名前も知らない【2-3】

古瀬 深早

名前も知らない【2-3】

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07|スノードームの底

07|スノードームの底

 もしも、同じことをしている成人男子が身近にいたら言ってしまうかもしれない。
 俺達は中学生か。

 カフェを出た後は、彼女の車でしばらく近所を走った。公道の運転には自信がないと言っていた千紘さんの運転は、時には慎重すぎると思うほどに慎重だった。
 長く暮らす住民も「生活には困らないけれど正直なところ何もない」と言うような、のびのびとした、かつだだっ広い住宅街が占める街だ。入りたい店があるわけでもなく、夕暮れの時間から行けるような場所も思いつかなかった。
 結局、運動公園のような場所の駐車場に車を停め、閉園までの三十分あまりをベンチに並んで座って話した。
 駅前のベンチでも同じように座った、と口にすると、彼女は少し恥ずかしそうに頷いた。あの時一緒だった人が仲の良いお友達? と訊かれたので、嶋岡のことを少し話した。
 その日はやはりいつもより風が強く、声が聴きとりづらいからという理由で少しだけ僕から身を近づけた。彼女はちょっと驚いた顔をしたが、それだけだった。
 少しずつ気を許してくれてはいるのだろう。それでも、今の彼女の気持ちがどこを向いているのか、僕にはまるでわからなかった。

 ――千紘さんは、俺のこと、好き?

 それを聞き出せるほどは強気になれなくて、それでもすぐ横に置かれていた小さな手を、自分のそれで包み込みたくなってしまう。
 僕のじりじりとした精神状態に気づいているのかいないのか、千紘さんは変わらずほのかにあかるく、楽しげに口をひらき続けた。

 嫌われてはいないはず、なんだよな。
 ダンススクールの玄関で、子供達を送り出しながら思う。キッズジャズダンスはこのスクールでも人気のクラスで、終了時刻のフロントは小学生達で賑わっていた。

「リョータ、何やってんのー」
 奥のほうから走ってきた小学二年生男子に、尻のあたりをばちんと叩かれる。
「大人に向かって呼び捨ての上に暴行するとは。堀井さんと呼びなさい」
「やだ」
 汗拭き用のフェイスタオルをぶんぶんと振り回しながら飛び跳ねている。省エネの概念がないのが子供のすごいところだな、と無駄な動きを一生懸命しているのを見る度に思ってしまう。
 鎌田(かまた)雄大(ゆうだい)。タオルのタグに、マジックでそう書かれている。わけもなく周囲の大人に声をかけたい盛りらしい。麻子にセクハラめいたことを言って、本気で怒られているのも見たことがある。

「うちのかーちゃんがさー」
 ハーフパンツのポケットにタオルをねじ込みながら(入らないと思う)、雄大くんは言った。
「お母さんが?」
 手にしていた名簿ファイルを閉じて尋ねる。彼はぱつんぱつんに膨らんだポケットを小さな手のひらで叩いて、何とか余白を作ろうとしている。
「おまえのこと、イケメンて言ってたぞ」
「まじか」
「韓国のハイユー? に似てるんだって」
 雄大くんは得意げにそう続けた。
 俳優、というのをおそらく誰かの名前だと思っている。
 それさすがに無理がない? とポケットに収まりきらずにだらりと垂れているタオルを指さすと、彼はにたっと笑ってそれを勢いよく引っ張り出した。しわだらけのタオルに引っ張られて、ポケットの内布まで出てきてしまう。

「なあ、色気って、なに」
「はい?」
「かーちゃんが言ってた。色気があるのよねって」
 ああ、雄大くんのお母さん、ずいぶん軽はずみなことするな。こんなに人懐こい息子の前で何か言ったら、本人の前で吹聴する可能性しかないじゃないか。
「魅力の一種、かな」
「ミリョク」
「ちょっといいところ」
「ふうん」
 どうでもよさそうな相槌ではあったが、帰宅したら無邪気に母御にむかって今の会話の内容を披露してしまうかもしれない。回答を薄味にして、なるべく印象に残らないように口をひらいた。
 雄大くんはその後、かーちゃんの趣味が韓国ドラマ鑑賞であること、とーちゃんに内緒で、何度か空港まで来日した芸能人を見に行ったと僕にむかって説明した。とーちゃんにばれてしまってからは追っかけ行為を禁止されていたけれど、息子のダンス教室に良く似た雰囲気の先生らしき人がいる、と喜んで仲間に電話していた、とも。

「だから、これからはリョータのファンになるって」
「そっか――それ、お父さんには言うなよ」
「なんで」
「鎌田家の平和を守るためだ」
 僕の発言に、彼は若干神妙な顔つきになっている。
 その場にしゃがんで、僕は小声で続けた。
「俺がそう言ってたっていうのも、ご両親には言わないほうがいいな」
「そうなの?」
「そう、君にかかってるぞ。オッケー?」
「わかった」
 言っていることの意味はわからなくても、大人の事情に入れてもらえたと思えるのは嬉しいことらしい。芽生えた使命感を隠すことなく、彼は真剣に頷いた。

 玄関ホールから出ていく後ろ姿を眺めながら、雄大くんのお母さんってどんな人だったっけ、と記憶を呼び覚ましてみる。気が強そうな面立ちの、はきはきとした喋り方をする女性ではなかっただろうか。お気に召していただいたことに関してはありがたかったが、知らなくても良かった内容だ、とも思っていた。
 関心があまりにひとりに集中していて、笑ってしまう。
 今一番好かれたい人の気持ちにしか、興味がないなんて。



 本人が体調を優先して静かに暮らしていることから、混雑した場所や体力を消耗しそうな行き先に彼女を誘い出すのは気が引けた。千紘さんはそこまで気を遣ってもらわなくていいと言っていたが、時折見せる青白いような顔色や無理をしているふうの笑顔がどうしたって気になってしまう。
「お腹に力が入らないって、思っていた以上に弊害があるんだなって思って」
 買い物の休憩にと入った、小さなショッピングモールのカフェでのことだ。
 バイトを終えた夕方に連絡すると、これから近所にあるショッピングモールまで行くつもりだと言われた。モール内にある家電量販店で、レーザープリンターのトナーカートリッジを買う予定だったらしい。重そうだし同行しても構わないか尋ね、僕はそのままその店に向かった。
 目当てのトナーカートリッジは、すでに生産が中止になっているものだった。最終特別価格と大きく書かれたそれを、千紘さんはふたつ購入した。もうネットでしか手に入らないと思っていた、ラッキーだった、と。
「何か、生活していて大変なことがあるんですか」
 僕の質問に、彼女はカップを両手で抱えながら一度困ったように微笑んだ。
「大したことじゃないんですけど――重い物も以前より持てなくなるし、声を張るのも疲れちゃうし。何をするにも、勢いがつかなくて。結局、知らず知らずのうちに一番体力が消耗しないやり方を選ぶようになっていくんです」
 手術の影響というよりも、病気そのものに体力を奪われてしまったらしい。人によっては、このくらい経ったらすっかり元気になっていてもおかしくないんですけど、と言っていた。病院での治療が終わった後に以前の生活を取り戻すべくそれなりに頑張ってみたものの、思うようにことが運ばず観念して時間をかけることにした、とも。
 今は、自分の現実を動かしていけるような強い力を身体から全く感じないのだと言う。ふわふわしていて、不確かで、思いもよらないタイミングで電池切れしてしまうような感じらしい。夢の中にいるような気がすることもあると笑っていた。すぐ寝ちゃうからかもしれないけれど、と。
 そして彼女は今の私生活の形を、僕に静かに打ち明けてくれた。
 買い物は週に二回、夜の空いている時間帯に。大きな物は配達や通販に頼っていて、睡眠時間は七時間以上、飲酒は控えてなるべく身体を温めている。仕事はあまり入れすぎず、消費もそれに合わせて抑えているらしい。ゆっくりそろそろ歩くみたいな生活だけど、地元を出てから一番穏やかな気持ちで過ごしていると言っていた。
 この生活を乱さなくてはいけなくなるような付き合いからも、今は思い切って距離を置いているようだ。世間一般の空気から少し離れたところにいるように見えたのは、そのせいらしい。
 本来の彼女の姿とは少し違うのかもしれない、ゆっくりと、そっと営まれている日常の中に千紘さんはいた。

「だから、ヒールも体力が溜まるまでは禁止」
 彼女は笑って続けた。今日はほとんど高さのない、それでいてやわらかい曲線のサンダルを履いている。
「千紘さんも、ハイヒール履くの?」
「すごく高いのは履かないけど。でも、お気に入りが二足だけあるんです」
 秘密を打ち明けるように、彼女は言った。
 口にするのはそこまでで、色やディテールまでは細かく説明しない人だ。相手はそういうところまで興味がないだろうと、そう思っているのかもしれない。自分の話を聞いてほしいとかわかってほしい、という気持ちが、どうやらあまりないらしい。
 それでいて、それならその靴を履かせてやりたいな、と思わせてしまうのがこの人のすごいところだ、と思ってしまう。静かに嬉しそうにしている姿が想像できるせいだろうか。

 ――頼りなく生きていそうで、やっぱり何か、楽しそうなんだよな。
 彼女がカップをソーサーに戻す仕草を眺めながら、僕はそんなことを考えてしまう。


「それは構わないっていうか、こっちは助かるんだけど。でも、ぶっちゃけうちのほうが時給安くない?」
 事務机の前でパソコンを起動しながら、麻子は言った。
 一日の仕事を終えて、スタジオの片付けをしながら小声で声をかけたのだ。相談があるんですが。彼女は片方の眉を持ち上げてから、じゃあ終わったら事務室ね、とさらりと答えた。
 シフトを増やして欲しい、と言ったのだ。単発系のバイトは入れるのも移動や手続きにもそれなりに時間が取られるし、どうしたってスケジュールが変則的になってしまう。今は週の半分が午後からラストまでになっている勤務を、朝からに変更してもらえないか打診した。
 断られることはないだろう、と思える理由もあった。
 最近、事実上こことライバル関係だった同じ市内のダンススクールがひとつ閉鎖になったのだ。同じくらいの規模の、キッズダンスからフラ、ヒップホップもジャズもフラメンコも学べるようなスクールだった。厳しい指導者が多かったとかで、その後近所にあるフィットネスジムのダンスクラスに移動した生徒達が物足りないとここに流れてくるようになった。おかげで、今までにない賑わいを見せている。
「どっちにしたって、ここ休みの日は別のバイトしようと思ってたところだし」
 インスタントコーヒーを淹れながら答える。講師の誰かの土産らしい、封の空いた東京ばな奈の箱を見つけた麻子に誘われたのだ。ねえホリー、コーヒー飲もっか。淹れてってことだろ、と言い返しているあいだに、彼女はわたしパソコン起動しなきゃだからとすたすたデスクに向かって行ってしまった。三分ほど前のことだ。

「働くねえ。えー、女関係?」
「麻子ちゃん、気軽にぶっこみすぎじゃない?」
 カップを渡しながら言い返すと、麻子はわたしならいいでしょー、と拗ねたような声を出した。
「だって、変な女におかしくなっていく手助けはできないじゃない?」
 演技じみた、こぶしのきいたような物言いだ。ご親切にどうも、と流してしまう。
 空いているソファに腰を下ろして、淹れたばかりのブラックコーヒーをすする。面接のときに初めて腰を下ろしたソファだ。僕はここの求人情報をネットで発見し彼女の叔母の面接を受け採用されたれっきとしたアルバイトなのだが、最近では大多数の人に麻子の友達がそのまま雇われていると思われている。面接をした当人である喜和子先生すら、そう思っているらしい。
「心配ないのよね?」
 麻子は繰り返した。ないない、と僕は大げさに首を横に振る。
 
「――すごい偶然が重なって、たまたま会えただけ、って感じがする人なんだ」

 手渡された銘菓のパッケージを破きつつ、そう答えてみる。
 麻子はパソコンから目を離し、こちらをちらと見て尋ねてきた。どういうこと。

「本来は、俺みたいなのとあんまり接点なさそうなの。きれいな感じだし、色々苦労あったはずなのにすれてなくて」
 麻子がうんと頷くのを見ながら、恋愛相談なんて俺も焼きが回ったな、と思う。
「偶然知り合えただけで、本来はもっと良い男と釣り合う人なんだろうなって」
 むかつくけど、と付け足してふわふわの菓子を口の中に放り込む。
 千紘さんに今言ったことを伝えたら、彼女はいつものびっくりした顔をして、その驚きに追いついたように首を横に振るだろう。そんな、買い被りすぎです、と。あまりにたやすい想像だ。
 それでいて、彼女のちょっとした仕草や言い回しの中には誰かに心から大事にされた経験があるようにも見えるのだ。今までしてきた恋愛について彼女に直接訊いたことはないけれど、その相手はぼやっとしたような人物ではないように思えた。

 もしも今、そういう男が彼女の前に現れたら。
 彼女を支えられるような、確かな力を持った男が、千紘さんと出会ったら。

「かっさらわれたくないわけ」

 麻子は僕の言葉に、しばらく動きを止めたみたいに見えた。
 そして慎重な様子で、ガチだ、と呟いた。
 しんとした空気に我に返って、気恥ずかしくなってしまう。

「だからさ、男ならまずはメイクマネー」
 少しだけ茶化すつもりで、そう言い足した。
 若干たどたどしくはなってしまったが、いつもの調子に何とか戻った。

 今までは、学生に毛が生えたような経済力でも構わなかった。
 たとえすべてがエコノミーでも、身一つで眠って起きて、また一日を自分自身で生きられれば、それで良かった。
 自由。喉元を絞められたような気がしていた時代を何とかやりすごした僕が、浴びても浴びてもまだ足りないと思っていたもの。溺れていた人が酸素を求めるように、灼熱の砂漠をさまよっていた人が水を求めるように、渇いて、飢えて、必要だったもの。
 自分を強く縛る可能性を持つものは、何ひとつ欲しいと思えなかった。家も、家庭も、社会的な立場だって。
 一生、そんなふうにしか暮らせないかもしれないとすら、思っていたのに。

 せっかくあかるく切り返したというのに、麻子の表情にはあまり変化がなかった。
 数秒後、軽いようで一途だね、と彼女は笑った。
 そして、頼りにしてる、とパソコンのディスプレイに映る僕の名前に音を立てながらカーソルを合わせた。

『小森の再々々々(略)出発を祝してくれ』
 翌朝七時に、原が毎度おなじみのコメントを送ってきた。
 日付を見ながら、今日だった、と思い出す。
 少し前に酔っぱらって半泣きになりながら「俺だって好きでこんな生活してねえんだ」とグラスを揺らしていた小森は、その後一週間ほど軽井沢の祖父母宅で頭を冷やしてきたらしい。
 嶋岡の助言を受け入れて、今度は自販機補充員の求人に応募したと言っていた。

『無理すんなよ、職場にも当たり外れってあるから』
『肉体労働だな。小森、腰やるなよー』
『まあ、ほどほどに頑張れや』

 通勤途中の連中から、すぐにメッセージが届く。
 最初のうちはさんざん小森をいじってからかっていた友人達も、さすがにこれ以上同じことを繰り返すのは酷だと気付いたらしい。ログが増えていく度に、彼らの言葉は慎重になっていった。同じように、僕も似たような一言を送信する。

 小森は痩せぎすで、常にぴりぴりとしたような細かい神経の持ち主だ。傷つきやすいというよりも過敏なたちで、けんかっ早いというか、血気盛んにも見えるような噛みつき方をする。しばらく喧々囂々とした後には異様に素直な気持ちを必ずふっとこぼすから、パターンを覚えてしまった後は友人として付き合うのにそう難しいやつじゃない。
 それでも、この年齢になるまでに彼に一種の叱られ癖のようなものがついてしまっているのは僕達にもよくわかっていた。同じように並んでいても、苛立ちを受け止め慣れていたり雑な扱いをされ続けてきたやつというのはわかるようにできているらしい。軽い気持ちで小森に悪意をぶつけはじめる人間はどこにでもいて、そして小森はそういう人間がちょっとびっくりするくらい、あっさりと彼らに噛みついた。意外な反応にたじろいだ相手は、そこで黙るか、さらに挑発するかで二分していくことがほとんどだった。

 数分後、小刻みに震えるスマートフォンが新しいメッセージが入ったと知らせた。

『世の中なんておまえが思ってるほど大したもんじゃない。媚びるな』

 櫂谷(かいたに)だ。
 ポップな絵文字とちょっとしたデリカシーを含んだメッセージが並ぶ中で、彼のその一言はむき出しみたいに見えた。子供の頃からずっと目を開けて、時にはそこで見えるものに絶望しながら、それでもずっとどこかで醒めたまま。
 誰かが雰囲気を和らげるかなと思った。櫂谷、相変わらず烈しいな、とか、小幡あたりが送ってくるかと思っていた。でも、誰もそうしなかった。

 しばらくメッセージは途絶えて、次に反応したのは小森本人だった。
『恩に着る。行ってくる』

 ――本当に、余計なもん作ってくれるよ。
 いつかの彼が笑ってそう言った。地元の駅の、改札からエスカレーターの周辺に改修工事がされた時のことだ。
 長い階段の右側の壁は、それまでは何も飾られていなかった。よくある、くすんだグレーのパネルが一面に張られていただけだった。
 鞄の金具の跡や落書きなどでだいぶ薄汚れて見えていたその壁面の上に、ダークブラウンの塗料が塗られ、大きな白い線画のステッカーが貼られた。
 作者は、もちろん彼の父親である櫂谷正臣だ。
 他愛のない、人物や動物のイラストだった。市報にも、観光用のパンフレットにも載っているのを見たことがある。温かみと愛嬌のある丸い線で、郷里に住む人間には慣れ親しんだタッチのものだ。ある文学賞を受賞した小説の表紙画で一躍有名になるまでは、絵画の他にアニメやイラストの仕事もしていたらしい。
 俺は好きじゃない、と櫂谷はよく言っていた。直線的で無機質な印象のデザインを好む彼にとって、その人情味あふれる雰囲気のイラストは何とも居心地の悪いものだったらしい。父親の作風は、息子にはまるで影響しなかった。
 それでも、当時の櫂谷には周囲からあらゆる期待が押し寄せていた。
 妙に存在感のある、地元きっての著名人である芸術家の一人息子、櫂谷恭一。
 色の白い、美少年と言っていい容姿に癖のある性格の持ち主だ。生まれつき底に烈しいものを持っていて、隠しておきたいこともすべて見抜いてしまう子供に見えた。欺瞞の匂いに人一倍敏感で、周囲には気づかれなくてもいつだってそれに葛藤していた。
 話題性のある少年だった櫂谷の動向を伺い続けている大人が、あの町には少なくなかった。それがあまり上品な種類の関心ではなかったケースも多かったし、彼を櫂谷正臣に繋がるためのパイプやパーツに見えていた人物だっていたはずだ。
 くだらない、というのが中高時代の彼の口癖だった。くだらねえよ、なあ亮太、どっか抜け出さない?

 あの町の夜更け。
 隣室からよく聞こえていた、すすり泣くような呼吸の響き。夜半を迎えても鎮まらなかった僕の苛立ちと、小石が家の壁にぶつかる音。
 音を立てないように開けた窓から入る、乾いた草の匂い。夏は昼間の熱を吸い込んでどこか粉っぽく、冬は霜で冷たく滑った、屋根の感触。
 月明かりの下で、彼は僕に向かって降りて来いと顎を動かした。
 まるで夜を背負っているような、時には恐ろしくも見えた研ぎ澄まされた表情で。

 あの町に移住してからずっと同じ場所にアトリエを構え続けている彼の父親は、今までに何度も市や県から表彰され、今は地元のあらゆる文化的事業をまとめる団体の主宰としても活動している。
 櫂谷は駅舎が改修されてからは、あの町には帰っていないはずだ。


「ねえ、これって城址公園のところじゃない?」
 同じ電車に乗った地元の女子高生が、ドアの近くで固まって騒いでいた。ひとりのスマートフォンを覗き込みながら、近所だ、とか、これやばくない? とか言い合っている。
 梅雨入りしたばかりの、六月の十五時半。うんざりするような湿気に曇った窓ガラスには、手で曇りを拭ったり何かを指で落書きしたような跡があちこちに残っていた。 
「あ、ねえ、コトコー」
 輪の中のひとりがぱっと顔を上げて、少し先に座っている友人を若干焦った様子で呼び止めた。
 コトコ、と呼ばれたその高校生は、ゆっくりと振り向いた。耳の中に押し込んでいたらしいワイヤレスのイヤフォンを外して、なにー? と声を上げている。

「コトコん家の近所の店に、車突っ込んだって。あの、チャペルの下のほうにあるスーパー」

 そう告げた彼女も、少し離れた場所にいる友達ではなくすぐ横のシートに座っていた男に反応されるとは思っていなかっただろう。僕の息をのむ音は、騒がしいはずの車内にできたほんのわずかな隙間に響き渡ってしまった。
 彼女達は、揃って僕のほうに顔を向けた。
 素早く、そして充分に怪訝そうな表情で。

「車?」
 思わず尋ねると、スマートフォンを持っていた本人は怯えたように浅く何度か頷いた。
「どこのニュースか、訊いてもいいかな」
 彼女は慎重にニュースサイトの名前を答えた。僕がスマートフォンを取り出しているあいだに、詳細を読み上げてくれる。
 一時間ほど前に、八十代の男性が運転する車がスーパーの出口扉にむかって突っ込んだこと。アクセルとブレーキの踏み間違いらしく、入ってすぐの場所にあるクリーニング屋の受付にいたパートの女性と、女性客ふたりがけがをしたこと。けが人の詳細は現在不明。
 当事者に近い立場の人間だと思ったのかもしれない。怪しんでいたような雰囲気は、いつの間にか心配のそれに変わっていた。
 スマートフォンを操作する指が、焦りで小刻みに震えてしまう。電車はもう彼女の家の最寄駅に到着する前の減速をはじめていた。
 コトコと呼ばれていた高校生も、気づけば輪の中に加わっていた。家族にはメッセージを送ったらしい。この時間じゃ皆市外だから平気だと思う、と他の友達に話しているのが聞こえた。
「話してたのに割り込んじゃってごめんね。ありがとう」
 立ち上がって、僕は改札に一番近い出口になるだろう扉の前へと向かった。

 ホームに降りてすぐ、いつも見ているポータルサイトをひらいた。
『八十代男性 運転する車がスーパーに突っ込む アクセルの踏み間違いか』
 やはり、それは彼女の家の最も近所にある店だった。ブラウザを閉じて、小走りで改札に向かう。
 駅の階段を駆け下りながら、彼女に電話をかけた。近くで何人かがさっそくそのニュースを話題にしている。最近多いよね、とか、うちも親が返納したがらなくて、などと話す声が呼び出し音のあいまに耳に入ってくる。

 留守番電話に切り替わるまで、彼女は電話には出なかった。
 嘘だろ、とつい口から漏れた。すぐにもう一度かけなおす。
 中上千紘。
 スマートフォンを耳から離して何度も名前を確認しながら、呼び出し音が切れるのを待つ。
 中上千紘。中上千紘。
 頭の中で、うわごとみたいに彼女の名前が繰り返された。

『現在、電話に出ることができません』

 なんでだよ、という声をどうにか口から漏らさないように、スマートフォンをポケットに押し込んだ。いつか彼女を見送ったバス停の時刻表に駆け寄る。次のバスまでは二十三分。冗談じゃない。
 小雨が降り出していたけれど、鞄から傘を取り出して悠長に歩く気には到底ならなかった。
 着ていたパーカーのフードをかぶって、僕の身体は彼女の家に向かって走り出していた。


 スーパーの駐車場には、まだパトカーが停まっていた。
 置かれたカラーコーンを繋ぐように立ち入り禁止のテープが張られ、中でまだ検証のようなことが行われているのが見て取れる。
 駐車場の入り口に立っていた守衛の男性に、僕はけが人の詳細について尋ねた。
 運転手を含め、すでに全員病院に運ばれていると言う。車の運転手の男性とクリーニング屋の受付女性は救急車に乗ったが、あとのふたりは軽傷で警察の車で市内の病院に移動したとのことだった。

「年齢は、どれくらいでした?」
「二十代くらいの若い人と、僕と同じくらいの人かな」
 すでに一度別の企業で定年を迎えてから今の仕事に就いたというような風情の男性は、落ち着いた様子でそう答えた。
 年齢的には、千紘さんの可能性もある。
 僕の表情に気が付いたのか、男性は付け足すように続けた。
「若い人のほうは、ずいぶん服も髪もあかるかったな。赤っぽい橙の、つなぎみたいなスカートで。頭も後ろでひとつにまとめて――」
 そう言いながら、彼は両手を後頭部に持っていった。
 結った髪が背中に向かって垂れているような仕草に、別人だろうと少しだけ安堵する。今までの千紘さんの服装から考えて、全身オレンジのワンピースは彼女の好みとは思えない。
「知り合いかもしれないんですか」
「たぶん違うと思います。電話繋がらなかったんで、ちょっと心配になって」
 正直に告げると、彼はそうですか、と頷いた。
 心配なら警察にも聞いてみるといいですよと言われたが、先に家に行ってみますと答えた。

 それは、裕道の店からイクイネンを通って彼女の住居に行った、反対のルートだった。
 ぱらぱらと雨の降る坂道を速足で駆け上り、そのあいだにも電話を二回かけた。
 先ほどまでの焦りは感じていなかったものの、とにかく顔を見なければ気持ちが落ち着きそうにない。

 マグノリアハイツの手前まで辿りついた時だ。
 駐車場のほうから、赤い傘をさした人物が出てくるのが見えた。

「千紘さ、」

 走ってきたせいか、声は掠れ、僕の呼びかけは彼女の耳には届かなかった。
 それでも、何かに気づいた様子の彼女はふっと顔を上げて、僕を認識した。

「――堀井さん?」

 十メートルほど離れているというのに、彼女のきょとんとした様子がはっきりと伝わってきた。頭が真っ白になるというほどではない、でも少なくとも余白はたっぷりの、彼女の表情。
 高い声で名前を呼ばれて、僕はよたよたと彼女に駆け寄っていた。たすきを渡したばかりの駅伝選手みたいに。
 千紘さんは、ちょっとくすんだ水色と緑のあいだのような何ともいえない色のシャツに、ぴったりした黒のパンツをはいている。彼女らしいと思えるような、小さなアクセサリーをいくつか身に着けている。赤い傘はプレゼントで貰ったから使っているのだと以前言っていたし、ああ、やっぱりこの人は赤に近いオレンジなんて目立つ色普段から着ないよな。

 千紘さんの目の前で、力が抜けてしゃがみこんだ。
 雨に濡れて光を反射するアスファルトの地面が近づく。

 だあああ、という声が、自分の腹の底から響いていた。
「良かったあああ」
 それは情けないくらいの安堵がそのまま彼女に伝わるような、本当にばかみたいな声だった。

 久しぶりに走って、足も腿も熱を持ちがくがくとしていた。
 小雨に打たれて、汗だくで、顔もきっと上気して真っ赤だ。
 
「あの、堀井さん」
 顔を上げると、彼女は僕のほうに赤い傘を差し出してくれていた。途中で雨の感触がなくなったのは、どうやらそのせいだったらしい。
 問われる前に、彼女を見上げながら答えた。
「だって、けが人が出たって言うからさあ」
 よろよろした声のまま告げて、何とか立ち上がる。
 額の汗を手の甲で拭い、僕は着ていたマウンテンパーカーのジッパーを下ろした。想像以上に汗をかいているのにも気づいたが、元に戻すのも不自然だとそのまま下ろし切ってしまう。

「――下の、スーパーの?」
「そう。電車の中で、車突っ込んだって聞いて」
「それでわざわざ?」
「電話、繋がらないんだもん」
 背伸びするように僕に高く傘を掲げていた千紘さんは、それを聞いてはっとした顔をした。そして何も言わずに、僕に傘を押し付けるようにして預けた。
 持っていた鞄に手を入れ、彼女らしからぬ少々乱暴な仕草でスマートフォンを引っ張り出す。
「――ごめんなさい。わたし今日診察で。サイレントモード、解くの忘れてた」
 手帳型のカバーをぱたんと閉じて、そのまま千紘さんは両手を合わせ僕を拝んだ。
 無事だったんだからいい、と言っているあいだも、頭から額から雨と汗が混ざったものがだらだら垂れてきてしまう。

「もしかして、駅からここまで歩いて来てくれたの?」
「走って」
「だって、二十分くらいかかるんですよ?」
 彼女はちょっと泣き出しそうな顔をしている。
「十分くらいで来たよ」

 言いながら、何とも言えない笑いが自分の中からあふれてきた。
 あんなに必死になって走ってきたのに、この人は今日の事故とは完全に無関係で、うっかり電話が鳴らないようになっていただけで、傷一つなく無事だ。
 その上何だかぼけていて、いつも通りに平和で愛らしくて、それが嬉しい。

「今けがされたら、俺本当にへこむ。立ち直れない」
「そんな」
「見てよこの足、まだ痙攣してるから」
 運動不足だな、と告げた。
 僕の言葉には答えず、彼女は一度泣くのをこらえるような顔をした。

 淡くあかるい、細かな天気雨の降る空の下、ふたり顔を見合わせていた。
 スノードームの底に向い合って立って、きらきらとしたものをふたりで浴びているみたいに。
 笑い出してしまいそうなのに、同時に泣いてしまいそうになる。この揺れる気持ちは何て言うんだろう。
 目尻に涙を溜めながら微笑み続けている彼女の姿を見ながら、そう思った。

 この人が今日も生きていて、痛かったり苦しい思いをしていないこと。
 僕のしてしまう心配や不安が届かない場所に、存在していてくれること。
 誰に感謝を告げたらいいんだろう、この人と向かい合って、今笑いあえることに。

 千紘さんが、僕に向かって一歩足を進めた。
 そして、背伸びをして僕の額にそっと右手を伸ばした。

「うちのお風呂、使ってください。こんなに汗もかいてるし、何か飲まなきゃ」
 優しい声でそう言って、彼女は僕の額に張り付いていた前髪をそっとよけた。
 あの夜の僕が彼女にしたのと同じ、それよりもずっとやわらかな動きだった。

08|ホログラムの宙

08|ホログラムの宙

「上着脱いで。タオル持って来るから、ここで待っててください」
 千紘さんは、繋いでいた僕の手をゆっくりと離しながら言った。

 ドアを開けた瞬間から、そこは彼女の空間だった。
 白に近いグレーのやわらかなマットに、少しのかかとがついたルームシューズが並んでいる。彼女はそれにすばやく足を通して、ぱたぱたと中に向かって駆けて行った。淡い香りが玄関先に広がっている。
 ハイツの共用階段を上りながら、どちらからともなく手を繋いでいた。ほとんど絡めあったに近かった。僕よりもずっと小さな、やわらかな手だった。

 言われた通りに鞄を下ろして、ずぶ濡れになったパーカーの袖から腕を抜く。
 千紘さんは奥からタオルを何枚も持ってきて、僕の鞄をくるんだ。
「そのパーカーは、洗えるもの?」
 見上げながら尋ねられ、どこかぎこちなく頷く。
「ごめん、俺すごい汗臭い」
「わたしのせいでしょ。すぐにお風呂沸きますから」
 ささやくみたいに彼女は言って、僕の着ていたマウンテンパーカーを自らの腕にかけた。シャワーだけ借してもらえたらいいと言ったけれど、間の悪いくしゃみを目の前でしてしまい却下された。
 靴と靴下を脱ぎ、濡れた足を拭わせてもらうことにする。やわらかく乾いた上等そうなタオルを汚してしまうのは気が引けて、雑巾みたいなのないかな、と聞いた。彼女は少し悩んでから、夏場の汗拭き用のボディシートをケースごと持ってきてくれた。
 そのまま、洗面と浴室に案内される。
「女性の部屋の匂いだ」
 緊張をほぐしたくて呟くと、彼女は困ったように小さく笑った。

 物があまりない部屋だった。目に見える場所に何か置くのが苦手な人らしい。生活感のあるものはすべて収納されていて、殺風景なほどだ。ごくわずかな生活用品は彼女好みの色やかたちで統一されていて、それはある意味想像した通りの空間だった。
 シャンプー類は中にあります、脱いだものはここに入れておいて、と説明された。上がったらこのタオルを使って、部屋着を出しておくのでそれを着てください、とも。
「ああ、下着だけは、そのまま」
 目を逸らしつつ気まずい感じで言われて、同じように了解、と答えた。男性用の下着がストックしてあったら逆に傷つく。
 ガラスのドアのほうにいますね、と千紘さんは言った。
 玄関から廊下を通って、右手のドアはガラスの窓がついていて、左手はシンプルな木製のドアだったのを思い出した。

 千紘さんが洗面から出てドアを閉めると同時に、自分の心臓の音が騒ぎ出したように思えた。
 濡れて身体に貼りついたTシャツやパンツを脱いで、言われた通りに洗濯機に入れる。履いていたボクサーだけは脱いでから丸めて、浴室の濡れないところに入れてしまうことにした。

 小さな窓のついた浴室には、すでに湯が張られていた。
 彼女のシャンプーを使って髪を洗い、ボディソープを手のひらに出して体に擦り付ける。甘いような匂いと、まだそこまで暗くないすりガラスの外の色合いに気が遠くなるような気がした。
 ぬるめに張られた湯に、ゆっくりと浸かった。駅から走って強張っていた筋肉が、ふわっと緩んでいくような気がした。
 ――まあ、緩まない場所もあるんだけど。
 なだめるにもなだめられない気分をとりあえず横において、深呼吸をする。
 清潔な浴室だった。足が伸ばせる浴槽だったのは、ちょっと意外だった。
 彼女がいつもくつろいでいる場所に思いがけず紛れ込んでしまったようで、不思議な気分だった。

「堀井さん。洗濯機、回しますね」

 洗面から聞こえる千紘さんの声に、うわ、はい、と答えていた。油断していたせいで、ひどく間抜けな響きになる。
 高い電子音のあとに、洗濯機の動き始める音が聞こえた。すぐに出て行ったらしい。
 初めて女性の部屋に入ったというわけでもないのに、この余裕のなさは一体何なのだろう。

 千紘さんの用意してくれていたのは、白の大きなTシャツとパジャマに近いコットンのパンツだった。Tシャツは問題なく着られたけれど、パンツのほうはふくらはぎの真ん中くらいまでしか届かず、若干情けない格好になった。
 濡れた髪を拭いながら、彼女の言っていたガラスの扉のほうをノックする。
「どうぞ」
 高い声にそう告げられて、僕は扉を開けた。

 キッチンのシンクの前に、彼女は立っていた。
 自宅に戻って、気分も落ち着いたのだろう。安心できる場所で、僕に気づいて微笑む姿に目を見張ってしまう。
 その表情を見て、あっという間にさっきまでの熱が戻った気がした。

「お風呂、熱くなかったですか」
「――うん」
「飲み物、何がいい? いくつかあるから、好きなの選んで」
 冷蔵庫のほうに、身体の向きを変えている。

 冷蔵庫のドアに手をかけようとした手を、近づいて捕まえていた。さっき触れた、頼りない手首の感覚が再び伝わってくる。
 彼女が小さな声で、あ、というのが聞こえた。
 嫌なら突き飛ばして、と、僕は千紘さんを腕の中に引っ張りこんでいた。

 堀井さん、という声が、自分の胸元で聞こえた。
 小さな、ささやきみたいな声だった。
 
 抱きしめる腕に、自然と力が入った。
 こうしたかった、というはっきりした声が、自分の中で聞こえた気がした。
 この小さくて頼りない、静かに僕を安らげかき乱すこの人を、こうしたかった。
 
 言葉にならないまま、僕は彼女の背中に手を回していた。
 僕の胸元くらいまでしかない、温かい身体だ。ずっと、隙間なく身体をつけてしまいたかった。
 身体の輪郭を確かめながら、背中を撫でていく。驚いたような、小さく鋭い吐息が聞こえた。それでも、彼女は僕のとった行動を拒絶しなかった。
 左手を、ゆっくりと後頭部に回す。
 身をかがめると、彼女は恥ずかしそうに僕を見上げた。

 初めて合わせた唇の、薄さと小ささにくらくらした。
 そのやわらかな感触に、泣きたいような気分になった。

 ついばんで、かたちを確かめ、くすぐって、隙を見て、そっとひらく。 
 キッチンの壁のほうに向かって彼女を押しやりながら、キスを繰り返した。
 千紘さんは何度か切なげな息を漏らしたが、一度も僕を突き放そうとはしなかった。
 次第に深くなるそれを、気づけば夢中で続けていた。

 息継ぎに、彼女がん、と声を漏らした。
 触れていた場所から離れて見下ろすと、頬は紅潮して両目がすっかり潤んでいる。

 目を合わせて告げた、好きだよ、という僕の声に、彼女が身体をわずかに震わせた。
 もう一度唇を重ねて、さっきのところまでひといきに舌を絡ませる。
 もっと、やわらかく溶かしたい。とろとろになるまで繰り返したい。彼女を奥までゆっくりとひらいて、そこに自分を沈めたい。
 先走る願望を追いかけるように、身体が動いていった。千紘さんも、もう僕のすることをただ受け容れる側ではなくなっていた。
 互いの呼吸が限界になるまで、キスを繰り返した。満たされたくてしているはずなのに、すればするほど切なくて飢える気がした。もっともっとと、激しくなっていってしまう。
 
 そっと呼吸を整えている彼女の、首筋に頬を寄せてみる。
 感触を確かめながら、耳元や頬に唇と舌を這わせていく。
 後頭部に添えていた左手を頬のほうまでずらして、僕は親指で彼女の濡れた唇をゆっくりと撫でた。
 押し殺したような甘い声に、尾てい骨のあたりがじんと痺れるようだ。

「堀井さん」
「亮太って、呼んで」
 耳元でささやくと、彼女が再び小さく高い声を上げた。
「亮太、くん」
 すがるような声だ。腕の中で、小さく赤くなっている。
「呼び捨てがいいな」
 彼女の着ていたシャツの襟に触れながら告げると、彼女の目は僕の言葉と手の動きのどちらに反応するかで、ゆらゆらと揺れたようだった。
「亮太」
 ひらいた襟の中に入り込むみたいに、鎖骨から肩への線を唇で追いかけていく。
 嬉しい、と告げると、彼女は泣きそうな声で僕の名前を繰り返した。

 いつの間にか、キッチンの壁に背中がつくまで彼女を追いこんでいた。
「――わたしも、シャワーに」
 行きたい、と言いたかったのだろう。
 答えずに腰のほうから服の中に手を入れると、千紘さんは小さな声で、いや、と言った。
 ほとんど懇願に近い声の響きに、さすがに我に返った。

 ゆっくりと、身を離した。
 彼女の髪も服も乱れて、目尻は先ほどよりも赤く、うっすらと涙が溜まっていた。
 
 僕はよほど情けない顔をしていたのだろう。
 千紘さんはふっと表情を緩ませ、背伸びをした。
「そんな顔しないで。あなたが嫌なんじゃない」
「でも」
 昂ってしまった気持ちが、急激に鎮まっていくみたいだった。
「わたしも、汗を流したいだけ」
 彼女は言った。少し困った様子で、僕をなだめるみたいに。
 次の言葉が出てこなかった僕に、千紘さんは小さく微笑んだ。
 目一杯背伸びしてやっと届いたような、触れるだけのキスをされる。
「飲み物を持って、隣の部屋にいて。すぐに戻るから」

 シャワーを浴びて戻った彼女の身体からは、自分と同じ匂いがした。
 起き上がって部屋の入口まで迎えに行き、両手を取る。
 ベッドに着くまでにも、何度も唇を合わせた。彼女の着ていた袖のないワンピースの肩をずらして、先ほどと同じように唇や頬で辿った。
 そこに横たわって、やわらかく濡れた目でこちらを見上げる千紘さんは残酷だと思うくらいに魅力的だった。中性的な服装をしているがゆえに隠されていた、彼女の控えめながらも女性的な身体の線ややわらかさに、僕は息を呑んでいた。

 着ていたワンピースを脱がそうとすると、彼女の目に少し切なげな色が浮かんだ。
 僕の手に自らの手を重ねて、それを拒もうとする。
「お腹、痕が残ってるから」
「気にするようなことじゃないよ。それとも、痛い?」
 小さな頭を抱きながら続けると、彼女は首を横に振った。
「痛くはないんだけど」
「嫌じゃなかったら、見せて」
 大丈夫、と告げながら、僕は彼女の頬に何度も唇を落とす。
 
 丁寧に、彼女の着ているものを脱がしていった。
 今度は、千紘さんは何も言わなかった。少しだけ緊張したような、恥ずかしそうな表情を浮かべている。一枚一枚身体から離れていく服や下着の感触にわずかに身をよじり、目を遠くのほうへと反らしている。
 身に着けているものすべてを脱がしてしまうと、彼女は薄い毛布に手を伸ばして自らの身体を隠そうとした。
 覆いかぶさって、それを阻む。
「隠さないで」
「でも」
「きれいだから」
 繰り返すと、彼女は泣きそうな顔で僕を見上げた。

 それは、壊れ物みたいに思えるような身体だった。
 めまいがしそうになるくらい、僕の求めていたかたちをしていた。

 もっともっと丁寧に扱ってあげたいのに、逸る気持ちがそれを許してくれない。
 借りた服を脱いで後ろからそっと抱きしめると、腕の中の身体は一瞬驚いたように強張った。重なった地肌のあいだを熱が行き来し、しずかに馴染んでいく。
「肌、すごくやわらかい」
 小声で告げると、腕の中で彼女は消えそうな声でうん、と答えた。
 実際に、彼女の肌はちょっと驚くほどやわらかかった。刺激に弱そうな、すべすべと潤った肌だ。後ろからすっぽりと抱きしめているだけで、ぬくもりとやわらかさになぜか悲しくなるような。

 胸の下から手を滑らせていくと、途中でわずかに感触が変わる箇所があった。
「ここ?」
 ゆっくりと、手術の痕らしき場所に触れながら尋ねる。
 千紘さんは、前を向いたまま静かに頷いた。
 ゆっくりとそこを撫でながら、彼女のうなじと頬にキスを繰り返した。
 指先で辿るたびに、確かにそこに腹腔鏡を挿入した痕跡があるのが伝わってくる。

 あ、という声を出して、千紘さんの左目から大粒の涙がこぼれる。
 悲しげな涙ではないように思えた。痛い? とも尋ねた。彼女は小声で言った。ううん。
 続けても平気? と、重ねて訊いた。
 千紘さんは小さな声で、うん、と頷いた。

 四つの手術痕を、抱きしめながら撫でていった。
 何も言わずにそうしているだけで、彼女の心が揺れたり震えたりするのが伝わって来る気がした。
 怖かっただろうな、と触れながら思う。
 頼れる身内もいなくて、ひとりこんな思いをして。
 その時に、そばにいてあげたかった。

「さっき、がっついてごめん」
 静かに泣いている千紘さんに向かって謝罪すると、彼女は僕のほうを見ずに首を横に振った。
「本当はこうしたかったのに、変なスイッチ入った。俺、今日は本当にだめだ」
 突き動かされたりかき乱されたりして、衝動ばかりで動いていた。頭の中で繰り返していた、彼女に対するあらゆるシミュレーションはすっかり水の泡になっていた。
 この人への感情は、強すぎて時に抑えがきかない。コントロールが難しい。いくらでも生まれて、手に負えないまま際限なく膨らんであふれてしまう。
 千紘さんは一度すんと洟をすすってから頬をぬぐい、いいの、と答えた。
「わたしも、触りたかったから」

「その――しても、いいの?」
 大事なことを、実は尋ねる前だった。彼女が手術を受けて内側にできた腫瘍を切除し、さらに癒着していた周辺の部位も摘出したのは男の身体にはない部分だ。
「うん。もう、大丈夫って言われてる」
 僕に少し身を寄せて振り向き、彼女はそうささやいた。
「でも、ゆっくりしてくれる?」
「もちろん。どうすればいいか教えて」
 さっきはあんなに夢中になって彼女を求めたけれど、どこかで止めなければとも思っていたのだ。病名と術後の生活については遠まわしに聞いていたけれど、こういうことまで前もって調べてしまうのはさすがに気が引けた。勝手な欲望をぶつけているようで。

「千紘さん」
 後ろから抱きしめながら、彼女の名前を呼んだ。
 声に出しただけで、胸の中が震えた。

 出会った日から、どうしようもなく惹かれていた。
 この人の中に、探していた何かがある気がした。その空間に、自分を置いてほしかった。ささやかでやわらかい、静かに続く安らぎのある場所。
 僕の呼んだ名前に、彼女はうん、と返事した。
 僕の腕の中で、纏っていたもの全部を脱いだ姿で、ひどく優しい声で。

「今まで出会ってきた誰より大事にするって、約束するから」
 抱きしめながら告げる。
 彼女はまた少しこみ上げたみたいになって、濡れた声で繰り返した。うん。
「俺の中にあるもの、全部、あげるから」
 続けると、泣きながらも彼女はふっと笑った。
 優しく無邪気な響きで、許し受け止めるように、一度だけ。

 目の前にあるやわらかな首筋に、僕はもう一度唇を押し付けた。
「俺のそばにいて。一番近くにいて。お願い」
 
 絞りだした僕の言葉に答えるかわりに、彼女は自らの手を僕の手の上に重ねた。
 そっと折り曲げて顔の前まで互いの手を運び、僕の手に頬を寄せる。
 重なったふたつの手を使って祈るみたいな恰好で、彼女は頷いた。


 キッチンでの激しさが嘘のように思えるような、やわらかなものが底に流れる行為になった。
 後ろ抱きにしたまま、確かめるみたいに彼女の身体を愛撫した。腕に、肩に、乳房やわき腹に。彼女は小さな声をあげながら、少しずつ僕にむかって身体をひらいていった。
 互いにわずかに不安を感じながら指を差し入れると、そこは潤んではいたもののまだ強張っていて、少しだけ冷たかった。ゆっくりと、探りながらほぐしていく。じきにやわらかく温められ、彼女の声もつられて甘く伸びていった。
 ためらいながら、奥まで指を滑らせた。様子を見ながら繰り返すうちに、彼女は僕にしがみついて唇を噛み、小さく一度昇りつめた。
 向かい合って繋がるときは、もう互いの心がすっかりとやわらかく重なり合っていた。
 好きだ、と繰り返しながら、ごく弱い力で腰を打ち付けた。加減しながら、彼女の求める強さになるように。わたしも、と彼女は答えた。好き、と耳に届いただけで、涙が湧きあがりそうになって腕に力が入ってしまう。
 寝室の暗がりの中で、僕達は続けて二度抱き合っていた。
 絡めた指の感触にも慣れ、互いに再び薄い汗をかき、そこにぐったりと横たわることしかできなくなるまで。


 ベッドの中に埋もれていた身体を何とか動かして、彼女が首をもたげた。
 サイドテーブルの上の時計に目をやっているようだ。ああ、と言いながら再び力が抜ける。
「――服、乾いたかな」
 動くことができないといった様子で、力なく千紘さんは呟いた。
「鳴ってたよ、音」
「え、聞こえなかった」
 今までにない、ぽつりぽつりとした口調だった。
 寝室のカーテンの端を、僕はわずかに捲ってみる。外はすっかり暗くなっていた。
 雨は降っていなかったが、梅雨の夜空だ。くすんだ灰色の雲があちこちに浮いているのが見える。
 彼女に続いて顔を上げて時計に目をやると、すでに二十時近かった。
「没頭してしまった」
 すばやくキスをして告げると、彼女は眠そうな表情で、ふふ、と笑った。

「すごい今更なんだけど。予定とか、なかった?」
 今日は確認すべきことを何ひとつしなかったな、と思いつつ、彼女の乱れた髪を直してみる。頭も気も遣わないで、衝動だけで走り抜けてしまった一日だ。
「今日はね。昨日だったら、今頃大慌てだけど」
 肘を立てたうつ伏せの姿勢でいた千紘さんは、少しだけいたずらっぽい目になって僕を見た。
 昨日は、二十一時からオンラインでの打ち合わせがあったらしい。リビングの一角に、大きな仕事用のデスクが置いてあったのを思い出した。


「――いつから、俺の気持ち気づいてた?」
 上を向いた小さな背中に、手のひらを滑らせながら訊いてみる。彼女は気持ちよさそうに目を閉じている。
「只野くんの、パーティの夜かな」
 ささやくようにゆっくりと答えてから、そうそう、と自分で確認している。
「初めて会った日は、そんな感じしなかった。そんなつもりもなかったんじゃない?」
 少しけだるそうな、眠そうにも甘えているようにも聞こえる響きだ。
「――そうでもなかったんだけど、自覚はなかった」
 心や身体はすでに反応して動き始めていたけれど、頭が全面的に見て見ぬふりをした。
 理性が危険視したのかもしれない。それまで培ってきた自分自身を崩されてしまう、と。 
「二度目のときは――わたしが余裕なかったから。ベンチまで運んでくれたのはびっくりしたけど、単純にいい人だなあって」
「その後が、パーティだったっけ」
 身を寄せて尋ねたが、彼女は次の言葉に迷ったみたいにわずかに首を傾げるだけだった。
 言ってよ、とねだる。頭の中に答えはあるのだろう。口にするか、悩んでいるらしい。

 しばらくそうしてから、彼女は特別ね、と僕のほうを見た。
「あの日、接客が一段落したあとね。ほり――じゃない、亮太、テーブルの後ろの壁に寄りかかって、腕を組んだ恰好でずーっとわたしのことを目で追ってた」
 彼女は静かな声で、でも懐かしそうに僕に言った。

 突然、腹のあたりがかっと熱くなった。
 身内に頼まれたとはいえ、あれは仕事のつもりでいたのだ。

「そんなこと――」
「してたよ」
「してないって」
「してた」
 子供みたいな言い合いが始まってしまう。
 
 千紘さんは懐かしそうに続けた。
「その目がね、わたしのむこうに何か別のものを見てるみたいな、ぽーっと見惚れてる感じだったの。心がここにいないみたいな」
 片肘で頬杖をつくようにして、彼女は優しげな視線で僕を見た。
「ああ、周りが気づくほどじゃなかったよ。だから、帰りに下の駐車場で切り出されるまでどんな気持ちでわたしを見てるんだろうって思ってた」
 思い返してみれば、確かにあの日彼女が店のどこにいたのかずっと記憶がある。
 僕の前から店内をぐるりと見て歩き、以前の同僚の人らしきひとりを見つけて話したり、水分補給をしに来た裕道に開店祝いの挨拶をしに来たりしていた。
 いつもより少し華やかだった、あの日の彼女の姿。

「だって、こんなに自分に自信がありそうな人がね、すごく切ない、悲しげな目で見てくるから。不思議だった」
「不思議」
「こんなに堂々とした人なのに、わたしのことなんて気にしたりする? って」
 何だか目立つし、背も大きいしと彼女は付け加えた。
「今は、俺よりでかいやついくらでもいるよ」
「わたしには、充分大きいなって思う」
「努力の甲斐があった」
 再び抱き込みながら、色々やったんだと告げる。彼女はふふ、と笑った。
「男子っぽい男子だったんだね」
「そう。健全な青少年」
 彼女の耳朶をくわえて告げる。
 言ってることとしてることが合ってなくない? と言われてしまう。
 充分合ってるよ、と言いながら、僕はもう一度彼女の身体に腕を回した。


 結局、マグノリアハイツを出たのは二十二時を過ぎた頃だった。
 彼女がスマートフォンでデリバリーのピザを注文し、到着を待つ間に散らかしてしまったものをふたりで片付けた。ひどく色気のない時間だったけれど、濡れたタオルやシーツを洗濯し、靴の中で雨を吸ったキッチンペーパーを引っ張り出したりしながら僕達は上機嫌だった。
 建物のすぐ下にある自販機で飲み物を買い、湯気の上がる甘辛いピザを食べ、次の約束をした。
 くたくたになっているのに家まで車で送ると言ってくれた彼女の申し出を断って、僕は再び来た道を歩いた。
 数時間前にはひどく濡れて身体に張り付いていた衣服はふわりと乾いて、控えめな、花みたいな匂いがしていた。

 大通りを歩きながら、何度も空を見上げた。
 重い色の綿を千切ってまぶしたみたいな、暗い梅雨の夜空だ。
 それでも、目を凝らして見ると小さな光の粒が見えるような気がした。 
 
 彼女の身体の中にあった、細やかな光を貰ってきたと思った。
 あまりに粒子が小さすぎて、意識しなければきっと気づかない。彼女が今日まで大事にしてきたもののすべてだ。失わないように、奪われないように抱えてきたもの。ささやかで小さな、そして間違いなく貴いもの。

 長い一日だった。
 何だか間の抜けた、手落ちだらけの、でも特別な一日だった。

09|娘達

09|娘達


 古びた原付に乗って自宅を出て、そこまでは最短で二十分だ。
 スマートフォンで、できるだけ混雑を避けつつ時間もかけずに到着できるルートを調べた。何度か候補を試して、表示されていた二番目の行き方が最も優れているとわかった。もっとも、このあたりは駅から離れたら田畑ばかりだから、少し慣れればいくらでも抜け道を見つけることができるのだが。
 少しだけ名の知れた公園の裏、十五軒ほどの建売住宅を抜けて、周囲に木々が増え始める大きな左カーブを曲がる。やや傾斜のきつい二十メートルをのぼるあいだに見晴らしはすっかり良くなって、その上に建つマグノリアハイツの駐車場からは周囲一帯がぐるりと見下ろせた。日当たりも、風通しも良好な高台にこの集合住宅は建っている。
 永遠、という意味を持つ隣のチャペルウェディングは、広くとられた駐車場の奥のほうに細長い形で作られていた。風向きによっては、食欲をそそる匂いが厨房裏から漂ってくる。館内で流れている音楽が小さく耳に届くことも。

 駐車場に原付を止めてヘルメットを外し、僕は足早に階段を駆け上がる。マグノリアハイツ202。L字型の直角にあたる部分で、ベランダのむこうの駐車場に植えられているのは白樺とトチだということも、すでに教えられていた。

 廊下を駆ける音に気づいたらしい彼女が玄関のドアを開けると同時に、僕は部屋に飛び込んで目の前に立つ人物を素早く抱き上げた。
「わ、ねえ、ちょっと――」
「愛情表現」
 驚きながらも高い声で笑っている千紘を抱きしめながら、すばやく靴を脱ぐ。勢いを落とさず、廊下を何度かくるくると回りながら中へと進む。ねえ亮太、とか、落ちちゃうから、と笑う声が聞きたくて、僕はあえて大きな動作でそこらを動き回ってみる。そのあいまに、何度も音を立てて彼女の顔じゅうに唇を押し付ける。
 そのまま千紘をキッチンまで運び、シンクの横に座らせた。同じ目線の高さにある顔は、まだちょっとびっくりしているように見える。
「待ちくたびれた?」
「そうでもないかな」
「ごめん、閉館に手間取って」
 そんな言い訳をしながら、乱してしまった彼女の髪に手を伸ばす。

 八月の半ば、土曜の十四時。
 設備点検とかで、ダンススクールが午後から休館になっている日だった。風が強いおかげでそこまで暑さは感じなかったが、日差しは強く身体が熱を吸い込んでしまう。
 冷房の効いた部屋で、彼女はリラックスした服装でいた。袖の短い白のブラウスに、幅の広いベージュのパンツをはいている。奥のディスプレイに何かの画像が映っているから、仕事をしていたのかもしれない。
「何かあったの?」
「生徒がいつまでも帰らないんだよ」
 不満を込めて告げた。
 様子を思い浮かべたのか、千紘はああ、という顔で納得しているみたいだった。
 週末だけあって、普段はいない家族の送迎も多い。ちょっと挨拶するつもりが長話になってしまうこともしばしばで、最後の生徒を送り出したのは閉館時刻の十五分も後だった。
「顔では笑って心で号泣」
「そんなに?」
「『俺はさっさと彼女に会いに行きたいんだ』」
 心の声を再現してから、千紘の額にかかった長い前髪を持ち上げた。
 小さくつるりとした額と、つんと上を向く小さな鼻。額は少し汗ばんでいる。
 額を合わせるようにして彼女の表情を覗き込むと、
「不埒」
「認める」
 真顔で頷くと、千紘は小さく噴きだした。


「でも、昼飯は買えたよ」
 背負っていたデイパックを下ろして、中に押し込んだビニール袋を引っ張り出す。
 上を固く結んだビニール袋の中には、牛丼チェーンのトマトハンバーグ丼が入っている。昨日偶然話題に出したところ、彼女が知らないと言ったのだ。こういった類の店にはほとんど行ったことがないらしい。
 それならデリバリーしてあげよう、と店に寄ることにした。昔は週二で食べていた、懐かしいものを彼女にも教えてあげたかった。
「こんなにすぐ叶うなんて思わなかった」
「だって、食いたいものなんて先送りするもんじゃなくない?」
 はいどうぞ、と彼女に手渡す。サイドメニューのパックも入っているビニール袋は縦に長く、抱きかかえるようになってしまう。
「ありがと」
 足を小さくぶらぶらさせながら、まだ温かいと袋を持って言っている。
 彼女は本来こういう場所に座るのは苦手な性格なのだが、僕が目の前に立っているから降りられないのだ。


「先週のカレーも、美味かったな」
 金曜の午後からこの部屋におしかけて、日が暮れるまで僕達は寝室にいた。
 外食に出るのも疲れるだろうと思い、何か頼もうか、と提案したのだ。千紘は数秒間黙ってから、カレーならあるんだけど食べる? と僕に訊いた。
 食べると即答してからふと思い立って、もしかして俺が来るから多めに作っておいてくれた? と尋ねた。彼女はちょっとむっとしたような顔で、そういうことわざわざ気づかないで、と顔を背けた。手料理というのが恥ずかしいらしい。
「そう? 普通のカレーじゃなかった?」
「俺にとっては違うの」
 手にしていた袋を脇に置き、彼女は降りるから手を貸して、というふうに仕草で訴えた。はいはいと再び抱き上げ床に下ろすと、そうじゃなくて、と困惑したような声を出した。
「千紘のすることの中に、俺が入ってるってことが嬉しいのであって」
 手を洗うために、シンクのほうに移動する。固く縛った袋の結び目を爪を立ててほどこうとしている彼女に、力入れて結んだから切ったほうがいいよと告げる。

 あまり家から出ない生活をしているらしい。
 自宅が仕事場になっているし必要なものは一通り揃っているから、と言っていた通り、リビングの一角には仕事道具が並んでいて、彼女は一日の大半をそこで過ごしているようだった。
 その手の仕事依頼サイトに複数登録しているけれど、最近は地元の個人事業主向けの印刷物を作成することが増えてきたと言っていた。店で使うメニュー表や値札、ポイントカードやリーフレットを多く作っているようだ。ネット販売を始めたいと相談してきた相手に必要なものを揃えて販売方法を教え、開店まで付き合うこともあるらしい。直営の販売サイトは作ったことがないけれど、モールに登録して軌道に乗るまで何かと相談に乗ったりもしている、とも。
 それって千紘の職種とはちょっと違う仕事なんじゃないの、と尋ねると、彼女は素直にうんと頷いた。ウェブの仕事も出来たほうがいいかなって、対応できることはするようにしているうちにこうなってきちゃった、と。
 そんなことを言いながらも、自分のことはあまりフリーランス向きの性格じゃないと思っているようだ。いずれは今の仕事と同じ業種で再就職するつもりでいる、らしい。あまり焦ったような感じがしないのは、体調面で今はそうする他に選択肢がないせいだろう。
 無駄がないね、と指摘すると、余裕がないだけと彼女は笑う。優先しなくちゃいけないことだけ最低限に詰め込んで、あとのことには手をつけていないの、と。
 そんな生活をしているせいか、彼女の生活には緩慢な雰囲気がまるでなかった。複雑な感情が入る仕事以外の人間関係とか、使うことのない物や服、契約したままになっている趣味の支払いとか、そういうものが。清貧、なんて言葉は失礼かもしれないけれど、すべてがこざっぱりとしていた。
 油断とか役に立たないことができるって、ある意味余裕があるってことなんだと思うよ。
 そう笑う千紘がいやに健気に見えて、僕は言葉を返すことができなかった。

 彼女の負担にならないように、僕と過ごす時間を作ることで予定が狂って他の物事に追われたりしないよう、僕もまた彼女との逢瀬のために知恵を絞った。突発的に彼女を誘い出すのは控え、部屋を訪れる時には一言断って出来ることはさせてもらった。
 彼女はそのくらいは大丈夫だと笑っていたけれど、僕が帰った後に散らかったキッチンや寝室をひとりで片付けさせるのが痛ましく思えて、原状回復(・・・・)して帰らせてと頼むことにしたのだった。

 実際に彼女と付き合い始めても、僕の心は簡単には穏やかにならなかった。
 目覚めれば姿を思い出し、一日の終わりには声をかけたくなる。
 気持ちも調子もらしくないように乱されながら、それでも会いたいと連絡してしまう。

 同じ部屋の離れたところに腰を下ろせば、もっとこっちにおいでよ、と言ってしまう。
 近づけば触れたくなって、気づけば後ろから抱えこんでしまうばかりだ。

 琴線に触れる存在。
 ふいに浮かんできたその言葉に、僕にとっての彼女はこれだ、と思った。
 千紘は、そこにいるだけで僕の深いところを小さくひっかいてくる。

 ――食事を買って来てくれて片付けまでして帰るような男の人なんて、本当になかなかいないと思うよ。
 僕を見送ろうと駐車場まで一緒に降りてきた彼女が笑って言う。
 ――だって、ふたりでいたら光熱費だってばかになんないし。
 ――そういうところ、しっかりしてるよね。
 ――ひとり暮らししてれば、わかることでしょ。

 ジェットヘルメットを取り出しながら告げる。
 想像力のある人ね、おかげで助けられてる、と彼女が微笑んだ。それは良かったなどと答えながら、内心ではガッツポーズをしてしまうのだから僕も単純だと思う。
 本心としては、押しかけ続けるよりも自分の部屋に誘いたかった。
 数回は迷ったが、千紘のような人を気軽に招くようなアパートではないと思い断念したのだ。築年数は長く住人は男だらけ、さらに壁も薄い。

 原付にキーを差し入れる前に、もう一回、と彼女を抱擁した。

 ――大事なんだもん。もう、俺、ばかでいいよ。死ぬほど大事。

 僕の腰にそっと手を回している千紘にささやくと、彼女は小さな声で、うん、と頷いた。
 甘えるように身体を寄せてくるのを、可愛い、と思う。失ったものの跡にまだ苦しむ日があるのに、彼女の中にあるものはふわりとあかるい。
 また連絡する、と言ってエンジンをかける。
 彼女のほんの少しだけ寂しそうな表情が見られるのは、この時だけだ。


『急にすみません。恭一さん、そっち行ってますか』
 宮津蓉子、という名前と、何かの文庫本をテーブルの上で撮影したらしいアイコンがスマートフォンに浮かび上がった。思わず、うわ、という声が出てしまう。
「え、何かありました?」
 カウンターのむこうから、金子さんにそっと尋ねられる。ペットボトルのお茶がぎっしり詰められた箱の端に、会計済のシールを貼ってくれている。
「あったっぽいんだけど、これは何とも――」
 苦笑しながら告げると、同じ表情になった彼女の口からあらら、とこぼれた。個人的なことだとわかったのだろう。それ以上は訊かれることはなく、二箱もひとりで運べます? と心配してくれる。 
 問題ないことを伝え、僕はふたつ重なったダンボールを両手で持ち上げる。

 備品の買い出しに出てきていたところだった。
 普段はネットでまとめて注文しているのだが、今回は配達を待たずに茶類が切れてしまったのだ。麻子にビニールポーチを突き出されながら「裏の店で買ってきて」と命令され、少々お待ちをと事務室を飛び出したのだった。
 スクールのすぐ裏にある酒屋で、金子さんは店主の一人娘だ。うちの関係者の彼女でもある。
「開けますね」
 金子さんは会計の済んだレジから素早く出てきて、僕を出入口のほうまで先導してくれた。手動になっているガラスの押戸までちょこまかと小走りで出ていき、大きくドアを開けてくれる。
「すみません、わざわざ」
「喜和子先生のところは、もう長いお客さんですから」
 にこ、と微笑まれる。
 あまり口数は多くない人だけど、細やかなしっかり者だと聞いている。


 宮津さんとは、二度しか会ったことがない。
 正直に言えば、連絡先を交換するにも少し気が引けたくらいの相手だった。

 ――悪いけど、今日蓉子一緒でいいかな。あいつ俺のこと疑ってて、どうしても付いてくるって聞かないんだ。
 小声でそんな電話がかかってきたのは、いつものように櫂谷と会う約束をしていた日の昼休みだった。
 ――いいけど、疑ってるって?
 ――まあ、俺が悪い。社長んとこ泊まっちまった。
 ああ、という声が口から自然と漏れた。

 櫂谷が勤めているのは、そう大きくないグラフィックデザインの会社だ。イベント用の映像作品などを手がけているほかに、最近ではスマホ用のゲームを作ったりもしているらしい。
 入社した時から、彼が社長に大層気に入られたということは聞いていた。その人は櫂谷より一回りほど年上の女性で、現代美術にもあかるい人らしい。面接の際にも別室から見物にとわざわざ顔を出してきたと言っていた。
 彼がどんなルーツを持った人物なのか、履歴書からわかったのだろう。同じ苗字で、出身地はあの画家ゆかりの田舎町だ。その名前は聞くのも嫌だというような、ふてくされた、何とも言えない影のある青年に彼女の目の色は変わってしまったのかもしれない。
 入社当時から、人に紹介してあげるとあちこちに連れ出されたと櫂谷は言っていた。交友も華やかな人で、妹さんはモデルらしい。一時期は仕事を覚えるよりも社長の近くにいる時間のほうが長いくらいだったとぼやいていたのを覚えている。
 華やかな人間関係にも、権威にも金にも大した興味がない櫂谷にとって、それは静かな苛立ちが溜まり続ける日々だったらしい。元々櫂谷は他人への関心も薄いし、黙々と手を動かしているほうが好きなやつだ。普段から無愛想な対応を崩さないのは、人間関係が広がりすぎるのが憂鬱だからという理由がある。
 社長に引っ張り回されるのを煩わしく思った櫂谷がそれを表に出してしまったのは、彼がその会社に入社してから三ヵ月ほど経った頃のことだった。不機嫌そうな、けだるそうな態度は本来ならばたしなめられるはずのものだったが、どういうわけか社長の気持ちをさらに盛り上げてしまったようだった。それからも、何かあれば真っ先に声がかかるのだという。
 その社長の家に泊まった、と彼は言った。
 口ぶりから、そういうことになってしまったのかもしれない。本当に、ここまで何にもしないのに女が巻き付いてくるのは何故だ、といつか原が言っていたのを思い出した。
 ――普通にしていてくれたらいいから、頼む。
 異性のことになるとここまで切れ味を失うのが、彼だった。

 その日の十八時、約束の場所で僕は初めて宮津さんに会った。
 彼女は櫂谷の腕をぎっちりと抱きつつも、一歩下がったように彼の斜め後ろに隠れていた。宮津蓉子。市内の図書館で司書の仕事をしている、大人しそうな女性だった。
 肩下までの髪を同じ長さで切り揃え、細い眼鏡をかけていた。ほとんど色味を感じないほどの薄化粧に、後ろのほうでひとつに結った髪。黒の小さなバッグに、赤と白のチェックのマフラー。本当に心配だったのだろう、僕のほうを警戒心に満ちた表情で睨んでいた。
 本来は、読書好きで物静かな人柄の持ち主なのだろう。そういう人物がなりふりかまわない状態になっているような、それはとても異様な光景に見えた。
 困り果てた表情の櫂谷に、どうしたらいい? と目で尋ねた。彼はあいまいなサインしか送って来なかった。実際、本人もどうしたらいいのかわからなかったのだと思う。
 待ち合わせ場所の近くにある、カジュアルなイタリアンに三人で入った。
 席に座って櫂谷がそれぞれを紹介した時にどうも、と頭を下げたきり、宮津さんは僕に対しては気を許すつもりはないとでも言いたげに何も喋らなかった。

 食事前、櫂谷が手洗いに立とうとした時だ。
 取り残されそうになった彼女は、とても不安げな顔で彼を見上げた。
 ――亮太はガキの頃からの仲だから、何も危なくねえよ。
 くたびれたような、若干苛立った様子でそう告げ、彼はするりと席を立った。そのまま振り返らずに行ってしまう。宮津さんは頼りなく小さくなり、その場で俯いた。
 世間話でも振るべきかと思っているところで、膝の上に置いていた彼女の手に決意したように力が入ったのが見えた。
 身体の脇に置いていた黒のリュックのポケットからスマートフォンを取り出して、握りしめているのが見える。

 ――連絡先を、交換してください。

 彼女は僕のほうを見て、意を決したようにそう告げた。
 あまりに切実な、そして余裕のない様子に、僕はすぐに返事ができなかった。

 ――構いませんけど。

 その後を紡げずに、言葉に詰まった。
 宮津さんは、怖れと怒りを混ぜ合わせたような目で僕を見ていた。
 まともに喋った一言目がこれか、と思うと、先が思いやられる気がした。

 ――わたし、恭一さんのこと心配なんです。

 僕のことなんてほとんど見えていないような、それはとても切羽詰まった声だった。
 白熱球にやわらかく照らされた、漆喰風の黄色い壁や煉瓦風の床。
 クラシックギターだけで奏でられているささやかなBGMの中で、彼女はひとりスマートフォンを握りしめ、恋人を失うかもしれない恐怖で張りつめていた。
 すでに、別れ話は何度もされているはずだ。出て行ってくれ、とも。もう自分に彼の心が向いていない、ということを、認められないのかもしれない。そういう話になれば黙って俯き、少し泣いて、翌日は元通りなんだと櫂谷が言っていたのを思い出した。

 心配なんです、と彼女は繰り返した。

 ――心配なんです。彼、純粋な人だから、良くない人達に傷つけられそうで。あの人のこと、一緒に見ていて欲しいんです。

 だから連絡先を教えてください。
 一息にそう述べてから、彼女はグラスに手を伸ばし、強く掴んだ。
 コップの中に残っていた氷水を、そのまま飲み干してしまう。

 もう一度、構いませんけど、と繰り返した。
 もちろん、本心ではなかった。そう返す以外の言葉が浮かばなかっただけだ。

 ――構いませんけど、僕もそこまで頻繁に会ってるわけじゃないんで。緊急用と思ってもらっていいですか。
 少し強めに告げた。実際は、かろうじてそう言えたに近かった。
 彼女は眉を寄せながらも、僕から目を反らさずに頷いた。


 講師はレッスンに向かってしまったのだろう、事務室には誰もいなかった。
 運び込んだダンボールを所定の場所に重ねて置き、会計用のビニールポーチをデスクの上のケースに戻す。ホワイトボードに連なっているクラスの一覧を確認して、どこにも自分の名前が入っていないことも確かめた。
 戻ったら月謝袋の振り分けをしていてと命じられたのを思い出し、スチールラックからケースを引っ張り出した。ひとつになっている大量の月謝袋をクラス別に分けるのは毎月僕の仕事だった。
 デスクの上にアクリルケースを置いた瞬間に、再びスマートフォンが鳴った。

『恭一さん、行ってませんか』
 宮津さんだった。

『お久しぶりです。こっちには来てないです。あいつも仕事じゃないんですか?』
『昨日から戻ってないんです。連絡もつきません』

 正直に言えば、心配する必要はないと知っていた。
 昨夜遅くに、蓉子が何か言ってきても知らないと言ってくれ、とメッセージが入っていたのだ。いつもの喧嘩の末に彼が蓉子さんとの空間を抜け出して、ビジネスホテルなりどこかの店なりで朝まで過ごしそのまま会社に行っているのを教えられていたのだ。

『わかりました。あとで電話してみます』
『すぐにしてみてもらえませんか?』
『すみません、僕もバイト中なんですぐには』
 送信してから、思い立って続けた。
『メッセージは先に送っておきます。連絡ついたら、宮津さんが心配してると伝えます』
 何とかそう打ち込んで、相手から言葉が届く前に送信する。
 
 彼女の打ち込んだ文字に何とも言えない粘り気のようなものを感じて、頭を振りながら顔を上げた。事務所の照明、漏れ聞こえてくる音楽、どこかのどかな昼下がりの気配。
 ひとつため息をついてから、再び手元に視線を落とす。櫂谷恭一の名前を親指で探した。
『蓉子さんから連絡あった。仕事行ってる?』
 急いでそう打ち込んで、作業に戻った。

 

 生き急ぐやつだなあ、と笑ったのは、高校二年の担任だっただろうか。
 進級してすぐの二者面談の席で大学進学は考えていないと言った僕に、彼は顔を上げながらとても不思議そうな顔をした。
 去年までの成績は別に悪くなかったじゃないか、という彼に、成績が理由じゃないんです、と答えた。自分でも歯切れの悪い返答になったと思ったけれど、それ以上の説明は出来そうになかった。
 ――じゃあその、学費とか、経済的なこと?
 担任の野上先生はそう言いながら、僕の個人的な情報が記載されたある書類を持ち上げまじまじと見つめた。だって堀井のお父さんって、と呟いて、そういう心配はなさそうだよな、と不思議そうに続けている。
 まるでぴんときていないような様子に、この人はずいぶん健全な家庭に育ったんだな、という感情が湧いた。それなりの進学先を選べそうな成績と経済的な後ろ盾がある状態なら、他に進学をためらう事柄なんてありえないと思っているのかもしれない、と。

 ――この先四年間も、学生したくないんです。
 ――早く社会に出たいってこと?
 ――そういうわけでも、ないんですけど。

 渋った返答しかできなくなった僕に、彼はううん、と喉の奥を鳴らした。
 桜の花びらもすでに落ち切った、四月の終わりだった。放課後の教室から、淡い夕暮れの光が差し込もうとしていた。
 ――生き急ぐやつだなあ。俺なんか、ぎりぎりまで学生やりたかったのに。社会出てからのほうが人生長いんだよー? 
 少しふざけたような口調で、そう告げられた。
 僕が何も言い返さなかったことに、彼は若干たじろいだようだった。
 野上先生は、書類に目を落としたまま「まあ、何かしらあるんだろうな」と小声で呟いた。

 きっとこの、何かしら、は取るに足らないことだ。
 感じようとしなければ、目を閉じて見えないふりでやりすごせば、それきりのことだ。

 そう思いたかった。実際、そうしようとした。
 わき見をしないで、身体をじっと固くして通り過ぎてしまえば良かったのかもしれない。あんたの考えていることはわからないと、そんな期待には応えられないと、当然のように思えたら良かったのかもしれない。
 不穏な空気に満ちた時代を、鈍くなりながら通り過ぎようとした。できるだけ足早に、両手であのふたりの手を引いて、後ろから迫って来る暗く重いあの闇に追いつかれる前に。

 そう思っていたのに、するっと離れた。僕よりずっと小さな手のほうだった。
 しまったと思うより先に、遠ざかった立ち姿が暗闇に飲まれた。


『仕事来てるよ。悪かった。連絡するなって言っとく』
 二時間ほどで戻ってきたその言葉に、ひとまず安堵する。

 宮津さんの存在によって、保たれていることもあるのだと思う。実際に、櫂谷は自らの健康に対してはどうも無頓着だ。その日その時の気分で動く偏った生活を好むし、彼女が来るまでは飲酒もそれなりにしていたはずだから、今の彼の身体的な健康を支えているのは実際に宮津さんなのだろう。ひとり気ままに暮らしていたら、社会人として生きていくのに必要な体力を彼が確保するのは難しかったかもしれない。
 同時に、彼女の中にある櫂谷への異常な執着に彼自身も疲弊していた。
 喧嘩の頻度が昔よりも高くなり、彼が一夜を別の場所で過ごす回数も増えている。
 ふたりの関係が膠着して、もう長い。

10|その森の泉

10|その森の泉

 千紘のした、小さく詰まったようなくしゃみで目が覚めた。
 リビングの小さなソファの上で、つい眠ってしまったらしい。
「――寒いの?」
 窓辺に近い場所にあるデスクに向かって仕事をしている彼女に尋ねる。
「あ、ごめんね。起こした?」
 チェアをくるっと回転させて、彼女は僕のほうを見た。
 化粧を落とした、若干あどけなさを増した顔だ。ずいぶん大きいサイズのコットンシャツを着ている。
 午前一時二十分。
 周囲もすっかり静かになった高台のハイツで、彼女は依頼された仕事の修正作業を行っているところだった。
 
 椅子から立ち上がった彼女が、僕のほうに歩み寄って来る。
 かけられていたブランケットをまくってスペースを作ると、するりと潜り込んできた。
「亮太って、平熱高かったっけ」
 あったかい、と嬉しげに言う。気持ちよさそうに、ぴたりと身を寄せてきた。
「そうでもないけど」
「毛布に体温が移ってる」
 十月の夜の気温だ。冷えるというわけではないけれど、温かなものに触れればほっとする。
 最近少し伸びてきた彼女の髪に指を差し込んだ。いつものシャンプーの匂いが漂ってくる。 

 千紘と付き合うようになって、三ヵ月が経っていた。
 四月の雨の日に出会って、梅雨の天気雨の日に初めてこの部屋を訪れた。あれから数回ほど近場の名所に行ったりもしたけれど、僕がここに通って来るのが一番互いにとって負担が少ないと気がついてしまった。
 彼女は変わらず静かに暮らしていて、やはり普通の生活をするには少しばかり疲れやすい様子だった。
 会った瞬間から眠そうにしている日もあって、少し寝なよ、と寝室にまで連れて行ったことがある。わたしが寝ているあいだどうするの、と尋ねられたので、スマホいじるか本でも読んでる、と答えた。
 少し考えてから、彼女は「それなら本とスマホを持って一緒に寝て」と僕を布団に引っ張り込んだ。並んでベッドに入ると僕の左腕のほうに身を寄せ、ここにいてね、と念を押し――しかもどこか神妙な顔で――すぐにすやすやと眠ってしまった。
 寝顔は普段よりあどけない。稀には、寂しげに見える日もある。彼女が普段表に出さない気持ちが眠りのあいまにふと浮かび上がってくるようで、痛ましく見えることもあった。
 心の深いところにある、寂しさや諦め、そういうものの残した跡のようなもの。
 そういったものが、内側から彼女の頬や目元を掠めていく。

 昔のことも話してよ、と言った僕に、彼女は少しためらったように見えた。
 もちろん嫌じゃなかったらだけど、と慌てて付け足す。
 ――面白いことなんて、全然ないからね。手短に。
 そんな前置きがついたあとに、千紘は自分の身の上話をし始めた。

 九歳を迎えてしばらくした頃、母親が再婚した。実家で祖父母と暮らしている中で、彼女の母親は勤務先で昔の知り合いと再会し恋仲になっていたらしい。
 互いに子供のいる男女の再婚で、相手には自分よりも年上の男の子がふたりいた。中学生がひとりと、小学校高学年の男子だった。父親の再婚には反対だったけれど、周囲が説得を繰り返すうちに新たな家庭を受け容れる気になったらしい。
 互いの家の中間地点に家を借り、そこで五人での生活が始まった。子供達はそれぞれ了承していたものの、それはとてもぎこちなく難しい新生活になったようだった。
 新たな家族と打ち解けるのに焦った母親が、千紘を笑い者にすることで彼らとの距離を縮めようとした。
 大人しくて引っ込み思案な性格だった千紘にとって、それは少しずつ小さくなっていくような羞恥を与え、小さな彼女を落ちこませた。誰にも言わないで欲しかったこと、今までの母親ならそうしてくれたことを次々となじみのない他人に披露する姿に胸を痛めながらも、我慢する他の方法を選べなかった。
 そのやり方が一度うまくいってからは、次第に家庭内で冗談交じりにけなされるようになったらしい。最初のうちは母をたしなめてくれていた、味方だと思っていた再婚相手も次第に同調するようになっていった。彼が初めて自分から千紘を揶揄した日の、周囲の景色や彼の着ていた服の色まで覚えていると言っていた。
 意思や感情を尊重されなくなってきて、あらゆる家の仕事を任されるようになった。生理中であることを家族全員がいる場所で告げられたり、女は勉強なんてできないほうがいいから、とノートを隠されたこともあると言っていた。最後は義理の父や兄が家族が寝静まった時刻に部屋に入って来るようになった、とも。
 僕が息を飲むと、彼女ははっとした顔つきで、最後まではなかった、と言った。拒んだし、何とか阻んだ。小遣いで部屋に鍵をつけたり、寝入ってしまったら身を守れないと家族の中で一番遅くまで起きていたりしてもいたらしい。
 そういうことが限界になったのが、十七の冬だった、と。

 ――相手に意見したら、捨てられてしまうって思ったのかもしれない。そういうこと、母はなかなか止めてくれなくて。

 一連の告白は静かに淡々と告げられたが、そう言ったときだけ、声が揺れて詰まった。
 事を荒立ててしまうことで、母親の幸せを壊してしまうような気がしたのかもしれない。 その時代のことを、彼女は悲しげに、僕に表情を見られないようにうつむきながら静かに喋った。
 ――友達に相談して、家出の段取りをつけてもらった。連れ戻されると思ってたから、家族の暴言とかも録音して。コピーしたものをテーブルの上に置いてきたの。大事にしたら人に渡すって。
 当時の彼女には実際にそれを持って駆け込めるような場所はなかったけれど、世間体を無視できない彼女の両親を抑えるには十分な効き目があった。
 学校は、と尋ねると、その時期はもうほとんど不登校だったから、と彼女は笑った。準備にも時間がかかったし、お金も必要だったし、と。
 信じられないといった顔を僕はしていたのかもしれない。
 彼女はいつもの口調に戻って、言ったでしょ、と笑った。十代の頃はもうちょっと、性格きつかったって。
 
 ――でもね、そんなの全然珍しいことじゃなかったよ。似たような経験してる子も多かったし。わたしなんか、まだ運が良かったほうなのかもって思うくらい。

 それから成人を迎えるまでの数年間を、店のオーナーが借りていたアパートで暮らしたと言っていた。
 ひどいことももちろんいっぱいあったけれど、ひどいだけじゃ全然なかった、と彼女は言った。友達も出来たし、楽しかったし救いもあった、色々な経験をしているからこその優しさもいっぱいもらった、と。
 昼間の仕事に就くまでが一番大変だったの、と千紘は続けた。
 わたしはやっぱり夜の仕事には適性がなくて、ずっとはできないなって思ってた。でも学歴も大した教養もないから、転職しても自力で生活できる気がしなくて、と。
 
 ――それにね、気持ちに後ろ盾がない状態でいると、とにかく変な男性がいっぱい寄ってくるんだよ。既婚者とかすごく寂しい人とか、とにかく世の中に怒ってる人とか、幼い感じの男性とか。

 言い終えてから僕のほうを見て、亮太みたいな人と付き合えてるってことは、わたしもだいぶ健康的な大人になったんだと思う、と笑った。
 同じ店で働いていた仲間の中には、同じような問題を持った相手ばかり選んでしまう女性もいたらしい。恋人を欠かさないでいるために常に次の候補が存在していた人も、先があかるくないとわかっていても関係が辞められず、暴力や裁判沙汰になってしまうような人もいた、と。
 そういうの全部がわたしには怖かった、と彼女は続けた。
 寂しさと怖いのどちらかを選ばなきゃいけないなら、寂しいほうがいいと思った。異性に関しては慎重すぎるくらいに慎重だったし、信頼できそうにない相手と簡単に連絡先を交換したりもしなかった、と。
 焦りもあった、と彼女は続けた。
 自分はここにいる子達と同じようにこの仕事に慣れていけそうにはないから、別の何かを探さなくちゃいけないと思っていたらしい。仕事も、居場所も、いずれは別のところに行きつかなくては生きていけない、と。
 そう決めてからは、意識して本と新聞を読むようになったらしい。人間案外どうにかなるものだから大丈夫だと言われ続けても、不安が残り続けてしまった。何でもいいから、ためになりそうなことをしなくちゃと思っていたらしい。

 不器用そうで、人の手を借りて助けられ続けてきた人物に見えていた。
 そんな彼女が、僕の思っていた以上に意識的にその時代を切り抜けていたことに驚かされた。
 素直にそう告げると、彼女は臆病だっただけだよと笑った。
 どんなに強がっても結局わたしは痛がりの弱虫だし、ひどい怖がりだから、どうにかしてそういうことを回避したかった。そのために色々考えるようにしてきただけ、と。

 言葉に、嘘は感じなかった。きっと、本当にそういうことがあったのだと思う。
 それでも、聞いた話が目の前に座る彼女の過去であると僕はどこかで信じられなかった。今の彼女に繋がっているような何かを、その話の中に感じなかったのだ。
 そういう場所にいた人には見えないな、と告げる声はどこか呆然としていた。
 千紘は、もう色々吹っ切れてるからじゃない? と何でもないことみたいに答えた。

 ――それにわたし、昔からあんまり不幸そうに見えないみたい。毎晩寝る前にぐしゃぐしゃに泣いたりしてた時期も、恵まれて見えるみたいなこと、人からよく言われてた。

 そんな中、客のひとりだった三十代の男にひどく気に入られ身の回りのことを色々教えてもらったと言っていた。生活のこと、経済的なこと、それから事務の仕事に必要な知識なども。物静かで、真面目な人だったようだ。それが彼女の初めての恋人だと教えられた時は、自分で聞いておきながら胸が痛んだ。
 千紘が苦学生に見えたらしいその男は数年前に離婚していて、中古のパソコン売買で身を立てていた。一台を安く譲ってもらって、操作を覚えたらしい。別れたのは彼の元妻の再婚話が舞い込んで、娘が父親と暮らしたいと言い出したからだった。
 そのほうがいい、と彼女は答えた。自分が母親の再婚相手にされたことを思い出したら、それ以外の言葉は出て来なかった。彼は別れまでは考えていなかったが、パパに恋人がいて、その相手が自分と年齢が近いのは傷つくはずだと千紘は説明した。
 その後はカーディーラーのショールームの仕事に転職した。
 受付がメインで雑用に追われる日々だったけれど、いい職場だったと言っていた。不況のあおりを受けて隣の営業所との合併が決まるまで、三年ほど勤めたようだった。裕道と出会った職場では、もう今の仕事に近いことをやっていたらしい。
 下腹部にしこりがあることに気づいて受診をしたのは二十七歳の終わりで、実際に手術をしたのはそれから二ヵ月後のことだった。

 十年ほどかけて今のところに辿りついたのか、と思わされた。
 周囲から軽くぞんざいに扱われ続けて、立っているのもやっとの家出少女だった人。不確かな足取りで、そこから今の彼女まで。
 目に見える部分では、そう大きなことをしてきたわけじゃないのかもしれない。けれど、水面下ではもっとずっと多くのことを超えてきたように見えた。目に見えて誰かを憎んでいるわけでもなく、過去をひどく引きずっているようにも見えなかったからだ。
 大人しい顔をして、実は恐ろしいことをしてきた人なんじゃないか、と驚かされた。
 今いるところまで、この人はほとんど駆け上がってきたのかもしれない。
 
 ――退院したあと、けっこうひどいこと言われちゃったけどね。女じゃなくなっちゃったんだね、とか、じゃあもう避妊しなくていいんでしょ? とか。

 愕然として何も言い返せなかった僕に、千紘は続けた。一度聞いたことがある言葉は何でも言っていいんだって、どこかで思ってる人もいるからね。特に性に関わることって、その人の考えてきたこととこなかったこと、全部出ちゃうんだと思う。
 逐一腹を立てたところで仕方ない。
 そういうことばかりを見てきたような言い方に、言葉を返すことができなかった。
 僕が怒りを感じても、どこかでもう遅いのだ、とも思う。彼女自身がすでに自らに起きたことをできる限り解決して、納得していた。彼女が懸命に落ち着けたものをいまさら掘り起こしたり、かき乱したりはできなかった。

 この人の悲しみを、後から来た者が荒らすのは間違いだ。
 そう思いながらも、僕はつい暗い気持ちになってしまう。
 そこに自分がいなかったこと、何もできなかったことを。


「わたしのところにばっかり来てたら、旅費が貯まらないんじゃない?」
 僕の身体に背中をぴったりと合わせるようにして、千紘はおかしそうに言った。小さなソファに、ふたりで身体を押し込むように横たわっている。
「今は、それよりしたいことがあるんで」
 目の前の頭に顎を乗せて告げると、くすぐったいと彼女が笑う。ここでこの格好しすぎて、ソファの形が変わってきた気がしない? とも。
「映画もけっこう観たからかな」
「出かける気にならなかったしね。暑くて」
 デスクのほうにちらと目をやりながら、彼女は言った。あと五分温まったら作業に戻る、でも三十分で終わらせる、と。明日は裕道のところにふたりで出かけることになっている。
「涼しくなってきたから、またどこか出かけようよ」
「うん」
 毛布を掻き合わせるようにしながら、彼女は頷いた。

 恥ずかしがる千紘の手を引いて、最初に連れ出したのは水族館だった。
 人の大勢いるような場所にはしばらく出入りしていなかったようだし、気後れする気持ちも少なからずあったのかもしれない。混雑した時間は避けたものの、その日の彼女は少し緊張しているようだった。少しずつほぐれて、クラゲの水槽の前で僕のほうを振り向いて見せた笑顔でやっと楽しくなってきたんだなと思えた。そういう、ふと気持ちが自由になる瞬間がひどくわかりやすいのだ。
 彼女はずっと大人しげににこにこしていて、そのくせ建物を出てしばらくしてから館内で知ったらしいものすごくマニアックな海の知識を諳んじてはしみじみと感動したりしていた。それどこで見てきたの、と尋ねると、フグのいっぱいいた水槽の前に書いてあったじゃない、と何てことないように答えた。小さなバッグをぶらぶらさせながら。
 ――楽しかった。
 その日の帰りも、翌日も、しばらく彼女は言い続けた。
 そこで買った水彩画っぽいクラゲの絵のブックマーカーを、今もデスクの前にそっと飾っている。

「ここ、本当に静かだね」
「駅から距離あるし、近くにお店もないから」
 腕の中からそう答えられる。生活しやすい立地というわけではないけれど、夜から朝にかけては特に静かで空気が澄んでいる。澄んでいるのに、同時に濃縮されてもいる。
 そもそも恋人と共に過ごす時間なんて感覚が狂いやすいものかもしれないけれど、僕達もまた、一緒にいると日常生活とは違う時間軸の中に入り込んだみたいに思えた。ただ進んでいくものというよりも、時間そのものが立体的になった。
 高いところは高く、深いところはすこぶる深くなる。それらをゆるやかに行き来しているうちに、あっという間に半日くらい過ぎていたりもした。もうこんな時間か、と思いながら外に出て車の繋がる大通りを走っていると、夢からだんだん覚めていくような感覚すら覚えた。


 迷い込んだ場所に、静かな泉があるように思えた。

 僕が迷い込むようにそこに辿りつく頃、彼女はすでにその場所にいた。
 素足を先に水につけた千紘が僕のほうを振り向いて、案内するように手を伸ばす。僕達はふたりで、その泉の中に入っていく。
 彼女に優しく手を引かれ、気付いた頃にはやわらかな水に身を浸していた。
 沁みる場所は、少なくなかった。それでも、そこに沈み込んでしまいたかった。いつか彼女が自分のために作って使った、心の一番奥にある再生のための泉だった。僕がそれを自分自身に許しさえすれば、回復され、取り戻され、再びやわらかく潤っていく。そういう力のある場所だった。
 隠していたものをつまびらかにされてしまうことに時に抵抗を感じながらも、結局はやわらかく洗われてしまう。彼女にそんなことをしているつもりはなく、それでも僕にとってはそんな効能を持っている場所。
 生傷も古傷も、躓いた日についた泥も、誰かを傷つけた日に跳ね返ってついた血痕も。
 そういうものすべてが、そこで洗い流されてしまうような気がした。
 暗い夜の泉に浮かび、彼女に寄り添われながら、額や頬をぬぐわれる。
 そんな夢みたいな景色が、たびたび脳裏をかすめた気がした。

 小さな手が、僕の髪をかき上げる。
 目元が凛々しいよね、とやわらかくささやく。
「俺の目、きつい?」
「そうでもないよ」
 抱きしめるつもりで手を伸ばすのに、気づけば逆になっていることが多いと気づいたのはいつだっただろう。自分よりも小さな体に受け止められて、僕は油断したように安堵してしまう。
 倒れこんできていいよ、と千紘は言う。
 もちろん、身体ではとてもできないことだ。でも時折、心でしてしまう。千紘の中に、心が倒れこんでしまう。
 僕が時々しているらしい目に気づいたらしい彼女が、静かな声で尋ねた。悲しいの?
 いや、と答えて、でもその先の言葉が出てくることは稀だ。
「ちいちゃん」
 彼女は僕のほうを見上げ、目でなに、と尋ねた。
 僕が言葉の続きを持っていないと気付いたらしい。小さく笑って、首を傾ける。
「仕事終わらせてくるから。そしたら寝るまで話そうね」
 唇を離したあとに、彼女は少しだけ年上ぶってそう言った。


 ひどく繊細になってしまう時間を暮らしの中に持っているというのは、ある種の隙にもなるのだろうか。
 堀井くん最近落ち着いたね、とエディフィカンテのオーナーである喜和子先生に言われたのは、秋も深まってきた十一月のことだった。
 事務室で、発表会のプログラム作成をしていたところだった。いつもの上下黒のレッスンウェア姿で現れた彼女は、手にしていたマイボトルにお湯を継ぎ足しながら僕に声をかけた。作業進んでる? そして続けて言ったのだ。
 ねえ、堀井くんて最近ちょっと落ち着いたよね。

「え?」
「ああ、ごめんなさいね。わたし余計なこと言った?」
 ボトルで手のひらを温めるように握ったり離したりしながら、彼女は素早く告げた。
「いや、全然大丈夫です」
 喜和子先生は安心したようにそう、と頷いてから、低めのスチール棚の上にあった白い編み込みの籠に手を伸ばした。アレンジメントフラワーを貰うことが多いので、この手の入れ物をあちこちで再利用している。
 袋菓子の入った小さめの籠を手に僕のほうに近づいてきて、おひとついかが、と彼女が尋ねた。いつもの台詞だ。すみませんと頭を下げて、のど飴をひとつ貰う。

「堀井くんて、いつも忙しそうに見えてね。息つく暇なく動き回ってるイメージがあるのよ」
 若い男の子なんてそんなものかもしれないけど、と付け足してから、籠を元の場所に戻している。
「僕、そんなに慌ただしいですか?」
 おかしくなって訊いてみる。
 喜和子先生は黒飴らしき袋をあけながら、うーん、と首を傾げた。
「したいことがたくさんあるとか、何か目標があって急いでるとか、そんな感じかな」
 野望、みたいな?
 冗談交じりでそう付け足してから、彼女は黒飴をひとつ口に入れた。
 還暦を迎えた今ではおっとりした風情の女性に見えるが、元々はフラメンコダンサーだ。二十六歳から七年ほどスペインで過ごし、日本に戻ってからもダンサーとして精力的に活動していたらしい。スペインに行く気になった時は声をかけてね、とよく言われている。

「したいこと――ってほどのことは、別にないつもりなんですけど」
 手持無沙汰に、デスクトップの上でマウスを何度かクリックしてみる。スクリーンセーバーが何となく苦手で、作動しないように適当な動作を入れてしまう癖が僕にはある。
 喜和子先生は、飴玉を口の中で転がしながら僕のほうを見ていた。
 麻子の母親とは四つ年の離れた姉妹で、若い頃は不仲だったと言っていた。帰国して別のダンススタジオでフラメンコ指導の仕事を始めて、やっと打ち解けたらしい。若い子に構うのが好きだからと、ダンス以外の夢を持っている生徒の話も色々聞きたがる。
「確かに、この頃はちょっと落ち着いてるかもしれない」
 
 実際は、千紘と会う時間がそうさせているだけなのだと思う。
 微妙なバランスを崩さないよう慎重に生活している彼女に安易な真似は出来なくて、近づくたびにブレーキがかかる。何かとても壊れやすいものが自分の中に入り込んで来たような、脆い細工で出来たものを手渡されたような気持ちになる。
 手の内で、それは静かに僕を見上げる。安心できると、そっと微笑む。
 本来は、誰の中にだってある部分なのかもしれない。傷つかないように奥のほうにしまって、あるいは他の要素で埋め立てている、無防備でやわらかな部分。僕から見た千紘は、そういうところが一部でむき出しになっている人物だった。大きくひびや亀裂の入ったむこうに、恐ろしいくらいのやわらかな部分が覗いて見えた。
 共にいるだけで、その部分が視界に淡いフィルターをかけてくる。受け止められて、なだめられて、苦しくなる時すらある。自分の中に同じような部分が確かにあること、そこが欠けて、乾いて、養われたかったような気がしてくる。
 あふれださないように気持ちを抑えようとしても、それがうまくいくことはほとんどなかった。それならせめて傷つけないようにと、出口を細くする。
 アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようで、うまくいかない。
 いっそのこと、どちらかにさせて欲しいと願ってしまう。
 そんなことを思いながらも、彼女と過ごす時間のためにせっせと仕事を片付けている自分が嫌ではないのだ。
 
「いいわねえ」
 お茶の入ったボトルのキャップを外しながら、喜和子先生は言った。年齢を感じさせるような、しみじみと深い響きで。
「いい表情だわ。舞台に上がらない人なのが残念」
 感受性だって充分強いのに、本当に何の表現活動もしてこなかったの、と彼女に言われたことがある。ダンスじゃなくても、楽器でも絵画でも、何かやったらきっとすごく面白いのに、と。曖昧に濁してしまったけれど。
 何も言い返せなかった僕に、喜和子先生は唇を大きく持ち上げて笑う。
「若いっていうのは本当に、いいわね」
 そう続けて、彼女は機嫌よさげに肩を上下した。

11|夢のまま

11|夢のまま

 妹からの連絡があったのは、久々に会った櫂谷と以前から約束していたビリヤードを終えて居酒屋の小さなブースに座っていた時だった。
 鳴ってるぞと彼に指さされて手にしたスマートフォンに、妹の名前が表示されていた。
「妹だ。ちょっといいかな」
 そんなことわざわざ訊くなとでも言いたげに、櫂谷は手をひらひらとやった。

 立ち上がって、手洗いのほうに向かいながら電話に出た。
「はい」
「お兄ちゃん?」
 絢乃の第一声は、どこか怪訝そうだった。周囲の音を拾ってしまっているのかもしれない。
「うん」
「その音、外?」
 かけなおそうか、と妹が続ける。
「いや、いいよ。どうした?」
 内容には大方想像がついたけれど、手洗いの前にあるベンチに腰を下ろして訊いてみる。
「父さんのこと」
 絢乃は若干の躊躇を感じさせるような声音で告げた。
 まあそうだろうな、と頭の片隅で思いつつ返事をした。

「放射線治療、父さんにはそんなに効果なかったみたい」
「――そう、なんだ」
「うん。やっぱり、手術も視野に入れたほうがいいって」
 落ち着いた声で妹は言った。もしも目の前に僕がいたら、目を見ながら、反応を確かめながらこういう言い方をしただろうなと思えるような。
「そうなったら、出てこられる?」
「いや行くよ、さすがに」
 廊下に敷かれた、ごつごつとしたタイルの柄に目をやりながら答えた。余計なことを考えてはいけない時は、呼吸を深めながら周囲をよく観察すればいい。狭い場所にはまりこんでしまった魚みたいに、思考はそれ以上のどこもいけなくなるから。
「――来るよ? あの人達も」
 絢乃の声は、食い下がるようだった。
「だろうな。身内だけって連絡しても――」
「絶対来るよ。お構いなしじゃない」
 妹は小さなため息をついた。
 こういうところは母にそっくりだ、と思う。

 全員が男の四人兄弟の末っ子、という立場だったら、大人になっても半人前の扱いが続くのは致し方のないことなのかもしれない。
 祖父の興した小さな会社に三人の伯父が成人した順番で入社していった時も、芳夫にこの仕事は難しいぞと散々はやし立てられたと言っていた。それぞれが別の分野で優秀だった上三人の出来の良さに続くことができなかった父は、祖母や周囲の女性陣の口利きで何とか入社が許されたようなものだったらしい。兄達それぞれが職場や学生時代からの付き合いがあった恋人と結婚していく中で、父だけが見合いの席を必要とした。
 長男と次男の仲が良かったことから、伯父達それぞれが社内で上へ上へと登っていっても派閥のようなものはできなかった。それなりに問題は起きたらしいが、摩擦というよりも団結力の強さゆえのすれ違いだと生前の祖母が言っていた。
 その中に、一人前の存在として加わることができなかったのが、僕の父だった。

 五分ほどの電話を終えて席に戻ると、櫂谷はテーブルの上に置いていたスマートフォンに指を滑らせていた。顔を上げて僕に気づくと、そのまま眉を寄せる。
「おまえ、もしかして吐いてきた?」
「いや、電話してきただけだけど」
「顔、青白いぞ」
「何ともないよ」
 腰を下ろしてグラスに手を伸ばす。周囲で自分の他に飲んでいる人を見かけたことはあまりないけれど、ここで僕はよくミントジュレップをオーダーする。
 僕の返事に、櫂谷は納得していない様子だった。
 スマートフォンや箸に手を伸ばしながらも、ちらちらと僕のほうをうかがっている。

 櫂谷とのあいだに、嘘をついたことはないはずだ。
 方便と言える程度の、面子を守るための小さな隠し事ならしてきたけれど、その手のことを気にするようなやつじゃない。気を廻しただけだろうと、互いに対して思えるような相手だ。
 もしも僕が自分のために彼を欺いたら、櫂谷はそれにすぐに気が付くだろう。人の持っている表裏には人一倍敏感だから。彼と繋がっていることで自らに何らかの利益があるはずだという思いをろくに隠さずに近づいてくる人間が、彼には昔から掃いて捨てるほどいたのだ。
 ――友達だって顔したところでさ、別の場所で全く別のこと言ってるやつってわかるんだよ。全然芯がねえ、媚びばっかり強いやつって。
 彼が僕や嶋岡に気を許しているのは、僕達がそういったことに関心が薄いか、同じように嫌悪を抱くタイプの子供だったからだろう。誰にでも面倒見が良いようで嶋岡は好きではない相手には驚くほど淡泊だし、僕は僕で、湿ったような打算の雰囲気にうんざりしていた。自らの父親が、その手のことにひどく執心する人物であったことにも。

「――親父が」
 グラスを濡れたコースターの上に置きながら口をひらく。
 櫂谷は小さくはっとしたような目をしたが、何も言わずに僕の次の言葉を待った。
「病気して。今の治療がだめなら手術だって言うんだ」
 彼は若干眉を寄せたような顔つきで、僕のほうをじっと見ている。
「重いのか」
「腹切って開けるかもしれない」
 僕の返答に、彼は息を飲んだようだった。

 僕が地元にいるあいだにもっとも神経をすり減らした相手が誰か、櫂谷は知っている。
 どうしようもない感情を持て余しながら、あの町で別の場所に焦がれてばかりいたこと。誰より父親を憎んでいたことも、あの家の中で、息子を踏みつぶして自らの下に敷いておきたかった父の数々の言動がどんなふうだったかも。
 僕の口から次に出てくる言葉を、櫂谷はきっと想像している。
 迷惑なことだ、あんなやつ生きようが死のうが関係ない。あるいは、年老いた父への同情的な感情がこもった一言だろうか。それとも、面倒な事になった、しばらく向こうと行き来するようになるけど割り切ってさっさと終わらせるよ、とか。
 そのどれもが、僕の中にはあった。

「亮太」
 櫂谷は、複雑そうな顔をして僕のほうを見ていた。
「俺、憎みすぎたのかな。これが本心ってものが、わかんなくて」

 近くに行けば、父の放つ嫌味を不快に思う。煩わしくも思うし、面倒だ、と思う。彼の放つ余計な一言が次の自嘲の種になるのを感じるし、波だって起こる。
 そのくせ、すでにはるか昔の出来事のようにも感じる。通り過ぎてもう長い、過去にあった何かを思い出しているだけのような気がしてくる。昔のことを思い返しているうちに今がおろそかになっているだけのような、ふっと吹いた風で我に返れば、やはり過ぎ去った過去の影だったような気がしてくる。あの頃と今の色合いがあまりに遠すぎて、困惑してしまう。
 自分でも信じられないけれど、僕の中で過去が剥がれ落ちようとしていた。この先もこびりついたままだろうと思っていたものが、終わるのかもしれない。そんな予感があった。
 その独特の気分の中にある何とも言えない距離感に、僕はどうにも慣れずにいた。母や妹のような、あるいは彼の周囲にいる人達のような感情移入ができないままだった。

 櫂谷は、何も言わなかった。
 手にしていたものを置き、左手でゆっくりと頬杖をついている。

「別に、ひとつに絞るようなことでもないだろ」
「――そうかな」
「おまえのところの親父さん、昔から強烈だったし」
 彼は遠慮したような声でぽつりと告げて、水滴で濡れたグラスに手を伸ばした。

 櫂谷恭一があの櫂谷正臣の一人息子であることを、父はもちろん早いうちから気付いていた。
 小学五年で、僕は櫂谷と初めて同じクラスになった。目立つ雰囲気の持ち主だった櫂谷の存在は以前から知っていたものの、それまでの四年間で接点はなかった。
 打ち解けるまでいくらもかからなかったのは、櫂谷のほうが僕にさっさと気を許してしまったからだった。まるで最初から「おまえにはわかるだろ」とでも言いたげに、他のクラスメイトには簡単に口にしないような本音を僕相手にはぼそっと述べた。櫂谷が僕を見る目は、最初から信用に足る人物だと思っているような、そうであってくれと願っているような切実なものすら感じさせた。
 実際に、僕達は最初から気が合う子供同士だった。関わり合いになりたくないこと、遠ざけておきたいこと、そしてどうもひっかかる、そのままにしておけないことが彼と僕ではよく似ていた。子供なりに、受容しがたい何かを共有できる関係だったのかもしれない。
 櫂谷恭一はそうやって打ち解けた友達だったけれど、父には僕達の関係がそうは見えていないようだった。

 ――有名人の息子に取り入るなんて、おまえもなかなか強かだな。

 彼と互いの家を行き来する仲になって数年が経った頃、休日のリビングで父が言った。櫂谷からの誘いに乗って、午後から書店に出かけるところだった。
 言葉の意味が理解できずに、どういうこと、と尋ねていた。どうせはっきりとした意味はわからないだろうと思っているようなその物言いに、ひどい嫌悪感を覚えた。十五の終わり、制服が冬服になったばかりの時季だっただろうか。
 父の風当たりがきつくなっていったのは、中学に上がって以降のことだった。それまでは仲が良いわけではないとしても、そういうものだと思える何かがあった。関係の中に、正当さがまだ生きていた。父が父として、まだ僕の中に存在していた。
 その了承や納得が、ある日尽きてしまった。右も左もわからない子供から少年と呼ばれる年齢を迎えるにつれて、父から僕に向かう言動は不自然に歪んでいった。当時の父から見た僕は、いつか彼の知っているあらゆる醜悪さを煮詰めたような性格の子供になっていた。

 打算的で欲深く、怠惰で狡猾。
 父の中にいる僕は、そんな子供になっていた。

 豹変と言えるような、急激な変化だった。
 僕の何気なくしていた行動は、ある日から父の解釈を通すことでべたっとした依存的な人間の取るそれになった。
 あんなことをするのは褒められたいからだろう、注目されたいからだ、人から良く思われたいからだ、怠けるため、強欲だから、計算高いからだろう。
 そこまで考えて動いていないと思うような何気ない言動に、いつしか父は激しく反応するようになっていた。元々情緒が安定しているという人物ではなかったけれど、僕や妹が大人に近づくにつれて彼からの扱いはより辛辣なものへと変わっていった。
 そんなつもりはない、という意味の主張には、意味がなかった。
 彼はすべて自分にはわかっているんだぞ、という表情で、はいはい、とか、わかったわかった、などと子供の前で繰り返した。僕のしたほんの小さな失敗を、冗談だと言いながら嬉しそうな顔つきで囃し立てるようになるのもすぐだった。
 痛くもない腹を探っては濁ったものが僕の中に見当たらないかと目を凝らしている父の口元は、いつも歪んだように端が持ち上がっていた。嬉々としたと言っていいくらいの、あの独特の気分の高揚に子供の僕は確かに戸惑っていた。
 後悔を、反省を、あるいは自己嫌悪を感じている時に追い打ちのようにやってくるそれに、当時の僕は慌てて内側のシャッターを下ろしたのだ。

 僕の中に映り込んできた、父にとってのあるべき息子像と、その歪み。
 周囲にいる他の誰からも感じたことがなかった、違和感に満ちたその人物の輪郭は、やがて亡霊みたいに僕の周囲を漂うようになっていった。父から見えていた僕は、打算的で虚栄心が強く、少しでも人の中から注目されたくて、周囲からの承認と評価に飢えた人物だったはずだ。
 それを直視することもなく、自らの欲求を満たすために生きている、狡賢く、利にさとい子供。

 ――それ、俺じゃなくてあんたのことだろ。

 実際にそう口にすれば、その何十倍もの言葉が繰り返されるのを身をもって知っていた。彼から塗りつけられる泥のような感情によって、僕の中には冷たく暗い領域が広がっていった。
 何をしても何を言っても変わらない、おまえは醜い、という意味を持った視線。僕を塗り固めてしまおうとする、あの重く粘る泥。
 父から押し付けられる、汚れてべたついた着ぐるみみたいなその人格に自分を乗っ取られてしまわないこと。
 心の穴を開けられた部分から、自尊心を漏らさないこと。
 生きていく力を、そこから吸われてしまわないこと。
 あの町で、僕はそのことを第一に考えて生きていた。

 飲みすぎたつもりはなかったものの、良くない酔い方をしてしまったらしい。
 気づいた時には、櫂谷に連れられて店の近所にある複合施設のベンチで項垂れていた。
「おまえがこんなになるなんてよっぽどだね」
 櫂谷は僕の脇に立って、たまに喫う加熱式煙草をくわえややあきれたような声を出した。
 脳髄に直接アルコールが流れ込んでしまったような、重く鈍い痛みが頭をすっぽりと覆っている。冷たい夜風が頬に当たる。肌の表面にしんと染みて、鼻の頭から冷えていく。
 ごめん、と言ったつもりだったが、ほとんどまともな発音にはならなかった。
「謝んなくていい」
 意味は通じたらしい。すっぱりと彼は言った。

 黒のスウェードのジャケットを羽織った櫂谷は、甘い匂いの煙を周囲に漂わせている。
 僕の横に腰を下ろして、彼はひとつ浅いため息をついた。

「あのさ」
「――うん」
「昔っから言ってるけど。おまえ何にも悪くないからな」
 わずかに苛立ったような声で、友人は言った。
 ずきずきと痛む頭を片手で抱えながら、顔を上げる。
 櫂谷は前を向いたままだ。半分睨むような目で、暗闇のほうに視線をやっている。

 それは、彼らに繰り返されてきた一言だった。

 ――まあ、おまえは悪くないよ。

 多くのことを話したわけではなかったけれど、空気で感じ取っていたのだろう。
 僕のしていた葛藤に、櫂谷も嶋岡も同じように繰り返した。おまえは悪くない。
 その一言に、僕はいつも沈んだ気分を引っ張り上げられていたのだ。
 
 目をあけているのも苦しいと思うような酔いの中で、振動音に気づいたのは櫂谷だった。
 またスマホ鳴ってねえか、と訊きながら、彼は僕のほうを見た。
 どこにしまったか、思い出せなかった。感触も遠い。ジャケットのどのポケットだったか、それとも鞄のサイドポケットだっただろうか。
 僕の反応の鈍さに、櫂谷はああもう、ともらしながら僕の鞄に手を伸ばした。開けるぞ、という言葉のあとに、それを引っ張り出した。
「ほら、出れるか」
「誰って」
 書いてある、と尋ねると、彼は目を細めてそれを読み上げた。

「中上千紘」

 ああ、という声は出たものの、まともな返答はできないだろうと頭の片隅で思う。
 千紘に、迷惑も心配もかけたくなかった。
「そっか。いいや――あとで」
 かけなおすから、とは言わず、僕は彼の持つスマートフォンに向かって手を伸ばした。

 僕の出した声に、思うところがあったのかもしれない。
 櫂谷はそれを僕の手が届く直前で、すっと自分のほうに引いた。
「彼女?」
「そう」
 うっかり頷いてしまう。ぐらりと、視界が傾いだ。

 櫂谷はふうと息をついてから、僕の意思に反することをした。
 通話を押したらしい。自らの耳元に僕のスマートフォンを運んでいる。
「はい――」
「櫂谷、ちょっと」
 つぶれたような声で何とか口にする。
 彼は僕にむかって、うるさいとでも言いたげに手のひらを突き出した。

「ああ、すみません急に。俺、亮太の幼馴染です。今こいつと飲んでたんですけど、潰れちまって。彼女さんですか」
 あろうことか彼はそこから立ち上がって、ベンチから離れてすたすたと歩いて行ってしまう。
 ちょっと待って、と何とか言葉にしたが、当然櫂谷にその声は届かなかった。

 千紘は、今週は少し忙しいと言っていたはずだ。
 クリスマスから年末年始にかけての、季節の印刷物制作の仕事が続いているらしい。もうピークは過ぎてるんだけど、やっぱり駆け込みもあるから、と。
 だから会うのは来週にしよう、と決めていた。
 成田山にでも出かけてみようかと話していたのだ。
 
 通話を終えた櫂谷は、先ほどと同じような表情で戻ってきた。
「迎えに来るってよ」
「え」
「そこにいてくれって。今日は自分のほうに泊めるからって」
 俺のところでも良かったんだけど、すぐ来られるって言ってさ――。

 少しやりすぎたと思っているらしい。
 櫂谷はやや恥ずかしそうに、そう言った。

「年上?」
「そう」
「かなって思った。変な飲み方はしない人ですよね、何かありました? って」
 櫂谷の言葉に、千紘の声を思い出した。
 ぱちりとひらいた両目も、小さな鼻も、首筋から体のやわらかな線も。

「優しそうだった」
 ベンチにどっかりと腰かけて、櫂谷は言った。
「優しいよ。すごく」
 後頭部を揺らさないようにしながら告げた。
 
 千紘の、静かな空気感を思い出した。
 部屋に通い続ける僕に、こんなことばかりじゃ退屈じゃないのと尋ねる声のやわらかさや、買い物に行った先で彼女の持っていた荷物に手を伸ばした僕を見上げるときの目。身体に力が入らなくなるまで抱き合ったあとの、シーツに埋もれてぼんやりとしている姿。
 僕の髪に手を差し入れ、彼女は手櫛でそっと髪を梳いてくれる。
 言葉を使わない、彼女のくれる静かな労りが僕に降り注ぐ。憐みではない、深いところからやってくるやわらかなものが、僕の今までしてきた選択を許してくれる。暗いものを無理に打ち消したり膨らませたりしないで、彼女はただそれがそこにあることを受け容れてくれる。
 そんな彼女に対する気持ちをどうすることもできなくて、表しようがなくて、僕は犬猫のように身を摺り寄せてしまう。もっともっと、芯のところでくっつきたくて、触れているだけでは足りなくなる。
 どうしてこんなになってしまうのか、時々恐ろしくなる。千紘が千紘だったから、僕が僕だったから起こる、ただそれだけのことのような気がしたりもする。
 共に迎えた冬の中で、僕の彼女への気持ちは深さを増すばかりだった。

 二十分ほどで駐車場に滑り込んできたココアブラウンの車が、僕達を見つけてパッシングをした。広大な駐車場の隅、店舗から離れた場所にいた僕達の周囲には他の車は停まっていなかった。
 エンジンを止めた千紘は、いつもより少し慌てた様子で僕達に駆け寄ってきた。

「どうしたの、亮太」
 ほんの少し微笑んだ様子で、彼女はそう尋ねた。
 僕にそう尋ねてすぐに、隣に立っていた櫂谷にむかって頭を下げている。
「教えてくださって、ありがとうございます。中上です」
「櫂谷です。すみません、呼び出したみたいで」
 櫂谷が千紘に向かって少し固い声で謝っているのが聞こえた。

 おかしな光景だな、と思いながら、ふたりの話す姿を見ていた。
 酒量が多かったわけではないことを櫂谷は彼女に説明していた。疲れが溜まっていたのか、あまり寝ていなかったのか、そんなことを推測しあっている。
 櫂谷さんのことも送りますと言った千紘に、近所なんで大丈夫です、と櫂谷は断っていた。初対面の相手に見せる、若干警戒した友人の声だ。
 櫂谷に、言える立場じゃないけれど、そっと話してやってくれ、と思っていた。
 俺達とは種類が違ってもこの人の通ってきた道だって険しくて、失ったものも大きくて、その上千紘の内側にはびっくりするくらいやわらかい場所があるんだ。そこに俺の欲しいものが全部詰まってる、と。
「亮太、立てる?」
 ふたりが近寄ってきて、両側から僕の腕を掴んだ。
 櫂谷の肩に手を回されて、そのままゆっくりと立ち上がる。千紘は途中まで同じようにしていたものの、ドアを開けるために車の数歩前でそっと僕から身を離した。
 櫂谷に押し込まれるようにして、僕は千紘の車の助手席に腰を下ろしていた。

「明日にでも、連絡するように伝えますね」
 窓を開け、千紘は櫂谷にむかって告げた。
「すみません。亮太のこと、頼みます」
「櫂谷さんも、お家まで気を付けて」
 失礼します、と千紘は彼に頭を下げた。


「戻しそうになったら、これ使って」
 県道十九号に入ってすぐの信号で、彼女が作ったらしいエチケット袋を手渡された。
 車内は静かで、彼女はやはり少し緊張した面持ちで車を運転している。
「――ごめん」
「謝らないでいいよ。いつもと同じように飲んでただけなんでしょ?」
 前を向いたまま、彼女は静かにそう言った。
「でも」
「大事にしてくれてるのは嬉しいけど、病人じゃないからね。このくらいは平気」
 白のカットソーの上に、裏が起毛になっている分厚いチャコールグレーのパーカーを羽織っている。デニム姿で、いつもより少しカジュアルな雰囲気だ。

「明日の仕事は、いつも通り?」
「うん」
「じゃあ八時くらいまで寝てていいよ。駅まで送ってあげるから」
「いい。適当なところで降ろしてくれたら、このまま帰る」
 
 僕の一言に、彼女が表情を曇らせたのが伝わってきた。
 僕の家に繋がるゴルフ場の脇道を無視して、千紘はさっさと自分の家のほうに向かって車を走らせていた。
「ちょっと待って、そっち――」
「待ちません」
 遮るように告げて、彼女は強めにアクセルを踏んだ。あっという間に小貝川を渡る橋まで辿り着いてしまう。
「ちいちゃん――」
「コンビニだけ寄るけど。でもあとはまっすぐうちに帰ります」
 珍しいと思えるほど、彼女ははっきりと言い切っていた。
「そんな顔色の人、放って帰れるわけないでしょ」
 声が静かに怒っている。
 半年近く一緒にいる彼女の、それは初めて見せる顔だった。

 
 マグノリアハイツに到着したのは、二十二時を過ぎた頃だった。
 千紘に支えられながらいつもの階段を何とか上って、ふらふらしながら廊下を進む。
 玄関に入ってすぐに、彼女に鞄を下ろされて上着を脱がされていた。
「手洗いとうがい、できる?」
「うん」
 数十分ほど前よりも身体は楽になっていた。千紘に付き添われたまま洗面所まで進み、手洗いとうがいをし、彼女に促されて歯も磨いた。左右に動いていた僕の手が止まると、千紘はもう、と言いながら背伸びをして、ちゃんと磨くの、と僕の腕に手を添えた。
 追い剥ぎみたいに着ていたものを脱がされ、彼女の部屋着を着せられてしまう。大きなサイズのパーカーは、この頃は彼女よりも僕が着ていることのほうが多い。
 ミネラルウォーターのペットボトルを片手に持った彼女に手を引かれて、ベッドに身体を横たえた。今日は本当に良くない酔い方をしてしまったらしい。何とも言えない気持ち悪さと頭痛が続いていた。
「寝れる?」
「たぶん」
 千紘はベッドに座ったまま、リモコンを手にエアコンをつけている。てきぱきと動いている姿が、いつもの彼女の様子と違って新鮮だと間抜けなことを考えた。
 身体の上に布団をかけられ、部屋の電気が消え間接照明だけになる。

「じゃあ、このまま寝ちゃいなさい」
「いやだ」
 手を伸ばして彼女の腕を掴むと、千紘はあきれたように声を出して笑った。
「今日はずいぶん頑固じゃない?」
「隠してた本性のひとつだ」
「そうだね。何となく、そんな気はしてたんだけど」
 千紘はおかしそうに頷いた。完全に酔っぱらいをあしらう姿勢だ。
 それでも、手つきはいつもと変わらなかった。僕の前髪をそっとあげながら、額から頭にかけてを彼女はそっと撫でてくれる。

「何か、いやなことあった?」
 そっと尋ねられた言葉に、まあ、と答えた。
「そっか」
「うん」
「話してみる?」
「まだいい」
 僕の断言するような口調がおかしいらしい。
 彼女はくすくす笑いながら、そうなんだ、と頷いている。
 話したくないならいいよ、まだ気持ち悪いだろうし、とも。

「千紘さん」
「うん?」
「急な話で悪いんだけど、俺とノルウェー行かない?」
 手だけでは足りなくなって、僕は彼女を布団に引っ張り込んでいた。
「ノルウェー?」
「鮭獲って暮らそう。俺漁師になる」
 抱きしめながら告げる。千紘は僕の腕の中で懸命に笑いをこらえている。
「似合わないよ。それに今はほとんど養殖じゃない?」
「じゃあ農家だ。アイダホででっかいジャガイモ作って暮らそう」
「そんな気軽に。従事してる人に失礼だよ」
「別に聞かせてるわけじゃないだろ。俺一度やるって決めたら頑張るもん」
 トラクターの国際免許ってあるのかな、何から準備したらいいんだ、と続けると、千紘は我慢できないとばかりに声を出して笑った。亮太、悪酔いするとこうなるんだね。それにどうしてそんなに第一次産業にこだわるの。
 笑い声につられて、やっと少し気持ちが晴れた気がした。

 彼女を抱きしめながら、再び口にしていた。
「誰も知り合いのいないところで、千紘と暮らすんだ、俺」
「うん」
「誰にも気兼ねしないで。千紘と、楽しく生きるためだけに働いて。帰ったら一緒に飯食って、めちゃくちゃいちゃついて、くっついて寝る」
「うん」
「他のこと、何にも考えないで。しわくちゃになるまで、死ぬまでずっと」
 話しているうちに、それがとても遠い夢みたいに思えた。僕達は別に道ならぬ恋をしているわけじゃないのに、決して実現することがない、夢物語みたいに。
 勝手に、鼻の奥がつんとなった。

「亮太?」
 驚いたように、千紘が僕を見上げた。
 いやな酔っぱらいだ、大失態だと頭の中で思いながらも、僕は素早く彼女の胸に顔を押し付けていた。


 翌朝、目が覚めた時にはベッドにひとりだった。
 カーテンの隙間から入る光で、室内があかるくなっている。
 自分の部屋ではないことに気づいてサイドテーブルに目をやると、時計は七時半をさしていた。
 扉のむこうのキッチンから、コーヒーの匂いが漂ってきていた。
 フライパンで何かを焼いている音も。

 ああ俺、死ぬほど格好悪いこと、した。

 昨夜の残っているぶんの記憶が蘇って、頭を抱えた。
 腕を上げると同時に、二日酔いに近い痛みがずき、と頭の中を走る。
 サイドテーブルに置いていた、飲みかけのミネラルウォーターのふたを開けて半分ほど喉に流し込んだ。

 そろそろと寝室のドアを開けた先で、彼女は朝食の支度をしていた。
「おはよう」
「――おはよ」
 決まりが悪い気分で、何とかそう返した。
 朝のあかるい光の中で、彼女は静かにキッチンとテーブルを行き来している。
「顔洗ってきて。仕事行く前に、ご飯食べよう」
 テーブルの上には、サラダとトースト、ふたつの種類のカップがすでに置かれている。
 この部屋に泊まる日はいつも十時過ぎくらいまで寝てしまうから、朝の空気に満ちたリビングに立つのは初めてだった。

「食べて薬も飲まないと。その顔じゃ、頭痛いんでしょ」
「――うん」
 彼女の表情に、ふと昨夜の記憶が蘇ってくる。

 誰も知り合いのいないところで、死ぬまで一緒に暮らしたい――。

 昨夜の自分の言葉を思い出して、恥ずかしさに目が合わせられなくなった。
 あまりにストレートすぎることを、あまりに堂々と口にしてしまった。
 その上昨夜のいかれた僕は、その想像に気持ちが昂ぶりぼろぼろと泣いてまでいるのだ。
 
 僕の気持ちが伝わったのだろう。
 千紘は僕を見上げながら、耳貸して、と言った。
 かがんでくれという意味だろうと言われた通りにすると、彼女の腕が僕の首に巻き付いてくる。
「昨夜のことは忘れて欲しい、って思ってる?」
「――できれば」
「でも、完全に忘れて欲しくはない?」
「その通りです」
 いたずらっぽく言われるのも初めてだった。
 彼女も充分恥ずかしそうだったけれど、互いにどこかで笑い出したくなるような気持ちを持っているように思えた。

「わたしはノルウェーよりアイダホがいいかな。あったかそうだし」
「そう?」
「食品工場で働いたり、週末は一緒に教会や映画やウォルマートに行くんでしょ?」
 どこかで見聞きしたステロタイプを口にしてみただけだろうか。それはひどくのどかな生活に思えた。
 だだっ広いアメリカの田舎町で、大きなつばの帽子をかぶって、日焼けした顔で笑う千紘。

 似合わないな、彼女には。
 そう思いながらも、素朴なその暮らしを想像するとちょっと笑えた。

 もう八時になるよ、と彼女が時計を見て告げる。
「本当だ」
「急いで顔洗って来て」
 言いながら、彼女はキッチンに戻って行った。

「亮太」
「うん?」
「忘れるけど、忘れないね」
 シンクの前で水道に手を伸ばしながら、彼女は楽しそうに言った。

12|ほつれ

12|ほつれ

 裏が分厚く起毛加工されているスウェットパーカーをかぶって、ネックウォーマーを頭の上から首の位置に向かって下ろす。ボアの裏地が鼻先をくすぐって、間抜けなくしゃみを部屋の中に響かせてしまう。
 ブルゾンのポケットの中に、喜和子先生からもらって使ったまま、冷えて固まった使い捨てカイロがあることに気が付いた。引っ張り出してくず入れに放る。
 正月ムードも遠ざかって、日常に戻ったと思える一月の半ばだ。
 八時半の自宅で身支度をしながら、僕は何とも言えない気分でカレンダーに目をやっていた。

 昨年の大晦日には、千紘と一緒に横浜まで出かけた。どうせ互いに帰省する予定もないし、少しだけ贅沢をしようという話になったのだ。以前嶋岡達と食事をした店で、向かい合って計画を立てた。
 海と山と街のどれがいいか、話しているうちにどれも捨てがたくなって、仕方なくペーパーナプキンで千紘がくじを作った。じゃんけんで勝ったほうがそれを一枚選んでひらくと、そこには彼女の左上がりの文字で『街』と書かれていた。
 混雑を避けるために、朝早くに家を出た。アクアラインを通って、午前中のうちに横浜市内に辿りついていた。
 今だって海から離れた場所に住んでいるわけではないけれど、東京湾の真ん中を走りながら僕達はとても開放的な気分になった。千紘と違って山育ちの僕には、大人になってもどこかで海がレアなものだという意識がある。運転しながらそう述べると、新鮮な感覚らしく目をぱちぱちとさせて驚いていた。小学校の登下校から、彼女は海の見える道を歩いていたらしい。
 みなとみらいの周辺でベタなデートをしたい、と言った千紘の要望に応えることにした。クリスマスを終えた街はどこか落ち着かないような雰囲気だったけれど、赤レンガ倉庫の前を楽しそうに歩いている姿を見ているだけで心が和らいだ。
 スマートフォンでさりげなく横顔や歩く姿を撮影する僕に、彼女はあきれながらも笑っていた。

 防寒には気を配っていたけれど、海風で冷やしてしまった気がして少し休もうと屋内に入った。
 雑貨店の店先に並んでいたマフラーやイヤーマフを見て、ふと思い立って彼女の頭に白のニット帽をかぶせた。クリーム色に近い、きらきらとしたラメが少し入った、編み目のゆるい帽子だった。
 普段は中性的な雰囲気の服装を好むくせに、千紘にその白いニット帽はほとんど殺人的と言っていいほどに似合った。
 突然いたいけな雰囲気になった彼女の姿がおかしくなって、口元を抑えて笑いをこらえた。怪訝そうな目で見上げられてしまう。

 ――なに?
 ――途端にイノセントな雰囲気になるの、やめてよ。

 笑いをかみ殺しながら告げると、彼女は「亮太がやったんでしょ。取ってよ」と抗議してきた。髪が乱れるから一言断って、とも。

 ――いや、もうこのまましてて。可愛すぎ。お兄さんが買ってあげよう。
 ――いいよ、わたしが白のニットキャップなんて恥ずかしい。

 そう言って帽子を取ろうとした千紘に、だってすっごい似合ってるよ、と言い返した。後ろから彼女の両肩に手を置き、鏡の前まで導く。
 僕に笑われながらそこに辿りついた千紘は、鏡に映った自分の姿にはっとした顔をした。
 そして、鏡の中の自分から目をそらして恥ずかしそうに俯いた。

 カウントダウンまでは身体が持たないだろうと、予約していたレストランで夕食を済ませて早めにホテルの部屋に戻った。
 年越しの瞬間に打ちあがった花火を、千紘は眠気を我慢しながらも嬉しそうに眺めていた。こんな年越しをするなんて、春には考えてもいなかった、と。
 元気になるまでは静かに暮らそうと思っていた、と彼女は打ち明けた。静かに巣穴にこもるみたいに、気力や体力が湧き水みたいに自分を満たすのをただ待つつもりでいたらしい。
 ベッドに並んで横たわり、夜景を眺めながらぽつぽつと話をした。今までのこと、最近のこと、そして迎えたばかりの新しい年のこと。
 何だかもう心がいっぱい、と笑う彼女と、一時を過ぎてから大きなベッドでくっついて眠った。
 子供や犬猫のように、小さなひとつのかたまりみたいになって。

 ふたりでいると本当にふたりきりになってしまうね、と彼女は言う。わたし達別に天涯孤独なわけでもないのに、家族も友達もいるのにどうしてかな、と。
 同じことを思っていたんだな、と思わされた。
 そのつもりがなくても、彼女といると封をしたようにぴたりと空気が閉じてしまう。千紘を閉じ込めたいわけでも他者を拒絶したいわけでもないのに、近づけば密着し、そして完結してしまう。始まりと終わりの両方にいるような、何とも言えない空間になる。
 夢から覚めたような気分で、ひとりの部屋や仕事に戻る。
 そうすると今度はばらばらのピースの中に立ち尽くしているような気がして、ひとつになれた相手がいたことを強烈に思い出してしまう。彼女が恋しくなる。還りたくなる。
 そういう気持ちになっている時は、逆にこちら側のほうが夢みたいだと思う。早くこのざらざらとした手触りの夢から覚めて、千紘の側で満たされたい、と。


 階段のほうから急いたような足音が近づいてきたとき、僕は夕暮れのレッスンルームにいつものモップをかけようとしていた。専用のクリーナーを水で薄めるために、バケツに手を伸ばしたところだった。
 麻子が小走りで僕のほうに近づいて来るのは、別に珍しいことじゃなかった。身軽な、時に過剰にも思えるボディタッチ(という名の軽度の暴力)も、話している途中もふいに身体が動いてしまうようなところも彼女にはある。その上彼女は経営上バイトにはあまり話さないほうがいいようなことまでぼろっと僕に打ち明けてしまったりするので「それは俺には言っちゃだめだ」と僕がたしなめる側になることも、稀にだがあるのだ。
 何かあったのだろうかと顔を上げた瞬間に、これから口にするだろうことが軽い噂話の類ではないと気が付いた。麻子の顔に、不安げな表情が浮かんでいたからだ。

「ホリー、ホリー」
 僕の前までいつもの姿勢で走ってきた彼女は、はいていたスニーカーの底をきゅっと鳴らして立ち止まった。
 なに、と尋ねる前に、彼女は乱れた呼吸のままで僕に尋ねた。
「あんたの恋人って、うちの関係者じゃないよね?」

「違う、けど」
 まったく予想していなかった質問につい動揺して、そう答える。
「だよね、さすがに違うよね」
「何かあった――ってことだよな、その調子じゃ」
 掃除は一旦中断しようと、濡れていた手を首からかけていたタオルで拭う。

 麻子は眉を寄せたまま僕に告げた。
「雄大くんのお父さんが、あんたと奥さんのこと疑ってる」

 頭の中が、真っ白になった。

「――どういうこと?」
「今、雄大くんのお迎えだって、お父さんが下に来てて。妻が個人的にお世話になってる、堀井って講師がいるはずだから会わせてくれって」
「俺、講師じゃ」
 ない、という響きと、いやそっちかよ、と言う麻子の声が重なった。
 
 少し前の、雄大くんとの会話を思い出していた。
 ――うちのカーチャンが、おまえのこと、イケメンて言ってたぞ。
 ――これからはリョータのファンになるって。
 ああ、という音が自分の口から漏れていた。そうだ、韓国俳優だかの追っかけをやっていて、旦那さんに見つかってひどく揉めたと言っていた。

「何もないのね?」
 強い口調で確かめられて、ない、と答えた。全然ない、ありえない、と。
 麻子は頷いて、
「なら、うちもきちんとそう主張できる。ついてきて」
 難しい顔のまま、踵を返した。

 突然のことに戸惑いを感じながらエントランスへと急いだ。僕がその場に現れたことで、空気が一度激しく揺れた気がした。
 白のタイルが敷き詰められた土間の部分に、何名かの奥様方が固まっている。雑談をしているふうを装っているものの、こちらの動向を伺っているのが気配から伝わってくる。
 玄関を入ってすぐの場所にある、あまり使っていない守衛室のドアが開いている。蛍光灯のあかりが漏れてきていた。中にいるだろう雄大くんのお父さんがドアを閉めないよう言ったのかもしれない。
 ドアの裏に、雄大くんの姿が見えた。
 僕に気づいて、難しい顔をして近づいてくる。

「おれ、何も言ってないよ」

 傷ついたような、抵抗や怒りも入った一言だった。

「大丈夫。誤解だから、心配要らないよ」
 いつもより声を大きくして告げる。雄大くんの一言が、何かを肯定しているように響いたからだ。
 彼は小さく頷いたけれど、納得できてはいないようだった。不安げな表情に、麻子が脇から僕にだけ聞こえる程度の小声で呟く。辞めさせるって言われてたから。
 部屋の中から喜和子先生が出てきて、僕に向かって入って、と告げた。


「失礼します」
 守衛室という札がついているものの、稀に面談に使うくらいで普段は閉められている部屋だ。小ぶりのスチール棚がひとつと、病院の待合風のベンチ。テーブルを挟んだところにいくつかの折り畳み椅子が重ねてあるだけの、三畳あるかないかの小部屋。
 あかりがつけられ客人の通されたその部屋のベンチ側に、ひとりの男性が腰かけていた。
 ややがっしりした体型で、眼鏡をかけている。度数がきついのか、目がひどく小さく見える。誰が淹れたのか、彼の前にはまだ湯気のあがる緑茶が置かれていた。下手をしたら、これから僕はあれを被る羽目になるんじゃないだろうか。
「お待たせしました。堀井です」
 彼の前で頭を下げる。彼は僕のほうを見て、君か、と呟いたようだった。
「雄大の父の、鎌田賢一です」
 まったく動かない表情で彼はつづけた。
「それとも、鎌田由利子の夫と言ったほうがいいですか」
 背筋に湿った冷たいものがぴたと張り付くような声だった。

 喜和子先生が僕に向かって、座ってと椅子を指した。鎌田さんは何も言わない。再び失礼しますと告げて、僕はそこに腰を下ろす。
 入口に立っていた麻子がドアを閉めようとすると、
「いや、開けておいてもらえますか」
 強く抗うような響きで、鎌田さんが訴えた。内輪で話を済ませるつもりはないのだろう。
 麻子に代わって、喜和子先生がわかりましたと答える。
 いつもとは違う、朗らかなところをすっかり閉じている声だ。

 数秒間続いた沈黙を破ったのは喜和子先生だった。
「堀井くん。鎌田さんのおっしゃっていたことは、麻子から聞いた?」
「はい、少しですけど」
 慎重に答える。喜和子先生も同じように頷いたけれど、そりゃそうよね、という感情も微妙に含まれている目に見えた。麻子が僕を連れてここに戻るまで、三分もないはずだ。
「――僕が、雄大くんのお母さんと、その、必要以上に親しい仲だと」
 親しい仲、という言葉に、鎌田さんは一度ぴくりと肩を動かした。

 喜和子先生は、ええ、とうなずいてから僕に尋ねた。
「それは、本当の話なの?」
「いえ、全く身に覚えはありません」
 喜和子先生と鎌田さんに向かって、僕は強く訴えた。

「雄大くんの送迎で、何度か挨拶はさせてもらっています。でもそれだけです。個人的に何か話したことも、連絡先を交換したこともありません」
 携帯を確認してもらっても構いません、と続けると、鎌田さんの目がきっときつくなった。
「履歴を消しながら連絡だってできるでしょう」
「そう言われてしまえば、そうかもしれませんが――本当に、こちらも心当たりがないんです。正直、僕も寝耳に水で」

 答えながら、今まで何度か雄大くんのお母さんとした会話を思い返そうとした。
 いつものあいさつ、雄大くんの様子、発表会の通知――。
 やはり、彼女といわゆる男女の仲に繋がるような会話をした記憶はなかった。

 喜和子先生は、黙って僕のほうを見ている。僕があまりに過剰な反応をしたら代表として制するつもりだったのだろう。
「それに僕、付き合っている女性もいますし」
 口にしながら、千紘の姿を思い浮かべていた。
 こんなごたごたした世界から身を引いてひっそり暮らしている、現在の僕の清涼剤みたいな人。

 僕の主張があまりに意外だったのだろう。
「――妻の話と、それではだいぶ違うんですが」 
 鎌田さんは、先ほどからあきらかに勢いを落としてそう述べた。困惑しているようだ。それでも、充分に警戒した声だったけれど。
 だからその妻の話とやらを教えてくれよ、と言いたい気持ちを抑えていると、喜和子先生がさりげなく鎌田さんに訊いた。ちなみに今日奥様は、と。
「この話が発覚してから、実家に帰ってます。今日も連れて来たかったんですが、絶対に嫌だと」
 やましいことがあるからだと思ったのだろう。
 それなら自分ひとりで真相を確かめると、彼はここに出てきたようだった。

「ええと、これは挑発とかではないんですけど」
 前置きをしてから、僕は相手に悟られないよう両足を地面につけた。彼が激しく反応したときは、自分の身も喜和子先生も守らなくてはいけない。
「鎌田くんのお母さんと僕をそこまで疑う理由が、何かあるんですか? 証拠とか、こう、目に見える――」
 あるわけがない。だってそんなこと全くしていないから。
 内心ではそう思いながらも、僕は極めて腰を低くして鎌田さんにそう尋ねた。

 彼はふう、とひとつ息を吐いてから、何も言わずに脇に置いていたバッグに手をかけた。あるのかよ、という言葉が、鎌田さん以外の三人の頭に浮かんだ気がした。喜和子先生は動揺に肩を震わせ僕を見ている。疑われていないと思っていたのに。
 鎌田さんは大きな目玉クリップで止めた、分厚いA4用紙の束を僕達に向かって差し出していた。
「拝見、しても」
「はい」
 彼が頷くのを待って、僕はその紙の束に手を伸ばした。

 それは、鍵をかけたSNSのアカウントで彼の妻がしたためていたらしい、なかなかきわどい内容の文章だった。
 日記や記録の類にも、願望にも、創作物にも見える。

 夫のモラハラに耐えている頃に息子のダンススクールで出会ったR先生と、気づけば恋に落ちていた。送迎のタイミングで少しずつ話すようになって、ある日出先で再会して連絡先を交換した。こんな年上の人妻からの連絡なんて迷惑かと思っていたのに相手は思いのほか積極的で、毎日のようにメッセージが届く。節々に熱っぽい言葉が入るようになり、ダンススクールのお休みの日に、彼とデートした。海の見えるところまでドライブをして、そのまま近くのホテルで結ばれた(・・・・)――。

 背筋が凍るほど、それはリアルな投稿だった。
 私生活と自らの願望らしきものを、彼女はそこで見事に混ぜ合わせていた。
 毎日五つくらいずつ増えていくそのツイートの中で、僕らしき人物は毎回ひどく情熱的に彼女を求めていた。そして旦那さんとの暮らしから必ず助け出す、一生離すつもりはない、などと耳元でささやいていた。

 文字しか印刷してないんで、と言いながら、彼は自らのスマートフォンを手にして操作し、僕に向かって滑らせてきた。
「これ――」
 文章以上に恐ろしい世界がそこに広がっていた。
 彼女の妄想が垂れ流されていたそのアカウントのヘッダー画像に収められていたのは、盗撮されただろう僕だったのだ。

 仕事を終えたあとらしい、スクールの駐車場に停めていた原付の前に僕は立っていた。まだヘルメットをする前で、スマートフォンを耳に宛がい笑っている。着ているジャケットや髪の長さから、去年の十二月の上旬くらいの画像だろう。
 前髪やスマホで顔の半分は隠れ、全体にもわずかにぼかしが入っていたものの、見る人が見れば僕だということは一目瞭然の画像だった。

「これは――ちょっと、言葉に」
 なるわけがない、と思った。
 鳥肌を通り越して、腕から首にかけて鈍いしびれすら感じた。

 画像は加工されていて、ピンクやオレンジに近いふわふわとした色合いが写真全体にかかっていた。手書き風の英字フォントで『大切な時間、彼からのメッセージ』という意味の英語が記されている。

 僕は周囲が驚くほど青ざめていたのだろう。
 鎌田さんが、気まずさを含んだ重苦しい響きで僕に訊いた。

「これは、妻の妄想だってことですか」
「はい。どういうつもりで書かれたのかわかりませんけど」
 胃のあたりから何かが上がってきたような気がして、思わず口元に手をやる。気持ち悪、と小声で言ってしまい、喜和子先生が慌てて麻子に向かって棚の上のティッシュを取るよう求めた。
 麻子は叔母の指示に従い箱ティッシュをテーブルに置いて、ちょっと大丈夫? と僕の背中をさすった。そしてあたかも独り言というように、ていうかこれ、ホリーが訴えるほうのやつじゃないのと続ける。鎌田さんがはっとしたように目を大きくした。
 嘔吐するところまではさすがにいかなかったものの、生々しい言葉と画像に僕はすっかり調子を崩していた。

 喜和子先生が、小さく咳払いをしてから居住まいを正した。
「この様子ですから、堀井の言うことに間違いはないと思います。雇用するときにも保護者や関係者とのお付き合いは原則禁止と言っていますし、それが既婚者でしたらなおさらです。大きくないスクールですから、醜聞に繋がることは経営にも関わりますし」
 背筋を伸ばして、ほとんど一息に彼女は述べた。鎌田さんは黙って俯いている。
「うちの堀井は、そういうことがわからない人物ではないと思っています」
 喜和子先生は厳しい声で続けた。
 ふうと息を吐いてから、麻子と僕に向かって尋ねる。

「ねえ、わたしにはこういうネットの世界のことってよくわからないんだけど――これ、どれくらいの人に広がってそうなの?」
 言われて、僕は手元に置いたままになっていた鎌田さんのスマートフォンに手を伸ばした。
 フォロー数が二十、フォロワー数が三十五、と記されていた。その全員が彼女の投稿を日常的に確認しているわけではないにせよ、何らかのかたちで内容は知られていると思っていいはずだ。
 麻子も同じことを考えていたらしい。フォロワー何人、と訊かれたのでそのまま答えた。
「とりあえず、三十五人の目には入るかたちになってる。でもこのあたりの人とは限らないし、名前もイニシャルだから。特定は、まだされてないんじゃないかな」
 あとでパソコンからも確認してみるけど、と麻子は答えた。
 喜和子先生はそう、と頷いた。

 そこで、ひとり後ろで立っていた麻子が喜和子先生の後ろにすっと近づいた。僕のほうをちらと見て、唇の端をわずかに持ち上げる。
 彼女がたまにする、無邪気かつ残酷なスイッチが入ったのがわかった。
「どちらかというと、ネット経由って言うよりは――」
 麻子は言って、ゆっくりと目の前に座る鎌田さんのほうを見た。

 わざと大事にしようという意図をもってエントランスで騒ぎ立て、今も話し合いをホールまで聞こえるようにとドアを閉めさせなかった人だ。きっと今も、他の奥様方はちらちらとこちらを伺っているだろう。自分の大切な子供を、不倫の横行するようなスクールに通わせることはできないから。
 麻子の「どうしてくれんのよ」という目でじっと見つめられた鎌田さんは、眼鏡の中で無意識だろう瞬きを繰り返していた。


「よくアカウント消さなかったね、雄大くんのママ」
 鎌田さんの出て行ったエントランスで、麻子は腕を組みながらふうと息を吐いた。
「あのスマホ、本人のだったのかな」
「ありうるね」
 声にも力が入らない。すっかり気力を使い果たしてしまった気分だった。
 彼ら夫妻がこれからどんなかたちになるにしても、真実が不確かな状態のままでここに来たのは間違いだったな、と他人事みたいに思う。
 鎌田さんの持ってきた『不倫の証拠』は、コピーを取らせてもらった。アカウントを消さないことを約束し、そのURLも共有させてもらう。書いてある中まで見ることはできなかったが、鍵をかけた外からも電話しながら大口を開けて笑っている僕の姿は確認できた。
 まずは奥様とよく話し合ってください、とお願いをした。書かれている内容が事実無根であること、なぜそういったことをしようと思ったのか、も。そして周知されている内容がスクールの経営や僕の私生活に影響する場合はそれなりの手続きを取らせてもらうことになるということも、旦那さんから説明してもらうことにした。

 あなた達はここで待っていてと僕達を上履きのままエントランスホールに待機させていた喜和子先生は、残っていた父兄と生徒達に困ったような笑顔で頭を下げ続けた。
 自分に詰め寄ってきたひとりの保護者に「何かの間違いだったみたいです、騒ぎ立ててごめんなさいね」と告げ「いずれきちんと説明させていただきますので」と続けた。僕への視線は半数以上が同情的だったけれど、保護者と不倫したという疑惑が晴れることはしばらくないだろう。

 何とも言えない表情の鎌田さんを駐車場まで送り出し、戻ってきた喜和子先生はスタッフだけになった玄関ホールで、はああ、とため息をついた。
 よたよたと歩きながら、自らの左手で右の肩を揉んでいる。
「長年やってればトラブルなんて避けられないけれど、こういうのはさすがに初めて」
 麻子はまだ気が立っているような様子で、何なのあのオッサン、証拠っていっても一方的じゃないの、とぼやいている。
 喜和子先生はどっと疲れたわ、と続け、それから顔を上げた。
「麻子、少し落ち着いて」
「でも」
「かっとしすぎよ。頭を冷やしなさい。上、閉めてきて。堀井くんは事務室に」
 僕達の先に立ち、喜和子先生は歩き出していた。

「喜和子先生――その、すみませんでした」
 ふたりだけになった空間で、彼女に向って頭を下げる。
 喜和子先生はそれには答えずに、とりあえず入りましょと事務室のドアを開けた。先ほどまでそこにいたらしく、電気もエアコンもつけっぱなしになっていた。
「あなたが謝ることじゃないでしょ」
「でも」
「それとも、あれはやっぱり本当のことなの?」
 重い表情で尋ねられて、慌てて「ないです」と繰り返す。気まずかった。内容が本当なら、彼女は僕が身の毛がよだつような言葉を投げかけつつ人妻の身体を味わい尽くしていた、その全容を知ってしまったことになる。
「ただその――雄大くんから、以前言われたんです。彼のお母さんから気に入られてるって」
「そんなの、普段からあることじゃない。池田くんだって山中くんだって、生徒にもママさん達にもきゃあきゃあ言われたりしてるでしょ。連絡先渡されたりとかもしてるし」
 若手の講師の先生方の名前を挙げながら、喜和子先生はソファにゆっくり腰を下ろした。ぐったりとした感じで背によりかかっている。
「あなたの態度に問題はなかったと思ってるわよ。麻子、やたら堀井くんに構うでしょう? やりづらいこともあるんだろうけど、うまくやってくれてるし」
「それも、反省点なんですが――」
 この頃は、関係が砕けすぎているような気はしていたのだ。
 互いに仕事に対する情熱はあるから、支障をきたしているというわけではないけれど。

 喜和子先生はソファに埋もれたまま続けた。
「あの子が後を継いでくれるって言いだしたとき、嬉しくてね。わたし自身も甘やかしてる自覚があるのよ。あの子よそでは二年くらいしか働いてないから、まだまだ世間知らずで」
 苦笑いしながら、彼女は言った。
「少し、態度を見直そうと思ってます」
「ごめんなさいね。わたしからも言っておくから、堀井くんも、色々教えてやってくれる?」
 困った娘のことを話すような表情だ。
「いえ、僕のほうも、気が緩んでました。まさかこんなこと」
「想像できないわよ、普通」
 先生は朗らかに切り返した。
 鎌田さんからは、事実関係がはっきりしたところで再び連絡が来ることになっている。奥様と揃って謝罪に来ることにもなるかもしれない。

「あとは――妙な噂が立たないことを願うばかりね」
 祈るように、喜和子先生は顔の前で自らの両手を擦り合わせた。

13|朝露

13|朝露

 彼女の部屋のリビングには、一枚の絵が飾られている。
 暗い部屋で抱き合う、男女の絵だ。ふたりとも頭部がターバンのような白い布に覆われていて、顔は見えない。
 部屋には日差しがわずかに斜めに差し込んでいて、着衣のまま褥の上で重なっているシルエットがかろうじてつかめる程度だ。行為の中にあるようにも見えるが、肌が全く露出していないせいで官能的な雰囲気はない。ほの暗さと、何とも言えない悲しみを感じさせる。
 男女どちらが上になっているのかもわからない、ただ細身の身体が重なり合っている静かなその一枚に千紘はインターネットで出会ったと言っていた。
 あまりに好きな絵だったからと、どうにかして作者を知りたいと思ったらしい。ファイルの名前や画像検索から何とか辿りついた作者のアカウントには、アフマドという名前の青年の写真が載っていた。趣味で絵を描いているという、レバノン系アメリカ人だった。
 思い切ってSNSでフォロー申請をしてから、翻訳アプリを駆使してメッセージを送ったと言っていた。
 あなたの絵をとても好きになったからプリントして部屋に飾りたいと思うんだけど、いいかな、と。彼は日本から届いた拙い英語のメッセージに歓喜して、もしそれが実現できたら部屋の写真を送ってくれと千紘に返信してくれたらしい。
 千紘はその画像のデータを(最も高画質なものを彼がダイレクトメッセージで送ってくれたと言っていた)USBに納めて、近所のカメラチェーンの店に持って行った。そしてA4サイズのキャンバスプリントを依頼したという。
 手元に届いてすぐに、彼女はその絵を部屋のソファ横にある、小さなカフェテーブルの上に飾った。スマートフォンでその周囲一帯を撮影して自らのアカウントに投稿し、彼に知らせた。
 とても素敵だ、という意味のコメントの後に、彼のアカウントに自らの住む家の窓辺の画像がアップロードされた。A4サイズの用紙に、千紘の部屋の画像がプリントされたものが貼り付けてあった。日本の友達の家に僕の絵が飾られたんだ、と絵文字つきで書かれていた。自分の絵に感想が来たのも、部屋に飾りたいとまで言われたのも初めてだったようだ。
 彼は現在シカゴのはずれに兄弟と住んでいるらしい。それ以来、時折連絡をくれるという。海外でもニュースになるような事件や災害が国内で起きた後は、無事を確認するメッセージも届くと言っていた。

 ――なかなか、勇気あるね。
 どこかで購入したと思っていたそれを眺めながら告げると、彼女はいつものように答えた。そのままプリントして飾るの、気が引けて、と。
 そして椅子をくるりと回転させ、ひざを抱えた恰好で続けた。
 ――でも、きれいでしょ。ちょっと悲しくて、温かみもあって。
 わかる気がする、と僕は同意した。真夜中のマグノリアハイツで彼女のキータッチやマウスのクリック音を耳にしながら、ソファの肘掛けに頭を預けてぼうっとそれを眺めているのが僕も好きだった。
 間接照明のほのかな灯りと、小さな音で流れるAMラジオ、仕事をする千紘のたてる、控えめなたくさんの操作音。
 あまり口数が多くない彼女は、音量を絞った状態で深夜ラジオをかけっぱなしにしていた。時折その時間ならではの下品な投稿にこらえきれずに下を向いて、くく、と笑いをこらえていることもあったし、小さな声でやだ、とあきれていることもあった。

 そんなリビングからふたりで寝室に移動したのは、昨夜の日付が変わる直前だっただろうか。
 隣人らしき人物が慌ただしく玄関のドアを閉め、共用廊下を小走りで移動しているような音で目覚めた。寝坊でもしたのだろうか、焦った様子で鍵を閉める音も周囲にまでよく響いていた。
 僕の胸のあたりにぴたりと身体をつけていた千紘が、同じようにもぞもぞと動き出した。
 何時になるの、という声が、胸のあたりで聞こえる。眠っているあいだに身体を丸めてしまうらしく、朝の彼女はよく布団に埋もれている。
「ええと――七時か、まだ」
 言いながら、彼女の後頭部に右手を廻した。
 しっとりとした髪の感触が、手のひらを通じて伝わってくる。

 この頃は、少し忙しかったらしい。
 一週間ぶりに会った昨日の恋人は、小さく元気がないように見えた。
 何かあったのと訊けば、つい仕事に熱中してしまったと言う。僕は続けて、食生活と睡眠時間についていつもよりやや強めに尋ねた。彼女は若干おどおどとしたような様子になって、ちゃんと食べてたし寝てたよ、とごまかすみたいに言った。僕の彼女は、本当に本当に嘘がつけない。
 どうせ軽いものばっかりで済ませてたんだろ、栄養が足りてないんだと言い聞かせて市内のうなぎ屋に連れて行った。放っておくと、この人はひどく繊細に生活してしまうのだ。

 焼杉で作られたうなぎ屋の椅子に向かい合って座り、近況を報告しあう。僕は鎌田さんとのあいだにあった先日の出来事を彼女に向かって説明した。
 千紘はうんうんといつものように静かに頷いていたけれど、鎌田さんの奥様の名前が出てきたあたりで目を大きくして固まってしまった。そんな、そんなことって本当にあるの、と、目をぱちぱちとさせていた。
 
 ――見せてやりたいよ。俺、変態みたいだったもん。

 湯呑をテーブルに置きながら告げると、彼女は小さく噴きだした。変態、という言葉がおかしかったらしい。それわたしもちょっと読みたい、と真面目な表情で言うので、鍵がかかったアカウントだから見れないよと伝えた。
 奥様方にももてるんだね、とそっけないような言い方をして千紘は僕を見た。
 何もないよとまた繰り返したが、ふうんと返ってくるだけだった。

 来訪の数日後、鎌田夫妻は再びエディフィカンテを訪れた。
 そしてあれは奥様の一種の創作物であり、日常の憂さを晴らすために自ら用意したアカウントであることを喜和子先生に説明してきたという。一種のイメトレというのか、書いている内容がリアルであればあるほど現実がそう変わっていく、という話をアイドルの追っかけ仲間から聞いたのも熱が入ったひとつの理由らしい(僕はその一言により恐ろしいものを感じたのだが)。盗撮の件に関しては、おまじないみたいなもので正直そこまで重く考えていなかった、と。
 厳重注意という形で話の方はついたものの、鎌田さんが館内でしたパフォーマンスによって僕と鎌田由利子さんの不倫疑惑はあれからも父兄の中で噂話として生きていた。おどおどとしていたほうが長引くと思うから何もなかったようにして、と喜和子先生から言われていたものの、おそらくこれが原因と思われるようなタイミングで新規入会したばかりの生徒が三人辞めていった。雄大くんも、ほとぼりが冷めるまではしばらく休ませるつもりらしい。それを聞いたときは、さすがに胸が痛んだ。
 麻子は毎日ネットを監視しているという。レビューサイトや地域の掲示板、SNSなんかをくまなくチェックしているらしい。名誉棄損なんて事態になったら黙ってないから、と息巻いている。
 発表会前のエディフィカンテは、よりによってこのタイミングでと思えるようなトラブルで忙しさを極めていた。


「仕事、行きたくねえ」
 目の前の、あかるい色の髪を弄びながらぼやく。頭頂部に顎を乗せると、彼女のシャンプーの甘い香りがふわっと立ち上った。
 ベッドの中に潜っていた素顔の彼女が、顔を上げて僕のほうを見る。面倒ごとに巻き込まれてかわいそうに、という顔だ。
 針のむしろとまでは言わないものの、この頃は送迎や付き添いのために館内を歩いている生徒の母親からの視線が痛い。ああこの人か、というような、ああは言っても本当はそういう仲だったのではないか、と疑うような視線。
 同年代の男性講師ふたりにも、同情的に励まされてしまった。

「気にしないだけって言っても、それはそれで面倒だね」
「結局皆好きなんだよ、こういう話」
 口にしすぎたらげんなりした気持ちもふくらんでしまいそうだ。頭の中でやめやめ、と打ち切る。
 まだ埋もれている彼女の頭を出すように、布団を剥いだ。息苦しくないの、と尋ねると、隙間から空気が入るから、と簡潔に彼女は答えた。やわらかくて、温まっていて、寝起きでどこかとろんとしている。今日は午後まで仕事はしないで休んで、と昨日寝る前に約束させたのだ。過保護だと笑われながら。
 起きようか、と言い合う。
 亮太と寝ると一晩中温かくていい、と千紘は静かに上機嫌みたいだった。


 医療と健康、という棚の前をしばらくうろついて、これだろうと思えた書籍を一冊引っ張り出してみる。近所にある大学に合わせてなのか、理工系の書籍が多い書店だ。近くにあるスポットライトが手元をやわらかく照らす。
 最先端治療とケア、と副題に書かれている。イラストが多く、患者本人や家族向けの一冊だということがわかる。ぱらぱらとひらいてみたものの、内容のほとんどはすでにネットで調べてしまった事柄ばかりだった。
 棚に本を戻して、ひとつ息をついた。背表紙に書かれていた監修者の名前が同じだったことから、そういえば最近小森の話を聞かないな、と思う。

 父の生活は、昨年の今頃と比べて大きく変化したらしい。
 数年前に食道がんを経験したという二番目の兄が、気を揉んであれこれと勤務の形を整えてくれたと言っていた。出勤日数が減り、この頃は自宅の書斎で仕事をしている日も多い。病院には、母が付き添っている。
 地元に戻るたびに、父と顔を合わせてはいる。母には難しい力仕事や実家の雑用を代わりに行うこともある。親戚や友達、友達の父親が同じ状況になっても同じようにするだろう。できることには、手を貸している。
 でもそれだけだ、と行くたびに思う。肉親だというのに、父と他の知り合いとの違いや境というものがあまりない気がする。そのくらい遠い存在になってしまったような気もするし、わずかに残っている情のようなものを駆使して接しているような気分になることもある。
 諦めを幾重にも重ねていってすっかり期待がなくなったところに、一掴みくらい残っていたもの。彼のためにとっておいたというわけでもない、僕自身の人格の底に敷かれた、一種の憐れみのようなものだった。
 
 地元に帰るたびに普段よりも浮き沈みが強くなる僕に、千紘は何も言わなかった。
 わたし側の事情をあれだけ簡単に汲み取れるってことは、亮太にだって色々なことを考えなきゃいけないようなことがあったってことでしょ。そう言って、いつも通りにしている。空気で伝わってしまうのかもしれない、僕の抱えていることも、何となく察しがついているようだった。

 ソファに座る彼女の膝に上半身を預けながら、ある日ぽつぽつと口をひらいていた。
 父との不和、病気、それから治療について。
 閉じているのが当たり前になっていたことを外に出してしまうのは、やはり抵抗があった。口調はぶっきらぼうになり、千紘の相槌によってやっと意味のある話として繋ぎ合わされるようになった。
 膝枕の姿勢で、背中や肩に触れられながら父との関係を打ち明けた。言葉は何度も詰まり、彼女に聞かせたくなかった内容も、自分にできる最大の要約をして伝えた。千紘は僕の話をいつもより慎重な様子で聞いてくれた。
 僕が少しでも気落ちした素振りを見せると、彼女は途端に年上っぽくなってしまう。頑固に閉じた僕の姿勢をごく自然に崩し、そして甘やかしてくる。
 そんなにたやすくほどかないでくれ、と思いながらも、僕の中にある頑なさは彼女によってもっとも自然なかたちに戻されてしまう。

 変な感じなんだ、と告げた。
 何かもう、どうでもいい。扱いが面倒だし腹も立つんだけど、もう好きにやれよとも思うし、関心が持てない。全然知らないやつの、俺とは接点がない人生見てるみたいな気持ちにもなる。
 顔を合わせれば、まだそんなこと言ってんのかって思ったりもする。情けなくなることもある。でもそれも、地元を離れたら案外あっさり消えたりする。
 こんなことなかったんだよ、と言った僕の前髪のあたりを撫でながら、千紘は言った。

 ――ずっと終わらないと思っていたことなのに、終わりそうな気がするの?

 ぽつんと一滴の水が落ちるような、静かな指摘だった。僕の感情を動かそうと思っていない、本当のことを探るような。
 そうかもしれない、と答えた。
 考えたこともなかったけれど、ひとつの終わりを迎えようとしているのかもしれない、と。

 千紘は続けた。

 ――どんなに時間が経っても変わらないと思っていたことが、意外なところで終わったり変わったりすることもあるよね。
 ――あいつを許した、ってわけじゃないんだよ。和解したいとも思わないし。
 
 彼女はうん、と頷いた。
 そういうふうになるのは簡単なことじゃないし、しなきゃいけないわけでもないよ、とも。
 
 ――きっと、何をしても力を奪えないくらいの相手になったんだと思う。
 ――俺が?
 ――そう、お父さんにとって。

 そうかな、と言った。実感はまだなかった。
 終わらない憎しみを抱えて生きていくのだと、そう思っていた。頭の中で繰り返される父の声を突き放す毎日を、これからも続けていくのだと思い込んでいた。
 この気持ちを絞り出しきることなんてこと、到底できないと思っていた。してたまるか
とも、思っていたはずだ。
 気が抜けたような戸惑いと、何とも言えない怒りが頭の中を巡っていた。
  
 
『原悟史、嶋岡に続き結婚します!』
 スマホにそう届いたのを見て、思わず声が漏れていた。うわ、まじか。
 少し離れたところで私服のジャケットを羽織っていた麻子が、何かあったー? と訊いてくる。
「いや、地元の友達が結婚するって」
「えー、めでたいじゃん」
 春を待つ、という表現がぴったりの二月半ばだ。
 麻子に付き合えと言われ、終業後に彼女の馴染みのバルに出かけるところだった。麻子は、よく食べよく飲みよく踊る。ジャズダンスの基礎クラスを受け持っているけれど、ラテンの動きも得意で妙にさまになる。
「最近、余興で踊ってないな」
「いいよな、芸があるやつは」
 並んで建物の外に出る。
 先週と比べればわずかに和らいだ寒さのように感じるけれど、出勤時にはまだネックウォーマーが必要だ。

 原とは中学からの付き合いだ。
 中学から剣道ひと筋で、潔癖な雰囲気のある少年だった。今は館林にある携帯電話ショップの店員をしている。母方の実家が酪農をしていて、夏休みに何度かバイトをさせてもらったこともある。よくつるんでいる小森とは、もっと幼い頃から仲が良かったらしい。
 同じ店で働いている女性と付き合っているのはちらと聞いたことがあったけれど、自分のことはあまり話さない男だ。その後のことは、知らないままだった。
 既読の数はすぐに五を超えた。夜までには全員が目にするだろう。

『原おめでとう 前言ってた、同じ店の人?』
 真っ先に質問をしたのは嶋岡だった。
『そう、三年経ったから』
 原の返答のあとに、嶋岡の次は原だったか、と小幡が続けた。地元に残っているひとりだ。自分から多くの話題を振ってくるような性格ではないけれど、反応は早い。
『式いつ?』
『ちょっと先だけど、来年の夏かな。場所川越なんで、全員来て』
 恥ずかしいけど、と笑っている絵文字がついた。

 通知のために連続して震えるスマートフォンを、ポケットの中に押し込む。同じように自分のものを取り出して何か調べていた麻子に、返信しちゃっていいよ、と間延びしたように言われる。
 あとでまとめて送るからいい、と答えた。

「いいなあ、結婚式」
 麻子が足でリズムを刻みながら言う。どこかぼんやりしたような口ぶりだった。
「結婚願望――」
「バリバリにあるよ」
 自らのスマートフォンに目を落としたまま、麻子は言った。エディフィカンテの裏口、スタッフ用の車が出入りする小さなガレージに僕達は立っていた。
「え、そうなの?」
「なんで皆意外そうに言うの? わたし普通に子供も欲しいんだけど」
 家庭的に見えないのかな、と麻子はひとりごちた。そういうわけじゃないけど、と慌てて答える。自由で身軽な雰囲気があるせいかもしれない。
 そろそろ行こう、と麻子が顔を上げた。仕事中はまとめている髪を下ろして、大ぶりのゴールドのピアスを両耳につけている。服は全身黒だ。

「男児をね、ふたりばかり育てたいんだよね」
 歩き出しながら、彼女は言った。
 男、と繰り返すと、そうと頷く。今時ちょっと珍しいな、と思った。第一子に女の子を希望する人が知り合いには多かったから。
「すごいやんちゃなのをすこぶるいい男に育てるのって、良くない?」
 いい男、という言葉がいいなと思った。麻子らしくて。
「まあ、まだ婚活する気ないけど。その前に経営とかも勉強しなきゃいけないし」
 やることがいっぱいだよ、と呟く。だから気晴らしは必要、とも。
 三十年ほど前、喜和子先生がひとりでフラメンコ教室を始めたのがエディフィカンテの起源らしい。次第に知り合いのダンサーが講師として加わって、今の形になったと言っていた。
 手伝ってよね、と肘で突かれる。促されたような気がして頷いたけれど、具体的なことはあまり頭に浮かばなかった。数年先の自分の未来ですら、実際のところうまく頭に描けない。
 いつもの店の自家製ソーセージをビール片手に頬張りながら、麻子は今日も言うのだろう。ホリーとはさあ、できたら友達として出会いたかったよね、仕事場じゃなくて、と。麻子ちゃん俺のこと好きすぎじゃない? と訊いても否定しないのは酒が入っているときだけだ。
 ――ぶっちゃけ、全然惚れてはない。でもホリーは話の通じ方がえぐいから、近くに居てもらわないと困る。
 僕には将来的な家族計画まであけすけに話す麻子は、実は他の講師陣には自分の話をほとんどしない。きびきびと面倒見のいい麻子姐さんではあるけれど。
 大通りの脇で、停まっていたバンがそろそろと動き出す。何らかの街宣活動をしていたらしい。後部座席で女性がふたり、のぼりのようなものをたたんでいるのが見える。
 色々思いを巡らせていたらしい麻子が、幸せになりたいー、とふざけてこぼした。

 
 帰り道、電車の中で外の景色を眺めながら、つい過去に戻っていた。
 高校時代から付き合っていた彼女に求婚したと嶋岡が連絡してきたのは、僕達が二十三を迎える年のことだった。僕達も知っているその相手からはすでに返事をもらっていて、これから親族顔合わせの日取りを決めるのだと言っていた。彼女の両親は嶋岡の人となりを良く知っていて、初めて挨拶に来た日からよくここまで頑張ったと言ってくれたらしい。
 初めて付き合った人とそのまま結婚まで漕ぎつけてしまった友人に、僕達はそれぞれ呆けたような気持ちで感想を言い合った。あいつらしいと言えばあいつらしいけど、なかなかできることじゃない、と。久しぶりに会った当人にそんなことを話した僕に向かって、嶋岡はどこかのんびりとしたような口調で答えた。俺はおまえ達みたいに鋭い性質じゃないからなあ。
 確かに、ぴりぴりとした気分で十代を過ごした僕や櫂谷とはやや異なる空気の中に嶋岡はいた。斜に構えた視線で周囲を見ていた僕達の皮肉を中和できるような何かを彼は持っていた。思うところはたくさんあったはずだけど、何となく彼は王道に近いようなところに常にいた気がする。大人を説得したかったら嶋岡を連れて行けば失敗がないと思うような、そういうものを彼は持っていた。
 
 ――俺の知ってる中で、一番優しいやつって堀井だと思うんだ。

 独身最後と囃し立てられながら地元の近くにある店で飲んだ時、嶋岡は僕に向かってそう言った。
 飲酒が解禁されてまだ三年、物珍しさで色々飲んでみたい時期を終えそれぞれの定番が何となくできた頃のことだ。彼は梅酒のロックで顔を赤くして、僕の隣で店の壁に寄りかかって座っていた。
 ぽろっとこぼれてしまったようなその一言に、僕は思わず眉を寄せていた。
 
 ――何、急に。
 ――なんだろ。俺かなり酔ってる?

 逆に質問しないでよ、と笑うと、彼は同じように気持ちよさげに短く笑った。
 そしてテーブルの上の焼き鳥が盛られた皿を自分のほうに引き寄せながら、でもやっぱりそう思う、と嶋岡は続けた。
 
 ――恭一はさ、揉めた相手に地獄に落ちろって本気で言えるんだよ。そんで実際にそいつがめちゃくちゃな目に遭っても、全然心動かないでしょ。

 言いながら、彼は焼き鳥の盛り合わせの中からつくねの串を引っ張り出している。
 櫂谷を下の名前で呼ぶのは、友人達の中でも昔から嶋岡だけだ。

 ――でも、堀井はそれができないだろ。

 あえて僕とは目を合わせずに告げられた、ごく控えめな指摘だった。
 酒によってつい出たことにしては思慮のある話し方だ、と思った。嶋岡にしかできないような。

 そうでもないよ、とも言えずに、手元のグラスに視線を落としていた。
 葛藤が多いのはおまえのほうだ、と言われたような気がした。櫂谷のような鋭さも、周囲の顔色を窺わずに自らを貫くような強さも僕にはない。嶋岡のような安定感も、人の中を落ち着いて渡れる術も、実は知らない。
 僕が答えに迷うことで生まれたわずかな沈黙の中に、少し離れたところで飲んでいた小森の声が響いた。原がからかったのだろう、むきになって何かを言い返している。早口で、大人げない物言いだ。想像以上に激しい反応が返ってきたのか、原が懸命になだめている。

 嶋岡は、ちょっといたずらっぽい顔をして僕を見た。

 ――おまえももっと、あれくらいやっていいんだよ。
 ――さすがにあそこまでは、俺できないわ。
 
 小声ではあったけれど、茶化して言い返した。
 嶋岡は小さく噴き出して、僕の背中をあいている右手で一度軽く叩いたのだ。

 
 そんなことを思い出したのは、翌日に彼と顔を合わせることになるとどこかで予感していたからだろうか。
 帰宅して鍵を取り出しているところで、スマートフォンが鳴った。宮津蓉子さんからメッセージが届いたことを知らせる音だった。
 良いニュースではなさそうだ、と思いながら部屋に入る。

 予感が外れることはなかった。
 そこには櫂谷が休暇を取って部屋を出て行ったこと、自分が戻るまでに荷物を片付けて家に帰るように伝えられたこと、彼女が居る限り自分はそこに戻らないと厳しく告げられたことが綴られていた。

名前も知らない【2-3】

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名前も知らない【2-3】

恋愛 悲恋 ヒューマンドラマ

  • 小説
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更新日
登録日
2021-08-05

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