足枷

そんな大恋愛だったわけじゃないのです。
男と女は職場で出会いました。
大きな事件も事故もなく、順調に、しあわせに。
ふたりは結婚しました。
結婚して三年め、女は死にました。
交通事故でした。
ふたりに子どもはいません。


「ねばるねぇ…」
天使はずっと、女のうしろに付き添っています。
このところ、ずっと。
女は幽霊でした。
ふつうの人には見えないし、足がなかったからです。
女は肩越しに振り返ると、申し訳なさそうに天使に微笑んで見せました。
女も好きでここにいるわけではありません。
男が忘れてくれないから。
死ぬ前に夫だった男が、妻だった女を、死んでもずっと想い続けていたから。
天に帰れずにいたのです。



幽霊に足がないのは、想いびとが枷をはめているからだ
と天使は教えてくれました。
「まったく。いっぱしの男のような顔をして、本当に未練がましいんだから」
天使はすこし恨めしそうに、会社で仕事をする男の頭をこづきました。
でも天使も見えませんから、男は痛くありません。
「早く俺と一緒に行こう」
天使はいつも女を誘います。
天使は女のことが好きなのです。
女はすこし笑って天使の髪をなでました。
天使は白いスーツをきて真珠色のネクタイを締めた紳士なのですけれど。



女は男のためにできるだけのことをしようと思っています。
延々寝返りをうってようやく眠りについた夜、夢の中で、男にありがとうを言います。
ひとり残って仕事をする男に寄り添い、疲れた肩をなでてあげます。
雨の降りそうな午後、男の胸をまさぐって、なんとなくそわそわさせて、家に帰らせたこともありました。
仏壇の写真の中手を合わせる男に、いつも微笑んであげます。
期限が切れたハムを知らずに食べてしまうから、男が食べるまでなるべく腐らないようにしてあげます。
それでも男は、泣きませんでした。
男は、女が死んでから一度も泣きませんでした。



そんな大恋愛だったわけじゃないのです。
男と女は職場で出会いました。
それでも男はずっと、女を忘れられないでいました。
「そろそろ君もつらくなってくるね」
天使は翡翠色の瞳を少し伏せました。
女はこうしてもう三年間男に寄り添っていますが。
それが男と女にとって必ずしも良いことでないことはわかっていました。
どうしたら男の心を解き放てるだろう。
女はずっと考えています。
早く女の足枷を取ってあげたいものだ…
天使も深く考えています。



ある夜。
女は、自分にしかわからない場所に置いていた涙石を、男の机の引き出しに入れておきました。
それは昔、海岸で拾ったものです。
男はゴミだと笑っていたけれど。
海に洗われ、角のとれたガラス瓶のかけらでした。
男は帰ってきてパソコンの電源を入れました。
ひじをついて、ぼんやり画面を眺めます。
薄い眼鏡に、今日のニュースが流れては消えました。
すっと開けた引き出しの手前
ガラスのかけらがころころ
転がり出ました。
男はつと、動きを止めました。



彼女を思い出すものは他にもたくさん持っていたけれど
男はそれをとって、手のひらに乗せました。
そのとき彼女がどんな顔をしていたか
どんなふうに笑って
こどもみたいに
はしゃいで
海が好きだったか
泳げもしないくせに
マーメイドになりたいとか言って。
ばかみたいだ…
女は海の藻屑みたいに消えてしまったというのに。



男は
熱い雫がぽとり、と落ちるのを知りました。
ぽとり、ぽとり
女を失ったということが
もう帰ってこない
死んだんだということが。
男にはわかっていました。



その日、男の脳裏に女のアルバムができました。
女はもう生きている女ではなく
思い出として
瞬間として
永遠に
男の脳裏に刻まれます。
男はそれをいつでも取り出して見ることができます。
男の思い描く女は実際よりずっといい女だったかもしれません。
でも女はよかったと思いました。
男は解き放たれたと感じたからです。
そして、男の思い出の中で男のものになることで、自分も解き放たれたと感じました。



「さあ、行こう」
天使は微笑んで女の肩にやわらかな衣をかけました。
女をくるんで抱きかかえ、天を目指し昇っていきます。
女は眼下に
透き通るように白い足と
会社に向かう男の姿を見ました。
いつもの表情で人波に揺られながら、歩いていく男の姿を見ました。
「ありがとう。さようなら」
女は手を振りました。
男が無事に会社に着くまで、ずっと手を振り続けました。

足枷

足枷

2007年作

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-12

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