文芸人のスピリット

霧島

 雪をかき分け、当てもなく進んでいくような路も、いずれは春の陽が照らしてくれることだよ。
「……雪野にぞ、春の来るらん、かな」
 直美は教室の窓から、解け残った雪の団塊を見下ろして呟いた。思い浮かべるは、手を差し伸べる何者かの姿。暗い雪野に迷うような心細い境遇から、救い上げてくれる存在だ。
「やっほ。直ちゃん、また難しい顔してるね」
「一花」
 そこに声を掛けたのは、頭一つ小さな親友。隣のクラスの一花だ。直美の心の冬など気にもしない、楽天的な調子で。
「久しぶりに悩んでるみたいだけど、また誰かに一目惚れした?」
「もう、そんな歳じゃないし」
 この春からは、高校二年生だ。今しがたの妄想を意識の隅に押し込んで、直美は一花へ向き直った。前髪をかき分けながら、小さな声で悩みを打ち明ける。
「新歓、まだ誰も見学に来てないし、本当に大丈夫なのかなって」
「新歓発表、直ちゃんはステージに上がってもいないじゃん」
 二人は小学校からの幼馴染で、昨年からは同じ文芸部に入部し、互いに実力を伸ばしてきた。そしてこの春、直美は部長に任命されたのだ。
「一花は頑張ってくれたけど……これから部長としてやっていけるのかも不安だし」
「でも、あたしが部長だったら、直ちゃんをもっと心配させたかもしれないよ?」
「そっちの方が、まだ……」
「そんなのずるいよ。それに、直ちゃんは選ばれて部長になったんだから、あたしも天海先輩もできるって思ってるよ」
 行く手には未だ光は見えない。しかし直美には、手を取り合って歩む親友がいる。これまでも二人で、互いの不足を補いあってやってきた。
「……うん」
 私にもできる。その言葉は、まだ言えない。

 四月も下旬に差し掛かり、周囲の部は勧誘活動を終えるところもある。そんなある日の昼休み、直美は一花に連れられ、二階のホールへ向かっていた。
「この間から、第三号を向こうのホールとかに置いてるでしょ。様子が気になって、たまに見に行くんだけど」
「部誌の第三号、半分くらいなくなったよね」
「うん、それで……」
 文芸部は成果の発表に部の宣伝を兼ねて、部誌『逍遥』を制作している。これは全校生徒に対する無料配布であり、三年生まで等しく手に取り読むことができる。二階のホールはちょうど、三年生の生活区域であった。
「昼休みになると、二階のホールのところで部誌を見てる三年生がいるの。男の人」
「立ち読み? 持って帰っても大丈夫なのに」
「それが……読んでるわけじゃなくて、ただ、積まれてる部誌を見つめてるの。半分、睨んでるような感じ」
「そんな人、いるの?」
 直美は訝しんだ。謎の人物に心当たりは全くない。それ以上話を聞くよりも、実際に見て確かめるほうが簡単だった。ホールに着いてみると、確かに部誌を積んだ机の前に男が立っている。長身で、飾り気のない服装に、整った短髪。その後ろ姿には、際立った特徴は見えなかった。
「いるね。あたしだけで決めるのも悪いから、一応聞くよ。声かけていい?」
「でも、三年生でしょ。何かしてるわけじゃないし……」
「あの人がいたら、部誌をもらいたい人が困っちゃうよ。行こう!」
「ちょっと、聞いてよ」
 直美の静止を無視して、一花は男のもとへ駆け寄った。
「部誌に興味がありますか? 無料なので、どうぞ持ち帰って読んでみてください。私の作品も載ってるんですよ!」
「いらない」
 男は冷淡に、その言葉を跳ね返した。彼はなかなかの美貌であったが、鋭く細められた目は狩りをする野獣のように獰猛であった。ひるんで一歩退いた一花の背中に、直美が手を添える。
「すみませんでした。一花、戻ろう」
「お前たち、文芸部員か」
 二人に対して、男は続けて憎悪の籠った口ぶりで問う。直美は慎重に頷いた。
「よく聞け。近いうちに、俺の妹が見学に行くだろう。絶対に入れるな。一年七組の、波田佳乃だ。覚えておけ」
 それだけ言い残し、男は教室へ戻っていく。緊張の解けた直美は、その場に力なく崩れ落ちる。
「直ちゃん、大丈夫?」
「……怖かった。あの人は、何なの?」
「うん……とりあえず、隅のほう行こうか」
 その恐怖の余韻に、直美はしばらく肩を震わせていた。迷い出でた雪野で、狼に睨まれる。ただ、背中を撫でる一花の手だけが頼りだった。

「波田……聞いたことはある。確か理系クラス。でもそれはちょっと、許せないね」
 放課後、二人は元部長の珠枝に助けを求めた。しかし彼女も、例の男とは面識がないらしい。
「これは文芸部に対する、立派な妨害行為ですよ! 直ちゃんだって、さすがに相手がイケメンだったとしても、あんなに睨まれたら泣いちゃいます」
「直美ちゃん、もう平気?」
「……はい。なんとか」
 勧誘活動も難航する状況で起きた事案に、珠枝は思わず額を押さえる。
「でも、その妹さんが、文芸部に見学に来るって言ったんだよね?」
「はい。一年七組の……」
「あの、すみません」
 部室の戸が半分開かれ、一人の女子が顔を出す。周囲を気にしながら、隠れるように部室へ踏み入った。直美は彼女の顔立ちに、あの男の面影があることに気付く。
「新入生? ようこそ文芸部へ! とりあえず座ってよ」
 珠枝はすぐさま態度を切り替え、彼女を迎え入れる。
「名前は?」
「えっと、私は、波田佳乃と言います。一年七組です」
「ああっ、波田佳乃!」
 名前を聞いて、一花が飛び上がった。元バレーボール部員の大声は廊下にまで響き渡る。佳乃は一気に縮み上がった。
「こら、一花。妹さんは悪くないんだから、そういう態度はダメだって」
「はい……すみません。ごめんね、佳乃ちゃん」
 部員たちのただならぬ様子に、佳乃の表情にも不安が浮かぶ。
「あの……もしかして、もしかしてですけど、兄が何かしましたか」
「えっと……」
 珠枝にたしなめられたばかりの一花は、答えようとしても言葉がすぐに出ない。そこで、直美が優しく事情を説明した。
「それでお兄さんが……佳乃さんを、文芸部に入れるなって」
「そんなことを……うちの兄が、本当に申し訳ございません! なんとお詫びをすれば良いか……」
 佳乃は顔を青くして、必死に頭を下げる。それもまた、珠枝がなだめて落ち着かせるまでには数分を要した。
「なんだか……大変なことになっちゃったけど。とりあえず、佳乃ちゃん。お兄さんと何があったのか、聞かせてくれる? ゆっくりでいいよ」
「はい。実は、兄は文学とか、文芸と呼ばれるものが、とにかく大嫌いなんです。あんなものには何の意味もないとか、文学なんて物好きだけがやっていればいいんだ、とか……私は詩を書くのが好きで、小説も読むのが好きなんですけど、兄には、きつく言われていて……」
 悲痛な告白に、部員たちはそれぞれに共感を示す。
「佳乃ちゃんかわいそう。それなのに、見学に来てくれたの? お兄さんに見つかったら……」
「はい。すぐに帰らされると思います。でも……文芸部には、入ってみたいんです! 部誌も兄に見つからないように、大切に読ませてもらいました。皆さんとても素敵な作品を書かれるんですね。特に荻原梓さんの、古典の世界のような恋物語がすごく好きで」
「それは直ちゃんの作品だね」
「うん……読んでくれて、ありがとう」
 直美には未だ少しの抵抗があった。佳乃を迎え入れることは、あの男との対立が始まることを意味するだろう。それは大きな不安だった。しかし、佳乃の覚悟を、何より自分の作品を気に入っていると言ってくれたことを、無下にすることはできなかった。
「これ、入部届。書いたら顧問に出して」
「わかりました。ありがとうございます!」
 直美から手渡された入部届を、佳乃は丁寧に半分に折りたたみ、クリアファイルにしまった。
「それでは、あまり遅くなると兄に怪しまれるので、今日は失礼します」
「佳乃ちゃん、またね!」
 一花には、不安など何もないのだろう。時には頼りがいのある親友を横目に、直美は小さく手を振った。

 あの目を、夢にも見る。
 彼が何故そこまで文芸を憎むのか、直美にはわからなかった。考えられる理由はいくつかある。例えば、文芸によって他人の悪意を垣間見てしまうこともあるだろう。あるいは、作品の好みの違いから、他人とわかり合えない思いをすることもあるだろう。しかしそのいずれも、文芸を拒むに決定的なきっかけであるとは考えにくかった。
 佳乃は見学に訪れてから、二日のうちに入部手続きを終えた。その放課後に、直美は顧問からの連絡でそのことを知る。それを聞いた一花は、すぐさま通話アプリのグループに佳乃を招待した。
『波田です。今朝、入部届を提出して参りました。どうぞよろしくお願いします』
『佳乃ちゃん、文芸部にようこそ! これからよろしくね!』
 中学時代を帰宅部で過ごした直美にとって、佳乃は初めての後輩だった。彼女の挨拶に、先輩としてどのように返答すれば良いかわからない。和歌の世界なら、拙いながらも何らかの作歌をするはずだ……などとスマートフォンの画面を前に逡巡する。
「直ちゃん、メッセージ届いた?」
「わっ」
 不意に肩を叩かれ、直美は驚きに跳ね上がった。仕掛け人はいたずらっぽく笑う。
「どうしたの?」
「……別に」
 直美はとっさにスマートフォンを隠すが、もう随分とその画面を凝視していたことは隠しきれていなかった。一花には一部始終、察しがついているのである。
「佳乃ちゃんからのメッセージ、見てたんでしょ? それで直ちゃんは、どう返せばいいかわからなくて、画面を見つめてた。明日のお弁当のおかず一品賭けてもいいよ」
「……もういいよ、当たってるから」
「絵文字でも付けてさ、よろしくねって返してあげればいいじゃん。できないなら、あたしがやってあげようか?」
「いい、自分でやる」
 言われた通り、直美は笑顔の絵文字を一つ添えて、『部長の鳴滝です。よろしくね』とメッセージを返した。こんなことまで一花に頼っているようでは、先が思いやられる。
「ところで直ちゃん、夏部誌の話っていつからするの?」
「五月に入ってからかな。去年みたいにお花見もしようよ」
「いいね! あたし気合入れてお菓子買ってくるよ!」
 それにしても、一花は何もかもが普段通りだった。もうすぐ桜の季節だ。直美にも、雪野を見ているのが自分だけだという自覚はある。

 佳乃が入部した今、彼も次の行動に出るかもしれない。直美はしばらく不安だった。しかし予想に反して、彼は部誌の置き場所にも出没しなくなり、何も起こらないまま五月最初の活動日を迎えた。天候は雨予報と曇り予報が半々になるような、不安の模様である。
「佳乃さんのお兄さん……もう来ないかな」
 部室へ向かう途中、直美はその不安を、一花に打ち明ける。すると一花は、拳を力強く前に突き出して見せた。
「大丈夫だよ。今度はあたしが追い払う!」
「頼もしいけど、乱暴なのはダメだからね」
「まあでも、もうそんなに怖がる必要ないんじゃない?」
 二人で話しながら部室の戸を開けると、既に来ていた佳乃が立ち上がってお辞儀をする。
「お疲れ様です。今日からよろしくお願いします」
「佳乃ちゃん、頭を上げてよ。文芸部はみんな優しいから、リラックスして大丈夫だよ」
「はい、ありがとうございます」
 直美は恭しく挨拶をする佳乃の姿に、一年前の自分を思い返していた。入部してから最初に来たときは一人だったはずだ。それでも、先輩たちが温かい雰囲気で包み込むように迎え入れてくれた。何人かは気難しいように見えたが、文芸について語り合ううち、すぐに打ち解けることができた。だから、次もその次も、自然にここへ来ようと思えたのだ。
「佳乃さん。改めて、自己紹介するね。私は部長の鳴滝直美。この間は、私の作品を好きだって言ってくれて……その、すごく嬉しかった。ありがとう」
「いえいえ。こちらこそ、これからお世話になりますので……その、何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「呼び方……」
 実際、直美はそのような質問をされたことがなかった。自分では先輩のことを、書き手として敬意を表するためペンネームで呼んでいたが、いざ自分の呼ばれ方となると、あまりイメージがつかない。
「親しみを込めて、直ちゃん先輩でいいよ?」
「ちょっと一花、適当なこと言わないで」
 互いの呼び方は、関係性を決める大きな要素になる。それならなるべく無難なものをと考えたところに一花の提案だ。すぐには受け入れられなかった。
「まあまあ。実際に呼んでもらえばいいよ。佳乃ちゃん、直ちゃん先輩って呼んでみて? あたしが許可します」
「大丈夫ですか? その……直ちゃん先輩」
「佳乃さん……」
 しかし、悪くはないと思ってしまった。初々しく、少し歯がゆい緊張感がどことなく懐かしく、佳乃との距離が少し縮まったような気がした。
「ごめんなさい、やっぱり恥ずかしいので、直美先輩でもいいですか?」
「うん、別に……大丈夫だよ」
「残念がってる?」
「そういうわけじゃない」
 やがて珠枝も来て、次の部誌制作に関する打ち合わせが始まった。慣れない司会の役割に、直美はメモ帳を手にして臨む。
「それでは、第四号の打ち合わせを始めます。佳乃さんは初めてだから、わからないところとかあったら、遠慮なく聞いてね」
「はい。よろしくお願いします」
 部誌は主として部員の作品を掲載するものだが、その他のコラムや企画、座談会などのページも設けられる。議題はそれらの内容と、スケジュールの作成だった。
「今回の編集は、一花がやりたいって聞いてるけど、それでいい?」
「任せてよ。去年の大会で勉強したことを遺憾なく発揮しちゃうから」
 主に一花の積極性によって、打ち合わせは順調に進んだ。コラムや座談会のテーマも決まり、スケジュールの見通しも立った。
「そうなると、合評は六月の頭……試験の後くらいかな。佳乃さんも、そこまでに作品を書き上げてもらうことになるけど、大丈夫? もちろん、私たちみんなでサポートするから」
「頑張ります」
 話を聞いているうち、佳乃はだんだんと背筋がこわばり、表情にも何か壮絶な緊張感を感じさせるようになった。それに気付いた一花は、その肩に優しく手を置いて語り掛ける。
「大丈夫だよ佳乃ちゃん。あたしもまだ、全然何も考えてないから。締め切りなんて毎回、直前に追い込みやって間に合わせてるし、そんなのでも一年間やってきたんだよ」
「それは、私にはちょっと……」
 良からぬ教えを伝えるのも、先輩の役割と言うべきか。直美は毎度、一花の追い込みに付き合わされてきたことを思い返し、今度はその悪習を断ち切ろうと考えた。
「一花は今回こそ、締め切り前の追い込み付き合わないからね」
「そんな。あれがないと締め切りって感じがしないよ」
「もっと余裕持って」
 二人のやり取りに、佳乃は初めて笑った。ほんの一瞬のことだったが、直美も一花も、しっかりとそれを見ていた。
「佳乃ちゃん、笑ったね?」
「あっ、すみません」
「そうじゃなくてさ、もっと笑ってもいいんだよ? そんな真剣な顔ばっかりしてたら、直ちゃんみたいになっちゃうから」
「私は別に、いいでしょ」
 佳乃はもう一度笑った。控えめな笑顔だが、何度でも見たい。直美はそう思った。しかし、そんな笑顔を作り出す方法がわからなかった。
「それでは、明日はお花見歓迎会ということで、よろしくお願いします」
 桜は咲いてから一週間ほど。いつの間にか降り出した雨は、花を散らしてしまうほどではない。直美にはその日になら何かができるという、不確かな自信しかなかった。

 去年は、桜色のシュシュで髪をまとめた。先輩が気付いてくれて、色の表現の話をした。
 点々と散った花弁が園路を彩る。直美は花見の当日を迎え、今更ながらに先輩としての振る舞い方について思案していた。その少し前方では、一花が張り切って佳乃を先導している。並んでみると一花のほうが随分と小さく見えるが、先輩としてのエネルギーは大きく溢れ出し、直視するのも眩しいほどだ。
「直美ちゃん。最近、何か悩んでる?」
「いえ、その……すみません、心配かけて」
 優しく声を掛けた珠枝にも、直美は目を合わせることができない。却って、越えなければならない壁が迫ってくるように感じてしまう。
「部長は直美ちゃんには、重荷だったかな」
「そんなことないです、私もこの部や佳乃さんのために、何かしたいんです」
 思わず、早口でまくし立てた。しかしそんなことも、ただ何もできずにいることを誤魔化すためのパフォーマンスにしかならない。直美は再び肩を落とす。
「今年のシュシュは、ちょっと紫に近いね。それは何の色?」
 その言葉は、直美にとっては意外なものだった。こんな日に過去ばかり振り返っているのは、自分だけで十分だったのだ。
「憶えてたんですか」
「思い出したんだよ。直美ちゃんって、普段は目立たないゴムとかで髪まとめてるけど、こういうときにはちょっとお洒落になるから」
「……これは、藤の花の色です。去年と同じ桜だったら、なんだか、進歩していない気がして」
「藤の花は、桜の後に咲くんだっけ」
 せめて身に着けるものだけでも、季節を先取りするつもりでいたかった。しかし結局、今の桜を前にしては、あまり役立ちそうもない。
「これだけの桜の中にいたら、少し浮いてしまうかもしれませんね」
「私は良いと思うよ。落ち着いた色合いだし、直美ちゃんらしいと思う」
「でも……私は落ち着いているというより、尻込みしているだけなんです。部長としての足場に、なんとか立とうとして、いつも足を滑らせてしまって……自分が今、どこに立っているのか、わからなくなってしまうんです」
「部長としての足場、ねえ……」
 珠枝は少し顔を背けて、鼻先を一掻きした。
「部長の仕事は、ちゃんとできてると思うけど? まあ、そんなことじゃないよね」
「はい」
 珠枝自身もその前の部長も社交的であったため、後輩とのコミュニケーションの問題とは無縁だったのだ。そのことが、直美にとって最も高い壁であった。
「元々先輩とか、部長とか初めてで、佳乃さんに掛ける言葉一つにも、迷ってしまうんです。それに加えて、やっぱり、佳乃さんのお兄さんのことが気になってしまって」
「なるほどね。佳乃ちゃんが入部してからは何もないけど、怖い思いをしたわけだし、気になるのは仕方ないか。それが全部、プレッシャーになるのもわかる。私が直美ちゃんの立場だったとしても、それなりに悩んだと思うよ」
「……本当ですか」
「あのねえ。私だって、悩まないわけじゃないし、一人では答えを出せないときもあるよ。私は直美ちゃんや一花のことではあんまり悩まなかったけどさ、唐澤っていう難しい奴を抱えてたわけだし……ね?」
 挙げられたのは、現在休部中の三年生の名だった。彼は創作にもコミュニケーションにも問題を抱えていたが、彼自身が休部を選んで以来、全てが未解決になっている。直美も彼の悩む様子や、珠枝や周囲の先輩がどうにか彼を救おうと働きかけるのを見てきた。
「先輩方は、『文芸人』って言ってたけどさ。私たちはそういう連帯感を持って、どんなことも一緒に考えてきた。そのときは、直美ちゃんも自然に話せてたでしょ」
 そうだった。人見知りだった直美でも、この文芸部に溶け込むまでに時間はかからなかった。
「まずは思い切って、佳乃ちゃんと喋ってみたら? 座談会の予行演習みたいな感じで」
「……そうですね。ありがとうございます」
 広場の隅の桜の下に、場所は確保されていた。
「直ちゃん、天海先輩、こっちです!」
 一花が呼んでいる。
 始めてみよう。直美は珠枝より少し早く駆け出した。

 紙コップにジュースを注いで乾杯。直後、話を切り出したのは直美だった。
「佳乃さんは、詩を書いてるって言ってたよね」
「最近は、あんまり書いてないんですけど……中学のときに」
 佳乃は遠慮がちに答えた。一花が首を傾げる。
「直ちゃんにも聞きたいんだけどさ、詩とか短歌とかって、やっぱり小説と結構違うじゃん。何か、言葉を出すためのルーティーンとかあるの?」
「ルーティーン……ですか」
「そこまで何か、儀式みたいなことしてるわけじゃないよ。私は普通に、家でパソコンに向かって考えてることが多い」
「わ、私もです」
 二人の答えが期待を満たさなかったのか、一花は表情を変えずに受け止めた。
「じゃあ、別にこうやってお花見に来たりしても、特別よく作品が書けるみたいなことはないの?」
「私はそんなにないよ」
 そこで、珠枝が話に加わった。
「気持ちというか、頭の切り替えの問題じゃない? 韻文にしても、こうやって喋りながら考えてたらかなり器用だと思うよ」
「天海先輩はできますか?」
「私は元々そんなに、普段から作品のこと考えてはいないよ」
「一花、それは無茶振りでしょ」
 なかなか肯定を得られない一花だが、めげずに話を続ける。
「でもさ、直ちゃん。昔の作家の人って、小説書くために温泉行ったり、別荘に行ったり、移住しちゃったりするんでしょ。それは何か、効果があるからだと思わない?」
「それは……私たちが遊びでお花見に来てるのとは違うでしょ」
「佳乃ちゃんは、どこか好きな場所で作品書くとしたら、どういう場所に行きたい?」
 手を水平に振って「どこか好きな場所」を表現しながら問いかけた。
「難しいですね……一花先輩は、どこがいいですか?」
「あたしはね、夏だから、イカダ型の浮き輪あるじゃん。あれに乗って、流れるプールを流れながら執筆してみたい」
「バランス感覚が大事ですね」
「そうそう、体幹も鍛えられて一石二鳥」
 その突飛な答えにも、佳乃は手を合わせて微笑んだ。直美はそれが正解なのかわからず苦笑する。
「佳乃さん、一花は変なこととか普通に言うから、あんまり真に受けなくてもいいんだよ」
「えっ、冗談だったんですか」
「違うよ佳乃ちゃん。直ちゃんも。せっかくの夏にパソコンに向かってばっかりっていうのも、なんだかもったいないじゃん。せっかくなら、全部一遍に楽しむの!」
「水に落ちて、原稿を台無しにするのが見える」
「そういう向こう見ずなところも一花らしいというか……」
 珠枝もまた、否定も肯定もしないというふうに、控えめな笑顔で場を収めるのだった。
「じゃあ、直ちゃんはどういうところで書きたい?」
「私は……例えば、昔の人って、確かに執筆のために場所を変えたのかもしれないけど、今度はその場所での経験を、そのまま作品に書いたりするよね。それだったら、おばあちゃんの家とか泊まって書くのもいいかなって。結構田舎だし」
「あっ、面白そう。天海先輩はどうですか?」
「そうだねえ。私はどちらかと言えば落ち着いて書きたいからさ。洞窟とか? そういうちょっと閉じた空間で、腰据えて書くの」
「洞窟で書くのは楽しそうですね。冒険気分です」
 一花とは対照的に、二人の答えは物静かな空間をイメージさせる。
「じゃあ最終的にどれが良いと思ったか、佳乃ちゃんに選んでもらおう」
「私ですか? えっと……田舎に泊まって、鍾乳洞とかで、水の音を聞きながら書きたいです!」
 佳乃が三人の顔を見回しながら返した答えは、それぞれの意見をまとめたものだった。珠枝が微かに笑う。
「おお、上手くまとめたね」
「でもこれは……流れるプール要素があんまりないよ?」
「無理言わない。佳乃さんが気を遣って、頑張ったんだから」
「本当に、家で書いてて兄に見つかるとうるさいので……叶うならどこかに隠れてでも、好きなように書いていたいです」
「佳乃さん……」
「あっ、すみません。私は大丈夫なので。これから、よろしくお願いします」
 その作り笑いがあまりに上手で、直美は言葉を続けることができなかった。佳乃にどこかぎこちない感じを受けるのも、緊張のためなのか、もっと根の深い問題のためなのか、判別がつかなかった。

 しかしながら、花見の席での歓談は確実に直美の抵抗感を取り除いた。心理的には大きな前進である。
 その矢先、翌日の朝のこと。同級生から直美の手に、茶封筒の封書が届けられた。三年生の男が「文芸部長に」と差し出したものだという。直美は封を切ることができず、一花に助けを求めた。昼休みに部室で内容を確認することにした。
「三年生の男の人って言ったの?」
「うん。容姿は詳しく聞けなかったけど、顔は良かったみたい。それで、ラブレターかって……」
「じゃあ、唐澤先輩じゃないね」
「一花、それは失礼だよ……」
 既に二人とも、差出人が誰かという疑問には答えが出ているのである。残る問題は、封書の内容と差出人の意図のみであった。
「だいたい、こんな薄っぺらい茶封筒でラブレターなんて、何も響かないよね。開けるよ」
「お願い」
 封筒の中身は、三つ折りにされた一枚の書類だった。印鑑の朱色が目に付く。
「波田……佳乃。直ちゃん、これ佳乃ちゃんの退部届だよ!」
 一花の顔が青ざめる。その表情や悲痛な声色は、直美すら初めて経験するものだった。
「どういうこと……」
「お兄さんに決まってるよ! 佳乃ちゃんの退部届を勝手に書いたんだ」
「と、とにかく、顧問に確認してくる。一花は、佳乃ちゃんに」
「そうだね」
 震える足にどうにか気合を入れながら、直美は職員室へ向かう。もし同じ退部届が顧問の手に渡ったときには、そのまま受理されてしまう可能性もあった。しかし幸いにも、退部届は提出されていないことが確認された。
 安心も束の間、直美は何故その退部届が自分に届けられたのか、犯人の意図を確信する。
 このように迂遠な手段を取らず、退部届を直接顧問へ提出してしまえば、佳乃を強制的に退部させることもできたはずだ。そうしなかったのは甘さでも優しさでもない。狡猾にも自らは手を汚さず、部員を騙すことで佳乃を陥れようとしているのだ。
 あの目が、睨んでいる。直美は部室に戻るまで、繰り返し恐怖の残響に襲われるのだった。
「直ちゃんおかえり。佳乃ちゃんも退部届は書いてないって。やっぱり悪戯だよ。大丈夫?」
「……退部届、提出は、されてなかったみたい」
 どうにか部室に行きつき、一花の姿を認めた途端、直美はその場に膝をついてしまう。
「直ちゃん、具合悪いの?」
「ごめん、誰か……呼んで」
 そのまま立つこともできなくなる。顔色は青く、呼吸は荒い。一花はすぐさま周囲の人に助けを求め、直美を保健室まで運んだ。手続きを終えて保健室から出ると、佳乃が待ち構えていた。
「一花先輩、何かあったんですか」
「佳乃ちゃん、どうしてここに……」
「連絡が来て気になったので、部室に向かったんですけど、そこで誰かが保健室に運ばれたって聞いて」
 普段は口の軽い一花でも、あまり積極的に話せる状況ではなかった。しかしその一瞬の躊躇が、余計に佳乃の不安を増幅させてしまう。
「……直美先輩ですか」
「いや、そのね。直ちゃんはちょっと、ふらふらしちゃっただけだから……」
「大丈夫なんですか?」
「もう大丈夫だよ。佳乃ちゃんも、変わらず文芸部にいてもいいし、何の問題もない」
 一花は努めてゆっくりと、落ち着いた調子で言い聞かせるが、既に佳乃には、何かを隠しているようにしか聞こえなかった。悪質な悪戯と聞いた矢先にこの状況では、因果関係を否定することはできなかった。
「でも、退部届のことで、また兄がご迷惑をお掛けしました。本当にごめんなさい」
「そんな。佳乃ちゃんは悪くないよ」
「元はと言えば兄妹の問題なのに……本当に申し訳ありません。後で、直美先輩にも謝ります」
「佳乃ちゃん……」
 ただただ頭を下げる佳乃を、一花もまた、ただ見ていることしかできなかった。
 その夜、直美も佳乃からの謝罪のメッセージを受け取った。
『昼休みに部室で倒れたと聞きました。お大事になさってください。もし、私の兄のことで心配や苦労をさせてしまっていたらと思うと、本当に申し訳なくなります。ごめんなさい』
 それを読んで、直美にはほんの少し、「佳乃が入部しなければ」というネガティブな考えが芽生えた。意識は持ち帰ってしまった退部届に向く。これをもし、顧問に渡してしまったら。確かに文芸部は唯一の新入部員を失うが、この騒動は解決するだろう。勧誘活動はいつでもできる。来年の春までに部員を獲得できれば、廃部になることもない。
 割れた桶から漏れ出す水のように、直美が部長として守ろうとしてきたなけなしの矜持はいよいよ底をつき始めていた。佳乃への返信を書くこともできなかった。

 翌日は活動日だったが、直美はどうしても、そのまま放課後を迎えることはできそうになかった。昼休み、例によって一花を部室に呼び出すが、そこまでの足取りすら重かった。
「直ちゃん、体調はもう大丈夫?」
「体調は、なんとか。でも私、もうどうしていいかわからなくて」
「今日、部活なしにする? 無理しないほうがいいよ」
 心配する一花に、直美は申し訳なさを感じながらも、再び件の退部届を見せた。
「これなんだけど……どうして顧問に直接渡さないのかなって考えちゃって。どうして、私に持たせたのかなって」
「確かに。お兄さんだったら、佳乃ちゃんの代わりに持ってきたとか言えば、先生も疑いようがないよね」
「多分だけど、一つは脅し。こんな手段も取れるんだって。もう一つは、私たちの手で、佳乃さんを文芸部から退部させようとしているんだと思う」
「そんなことするわけないよ! せっかく勇気を出して入部してくれたのに……」
 一花の実直な言葉に、直美はこっそりと片手で胸を押さえた。これは懺悔の席なのだ。
「というか直ちゃん、それもう破いて捨てちゃったら?」
「一花なら、そう言うと思ってた」
「どういうこと?」
 強く頼もしい親友を、悲しませるのもわかっている。しかし、直美はもはや、自分の弱さをも吐き出さなければならなかった。
「私には、破れないの。これを顧問に渡したら楽になるんだって、思っちゃったから」
「そんな……」
 そのタイミングで、部室の戸がノックされた。沈黙の間によく響く、雑音まじりのノックだった。
「佳乃ちゃん? 入っていいよ」
 一花が声を掛けると、戸を開いて佳乃が入ってくる。彼女もまた、三つ折りの書類を両手で持っていた。
「ここにいたんですね。実は先輩方に、お話があって」
「佳乃ちゃん、まさか……」
 一花は直美の手元にある退部届と、佳乃が手にする書類をしきりに見比べる。直美は予想外のことに呆然としていた。
「本当にいろいろ、ご迷惑をお掛けしました。やっぱり私が、無理して文芸部に入ったのがいけなかったんです。これを、先生に……」
「ダメだよ、退部なんてさせないから!」
 佳乃が差し出そうとしたその書類を奪い取り、一花は一目散に駆け出して行った。佳乃も追って廊下に出るが、一花を見つけることはできない。その間にも直美は、ただ椅子に座ったまま、成り行きを見つめているだけだった。
「あれ、兄に渡された退部届なんです」
 部室に戻った佳乃は、机の傍に立ったまま俯き、独り言のように言った。
「部長にも届けたけど、ダメならお前が持って行けって。できないなら、俺が持って行くって。そこまでされたら、無理ですよ。言い返しても勝てないし、代わりに兄を満足させるようなこともできません。それに何より……書けないんです。文芸部に入って、最初は、兄のことなんか気にせず頑張ろうって思ってたんですけど。何か書こうとするたびに、兄の言葉が頭から離れなくて……文芸なんて恥ずかしい。意味がない。何の役にも立たないし、時間の無駄にしかならないって」
 直美の右手が、無意識のうちに退部届に触れる。これを渡してしまえば、佳乃をも、救うことができる気がした。
 諦めたい。このまま互いに苦労を強いても、必然の成功などというものはない。せめて部長として、部員を守る決断ができるのならば。
「佳乃さん……これ、持って行って」
 負けた気も、勝った気もした。良かった探しに過ぎなくても、最後まで何かを守り切ることができた。直美は退部届を封筒に戻して、佳乃に差し出す。
「短い間でしたけど、お世話になりました。私がこんなことを言うのは烏滸がましいですけど……お花見とか、楽しかったです」
 俯いたままお辞儀をして、佳乃は踵を返した。楽しかった。最後の一言だけが、直美の心に突き刺さった。
 それでも、言葉は出ない。呼び止める言葉も、送り出す言葉も、全く発することができない。
 佳乃は歩き出す。部室を出るまでは五歩。そのカウントダウンが終われば、何もかもが無に帰る。しかし直美は、振り返らない佳乃の背中を、諦めの心境で見ているしかなかった。この永遠よりも長い五歩が、早く終わってしまえばいいとさえ思った。
 そしてついに、佳乃は敷居をまたいだ。間もなく姿も見えなくなる。
 全てが終わったかに思われた。
「佳乃ちゃん、ダメだよ!」
 しかし次の瞬間、廊下から一花の声が聞こえたかと思えば、佳乃が後ろ歩きで部室に戻ってくる。一花が押し戻しているのだ。その手には既に封筒が握られている。
「これ渡したの、直ちゃんでしょ。どうして! 佳乃ちゃんが退部しちゃってもいいの? つらいのはわかるけどさ、直ちゃんだって、こんなことは望んでないと思ってたのに」
 一花は激しく怒りを露わにしながら直美を問い詰めた。
「それは佳乃さんも、続けられないって、言ったから……」
 直美にとって、それは言い訳ではない。あくまで互いの利害が一致したのだと、説明を試みる。しかし、一花はさらに激高した。
「佳乃ちゃんのせいにするなんて、もう最悪だよ。文芸部がなくなったら、直ちゃんのせいだから! あたしももう、直ちゃんのことなんて嫌い!」
「一花先輩、待ってください!」
 そして一花は、再び部室から駆け出してしまう。今度は佳乃も反応し、すぐ後を追いかけていく。
 残った直美は、自分の体調不良を理由にして、今日の活動を中止すると連絡した。振替の活動日のことは、考えもしなかった。

 月曜日の昼休み、直美は珠枝に呼び出された。本来ならば四人で楽しく部誌制作の話を進めていたはずの部室が、今は二人で、楽しさとは程遠い雰囲気だ。
「私、何があったのかあんまり把握してないんだけど……部室で倒れたっていうのは、直美ちゃんのこと?」
「はい」
「大変だったね。まだ本調子じゃないなら、部誌の話は少し遅れても大丈夫だよ」
「はい……ありがとうございます」
 何も知らない珠枝からは、純粋な心配の言葉しか出てこない。それは直美にとって救いでもあり、さらなる重圧でもあった。本当のことが知れれば、珠枝も一花と同じように失望して、離れていってしまう。空中分解した文芸部は、夏を待たずに解散だ。
「なんてね」
「えっ」
 直美が悠長な考えを巡らせているうちに、珠枝の穏やかな笑顔が消えた。
「実は昨日、一花から聞いちゃってさ。佳乃ちゃんに、退部届を渡したんだって?」
「ごめんなさい! 全部、私が悪いんです……」
 鴉を前にした子猫のように震える直美に、再び珠枝は笑顔を見せた。
「そんな怯えなくても。一花も反省してたし、直美ちゃんを助けてあげて欲しいって言ってたよ。昨日、直美ちゃんにひどいこと言っちゃったって。二人もそんな喧嘩するんだって思った」
「それは私が、佳乃さんを守れなかったから……」
「でもね、諦めるのは早いよ。佳乃ちゃんが、お兄さんと直接話をしたいって言ったんだって。もし、一花や直美ちゃんが力を貸してくれるなら、頑張れるかもしれないから」
 因縁の相手との直接対決。それは文芸部が再び団結し、存続のために戦う最後のチャンスだった。
「もう一度、頑張ってみない?」
 珠枝が差し伸べた手を、直美は思い切り両手で掴んだ。それは春風のように温かな手だった。
「一花と、佳乃さんにも、謝りたいです。こんな私でも、もう一度部長として受け入れてくれるなら……私も、頑張ります」
「よし、その意気だ。三人で行けば大丈夫だよ。私も応援してるから」
「はい。ありがとうございます!」
 心細かった冬から、ようやく抜け出せるような気がした。直美はその最後の一歩を、自分で踏み出すだけだと思った。

 会議は夜のうちに行われ、翌日の放課後、部室に集合して作戦が開始された。佳乃が事前に兄を呼び出しているため、まずは三人で待ち構える。その後の脚本はほぼない。とにかく、佳乃の文芸部での活動を認めること、文芸部に今後妨害行為などをしないことを説得するだけだ。
「佳乃ちゃん、お兄さんは本当に来るの?」
「来ますよ。今朝、『私を辞めさせたかったら自分で来い、この卑怯者!』って焚きつけてきました。すごく緊張しましたよ、こんなこと、初めてだったので」
 兄はそれに対して何も言わなかったが、現に策略は破られ、このままでは佳乃の退部は実現しない。最後の手段として本人が動く可能性は十分にあった。
「いいね。この後も、その調子で頼むよ」
「……頑張ります」
 一方で、直美は佳乃と兄の関係に、一つの疑問を持っていた。
「ねえ、佳乃さん。お兄さんはいつから、文芸を嫌うようになったの? 確か佳乃さんは、中学のときから詩を書いてるって言ってたけど」
「それは、いつからかわからないんですけど……私がいろいろ言われ始めたのは、去年の夏からです」
 佳乃はスクールバッグから、一冊の文芸誌を取り出した。それは地域の小中学生の作品を集めて、毎年刊行されているものだった。その中に佳乃の詩が、優秀作品として掲載されている。
「優秀賞だって」
「佳乃ちゃん、すごいね!」
 直美はさらに疑念を深めた。これだけ文芸に熱意があり、実力も見せた妹に、何故その道を塞ぐような仕打ちをするのか。文芸を諦めかけるほどに、追いつめる必要があるのか。
「このときまで、兄は私が詩を書いていることを、知らなかったんだと思います。知っていても、自由帳の落書きのような、ただの遊びだと思っていたのかもしれません。でも、こうして私の作品が載ったのを見て、兄は急に怒り出したんです。その日から……はい」
「どうして……」
「一緒に喜ぶくらいのこと、してくれてもいいのにね」
 兄はなかなか来なかった。集合から三十分が過ぎ、もしや来ないのではないかと不安が漂い始めた頃、ようやく乱暴に戸を開ける音が響いた。
「ここが部室か。陰気で殺風景で、いかにもという感じだな。佳乃! 来てやったぞ。この場で退部すると言え」
 文芸部の少ない備品を見回しながら、一歩ずつ近づいてくる兄に、佳乃はいち早く立ちふさがった。
「もう、言いなりにはならないから。私は絶対に退部なんてしない。先輩方と一緒に、文芸を続けたい。今日はそれをわかってもらうために来てもらったの」
 一花は佳乃を支えるように、後ろに立って兄と向き合った。直美もそれに続く。しかし兄は動じることなく、侮蔑の眼差しで三人を睨むだけだった。
「文芸など、本気でやろうとする奴の気が知れない。ただ己の恥を晒すだけよ。そんなものにも群がる奴がいて、市場が成り立っているだのと主張するのかもしれないが、それが何の役に立つ。心の安寧? 文化? 学問? どれもこれも、物好きの道楽ではないか。たまたま手の届くところにあるから触れる。本当は不要なものが手放せなくなり、時間を浪費する。くだらない。身内には、そんな道を歩ませたくないだろう」
「そんなことない! 私にも、表現したいものがある。自分のことを知ってほしいし、他の人と一緒に見たい世界がある。だから詩を書くの。それを、ただの恥で済ませないで」
「わからない奴だ。そうまでして表現しようとすること自体が、無駄だというのに。それが将来、何かの役に立つということもないだろうに」
 価値観の衝突。直美はこのままでは、兄の理解を得るのは難しいと直感した。人は相手の価値観を裁くことはできない。何に価値を見出すかというレベルで言い争っては、論理的な優劣は生まれにくい。佳乃に助けが必要なことは明らかだった。
「私も、佳乃さんと同じ考えです」
 これまでにないほどの大きな勇気を発揮し、直美は佳乃の前に出た。両手に強く力を籠め、ともすれば逃げ腰になってしまう姿勢を気力で支える。
「私たちは、文芸を通して自分を表現しています。確かに文芸をすることは、必然ではありません。それでも、言葉で考えることや伝えることは、誰もがすることです。文芸を通して、そういった力を養うことができます。それは決して、恥でも無駄でもないと思います」
「そうだそうだ!」
 一花もすかさず賛同の声を上げる。三人の団結と熱意によって、兄はついに一歩退いた。佳乃はこのまま押し切ろうと、言葉を続ける。
「ただ勉強をして、仕事をして……それだけが人生じゃない。それ以外が全部無駄だって言うなら、遊んだり、休んだりもせずに、ずっと机に向かっていればいい。でも、私は違う。この文芸部で、文芸をやってみたいの。先輩方と楽しく過ごして、もっと、自分の世界を拡げたい!」
 最後は、妹の純粋な意思が、強固に閉ざされた兄の心を押し開いたかのように見えた。
「……それなら、やって見せろ。そのくだらないもので何ができるのか、示してみろ。文芸部には大会があるだろう。そこまでに何の成果も得られないようなら、今度こそ辞めさせる。だが、それまで俺は一切の干渉をしないと約束しよう」
 大会までに成果を出すこと。それは決して簡単な条件ではない。それでも三人の眼は、ついに同じ希望の灯を見た。
「わかった。じゃあ、私が文芸部にいることを、認めてくれるの」
「挫折でも何でもしてくるといい。わかったら、俺はもう帰るぞ」
「ありがとう! 私、頑張るから」
 兄は最後まで表情を崩さず、あくまで冷徹な足取りで去っていった。その背中に向けて、佳乃は高らかに感謝を述べる。その純粋な眼差しを、直美は強い達成感と共に、心に焼き付けるのだった。

 木曜に設けられた活動日、直美は珠枝への報告をした。
「ということで、佳乃さんが文芸部で活動を続けていくことは、ひとまず認めてもらえました。ただ、大会までに成果を出せなければ、今度こそ退部だと言っていました」
「なるほど。まあ、邪魔しないって言ってるなら良かったんじゃない? 文芸のことなら私たちでサポートできるし、ここからだね」
「はい。それでは学校祭に向けて、部誌制作に入っていきましょう」
 スケジュールには遅れが生じているものの、ようやく部誌への取り組みが始まる。部員たちを取り巻いていた緊張感は、自然と解けていった。スケジュールの確認を行い、話題は佳乃のサポートの件に移る。
「まず佳乃さんは、合評までに作品を仕上げることを考えてくれたらいいと思う。何か書けたらいつでも見てあげられるし、アドバイスも少しなら」
 しかし直美には一つの不安があった。佳乃の書くような自由詩にはあまり触れたことがなく、適切なアドバイスができるかどうかわからない。
「直ちゃんは短歌ができるし、詩も似たようなものだから大丈夫だよね」
「それは……ちょっと違う」
 一花の言葉に対しても、安易に頷くことはできなかった。珠枝はその様子を見て首を傾げる。
「私はどっちも自分で書いたことはないけど、やっぱり違うの?」
「はい。短歌はリズムのある定型が前提なので、言葉選びもそれに合わせて考えることになります。それが自由詩になると、形から作っていく必要がありますし、内容の面でも、言ってしまえば短歌にはできない表現もできます」
「じゃあさ、直ちゃん。みんなで詩の勉強会しようよ。例えば、去年の大会で入賞した作品を読んでみるとか」
「それはいいかも。ちょっと待って」
 そこで直美は、本棚から厚みのある青い冊子を持ち出し、佳乃へ手渡した。
「これは去年の全道大会の集録なんだけど、詩もたくさん載ってるから、参考になると思う」
「それ、私の載ってるやつだよね。『未完成』」
 珠枝は小声で確認する。その大会で佳作を獲った珠枝の小説も、確かに掲載されていた。
「同世代の人が書いた作品を読むことってなかなかできないし、せっかくだから来週あたり、これを読んで勉強してみようと思うんだけど……どうかな」
「はい。私のために、ありがとうございます」
 佳乃は開いた冊子の上に両手を重ねて頭を下げた。その表情にもはや迷いは見られない。
「勉強会まで、目を通してみて」
「わかりました」
 直美は心にささやかな追い風を感じた。始まる。それは気付けば、温かな薫風であった。

 勉強会は週が明けてすぐに行われた。佳乃はこの日のために、新品のノートを用意している。
「佳乃さん、集録は読んでみた?」
「はい。全部、感想を書いてきたんですけど……言葉がすっと入ってくる作品ばかりで、すごいなと思いました。高校生の大会なので、もう少し難しい表現とか、技法みたいなものがあると思っていたんですけど、そういうことではないんだとわかりました」
「ちゃんと読んでるね。佳乃ちゃんすごい」
 感心する一花の隣で、珠枝も優しく頷く。
「詩に技術があるとすれば、オリジナルの表現を突き詰められることなんだよね。比喩とかの技法は、使えばそれらしく見えることもあるけど、本当は表現のための一つの手段でしかないんだよ」
 直美も何かを言おうとするが、蛇足のような言葉しか見つからない。深追いはせず、話を先に進めることにした。
「では、最優秀賞の作品から読んでいきましょう。タイトルは『深淵』です。佳乃さん、この詩はどう感じたかな」
「はい。この詩は……多分、深海だと思うんですけど、そこに放り出されて、上手く泳げないけれど行く先を探している生命の力を感じました。最初の連の表現は美しくて、一気にこの世界に引き込まれるんですけど、その分だけ次に『無数の命の気配を感じて/ぼくは食べたいと思った』と続くところの生々しさが鮮明に感じて、印象に残っています」
 佳乃はノートを見ながらも、すらすらと感想を述べ切った。珠枝と一花が揃って感嘆の声を上げる。
「一年生にしてそこまで読めるとは……佳乃ちゃん、やっぱり文芸続けるべきだよ」
「佳乃ちゃんすごい!」
「一花はさっきからそれしか言ってないけど……この感想は、書いた人に伝えてあげたい」
 口々に褒められ、佳乃は小さく小さく縮こまった。残りの作品についても佳乃の感想は的確で、秀でた感性の発揮されたものばかりだった。
「佳乃さんは、感じたことや考えたことを言葉にする力があると思う。ちゃんとした題材を見つけられたら、絶対良い作品が書ける。自信を持って」
「はい。今日はありがとうございました。作品を読んでいるうちに、どんどん自分でも書きたくなりました。頑張ります」
「来週はテストだから、合評はその後、六月に入ってからね」
 テストという言葉に、一花は耳を塞いだ。
「直ちゃん、それは禁句」
「一花はまた勉強会する? 理系と文系じゃ、内容違うと思うけど」
「あ、あいにくだけど、ちょっと都合が悪いかな。詩の勉強会なら、いくらでも付き合うけどなあ」
 そこで、佳乃が久しぶりに笑った。直美も一緒に笑った。その瞬間は、何よりも詩の勉強会の成功を象徴していた。

 無論、直美も自身の作品について考えなければならなかった。その日の帰り道は、一花も同じことに考えを巡らせていた。
「直ちゃんは今回の部誌、どんな作品にするの?」
「今回は短歌だけにしようかな。小説は内容がまとまらなさそうだから。一花は?」
「とにかく走る! 夜通し走ってその先に何が見えるか、みたいな話が書きたいかな。思い付きだけどね」
「一花なら書けそう。締め切りに遅れないように頑張って」
「うっ……あたしも締め切りに向かって走り続ける運命なのだ」
 これで小説は、一花と珠枝が書く二篇。直美は部誌のページ数を見積もる。
「ちょっと気になるんだけど、今回の部誌、ボリューム足りなくないかな」
「三号と同じくらいじゃない? 直ちゃんは小説を書かないけど、その分佳乃ちゃんが詩を書いてくれたら。去年と比べちゃうと、薄いかもしれないけどね」
「うん。まあ、大事なのは厚さじゃないって、それはわかってるけど」
 減った厚みが意味するのは、先輩たちの卒業だ。それはどのように嘆いても意味がない。しかし、残った自分たちの力がある限り、何かできることをしなければならない。
「唐澤先輩でもいないよりいいとか、考えないでよ」
「一花は、唐澤さんに何か因縁でもあるの」
 直美は久しく会っていない先輩の姿を思い返した。彼が休部を選んでから、もうすぐ丸一年になる。しかし次の大会には戻るように話をしたと、珠枝からは聞かされていた。
「あるよ。あたし唐澤先輩のこと嫌いだもん」
「そうだったの?」
「あんな辞められ方したら、後味悪いじゃん」
「退部扱いにもなってないし、戻る気はあると思うよ」
 一花は少しの間沈黙した。直美から見た一花の眼は、どことも知れない一点を睨んでいる。
「唐澤先輩は戻らないよ。去年の大会で渡した、先輩方の色紙を書いてもらいに行ったとき言ってた」
 冷たく断定する言葉に、直美の足取りが一歩遅れた。
「そんな。一花今まで、言ってなかったよね」
「言えないよ。天海先輩だって本当は心配して、ずっと待ってるのに……『意味のないことをしていた』なんて言われて、どうすればいいのかわからなかったし、誰かに話しても仕方ないと思ったから」
「意味のないこと……唐澤さんも、そう言ったの?」
「うん。『文芸が、根性で片付くものではないと理解するべきだ』とか、やり遂げてもいないのに偉そうに言っちゃってさ。佳乃ちゃんのお兄さんといい勝負だよ」
 直美の脳裏に二人の影が重なる。背景こそ異なるが、文芸に対する負の感情には似通う部分があった。
「そっか……ねえ、文芸ってどうして、ここまで『意味がない』って言われなきゃならないんだろう。そんなはずないのに、何がそう思わせてしまうんだろう」
 一度は文芸を志し苦心したはずの唐澤ですら、文芸を呪うようになってしまった。そこに働いた魔力の存在に、直美は目を付ける。
「あたしそれ知ってる。『すっぱい葡萄』の話だよ。要は、負け惜しみ」
「手の届かなかった葡萄を、諦めるみたいに?」
「でもさ、『成功したって意味がない』なんて、諦める理由としておかしいと思わない? ましてや、『挑戦したって意味がない』まで行っちゃったら、もう何もするなって話じゃん。それで周りの人まで巻き込むのは、絶対間違ってると思う」
 直美はただ、静かに頷くことしかできなかった。一花の言うことには賛同できる。しかし、実際にその状態に陥ってしまった人を前にして、思うだけでは何も変わらない。
 その夜、直美は珠枝に電話をした。
「もしもし。何かあった?」
「あの、頼みたいことがあるんです。忙しいところ、申し訳ないですが」
「私にできることなら、力になるよ」
「ありがとうございます。佳乃さんのお兄さんが、どうして文芸を嫌うようになったのか……わかることがあれば、教えてほしいです。佳乃さんのことと言うより、私が、お兄さんの考えを理解したくて」
「なるほどね。佳乃ちゃんの中学ってわかる?」
「はい」
 文芸との付き合い方は難しいのかもしれない。直美は自分が今、概ね不自由なく文芸を続けていることを少し尊く思った。そして、必ずしもそうではないという事実を、知らなければならないと思っていた。

 試験が明け、六月は雨がちに始まった。佳乃の合評を翌日に控えた放課後、直美は珠枝に呼び出された。激しい雨が窓を叩く中で、いつもの部室は蛍光管の明かりも頼りなく感じられる。
「お疲れ様です」
「お疲れ。ごめんね、まさかこんな雨だとは思ってなくて。一花は帰ったの?」
「はい。この話は、私のわがままなので」
「まあ、それがいいよ」
 要件は佳乃の兄に関する話だが、直美はまだその内容を知らない。そこで珠枝が不意に声のトーンを落としたので、無意識に身構える。
「その……深刻な話ですか」
「まあ意外とね。よく知られた噂だとは言うけど、本人はいたく傷ついただろうし、正直、私はここで直美ちゃんに話すのも気が乗らない。それでも聞きたい?」
「少し考えさせてください」
「いいよ」
 そこで直美は、自分が背負うはずだった罪を、珠枝が肩代わりしていることに気付いた。軽率な好奇心ではなかったにせよ、あの男のことであるにせよ、一人の触れざるべき過去を掘り返してしまった。これでは佳乃にも申し訳が立たない。
「……やっぱり、私は聞かないでおきます。すみません」
 迷った末、それが直美の出した答えだった。珠枝は優しく聞き返す。
「いいんだね? 知りたいことがあったみたいだけど」
「はい。それは……文芸がどうして、意味のないことだと言われてしまうのか、考えていたんです。この間、佳乃さんのお兄さんと話したときもそう言われて……自分がもし同じように考えてしまったら、そのとき私は、同じように文芸を好きでいられるだろうかと」
「なるほど……真面目だねえ」
 珠枝から漏れ出た言葉に、直美は苦笑するしかなかった。
「考えすぎでしょうか」
「でも、ちゃんと率先してそういうことを考えられるのは、直美ちゃんのいいところだと思うよ。その姿勢は文芸だけじゃなくて、これから生きていくうえで、絶対役立つんじゃないかな」
 ほんの言葉の端々にも、不安になれば考え込んでしまう。直美はそのとき、気弱でのろまだと思っていた自分が、やっと肯定されたように感じた。しかし振り返れば、珠枝はいつも同じように、自分たちを見守ってくれていたのだ。
「はい……ありがとうございます。すみません、こんな雨の日に、付き合わせてしまって」
「全然。私も最近忙しいとか言ってさ、全然、助けになれてなかったから」
「そんなことありません。少なくとも私は……すごく、励みになっています。本当に感謝しているんです」
 直美は珍しく、ほんの少し涙ぐむくらいに感情を露わにした。その可憐な後輩の姿は、珠枝の心をも、これまでと違った方向へ動かす。
「そっかあ。私もいつの間にか、そこまで感謝されるようなことができていたとはね。うん。じゃあ、調子に乗った先輩から、一つアドバイスだよ」
「はい」
「どれだけ必死に絞り出した言葉でも、必ず伝わるわけじゃない。それを忘れちゃうと、伝わらない言葉を責めて、言葉で伝えようとすることに意味がないなんて、考えちゃうのかもしれないね。自分も、言葉も、相手も、上手くいかないときは絶対ある。それで、心が折れちゃうのもわかるけど……それだけで言葉が、文芸が、無駄なものにはなりえないよ。結局私たちは、言葉で思いを伝えることから逃げられないんだからね。そういうとき、直美ちゃんなら道を踏み外したりしないって、私は信じてるよ」
 いつしか直美は外からの雨音も忘れて、珠枝の言葉に聞き入っていた。
「ごめんね。柄にもなく、こんな長話」
「いえ、ありがとうございます」
「直美ちゃんは、本当に素直でいい子だよ……あいつとは、大違いだ」
 自分以外の誰かに向けられたその言葉まで、残さず記憶に焼き付けた。

 翌日の合評に、佳乃は二篇の詩を持ち込んだ。その原稿を手に、直美は初めて合評の司会を務める。
「それでは、佳乃さん……桜井志織さんの、詩の合評を始めます」
「はい。よろしくお願いします」
 ペンネームを呼ばれた佳乃は一瞬はにかんだ後、しっかりと表情を引き締めて礼をした。
「かわいいペンネームだね。佳乃ちゃんにぴったり」
 ところが一花に続けて褒められると、再び表情は綻んでしまう。
「ありがとうございます、あんまり深く考えなかったので、ちょっと恥ずかしいです」
 そんな後輩の初々しい様子に少し緊張のほぐれた直美は、頭の中に用意してきた台本を追い始めた。
「まずは、短いほう……『うわごと』から始めようと思うけど、大丈夫かな」
「はい。大丈夫です」
 最初は雑感。その後は作者の話を聞きながら、基本的には流れに任せる。直美は一年間に経験してきた合評を思い返しながら、再び口を開いた。
「じゃあ、私から感想言うね。この詩は、多分、夢を描写したものだと思うんだけど……」
 詩の内容は、夜の街路、神社、砂丘といった情景の中で、「僕」が何かを「したい」と呟くも、その声は何者にも届かず、気付けば次の情景に移ってしまうというものだった。しかし、最後に寝覚めの布団で発した呟きは、「朝日が聞いていた」として終わる。
「タイトルの『うわごと』って、本来は高熱で意識が朦朧としたときとか、正気ではない状態の言葉だよね。そこから連想される悪夢、願望が誰にも聞き入れられない寂しさ、そういうものが印象的に表現されていたと思う。でも、最後に朝が来て、ああ、悪夢は終わったんだなって感じられる後味の良さ、私は好きだよ」
 直美の感想を、佳乃は頷き、自分の原稿にメモを取りながら聞いていた。感想が終わると、すぐさま顔を上げる。
「ありがとうございます」
 そこで直美はある種の達成感から、次にするべき司会の役割を忘れてしまった。しかし、一花がその間を埋めるように入ってくる。
「これ、夢なのかな? なんか、『猫のあくびに似た響き』とか『蟹の足音に似た響き』とか、『響き』って書いてあるけど、全然実際には音がなさそうだよね。だから、自分は言ったつもりだけど、周りには何も聞こえていないっていう、独り言だと思った」
 合評は様々な観点の感想が出るほうが良い。直美は次に珠枝の発言を引き出そうと目を向けた。珠枝はそれを予想していたかのように飛び込んでくる。
「私は二人の真ん中くらいの感想かな。とにかくこの人は、すごく不自由な状況にあるんだけど、抜け出そうとしてもがいてる感じだと思った。でも、声すらまともに出せない。悪夢で何度も目が覚めてるみたいな感じかもしれないよね。それで、朝が救いになる。基本的には怖くて不安な夜なんだけど、一花が挙げてたような表現で、ちょっと神秘的にも感じられるのがいいなと思ったよ」
 佳乃は緑色のボールペンで、感想の細部まで書き取った。三人はその様子を見守りながら、作者としての返答を待っている。それは自然に始まった。
「ええと……私の考えに一番近かったのは、直美先輩だと思います。この詩は、自分の思いや願望を主張したいけれど、届かないことを恐れて抑圧しているような人をイメージして書きました」
 名前を挙げられた直美は、少し首を傾げて聞き返す。
「夢の中で、その願望が露わになっている感じかな」
「はい。でも、だんだんと夢であることが明らかになっていくように、街路、神社、砂丘の並びを、日常に近い順番にしました」
「へえ……」
 自分の作品を明瞭な言葉で説明する佳乃に、珠枝は感嘆の声を上げる。
「ちゃんとした考えもあって書いてる詩なんだなって思うし、実際それは成功してる。意図した通りの表現ができるのは、すごいことだよ」
「私はまだ、そんな……」
 三年生の先輩に褒められ、佳乃はたまらず恐縮した。しかし、このままでは褒めるばかりで、合評としての成果は今一つ足りない。直美は思考を巡らせ、佳乃の作品の中で未だ開き切らずにいる蕾のような伸びしろを探す。
「一つ、ちょっと気になるところがあるんだけどいいかな」
「はい。お願いします」
「寝覚めの布団のところなんだけど、ここの『金魚の呼吸に似た響き』っていう表現は、もう少し質感のあるもののほうがいいと思った。それまでの三つより、上手くいった感じが出て、朝日の描写が来ると、自然な流れなのかなって」
「確かに、そうですね。考えてみます」
 それをきっかけに、珠枝や一花もいくつかの指摘を加えた。佳乃は時折その意図を確かめながら、作品を磨き上げる手掛かりを丁寧に探っていく。
「……私からは以上かな」
「あたしも大丈夫だよ。次行く?」
 話のまとまる頃には、一つの詩に一時間を掛ける合評となっていた。直美は無意識に前髪をかき分け、そこで額に汗が浮かんでいたことに気付く。
「では、『うわごと』についてはこれで終わりにします。次に行く前に、少し休憩しませんか」
「あっ、賛成! 喉乾いちゃった」
 その日は午前中に雨が降っていた。部室も高い湿度に合評の熱気が加わり、すっかり蒸し暑い。休憩に入ると、直美は真っ先に窓を開け放った。ところが、予想外に冷たい風が吹き込み、身震いしてしまう。珠枝も思わず声を上げた。
「うわっ、寒いね」
「すみません、換気しようと思ったのですが」
 直美はとっさに窓を閉め、安堵のため息をつく。
「なんだか六月に入ったのに、寒いし雨ばっかりだし、嫌だねえ」
「はい……」
 そんな不安の天候の下でも、佳乃の合評は続けられる。二篇目の詩は川を遡る旅の情景を表現しており、これもじっくりと表現が精査された。外が薄暗くなるまで、内容の濃い意見交換がされたのだった。

「いやあ、佳乃ちゃんの詩はすごかったね。あたしも負けていられないよ」
 帰り道でも、盛り上がった合評の余韻は一花を興奮させていた。
「次の大会、詩もやってみようかな?」
「一花の文章表現は、直接的で意外と論理的。小説にすると読みやすいけど、そのままだと、あんまり詩には向かないかもしれない」
 冷静な分析をした直美だったが、一花は首を横に振る。
「直ちゃん、そうじゃないんだよ。あたしにも、佳乃ちゃんの詩の良さがわかる。それはつまり、あたしにも詩のセンスがあるんじゃないかと思うんだ」
「一花の言い分はわかった。じゃあ、例えば……あの夕暮れの空の様子を、詩的に表現してみて」
「いいよ。ちょっと考えるね」
 二人の視線の先には、日没間もない時間帯の、紫色の空がある。首をあれこれひねって考える一花を横目に、直美も自分なりの表現を探した。
「思いついた!」
 先に答えを出したのは一花だった。
「どんなの?」
「空は、香ばしい焼き芋のような色。お腹空いた!」
 欲求に素直な表現に、直美はくすりと笑う。
「変だった?」
「ちょっとね。でも、一花らしくていい表現だと思う。私には……」
 そんな表現は恥ずかしくてできないかもしれない。直美はそれを言いかけて、思いとどまった。
「直ちゃんだったら、どうする?」
 試す者は試される。一花の必然の問いかけにも、すぐに言葉を返すことができない。
「……ごめん。思いつかない」
「じゃあ、今日はあたしの勝ちだね。また今度やろうよ」
「うん、また今度」
 その空は、弱気の紫。今更ながらの答えも、ありきたりの表現のような気がしてならない。
「……逃げちゃ、ダメなのに」
「何か言った?」
「なんでも」
 伝わる言葉、伝わらない言葉。ありきたりの表現、ユニークな表現。何がそれを分ける? 上手くいかないこともある。逃げられない。無駄なもの。道を踏み外す……。
 直美の頭の中で、抽選器を回すように、様々な言葉の断片が激しく乱れ飛び交った。
「直ちゃん、大丈夫?」
 そのあまりに歩幅の小さくなった直美を心配し、一花が振り返る。
「ちょっと、疲れたかも。合評の司会、初めてだったし」
「そっか、そうだよね。直ちゃん、ああいうことは苦手そうだったけど、頑張ってたと思うよ。よくできました!」
 その無邪気で屈託のない笑顔に、直美は一瞬ながら、確かに恨めしさを覚えたのだった。
 空はいつしか、完全な黒へと色を変えていた。

 全員分の合評が終わり、座談会も行われ、間もなく原稿は出揃った。一花が編集を行い、部誌『逍遥』第四号は無事に学校祭で頒布される運びとなった。
 その一般公開の日。直美は文芸部ブースの後半のシフトに当たっていた。少し早めの昼食を取り、余裕を持ってブースのある社会科教室へ向かうと、そこには懐かしい二人の姿があった。
「浦川さん、舟波さん」
 今春卒業した二人の先輩。文芸部にとっては、発起人と初代部長という功労者だった。最後に会った三月から、容姿も雰囲気もほとんど変わらない。直美はすぐさま駆け寄った。
「鳴滝さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです。来てくれて、本当に嬉しいです」
 初代部長の中津(ペンネームを舟波克子という)は両手を差し出し、直美と握手を交わした。発起人の浦川もそれに続く。
「小池から聞いたが、大変だったようだな。良ければ、話を聞かせてくれないか」
「はい。というより……私のほうが、聞いてほしいくらいです」
「直ちゃん。佳乃ちゃん来たからあたしたち行くね」
 そこでシフトの交代時間になり、教室の入口から一花が声を掛ける。珠枝と二人で、先輩にも挨拶をして出ていった。
 代わって入った佳乃に少しの間応対を任せ、直美は先輩と正対する。先輩の手には、完成したばかりの部誌があった。直美はそこで、ある告白をする覚悟を決めなければならなかった。
「今回、私は全然、満足の行く短歌が詠めませんでした」
「スランプですか……でも、気を落とすことはないと思いますよ」
 中津は優しく励ましてくれる。しかし、本当の告白はここからだ。
「一花も一人で書けるようになって、今回は締め切りも余裕で守って、成長していくのに……わたしはずっと変わらない気がするんです」
 結局、直美は部誌に短歌を三首しか出すことができなかった。明らかな不調。合評でも佳乃や一花に称賛されはしたものの、珠枝はそれを見過ごさなかった。
 なんだか、直美ちゃんの短歌にしては、凡庸すぎるというか。どれも生きることへの葛藤が見える歌だけど、それ以外の味付けが薄くて、同じに見えちゃうのかな。
「合評のときに指摘されたことも、満足に直せず終わってしまって……こんな私が部長でいいのか、考えてしまうんです」
 やはり、自分には何もない。直美は中津を前にして、その思いを新たにしてしまった。中津はほぼ編集専門ではあったが、部員全員を支える大黒柱に相応しい部長だった。珠枝は自ら大会で成績を残し、常に真摯に文芸と向き合う模範的な部長だった。しかし、自分は?
 珠枝は率先して考える姿勢を褒めてくれたが、足りない。一度は部を潰しかけた。肝心なところは、いつも一花に頼っている。そして今は、作品すら冴えない。
 そんな直美に、中津は少し微笑んで答えた。
「……その答えは、後ろの方が一番よく知っているのでは? ねえ、波田さん」
「えっ」
 後ろには、手の空いた佳乃が立っている。直美の弱音を、途中からだが聞いていたのだ。
「直美先輩。ちょっと、失礼しますね」
 佳乃はそのまま、直美の肩を揉み始めた。あまりに長い間の緊張で、すっかり凝り固まっている。
「く、くすぐったい……でも、上手」
「ありがとうございます。私は直美先輩が部長じゃなかったら、この部に入る決心も、兄に負けずに文芸を続ける決心もできませんでした。最初に入部届を手渡してくれたこと、今も覚えているんです。確かに一度は、辞めてしまいそうになりましたけど……直美先輩が考え直して、一緒に兄と戦ってくれたから、今の私があるんです。だから……直美先輩は、疲れているだけですよ。肩の力を抜いて、ゆっくり休んでください」
 その様子を見ていた中津と浦川は、互いに顔を見合わせ、合図のように頷いた。
「天海さんの言った通りですね」
「ああ。わたしたちの出る幕ではないな」
 直美は少し寂しさを感じながらも、大きな安心で満たされていった。そこで、二人の先輩は席を立つ。
「そろそろお暇しますね。ありがとうございました」
「機会があれば、また会おう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
 去っていく二人の背を追い、直美は入口から外へ顔を出して呼びかける。
「今度は自信を持って会えるように、頑張ります!」
 その声は雑踏に消え、きっと届かなかった。それでも、直美は改めて、必ずやり遂げようと決意した。

 自分は今、道を踏み外さずにいる。部長の仕事も続けられている。何度も浮き沈みを繰り返した直美には、確かな自信が育ちつつあった。あとは、結果を出すだけだ。
 作品の締め切りまで一か月に迫った大会について、顧問から説明を受けた放課後。直美は一花と佳乃を呼び止め、今後の流れを確認した。
「まず私たちの目標は、佳乃さんの入賞。そのためには、しっかりと作品を磨き上げる必要があるけど……佳乃さんが部誌に出した詩なら、そのまま提出しても、悪い結果にはならないと思う」
「そうだね。ちゃんと合評もしたし、佳乃ちゃんはそれに応えてくれた。きっと勝てるよ!」
 しかし佳乃は、思いつめた表情のまま動かない。どこか上の空だ。
「佳乃さん、大丈夫?」
「あっ、すみません。あの、考えていることがあって」
「良かったら、聞かせてくれるかな」
「はい」
 そして、佳乃は遠慮がちに話し始めた。
「大会に向けて、新しい作品を書いてみたいんです。仮に、あの作品で賞を獲れたとして……それで、文芸を続けられることになったとしても、根本的な解決にならないと思うんです」
「それは、お兄さんを本当に納得させることはできない、みたいなこと?」
「はい。兄も最近は干渉してきませんし、それは良いことなんですけど、兄が文芸を無暗に嫌っていることは変わりません。私はそれを知りながら文芸を続けるのが、少し心苦しいんです」
「それで、新しい作品を?」
「はい。兄に向けて書きたいと思います。考えることは違っても、私たちは兄妹なので。それで……文芸は嫌いなままでも、私のことについては、安心してもらいたいんです」
 直美は佳乃の考えを理解して頷くが、一花は納得しきれない様子で、腕を組んで唸っている。
「最終的には、佳乃さんとお兄さんの問題だから……佳乃さんのやりたい方法を選ぶのが一番だと思う」
「結果出して、打ちのめして終わり! ってわけにはいかないの?」
「それだけだと、一花はスッキリするかもしれないけど、佳乃さんは兄妹だから、その後も気を遣うことになる」
「そっか……でも、新しい作品を書くなら、それは応援するよ」
「一花はそれでいいと思う」
「ありがとうございます。もうしばらく、よろしくお願いします」
 その後は、一花の提案のもと、三人で円陣を組んだ。大会に向けて、気合を入れなおす。直美も、大会には何としても新しい作品を出したいと思っていた。
 その夜、直美に突然、意外な人物からのメールが届く。
「唐澤さん……」
 画面を前に、思わず声が出た。その本文を読んで、直美はさらに驚く。
『とても久しぶりだ。顧問に今の部長が鳴滝だと聞いて、連絡させてもらった。大会に出させてほしい。小説を一編書いた。どうかこれを、合評にかけてはくれないだろうか』
 直美にとって、それは純粋に喜ばしい申し出だった。共に活動した期間は短かったが、大切に思う先輩の一人であることに変わりはない。大会にはまだ間に合う。
 しかし、一花や珠枝にとってはどうだろう。唐澤の復帰に、二人との少なからぬわだかまりが障壁になりはしないか。直美は考えたが、やはり唐澤をすぐに全員参加の場へ呼ぶことは望ましくないと思われた。
 そこで、まずは一花にメッセージを送る。
『唐澤さんからメールが来た。小説を書いたから、合評をしたいって。いきなりは難しいから、一回会って話そうと思うんだけど、一花も来てくれる?』
 返信はすぐに来た。
『正直に言うと嫌。会ったら怒っちゃいそう。でも、行かなきゃダメだよね?』
 葛藤の見える文面だが、完全な拒否でないことを、直美はとにかく感謝した。
『このままだと、お互い遠慮した合評になるかもしれない。それだと意味がないから。お願い』
『だよね。じゃあ行くよ。怒りそうになったら止めてね』
『ありがとう』
 そのまま、唐澤との約束も取り付ける。三人は明後日の放課後、部室で会うことに決まった。

 唐澤は一人、手前側の席にじっと座っていた。
「唐澤さん。お久しぶりです」
 直美が声を掛けると、彼は席を立ち、いかにも真面目そうな表情で向き直った。かつて長く乱れていた髪は、短く刈り上げられている。
「突然のことで、迷惑をかけたと思う。このような場を設けて頂くのは心苦しくもあるが……しかし、ありがたい。小池が来るのだったな」
 まるで別人のような恭しさ。直美は戸惑いながらも返事をする。
「はい。もう少しで来ると思います。座って待ちましょう」
「ああ」
 会話はそれきりなかった。唐澤は口を閉ざし、ただ俯きがちに座っていた。
「直ちゃん……に、唐澤先輩」
 やがて、一花が飛び込んでくる。唐澤を見て表情を強張らせるが、すぐさま状況を察し、直美の隣の席に着いた。
「お待たせして、すみません」
 遅刻したわけではないが、一花は小さな声で謝った。そこでようやく、唐澤の口が開いた。
「今日は、俺のために申し訳なかった。そして、これまで多大な迷惑や、心配をかけたことも」
 やはり、かつての高慢さからは想像もつかない低い姿勢。一花はたちまち震え上がった。
「やめてください。今更そんなこと……」
「一花。話は聞こう」
 もはや前のめりになりかけた一花を、直美は冷静になだめる。そうして十分な静寂が戻った後で、唐澤はリュックからコピー用紙の束を取り出し、話を続けた。
「これが原稿だ。『折れない硬筆』。正真正銘、俺が自分自身と向き合い、見栄や名声のためではなく、ただ、このまま終わりたくはないという一心で書き上げた作品だ。どうか、合評をしてほしい。そして、この作品を大会に出し……己を試したい」
 そこで一花が直美に、目線で何かの許可を求めた。直美が頷くと、一花は差し出された原稿を取り上げ、目を通し始めた。その間、直美は話を続ける。
「唐澤さんのことを、天海さんにはまだ話していません。直接会って、唐澤さん自身に話してほしいと思っています」
「承知している。俺はもう逃げない」
「どうしてですか」
 そこで、不意に一花が問いかけた。読み止しの原稿が机に置かれる。
「途中までですけど、唐澤先輩が心を入れ替えて書こうとしているのはわかりました。疑ってごめんなさい。でも、少し怪しいというか、やっぱり変だと思います。何があったのか、聞かせてください」
 直美も唐澤の原稿を手に取り、その冒頭を読んだ。物語は、ある九歳の少年が、ガールフレンドのために似顔絵を描いてプレゼントするも、その出来を笑われ、拒絶されてしまうところから始まっている。以前の作品とは根本的に異なる、迫真の書き出し。そこまででも、直美が一花の持った疑問を理解するには十分だった。
 唐澤は暫し口をつぐんでいたが、直美が原稿を机に戻すと、いよいよ決心したように語り始めた。
「俺に、悪魔の囁きがあったのだ。あれは四月の半ばだった。一年の頃のクラスメートが、突然俺を訪ねてきた。そして、俺が文芸部を休部するに至った経緯を知りたいと言ったのだ」
 唐澤を訪ねた人物。直美は一瞬、佳乃の兄を思い浮かべる。その直感は、一花によってすぐに答え合わせがされた。
「唐澤先輩。もしかしてその人、波田とかいいませんか?」
「そうだが……何故知っている?」
 案の定。直美と一花は顔を見合わせる。
「ちょっと、またの機会に。続きを聞かせてください」
「ああ。俺は波田に、何故そのような質問をするのかと聞き返した。すると波田は言った。妹が文芸部に入ろうとしているから、様子を知りたいと。しかし、俺が休部した経緯を知りたいというのは、その動機とどうも乖離があるように感じた。俺は話すつもりもなかったから、文芸部の様子を知りたいなら天海のところにでも行けと言った。すると波田は、こんなことを言い始めた。『文芸部は、女子ばかりだと聞いているが……文芸などしているのだから、性格の悪い奴がいるかもしれない。もしや唐澤が休部したのも、いじめられでもしたのかと思ったんだ。妹がそんなところに入るのは困るだろう』と」
「許せない!」
 侮辱的な言葉に、一花は力いっぱい拳を机に叩きつけて叫んだ。直美も歯を食いしばる。
「俺は確かに休部した身だったが、一度は属した部……何より、一度は憧れた浦川氏の立ち上げた文芸部を踏みにじられたように感じた。だから俺は、何も答えずに波田を追い返した。波田は俺の答え次第では、文芸部の悪評を吹聴したかもしれない。いや、間違いなくそうしただろうと思う。あのときの波田の目には、悪魔が宿っていた」
 確認すれば、それは四月の半ばのこと。二人が最初に佳乃の兄と接触する以前のことだった。あの段階で既にこのような動きがあったことに、直美は戦慄する。
「唐澤先輩、ナイスです! ちょっと見直しました!」
「ああ……俺はそれまで、もはや文芸部のことは他人事だと思っていた。しかし、そうした悪魔の囁きに遭って、俺にもまだ、文芸部を大切に思うことがあると自覚できた。そして、俺の存在が文芸部の恥になるのならば、それを雪いで引退するのが筋だと思った。だから、俺はがむしゃらに、かつて縋っていたプライドなども捨て去り、とにかく自力で作品を完成させなければならないと思った。そうして完成したのがこの作品だ」
 話が終わっても、直美は恐ろしさのあまりに言葉が出なかった。思考までもが金縛りに遭ったように硬直していた。一花が肩に優しく触れる。
「直ちゃん……大丈夫?」
「ごめん。落ち着くまで、ちょっと待って」
 唐澤もさすがに心配した様子だった。
「波田と、何かあったのか?」
「いろいろと。直ちゃん、唐澤先輩に話してもいい?」
「うん。お願い」
 話を聞いて連帯感が生まれたのか、すっかり打ち解けた様子で一花が説明する。
「実はその、妹の佳乃ちゃんが文芸部に入部したんですよ。今は、とりあえず活動だけは続けられているんですけど……お兄さんはどうしても文芸が嫌いで、佳乃ちゃんを辞めさせようとしているんです。今は、妨害しない代わりに、大会で成績が出せなかったら辞めるって約束をしています」
「なんと身勝手な……わかった。当然のことだが、俺も協力させてほしい」
「そうと決まれば、早く合流しましょう。直ちゃん、次はみんなで集まろうよ」
 直美は二人のやり取りを見て、いつまでも恐れてはいられないと思った。一花の提案に対して一度、はっきりと頷く。
「そうだね。でも、その前に天海さんのことは……」
「天海には、明日にでも俺から話しておく」
「わかりました。では週明けに、唐澤さんの合評をします」
 文芸部は、本当の全員での団結を取り戻す。呪縛を打ち破った唐澤の姿は、直美に新たな勇気を与えた。

 部室の隅で埃をかぶっていた椅子を、直美は雑巾で丁寧に拭く。そこに、佳乃が入ってきた。
「お疲れ様です。掃除ですか? 私も手伝います」
「ありがとう。今日は、久しぶりに五人だから。この椅子、そっちに運んでくれるかな」
「はい」
 続けて直美は同じように机の埃を拭き取り、部室の中央へと運んだ。五人分の座席の準備が整った。
「唐澤裕先輩……不躾な質問かもしれませんが、いつから休部を?」
「去年の夏部誌……第二号を作ってたときから。唐澤さんの作品が読めるのは、第一号だけかな。当時は、ペンネームがリッチ・カラサワだったんだけど……」
「鳴滝。俺はその名前を捨てたぞ」
 唐澤が、直美の話を遮りながら入ってくる。
「ところで、鳴滝は天海のことを、本名で呼ぶようになったな」
「はい。最近は、本名で呼びたい気分です」
「珠枝先輩のペンネームって、たけのこでしたよね。最初に聞いたとき、すごくかわいいと思いました」
「そうなんだけど……真面目な話のときだと、ちょっと呼びにくくて」
 そこに、珠枝がこっそりと入り込み、直美の後ろに立つ。
「私のペンネームが呼びにくいって?」
「わっ、すみません。でも、私は好きです。本当です」
 驚いて謝る直美に、珠枝は遠慮なく笑った。
「まあ、元々そんなに呼ばれるのは想定してなかったからね。でも、たけのこだって真面目な意味があるんだよ?」
「たけのこのように、ぐんぐんと成長する……でしたよね。天海さんは実際にその通りになって、本当にすごいと思います」
「ああっ、みんなで楽しそうな話してる!」
 最後に来た一花は、そのよく響く声で一挙に注目を集めた。
「ペンネームと言えばあたしでしょ。あたしのペンネームに込められた願いは山よりも高く、海よりも深い!」
「いや、単に『大きくなりたい』ってだけでしょ」
 一花のペンネームは、大沼百花。自分の名前のスケールをそのまま大きくした直球勝負だ。佳乃が、それに対する感想を呟く。
「一花先輩、背が低いの気にしてるんですか?」
 次の瞬間、一花の表情からすっと笑顔が消え、冷え切った目線が佳乃を捉えた。
「……佳乃ちゃん。今のは言わなかったことにしよう。それでいいね?」
「す、すみません……」
 これが、全員揃った文芸部だ。一人増えただけなのに、一気に明るく、賑やかになった気がする。直美は感慨を笑顔に含ませ、高らかに宣言した。
「みんな揃ったので、唐澤さんの合評を始めましょう」

 唐澤の作品『折れない硬筆』の合評は、佳乃の感想から始まった。
「すごく、執念を感じる作品でした。見た目は小学生の話で、最初はかわいらしく思ったんですけど、描き出される心理は、子供だからと侮れない強さと複雑さを感じました。それだけに最後、ガールフレンドに振り向いてもらったときには、ちょっとした感動がありました。面白かったです」
 佳乃に続き、一花も作品を絶賛する。
「正直、唐澤先輩にはできないと思ってました。だから、謝らないといけません。本当にごめんなさい。小学生の話にしては重すぎるとも思いますけど、なんとしても絵が上手くなりたくて努力する気持ちには共感できますし、先が気になって一気に読めるんですよね。去年のあの作品が、逆に信じられないくらいでした」
 唐澤はそれでも浮ついた様子を見せず、原稿には二言ほどのメモだけを残している。タイミングを見て、直美も感想を告げた。
「あの、唐澤さんがどれだけ本気か、作品を読んで真に理解できました。暴走気味なところもありますが、流れ自体はオーソドックスで読みやすかったです。私の感覚だと、もう少し緊張の緩まるような場面があって、緩急がついてくると、もっと良くなると思います」
 後輩たちが口々に賛辞を述べる中、珠枝だけは、原稿の最初のページを睨んで首を傾げていた。
「あのさ、唐澤。作品自体は、そこまで悪いものではないけど……好きな人に振られて奮い立つってところ、なんか不純じゃない? この子がというより、唐澤自身がさ」
 作者に対する直接的苦言。唐澤は何も答えず、表情も変えない。直美は珠枝が何故そのような問いかけをしたのかわからず不審に思う。
「それは……どういうことですか?」
 ところが、珠枝は直美の質問に対しては、言葉を濁すのだった。直美だけでなく、佳乃の顔色も窺いながら。
「ああ……ごめん。変なこと言っちゃったかもね。とりあえず、気にせず続けてよ」
 話を誤魔化そうとする珠枝に、一花が追及する。
「天海先輩もしかして、この作品によく似た作品を知ってるとかですか?」
「違う違う。パクリではないと思うよ」
 答えを明かしたのは、あらぬ疑いを掛けられた唐澤だった。
「これは断じて盗作などではない。徹頭徹尾、俺の魂の叫びだ。天海が言うのは、俺が何者かへの意趣返しのために、このような筋書きの作品を書いたのだろうということだな」
 何者か。敢えて秘匿した表現だったが、この作品の書かれた経緯を聞いていた直美や一花には、瞬時にそれの指す人物が浮かんだ。
 しかし、妹を前にして、誰もその真実へ踏み込むことはできなかった。先輩たちのただならぬ様子に、佳乃は不安の表情で小さく手を挙げる。
「それは……どういうことですか?」
 話を切り出した責任感からか、珠枝が言葉を選びつつ答えた。
「この話の冒頭の状況が、前に私たちの周りで流れた噂話に似てるんだよね。この作品は大会用だから、本人の目に触れることはないかもしれないけど……私は唐澤がこの話を書こうとしたときのことを聞いてて、やっぱりその噂の人に、少なからず悪意があったんじゃないかって思ったの。で、唐澤はそれを認めるんでしょ?」
「ああ。それは認める」
 唐澤は何かを諦めたような表情で即答した。そして、おもむろに言葉を続ける。
「冒頭のこの展開が、そう読み取れる作品になったことは否定しない。しかし、それを不純だと言うことには反論したい。この作品にとって、俺の受けた屈辱は必然のものだ。それを跳ね除けて戦う心の物語なのだからな」
「そういうものが、唐澤にとっての燃料だったってわけか……」
 珠枝は少しの間、呆れたように視線を落とした。次の言葉を待って、場は一気に沈黙する。
「私の気持ちとしては、あんまり歓迎できないけど……作品自体は悪くないし、唐澤の背景なんて大半の読む人には関係ないし、どうしてもこれで行きたいって言うなら止められない。でも、この作品にそういう危うさがあることを、唐澤にはしっかり認識してほしい」
「危うさ……か。しかし、代わりのものをすぐには用意できない。今日はこの形で、合評を進めてくれないか」
「まあ、そうだね」
 その後、通常と同じ流れで合評を進めながらも、直美は一人、またも深く考え込んでいた。明確な背景を知らずに読んだ段階で、この作品に一定の質があることはわかっている。しかしそれは正当なものなのか。問題の表現を当たり障りのないものに差し替えれば解決するのか。
 何より直美の集中力を奪ったのは、佳乃のいるこの場で、あの男の過去が示唆されてしまったという事実だった。

「唐澤さんの作品のことだけど……」
 帰り道、直美はその悩みを一花に打ち明けた。一花は少し億劫そうに、直美の言葉を遮って答える。
「直ちゃん、やっぱりそのこと考えてた。合評中もなんだか上の空だったよね。唐澤先輩の作品なんだから、直ちゃんがそこまで気にすることないじゃん」
「私たちも唐澤さんの意図を知って合評をしたなら、連帯責任みたいなものはあるし」
「まあ、天海先輩も敏感になってたのかもしれないけど……あたしは正直、敢えて合評で触れることでもなかったんじゃないかって思うよ。ああやって聞かなかったら、先入観とか? そういうものを抜きにして読んできたし、大会に出るだけならそれで十分でしょ」
 直美は頷きながらも、一花の意見の全てを受け入れることはできなかった。珠枝も今回の指摘をすることには、確かな信念と覚悟が必要だったはずだ。
「天海さんは、それが最終的に私たちを守ることになると思って行動してくれたんだと思う。例えばこの作品が賞を獲ったりしてから、そういうことが明らかになるのはいい気分じゃない。あとは……佳乃さんのこと」
「それにしても、ねえ……佳乃ちゃんは、お兄さんが唐澤先輩に接触してたこと知らないでしょ。そもそも、あたしたちだって唐澤先輩が恨んでる相手を知ってるから天海先輩の話がわかったけどさ。普通はわからないよ」
 そうだといいとも、それならいいとも言えない。
「というか、直ちゃんは知ってたの? 佳乃ちゃんのお兄さんが去年、好きな人に……」
「待って一花。その話は、私……聞かないことにしてたの。一回、天海さんにそういう噂があるっていう話までは聞いたんだけど、内容は、やっぱり悪いと思って」
 一花は少し、呆れたように笑った。
「直ちゃんってば、これだけ酷い目に遭わされても優しいんだから。あたしはちょっと前に、通りすがりの三年生から聞いたんだけど……もう、信じられなかったよ。完全に逆恨みなんだもん。それでさ、もう一年以上引きずってるんでしょ。唐澤先輩未満だよ」
「でも……私たちは、佳乃さんのお兄さんを打ち負かすとか、仕返しするとかのために、文芸を続けてるんじゃないよ。できることなら、ちゃんと和解して終わりたい。印象とか、噂だけで相手のことを決めつけて、否定してるばっかりじゃダメだと思う。そうしているうちは、わだかまりが消えないから」
「でもさあ。唐澤先輩は絶対それだよね。それで満足できるなら、余計に口出ししないほうがいいと思うよ」
「うん……」
 直美は対話の中で、自分の意思を確かめることができた。しかし、一花との決定的な考えの違いも明らかになってしまった。
 以前ならばこの時点で自信を失い、一花に追従して終わっただろうと直美は考える。今回はどうか。合評で珠枝が示した覚悟を無駄にするのか。自分にできることとは――。

 二日後には佳乃の合評が開かれた。新たに持ち込まれたのは、『となり合った苗木』という題の詩だ。
 見た目はよく似た、二本の苗木。土も、日の当たり方もほとんど同じ。とても近いけれど、同じではない。育っていくうち、枝葉がぶつかり合ったり、土の栄養を奪い合ったりすることもある。佳乃は「身近な人との関係」がテーマだと話したが、直美はそれが明らかに兄を意識したものだと悟るのだった。
 今回の作品も、唐澤を含めた部員からの評価は上々だった。部誌に掲載した作品の代わりに大会に出すことについても、反対する者はいなかった。
 直美は合評が終わると、佳乃を呼び止めた。
「佳乃さん。大会の後のことについて、少し話したいんだけど、いいかな」
「はい。いいですよ」
 一花には声を掛けなかった。もはやこれは、部長としての責任感を超えた意思だった。
「合評では話さなかったけど、この詩はやっぱりお兄さんとの関係を意識したの?」
「はい。唐澤先輩の合評で、こういう背景のことはあんまり言わないほうがいいかと思って、触れなかったんですけど」
「まあ……一花や天海さんも、気付いてたと思うけどね」
「大会では合評でお話した通り、身近な人との関係で行きたいと思います。兄の話は、いろいろ恥ずかしいので」
「いいと思うよ」
 テーマについて確認が取れたところで、直美はいよいよ本題を切り出す。
「それでね、佳乃さん。大会が終わった後、結果がどうであれ、この作品をお兄さんに見せると思うんだけど……そのとき、私も一緒にいていいかな」
「この間みたいに、ここで話す感じですか? ぜひ、そうしましょう」
「ありがとう。やっぱり、私はしっかり和解したくて。こんな条件一つで佳乃さんが許されたとしても、根本的な解決じゃないっていうのは私も思う。お兄さんが文芸に対して持ってる悪い思い込みを、できれば解消したい」
 すると佳乃は、一瞬ためらってから聞き返す。
「私も一つ、聞いてほしいことがあるんですけど、いいですか」
 迷いを振り切るように。しかし、申し訳なさそうに。直美はそんな佳乃に対して、慎重に頷いた。
「この間、兄が文芸を嫌うようになった理由を気にしてましたよね。そのヒントになるかもしれないものを、見つけたんです」
 佳乃はスマートフォンの画面を直美に見せる。そこには、部誌『逍遥』の第一号の写真が映し出されていた。
「これって、私たちの部誌。これを、お兄さんの部屋で?」
「はい。いけないとは思いつつも、兄の部屋を探していたら……ベッドの下で埃を被っていたのを見つけたんです」
 第一号は、昨年の春に頒布されていた。直美や一花も、入学間もない時期に手に取った部誌だ。直美は佳乃の行いの是非を考えるより先に、その部誌の意味するところに意識が向かった。
「お兄さんは、その頃から文芸部に目を付けてたってこと?」
「私も最初はそう思ったんですけど、このページに癖がついていて。手に取ったら開くくらい、何度も開いたみたいです」
 二枚目の写真が提示される。それは、『砂時計』という小説が始まるページだった。直美は反射的に、大好きなその作品の作者の名を口にする。
「日下部さんの作品」
「日下部つくし先輩は、中津先輩や浦川先輩と同じ代ですよね」
「うん。本名は、染谷珂那さん。その作品は、私もその部誌で一番好きだけど……」
「もしかしたら、兄と染谷先輩の間に、何かあったのかと思ったんです」
 佳乃の踏み込んだ推理に、直美は戸惑った。その真偽を確かめる術は、もはや限りなく少ない。ならば、これ以上聞いても仕方がない。佳乃には、優しく言い聞かせる。
「私も言える立場じゃないかもしれないけど、確かめる方法もないし、あんまり詮索するのは良くないと思う」
「はい……すみません、勝手に話したいだけ、話してしまって」
 佳乃は我に返ったように話をやめ、頭を下げる。直美は一瞬、惜しく思った。佳乃は兄が文芸を憎むに至った経緯を知っているのではないか、と。しかし、不必要にそれを聞き出すのは、やはり道義的ではない。
「私はあくまで、自然にお兄さんの本心を引き出して、そのうえで話がしたい。裏で調べ上げて弱点を探すようなことをしたら、対等に話しにくくなっちゃうから。もちろんこれは私の方法、考えでしかないけど」
「いいえ。私も少しでもお役に立ちたいと思うあまり、卑怯なことをしてしまいました」
 やるならば、正々堂々と。直美にも、楽な道ではないことはわかっていた。それで本当の和解を目指すという願いも、身の丈に合っているとは思わない。しかし、それが佳乃のために成し遂げるべきことであるのは明白だった。
「本当に和解できたなら……もう、佳乃さんにばかり謝らせるようなことにはしない。後腐れなく、のびのびと活動を続けられるようにする。そこまでは、ずるはしたくないから。きつい言い方だったらごめんね」
「私こそ、ごめんなさい。そのときまで……どうか、よろしくお願いします」
 覚悟は決まった。
「まずは大会に向けて、最後まで頑張ろう」
「はい!」
 いつまでも、弱みを見せていられない。

 白妙の雪野につけしわが足跡(あと)の消ゆると思ふ花のひとむら

 その帰り道、直美は一首の歌を得た。
 気が付けば、夏の盛りも過ぎている。学校祭が終わってからは、これまで彷徨ってきたことを振り返らなくなった。確実に、前に進むことができている。
 裏を返せば、それ以前はほとんど同じところをぐるぐると巡っていたようだ。それに気付かずいたことが、最大の弱みだったと直美は思った。
 昨年の春にこの文芸部に入ったときからそうだった。最初から、好きだった古典の知識や、歌を詠む感覚は身についていた。それを引き出す割合の違いこそあれ、新たなものはほとんど必要としなかった。
 考えてきたのは、ありのままという愚鈍な自分を、飼い太らせる方法ばかり。できないことからは目を逸らし、できていることに甘んじる。部長になってからの日々は、そうして脆弱になった心を、これでもかと叩き直してくれた。
 そうした心の成長と、文芸は確かに連動している。心の成長があれば文芸でも新たな境地を拓くことができ、一方で文芸の研鑽を積むことは、己の心を見つめ、磨くことと非常に近い。
 今ならあの男に睨まれても、臆することなく立ち向かえるだろう。
 その夕べには、いくつもの歌が夕焼けの空や、珍しく乾いた夜風や、満月の柔らかな光からもたらされた。

 そうして迎えた、大会の当日。午前中は他校との交流企画や、部門別の分科会が行われた。そのときは直美も佳乃も先に待ち受けるものを忘れ、数少ない機会を遠慮なく楽しむことができた。
 そして、いよいよ運命のときを前にする。短歌の分科会から戻った直美は、先に戻っていた佳乃に声を掛けた。
「佳乃さん、分科会はどうだった?」
「楽しかったです。何人かとても素敵な詩を書く方がいて、それを書くときの考えや、物事の感じ方について聞かせてもらえました。私の詩も、たくさん褒めていただいて……賞を獲ることより、嬉しいかもしれません」
「先生に認められて賞をもらうのと、仲間との間で交流して認め合うのは、やっぱり違うよね」
「はい。十月の全道大会も、絶対、参加したいです」
 佳乃も内心では、受賞できるかどうか気にしているのだろうか。直美は考える。それでも、佳乃は賞に対する執着を全く見せない。賞よりも、自分にとって大切なことを見つめている。
「行こう。天海さんや、唐澤さんは引退してしまうけど……一花と、三人で」
「はい。楽しみにしています」
 そこに、小説の分科会から一花が戻ってくる。
「二人ともお疲れ。直ちゃん、今年は緊張しないで参加できた?」
「もう、大丈夫だから。先輩方は?」
「二人でちょっと話すんだって。お弁当食べようよ」
 昼食を取る間は、一花も賞の話をしなかった。ただ、小説の分科会で出会った他校の部員と話したことなどを、二人が満腹になるまで報告するのだった。
 珠枝と唐澤の戻りは遅かった。しかし、休憩時間の半分を過ぎたあとで、揃って何事もなかったかのように戻ってきた。
「お疲れ。みんなもう、お昼は食べた?」
「お疲れ様です! 今終わったところですよ」
 三人に声を掛けつつ弁当箱を持ち出した珠枝をよそに、唐澤は一人、黙ってコンビニのおにぎりを二個、食べ始めるのだった。
「珠枝先輩、ぶっちゃけ告白されました?」
 一花は珠枝の腕をつつきながら、小声で詮索を始める。
「一花の期待するような話じゃないよ。ただまあ、戻ってきたら話すって決めてたことがあってね」
「それは逆に、珠枝先輩が告白したということですか」
「だから違うって。休部する前、私がどうしてずっと唐澤のことを気にしてたか。唐澤はちゃんと勘違いせずに聞いたぞ」
「むむむ……」
 珠枝にそれ以上話す気がないことを悟り、一花は引き下がる。それを見ていた直美は、改めて唐澤が復帰できたことを尊く思うのだった。
 結局、唐澤の作品は冒頭を変えることなく出品されている。しかし、一花によれば分科会での交流の際、唐澤の作品は概ね好評で、当然ながら、冒頭に秘められた感情を指摘する人はいなかったという。
「一花、もうやめとこう」
「わかった。珠枝先輩、すみませんでした」
「わかればよろしい。ついでに言うけど、私は一花のこともずっと大切に思ってるからね。直美ちゃんや、佳乃ちゃんも」
「はい。ありがとうございます」
 三人のお礼の言葉が揃った。それが可笑しくて、一花が真っ先に笑い出す。直美も続いて、少し笑った。佳乃は静かに笑顔を見せた。その瞬間、直美はほんの少し、寂しさを覚えるのだった。

 午後は分科会の報告から始まり、程なくして表彰式が始まった。まずは小説部門。直美は隣に座った佳乃が、徐々に表情を強張らせるのを見た。
「最優秀賞、該当作はありません。優秀賞……」
 やや年配の教師が、刻むような抑揚をつけて受賞者の氏名と作品名を読み上げていく。それは、事前に渡されていた名簿の順だった。直美たちの高校は、その最後に位置し、名前は学年順に並んでいる。
「豊橋高校三年、天海珠枝『抱卵』。以上が優秀賞です」
 珠枝の名が読み上げられ、佳乃もにわかに表情を明るくした。吉報は続く。
「豊橋高校二年、小池一花『走る理由』。以上が佳作です」
 名前を呼ばれた瞬間、一花は音が立つほど大きな身振りでガッツポーズを決めた。しかし、同時に唐澤は呼ばれないことが確定し、肩を落とす。直美は、その両方を見ていた。
 それでも、一喜一憂している暇はない。間もなく詩部門の発表が始まる。佳乃は祈るように両手を組み、膝の間に置いた。
「詩部門。最優秀賞、三沢高校三年、橋上恵『満ち潮』」
 滅多に出ない最優秀賞が二年連続で出たことに場がどよめく。直美もその作品には目を通し、受賞候補として名前を憶えていたが、最優秀賞を獲るという予想はできなかった。実際、詩部門には他にも強力なライバルが多い。
 優秀賞が読み上げられ、直美はもはや、目を開けていられなかった。視覚を断って、一心に読み上げられるものに集中する。詩部門には佳乃しか出ていない。どのタイミングで名前が呼ばれるかは全く不明。名簿順では最後だから、『以上』と告げられれば終わりだ。
 しかし、その祈りを長く続ける必要はなかった。
「豊橋高校一年、波田佳乃『となり合った苗木』。以上が優秀賞です」
 直美が目を開けて顔を上げると、佳乃とぴったり目が合った。言葉を交わす前から、二人は感動を共有していた。

 翌週の月曜日に早速、佳乃によって最終決戦の約束が取り付けられた。直美は頭の中でシミュレーションを何度も繰り返したが、昼休みにもなると加速度的に緊張感が増してくるのだった。
「直ちゃん。今日は一緒に帰る?」
 教室の窓から外を眺めて心を落ち着かせていると、いつものように一花がやってくる。
「ごめん。今日は放課後、ちょっと用事があって」
 一花には声を掛けていない。頼りきりになりたくないというのが、最大の理由だ。
「そっか。佳乃ちゃん、お兄さんと話せたかな」
「佳乃さんなら、きっと大丈夫。こうして約束を果たしたのに、欺くようなことがあったら許さない」
「そうだね。そんなことがあったら、あたしが力ずくで……はダメか。直接殴り込み! も、ちょっと違うか。どうすればいいのかな?」
「お兄さんの考えも気持ちも、すぐには変わらないかもしれない。でも、佳乃さんの思いが伝われば、絶対にうまくいくと思う。諦めないで、佳乃さんを支えてあげよう」
「わかった!」
 考えの違いはあっても、一花が頼もしい親友であることには変わりない。そのとっておきの力は、万が一のときに残しておくのだ。
 そして、放課後。佳乃とは部室へ向かう途中に合流した。
「お兄さんは来てくれそう?」
「はい。賞を獲ったことを伝えて、そのうえで、ちゃんと話がしたいと言いました。そうしたら、『わかった』って言ってくれました。きっと来ますよ」
「ありがとう」
「それから、大会に出した詩も渡してきました。それは、読んでるかわかりませんが……」
「後からでも、読んでくれたらいいと思う」
「そうですね」
 兄が来るまでの間、二人は立ったまま作戦会議をした。感情的にならず、否定せず、相手の考えを引き出せるように。これまでの決着をつけるのではなく、先に向けて円満な解決を導けるように。内容は、以前から確かめてきたことばかりだった。
 やがて、兄は静かに戸を開けて現れた。言葉を発さないまま、三歩の距離まで来て二人と向き合う。直美が彼の姿を見るのは久しぶりだったが、容姿に大きな違いはなかった。しかし、思い返すたびに恐ろしさを増していたあの目には、相手を脅すような鋭さがない。
 先に話を切り出したのは佳乃だった。
「来てくれてありがとう。土曜日にも話したけど、私は大会で結果を出した。だから、これからも文芸部での活動を続けさせてほしい。それはいい?」
「約束だからな。認めてやる」
 兄は前回の高圧的な態度と比較して、幾分穏やかに言った。
「ありがとう。私からは、とりあえず終わり。あとは、鳴滝部長の話を聞いてほしい」
「それが本題なんだろう。早く話せ」
 言葉は乱暴だが、恐れるほどではない。直美は考えてきた言葉をたどり始めた。
「お兄さんは、ここまで文芸部に対して、様々な妨害を仕掛けてきました。部誌の配布場所に居座ったり、佳乃さんを入部させないように干渉したり、退部届を出させようとしたり……唐澤さんから、部の悪評を聞き出そうとしたことも確認しています。これらのことは、本来なら、許されるはずのことではありません。
 今日も私は、お兄さんが佳乃さんとの約束を反故にする可能性を、考えずにはいられませんでした。それだけ不審で……私たちに、恐怖を感じさせていたことは、どうか自覚していてもらいたいと思います」
 兄は滝行のようにうなだれ、黙って聞いていた。直美は話を続ける。
「ただ、私たちはお兄さんのことを、いつまでも責め続けるつもりはありません。佳乃さんの活動を認めてくださった今、過去の行いについては、咎めないことにしたいと思っています。その代わり、一つだけお願いをさせてください」
「ああ。聞こう」
「お兄さんが文芸について良くない印象を持ったままでは、佳乃さんが文芸を続けにくくなってしまいます。少しずつでも……文芸の良い側面を知って、理解して欲しいと思います」
「良い側面……か」
 それから、長い沈黙があった。兄は両手を握りしめ、うなだれたまま体を震わせていた。
「私がいて話しにくかったら、ちょっと席外すけど」
 佳乃が気を遣って声を掛けると、兄は小さく頷く。
「では、直美先輩。兄をよろしくお願いします」
「わかった。ありがとう」
 そして、佳乃は足早に部室を出た。戸が閉められ、足音が聞こえなくなった頃、ようやく兄が話を再開する。
「良い側面と言ったな。これでも、俺はそれを知っているつもりだ。お前たち文芸部員は……確かに、その文芸の良い側面を引き出す方法を知っていることも理解している。しかし、俺はそれがきっかけで、人間の悪を見なければならなかった。認めよう。これは逆恨みだ。この学校に文芸部ができ、俺があの作品に出合わなければ……こうなることもなかったのだろう、と」
 ついに、彼がその深い心の傷を露わにした。直美は佳乃が見せた部誌の写真を思い返しながら、じっと耳を傾ける。
「お前も……鳴滝といったな。知っているだろうが、『砂時計』という作品があった。俺の一つ上の、染谷さんという人が書いた、可憐な恋愛小説だ。その純真で、現実の上ではあまりに儚い世界観に、俺は夢中になった。そのあまりに、信じられぬ勢いで、俺から詩が生まれたのだ。それは、高らかに絶頂を迎えたときと同じ……濃厚な愛欲にまみれた、振り返れば醜いほどの言葉だったが、俺はもはや、染谷さんにそれを届け、あわよくば交際したいという衝動でいっぱいだった」
 しかし。染谷への思いを早口に語っていた兄が、不意に言葉を途切れさせる。次には、声のトーンが大きく落ちていた。
「学校祭の後、俺は染谷さんを呼び出し、その詩を届けた。そして、思いの丈を伝えた。それ自体が、まさに崩壊だった。
 染谷さんに非があったわけではないのはわかっている。むしろ、染谷さんは最後まで笑顔で、俺の詩を歓迎してくれていた。付き合うことはできないと言ったが、失意の中にあった俺を慰め、そのことは誰にも話さないと約束してくれた」
 直美が振り返っても、実際、染谷は立派にその約束を守っていた。学校祭の直後でさえ、そのような告白をされたという素振りすら見せていなかった。
「それでも、漏れたのだ。俺が学校の敷地内を選んだのも悪かったが、俺の学年の何者かが、瞬く間にそのことを噂として広め始めた。当時、俺はそこまで周囲と関わらず、どちらかと言えば平穏に過ごしていたのだが……噂は悪意によって歪められ、拡散された結果、周囲の者の俺への印象は、それで完全に塗り替えられた。俺は変質者のような目で見られることになったのだ。それは相手を特定できるような、直接的なやり方ではない。俺への無意識的な悪意が、いつの間にか辺りを満たしていたのだ。中には擁護してくれる者もあったが、その善意すら、俺は信じられなくなっていった」
 直美は息を呑む。この高校でも、そのような事案があったとは。しかし、今はその事実について考えるときではない。
「ちょうどそのときだ。佳乃が、夏休みの課題に出した詩で賞を獲ったのは。俺は何もかもが恨めしかった。最初は、佳乃に当たってしまった。思いのほか、気持ちが良かった。そして俺は、このことを思い出させるようなもの……文芸全般を遠ざけるようになった。
 その後、噂はだんだんと勢いを失い、ようやく平穏が戻りかけた。しかし佳乃がこの学校に合格すると、文芸部に入りたいと言い出した。俺は何としても止めなければならないと思った。そこからは、知るとおりだ」
 全ての回想が終わると、兄はその場で、深く頭を下げた。
「……本当に、申し訳なかった。佳乃が、どれだけ干渉しても強い意志で文芸を続けるのを見るうち、俺は自分の醜さを、弱さを、思い知らされることになった。俺が言うのも、烏滸がましいかもしれないが……佳乃のことを、これからもよろしく頼む」
 直美は彼の言葉を振り返る。こうして全ての感情を認め、懺悔して前に進もうとする彼を、これ以上追及する必要はない。交渉のために考えていた言葉もいらなかった。
「話してくださって、ありがとうございます。お兄さんが本当は、文芸を憎んでいないということを、部員にも伝えたいと思います。佳乃さんのことは、任せてください」
「……ああ。感謝する」
 やがて、佳乃が恐る恐る戸を開けた。直美は微笑んで手を振る。
「佳乃さん。もういいよ」
 そこで佳乃も瞬時に、全てが終わった後であることを理解した。途端に勢いよく戸を引き、駆け寄ってくる。
「良かった、本当に良かったです!」
 直美と手を取り合って喜ぶ佳乃に、兄が優しく声を掛ける。
「佳乃。これまでさんざん、ひどいことを言ってごめんよ。俺も、佳乃に詩の才能がないと思っているわけじゃない。大会に出した詩も、読ませてもらった。まるで俺のために書かれたのかと思うほど、心に刺さったよ。これからも頑張れ」
「ありがとう……兄ちゃんっ」
 すると佳乃は、兄に正面から抱き着いた。
「おい、佳乃……」
「だって……ずっと、怖かったんだもん。このまま、わかってもらえないまま離れちゃうんじゃないかって。あの詩も、兄ちゃんのために書いたんだから」
 直美も半ば驚きながら、佳乃の甘えた声を聞いていた。兄弟のいない直美は、その気持ちを完全には想像できずもどかしかった。しかし、佳乃もこの日を迎えるために、見た目以上の努力や、時には無理をしていたことを悟る。
 やがて佳乃は兄から離れ、直美に軽く頭を下げた。
「すみません。みっともないところを、見せてしまいました」
「ううん。佳乃さんも、これまで頑張ってきたし……私は、素敵だと思う」
「そうですかね……まあとにかく、直美先輩も本当に、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします!」

 その週末、街中のイタリアンレストランで大会の打ち上げが行われた。各々の注文を終えたタイミングで、直美からの発表が行われる。
「まずは、皆さんに報告があります。佳乃さんがこれからも文芸部で活動できることになりました」
「良かった!」
「佳乃ちゃんおめでとう!」
 拍手とともに、一花と珠枝が声を上げる。その中で、佳乃ははにかみながら立ち上がった。
「まずは、今まで私や兄のことで、たくさんのご迷惑、ご心配をおかけしたこと、改めて申し訳ありませんでした。それでも、皆さんは私に温かく接してくださって……たくさんの、大切なことを教えてくれました。これからというときに、珠枝先輩や、唐澤先輩が引退されてしまうのは、とても悲しいですが……私も、後輩にそんなふうに思ってもらえるような先輩になれるよう、これからも頑張ります」
 そこに、注文した飲み物が来た。一花が囃し立てる。
「佳乃ちゃん、そのまま乾杯言っちゃおう!」
 佳乃は一瞬戸惑ったものの、こぼれるほどの笑顔で応じた。
「はい。それでは……皆さんに、ありったけの感謝を込めて。乾杯!」
「乾杯!」
 間もなくピザやパスタも来て、打ち上げは主に一花の賑やかしにより、明るい雰囲気で進んだ。
 しかしその間にも、直美は珠枝や唐澤とこのような機会を持つのが最後になるかもしれないということを、意識せずにいられなかった。しかも今年は、佳乃のことばかり考えていた結果、昨年は引退する先輩に渡すことができた色紙を用意できなかったのだ。
「天海先輩は、小説続けるんですか?」
 一花はどんどんと会話を主導していく。
「とりあえず、受験に集中するかな。東京行こうと思っててさ。行きたい大学、今C判定なんだよね。ここから巻き返す!」
「あたしもC判定くらい欲しいですよ。分けてください」
「一花はまだまだこれからじゃん。元々根性あるんだし、絶対伸びるって」
「唐澤先輩は?」
「俺はやり遂げた。文芸は一旦やめて、他のことを探すつもりだ」
「でも志望校、アキ先輩やフミ先輩と同じところなんでしょ」
「それとこれとは無関係。あそこは一万人以上が在籍する大学だ。偶然でもなければ、会うこともないだろう」
「まあ、ちゃんとやり切ったのは認めるけどさ」
「あっ! 直ちゃん、今年色紙作ってないよね?」
 直美の心臓が跳ねる。ついに一花が気付いた。それでも、唐澤や珠枝は特に残念がる様子を見せない。
「なければそれでいい」
「ファンレターは喜ぶくせに、素直じゃないな。まあ、私も絶対欲しいわけじゃないし、こうしてみんな揃って楽しい打ち上げができただけでも十分だよ」
 色紙はなくてもいい。しかし、その代わりもないのは寂しすぎる。直美はとっさに口を開いた。
「天海さん、唐澤さん」
「直美ちゃん、どうした?」
「色紙は用意できませんでしたが……伝えたいことがあります。私が文芸部に入ってから今日まで、特に、部長になってから今日までは全部が大切で、そのまま作品として残したくなるほど、たくさんのことを感じてきました。その中に先輩方がいてくださったことには、いくら感謝しても足りないくらいです。その大きさを言い表す言葉がすぐに出ないのが今、とてももどかしいです」
「どういたしまして。直美ちゃんもしっかり成長してるよ」
 珠枝は何度か瞬きをして、直美を見つめなおした。
「そうだなあ。今、文芸部での日々を作品に残したいって言ったよね。それにタイトルをつけるとしたら……直美ちゃんはどうする?」
 最後の導きだと直美は直感した。そのとき、これまで直美の出会ってきた言葉の中から、二語のタイトルが浮かび上がった。
「文芸人の精神。これです。私がここで一つ一つ学んできた『文芸人の精神』が、タイトルです」
 唐澤が口をはさむ。
「『精神』よりは『スピリット』のほうが、語感が良いだろう」
「直美ちゃんを中二病に巻き込まないの。『文芸人の精神』、なんかいいね。『文芸人』っていうワードも、いつの間にか引き継がれてるし」
 珠枝は反対したが、直美は唐澤の案も満更ではなかった。そのほうが、少しだけ自分の外の世界を感じられるような気がした。
「『文芸人』という言葉はもともとあまり深い意味はなさそうですけど、その分、自分なりの見方を見つける余地があると思います。これからも、それを求め続けたいと思います」
 冬を抜ければ短い春があり、やがては夏がやってきた。次は、まだ知らない秋が待っている。その先には次の冬がある。
 直美の胸には、既にこれからの季節へ向かっていく勇気があった。
 その名を冠した物語が残っていた。

文芸人のスピリット

文芸人のスピリット

今年で三年目の文芸部。しかし新入生の勧誘は難航し、廃部の危機に直面していた。 そこに文芸を憎む一人の男が立ちはだかる。一方、彼の妹である佳乃は文芸部への入部を希望していた。 部長となった直美は、佳乃を受け入れる決意をする。 その日から、文芸に伴う多くの苦悩との戦いが始まった。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-08

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