カラス
あるところに、ひと組の夫婦がありました。
平凡な、仲のよい夫婦です。
夫婦の間にひとりの男の子がうまれました。
男の子は父にも母にも似ておらず、髪も瞳も真っ黒で、カラスと呼ばれました。
「これは俺の子ではあるまい!」
夫は怒って妻をどなりつけました。
「そんなことはございません!」
妻も負けじとどなり返します。
「うちの家系にこんなみっともない黒髪はいやしない。よくも俺に恥をかかせたな! その汚いガキを連れてさっさと出ていけ!」
夫は毎晩妻をどなりつけては、遊び歩くようになりました。
夫にとって妻など誰でもよいのです。
もっと若く美しく、自分を裏切らない女に子をうませようと男は思ったのです。
女は仕方なく、息子をつれて家をでました。
食べていくあてもなく困り果てていると、女はひとりの男と出会い、同居をはじめました。
カラスは五つになっていました。
負けん気のつよい、寡黙な子です。
男はいつもカラスを邪魔者扱いして、殴ったり蹴ったりしました。
カラスは黙って殴られながら、物凄い眼で男を睨みつけました。
お前なんか、いつか俺がぶっ殺してやる
そう言っている眼です。
じっさい、石をぶつけて男に怪我を負わせたこともありました。
寡黙で愛想がなく、何を考えているかわからないくせに、眼光だけは恐ろしく鋭いのです。
男はしだいにカラスを恐れるようになりました。
自分で暴力をふるわなくなったかわり、彼の母親を脅して、彼を痛めつけさせるようになりました。
カラスは母親には黙って叩かれてやりました。
母親はいつも泣いていたからです。
「お前はどうしてかあさんを悲しませるの?」
「どうしてあの人とうまくやってくれないの」
母親はしだいにやつれていきました。
手が痛くなったら棒を、棒が折れれば金物で殴ります。
カラスは十で家をでました。
母親の暴力に屈したわけではありません。
母をとめるなんてわけないことでした。
ただ、母と男が愛し合うのを間近で見せられることに堪えかねただけでした。
カラスを拾ったのは牧師でした。
ちいさな教会に住む、年寄りの牧師です。
牧師はカラスに負けないくらい無口でした。
必要な祈りのほかは、ほとんど口にしませんでしたから、カラスにとっては気楽なじいさんです。
牧師はカラスが十八のとき、寿命で死にました。
代わりにきた若い牧師がひじょうに熱心な男で、「罪を許し、人を許せ」とうるさいので、カラスはほうほうのていで住みかを飛び出してしまいました。
飛び出したところで、いくあてもありません。
カラスは川原にねころびました。
宿と飯つきの職場探すか
ぼんやりねころんでいると
明け方の空に羽のない天使がひとり、音もなく、カラスの耳もとに降りたちました。
「お前にこれをやろう。この剣でつらぬけば、刺された者は皆、お前の言うことをきくようになる。終生な。剣は明日には消えてしまうから、大事に使えよ」
天使はそれだけ言うと、朝もやの中へ消えてしまいました。
羽がなかった。悪魔か。
カラスは無言で思います。
天使のいた場所には、細いガラスの剣が落ちておりました。
「嘘くせえ」
カラスはつぶやいて剣をとると、黙って歩き出しました。
どうせ剣なら、まず親父をぶっ刺してやろう
カラスは生まれた家を訪ねました。
父はまだそこに住んでいて、若い奥さんに、カラスよりだいぶ年下の可愛い女の子がいます。
そうだ、あの女に突き刺して俺のものにしてやろうか……
カラスの脳裏によからぬ考えが浮かびました。
思う存分女をなぶり、はらませて、全てをぶち壊してやろうか
でも女の娘があまりにも無邪気に笑って、幸せそうなので、カラスは刺すのをやめました。
あの子に、罪はない。
三人はとても幸せそうで、カラスは、父親があんなふうに笑うのをはじめて見たと思いました。
カラスは次に母親の家へいきました。
母親には、今年生まれたばかりの赤ん坊がいます。
あんな年でうめるのか…
カラスはちょっとびっくりして、目をぱちぱちさせました。
男も、もう母とは別れているかと思いましたけれど、そうでもなく、案外うまくいっているようです。
男は赤ん坊を目に入れても痛くないほど可愛がっていました。
カラスはいたたまれない気がして、その場を離れました。
親父もあいつも、必ずしも悪い奴ではなかった。
ただ、俺を愛さないだけだった。
二つの事実がカラスを重く黙らせました。
カラスにはただ、母親の幸福と慈愛に満ちた表情だけが、その黒い瞳に、深く深く残りました。
カラスは町に出て女どもを物色しはじめました。
若く美しい娘、可憐な少女
彼女らをすべて自分のものにして、昼夜となくもてあそび、破壊することができたら。
どんなにか愉しいことでしょう。
そんな妄想にふけりながら、カラスは結局どの女にも剣をつき立てることはしませんでした。
どの女を得ても物足りない気がして、カラスは町を抜けました。
一番星が出て、もう夕暮れになっていました。
カラスは透きとおるその剣を、幼い兄弟にやってしまいました。
家の外で、夫婦喧嘩がやむのを待っていた兄弟です。
「お父さんが怖いから、まだ中に入れないんだ」
兄の子はいいました。
「お父さんがお母さんをいじめるから、お母さんがぼくらをいじめるんだ」
弟の子がいいます。
カラスは剣を二人に渡すと、こう教えてやりました。
「勝手口からそっと入って、テーブルの下に隠れろ。そうして親父とお袋のむこうずねを思いっきりぶっ刺してこう叫ぶんだ、『どうかお父さんとお母さんが仲良くなりますように』ってな」
兄弟が実行したのかどうかカラスは見ていませんでした。
それだけ言うと、去ってしまったからです。
二人は怖がっていましたが、勇気をだして、カラスに言われたとおりにしました。
父をさし、母をさしたとき、剣はぱりんと割れて、怒っていた二人は子どものように泣き出したのです。
ガラスの剣は天のものですから、刺されても痛くありません。
兄弟の両親はそれ以来、怒って殴りあうかわり、泣いて抱きあうようになりました。
ののしりあう内容は大差ないのですが、やり方が違うのです。
「お前はいつもひどいよ。俺はこんなにがんばっているのに」
父はそう言っておいおい泣きました。
「あなただってひどいわ。私はこんなに尽しているのに」
母も負けじとおいおい泣きます。
二人はそのうち泣きつかれて、抱きあって眠ってしまうのでした。
兄弟はそれを自分たちの部屋で、安心して待てるようになりました。
夜明け前、カラスはもとの川原にいました。
ねころんで、黙っています。
「使ったかい」
天使は隣に立ってききました。
「折って捨てた」
カラスがぶっきらぼうに言うのを、天使は微笑んできいていました。
カラス