名前はもうない。
私は猫だ。名前は……もう無い。
どこで生まれたかは、そこの公園だろうと見当がついている。今はただブロック塀の上で通行人を眺める黒猫だ。行き交う人々を眺めるのは意外にも面白いもので、目遣いひとつとっても常に一定な人間はなかなかいない。こうしているとたまに目を合わせてくる人間はいるが、お前のように立ち止まる人間は初めてだ。
……気に入った。どうだ、ここでひとつ、老いた猫の昔話でもしてみようか。
信じられないとは思うが、私はもともと人間であった。いつだったか……まだ私が若い頃、密かに好いていた女と夕暮れの街を歩いていた。傾いた陽が陰を伸ばし、殺風景な住宅街を赤く染め、いつも見ている景色とは思えなかった。
そこに、ちょうど今私がしているように座る黒猫がいた。彼女の表情がみるみるうちに明るくなる。
「見て、かわいい猫がいる」
私はぴょんと飛び降りた黒猫を撫でる彼女に見惚れていた。彼女が撫でてやるとごろごろと喉を鳴らして喜ぶのだ。私は特段動物好きではないが、見事に魅了されてしまった。彼女が好きなものなら好きになれるとでも思ったのかもしれない、私も彼女の隣にしゃがんで猫を撫でようとした。
——視線が交わって、一瞬の驚きとともにお互い動きを止めた。強ばった顔をしないように力を抜き、ゆっくり手を伸ばした。
すると何ということか、猫は爪を立てて私の手を引っ掻いたのだ。あれは痛かった。手の甲に二本の線が浮かんで、思わず涙目で猫を睨んだ。しかし猫は文句も言わせず、すぐに塀を登ってどこかに走り去っていってしまった。猫になった今では気持ちも分かる。人間が近づいてきて自分に手を伸ばしてきたら、それは引っ掻きたくなる。しかし理解できた今でも、私はまだあの猫を許そうという気にはなれないでいる。
彼女は手の甲を押さえながら睨むように猫を探す私を見て、まったく、と言いながら荷物を持ってくれた。
「そんな怖い顔するからだよ」
彼女はからかうように笑った。情けなさが襲ってくると同時に心臓が跳ね、落ち着かない。彼女の助言で公園で傷を洗ってから帰路についた。気づけば赤く燃えていた陽は落ち、薄暗い路地を街灯が照らしていた。怪我が病気に繋がらなかったことだけは不幸中の幸いと言えよう。そんなことを思いながら玄関を開け、小さくただいまと呟いた。
数日後、いつものように蛍光灯が照らす廊下を歩いていた。すると、とある友人にすれ違った。軽く言葉を交わして去り際、こんなことを言われたんだ。
「あ、昨日手伝ってくれてありがとうね」
全く心当たりがない。お前はもう分かっているだろうが、私はあまり良い性格をしていない。考えてもみろ、見ず知らずのお前が足を止めたのをいいことに、一方的に話しているくらいだ。普段の私ならば、わざわざ改まって礼を言われるようなことはしていない。
私は不思議に思って、同期に話してみた。すると彼はまた、私の記憶にないことを口にする。
「でも確かに昨日、俺も助けてもらったよ。重い資料運ばなきゃいけなくてさ。いつもよりすんなりやってくれた」
私は唸って首を傾げた。それを見た同期は豪快に笑いながら私の背を叩いた。
「まぁ多分、疲れてるだけだろ。ゆっくり寝とけ」
それきり気にしないことにしたとはいえ、どんどんと存在しない記憶が増えていく。自分の知らない美しい資料や驚くべきアイデアがデータに残っていたり。そういう日に日付を確認すると、一日前の記憶が全て抜け落ちていることに気づいた。こんなことが何度も続いた。
私の知らない私は大抵、優れた成果を残していく。助かる部分もあったが、私は「もう一人の私」に良い思いは抱いていなかった。
遠い昔、今日の君は調子が悪いのかい、と聞かれた。心配の声と蛍光灯の光が、小さくなった私を責め立てる。自分では普段通りやっているつもりだっただけに、言葉にならないほど悔しかったんだ。あぁそうだ、今お前が思ったように私はプライドが高い。表情を変えないように、頬の内側を噛んだ。
こんな私を、ただ笑って「君はすごいや」と言ってくれるのが彼女だった。恩を返したくて、彼女に頼まれたことがあれば難しいことだろうと努力した。私は気づけば恋に落ちていたのだ。私が支えたいなどと思い上がっていたのかもしれないし、ただ支えられたいだけだったのかもしれない。
ああ、悪かったな、話を戻そう。今話したように私は、過去の自分と比べて劣っているとされるのが苦手だ。そんなことを知る由もなく、優秀な「もう一人の私」は容赦なく「過去の自分」を華やかに彩った。徐々に、徐々に、私にかけられる声は変わっていった。
「今日は普段と違くないか」
「いつもはもっとできるだろ、どうしたんだよ」
「何かあったのか。相談なら乗るからな」
私の気分は最悪だった。彼らにその気がないのは分かっているが、だからこそ屈辱的だった。時と共に増えるのは「彼」への賛辞と、私への失望。同じ身体を操っているのにも関わらず勝てないことが、たまらなく悔しいのだ。
そんなことを考えて日を過ごすうちに、気づけば二日分の記憶がなくなるようになっていた。この頃にはもう悔やむような段階ではなかった。自分の存在自体が薄らいでいるように感じる。誰も私を見てくれていない。私に似た別人を見ている。お前にこの気持ちが分かるか、自分が自分でなくなっていくような感覚が確かにあるのだ。……あぁそうだな、怖いという感情が近い。できることなら逃げ出したい。この苦しみから抜け出したい。自分というものが掌から流れ落ちるのを感じ、それがどこにいったか分からず、それなのに確実に遠のいていくことは分かるのだ。私には死よりも恐ろしかった。
そんなとき、手帳にある書き込みがあった。
「日曜 二十二時 公園」
字からして、確実に「もう一人の私」からの伝言だった。存在価値を守ることに必死な私の足が、恐怖心を理由に止まることはなかった。
月が雲に隠れる日曜日、いざというときのために軽装で、防犯用の笛を持って出発する。公園にたどり着くと、木々が街灯を遮っていた。暗い公園では、ほとんど何も見えなかった。
「やあ、もう一人の私」
唐突に声が聞こえた。唯一光の当たる場所にあるブランコに男が座っている。こちらを向く顔を見て、背筋が凍るのを感じた。私と完全に同じだったんだ。
私は何も考えられなかった。私が私であることを脅かす人物。その本人が目の前にいる。それが何と恐ろしいことか、お前に想像できるだろうか。
「実際に観測するまで本当はどうなっているか分からない……なんて、考えたことはないか」
突然彼は言った。意味が分からず、次の言葉を待った。彼は立ち上がって、ゆっくりと近づいた。影が迫ってくる。
「自分が自分でいるためには、誰かが自分のことを自分だと観測するのが必要だと思わないか」
至近距離で私たちは正対した。視線を外すことさえ許されないような空気が、そこにはあった。
「この話の意味、分かるよな」
もはや会話として成立していない。一方的に投げかけられる言葉に、私は圧倒されていたんだ。彼はポケットからなにやら機械を取り出して、ボタンを押した。一瞬大きな音がして紫電が走り、二人の顔を明るく照らした。
咄嗟に、彼の目を見たまま後退りして笛を探る。この状況で誰かが来れば、「もう一人の私」は「私」ではいられなくなる。そう考えたのだ。
しかし見つからず、視線を落としてしまった。目で確認してもなお、暗闇とスタンガンの光が視界を奪い、思うように見つからない。突然、背後から伸びてきた腕が私の首を捕まえた。
「残念だったな。そのぐらい読まれてることに気づけるようになった方がいいんじゃないかい」
彼はさっと私の笛を見つけて手に取ると、遠くへと投げ捨てた。腕を振り解いて走ったところで、闇の中で逃げ切るのは無理がある。そう、助かる道は完全に断たれたのだ。ただでさえ優秀な彼に対抗する手段はもう残されていなかった。彼は私を離さず、そのまま耳元で言った。
「お前、最近なんて言われたのか覚えてるか。『普段と違う』だ。周りの人間はもう、お前がいつものお前だとして観測していない」
息が止まる。詭弁だ。そう言いたかった。恐怖に支配された筋肉は全くいうことを聞かない。明るかったはずのブランコも、いつしか光が弱々しくなっているような気がする。彼はスタンガンをちらつかせながら言う。
「お前がこれで眠っている間に成り代わってたのは気づいてるよな? お前よりも俺が演じている間の方がお前らしいんだそうだ、周りの人間によれば。……そうだ、お前のお気に入りの彼女だ。あいつも今は私をお前だと思っている」
そんなわけがないと、そう思った。いつでも私を認めてくれた彼女が、偽物の私に気づかないわけがない。彼は嘘をついている。本気でそう考えた。傲慢な考えかもしれないが、私は必死だったのだ。藁にもすがる思いで、一縷の希望にしがみついた。
しかし、彼の振り下ろした斧はあまりに重く、私の心を刈り取るには十分だった。
「結構いい身体してたぜ、あいつ」
世界の輪郭が影と一つになった。
これで昔話は終わりだ。ご機嫌に私を撫でるお前には聞こえていないだろうが。
私は猫だ。名前はもうない。
あの日、公園で生まれたのだ。今はただ、かつてのあの黒猫のように通行人を眺めている。ご丁寧にも立ち止まって私を撫でる人間はお前が初めてだ。申し訳ないが、撫でられると引っ掻かずにはいられないんだ。
……手の甲を見てみろ。三本の傷があるだろう。
どうだ、ここでひとつ、「私」の物語の登場人物になってみたくはないか。
名前はもうない。