ありがとう
1.
昔、森に住む娘が街へ買い物にやってきました。
森ではとれない服や靴を求めに、はるばるやってきたのです。
花の蜜を売ったお金で買い物は無事にすみました。
娘が市場の端で休んでいると、すぐそばに、眠そうな目でたばこをのんでいる少年がいました。
少年はすべてのものに関心がないといった様子で、ぼんやり通りを眺めていました。
娘は気の毒に思って、家で作った葡萄ジュースを少年にあげました。
「酒じゃないのか」
少年はひと口飲んで驚くと、むしろ嬉しそうにごくごく飲みました。
酒はあまり好きじゃないようです。
「お前は飲まないの」
半分以上も飲んでしまってから、娘に瓶を返しました。
娘は自分も喉が渇いたような気がして、おいしそうに飲みました。
「何か食うもん持ってない?」
少年は娘が飲むのを見守りながら、小さくたずねました。
娘はくるみパンと木苺のジャムを取り出すと、少年にあげました。
両方とも、やはり家で作ったものです。
少年はくるみの香ばしさに目を細めながら、全て平らげてしまいました。
それから
「ありがとう」
娘に礼を言うと、人ごみの中へ消えました。
娘は次の週も街へ出かけていきました。
買い物はなかったけれど、少年に会いに行ったのです。
少年はやはり同じ場所で、同じようにたばこをのんでいました。
娘はジュースやパンを入れた籠をそのまま少年へあげました。
家に持って帰ってくれたらいいなと思ったのです。
「お使いかよ」
少年は赤ずきんのような荷物に辟易しました。
それでも
「ありがとう」
きちんと礼を言うと、籠を持って消えました。
次の週もその次の週も、娘は食べ物を持っていってやりました。
少年は空っぽの籠をたまに返してくれます。
「返さない籠はどうしてるの」
娘は尋ねました。
「子猫の寝床にしてる」
少年はそっけなく答えました。
娘はきっとその子が好きなんだろうと両親は気がついていました。
娘のほうが気づくのが遅くて
今度こそ少年が来なければいいと娘は思いました。
食べ物でいっぱいにした籠を毎週届けながら
これが最後ならいい
あの少年がお腹いっぱい食べられて、笑えるようになるなら
私の籠をとりにくるのはこれで最後になればいいと思っていました。
2.
あるとき
少年が籠を取りに来ない日がありました。
娘は夕暮れまで待つと、ぼんやり市場を見て回りました。
これで最後にしてよいか、見極めようと思ったのです。
少年は時計店から出てきたところでした。
右ポケットから金の鎖がはみ出して、買ったようには見えませんでした。
「この街には何もないね」
娘は少年に言いました。
「たくさんあるけど、何もない」
お金を出さなきゃ手に入らないなら、何もないのと同じです。
「森にはたくさんのものがあるよ」
娘は言いました。
「家にはないけど。森に行けば何でもあるの」
澄んだ泉もくるみも葡萄も、森には何でもありました。
鳥も魚も獣も、腕さえよければ獲れました。
そしてその腕は子どもでも磨くことができるのです。
簡単ではないけれど、大人より上手く、大人より豊かな子どももたくさんいるのです。
「神さまのお恵みじゃなきゃ、とってはいけないよ」
娘は言いました。
「神さまが下さるもの以外をとるのは、犯罪だよ」
娘は言って
もう日が暮れかけていました。
「鳥をとって魚をとって。お前は何を返した」
少年は尋ねました。
「葡萄をとってくるみをとって。お前は何を返した」
少年は尋ねます。
「とるだけで何も返さないなら。やはり盗みだと思う。俺は裁かれ、お前は裁かれないだけだ」
娘は少年を見つめました。
少年の影は長く伸びていました。
「俺は神も盗人だと思う。父を奪い母を奪い、俺から飯も寝床も奪った。一番困っているとき助けてくれたのは、人間だった」
少年は小石を投げて立ち上がりました。
「助けてくれた人のために俺は盗みをしている。捕まったっていいんだ。恩を返してるだけだから」
娘は籠を渡しました。
「ありがとう」
少年は受け取ると、夜の街へ消えました。
3.
少年が自首をして、娘はしばらく手ぶらで街へ行きました。
「飯出るから」
少年はもう籠を受け取ってくれません。
出所後、少年は見習い職人になりました。
鍵師の親方が、少年の手先の器用さを見込んで雇ってくれたのです。
娘は背伸びして、こっそり窓から中をのぞきました。
中では少年が額の汗をふきながら、慎重に鍵を削っているのが見えました。
見習いも半ばを過ぎた頃、少年は立派な若者になっていました。
「あなたが好きです」
娘は初めて告白をしました。
「俺はお前なんか好きじゃない」
若者はそっけなく返しました。
親方に認めてもらう作品を懸命に作っていた頃
「あなたが好きです」
娘は二度目の告白をしました。
「俺はお前なんか好きじゃない」
若者はやはりそっけなく返しました。
それでも娘が小籠に入れてきた花は、仕方なく受け取っておきました。
とうとう親方から独立するという日、娘は三度目の告白をしました。
「あなたが好きです」
「俺は……前科者だからやめておけ」
男は静かに答えました。
娘はうれしく思いました。
今日は「お前なんか好きじゃない」と言われなかったので、うれしく思ったのです。
「私と一緒にいて下さい」
男は困って、娘に説明しました。
「前科者が堅気の職人になるのは難しいことなんだ。これまでは親方が守ってくださったが、これからはそうもいかない。俺も悪事に手を染めたくないとは思っている。だが、自信がない」
大人になった若者には、幼い自分を助けた人間の意図がわかるようになっていました。
でも、わかったからといって抜け出せるでしょうか。
森育ちの優しい娘を守って、生きていけるでしょうか。
若者には自信がありませんでした。
「私はあなたに言われて、私も盗んでたって気づいたんです」
娘は昔と変らない温かい瞳で言いました。
「だから今は少しずつ手入れしてるんです。手入れして、長くずっと一緒にいようと思ってるんです」
どう言っていいかわからずに、娘ははらはらしました。
「父と母に言ったら、父はもうやってるよって笑いました。でももっと大切にしようって。私の後の後まで続くようにしようって。皆でやってます」
娘は口下手でした。
上手く言えるよう神に祈りました。
「父に言ったら、立派な人だねって。母も、もういないけれど生きていたら、きっと褒めたと思います」
娘は息を吸うと、深く吐きました。
若者は娘の言葉を待ちました。
「よかったら今度、森を見に来ませんか。お仕事は、ちょっとお休みして」
ちょっとお休みがおかしくて、若者はくすりと笑いました。
父親ってどんな人だろう。
こっちの方がよほど自信がない気がします。
それでも
「ありがとう」
若者はある春の午後、娘と一緒に出かけていきました。
十年近く打ち込んできた仕事をお休みして、娘の父親に会いに、娘の森を見に、出かけて行きました。
ありがとう