名前も知らない【3-3】

古瀬 深早

名前も知らない【3-3】

▼ 前章【2-3】
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14|破片と断片

14|破片と断片

 ろくでもない色が、身体に詰まってる。

 昔、彼が手元に目をやったまま呟いた一言だ。僕達がまだ同じ制服を着てあの町にいた頃だった。
 夏休みだったはずだ。市街地を見下ろす、地元ではそこそこ有名な夜景スポットでもある自然公園に僕達はいた。彼がまだスケッチブックを持ち歩いていたから、高校一年だっただろうか。
 容赦なく照り付ける日差しから隠れるように日陰を探して、桜の葉で光が遮られるコンクリートの階段に僕達は腰を下ろしていた。櫂谷(かいたに)はそこでスケッチを、僕は当時の友人達のあいだで回し読みされていた漫画を数冊一気読みしようとしていた。
 じっとりとした暑さだった。すでに足の甲にサンダルの日焼け跡がついていた。
 持って来たペットボトルは、ふたりとも早々に空にしていた。公園の水道水をつめて、それを浴びたり飲んだりしながら過ごしていた。櫂谷は黙々と鉛筆を走らせていたけれど、時々ふと顔をあげ、近くで鳴いていたアブラゼミを追い払うために大声で叫んでみたりもした。
 そんな中で、思い出したように言ったのだ。ろくでもない色が、身体に詰まってる、と。

 ――色?

 うつ伏せに寝転がった姿勢で僕が尋ねると、彼は鉛筆を走らせながら頷いた。こんなこと、おまえにしか言えないけどねと付け足している。恥ずかしいじゃん、ガキの自意識過剰みたいに言われそうで、と。
 ぼそぼそしゃべる彼の声のあいまに、紙の上を走る鉛筆の音が小さく耳に届く。さらさらと迷いのない、心地良い音だった。

 ――あっちこっちから入ってきて、ほっとくと詰まるんだよ。

 首からかけていたスポーツタオルで額を拭い、彼はペットボトルに手を伸ばした。荒っぽいような仕草でキャップをあけて、流し込むように水を飲んでいる。
 
 ――そうなると重くって、だんだん目が曇ってくる。そいつらを片付けないと、やること何にも、現実味がない。

 変声期を迎えた櫂谷の声は、周囲の友人達の中で最も低かった。見た目とは不釣り合いに思うくらいで、本人も気にしていた。母親から毎朝小奇麗な服を手渡されるような生活を彼はしていて、実際に当時の彼は人目を引くきれいな少年だったと思う。

 櫂谷の言葉に促されるまま、僕はその場で想像していた。
 ただでさえあふれるように感情が湧き上がり続ける、自意識に手を焼いている自覚がある年頃だ。それだけでも充分持て余しているというのに、さらにこいつは他の何かの相手をしなくてはいけないのか。
 自らを芸術肌だと思いたくなかったのか、あの頃の櫂谷は感受性とか多感さみたいなものを見えないように隠したがっているように見えた。感性が豊かであることよりも、洞察力や本質的なものにひらけていることのほうがよほど重要だ、そう思っているように僕には見えた。
 絵を描くという行為が暮らしの中に当たり前にある環境で当然のように手を動かしてはいたものの、櫂谷自身から美術に対する情熱や熱意を感じたことはあまりなかった。本当にしたいことなのか、それとも別の何かを心の中では求めているのかも。聞いてはいけないような気もした。
 それでも、きっと必要なことではあるのだろう。そう思っていた。現実と自分のあいだに流れ込んでくるそれと向かい合う、ひとつの手段として。

 話が途切れたような気がして、僕は彼のほうに顔を向けた。
 櫂谷は鉛筆を動かしながら、わずかに笑っていた。自嘲を覚えるにはまだ早いはずの年頃なのに、彼はすっかりそういう感情を身に着けているように思えた。
 僕のほうに目をやらないまま、彼は言った。
 
 ――俺はこういうことしてないと、おまえ達のいるところに、行けない。

 何か、返事ができたかは覚えていない。おそらく、しなかったはずだ。彼の一言を受け止めるような言葉をあの頃の僕は持っていなかった。
 蝉の声だけが響いていた。
 夏の午後、照りつける光の強さと、むせかえるほどの緑や土の匂い。

 後ろのほうで、自転車のベルを鳴らす音が響いた。
 振り向くと、キャップを被った嶋岡が僕達に向かって大きく手を振っていた。ここにいるって、堀井のおばさんに聞いたから、と。当時から大柄だった嶋岡の履いているハーフパンツから、白くがっちりとした足が覗いていた。
 彼は自転車を停めて、機嫌よさげに歩いてきた。よく見ると、風呂敷に何かを包んで、たすきのように肩に斜めにかけている。紫色の、渋い色合いのそれは途中で大きく盛り上がっていた。
 櫂谷と僕は、並んで不審そうな顔をしていたのだろう。嶋岡はああ、という顔をして、風呂敷の盛り上がった部分を腹のあたりまでずらし折り目に手を入れた。そしてどうだと言わんばかりに、中から小玉スイカをひとつ取り出した。差し入れ、と言っている。年寄りみたいな色の風呂敷背負って来るなよ、と櫂谷があきれて言い返す。
 昔から良識に長けた子供だったけれど、嶋岡は稀に周囲を驚かせるような自由な言動をするやつでもあった。深夜うちの裏に僕を呼び出しに来る時も、かっちりしたコートを着た櫂谷の横で彼はよく半纏を羽織って立っていた。
 
 ――ていうか、これどうしたの。
 ――仏壇からかっぱらってきた。
 ――罰当たるぞ。ていうかおまえのところ、今年初盆だろ。
 ――大丈夫だよ。ばあちゃん、俺のこと溺愛してたから。

 しれっと言って、彼は再びその風呂敷に手を入れた。十徳ナイフを出して、さっさとスイカに刃を入れてしまう。櫂谷は信じられないという顔で僕を見ている。
 嶋岡は機嫌よく、かつひどく雑にスイカを割って僕達に差し出した。ああ塩忘れた、などとのんびり言っている。
 
 ――何か、おまえって幸せそうだよな。

 スケッチブックを畳んで脇に置き、櫂谷は笑った。深刻な気分がすっかり散ってしまったような、あきれたような表情だった。
 そして嶋岡の差し出した果汁が滴る歪なスイカを、渋々とした様子で受け取ったのだ。


 メッセージを確認してすぐに、僕は宮津さんに電話をかけた。彼女は何を言っているのかほとんどわからないような鼻声で、ぐすぐすと泣きながら状況を説明した。
 帰って来てって何度も送ってるのに読んでくれないんです、どこにいるのかもわからないし、職場の人も何も教えてくれない、と。
 この短い時間によくそれだけの行動がとれたと思い尋ねると、櫂谷が出て行ったのは三日も前のことだと言う。絶句した僕に、彼女は言ってなかった、と気づいたように呟いたのだ。
 埒が明かないと、原付を飛ばして彼の部屋に向かった。
 宮津さんは腫れあがった目でドアを開け、僕を見上げて首を横に振った。連絡はない、という意味か、ここから出ていく気はない、と伝えたいのかはわからなかった。
 部屋の中に入るのは気が引けたが、すぐ近くにある大通りのファミレスに彼女を連れ出すことはできなかった。身なりを気にしてのことだった。仕方なく部屋に入り、彼女の淹れたコーヒーを前に詳細を聞き出した。僕が最後に彼と会ってから、もう三か月近かった。

 調子が悪い様子はなかった、と彼女は言った。
 最近は比較的ゆるめのスケジュールの仕事が続いていて、落ち着いていたらしい。仕事納めの後に一度喧嘩はしたけれど、帰省の予定がなかった櫂谷は同僚やこっちの友人と何度か飲みに行ったくらいであとは部屋にいたようだった。
 喧嘩っていうのは、と訊いた僕に、彼女は恥じ入るように俯いた。
 わたしが、お正月の準備をしたからです、と。この期に及んでわたしとそういうことはしたくない、いかにも家庭ぶったようなことは辞めてくれって。

 ――別れ話、あれからもされてたんですか。

 気まずい質問だったが、もうしないわけにいかなかった。
 宮津さんはくしゃくしゃにしたティッシュで鼻の下を抑えながら頷いた。化粧ももうしていない、涙で濡れて腫れた目だ。後ろでひとつに編んだ髪はすっかりほつれている。
 彼が雨の中で宮津さんの話をしていたのを思い出した。別れ話を繰り返しても通じない、別の星の女だ、と。去年の春、僕が千紘と出会った日の会話だった。

 ――僕、あんまり人のことに口出しってしたくないんですけど。

 僕の切り出した言葉に、彼女は一度小さく震えた。
 それから身構えたように身体を固くして、おそるおそるといった様子で僕のほうに視線を移した。

 ――宮津さん。もう、あいつとは潮時なんじゃないですか。

 案の定、彼女は僕の言葉に衝撃を受け、ぎゅっと目を閉じた。閉じた瞼からまた新しい涙があふれて、頬や食いしばっているだろう口の周辺が紅潮する。
 彼女はそのまま、再び首を横に振った。いやです。
 長く続く彼女の嗚咽を耳にしながら、僕は部屋を見回した。
 櫂谷は、もともと物を集めることには関心がない。衣類もそう多くないし、装飾品だって数えるほどしか持っていないはずだ。家具や家電のデザインにこだわりがあるのは見て取れるけれど、短期間部屋を離れるとしてトランクひとつでも充分間に合う。実際に、1DKの部屋で目につくのは宮津さんの選んだだろう物ばかりだった。

 ――だって、恭一さん、苦しんでるんですよ。
 ――あいつは昔からそうですよ。何もしてやれなくて、心苦しいですけど。

 周囲の言葉で、簡単に下ろせるような重荷だったら良かった。でも彼の持っているのは、そういう類のものではなかった。
 平常心を失っている相手に対して、言い過ぎた、とも思った。それでも、やはり櫂谷とこの人は長く一緒にいられるふたりには見えなかった。
 宮津さんは濡れた目で僕を睨みつけたけれど、言葉は返ってこなかった。
 とりあえず、一旦でもいい、荷物をまとめて家に帰ることを考えてくださいと伝えた。僕は友人達と櫂谷を探します、と。何かあったら、報告しあうことも提案した。
 静かに洟をすすり続ける宮津さんに頭を下げて、僕は櫂谷の部屋を出た。
 階段を下りながら、スマートフォンを取り出してその名前を探す。


 嶋岡は、まだ起きていた。
 ここ数時間のあいだに知った事情をすべて話すと、彼はひどく穏やかな声で「居場所はわかってる?」と訊いてきた。
 これから心当たりをあたるつもりだ、と僕は答えた。当人は携帯電話の電源を切っていること、彼の所持している小型のラップトップが部屋になかったこと――そのままなら、行先を調べた痕跡でもあるかと思ったのだ。前回はきれいに消去されていたけれど――を続けて告げる。嶋岡は小声で参ったな、と呟いた。
 実際は、櫂谷が深刻な気分で行動したとも断定できなかった。
 僕達の中にあるのは、以前の彼が同じようなことをした時に一種の覚悟があったという記憶だけだ。楽観することも冷静でいられないのも、そのせいだった。
 宮津さんだけを相手に事を起こしたなら、僕には連絡が来たはずだ。少し前にあったように、こういうことになると思うからうまくはぐらかしてくれ、と。適当にビジネスホテルに泊まるとか、例の社長の家にいるからと言って僕を巻き込んだだろう。そうしなかったことが、さらに不安を膨らませた。
 とりあえずそっちに行くよ、と嶋岡は言った。合流してから決めよう、堀井の家で仮眠取らせてくれる? とも。
 承諾して電話を切った。日付が変わるまで、もう三十分もなかった。

 僕の部屋に到着した嶋岡と三時近くまで当人と心あたりのある相手に連絡をしたが、櫂谷の居場所を掴むことはできなかった。
 力尽きるようにして眠った翌朝、地元で暮らす小幡からの連絡があった。
 昨日彼の父親の勤務する博物館に、櫂谷らしき人物が長く滞在していた、と。

「盲点」
「普通はそうでしょ。あいつ長く地元戻ってなかったんだし」
 嶋岡はコンビニ袋を助手席に座る僕の膝にパスするように手渡し、彼にしては少々荒っぽい仕草で運転席のドアを閉めた。彼の愛車はライトブルーのノートだ。
 エンジンをかける前に、袋の中から購入したばかりの栄養ドリンクを取り出して手渡す。僕の部屋から歩いて数分のところにあるコンビニで、僕達は朝食を仕入れたばかりだった。
 カーナビには、すでにここから僕達の地元までの経路が表示されていた。二時間程度と書かれている。土曜だから、もう少し遅くなるかもしれない。

「どうせなら、三日前に知らせて欲しかったわ」
 助手席で、つい口にしてしまった。隣から小さいため息と、だよね、という同意が聞こえる。
 嶋岡と話し合って、宮津さんには行先を知らせないことにした。同行したがるかもしれないし、そんなことになったら櫂谷と落ち着いて会話することも難しくなる。
「俺も悪かったんだ。もっと早いうちに入っていけばよかった」
「いや、恭一のほうが嫌がるでしょ、それ」
 嶋岡は少しだけ笑ったけれど、目元のあたりには疲れが浮かんでいた。
 娘が風邪をひいたとかで今週は予定がかなりずれこんでしまい、寝不足の状態らしい。久しぶりにゆっくり休めるかと思った週末、二十三時過ぎにかかってきた僕からの電話で彼は非常事態を悟った。ナイロンバッグに着替えを詰め込んで、すぐに家を出たと言っていた。
 奈津さん大丈夫だったの、と奥方の名前を出して尋ねると、日頃の行い、と彼は笑った。同じ高校だったから、彼女も当然僕達のことをよく知っている。

「堀井は、その人と何度も会ったことあるの」
 圏央道を目指しながら、嶋岡は焦った様子もなく静かに運転している。
「昨日入れて、三回だったかな。あとは話で聞いてただけ」
 宮津さんがどうやって櫂谷と知り合ったかも知らない。同じような趣味もなかったとしたら、やはり図書館で出会ったのだろうか。自分から積極的に異性に寄っていったことはほぼないと言っていいだろう櫂谷は、基本的に来るもの拒まず去る者追わずの姿勢でいる。
 本来の整った容姿をあえて崩すような恰好に、愛想のない応答。
 それでも、時折見せる彼の無防備な純粋さに囚われてしまう女子は少なくなった。自らの望んだ形の関心が向けられないことに気づいた相手が去っていくのも早かったが、当人は気にもしていないようだった。
 宮津さんは、櫂谷にとってもきっと初めてのタイプだったはずだ。どちらかというと気が強そうで華やかな感じの女性が並んでいることのほうが多かったから。

「あいつ、異性が相手になると本当にだめだね」
 嶋岡が小さくため息をついた。好きでもない相手はべらせるからなあ、とぼやくように呟いている。
 あの人はなぜか放っておけない、という意味の言葉は、僕も何度か聞いたことがあった。名前も覚えていない、どの子だっただろうか。彼自身はマイペースで奔放に暮らしているのに、こっちの話なんてほとんど聞き流されてしまうのに、放っておいちゃいけない気がする、と。

「言葉が通じない、みたいなこと前言ってなかった?」
 信号のない横断歩道に立っていたカートを押す老人のために、彼は車を停めた。どうぞ、というサインを相手に送って愛想よく笑っている。
「男同士の感覚で女子と話そうとしてたからなあ」
「愚痴に真顔で解決策出したりね」
 揶揄ではなくそう伝えると、嶋岡はうわ、と小声で言った。
「そんなことしてた?」
「なんで怒ってるか理解できない、どうして話が通じないんだ? って」
 櫂谷らしいといえばらしいエピソードだ。
 本人がそれを希望していたかは別として、家を出るまで彼は母親からほとんど完璧と言っていい身の回りの世話をされていたのだ。自分から何かを察する必要がなかった彼は、多くの女性が持っているコミュニケーションの性質に恐ろしく鈍感だった。
 青になった信号を確認してアクセルを踏みつつ、嶋岡はあいつらしい、と言っている。
「高二まで、絵ばっかり描いてたし」
「そういうところ、やっぱりちょっと独特だったよなあ」
 懐かしい気分になったらしい。嶋岡の声が若干やわらかくなった。

 
 色が入ってくる。放っておくと、身体に詰まる。
 単純な色彩の話ではなかったのだろう。そういうふうにして喩えるしかない、あらゆるニュアンスとか、エッセンスのことだったはずだ。雰囲気や風合い、感情や直感といったもの。味わいを超えた、時には彼の内部を圧倒するような何かも。
 それを外に押し出すための手段が、描くことだったとしたら。
 その行為を手放してしまった櫂谷の中には、色が溜まり続けていたのではないだろうか。それに片を付けないと僕達のいるところに来られないと言っていた彼は、あれからも自らの中に入り込んでは降り積もる色から逃れられず、内側から埋もれてしまったのだろうか。


 一度だけ、櫂谷から真夜中に電話がかかってきたことがあった。
 彼が自らの内面と現実の帳尻合わせに苦心して、ひどい状況になっていた時期のことだ。僕達が地元から離れた場所で成人し、学生を終えた順番で就職や就活をするようになった頃だった。当時の櫂谷は社会活動ができるような状態ではなくて、地元のグループとも疎遠になっていた。
 カナダから戻ったばかりの僕はレンタルショップの店員をしていて、周囲で最も時間に余裕があった。正直に言えば、日本に長居する気もなかった。英語圏に出てしまった時に切り替わる「僕」の人格のほうが、僕自身にしっくりときていた。こっちでは信じられないようなあらゆる不便さも危険も向こうの生活にはあったけれど、それを差し置いても快適だった。
 バイト先から帰り、食事を済ませてシャワーを浴びたあとの時刻だったはずだ。
 これからの生活のことをぼんやりと考えながら、僕は自分の部屋でほとんど消音に近いところまで音量を絞ったテレビをかけっぱなしにしていた。月間洋楽ランキング。耳慣れてきた音楽が流れる。最近店でもよく耳に入る曲だった。部屋の暗がりの一画に色があふれ、携帯電話にはバイトで仲良くなったばかりの女の子からのメールが何度か届いた。
 ふらふらと暮らすモラトリアム真っ只中の若者の、何でもない夏の夜だった。


 櫂谷恭一、という名前が表示されているそれに手を伸ばした。
 まだガラケーが主流の時代だ。二つ折りのそれをひらいて、僕は通話のマークを押した。

 ――はい? 櫂谷?

 そう答えたけれど、返事はなかった。むこうで、何かがざあざあ言っている。
 彼の言葉が聞こえるより先に、まずい、と思った。雰囲気から異様なものを感じて、ついその場に立ち上がる。
 窓辺に移動して、僕はベランダにつながるカーテンを開けた。雨は降っていない。水辺にでもいるのか、シャワーでも使っているのだろうか。

 ――櫂谷? どうした?
 
 強めに繰り返した。
 彼はぼそっと何か言ったようだったけれど、僕の耳には聞き取れなかった。

 ――なあ、大丈夫か? 今、どこにいる?

 声に自然と焦りが入ってしまう。
 彼が鼻の詰まったような声で、大丈夫だ、と言った。ろれつの危うい発音に、酒か薬だ、と思う。もしかしたら、その両方かもしれない。

 ――今、どこにいるんだ?
 ――外だよ。
 ――外って、どこ。
 ――近所だよ。別にあぶなかねえよ。

 彼は言った。あまり説得力のない響きだ。
 彼のところに向かおうかとテレビの画面に視線を移したけれど、すでに終電は終わっている時刻だった。当時櫂谷が住んでいたのは練馬だった。

 ――おまえ、今酒飲んでる?
 ――けっこう。
 ――帰りな。もう二時近いよ。

 なるべく刺激にならないように告げると、彼は少し不貞腐れたような声を出した。寝れねえんだもん、と。新しい薬が全然効かねえ、足ばっかりぞわぞわして気持ち悪い、と。

 ――外にいるほうが楽なのか。
 ――まあ、ちょっとはごまかせる。 

 彼の話す言葉のむこうで、まだざあざあという水音がする。
 そこ、川でもあるの、と尋ねると、櫂谷はああと言った。川っていうほどのもんじゃねえよ。水汚えし、たぶん下水だ、と。身を乗り出していやしないかとはらはらした。
 独特の間が続いた後、彼がふと思い出したように続けた。
 
 ――おまえの服に俺が釣り針引っかけたの、ああいうのを川って言うんだろ。

 故郷で川釣りをした記憶が蘇ってきたらしい。
 少しだけ声はあかるくなったものの、奥のほうはまだ不穏なものが揺れている。
 何か僕が余計なことを言ったら、それを傷口にして内側にあるものがあふれてきてしまいそうな。

 ――そう、だな。

 そうだな、と言った。ようやく、それだけが言えたようなものだった。
 言いながら、僕は少し泣きそうになっていた。

 釣りをしようと思い立ったのが午後だったから、渓流まで行けるほどの時間はもうなかった。
 行先に迷ってから、結局近所で一番川幅の広い河川敷にいつもの面子で集まった。そこで、櫂谷が振った釣り竿から飛んだルアーが風に流され僕の服の裾に引っかかったことがあったのだ。
 互いに危ねえと言いながらげらげら笑って近づき合った、あれはいくつの頃だっただろう。
 夏の日差しに強く光る川面と、猛暑の中でもひどく冷たかった水の作る流れ。力強くて、濁りがなくて、僕達の持てあます憂鬱や拗ねを強く押し流していった。
 あの頃抱えていたどんな気持ちも、まるでお構いなしみたいに。

 家に帰ればきっと、いつものつまらないやりとりの繰り返しだとわかっていた。
 僕達はそれぞれがまだ幼くて、まだまだ自分自身の輪郭をはっきりと得ることができていなかった。崩れてしまいそうな、無防備に脆い表面に新たな傷が入ることをいつも怖がっていた。前の傷を回復し終える前にやってくるだろう次の衝撃に身構え続けて暮らしていることに嫌気がさしていた。
 逃げ出せないあの世界の中で、どうにか自分自身を守っていた、あの頃。
 
 僕の出した弱気な返事に、櫂谷は一度鋭く息を呑んだ。
 そして、こみ上げたような声で僕に尋ねたのだ。

 ――なあ、なんでおまえは越えられたんだ。

 出会った頃の幼い彼ですら、あんなに心細い声は出さなかった。
 だって、櫂谷恭一は他のやつらにはないものを確かに持っていた。
 才能も、彼にしかない激しい鋭さも、潜在的なリーダーシップだって持っていた。子供のうちから、あまりに厳しいものを内側にたたえて燃えていた。おまえ達の見ている秩序になんて端から用がないとでも言いたげなあの佇まいに、厳しく何かを問われているようで大人達すら緊張感を覚えていたのに。

 越えられてなんかない。
 そう思ったものの、口には出せなかった。
 俺は逃亡しただけだ。あそこからは離れることができたけど、まだまだあいつの言葉が身体中に染みになって残ってる。動くと響いて、うるさくてたまらない。どこに逃げてもついてくるそいつに、耳を貸さないようにどうにか振舞ってるだけなんだよ。
 倒れないように。
 だって倒れたら、あっという間に飲まれて蝕まれてしまうから。

 ざあざあという音だけが、僕達のあいだを流れていた。
 何も言い返せなかった僕に、櫂谷は息を吐いた。放った言葉を後悔しているような、自分自身にうんざりしているようにも聞こえる小さなため息だった。

 ――ごめん。俺やっぱおかしいな。帰って寝るわ。

 櫂谷はそう言って、僕の返事を待たずに電話を切った。



「――堀井は、最近むこう帰ってた?」
 館林市の表示が見えてきたところで、しばらく黙っていた嶋岡に尋ねられる。彼の運転は重いような、ゆったりとした安定感がある。
 ぼんやりとしていたせいか、すぐに返答できなかった。頭の中で、嶋岡には事情を全然話していなかったことを思い出す。
「けっこう戻ってるよ」
 僕の答えが意外だったのだろう、嶋岡は眉を持ち上げながら、え、そうなの、とこちらを見た。
 実は、という前置きをしてから、僕は簡潔に父の事情を説明した。長い話にはならなかったし、彼相手にそうする必要ももちろんなかった。
 嶋岡はしばらく眉をひそめて、そっか、もう親世代もそういう年齢だもんな、としみじみと呟いた。バイトしながら行き来するのも大変だろ、と。
「まあ、そこまでまめに帰ってるわけじゃないから」
 そんな期待もされていないだろう。そして、その予想を裏切らない僕のことを情の薄い身勝手な息子だという目で周囲も見ているだろう。その通りだけれど。
 父の身に起きていることに対してリアリティを感じていない、というわけではなかった。祖父が亡くなった時も、昔の担任が不慮の事故で他界したと聞いたときも、そのあっけなさに衝撃を受けたのをまだ覚えている。この現実の重みがまるで思い描けないというわけではなかったけれど、それ以上の出来事になってくれないだけだった。
 嶋岡は、それ以上僕に家の事情を尋ねなかった。近況を話す機会がなかったしなあと言ってから、何かを思い出すような表情を浮かべる。
 最後に会ったのって、小森が一緒だったっけ、と。

「そう、あの、チリワインの――」
 そこまで言って、ああ、と思った。
 彼も同じことを思い出したらしい。あの日の帰りも忙しなかったな、と短く笑う。

「あの後、あの人何ともなかったの」
「ベンチで少し休んで、バス停まで送ったよ。悪い、お友達にもお礼を言っておいてって言われてたのに忘れてた」
 口をひらきながら、僕の頭には千紘の顔が思い浮かんでいた。
 彼女の顔に、もう、という小さな不満が表れているような気がした。本気で怒っているわけじゃない、すぐに緩むような、でもむっとした表情だ。

 僕の声に、思うところがあったらしい。
「そっか、あれがきっかけで、仲良くなったりしたわけか」
 僕のほうも見ず、嶋岡が面白そうに告げる。
 長年の付き合いはこういうところが油断ならないな、と思う。
「まあ、そんな感じ」
「きれいな人だったもんな」
「本人は、あんまりそう思ってないけど」
 千紘が容姿を褒められるようになったのは、成人を迎えた後かららしい。
 幼い頃はもっとぎょろっとした目をしていて、身体も棒きれみたいだったと言っていた。顔色も良くなくて、雰囲気も緊張して硬い、まるでアダムスファミリーのウェンズデーだと男子に何度もからかわれた、とも。
 彼女の、リラックスした服装が頭に浮かんだ。ソファの上で横座りをして、ちょっとだけ困ったような笑顔で僕を見る。千紘が過去について話す時、いつもする表情だ。
 週末なのに連絡をしてないな、と思った。
 今日は、家で仕事をしているだろうか。 

「いいなあ。俺なっちゃんと出会うの早かったから、皆もっと俺にそういう話して欲しいんだけど」
 笑って告げたあとに、少し慌てたように付け足す。後悔はしてないけどね、と。
「櫂谷もあれだし?」
「そう。原は良かったけどね。小幡も、いいやつなのに奥手だから――」
 そのまま、あの頃の話題になった。
 隠しようがない、未熟で不格好だった初恋とか、それぞれが背中を押して進んでいった関係。嶋岡は当時を思い出してひっそりと笑っている。そわそわとした心配を紛らわすのに、ちょうど良いと思える話題だった。このまま行けば、地元まで一時間かからずに到着できるだろう。

 嶋岡はそこで、印象的だったいくつかのエピソードを僕に語った。
 そして今に意識を戻して、大変な時期に支えてくれる人がいて良かったな、と前を見たまま僕に告げた。

15|転がる棄石

15|転がる棄石

 正午に近づくにつれて混雑してきた北関東自動車道を降りる。
 嶋岡は迷いなく国道一二二号に向かって車を走らせていた。
「実家ってことは――」
「ないと思うんだよなあ」
 スマートフォンを取り出して、僕は櫂谷とのトーク画面を再び見直す。昨夜から送り続けているメッセージは、まだ既読になっていなかった。
「でもとりあえず、家の前は通ってみるか」
 カーナビを操作する嶋岡に頷いた。櫂谷は今は車には乗っていないから、実家に来ていたとしても外からそれを判断することは難しそうだけれど。

 土曜十時の街は、普段よりも車の量が多かった。
 外出する家族連れや、買い出しらしき荷物を積んだ自家用車が目に入る。
 平和だな、と頭の片隅で思う。あかるくて、のどかで、ゆるやかな活気が街中を流れている。姿を消してしまったかもしれない友人を探して県境を超えて来たのが嘘のように思えるくらい、何でもない週末の午前の景色だ。

 櫂谷の家は、川沿いの雑木林を切り拓いた場所にある。
 通りから入ったら通り抜けの出来ない、幾つもの畑の行き止まりだ。ひっそりとした佇まいだが、櫂谷正臣のアトリエがある場所として有名でもある。ファンが立ち寄ったりもするから、外出しようとして門の前に顔も知らない人間が立っていることも珍しくなかったといつか櫂谷が言っていた。
 錆びた鉄の門は以前の家主が設えたものらしい。腰くらいの高さで、ひどく簡素だった。名の知れた人物の住まう家にしては、みすぼらしさすら感じさせた。人目につかないよう、あえてそのままにしていたのかもしれないけれど。
 嶋岡は器用に細道に車を入れ、櫂谷の家までまっすぐに繋がる道路まで入っていった。
 畦道を舗装したような、車二台がようやくすれ違うことができるくらいの私道だ。

「――何か、変化見える?」
 彼の家の直前で車を停めて、嶋岡が訊いた。
「いや」
 久々に見た彼の家の光景に、櫂谷が滞在しているような何かは見当たらなかった。
 嶋岡はダッシュボードからサングラスを取り出してすばやくかけ――櫂谷の母親に僕達がわからないわけがないけれど――音を立てないように車外へと出た。角度をずらすように数歩横に反れ、眉を寄せたまま戻ってきた。
「洗濯も、あいつのは出てないっぽい」
「思い切って聞いてみる?」
「おばさんがいればいいけど。親父さん出たら厄介だしなあ」
 顎のあたりを撫でながら嶋岡は唸っている。
 櫂谷正臣は、いわゆる気難しい人物ではない。どちらかと言えばのんびりとしていて、ひょうきんなところも目立つ人だ。ひどく気まぐれな自由人だということも知られていて、息子とはあまり共通点がないように見える。
 櫂谷が鋭敏さを持て余す子供だったことに比べて、彼の父親はその手の感性にそう鋭い人ではないようだった。あいつは何でもない顔して嫌なことからあっさり逃げる、俺の言うことなんて暖簾に腕押しだ、といつかの櫂谷が言っていた。

 車内で思い悩んでいると、斜め後ろに建っている平屋の扉が大きくひらいた。
 サンダル履きの老婦人がこちらに向かって出てくるのが見える。
 訝しげな表情で女性が近づいて来るのに気づいて、嶋岡は慌ててサングラスを外した。
「見覚えある?」
「いや」
 彼女が出てきた平屋は、僕達がこの町を出てから建ったはずだ。
 面識のある相手ではないだろう。

 女性は不信感を隠さない表情で運転席の横に立ち、皺だらけの手で強く窓を二回叩いた。
「あんた達――」
 何の用だという意味の言葉に、嶋岡はああ、という表情を浮かばせた。丁度良かったとでも言いたげな、愛嬌のある感じの良い微笑みだ。
 窓を下ろして、嶋岡は女性に対して小さく頭を下げた。すみません。

「ここって、画家の櫂谷正臣さんの家で合ってます?」
 しらを切ることにしたらしい。
 窓の外に立つ女性はまたか、という顔をして、そうだと頷いた。
「何、観光?」
「いえ、実は僕ら学生時代ここの息子さんと同級生で。今日は偶然近くまで来たんで、もしかしたら家にいるかなと――」
 女性に目線を合わせたような、やわらかな仕草で彼は告げた。
 上手い男だな、と助手席で思いながら僕も頷く。言ったことは間違いではなかったけれど、高校時代の同級生で実は同郷の人間だというようにはとても思えないような響きだ。

 嶋岡の作り話が通じないこともなかったらしい。女性が若干表情を緩めたように見えた。
「櫂谷さんのところ、今はご夫婦ふたり暮らしだよ。息子さんがいるっていうのは聞いてるけど、姿は見たことないね」
「そうなんですか?」
「うちはここに越してきて六年だけど、顔なんて一度も見たことない」
 ややあきれたような口調だ。指を折りながら、年末年始も、盆も、彼岸も、と続けている。
 嶋岡がそうですか、と繰り返した。大いに共感している、という顔をしている。
「卒業したら、一度地元戻るって言ってたような気がしたんだけどな――」
 ひとり言みたいに呟いた。
 もちろん、櫂谷がそんなことを言っていた記憶は一度だってない。

 話が通じたところで、老婦人は再び僕達のほうをじっと見た。
「同級生?」
「はい」
「千葉から?」
 車のナンバープレートも確認していたらしい。嶋岡は苦笑しながら頷いた。
「仕事の都合でちょっと寄ったんです」
「連絡でもしてから来れば良かったのに」
 女性は言った。ぶっきらぼうな物言いだったが、初めて同情的なニュアンスを感じた。
 嶋岡が、そうですねえとのんびり答える。僕のほうを見て、行ってみるか、と続けた。
 彼に合わせて僕が頷くのを確認してから嶋岡は女性に礼を告げ、彼女が車から離れるのを待った。
 
「昔から、この手のことは一流だよな」
 国道に戻る細い坂道まで戻ってから、僕から口をひらいた。
「信頼と実績」
「俺もけっこう真似してきたけど、やっぱ本家にはなれないわ」
「あくまで方便だよ。奥の手」
 こんなことばっかりしてたら雰囲気にだって出るでしょ、と嶋岡は笑った。積み重ねあってこそ、と言いたいらしい。
「とは言え――」
 額を右手で拭いながら、坂道を上がった先で左右どちらの道に出るか迷っている。

 どうする、という目に、ふと昔のことを思い出していた。
「博物館の上の、公園とかは?」
 何日も同じ場所に滞在しているとは考えにくかったけれど、他にぴんとくるところは思いつかなかった。
 嶋岡は頷いた。


 櫂谷が描くことから手を引いたと教えられた時のことは、よく覚えている。
 高校二年の冬休みだっただろうか。
 待ち合わせ場所にやってきた櫂谷を見て、変だな、と思ったのだ。
 何かが昨日までの彼と違っていた。雰囲気がひと回り小さくなったような、纏っていた何かを剥がしてしまったような気配があった。そのくせ、本人はどこか清々としたような表情をしている。
 ――何か、あった?
 ほとんど黒に近いネイビーのピーコートを羽織った櫂谷は、白い息を吐き出しながら僕のほうを見た。いつもより目を大きくして驚いている。
 ――別に、何も。
 僕のした質問に動じていないとでも言いたげに、彼はあえてゆっくりと答えたみたいだった。
 進路に関する面談を終えたばかりで、進路選択の資料になるものでも探しに行くかと僕達は書店を目指して歩いていた。

 数日前に出た終業式の最後、彼は表彰されたばかりだった。夏に行われた、中高生を対象にした絵画コンクールで入選を果たしたからだ。
 校長によって壇上に呼び出された櫂谷は、無表情で生徒達の列を抜けていった。いつものけだるいような態度こそ封印していたけれど、本心としてはそうしたかっただろう。気心知れた相手にだけわかる、さっさと終わらせて欲しいという気持ちを絶妙な具合に隠して彼は校長の前で深く頭を下げた。
 その場に起こった拍手は、すでにある種の慣習としてされたことだった。あまり感情の入ったもののようには思えなかったはずだ。
 珍しいことじゃない、いつもの入選の知らせ。二年の櫂谷はあの画家の一人息子で、本人もその道を選びつつある、自分達とは違う世界を持った人間。
 そんな認識が、校内にはすでに広がっていた。肯定的な感情を持った者も、冷めたような気持ちで彼を見ている者も同じだけいただろう。櫂谷自身もそれを一種の慣例であると認めていて、その時間をとにかくやりすごしてしまおうと思っていたはずだ。
 受け取った賞状の端を重ねて左手に持ち、櫂谷は来た時と同じ調子で階段を下りた。場を繋ぐように司会をしていた教諭が一言コメントを残したけれど、暖房器具の吐き出す熱だけでは温度の上がらない体育館から早く教室に引き上げたい生徒達の耳には入っていなかっただろう。
 自分の場所に戻った櫂谷の周囲が、彼に賞賛の言葉を投げかけた。
 彼はあまり表情を変えないまま、短い礼を何度か繰り返しているようだった。

 当時の櫂谷と駅のほうまで出る時に頻繁に立ち寄る店のひとつに、画材屋があった。
 雑居ビルの中に入っている、個人の経営する小さな店だ。古くて少し暗いけれど品数は豊富らしく、櫂谷に付き合って僕もよく店内にまで入った。
 美術の授業は常に可もなく不可もなくだった僕にとって、そこにある全ての道具は珍しいものに見えた。絵の具だけでも目がまわった。絵筆や下地、爪やすりのようなパレットナイフに定着材のスプレー、何に使うのかもわからない瓶詰の液体が並ぶ中を櫂谷はいつも慣れた顔で歩いていた。

 書店を出たところで、僕は彼に向かって尋ねた。今日はあの店に用事ないの。
 それまでぽつぽつと進路について話していた彼は、再び黙って僕のほうを見た。そして複雑そうな表情を顔に浮かべながら、ない、と言った。
 ない。
 珍しいことだと思うよりも先に、気のせいじゃない、何かあった、と思った。
 彼の話がまるで通じないという親父さんに余計なことでも言われたか、美術教師に的外れのアドバイスでもされたのだろうか。いずれ何らかの結果を残しそうな若者であった櫂谷を自分が育てた相手にしたくて、無理に関わりを持とうとするような大人もいないわけではなかったから。
 櫂谷はそれ以上のことを口にしないまま、無言で書店から離れて行った。出入りする客は多くなかったけれど、暖房や店内を煌々と照らす蛍光灯の灯りからそこに長居するのは憚られたのだろう。
 彼は気まずそうに頬を掻いていた。僕の先を歩こうとする姿から『ちょっと着いてきて』という雰囲気が漂っていた。
 次に櫂谷が口をひらいたのは、大通りから一本入った先、人も車も通らない細い道に辿り着いてからだった。

 ――辞めたんだ。もう描かない。


 私物をすべて片づけた櫂谷が姿を消したのは、数年前の初冬だ。
 その日の関東は薄曇りで、彼の母親から嶋岡へ、そして僕へと情報が流れてきた。当時のアパートの管理人が退去届も出さずに大量の家財を処分した彼の動きを不審に思い、実家に連絡したのが幸運だった。
 何度も繰り返し電話をかけたけれど、簡単には彼に繋がらなかった。僕は祈るような気持ちでコールを続けた。長く携帯電話の電源を切っていた彼がそれを再び起動しようとした理由は、おそらくあかるいほうの意味ではなかっただろう。
 櫂谷のいる青森まで車を走らせる途中、原も僕もほとんど話らしい話をしなかった。片方が出せる限りのスピードで運転を続け、助手席のひとりは友人達からの情報を携帯電話を手に待ち続けた。
 当時の櫂谷がもう全部がどうでもいいと繰り返していたことにも、自分自身に対して匙を投げようとしていたことにも、僕達は何もできなかった。彼自身の中で吹き荒れていた嵐の外側で、彼の時に過剰になる言動を宥められる言葉を何とか頭の中から探し出すしかなかった。無責任にしか響かないような励ましには何の意味もなくて、彼に与えられる希望なんてものも、当然持っていなかった。
 大きな陰りを抱える彼と向かい合う力を、僕達の誰もが持っていなかった。

 共に重ねた日々や理解できるような気がしたそれぞれの境遇、通じ合える何かがあんなにあっても、僕達は別の人間だった。踏み込めない、自分で引き受けるしかない領域がそれぞれにあった。
 あいつに、生きろと言い続けることすら時には横暴な行為に思えた。そこで苦しみ続けろ、と言っているような気すらした。
 自らの心の果てに立っていたあいつを迎えに行けるわけでもないのに、ひとりで行かないでくれと言い続けるのは、本当は酷なことなんじゃないか。
 そんなことが頭を掠めたこともあったけれど、結局は願うしか僕達にすべはなかった。

 行くなよ、櫂谷。そこを越えたら、本当に全部おしまいなんだ。
 こっち側に今のおまえを救えるものなんて何もないとしか思えなくても、自分を取り上げないでくれ。頼むから。

 降り始めた雪で白くなった道路の先に彼らしき姿を見つけた時、アクセルを踏む足に自然と力が入った。原が驚いたような声を上げたけれど、構わなかった。
 湿った雪の降る、陸奥湾沿いの小さな町だった。
 他の車はほとんど停まっていない契約駐車場に突っ込むように入って、車を停めた。もどかしいような気持ちでロックとシートベルトを外した。強張った手が震えて、噛み合った金具が外れるまで何度かそれを繰り返す必要があった。
 何とかして車外に出た僕の身体は、勝手に櫂谷に向かって歩き出していた。

 視界が熱く歪んで、鼻の奥がつんと痛かった。
 知らず知らずにあふれていた涙は、外気に触れた瞬間に冷たくなった。雪国の気温に上着を合わせる暇もなく飛んできたせいで、ジャケットの隙間からひどく冷たい風が入って来る。
 すぐ目の前にいるのに、駆け寄ろうとする足がもつれた。時間の流れがゆっくりになったようで、すべてがもどかしかった。
 たった十メートル足らずの距離が、あまりに遠かった。

 暗い目で僕を捉えた彼に手を伸ばして、やっとの思いで手首を掴んだ。櫂谷の手首は芯のほうまで冷たくなっていたけれど、奥でわずかに震えていた。
 震えてる、と頭の中で声がした。震えている。少なくともこいつの身体は死のうとなんてしていない、と。
 僕はそのわずかな振動にすがりつくような気持ちで、彼の胴に腕を廻していた。
 青白い頬、動かない瞳孔。一致しない心と身体だ。でも生きている。
 彼が彼自身の生から零れ落ちてしまうかもしれない、その淵で何とか手が届いた日。


 嶋岡と並んで公園内を歩きながら、あの日とは違う、と心の中で繰り返していた。
 制服姿ではしゃいでいたあの頃と変わらない、故郷の公園だ。あの日みたいな、凍り付くような寒さじゃない。ところどころで子供が楽しげな声をあげる、何でもない休日の正午。もうすぐここにだって春が来る。
 
 彼はそこで、蒸留酒の小さなボトルを手に俯いていた。
 いつか僕達が猛暑の夏の中で並んで腰を下ろした、階段のすぐ脇にあるベンチだった。公園のすみのほうにあって、地元の人間以外はほとんど近寄らない。
 彼の姿に、胃のあたりの力が抜けた気がした。ごく小さな安堵。

 先にそこに足を踏み出したのは、嶋岡だった。

「恭一」

 あの頃よりも、ずっと落ち着いた声だ。
 深く穏やかな、それでいてどこか厳しいような、彼にしか出せない声だった。

 名前を呼ばれた櫂谷は、そこでゆっくりと顔をあげた。眩しそうに顔をしかめている。
 次の瞬間、僕達ふたりの姿に気が付いた彼は鈍い瞬きを一度した。眉を寄せて、信じがたいというような顔をしている。
 少し離れたところからもわかる、伸びてうねった髪、無精ひげ。
 目が落ちくぼんで、わずかに黒ずんでいる。いつからここで飲んでいたのだろう。

「恭一。帰るよ」

 櫂谷の手からゆっくりと酒瓶を取り上げ、嶋岡は静かな声で彼に言った。
 父親みたいな言い方だ、と思った。
 自分の子供を公園に迎えに来たみたいな、静かで迷いのない声だった。

 ベンチに座った櫂谷は、黙ったまま、ひとつ小さな溜息を吐いた。
 そしてひどく面倒くさそうに、そこから腰を上げた。


「だからさ――」
 三十分後、櫂谷はファミレスのボックス席で居心地悪そうに僕達と向かい合っていた。

 寝不足の状態で朝から飲酒に耽っていたらしい彼を無事捕獲――嶋岡の言ったことだ――したところで、どっと身体から力が抜けた。
 嶋岡も同じだったらしい。自身の車の後部座席に設置していたチャイルドシートを手早く外しながら、彼は櫂谷にどこに滞在しているのかを尋ねた。数日間同じビジネスホテルに泊まっていて、今日地元を離れるつもりでいたと返ってきた。荷物は駅のコインロッカーに預けている、とも。
 荷物は後で回収することにして、とりあえず飯を食おうという話になった。
 櫂谷が酒臭いからと、嶋岡は走り出してすぐに後部座席の両窓を全開にした。実際はそこまで強く匂うわけではなかったから、一連の行動を咎める意味でもあったはずだ。僕はまだ開封していなかった天然水のボトルを後ろできまり悪そうに黙っている櫂谷に手渡した。
 適当なファミレスに移動しているあいだに、助手席で小幡にメッセージを送った。
 無事見つけた、心配ない。他のやつらにもそう回して、と。


「おまえ達見てたら、なんか今の俺ってひでえなって思ったんだよ」
 食欲があまりないのかもしれない。櫂谷は手にしたフォークをゆらゆらとさせている。
 そんな櫂谷とは逆に、嶋岡は黙々と食事をしている。ランチメニューの中で最もボリュームのある、ミックスフライ&グリルを注文していた。ライスは大盛りだ。怒ると疲れるのだと、こういうことの後は昔から妙に大食いになる。
「見てたって、俺恭一にちゃんと会うの二年ぶりくらいなんだけど」
 タルタルソースをエビフライにたっぷり絡めながら嶋岡が問う。櫂谷はまた気まずそうな顔をした。
「スマホでは話してただろ」
「グループでね。まともな会話なんてほとんどしてなかった」
 淡々と答え、彼はエビフライにかぶりついた。良い食べっぷりだと言えなくもないけれど、所作がいちいち気迫に満ちているようで気を遣う。
 櫂谷が、ちらと僕のほうを見た。怒ってるよな、と目で訊かれた気がして、浅く何度か頷く。友人思いの嶋岡は、櫂谷が自分から地元の友人達と距離を置いていることに少なからず腹を立てていたらしい。

「そりゃおまえ、結婚して子供も生まれて――順風満帆のやつに気安く声なんてかけられるか」
「へえ、俺達ってそんなに軽い仲だったんだ」
 嶋岡はすかさず言い返す。友人同士の会話のはずなのに、どこかで痴話喧嘩を聞かされているような気がするのはなぜだ、と頭の片隅で思う。
「俺みたいなのと関わったら、その、邪魔になるし」
「それは俺が決めることでしょ。何か急によそよそしくなるし」
 嶋岡はペースを落とすことなく目の前のフライを平らげていく。
 僕が呆気にとられているのに気づいたらしい。堀井、手がお留守だよ、と小さく諭されてしまった。パパ調なのやめてよ、と言いながらもどこかで叱られた子供のような気分になって、慌ててハンバーグにナイフを入れる。
「で、続き」
 嶋岡に促されて、櫂谷は若干唇を尖らせながら口をひらいた。

「この前、亮太と会った時に彼女さんが迎えに来ただろ」
 また、意外なタイミングで千紘が話題に出てきてしまった。
 櫂谷は嶋岡のほうを向いて、
「まともそうな人だったんだ。すごく」
「ああ、そんな感じあったね」
 表情を変えずに、嶋岡が頷いた。おまえも会ったの、と訊かれ、偶然、と答えている。まだ付き合ってない時だと思うけど、とも。
「亮太のこと、しっかり見てる感じで。きちんとしてて、初対面の俺にも――親切で」
 櫂谷はそう言った。
 たった数分のことだったのによく覚えているな、と思った。

「帰り道で、蓉子がどうだったのか思い出したんだ。亮太と会うのに付いてきた日、あいつ挨拶もろくにしなかったから」
 そう言われて、彼女と初めて会った日のことを思い出した。
 宮津さんは櫂谷の腕に絡みつくように彼に張り付いていて、警戒心たっぷりの目で僕を見上げた。小声でこんばんは、と言われたのは覚えているけれど、その表情はひどく硬く張りつめていた。
「ちょっと幼いところはあったんだけど、あいつだって元々はもっとまともだったんだ」
 櫂谷は言った。ぽつぽつと、難しいような表情で。
「やっぱ、俺のせいだよなって思って。おまえ達がちゃんと生きてるのに、俺だけ何やってんだって。一回気づいたら、もう嫌になっちまって」
 フォークをカットトマトに突き刺しながら、櫂谷は俯いた。
 嶋岡は変わらずに若干の不機嫌さを表に出しながら食事を続けている。

「別れ話、何度もしてたんでしょ」
「してたよ。本当に終わらせるつもりで」
 そう言ってから櫂谷は僕のほうを見て、あいつに会った? と尋ねた。昨夜そっちの部屋で、と付け加えると、まだいるのか、と彼は頭を抱えた。
「でも全然聞き入れねえから、もう話もしてなかったんだよ。でもあいつ、帰る気もないしこれからもここにいるって言って――」
 そんなことをしているあいだに年の瀬を迎え、一月が過ぎ、二月を迎えていたらしい。
「それで、うち五月が更新だからさ。いっそひとりで引っ越すかと思ってたら、あいつ勝手に更新書類出そうとしてて」
 それは聞いてないぞ、と思った。都合の悪いことに対しては口を閉ざす人なのかもしれない。
 櫂谷はひとつため息をついたあとに、最後のつもりで別れ話を切り出したと述べた。
 もうどう頑張っても宮津さんとの未来はないこと、これ以上一緒にいても時間を無駄にするだけだ、とも。

「それでも通じなかった?」
 嶋岡の相槌に、櫂谷は少し驚いたような顔をした。
 そして窓のほうに顔を背けて、そう、と頷いた。
「じっと黙ってたよ、いつも通り。でももう本当に無理だって、悪いけどこのままここに居ても何もないからって頭下げたんだ」
 櫂谷が自分から付き合っていた女性に頭を下げたということが、正直に言えば意外だった。今までなあなあにしていたことを、本気で終わらせようと思ったらしい。
「話し終わってからしばらく部屋の隅っこで泣いてたから、さすがに通じたかって思って休んだわけ。したら明け方に――」
 そこまで言って、櫂谷は表情を強張らせた。
 なに、と尋ねた僕に苦そうな顔をしてわずかに首を傾げ、周囲をちらちらと伺う。
 そして、嶋岡と僕のほうに頭を寄せながら声を小さくして続けた。
「乗ってたんだよ、あいつが。その、ぺらぺらしたえぐい恰好して」

 僕達の座っているシートだけ、しん、と不自然に空気が静まり返った。
 櫂谷がだから飯時には嫌だったんだと呟く。
「それ――」
「子供作ろうと思ったんだろ。さすがにどうかしてるって突き飛ばして――少し頭冷やしたかっただけ」
 ふう、とひとつ息をついた。
 賑やかな店内で、ここだけ時間が気まずく止まったみたいだった。
「でも、心配かけた。以前おまえ達にしたこと、忘れてた。ごめん」
 櫂谷はフォークを下ろすと、両手を膝の上においてそこで頭を下げた。

 先に動き出したのは、やはり嶋岡のほうだった。
 テーブルの端にあるペーパーナプキンを一枚引っ張り出して、彼は口元を丁寧に拭いた。
 ソースや揚げ物の油をゆっくりと拭いながら、小さく笑いだしている。ふふふ、と、くくく、の混ざったような笑い声だ。腹もくちくなったし、というような、妙に上機嫌な雰囲気。
 櫂谷はなんだよ、というような顔で嶋岡のほうを見ている。 

「ばかだねえ」

 嶋岡はペーパーナプキンをくしゃ、とまとめながら、おかしそうにそう言った。
 まるで落語家が噺の中で言うような、妙に人情味のある一言だった。

 櫂谷が、な、という声を出したような気がした。
「おまえ、俺が――」
 言い返す声すら聞いていないというような顔で、嶋岡は笑っている。
 思わず、僕もつられたように噴きだしてしまっていた。 

 櫂谷が長年の恋人と別れられなかったことも、家出という強硬手段に出たことも。
 それをいつかの彼の失踪と重ね合わせて、内心ひやひやしながら故郷まで戻ってきた僕達も。
 それらすべてが、ばかげたことになった瞬間だった。

 何てことはなかった。
 その結論が、僕達を安堵とともにばかで早計な若者に戻した。
 あの日とは違う僕達がそこにいた。あれから時間は進んでいて、あの日の危うさとは違う場所に僕達はそれぞれ立っていた。
 櫂谷は一人旅として懐かしい場所に立ち寄っていただけで、宮津さんと別れて何かをやり直すつもりでいた。彼が向かっていたのは、終わりのための終わりではなかった。
 茶番だった、というより、茶番にできる、という感じだろうか。
 あの日みたいな心配をする必要はなかった。
 やっと、心からそう思えた。

「やっぱり、俺がいないとだめだね。堀井は優しいからおまえのことちゃんと叱ってくれないだろ」
 嶋岡がにやりと笑って櫂谷を見た。ちょっとからかうような目だ。
 櫂谷は少しげんなりしたような目で嶋岡を見た。内にどっかりとしたものを持ち合わせた嶋岡は、櫂谷を妙に子供っぽくさせる。
「何か、おまえ生き生きしてるな」
「いや、俺、必要とされるっていいことだなって思ってるから」
「俺そんなこと言ってないぞ」
「言ったようなもんだって」
 嶋岡はからからと笑っている。俺パフェでも食おうかな、とテーブルの脇のメニューに手を伸ばしている。
 子供連れてると、こういうところ来ても飯の味なんてわかんないようなもんなんだよ。とにかくこぼすし、騒ぐし、落ち着かなくて。天使だけど、と。

「昔から言ってただろ。俺も入れろって」
 メニューをひらきながら、嶋岡は楽しそうに言った。
 そうだった。先に櫂谷と僕が打ち解け、何となく似た者同士の二人組みたいな雰囲気が出来た頃に、嶋岡が入ってきた。俺も入れて、と、ひどく正直に、単純に。
「おまえ達ふたりだけだと、繊細なお坊ちゃん過ぎるんだよ」
 昔から何度か言われたことがある表現だった。おまえ達は自覚がないけど、やっぱりちょっといいところの雰囲気が出ているぞ、と。

 櫂谷と僕が揃って苦い顔をするのを見て、嶋岡はおかしそうに笑っていた。
 そしてデザートを選びながら、宮津さんと会って話してみると僕達に告げた。

16|瞬き、その間に

16|瞬き、その間に

 嶋岡にとっては、ひどく忙しい週末になったはずだ。
 食事を終えた僕たちは、駅に預けていた物を回収して再び櫂谷の住む街まで戻った。
 自宅に到着すると同時に、宮津さんが血相を変えて駐車場まで降りてきた。帰路で僕が彼女に連絡をしてから、部屋で聞き耳を立てながらずっと待っていたらしい。
 後部座席の櫂谷がげんなりしたような表情で彼女から顔をそむけたと同時に、嶋岡が宮津さんに話しかけた。自分が地元の友人のひとりであることを説明し、お話できませんかと続ける。
 彼女はしばらく渋っていたけれど、最終的には渋々承諾した。四人で部屋に入り、小さなテーブルの前で腰を下ろした。
 嶋岡の説得によって宮津さんが最低限の荷物を手に櫂谷の部屋を出て行った時、時計はもう十六時をまわっていた。娘との夕食までには帰宅したいからと、嶋岡は短い挨拶を口にして船橋へと帰って行った。
 去り際に、櫂谷の背中を励ますようにとんと叩いて。

 再び確認したスマートフォンに、何人かの友人から返信が届いていた。
 櫂谷が無事に見つかって良かったということと、労いの言葉がほとんどだった。いつかの彼を連れ戻しに東北まで行った日のことをそれぞれが思い出したのかもしれない。

 数日の一人旅でよく眠れていなかったらしい櫂谷を再び部屋に押し込んで、僕も帰宅することにした。
 とりあえず今日は帰るわ、と部屋を出て行こうとした僕に、部屋の中央に立った櫂谷は言った。
 おまえがあんな思いをするようなことはもうないよ、と。
 おまえ達を置いて行きたいところだって、俺にはもうない。
 思わず振り向いた僕を、彼はまっすぐに見ていた。

 ――俺達は寿命で死ぬんだ。爺さんになって、昔話もし尽くしてから。

 素面では言いづらいような、どこか気恥ずかしい言葉を彼は真顔で言った。
 彼特有の鋭さやきつさを抑えた、聞いているほうが切実な気持ちになるような声だった。
 
 ――だからおまえは、もう俺がいなくなるかもしれないなんて思わなくていい。

 櫂谷はそう続けた。
 元々彼の言葉には相手に反論をためらわせるような強い何かがあったけれど、その一言にもその力は充分すぎるほどに宿っていた。ほんのわずかな嘘すらなかった。あの冬の日から今に繋がっていた冷たい鎖を断ち切るような、櫂谷のその一言が僕の心をひとつの暗がりから引っ張り上げていた。
 自分の振る舞いひとつで、今度は本当に喪うかもしれない。だから細心の注意を払って、そうならないよう目を凝らしていなくては。
 彼を連れ帰ったあの日からずっとそう思っていたことに、いまさらのように気が付いた。

 何も言い返せずに立っていた僕に歩み寄り、櫂谷は僕の肩に向かって腕を伸ばした。信じられなかった。櫂谷は自分から誰かを抱きしめるような人物ではなかったから。
 どこかぎこちない、短くも力強い抱擁があった。

 ――長いあいだ、心配かけてごめん。おまえはもう、俺のことまで背負わないでいい。

 背負ってなんてない、と言う前に、腹のあたりからある感情が沸き上がった。

 紙一重の何かによって奇跡がもたらされるなら、あるいは取返しのつかない喪失を味わうことになるのなら、その分岐点にあるわずかなヒントを見落とすことがないように。
 それがもしも僕の力だけでは適わないことなら、そこに気付ける何かが視界に必ず瞬くように。
 神頼みするような、祈るしかない気持ちで、そう思っていた。あの日からずっと。

 目尻に浮かんだ涙を櫂谷に悟られないように、ぎこちなく身を離した。
 僕よりも一回り小柄な彼も、その時は僕の顔を見ようとはしなかった。

 間を埋めるように、彼が右手で頭を掻いた。
 無造作に、そこに生まれてしまった空気を小さくかき乱すように。
 そして彼は数秒の沈黙の後に、僕に向かって「おまえも今日は早く寝てくれ」と告げた。
 

 遠くに行ってしまった人が、たくさんいる。
 身体をそこに置きながら、ずいぶんと遠くまで行ってしまった人達。悲しみとか苦しみとか、そんな言葉にするのもためらうような、痛みの跡がわかる人物だ。抗えなかったそれに心と時間を奪われて、戻ってきた世界の中で少し透明になって立っている。
 たとえば、櫂谷の沈黙の中にそれがある。僕に見られていることに気づいた千紘がする、あの微笑みの中にも。そこにある、強いものが通り過ぎた跡に僕はどうしてか引き寄せられてしまう。もうこれ以上かたちを変えることはない、あの静けさに。
 受け容れるしか術がないような出来事に無理に広げられてしまった心で、千紘は僕をすっぽりと包みこむ。そうしようと本人が望んでいなくても、ただそこにいるだけでそういうことが起きてしまう。
 いつかの嘆きや涙は彼女によって外に押し出されていて、そこにある弱くやわらかな光が僕を許そうとする。やわらかな陽だまりだ。彼女が彼女を受け止め続けた跡形。
 今までの僕がしてきた、うまくいったこともそうじゃなかったことも、それでいいのと言い続けてくれる気がする、そんな場所。



 その日の夕方、十八の僕は震える手で自分の口元を抑えていた。
 実家のリビングから飛び出して、誰もいない暗い玄関にひとり立っていた。

 数分前に、父親の胸倉を掴んでリビングの壁に強く押し付けたばかりだった。それまでも散々そうしてしまいそうな衝動は沸いてきたけれど、実際に行動に移してしまったのは初めてのことだった。
 学校に行けなくなった妹が、食べては戻すのを繰り返していた頃だ。
 父と僕との関係がいびつなものになって数年、父は当てつけのように妹に不要な干渉を繰り返すようになっていた。絢乃の頭の中にまで入り込むように意見を続け、娘に同調を求め続けた。友達付き合いや進路にも口を出し、それが叶わないときは傷ついたような自嘲に満ちた表情で妹をなじったりもした。
 やがて妹が心身の不調を訴えるようになっても、彼は自分のしていることがその要因のひとつだと認めなかった。出来の悪い息子を批判することはあっても、娘を苦しめるようなことなんて自分は何ひとつしていない、と。あかるさすら感じさせるような拒絶だった。こちらが悪い冗談でも言っているのだろうとでも言いたげな、どこか薄気味悪いような笑みを父は浮かべていた。
 嘔吐を繰り返していたせいだろうか、あの頃の妹はひどく痩せていた。手足は頼りないほどに細くなってしまっていたけれど、顔だけはむくんだように丸みを帯びていた。歯で傷つけてしまうのか、利き手の甲にはいつも小さな傷がついていた。僕の前で俯いて、わたしもう自分自身のかたちが全然わからない、と妹はひどく静かに泣いた。
 家庭内で起きていたことに対して、見たくない部分は見ないことにしたのだろう。父はすっかり姿を変えてしまった娘に対しても無頓着に振舞いつづけた。絢乃の心に平穏を取り戻すために必要なことには目を反らし続けたが、その時その時で思いついたのだろう励ましのような言葉を無邪気に妹へと投げかけていた。
 妹はそのひとつひとつにまた傷を重ね、一時期は父のいる時間帯には部屋からほとんど出てこなくなった。

 その日の絢乃が階下に降りてきた理由は、僕に相談があったからだ。あの年の妹は受験生で、学校には行けていなかったけれど勉強はよくしていた。勉強をしていると他のことを考えなくていいし、安心するから、と言っていたのも覚えている。
 語学学校から戻ったばかりの僕がリビングのドアをひらくと、ソファに腰を下ろした妹が項垂れていた。異様な雰囲気だった。
 小さくしゃくりあげるように泣いているのに気づいて、どうした、と尋ねた。
 絢乃はそれに答えずに、ゆっくりと顔を上げた。目が合ってすぐに、絢乃の両目からまた涙があふれだした。

 そんな空気の中、父がいそいそといった様子で台所から出てきた。
 僕のほうを見て、なんだおまえか、とつまらなそうに呟く。公子が帰ってきたと思ったのに、と続けた彼の手には、まだ開いていない缶ビールが握られていた。

 ――何言ったんだよ。
 ――何も言ってない。

 父は答えて、一人用のリクライニングソファにどかりと腰を下ろした。いつものようにしらを切るような態度だ。
 何も言ってないならなんで絢乃は泣いてるんだと問いを重ねた僕の腕に、妹の手が重なった。両方の頬をひどく濡らしながら、僕に向かって首を横に振る。枯れたような声で、やめて、と小さく告げられる。
 その仕草が父の気に障ったらしい。
 彼は妹の動きを真似るように、やめてって言ってるじゃないか、と笑った。
 そして僕に向かって、

 ――励ましてたんだよ。いつまでも暗くしてたってしょうがないじゃないかって。
 ――早く元気になって、父さんに楽させてくれよって言っただけだ。

 父はそう言って、自分の手にしていた缶ビールに視線を移した。
 晩酌の準備を自分でしなければいけないなんて、という意味だ。母が不在の時はその手の世話を妹にさせていたから。

 その仕草に、僕の中で何かが振り切れた。
 気が付いた時は、妹の手を振り払って父親に向かっていた。

 蹴り飛ばしたオットマンが絨毯を引っ張り、サイドテーブルが激しく揺れて母の気に入りの花瓶が落ちる。ハイバックのソファに座っていた父の胸倉を掴んで、僕は左へと父親の身体を押し出していた。
 抵抗しようとした父が体勢を変えようとしたせいで、彼の額が壁に強く擦れた。
 皮膚の一部が擦りむけて、壁に血が短く太い線を描く。

 ――自分が何言ってんのか、わかってんのか。
 
 妹のやめてと泣き叫ぶ声が確かに響いていたのに、父と僕のあいだには音がなかった。
 緊張と怒りによって、父の衣服を掴む僕の手は震えていた。
 父は何も言わなかった。息子が自分に手をあげるなんて、想像もしていなかったのかもしれない。茫然とした目だ。それを悟られまいと、力なく僕を睨んでくる。
 
 何秒くらいそうしていただろう。
 妹がすがるような声で、お兄ちゃん、と言った。
 ひどく心もとない声で、僕が我に返ることを祈るように妹が繰り返す。お兄ちゃん、お兄ちゃん。

 手の力を緩めると同時に、父は鋭い息を吐いた。
 胸を強く押していたせいだ、とどこか他人事みたいな気分で思う。僕が強く壁に押し付けた父の顔は、紫に近い赤色になっていた。

 荒い呼吸と咳を繰り返す父に背を向けて、僕は玄関に向かって歩き出していた。
 さっきとは意味が異なる震えが、肩から手に向かって現れた。
 自分が何をしようとしていたか、はっきりと気が付いてしまったからだった。

 全身へと広がった震えをどうにかなだめるため、深呼吸を繰り返しながら靴を履く。
 近所のどこでもいい、自分を取り戻すところへ行かなくてはいけない。

 玄関の扉を開ける瞬間、僕は心の中で母と妹に謝っていた。
 ごめん絢乃。ごめん母さん。俺、もうここに居られない。


 南のほうに向かって、自転車を走らせた。家を出てすぐに近所の同級生に声をかけられたけれど、曖昧な返事でそこを通り過ぎた。
 実際、行先はどこだって良かった。ただ頭を冷やしたかっただけだった。少なくとも今日からひと月くらい父が僕を無視することは確実だから、同じ家にいる時間をどうにかして減らすしかない。母や妹がそれによってまた負担を背負うことになるのも頭にはちらついたけれど、いつものように折れる気にはもうなれなかった。

 伊勢崎方面に向かう途中で、国道の脇に広告看板が立っているのが見えた。市内にいくつか出している、祖父の会社の広告看板だった。右下にこの先の信号右、と小さな字で書かれている。
 ビニールハウスが並ぶ畑の脇を三分ほど直進したところにある、小さな工業団地。
 そこに工場を兼ねた祖父の会社の本社ビルが建っている。

 途中で我に返って、目の前にまで行くのはやめた。まだ伯父達の誰かが残っているかもしれないし、父方の親戚の集まりにほとんど顔を出さなくなった僕が行ったところで気まずいだけだ。
 会社の前の角に入って、裏の小さな川を渡る。
 自転車を降りて砂利道に入ると、そこには小さな空き地があった。昔何度かいとこ達と遊んだことがあった、細かな砂利の敷き詰められた空き地だ。
 もうすぐ梅雨を迎える、五月の終わりだった。少し風が強くて、羽織っていたパーカーの裾が自然とふくらんでしまう。小川の水が流れる音がごく小さい音で聞こえる。
 土と桜の葉、少し先の工場からうっすらと漂う、鉄っぽい匂い。

 本当にひどい気分の時に、何度かここに来たことがあった。外の照明に照らされた祖父の会社の建物を見ていると、気持ちの置き所がはっきりするような気がしたのだ。
 周囲の大人達が立派な工場だと言うくらいには、その建物は大きかった。三階建てのビルと、裏手には工場棟がある。体育館ほどの大きさのものがふたつ。従業員数も地元企業では少なくない。
 学生ながらに、そこで起きている仕事の規模は想像がついた。従業員とその家族、少なくない暮らしがここで生まれる仕事と製品によって成り立っていることを知っていた。実際の経営がどういう形で成り立っているのかまでは理解できなかったけれど、そこに建つ会社のビルはある種の正当を僕に主張しているように見えた。
 ここにある営みの、組織の正当。
 それはつまり、父の生き方の正当だった。

 ここに立っていると、その大きな営みが僕を圧倒しようとする。おまえ個人の葛藤なんて取るに足らないことだ、と。自分の抱えているものが、若く未熟な、こらえのきかない若者の衝動でしかないように思えてくる。
 そのくらいのことで激昂してどうする。大きな組織がここには成り立っていて、おまえの父親はその中の幹部なんだぞ。バランスを崩すな。かき乱すな。おまえだってこの中に入れば、そこそこの身の安定は保証されるんだ。そういうふうに言われたような気分になる。省みられることも改められることもない、その必要もない悩みだろう、と。
 そうやって圧倒され小さくなった自意識の中で、僕は反発が起きるのを待つ。腹のあたりで、それを受け容れられない自分が声をあげるのに耳を澄ませる。
 たとえそれが事実だとしても、それは俺の人生じゃない、と。
 周囲に頑なさを笑われながらも、僕はその声の持つ力をひそかに信じていた。


 父の手術の前日にあたる日に二時間ほど早退させて欲しいと告げると、事務室のパソコンでシフトを組んでいた麻子は勢いよく僕を振り返った。
 閉館後の一時間、僕はいつもの掃除を終えて事務室に顔を出していた。
「二時間?」
「そう。夕方ちょっと早めに出たくて」
 多少電車が込み合うのは仕方がないとしても、地元の駅についてからの移動手段が選べないのは少々厳しい。母か妹が車を出すと言うはずだけど、病院通いで疲弊しているだろう家族に余計な頼み事はしたくなかった。
 麻子は複雑そうに眉を寄せながら僕を見上げた。
「それだけ? 半日休みとかにもできるんだけど?」
「そこまではいい」
「そこまでのことじゃないの?」
「正直、俺は父親と本気で折り合いが悪い」
 細かい説明は不要の相手である僕の女上司は、その一言に瞬きを数回繰り返してから、ああ、という顔をした。彼女自身、親のあらゆる反対を押し切り続けて生きている人物だ。だいたいの察しがつくのだろう。

 それでも、麻子はどこか不思議そうな目で僕を見ている。
「何か」
「ホリーも人の子なんだなって」
「何の子だと思ってたんだ」
 隣のオフィスチェアに腰を下ろしながら訊いてみる。麻子はいつものように短くかつ軽く笑ってから、何だと思ってたんだろ、と自問している。
「だって、あんたあんまり人とどろどろやらないから」
「そういうの面倒くさくて」
「それ。そういうイメージがわたしにも定着しちゃってる」
 言いながら、彼女は手にしていたマウスに再び手を伸ばす。
 本当に二時間でいいのね? という質問に、充分ですと答えた。小気味良いクリック音が二度その場に響く。

「お父上と、殴り合いの喧嘩とかした?」
「俺から一方的に、一回だけ」
 意外ー、と麻子が答える。どこか楽しそうなのが何とも彼女らしい。
 あの日、家に帰ったのは日付が変わったあとだった。
 母が開けておいてくれたらしい勝手口から音を立てないように家の中に入り薄暗いリビングの扉をひらくと、僕の荒らした家具はすでにきれいに片づけられていた。割れてしまった花瓶も、挿してあった花も、最初から存在しなかったようにその場からなくなっていた。壁についた父の血痕も。
 次の瞬間、キッチンから寝間着姿の母が出てきて弱く笑った顔で僕を見た。
 僕が口をひらく前に、夕飯を食べてないでしょう、と優しげに言って、手を洗っていらっしゃいとささやくほどの小声で告げたのを覚えている。


 事務室にあるロッカーから荷物を取り出し、麻子にお先にと告げる。エントランスに向かう途中で、窓の鍵にかけ忘れがないか確認する。
 それまで使っていた正面入口を避けて裏口から出るようになったのは、なかなか帰らない保護者の井戸端会議に出くわしてしまうのを避けるためだ。
 鎌田雄大くんは、結局一か月レッスンを休んだ後にスクールを辞めていった。
 ご両親が別居することになったとかで、父親について都内に引っ越すことになったらしい。

 雄大くんと別れの挨拶をした翌週の夕方、建物を出た僕はすぐに自分の失敗に気が付いた。
 お迎えの父兄四、五人が駐輪場で話し込んでいたのだ。しまった、と思った。駅に近いからとつい正面から建物の外に出てしまっていた。
 生徒達が周囲をぐるぐると駆け回って遊んでいる中で話し込んでいた四人の母親は、僕の姿に気づくとぴた、と静まり返った。それぞれの目に、思っていることが浮かんでいるようにも思えた。
 何とか挨拶をしてその場を通り過ぎると、数秒後に背後で弾けたような声が響いた。危なかった、あれ本人だよね、ねえ、ていうか聞こえたんじゃない?
 生徒の中には雄大くんと仲の良かった子もいたから、僕と彼の母親の不倫(疑惑)によって彼らの友情は中断され、僕は当然スクール内での立場を悪くしていた。喜和子先生は誰のせいでもないと言っていたけれど、雄大くんが去ったことで鎮火しつつあったあの噂が、今度は信ぴょう性を伴って燃え上がってしまった。

 裏口の扉からエディフィカンテの建物を出て、左右を確認する。誰もいないことには救われたが、自分の足取りが忍び足に近いものになっていることにどこかでがっかりとしてしまう。
 喜和子先生は何も言わないけれど、潮時かな、とこの頃思う。
 たとえあの茶番が事実と大きくかけ離れたことだとしても、一度生まれてしまった疑惑を取り払うのは難しい。そういう人物がひとりいれば、いずれここの評判にも影響が出てきてしまうかもしれない。

 父の手術が終わったら、これからのことを考えなくてはいけない。
 そんなことを頭の片隅に書き加えながら、いつもの駅に向かって足を進めた。

17|その日の祈り

17|その日の祈り

 あの町にいる頃は、毎年、年の瀬になると着るものを一枚少なくしていた。制服の中に着ていた長いTシャツをやめて半袖にしてみたり、厚着すると汗をかくからとコートを避け、薄手のジャケットのままでいたりした。
 風邪でもひかないかなと思っていたのだ。年末年始が嫌いだった。とにかく挨拶づくしで、ひっきりなしに他人と会わなくてはいけなかったから。

 一番憂鬱だったのは、年始の挨拶だった。
 祖父の会社の後継者である喜朗伯父の家に親族で集まるのが毎年のきまりで、一族が集まっての宴はひどく長く退屈だった。母は伯母達と共に台所で立ち働いていて、子供達もそれぞれ何となく集まってはいたものの、そこまで仲良く遊んだというわけでもなかった。
 喜朗伯父の家にはふたりの娘が、その下ふたりの伯父の家もどういうわけか女が多く、男子は僕のほかにひとりしかいなかった。
 従兄の一路(いちろ)はひ弱な大人しい男で、あまり僕とは共通点もなかった。同じクラスにいても、ほとんど言葉を交わすことはなかっただろう。声がひょろひょろと細くて、そのくせちょっと棘のある物言いを好んだ。正直、彼には好かれていなかったと思う。
 何となく所在がないまま、僕は父のすぐ上の達夫伯父の横に腰を下ろしていた。この人のことは好きだった。気取りがなくて、好奇心が強い人物だったから。元々伝統的な技法で製糸から製織までの加工を行っていた祖父の繊維工場に、これからは機能性の高い繊維を使ったテキスタイル製品の製造も加えていくべきだと提案したのが達夫伯父だった。熱心な性格で、それを実現化すべく日本中を飛び回っていた。関東全域に展開しているスーパーのプライベートブランド品の生産委託が持ち込まれたことをきっかけに、今の規模まで事業が拡大したらしい。彼がいなかったらきっとここは小さな町工場のままだった、と皆が言う。
 男の子が家にはいないからと、達夫伯父は子供の頃から僕を気にかけてくれていた。何度か一緒に釣りに行ったこともあるし、娘には通じないからと言ってプロ野球や車の話題を僕に振ってきた。
 その日も、彼と隣り合って座って野球の話をしていた。伯父はほろ酔いで、僕の話を聞いているのかいないのかわからないような相槌ばかり打った。ひどく機嫌がいいということは伝わってきたけれど、酔った大人にそこまで免疫がなかった僕に少しの戸惑いも与えていた。
 遠くのほうに座っていた、社長である喜朗伯父が自分のほうを見ていたことにもまだ僕は気づいてなかった。

 達夫伯父が手洗いに立った時だっただろうか。
 ふらつく伯父のために少し腰を上げて場所をあけた僕を、喜朗伯父が手招いた。亮太、ちょっとこっちに来なさい、と。
 酒豪の彼はすっかりできあがっていて、周囲の大人達がさりげなくたしなめた。彼の妻がテーブルの上を片付けながら「そんなに酔って亮ちゃんに絡まないでくださいな」と言い、僕に向かって「手がかかるから受け流してね」と苦笑いしていたのも覚えている。両親はいなかった。父は何かで席を外していて、母は台所にいたのだろう。
 少々緊迫した気持ちで、僕は彼の隣に腰を下ろした。
 伯父はテーブルの端のほうに伏せてあった未使用の小さなグラスに手を伸ばして、僕にそれを手渡した。ためらいなくビール瓶に手を伸ばすのを周囲は止めたけれど、お構いなしだった。
 真っ赤な顔をして、彼は僕のグラスに半分ほどビールを注いだ。
 まあ飲め、と言われて、断れずにそれを口に含んだ。
 少し温くなった、何とも言えない苦みが口内に広がり鼻へと回る。ちっとも美味くない。舌の上から追い出すように思い切って飲み込むと、喜朗伯父はいいぞと笑った。
 何度かそれを繰り返した後で、彼は僕にいくつかの質問をした。
 学校のこととか、友人のこと、それから何かひどく難しいような――あまりよく覚えていないけれど、それはちょっと抽象的な質問だったはずだ。今で言うトロッコ問題みたいな、心理とか倫理に強く関わるような。
 おまえはどう思う? という言葉に、思いつくままに僕は答えた。飲み慣れないアルコールによってかっかと火照る顔のまま、半分くらいは自棄に近い気分だった。早く帰りたい、と思った。ここにいると、したくないことばかりさせられる。
 
 僕の返答に、伯父が少し目を大きくした。
 次の瞬間、彼は大きな声を上げながら僕の背中を大きく太い手でばんと叩いた。そうか、そうか。おまえはやっぱりどこかじいさんに似ているな、と。
 そして幸福そうに酔っぱらった彼は、大声で続けたのだ。

 ――おまえのほうがよほど利発だね。父親よりもずっと、人の上に立つ器だ。いや、鳶が鷹ってやつかなあ。

 宴の席に父が戻って来たのはそれから二分後くらいだったけれど、その後の従姉の言葉から、彼がその部屋のすぐ外にある縁側にある椅子に腰を下ろしていたと知った。具合が悪いのかと思って声をかけたけれど、何でもないと言っていた、と。
 その日の帰り道から、父の様子がおかしかった。彼は始終不機嫌で、それから一週間ほど僕の顔を見るたびにごく小さな音で舌打ちをした。僕がそこにいる時だけ、乱暴に大きな音を立てて部屋のドアを閉めるようになった。
 何かが狂ってしまったのは、きっとあの日からだった。


「とりあえず、拠点はここってことでいい?」
 部屋に入ってすぐにそう尋ねると、隣に立っていた妹が端っこにしたい、と言った。
 誰もいないその部屋の窓側の隅にある、ファミレスのブースのように向かい合って設置されたベンチに向かって歩き出す。母がそれに続いた。
 エタノールの匂いが広がる廊下の先に、壁一面が窓になっている談話室があった。自販機と小さなシンク、それから雑誌や古びたコミックが詰め込んであるカラーボックスもひとつ、入り口付近に設置してある。入った先には同色のベンチやテーブルがあちこち配置されていた。前回は夕日を遮るために閉められていたレースのカーテンが、今日はあいている。
 四月二十五日、午前十一時。
 僕はもう訪れるのも三度目になる、故郷の総合病院にいた。

 手術室のドアが閉まると同時に、担当の看護師に申し訳なさそうに言われた。実はこの階には専用の待合室がないんです、と。身内の方は病室か病棟の談話室を使っていただくかたちになります。連絡さえ繋がるようになっていれば、院内のカフェや売店も自由に利用していただいて構いません。長くなりますから、お食事もしてください。
 父は数分前に自らの足で手術室に入っていき――本人も身内も病室からストレッチャーのようなもので運ばれると思っていたので、これには驚いた――重いドアが閉まったばかりだった。
 看護師の話に母は頷いていたものの、不安げな表情で手術室の扉を見つめていた。
 予定通りに進んだとしても、手術が終わるのは十八時前後になると聞いている。

 手術に向かう前、母と妹が父を励ました。麻酔をすればすぐに終わるから、とか、大丈夫よ、きっとうまくいく、とか。ひとしきりそんなことを繰り返しながら、彼女達は涙ぐんだような表情で父をじっと見た。
 後ろのほうで黙って見ていた僕に、父がふと顔を上げた。おまえは何もないのか、と言うので、何か言って通じるのかよ、と答えた。
 父が苦い顔をしたので、話は後で聞いてやる、先生や看護師さん達を待たせて迷惑をかけるなと続けた。
 父はやれやれといった調子で頷いた。

「付き添い人数に制限があって良かったよね」
 人心地がついたのだろう。ベンチに腰掛けた絢乃が、小さなため息をひとつついた。
 妹の言う通りだった。やはり親戚のうちの何人かが、手術当日は病院まで行くと申し出ていた。パンフレットに書かれていた通りの規則を母が諳んじて、やっと引き下がったらしい。心配している響きではあったけれど、そこまでうちと関わりがあったわけでもない人物なのが不思議だった。
 母はまだ青いような顔をして、居心地悪そうにそわそわとしていた。
 ハンドバッグを手にしては膝の上に戻し、腕時計と壁掛け時計を交互に見比べている。

 開けてみないとわからないです、と医師が言ったのを思い出した。
 切除が必要な部分がどれくらいあるのか、他の臓器との癒着があるか、あるとしたら、その範囲も。検査の数値から予想できる範囲の通りとも限らないのが今回のケースで、場合によっては大幅に長引くこともあります。
 本人は医療の進んだこの時代にそこまであいまいなことがあるのかと驚いていたけれど、最終的にはそれを受け容れた。
 
 妹に腕をさすられていた母の顔色が、少しずつ取り戻されていく。
 発覚してから約一年、病院通いと親戚付き合いで動き回っていたのを思い出した。気丈に振舞っていたけれど、元々はそこまで心の強い人ではない。
「義兄さん達に連絡をしないと」
 少しの間の後にそう言って、母がよろよろと立ち上がろうとする。妹はそれを支えるようにして、もうちょっと待ってからでもいいよ、と告げた。
「でも、皆待ってるから」
「――しなかったらむこうから来るしね」
 話しながら納得したのだろう、妹は立ち上がった母に合わせて腰を上げた。
「お兄ちゃん、荷物」
「見てるよ」
 手短に答えると、妹は頷いて母の背に手を添えた。
 ふたりはゆっくりと、談話室の端にあるバルコニーに続く扉に向かって歩いて行った。


 父親の命運が決まる日だというのに、外は能天気と思えるほどに晴れていた。のどかでのんびりとした、何の変わりもない春の日だ。
 この季節もよく外に居たな、と思った。河川敷、あの公園、古びたゲーム機が並ぶさびれたゲームセンター。学校の自販機にあった紙パック飲料の人工的な果物の香料の匂い、気持ちのやり場に困って走らせた、自転車のハンドルの感触。着崩した制服姿で、あかるく物分かりの良い堀井くんを演じながら、あの頃の僕は内心で確かにのたうち回っていた。
 ずっと先の未来まで用意されていた、僕の生まれた町。

 かつて向かった遠い街の、大通りの景色が頭に浮かんだ。
 トロントの、ムンバイの、ハノイやアムステルダムやプラハの景色だった。安宿の窓から眺めた光景、それぞれの土地の街灯や人のざわめきの記憶が蘇った。
 まるで違う匂いのする、漂う雰囲気の異なる場所。気が遠くなるような、それでいて常に緊張感が身体のどこかに残り続ける、旅は僕にとってそういうものだった。異国にいることの独特の手ごたえだ。ここより安全ではない、でも誰かの日常が繰り返されている場所。
 僕にとって、そこは確かなものなんて何もない場所だった。放り出されて、等身大にさせられて、自分がどれだけ大胆になれるか、あるいは臆病な人間か教えられてしまう。
 そこで向き合うことになった自分は、やはりひどくちっぽけだった。
 期待するほど強くもなく、けれど信用できないほど弱くもない。
 その等身大の自分に会えることが、僕にとっての旅の魅力だったのかもしれない。

 すっかり歩き疲れた頃に、一瞬だけ自我が飛んでしまうことがあった。
 自分が誰なのかとか、帰ったら待っている生活とか、生きていく上でついてくるあらゆる煩わしさが疲労によって吹き飛んで、何にも知らない本能だけの生き物みたいに思えるのが。

 その瞬間、視界が突然強く色づく。
 捕まえられない、留めておけない、生き生きとしたものがそこらじゅうであふれて、苦しいくらいに見えてくる。
 いつもの自分じゃない、もっと深い場所で何かがうごめき、喘ぐ。
 産み落とされて、手探りで、まだ迷いながらここにいる。ただそれだけのものに戻れる瞬間だった。
 ただそれだけのことの中にある歓喜と悲鳴が、身体の中で痛いくらいに瞬いた。
 僕が知っている思いのすべてが、その瞬間に凝縮されたように、ただ強く。


 電話を終えた足で、母と妹は昼食を買いに購買のほうへと出向いて行った。電話の相手に励まされたのか、手術室の前にいる時よりも表情が和らいでいた。
 病棟には、ごく小さな音でクラシック音楽が流れている。ナースコール、点滴スタンドが廊下を滑るキャスターの音、正午前、薬やお茶を配っているのだろう慌ただしい人の行き交いが少し離れたここにも聞こえてくる。
 僕はスマートフォンに届いていた千紘と裕道からのメッセージに返信した。時間通りに始まったこと、終わったらまた報せる、とも。
 既読になるのを確認する前に、スマートフォンを再び上着のポケットに押し込む。
  
 疲れていたのかもしれない。
 談話室の窓辺で、僕は西日を左腕に受けながら微睡んでいた。


 絢乃が生まれた日のことを覚えている、と言っても、あまり信じてはもらえなかった。
 妹が生まれた時、僕はまだ四歳だったから。

 滑り止めとして細かく線の入ったゴムのようなマットが敷かれたスロープが、分娩室の前に敷かれていたこと。そこから少し離れた場所に設置されていたベンチに、父方の祖父母が座っていたこと。
 欲しかったわけでもないけれど、祖母はその階に辿りついてすぐに自販機で僕にジュースを買ってくれた。うすい味のオレンジジュースで、量が多くて少し持て余した。
 大人たちの会話にも飽きて、僕はベンチの端に座っていた。産婦人科のピンク色のカーテン、小さな花柄の壁紙、母はかわいいと言っていたけれど僕はそう思えなかった、あの頃どこでも見かけたモンチッチの人形。

 父は分娩室の前で、そわそわと落ち着かない様子だった。
 親戚達の中にいるのがいやで立ち上がって父に近寄ろうとすると、祖母が僕の動きに目ざとく気づいて言った。パパをそっとしといてあげなさい。
 うん、と頷いて、僕はもう一度そこに腰を下ろした。
 分娩室のドアがひらいて、父が倒れこむように前傾した姿勢で医師に声をかけるまで。

 女の子が生まれたこと、母子ともに健康であることを告げられると、周囲にいた大人たちはそこで喜びに沸いた。
 子供が生まれるということがどういうことなのかわかっていなかった僕は、そこで妙に気持ちが遠ざかって、ぼうっとした気分でその場を眺めていたのだ。


 夢だったのだろうか。
 絢乃の生まれた病院の記憶はそこで消えて、気づけば僕の隣には知らない男が腰を下ろしていた。
 座っていたベンチの座面の色も、目の前に重なっている母や妹の荷物もそのままなのに、部屋の中の空気は先ほどまでのそれではなくなっていた。
 春の日差しに満たされた、音のない、どこか遠くの時間の流れが入り込んでいるようだった。
 これもきっと夢なのだろう。
 時折ある、うたた寝のあいまに見てしまう白日夢。

 そこにいたのは、僕にとてもよく似た、三十代前後の男だった。
 背格好もほとんど変わらなさそうだったが、相手のほうが痩せて小さく見える。
 僕は確かに下を向いているはずなのに、その男の姿ははっきりと目に映ってきた。
 
 男は、見るからに気弱な感じがした。何かに怯え、いじけていた。
 そしてさらに深いところでは、置き去りにされた冷たい怒りを抱えていた。
 気弱でありながらも、ある種の卑屈さと横柄も感じる。攻撃性が出ることもあるのかもしれない。誰にでもじゃない。そうする相手は選ぶのだろう。
 男は僕の隣で俯き、かちかちと苛立たしげに歯を鳴らす。時には、すでにぼろぼろになった爪を噛む。落ち着きがなく、挙動も不自然でどこか不気味だ。
 それでも、もしも今看護師に声をかけられたら焦ったように愛想を相手に向けるだろう。他人が怖いんだ。敵ばかりで、簡単に誰かに心だって許せない。気を許した相手にはどこまでも許されたくて、どこまでも入り込んでしまう。食らえるだけ食らって、それでも足りなくて、嘆きの中で相手を批判せずにはいられない。
 自分の中にある怖れと怒りでできたぬかるみに胸まで浸かって、それ以外の道に向かって動けない男。絶望感と自己憐憫。深い深い孤独。

 僕はその男の姿を、目を閉じたまま静かに眺めていた。
 誰なのかは、途中で気が付いていた。

 この男は、あの時代の父に負けていたらなっていただろう僕だ。
 この町から出ることもなく、彼の用意したルートを歩く以外の道を思い描くこともできないまま、時間だけが過ぎていった僕だ。
 自らを売り渡し、父の引け目や心の闇をあのまますべて引き受けて、彼の世界に同化してしまった、僕ではない僕の姿だった。

 ああ、俺こういうふうになるところだったのか。
 櫂谷や嶋岡と会い続けることもない、あの国の、あの街の景色すら知らない。あの旅もできない、あの場所も知らない。
 そして、あの人の笑顔や傷跡に触れることもない――。
 
 哀れに思った。
 それは、何かが違ったらなっていたであろう僕であると同時に、父親の内側の姿そのものにも思えたからだ。
 
 こっち向けよ、と声をかけた。
 男はゆっくりと、僕にむかって顔を上げた。

 ――もういいよ、そんな姿しなくても。
 ――俺はもう、そっち側に行くこと、ないから。
 ――俺に、来るなって言いたくて、現れてたんだろ。

 口にしながら、そうだった、と思い出していた。
 昔から、焦りとともに見ていた夢の中にこの男はたびたび現れていた。その姿で、言葉なく僕に語り掛けていた。
 おまえはこっちには来るな。早く引き返せ、ここから逃げろ。生き延びられたら、どうにでもなる。
 おまえの中の、光を殺すな。

 僕の放った言葉に、男は少し驚いたようだった。
 そして、戸惑ったように揺れながら彼は僕の視界から消えていった。



 手術の翌日、病院の一階ロビーでじゃあまた連絡して、と母に告げて家族と解散した。
 昨日は遅くに帰宅してそのまま実家に泊まり、今日は面会時間に合わせて同じように病室を訪れていた。母も妹も今日はこのまま夕方までここに残ることになっている。おそらくは、親戚も数人は訪ねて来るだろう。
「駅まで送るけど?」
 絢乃が車のキーを取り出そうとする。
「いや、いいよ。実は裕道が仕事で近くまで来てるらしくて」
「裕くんが?」
 絢乃の表情がぱっとあかるくなった。
「寄るの?」
「いや、落ち着いたら改めて来るって。適当に連絡して拾ってもらうよ」
 鞄を背負いなおしながら告げる。絢乃が少し残念そうな顔で僕を見た。久しぶりに顔を見て話をしたかったのかもしれない。裕道の人懐こい人柄はうちでも一定の支持がある。

 何も言わないでいる母のほうに目を向けてみる。
 昨夜は落ち着かなかったのかもしれない。あまり眠れていないようで、顔色があまり良くなかった。気丈に振舞って見せてはいるけれど、母はここ半年でひどく消耗している。
「今日はちゃんと寝て。とりあえず、終わったんだから」
 肩に手を乗せて告げると、母は頼りなげに頷いた。ええ、と。僕や妹の言葉がどれだけ母の心を落ち着けられるものかわからないけれど、それでも繰り返す必要があった。
「俺も連絡するから」
 小声で妹に告げると、絢乃は強く頷いた。

 あまり外の陽が入らない、暗いロビーを通り過ぎる。
 ひらいた自動ドアの先にある大理石のスロープを降りて病院を出た瞬間に、空気が変わった気がした。
 昨日談話室から見下ろしていた、春の日差しに照らされた故郷の空気を深く吸い込む。風の匂い、飛び交う言葉のイントネーション、空の広さ。
 スマートフォンを手にしながら、僕は南東に向かって歩き出していた。
 大通りをしばらく進んで信号を右に、懐かしいあの河川敷へと僕は向かっていた。

 少しずつ、進む足取りが早くなっていく。
 駆け出したっていいはずなのに、力を込めて地を踏みしめなければ心と身体がばらばらになりそうだった。
 アスファルトを照らす光が強くて、首筋のあたりに熱が簡単にこもってしまう。
 じれったい、とわずかに苛立ち、それをなだめるように足をまた前に進ませる。
 身体を連れて行かなければ、心だけがそこを目指してしまいそうだ。
 置いていかないように、手足に強く力を込めて前に進む。

 やがて見えてきた大橋は、子供の頃から数えきれないほど渡ったものだ。手前で横道に入る。
 射す光を遮るものが何もない、視界いっぱいが眩しい場所だ。
 淡い緑色が風に吹かれてさわさわと揺れている。


 少し離れた所で、階段の端に腰を下ろしていた人影がゆっくりと立ち上がった。
 いつかのような弱々しい動きではなかった。健康的な、そして少しだけ陽気な気分でいるのが動きから伝わってくる。
 つばの広い帽子の下で、肩につくくらいの、今は抑えられた色の髪が風に揺れている。少し外にはねる、軽い感じの髪型だ。シンプルな形のブラウスに、幅の広いパンツをはいている。服についた土埃を軽く払うような仕草をしている。
 景色を楽しんでいたのかもしれない。僕の生まれた町の、春の光景を。
 
 声を上げるよりも先に、彼女が何かに気づいたような様子で顔をこちらに向けた。
 そして、僕と目が合う瞬間にはもう千紘は笑っていた。

 ――お疲れさま。

 口の動きだけだけでそう言った彼女に向かって歩き出す。
 心臓が痛い、と思った。勝手に、感情が動き出してしまう。
 この重いものはしばらくこのままにしておきたかったのに。
 ひとりになるまで、胸の中に閉じ込めたままにしておきたかったのに。

 何かから奪い返すみたいに、僕は彼女を胸に引っ張り込んだ。
 人も車も通らないけれど、見通しは良い場所だ。千紘は少し驚いたような声を上げたけれど、同じように僕の背中に腕を回した。柔らかな腕の感触。いつもの彼女の匂い。

「うまくいっちゃったよ」

 冗談みたいに伝えるつもりだったのに、いまいち上手にいかなかった。
 僕の声の震えに、きっと彼女も気がついたのだろう。胸のあたりから、小さな声でうん、と聞こえた。僕の気持ちをただ受け止めるためだけの、静かな響き。

「あいつ、きっとまだ生きる」

 言いながら、僕は強く湧き上がってくるもののために身構えた。
 すでに自らの声の中に、それはにじみ出てしまっていた。安堵も疲労も失望も、あの日から長く続いた罪悪感も。
 心臓が、強く収縮するように痛くなった。深いところから絞り出されるように、ひらいたところから感情があふれてくる。きっと逃げられない。
 だからせめて、この痛みが通り過ぎるまで彼女を抱きしめていたかった。
 
 心の底から押し出されて僕を飲み込んだその思いを、止めることはできなかった。
 自分の泣き叫ぶ声が、胸の中で鳴り響いた。
 これは本当に俺のものなのか。頭の片隅でそう思う。
 こんな悲鳴を、俺は抱えて生きていたのか。あの日から。

 俺はあんたを追い詰めようなんて思ってなかったよ。
 ただ、他の何かにはなりたくなかったんだ。あんたを安心させるため、脅かすひとりにならないため、それだけを理由に別の人間になることはできなかった。譲れなかった。
 あんなの、酔っぱらいの戯言じゃないか。
 高校受験すらまだの、ちょっと口のたつ若者に酒で陽気になっていた伯父がちょっかいを出しただけ。当人はその日の夜には忘れていたかもしれない、そんな一言にどうしてあそこまで固執したんだ。
 たくさんの人を傷つけて、気を遣わせて、それぞれがあんなに傷だらけになってまで。
 
 この痛みと憎しみは、一生持ち歩くものだと思っていた。
 重かった。
 重くて重くて、あまりに痛くて、いつだってつぶれてしまいそうだった。

 ひとりではどうにもできなかった重荷が、痛みを伴いながら心の中で剥がれていく。
 千紘はそこで、僕の嘆きを共に受け止めてくれた。

18|最後の鍵

18|最後の鍵

 嵐が通り過ぎたように、胸の中が静かになっていった。
 引きつったような痛みが引いて、次第に五感が戻ってきたような気がした。
 熱や光、河川やアスファルトの匂い、車の音。

 少しずつ我に返ると同時に、僕は腕を緩めた。
 力を込めすぎないようにとどこかで思っていたものの、それでも苦しかったかもしれない。
「ごめん、痛かった?」
「大丈夫」
 彼女はいつもの調子でそう言って、小さく背伸びをした。大雨が通り過ぎたあと、雨宿りしていた場所からそっと抜け出したみたいな表情だ。僕の鼻の頭に軽く唇を押し付けて、撫でてあげたいけど動けないな、とぽつんと告げる。
「終わって良かったね」
「顔見たら、疲れ吹っ飛んだよ。比喩じゃなくて」
 僕の言葉に、彼女はそっと笑ってもう一度身を寄せてきた。
 ほんの少しだけ、僕によりかかるみたいに。

 裕道の運転で、十時過ぎにむこうを出たらしい。
 正午にはこちらに到着していて、名物の店で食事をしてから地元をドライブしたと言っていた。
 亮太のお家も通ってた高校も只野くんが見せてくれたと言うので、俺がいる時でも良かったのにと小さく抗議した。実際は、不思議さと妙な照れが入っていただけだった。彼女の目に映った、僕の過去。

「ここ、いいところだね。見晴らしもいいし、広々してて」
「なんで河川敷なんだろうとは思ってたんだけど」
 まあ、病院の前よりはましか。身内と鉢合わせになるのも気まずい。
「そろそろ終わって出てくるだろうからって、わたしだけここで下ろしてもらったの」
「裕道って、こういう時に妙に気が利いていやだな」
 僕の憎まれ口に、彼女はこら、と言いながらも笑っていた。子供じみた照れ隠しだ。父とは長く不仲で兄もいなかった僕にとって、裕道の存在は決して小さくなかった。祖父の会社とは無関係の、利害関係のない従兄。
「それで、あいつは?」
「自由行動だって。十六時に、南口のロータリーに集合」
 大方、近くでスロットにでも勤しんでいるだろう。
「修学旅行みたいなこと言うね」
「楽しそうだったよ」
 少しおかしそうに千紘は言った。
 裕道とふたり、半日近く何を話していたのだろう。

「まだ、二時間くらいあるな」
 スマートフォンの時計を確認しながら、地元で彼女と時間潰しをすることになるなんて、と思っていた。ここからは、駅まで十分くらいだろうか。
「こんな時だけど、少し観光する?」
 言いながら、僕も現金だなと思った。まだ水すらろくに飲めないでベッドに拘束されている父親を置いて、自分を迎えに来た恋人の手を取ってどこに連れていくか悩んでいる。
 彼女はちょっと驚いた顔をしたけれど、ほんの少しいたずらっぽい表情で頷いた。

 その日、裕道と駅前で合流するまでの彼女の様子は全部覚えている。ずっと目を離さなかったから。
 周辺を案内しながら、数年前に出来た小さなカフェに入って向かい合わせに座ったこと。泡の浮いたコーヒーを飲んでいた姿や、土産物屋に立ち寄って僕の隣で名産品を物珍しそうに眺めていた様子、それから駅前のベンチに並んで腰を下ろして裕道を待つあいだ、彼女の髪の揺れていた形も。
 そんなに見ないで、と千紘は繰り返したけれど、効き目がないことを悟ったのか途中からは何も言わなくなった。僕はいつもみたいにふざけることができなくて、どこにいても普段ほど饒舌にはなれなかった。
 彼女の姿を、目でずっと追いかけていた。この人がここにいることが不思議だった。とても小さくてあかるいものが、暗がりの中に突然飛び込んできたみたいに思えたのだ。千紘がそこに立っているだけで、景色を伝って過去の自分までほのかに照らされるような気がした。

 夕暮れの駅前ロータリーに裕道は機嫌よく戻ってきて、僕を見つけると「よう」と片手を上げた。父のことはすでに絢乃から教えたらしい、多くを聞かれることもなく、行くぞと僕達に声をかけた。車内は普段と変わらない雰囲気で、いつもの僕達らしい会話が繰り返された。
 裕道はそのまま、マグノリアハイツまで僕達を送ってくれた。
 ふたりとも疲れてしまったのか、荷物を降ろして上着を脱ぐともう力が入らなかった。ソファに収まるようにぴたりとくっついて、そのままいくらも話さないうちに眠ってしまっていた。目が覚めたのは二十一時近くて、結局いつかのようにデリバリーで軽く食事を済ませた。
「疲れてるなら泊まっていってもいいのに」
 千紘はそう言ったけれど、明日が早いことを告げて帰ることにした。明日からまた日常が戻ってくる。そう望んでも、望まなくても。
 一日の礼と共に彼女にそう告げて、僕は部屋を出た。

 ハイツから駅に向かう坂を下りながら、夜の町の景色を眺めた。
 この高台から少し下れば住宅街が、そのさらに先にいつもの駅がある。人の行き来は多くない、静かな場所だ。
 半日前とは、まるで別の自分になっているような気がした。
 どんなふうに変化したのかは、まだわからない。それでも、僕の中にあった何かが確かに変わっていた。気持ちは軽くて、それでいてどこか頼りなかった。気を抜くと、じんと景色が染みてくるような、無防備に脆いような状態だ。
 周囲が妙に優しいように思えて、不思議だった。
 

 それから戻ってきた日常は、穏やかだった。
 あの感情の波にさらわれて僕の中にあったものがひとつ去り、その後に訪れたのは以前より少し落ち着いた気分で続く毎日だった。エディフィカンテには春から新規入会した生徒達が集まり、新しい講師がひとり増えた。大人向けのジャズダンスクラスで、麻子も一コマレッスンが増えた。僕は変わらず雑務全般のスタッフで、変わったようで変わらない日々を過ごしていた。
 休みの日は、ほとんど彼女と一緒にいた。ふたりでピザを焼いたり、リビングの窓辺で小さなワインボトルを開けたり、ソファに寝そべって古い映画を観たりもした。
 夕方に軽いウォーキングを始めたとかで、千紘は以前よりも雰囲気が少し活発な感じになっていた。基本的には物静かな人のままだったけれど、以前よりもしっかりしたような印象を与えるようになった。少しの遠出もこなすようになったし、この頃は仕事の量も増やしたらしい。
 貯蓄が空になる前に少しずつでも前に進まないとね、と、いつもの調子で言っていた。
 ぽつんとしたような、それでいてどこか陽気な口調で。
 
「自由だ」
 彼女のベッドの中で、思わずそう言っていた。
 互いに何も身に着けていない、呼吸も落ち着いたその後の時間に。
 薄い毛布の中とはいえ全裸で大の字になって言ったそれに、彼女は何となく別の意味を見出したようだった。噴きだしたように笑っている。
「今、何か誤解が生まれたような気がするんだけど」
「一瞬そうなったけど、ちゃんとわかってる」
 うつ伏せになって、自らの頬にかかった髪を耳にかけている。
「別に、何も変わってないんだけどな」
 天井を見上げてみる。やはり、ここはあまり多くの色がない部屋だ。その手の施設が好きではない僕の恋人は、こういうことのためだけに場所を変えたいとは言わない。
「内側が変わったから、外が違って見えてるの?」
 ほんの少し眠そうに、千紘が問う。あまり多くを話すつもりはないらしい。
 たぶんね、と返事をしながら寝返りを打ち、僕は彼女の肩口に頬をつけてみる。
 小さくて、肌は変わらずなめらかだ。身体のつくりが違いすぎるような気がして、時々戸惑う。

 以前は、あの町やあの頃の自分と遠くに行けば行くほど自由になれた気がした。あの頃の記憶を置き去りにして、どこまでも遠くにいけることが僕にとっての自由だった。
 自ら得に行くしかなかったそれが、今は当たり前のように自分の中にある。誰にも侵されず、脅かされず。

 父親の回復は順調だと、妹から聞いている。発覚時に病がそこまで進行していなかったことから、日常生活を取り戻すにはそう長い時間が必要ではなさそうだ、とも。
 病院のベッドに座る父とそれに寄り添う母の姿が送られてきても、心は以前のように揺れなかった。
 そこに映っていたのは、もう僕にとって脅威になるような存在ではなかった。
 年老いて痩せた、ベッドに背を丸めて座る頼りない初老の男だった。

 父は認められたかっただけなのかもしれない。そう思うこともある。
 喜朗伯父は求心力のある人で、彼に必要とされる人物は皆とても優秀だった。二男の裕二、三男の達夫、どちらの弟にも彼は目をかけていた。祖父の創った会社を愛していたし、それぞれの持つ特性で大きく貢献していたから。それが望むようにできなかった父はいつでも半人前の存在で、末っ子として甘やかされながらも決してその三人の輪の中には入れてもらえなかった。
 遡れば、彼自身の傷の数だって少なくはないのだろう。そう思うこともある。それをそのまま引きずり続けて、砦と思っていた家族にまき散らすしか生きる術を知らなかっただけ。
 父のことを、哀れに思わなくもない。
 けれど、それ以上の存在に戻ることも、たぶんない。
 僕と父の距離は、きっとこれからも縮まることはないだろう。たとえ再び何らかの危機が僕達家族を襲ったとしても。
 互いに譲らないまま、そのことをただ受け容れたまま。
 生きているうちは、きっとずっと平行線。
 僕にはなれない父と、父にはなれない僕のまま。
 
 すぐ隣で横たわる、温かく小さな身体を抱きしめる。大好きだ。そう思う。
 仕方のないことであふれた場所で、そうじゃないものを探してずいぶん遠くまで行ってきた。
 耐えられなかったから。
 あのまま、ここは何の救いもない場所だと思ったまま生きていくことなんて、到底できなかったから。目の前に用意されたものではいやだと、駄々をこねる子供みたいに。
 そうやって、僕は何かを探していたのだろう。
 僕の中に眠る、これだと思える何かを喚起してくれるもの。
 千紘の中にそれがあって、僕に向かって流れてきたのだろうか。それとも、彼女からもたらされたインパクトやインスピレーションが、僕の何かを起こしたのか。
 わたしは何もしてないよ、と彼女は言う。
 ただここまで何とか生きてきて、ああいうタイミングで亮太に出会えただけ、と。あなたが何かに苦しんでいたことすら、わたしにはよくわかっていなかったくらいだから。
 それで良かったんだよ、と答えた。
 隠していたし、暴かれたくなかった。無理にひらかれてしまうのも、望まない方向に落ち着かされてしまうことも避けたくて、僕はその場所を閉め切って長いこと開けずにいたのだ。彼女が現れるまで。


「わたしには、今の生活はご褒美だなあ」
 うつぶせに横たわったまま、千紘が呟いた。
「それ、俺がうまいって話?」
 白い背中にむかってとぼけて訊くと、目を大きくしてゆっくりと僕のほうを向いてくる。すみません、と答えた。
「これからもずっと、厳しいところを歩いていくしかないのかもって、思ってたの」
 話の腰をくだらない冗談で折られてしまったことに少し機嫌を損ねたらしい。わずかに怒った声で告げられてしまった。
 悪かったって、と謝罪を繰り返しながら思う。時折、こういうことを言うんだよな、と。
 簡素だけど趣味の良い部屋に住み、好きな仕事ができている生活だ。彼女に手を貸したいと思っている人がたくさんいて、一見しただけなら幸せそうに見える。本人も確かにそう思っているのだろう。
 それでも、まだ彼女の中には何かに耐えながら進む意識が残っている。
 癖みたいなものだと本人は言う。
 一番大変だった時期の姿勢が残ってしまっているだけ、と。

 ――実際はもうあんなに闘わなくてもいいんだけど、少し心配な状況になったりするとね、ついあの頃の「これから全部自分で何とかしなくっちゃ」っていう思いを繰り返してしまう。自分が思うよりもわたしの心や身体は良くなっていて、昔よりもずっと安心できる毎日を送っていて、一緒にいる人達も、起こる出来事も全部が良くなってきているのにね。伸るか反るかでやっていた、あのわたしが出てきちゃうのね。

 実際は何てことないまま問題が解決して脱力してしまうこともある、と言って笑っていた。 
 僕が彼女の健康や生活を守りたくてすることに、千紘は時にじんと涙ぐむ。昔の誰にも守ってもらえなかった時代の記憶に触れるからだ。どうしたの、と尋ねたのは最初だけで、最近は気づかないふりをするのにも慣れた。少しずつ、こっちが当たり前になればいいと思う。
 家事や仕事をしながら千紘が歌う、小さな鼻歌が好きだ。鏡を見ながら薄い色の口紅をひく仕草や、届いた書類や文庫本を読んでいる時の横顔が。僕が好きな大きいカップラーメンを食べたがって買うくせに、出来上がったら怖気づいて小さな器に自分のぶんを移して残りをしれっと押し付けてくるところも、フルーツフィナンシェが好きで、買ってくると目を輝かせて喜ぶところ、亮太のことは愛しているけれどパイナップルだけは譲ってあげられない、と袋をふざけてぎゅうと抱きかかえるのも。
 やわらかな肌も、胸から腰にむかうなだらかな曲線も、ひんやりとした太腿も。
 ベランダに並んで立っている時に小さく揺らす右足のかたちも、仕事の終わりにデスクの前で両腕を伸ばしている様子も、花の水を入れ替える姿も。
 彼女の知っている喜びも、今は心の深くに沈む悲しみも。

「もう、そんなこと起きない」
 彼女の身体に腕をまわしながらした断言に、千紘は頷いた。
「起きないよ」
「うん」

 何度折れたって、しゃがんで泣いて泣きつくして、それでも再び立ち上がって次の一歩を選び続けられたら。
 少しでもあかるい方へ、優しい匂いのする方へと歩みを進めることができたら。
 それを繰り返し続けたら、人は思った以上に遠いところまで行けるのかもしれない。ひどく無防備に、僕はそう思うようになっていた。
 もちろん、そう簡単な話ではないだろう。この世界には僕達には計り知れない数の暗い渦があって、その一部を飲み込んでしまったり、逆に飲み込まれたりすることだって珍しくないから。
 僕達が滞在しているのは、歩き続けるだけで骨が折れるような場所でもあるから。

 それでも、もしも遠くのほうに瞬いた何かが自分を呼んでいるような気がしたら。
 どんなに遠くからでも、そこを目指す人もいる。
 たとえその目に見えない歩みの厳しさを誰にも気づかれなくても、そこで起きた震えや恐怖や、何とか身から絞りだした強さの数を誰にも理解されなくても。

 いつかの僕達は、確かにひどい場所にいた。
 油断のならない、いびつで難しい、常に何か大事なものを狙われているような場所に。
 そこを何とか抜け出して、少しずつ生きる世界を塗り替えて、その先に待っていたものがこんなに心を切なく照らすなら――。
 僕達のやってきたことは、たぶん間違ってはいなかった。



「うっわ、ホリーのスーツ姿、やっば」
 麻子は大げさにそう言って、オーバーアクションで両手を使って顔を覆った。指の隙間から凝視されていることに気が付いて、見過ぎ、と言い返す。
 観念した気分をどこかで持ちながら購入した初めてのビジネススーツを身に着けて、僕はエディフィカンテの事務室に立っていた。
「ところで、やばいってどっちの?」
「彼氏がいなかったらよだれ出てたかも」
 麻子はふざけて手の甲で唇を拭く真似をしている。スーツフェチらしい。知らなかった。
 セクハラだぞ、と答えたけれど、彼女は当然聞いてはいなかった。

 エディフィカンテを辞めて派遣の仕事をすると決めたのは、やはり雄大くんの件がきっかけだった。
 彼と特別仲の良かった生徒のひとりは、別れを受け容れられなかったらしい。レッスンを辞めて都内に引っ越してしまった雄大くんとその後も連絡を取り合っていたものの、順応力の高い子供だった雄大くんから便りがなくなるまではそう長くなかった。
 気落ちしたその子は、私生活でいくつか問題行動と呼ばれるものを起こした。抱えきれなかったストレスがあふれてしまったことが原因だと誰の目にもあきらかだったけれど、一度彼を揶揄した生徒と取っ組み合いの喧嘩をしたらしい。
 雄大くんのいないスクールでけがをするような喧嘩をしたことで、彼の中でレッスンに対する意欲は枯渇してしまったのかもしれない。気まずい退会手続きがあったことを教えられて、ここまでにしておこう、と思った。

 次のバイト先を探さなくてはと思っているところで、求人情報の中に知っている旅行会社のものがあった。国内旅行の添乗員で、柏駅から歩いて五分ほどの場所にある事業所だった。雇用形態だけが気になったものの、最終的には派遣会社が用意した応募フォームに名前を打ち込んでいた。
 そこからの展開は早かった。
 裕道と千紘に付き合ってもらって飛び込むように量販店へと入り、ビジネススーツを二組購入した。裕道には「ついにおまえもこの恰好に捕まったか」と言われてしまった。そんなふうに僕をからかいながらも、彼は別の日に僕を自分の店へと呼び出してアイロンの要らないワイシャツと靴下をプレゼントしてくれた。

「わたしの代になるまで付き合わせようと思ってたのに」
 麻子が腕を組んで僕を睨む。もちろん冗談だ。ひとり気楽なフリーター暮らしをするには充分なバイト先だったけれど、それ以外の生活を望むとなると互いに厳しい環境でもある。
「なんだよ、俺とは友達として出会いたかったって言ってたくせに」
 これからそうなるんだからいいだろ、とすっかり馴染んだオフィスチェアに腰を下ろしながら告げると、麻子は勢いをなくしたようにそうだけど、と口ごもった。
「あんたと冗談言いあいながら仕事したかったんだもん」
 高い場所でひとつに結んだ髪を揺らしながら、麻子は言った。
 本当は自分も講師見習いという名目でこのスクールにいたはずなのに、大して立場も変わらない僕を「初めての部下」と言い切りあれこれと雑務を命じてきたのが麻子だ。時に若き後継者らしからぬ態度を喜和子先生にたしなめられつつ、彼女と僕のペアはここのひとつの名物だった。

「正直、勿体ないなとは思ってたんだけどね」
「何が」
「思いっきり仕事できるようなところに置いたら化けそうだよね、って喜和子先生と話してたから」
 言いながら、麻子は僕にいつものインスタントコーヒーが入ったカップを手渡した。
 もうマイカップは持ち帰ってしまったから、来客用のシンプルな陶器のものだった。

 そんなことを言われていたとは思わず、返答しないままカップを受け取った。
 麻子は知らなかったでしょ、と小声で続けて、自分のカップに口をつけながら自らの席に腰を下ろした。
「ホリーはさ、五十で海沿いに引っ越してコーヒーショップ始めても何の不思議もないタイプだけど」
 ぐるりと椅子を回転させて、彼女はいつものように足を組んでいる。
「でも、一度くらいは化けてきなよ」
 正社員登用の制度がある会社だと、麻子には話していなかった。派遣会社の職員に、そういうサポートもしていきます、と言われたことも。
 以前の僕なら受け容れられなかった言葉だ。でも、今はそう思わなかった。
 気の利いた言葉も冗談も浮かばないまま、僕はあいまいに頷いていた。

 
 麻子がその日開催してくれたのは、送別会なんていうのは名前だけの飲み会だった。彼女は今はダンサーとして活動している卒業生やエディフィカンテが発祥である地元のダンスサークルのメンバーなんかも呼び出していて、貸切った店の中はひどい騒ぎになった。
 べろべろに酔っぱらった男達に初めましてと言われながらビールを注がれ続け、たらふく飲んだ。麻子には何度も愛を語られ、どうしてわたしと喜和子先生を捨てるのよー、と一瞬だけ泣かれた。明日には覚えていないだろう。そういうテンションだった。
 店の外に出ると、帰宅ラッシュを過ぎた周辺はずいぶんと静かになっていた。
 盛り上がった一団は、最終的に歌いに行く派と踊りに行く派で別れる形で解散した。
 またしても知らない男に「堀井さんも一緒に行こうよ」などと誘われたけれど、仕事の準備もあるからと帰ることにした。
 仕事に慣れたらまた参加して、と出会ったばかりの人達に言われながら。

「ねえ、ホリー!」
 またなと挨拶して歩き出してしばらくしたところで、麻子が叫んだ。
 振り向くと、若干酔いがさめたらしい麻子が酔っぱらい達の先頭で僕に向かって右手を上げていた。
 彼女が何か言おうと口をひらいた瞬間、

「――俺達、ズッ友だよお!」

 周囲にいた数人の男達が、彼女の続きを奪うように一斉に叫んだ。
 内輪の定番ネタなのかもしれない。誰かが一音口にしたのを察して、そこに乗っかったという感じだ。悪ノリをたしなめるやつと、さらにそれに続いたやつであっという間にその場が沸いてしまう。
 麻子本人は予想もしていなかった展開に絶句し、その後彼らを猛然と叱り始めている。

「なんでだよ」
 つい、口からそうこぼれていた。おまえ達ほとんど今日初めて会ったばっかだろ。
 道路をまたいだ向こうで、やいやい言い合っている彼らを見ながら僕は笑い出していた。
 それから麻子に向かって同じように一度右手を掲げてから、僕は身体の向きを戻して駅を目指した。

19|祝祭は雨上がり

19|祝祭は雨上がり

 すっかり歩き慣れた路地裏の端に、白い猫が座っていた。
 雨宿りのつもりだろうか、古い民家の軒下で気まぐれに毛づくろいをしている。

 茶葉を発酵させたような匂いが、今日も薄く漂っている。
 そこにあった簡易郵便局は、一年前に廃止になった。煙草屋をやっていた、妙にウィットに富んだ物言いをする老婦人は今は介護施設にいるらしい。対面販売を終了した建物の前に、今は煙草と飲み物の自販機が並んでいる。

 その一画は、数年前と比べてずいぶんと賑やかになっていた。
 裕道の店が呼び水になったのか、斜め向かいの空き家に買い手がついた。かつてはピアノ教室だったというその建物は落ち着いた雰囲気のカフェになり、それにさらに続くようにして近所に住む主婦が自宅を改装して酵母パンの小さな店をひらいた。
 裕道の店の隣の空き家は、IT関連の会社が買い取ったらしい。小洒落た雰囲気に改装されて、ウェブ関連の事業を行っていると聞いていた。
 空き家の並んでいた町の一画は今、小さな商店街のようになりつつある。
 
 糠雨の降るその路地裏を、透明な傘をさして歩いていた。近くから飛んできたらしい、桜の花びらが傘に何枚も貼りついている。気温は高く、生ぬるい霧が立ち上るような四月の雨の日だ。

 脇にある通用口のような小さな扉に手をかけて、音を立てないようにそれをひらいた。今日は造花だかのワークショップに貸しているとかで、店主に横から入って来てくれと言われていたのだ。細く急な階段は漆喰で上塗りされて、街灯風のランプが三つ、等間隔で設置されている。
 階段を上って左に、墨黒の塗料を塗られた木の扉がある。
 ノックをして窓から中を覗き込むと、白のロングTシャツに黒いエプロンとアームカバーをつけた従兄が作業台の上で何かを作っていた。
 アイアンの傘立てに黒の傘を差し込んで、僕は扉をひらいた。

「裕道」
「ちょっと待って、あと二秒」
 僕のほうに顔も向けず、彼はのんびりと答えた。
「あと二秒って、つまり五分だろ」
「俺に限ってはそうだけど、おまえそれだと計算弱いみたいに聞こえるよ」
 眼鏡をかけた裕道は、クリップライトに照らされた機械の細部をじっと覗き込んでいる。
 部屋の中には、ごく小さな音でラジオが流れていた。

 ちょっとそこ座ってて、と指さされたスツールに腰かける。外は湿度も温度も高かったけれど、室内はほど良く温かく乾いていた。紙相手だからと、従兄が少し上等な空調を新調したのだ。
「外、すごい降ってた?」
 裕道が印刷機の細かなところを調整しながら僕に尋ねる。
「そうでもない。もう少ししたらあがるんじゃない?」
 答えながら、僕は目の前の箱からティッシュを一枚取り出して濡れた頬と首の周りを拭う。
「それなら、お迎えチャリでもいけるかな」
「いや、また降り出したら(りん)ちゃん濡れるよ。やむかもわかんないし」
 少し慌てて答えながら、僕は一歳になる従兄の娘の顔を思い出してみる。

 裕道が活版印刷を使ったペーパーアイテムの店をネット上でひらいたのは、一年ほど前のことだ。
 階下でギャラリーとフリースペースをオープンした後、彼は二階の改装にとりかかりながら活版印刷の勉強にとしばらく奔走していた。機械の修理や手入れ、全くの素人だった用紙に関する勉強などもしていたらしい。彼自身の修行期間が終わって自らの製作した印刷物を販売するまでには、やはり少しばかりの時間が必要だった。
 アプリを同時にリリースしているというハンドメイド系のウェブサイトに登録し、彼のもうひとつの店である『Anachronism.』の運営は始まった。
 店名ロゴや制作物の画像を揃えて彼が実際にそれを使いこなせるようになるまでフォローしたのが、彼女がここでした最後の仕事になった。

「――凛、最近亮太に懐いてるよな」
「パパより若くて素敵だからじゃない?」
 とぼけて言い返すと、裕道は小さく噴きだしてずれるからやめろ、と言った。
「言ったっておまえも今年で三十路だろ」
「釈然としない」
 作業の邪魔をするわけにもいかない。軽く言い返す。
 二十代はあっという間だとその年齢を通り過ぎた誰もが言うけれど、僕もまたそれを強く実感するひとりになりつつある。約半年後の誕生日で、僕も三十だ。これも誰もが言うけれど、中身は全然その年齢になっていない気がするけれど。
 僕のした返答に、裕道は皆そうだよと笑っている。
 
 旅行会社に派遣社員として就業すると、日々は一変して忙しくなった。単純に起床時間が早まったことも大きかったが、身なりから拘束時間、守るべきあらゆる規則にぐるりと取り囲まれて短期間で別人になった気分になった。
 社会人としてのあらゆる縛りを恐れて極めてゆるい場所でアルバイトを続けていた僕にとって、それは別世界の入口だった。あの環境で許されていたことの多さに改めて気づかされながら、仕事を覚えるのに精一杯の毎日だった。
 研修期間が終わってすぐに、年配の上司の下で添乗員としての業務についた。大手のように修学旅行規模の団体旅行を請け負うことはなかったけれど、企業の慰安旅行や地域のコミュニティが主催する日帰り観光、地元の企業が懸賞として企画したバスツアーなんかは頻繁にある会社だ。添乗員の仕事は、とにかく一日中人とやりとりをする必要があるサービス業だった。
 外国人観光客がターゲットのツアー添乗が好評だったのもきっかけになったのかもしれない。元々が人員不足だったことから、半年後にはあっさり正社員の話が降ってきた。
 内心では躊躇もあったけれど、いざ落ち着くところに腰を下ろすとそんな迷いは吹き飛んだ。目の前にある膨大な現実の処理に追われ続けて、それどころではなくなったからだ。休みも不規則な毎日で、帰宅して上着を脱ぎ、そのままベッドに倒れこんでしまう日も少なくなかった。夜半に目覚めて何とか着替え、顔を洗うことすらできずにそのまま朝まで眠ってしまう日も。
 
 ようやく印刷機から顔を上げて、裕道は僕のほうを見た。太い黒縁の眼鏡をかけるようになってから、少し印象が変わった。店名の入ったエプロンと事務用のグレーのアームカバーをつけている姿は、工房の職人という感じだ。
「ああ、目、しんどいわ。休憩」
 そう言いながら、時計を見上げている。一杯コーヒー飲んでから凛を保育園に迎えに行くから、そのあいだ店にいて、と言う。週末が凛ちゃんの誕生日で、その日は金沢で仕事の僕のためにと今夜前倒しでお祝いをすることになったのだ。
 裕道はひとつ溜息をついてから、右肩に手を添えてぐるぐると腕を回した。コーヒーとケトルが設置してあるコンソールテーブルの前まで、ストレッチを繰り返しながら歩いていく。いつも通りでいい? と尋ねられて頷く。

「今回のお客さん、こだわり派でね」
 ケトルの中にミネラルウォーターを注ぎ入れながら従兄が言う。
「フォントのマニアみたいな人って、いるんだってな。何とかいう昔の作家の本に近い書体で刷ってくれる業者を探してたって言って。自作詩集の表紙を作ってくれないかって」
「へえ」
「何ていうか、意外な需要が多いんだよ。カフェのメニュー表なんかは、もう何度も注文あったけど」
 出来は良かったけどな、と笑っている。
「案外、うまくいくもんだね」
「人の多様性に感謝だわ」
 湯気のあがるケトルの取っ手に手を伸ばしながら、しみじみと裕道は言った。

「おまえは、最近どうなの」
 ふたつのマグカップに湯を注ぎ入れながら、裕道が尋ねた。
「まあ、変わんない」
 最近繰り返している返事を、僕は同じように口にする。
 仕事にも慣れて、経済的には少しの安定を得た。あの古いアパートを引き払って、今は会社の近くに部屋を借りている。小ぎれいな1Kのマンションだ。

 悪運とでも言うのだろうか、あれからの父の回復は早かった。取り戻した日常にはしゃいでいて、母を連れての週末旅行に忙しいらしい。
 妹の結婚が決まったのも、良いほうに影響したのかもしれない。
 絢乃が一度別れた地元の同級生と父の入院していた病院で再会し、婚約するまでは三か月もなかったはずだ。自分が繋いだ縁だと言って、今は式と披露宴の準備にはりきっていると聞いている。
 宮津さんと別れた櫂谷は、ひょんなことをきっかけに写真を撮るようになった。今は休日になればカメラをぶら下げて近所を歩き回っているらしい。
 印象的な街並の写真は元々得意そうだったけれど、意外にも櫂谷は人物を撮るのが上手かった。さりげない視点で、それでいてその人らしい写真を撮影する何かが彼には備わっていた。ひとりになって気持ちも切り替わったのか、以前よりも生き生きとしている。
 小森はあれからも何度か転職を繰り返し、今は調理師として給食センターで働いている。嶋岡は以前よりも責任のある立場を任されたと言うし、麻子のところも変わらずに賑わっている。
 あらゆることが、少しずつ前に進んだような気がする。それぞれ変化しながらも、周囲は同じ場所で暮らしを続けている。
 僕の近くからいなくなったのは、中上千紘、彼女だけだった。


 僕が就職した後も、僕達の交際は順調に続いていた。
 千紘は変わらず在宅でDTP関連の仕事を続けていた。マグノリアハイツの二階に住み、訪れる僕を受け容れ、変わらず僕達はあの部屋でじゃれあい続けていた。時には僕があまりの疲労に到着してすぐに寝込んでしまうこともあったけれど、すれ違いかけた日も何とかそれを修正し、互いに平穏を保ち続けた。
 仕事で日本中を飛び回ることになった僕は、よく現地から寝る前に彼女に電話を入れた。起きてた? 今、どうしてた? と。日付が変わるまでの十五分の通話が、僕達の習慣になった。千紘の声を聞いてから眠りに就くことは、僕を仕事の疲労から何度も救った。

 故郷の友人のひとりである原の結婚式で川越まで出向いた日も、僕達は一緒だった。千紘はそこの近所にある店に行きたいと僕と共に現地まで向かい、夕方に駅から少し離れた場所にある店の前で待ち合わせることにした。
 原の結婚式は彼らしい堅実なムードで、両家の雰囲気もどこかで似ている感じがした。生真面目な青年であることを繰り返された原は、凛々しい表情でそこに立っていた。
 僕達は地元の若い友人達として披露宴を盛り上げ、ほろ酔いの状態で式場を出た。それぞれが陽気な、あるいは感慨深い気分だった。二次会まではいかないけれど、この後でまた少し同窓会のような宴をすることが決まっていた。
 あまりこの手のことが得意ではない櫂谷は、どこか無口で僕の左側を歩いていた。右側では、嶋岡はいつもと同じようにすっきりとした顔で式の感想を話していた。

 式場から小江戸横丁に向かう途中の道で、嶋岡が言った。次は堀井かな。
 その言葉が、僕の心の中で小さな閃光になって何かを照らした。

 返事ができずに、僕はそこで瞬きを繰り返していた。
 反応がなかったことに気づいた櫂谷が、黙ってこちらに顔を向けた。どうした、と言いたそうな表情を浮かべているのが視界の隅におぼろげに映った。
 真っ白になってしまった気持ちを悟られる前に、「うわ、プレッシャー」と告げた。
 嶋岡は少し笑いながら、あかるい声でごめんと言った。
 
 その日の夕方、待ち合わせの場所に先に辿りついていたのは千紘のほうだった。
 約束したカフェの前にあるスペースに佇んでいた彼女は、反対の方角から来た僕に気づいていなかった。僕達のあいだには信号とひとつの車道が横たわっていて、僕は横断歩道の前で千紘の姿をぼんやりとした気持ちで眺めていた。
 髪が伸びたな、と思った。
 落ち着いたアッシュカラーの髪はもう肩についていて、最近気に入りの伊達眼鏡をかけていた。

 千紘の姿が見れると、嬉しいと思う。
 このやわらかな存在が、手の届くところにいるのが単純に嬉しい。
 近づいて、触れたい、と思う。風に乱れてしまった彼女の髪を抑えてあげたいし、ごめん待たせて、疲れただろ、と労わりたい。夕食をどこでとるか相談したいし、並んで電車に乗って同じ町に帰りたい、と。
 景色を眺めていた千紘が、やがて僕が通りを挟んだ向こうで自分を見つめていたことに気が付く。優しげにそっと微笑み、そして彼女は、少しだけ驚いた顔をした。
 そこを行き交う車の影に度々相手の姿を遮られながら、きっとあの時の僕達は自分達の未来に対する決定的な瞬間を迎えていた。
 彼女が、一度だけとても切なそうな顔をした。

 嶋岡は別に酔っていたというわけではなかったし、悪気があったわけでもなかった。子供の頃から思慮には長けた人物だったし、そういうことで僕をからかうような性格でもない。だからあの一言は、本当に地元の友人の幸せを願って発したものだったはずだ。
 あの日僕達に訪れた予感から、それからの僕は逃げられるだけ逃げようとした。あの一言によってわずかに見えてしまったものに、もう一度、今度は厳重に蓋をした。あれは酔っていただけ、感傷的になっただけと理由をつけて、そのまぼろしをなかったことにしようとした。仕事に精を出し、時には上司に冷や汗をかかせるような失敗もしながら、日々を走り抜けるように忙しさで埋めていった。目の前の現実を確かなものにしていくことで、不確かで不穏なイメージを払ってしまいたかった。
 そうやって自分自身から逃げようとした僕に、彼女は何度か寂しそうな眼差しを向けた。僕が自然体ではなくなっていること、自らを無理に高揚させようとしている姿に疎外感のようなものを感じたのかもしれない。
 一見変わらない付き合いを続けながらも、彼女は何かに悩んでいるような寂しげな表情を見せるようになった。


 結局、逃げ続けた僕の代わりに結論を出したのは彼女のほうだった。
 原の結婚式から約半年、半月ぶりに彼女に会いに行った僕に対して千紘は言った。やりたいことができたの。

 ――やりたいこと?
 ――うん。だいぶ体力も戻ったし、そろそろ再就職しようと思って。

 そう言った千紘に対して、僕は内心大いに動揺していた。変化の兆しを感じたのだ。
 新年が開けて正月ムードが落ち着いたばかりの、一月半ばだった。冬休みの団体旅行から初詣ツアーで息つく暇もなかった僕が、やっと数日間の冬休みをもらえた初日のことだった。
 体調は平気なの、と尋ねた自分の声は、心配よりも不安を多く含んでいた。
 彼女は僕のほうをどこか緊張した目で見ながらも、頷いた。

 ――焦ることないんだよ。俺、賞与も入るようになったし、このままなら春には少し昇給するから。

 必要なら支援もする、という意味のつもりだった。自分でも不自然な声になっていることを理解しながらも、そう口にしていた。
 僕の返事に、千紘は少し傷ついたような表情になって一度まぶたを伏せた。
 そして、違うの、お金のことで焦ってるわけじゃない、と僕に向かって訴えた。

 ――ずっとフォローしてたNPO法人で、デザイナーも兼ねた事務員を募集しててね。DVや性暴力の被害にあった女性を支援してるところなんだけど、そこで働きたいって思ってるの。

 僕のほうをまっすぐに見て、彼女は言った。
 
 その場に鳴っていたあらゆる音が、途切れたように感じた。彼女の口にした言葉に、意識のすべてが奪われてしまった。
 自らの経験から、そういう仕事をしたいと思うようになったのだろうか。そんなことを考えていたなんて、知らなかった。
 驚きは感じたものの、僕の中にはすぐに納得が生まれた。彼女らしい選択にも思えたからだ。僕達に関する何かが大きく変わってしまうかもしれないと身構えていたけれど、そういうことなら応援できると思った。
 仕事の詳細を聞き出そうとした僕に向かって、彼女は続けた。

 ――所在地が、長崎なの。

 は、という声を彼女に向かって出してしまったのは、三年の交際の中でも初めてのことだった。

 ――長崎?
 ――うん。

 千紘は静かに頷いた。
 僕の目の前にぺたんと腰を下ろして、それでいて、まっすぐに背筋を伸ばして。

 どういうこと、という返答は、無意識に出たものだった。長崎? それ、どういうこと。
 彼女は僕の初めて出した荒っぽい返事にわずかに顔をしかめた。傷ついたような、あるいはそうならないように身構えるような表情だった。
 彼女は続けた。
 その支援グループの主催である女性のブログが昔から好きだったこと。数年前にあった求人も、気になっていたけれど遠方を理由に応募できなかったこと。その後もどこかで心の中に残り続けて、今回の募集を見て真剣に応募を考えるようになった、と。
 そのブログに千紘は何度かコメントをしたこともあって、相手も彼女を覚えていたらしい。メールでの問い合わせに対して、それなら一度見学に来ませんかと言ってくれた。
 非公開のシェルターの他に、近くにある教会との共同事業として女性の自立のためのシェアハウスも運営しているらしい。そちらも人不足だからと、両方の施設を兼ねたスタッフとしての求人だと聞いた、と。
 まさかもう行ってきたのと尋ねると、彼女は頷いた。僕が仕事で広島に行っていた日、成田から国内線で二時間半かからなかった、と。
 素敵な場所だった、と彼女は言った。シェアハウスは聞いていたよりもずっと大きくて、シスター達も出入りする穏やかな施設だったらしい。母親ほどに年の離れた主催者ともゆっくり話す時間があって、それぞれの境遇が似ていたことで打ち解けるのも早かった、と。
 
 いくら仕事で九州方面に行くことがあっても、それでは遠距離になってしまう。仕事に少しずつ慣れてきたとはいえ、僕はまだまだ余裕がなかった。彼女が遠くに行ってしまったら、もちろん会う回数は激減するだろう。自分の近くから彼女が離れてしまうなんて、僕はまったく考えてもいなかったのだ。

 ――千紘が本当にやりたいことなら、俺、反対しないけど。

 でも、遠距離になる。
 続けて出した言葉は、もしかしたら彼女には聞こえなかったかもしれない。
 彼女は一度頷いて、伺うような目で僕を見た。
 そして言ったのだ。ねえ亮太、わたし達、ここからは友達として付き合ったほうがいいと思わない?

 ガラスがどこかで割れたような、そんな衝撃を感じた。
 心の表面に、ぴしり、と音を立ててひびがはいった。

 いいって何だよ、と言い返していた。
 そんなこと軽々しく言わないでよ、とも。

 感情的にそう口にしながらも、ああ、逃げ切れなかった、という声が頭の中で小さく響いた。
 千紘はあの川越での予感よりずっと前に、僕の中に眠っていたひとつの願望に気が付いていたのかもしれない。そう思った。自分が相手ではそれが実現できないことも、それに気づきながらも彼女から離れたくなくて、その願望のほうをなかったことにしようとした僕の弱さにも。
 あぐらをかいたままそこで俯いた僕に、彼女は優しい声で言った。わたしの身体じゃ、亮太の欲しいものあげられないでしょ。真実だけをことんとそこに置くような、それはひどく静かな口調だった。
 いいんだ、と答えていた。そんなこといい、千紘がいたらいい。他のものなんて要らないって、何度も何度も言ってきただろ、と。
 実際に、それも僕の本音のひとつだった。
 千紘がいればいい、彼女がいれば、生きていける。
 この人が、いつも隣で笑っていてくれたら。この人が、僕の中のやわらかな部分を常に預かり続けてくれたら。僕の中にある良心とか、温かさや弱さを彼女とのあいだに置いて出かけ、再びそこに帰って来られたならそれでいいと。
 
 うなだれた僕の身体に、彼女は膝立ちになって両腕をまわした。
 もうすっかり形を覚えた、彼女の手から腕へのやわらかな線が僕のこわばった背中に沿う。

 ――好きになった時は、そんなこと全然思ってなかったんだよ。

 彼女の腕の中で僕が吐いた泣き言に、千紘は優しく頷いた。うん、わたしも。

 ――今だって、自分で信じられないよ。絶対に千紘じゃなきゃって、ずっと一緒にいたいって思ってるよ。

 そう、あの日の僕も、友人の一言に確かにそれを思い描いたのだ。
 正装で彼女と並び、永遠を約束して、やがては同じ家に帰るようになり、そして――。

 ごめん。
 そう言った僕に対して、彼女がそれはかえって失礼だよ、と言った。いつもの、静かに僕を叱る声。
 それでも、謝りたい気持ちがあふれて止まらなかった。ごめん、ごめん。この結論にしか行き着かなかった、俺が全部悪い、と。
 父とのあいだにあったことから、自由になんてならなければよかった。吹っ切らなければよかった。あのまま故郷に背を向け、ダンススクールで働き続けて、就職なんかしないで千紘と一緒にいればよかった。根無し草みたいなまま、家出した未成年みたいなふたりのまま。たとえつぎはぎだらけの、ままごとみたいな生活しかできなかったとしても。
 そうしたらもっと、彼女と一緒にいられた。

 ――亮太に本当に欲しいと思うものができたなら、わたしは絶対それを手にして欲しいって思う。

 絶対、と彼女は言った。千紘がそういう言葉を選ぶのは、すごく珍しいことだ。
 彼女ならそう思うに決まっていると思ったから、口を閉ざしていたのだ。この人は、繋いでいた手を相手のために離せる人だから。本当は別の何かを思い描いている人の手を、気づかないふりをして握り続けたりできない人だから。
 
 手にできる保証なんてない、と往生際悪く言った僕に、できるよ、と彼女は笑った。できるよ、できないなんてことない、と。怖くっても、挑んでみなくちゃ。
 それは、彼女を初めて自宅に送った日の会話みたいだった。
 本当は、何をするにも怖いと引き換え。それでも、何かが止まったままの場所に居続けるのも耐えられないから、騙し騙しに立ち上がるしかない。
 僕達ふたりに、その時が訪れていた。彼女は彼女の、僕には僕の次の行き先が。
 僕達はどうして、自分の奥にいる何かにこんなに突き動かされてしまうのだろう。なぜ、そこが頷かないことはどんなに願っても叶わないんだ。こんなにも自分に近い存在と出会えたのに、これから別の場所に向かわなければいけないなんて。
 互いにとって、相手が最後のひとりじゃないなんて。

 何日か歯切れの悪い言い合いを続けたけれど、動き出してしまったものを止めることはできなかった。
 結局、絞り出すみたいに僕はそれを承諾した。

 その後の彼女は、旅立ちの準備のためにひどく忙しい日々を過ごした。見送る日までは一緒にいたいと言った僕を受け容れてはくれたものの、実際は僕の仕事が忙しくて会える回数はそう多くなかった。
 使っていた家具はすべて磨いてリサイクルショップに持って行った。愛用していたMacも、私生活ではここまでのものは必要ないからと買取りに出した。しばらくはタブレットだけでいいかな、と、専用のキーボードを買い足していた。
 乗っていた車も売りたいの、男性が一緒だと安心だから同行してくれる? と尋ねられて、それなら俺に譲ってと言った。彼女は少しためらったみたいだったけれど、最終的には僕にそのココアブラウンの軽を譲ってくれた。
 千紘がここで作り上げていた生活は、そうやってあっという間に解体されていった。あっけないくらいに、彼女は暮らしをきれいに片づけていった。
 衣服とアクセサリー、少しの雑貨をまとめると、荷物は衣装ケース四つまでになってしまった。
 越した先で、海の見える街でまた彼女は彼女の暮らしを作っていくのだろう。
 習慣、行きつけの店、彼女の目を通して選ばれた、新しい住居のカーテンや寝具なんかで。
 
 静かに迷いなくそれを進めていく彼女に手を貸しながら、僕のほうが引き裂かれそうだった。互いの道が分かれてしまったことを理解していたものの、実際にそれが目に見える形で進んでいくたびに僕は何度も何度もそれを撤回したくなった。
 寄り添って座っていたソファーがなくなり、何度も彼女と食事をした小さなダイニングセットが姿を消した。次第に広くなっていく部屋の中で、思い出が駆け巡って死にそうな気分になった。
 あげたアクセサリーも手放してしまうのかとつい尋ねてしまった僕に、千紘は小さく笑ってそれを否定した。捨てないよ、お守りだもん、と。

 マグノリアハイツを彼女が退去したのは三月の終わりで、その日何とか休みをもらった僕は、十三時に約束していた業者の立ち合いまで彼女と一緒に部屋にいた。二日前に寝具も処分してしまった千紘は、一昨日から僕の職場の近くにあるビジネスホテルに泊まっていた。
 午前中に車で彼女を迎えに行って、そのままマグノリアハイツに車を走らせた。この三年間何度も繰り返した、彼女の車を交代で運転して出かけた帰り道みたいに。

 建物の下のハクモクレンは、もう満開の時期を過ぎていた。車を降りて、あいている建物の玄関をふたりでくぐる。
 共用廊下を歩いているあいだにたまらなくなって、僕は彼女の手を取った。
 彼女もそれを拒絶せず、僕の手をいつかのように握り返した。

 からっぽになった部屋の鍵をあける。
 ドアをひらくと、カーテンを取り外された部屋は春の日差しに満ちていた。
 
 部屋の中に私物が何も残っていないこと、掃除が済んでいることを確認して、僕たちはリビングの床に腰を下ろした。敷くものがないから冷たいかも、と彼女が言い、日向に座ったら、と答えた。日焼けしてしまうかもしれないけれど、彼女の髪が日差しに透けるのが見たかった。
 互いに、ペットボトルの飲み物を手に向かい合わせに座った。彼女はベランダに続く吐き出し窓の広く取られた桟に、僕は室内から彼女にむかう形で。暖かい日で、窓を大きく開けて風を通してしても全然寒くなかった。
 思い出話をしたくなかったのは、気持ちがあふれてしまうからだ。初めてこの部屋を訪れた日から今日まで、多くの思い出が僕達のあいだに積み上げられていた。入り浸るみたいになるのはいけないと思いながらも、彼女と静かにこの部屋で過ごすのが僕は好きだった。

 ここもすっかりきれいになった、仕事が忙しいのに色々手伝ってくれてありがとう、と彼女が言った。
 なんてことないよ、ちいちゃん持ち物少ないから、と答えて、引っ越し作業の小さなエピソードをぼそぼそと話した。リサイクルショップの店員のはきはきとした物腰や、手続きに行った市役所の前で何かのキャラクターの真似をして騒いでいた子供のこと、それから僕達を引き合わせた裕道に、ふたりで話をしに行った日のことも。
 裕道は僕達の別れを全然信じなかった。俺を騙そうとしたってそうはいかないよ、とまるで取り合ってくれなかった。冗談ではないことを繰り返し、経緯を話し、彼女の再就職までの事情を説明して、その日は家に帰った。
 彼の中で話が事実になると同時に、裕道はひどく落ち込んだ。おまえ達ほど仲の良いふたりも珍しいと思っていたのに、と。
 彼から千紘の送別会をしようと連絡が来たのは、それから数日後のことだった。

 管理会社の人間が立ち合いにやってくるまで、あと三十分という頃だっただろうか。
 千紘がふと、あ、桜、と呟いた。
 ベランダに、風に運ばれた桜の花びらがひらひらと数枚舞い降りた。

 ――この辺、桜なんて咲いてたっけ?
 ――下のほうから上がってきたのかも。
 
 そんなことを言い合いながら、互いに何となく立ち上がっていた。
 開けた窓のむこうに、あかるい日差しに照らされた駐車場が見える。トチと白樺の木が変わらずに並んでいる。
 
 ――ここ、いつ入居したんだっけ?
 ――手術する前だったかな。けっこう経ったね。

 あの頃は本当にふらふらだった、寝てばっかりいた、と千紘は笑った。まだ僕と出会っていない、ひとりでこの部屋で丸まって眠っていた頃。
 この、ほんのちょっと困ったような笑顔に惹かれた。外側に、相手へと向かわない、控えめな笑い方に。あれから数えきれないくらいにこの表情を見てきたのに、僕はいまだにこの笑顔に返事の一音を奪われてしまう。

 千紘のほうに身体を向けて、僕は彼女をじっと見つめた。
 彼女も何かに気づいて、笑うのを止めてゆっくりと僕を見上げた。

 窓辺で向かい合って、僕達は外からの風を受け止めて立っていた。
 
 その瞬間、窓の外で何かが鳴り始めた。
 イクイネンで挙式があったのだろう、そこにある小さなチャペルのベルだった。それまでも何度か耳にしたことがある、挙式の始まりを告げるウェディングベルだ。
 千紘も、あ、という声を小さく出してから僕のほうを見た。
 目が合った瞬間に、僕達の中で何かが弾けた気がした。
 こぼれないように、あふれださないようにと抑えていた、押しとどめていた何かが。

 ベルが遠くで鳴り響いているのに、時間が止まったように感じた。
 午後の穏やかな日差しの中に吹き込んだやわらかい風が、僕たちの気持ちを違う場所に連れて行ったようだった。これは僕達のためのベルじゃないのに、これから僕達は、別の道に進んでいくしかないのに。
 向かい合って窓辺の光を受け、そこで目を合わせている僕達は叶わなかったひとつの夢の中に迷い込んでいた。

 心が、身体を超えて高く舞い上がった気がした。
 はるか高いその場所で、僕達が誓えたのは今の気持ちだけだった。
 誰よりも今強く思うのは、大切だと思うのはこの人だけだ。今この瞬間の自分のすべてを捧げられると思うのは、どうやったってこの人だけ。強い気持ちで、そう思った。
 その愛しさの中で、僕達は互いが一番近くにいる日々の終わりに対して納得していた。深いところで、これでいい、と頷いていた。
 そのくせ、はっきりと胸がつぶれた。
 こんな時にウェディングベルなんて鳴ってくれるなよ。俺はこの人にこれ以上の未来を誓えなかったんだから。
 僕の泣きそうな顔につられたように、彼女も目に涙を浮かばせた。
 出会った日とは違う髪型、あの頃よりも千紘の顔色はずっとあかるい。頼りなく心細い時代がまた少し遠ざかって、何か新しく確かなものを胸に宿して立っていた。
 これから、いつかの自分がいた場所でうずくまる人を助けに行く人。
 この人の手を、僕は本当に離してしまうのか。

 納得していたはずなのに、行かないでくれ、という言葉が喉元まであがってきた。
 けれどそれを僕に言わせない笑顔で、彼女は僕に手を伸ばした。静かな抱擁。
 互いの片耳を合わせて、やわらかくそっと擦り合わせる。こうやって、よく耳朶の擦れる繊細でくすぐったい音と感触を分かち合った。彼女の好きなこと。
 体をゆっくりと離して、千紘は僕を見上げた。 

 ――わたしは、男の人の本気の愛情をちょっとなめてた。

 わずかに冗談の響きを含ませて、彼女は言った。

 ――生きていく力をこんなにくれるものなんだって、亮太から教えてもらった。
 
 彼女の放った一言に、勝手に涙が湧き出していた。
 この人に注いだ不格好な思いが、痛いくらい好きだったあの気持ちが、彼女の中でそんなふうに形を変えていたなんて思いもしなかった。
 
 ――ずっと優しくしてくれてありがとう。本当にかっこいいのはあなたみたいな人なんだって、わたし今も思ってる。

 春の窓辺で、彼女は言った。
 そして僕に向かって、楽しかったね、と微笑んだ。  


「おまえは昔から、意外に欲しいもの欲しいって言わなかったよな」
 カップを手に、裕道はちょっとあきれるような声で言った。先週家族で行ってきたという、凛ちゃんの初ディズニー土産の焼き菓子を僕に向かってひとつ投げる。
「ばあちゃんちで何か配るときも、喜ぶ割にいつも一番最後で。数足りなさそうだと思ったら適当な理由つけてさっと引っ込んじまうし」
 そうだったっけ、と答えたが、同時になんだ見てたのか、とも思う。
「堀井の親戚のほうで、いろいろ気い遣ってるからだろうなって思ってたよ。うちのほうは全然、庶民の一族だから」
 そんな大したもんじゃないよ、と告げた。
 言えた立場でもないけれど、祖父の会社は絵に描いたような地方の中小企業だ。幹部はほとんどが親戚だからとなあなあにしたままのことも少なくないし、実際求人サイトが匿名で集めている従業員の評価だってそう高くない。現代基準のハラスメントに敏感というわけでもないから、これからの世の中で同じ業績を残し続けたいならどこかで方向転換や見直しを迫られるだろう。
 裕道はカップを持ちながら、作業台と窓辺のあいだをゆっくりと往復している。
 階下で誰かが冗談でも言ったのか、起きた笑いが小さくここまで届く。

「おじさん、昔からおまえにだけすごい厳しかっただろ? こっち側の親戚で集まってたときも、おまえがちょっと嫌そうな返事しただけで怒鳴りつけたりして」
 少しためらった後に、裕道はそう言った。
「子供なんてあんなもんだし、あそこまですることないのにってうちなんか思ってたんだ。わざとおまえに恥かかせてるみたいな感じがして」
 昔の嫌な感触が、腹のあたりにわずかに蘇った気がした。父の悪癖を思い出してしまった。
 場を持たせようとするために、若かった彼はよく自分の子供を笑い者にした。父からの揶揄や不自然な命令を僕が拒むと、その場でしばしば大きな声を出した。本人は冗談のつもりだったが、そこにいた人たちの表情はどこか引きつっていた。逃げ出したいほどに気まずかった、あの頃の記憶。
 同時に、だから裕道の両親は僕にずっと甘かったのか、と腑に落ちた。

「そういうおまえが目の色変えたの、俺初めて見たんだよ。ああ、こいつもこんな顔するんだって」
 そう、初めてのことだった。あんなに強い思いも、恰好のつかない振る舞いも。
 彼女に向かって勝手に飛んで行ってしまう気持ちを追いかけるように、自分の元に連れ戻すように、千紘、千紘と彼女を求めた。
「今も、元気っぽい?」
「元気だってよ。むこうの環境にもすっかり慣れたって」
「そっか」
「仕事が充実しすぎて、誰とも付き合うつもりないって笑ってた。しばらくは、上書きしないつもりだって」
 
 彼女が無事に引っ越しを済ませたこと、問題なく新生活が始められたことを確認したのが、僕達の最後の連絡になった。
 彼女が新たに所属したNPOの事務局はブログで情報公開をしていて、四月の終わり頃からデザインが少しずつ見知ったものに変わっていた。写真の切り抜き方、色合い、文字の色を見て、千紘だ、と思った。
 仕事でも何度か彼女の住む街に行った。視界の中に常に彼女のことを探している自分を持て余しながら、もう身軽なバックパッカーじゃない立場で雨と坂の多いあの街を歩いた。
 少し気を抜いたら気持ちだけが彼女を探してさまよってしまいそうな、あやうい自分を何とか胸の中におさめて。

「おまえのこと、本当に好きだったんだと思うよ」
 裕道は僕に背を向けて、雨の量を確認するように窓辺で空を見上げている。
 ああ、と頷いていた。充分にわかっていた。だからこそ、千紘は僕が自分の本心を隠して彼女と生きるのを許してくれなかった。
「『あんなに優しかったら幸せ掴み続けるのも難しいだろうから、よく見ててあげて』って」
「人のこと――」
「言えないよなあ」
 はは、と裕道は笑った。結局似た者同士だったね、おまえたちは。
「連絡先、消したの」
「消すつもりない」
 でも、きっとただそこに残り続けるだけだろう。そんな気がする。
「まあ、俺とは仕事で繋がってるから、何かあったら教えてやるよ。困るようなことあったら、おまえも何かしてやりたいだろ」
 再び、僕は頷いた。

 やっぱり、今日は車じゃないとだめか。
 裕道はそうぼやきながらアームカバーを外した。黒いエプロンの上から大きなウィンドブレーカーを羽織って、ポケットの中に手を入れ鍵があるか確認している。
 二十分以内に戻るから留守番してて。下の団体は五時までだから何もしなくていい。
 そう告げて、彼は娘を迎えに行った。

 ばたばたと従兄が出て行くと、空間はとたんに静かになった。
 つけっぱなしのラジオは、注意して聴けばAFNだった。サム・スミスの新曲だとパーソナリティが説明している。
 さっきまで裕道が立っていた場所に移動して、窓の外に視線をやってみる。
 少し前に芝生が敷かれた小さな裏庭、いつか彼女が「熱いから気を付けてね」とポップコーンを子供に手渡していたその庭で、廃材で作られたらしい木製のシーソーが雨に濡れている。


 彼女のように明確な目標を持ってそれからの日々を動くことができなかった僕は、別れてからの時間と体力のほとんどを仕事に費やして過ごした。
 重い気持ちを振り払うように仕事に没頭する僕に、思うところがあったのかもしれない。上司に居酒屋に誘われて「堀井、仕事って続いていくことなんだから、そんなに気を張り続けちゃだめだ」とたしなめられてしまうこともあったけれど、多忙にしていることで何とか彼女との別れから気持ちを遠ざけようとした。
 ぼろぼろになるまで疲れても、抱きしめて眠る身体がないことに僕はなかなか慣れなかった。ひとつの球体みたいになれた、圧倒的な安らぎのあった彼女との時間を失って、日々はばらばらになった欠片の上を裸足で歩いているようだった。
 現実なんてこんなものだ、と自分に対して繰り返しながら、一度彼女にひらかれてしまった気持ちを器用に閉じてしまうこともできず、今もそこは無防備にひらいている。

 温かく乾いた従兄の工房で、スツールに座って目を閉じてみる。
 あれから季節が一巡しても、地面の上で濡れる落花で思い出すのはあの人のことだ。

 参るよなあ、と口に出していた。
 もうどうにもならないことがわかっているのに、彼女は僕の中に居座ったまま立ち去る気配がない。出会いには困らないはずの仕事をしているのに、あのインパクトを超える人が現れない。簡単に現れて欲しくない。ぽっかりとあいたところに映るあの頃のまぼろしを、ぼんやりと眺めながら生きている。
 数年前とはまったく違う世界で、もう逃亡者みたいな気持ちで暮らしているわけでもないのに。

 あの頃は何にも持ってなかったな、と頭の中で呟いていた。
 怖いものだらけ、逃げ出したい思い出だらけで、外れ者だった。心の中で、世の中から孤立していた。留まることができそうなどこかを見つけられないまま、旅ばかりしていた。
 今よりもずっと、夜の色が濃かった。暗闇が、さまざまな色が幾重にも重なって分厚くのしかかってきた。暗い色が混ざり合ったマーブルの中に身を置いて、肌に触れてくるその色合いに気持ちを揺すられて生きていた。
 僕自身の痛み、友達の痛み、家族の痛み。
 そういうもののにじんだ世界で、あかるく振舞いながらも僕は途方に暮れていた。
 あの世界の出口は、確かに彼女との時間の中にあった。

 きっと、あの時代のあんな僕だからこそ、そう見えたのだろう。
 引きずっていた暗がりを、有りあまっていた体力とまだそこまで硬くない心でどうにか振り切ろうとしていた、あの頃だからそれが見えた。
 紫や濃紺や銀色がところどころににじむ夜の暗闇に、少しずつ透明な光が混ざっていく、あの静謐な夜明けみたいな色合い。
 僕の中に射し込んだ夜明けの一番最初の光と、闇の薄れるさなかの色。
 心を許したものたちが次々と深く傷ついていく、その姿ひとつひとつが耐えられなかった僕に彼女がもたらしたもの。

 大丈夫、この世界はただ損なわれ続けていくだけじゃない。
 傷ついて崩れていく何かがある裏側で、静かに回復され、取り戻され、再びやわらかく潤っていくものもある。
 そんな眼差しを、僕の中に作ってくれた人。

 あの頃の千紘の中から湧き出していた色が、あれからいつも胸の奥にある。日々の忙しなさのあわいに、それが顔を出すのをいつも待ち続けている。雲間から光がこぼれ、あたりをそっと照らすみたいに訪れるその瞬間だけは、あの人といた場所に戻ることができるから。
 彼女が僕の中にもたらしたやわらかく切ないあの色、名前も知らないあの色を、僕はこれから誰の中にも探しながら、発見しながら生きていくのだろう。
 愛しいものが今もどこかに存在する、いつかの彼女に許された、もう僕を拒むことのない世界で。

 目をひらいた瞬間、外の景色の中に斜めに光が差し込んだ。
 部屋を出て、裏庭のすぐ上にあたる廊下の窓を開ける。

 天気雨。

 芝生の敷かれた小さな裏庭に、生まれたてみたいな光がさしていた。
 細く撫でるような雨に洗われていくその庭を、そっとあかるく照らしている。

『ここ、只野さんのお店ですよね。今度新しく始める――』

 最初に僕を見上げたあの日の、彼女の表情を鮮明に思い出した。
 赤い傘。あかるいベージュのショートヘア。わずかに怯えたような、緊張した目の動き。
 きっと僕は、彼女ほどまっすぐ前に進めない。
 それでもいつか、僕は彼女に報せるだろう。新しい居場所を築き始めた、と。
  
 あの日僕の心の鍵を持って目の前に現れた、中上千紘。
 今でも毎日、僕は彼女のことを思い出す。
 朝の街中、天気雨の午後、ふと目覚めた静かな夜の毛布の中でも。

 実際に口にしたら、柄じゃないよと君は笑うかもしれないけれど。
 愛する人、どうか僕の心配や嫌な予感がまるで届かない場所で、今日もあっけないくらい幸せで居てほしい。


(了)

名前も知らない【3-3】

名前も知らない【3-3】

恋愛 悲恋 ヒューマンドラマ

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-08-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 14|破片と断片
  2. 15|転がる棄石
  3. 16|瞬き、その間に
  4. 17|その日の祈り
  5. 18|最後の鍵
  6. 19|祝祭は雨上がり