ファースト・エイド・スイート

古瀬 深早

ファースト・エイド・スイート

【01】

【01】

 どうしてこうなった。
 茫然としていた頭の中に、そう浮かび上がった。真っ白だった脳裏に、丸みを帯びたような太字のフォントで、ゆっくりと。
 文字はマシュマロみたいにふわふわしていて、見方によっては可愛くも思える。他のあらゆる要素の侵入を許さない、真っ白い世界に浮かび上がった、ふわふわとやわらかそうな一行。どうしてこうなった。
 その文字をぼうっと眺めながら、そういえば寒くない、と気が付いた。冬なのにおかしいな、という疑問がかすめて、電車の中だからだ、とまぬけな合点がいった。わたしの頭は現在不具合の真っ只中にある。

 いつ乗ったか覚えていないけれど、いつもの路線のいつもの車両、さらにだいたいいつもの席にわたしは腰を下ろしていた。
 斜め前の車内案内表示装置には、まもなく上石神井と表示されている。
 行動に間違いはなかったけれど、やはり西武新宿を出てからここまでの記憶はほとんど残っていなかった。

 数十分前に受けた衝撃で、心が遠くに飛ばされてしまっていた。それが、まだ完全に身体の中に戻ってきていなかった。幽体離脱みたいにわたしのまわりをふわふわとさまよって、どこから所定の位置に戻るべきかを伺っている。衝動的に家を飛び出してしまって、どんな顔して帰宅したらいいのかわからない中高生の頃の自分みたいに。

 どうしてこうなった。
 気持ちを手繰り寄せるように、頭の中でそう繰り返していた。
 あれ、本当にどうしてこうなったんだっけ。どこから、いつからこんなふうになってしまったんだっけ。さかのぼって考えようとしても、明確な答えは浮かんでこなかった。
 待って。実は全部、夢だったんじゃないかな。
 全力でそう思おうと試みたものの、手元に目を落としてそれが無謀な挑戦だと気づかされてしまう。
 毎年バレンタインにリクエストされていたガトーショコラは、つややかに真っ赤な紙袋に包まれたまま今もわたしの膝の上にある。知らず知らずに手がしがみついてしまっていたのかもしれない。握りしめていた場所だけ、持ち手の紐が細くなっている。爪には昨夜寝る前に塗った、偏光パールのたっぷり入った淡いラベンダーのネイルカラー。左手の人差し指だけうっかりよれてしまって、眠いのを我慢して一から塗りなおしたのに。

 ――そろそろ、(あゆみ)もこういう空気読めるようにならなきゃ。

 数十分前、大成(たいせい)はわたしのほうを向いてそう言った。新宿駅から少し歩いたところにある、ブルックリンスタイルの落ち着いたカフェの片隅で。困った人を大人びた気分であしらうような、そういう立場にいる自分を大いに楽しんでいるような表情だった。
 隣に座っていたのは、やはりSNSで出会った女性だったのだろうか。
 それにはまりこんでから一年、彼の言う『つながり』はずいぶん遠くのほうまで広がったらしいから、その中で出会った女性のひとりだったのかもしれない。この頃よく見る、個性派と呼ばれている女優に雰囲気がよく似た人だった。くせの強い服やアクセサリーもきっとうまく使いこなせてしまう、シンプルにあか抜けたような感じの。
 終始苦笑したような顔をした大成の隣に座っていた彼女は、意外にも気まずそうな顔をしていた。付き合うことになったばかりの男性に、実は学生時代から続いていて現在自然消滅待ちの相手がいたなんて知らされていなかったのかもしれない。そのうえ面倒な別れ話なしにその相手と『終わり』にしようと、自分といる現場に本人を呼び出すことにしたなんて思ってもいなかったんじゃないだろうか。

 大成はそのまま、わたしを諭すように続けた。
 自分の選んだ生き方をいつまでも認めてくれないわたしが重荷になっていたこと、説教じみた話はもう聞きたくないし、今は隣にいるふゆきちゃん(本名かは知らない)こそ自らの本当の理解者だと思っている、と。人間成長し続けていけばそれまで一緒だった人と意識の違いが生まれるのは致し方ないことだから、歩も俺のことで落ち込まずに前に進んで欲しい、俺の代わりなんてすぐに見つかるよ、と。

 彼の放つ言葉に何も言い返せないまま、わたしは気が遠くなったような気分で周りを見回していた。何が起きているのか理解できなかった。
 そう思いたくはないんだけれど、これはもしかして、引継ぎってやつではないだろうか。
 小雨が一日続いた、空がいやに暗い二月十四日だ。暖房と結露で窓が曇って、店の外の景色はほとんど見ることができなかった。
 長年の恋人だった人と彼の新しい彼女の放つ、耐え難い雰囲気から気持ちを遠ざけられるような何かも。


 まもなく西武柳沢、という文字に、再びはっとさせられる。何とか戻ってこられた、小さな頃からずっと住んでいる町だ。
 それまでただ身体が腰を下ろしている何かでしかなかった車内が、さらにわたしを現実に引き戻そうとする。車両の揺れや暖房によって温められた身体の感覚、誰かがつけすぎたらしい香水や、どこかの飲食店からついてきたお酒や香辛料の匂いで。
 いつものペースで減速していく電車の中で、降りなきゃ、と思う。降りて家に帰らなきゃ。そう自分に声をかける。
 そこらに散り散りになった気持ちをかき集め、わたしは何とか腰を上げた。

 ドアがひらいてすぐに、冷たい空気が頬をかすめた。大丈夫、まずはここまで戻って来られた。
 そんなことを思いながらも、ホームに降りるタイミングで父親ほどの年齢の男性と軽く肩がぶつかってしまった。大きな声で怒られてしまう流れだろうかと思ったものの、男性はわたしのほうを見て、短く、でも丁重な謝罪をしてくれた。
「失礼、ちょっとよろけてしまって。申し訳ない」
「いえ、こちらこそごめんなさい」
 思わぬ反応にびっくりしてしまったせいか、あまり声は通らなかった。早口になってしまったのも良くなかったかもしれない。
 わたしの声が聞こえたかわからないまま、男性は一度会釈をして慌てた様子で改札へと歩いて行ってしまった。
 拍子抜けしたような気分で、パスケースを取り出すためにコートのポケットに手を入れる。

「ぼうっとしてるから」

 叱られる代わりに、前方少し上からよく知った声が響いた。
 ああ、一緒の電車だったんだ。そう思いながら、顔を上げる。

 案の定、フードのついたウールのコートを羽織った兄がわたしのほうを見て笑っていた。
「いつ、一緒の電車だったって気づいたの」
「降りてからだよ。ていうか、なんでわざわざ改札から遠い車両に乗るの」
 スマートフォンを取り出しながら――わたしと違ってモバイルの定期券を使っている――兄に訊かれる。昔から、わたしが合理性より気分優先で行動しているのが気になって仕方ないらしい。はるか昔の夏休み、遊園地のプールから出た幼いわたしがタオルでお腹から身体を拭き始めた時からずっとだ。ぎょっとした顔をして、少年だった兄は慌てたように口をひらいた。それじゃ拭いても拭いても頭から雫がぼたぼた落ちるだろ、と。

 わたしが返事をしなかったことから、兄は何かを察したらしい。すばやくわたしの手元に視線をやって、ああ、という顔をした。
 大成とは一度会ったことがあったし、ここ一年の彼の変化についてもぽつぽつと話をしていたから、起きたことが想像できたのかもしれない。
「雨、止んでるな」
 兄は歩き出しながらわたしに言った。
 うん、と頷いた。

 兄は高校を卒業してすぐに家を出てしまったから、彼と一緒に暮らした記憶は正直なところあまりない。わたしは彼よりも十歳年下で、当時自分に最も甘かった人物がある日突然家からいなくなってしまったことに強い不服を感じていた。長い休みに帰省することはあったけれど、兄はいつも誰かから呼び出されてしまって家では長く過ごさなかった。
 音響家としてコンサートホールに勤めていた彼が、長く住んでいた倉敷からこちらに戻ってきたのは昨年のことだ。兄が家を出て行った年に八歳だったわたしは二十三になっていて、大人同士で再び始まった同居生活は慣れるまでどこかぎこちなかった。
 そういうきっかけはいくらでもあったはずなのに、兄は独身のまま三十路を迎えていた。職業柄というものでもあるのだろうか。性格はあの頃から大きく変わってはいなかったけれど、兄はずいぶんと雰囲気のある大人の男になっていた。

「それ、渡せなかったの?」
「うん」
 今日の出来事をせつせつと兄に訴えたいわけではなかったけれど、何が何でも隠したいという気持ちもない。色々なことを思い返しすぎないように気を付けながら頷く。
 兄は隣を歩きながら、わたしの言葉が続くか待っていたようだった。こんなことがあった、大変だったの、聞いてよお兄ちゃん、どう思う? みたいな一言を。話を進めても良いものか、ためらっているのが隣から伝わってくる。聞くべきか、それともこのまま、ふたり並んで家までの十二分間を黙々と歩き続けるか。

「会えなかったのか」
 兄は慎重に質問を重ねた。
「会えたけど――彼女が一緒だった」
 わたしも慎重に答えた。

 今度は兄が衝撃を受ける番だった。
 は、という音を口からもらしてから、いや、と焦ったように付け足している。

「彼女って――歩が彼女だろ。なんだっけ、あの偉そうな名前の」
「大成ね」
「それ。おまえが、そいつの彼女じゃなかったの?」
「いつの間にか、違ってたみたい」
 そう口にしながら、要約すれば本当にこれだけのことなんだな、と思った。

【02】

【02】

 大成は、二十一歳の時に付き合い初めた相手だった。夏の短期バイトで出会って、学生らしいデートを重ね、同じタイミングで社会人になった。多くの学生カップルに終焉をもたらすという就活から就職一年目の生活や心境の変化も、わたし達は何とか手を取り合ってやり過ごした。
 人の中で目立つような人物ではなかったけれど、大成はわたしにとってちょっと不思議な、面白いものを持った人だった。あっさりした付き合いをしている時はわからなかったけれど、落ち着いた場所でふたりで話をした時に、そう思った。普段は表には出さないけれど、考えていることや感じていること、ものを見る目が少し変わっているように思えた。自分とのあきらかな違いが面白いと思えた相手は、実は彼が初めてだった。新鮮だったのだ。
 中高と男子校の出身で、ずっと女子と話すのが苦手だったと言っていた。大学に入って初めて付き合った恋人とは、二週間で別れてしまったらしい。
 人のことを言えるほどの経験なんてわたしにもなかったけれど、それでもわたしは大成とする不慣れながらに一生懸命な恋が好きだった。
 精一杯で、互いにすごくわかりやすくて、どこか初々しくなってしまう自分達のことを気に入っていた。
 誰から羨ましがられるわけでもなく、憧れられるようなこともない、等身大で無理のないふたり。
 互いに浮気の心配をする必要もない、穏やかで自然な感じのふたり。
 そんな関係を彼と一緒に育んでいることに、あの頃のわたしは確かに満たされていた。


 これといってやりたいことがなかったという大成が「司法書士を目指そうと思う」と言い出したのは、二十三歳を迎えてすぐの頃だっただろうか。
 わたしは今も勤務している病院で医療秘書の仕事に就いていて、彼が挑戦したいと思える何かを見つけられたことに単純な喜びを感じていた。派遣の仕事をしながら資格の勉強を始めた大成が、情報収集と気晴らしを兼ねてあるSNSサークルのようなものに入ったことも、毎日が充実するのならそれは良いことだ、とのんきに考えていた。彼は新しい目標に対してとても前向きだったし、そういう彼の放つまっすぐさにわたしも心を打たれていたから。
 今思えば本当に自分の能天気さに呆れるけれど、わたしは資格取得を目標に歩き出した大成を見ながら、わたしも頑張ろう、なんて仕事への意欲を高めていたのだった。

 そのサークルに参加するようになって、三ヵ月くらいが過ぎた頃だろうか。
 大成がわたしといるときにため息をつくようになった。ふうう、と。
 わずかな、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな嘆息が一日に何度も続いた。

 仕事と勉強の両立は大変なのかもしれない。
 そう思って何も聞かずにいると、やがて彼は歩はいいよな、という台詞を繰り返すようになった。

 ――いいよなって、何が?
 ――生きていく上での疑問とか、あんまり感じてなさそうで。
 
 彼にそんな言い方をされたのは、あれが初めてだった。
 いいよな、と言いながらも、もちろん彼はわたしを本当に羨んでいたわけではなかった。あえて別の言葉にするのなら、愚鈍でいられて羨ましい、という感じだろうか。自分は楽観的な彼女とは違う、より優れた苦悩をひとつ抱えているのだとでも言いたげに見えた。

 ひどいな、と返した。その時は、まだ笑ってそう言えた。ひどいな、そんなにわたしお気楽に見えるの、と。軽い冗談にしておくことで、深刻な雰囲気になるのを避けようとしたのだ。
 わたしが彼の言ったことの真意を汲み取ろうとしなかったことで、大成は気分を損ねたみたいだった。
 やっぱりわからないよな、とか、そういうこと気にしないもんね、などと言いながらも、彼が静かに苛立っているのが伝わってきた。
 
 ――わたしのこと、何も悩みのない人間だって思ってるの?

 心外だったわたしは、彼にいつになくきつく尋ねた。
 大成はわたしの勢いに押されたようにいや、と言った。そういうわけじゃないけど、と口ごもる姿が物悲しかった。
 気まずい沈黙が続いた。
 何とも言えない空気が、ふたりのあいだに漂った。

 ――ねえ、言いたいことがあるならもうはっきり言ってよ。

 わたしがそう言った数秒後、意を決したように彼は顔を上げた。
 今日はこれだけは言わせてもらうと決めていたから言う。そんな顔をしていた。

 ――何かさ、歩って夢がないんだよね。人生に対して。
 ――俺が今繋がってる人達って、もっと、すごい意欲的な人ばっかりなんだよね。


 そこからは早かった。
 その後も、彼はSNSで順調につながりを増やしていた。現在資格取得に向けて邁進中、というプロフィールの下に、日々の行動を表す画像が次々と投稿された。多くのコメントがそこには寄せられ、そのほとんどは彼を応援する肯定的なものだった。
 それに励まされたのだろう。投稿する内容は、次第に彼の実生活から離れたものになっていくように見えた。彼の手を離れ、より華やかで大きな世界のほうに。あるところでは、

 あるところでは、よくある話なのかもしれない。
 頻繁にその手の集まりに顔を出すようになるにつれて、大成は以前よりも強い人格の持ち主になっていった。堂々としているように見えなくもなかったけれど、飲食店なんかで妙に横柄に振る舞うようになってしまったことには、正直なところ傷ついた。誰にでも謙虚な姿勢を崩さなかった人だったのに、と。彼の長所だと思っていたひとつが、見えない何かに奪われてしまったような気がした。
 ポジティブで前向きな、高揚を促されるような言葉を彼から浴びるように聞いた。
 付き合いが増えたぶん、デートは質素になった。
 それまで彼の部屋に続けて通うことなんてなかったのに、去年の夏くらいからは大成の部屋に呼ばれるばかりになった。
 もちろん、そこですることも毎回同じだった。

 そろそろ夏が終わると思えるような、日曜の昼下がりだっただろうか。
 うすくあかるくなった西日に満ちた、彼の部屋にふたりでいた。

 昼食を済ませると、前の晩あまり寝ていなかったらしい大成は横になってうつらうつらとし始めた。
 小さな寝息が部屋に響くようになってから、わたしは彼が学生時代から愛用していた机の前に立った。

 勉強するのをやめてしまっても、わたしなら気づかないと思っていたのだろうか。
 机の端に積まれた数冊の書籍とノート、クリアのペンケースの中にしまっていた筆記用具の位置はもう長いこと変わっていなかった。やらなければと思いながらも手が伸びないのか、それとももう、彼にとっての目標は別の何かになってしまったのか。
 勉強道具はうすく埃すらかぶっているのに、彼のSNSには今の勉強がいかにやりがいのある挑戦的なワークなのか、熱い言葉で綴られていた。


 これが最後になるのだろうと、恒例のガトーショコラ作りには時間も手間も惜しまなかった。
 毎年この季節になると今年も楽しみだよとねだってくれたあの人、最初のバレンタインでどんなものが欲しいかさりげなく尋ねたわたしに「手作りのほうが絶対にいい」と嬉しそうに言い切ったあの人は、もういないのかもしれないけれど。そんなふうに思いながら、わたしは材料を混ぜ合わせてオーブンを温めた。
 もういないどころか、今日の大成は次の相手を無邪気にわたしに紹介しながら、わたしにもっと向上心を持ったほうがいいよと促した。
 彼の弁舌がなめらかになっていくのに反して、ふゆきちゃんの表情はゆっくりと曇っていった。もうやめなよ、という意味を込めたような動きで、大成の腕にそっと細い指を重ねたりもした。
 良心が咎めているのかな、と思った。違うかもしれないけれど、もしもそうならちょっとだけ救われる、と。
 当人は彼女の手の意味をはき違えて、この子はこんなに自分のことを思ってくれる相手なんだとわたしに繰り返していたけれど。

【03】

【03】

「スマホ出せ。呼び出す」
 暗がりで、兄は言った。怒りは確かに感じていたようだけれど、冷静さは失っていなかった。
 昔からこうなのだ。何に対しても匙加減が巧みで、そこに多くの女の子がやられてきた。

「いいよ。本当に、力が抜けちゃったから」
「だって、そいつおかしいよ」
「わたしもそう思うけど、もうどうにもできそうにないもん」
 自分のしたいことと出会えないまま時間ばかりが進んでしまうことに、学生時代の大成は焦っていた。焦りながらも、彼なりにずっと最善を探していた。
 たぶん、それを加速させる何かに出会ってしまっただけなのだ。
 近い将来、彼がこれだと思える次の何かに出会うことだってあるだろうし、そのあたりのことはもうわたしは気にしていない。あの高まった意識で世界を救うために旅立つのも、征服に乗り出すのも彼の自由だって思う。彼がわたしと一緒にいた場所から遠く離れてしまったこと、その終わらせ方があまりにひどすぎて、きれいなままにできたはずの思い出すらぐしゃぐしゃになってしまったことが、悲しいだけで。

 彼が興奮するような大きな夢も野心もなかったけれど、わたしにだって大事にしたいものがあった。
 ちっぽけでささやかで、でも失いたくなかったもの。
 あの、毎日心をすり下ろしてくるような失敗と屈辱続きの就活の中で、わたしはそれが壊れてしまわないようにいつも慎重だった。彼に連絡する前は、スマートフォンを手にするたびに深呼吸を繰り返した。
 うっかり泣き出さないように、つらい思いがあふれて、恋人に八つ当たりしてしまわないように。
 大事な人との関係を心の余裕のなさによって壊してしまわないよう、あの頃のわたしはばかみたいに慎重で、一生懸命だった。


 兄は、もうわたしにスマートフォンを出させようとはしなかった。わたしが泣き出したのに気付いたからだ。
 歩は泣いているのがわからないくらい無音ではたはた泣くな、と家族に言われ続けていたけれど、今回もそうだった。わたしの涙は、蛇口をひねったようにするすると頬から顎へと流れ落ちていく。

 兄はわたしの肩に手を置いて、チョコレート食おう、と言った。
 言いながらも、慌てたようにポケットから小さな包みを取り出している。リボンでぎゅっと縛られた透明な袋の中に、いくつかのチョコレートが入っているのがぼんやりと見える。

「全員にくれたんだよ、所長が。ほら、音符ので可愛くない?」
 兄はわたしをあやすように、そのチョコレートを目の前で揺らした。
 街灯の光で、色のついたホイルに包まれたチョコレートはきらきらと光っている。
 頬を拭って、わたしは頷いた。うん。
 兄はいつもの調子で、透明な袋の中からチョコレートを取り出している。
 四種類あるよ、と暗がりで目を凝らして、裏面に書かれた味をひとつひとつわたしに読み上げてくれる。


「気分的には、ビター?」
 兄が思いのほか真剣に訊くので、ちょっとおかしくなった。
「甘ったれたいから、ミルク」
 鼻声で答えた。
 ビターなんて、今日あったことだけで充分だ。ほろ苦いなんてものじゃない、すごく滑稽で痛々しい一日だった。
「了解」
 兄は力強く頷いた。ミルクチョコレートを引っ張り出しながら、わたしを励まそうとする。しょうもない男の相手で疲れたんだよ。これからどうやって生きていくのか知らねえけど、まあ大したやつじゃないって、と。

 はい、という声と共に、クリーム色のホイルに包まれたチョコレートが手渡された。
 八分音符のかたちだ。海外製なのか、妙にリアルな顔がついていて機嫌よさげにウィンクしている。

 はたの部分のホイルを剥いて、口に入れた。唇で、ぱきんと折る。
 とろけそうに甘い、正真正銘のミルクチョコレートだ。悲惨な気分をなだめるように、強烈な甘味が脳にまで沁みていく。吹き飛べ疲労。ついでに今日まで幾度となく見せられた、あの人のなんかいやな表情も。
 十年後くらいに、大成は今日のことを思い出したりするだろうか。して欲しいな。それで若き日の自分の青臭さに居た堪れない気分になって、変な声をあげながら頭を抱えたりして欲しい。あの調子じゃ、なさそうだけれど。
 今日持ち帰ったガトーショコラは、兄が気を利かせて引き取ってくれるだろう。どうせあちこちから貰ってくるだろうと、いつかのわたしがチョコレートをあげるのを辞めようとした時に言ったみたいに。
 いや、くれよ。妹からのチョコレート、欲しいよ。

 美味しい、と言いながら、わたしは兄を見上げた。
 雨上がりの二月の夜、日中よりも冷え込んだ空気の中で吐息が白く変わる。

 兄がほっとしたような声で、そうか、と言った。

(了)

ファースト・エイド・スイート

ファースト・エイド・スイート

意識が斜め上に高くなってしまったあの人とわたしの、最後のバレンタイン。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-23

Copyrighted
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  1. 【01】
  2. 【02】
  3. 【03】