夏の陥穽

古瀬 深早

夏の陥穽

【01】

【01】

 嘉倉(かくら)さんが亡くなったと知ったのは、調べものをしているときに偶然そのページに辿りついてしまったのがきっかけだった。
 昔読んだ本の出版元が知りたくなって、あやふやな記憶のままにタイトルをネットで検索したのだ。自分の好みだけではおそらく選ぶことがなかった、学生時代に課題として与えられたアルゼンチンの小説だった。南米では有名な文学賞を受賞したとかで、日本語版はごく少ない部数で発行されたはずだ。
 無事に目当ての情報を見つけ出したところで、関連情報の項目に見覚えのある地名があった。
 そうだ、この物語の舞台になった場所だと思い出して、わたしはしばらくそこからつながるラテンアメリカ文学の情報を拾い集めていた。

 ふと、ページの先に懐かしい名前を見つけた。あ、という声が自分の口からもれる。
 こんなページが作られるほどの人だったんだ、と失礼にも思ってしまった。確かに彼はあの界隈では少し名の知れた人だったけれど、その仕事の仕方はどちらかと言えば職人的で、表にはあまり出ないような存在だった気がする。

 名前のリンクをクリックする直前に、いくつになったんだろう、と思った。
 あの頃の彼は四十を迎えたところで、離婚してひとりで古いマンションに住んでいた。
 日当たりがいやに良い部屋で、大きな窓から入る夏の日差しを葦簀(よしず)が重く遮っていた。

 ひらかれたページを見て、わたしは思わず息を呑んでいた。
 そこに表示された名前の後ろに、彼が昨年の九月にこの世を去ったと綴られていたからだ。
 二十年近く前のあの夏が、突然目前に迫ってきたような気がした。

【02】

【02】

 ビニールプールの匂いがする、と言ったつもりだった。
「なに?」
「ビニールプール」
 腕をいっぱいに伸ばしながら、そう答えた。

 嘉倉さんの部屋で、彼の足元にしゃがみこんでいた。いただいた桃があるから出してあげると彼が腰を上げようとした瞬間に、机の脚に爪先が当たって机上の万年筆が転がり落ちたのだ。
 互いに苦笑しながら、わたし達は揃って落ちた筆記具の行先を追った。
 思いのほか奥のほうにまで転がっていってしまったので、わたしが拾いますと彼の足元にもぐり込んだのだった。


 そこに腰をかがめた瞬間に、真新しいビニールのような匂いが鼻先に届いた。
 室内は三十度に届くところで、外ではじりじりとした光が窓枠や外壁を灼いている。感覚が身体の中で混ざり合って、遠い昔の幼児用ビニールプールを思い出してしまった。
 今日みたいなひどく暑い日、実家の庭先に母が用意してくれた。ハイビスカスと何種類かのフルーツが描かれていて、詰められた空気に膨らんだ淵には弾かれた水滴がまあるく光っていた。
 熱帯魚が端のほうに描かれた、水色のホルターネックの女児用水着とビーチサンダル。

 わたしに見上げられながら、彼は何かに気が付いたようにわずかに眉を上げた。
「非常階段の屋根を張り替えたらしいから、それかな」
 古い四階建ての賃貸マンションだ。エレベーターはない。非常階段を覆っていたベージュのビニール屋根は建築時からそのままのようで、わたしがここを初めて訪ねた日にはすでにそこかしこがほつれてやぶれていた。

 きっとそれですね、と答えながら、わたしはようやく手が届いた彼の万年筆を拾い上げる。
 机の下に身体を半分ほど入れていたから、後ずさるようにしないと這い出ることができない。嘉倉さんは椅子をわずかに後ろに下げてくれたものの、まだいつもの場所に腰を下ろしていた。
「はい」
 立ち上がってからにすれば良かったかもしれない、と思いながらも、彼の膝がすぐ目の前にある状態でそれを手渡した。
 今日はワンピースを着てきてしまったから、はしたなく見えるような姿勢のままで長くいたくなかった。
「ありがとう」
 彼の骨ばってかわいた手のひらに乗せると、嘉倉さんはそれを再び机の上に戻した。想像していたよりも軽い、小さく放るような動きと音が伝わってきた。
 それが次の動作を急ぐためのものだと知ったのは、再びあいた彼の手がわたしの頭上にそっと降ってきたからだ。

 机の下からゆっくりと身体を抜いて、立ち上がろうとしたわたしを彼がそっと制した。
 まだすべきことが終わっていない、とでも言いたげに、彼の重い視線がわたしを捉える。

(みなと)ちゃん」

 嘉倉さんの声はいつもわずかに掠れている。昔譲ってもらった古いバイオリンについていた弓毛を思い出す。水分も油分も抜けきった、枯れてしまったようなクリーム色の細い馬毛の束。レッスンに通うところまでそれに興味を持つことがなかったわたしは、あれが演奏に適した状態のものなのか、それとも長く手入れされていないがゆえのすがたなのか知ることもなかった。
 黙っていると、わたしのものとは大きく違う、直線だけでできたような右の手がわたしの肩に降りてくる。
 力が入っているわけでもないのに、わたしは促されるように彼の足のあいだに身体を寄せてしまう。
 下を向いているせいで、彼の目を半分ほど前髪が落ちて隠している。

「いいですよ」

 わたしは彼を見上げながらそう返事して、目の前にある脚の右膝のあたりにもたれかかって頭を預ける。

 嘉倉さんは四十代を迎えたばかりの男性で、今は結婚していない。
 この古いマンションで、もう長く一人で暮らしている。わたしの通っている学校の講師の友人にあたる人だ。
 ライターや編集者、広報や広告デザイナーなどを育成する専門学校で、マスコミ学の講師から名前を聞いたのが最初だったはずだ。
 浅学のわたしは嘉倉さんのことをまるで知らなくて、そういう人がいるのだ、ということを教室の端でぼんやりと思っただけだった。卒業後は地元に帰るつもりだったし、いわゆる業界人同士の付き合いや交流にもわたしは関心がなかった。他のクラスメイトのように誰かへの紹介や人脈目当てに講師の仕事についていくこともなかったし、当然、そこから派生するような人間関係にも熱心にはなれなかった。
 前向きさも若々しい野心を持つこともなく、淡々と課題をこなし、好きな小説や映画の世界に潜り込んでいた。

 その後、一度だけ特別講師としてやってきた嘉倉さんの話を聞いた。
 教壇に立った彼を見て、枯れ木みたいな男の人だ、と思ったのを覚えている。



 男の足元、という場所に腰を下ろせば、自然とひとつの力関係が出来てしまうものなのかもしれない。
 あるいは、そういう錯覚が生まれやすくなる。

 わたしは彼の右足を抱いて、自らの上半身をそれにぴたりと合わせている。
 彼の下肢はしんと冷えていて、わたしの上半身はじんわりと熱い。本来の意味とは異なるけれど、煩熱という言葉があまりにしっくりきてしまう。健康な身体の放つ、持て余すような煩わしい熱。わたしが少しでも手放してしまいたいそれを必要とする人がいるのは都合の良いことだ、と遠いような気持ちで思う。
 わたしの腕に抱きしめられた嘉倉さんの足は、やはり驚くほど細い。骨の上に纏った薄い筋肉に、贅肉はほとんどついていない。膝の頭はごつごつとしていて、頬を寄せるとそのかたちがよくわかる。

 わかりますか、と尋ねると、彼は頭上で頷いた。わたしの頭に手を置いて、髪に指を這わせている。飼い猫を可愛がるみたいに。
 ゆっくりと重いその動きの中に何か物狂おしげなものがあるような気がして、わたしはその場から動けなくなってしまう。
 逃げ出したいような衝動と、彼の膝や腿に身をすり寄せたい気持ちで揺れ動きながら、そのどちらも選ぶことができない。

「温かいな」
「涼しいところに、長くいたんですか」
「仕事でね」
 今日はこんなに暑いのに、まだ彼の脚の芯は冷えたままだ。

 酷暑の中、暗く光の遮られた部屋の床に腰を下ろし、わたしは自分よりも一回り以上年上の男の脚を抱きしめている。暑さが苦手で逃げ回っているうちに日焼けするきっかけをすっかり失った、自分でも生白いと思う腕や、他の場所よりも幾分冷たく感じられるような胸元で、彼が欲しいと願うものを差し出している。
 外で鳴く蝉の声や、生ぬるい風に葦簀が叩く建具の音が近づいたり遠ざかったりする。
 扇風機が空気を揺らす、茹だるような、このまま昏倒してしまいたくなるような暑さだ。


 先天的な異変が仙椎の周囲にあるということが、出生時にはもうわかっていたのだそうだ。
 この年齢になるまでに手術を三回受けていて、ここ七年は安定しているらしい。それでも時にいくつかの神経症状が出てしまうとかで、嘉倉さんはよく杖を持ち歩いている。いつも暗い色のシャツを着ていて、ストレートの黒いパンツをはいている。
 悪い日は、小さな痺れと麻痺が右足に出るのだそうだ。それが最も不快な症状らしく、そういう日の彼はいつも通りに見えてわずかに不機嫌だ。他人にはわからないように押し込めて隠してしまうけれど。

 自分を慕う若い女をつい呼び出したくなるのは、その苛立ちを受け止めて欲しいからかもしれない。
 彼がそういう相手を見つけることに、苦労したことはおそらくない。

 彼の皮膚はいつも乾いていて、色は平均よりも少し暗い。青みがかっているせいか、妙な透明感のようなものも感じさせる。ものすごく薄く淹れたコーヒーみたいな色。近づいてその中で何が起きているのかつい確かめてしまいたくなるような、渋みのある肌だ。表情は落ち着いていて、放つ雰囲気には少し影がある。
 太ることができない身体なのだと言う嘉倉さんは、二十歳の頃から体型がほとんど変わっていないらしい。少年じみた身体の線、老人みたいな静けさを持つ肌、それから不自由さからくる苛立ちが培った、普段は見えない男っぽい気性の荒さ。

 彼に身を寄せてじっとしていると、玄関でかたんという音がした。
「おと――」
「杖が倒れただけ」
 そう囁いて、彼はするっとわたしの首元を指先でくすぐった。


 たった一度きり、教室の隅でぼうっと彼の話を聞いていただけのわたしのことをよく覚えていたと思う。
 彼が講義に訪れた二週間後、学校の近くにある店で偶然顔を合わせたとき、わたしは会釈をしようか迷ったくらいだったのに。

 君は、という掠れた低い声が耳に届いた瞬間、突然胸のあたりの空気が薄くなってしまった気がした。
 じわじわと耳の中に入ってきた声にわたしがぞくりとしたのを、嘉倉さんは気づいたのかもしれない。
 すっと引くように彼の視線が冷たくなるのを感じて、わたしはそこから立ち去りたくなった。駆け引きの気配だ。している本人にすら自覚があるのかわからない、身体が勝手に始めてしまったはかりごと。

 数秒後、きっと彼はわたしとのあいだに起きている反応を確信した。そのくせ、表情を崩すことなくわたしに語りかけた。あの授業はどうだったか、わかりにくい部分はなかったか、何か目標があってあのクラスを選んでいたのか。
 わたしはそれに、正直に答えた。
 彼はわたしの話を思いのほか真剣に聞いてくれた。そういうふりをしているようには到底思えないくらいに、親身だった。
 そして彼は、わたしが関心を持ちそうな書籍をその場で数点挙げた。わたしは携帯電話を取り出して、メモ機能にそれを急いで打ち込んだ。二つ折りの、シンプルな赤い携帯電話。

 彼はわたしがそれを保存するのを確認しながら、図書館や古本屋にもなかったら連絡してとつづけた。
 斜めに提げた鞄の一番外側のポケットに手を入れて、名刺ケースを取り出す。
 嘉倉朗、と小さな字で書かれたプライベート用らしい名刺には、彼の自宅住所と電話番号が記されていた。

 ああ、落とし穴だ、と思った。
 先に待っていることが何なのか、簡単に予想できる落とし穴。

 わたしはそれを、ほんの少しだけよそよそしい態度で受け取った。
 彼はそれに気が付かないふりをして、次の予定があるからとそこを去って行った。



 しゃがむという動作が苦手なのだろう。腰の周辺に負担がかかるし、立ち上がるのにも力が要る。嘉倉さんの大きな机の下に物が落ちていることは少なくない。
 机の脚の部分に、きらきらと光る淡い紫色が見えた。
 アメジストだろうか、ここからの角度から全体のかたちはつかめないけれど、指輪ではなさそうだ。

「ピアス、落ちてますよ。紫の」
 実際はイヤリングか、あるいはペンダントトップかもしれない。適当なことを言っていると自分でもわかったけれど、嘉倉さんからどんな答が聞けるのか、わたしは期待した。
「ピアス?」
「忘れ物か、落とし物?」
「君のじゃないの?」
「わたし夏は地肌に金属つけないです。荒れるから」
 のらりくらりとした返答に、わたしもどこかぼうっとしたような気持ちで答える。
 この部屋を訪れる女が自分だけじゃないことくらい、わたしだってわかっている。わかっているし、それを止めて欲しいなんてことも思っていない。そんなことを主張できるほど、わたしは彼にとって近い存在じゃない。わたし達が重なり合っている部分なんて、わずかな、あるいはかけらになるような小さな部分だけだ。

「荒れるって?」
 頭上で彼が尋ねた。
「湿疹みたいな」
「アレルギーか。純度の高い、上等なのなら平気じゃない?」
「そこまで裕福じゃないです。学生ですよ」
 おかしくなって言い返す。それに、そこまでわたしは装飾品に対して熱心な性格じゃない。
「誰かにねだるとか、もらうって発想がないのが君らしいなあ」
 のんびりと答えながらも、嘉倉さんの指先は相変わらずわたしの髪や耳元をゆらゆらとくすぐっている。
 言い返したい気持ちがないわけでもなかったけれど、それ以上のことは追及しないことにした。
 そういうことを話す相手じゃないし、話題としてつまらない。

 やがて、わたしの体温を吸うようにして嘉倉さんの脚が温まってくる。
 わたしだけではないのだろう。あのアメジストのアクセサリーの持ち主の持つ熱も、この脚は同じように味わっているのかもしれない。そう考えると、机の影に隠れるように、わずかな埃をまとったその石が何かこちらに訴えてきているように見えてしまう。
 同じ落とし穴に落ちた女同士の、暗号みたいなものに。

「湊ちゃん?」

 わたしの沈黙を、彼は取り違えたらしい。気を悪くしたのかと、若干機嫌を取るような声音になる。わたしが彼とのあいだにあるあらゆる事情を本当に割り切って受け容れているのか、時折心配になるようだ。わたしがこの距離を無理に縮めたり広げたり、そういうことをしてくるのを避けたいのだろう。この人は全部わかってやっている。今みたいなこと。
「嘉倉さんの脚がひんやりしてるから、眠くなって」
 彼の膝のあたりに頭を預けながら答えた。
 主がそうさせるような何かを持っているのか、この部屋にいると別のことを考えただけで気が遠くなる気がする。
 わたしの返答に、彼はほっとしたみたいだった。

 彼が仕事ぶりや社会的な地位を他人に認められたい気分のときに呼ぶのは、わたしじゃない。彼の好む難解で知的な映画や小説の話で盛り上がったり、憧れとか期待の感情を浴びるのに疲れてしまったときも、たぶんもっとふさわしい誰かがすでにいる。これから現れるとかじゃなくて、現時点で。
 ――こんなに思い通りの世界を自分の周囲に作れるのなら、別にわたしを必要とすることなんてないんじゃないだろうか。
 何度かこの部屋に通って、互いの身体も知ってしまった仲になった後にそう思った。わたしは彼の人間関係の中で異色の存在だっただろうし、そう思えるくらいには空っぽの人間だったから。
 意欲とか情熱とか専門性、そういうものを当たり前に持っているような人々に彼は囲まれていた。
 わたしのような、若いだけの人間と長く関係を続ける人物には見えなかったのだ。

 彼の身体にとってあまり適切ではない行為なのだろうと思いながら交わした情事は、やはり暗い世界にわたしを連れて行った。
 彼の一方的な欲望に押し切られるようなものではなかった。それどころか、嘉倉さんは最中に何度もわたしと目を合わせようとした。わたしの身体を壊れ物みたいに扱い、感情や感覚の行方を追おうとした。どこか脆いような、繊細な時間だった。
 感情を交わそうとしたことが、何より意外だった。相手に簡単に気を許したりしない、隙のない雰囲気を想像していたからだ。
 すっぽりと、閉じ込められてしまった。
 そう思うような、暖かな暗がりだった。深く暗い場所を持つ男の人の甘さは、そこに入った誰かを引き留められるように特別に甘くできているのかもしれない。そう思った。
 それを受け取り味わいながらも、わたしは彼との関係をはなからほんのひとときのものだと思い込んでいた。片手にも満たない逢瀬、気軽な遊び相手として選ばれただけだろう、と。
 わたしは彼に引っかかってしまったたくさんの女性のひとり、それも何だか決め手に欠けるような、簡単に遊んで楽しい思いをしたらそれで充分、それでおしまい。そう思われているような。

 そんな関係を前提にして声をかけられたと思ったわたしが深入りする前にと彼の世界から出ていこうとすると、嘉倉さんはものすごく驚いたみたいだった。
 想像もしなかった、彼のたじろぐ様子にわたしまで妙な気分になった。この人にこんな顔をさせるような要素を、自分にまるで感じなかったからだ。それとも彼は自分自身に驚いたのだろうか。しばらくは自分に夢中にさせておけると思っていた小娘が、あっさりとそこから出ていこうとするなんて思っていなかったのかもしれない。

 どちらにせよ、あの瞬間にわたしはそこから出ていく機会を逃したのだと思う。
 それからずるずると、嘉倉さんと過ごしている。長患いみたいに。
 自分を一番の相手にしてとも強く願えず、他の誰かと彼を奪い合うほどの気力も沸かずに。

「上がってきて」
 そう言われて、わたしは彼の脚から手を離す。
 膝立ちになり彼の両足のあいだで両腕を広げると、嘉倉さんはわたしを抱きとめるようにして自分の胸元まで引っ張りあげてくれる。

 まだ何か言いたげな彼に、わたしは目で尋ねる。
 彼はそれに答えずに、わたしの頬に手を添えて身を屈めた。

【03】

【03】

 終わりのきっかけは、些細なことだった。
 外で彼といるときに、他の女性が彼に声をかけてきた。本当にそれだけ。

 彼を呼び止めたその女性は、仕事の関係者のようだった。嘉倉さんとそう年が変わらない、濃紺のパンツスーツ姿の女性だった。陽気な雰囲気の持ち主だった。
 嘉倉さんに気があるひとりだったのかもしれない。その人には、わたし達が男女として一緒にいるようには見えていないみたいだった。一時間前は彼の部屋で肌を寄せ合っていたこと、くたくたになった身体で食事に出たことも、当然想像もしていないみたいに見えた。

 偶然そこで会ったことへの驚きから始まり、女性は彼にこの近所に住んでいるのか、先日の集まりに出てくれなかったのはどうしてかなどと尋ねた。
 話しながら、女性は少しずつ彼のほうに身を寄せていった。
 まるで最初から彼は自分の連れだったというふうに、その場の空気から彼女は自然にわたしを弾き出そうとしていた。
 わたしがどこか圧倒された気分になって身を後ろに下げると、女性の話しぶりはさらに強くあかるくなった。
 そして彼の視界に入らないところで、彼女の手はわたしの視線を払いのけるような動きをして見せた。
 入ってこないで、とでも言いたげに、腰のあたりで、まるで野良猫でも追い払うみたいに、一度だけ。

 嘉倉さんは早々に会話を切り上げたがったけれど、彼女は次から次へと話題を変えていき、気づけばそこでの立ち話は十分を過ぎていた。
 長話になったことに気づいた女性は、自らの口に手を当てて驚いたように彼に言った。やだすみません、久しぶりに会えたから話し過ぎちゃって、と。
 そこでやっと、思い出したように彼女はわたしのほうを見た。そして、嘉倉さんに教えを乞うなんて勉強熱心な学生さんね、と付け加えた。

 その言葉と目の表情に揶揄するような響きを感じた瞬間、わたしの中で何かがすっと冷めてしまった。
 目が覚めたのかもしれないし、差し向けられた感情に気分が萎えてしまったのかもしれない。
 わたしは別れの挨拶を交わす彼らの少し後ろで、ぼうっとした気持ちで街路樹を見上げていた。
 夏とはすっかり色の変わった、あれはたぶんプラタナスの樹だったはずだ。


 彼からの電話には出たけれど、試験が近いからとか友達が失恋したからなどと答えてわたしはあの部屋に行かなくなった。それを繰り返すと、嘉倉さんも察したようにわたしを誘うのをやめた。
 最後の電話だけは、少し苦しげだった。君もそう暇じゃないよな、と言いながら、彼は電話のむこうで苦く笑っていた。

 しばらくしてから、一度だけ学校の廊下でマスコミ学の講師に呼び止められた。
 嘉倉と知り合いだったのか、という質問をされて、あの講義の後に古書店で偶然会って色々教わりましたと答えた。最近はその店に行っていないので、しばらくお会いしていません、とも。
 講師は片方の眉を一度わずかに持ち上げたけれど、それ以上は何も言わなかった。むこうからわたしに向かって歩いてきたクラスメイトのおかげかもしれない。名前を呼びながら手を振ってくれたおかげで、空気が変わった。
 ――伊瀬地さん、前回のレポート良かったから次も頑張って。
 付け足すようにそう言って、嘉倉さんの友人であるその講師はテキストを抱えた姿で自らのデスクに向かって行ってしまった。



 彼のフルネームで、わたしはネットを検索してみる。
 知人らしい人の書いたブログの記事を見つけて、恐る恐る、それをひらいてみる。

 そこには、嘉倉さんが数年前から患っていた病の悪化が原因で亡くなったこと、彼のしてきたあらゆる仕事への賛辞、友人としての彼への哀悼の言葉が短い文章で綴られていた。少しだけユーモアを混ぜたように、再婚すれば良かったのに、と続いているのを見て、彼があれからもひとりだったことを知った。
 没年から生年を引いてみる。五十九歳。
 六十になる頃には車椅子生活になっているかもしれない、と言っていた嘉倉さんが、その後どういう人生を送ったのかわたしは知らない。長く付き合った恋人や、彼の生活を支えてくれるような家族や友人はいただろうか。
 器用に遊び慣れているようで、嘉倉さんはどこか生真面目で自信なさげだった。本来そういう生き方に向いていない人だったのかもしれない。わたしに引け目を感じるようなことなんて何ひとつないはずなのに、彼は飄々としたポーズの裏でいつもわたしの動向を気にしていた。
 わたしだけじゃない、もしかしたらあの部屋で彼の脚を抱いた女性のすべてに。
 断られることに怯えながら、甘いものをねだる子供みたいだった人。


 わたしが彼の部屋に通っていたのは、そう長い期間じゃなかった。
 彼の身体が行為を許さない日でも、彼はわたしに触れるのが好きだった。わたしもきっと、同じだった。終わりのこないその時間は、始まればいつも長かった。
 あの人とどうしたかったのか、どうなりたかったのか。今でもよくわからない。
 ひとまわり以上年の離れた、うやむやに繋がっていた仲だ。ひどくだらしない、そしてたぶん、世の中のどこにだってあるもの。

 ひとかけらくらいは、切実なものもあったと思う。
 それでも、享楽的で、ずるいだけの男女だった。


 あの落とし穴から抜け出したわたしは、その後も変わらず同じような日々を過ごし、学校を卒業して地元に帰った。就職先で出会った男性と、三年付き合って結婚した。よく笑う、いつも元気であかるい人だ。
 小学生の娘がひとりいる。すぐ裏に大きな公園があるマンションの四階、自宅の一室でライターの仕事をしている。夏の強い日差しを遮るあかるい色のカーテン、それからエアコンのついた、小さく快適な仕事部屋を持っている。


 葦簀に光を遮られた、じわりと汗の浮く部屋の記憶はもう遠い。
 それなのに、目を閉じた中に彼の姿を浮かび上がらせるのはひどく簡単だった。
 しがみつくのも躊躇した、あの痩せた肩。色の暗い肌、あの人の匂い。
   
 嘉倉さんの杖の倒れる音を思い出した。


(了)

夏の陥穽

夏の陥穽

調べものをしているときに知ったその訃報は、遠い昔に関係を持った年上男性のものだった。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-08-23

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  1. 【01】
  2. 【02】
  3. 【03】