中島翁も同乗されてのフライトは快適そのものであった。

超軽量ヘリをスケルトン調の格納庫に納めて中島翁のオフィスに戻ると、神崎さん
が待機していた。

「総裁、そろそろ、洋介さまが、奥様のところに戻られる時間かと」

「それでは、洋介さんには、残された時間が僅かなようですので」と、いって、
中島翁が握手をしてくるので、洋介は恐縮して深々と頭を下げ、お礼の言葉を
述べておいとますることにした。

神崎さんに案内されるままにモード転換室という看板が掛けられた部屋に入る。

「お帰りのときは、こちらでモード転換しませんと、お帰りになれません」と、
ここでも、神崎さんに案内されるままにリラックスルームのような、ゆったり
とした雰囲気の部屋の中央に据えられたシートに足を伸ばし、ゆったりと背も
たれに身体を預けるようにする。

神崎さんが、少し離れたところで、大きなボタンを押す。

・・・・・・・・・・・・・・・・

一瞬、洋介は暗黒のトンネルを物凄い速さで走り抜ける思いが、しばらく続いた。
まだ、ぐんぐんと加速感が続いているなかで、 突然、身体に重圧感がかかって、
洋介は前のめりになり、反動でまた後ろに反り返った。

状況の分からない中でのシステム故障のようである。

このような状況のなかにあっての行動は自分で即断するよりない。洋介は、かつて
雑誌を読んだときの記憶を手繰り押せた。

なんでも、初期のロケットの打ち上げのときに、ロケットの打ち上げまで、本体の
垂直を保つための先端フックがエンジン点火の後で、自動装置が働らかなくなって、
フックが外れない状態が勃発し、とっさの機転を働かせて、物干し竿を取りに行き
その物干し竿でフックを外して無事に発射に成功したという話である。

今回も、加速されたカプセルの外周部が、岩盤をかじり、止まってしまったことが
考えられる。しかも、神崎さんとは連絡のとりようがない。

洋介は腹を括って自分が乗っていると思われるカプセルを前後左右に全身を使って
ゆさぶりながら、進行方向とは逆の方向にカプセルを反動をつけても戻してみた。

一度だけではなんの手応えもないため、これを何度となく必死で繰り返した。

突然、全身に加速感が加わり洋介は意識を失った。やがて、混沌の中から目覚めた
ような感覚で意識が戻ると、洋介は、懸命になって頭の中を整理した。

中島翁から学んだカオス学や航空宇宙の分野におけるシミュレーション・デザイン
が実用化のレベルにあること。また、不思議なことに洋介は、意識が戻る過程で、
次のような二つの記憶が、フラッシュバックのように、脳内に蘇った。

一つ目は、広島の原爆記念館で見た悲惨な光景と道路に焼き付いた人影であった。

二つ目は、沖縄において、ひめゆりの塔の地下壕で見た若い従軍看護婦さんたちの
治療日記であった。

そして、今また、父親が語っていた言葉が思い出された。

「世界の航空界の歴史において欧米における航空エンジン用スーパーチャージャー
の登場が、日本には、もはや手の届かない戦争であることを認識させ、それが終戦
に行き着く一因になった」

これは、幼い頃に、何度となく父親から聞かされた話であったが、当時の幼い洋介
には、まだ航空技術のことは、良く理解できなかったことであった。

今回、中島翁からも航空界におけるスーパーチャージャーの登場が、欧米における
航空機によって、はるか上空での飛行を可能にしたため、もはや日本の航空機には
手も足も届かない状況に追い込まれたことなどが良く理解できた。

そして洋介は、頭の中で、いつまでも戦後という時代を終わらせてはならない。

それは、平和の持続への強い願いであり、次の開戦に向けて二度と引き金を引かせ
ない決心であり、ましてや、今日の日本国内に蔓延した感のある、閉塞感の状況に
あっては、同じ過ちを二度と繰り返さないためにも、戦後という時代を終わらせて
はならない、と、自分自身に言い聞かせた。

突然、このような記憶が蘇ったのは、モード転送時のトラブル発生による衝撃から
きたものだろうかと、ぼんやりとした状態がしばらく続いた。

朦朧とした脱力感のなかで遠くから声が聞こえた。

「あなた、外に出て散策にでも出掛けますか。よく寝ていたわね。でも、さっきは、
身体を大きく揺さぶって、私のほうが驚いたわよ。夢でもみていたのかしら?」と
いう美里の声が耳に飛び込んできた。

洋介は、我に返って、はっとした瞬間に、手の平から紙片が落ちた。
「タイムアウト」と書かれている。

まだ、頭の中がだいぶ混乱している。人間は時として誰でもが、不思議な異空間に
飛び込むことがあるというが、美里の態度や対応を見る限りにおいて、そこには
なんの不自然さも感じられない。

洋介が、異次元の世界に行ってきたという気配は、周りからはまったく感じ取れ
ないのである。

目の前の大きなガラス窓には、マウントクックの美しい風景が広がっている。

美里と一緒に、外に出ると、弁護士さんご夫婦とお友達のご夫婦たちが、森の中を
楽しそうに散策していた。

「森の中が、どこに行ってもきれいですね」
「空気が澄んでいて、とても気持ちが良いです」
という会話が自然に交わされるなかで、洋介は、異次元体験のことは、自分の胸の
なかにしまっておくことにした。

「こんなにも、ゆっくりとした時間を過ごせたのも久しぶりのことですわ」
と皆さんの目が輝いている。



氷河への着陸体験

バスが置いてある広場に戻ると皆さんが集まり始めていた。

ミセスCIA親娘が、盛んに、マウントクックの山頂付近の氷河への着陸体験の
感想を飛行機に搭乗できなかった人たちのために熱心に説明していた。

「飛行機は揺れも少なくて、氷河には、スムーズに着陸できたわ」
「思わず、みんなで拍手したわよ」

「氷河に自分の足で降り立ったときの感動は素晴らしくて忘れることのできない
体験だったわ」と、話をされているミセスCIAの目は、まるで、幼児のように
輝いていた。

「そういえば飛行機には車輪の内側に、ソリを二つ付けていましたね」と、洋介
が口をはさむと、

「そうなのよ、そのソリを使って、上手に飛行機を滑らすのよね。名人クラスの
パイロットだったわよ」

ミセスCIA親娘の搭乗体験の報告も終わり、まだ、バスの発車までには時間が
あるので二人で考えていると・・・

「マウントクック村にある国立公園事務所をのぞきましょう」と、ミセスCIA
が誘うので、丁度、そこに居合わせたツアー客が、ぞろぞろとミセスCIA親娘
に連なって公園事務所に向かった。

「サザンアルプスの全容は、3000メートルを越す高峰が27もある」
「氷河はというと、大小合わせて360という規模」と、洋介が声を出して読むと

今度は美里が・・・

「この一帯は、一億五千年前は海底であった」と、声をあげて読み上げる。
二人して、その地形の変わりように驚くばかりである。

その後の激しい造山活動が加わり、今日の姿になったというが、およそ想像もつか
ないことである。

国立公園内にはホテルが建っているが、過去に数回も雪崩によって建物が破壊され、
その都度再建を繰り返しているため、ホテル代は通常よりも割高でありという。

公園内から正面に見えるマウントクックは、サザンアルプスの最高峰であり南島の
屋根といわれている。

その山岳美については、スイスのマッターホルンと、よく比較されるようである。

マウントクックの全容をすっかり堪能した洋介たちは、やがて、集合時間となり、
バスに乗り込んでまもなく、全員の乗車を確認して、今晩の宿泊地になっている
クイーンズタウンに向けて出発した。

途中で立ち寄った果物屋さんの前で、美里が、興奮気味に声をあげた。
「あなた見てよ。店先がカラフルだわ」
「ニュージーランドの果物をここに全部集めていますという光景よ」と、いって
振り返った。

「あなた、道路の向こう側を見て。ポプラ並木が、あんなにも続いて、それに光に
映えてきれいだわ」と、いうので振り返ると、皆さんも気付いたらしく感嘆の声が
飛び交っていた。

「こんなにも、きれいなポプラ並木は、はじめてだね」
「まさに、黄金色の輝きとは、このことだね」と、いう感想を口にする、と、周り
でも、皆さん、同じように感動の声をあげていた。

皆さん、それぞれに旅の友に果物を買い込んで、バスに乗り込むと、バスは一挙に
スピードを上げた。運転席のスピードメーターをのぞき込むと針は時速130キロ
程度の位置にあった。

飛行機のボーイング747の時速510キロには、遠く及ばないものの、対地速度
の感覚では、いかにも高速好きの運転手さんが、思いっきり、かっ飛ばして走って
いるという健在感であった。

走るバスの中で、運転手さんから話題が出て、橋の上からの、ダイビングを見せる
アトラクションがあるというので、皆んなで見物に行くことになった。その場所で
バスの運転手さんは、なんと四回もダイビングにチャレンジしており感想としては
すこぶる気持ちが良かったと云う。

ここでのダイビングは、足を強力なゴムでしばり橋の上から飛び降りるという方法
をとっている。

新婚のご主人がチャレンジしてみたいというので、皆んなで応援に行ったが、予約
していないと駄目ということで、ミセスCIAをはじめとして、好奇心いっぱいの
仲間の期待は外れた。

そんな経過を冷静に見ていたツアーの仲間が・・・

「でも、若旦那さんは、予約していないと駄目といわれて、ちょっと、ほっとして
いるみたいね」と、冷やかしていたが、ことの真相はと云えばどうやら言葉の弾み
で若奥さんに強がりを見せたのだという。

ニュージーランドの秋は、紅葉も黄葉も、ともに見事で橋の下の景色は、絶景その
ものであった。

ここで、ミセスCIAから、紅葉についての豆知識が披露された。

「紅葉は、アントシアンが細胞の中に増すためです」
「一方、黄葉は、カロチノイドが葉の中に残るための作用です」
「いずれも、こうよう、と発音します」

「なんでも、良くご存知ね」と、ツアー仲間から声がかかる。

やがて、バスがホテルに到着すると、ホテルの庭にも、紅葉と黄葉が競うように
景観を成していた。夕食までに時間があるので二人で散策に出かけるといきなり
目の前が開けた景色になる。

「澄んだ空気。それに美しい山々が連なっているわ」
「ワカティプ湖は青い水色なのね。まるでお伽の世界のようね」と、美里は感動
の言葉を連発している。

この澄み切った風景は、四季を通して美しく変わって行くため、一年中、観光客
の途絶えることがないのだという。洋介は美里と二人で、ワカティプ湖の周囲を
巡っていると、世界中を一人で歩き回っているという日本人の方に出会った。

当然、日本語で、しゃべってくれるので気が楽である。

「ここでの印象は、どこよりも空気が美味しくて、水もおいしい」と、いうこと
であった。ホテルに戻ると、丁度、夕食の時間であった。

夕食時に翌日のミルフォードサウンドへの観光案内がツアーの女性コンダクター
から行われ、それぞれのテーブルで会話が弾んだ。

やがて「明日も楽しみだわね」という言葉を交わしてそれぞれの部屋に戻った。

翌日のミルフォードサウンドへのツアーは往復で600キロ。信号が一つもない
というドライブであった。まさにノンストップでかっとびの高速運転なのである。
ニュージーランドでも日本と同じく車は左側通行。日本と違うところは右折車が
優先すること。市街地に限ってのみ制限速度がある。

ミルフォードサウンドの港に着くと、それぞれに、チケットが渡されて乗船した。
狭い渓谷を案内する船は、その一階が日本人。二階がイギリス人で満杯になった。
船が進んで行くと、両側は、岸壁になっていて、たくさんの滝が目に入ってくる。

千メートルを越すといわれる絶壁は、けっして人を寄せ付けないような、厳しい
表情を見せている。

船内からは、岩山がライオンに見えたり、象に見えたりと、しばらくの間、不思議
な光景が続いた。

天候は局地的に変化が激しく晴れたかと思うと雨や曇りに変わった。そしてあっと
いう間に晴れ間になる。湾内は寒帯らしく、アザラシが岩の上で昼寝をしていた。

「滝また滝の圧巻だね」と、感動しきりの洋介は、大きな滝の下で合羽を着て船首
に立ち、美里のカメラで記念写真に収まった。その合羽姿に弁護士さんのご夫婦が
気付いてカメラを向けてくる。

ミルフォードサウンドからの帰途は、バスの運転手さんの気遣いで、時間的な余裕
を稼ぎ出してくれた。そして皆さんが寄りたいといっていたロブスターを養殖して
いる漁場にバスを廻してくれた。

ツアーバスは制限速度なしで走行するので腕に自信のある運転手さんの場合、旅程
に相当の時間的余裕ができる。

ここは海水と川の水が交じりあう場所のためロブスターを飼育しやすいのだという。
ここで、弁護士さんご夫婦がロブスターを買い込んだ。

その夜は弁護士さんの友人のご夫婦が持ってきた外国でも使えるという電気コンロ
をホテルの部屋のコンセントにつなぎ、漁場で買ってきたロブスターをゆであげて、
皆んなでご馳走になった。

この集まりは深夜まで続き、一同、満腹のお腹をかかえての談笑となり洋介も美里
も良く笑った。

翌朝は昨夜の疲れもみせずにクイーンズタウンの朝市に繰り出した。朝市の会場は、
まだ寒くて、芝生の上に、店を広げた女店主は、寒そうに店番をしながら、せっせ
と編み物をしていた。

朝市の写真を撮ろうということになって美里にカメラを向けると、いかにも寒そう
であった。

まさに、底冷えという朝の寒さであったが、朝食が済む頃には気温も上がってきて、
ミセスCIA親娘のお薦めのジェットボートに乗りに行くことになった。ジェット
ボートは水しぶきをあげて走り、岩や断崖の端が顔をかすめるようにして川をさか
のぼって行く。船に乗っている全員が悲鳴も出ない迫力であった。

その晩はジェットボートの迫力に、すっかり、お腹を空かせて洋介と美里は新婚組
を誘って日本食を食べに行った。洋介は、その晩はなぜだかむしょうに大根おろし
が食べたくなった。

店の名前は、ニュージーランドの国旗にもなっているサザンクロス(南十字星)で、
洋介と美里は、寿司と天ぷらを気絶するほど食べた。食後は美里の顔もほんのりと
紅潮していたので、日本食への満足感はまさに同じ思いであったことを確認しあう
ように、お互いの顔を見合って、

「よかったね」
「おいしかったわ」と、あらためて、お互いの満足感を重ね合わせた。

店の外に出ると店先には大漁旗が飾ってあり、ローマ字で MINAMI JYUJISEIと刺繍
されていた。

「店に入るときには、まったく気が付かなかったね」と、云う洋介の言葉に、
「だって、全員、日本食に向けて、まっしぐらでしたから」と、
新婚組のお二人も加わって大笑いした。

その晩は、四人とも用心して、ニュージーランドで買い込んだばかりのセーターを
着込んで出かけたため、寒さ対策は万全であった。

それでも外に出ると、さすがに外気は冷えきっていて、洋介はコートの襟を立てた。
この寒い夜におけるファッション指導は、出掛けのときの美里によるものであった。
これがきっかけで、この旅では、皆んなが、美里のファッション指南をあてにする
ようになっていた。

翌日は、クライストチャーチの空港に出て、そこから、オークランド空港に向けて
飛ぶ旅程になっている。

その際に、クライストチャーチに向かう途中で旅程の前半において大人気であった
セーター類などの毛糸づくしの店に、また、立ち寄ることが決まり、現地では女性
たちが買い物のフィーバーを繰り返した。

バスは、一気にクライストチャーチの空港に向かった。

そして、それぞれに、お土産の整理が始まった。

「あっ、パスポートがないわ」と、弁護士さんの奥様が素っ頓狂な声をあげて車内
は騒然となった。

あのセーター屋さんに寄って、お土産を買った後で洗面所に入り、その後でベンチ
に座って、バスの発車まで歓談していたというのである。さてどこでパスポートを
なくしてしまったのか、そこに記憶をたどる・・・

「そうよ、あなた、あのベンチに座ったときに、ハンドバックをいじっていたわよ」
と、友人夫婦の奥様から指摘されて、

「そうだわ、あの時、黒鳥がそばに寄って来て気が荒そうだから恐い」と、いって
逃げ出したわよね。

「そうよ、あの時に、ハンドバックの口が開いたままだったわよ」と、いうことに
なって、ほぼ、なくした場所は、特定できたようである。

現地のガイドさんが、この話を聞いていて・・・

「私どもの知り合いが、この道筋の先に住んでおりますから、そこから連絡をとる
ことにしましょう」と、いうことになった。

しばらく道なりに走ってバスは停車。ガイドさんと運転手さんが、家の中に入って
行った。ここからでは、引き返すと飛行機の出発時刻には間に合わないのだという。

やがて、運転手さんが笑顔で帰ってきた。

「パスポートが見つかりました」という報告に車内からは、いっせいに拍手がわく。
今は、そのパスポートをどうやって届けるかをガイドさんとセーター屋さんが相談
しているという。やがて、ガイドさんも笑顔で帰ってくる。

「店の知り合いの方から、空港まで届けていただけることになりました」と、いう
のである。たまたま運良く、クライストチャーチまで行く用事のあるお客様が知り
合いで店に立ち寄っていたのだという。

あの一人旅の銀行員の方が・・・

「ニュージーランドには、まだまだ、性善説が通用する」と、いって、めずらしく
口に出して感想を述べられた。

弁護士さんご夫妻は、二人で一緒に頭を下げて・・・

「皆さん、本当にありがとうございました」と、いって、深々と頭を下げられた。

そして奥様に向かって、

「おまえさん。あのパスポートには、現金も、一緒にしまっておいたのだろう」
「それじゃ、パスポートが出てきたのは、まったくの拾い物だよ」
「パスポートと一緒に出てきた現金で、皆さんに、ご馳走しなきゃ」と
いうことになった。

ハプニングはあったものの、バスは、余裕をもって空港に到着した。

飛行機の出発までには、まだ時間があるので、トイレに入ると、
「あっ、あれが、キウイ・ハズバンドの光景か」と自問した。

このトイレの隅には、ほどよい広さの場所があり、男性は背負っていた赤ちゃんを、
そこに寝かせると、手際良くオムツを取り外して竹べらで赤ちゃんのウンチを取り
除くや、さっと、オムツを取り換えた。

この良く働くニュージーランドの若旦那たちに敬意を称して、キウイ・ハズバンド
というのだという。この呼称を知ったのは、最初に、クライストチャーチに着いて、
カンタベリー博物館に入りキウイバードの剥製を見て、そのときにキウイフルーツ
は、形がキウイバードに似ていることから、この名前がついたと聞いて、面白いと
思った。

このことをバスツアーに乗り込んできた地元のガイドさんに・・・

「面白い話ですね。キウイフルーツの方が、どちらかというと、先かと思っていま
した」と、感想を述べたところ、さらに面白い話を聞かせてくれたのであった。

「ニュージーランドでは、若い奥さま方に対して優しい若旦那さまが多く、まめに
育児などを手伝うところの若旦那さまたちを称して、キウイ・ハズバンドというの
ですよ」と、教えてくれたのであった。

実際に、キウイ・ハズバンドを目の当たりにして、現実に存在するのだと妙に納得
した。しかし、多くの場で、その状況に出くわすことは少なく、その存在は、ごく
少人数ではないかと考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・

オークランド空港に着くと、暖かな陽気で、満開の薔薇に迎えられた。

南半球のニュージーランド北島に位置するオークランドは、南半球換算で考えると、
日本の東京と対の位置に在り、昼間は半袖でも過ごせる秋の陽射しである。

南島のクイーンズタウンでは、セーターを着ていても朝方の寒さがこたえたことが、
信じられないような温度差である。ただ、オークランドでも、朝夕は上着が必要で
あり、一日間での温度差は大きく秋の陽射しの落差の大きさをあらためて感じた。

太陽の陽射しがいっぱいの海沿いの景色は、特に素晴らしく、ここでは高級住宅が
海岸線に沿って建てられているという。オークランドでは、 海沿いの高級住宅は
およそ7000万円から購入できるという。

やがて、海沿いから離れて、丘の上に登って行くと大きな公園に出た。

「あれが、ラグビー界の名門オールブラックスのホームグランドですよ」と、案内
があって、洋介は丘の上から食い入るように見た。

広大なグランドである。ふと、あのラグビーの試合の前のオールブラックス独特の
民族の雄たけびのような踊りが目に浮かんでくる。

・・・・・・・・・・・・・・・

オークランドの薔薇園の近くに建てられた郊外のホテルに泊まった翌朝は、当日の
行動が終日を通して自由行動ということなので、朝食をご一緒した、ミセスCIA
親娘と新婚組と洋介・美里の六人で勢ぞろいして、オークランド観光に出掛けよう
ということになり、早々と、具体的な行動計画がまとまった。

「タクシーによる貸しきりの市内観光をしていただけるところを探しましょうよ」
ということになり善は急げとばかりに、ホテルで教えていただいたタクシー会社に
電話をすると、その電話のやりとりをしていただいた、ミセスCIAの娘さんが、
日本語に通訳してくれて・・・

「人数が6名なので、特別にランドクルーザー型のタクシーで、ホテルまで迎えに
来てくれるそうよ」と、いうことになり、しばらく待機していると、なんとその車
は日本を代表するところのトヨタ製であった。

全員が乗車してから、今日は、終日コースで市内観光をしたい、と、こちらの希望
を伝えると・・・

「私は地元出身なので、オークランドのワイン工場の経営者などとも幼友達です」
「他にも知り合いが多いので、皆さんにとって、きっと喜んでいただける楽しい
一日になることでしょう」
と、いって目のくりくりとした運転手さんから皆を喜ばせる言葉が発せられた。

運転手さんは、元セスナ機による観光飛行のパイロットであったという。とても
陽気な方で楽しいドライブが予感された。しばらくして、大きな橋を渡りながら、

「このオークランド・ハーバーブリッジは、拡幅工事を日本の石川島が手がけた
ました」

「当時はオークランドをあげての大掛かりな拡幅工事で、街中が大騒ぎでした」
という。

やがて「ズー・ロジカル・ガーデン」に到着する。名前の頭にズーと付くので
動物園である。

「ここでは、キウイバードに、対面できます」と、云う説明が、運転手さんから
あった。このキウイバードとの対面は、ある意味で洋介にとっても美里にとって
も感動的なものであった。

それは、その後の洋介の生き方を変えた対面といってもよい。

鳥舎の入り口で日本版の説明を聞く。
「体長は30センチくらいです。夜行性のために特別な鳥舎に入っております」
「キウイバードは、ニュージーランドの国鳥に、指定されています」
「キウイフルーツは形がこの鳥に似ていることからキウイフルーツと名付けら
れました」と、さらに、鳥舎の手前で詳しい説明が続く。

「ニュージーランドには、蛇が、一匹もおりません」
「したがって、キウイバードにとっては天敵のいない幸せな生活が続き、空中を
飛ぶことを忘れました」

「天敵がいないため、目も活発に動かす必要がなく、視力も衰えて行きました」
「このように食べては寝るの生活を繰り返していたために、くちばしのみが長く
伸び、ずんぐりむっくりな体形になっていったのです」

洋介は、概略の説明を聞いた後で、鳥舎のなかの暗がりに目を凝らすと、そこに
自分の姿を見ている思いがしてきた。

「二年前に、東京の大手町に、新しいプロジェクトが発足して、洋介もメンバー
として参画。一年間その勤務が続いた」

自宅からの通勤は片道で2時間近くかかり、その間は電車で立ちっぱなしのため、
それまで1時間以内の通勤に慣れていた洋介にはこたえた。週末には必ず続けて
いたテニスもやめてしまった。

洋介は週末の休日を家で過ごすことが多くなり、それにつれて美里や娘たちから、
「お父さん、あれ食べる、これ食べる」と、差し入れがあり食いしん坊の洋介は
これを片っ端から食べていた。

プロジェクトが1年間で終わってからも、この生活習慣が続いていた。

同僚たちは「幸せ太りですね」と、いって冷やかした。

結果的には体重が10キロも増えた。スーツ類のズボンのウェストは寸法直しを
二回も行った。この時点では、まだ体重は5キロ増えただけであった。

「ズボンの寸法直しは、これで目一杯ですよ」と、洋服屋さんに云われた。

それが、またしても体重が10キロまで増えたのである。なんと、ワイシャツの
ボタンが弾け飛んだ。ズボンのお尻の縫い目が朝の体操のときに裂けた。

スーツ類は、ほとんど、仕立て直す羽目に陥った。

「体重が十キロ増えると、ウェストが10センチ相当は伸びるのですよ」
「身長が五ミリ伸びたのには驚きました。かかとに肉が付くためなのですよ」と
周囲に珍説を披露した。

そして、ついに、会社の定期健康診断で肝機能に障害が発見された。

お医者さんに相談したところ・・・

「急激な太り過ぎによって、肝臓が脂肪巻き状態になった可能性が高いですね」
と警告を受けた。

「ニュージーランドのキウイバードを見て、我がふり直せだよね」
と、自問した洋介は、これをきっかけにして日常の生活習慣を大転換することに
なるのである。

日本に帰ってからのことであるが、飼い犬を買い求めてシェリーと命名した。

この出会いが洋介の生活習慣を変えて、日々、欠かさずの散歩が効き体重を一挙
に5キロ軽減させ肝機能は回復、健康診断において「正常復帰」が確認されるに
いたった。

ただ、そのときの速歩きに懲りたせいか、その後は飼い犬シェリーが、しばらく
の間は、洋介の顔を見ると散歩に行きたがらなくなった。

飼い犬のシェリーにしてみれば、子犬のときには、まだ訳も分からずに、洋介と
一緒に嬉しそうに歩いていたが、やがて美里との散歩によって、自分のペースで
歩ける楽しさを知ることになり「ノンストップの遠乗り」は、御免こうむりたい
ということになったのであろうと考える。

ニュージーランドの動物園では他にも多くの鳥たちが飼育されていた。動物園内
には図体が大きくて怖いような鳥も飼われていた。その鳥に似たモアはマオリ族
が食い尽くして絶滅してしまったというから凄い話である。

「あら、キリンの赤ちゃん」と、その声につられて、丘の下を見下ろと、
「あら、親子のキリンが、ゆったりと歩き回っているわね」
「まさに、マイガーデンという雰囲気だね」と、若夫婦の会話が耳に入ってくる。

広大な敷地内を歩くキリンの親子は幸せそうである。

その隣の敷地ではミーアキャットが穴掘りをしていた。

そのミーアキャットに、若旦那が声をかけた。なんと、歓迎のポーズをしてくれて
いるではないか。新婚のお二人は大喜びであった。その後は、また大型タクシーに
乗り込み水族館へと向かった。

「大きな水槽の下を、人間が通り抜けられるようになっているのね」
「これは、トンネル構造になっていて、通路は自走式になっているよ」
「わっ凄い、鮫が頭の上をゆうゆうと泳いでいるわ」と、それぞれに歓声をあげる。

展示場所には、鮫が口を開けた時の状態が標本にして飾ってある。鮫の歯は三角形
になっていて、これで噛まれたら、ひとたまりもないことが良く理解できた。

あらためて鮫の怖さを知ることになる。

次の見学コースはオークランド博物館。元セスナのパイロットらしく三階には零戦
が展示してあるという説明を加えて、洋介の方に顔を向けた。

洋介は、その目が云おうとしている意味に気付き、

「本当ですか。ニュージーランドに零戦ですか。大いに興味があります」と答えた。

零戦は、軍事品関係の展示コーナーに、大きなエリアを確保して、ほぼ完全な状態
で保存されていた。

洋介は、実戦に使われたことのある零戦を見たのは初めてのことである。

心の内で云うにいわれぬショック・ウェーブ(衝撃波)のようなものを感じていた。
同じ展示コーナーには戦闘機用のエンジンも展示されていた。

ここに零戦が展示されているということは、われわれ日本人が戦後の経過とともに、
かつての自分たちの戦争体験を風化させて戦争があったことさえも忘れたとしても
地球の反対側では、この零戦が展示されている限り、日本にとっての戦後は永久に
続いているということである。

階段を下って一階に出ると博物館の一階にはマオリ族の戦闘用カヌーが展示されて
いた。洋介は、なんの気なしに遠くの入り口付近に目をやると、蝶ネクタイの紳士
神崎氏のシルエットを見た思いがした。

逆光のために、顔がよく判別できなかったが、神崎さんのような気がする。

「こんにちは」と、心のなかでつぶやいて、軽く会釈を交わす。
「気のせいだろう」と、自分に言い聞かせる。
「世の中には、少なくとも、似た人間が三人はいるものだ」と、云う友人の言葉を
思い出していた。神崎さんと特定できないまま、その人物は伴の人と思われる二人
を従えて遠くを横切って行った。

・・・・・・・・・・・・・・・

マオリ族の戦闘用カヌーは芸術品ともいえる優れもので、その形状には無駄をそぎ
落とした機能美が感じられた。この一階のマオリ族の展示場は、地元の子供たちに
人気があるという。

ニュージーランドの小学生たちは、盛んに写生をしていた。ニュージーランドでは
小学校への入学は5歳と日本よりも早い。小学校は5年間で中学校の2年間に続く。
高校は5年間で17歳で修了となる。

ニュージーランドの人たちの結婚は早いとガイドさんが紹介していた。

街中の店で働いている女性たちは活発で、空港で見たキウイハズバンドとは対照的
な印象であった。しかし、ジェットボートを操縦していた男性やラグビー選手など
を見ていると、男の中の男という、男性像が強烈な存在感として感じ取れるので、

「ちょこっと観察で、ニュージーランドの人たちを語るのは難しい」と、いうのが
正直な感想である。

博物館を出ると皆んなの顔に秋の陽射しが強く差し込んでいた。オークランドでの
タクシーツアーを終わり、博物館の前で、一同、揃っての記念撮影は、セスナの元
パイロットがシャッターを押した。

博物館の外観は、古典的で、この中に零戦が展示されていたことがいまだに信じら
れない事実として強く脳内に刻み込まれた。セスナ機の遊覧飛行やタクシーツアー
での長い経験を生かされての、今回のガイドぶりには大感謝であった。

皆さん、それぞれに・・・

「今日は、終日、楽しい案内をしていただきまして、ありがとうございました」
と心からの、お礼を述べた。

「私も、楽しみましたよ」と、いって、元セスナ機のパイロットは、
「ありがとうございました」と、いいながら、一人・ひとりに丁寧に
感慨深く握手された。

・・・・・・・・・・・・・・・

今回のニュージーランド旅行も、オークランドにおける夜がツアー最終日の夜でも
あり、新婚組のお祝いも兼ねて大いに盛りあがった。

ホテル側からも催しが用意されていて次々とゲームが行われた。

弁護士さんの奥様からはクライストチャーチでパスポートが無事に見付かったお礼
にといって、ケーキが全員に配られた。

ゲームの中で一番の盛り上がりは美里が新婚の方に向けて企画したゲームで顎の下
に挟んだオレンジを、顎から顎に渡す場面で、最終ゴールの新婚組に、オレンジが
渡ったときに、危うくオレンジが落ちそうになって、若旦那が花嫁を抱きかかえて
オレンジを守りきった瞬間であった。

その晩は部屋に戻るとテーブルの上にフルーツ篭がホテルからのプレゼントとして
案内書きと一緒に届いていた。

それぞれに風呂から出てベランダでくつろいでいるとワインとフルーツでベランダ
からの夜景を楽しむことで意見が一致した。

「わっ綺麗ね」というので、ベランダの手摺につかまって夜景を眺めている美里の
後方から、夜の景色を眺めると、先程よりも、電飾の数が増えていて、見事な光景
が目の前に広がっていた。

翌日の日本へのフライトは天気も良く、視界も良好で、機内から窓の下をのぞくと、
海上を、ゆったりと走るタンカーが見えた。

「はるか上空からなのに、タンカーが大きく見えるわね」と、その船の大きさには、
洋介も美里も素直に驚いた。

日本産業の歴史においてと、前置きをして、洋介は詩吟のように・・・

「母なる船から、そこに築かれた技術力が基盤となって飛行機を育てあげ、さらに
自動車産業に技術力が移転して、国際的な競争力を確かなものにして行った」

「そして、その後は、船も飛行機も巨大化して進化を遂げ輸送力の拡大に寄与して
行った」

「自動車の分野では、その市場を世界に拡大させて行き、第二次世界大戦前夜には
想像すらできなかったことが、現実の世界で飛躍的に発展した」と、唱えたものだ
から、美里はあっけにとられた。

洋介は、32歳の時に、やがて、生涯の恩師となる上司と共にエアラインの状況や
エンジンメーカーの実情および管理工学の普及状況や実情調査を狙いとして、欧米
のエアラインや航空機用エンジンメーカーの製造工場を駆け巡ったことがある」

その時に初めてアメリカの地に足を踏み入れ、現地のジェットエンジン技術者たち
と意見を交わした場面で、不思議な感覚に陥ったことがある・・・

「ここは、自分たちにとっては、思考の故郷ではないか」と、自問したことがある。

それだけ、今日まで自分たちが受けてきた教育や日常生活における思考の在り方が、
アメリカ文化の影響を強く受けており、その育ってきた環境が、どちらかというと
アメリカ的であったのだという印象をもった。

そして、その影響のほとんどが、父親の竹次郎によるものであることに気付くのに
時間はかからなかった。

そして、美里とのニュージーランドの旅では・・・

「ニュージーランドの秋の風景には、ボクらの幼い頃の原風景のようなものが
あったよね?」と、洋介が美里に語りかけたように・・・

このニュージーランドへの旅において二人にとっての原風景に似た状態で幼子
体験のようなフラッシュバック感覚を共有できたことは、今後の二人の生活や
心の働きという面を考えるときに、とても良い体験であったと考えた。



第2部 激動の時代を乗り切って

運命の分岐点における選択

日本に到着すると季節は、当然、春に戻る。そして、この春から洋介の快進撃が
始まった。その後の2年間で超軽量ヘリコプターはシミュレーション技術活用に
よって実用試験をすべて完了させた。

洋介は日本に帰ってからすぐにカオス学を入門から学び直したのであった。結果
として、カオス学のなかのクラスタル構造に着目した。

分岐構造の考え方をヒントにすればシミュレーション技術に応用できると考えて、
当時、信頼性調査室において統計処理面で活躍していた若手の数学者と情報技術
部門の若手スタッフを引き抜いて混成チームを編成。大規模なシミュレーション
技術を確立した。

一方で、洋介は、シミュレーション技術による実用化テストの総費用と、実際に
砂漠や海上で行う飛行試験の総費用を比較して、総費用対総効果の検討を行い、
シミュレーション技術による方法が、半分の費用で目的を達成できることを確認
して上層部に上申し、その開発が認可された。

その後、洋介は、全社的な経営革新と業務革新の推進のために改善プロジェクト
課長に任じられ従来にもまして広範囲な活躍を期待された。

まったく新たに創設された部門には、社内でもピカイチの部長が着任され、驚く
ほどの俊敏さで社内の業務革新が進んでいった。

今にして思うとニュージーランド旅行からの帰途、機内での会話で美里から思い
がけず・・・

「あの元気な奥さんたちの好奇心や行動力にふれて感じたことは、自分たちにも
投資が必要ということね」と、いう感想を聞いて間もなくのこと、

「貴方これで思いっきり、自分でやりたいと思うことをやってみたら」と、現金
で百万円を渡されたことが、洋介にとっては全ての善循環の始まりであったよう
な気がする。

洋介は、これからは、自宅にも情報化の波は押し寄せてくると考えてパソコンを
購入した。

そして社内における業務革新対象が企業経営の領域に入ってきたことから・・・

「経営大学院」と、命名された商品名の教材を総量にして大きなダンボール箱で
二箱ほど購入してビデオとテープ教材を伴ったテキストを活用し、休日になると
猛烈な勢いで勉強を始めたのであった。

それにしても、ニュージーランドの博物館で対面した、あの零戦からのショック
ウェーブ(衝撃波)は、脳内に深く刻みこまれたままである。

洋介は、日本においてけっして戦後という時代を終わらせてはならないと同時に、
不戦の国であるところの日本の理想は、どこまでも貫く必要があることをあらた
めて強く認識した。

そして、その後になって、この不戦の誓いは、個人にとっても重要であることを
思い知るのであった。

そして、あらためて、地球の反対側のニュージーランドに展示された零戦が存在
する限り・・・

「戦後という時代に終わりはないのだ」と、いう言葉を唱え続けてゆく必要があ
ることを痛感した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

洋介が日本経済のバブルが弾けた後遺症に巻き込まれて再びショック・ウェーブ
(衝撃波)を自ら全身で浴びることになるのはそれから間もなくのことであった。

当時の洋介は研究所においてシミュレーション技術を確立。その後、航空分野の
事業本部に異動して、従来とは異分野ともいえる全社的な経営革新や業務革新に
取り組んでいた。

社内でもピカイチの部長のリーダーシップが光って経営革新や業務革新が順調に
進んでいたため、所属する事業本部においては、バブルの弾けた後遺症の影響も
少なく順調に業績を伸ばしていたものの全社的には業績が悪化して、社内的には
リストラの嵐が吹き始めていた。

そのような折に、ピカイチの部長が定年退職されて、新しい部長が着任した。

まだ、その時点では自分自身が企業内での目に見えない戦いに巻き込まれて行く
ことなど想像もしなかったことである。

幸いにも、ニュージーランドにおける多くの体験が、自らをピンチから救う結果
になるのであるが、当時は、そのような事態が待ち構えていることなど考えても
いないことであった。

応用心理学において、目的地や折り返し点に到達する少し前の段階は弛緩状態が
発生しやすく、そこでの事故の発生が多いという報告があるが、まさに、管理職
定年といわれる55歳あたりから危険区域に入ることをまざまざと体験すること
になるのである。

ただ、その兆しとしては、日頃から、親しくお付き合いさせていただいていた、
経営コンサルタント会社の首脳から聞いた話として・・・

「洋介さん、この頃は大手企業からの教育研修の依頼が、目に見えて減ってきて
いますよ」

「その理由を企業幹部から聞かされて愕然としたのは、今から、やめてもらおう
としているときに教育などを実施して動機付けされ、妙に元気を出されても困る
のですよ。特に中高年のクラスには、現状のまま、やる気を失っていて欲しいの
ですよ」と、云われて、はっきりと研修を断られたというのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

洋介は、まさに波乱万丈の人生を乗り切ってきた父親の背中を見ながら、いつも
思いをめぐらしてきたことがあった。

父親は、第二次世界大戦の戦時下において、会社の廃業などに伴い、やむを得ず
転職を繰り返してきた。順当な世の中であったなら、父親は、はたして、半生を
かけて定年まで、一企業でやり抜くことが出来たのであろうか。

そのことを証明するためには、同じDNA(遺伝子)を受け継ぐ洋介が、半生を
かけて証明するよりない。そして、その決心は密かに自分だけのものとして胸の
奥にしまいこんでいた。

しかし、1986年から87年にかけて入社以来、はじめて、この決心をゆるが
す事態が発生した。市場環境の激変から、洋介が勤務していた会社が、全社的な
規模で不況に陥ったため満55歳を超えた社員を対象に管理職を含めて希望退職
が募られた。

洋介が所属する事業部門は社内でも唯一、好況感に沸いていたが、全社的な一律
感から同様に退職を募る雰囲気が強まって洋介が尊敬してやまない優秀な管理職
を含めて、多くの優秀なベテランが退職して行った。

洋介は今になって振り返っても日本における終身雇用の確かさが崩れはじまった
のは、この時期の不況期からと考えている。それまでは、人的資源を大切にする
日本企業にあっては、たとえ企業の不況時であっても、意図的に人員削減に踏み
切る事例は少なかった。

その時、洋介は40歳代であった。密かに決心したDNAの証明はやり抜くぞと、
改めて決心したものの近い将来に同じ事態が再び起こる可能性は考えられるので
尊敬する多くの先輩たちが慌てる様子も見せず悠然と去っていったように、自分
にも、なにか特殊な技術を身に付けておく必要性を痛感した。

そして、その危機感が現実のものとなって襲ってきたのは、洋介が満55歳の時
であった。昔から、満55歳は管理職定年といわれてきた年齢である。

事業部長が、めずらしく職場に顔を出され・・・

洋介に辞令が渡された。文面には「加齢により給与を10%削減する」と、書か
れていた。管理職昇進のときに、満55歳から給与が漸減すると聞いていたので、
その時が来たかという程度に軽く受け止めた。

しかし、この加齢による給与の10%削減は、その後も三年間続いた。

このペースで行くと定年満期の時には、給与が半分以下になってしまうと、美里
と顔を見合わせた。

「大丈夫よ。なんとかしてやり繰りして凌ぐわ」と、いう美里の言葉に多少なり
とも安堵感を覚えたことをいまでも鮮明に覚えている。

この給与減は、なんとか30%削減で下げ止まり、美里の才覚で日常生活を凌ぎ
きった。しかしながら、難関は、これだけではなかった。洋介が満55歳に達し
た時点で着任したばかりの新任部長とどうにも相性が良くないようなのである。

洋介の場合、管理職定年になっても、給与は削減されたものの課長職については
そのまま継続となった。

したがって、新任部長からの直接の指示は課長に先ず下される。

前任の部長とは、正反対の指示が次々と出されて戸惑っているうちに洋介の人格
をあえて正面から全否定するような発言が、新任部長から発せられるようになり、
それは周囲の仲間にも同意を求めるような発言に発展していった。

ほとほと相性が良くないようである。

当時の担当プロジェクトの業務上の性格から、関係部門との調整が多く、他地域
への日帰り出張などがしばしばあった。

発端は日帰り出張費用清算の決裁であった。

日帰り出張の必要性にはじまって、やることなすことの一つひとつについてその
必要性が徹底的に、問われてなかなか実行してよいという許可が得られなくなり
身動きできない状況が作り出されていった。
 
まさに、日々が針のむしろに座らされているような状況で自分の席に座っていて
も呼吸をすることさえためらわれる状況に追い込まれていった。

このような体験は、今までの企業人生活において、初めての経験であった。

当然、お互いの意思決定の調整が不可欠なプロジェクトの進捗は、遅れが目立ち
始めた。この新任部長による一連の指示や行為が、どのように考えても、企業と
しての組織だった働きかけとは思えない。

元々、風通しの良い社風なので、新任部長と、よほど相性が良くないと考えるの
が妥当なようである。

アメリカのシリコンバレーなどの起業に当たっては相性の良いもの同士で新しい
企業体を立ち上げるのが成功の秘訣と聞いている。

日本でも、急成長した企業のトップ層にはトップ相互の相性の良さが感じ取れる。
それでは相性の悪い上司と一緒の職場で、仕事をスムーズに進めるためにはどう
するか?

そんなことを考えながら、それでも、事業所内で出来ることを、なんとか細々と、
こなしながらプロジェクトの進捗を図っていた、ある日のこと頭皮に猛烈な痛痒
さがきて、耐え難い状況に陥った。

洋介は会社からの帰り道に、かかりつけの理髪店に寄って散髪をすることにした。
頭皮の痛痒さを止める方法について、アドバイスがいただけるかもしれない?
と考えたのである。

「頭皮が赤くなっていますね。最近、シャンプーなどを変えましたか?」
「そういえば、新しいシャンプーに変えました」
「お客さまの皮膚の具合によって個人差はありますが、加齢によって頭皮が敏感
になって来ることがありますので、刺激の強くないシャンプーにしてみてはいか
がですか?」といって、お勧めのシャンプーの名前を教えていただいた。

その後、お勧めのシャンプーに変えることで頭の痛痒さは止まった。

それまでの間、正直、洋介は少なからず職場におけるストレスからきた頭の痛痒
さかと考えていた。

しかし、ここでも、加齢による痛痒さということで、やはり加齢がキーワードに
なってくる。

このことに関連して洋介は少し前にテキストの頁をめくったことのある生涯発達
心理学のことを思い出していた。

確か、カオス学入門と一緒に学んだテキストである。

生涯発達心理学のテキストには、次のようなことが書かれていた記憶がある。

生涯発達の視点に立つと、加齢という現象は・・・

「年齢進行に伴う、老化・衰退・退行というマイナス面と、年齢進行に伴う、
熟成した状態への発展というプラス面の両面がある」

心理学者バステルは生涯発達心理学によって人生全体を視野に入れその視点
で眺めるときに、人生のすべてにわたって、どの年齢段階も重要である。

生涯発達の変化は多方向的であり、ある領域が向上してある領域が低下すると
いうように一様ではない。生涯発達には個人差が大きく、個々人の発達は歴史
や文化的条件によってきわめて多様である。

老年期には知能が低下するという先入観も、最近の調査によれば、言葉の意味
をどれだけ熟知しているかなどという課題において時間制限なしに問うた場合
には、老齢期に入っても成績が向上するケースが認められている。

また、この成績には個人差があって、今までに、どのような技能や能力を身に
付けてきたかの個人史の要因や自分を活かせる環境や役割が現在あるかも影響
する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このような学びの世界から、洋介は定年を一つの通過点と考えるようになったの
であるが、最近の企業内では、五十代半ばを過ぎたあたりから加齢は悪いことの
ようなとらえ方が強すぎる感がある。

日々、報じられる新聞記事などからの印象でも定年は人生の終着駅。五十代半ば
からは暗いトンネルに入って行くようなイメージが企業内に蔓延していることも
事実である。

洋介は、そんな思いを頭のなかでめぐらしながら、同じ時期に学んだカオス学の
ことを思い出していた。

カオスは混沌とした状況のなかで解を求める学問である。身近な振り子を例に
した説明に洋介は妙に納得した覚えがある。

その説では・・・

「単振り子は周期的な運動を繰り返すので分かりやすい。しかし、二重振り子と
なると二つのつながった振り子の運動はきわめて複雑で、この動きはカオス的で
ある」と、云う。

この説から、洋介は、ある着想に気付いた。

洋介が満55歳の管理職定年に達したことによる給与の削減策は、会社の方針と
して一つの振り子を成している。

考えてみるに・・・

昔は、会社が不況のときに多くのベテランが退職して職場を去って行った。
今回の不況では経営トップの苦渋の選択で、人員削減という方法をとらず、
従来よりも大幅な給与削減を実行策として選んだ。

これは、無理やり人員を削減するという方法から脱し、総人件費を減らす
という視点で、経営トップによる善意からの苦渋の選択と考えてよいので
はないか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この選択肢については、マーケットの世界から、現状認識が甘いという、厳しい
評論も飛び交ったようであるが「定年満期を一つの通過点と考えている」洋介に
とっては、定年まで全力疾走できることになる。

また、密かに胸のうちに納めている父子間のDNAの証明も引き続き達成可能と
なる。生活費の工面だけは、美里の協力を得て、節約・倹約などの別な手立てを
考える必要はあるが、ありがたい選択肢といえる?

このような考えを廻らしてみると新任部長からの行動の規制は別な意図をもった
二つ目の振り子が「二重振り子として働いているため」に、事態が複雑になって
いるのではないか?

その意図は分からないが、善意によるものなら内容を理解して行く必要があるし、
悪意によるものなら、回避してゆくしかない。

そもそもの発端は新任部長が出張費を大幅に削減することを着想したことによる。

洋介の日帰り出張の清算のための決裁が、まさにタイミング良く新任部長の思考
過程にはまりこみ事態を発展させた。

また、プロジェクトの進捗をいつまでも、遅れたままには出来ない。

このプロジェクトの進捗は、事業部長からの特命事項であり、洋介には分任規定
が出されて権限も委譲されている。

ここで、洋介は事態打開のために、一大決心をすることにした・・・

「二重振り子の関係を切り離して」
先ずは、明快な単振り子の構造に、戻すことにしよう。

プロジェクトの進捗に調整業務が不可欠なことは否定されていない。これから先の
二年間にわたって、日帰り出張費の全てを自前の負担でやりこなして行く。

これによって、日帰り出張費の清算のための決裁がきっかけとなった、ゴタゴタは
当面は回避できる。

そして、なによりも、プロジェクトの調整会議を再開して遅れを挽回できる。

これについて他部門の親しい同僚から、必要な費用を請求しないことも会社の規定
から判断するとルール違反であると説得されたが現状の常軌を逸した状況のなかで、
プロジェクトの特命事項を果たすためには、この方法しかないと腹を括った。

身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれの境地である。

このような方法はけっして好ましい策とはいえないものの、なんとか実現性のある
緊急回避の方法を考え出せるようになったのは・・・

従来の人生一直線の考え方から脱してカオス学などの新しい知識の習得を日常生活
のなかに取り入れ「人生複々線型の生活スタイルを身に付けた成果」であると考え
ている。

そして、その気付きを与えて下さったのはニュージーランドの旅で、ご一緒させて
いただいた60歳代後半から70歳代にかけてのご夫婦三組をはじめとした、紳士
淑女の方々によるものであった。

人生においては、琴線にふれるようなターニングポイントがあるというが、洋介は
還暦を目前にした正月に当たってあの年の正月からの出来事を楽しい思い出として
記憶の糸を手繰ってみた。

そして、今年もまたゴールデンエイジの皆さん方から、ますますパワフルな年賀状
をいただいた。

やがて還暦を迎え、波乱に満ちた洋介のまさにクリチカル・リタイアへの道を全力
で駆け抜けた定年の日は、三月末であった。その年は桜が早めに満開となり、その
晴れ晴れとした退職記念日に続いて翌日の飼い犬との朝の散歩時の太陽はきらきら
と輝いて見えた。

これは、先ずは「定年満期」という、一つの通過点を駆け抜けた達成感というより
も安堵感に近い感覚であった。

その後、父親の竹次郎のところに、洋介は、美里と一緒に出かけ二人で顔を揃えて、
定年まで勤め上げたことを報告した。母親も共に喜んでくれて、定年後の過ごし方
などに気を配ってくれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その後、父親の竹次郎は95歳で天寿をまっとうして、眠るような安らかな笑顔で
他界した。

当日は、病院のリハビリルームを訪ねて、リハビリに励んでいたのだが、午前中に
体調の不調を訴えて、たまたま、病院を訪れた弟の嫁さんに・・・

「お世話になったね」と、ベッドから声をかけて、そのまま危篤状態となり午後に
亡くなったのだと云う。

洋介は葬儀の当日、骨壷を抱えながら、ここでも父親に教えてもらった。

「洋介、逝くときはポックリ」と、
「周りに迷惑をかけないよう」に、
「しかし、天寿をまっとうするまでは、全力で駆け抜けろよ」と、そんな声が聞こ
えてきそうな気がした。

そして中島翁の言葉を思い出していた・・・

「天界では、新しいプロジェクトとして、ブルー・ギャラクシーのあの青色星として
観測されている特殊天体である数億光年先の異常小宇宙の正体を探るべく、宇宙船団
を建設中なのですが、船団のキャプテンとして父君のような人物を探しているところ
なのです」

(完)

ヒトとして生まれて・第4巻

ヒトとして生まれて・第4巻

第4巻・南十字星の下でのファンタジー

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-09-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted