敬久王随
Ⅰ.素性の知れない金
1.
ふたりが出会ったのは四年前の夏でした。
随が十六、敬が十九のときです。
ふたりは工場で夜勤をしていました。
随は歳をふたつ偽っていました。
「なぜ働いてるの」
「金が要るからさ」
敬ははじめ、とても警戒心のつよい人でした。
工場の夜勤なんてろくな奴がいないと悟ってしまったからです。
「お前こそ。なんでこんな所にいんの」
「なんとなく」
随はその頃から穏やかに笑う人でした。
赤みがかった瞳をして、下唇の端に縫った跡がありました。
「お前高校生?」
「うん」
「夏休み?」
「うん」
「夜勤なんてやめとけよ。体壊すぞ」
敬は弟のことを思い出していました。
「馬鹿になるから。早く寝ろ」
「うん」
随はすこしうれしくなりました。
「ありがとう」
うれしくて、敬にお礼を言いました。
次の日、随は来ませんでした。
敬はよかったと思いました。
育ち盛りに夜勤なんていけません
辞めて正解です。
でもすこし寂しい気もしました。
パチンコも風俗もしない彼には話し相手がいませんでした。
次の日もこなくて、次の日は休みで、その次の日、随は来ました。
「お前、辞めてなかったのかよ」
「うん」
随は申し訳なさそうにうなずきました。
「来週から日勤だよ」
「交代制かよ!」
敬はびっくりしました。
夜勤よりもっといけません
確実に体を壊します。
「夏休みだけだよ」
随は笑っていました。
「なんでそんなに働くんだよ」
「金が要るから」
随は敬の真似をして、とてもやさしく答えました。
夏の終り
随は敬に四百万渡しました。
パンを買うともらえるような茶色の紙袋に、お札をいっぱい詰めてくれます。
「弟さんの学費に」
「受け取れないよ、こんな」
敬はかすかに首をふりました。
「素性の知れない金」
素性の知れないと言われて、随は思わず微笑みました。
素性の知れた、いいとこ育ちの金があったら、どんなに綺麗なことでしょう。
「お前が貯めたの」
「遺産もあるよ」
「父親を殺した?」
敬は悪い噂を聞いていました。
随には父親殺しの前科があると
「殺したら遺産はもらえないよ」
随は笑っていました。
「普通ならね」
紙袋は随の腕の中で、肉まんみたいに膨らんで温かそうでした。
「返せないよ、こんなに」
「返さなくていいよ」
随はそれをやさしく敬におしつけて去ってしまいました。
派遣の制服に名札はなくて、ふたりはまだ互いの名を知りませんでした。
2.
「Kっていうんだ。なら敬だね」
警や計と呼ばれたことはあっても、敬と呼ばれたのは初めての気がしました。
敬はその名を気に入りました。
「うん」
うなずいて、自分の名にします。
随は派遣会社の用意した小さな寮に住んでいました。
事務のお姉さんを口説いてこっそり履歴書を見せてもらった敬は、随に会いに行ったのです。
随は中学を一度変っていました。
出ても出なくてもいいような高校を出たことにしていました。
「とにかくお前の金は使えないけど、お前の金を運用して得た利子は使わせてもらうから」
結局使ってる気がして、随はくすりと笑いました。
敬は几帳面で、いい人そうに思います。
「元本は取っておくんだね」
「何かあったら困るからな」
「人質だね」
「金質だ」
普通口座に預けるなら、四百万は敬の生活費と一緒になって出し入れされるでしょう。
寂しい金が敬の口座で、少しでも役に立てばいいと思います。
「どうやって殺したの」
敬はペプシをお土産に、随に渡しました。
「判例に出てるよ」
随はペットボトルの口をあけずに黙って持っています。
「飲まないの」
「炭酸苦手なんだ」
敬は贈り物を取り返すと、口をあけて飲みました。
「百選に出てる? 古本で買うわ」
「百選? には出てないかもしれない」
そんな百本の指に入るような事件ではないように思います。
「十二のときだから、四年前だね」
随はその事件が我ながらよくわからなくて、後から裁判記録を読みました。
新聞やテレビの報道もいろいろ読みました。
「親父が斬りかかってきたから俺も斬り返した気がするけど、定かじゃないんだ」
「何だよそれ」
「凶器の包丁は俺が持ってて……倒れてた」
他に武器なんて無かった気がします。
自分がひとりで父を殺したのだろうか。
「警察の人が、お前がやったんだろって言うから」
「それ子どもにもやるのかよ」
「きつくないんだ。やさしく、言い聞かせるように言うから、そんな気がしてきて。そうかもしれないって言った」
「裁判になったのか」
「うん」
随は全然悲しそうじゃありませんでした。
嬉しそうでもなくて、人ごとのように話します。
「無罪になったのか」
「証拠不十分、みたいな感じかな」
「凶器を持ってたのに?」
「親父に斬られた時の傷があってさ。けっこう深かったから、正当防衛だろうって」
現場は凄いものでした。
血まみれの父と子を後から帰った母が見つけて、通報しました。
他に犯人がいるんじゃないかと捜査も行われました。
でも指紋は父子のものしかなく、随も自分がやったというので、何となくそんな判決に落ち着いたのでした。
「母親は」
「妹と暮してるよ」
随は施設で育ちました。
当然の気がしました。
随の殺した父親は母の再婚相手で、妹の実父だけれども、随には義父でした。
実父を奪った兄と暮らすことは妹によくないと随も思います。
「施設に気の毒な人がいてさ」
随はつぶやくように言いました。
「いいなあ、どうやって殺したのって、目を輝かせながらきくんだよ。俺もいつかあいつを殺すんだって、だから教えてほしいって、せがむんだ」
敬は普通じゃないと思いました。
随の瞳は夕暮れみたいにあたたかです。
「殴られたことより、何も反撃できなかったことがすごく悔しいって。大きくなった後も、父親の前に出ると足がすくんで身を守ろうとする、そういう奴隷根性みたいのが本当に嫌なんだって。だから絶対に殺すんだって。解放されるんだって、言ってた」
「気の毒だな」
他人だったらよかったのにと敬は思いました。
悲しい、寂しい出会いです。
「殺し方教えたの」
「練習はしたけど」
随は照れてちょっと笑いました。
「行くときは連絡してって頼んであるんだ。一応止めようと思うから」
「連絡なんてこないよ」
敬は願っていました。
「殺したくなる頃には爺さん呆けて、何もかも忘れてるよ」
「忘れられたらいいのにね」
随も願っていました。
「許せなくても、忘れられたらいいのに」
随の髪は短くて、色素の薄い自然な茶色をしていました。
Ⅱ.本当の王さま
3.
随は今は日勤をして、2LDKの部屋に住んでいました。
敬が見つけてくれた部屋です。
「本当にありがとう」
随は心から礼を言いました。
「俺みたいな奴に部屋貸してくれる人いないから。本当に助かるよ」
「四百万の担保があるからな」
敬は笑って言いました。
「夜逃げされても元は取れるさ」
部屋は高台にあって、三階だけど星が見えます。
「もう会えないと思ってたよ」
随はしみじみ言いました。
「どうして」
「本当のことを言ったら、離れてく人が多いから」
仕方ないと思いました。
過去だけ聞いても、面倒くさそうな人間に思えます。
「一時の四百万より毎月の家賃よ」
敬は二十三になっていました。
紺色の縦縞スーツを着て、法律事務所で働いています。
「お金、ありがとうございました」
敬の弟は久といいました。
浅黒い肌に刈り上げた黒髪がよく似合います。
きつい目をしているけれど、とても礼儀正しい人でした。
「いえ、こちらこそ」
随は丁寧に頭を下げて
そういえばまだ顔洗ってなかった
寝すぎてぼんやりした頭でそう思い出すのでした。
「大学楽しい?」
「まあ、それなりです」
「たくさん遊んでね」
友だち作って、のびのび過せたらいいと思います。
「早く公務員になれよ」
「兄貴がなれよ」
「俺はいいんだよ」
兄は弟を公務員にしたくて仕方ないようでした。
親ですら諦めていた弟の進学を推し進めたのもこの兄です。
自分では多額の奨学金を借りながら、弟には借金をさせませんでした。
敬が金のやりくりに困ったとき、何も言わずに貸してくれたのは随でした。
「金の切れ目が縁の切れ目だね」
随は笑って言いました。
「お前が働けなくなったら生活保護で搾り取らせてもらうから安心しろ。久も公務員になるし」
「市役所なんか行かねえわ」
「国家総合は激務だぞお前」
「警察か消防。事務は御免だ」
「そんな所行って虐められんじゃねえの」
「殴るぞ」
随は笑って聞いていました。
兄弟って楽しそうと思います。
「またね」
敬は今月の家賃を徴収すると、弟と連れ立って帰って行きました。
随が笑顔で見送ります。
「金返さなくていいの」
「あんなもん、なくても同じさ」
弟と二人きりになると、敬は眼鏡を直して、冷めた調子で言いました。
「今日去ってもいいようなロッカーの使い方をするんだよ、随って。部屋もそう。生活感があるようで、思い出を感じさせる品はほとんど持ってない」
四百万もほとんど無意味だと敬は思いました。
最初からくれる気だったのです。
四百万は餞別でした。
敬がそれを大事に持ってるだけなのです。
「アドレス消せばすぐだよ。縁なんてすぐ切れる」
久は随のことをもう少し知りたい気がしました。
兄の友だちじゃなく、自分も友だちになってみたい
兄から電話番号をききました。
「土日休みだけど違う週もあるから。あまり邪魔すんなよ」
随がそばにいない時の敬は、いつも冷静で打算的でした。
4.
随は168cm身長がありました。
敬久兄弟は170を優に超えています。
随の友だちにもうひとり、180超えの長身を持つ王という青年がいました。
長めの髪を麦色に染めて、美容師の資格を持っています。
王は優しい青年で、目があうとにっこり笑いました。
母の経営する美容室で、予約客だけに鋏を振るいました。
「随さん」
「はい」
王は敬の中学の後輩でした。
三つ下なので被りはしませんでしたが
王はよく随の家に入り浸っていました。
合鍵を持っていて、随が帰る前から家にいたりして、よく敬に怒られています。
「煙草要る?」
「アメスピの1ミリで」
「あとマルメン8のボックスを2カートン」
王は二万円出しました。
「年齢確認できる物をお持ちですか」
きかれてちょっと得意げに免許証を見せます。
この前二十歳になったばかりなのです。
「お客様は」
どちらかというといつも要求されるのは随の方でした。
随も慣れた手つきで保険証を見せました。
「免許取らないの」
「取らないとね」
同い年なのにさん付けする王でした。
そのくせ誰より遠慮ない態度でくつろぎます。
居間にある白いソファを気に入っていました。
「ゲームしようか」
「うん」
ふたりで腹ばいになって、夜遅くまで遊ぶこともありました。
王は優しく母思いの青年でしたが、ひとつ悪癖がありました。
随が家のドアを開けると、すでに人がいる場合があります。
王の靴の横に華奢な女物の靴があります。
随はひやっとして、開けたドアをそっと閉めることがありました。
自分の家なのに帰れなくて、夜遅く敬の部屋をたずねて、片隅に寝かせてもらったこともありました。
「お前人んちを何だと思ってんだよ。ドン引きだわ」
敬は心から怒りました。
随が告げ口したことはありません。
敬は王のそういう癖を知っていたのです。
「遠慮することないのに」
王は屈託なく笑いました。
「三人で遊ぼうよ」
「そういう問題じゃねえんだよ」
敬はすこし呆れています。
王は無邪気で随には怖いほどでした。
「ごめん、ちょっとハードル高すぎるわ」
まだ免許も持ってない彼には、そういう遊びは難しすぎるように思われました。
5.
王は随が女を避けていると気づいていました。
三人で遊ぶというのは冗談だけど、女にもいろいろいるから、気の合う人と付き合えばいいと優しく思います。
随は切腹を間違ったかと思われるほど深い傷を左わき腹に持っていました。
浅い傷もいくつかあって、海水浴に行きづらいレベルです。
「すごいね」
王は思わず傷の軌跡を目で追いました。
「薬キメてる感じ」
「そうだね」
随は微笑しました。
「父は治療薬を飲んでたんだ。でも用法用量は守ってた」
王は鏡越しに随の傷を見ています。
「よく使われてる薬で、父も常用してた。だからあの日だけ急な発作が起こるとは考えにくい」
人気薬に危険な副作用があるかのように報道されたら、困る人もたくさんいるだろうと王は思いました。
随が犯罪者にされても、困るのは随だけです。
「モテると思うよ、そういう身体」
王は真顔で言いました。
「気にすることない」
人の過去を侮辱する女を、王が連れてくることはありません。
「ありがとう」
王に太鼓判を押されて、随はすこし照れました。
王って本当の王さまみたい
いつになく真剣な顔つきで画面に向かってるなと思うと、人のパソコンに美女の太もも画像を厳選保存している、そういう女に対して大真面目なところが王にはありました。
Ⅲ.前世の夢
6.
随の家には大きめのベッドがありました。
部屋を借りるとき、お古でもらったものです。
とても寝心地のいいベッドで、薄くて軽い羽根布団にくるまると、ぐっすり眠ることができました。
随はここで眠るのが大好きで、王がたまに泊りにくるのも、このベッドが好きだからかなと思うほどでした。
「よかったら持ってく?」
随は王にきいてみました。
長身の王の方がこのベッドに似合う気がします。
「いや、いい」
王は即座に首を振りました。
「これはここにないと意味ないから」
随の家をたびたび利用する王にはそれが大事のようでした。
「女連れこみたいなら一人暮らししろよ」
「家賃もったいないじゃん」
「だからって人んち使う奴があるか」
「やけに怒るね」
王は笑って敬を見ました。
「愛ちゃんと何かあったの」
敬は先日結婚して、愛という美人の妻を持っています。
「関係ねえわ」
「図星だね」
王はふふと笑いました。
「あんないいベッド譲って。大丈夫?」
「何が」
「新婚生活がさ」
「飽きたんだと」
「もう飽きられたの?」
「馬鹿。ベッドにだよ」
敬は王の肩をこづきました。
「もっとスプリングのきいた奴がほしいんだとさ」
王はふうんとうなずきましたが
「俺はあのベッドの方が好きだけどね」
それだけは譲れないという口調で話します。
「くどいようだが、あの部屋もベッドもお前のじゃねえから」
「わかってるよ。俺らのでしょ」
「全然わかってないな」
「女と寝たベッド人に譲ってんの?」
「現在進行形で使ってるお前に言われたくないわ」
「俺は綺麗に使ってるから」
「俺が汚いみたいな言い方やめてほしいんだけど」
随は思わず苦笑しました。
先行く敬に王が合わせて、ふたりはどこまでも仲がよさそうです。
よくあんな会話ができるな
こんな街中で
久はすこし離れて、随と並んで歩いていました。
随はいつものように穏やかな顔でくつろいでいます。
呼んでもらったけれど、随は式には出ませんでした。
一生に一度の晴れ舞台だから
特に新婦さんにとっては
何かあるといけないので
申し訳ないけど辞退します。
敬は怒ることはありませんでした。
むしろ優しかったくらいで
「馬鹿だな」
ため息をつくと遊びに誘ってくれました。
親しい友だちだけで祝いなおす、早い話が飲み会でした。
7.
「おめでとうございます」
「ありがとう」
随はビールを注ぎました。
敬が謹んで受けます。
小さな居酒屋だけど飯は悪くないようでした。
王はビール片手に、久は飲めないので飯中心で、ぱくぱく食べています。
喫煙組は風下の席をもらって、でも随は吸いませんでした。
人前ではあまり吸わないたちで、乾杯を済ませると、のんびり冷酒をなめています。
「敬ちゃん支払いは」
「俺の祝いなんだからお前が払えよ」
「俺三千円しか持ってないよ」
「お前さっきゲーセンでかなり使っただろ」
「俺が払おうか」
随は寝ぼけ眼で財布を探しました。
始めて一時間もたってないのに、すぐ酔ってしまいます。
「随さんこっちですよ財布」
「ありがとう久くん」
「本当弱いね」
「つまみ食わないからな、こいつ」
敬は軽くため息をついて、随が札を出すのを止めました。
「俺がまとめて払うよ。ポイントたまるし」
「せけえ。弁護士とは思えないよ」
「弁護士じゃねえよ。ただの事務員」
「何とか書士だろ」
「事務員さ」
弁護士への憧れは薄れていました。
どちらかというと、実務家より研究者になりたかった
事務所のボスは優秀でした。
国際離婚と親権が今の主な仕事範囲です。
「もらった金使った?」
「あんなの生活費にもならない」
随が寝てしまったのをいいことに、敬は本音を吐きました。
「贅沢だね」
随は寝ながら久の側に傾いて、久は黙って兄を見ています。
「愛ちゃん元気?」
「会わないのか」
「会わないよ。理由がないもの」
王は何杯もビールを飲んで、けれどちっとも酔いませんでした。
宴もたけなわというのに、損な体質です。
「いくつの時別れた」
「四つかな」
「それからずっと?」
「親は会ってるみたいだけどね」
不思議な離婚でした。
年子の姉と弟は、父と母に分かたれ、十数年親同士は付かず離れずでありながら、姉と弟は何となく疎遠でした。
「学生時代から付き合ってる女と結婚する奴なんて本当にいるんだね。都市伝説かと思ってた」
王は笑って話題を変えました。
「私も。受け入れてくれるとは思ってなかった」
そのとき個室のふすまがするりと開いて、ゆるく波打つ長髪の愛がそっと姿を見せました。
「こんばんは、愛ちゃん」
「こんばんは、王さん」
ふたりは互いの名を呼んで、しばらく見つめあいました。
染めた髪も瞳の色も、よく似通ったふたりです。
「旦那のお迎え? こき使われてんだ」
「帰る途中だから」
愛は車で来ていました。
「悪いな。主賓が寝ちまうから」
敬が目で示すとおり、随はすっかり寝入って隣の久に寄りかかっています。
「この人が随さん」
愛は近づいて、随の顔をそっと見つめました。
「痛そうね」
下唇の傷に指をのばして静かな寝息にふれると、遠慮して、そっと手を引きました。
「ほら。帰るよ」
王と久に抱えられて、随はぼんやり起きました。
「ありがとう」
両脇を固められ、車で家まで連行されます。
家の鍵は敬が開けてくれました。
「おやすみなさい」
王に支えられてベッドに入ると、随は安心して眠りました。
8.
横腹を斬られたときたくさんの血が出て、随は長くICUに入っていました。
輸血にはRh-の血が必要でした。
あまりにも大量の血が入れ替わったので、一度死んで生まれ変わったような気がしました。
目がさめた時そばにいたのは、父でも母でもなく、若い警察の人でした。
ん……
随は夢を見ていました。
古い昔の夢です。
飲むとたまにこういう夢を見ることがありました。
皆そばにいて
前世の夢のようでした。
「随さん」
揺らされて、随はゆっくり起きました。
「久くん」
目の前には、王ではなく久がいます。
随はすこしわからなくて、軽く頭を振りました。
「お話したいことがあります。夜また来てもいいですか」
「はい」
久は七時前に起こしてくれました。
「学校大丈夫?」
「昼からです」
「早起きだね」
バイクで来たのかなと思いました。
結構遠いのに
「よかったら使って下さい」
随は乱れを直して寝床を貸しました。
授業まで時間があるなら、二度寝したほうがいいと思います。
着替えて顔を洗って、久のおかげで随はいつもどおりの時間に出勤できました。
帰りがすこし遅くなりそうなので、久にメッセージを入れました。
「お疲れさまです」
「待たせてごめんね」
八時頃ラーメンを食べて、ふたり一緒に帰りました。
「ミネラルウォーターしかなくて」
途中自販機で飲み物を買います。
家について灯りをつけて、ふたりはソファに座りました。
久はまっすぐ前を向いて、久がひとりで来たのは初めての気がしました。
「俺は、兄はあなたを利用してると思います」
久は静かに話し出しました。
「四年前家には借金がありました。兄はそれを返そうと働き始めて、そこにあなたがいた。この家もそうです。祖父母の家だったのを売れなくて困ってたところにちょうどあなたが来て、貸した」
随は水が好きでした。
ぬるくなっても飲めるからです。
被害者が加害者を作るという言葉を思い出していました。
被害者がもっと強くて賢かったら
犯罪を未然に防げたら
誰も傷つかないのに
「四百万はとっくに使ったんです。もう返せない」
久は申し訳なさそうでした。
「兄は人を使うのが上手い人間です。もし兄がこれからもあなたを利用しようとするなら、俺は」
そこまで言って久は黙りました。
何と言ったらいいのか
「お兄さん想いですね」
随はまぶしいものを見るように、目を細めて笑いました。
「あの金は俺には、持ってるのも使うのもつらい金でした。あなたの兄さんに使ってもらえたら助かると思った。俺もあなたの兄さんを利用したと思います」
随は姿勢を正すと隣の久を見つめました。
「俺のしたことがあなたやお兄さんを傷つけたなら、本当にすみませんでした」
深く頭を下げました。
俺が親父に斬られずに
止めることだけできてたら
誰も悲しまずにすんだかもしれない
何万回も考えていました
もう無駄なのに
「俺がここに居ないほうがいいなら、出ていきます」
引越し先のあてはありませんでした。
保証人なしOKの物件をまた探さなくてはなりません。
「いえ、そういう意味じゃないんです」
久は強く打ち消しました。
「ここには好きなだけいてください。ただ兄には注意してほしいんです。悪人じゃないけど、利口な人だから。あなたが不利益にならないように」
「ありがとう」
誠実な人だと思って随は礼を言いました。
「俺は皆と会えてすごく楽しいよ。今が一番幸せです」
それは本心でした。
今まであまり自分に近寄ってくれる人がいませんでした。
これが詐欺なら
一生騙されていたい
久は一礼して帰っていきました。
周りの人を傷つけないように
役に立てるように
楽しくやっていけたらいいと、随は思っていました。
Ⅳ.リプレイを
9.
久が帰宅すると、珍しく兄の敬が実家に来ていました。
「おかえり」
ドアを開けて迎えてくれます。
「あいつに会った?」
「ああ」
久は上着を脱ぎました。
敬は砂糖なしのミルクコーヒーを淹れてくれます。
「あいつ何だって」
「別に」
久はしばらく黙ると
「今が一番幸せだって」
小さく言いました。
衝撃でした
この程度が幸せなんて
「そう」
敬はすこし黙ると
「あいつ本当気持ち悪いよな。病気なんじゃね」
小さく笑いました。
久が思わず睨み上げると、敬はいつになく残念そうな沈んだ顔で、前を見つめていました。
「俺はさ、あいつが可哀想だと思うよ。自分自身にすごく粗末に扱われてるあいつがさ」
もっと自分を大切にすればいいのに。
権利を主張して争えばいいのに。
敬は悔しい気がしました。
随自身が思ってるほど随の価値は低くないと思います。
「もっと強くてしたたかな奴ならほっとくんだけどさ」
敬にはそういう友だちが何人もいました。
そういう人間を評価してもいます。
「本当に、病気ならいいのにな」
いつか治る病気ならいいのに。
敬は眼鏡をかけると車のキーをとりました。
「おやすみ」
十時過ぎなのに随の家に寄ると
「俺が家賃を取りにくる間は永久に居ていいから」
来月の家賃を徴収して帰りました。
10.
妹から連絡があって、随は会いに行きました。
八年ぶりでした。
妹は十六になっていました。
背が高くて、すこし義父に似ていました。
「久しぶり」
「元気?」
「まあ」
「嘘つき」
妹はカバンを放って座りました。
「かばったんでしょ、お母さんを」
妹はコーラを飲みました。
「お母さんは後から帰ったんじゃない。最初から家にいた。お父さんはお母さんを殺そうとしてた。お兄ちゃんはそれをかばった」
「なぜそう思う」
随はアイスコーヒーを飲みました。
「お母さんから聞いたの」
妹はストローで氷をつつきました。
「施設って楽しかった?」
「別に」
「ご飯美味しいんでしょ」
「普通だよ」
「でも私よりマシだと思うな」
妹は下を向いていました。
「お母さん、不倫してたんだよ」
随は息を止めました。
「お母さん不倫してたの。お父さんはそれで怒った。すごく凶暴だったでしょ? 薬のせいなんかじゃない。ものすごく怒ってただけ」
嘘みたいでした。
今作った嘘みたい
そんなこと考えたことありませんでした。
頭が真っ白になります。
「その人お母さんが好きなわけじゃなかったの。娘が目当てだった。なのにお兄ちゃんはお父さんを死なせていなくなっちゃってさ。ずるいよふたりとも、お母さんお母さんって。私のことはちっとも守ってくれない」
「賄」
随は思わず立ち上がりました。
「お前……」
母さえいればいいと思っていました。
娘には母が必要だから
母さえいればいいと信じていました。
だから俺がかばって
「嘘だよ」
妹は兄を見つめて、はじめてすこし笑いました。
「すごくいい人だよ。不倫してたけど。お母さんや私をすごく大切にしてくれるよ。お金持ってるし」
随はかたんと椅子に座り直しました。
妹は兄に心配されて満足そうです。
でもすこし寂しそうでした。
持っていたスマホを無意識にいじりました。
「すまなかった」
「何が? お父さんは悪くなかったから?」
「うん」
悪いから刺したわけではありませんでした。
向かってきたから戦ったのです。
手加減できるような相手ではありませんでした。
力がつよくて
必死でした。
「腹が立ったからって刃物振り回すのは犯罪だよ。お兄ちゃんは悪くない」
「でも殺すことはなかった」
「そうだね」
妹は寂しそうでした。
「死んじゃうことなかったよね。お兄ちゃんを傷つけて、罪を負わせてさ。馬鹿みたい」
妹はスマホばかりいじって、コーラの氷は溶けかけていました。
「弟が生まれたんだよ。小さくて可愛いの。いやなこと全部忘れさせてくれるよ。今のお父さん、いい人でさ。私がいると邪魔みたい」
妹はばいばいと手を振りました。
電話番号を教えてくれます。
随も小さく手を振りました。
「お母さんには、お兄ちゃんのお父さんも、私のお父さんも、もう要らないね」
寂しそうに笑う声だけが、長く耳に残りました。
11.
「生きてたんだな、親父さん」
前来たゲーセンに随は来ていました。
クレーンでぬいぐるみを狙います。
「裁判までは、生きてた」
「うん」
随はボタンを押しました。
クレーンの先がぬいぐるみに引っかかりますが、持ち上げるとすぐ外れてしまいます。
二度くり返してお金がなくなりました。
もう一度お金を入れて
リプレイを
「飛び降りたのか」
「首吊りだよ」
随の目は動きませんでした。
「鬱で。気づけなかった」
「あの金は遺産か」
「うん。手切れ金」
ゲームに負けて、随はゆっくりこちらを見ました。
「本当に、すまない」
涙も出ないほど、かすれた声でした。
「裁判記録、読んだんだ」
敬は怒ってはいませんでした。
眼鏡の奥の瞳も、静かなまま
裁判の焦点は殺意の有無でした。
なぜ斬りかかったかについて、義父はかたくなに黙していました。
「かばわないんだな、息子を」
「許せなかったんだよ、俺が」
「どうして?」
「裏切り者を、かばったから」
選択肢はない気がしました。
当時もないし、今も
選択肢なんてあった試しがありませんでした。
「母さん不倫してたんだってさ。その人と今は幸せで、子どももいるんだって。よかったよね」
随はすこし笑いました。
馬鹿らしい気がして
でも救った人が幸せならすこしは意味があったかなと思いました。
亡くなった義父が一番可哀想だと思いました。
「なぜ黙ってた?」
「父が、黙ってたから」
不倫されたことを知られたくなかったんだろうと随は思いました。
鬱で働けなくて養われて不倫されて、法廷で晒されて、記録を取られたくなかった。
母親はそれを見抜いていたなと敬は思いました。
だから嘘をついた
父子だけの争いに見せかけるために。
「いいのか」
母になれば許されるなどと、敬は思っていませんでした。
「お前に罪をきせようとしたんだぞ」
「俺なら」
随は冷めていました。
「十二なら、たいした罪にならないから」
頭いいよね
少し笑います。
随は誰も殺していなかった
母を助けようとしただけなのに
その母親が、自分をかばって傷ついた息子に全ての罪をなすりつけ、何食わぬ顔で、帰ってきたらこうなっていましたって
通報して、離婚して再婚して、今は幸せに暮らしています、だって?
ぜったいに許さない
敬は誓いました。
でも随がいいというなら、これ以上は追わない
今は
「謎はすべて解けちゃったね」
随は寂しそうに笑いました。
「つまらなかった」
調べてみたら死にぞこないの、ただの間抜けな男です。
「これ以上悲劇は起こらないと思うよ」
敬は約束しました。
「これからは楽しく暮そう」
「うん」
随は笑って、新婚さんを駅まで送ってあげました。
Ⅴ.地下鉄じゃあるまいし
12.
「父は弱い人だったの。病気をして働けなくなった。ずっとお母さんが養ってくれたの」
賄は美容院に来ていました。
賄は随の妹です。
「私はお母さんの子じゃないの。父の連れ子だから。お母さんは他人の私も養ってくれた。不倫相手は会社の上司」
王は鋏を動かしました。
毛先をそろえるだけのカット
「今のお父さんいい人だよ。お母さんもいい人」
「そう」
施術はすぐ終ってしまいました。
王は鋏を仕舞います。
「乗り換えばかりだね」
王は自分のことを棚に上げていました。
地下鉄じゃあるまいし
言い訳は聞きたくありませんでした。
王は随の味方です。
「私たちが不幸になれば、お兄ちゃんは幸せかな」
「どうして?」
答えられずに、賄は鏡の中の自分を見ました。
「そういう人間だと思ってるの」
「そうじゃないけど」
私立女子高生の目には、今の兄は不幸に見えるようです。
「今幸せならそれでいいんじゃない」
随とは関係ないと王は思いました。
関わらないでほしい
「死んだお父さんが可哀想かと思って」
「復讐したきゃすればいい」
王は客に人気がありました。
やさしく笑うから
「君一人で」
王は鏡を持って、後ろ姿を見せてあげました。
「どうですか」
仕上がりは丁寧で、賄は金を払ってお礼を言いました。
13.
朝の、ラッシュを避けた時間帯でした。
「ちっちか」
鋭い声がして、女がひとり、久の腕をつかみました。
えっ
久が一瞬ひるみます。
その女の手首をぐいとつかんで
「降りましょうか」
随が低く声をかけました。
三人は次の駅で降りました。
連れがいたのか……
女は明らかに動揺していました。
女子大生ふうの人で、周りに人だかりができ、駅員が寄ってきます。
「どうされましたか」
鉄道警察も来ました。
「この人が、ちか」
女は頑張って訴えました。
久は落ち着いていました。
「俺の手が当たりました」
随は冷たく答えました。
「わざとじゃありません」
随の目はまっすぐ警官を見ていました。
二人はすぐ釈放されました。
女が訴えを取り下げたからです。
「ごめんね、逃がして」
随は謝りました。
「時間取りたくなくて」
「いえ」
久はまだ少し緊張していました。
「ありがとうございました」
「ううん」
本当はいけないんだろうけど
随は正義を軽視するところがあります。
「ドア前の男がずっと見てたね」
随は歩きながら言いました。
「やらされてたのかもしれない」
本当はいけないんだろうけど
金のためなら何でもするのが人間です。
二人は同じホームで次の電車を待ちました。
改めて乗って、三駅先の目的地で降りました。
「そんな屑女がいたんですか」
永は怒りを顕わにしていました。
「さらしてやります。顔教えてください顔」
興奮して詰め寄ります。
「忘れたよ」
久は話を終らせようとしました。
なめた真似をされて、まだ少し苛ついていました。
「随さんかっけえ」
王は上機嫌で笑いました。
「そいつ本当罪人だね。見つけて絞めなきゃ」
友だけは何も話さず、じっと随を見つめていました。
14.
永と友は双子でした。
永が姉で友が妹です。
永は久と付き合っていました。
今日は妹のためのダブルデート企画でした。
「じゃ俺、こっちだから」
随は軽く手をふって、四人と別れようとしました。
今日は会社の健康診断で、途中まで一緒に来たのです。
「じゃ、後で」
離れていく随に友がついてきました。
「友ちゃんそっち行くの?」
王が嬉しそうに後を追ってきます。
友は王をとても苦手に思っていました。
初対面からとても苦手で、最低限の会話しかできませんでした。
「俺女にこんなに嫌われたことないよ」
王はそういうところを高く評価していました。
仕事柄いろんな女に会いますが、たいてい少しやさしくするとすぐ落ちてしまいます。
アドレスを交換した女は、100%自分から連絡してきます。
友にはそういうところが全然ありませんでした。
こっちのアドレスも受け取ってくれないくらいで
お高くとまっている感じでもありませんでした。
よく見ると可愛いかな程度の女で、友はどうも男全般を恐れているようでした。
「随さん、待っててもいいですか」
友が追いかけてくるので、随は歩調を緩めて歩きました。
「いいけど、二、三時間かかるよ」
「いいです」
友は即答します。
「俺も一緒に待ってるね」
王は喜んでついてきました。
友は少し青ざめた顔で、随の袖をぎゅっと握っていました。
「じゃ」
随と別れてしまうと、友は完全に黙ってしまいました。
「どこ行こうか」
王がたずねます。
「ホテルで休憩でもしない?」
二時間あればじゅうぶんでした。
「私は行きません」
友の声は小さく震えていました。
「そんなに怖がらなくても。何もしないよ」
あまりからかうのも可哀想かと思って、王はやさしく笑いました。
「そこの喫茶店で待とう」
健康診断施設の向かいの店の窓側に友を座らせると、自分はゆっくり煙草をふかして待ちました。
「ずっと待ってたの」
外に出るとすぐ友が駆けてくるので、随は驚いてききました。
「前の店で張り込みしてたの」
王がくすりと笑います。
「飯食う?」
「そうだね」
「ご飯まだなんですか」
「レントゲンあったから」
常に随を真ん中に挟んで、三人は仲良く歩きました。
「しかし残念だなあ」
王は青空の下、少し大げさに嘆息しました。
「今日はせっかく休みが合ったから、エロDVD借りて随さんとふたりでゆっくり見ようと思ってたのに」
「あれ今日なの」
「随さんが見るなら」
友は緊張して答えました。
「私もみます」
「えっ」
「だよね」
やった乗ってきたと思って王は喜びました。
「じゃあ三人で観よう、三人で」
後はすっかり王のペースでした。
飯を食って、靴を買って、ゲーセンに寄った後、三人はレンタルビデオ屋に入りました。
スーパーでパンと牛乳を買いました。
王がプリンとみかんを入れてきます。
ハムとかぼちゃも足しました。
「随さん煙草は」
「まだあるよ」
「ひとつ買っとくね」
部屋代にといって、王はよく支払ってくれます。
この日も甘えながら、友はまだ緊張してビデオ屋の袋を持っていました。
「王はいい人だよ。俺よりずっと」
随は何気なく言いました。
「王だと怖くて俺なら怖くない根拠はあるの」
友はどきりとしました。
王はカゴを持って、会計の列に並んでいます。
「むやみに人を怖がるのはやめた方がいい。失礼にあたるよ」
たしかに、軽くからかわれるだけで何かされたわけではありませんでした。
怖がるということは、その人が自分に危害を加えてくるのではないかと疑っていることになります。
友はたしかに失礼かなと思いました。
でも怖くて
王はあまりに軽いのでした。
友は随が好きでした。
15.
夕飯は、秋鮭のグラタンとカボチャのポタージュでした。
ライスとサラダも付いてきます。
王には身近な食材を美味しく料理する腕がありました。
安い服もお洒落に着こなせる人のような、日常生活にセンスがありました。
「美味しいね」
随は感心してゆっくり食べました。
「王と結婚する人は幸せだね」
「でしょ」
王は自慢げに笑います。
友はかなり落ち込んでいました。
友は料理が下手でした。
「俺王に何かしたっけ」
「なんで」
「優しいから」
随は不思議に思いました。
王はこれまで会った人の中で、もっともよく随と遊んでくれます。
「世話になったじゃない、前世で」
王はやさしく笑いました。
「全く覚えてないな」
随も微笑しました。
王はいつも冗談ばかり言っています。
「さあ、食ったら観るよ」
随が食器を洗って友が拭きました。
友はずっと黙っています。
「ごめん、さっきは」
随は素直に謝りました。
「言いすぎたね」
「いえ」
友は随に言われたことを考えていました。
「努力してみます、怖がらないように」
「怖がってもいいよ」
王はやさしく笑いました。
「そういう女も好きだから」
友は怖くて、少し青ざめていました。
私は今日この人たちと寝ないといけないだろうか
友は随のことは好きだけど、王のことは好きではありませんでした。
でも随が王のこと好きなら、自分も好きにならないといけないだろうか。
ふたりは仲良しで、この部屋にはベッドがひとつしかありません。
もう夜で
どうしよう私
帰りたい
今さら
死にそうに思います。
ふたりはテーブルをさっさと拭いて、コーヒーを淹れて持ってきました。
テレビをつけてDVDを入れます。
どうしよう……
友は一番ドアに近い席に座りながら、立ち上がって帰れる気がしませんでした。
一本めはアクション映画で、友はいつの間にか銃声の中眠りに落ちていました。
Ⅵ.君がはめたの?
16.
がたがたいう音で目がさめた気がしました。
まだ夜で、薄灯りが漏れています。
振り向いた友の眼に王の影が映りました。
随の腕をつかんで、洗面所から引きずり出しています。
「やめて……」
友はよろめきながら駆け寄りました。
やめて
殺さないで
王の脚に必死ですがりつきます。
王は無表情な目をちらと向けると
「違うよ」
のんびり笑いました。
「飲みすぎたんだよ、このひと。さっき吐かせたところ」
随は青ざめてぐったりしていました。
うがいさせてもらって、襟が少しぬれています。
お酒なんてあったかな
友はまだ信じられずに、息をのんで見守っていました。
王はよっこいしょと随を抱えると、ベッドに寝かせて布団をかけました。
横向きにして、楽な姿勢をとらせます。
「君も寝る?」
王は随をずらして、友のスペースを作ってあげました。
友は少し戸惑って、困っています。
「俺とソファで寝る選択肢もあるよ」
それはない
友は決心して、随のとなりに潜り込みました。
随さんごめんなさい
起こさないように
どきどきして、鼓動が聞かれそうでした。
随が寝返りをうつから、随の背中に寄り添って寝ました。
二度目に起きた時はもう朝でした。
やわらかな光がさして、随の背を照らします。
随さんの背中だ
まだ夢のような気がして、友はそっと抱きつきました。
部屋は静かで、王は帰ってしまったようでした。
キスが
したい
友は淫らな願いをもって、随のおもてに近づきました。
眠っているすきに、肩越しにのぞきます。
細い寝息がきこえました。
目を閉じて
随の頬には涙の跡がありました。
随さん……
我に返って、友は己を恥じました。
反省して元の位置に戻ります。
ごめんなさい
ごめんなさい
友は随の背に潜って、ずっと謝っていました。
「起きても、いいですか」
強く頭をおしつけすぎて、逆に起こしたようでした。
「ごめんなさい」
「いえ」
随は枕元の水を飲むと、タバコを取り上げました。
ペットボトルの水も持ってきてたんだ
王は本当に気が利くと思います。
火をつけようとして、やめると、随はベッドを出ました。
コーヒーを淹れながら、換気扇の下で吸いました。
気を使わせている
友は申し訳なく思いながら、何となくベッドでごろごろしていました。
ただの睡眠だけど、寝る前より寝た後のほうが、仲が遠ざかったような気がします。
大して知らない女が隣で寝ていたのに、ほとんど気にかけていない
友にはそこも悲しかったところです。
随は手早く支度をして、仕事にでかけていきました。
「ポストに入れておいて下さい」
自分の鍵を枕元におくと、静かに部屋を出ました。
17.
「お兄ちゃんがすき?」
「すきだよ」
「お兄ちゃんのこども、産んであげようか」
賄が言うから、王はため息をつきました。
こどもこども
女はいつも同じことを言う
「お前嘘でもそういうこと言うなよ」
低い声で注意します。
「私もお兄ちゃんのことすきなのになあ」
賄はぼんやりつぶやきました。
「親同士が結婚してると、この恋は難しいんだね」
他人なのに
被害者の会作らなきゃ
賄は思います。
お兄ちゃんの自由をうばって
足元に屈服させたい
それが復讐かしら
王は煙草を吸い終るとお店に戻ってしまいました。
尾けてやろうと思ったのに、残念
王は用心深くガードが固いです。
お兄ちゃんに会いたいなあ
賄は思いました。
ともに戦火を生き抜いた同士だと思ってたのに
お兄ちゃんは皆に必要とされて、しあわせそうだな
その端に加わりたいけど、私がいると嫌なこと思い出させるかな
賄は寂しい気がしました。
くるりと向きを変えると、街へと消えていきました。
18.
「まだねてるの?」
たしかに友はまだ寝ていました。
もう昼を過ぎていました。
「彼女ヅラして寄生する気かい」
王はやさしい笑顔でぐさぐさ来ます。
「鍵もってるんですか」
友はやっとそれだけ言い返しました。
「持ってるよ」
王は笑って
「随さんは誰にでもやさしいから」
随が朝のんだコーヒーをもう片付けはじめています。
仕事探さなきゃ、仕事
友はそれだけ思って、くしゃくしゃの髪を直しました。
早くここを出よう
天敵の出現に行動が早まります。
「俺夕方から使うんだけどさ」
王は手慣れた様子でキッチンを使いました。
「一緒にどう?」
友も近頃慣れてきて、かなり自然に無視します。
スマホをいじっていた王は、メッセージがきて手を止めました。
しばらくじっと見ています。
友はそのすきに部屋を出ようとしました。
「ちょっと待て」
その戸をガチャリと閉めて、王の声はいつもと違っていました。
「随さん警察に連行されたって」
「えっ」
友は思わず王を見ました。
メッセージは敬からでした。
随が未成年を連れ込んでいるという通報があり、大家の敬に連絡がいった
「君がはめたの?」
王は冷たく訊きました。
友は目の前が真っ暗になって、へたりとその場に座りこんでしまいました。
連絡を受けた敬がきて、バイトのなかった久がきて、一番最後に永が、息を切らせて駆け込んできました。
永の心臓は張り裂けそうに波打っていました。
「金が目的?」
王は冷たく訊きました。
示談に持ち込みお財布頂戴
「違うんです! 違うんです!」
永は友の代わりに土下座していました。
「父親のせいなんです。あいつこの子のストーカーで」
えっ
敬と王は驚いて
少しひきました。
友は呆然としたまま、奥にいる久の目が一番怖いと思いました。
Ⅶ.家相がいい
19.
「あの子の父親はね、娘に暴力をふるってたの。それで施設が保護して、半径百メートル以内に立ち入らない命令もでたんだけど」
ある日、娘が男の部屋に入り、朝になっても出てこないことを目撃した父親は逆上して通報した
ところを逮捕されたらしい。
張り込みしてたのかよ……
自分で通報して逮捕されるとかレベルが高すぎると随は思いました。
すごい領域にきてしまった
「あなたを呼んだのは、あなたもDV男じゃないか調べたかったからなの」
女性警官は若くていいひとそうでした。
「あなた、家族を刺したことがあるわね」
「はい」
声がやさしくて、随は落ち着いた気持でききました。
「その時の傷は癒した?」
敵に情けをかけられるとはこのことです。
こういうこと訊いてくれるひと、あまりいなかったな
「俺もDV男になるんでしょうか」
随は静かにたずねました。
なりたくないのに
皆そうして
バケモノになってしまうんだろうか。
「わからないわ」
警官は誠実そうに答えました。
もしかしてこの人、警察じゃないのかもしれない
随は不思議に思って話を聞いています。
「相談できる機関があるから。何かあったら言いなさい」
女性はいくつかのパンフレットを紙袋に入れてくれました。
俺を泳がせて何かとれるかな
随は女の手元を注意深く見ています。
人の秘密をよく喋る人だったなと随は思いました。
どこまで嘘か
本当に事情を聴取されただけで、二時間後には釈放されました。
随は七時頃家に帰りました。
「ごめん、仕事場に寄ってて」
遅れることは敬に知らせてありました。
家の中は、灯りがついているのに暗い感じがしました。
「お通夜みたいだね」
随は微笑んで、皆そろっていたので少し恥ずかしい気がしました。
20.
「本当にすみません」
友の服が昨日と一緒で
ずっといたの
随は少し驚きました。
「いえ」
怒る気はなくて、ソファに座らせてやります。
「随さん」
「はい」
友は息を大きく吸って覚悟を決めました。
「けっこんして下さい」
えっ
かなり迷惑をかけたこのタイミングで言うかと思って、永はひやひやしました。
相変わらず久の目が一番きつく光っています。
「いいけど」
随はたやすく答えました。
いいんだ……
敬と王は黙って聞いていました。
随さんの来る者拒まず感が半端ない
王は心配そうに見つめています。
「今すぐはちょっと」
随は目を伏せてゆっくり座りました。
疲れてるんだな
久はそう思いました。
「何でもします。仕事見つけてお金入れます。だからどうか、ここにおいて下さい」
友は必死に必死に頼みこみました。
「ご迷惑かけて、本当すみません」
こいつストーカー気質めちゃくちゃ受け継いでんじゃねえか
面倒な奴がきたと敬は思います。
「俺は、いいけど」
随は笑って敬を見ました。
やわらかな光で
「一筆書いて」
敬は仕方なく、二人入居を許すことにしました。
働いて金入れるくだりを入居条件に加えてやりました。
「大丈夫か? あいつ相当キテるぞ」
車の中で二人は話をしました。
敬はかなり随の結婚を心配しています。
「何かあったら追い出すから」
敬は家主権限を使うつもりでいました。
「帰る家が選べない子もいるから」
随はつぶやいて
「可哀想かと思って」
少し笑いました。
彼女の気が済むまで、ここにいればいいと思います。
「心配かけてごめん」
「それはいいけど」
敬はまだ不満そうです。
「ここは人を呼ぶ家だね」
随はそれを不思議に、うれしく思っていました。
今日もお通夜じゃなかったら、もっと楽しい会も開けるといいと思います。
「家相がいいんだね」
「お前がのんきなだけだよ」
敬はあきれて
まったくもう
ため息がちに眼鏡をあげました。
「家賃上げるからな」
「マジで? いつから」
「あいつに好き勝手させんなよ」
「亭主関白だね」
そういうわけじゃないけど
何かあいつは油断ならないと敬は思っていました。
内装を変えないように、家賃は据え置きで、敬は永と友を送りがてら車で帰っていきました。
随は駆けつけてくれた久と王に礼を言って、家の外まで見送りました。
Ⅷ.逃げて下さい
21.
永と久は映画を見ていました。
永のバイトする小さな映画館です。
永は久の背を見ていました。
二年前から見ていた
今日で最後になるかもしれない
バイトが終るとふたりは歩いて帰りました。
別れ話がきりだされると永は思っていました。
「俺に近づいたのは随さんと会うため?」
久は前を向いたまま訊きました。
「違います」
永は即答しました。
それは本当でした。
二年も前からそんな計画を練るはずがない
スパイ映画じゃあるまいし
随さんてどれだけ要人なんだろう。
皆がこぞって守ります。
「私が友の姉じゃなければ満足ですか」
永は逆に尋ねました。
「親父本当に暴力ひどかったから私鍛えたんです。ジムに通って。それで殴り飛ばしてやった」
ジムにはまだ通っていました。
来たきゃ来ればいい
何度でも殴ってやる
「そう」
久が気に入って少し笑います。
「友のことは私が守ります。友が悪さをするなら」
永は誓いました。
「私がとめます」
弱っちい、守られるだけの女じゃないところを久は評価しました。
「俺の味方になる?」
少しだけ秘密をあかします。
「何か、やるんですか」
永は慎重にたずねました。
「何かあればね」
久は答えて、ふたりはデートを続けました。
22.
敬は随のために、紙をふたつ持ってきてやりました。
「けっこう分厚いんだね」
随はさわって笑います。
「もっと薄っぺらいと思ってた」
「それは離婚届な」
敬は婚姻届と離婚届を持ってきていました。
随が両方に署名捺印します。
敬と愛が保証人になってくれました。
親に挨拶もしてないけど
「あいつ親権剥奪されてますから。不要です」
永が太鼓判を押してくれます。
王と久がきて、じわじわ準備してくれました。
料理をつくって、愛と永も手伝います。
友は一生懸命掃除と片付けをしました。
自分の物を奥の部屋に運んで、リビングを広く使います。
仕事の終った敬と随が合流して、結婚祝のような宴が開かれました。
敬はまだ祝福していないけれども
随はたくさんの人がきて狭いのにうれしそうでした。
すみのほうに座って、にこにこしています。
美味しい料理と美味しい酒と友だちに囲まれて、随はしあわせな気分でした。
他に何もいらないなあ
友が隣にきたので
「はい」
婚姻届と離婚届をセットであげました。
キャンセルできない契約はないから
友は今さらどきりとして、緊張して受けとりました。
迷いが生じてるんだ
随は見抜いていて
よかった
少し冷静になったんだと思いました。
「俺がDV男だったら。逃げて下さい」
この先自分がどうなるか読めない気がしていました。
いやだいやだと言いながら、重力に逆らえず引かれていく
人の助けが必要だと思いました。
俺が何かしたら
逃げて
とめてほしい
女の子に頼むのは難しそうでした。
同じことを、敬と王には伝えてありました。
「随はどんな墓に眠るの」
どんな家に住むの的な気楽さで、敬は変わったことを訊きました。
「市民墓地かな」
随は首をかしげました。
身寄りのない者が眠る場所
「牧師さんに頼んであるんだ」
冷の日本酒に少し口をつけます。
「ひとりで眠るのは寂しいからね」
死んでまでひとりは寂しいです。
「じゃ俺もそこで眠る」
敬はビールを開けてぐいと飲みました。
「俺も」
王が笑って追随します。
「私も」
愛がカクテルを上げて続きました。
「私たちも」
永と友がうなずいて、久はジンジャーエールを掲げて乾杯します。
「みんな変わってるね」
随はふふと笑って乾杯を受けました。
ひとつの丘で、皆で横になって、雲を見たり、星を見たりできたら。
とても楽しくてしあわせです。
「ありがとう」
随は礼をいいました。
いつか子や孫ができたら離ればなれになってしまうだろう。
それでも今日話した約束は、あたたかい思い出になります。
随は信じてなさそうだけれど、敬と王はわりと本気で墓所を誓っていました。
同じ場所で眠ろう。
随は眠ると泣くから、水をのませて、ベッドに沈めておいてやりました。
23.
夜明け前
友は随にすり寄りました。
随がぼんやり、昨夜の宴を思い出します。
皆帰ったかな
悪いことをした
友は服をまさぐって腹をさわると、随の唇にキスをしました。
自分という木の蜜をすいにくる蝶がいる、ような感覚を随はもちました。
俺はおいしいですか
ぼんやり
好きにさせておきます。
随を手に入れて友は満足そうでした。
私だけのものにして
縛りつけておきたい
この人は私じゃなくてもいいんだろうと友は思いました。
私はこの人じゃなきゃいや
下唇の傷のところをなめます。
この世のいろんなものに執着がないんだと友は思いました。
どんなことされたらいやか
知りたい
知らせたい
友は手をのばして、随の体にふれました。
Ⅸ.一生忘れない
24.
王は賄と歩いていました。
店にこられたので仕方なく
キャバ嬢のアフターみたいだな、と王は思いました。
むしろ同伴出勤か
これから随の家へ、賄をまいてから行こうと思います。
「キスして」
顔は悪くないから、王はしてやりました。
賄は制服姿で何度もせがみます。
「なんで付き合ってくれないの」
「高校生とねたら捕まるでしょ」
王は煙草を出して火をつけました。
口寂しいとき
煙草はべんり
「黙ってたらばれないよ」
「学校のお友達とやんなさい」
王は笑って相手にしてくれません。
「お兄ちゃんにあいたいな」
賄は歩きながら小さくつぶやきました。
本当の兄妹だったらよかったな
離婚すると何のつながりもない
遠くなっちゃう
「結婚、しちゃうんだね」
賄は寂しいと思いました。
たいしてすきでもないくせに
かんたんに
自分をあげちゃう
「私と住まない?」
賄は王を誘いました。
「お兄ちゃんを失った者同士」
同士だって
王は笑って
「君と住むくらいならひとりで住むよ」
終った煙草をしまいました。
携帯灰皿持ってるんだよ
青い小箱を腰にぶら下げています。
「いいよ、押しかけるから」
賄は王の手を探して無理やり握りました。
「一緒に住んでどうするの」
王がたずねます。
「その子から奪えばいい。簡単なことだよ」
賄は王とならできると思いました。
「お兄ちゃんを取り戻すの」
面倒くせえ女
王はため息をつきました。
一緒に住んでもいいかな
監視用に
せがまれて、最後のキスをしました。
少し長めに
「煙草くさい」
「だから友達とやれって」
「女子校だっつってんじゃん」
「女とやれば」
王は手をふって、パチンコ屋さんに入ってしまいました。
張り込みしたいけど、くやしい
ずっといるとお巡りさんに声をかけられてしまいます。
すきだといってるのに
ばか
なんで信じてくれないんだろう
キスがうまかったと思いました。
おいしかった
ずっとキスだけしてたいと思いました。
今度たのんでみようかな
高校生とはねれないんだって
なんか人権侵害だなと賄は思いました。
25.
王が随の部屋に入ると、随の咳きこむ声がきこえました。
「大丈夫?」
思わず覗くと、目隠しをされ後手に縛られた随が、ベッドに転がされ、激しくむせています。
「何してんの……」
王は驚いて言葉を失いました。
「勝手に入ってこないでください」
なんだこいつ小姑かうざいと思って、友は怒っています。
「水がうまくのめなくて」
随は目隠しをされたまま笑いました。
上半身脱がされて古傷をあらわにしてるし
なにこれ
犯罪の匂いしかしない
押し込み強盗かよ
撮影して通報するレベルと思います。
「もっとノーマルなプレイからはじめたら」
王は真顔で忠告しました。
「指図しないで下さい」
友はまけじと言い返しました。
「勝手に寝室を覗いて。悪いと思わないんですか」
「ごめんごめん」
そんなにこだわってんのかよと王は思いました。
このプレイスタイルに
こいつSなの? 随さんMじゃないと思うけど、などと考えています。
「ごめん王」
ずっとベッドに転がされていた随が、壁を向いたまま声をかけました。
「手かしてくれない?」
王は慌てて目隠しを取ってやりました。
「ありがとう」
随は捕縛されたまま、ベッドで笑っています。
随さんは自分を使って遊びすぎるよな
王もおかしくなって、はははと笑いました。
俺が来ることわかってたのかな
身体を張ったいたずら
随は自分の体をわりと自由に扱います。
友だけはまだ興奮してぷんぷんしていました。
「合鍵取り上げて下さい」
随に頼むけど
「一度あげたら、相手の物だから」
随は笑って、取り合ってくれません。
寝室に他人出入りさせていいとか
昔の殿様かよ
鷹揚さ加減についていけないと思いました。
腹が立つ
ふたりの仲のよさに
「男がすきなんですか」
思わずきくと
「すきだよ」
えっと思うほど随は即答しました。
「男は何も奪わないから」
腹の底からにじみでるような声でした。
「楽だよね」
すこし笑うと、王が使うかなと思ってもう片付けはじめていました。
26.
ある日敬によばれて、随は居酒屋にいきました。
がやがや賑わう店内に敬と男の人が、カウンター席に座っています。
随に気づくと、敬は席をあけました。
「どうも」
男の人が立ち上がって、名と身分をあかしました。
「こんばんは」
随もあいさつをして、男の隣に座りました。
「お前さ、傷、大丈夫なのか」
男はビールを頼んで心配そうにききました。
「え?」
随が不思議そうに男を見ます。
「お前、刺されて病院運ばれただろ。俺ついてたんだよ、ずっと」
あのときの警察の人だと気づきました。
「どうして、今日は」
「この人が連絡くれてさ」
男は敬を示して
「全然覚えてないんだな」
少し笑いました。
父親って、忘れられちまうんだな
「俺お前のおむつ替えてたんだぜ」
「父さん?」
随は驚いて息を止めました。
あまり驚きすぎて、しばらく酒を持つ手がとまっていました。
「生きてたんだね」
「生きてるよ」
父は苦笑して、つまみの魚をつつきました。
「女に非があっても親権とれるのがこの国だからなあ」
悔しそうにつぶやいて
「すまなかったな。苦労、したんだろ」
低い声で慰めます。
「苦労したよ」
随はすべて投げ出して酒をあおりました。
「殺されかけたよ、俺」
馬鹿みたいな苦労ばっかり
何度も
「そうか」
父は何を言ってもさえぎらずきいてくれます。
「俺本当に父さんの子供なの?」
随はいたずらっぽい目で尋ねました。
「わかんねえけど。信じるしかねえだろ男は」
父は諦めたように肩をすくめます。
「冷たいこと言うなよ。俺出産にも立ち会ったんだぜ。お前大変だったんだよ、逆子で。時間かかってさ」
父は昨日のことのように覚えていました。
「お前が生まれて、うれしくてさ。俺毎日だっこして、ミルクあげてたよ」
本当になつかしそうに目を細めます。
「結婚してるの」
「もう女には懲りたよ」
父は首をふってビールを注ぎました。
「今は猫二匹と三人暮しさ」
「すげえ」
随は笑って
「でも、わかるわ」
俺もそうしようかなと思います。
「お前結婚するんだって?」
「わからないけどね」
「やめとけって」
父がぼやきながら止めるので、随は笑ってしまいました。
「こども、守ればいいんでしょう」
たやすく、難しいことを約します。
「敵は身近にいるぜ」
父はビールのおかわりを頼んで目をとろんとさせました。
「俺四ツ木に務めてるから。何かあったら来な」
交番勤務のようでした。
家の住所と電話番号を教えてくれます。
「うん」
随はうれしそうに受けとりました。
暇なら冷やかしに行ってやろうと思います。
敬が店を出ようとしたので、随は追いかけて止めました。
「ありがとう。俺一生忘れないよ。必ず恩返しする」
敬の手をとって、礼をいいます。
「いいよ、別に」
敬は笑って去っていきました。
時間をかけて調べた甲斐があった
後ろ姿が似てるから、ふたりはきっと父子だろうと思いました。
敬久王随