青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第二巻

つまかわ うじきよ

青春の鼓動 ~僕たちの昭和~ 第二巻    つまかわ うじきよ

第一章 若葉の季節(わかばのとき) ―中学編―

第一話  中井孝雄先生と新しい仲間たち

 昭和38年3月。圭司・十二歳、間もなく中学一年だ。
小学校卒業式が3月15日、中学入学式が4月8日。その間の出来事である。

小学校の卒業式を終えた三角ベース仲間、沢村定吉(サンタ)荒木忠義(ター坊)阪野真人(マサト)横山修(オンチュー)阪本鋭一(エイちゃん)古屋孝之(タカ)と圭司たちは、中学校の入学式を前にした、ちょっと長めの春休みを、いつもの通り草野球を楽しみながら、入学後の鳴海中学野球部入部に夢を馳せ、胸躍らせてその時が来るのを待っていた。
古屋と一緒の九州組で、一年前まで一緒に三角ベースをやっていた一年先輩の古賀和雄、
鍬山章の二人が既にその野球部にいることも、何となく心強かった。
そんなある日の草野球の後、ター坊が古屋に尋ねた。
「タカ、古賀くんと鍬山くん元気にしとるんか?野球部の話、何か聞いとらんか?」
「ここんとこ全然会っとらん。野球部結構忙しいらしいで、様子が分からんのだわ。」
九州男児も、一年も経てばあっという間の〝名古屋弁〟。子供の順応力は流石である。
「そうか・・・、そんならみんなで一回中学校へ見に行こまいか?どうだ?」とター坊。
それを受けて「そうだな。明日一回見に行くか。入る前に見学もええがや。」と圭司。
「そうしよまい!そうしよまい!」と、全員一致で翌日の中学校訪問が決定した。

そして翌日、中学の授業が終わる午後3時過ぎにはメンバー全員グランドに集結していた。
鳴海中は汐見ヶ丘と呼ばれる小高い山の上にあり、校庭はその山を削り取って出来ていた。
その通学路は、舗装など全くない竹藪や森の中を、くねくねと登っていく所謂〝獣道〟で、その周辺地域の宅地造成に伴う通学路の拡張工事及び運動場再整備が行われる、圭司達が中学二年の夏休みまでは、グランドを野兎が横切ったりすることが時々あって、その度に練習を中断して、全員大騒ぎで追い回したものだった。
童謡〝ふるさと〟の『♪兎追いし彼の山♪』そのままである。
グランドに目を移すと、北西の角に野球部のバックネットがあり、そのレフト側の奥に少し出っ張ったサブグランドの様なスペースがあり、そこにハンドボール場があった。
ライト側がやけに広い長方形で、南側一帯がテニスとバレー・バスケットボールのコート。
その内側の南西の角に女子ソフトボール場、その東側にサッカー場という配置であった。
センター後方の削り取りを免れた小高い場所に用務員室があり、その奥とレフト側ハンドボール場の向こうに校舎と体育館が林立していた。
初めて見るわけではないが、これから三年間通う場所である。
少しの緊張を覚えながら時を過ごしていると、程なく野球部員が集まり練習が始まった。
授業が終わって、三々五々集まり始めた野球部員たち、準備体操もそこそこに、あちこちでキャッチボールが始まり、いきなり打撃練習(フリーバッテイング)をやりだした。
土・日等の時間に余裕が有る時は、全員揃ってのランニング・準備体操をちゃんとやってから始めるのだが、平日は日の入り迄の時間との戦いで、早く準備できた者から順に打撃投手、捕手を務め、一人5本×2回の打撃練習を投手・捕手を交替しながら効率よく進めていく。
卒業式後の入学式前なので、新三年生・二年生それぞれ10人ずつ程度の人員での練習。
前述の草野球仲間、古賀・鍬山両先輩も内野と外野の2番目のポジションで、何だか意味不明の大声を出しながら練習に参加していた。
詳しく言うと古賀くんはショートで、その前で守備するのは上級生のレギュラー古屋健一くん。古屋孝之(タカ)の兄貴である。
鍬山くんの前はやはり上級生で同じく九州からの移転組、吉岡忠雄くん。投手も務める。
三塁側投球練習場では、キャプテンでエースの野々山誠くんが投球練習をしている。
後に、打撃練習を終えた吉岡くんも投球練習場に入った。
二人の球の速さに〝びっくり仰天!〟『こんなの打てる奴おらんだろ!』正直な感想である。
初めて本格的な野球の練習を目にする小学生にしてみれば、新鮮で格好よくて、自分達より2年上だけなのに、その大人びた姿に圧倒されて目をパチクリするばかりであった。

そうこうしている内に打撃練習も終わりに近付いた頃、センター後方用務員室の方から、
小柄だががっしりした体躯の男性が、練習場にやって来た。
近くで見ると、がっしりと言うよりは小太りと言った方が正しいかも知れない。
その姿を見止めると、部員たちは脱帽・気を付けの姿勢で口々に「ちわーっす!」と叫んだ。
この野球部の顧問で監督の、中井孝雄先生登場である。
中井先生は、当時三十代前半の英語の教師で生活指導も担当する、生徒達から恐れられる強面で、眉は太く頬骨の張った色黒の顔は、確かに一寸見、近寄りがたい雰囲気ではあった。
その中井先生が、ネット裏で見学中の小学生集団に気付いて、こちらに近付いてきた。
「君らはあれか、今度入学してくる新一年生か?」
「はい、そうです。」緊張の面持ちで、圭司が代表して応えた。
「もしかして、野球部に入りたいんか?」と中井先生。
「はい、そう思って見に来たんだけど、みんなあんまり上手で一寸びびってます。」と圭司。
「はっはっはっ、あんなもの一年もやれば誰でもああなるよ。大したことないでよう。」
先生は、楽しそうに小学生グループに話してくれた。
続けて中井先生「みんなにも一緒に練習して貰えるといいんだけど、まだ入学もしてない子供に怪我でもさせると大変なことになるで、ちょっと我慢してちょう。入学したらいっぱいやれるでな。先生、楽しみにしとるでよ。」
それを聞いて一同ホッとしたものだった。
それを聞いていた上級生達の陰の声。
『先生またあんな優しいこと言って。おみゃあら(お前達)騙されたらいかんぞ!」

その日を境に、ほぼ毎日の練習見学となった。
中井先生の言い付けなので一緒に練習とはいかなかったが、打撃練習のファールボールが竹藪や森の中に飛び込めば、争ってそれを拾いに行ったものである。
新二年生にしてみれば『球拾いの後輩が出来て大助かり!』と言ったところであろう。
特に顔見知りの古賀・鍬山両先輩などは、すっかり子分が出来た気分でいた。

圭司達も、その期間中に中井先生の怖さも段々分かるようになってきていた。
先生は、5年程前にこの中学に転籍して来たとのことで、それ以前は隣町の大府中学で教鞭を執り、野球部の顧問としては県大会優勝等の好成績を残した、この辺りでは有名な指導者。
ご自身は、愛知学芸大学で野球部に所属し、二塁手として活躍されたとのこと。
大学時代から、教師になって野球部の指導に当たりたいという夢を持っていたようである。
そんな先生だから若い頃は大張り切りで、連日一人で千本以上のノックを打って、いつも手は豆だらけ。それが破れて血まみれになっても意に介せずひたすら打ち続けるという、熱血指導で実績を上げていったのである。
以前を知っている人に言わせれば、最近は丸くなったとのことだが、それでも厳しい指導に変わりはなかった。
ノックバットを握ると、それが如実に表れるのだ。
毎日それが現れるわけではなく、ノック中に気を抜いたプレー、特にもう少しで追い付けそうなのに諦めたような素振りを見せると、表情が一変するのだ。
「ちょっと待て。おみゃあは何で諦める!無理だとでも思ったか、このたわけが‼」
そして言った。「アゲイン‼」
この辺が英語の先生である。『カッコええ!』
再び同じ所へ。取れるまで何度もだ。このノックの上手さも感嘆に値する。
そして何球目かに、選手が必死の形相で打球に飛び込んだ。
僅かにボールに触ったが惜しくも捕球には至らず、選手は大声をあげて悔しがった。
それを見た先生の一言。
「よーし!それだ。ええか、その気持ちを忘れるな。それを毎日やりゃあ絶対うまなるぞ‼」
そんな指導で好選手を沢山育て上げ、有名校へ特待生として何人も行かせている。
その頃既に引退していて、草野球仲間として圭司達と一緒に練習していた、加藤武夫もその一人で、その他にも甲子園球児を大勢輩出しているらしい。
そんな研修の様な野球部見学期間も終えて、いよいよ入学。晴れて鳴海中学野球部員だ。

さて、いよいよ正式に野球部員となるのだが、当然他の近隣小学校からの進級者もいる訳で、この鳴海中学は、鳴海小学校以外からも鳴子小・平子小・鳴海東部小・東が丘小といった、合計5校の卒業生が集結する、生徒総数約3000名のマンモス中学校なのである。
入学式前に、新一学年全十五組の名簿が掲示板に張り出され、圭司は十四組に組分けされた。
団塊の世代(昭和22年~24年生まれ)の一年下の年代なので、上級生より若干少なめの組数であるが、それでも一組50人超でこの組数、現在では有り得ない人数である。

入学式後、いつもの仲間と一緒に、野球部への入部希望を伝えにグランドに出向いた。
そこには、既に数人の入部希望者たちが緊張の面持ちで立っていた。
東部小出身の深川義之、深川学、大島建夫。鳴海小出身は大島政雄・金岡孝義・桂川真次・山口和夫・阪野栄三・鈴木耕太、それに三角ベース仲間の沢村定吉・荒木忠義・阪野真人・横山修・阪本鋭一・古屋孝之・松山圭司が加わった。
以上16名が、これからの三年間苦楽を共にする同期生である。
二年生はポジション別に(投手)阪野孝(捕手)青山良介(内野手)羽賀秀司・佐藤重行・
古賀和雄・山下幸雄(外野手)鍬山章・小島直之・奥田晋二・古川進・坂口英二の11名。
三年生は(投手)野々山誠主将兼外野手(捕手)林崎勉(内野手)安達実副主将・湧川寛治・森本守・古屋健一(外野手)吉岡忠雄兼投手・遠山進・鬼頭篤・荒川雄一・鈴村浩の11名。総勢38名での鳴海中学野球部新年度船出である。
練習前に皆を集めて、野々山主将が一言。
「俺が主将の野々山だ。隣が副主将の安達。後は言っても忘れるだろうから、追い追い覚えていくように!今日は練習着も持って来てないと思うから、取り敢えず見学だ。もう少ししたら中井先生がいらっしゃると思うから、その時は全員大きな声で挨拶すること。声の出し方や練習中の注意事項は2年生から聞いて覚えるように。古賀、お前が中心になってしっかり教育しろ。ほかの2年生も協力してちゃんとやれよ。ええな!」
「はい!」「はい!」「はい!」「はい!」あちこちから一斉に2年生の声。皆、直立不動だ。
生まれて初めて見る、『体育会系〝年功序列〟』の光景であった。
そして練習開始。その日学校は入学式だけなので、練習は〝時間があるパターン〟。
全員揃ってのウォーミングアップの後、打撃練習に入ろうとした頃、いつもの通りセンター後方用務員室の脇から中井先生の登場である。
「ちわーっす!」「ちわーっす!」「ちわーっす!」あちこちから一斉に挨拶の声。
新一年生も上級生を真似て、負けずに「ちわーっす!」。
フリーバッテイングの後、試合形式のシートバッテイングとノックで練習終了。
こうして、記念すべき野球部第一日目は暮れていった。
『明日からやるぞ!』 
新入部員全員の、希望に満ちた一日であった。


第二話  第一学年十四組・先生とクラスメイト
 
話を少し、野球から離してみよう。
入学式当日の朝、中学校正門の脇に張り出された掲示板の組分け一覧表に従い、各組ごとに整列して体育館で型通りの入学式が終了した後、それぞれの教室に集合して担任の先生、
同級生との顔合わせが行われた。
一クラス50人超、十五組合計約800人の生徒は、卒業から入学式までの期間に行われた学校説明会の折の簡単な学力テスト結果により、各組学力差の無い様に組分けされていた。
圭司は第一学年十四組。担任は角野(かどの)秀敏(ひでとし)先生。
度の強い黒ぶち眼鏡。三十代半ばの数学教師である。
教壇に立った角野先生は、一旦生徒を教室後方に集め、教壇から50音順クラス名簿を読み上げ、その声に応えさせて一人一人の顔を確認しながら席に付かせる方法で点呼を執った。
その際、一人一人が何某かの一言を喋ってから着席するという〝角野ルール〟が存在した。
この方法は角野先生のオリジナルで、毎年、年度初めの担任クラスでは同様のセレモニーが執り行われることになっていて、生徒間では『ちょっと面倒くさい?』という評判であった。
男女それぞれ26名、合計52名のクラスである。

角野先生は自己紹介の後、皆に学級委員等クラス委員の選出という難題を課して来た。
『クラス委員選挙って言われてもなあ・・・?』一同、困惑である。
同じ小学校出身者以外はほぼ初対面なので、それはそうなる。
先生「これから各委員会の名前を書き出してくから、やりたいものがあれば言え。」
学級委員・生徒会議員・保健体育委員・等々各委員の役割説明をして、再び先生の一言。
「男女各々一人だ。やりたい者を最優先する。どうだ、立候補者はいないか?」
教室全体を見渡して、角野先生は生徒の発言を待った。
しかし、というか当然のことながら、何処からの発言もなく重い空気が流れていった。
「取り敢えず一学期。二学期になったら改選と言うことで、誰か〝犠牲的精神〟を発揮してくれる奴はいないか?」と、再び教室中を見廻した。
暫しの沈黙。
案の定、一人の立候補者も名乗り出ず、止む無く先生は出席簿を出して言った。
「よし分かった!そんなら抽選だ。これから目を瞑って適当に名簿を指して、当たった奴がその委員だ。これなら公平だ。誰も文句言うなよ!先ずは学級委員。」
と右腕を上げ、人差し指を立てた。
「先生、ちょっと待ってください!」一人、声を出した生徒がいた。松山圭司だ。
「そんなやり方で決められて、委員になった者の身になってください。例えば前にそういう委員とかやったことあるならまだいいけど、全然やったことなくていきなり委員は可哀そうだと思いませんか?」
それを受けて角野先生
「えーっと、松山君だっけ?どんなに経験豊富な人にも初めての時はある。それは忘れるな。特に若い君らには、どんどん新しい経験をしていって欲しい。小学校の時の成績がどうだったとか、学級委員だったとか、運動ができたとか関係なく、新しい挑戦を一杯やって、それぞれに自分の好きなことや得意なことを見つけていって欲しいと思っとるんだ。だからこれ、この委員選挙も新しい経験の為のいいチャンスだと思ったんだが、どうだろう?」
それに応えてもう一人の発言者。女子である。
「先生の言うことも解りますが、やっぱり松山君の言う通り、くじ引きで決めるって言うのは納得できません。皆さん、ちょっと話し合ってみませんか?」
「えーっと、鈴木康子さん。分かりました。それでは〝言い出しっぺ〟という言い方もなんですが、松山君と鈴木さんを議長にして、全員で話し合って下さい。宜しくお願いします。」
との角野先生のコメントの後、このクラス初の学級会が始まった。
こういうものは、誰かが口火を切ると一気に議論沸騰となることは往々にしてあることで、
先ず、口火を切ったのは太田秀夫くん。
彼は五年生迄鳴海小に在籍し、その頃鳴海町北東部の山林を開発して出来た巨大団地『鳴子団地』による人口増加の為に新設された『鳴子小』へ六年進級時に転校していった、圭司とは一・二・四年生の時の同級生で一番の親友だ。
小学四年生の時の〝学級会〟で女子の意見にチャチャを入れて、女子学級委員から顰蹙を買い、きつく注意されたお調子者。
同じく小学校時代に起きた〝姉の自殺未遂騒動事件〟で登場する、太田巡査の息子である。
剽軽で何故か憎めない処のあるクラスの人気者、鳴子小第一期卒業生の一人だ。
「選挙でやったら絶対鳴海小出身が選ばれちゃうで、他の小学校の意見も聴いてくれよ!」
尤もな意見だ。何せ鳴海小出身者は、クラスの半数以上を占める〝大派閥〟である。
鳴海小出身の勉学優等生、星野茂、近藤卓もそれに同調した。
東が丘小出身の女子議長鈴木康子が、女子と少数派男子にも意見を求めた。
女子は川合順子、夏井恵子。男子では東部小の一瀬義彦、平子小の東野紘一が発言。
その後は議論百出。その話し合いに中での自薦他薦もあって、選挙という手段なしの各種委員決定がなされていった。
圭司はというと、言い出しっぺの一人鈴木康子が、早々と女子学級委員に推薦され決定するのを見て、直ぐに保健体育委員に立候補して承認された。
学級委員や生徒会議員は、やることが多過ぎて、野球部の活動に支障を来すのを恐れたのだ。 
『学級委員で毎日学級会の司会も面倒。』というのも正直な気持であった。
同じ保健体育委員女子は夏井恵子、男子学級委員は星野茂が決まっていった。

実は角野先生、前述の組分けテストの成績による各種委員の選抜案は、既に作成済だったようで、今回の話し合いによる選出結果も、それと極端な差は無かったらしい。
他のクラスの担任教諭同様に、そのままそれを押し付ければそれで事は済むのだったが、
前にも書いた通りちょっと面倒くさい先生なので、こんなことになってしまったのだ。
先生の筋書き(予想)で最良は、全委員立候補者が出てすんなり決まること。確率5%?
次に、誰かリーダー的存在が名乗り出て学級委員。そいつが取り仕切って決定。10%?
そして、誰も立候補せず、先程の名簿による抽選の猿芝居のくだりまで行く。確率80%?
ただ、『ここまで行くと誰も黙っていることはないだろう。』
『必ず誰かが発言してくる筈だ。それを辛抱強く待とう。』と心に決めていたのだった。
そして、その読み通りに事は進み、前述の経緯で各委員が決まっていく。
『出たか、松山・鈴木。こいつらがこの組のリーダーか?』
口には出さないが、何となく達成感を感じた角野先生。
後日、他のクラスに聞いてみると、こんな風な話し合いがあったのは十四組だけで、他の組は、それぞれの担任教諭から任命された者が委員に就任したとのことであった。


第三話  女子たち

そんな学級会があってから一ヵ月ほど経過した或る日、
その日は当番で校長室の掃除をしていた圭司に、一人の女子生徒が歩み寄って来た。
先日のクラス委員選出会議で、看護委員になった川合順子。
大概のクラスに一人はいる、世話焼きおばさんタイプの、お喋りで少し〝おませ〟な女子だ。
委員選出後の彼女の行状を見てクラスの誰もがその役目を最適任と思う程の、世話好き?
と言うよりお節介な女子中学生であった。
そんな彼女が圭司に言った。
「松山君、夏井恵子ちゃんのことどう思っとるの?」
圭司はびっくりして、彼女を見返した。
『いきなり何だ。』が、正直な感想である。
川合順子は畳みかけるように続けた。
「恵子ちゃんは、松山君のこと好きだって言っとるよ。」
夏井恵子。圭司と同じ保健体育委員の女子だ。
川合順子と彼女とは小学校からの仲良しで、当時人気の若手歌手御三家や三田明といったアイドルの話題や、男子の中で誰がカッコいいとか好きだとか嫌いだとか、所謂〝恋バナ〟に話を咲かせる間柄だ。
今も昔も、男子は滅多にそんな話にはならないが、女子の話題の中心は常にそこにあるのだ。
そんな女子仲間の〝恋バナ〟の中で、夏井恵子が松山圭司を好ましく思っていることが判明し、川合順子の〝お節介魂〟に火が付いた。という経緯である。
圭司も、ちょっと大柄でグラマラスだけど、ショートカットでえくぼが可愛い彼女に好印象を抱いていたので、正直悪い気はしなかった。
「俺も夏井さん好きだよ。でも毎日野球部の練習あるし、教室以外では殆ど会えないよ。それでもええかなあ?」
「うん、分かった。それだけ聞けば恵子ちゃん喜ぶと思う。ありがとう。」
という具合に、大人になった圭司なら、そうなるのであろうが、十三歳の圭司にそんな余裕があるはずもなく、ただドギマギして、「え、そうなん?」と応えるのが精一杯。
本当は嬉しくて飛び上がりそうなのに「野球部の練習もあるし・・・」と煮え切らない様子。
そんな圭司の態度に、業を煮やした川合さん、
「女子が勇気出して言っとるのに、何それ‼」と怒り出す始末。
その勢いに押されて、タジタジの圭司、
「べ、別に嫌いと言っとる訳じゃないよ!」こういう時の彼は、いつも〝優柔不断〟である。
「嫌いじゃないとか、そんなこと聞いてない‼。好きか嫌いかハッキリ言いなさい。」
川合さんの剣幕にビックリの圭司。
「す、好きだよ。」と言葉を絞り出す。
それを聞いて、ニッコリの川合順子さん。
「ok、それ聴けば充分だわ。恵子ちゃんに伝えるね。」
いそいそとした足取りで、夏井恵子の待つ教室へ戻って行った。
嬉しそうに小走りで去っていく川合さん。圭司にはその後ろ姿がとても頼もしく映った。
その知らせを聞いた夏井さん、掃除途中なのを放り出して、圭司のいる校長室に駆け付け、
満面の笑みで「松山君ありがとう‼これからよろしくね。」と言ってきた。
それに応えて圭司「お、おう!」精一杯の強がりである。
その時の夏井恵子の恥ずかしそうな笑顔。それがまた堪らなく可愛かった。

その後、恵子と圭司は、毎日の教室でのお喋りや、保健体育委員会に二人で出席したりして、一年十四組をそれなりに楽しく過ごしたが、正月以外はほぼ休みなしの連日の練習で、デートの時間など取れるはずもなく、進級時の組替えにより、その付き合いは自然消滅となった。
その後の圭司にとっての異性交遊で、このパターンは定番となっていく。
好きな女子が出来ても、二人で合う機会が作れず、知らず知らずの内に疎遠になっていくというパターンで、それは結婚する時まで続いた。
しかし後々聞いてみると、同じ様な境遇でも上手くやっていた奴も沢山いたようで、彼らに言わせると、「会えなくても電話とかコミュニケーションを取る方法はある。要は熱意だ!」とのこと。圭司は、そういった〝マメ〟な性格は持ち合わせてなかったようである。

二年生の時は、親友・太田秀夫の為に、彼の好きな女子との仲立ちで、先の川合さんの様な役割をしたこともあった。残念ながら、これは不調に終わったのだが・・・。
ただその頃、男子生徒の間で、ちょっとした評判になっていた美少女がいた。

名前は西野幸江。ショートカットで、今で言う所の〝超小顔〟。
圭司ドンピシャのタイプだ。
偶然その少女が、太田秀夫の好きな女子と同じクラスで、その子と友達だったのだ。
圭司が秀夫の想いを、彼の好きな森田明美さんに伝えに言った時のことだ。
1学年15クラスともなると、誰がどのクラスなのか?は中々把握できる筈もなく、秀夫に言われるがまま、休み時間に森田さんの組の教室に行くと、森田さんが友達と話していた。
「森田さん、ちょっと。」圭司が声を掛けた。
「あら、松山君。何かご用?」と、森田さん。
二年生ながら野球部のレギュラーで、運動面で目立っていた圭司は、結構知られていた。
その時森田さんと話をしていて、圭司に背中を見せていたのが西野幸江さんだったのだ。
西野さん、その声に反応して振り返った。
『ズッキューン‼』圭司のハートに、特大の矢が突き刺さった。
何と言う可愛さ。その愛くるしい笑顔に、圭司〝イチコロ〟である。
その後、森田さんに秀夫の想いを伝えた圭司だが、実を言えば〝心此処に非ず〟で、一緒にいた西野さんが気になって気になって、その所為で森田さんと秀夫がうまくいかなかったのでは?と、自虐する日々が続いたほどだった。

その後もずうっと西野さん大好きは続き、彼女が生徒会役員だったので、一緒に活動したくて、野球を終えた三年の二学期からはクラスの生徒会議員に立候補して当選する。
但し、その気持ちを告白する勇気はなく、ただ見守るのみ。全くの〝ヘタレ〟である。
三年の正月、ドキドキしながら彼女に年賀状を出して、その返事が来た時の喜び。
その後手紙も書いたのだが、何の反応もなし。今風に言えば〝既読無視〟に相当か?
卒業式の後、西野さんの所へ挨拶行こうと探していると、彼女が学年一の優等生男子と仲良さげに話していて、それが彼女の好きな男子と判った時の哀しみ。
〝悲喜こもごも〟。それなりに楽しい中学時代の〝清純異性交遊〟であった。


第四話   野球部練習&試合(鳴海中学一年編)

 話を野球部に戻そう。
入学して一ヵ月ほどが過ぎ、何となく生活のリズムが安定したような日々が続いていた。
月曜から金曜は、例によって放課後の〝日の入りの時間との戦い〟による練習。
土曜は半ドンの授業後に弁当を食べてから、タップリ半日の練習。
日曜は基本的には試合の日で、公式戦も練習試合も組めない日は、休みということになる。
平日の練習は、ボールが見えなくなるまでと言う時間の制約があるので、効率最優先である。
一年には先ず、センター後方用務員室に置いてある道具を取りに行くという役目が有った。特に当番とか役割分担がある訳ではなく、兎に角早く授業を終えた者から道具を運び出し、ベースを設置したりグランド整備したりして、上級生が練習出来るよう準備するのだ。
上級生は、その間に各自準備運動して、身体が出来上がったものから随時練習に入っていく。
各学年十名ほど約三十名の部員の内、二・三年生が守備位置に付いて打撃練習が始まる。
準備を終えた一年は、全員一塁側ファウルグランドに一列に並んで、声出しと球拾いである。
少しでもボールに触りたいので、ファウルボールが飛ぶと、皆先を争って取りに行くのだ。
声の出し方に付いては、入部初日、暗くなって球が見えなくなってから、二年生の指導。
指導責任者の古賀先輩、一年を集めて言った。
「いいか、今から全員自己紹介だ。兎に角何でもいいから腹から思いっ切り声を出すんだぞ。センターの後ろに鍬山が立っとるで、あいつに聞こえるまで大声出し続けろ。全員OKが出るまで終わらんぞ。分かっとるな‼」
今でもよく見る?〝野球部声出し指導〟である。
「ハイ‼」と応えながら『こりゃ長くなるぞ?』一年生、心の声である。
「一年十四組、松山圭司でーす!」「なに?聞こえんぞ!」このやり取りが延々と続いた。
一年生全員に同じ事が行われ、案の定、小一時間程掛かっての声出し指導終了。
この指導は翌年圭司達も後輩に実施。随分昔から今日まで連綿と受け継がれる儀式である。
夏の大会が終って三年生が引退する迄、平日の一年生は、ほぼ球拾いと声出しのみの練習だ。

土曜になると午後からの練習で、二~三時間ほど時間が増える。
そこで、初めて中井先生の指導があった。
先ずはキャッチボール。
先生はボールの握り方、腕の振り方、グローブの使い方、捕球方法、足の運び方等の基本動作を一人一人丁寧に、それこそ〝手取り足取り〟で指導していった。
一対一のキャッチボールの後、通称〝喧嘩ボール〟と呼ばれる練習に入った。
これは、一対複数人で行うキャッチボールの練習方法で、扇の要に一人を置き、その前方に複数人を配置し、中心の人間が複数人に対して捕っては投げ、捕っては投げを繰り返すのだ。
通常一対七~八人で行われるが、体の中心で捕球するよう足を運ぶ必要があるので、5周もすればフラフラである。しかも全員思いっ切り投げるよう指示されているので、最後は本当に喧嘩の様な感じになって来るのだ。
打撃指導も同様に、先ずは基本。
バットの握り方、打つポイント等の指導の後、トスバッテイングに入っていった。
守備の選手と打者が一対一で相対して、投げる・打つ・捕るを繰り返す基本練習だ。
これは新入生が入った最初の土曜日の儀式で、二・三年生も基本を忘れないように、中井先生の一年生に対する指導を、年に一度必ず一緒に受講することになっていた。
一年生も土曜日は、練習前のランニングや準備運動、キャッチボール・トスバッテイング迄は一緒にやることを許されていたのだが、やはり最初は上手く行くはずもなく、特にトスバッテイングではエラー続出で、時間内に数本しかできなかった。
それが悔しくてこの年の新一年生は、早朝の自主練習を始めた。
始業前の六時半頃から〝喧嘩ボール〟とトスバッテイングでの、小一時間の基本練習だ。
その成果か、以前の先生の言葉通り三ヵ月もすれば皆、普通にできるようになっていた。
この早朝自主練習のお陰で、圭司達の年代の野球部は県内屈指の強豪中学校になっていく。
但し、この練習で全ての部員が順調に育って行った訳ではない。
中には、やり過ぎて故障した者も居た。
事実、圭司も投げ過ぎで肩が上がらなくなったこともあったのだが、その時代は〝それを乗り越えてこその体力・技術向上〟と言うのが定説で、肩の痛みも筋肉強化の一環であった。

 そして6月、鳴海中野球部は愛知県大会予選に相当する、名古屋市大会に出場していた。
その年に市町村合併があり、愛知郡鳴海町立鳴海中学校から名古屋市立鳴海中学校に改称されてから、初めての大会であった。
この大会で3位までに入れば予選通過で、県大会に出られるのであるが、愛知郡時代から何度も県大会出場を果たしている強豪鳴海中の参入は、既存の他校にしてみればいい迷惑で、
〝戦々恐々〟たる想いでこの大会を迎えていた。
そんな中での試合で事件は起こった。一年生は無論、ベンチ外での応援である。
準々決勝・熱田区沢上中戦、相手投手の好投で中々得点に至らず、こちらのエラーもあって5回表時点で、0対1のリードを許す苦戦を強いられていた。
そしてその裏の攻撃、フォアボールのランナーをバントで送って、一番打者遠山進くん登場。
初球を強打すると、打球は左中間を抜けて試合場のフェンスの無い校庭を転がっていった。
レフト側がだだっ広い校庭で、野手がボールに追い付くころに打者は既に3塁を回っていて、楽に生還できるホームランであった。
ところがその時、逆転ホームランに喜んだ次打者古屋健一くんが、遠山くんに抱きついた。
これは厳密にルールに従うと〝走塁幇助〟と言う反則で、一塁や三塁のベースコーチが、
転んだ走者を助ける行為と同等と見なされ、遠山選手の生還は認められないことになる。
これを見た主審は、塁審を呼び集め協議に入った。
そして判定、
「打者走者はアウト。一塁走者の生還は認める。二死無走者で試合再開とする。」
これを聞いた中井先生は猛抗議。
「今のはどう見ても〝走塁幇助〟には当たらないでしょう。次の打者が喜んで抱きついただけで、あの時点では打球は外野手が漸く追い付いたところ、どこをどう見れば走塁を助けたことになるの?」これもまた、尤もな意見である。
更に続けて中井先生「ここにルールブックがある。どこにそんな事が書いてある?もし明確に書いてあったら従うよ。」と、ルールブックを差し出した。
これには審判員も困った。実際にそんな事例がルールブックに載っている筈もなく、先程の次打者の接触行為を〝走塁幇助〟の規定に照らし合わせて拡大解釈の上、捻り出した見解に過ぎない事が明らかだったからだ。
確かに様々なスポーツで、最初に作った目的とは全く違った、拡大解釈でルールが適用され、納得のいかない判定に泣かされることは多々ある。
逆にそれを利用して、わざと反則を導き出すようなプレーを指導するコーチもいるほどだ。
『〝勝てばいい?〟それは違う。』と中井は常々感じていた。
そのことに、一石を投じる意味もあっての猛抗議でもあった。
再び集まる審判員。今度は相手チームの監督も呼び出されていた。
そして、その相手チーム監督の一言で事は決した。
「うちはいいです。中井先生の仰る通り、あの行為が走塁を助けたとは思えません。うちの選手でも同じことをしたと思います。」
この〝大岡裁き〟で危機を脱した鳴海中。
遠山くんのあだ名が『金さん。』だったのも偶然か?

その後大会は進み、いよいよ準決勝となっていた。
梅雨時ということもあって、日程的には順調という訳には行かず、準決・決勝と三位決定戦の4試合を、平日の月曜一日で消化することになっていた。
場所は熱田球場。愛知県アマチュア野球のメッカである。
その日、野球部の2・3年生は特別に授業免除で朝から熱田球場に向かった。
一年生は、指導教員も不在なので練習は休みということになっていた。
授業も終わり、さあ帰ろうと考えていた矢先、圭司に角野先生から職員室への呼出しである。
『何事か?』と思って職員室に行くと、角野先生、帰り支度をしながら圭司に言った。
「さっき中井先生から学校に電話が入って、野球部は準決勝で山田中に勝ってこれから決勝らしいぞ。先生、気になるでこれから見に行く。お前も一緒に来い!」
正に〝渡りに船〟とはこの事で、圭司は先生のスクーター後部座席に大喜びで乗っかった。
30分程度で球場到着。
スタンドを見渡すと、観客はまばらだが、両チームのベンチ入りメンバー以外の野球部員と思われる学生服姿が、一・三塁それぞれのベンチ上に陣取っていた。
その先輩たちに聞いた処によると、この前に行われた三位決定戦では、鳴海中に負けた山田中が、大接戦を制して県大会出場を決めたとのことである。

決勝戦、相手は昭和区北山中。
試合は既に中盤で、4回が終ろうとするところまで来ていた。
スコアボードに目をやると、4回途中で3対1。鳴海中リードであった。
相手投手矢川正は、後に捕手に転向し圭司と同じ高校の先輩になる。
その後リリーフで登板した平手三郎も、同じ高校で俊足の内野手として活躍する。
二人共、後にプロ野球に進むほどの逸材で、彼らが在籍する北山中が弱いはずはなかった。
そんな強敵を相手に、鳴海中ナインは随所に好守好打を鏤めて立ち向かっていった。
見ていて気が付いたのは、本当によく声が出ていたことだった。
攻守両面での、アウトカウントの確認。これは必ず行われていた。
「ノーアウト!ノーアウト!」「ワンアウト!ワンアウト!」「ツーアウト!ツーアウト!」
アウトカウントが進む度に、大きく手を挙げ全員で確認し合っていた。
その他でも、互いに声を掛け合う姿は清々しく、何だか心地好い風景であった。
そのまま回は進み、いよいよ最終7回。
マウンドには、リリーフの吉岡忠雄投手が立っていた。
いつもの通り5回からの登板である。
この大会はずーっとそうで、4回までが野々山主将、5回以降を吉岡で賄ってきたのだ。
そして最後の一人。「ツーアウト!ツーアウト!」の声が球場中に響き渡った。
そして、ゲームセット。優勝である。
中井先生の試合後談。
「この大会は準々決勝沢上中戦が山だった。どんな大会でも、優勝する時は必ず絶体絶命の試合がある。それを乗り超えない限り絶対に栄冠は無い。この事は忘れるな。」

この頃の中学生に全国大会はなく、勝ち進んでも県大会が最上部大会で、名古屋市大会後は、夏休み中7月下旬に行われる中日新聞・森永製菓共催の、通称〝エンゼル大会〟と8月初旬の県大会の後、少し間が空いて十月の名古屋市市民体育祭中学野球の部が残されるのみで、秋の市民体育祭は、中井先生の意向で三年生の引退記念試合に位置付けされ、彼らが伸び伸び楽しむ大会にしていたので、毎年県大会終了後代替わりして、新体制に移行されていた。
これは、高校受験に向けて毎日野球漬けだった彼等に、少しでも勉強の遅れを取り戻して欲しいという先生のご配慮で、三年生で学業成績不良の何人かを自宅に集めて、補習していた。
後々三年生になり引退した圭司は、この補習には参加しなかったが、楽しそうにその模様を語る仲間達を、とても羨ましく思ったものである。

県大会の前哨戦として、名城公園野球場で行われるエンゼル大会に出場し、準決勝で敗退。
名古屋市一位として愛知県大会に出場するも、二回戦で三河の強豪田原中に敗退し、夏休み中の八月初旬に全大会終了で、この年の三年生は引退となり新体制に移行していった。



第五話   野球部練習&試合(鳴海中学二年編)

県大会終了後、一週間程度の休みの後、新体制での練習が始まった。
新主将は古賀和雄、副主将は佐藤重行、共に内野手で二遊間コンビである。。
新体制による練習とは言っても、三年生も在学中で、何人かはお手伝いと言う形で参加する。
高校進学後も野球を続ける者が多いので、体力・技術の向上が主目的で、時々指導もする。
そんな練習で切磋琢磨していく中、新体制でのポジションが少しずつ固まって来ていた。
(投手)阪野孝②沢村定吉①深川義之①(捕手)青山良介②山口和夫①(一塁手)羽賀秀司②大島政雄①大島建夫①(二塁手)佐藤重行②横山修①古屋孝之①阪野栄三①(三塁手)山下幸雄②松山圭司①(遊撃手)古賀和雄②阪本鋭一①(左翼手)古川進②鍬山章②小島直之②荒木忠義①(中堅手)奥田晋二②阪野真人①金岡孝義①(右翼手)坂口英二②深川学①桂川真次①鈴木耕太①(丸囲み数字は学年)
以上27名での約一ヵ月の練習の後、新体制初の練習試合が組まれた。
相手は、隣町の大高(おおたか)中。
鳴海中から一年遅れの、翌昭和39年に名古屋市への編入が決まっていて、去年までは同じ地区でライバル同士だった学校である。
さて、注目の初試合。スターテイングメンバーは、
一番(中)奥田、二番(二)佐藤、三番(遊)古賀、四番(捕)青山、五番(左)古川、
六番(三)松山、七番(一)羽賀、八番(右)坂口、九番(投)阪野,、となった。
圭司は、下級生の中で只一人の先発出場となった。
このスタメンは翌年前半迄ほぼ不動で、後半の夏頃になると下級生の大島、荒木、阪野真人が力を付けて出場機会を増やして来る、という構図になっていく。
この初試合は、相手大高中の大型左腕牧田投手の剛球に抑えられ、0対3での完敗となる。この牧田投手と我がチーム古賀主将は、卒業後に愛知県有数の野球名門校『央邦高校』へ、特待生として進学しチームメイトとなる。
央邦高校は、後に圭司が進む『名京高校』とは、愛知県高校野球の歴史が始まって以来の、〝永遠のライバル〟校である。

明けて、昭和39年4月。圭司は、中学二年になった。
新三年生の古賀主将、佐藤副主将を始めとする野球部員は、6月に始まる名古屋市大会(兼県大会予選)に向けて、練習に励んでいた。
そんな中で行われた練習試合、相手は隣町の桜田中。
その頃圭司は、同じく隣町の本城中との練習試合で、後に名京高へ特待生入学する高木投手から、中堅越えの本塁打を放つなど絶好調で、二年生ながら打順は5番。自信満々であった。
一方、相手桜田中の久野俊三投手は、これまた翌年名京高へ特待入学する、左腕の速球投手。
『相手にとって不足なし!』そんな気持ちで試合に臨んでいた。
そして対戦。手も足も出なかった。
小柄ながらその速球には目を見張るものがあり、『上には上がある。』ことを思い知った。
試合は、味方阪野投手も好投したが、久野投手に完全に抑えられて0対2の完封負け。
久野・高木両投手(二人は高校で投手ではなくなるが)共に、野球部の佳き先輩となる。

そんな風に試合や練習を繰り返す内に、あっという間に時は過ぎ、六月。
名古屋市中学校野球大会(兼県大会予選)が始まった。
順調に勝ち上がり進んだ準々決勝戦。相手は前年度三位の山田中であった。
前年準決勝で、鳴海中に敗れ三位となった山田中。
今回はその雪辱に、チーム一丸燃えていた。
その気迫に押されたのか、何処か元気なく、ちぐはぐな攻撃が続く鳴海中。
少し押し気味ながら相手投手の軟投にタイムリーが出ず、無得点のまま最終回へ入った。
一方、山田中はと見れば、再三のピンチを脱してチームの雰囲気は最高潮。
守備から帰る選手を迎えるベンチの控え選手も元気一杯。異様な盛り上がりを見せていた。
そしてその回、先頭打者がフォアボールで出塁、次打者のバントを焦った投手が間に合わない二塁へ送球するミスで、アッという間の無死一・二塁の大ピンチである。
そのランナーをバントで送られた後、あっさりスクイズを決められ、1点のビハインドだ。
その裏の攻撃、ベンチ前に皆を集めて中井先生の檄が飛んだ。
「前にも言ったが、どんな大会でも、優勝する時は必ず絶体絶命の試合がある。それを乗り越えない限り優勝は無い、今日、これがその試合だ。分かったな。心して掛かれ!」
「オー‼」選手も気合十分。力一杯の声で、先生の檄に応えた。
しかしながら力及ばず、0対1での敗戦。
最後のバッター古賀主将は、内野ゴロで一塁ベースに飛び込んだまま倒れ込み、立ち上がることも出来ずに大号泣。
それを連れ帰ろうとする、佐藤副主将他の三年生も同様で、それを見て下級生も泣きじゃくると言う光景が繰り広げられていった。
古賀くんに、「マツ、来年は頼む‼」と言われ号泣。決意を新たにする圭司であった。

この大会は、中区伊勢山中が優勝。
同校は、同時期鳴海中と並ぶ名古屋市の強豪校で、どの大会でも常に優勝候補であった。
もう一言付け加えると、中井先生は個性重視の考え方で、型にはめる指導方法が大嫌い。
伊勢山中学に対して、かなり批判的な見方をされていて、
曰く「見てみいやあれ。打つも守るもみんな同じ格好。あれはいかん!勝てるかもしれんが、あれでは選手の個性全く無視だな。伸びる選手も潰れちゃうでよう。」
確かにその通りで、伊勢山中出身者は中学での実績で野球有名校へ進学するものの、高校で大成する者は稀で、中途退部する者も多かったと記憶している。
対する鳴海中出身者は中学での実績はそれほどでもないが、結構強豪校でレギュラーにな
る選手も多く、甲子園出場者もほぼ毎年のように出ていたような気がする。
ここからは余談になるが、それも所詮は高校レベルまでの話。
更にその上となると話は別で、その先の大学や社会人へ進んで野球が出来るのは、恐らく全体の三分の一か四分の一程度、更にその1%にも満たない毎年100名程度しかドラフト会議に掛らず、更にそのプロ野球でのレギュラー選手となると、もっと絞られて、これはもう〝十年に一人の逸材〟と言う感覚で、まず、そんな選手にお目に掛ることは無いのである。

例年通り、7月下旬のエンゼル大会に出場。
市大会の雪辱を期しての健闘も空しく、ベスト8で敗退し、8月から新体制に移行。
その後、後輩たちの練習を手伝いながら気楽に参加した、引退記念の秋季名古屋市民体育祭で漸く本領を発揮して決勝に進出し、ライバル伊勢山中に善戦するも惜しくも準優勝。
その時の、先輩たちの満足そうな笑顔、
一緒に戦った仲間として、圭司は心からの喜びを感じていた。
こうして、この年の三年生の野球部生活は終焉を迎えた。
          

第六話   アルバイト
 
その頃鳴海中の練習に顔を出すようになるのが、これから紹介する、石村勝利氏である。
石村氏は、中井先生とは飲み仲間だったようで、偶然出会った居酒屋で色々話をしていく内にお互い野球経験者だと言う事を知り、更に深い話になって打ち解けていったとのこと。
特に意気投合したのは選手の育成法。
個性を生かした技術指導に付いて、前述の伊勢山中学の話等、具体例を挙げて事細かに議論を闘わせ、終には『空いた時間に、是非我が校へ来てご指導を』という運びになったらしい。
石村氏、何故か県内の中学・高校野球部事情に精通していた。
実は石村氏、愛知高校出身の元プロ野球投手で、肩を壊して二十歳代で引退したとのこと。
引退後は、実家の魚屋を手伝いながら、社会人軟式野球チーム湯浅建設の監督兼選手でもあり、引退したプロ野球球団のスカウトも兼任していたらしい。
当時三十歳前後だったと思うが、指導に訪れた際、稀に打席に立つ事もあった。
その時の打撃は見事なもので、殆ど力の入ってない、しなやかなスイングから弾き飛ばされる打球の速さには、皆、驚いたものだった。
『あんな風に、に力を入れずに楽そうに打っても、球は飛ぶんだ。』
圭司も、形から真似して挑戦するのだが、どうしても上手く力が抜けずいた。
それに加えて、力一杯打った時の快感が、その技術習得の魅力を上回り、途中で諦めたのだ。
 
そんな石村の目に先ず飛び込んだのが、二年生ながらレギュラー三塁手の圭司だった。
中井先生に誘われて夏のエンゼル大会を見に行った時の事、サード前の緩い当り、三遊間の強い球、何れも難なく捌いてアウト。
三塁後方の、難しいファウルフライも逆シングルで好捕。
目を見張るのはその強肩で、周りで見ている大人たちが思わず「オー‼」と声を出す程だ。
それと、凡打した時の一塁迄の足の速さ。
普通のショートゴロが〝間一髪〟のアウトである。
結構、体はデカいのにあの動き。
その時ヒットは無かったが、打席での立ち姿や雰囲気も悪くないので、
『一度じっくり見てみたい。』と石村は思っていた。

そんな経緯もあって鳴海中の練習に訪れた石村、中井先生からの紹介の後の一言である。
「今、中井先生から言われた通り、経験してきたことを若いみんなに出来る限り伝えていきたいと思っとる。こないだ負けて引退になった三年もいるみたいだけど、これからも勝ったり負けたり、野球だけじゃなくて色んな事でそういう場面に出くわすようになるで、その度に落ち込んどったら生きて行けんぞ!終わった事は絶対帰って来ん。その経験を生かすことを一番に考えないかん。中学で終わりじゃないんだぞ。二年生以下も同じだぞ。分かっとるとは思うけどな。みんなの好きな野球が、嫌いになることだけはしたくないと思っとるで、毎日来られるわけではないけど、来た時はよろしく!」
全員大きく頷いて「ハイ!」

その後何回かの指導があった或る日の練習後、圭司と荒木忠義(たー坊)に先生から声が掛かった。石村も同席していた。
「実は、石村さんから相談があってな。二人にアルバイトのお誘いなんだ。」と中井先生。
続けて石村、「近い内一度、家に来てくれんか?細かいことはそこで話すけど、ちょっと人手が欲しくなって、中井先生に事情を話して相談したら、お前ら二人がいいんじゃないか?ってことになったんだ。結構小遣い稼ぎにはなると思うんだけど・・・。」と来た。

後日の夕方、当時の新興住宅地、鳴子町にある石村家を訪れた二人。
広々とした芝生の庭と、その奥にある鉄柵の檻の中の、見た事もないくらい大きな秋田犬に驚きながら、家に中へと案内されていくと、奥様のお出迎えである。
そして夕食、これまた見た事もない上等な牛肉や、石田さん本業の新鮮な魚の、味わったことの無い旨さにびっくり仰天。感動を覚えながら、黙々と舌鼓を打つ二人であった。
石村さん、美味そうにビールを飲みながら話し始めた。
二人とも、身を乗り出した。
実は圭司とたー坊、一年ほど前に、早朝牛乳配達のアルバイトを経験していた。
圭司はご存知の通りの貧乏一家。たー坊も諸事情あっての母子家庭で、二人共に金欠病。
一本1円の配達報酬で毎朝50本、月に千五百円程度の収入は魅力的ではあったのだが、重い業務用自転車に、50本もの牛乳を積んでの配達で、ある日転倒して牛乳瓶を割る事件もあって、その仕事に危うさを感じた二人は、半年ほどでそれを終わらせてしまったのだ。
そんな時にアルバイトの話だったので、二人は一も二もなく飛び付いたという訳である。

さて、話を戻すとそのバイト、石村さんが飼っている秋田犬の、朝夕の散歩が仕事。
石村家の犬は二頭、実は血統書付きの名犬で、一頭目は全日本秋田犬品評会で優勝した名犬を父親に持つ5歳の牡犬〝金池(きんち)号〟で『チコ』と呼ばれていた。全日本二位の実績を持つ。もう一頭はその妹で3歳の、〝駒姫(こまひめ)号〟愛称は『コマ』である。
その二頭を毎朝夕散歩させるのだが、石村さんの多忙と、その留守中に替わって務めていた奥様も、一年前に長男が生まれて子育て真っ最中で、散歩の人手を探していたとのことだ。
そこで目を付けたのが、練習を手伝う鳴海中野球部員で、中井先生に相談となったのだ。
「明日から二人で、ここまで走って来て、あの二頭の犬を散歩させてくれればいい。」
「基本は朝夕二回。一回百円、但し、平日は練習が有るから朝だけでもいい。来れないときは必ず電話。大体一ヵ月二~三千円にはなる。やり方は最初に俺が教えるから、どうだ。」
その金額に目がくらんだ二人。「はい、分かりました。」二つ返事である。

翌日から、石村邸まで約2・5㌔を往復ランニングして、一時間前後の散歩を繰り返す毎日が、中学卒業まで続いた。
最初はおっかなびっくりであった犬の扱いも、一週間もすれば慣れたもので、しっぽを振って擦り寄って来る犬の可愛さも、徐々にではあるが理解できるようになるから不思議だ。
特に牡のチコは、その大きさ故に初めて見た人は大概ビックリ顔で、小さな子供などは出会った途端に大泣きされるのが普通であった。
同じように散歩している犬と出くわすと、他の犬がそれは大騒ぎで、「ワンワン、キャンキャン!」煩くて仕方ないのだが、チコがギロリと一睨みするだけで「クーン、クーン。」と大人しくなってしまう。〝弱い犬ほどよく吠える〟とは、よく言ったものである。
一方、雌犬のコマは、未だ幼い所為もあるが、神経質で落ち着きがないタイプ。、
それがまた人(犬?)の気を引いて、可愛いところでもあったのだ。
散歩は、犬に負荷をかけて筋力を付けさせる為、後方に引っ張りながら〝ノッシ、ノッシ〟と進んでいく感じで、チコとコマとでは負担差が大きく、交替で務めたものだ。
これも結構好い筋力トレーニングだと、二人は思っていた。
夏と言うこともあって、散歩の途中、時々近所の池によって二頭を放つことがあった。
するとチコとコマは、急に「バウバウ、ワンワン。」とはしゃぎだして先を争って池に飛び込んでいくのだった。その嬉しそうな姿もまた何とも言えず可愛いものであった。

二頭の犬の扱いと共に、時々石井さんの指導での野球教室も行われた。
三年の公式戦終了後はほぼ毎日で、硬球でのキャッチボールもその時が初めてであった。
今迄軟球しか握った事が無かった二人は、力不足でどうしても、ボールが高くいってしまう。
よくプロ野球で、投手に疲れが出て握力がなくなり、高めに浮いてしまうという現象が、最初から出てしまっているという訳だ。
逆に硬球に慣れてから軟球を力が入れて投げると、全部低めにワンバウンドしてしまう。
ボールの重さの違いなのだが、この事で力がなくなるとボールは高めに浮き、力むと低くいくことを、身を以て覚えたのだ。
その他にも、打撃や守備のことを元プロの経験談を交えて教えられたことは貴重な体験で、圭司とたー坊、後の野球人生に、大きなプラスであったことは言うまでもない。

そして何と言っても楽しみだったのは、月末の給料日。
給料袋を大事そうに抱えた二人は、帰り道にあるお好み焼き屋へ直行だ。
そこで、肉入りお好み焼きと焼きそばを食べて腹一杯、満腹感を充たしての帰宅である。
中学後半の一年半、圭司にとっては人との出会いの大切さを実感させる期間であった。


第七話   新体制発足と新しいグランド

 時計の針を少し戻して中学二年の六月。名古屋市大会準々決勝で敗退し、三年生は引退。
新体制は松山圭司主将・阪本鋭一副主将でスタートしていた。
その夏休み、鳴海中学では、周辺地域である汐見ヶ丘地区の宅地造成に伴う通学路拡張及び運動場の再整備が行われ、屋外競技の運動部は練習不能の状態に陥っていた。
中井先生はその状況を解消すべく、練習場確保の為、近くの小学校や宅地造成中の空き地を探して東奔西走の毎日であった。
その甲斐あって、夏休み中は近くの平子小が借りられることになり、先ずは一安心。
少しライト側が狭くて試合は無理で、他校への遠征試合も入れながら、ほぼ毎日の練習。
その間、校舎のガラスも何枚か割れたのだが、その都度、先生の自腹で修復していたようで、後に先生の奥様から、その頃の苦労を聞かされ恐縮したものだった。
鳴海中へは徒歩だが、ここは少し遠くて自転車通いで、練習帰りの駄菓子屋の、かき氷やラムネの楽しみもあったのだが、あっと言う間に夏休みは終わりを迎えてしまう。
しかし、未だ鳴海中運動場の整備は完了してなかった。
平子小学校も二学期が始まるので、引き続きの使用は無理。
中井先生、再びの〝東奔西走〟である。
校庭の工事が八月中には完了しないと判った、その月の中旬から先生のグランド探し開始。
目を付けたのは、元々山の上にある鳴海中から更に奥の、宅地造成中の空き地である。
当時の鳴海町の地形は、中学校を境にその南東に市街地が形成され、その後ろ、方角で言うと北東側はほぼ未開の地。そこから野兎が出没して前述練習中の大騒ぎがあるのだ。
そんな訳で、中学の北東1㌔程度は既に住宅建設中だが、その先は更地のまま存在していた。
そんな中で、丁度好い広さの空き地を見付けた先生は、そこの立て看板にある電話番号をメモして中学に取って返し電話を入れ、その日の内に相手責任者と会う約束を取り付けた。

相手は強面の建設会社社長。少しの緊張を覚えながら先生は事情を説明した。
すると社長、ニッコリ笑ってこう言った。
「中井先生、分かったよ。どっちみち暫くは手前の現場に手一杯で、あの土地での建築には掛かれそうにないで、貸してもええよ。実はね先生、俺先生の事、石村から聞いてて知っとったんだわ。熱心なええ先生だって。だから、さっき電話来た時すぐ分かった。じゃなかったらこんな風に会わなかったよ。今日は楽しみにしとったで、会えて嬉しかった。」
彼の名は、湯浅実。当時急上昇の湯浅建設社長で、その軟式野球部で選手兼任監督として指導しているのが、前話で登場した石村勝利と言う、小説の様な偶然であった。
そんな偶然を喜んでいる中井先生に、湯浅社長が一言。
「ただ、あそこ石ころゴロゴロだし凸凹だし、あんなとこで、野球なんか出来る?」
応えて先生「大丈夫です。明日から生徒と一緒にグランド整備に入りますんで、恐らくグランド内は石ころ一つもない、状態になると思います。」
「おお、そりゃあ願ったり叶ったりだがや!」と社長。
こうして、両者利害一致のグランド貸借契約は成立した。
翌日から野球部全員による、グランド造りである。
放課後、運動着に着替えた部員たちは、中井先生のバイクに先導されて、片道1㌔半の山道を走って造成地に到着した。
そこで圭司たちが目にしたのは、とてもグランドと言えた代物ではなくて、ブルドーザーのキャタピラの跡もそのままの、石ころだらけの殺風景な只の空き地であった。
その日から、中井先生の指示によるグランド造り。
先ず、最初の三日間は兎に角、石拾いだ。
日が暮れるまで、ひたすら石を拾っては捨て、拾っては捨てを繰り返した。
お陰で、大きな石は無くなり、何となくグランドらしい風景には、なってきた。
更に二日掛けて、内野のスペースの土にふるいを掛け、細かくして整地。
五日目にして、漸く練習の出来そうなグランドの完成である。
その間、湯浅建設の湯浅社長や石村さんが、トラックで野球の防御ネットや整地の道具を運んでくれたり、専門的なアドバイスをしてくれたりしたことも、とても作業の助けになった。
尤も、よく考えてみれば、いずれはやらねばならぬ整地作業を、中学生が無料でやっている。
それが社長の言う『願ったり叶ったり。』なのか?いや、これこそが〝両者利害一致〟か?

そのグランドでは、中学校の校庭整備が終了する、その年の年末まで練習が行われた。
その間練習試合も数試合をこなした、思い出深い場所である。
そこは当時、周囲に何もないだだっ広いだけのグランドで、圭司が小学校の頃のエピソード(〝夏の景色〟)での双子池の近辺だ。その時点で、既に池は消失していた。
或る休日の試合前、少し寝坊して出遅れた圭司はグランドに向う道を自転車で急いでいた。
造成中のその辺りの道路は、未だ舗装前で、雨が降るとあちこちに泥濘(ぬかるみ)が出来ていた。もう少しでグランドという曲がり角で圭司が目にしたのは、泥濘に嵌って立往生する車。小学生低学年くらいの子供とご夫婦の三人家族で、造成中の土地を見に来た途中に、文字通り〝こんな羽目に陥ってしまった〟らしい。
夫婦二人で、必死に車を持ち上げようとする姿が痛々しくて、圭司思わず声を掛ける。
「大丈夫ですか?」(大丈夫なわけは無い。)
その声に、旦那様が振り向いて言った。
「ありがとう。実は誰も通らんもんで困っとったんだ。助かった‼一寸手貸して貰えんか?」
その後、石や木っ端を集めて泥濘を埋めたり、色々やって約30分後、漸く脱出に成功。
ご夫婦からのお礼の言葉もそこそこに、急いでグランドに駆け付けるも、しっかり遅刻。
中井先生から大目玉で、第一試合の先発メンバーから外される〝羽目に陥ってしまった〟。

半年ほどの短期間ではあったが、印象的なエピソードの多い、思い出のグランドである。
数年後、圭司が訪れたその場所に当時の面影はなく、如何にも名古屋のベッドタウンといった立派な家が立ち並ぶ、高級住宅街となっていた。
住民の方々には申し訳ないが、云い様の無い喪失感に包まれる圭司がそこに立っていた。


第八話   東京オリンピック

1964年10月10日土曜日、東京オリンピック開会式当日の午後一時。
弁当を食べ終わって練習を前にした鳴海中各運動部員は、体育館に集合させられていた。
フロアーの最前列に、各運動部の顧問やこれを見たいが為に残った教師が座り、その後ろに部員が並ぶという配置で、全員パイプ椅子を使用し、総勢150名ほどが集まっていた。
この頃には、既に多くの三年生は引退していて、殆どの運動部は新体制。
体育館舞台上に目をやれば、当時としては珍しい超大型のカラーテレビ。
その頃、カラーテレビもかなり普及して来てはいたが、まだまだ全家庭にあると言うことはなく、しかもこんな大きなテレビ見たこともないので、みな結構喜んでいた。

その年の8月にギリシャで採火された聖火が9月に日本に届き、全国各地をリレーして、
今日、東京国立競技場に灯されるのである。
その聖火リレーのコース国道一号線が、鳴海町の南側を通っていたので、鳴海中運動部員も何人かそのメンバーに入っていて、野球部先輩の三年生古屋健一くんもその一人であった。
野球部の同期生、タカの兄貴である。
実はこのメンバー、冬に行われる駅伝大会を残している陸上部の三年生が殆どなのだが、野球部引退後に体力強化目的で練習に参加させ貰っていた古屋くん、顧問の先生にその脚力を見止められて、駅伝の選手候補になっていたのだ。
タカはいつもそれを自慢げに語っていて、ちょっと面倒くさかった記憶がある。
暫く雑談しながら時間を潰していると、大型テレビからオリンピック序曲が流れ、ざわめいていた体育館内が〝サッ〟と静寂に包まれた。
開会式の始まりである。
オリンピック序曲に合わせて、参加93の国と地域の旗が競技場の観客席の最後段にあるポールから掲揚された後、君が代の演奏と共に、天皇皇后両陛下がロイヤルボックスにご着席。
そして、今ではすっかり耳慣れた、あのオリンピックマーチに乗っての入場行進開始である。
先頭がオリンピック発祥の国ギリシャ、最後尾が開催国日本。
このルールも、この時知った。
93の国と地域、総勢五千人以上の行進が終わるまでの小一時間。
IOC(国際オリンピック委員会)ブランデージ会長挨拶と、天皇陛下の開会宣言があり、数件の儀式の後、いよいよ聖火入場である。
最終ランナーの坂井義則(当時19歳)は、陸上競技関係者以外ほとんど知られてない無名選手で、その走りっぷりや点火の際の堂々とした所作に、初見の体育館内の生徒達からは、
「おお、かっこええがや‼」等、あちこちから称賛の声が上がる人気っぷりであった。
最後に、航空自衛隊ブルーインパルスチームが大空に五輪を描いて開会式は終了。
カラーテレビに映る、空の青さが印象的な開会式であった。

松山家はまだ白黒だったが、陸上競技100㍍のボブ・ヘイズ、マラソンのアベベ、水泳のドン・ショランダー、柔道のヘーシンク等、忘れられない外国選手達がたくさんいる。
特に、棒高跳びの9時間を超える深夜の死闘は印象的で、金メダルがアメリカのハンセンで、
銀メダル・ラインハルト、銅メダル・レーネルツが今大会だけの為に結成された、東西ドイツ統一チームのチームメイトであったことも、オリンピックが世界平和の象徴であることを、強く感じさせる結果となった。
日本勢では重量挙げ上げ三宅、マラソン円谷、体操日本男子、バレーボール東洋の魔女等の活躍に大興奮したものだが、何と言っても最大の感動は、閉会式だった。
大会最終日、全ての協議が終った10月24日、夕闇の国立競技場。
開会式と同じようにオリンピックマーチが演奏されて、入場行進が始まった。
先ず、最初に目に映ったのは、参加93の国と地域の旗手による国旗のみの入場であった。
『あれ?何だかいつもと違うかな⁉』
訝しげにテレビを見ていると、それに続いて現れたのは、各国選手達が入り混じって、ある者は肩を組み、ある者は手を繋いで、楽し気に行進する姿だった。
『何だ、これは‼』
初めて目にする光景に、圭司は鳥肌が立った。
『ああ、これがスポーツだ。ああ、これが祭りだ。ああ、これが平和だ‼』涙が溢れた。
旗手最後尾の日本の水泳・福井選手などは、入場する時から他国の選手に肩車されてしまっていて、その困ったようでもあるが嬉しそうでもある姿も、また微笑ましく映っていた。
中には演奏する楽隊の前で、ユーモラスに指揮者の真似事をする選手もいて、見ているこちらも思わず吹き出してしまうほどであった。

そんなこんなの、底抜けに明るい雰囲気で進行して行く〝エンディングセレモニー〟。
漸く入場行進も終り、選手もスタンドの観衆も落ち着いた後、場内の証明が落とされた。
スポットライトの中、オリンピック賛歌の演奏と共に五輪旗降納、そして聖火消灯。
蛍の光が流れる中、名残惜しそうに競技場を去っていく選手達。
電光掲示板の画面いっぱいに『WE MEET AGAIN MEXICO.』の文字。
こうして静かに。〝平和の祭典〟東京オリンピックは幕を閉じた。

今回の大会が初めての試みとなるこの閉会式のやり方は、
以降オリンピックの定番となっていく。
今でこそ当たり前の〝ジャパン・アズ・ナンバーワン〟であるが、
圭司がそれを感じ、日本を誇りに思ったのはこの時が最初であった。


第九話   遠征

 オリンピック後の練習試合で、印象深い試合があった。
それは海部郡蟹江中への遠征試合で、鳴海中から相手蟹江中までの距離約20㌔を、一・二年生部員三十名弱全員が、何と自転車で移動したのである。
交通費節約と脚力強化の一石二鳥が狙いだったのだが、最初に言われた時は正直驚いた。
試合当日、移動距離から考えて1時間半~2時間は掛かるとの計算で早朝の出発となった。先生が先導し、主将の松山が最後尾に付く、という隊列での移動である。
現地への道のりは中井先生しか知らないので、皆付いていくのに必死だ。
前方に二年、後方に一年の配列だが、この年代の1年の歳の差は非常に大きく、それこそ人によっては大人と子供ほどの違いがあるものだ。
中でもその日の移動で最後尾に位置する一年生谷川真治は、ひときわ小柄で非力。
ひょうきん者で元気は好いのだが、技術的にも体力的にも他の者より劣っているのは、誰の目にも明らかな存在であった。案の定、30分ほど走っていくと谷川が遅れ始めて来た。
圭司も必死に励まして先頭との差を詰めようとするのだが、谷川が遅れ、それにキャプテンが付いてることに安心した一年の何人かも、追随するように遅れ始め、先頭との差はどんどん広がるばかりだ。
先生も信号待ちの都度、振り返って確認するのだが、当時は今ほど信号機の設置数が多くないので中々その差は詰まらず、工程の半分ほど来た所で止む無く
「よし、休憩して待つぞ。」
そして追い付いたら出発、というのを二~三回繰り返して、漸く到着。
二時間ちょっとの自転車旅であった。

この日の試合は2試合。第一試合は沢村、第二試合は松山の両先発投手での戦い。
中井先生の構想としては、この二人に争わせてどちらかをエースに。と言うことのようだ。
先ずは第一試合。先発メンバーは
一番(中)阪野真人、二番(遊)阪本鋭一、三番(左)荒木忠義、四番(三)松山圭司、
五番(一)大島政雄、六番(二)横山修、七番(捕)山口和夫、八番(右)桂川真次、
九番(投)沢村定吉、以上であった。
第二試合では、松山が投手、横山が三塁で打順変わらず、八番(右)に金岡孝義が入り、
九番(投)沢村定吉が、(二)古屋孝之に替わると言う布陣になる。
このメンバーはほぼ不動で、入れ替えも大方この形態で行われた。
この年度のチームは本当に強くて、練習試合では殆ど負けることはなかった。
勿論この試合も、ほぼ楽勝の2連勝でその時主審を務めた蟹江中の三年生で、その頃既に、愛知県一番の野球名門校名京商業への特待生進学が決まっていて、後に同じ高校の先輩となる鈴木辰徳さんも、驚いた様子で松山に話しかけて来た。
「お前たち、滅茶苦茶強いな。こりゃ、県大会優勝かも知れんぞ。頑張れよ! 特にお前、高校で待っとるでよお!」圭司、恐縮である。


第十話   事件
    
明けて昭和40年4月、いよいよ最上級生、中学最後の年だ。
組替えで三年八組。担任は何と、一年の時と同じ角田先生。これも何かの縁である。
野球部にも15名の新入部員が入って来た。皆、緊張の面持ち。
例年通り、主将・副主将が偉そうに自己紹介と訓示。新入生が一言ずつ挨拶して行く。
ほんの2年前、彼等と同じ様に顔を強張らせていたのが嘘のような、余裕の表情の三年生達。
体格的にも最も差が出る世代で、この2年で10~20㎝身長が伸びた者が何人もいた。
その体格差も彼等に余裕を持たせるのか、新入部員を妙に可愛く感じる三年生達。
新入部員の教育(声の出し方や暗黙のルール等)は二年に任せて、三年生は練習に専念した。

そんな毎日が続いたある日、一年生のクラス対抗ソフトボール大会が行われた。
これは、新入生の歓迎と親睦を兼ねて開催される恒例行事で、毎年4月末~5月初旬の土曜日に開催され、野球部員が審判を務めることも通例になっていた。
貴重な土曜日の練習時間を取られるのは痛いが、中井先生から『応援してくれる学校や先生方に感謝の気持ちを表す年一回の機会だ。特に三年生は最後の御奉公と思ってやれ!』と言われたこともあって、野球部と女子ソフトボール部のグランドに作られた、2面の試合場に分かれて審判に付く三年生部員達。
各組の担任、特に男性教員は、プロ野球の監督気取りで大張り切りだ。
中でも、サッカー部・杉田潔監督と水泳部・岡村哲夫監督の両先生はその傾向が顕著。
両先生共に身体も大きくて強面、常に大声で生徒を威嚇するタイプの先生で、黒ぶちメガネの杉田先生は『スーパーマン』、厳しい指導の岡村先生は『鬼岡』の渾名で呼ばれていた。
そんな両先生の担任クラスの対抗戦が、圭司の主審で行われたのだ。
実はお二人、歳が近いこともあって大の親友で、仕事帰りに鳴海駅近くの赤提灯でいつも一緒の飲み仲間。もしかしたら『負けた方が今日の飲み代の支払い』くらいはあったかも?

そんな中、試合は始まったのだが、両先生が大張り切りで、その声ばかりグランドに響き渡り、生徒達は若干引き気味。『どっちが主役?』と思わせる感じのゲームであった。
試合内容はさておき、お互いに点の取り合いで、中々の接戦となっていた。
そして、事件は起こった。
接戦の中の終盤、杉田先生クラスの攻撃。
先頭バッターが、ショートゴロを打った、それを捕ろうとした選手(実は野球部の新入生)、ポロっと前へこぼすも落ち着いて拾い上げて一塁へ送球する。
野球であれば充分間に合うのだが、打者も結構俊足で、塁間距離の短いソフトボールでは、ギリギリのタイミングであった。
一塁塁審、山口和夫の判定。「アウト!」
「何いー‼」杉田先生の大音声(だいおんじょう)!
言うが早いか、鬼の形相で山口塁審のもとへ。
〝バッチーン‼〟いきなりビンタである。
「いい加減な審判やっとったらいかんぞ‼」
叩かれ、怒鳴られた、山口もビックリ。今にも泣きだしそうな表情だ。
それを見た主審の圭司、これまた決死の形相で一塁まで走った。
そして、杉田先生に猛抗議。

「先生、何するんですか‼退場にしますよ。」
杉田先生も負けてはいない。
「何だとー松山、あれはどう見てもセーフだ。大体、先生に向かって退場とはなんだ!」
松山「そんなの関係ありません。サッカー部の先生なら審判の判定は絶対で、いちいち抗議を受け付けてたら試合にならんこと解っとるでしょう。俺たちは練習時間削って協力しとるんですよ。そんなこと言うならもう審判は止めです。皆、引き上げさせます‼」
と言うと、直ぐに右手を挙げて、二つの試合場の野球部審判全員に大号令発出。
「みんな、試合は中止だ。引き上げるぞ‼」
試合を中断して、ボイコットよろしくバックネット裏に集まる野球部員たち。
『何事だ!』びっくりして、校庭全体が、ザワザワした雰囲気に包まれていった。
慌てて走って来たのは、体育課主任の出口健作先生、バスケット部の顧問である。。
「杉田くん!」後輩の杉田先生を呼んで話し始めた。
その後、岡村先生、と野球部中井先生も加わって協議。間も無く圭司も呼ばれた。
出口先生「今聞いて事情は分かった。松山、悪かったな。こりゃ、普通は退場だよな。杉田先生も反省しとる。これから謝って貰うで、ここは一つわしの顔立てて許したってくれ。」
杉田先生「松山、悪かった。つい興奮して、みっともないことになってしまった。本当に申し訳ない。許してくれ。」
圭司「俺じゃないです。山口や一生懸命やってた、みんなに謝ってください。」
「分かった!」そう言うと、杉田先生、野球部員が集まっているバックネット裏に向かった。
そして、皆を前にして話し始めた。
「野球部のみんな、特に山口には、不快な思いをさせて申し訳なかった。先生が悪かった。練習時間を割いて新入生の為に審判をしてくれとったのに、それを忘れての軽挙妄動だった。勝手なお願いかも知れんけど、一年生の為と思って、試合続行で頼む。」
それだけ言うと、直角に頭を下げて謝意を表した。
当時、先生が生徒にビンタというのはよくあることで、特に強豪運動部では日常茶飯事。
そんな訳で、先生に殴られることに驚きはなかったのだが、強面のサッカー部杉田先生が、生徒に頭を下げるという事の方が、まず考えられなかったのだ。
その一言を受けて、山口も圭司も納得し、試合再開となった。
試合が終わった後、中井先生の一言。
「圭司、お前が熱くなるのは解っとったけど、あれ程とはな。ちょっと見直さないかんな?」
ちょっと嬉しいような、恥ずかしいような、こそばゆい感じで圭司はそれを聞いていた。
その事件以後、生徒は勿論、先生方からも一目置かれる存在になっていく圭司。
「松山君、やるじゃない!」
彼等が一年の時に新卒で赴任してきた女教師で、今では男子生徒の〝憧れのマドンナ〟の、圭司のクラスの副担任でもある堀部華子先生から、そんな風に声を掛けられ有頂天になり、
生徒達からは「あの杉田先生に向かって行ったんだと。すっげーがや!」と持て囃される。
十四・五歳の若造が、こんな扱いを受けて天狗にならない訳はなかった。
そして、その鼻がへし折れるのに大して時間は掛からないことを、まだ彼は知らない。


第十一話  敗戦
   
4月以降の練習試合は連戦連勝。あの強豪、中井先生や石井さんの嫌いな、選手全員同じ格好の宿敵・伊勢山中にも、練習試合では大差で勝利していた。
前述蟹江中への遠征以来、ビジターでの練習試合はほぼ自転車での移動で、行った先々では一様にビックリされたものである。
伊勢山中の選手たちも皆驚いた様子だったらしく、これは翌年高校で同級生になる、当時の伊勢山中エース、近田哲夫から後に聞いた話だが、
『鳴海のド田舎から、山猿が自転車に乗って来たがや!』と、評判だったらしい。
こちらとしては、蟹江中への距離の半分程なので『屁でもなかった!』のだが・・・。
試合の方は、ダブルヘッダーを連勝。
〝試合巧者を力で捻じ伏せた〟感じである。
その後の練習試合でもほぼ負けることはなく、名古屋の中学校野球関係者の間では、知らぬ者のいない強さであった。

そうこうしている内に、たちまちにして六月。また、この季節がやって来た。
いよいよ、第一の目標である愛知県大会名古屋市予選の開幕である。
圭司にとって、選手としては二度目の名古屋市大会。
去年の悔しさを胸に、続けてきた練習。鳴海中野球部員、特に三年生は、雪辱に燃えていた。
前評判は、断トツの優勝候補。
そして、順調に勝ち進んだ鳴海中が迎えた準々決勝。
相手は練習試合もしたことのない、ノーマークの千種区振甫(しんぽ)中学である。
これに勝てばベスト4。最低でも県大会出場権獲得の三位決定戦への出場権獲得。
そのことは当然解っていたし、『その為にやって来たんだ!』の想いは、皆同じであった。
そして、始まった試合、気合十分で臨んだ選手達。
ところが・・・である。
その試合は、まるで去年の大会の、ビデオを見ているような展開となっていった。
何度も訪れるチャンス。ランナーは塁を賑わし、いつ得点しても可笑しくない展開。しかし、
相手の、これまた高校で同級生となる、森田忠一郎投手の下手投げ軟投に苦しんでいた。
圭司にも、二死満塁のチャンスが二度廻って来た。だが、打てない。
気が付けば6回表、そこ迄両軍無得点。
中学野球は7回戦なので、残りは2イニング。
梅雨時の試合だ、そうこうしている内に、雨が落ちて来た。
この回守備に就いた鳴海中。左腕投手沢村は、雨に濡れるボールをしきりに気にしていた。
点が入らない苛立ちも重なって、必要以上に神経質になっている様子が見てとれた。
そんな動揺が投球に現われ、先頭打者をフォアボールで出塁させてしまった。
これまでチャンスは毎回のようにあったが、ピンチは殆どなくこの試合初めての事である。
この危機にマウンドに集まった内野陣、ベンチから伝令として古屋が先生の指示を伝える。
「慌てるな。兎に角一つ一つアウトを積み重ねるしかない。自信もってけ!大丈夫だ。」
「おおーっ‼」応える内野陣。
「ここは絶対守るぞ!」気合いを入れて守備位置に散った。
その気合も空しく、勢いに乗る相手に、送りバントを決められた後の連続二塁打であっさり2点を先行されてしまう。
焦る鳴海中、最終回に何とか1点を取り返して粘りを見せるが、力及ばず、敢え無く敗退となってしまった。
ガックリ肩を落とし、その場にへたり込む鳴海中ナイン。試合後の挨拶もままならぬ様子だ。
中井先生に促され、気力を振り絞って整列し挨拶が終ると、全員大号泣‼
圭司も、こんなに出るかと思うほどの涙を流し、暫くは立ち上ることも出来ずにいた。
翌朝登校すると、会う人皆、一様に驚いた表情で、「あれ?今日、試合じゃないの‼」
勝っていれば、準決勝・三位決定戦と決勝戦がある日なので、当然、球場直行のはずだ。
しかも、優勝候補筆頭の鳴海中学野球部。
先生も生徒も、誰一人、今日は登校して来るとは思ってなかったようだ。
会う人ごとへの一々の説明が面倒で、
『昨日、準々決勝で負けました。』の札を、首からぶら下げて歩きたかったほどだ。
先日のソフトボール事件以来、何かに付けて声を掛けてくれるようになった、サッカー部・杉田先生や水泳部・岡村先生も、
「何も人生が終わった訳じゃない。まだまだ、これからだぞ‼」
と励ましてくれるのだが、生まれて初めて味わう、悔しさと屈辱そして喪失感。
全てに於いて〝自信満々〟であった圭司の天狗の鼻が、ポッキリへし折られる結果に。
本来の予定では、県大会に出て8月迄は野球をしている筈が二か月も前に終ってしまった。
その後一~二週間程、彼は何もする気力が出なかった。


第十二話  カミナリ先生
   
もう一人、どうしても紹介したい先生がいる。
国語の教師でバレーボール部の顧問の、服部俊勝先生。
前年、女子バレーボール部を、県大会優勝まで導いた鬼監督だ。
生徒間では渾名の〝カミナリ〟としか呼ばれていない。
生活指導も担当していて、そんなに背は高くないのだが、ガッチリした体格で色黒強面。
そこから醸し出す〝恐怖のオーラ〟は、野球部の中井先生と双璧で、ひと睨みされただけで、生徒は皆、震え上がったものだった。しかも気が短くて、すぐにビンタが飛んで来る。
でも、往々にしてそういう先生の授業は面白く、両先生の教室からは笑い声が絶えなかった。
その年の春、県予選兼名古屋市大会直前の、5月終わり頃の午後一番の授業。
今日の授業は〝俳句〟。服部先生、始業の挨拶後全員に短冊状に切った紙を配って開口一番。
「今から5分、いや10分やるから全員最低一句詠むこと。」
「基本は五・七・五だけど、多少字余りでも、字足らずでもええぞ。」と、来た。
それを聞いて生徒達、あちこちで指を折りながら、創作活動を始めていた。
その様子を眺めていた服部先生、皆に語りかけるようにこう言った。
「ええか、スポーツとか芸術とかはリズムが一番大事。そんな指折り数えて字を当てはめるようなやり方は駄目だ。例えば、『タタタタタ・タタタタタタタ・タタタタタ。』のように、リズムを刻んで歌うように言葉を入れていけ。それが自然に無理なく詠むコツだ。」
そう言われて詠んだ圭司の一句がこれ。
『春の日に、瞼の重き、五時間目。』
それを見た服部先生、「へえー。」と一言。そして、
「松山、状況はよう描けとるし気持ちもよう解る。でもこれ、どちらかと言うと川柳かな?」
そこから、『俳句は季節ごとの風景や状況を詠む詩歌で季語が必要なこと。川柳はその時々の世情や風刺をユーモアやウイットを交えて詠むものだ。』と言った、俳句と川柳の相違の授業が始まり、圭司も何となくそれに貢献できたような、誇らしい気分になった記憶がある。

そんな服部先生に、圭司がしこたまビンタを喰らう。
前述の通り、県大会優勝の夢を絶たれ、ちょっとした鬱状態で腑抜けのような毎日を送っていた圭司。それを見かねた服部先生が、カツを入れたのだ。
それは、敗戦による圭司の無気力状態が続いて三日か四日経った、ある日の授業で勃発した。
その日の午前中最後の授業。課目は国語で、担当は勿論、服部先生。
最近の通例で、全くやる気の見られない圭司。
それに加えて、前夜の夜更かしの祟りで眠気が襲い掛かり、居眠りが始まってしまった。
それを見付けた服部先生、つかつかと圭司の席に歩み寄り、彼の詰襟の後ろ襟首をつまんで顔を上げさせた後、胸ぐらを掴んで大音声。
「いつまでもウジウジしとるな!この馬鹿たれが、いい加減、目え覚ませ‼。」
いきなりのビンタである。ビックリする圭司‼。本気で目が覚めた。
「一度や二度の負けで、クヨクヨしてどうする?」
「勝ちっ放しの人生なんてありえない。負けることでしか学びは無い。」
「若い内に負け知らずで成功した奴はいない、増長して必ず破滅。ろくな人生は送れない。」
「負けの回数が多い奴こそ、本当に強くなれる。」
「野球の三割打者じゃないけど、10回戦って3勝で大成功だと思え。」
「だから、負けを恐れず常に挑戦して行くことを忘れるな。」
大体そんな内容の話だったと思うが、その言葉が心に刺さり圭司は人目も憚らず大号泣。
服部先生、国語の先生だけあって、語彙が豊富で話し方に説得力があり、それにユーモアも加わるものだから、その授業は結構人気が有ったのだ。
そんな先生が、時として本気で叱るのだからその効果は絶大で、女子バレー部が県大会優勝を勝ち取ったのも、その叱咤激励が女子部員の心を掴んで、絶対的な結束力を生んだのが、最大の原因と言われていた。
そのカミナリ先生が、懇懇と説教して来るのだ。
圭司が涙することになったのも、無理はなかった。

実は、『此処の処の松山の無気力ぶりは、他の生徒に悪い影響を及ぼす。』と職員室でも話題になっていて、服部先生『ここは一つ気合を入れる必要あり』と、機会を窺ってたらしい。
そんな時に、授業中の居眠り。そこで、今回の事態決行と言う話になったのである。


       第十三話  最後の試合
 
そんな彼も何とか立ち直り、夏休みには後輩たちの新チームの練習を手伝うようになった。。
夏休み中の、名古屋タイムス主催・森永製菓協賛の中学生野球『エンゼル大会』にも出場。
その試合では、評判の大型左腕、大江中の水原投手との対戦を楽しむまでに回復していた。
結果は3打席で三遊間安打とショートライナー、1四球。
その試合は勝ったが、準決勝で敗退。相変わらず優勝には縁が無かった。
そうこうしている内に夏休みも終わり、二学期に。
例年通り、中学野球最後の大会、市民体育祭中学野球の部の試合が近付いてきた。
この大会の歴史は古いようで、名古屋市の中学では、この試合までは新チームではなくて、三年生中心のチームで、この大会終了後に新チーム結成、というのが主流のようである。
一方の鳴海中は、一昨年の名古屋市編入以来3回目の出場だが、勝っても上部大会がないと言う理由で、夏の大会終了後に新チーム結成という形を採っていて、三年生は、受験勉強の合間に新チームの練習を手伝いながらの引退記念試合、と言う位置付けでこの試合に参加するのが常となっていた。
そんな訳で、新チームの練習を手伝いながら、大会一週間前にちょこっとの全体練習でお茶を濁しての参加、出来るだけ多くの試合を楽しめれば好いと言う雰囲気での参戦だ。

そんな感じで挑んだ鳴海中。力が抜けたのが良かったのか、その底力を遺憾なく発揮して、あれよあれよという間に、決勝戦まで勝ち上がってしまった。
相手は、あの宿敵伊勢山中。今年の愛知県大会優勝校だ。
実は伊勢山中、この試合には並々ならぬ意気込みで臨んでいたのだ。
この話は、後に高校で同級生となる、このチームのエース近田哲也に聞いたものだが、
春の練習試合で大差負けした伊勢山中、それに激怒した監督の先生の指示で、以降一週間は一切ボールを持たせてもらえず、ひたすらランニングと言う練習を強いられたとのこと。
近田曰く、「ありゃあ、えらい目に遭ったでよー。陸上部以上で死ぬかと思ったがや!」
そして迎えた六月の名古屋市大会。〝打倒鳴海〟をモットーに猛練習に励んだのだが、肝心の相手・鳴海中がずっこけて対戦はならず、宿敵と戦うことなく優勝となってしまったのだ。
そんな訳で、この秋季市民大会決勝戦には必勝を期していたのだ。
しかも、県大会優勝校である。『絶対勝たねば!』の重圧もかなりあったのだろう。
試合は、春の練習試合と同様に、大差で鳴海中の完勝となってしまった。
雪辱の夢叶わなかった伊勢山中ナインは大泣き。春の鳴海中を見ているようだった。
一方鳴海中の選手は全員ニコニコ顔で、
『何でそんなに泣くんだ?遊びの引退記念大会だろ?』、
と相手チームの思った以上の落胆ぶりに、怪訝な表情を見せていた。

元々力のあった鳴海中。
それが優勝候補と言われて、がんじがらめの重圧に押しつぶされた春の名古屋市大会。
その立場が逆転し、同じ轍を踏む結果となった伊勢山中。
中学生と言えばまだ子供。勿論当事者は、そんなことは毛ほども思ってないが、心の持ち方の重要性を思い知る試合となった。
当時の鳴海中は、実績的にはこの優勝一つだが、個々の選手の能力は、中井先生の個性重視の教えのお陰もあってかなりの物、その年の三年生8人が、愛知・岐阜両県の私立高校へ、野球特待生として進学することになる。


第十四話  進路
       
 夏休みも終わり、そろそろ進路を決定しなければならない季節がやってきた。
圭司の松山家は、大黒柱の父・清八が漸く結核療養を終えて仕事に復活していた。
復職先は元のスター電機ではなく、終戦後に再会したもう一人の戦友、前田次郎が経営する建設会社〝前田組〟であった。この前田次郎、松山家の貧乏を作り出した張本人。
彼の借金の保証人になった所為で、父・松山清八は貧乏を余儀なくされたのである。
前の職場、スター電機の社長で戦友の坂口重利との出会いは偶然で、そのお陰で職にも付けて何とか家族も養って行けたのであるが、仕事の内容は本職の材木屋とは程遠く、忸怩たる思いでいたのだ。それに輪をかけての、結核療養で何となく戻り辛い雰囲気でもあった。
前田はと言うと、清八に借金の肩代わりをさせた上、彼を破産させた負い目があり、『何としても恩返しを。』と、臥薪嘗胆その機会を窺っていたのである。
漸く、自身が立ち上げた建設会社が軌道に乗り、清八への借金返済の目途が立った前田。
人を尽くして清八の居所を調べ上げ、彼が結核で療養中である病院を突き止めたのだった。
そして、涙の再会。父・清八の前田組への再就職は決定した。

そんな家庭事情で、私立の野球強豪校への進学など思いもよらぬ圭司は、近くの県立名南工業高校へでも行って野球を続けようかと考えていた。
昭和37年に新設された高校で、野球部としての実績は殆どないが、そこを強くして伝統を作ろうなどと言う野心を持っていた。
時々自転車で、練習も見に行っていたし、学力的にも全く問題のない高校である。

そんなある日、学校で掃除をしていると校内放送で、中井先生からの呼出しがあった。
職員室へ行くと、担任の角田先生から校長室へ行くように言われた。
校長室に行くと、校長・中井先生と対面するように二人の紳士がソファーに座っていた。
「こんにちは!」と圭司、いつも通りの大声での挨拶である。応えて、中井先生。
「こちらは名京の杉村先生と大学の滝山先生だ。わざわざお前に会いにお出でになった。」
そこにいた二人の紳士は、当時愛知県、否全国きっての野球名門校、名京商業監督・杉村文吉先生と、名京大監督・滝山正則先生のお二人であった。
先ず、杉村先生から声が掛かった。「おお、君が松山君か。実は君のプレー、グランドの陰から時々見とったんだ。近くで見ると結構大きいな。今、身長何センチだ?」
「176か7だと思います。」これが最初の会話だ。
滝山先生も続いた。「松山君こんにちは、杉村が君を見に行こうって言うんで付いてきたんだけど、鳴海中3年はもう引退して練習やっとらんらしいな?ちょっと残念だけど、君のプレーぶりは杉村からよう聞いとるで、こいつの目を信じとる。頑張ってくれよ!」
圭司は、こんな偉い先生二人に声を掛けられてドギマギするばかりで、「は、はい!?」
ここで、初めて中井先生の説明が入った。
「大方察しは付いとるかも知れんけど、実はお二人、お前を名京野球部に入れたいと言うことで、今日わざわざお出でになったんだ。どうだ、ビックリしたろう?」
それを受けて杉村先生、「何回か君のプレー見たけど、打つも守るも素晴らしいと思った。その中で、松山君としては何に一番自信ある?」と訊いてきた。
「それは肩です。実はピッチャーも練習してて、早めに負けてしまったので公式戦では投げてませんが、練習試合では結構投げてました。」
やはり投手は〝野球の花〟圭司即答である。中井先生が口を挟んできた。
「こいつ鉄砲肩だけどノーコンでねえ、杉村先生も見た事あってご存知かと思うけど、三塁から一塁へは素晴らしい球放るのに、マウンドに立つと中々思う所に行かず不安定極まりない。幸いうちには沢村と言う安定した左腕がいるので、そちらを優先して起用すると言う事になる訳だ。解かったか圭司。」先生、最後の方は怒り口調?
杉村先生、苦笑いしながらこう言った。
「分かりました。うちへ来てくれたらしっかり適性を見極めましょう。」
杉村先生、この夏休みに名古屋タイムス主催・森永製菓協賛の中学生野球『エンゼル大会』を観戦していて、圭司のプレーは確認していたのだ。
実はこの試合、相手の大江中には評判の左腕・水原則夫がいて、抽選で圭司が所属する鳴海中との対戦が決まり、二人が見たくて、わざわざ足を運んだという訳だ。
その試合で圭司は、水原投手の速球に対し三遊間ヒットと痛烈なショートライラ―を放ち、守備でも軽快な動きと強肩で、杉村先生には野手としての資質をアピールする事になる。
対する水原投手も、左腕から繰り出す速球は迫力満点で、類稀なる才能を充分発揮していた。
それを観た杉村先生、何としても二人を、投・打の主力として迎えたいと考えたのである。
そんな訳でその後、圭司が試合でマウンドに立つ事は、一度としてなかった。
そんな風に、和やかな雰囲気のうちに、その日の面談は終了した。
圭司の進路に付いては、後日、両親・担任を含めて相談という事になった。

その後日、圭司は両親と共に担任・角田、野球部・中井両先生との面談の為、中学を訪れた。
母は角田先生とは顔見知りであるが中井先生とは初めて、父は両方とも初対面であった。
お互いの自己紹介の後、通常の三者面談通りに角田先生から、圭司の学校での様子、学業成績等の話があり「普通に公立高校は大丈夫ですから安心して下さい。」と言うことであった。
そして、中井先生の話に移っていく。
「お父さんお母さん、今、圭司君の周りは大変なことになっとるんです。実は県内外の高校から野球の推薦入学の誘いがあって、その数は5校以上。どこに行っても学費免除の特待生です。主な所では、名古屋の名京商、央邦、商名大付属、城名大付属、岐阜県の名京高なんかがそうです。ここは一つ本人の希望も含めて、よーく相談して決めて下さい。」
父が応える。「初めて聞く話でビックリですわ。わしも若い頃は野球やってたけど、圭司に教えたこともないし、実際にやっとるとこ見たこともないで、訳分らんし信じられん。」
正直な気持であろう。
母も「名商と央邦以外は知らんとこばっかり。特に岐阜の名京て?」確かにややこしい。
当時の岐阜名京高校は1963年創立の新興私立高校で、愛知名京商業から枝分かれしての創設らしい。新興校故の宣伝対策として、野球に力を入れるという。
「先生は、正直何処がええと思います?」父は素直に訊いた。
「うちの学校からは、毎年央邦へ一人は行ってます。阪野、北角、林、、古賀と四年連続ですが、阪野、北角はレギュラーで、林は二年の控え捕手で甲子園行ってます。」と中井先生。
「それじゃあ央邦で決りですね。」と父。
ところが先生、否と言いだした。
「実は央邦の近藤先生、今年定年で監督交代らしいんです。その替りが、まだ大学出たての坂口って奴らしくて、海の物とも山の物とも分からなくて、ちょっと心配なんです。」
後に名将と謳われる、央邦高校・阪井慶二監督、デビュー前の話である。
「まあ、どっちにしても最後は圭司の意思次第。それを最優先させましょう。」
これが、中井先生の結論。
そこに集まった大人たちも皆『異議なし.!』であった。

圭司が一番悩んだのは、新興の岐阜・名京高校だ。
その条件が、鳴海中レギュラー全員の特待生待遇と、全寮制によるチーム強化策であった。
これは、圭司の心を掴み、最終結論に至るまでの大きな障害となって苦しめた。
今の仲間とまた一緒にやれる。噂によれば、ライバル校の伊勢山中からも何人か来るらしい。
その仲間と、新しい学校の伝統を作っていくのだ。
そんな高校生活を想像すると、堪らない高揚感に包まれて、ワクワクしてくるのだった。
しかし、よくよく考えてみると、授業料免除とは言え寮生活となると、それなりに生活費が掛かるのだ。
家賃・食費・光熱費等々。やはり今の松山家では、無理との判断に至った。
その点で、一番の安上がりは、名京商業であった。
頑張れば自転車での通学も可能。市営の路面電車を使えば、月300円の定期券で何回でも往復可能で、経済的には一番である。
その上、野球のレベルも他の高校とは段違いで、ほぼ毎年甲子園出場も成し遂げている。
但し、愛知県に限らず近県からの入部者も多数で、部員総数200人近くになるという。
その分レギュラー獲得の確率は低く、三年間一度も打席にもマウンドにも立てずに卒業する者も多数いるらしい。
あれこれ考えて、益々迷宮に入ってしまう圭司であった。
そんな時に役に立ったのは、彼の読書好きであった。
『新約聖書』マタイ伝第七章に「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。命に至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者少なし」とある。
これを思い出した圭司は、恐らく一番厳しい道であろう、名京商業への進学を選択した。
圭司、このフレーズを、卒業前に頼まれた色んな寄せ書きを書くときに使って、
女子から「松山君、カッコいい!」とか言われて、暫くは調子に乗っていたものである。

その後、他の野球部員の推薦入学が続々と決まっていった。
岐阜名京高校へは沢村・山口のバッテリーと3番打者荒木。商名大付属は副将阪本、城名大付属にはセンター阪野、大堂工業にセカンド横井、圭司と同じ名京商に一塁手大島である。

その年から、鳴海中から央邦高へのルートは暫く断ち切られることになった。

青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第二巻 【第二章】   つまかわ うじきよ

第二章 混沌の季節(カオスのとき) ―高校編―

第一話  入学試験と入学式

 明けて昭和41年2月、名京商業入学試験の日。
圭司は、緊張の面持ちで同校木造二階建て校舎の一室、窓際最後尾の席にいた。
受験番号順の着席で周りに知り合いもなく、目を瞑り腕組みをして試験を待っていた。
特に他意は無かったのだが、圭司の容貌とその態度が、云い様の無い威圧感を醸し出していたらしく、誰一人としてその近くに寄らず、話しかける者もなかった。
後に同級生の野球部員、伊能明の語るところによれば、
「メッチャ怖かった。ホント近寄り難い雰囲気で、ありゃ何処の番長だって思ったよ。」
その雰囲気佇まいが、後に災いをもたらすことになろうとは、その時は思いもよらずにいた。

当時の名京商、入試で不合格となる者は、ほぼ皆無であった。
学力面では県内でもかなりの低レベルに位置する男子校、素行の悪い輩も結構いて〝不良学校〟と呼ばれることもしばしばで、圭司の両親が心配したのは、そのことだけであった。
そんな訳で、試験に落ちるはずもなく、程なく合格通知が郵送されてきた。
入学手続きの日、圭司は鳴海中陸上部の小島政夫と連れ立って、高校の事務局を訪れた。
彼は、全国放送陸上愛知県大会二千㍍競走に出場し、県2位の成績での特待生入学だった。
小学校の頃、父の勤め先スター電機で一緒に剣道を習った、練習仲間の彼である。
一般入学生は、入学金等の支払いがある為、父兄同伴であるが、特待生はその必要がないので別の窓口での手続きであった。その後、校庭に出て野球部の練習を見学することにした。

校庭では、出場を決めていた春の選抜高校野球大会の為の練習が、佳境に入っていた。
圭司と小島は、バックネット裏で打撃練習を見守る杉村先生の所に、挨拶に出向いた。
「おう、よう来た、よう来た!」杉村先生、満面の笑みである。
「今日は入学手続きだな。君が大島君か?」小島を見て言った。
実は、一緒に入部する大島政雄と杉村先生は、未だ面識がなかったのだ。
大島は別の日に父兄同伴で手続きすることになっていたので、そのことを告げて、
「彼は、陸上部の小島政夫です。同じ中学で放送陸上2位です。」と紹介した。
先生「おう!陸上部の木下先生から聞いとるよ。ええ友だちがおって良かったな。
折角来たんだで、ゆっくり練習見て行けや。4月からは一緒にやるんだでよう。」
初めて目にする名門野球部の練習。先ず、その活気と部員数の多さに驚いた。
バッテイングケージ二つを並べての打撃練習。各守備位置に二人ずつ付いて、一塁側と三塁側からの絶え間ないノック。どれも新鮮だったが、それにも増して驚いたのが、一・三塁のファールグランドに並んで、大声を出している部員の数。ざっと見て50人以上?
ブルペンで投球練習している者もいて、未だ新入生も来てないのに百人近くの部員数だ。
『これは、大変な所に入ってしまった。もしかしたら三年間声出しだけ?』と圭司、心の声。
そんな不安を抱えながら、その日は帰宅。
暫くは、その練習風景が頭から離れず、憂鬱な日々を過ごす圭司であった。

そんなことはお構いなしに時は過ぎていき、あっと言う間に3月。
第38回、選抜高校野球大会が開幕した。
あれよ、あれよという間に勝ち進む、名京商業。
何と、七年ぶり4回目の選抜大会制覇を成し遂げてしまったのだ。
湧きかえる甲子園。母校も地元も大騒ぎである。

卒業式も終わり、入学まであと僅か。3月末まで毎日続けた犬の散歩のアルバイト。
その間、毎日のランニングと石井教室による素振りも欠かすことはなかった。
今日で最後という日、石井さんが圭司と荒木を呼び寄せて、袋を手渡した。
「今日まで一日も休まず、よう頑張ったな!ありがとう。これはボーナスだ。」
袋を開けて見ると、そこには玉澤製の硬式グローブ。「大事に使えよ。」と石井さん。
二人とも感動して、涙である。最後に石井家での食事。またもあの『絶品すき焼き』だった。

そして、いよいよ四月。入学式だ。
野球部の選抜優勝もあって、来賓も多く大いに賑わう会場。
新入生も、普通科7クラス商業科10クラスで総勢約1000人。大変なマンモス校である。
圭司は普通科A組。この学校唯一の進学クラスで、要は入学試験で上位50番に入ったのだ。
上位50番と言っても、レベルがレベルなので決して自慢にはならないが、『鶏口牛後』のことわざ通り、このまま三年間このクラスを維持して行こうと、圭司は心に誓った。
 
入学式後に野球部入部の手続き。とは言っても、他のクラブのように、特に勧誘とかある訳ではなく、マネージャーが『硬式野球部』という札を持って立っている場所に、希望者が集合するだけである。圭司は、その時初めて『軟式野球部』の存在を知ったのだった。
その時集まった人数は、何と128人。ビックリ仰天である。
そこには、伊勢山中の近藤、大江中の水谷、等々、顔見知りも何人かいて雑談も交わした。
皆、中学では実績充分な有名選手で、勿論、特待生である。

ここまでは、順風満帆な野球人生だったと言っていいだろう。
ここから、波乱万丈、紆余曲折、予測不能、奇想天外な日々が始まる。

青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第二巻

青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第二巻

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 青春の鼓動 ~僕たちの昭和~ 第二巻    つまかわ うじきよ
  2. 青春の鼓動 ~僕たちの昭和~  第二巻 【第二章】   つまかわ うじきよ