【長編】ヒトとして生まれて・第1巻

万田 竜人(まんだ りゅうじん)

第1巻・父親の存在感

はじめに

私にとって、1995年の放送大学との出会いは、人生観を変えるほどの衝撃的な
ものであった。私にとって、入学試験や入社試験などに対するトラウマ意識は生涯
の禍根としていまだに心中に棲みついている。

義務教育の終盤における15歳の春の大失敗は父親からの言葉「人間万事塞翁が馬」
によって、窮地を脱することになるのであるが、本文で詳しく物語ることにする。

当時(1995年頃)は、リカレント教育など、人生学び直しの機運が高まりつつ
あった時期で、超一流企業のエリートたちには会社の業務からは、離れて、海外に
おける学び直しなどが、稀有ではあったが存在していた。

その様な時に、私も人生の季節の変わり目の気配を感じ取って心理学の権威である
ユング博士の唱える「人生の午後」における有意義な過ごし方を強く意識していた。

最近の学び直しで知り得たことであるが、放送大学は日本政府が仕掛けた高等教育
の機関であり、そこにはセフティーネット的な意味合いがあるというのである。

私が放送大学の存在を知ったのは、当時、IHIの大手町本社に転勤となり、その
通勤途上で、電車内の広告を目にして強い印象をもったことがキッカケであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして、来年に、傘寿(80歳)を迎える、私宛に・・・

「最近、貴方は、放送大学においてⅢ期連続で受講を止めておりますが、このまま、
Ⅳ期連続で受講申込みがなければ除籍となります」という通知文が届いた。

実は、新型コロナ禍の影響で放送大学の受講を止めていたのだ。

既に「心理と教育」専攻を修了してNHKホールにおける卒業式にも出席しており、
最近は「人間と文化」専攻で、面接授業を主体にして受講を進めていた。

放送大学は、まだまだ、知名度的に、認知度が低く日本における国民からの関心も
低いが、私が主として面接授業に通っている東京文京学習センターは、東京茗荷谷
の筑波大学との合同学舎としての風情は、威風堂々としており、何よりも清潔感が
あって、私には学び舎としての郷という親しみ感がある。

そのような私にとっての学びのベースキャンプを新型コロナ禍のために失うことは、
まさに、学びのためのセーフティーネットを取り外す様な行為であり、賢明な選択
とは云い難い。

その様な局面で、面前に現れたのが 「オンライン授業」 の存在であった。

しかも 「生涯学習を考える」 と、題する授業の主任講師が、今年(2021年)
放送大学の学長に就任された岩永教授であり、かつて、私が、卒業研究でお世話に
なった教授である。

私が定年退職後にビジネスコンサルタントとして成功して契約期間4年間を超えて
約6年間も就業、一生涯学生作家として、星空文庫で活動を始めたのも岩永教授が
キッカケの人である。

今回のオンライン授業 「生涯学習を考える」において最終稿のレポートにおいて
私は次のような文章を記した。

オンライン授業 「生涯学習を考える」 放送大学 岩永教授担当
   ~ 第15単元のレポート ~

今回の15回の講義全体を振り返り、生涯学習についてあなたが学び、考えたこと
を、800字以内で述べてください。

【レポート】
☆ヒトとして生まれ人とのかかわりを通じて人間として成長して行くという社会化
の基本を知り、そこに生涯学習の意義があると学んだ。

☆それでは、自分が実際に「どの様な人々」に出会いどの様な影響を受けて育って
来たのか、自分自身の 「来し方を振り返り」 これからの 「行く末」について
考えてみることにする。

☆先ず、私を「ヒト」として産んでくれた、母親とのかかわりは、私の清濁(善悪)
をすべてそのまま受け入れてくれた「プラットフォーム的な存在」として、それは
大地の様な存在感であった。

☆15歳の春の大失敗において失意のどん底にあった私に「人間万事塞翁が馬」と
いう言葉によって、再起動してくれた父親は学問のすすめにある福沢諭吉の示唆に
則り、私を工学系機械科の道にガイドしてくれて、結果、実社会への門出において、
稀有な純国産ジェットエンジンの設計部門に送り込む段取りを付けてくれた。

☆社会人としての第一歩では、当時の土光社長から「学歴不問・適材適所」という
指針をいただき、人事部長からは 「上司は、まとめ役であって偉い人ではない」
ので気楽に相談するようにと云われ、素直に呑み込んで、以来、定年退職まで実証
実験的な人生を送り、完遂することが出来た。

☆配属先では、設計部長からジェット・エンジン設計の神髄を教わり、生産部門に
送り込まれてからは、本部長に昇進された同部長によって、海外派遣の機会をいた
だき、欧米における管理工学のエンジニアの方々との間で約1ケ月間交流の機会を
いただき、自身創案のビデオによる管理工学の世界を構築した。

☆その後は芝浦工業大学の津村教授主宰の社会人ゼミにも参加、異業種の管理工学
のエンジニアとの交流を重ねた。

☆管理職昇進後は、放送大学における教授陣や学友との交流の場で心理・教育学や
人間学に学び、人間的にも成長の機会をいただき実践的に役立てることが出来た。

☆これからの 「行く末」を考えた時に学習意欲に燃える孫たちに、私の生き様を
文書化して、いつでも解読出来る様な環境を整えて、彼らの生涯学習にとって少し
でも役立つ事が出来れば幸いと考えている。

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前掲のレポート文は、本稿への掲載の際に読み易く推敲しているため授業に際して
の提出文に加筆しているが、主旨とするところは踏襲している。

ここまでレポートして、私は人間的にはまだまだ未熟かつ未完成であり発展途上に
あることを考えると・・・

かつて、大昔に「人生とは?」と深く考え始めときに、ご先祖様から、この書籍に
目を通してみなさいと、掲示された 「人間の運命」芹沢光治良著を座右に置いて、
今「ヒトとして生まれて」と題した長編小説に取り組む必要性を感じた。


第1巻・父親の存在感

001 父と子と孫と

私としては狭山湖近郊の竹亭の暖簾を初めてくぐった。

本日の案内役の家内は埼玉県の主宰によって運営されている、生きがい大学の仲間
たちと来たことがあり、彼女のお薦めの店だけに、鎌倉のファミリーや、西東京市
ひばりが丘のファミリー衆も、店の雰囲気がすっかり気に入った様子であった。

竹亭周辺は東京都と埼玉県の県境で、私と家内と二人で自宅の入間市から竹亭周辺
を経由して、東京都武蔵村山市まで文明堂の工場直営のカステラ販売所を目指して
自動車を走らせるとき丘陵の下りの道では、マイカーのナビが・・・

「東京都に入りました」
「埼玉県に入りました」
と、頻繁に繰り返すほどに、東京都と埼玉県の県境が入り組んでいる地域である。

そして竹亭から近郊の狭山湖沿いの道路は、私が32歳の頃に東京都東大和市から
丘陵越えをして、現住所の入間市に引っ越して来た道でもある。
(あれから47年が経過したことになる)

竹亭のランチのテーブルは、新型コロナ禍への安全対策が良く工夫されており個々
にマスクの収納袋が配られたり、食事が終わった時点でのマスク着用の義務化など
が、テーブル上の小看板に明示されていた。

テーブル席では、孫たちと大人のグループが分かれて座り、既に私立中学の3年生
の孫と今年のコロナ禍の中で、私立中学に合格した孫が情報交換をしていた。
(まだ小学校5年生の孫は、傍で黙って、そのやりとりを聴いていた)

当然、大人たちからも、孫たちの学校の近況などについて、質問が飛ぶことになる。

「中学3年生の孫たちは、通常なら、3年生はニュージーランドでのホームステイ
が経験できる段取りになっていたがコロナ禍のために、急遽、九州四日間の旅行に
変更になった」と云う。

「中学1年生の孫は、入学後、間もなくして学園内で、コロナへの感染者が1名出
てしまったため、学園の閉鎖を経験することになった」と、云う。

竹亭でのランチ・テーブルを囲んでの会話を通じて、私が感じたことは・・・

「鎌倉の若旦那にも、ひばりが丘の息子にも、父親としての存在感」を感じ取った。

そして、私の思いは、郷里(上州)の自分の父親への「たいへんだったろうな」と
云う思いに飛んだ。

あれは、私が中学3年生の卒業式の翌日の出来事(ハプニング)である。

放送大学のオンライン授業「生涯学習を考える」でおさらいをしたフロンエンド教育、
日本国民が日本と云う国家を支えるための国家的な事業として、日本では義務教育が
行なわれており、小学校の6年間と中学校の3年間を終わると職業としての適性検査
が行われ、国家的な事業として、個々人の行く末について方向付けが成される。

私の場合は、職業の適性検査において、商業・工業・文学面といずれにも適性がある
ことが確認され学業成績も優秀であったので、父親との間では、群馬大学の工学科系
を視野に置いて将来展望が交わされていた。

そして、そこに行く過程では、高校も工業系を選択して、工学系への積み重ねを重視、
当初は伊勢崎工業高校の機械科を狙っていた。

しかし、受験直前に、工業高校では化学科を専攻して、大学で機械工学系を狙うこと
にすれば、多面的な学習ができるのではないか? として、作戦変更した。
(当時のこの作戦が失敗だったのか成功だったのかは、いまだに答えを得ていない)

しかし、その後、中学校の卒業式の当日から、翌日にかけて、天国から地獄への苦渋
を味わうことになる。
(当時、誰も、予想していなかったハプニングであった)

中学校の卒業式では優等生の表彰を受け、通知表も5段階評価で「オール5」の快挙
を成し遂げた。

それまでは、体操だけが、1月生まれと云うハンデもあって、競技種目などで同級生
にはかなわず、踏ん張って4レベルがやっとであったが、学年末の運動科目において
競技が得意の鉄棒種目となり、体操においても念願の5レベルに達したのであった。

これには、父親も喜んでくれたが卒業式の翌日の高校への入学試験発表で「不合格」
の通知となったのである。この発表には、中学の担任の先生も驚愕して、夜になって
我が家に来て下さり、父親に向かって・・・

学校でも、来春の受験期まで、応援しますので、父親からも、支援を続けて欲しいと
わざわざ丁寧な応援要請が行なわれた。

父親からは、中学校の先生も「応援してくれる」と云っているので、また来年の受験
に向けて学び続ければ良いと云ってくれたが、私があまりにもショックを受けていた
ためか? (それ以上の励ましはなかった)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それから、1週間が経過、母親から、日々の私の状況を聞いていた父親から、週末に
なって、庭先でのキャッチボールを誘われた。

父親は、地元、群馬県前橋の草野球チームのピッチャーをやっていたので、私の胸元
にピシッとボールが飛んで来る。私も以前からキャッチボールの時には、投げ始めは
ゆっくり、相手の胸元を目がけて投げるようにと父親から云われ続けてきたが父親の
投げるボールの様には上手くは決まらない。

第二次世界大戦中に、群馬県太田市の中島飛行機に軍需要員として、引っ越して来て
から、草野球をやったという話は聞いたことがないが、若い時のピッチャーの経験は
衰えることなく、私の胸元にボールを決めて来る父親に感心しながらも、私の気持ち
は不思議にもほぐれて行った。

やがて部屋に戻ると、母親が、父親と私に、サイダーを運んで来てくれた。

「お昼は、ラーメンでいいかい」と父親と私に聞いてきた。この母親が作るラーメン
はラーメン屋さん並の旨さなので私の大好物でもあった。

父親が、私に「人間万事塞翁が馬」という言葉を知っているか? と聞いてきた。

「人間万事塞翁が馬」とは・・・

と、当時、中学生の私にも分かるように、いろいろな具体例も交えて説明してくれて
私なりに明るい気分になっていったが(細部の説明については覚えていない)

今になって、広辞苑を手繰れば・・・

「人間万事塞翁が馬とは、世の吉凶禍福は転変常なく、何が幸で何が不幸か予測しが
たいことを云う」とあるが、この言葉を父親が自ら学んだのか親しい友人や知人から
聞いたのかは知らない。

ただ、私に明言出来る事は・・・

父親 竹次郎の場合は、明治42年に生まれてから20歳代に到るまで群馬県前橋市
萱町一丁目一番地で生糸の生産工場と販売を兼業していた家業を、次男でありながら
次期社長として修業を積んでいたが第二次世界大戦前に家業が廃業となり、戦時中は
軍需要員として中島飛行機に勤めるようになった経験からすれば「人間万事塞翁が馬」
の言葉は、その後の人生も含めて説得力のある言葉として痛感していたに違いない。

父親の立場からすれば、そこまでは云わなかったが、受験の失敗も後に幸運につなが
ることもあるよ、と、いうくらいの感慨であったのかもしれない。

たしかに、私からみても、父親の生涯は波乱万丈であったが、その生き方に揺ぎをみ
たことはなかった。

それから、1週間後に、中学3年生卒業時に隣のクラスであった友人M君の家族から
思いがけない話が持ち込まれた。
(偶然にも、優等生であったM君も、同じ工業高校の受験に失敗していた)。

友人M君の父親が桐生市で親戚筋の印刷会社に勤めていて印刷物の納入先の桐生工業
高校の先生から、同じ、勉強をするなら・・・

「今更、中学の勉強の復習をするよりも、夜間部の機械科に進んで学びを前に進めた
らどうか?」

「まだ、夜間部なら入学枠がある」と聞いて、それなら、隣のクラスの佐久間君にも
声をかけたらどうか?」と、いうことになったというのである。

我が家でも、母親から帰宅した父親に話が伝わり、一も二もなく夜間部に向けて入学
手続きが行なわれることになった。桐生工業高校は桐生市の天神宮のそばにあり群馬
大学も隣接している立地条件にある。

要は、今年、1年間は、桐生工業高校の夜間部で学び、来年は桐生工業高校の機械科
を受験しなおして、また1年生から学び直しても実業高校ならけっして無駄にはなら
ないという考え方である。

思えば、ヒトとして生まれて、15歳の春の地獄に差し込んできた希望の光であった。

私は、1942年1月27日に産科病院で生まれた瞬間にも、危なかったようである。

通常は、生まれた瞬間に「オギャー」という一声で自分自身による呼吸が始まるので
あるが私には、このオギャーの一声がなくて、看護師さん(当時は看護婦さん)から
背中を叩かれてのオギャーだったというから危なかったのかもしれない。

私には三歳年上の姉に相当する出産があって、自宅での出産であったために、上手く
生命を繋ぐことが出来ず、その経験から、私の場合は大事を取って産科病院での出産
であったため、助けられてのオギャーとなった様である。

この出産という、当たり前のように聞こえる 「ヒトとして産まれる」ことについて、
現代医療にあっても危険がつきものであることを私自身身近に体験している。

私には、5人の孫が入る。

「一番年長の孫(男子)は、電気通信系に興味があり、電気通信系の大学を卒業して、
現在は希望通り電気通信系の企業に就職している」

「二番目に年長の孫(女子)は、現在、学習院の大学で学んでいるが新型コロナ禍の
影響でオンライン授業で学んでおり、早くキャンパスに通えることを願っている」

「3番目と4番目の孫(共に男子)は、二人共に私立中学の進学特選クラスに入って
日々勉学に励んでいるが、二人共にゲーム好きが両親の頭痛の種の様である」

「5番目の孫(女子)は、極めて、マイペースの前途洋々派である」

ここで、ヒトとして出産時に命をつなげなかった二人の孫が居るが、本人にとっても
グランパである私にとっても、とても、残念なことである。

「一人の孫(女子)は、産科病院での出産であったが、ヒトとして、生まれながらも
生命を得ることが出来なかった、とても、眉目秀麗な印象の孫であった」

「もう一人の孫(男子)は、産科病院において無事に対面を果たせたものの、その後
の経緯で産科院内における詳しいことは分からないが、急遽、救急の大病院に搬送さ
れ治療が続いたが救命措置も届かなかった(聡明な印象の孫であった)」

ヒトとして生まれたからには本人はもちろんのこと周囲の人間にとっても、人と人と
のかかわりを通じて、人間として、無事に成長することを願うばかりである。
(ましてやコロナ禍にあっては注意しすぎても過ぎることはないと考える)



002 桐生天満宮に見守られて

はじめて訪れた桐生市は、絹織物を主力産業とする印象が、随所で、感じとられて、
都市型の町としての風格があり、街並みの印象には華やかさがあった。

私とM君は成り行きで、二人で一緒に、桐生工業高校に通うことになったが、M君
の方が東武電車の太田市駅に近い場所に居を構えていたので、先ずは、M君の家で
合流して駅に向かい、東武電車の桐生線で学校に通った。

我が家からM君の住まいまでの道のりは、はじめは歩いて通っていたが、7歳年下
の弟からの提案で「ボクに自転車乗りを教えてくれたらMさんの近くまで送るよ」
という助け舟があって、間もなく、弟からのサポートに甘えた。

具体的な話をすれば出掛けには、私が自転車のハンドルを握り、弟を後ろに乗せて
道路が混雑する心配のないM君の近くの交差点まで行きそこで私が自転車を降りて、
そこからの帰路は、弟にとっては、自転車乗りの練習コースとなる。

東武桐生線では、桐生市の南端に位置する新桐生駅で下車、バスに乗って桐生市街
を北上して桐生街中のほぼ北端に位置する天神町のバス停で下車すれば、幹線道路
の西側に桐生工業高校が、道路を挟んで東側に群馬大学の理工学部が位置する。

桐生市のこの南北感覚も、地図で正確な地形を見てみると、新桐生駅を南西に位置
付ければ、天神町は北東に位置する、やや斜め気味の位置関係となる。

現在の桐生市は、近年(2005年)、新里村と黒保根村を編入して飛地合併して
おり、地形的には、地図上で、変則V字型のような珍しい地形を成している。

バス通学の中間点に位置する桐生本町五丁目の交差点付近にはM君の父親が勤める
親戚筋の印刷会社があり、私もM君も二人揃って印刷会社の社長に、桐生工業高校
への入学の際の保証人をお願いすることになった。

私とM君が印刷会社の社長にお礼のご挨拶にお伺いする機会は、入学後の夏休み前
となってしまったが、挨拶に伺った席で美味しい白桃をいただくことになり、恐縮
して二人で早々に帰ってきたことを、強烈な印象としていまだに記憶している。
(当日は、社長もM君のお父さんも、急遽、顧客の処に出掛けていた)

思えば、中学校の卒業式の翌日に、天国から地獄に転げ落ちたような最悪の状況に
あったが、新天地の桐生においてパラバイスの様な世界が開けたのであった。
(人間万事塞翁が馬とは、このような変転を云うのか、と、実感した)

桐生工業高校の定時制(夜間部)の機械科では、恩田先生が、機械科クラスの主任
で、副担任のM先生も男性であったが、物静かな優しい感じの先生であった。

実際の授業では、それぞれの専任の先生が時間割に沿って、教室に、顔を出されて、
機械科の実技においては、豊富な企業経験のある専門職の先生方が手取り足取りの
実技指導に当たられていた。

旋盤・鋳造・木工などの実技指導では、実際の工業製品などを製造する体験授業も、
プログラムされていて、私は、旋盤を使った製品加工に興味を持った。

高学年になるとコンピューター制御による倣い旋盤によって、高度技術の旋盤加工
をするなど、お隣の群大理工学部に出掛けての実習なども体験出来ると聞きその時
には、桐生工業高校の全日制に再入学しての体験が出来ればと希望を強くした。

主任の恩田先生とは、新学期の授業が始まって間もなく、個別面談があり・・・

◯ 現時点での自分が置かれた状況を説明させていただき、来春には桐生工業高校
の全日制を受験して、再入学することを、最優先したい旨を、お伝えした。

恩田先生からは・・・

◯ 桐生工業高校では、定時制(夜間部)から全日制への優先的な編入措置はない
ので、全日制への入学に際しては、他の受験生と同じ条件で受験することになる

◯ その際に本校の在学生(定時制)としての口添えはいっさいない

などなど、小気味よいほどに、徹底して口伝された。
(もちろん、M君にも、同様の説明があった)

東武鉄道の太田駅から桐生線で通い始めてから、偶然、伊勢崎線で伊勢崎工業高校
の機械科に通学するH君に太田駅の構内で会った。H君の住まいは我が家から道路
を隔てて斜め向かいであったが、中学校の卒業式以来の出会いであった。

H君は、伊勢崎工業高校の入学試験において、トップの成績を収めたと聞いていた
ので、当然、話題はそこに飛んで行き、その秘訣を聞かせてもらった・・・

◯ H君は、徹底して、高校入試の過去問題に取り組んだという。彼の言によれば
「高校入試の問題は、難しい問いはなく徹底して教科書の記述から出題されている」
ので安易な失敗が致命傷となるため、いかに俊敏にムラなく対応するかがポイント
になって来る、と、感じていたという。

これに対して、高校入試の過去問題に取り組んだことのなかった私は、通常の授業
における試験問題と同様に簡単な問題が50%・やや難しい問題が30%・難しい
問題が20%程度と見込んでいて、最終的に、難しい問題を解ければ合格とタカを
括っていた。

たしかに簡単な問題が100%を占めるとなれば、工業高校の様に機械科や化学科
など限られた50名枠に、優秀な受験生が集まれば油断していれば負けてしまう。
(普通高校なら250番でも合格するが、工業高校では51番は不合格)

私の場合は、いまだにナゼ不合格に到ったのか原因は分かっていないが、この受験
の失敗によって 「入学試験や入社試験など」に対してトラウマ意識がこびりつい
てしまって、いまだに、頭から離れないことは確かな事実である。

しかしながら、そうは云っても、H君からのアドバイスは、的確なものであった。

事実、桐生工業高校の定時制(夜間部)に通うようになってから、工業高校の勉強
に向けては予習を通学電車の往路で行い復習は復路の電車内で徹底、自宅学習では
高校受験に向けて、教科書を主体にして、広く浅く全科目に目を通す様にした。

学習スタイルも、記述ノートは全廃、ノートに書くことが惰性になっていたことに
気付き、全て、ソロバンの暗算のように脳内に書き置くスタイルに変えた。

その時に思い出したのが、小学校5年生の時のソロバン塾の若先生の存在、東大を
三回受験して合格できなかった先生は、暗算が得意だったが東大受験の際には脳内
に暗算ノートの様なものを設けなかったのだろうか?

否、そこで、他人のことを云える立場にない私に気付いた。

普段どんなに勉強できても肝心の受験などで真価を発揮できない人は存在するのだ、
現に、私自身が、そうだったのではないか?

桐生工業高校の定時制での学びにも、当然、期末試験はある。

結果は、いつも100点満点に近く、申し分ない成績が続き 「ノートよりも音読」
の適性は私にはピッタリと、自信を深めていったが、一方で全日制の高校受験には
まったく自信がもてなかった。

それでも、新春を迎えれば、嫌でも受験日はやってくる、トラウマは抜けていない。

幸いなことに、桐生工業高校では、当時、日本の高度成長期を先取りしてか?

◯ 機械科では、2クラスを募集枠として、用意してくれていた。
なんとか、100番までに届けば、入学出来ることになる。

私とM君は、二人共に全日制の生徒として合格、クラス編成でも、二人共に機械科
1組の生徒となった。

私は、全日制の1年機械科1組の自己紹介において・・・

◯ 自分は、最近1年間、本校の定時制で学び、入学試験を経て、晴れて、本校の
機械科1組に入学出来たことを報告

◯ これを聴いていたM君も、同様の自己紹介をした

一通りの自己紹介が終わった後で、私とM君は、図らずも、お兄ちゃん1年生と
して人気者となり、この後のクラス役員の選出で、二人して満票で選ばれること
となり、役員選出となると決まってS君とM君で決まる風土が出来てしまった。

その後の卒業式では、私は数学の期末試験において三年間を通して数学の試験で、
95点以上を獲得したため「数学賞」をいただくことになったが、卒業式の時に
は全日制の三年生と定時制の4年生が、同時に同じ会場で卒業式となったために、
通常の2倍の卒業生から祝意をいただくことになった。

しかし、卒業式までの二人には波乱万丈があり、私とM君にとっては、共に高校
二年生のときに、大ピンチが襲い掛かってきたのである。

この大ピンチを一緒になって考え・一緒になって、考えていただいたのがクラス
主任の篠原先生であった。

◯ M君の父親に、胃がんの発病があって、突発的に逝去されたのであった

◯ 次いで、私の父親が国家的な事業の清算と云う決断がなされて失業した

二人にとっては、共に、隣接地にある群馬大学の理工学部までを視野に入れて、
トラウマ的に大学受験の苦手意識は頭の片隅にあったものの、それどころでは
なく、桐生工業高校に向けて、父親からの継続的な資金的・収入源が断たれて
しまったのである。

クラス主任の篠原先生の立場からは・・・

◯ 当時、日本の産業界は高度成長期にあり、桐生工業高校でも、成績が上位
の生徒については、校長推薦で、三菱重工業を筆頭に、工程管理などの要員と
して送り出して来た、実績があり、私が二位、M君は七位の成績に付けていた
ので、なんとか三年生まで頑張れば見通しは明るいと考えていた

◯ そこで微力ながら学校の立場からは、奨学資金制度の利用などについては
応援出来るので、と、M君の母親に相談があり、M君の母親からは篠原先生に
向けて、私にも一緒に奨学金の適用を出来ないか? 

との相談が成され、学校側からも了解が得られて私から父親に相談すると一も
二もなく有難いと同調することで話がまとまった。

M君の母親とは、桐生工業高校への入学の際のお付き合い以来、何かにつけて
家族ぐるみのお付き合いがあって、M君が独りっこという状況も手伝って二人
で凸凹コンビの双子の様に育ってきた経緯があって、急遽、助け舟が出された
のだと思う。

凸凹コンビというのは、高校一年生の時に私は1年間で10cm身長が伸びて
ようやく165cmとなったものの、M君は、既に175cmあったので二人
で一緒に並んで歩くと凸凹なコンビに見えたことによる。

やがて、工業高校三年生になった時に、夏休み前に・・・

◯ クラス主任の篠原先生に呼ばれて、今年は例年になく、三菱重工業よりも
先に石川島播磨重工業および出光興産から、本校に募集があり、両社共に校長
推薦であれば 「即採用」という話が寄せられた

私は入学試験や入社試験などに相変わらずのトラウマ意識があったので・・・

父親に相談したところ、石川島播磨重工業のことは熟知していて、航空機用の
ジェットエンジンを手掛けていることも「オトキチ」を自負する父親 竹次郎
としては、熟知していて、大乗り気の様子が伺えた。

結果、一も二もなく篠原先生には 「石川島播磨重工業への入社手続き」を
お願いさせていただいた。

M君の場合は・・・

桐生市の親戚筋にはM君が桐生工業高校を卒業するまで、母君も一緒にお世話
となり、出来れば群馬県内で母親と共に暮らしたいという願望もあって事業所
が高崎市にもある沖電気に推薦入社が決まった。

話は本筋から外れるがかつて群馬県前橋市で育った我が父親 竹次郎は理想的
な私の勤務地として「前橋市に住み・高崎市の事業所に通う」ことを、理想と
していたので、後に、この夢を実現させたのは、親友M君であった。

はて・さて・かように、因縁深い私とM君であったが、中学三年生の卒業式の
翌日に、二人共に、地獄に落ちる様な思いをして、桐生市にパラダイスの大地
を見付けて、まさに 「桐生天満宮に見守られて」 企業人としての活躍の場
を得ることが出来たことには、ヒトとして生まれ、人と人に救われて百寿にも
思いが届くほどに、今日、精進を重ねることが出来るということは、まことに
ありがたいことである。

私に学びについての大いなるヒントを提供してくれた、郷里のH君は、伊勢崎
工業高校を卒業後は、父君の努める富士重工業に入社して、その後は、自動車
の研究部門に興味を抱いて、工学系の大学に改めて入学したと聞いている。

そして、トピックニュースとしては、昔から、お隣の敷地に住んでいたMさん
(同級生)と結婚されたと聞いている。

思えば「高校受験の頃から、お隣同士のよしみで受験勉強を済ませて就寝する
ときには幼馴染の間柄で、お休みの挨拶を電気スタンドによる合図などで交換
しあっていたのだろうか?」
(これについては大きなお世話であった)



003 健全な精神は健全な身体に宿る

桐生工業高校の敷地内は一般教養の学びのための学舎に体育館が連なり教員室
は体育館の奥に位置していた。実業高校なので、旋盤工場や鋳物工場、木工所
などは企業を思わせる形態で直線的に工場群として連なっていた。

伝統的な桐生工業高校スピリットは「健全な精神は健全な身体に宿る」として、
体育の授業にも注力、強健な身体作りにも気配りしていた。

体育の授業における重点課題は・・・

◯ 冬季のチーム編成による、早朝マラソンをはじめとして、年一回の全校生に
 よる桐生市郊外の周遊マラソン、と、これに向けたマラソンの基礎練習

◯ ラグビー競技において、キックを禁止した、勇猛果敢な精神の涵養とチーム
 ワークの育成

◯ 冬季のスキー競技に向けたオールシーズンでの体育館におけるスキーを装着
 しての方向転換などによる基礎訓練

定時制(夜間部)では、体育館におけるバレー競技やバスケット競技などを主体
にした、チームワークの育成に重点をおいた体育授業が行なわれていた。

定時制での学びの1年間は、休み時間になると、学友と片面を使ったバスケット
競技に興じたことを覚えている(今でもバスケットのフリースローは好きだ)

全日制に入学してからは、屋外で、足腰を鍛える機会が、圧倒的に増えた。

先ず、通学の形態を一変させた。朝の通学時間は、早朝の貴重な時間を有効活用
するために、自宅から東武電車の太田駅までは自転車で行き駅前で自転車を預け
て桐生線に乗るスタイルに変えた(M君とは電車内で合流)

新桐生駅に着いてからは、駅前に預けた自転車を使って、渡良瀬川を越えて学校
に向かうようにして、往復の時間配分に自由度をもたせた。

冬季における自転車での渡良瀬川越えは、しっかりと、ズボン下を履いていても
上州の空っ風には、私も、M君も、二人で自転車を走らせながら寒さで震えたが、
桐生本町五丁目の交差点を通過すると身体が温まってきたことを覚えている。

この自転車乗りは脚力の強化につながった。

しかしながら、いまでも恐怖体験としてしっかりと記憶に残っている出来事として、
夏休み中の自転車の整備を目的として、桐生市から、太田市まで自転車を持ち帰る
ことになり、桐生からの帰途、街はずれの坂を登っていて・・・

坂を降りて来た見るからに不良グループ(3名)と、目が合ってしまって坂を下る
三人に、格好のカモと思われたらしく「コラ、お前ら止まれ」と、いわれたものの
彼ら三人は下り坂、こちら二人は登り坂を登り切る地点、普段から自転車乗りには
自信があり脚も鍛えているので二人して懸命に坂を登り切り全速力で逃げた。

当時、学校からは桐生が丘公園に出掛けた桐生高校の生徒たちが、不良グループに
取り囲まれて、小遣い銭を巻き上げられたという話が風紀担当の先生から寄せられ
ていて、その話を思い出し 「このことか?」と、瞬間的に判断したのだった。

自転車漕ぎにおいての脚力には、二人共に自信があったため、桐生市から太田市
までの長距離を自転車で帰ることにしたのだが、薮塚温泉の中間地点に着いた時
には、全速力で駆け抜けてきた心臓も落ち着きをみせていた。

私は 「ヒトとして生まれて歩くこと」についても、子供の頃から脚力には自信
があった。エピソード的には、母親の父親が夏休みに、栃木県大田原から群馬県
太田市まで、私を迎えに来てくれて、大田原まで一人で同行したことがある。

栃木の祖父は、とにかく健脚で、子供は七人居たが、小まめに子供たちの住まい
を訪問した。当然、近郊から遠方まで、子供たちの家族は、それぞれの多地域で
暮らしていたが、祖父は、その健脚を生かして、孫たちの処に餅などのお土産を
背負って訪ねることを楽しみにしていた。

祖父は、役所勤めの半農暮らしで、長男は東京電力勤め、半農手伝いの奧さんを
主役にして、祖父・祖母と共に高台仕様の大きな屋敷で暮らしていた。

水害対策として屋敷は高台の上に造られていて、高台の下には野菜畑などもあり
庭の前側には小川が流れていて、洗い場も整備されており、野菜などを洗える様
にしてあり、子供の水遊び場としても楽しい場所であった。

隣家には、母親とは双子の姉妹のお姉さん家族が暮らしていた。母親とお姉さん
の風貌は双子にしては、あまり似ていなかったという記憶がある。

私の母親は子供の頃に 「双子ならば是非」と云うことで子供を欲しがっていた
鹿沼に住んでいた親戚に養女として出されたが、祖父が鹿沼に様子を見に行った
ときに連れて帰ったのだと云う。

あの名作家 夏目漱石をして、子供の頃に養子に出されて、後に実家に引き取ら
れたという話も聞くので、昔は、このような例は多かったのだろうか?
(私の幼友達も同じような経験をしているが心理的な負担は大きい)

母親が実家に戻った時に、親身になって面倒を見てくれたのが、二つ年長の姉で、
私が祖父と一緒に大田原の実家に行った時に翌日「私の処にも遊びにお出で」と
云って迎えに来てくれて、年長の従兄弟にあちこち連れて行ってもらった。

その後、年長の従兄弟とは、私が中学2年生の時に、再会することになるがその
ときには、日本交通公社に勤めていて、実家に、帰省しているときにお会いした。
東京の旅行会社ならではの楽しいお話を聞かせていただいたことを覚えている。

母親にとって自慢の弟は黒磯に住んでいて、鉄道会社に勤めていた。その時には
伯父さんが忙しすぎて会えなかったが、中2の時に、私が黒磯まで出掛けて一晩
泊めていただき、翌日、那須のケーブル電車に乗せていただいた。

初対面の時に、母親が云う通りの優しい印象の伯父さんで、当時の名優佐田啓二
に似ているなと思った。奧さんも旦那さんが大好きという印象で、甲斐甲斐しく
弁当作りをしている様子が子供ながらに見てとれた。

那須のケーブル駅に着いてから、昼食の時間になると「はい、勉君のお弁当」と
奥さんは、私の弁当も私の好みを予想して別建てで用意してくれていた。

当時、伯父さんは、ケーブル駅の駅長を任されていて、冬場などは、胸まである
雪を掻き分けて駅の保守に出掛ける時のたいへんさを話されていたことを今でも
覚えている。

黒磯から大田原に帰ってからは、ご先祖様のお墓参りにお供して、その後1週間
があっという間に過ぎた。母親の実家の近所に同級生(女子)が住んでいて近郊
の山や川遊びに連れて行ってもらって、地元の子供たちともよく遊んだ。

その後、近所の同級生は、祖父と一緒に群馬県太田市の我が家に遊びに来たこと
があるが、その時は私の妹と仲良く遊んでくれたことをよく覚えている。

夏休みの半ば、週末に、父親が大田原まで日帰りで迎えに来てくれて、祖父から

「勉君とは、大田原まで一緒に歩きましたが、なかなかの健脚ですね」と云われ、
「長期間、お世話になりました」と、父親共々恐縮しながらおいとました。

子供の頃からの健脚ぶりは、そのまま中学生ではリレーの選手に選ばれ、高校の
体育の時間における100メートル競走の時間測定では13秒と驚くほどの速さ
ではなかったが、小柄ながらも、俊足はラグビー競技で生かされた。

同じクラスに猛牛のような体格のよいクラスメートが居たが体育のラグビー競技
では、猛牛の後ろから追いつき、足首にタックルして巨漢を倒した。

小柄ながら俊足を生かして身体の大きなクラスメートを倒せるラグビーは、私に
とっては、マラソンよりも好きだった。

マラソン競技よりも短距離競争が好きだった私は、三年間を通して、桐生市街地
を周遊する長距離コースを完走したものの、順位は600名中でいつも250位
くらいで、後半で追い抜く自信はあったものの凄まじい勢いのスタートダッシュ
にはとても着いて行けなかった。

鉄棒競技が苦手だったM君には、M君の母親から頼まれたこともあって、一緒に
練習したが、飽きると二人にとって苦手であった野球遊びにも興じた。

冬季のスキー競技に向けた体育館でのスキーの装着や方向転換の練習などは興味
深く、学校では一人一台のスキー用具が一式用意されていたので取り組みやすく、
基礎練習を経て、冬になるとバスで水上や土樽に出掛けてスキーを楽しんだ。

最初は、当然、直滑降から始めるのであるが、そのスピード感には魅了された。
当時、スキーウェアなどの着用はなく、学生服にゼッケンという出立であった。

「健全な精神は健全な身体に宿る」という学校の方針もありスポーツに熱心に
取り組む姿勢は、この時代に培われたのだと思っている。

特に、寒中マラソンなどは早朝に白い息を吐きながら、声を出して街中を巡回
するのだが、健康面における体力訓練でありながら、市内における冬季の名物
マラソンでもあり、市民からの声援も嬉しかったことを覚えている。

スキーへの取り組みについては、社会人になってからも、会社の仲間や職場の
懇親旅行などで群馬県のスキー場を訪れる機会も多く、スキーの滑り方の基本
をマスターしていたことについては大いに助かった。

なによりも、上州の空っ風の冬にもめげず冬季スポーツを主軸に四季を通じて
スポーツに親しむ習慣が桐生工業高校時代を通じて身に付き傘寿(80歳)を
前にしてスポーツを楽しめる土台はこの頃に造られたものと感謝している。

それから、これは余談だが、私自身の生活感覚が、この頃からの桐生工業高校
を通じての生活体験から、都会的なスタイルに変わって行った印象がある。

父親 竹次郎は、前橋市萱町1丁目1番地という都会暮らしであったが戦時中
に中島飛行機で軍需要員として暮らし、終戦後は群馬県太田市の農村部に疎開
するような暮らしを続けていたため、住居は農村部で、当時は 「非農家」と
呼ばれる時代であった。

したがって、小学校などでは、農繁期は休学となり、非農家の子供たちは農家
での実習が休学中の課題と成り、私も小学校5年生の時に、近所の丸岡さんの
お宅で、お世話になることになり、田植の前の耕作においておいて牛の鼻取り
をする体験をさせていただいた。

この時に、大きな図体の牛とは、ずいぶん仲良くなり、牛小屋から耕作地まで
大きな牛を誘導して、耕作地では農家のオジサンが後方で畑を梳く道具を持ち
私は牛の鼻ズラをもって耕作地を誘導するのだが、牛は良くなついてくれた。

「もう友達」という関係性で、牛小屋に行くと、優しい眼で迎えてくれた。

牛ちゃんが、一番、嬉しそうな顔をするのは、流れの静かな川で、体を首まで
水の中に沈めた時で農耕作業で火照った体を川の水で冷やして牛ながらに身も
心も冷やせた時なのかな? と感じ取った。

小学校時代は、そのような農村体験をして育ったので、桐生工業高校や桐生市
の都会的な街並みでの生活体験は、やがて、東京や武蔵野の地で暮らして行く
ためには生活意識の転換に向けて自然に好影響をもたらしたのかもしれない。



004 戦時下における農村地帯での疎開暮らし

私を企業人として迎えてくれた石川島播磨重工業における暮らしは東京都杉並区
の寮生活から始まった。長年、住み慣れた群馬県太田市の自宅からは、既に復職
した父親が日常の暮らしに必要な物品を車に積み込んで寮まで送ってくれた。

寮は杉並区永福町に用意され、群馬県などを含めた東京首都圏から東北・北海道
までを含めた寮生:約50名の新入社員のみで構成されたフレッシュメンバーに
よる活気あふれる寮が、静かな永福町の街外れに、出現することになった。

後に、関東から南に位置する関西や九州方面の寮生は、阿佐ヶ谷の寮で先輩たち
と暮らしていることを同期生の仲間から聞き、親交を兼ねて泊りがけで訪問する
ことになるが、寮によって雰囲気がまったく異なることに気付いた。

その後、5年くらいして、武蔵野の事業所に、より近い東京都東久留米市の寮に
移るのであるが、そこは年齢的に多層な構成になっていたためか寮における食事
などにも工夫があり、月に1回、特別食が振舞われるなど支払いは自分持ちだが
運営が良く工夫されていて、要は、寮母さんの才覚が大きく影響するようだ。

その点、我々の永福寮は、寮母さんも新米、寮生も全員が新人で年齢的にも成人
式前で連日賑やかさが続いたが、学生寮の様な空気感もあって寮の舎監を担って
いた大先輩も、人事部との間で町内会など多方面に気配りしていたようである。

要は、井の頭線の永福町駅から寮までは永福町駅前の名物ラーメン屋さんを始点
にして通りの食堂やお店に、突如、約50名規模の若い寮生が朝夕の食事は寮で
摂るとしても、休日や夜間、街に繰り出すことになるので、マーケット規模的に
は大きな影響はないとしても、常識的に社名を背負った品格は求められる。

企業として地域に与える影響は個々の社員が想像する以上に、人数がまとまって
くると、その影響は大きい、例えば・・・

石川島播磨重工業の東京・豊洲地区の例えを挙げれば、当時、豊洲周辺だけでも
約1万人規模の従業員が働いて居り、昼食弁当は、企業独自の弁当箱で調理して
各々の職場に配っていたため、当日の弁当のメニューが、築地市場などに影響を
与えることがあり、例えば、メニューに肉類があった場合など、当日の市場の肉
の値段が上がるということもあって、企業としてそれなりの気配りをしていた。

杉並区永福町の寮の場合は、約50名規模ではあったが、突然、地方から上京の
同期ばかりの寮生が暮らし出すということであり、人事部など、かなりの気配り
をしていたことと思う。

私を永福寮まで送ってくれた父親としては、一緒に寮の部屋まで荷物を運び入れ
永福通りで一緒に食事を摂って、街並みにも安心、群馬に帰ってから、母親には
「あれなら安心」と伝えたのだと思う。

寮内での暮らしは、朝夕の食事は、寮母さんが用意してくれて、入浴施設なども
永福寮内に決まった時間内ではあったが、比較的自由に入浴出来る環境が整えら
れていて、自分たちの身の周りのことだけを考えれば良いという恵まれた暮らし
ぶりが用意されていた。

ただ寮生にとって、ネックと感じていたのは、永福寮には洗濯機が2台きりなく
それぞれ洗濯行為そのものには、負担感はなかったものの、洗濯機の空き待ちが
頭痛の種子であった。
(それぞれの寮生の対策としては下着類を1週間分ストックするようにした)

私も、寮生活を想像して、高校3年生の秋ごろから、洗濯をはじめとして、母親
から日常的な家事いっさいの基本を教わっていたので、特に困ることもなく部屋
の掃除なども、小まめにこなしていたが、洗濯機の空き待ちだけはやはり気分的
に苦手な分野であった。

簡単なボタン付けなどは小学校5年生の時に男子生徒にも家庭科の時間があって、
針の運針などを競走した記憶がある。特に、強烈な記憶は、家庭科の修了学習に
おいて、自分のパンツを縫うという宿題があって、縫い終わったときには手汗で
出来上がったパンツが見るからに汚れた状態、母親に洗ってもらってアイロンを
かけてもらった想い出がある。

したがって、学校の家庭科での経験や、母親からの日常生活のあれこれなどを教
わったこともあって、日常生活で困ることはなかった。

私にとって、母親からの日常の躾で、毎日、夕方には、父親が帰宅する前に家の
周りを箒をもって、綺麗に掃除をするという習慣については、寮生活においても
勤務地から帰って夕食前に部屋を片付けるという習慣には結び付いていた。

私にとって、中学生になってからは、風呂の支度が家事手伝いとして加わったが、
当時、我が家では薪を使って風呂を沸かしていたので、鋸で、薪の長さを揃えて
一刀両断に薪割りをするのだが、この薪割りの時には神経を集中させて薪割り台
の上に据えた薪を、真っ二つに割る手ごたえは好きだった。

この薪割り作業は家の南側の庭でやるのだが、敷地のちょうど真ん中に位置する
場所であり、気持ちも広々として、勉強の合間などには気分転換にもなった。

この住まいは、父親が戦時中に、中島飛行機に勤めていて、軍需での飛行試験と
いう待ったなしの過酷な状況に置かれていた中で、久々の帰宅時に家族が置かれ
た非情事態を察知して、同僚からの助けも借り、緊急事態的に農村部に疎開先と
して探し出した物件であった。

その日までなかなか社宅に帰る時間が取れず、ようやく家族の顔を見て母親から
話を聞いて驚き、すぐに農村部に住む同僚に助けを借りて同僚の知り合いの農家
に無理をお願いして、空き家になっていた物件を貸していただいたのであった。

なにしろ、母親から話を聞いて、父親が驚いたのは・・・

家に居て、家事と育児(子供はまだ私だけ)に追われていた母親は、空襲警報が
鳴ると、私を抱えて防空壕に逃げ込むと云う状況を繰り返す中で防空壕から出た
時に、かけ寄って来た人から「よく無事だったわね」と云われて聞き返すと、

母親が防空壕に逃げ込んだ直後、米国の戦闘機が社宅周辺を急襲、防空壕に逃げ
込む人々や、防空壕を目がけて機銃掃射の雨を降らせたと云うのである。

戦闘機が急襲した後、現場に駆け付けた人の話によれば・・・

「目の前で逃げ惑う人々は、機銃掃射の弾丸を浴び、防空壕内に居た人の中にも
死者が出たのだと」云う。

たまたま、母親と私が逃げ込んだ防空壕は戦闘機による急襲ルートから外れいて
命拾いしたようである。私を抱えた母親に駆け寄ってきてくれた方も、知り合い
ではなかったが、涙を流して、抱き合ってくれたのだという。

その話を聞いた父親にしてみれば、軍需を担っている中島飛行機の工場が襲撃さ
れることは承知の上だが、社宅周辺まで襲撃される事態になっていることを考え
ると、中島飛行機の周辺は、もはや、住宅地とはいえども危険区域と、その時に
即断したのだという。

光陰矢の如しとは云うが、その後、私が桐生工業高校に通う時点でもその疎開先
から通学していた訳であり、家屋は空き家を片付けてのものであり、古い建築物
という印象はあったが、父親も母親も、住めば都と思ったのは、その立地条件に
魅力を感じていたのだと推測する。

疎開先の住居は、東側に市街地につながる道路があって、川に懸かった小さな橋
を渡ると、住居の玄関口、南側には家庭農園ほどの耕せる土地があって鶏くらい
なら飼える、さらに、東側には大家さんにあたる大きな農家さんの屋敷があって、
竹藪が隣接、農家宅を越えて東に歩を進めれば広大な水田地帯が広がっている。

この竹藪の近くに、戦時中、防空壕があって、農村部と云えども空襲警報は鳴る
ので、とうぜん空襲警報が鳴れば、母親と私は防空壕に逃げ込むことになる。

当時、私は三歳児、不思議にも、戦争体験が自分自身の記憶として残っている。

「あの時も防空壕の中に居て尿意を感じて防空壕の外に出た。外に出ると空から
は航空機の爆音が聴こえて、空中には航空機の表示灯が赤々と観えた。今にして
考えれば、B29爆撃機の編隊飛行であったと思われる」

しかし、戦時体験として、記憶にあるのは、この時の三歳児体験のみ。その後の
終戦の時の状況など記憶に残っていない。次に鮮明な記憶として残っているのは
父親の妹(叔母さん)が満州から逃げ帰って来て父親の処に転げ込んで来た辺り」
からの記憶になる。

次いで、父親の弟(伯父さん)が、我が家に身を寄せることになり、疎開先状態
の我が家における母親の食事時のやり繰りは想像を超える状態であったと思う。

しかし、農村地帯における疎開暮らしのつもりが、私が、19歳の春に上京する
こととなり、その後、弟が商業高校を卒業して地元の企業に就職、家庭を持つ様
になり、やがて、父母と一緒に、二世帯住宅を建てて、住むようになるまでこの
地域に棲み続けたことを考えると結果的には住めば都だったのかもしれない。

そして「住めば都であった」もう一つの理由はオトキチを自任する父親にとって
「自分でマイカーのエンジンのチューニングなどをする」のに、周りの住民から
苦情が来ない離れの一軒家という住環境であったことも理由の一つと推測する。

私を東京杉並の永福寮まで送ってくれる前の晩も、夜遅くまでエンジンルームを
覗き込んで、何やらエンジンの調子を見ていたことが記憶に残っている。



005 苦手な英語は生涯の禍根となるか


住み慣れた我が家で、夏休みの宿題として機械設計図の図面を仕上げているときに、
新聞販売の拡張員と名乗る「品の良い紳士」が、我が家を訪ねてきた。

母親がちょうど私の休憩時間に合わせてお茶を淹れてくれていたので、一緒にお茶
を出すことになり、お茶の友として、いろいろとお話しをさせていただいた。

「ボクは、夏休みの自宅学習ですか?」と、私に聞いてきたので、

「はい、設計図を描くことが好きなので、夏休み中の宿題は、好きな科目から宿題
を片付けています」と答えると、

「それでは、将来は、エンジニアですね」と、返して来た。

その後は、私の好きな運動種目や、母親に向けては地域における夏の恒例行事など
世間話に花を咲かせた。

新聞拡張員の方が帰ってから・・・

「我が家では、どこの新聞を、読んでいるか?」とか
「特に、新聞の勧誘もなかったわね?」と、母親にしてみれば不思議な思いがして、

夕飯の時に、父親に、その話をすると・・・

「それは調査員だよ」と、いう答えが返ってきて、母親も私もなんとなく納得した。
(父親を含めて、お互いに、心当たりはあった)

それから、数日後に、桐生工業高校の事務局から連絡があり・・・

◯ 私の場合、既に「石川島播磨重工業による採用」が校長推薦ということで決定
しているが、形式的な入社試験は必要になってくるので、夏休み中に上京して試験
を受けていただきたい旨の連絡が入った、と、知らせがあった。

試験会場の日時・場所の通知、と、共に、宿泊施設も予め用意されており案内地図
には、最寄駅からの道筋などが記されていて、丁寧な案内書も同封されていた。

試験日を見て、 なんと 「甲子園の高校野球の応援に出掛ける日と重なっている」
ことに気付くこととなる。今夏に限って、我が桐生工業高校が地区代表として出場
することになっていたのである。

同じクラスの仲間が甲子園でプレーするとなれば、当然、桐生の地元でバス軍団を
仕立てて、地元を挙げて、親御さんや親戚そして地元商店街の応援団が繰り出すと
なれば、同級生として日程を都合することは 「当たり前」のことである。

教室でも、甲子園に出場する彼は私の席からは右側3メートルの位置に座って授業
を受けており、彼らはとにかく練習熱心で、毎日、弁当を2個持ってきて、午前中
の2時限目の授業が終わるやいなや、休憩時間に弁当を食して昼休みになるとすぐ
にグランドに向かい、昼休みはフルタイムでチーム練習に徹して、午後の1時限目
の授業が終わると2個目の弁当をたいらげていた。

私も練習試合の時に観戦に行ったことがあるが「チームプレーにおいてミスがない」
というのが彼らのチームの特徴で、甲子園では有名校の桐生高校を破っての甲子園
への出場だけに、商店街も、桐生高校の分までをも応援すると云う勢いであった。

しかし、これから、自分が入社させていただいて働くことになる石川島播磨重工業
からの試験案内であり(形式的な試験とはいえ)日時の変更をお願いすることなど
できる筈もないと考えた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私としては、東京に行くと云う経験は、初めてのことである。

東武鉄道で浅草まで出て、隅田川沿いの旅館に着くと、落ち着いた静かな雰囲気の
宿で安心した。試験会場の日時に遅れることのないように、宿の女将に、寝る前に
翌朝の目覚ましをお願いした(宿の女将も人事部からの案内で心得ていた)

試験会場には、50名くらいの受験者が集合していて、一人ひとりが面接試験会場
に呼ばれて、面接試験が終わると、いっせいに筆記試験が行われた。

桐生工業高校の場合は、3年生になると、各社に就職した先輩から・・・

「現在どの様な仕事をしていて」
「入社試験ではどのような雰囲気であったか?」
「どのような試験が課せられたか?」
などの経験談が、寄せられたいたので、若干の予備知識はあった。

石川島播磨重工業の場合は・・・

〇 石川島造船所の時代に入社した先輩から「社風としては質実剛健」であり事業
としては、造船部門を主力産業として抱えており、面接官には元海軍出身という方
もいらっしゃって、男っぽい直球の質問もあるので「軟弱な対応は避けるように」
というアドバイスが届いていた。

私としては、面接会場に入るドアノックの際に、緊張気味な思いで入場したが部屋
の雰囲気は先輩がいうほどの硬派な印象はなかった。

面接官の方々は、私に関する書類にさっと目を通して・・・

「好きなスポーツに、鉄棒と書いてありますが、これは牛肉並のお手並みですか?」
と、満面の笑顔で、訊ねてきた。

私は、その意味がよく理解出来ずに 「牛肉並とは?」と、問い返すと、

笑いながら「ほら、大型冷凍庫の中にぶら下がっている牛肉ですよ」と続けられた。

私としては「絶句」したが・・・

たしかに、桐生工業高校では、部活として、体操部に所属しており一応は鉄棒など
にぶら下がったり床マット運動に取り組んだりはしているが、同級生のS君の様に、
鉄棒においては大車輪でぐるぐる回ったり、床運動においてはバック転などを綺麗
に決めている訳でもないので「牛肉並」と云われても反論は出来ないなと判断した
ので、私の口から言葉が出ることはなかった。

おそらく、私の身体が華奢に見えたので、素直に、そのような感想をもって直球の
質問として言葉にされたのだと思う。

この間のやり取りは、一瞬であったが、私は、笑顔で対応したのだと思う。
(記憶が定かではない)

面接会場においては、後にも、先にも、この質問だけで・・・

面接官からは、笑顔で「はい、ご苦労様でした」の言葉が発せられて、あっという間
の面接試験であった。

筆記試験では特に問題なく設問に答えて行き最終試験は苦手な「英語科目」であった。
桐生工業高校における毎回の期末試験においても、英語だけは、苦手意識から脱する
ことが出来ず、毎回、総合点において「2位から脱出できない」状態が続いていた。

入社試験の当日も、英語だけは時間の半ばにおいても、苦手意識から抜け出せず苦悶
していたが、英語科目の試験の残り時間:15分前に試験官が入場されて・・・

「皆さん、まだ、試験中ですが、耳だけ、こちらに向けて下さい」

「この部屋において試験を受けている皆さんの場合は当社への入社は既に決まって
おり、今回、形式的に試験を受けていただきましたが試験が終わりましたら気持ち
を楽にしてお帰り下さい」と、だけ、伝えて退場された。
(たぶん、人事部の方と、お見受けした)

「苦手な英語に苦悶していた私には、ここで、大いなる隙が出来た」のであった。
(どちらに、転んでも、同じ結果だったとは推測できるが?)

後日、石川島播磨重工業の人事部から郵便物が届いた・・・

「入社、お待ちしております」

「当社の社内報をお送りしますので参考にして下さい」として郵便物には・・・
「あ・い・え・い・ち・あ・い」という標題の社内報が同封されていた。
(石川島播磨重工業の略語であるIHIをひらがなが書きにしたもの)

〇 社内報では、1960年(昭和35年)に、石川島造船と播磨造船が合併して
社長には土光敏夫氏が就任、総合重機メーカーとしての躍進が約束されている内容
で、我々が入社する1961年は、新生IHIにとって一期生入社となる。

しかし、次の文面を手にして、剣道でいえば「面を一本取られた」気がした・・・

「なお、先日の当社における試験の際の英語の科目については、入社までに研鑽を
重ねておくことをお勧めします」という趣旨の文面であった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

やはり、先を見ての注力ポイントは「英語力」かと痛感したが水泳と英語について
の苦手意識からは、簡単には、抜け出せない気もしていた。
(同時に、泳げない造船マンも、絵にならないなと考えた)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

当時、高校生の高学年とはいえども、まだ・まだ、先を見て行動するという洞察力
については、大いなる努力と意識の変容を必要としていた。

まさに「ヒトとして生まれて」大人の方々からのアドバイスや心配事(懸念事項)
は、人間として成長して行くための「的確な指摘」をいただいていることであり、
当時、この時点で痛感したことは、次の三点であった・・・

一つ目の英語力については・・・

〇 ジェットエンジンの分野では、アメリカやイギリスが技術力において圧倒的に
 先行しており、入社後は、ジェットエンジン開発の文献について輪講という形で
 メンバー間の切磋琢磨があり 「英語力は必須」の環境が待ち構えていた
(当時、まだ、配属先は決まっていなかったが)

二つ目の桐生工業高校の実技主任からの卒業に向けてのメッセージでは・・・
(社会人になった時に心がけることとして)

〇 桐生工業高校の3年生の卒業研究では、機械設計の課題が、それぞれの生徒に
 与えられて、実技科目の主任講師からは社会に出たときに、と、題して、

「自分自身で、これなら 『世界一』 といえるものを早めに身に付けるよう」に
とのアドバイスをいただいた。

三つ目は、近未来的な、父親からの予見に基づいたバックアップであった・・・
(私は、このバックアップがあったことを、しばらく知らなかった)

〇 父親が、私を、東京杉並区の永福寮まで送ってくれたのは、ずいぶん先までを
見越しての支援行為であったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今にして思えばという類の話だが・・・

西東京市ひばりが丘の孫が好きなミニチュア版サーキットレースをイメージしての
話にすると、分かりやすいと考えるが、永福寮に私を日常的に使う家財道具と一緒
に部屋まで届けてくれたが、これはサーキット場に私をポンと乗せたに過ぎない。
(これは、当時、父親の立場から私を見ての話としての推定)

話の前段として、高校2年生の頃に、父親の立場から「不肖の息子」の私の常日頃
の行動を見ていて・・・

私の場合に「計画は立派に立てるが」「実行面で継続性に問題がある」具体的な話
をすれば、三日坊主で終わるケースがあるので、これが気になっていた。

これを改める意味で 「何か一つで良いので、365日間、続けるという課題」を
考える様にしたらどうか? という難題? が与えられた。

そこで、私が考えたことは、現在、私には家の周りの掃き掃除と共に、仏壇の掃除
が私の役割として与えられていたので・・・

「毎日、365日、欠かさずお水とお線香をあげてご先祖様に手を合わせること」
を日々の行事とすることを約束した。

それを高校3年生になっても継続させていた。

これを黙ってみていた父親にしてみれば実践力と云う面では、だいぶ安定した所作
が身についてきたので、東京に出ても 「一人でやってゆけるだろう」しかし社会
に出れば「七人の敵が居る」という諺もあるので二十歳を超える年齢までは、東京
でなんらかの父親の出番があれば、俊敏に支援する必要があると考えて、私の根城
をしっかり把握しておくために永福寮まで車で送ったのだと、後日、推測した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前述した、ミニチュア版サーキットレースで、例えれば・・・

「不肖の息子もどうやら実践力は付いてきたので、初動において安定的に走行して
行けると考えるが、ある時期になるとチューニングが必要になってくるので、愚息
の力量だけでは、手に負えない状態に到った時には、父親としても俊敏なサポート
が出来る様にしておく必要がある」と考えていた節がある。

「そのためには、日常的な根城を、しっかりと把握しておく必要がある」
(父親が、わざわざ、永福寮まで私を送り届けた狙いはここにある?)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この父親の洞察力が的中したのは・・・

「私が、純国産ジェットエンジンの量産設計に加わり、末席から、天才たちが設計
したジェットエンジンを『造り易さ』や『組み立て易さ』という側面から考察して、
次々と図面にして出図して行き」

量産設計メンバーによる全ての出図が完了した時に、次世代エンジンの研究開発を
進めていた若手メンバーに急用が出来て、急遽、九州の実家に約2週間に帰ること
になり、その間の応援要員として、量産設計が終わったばかりの私がシフトに入る
ことになった。

次世代エンジン研究チームでは、先の見通しが見えかかっている段階にあり、主任
設計者は、日々、ピリピリしていた。

早速、私にも業務指示があり、私にも気づいた点があったので主任に提案をしたが、
これが余計なことであったようである。

量産設計においては、新人の私の意見にも積極的に耳を傾けていただいて、妥当な
考えについては、採用されていたので、その勢いで提案したものだが、どうも勝手
が違うようである(結果、相当に、第一印象を悪くしたようである)

主任にしてみれば、日々が、思考段階にあり、主任が考え付いた様々なアイデアを
周りは手足になって試行する(それがスタッフ層に求められていた姿であった)

初日において「私の悪評がすっかり定まった」様であり、ことごとくバッシングを
受けることとなり、会議室に呼び出されて「ナゼ素直に作業に取り掛かれないか?」
と詰問される事態となった。

そのような険悪な雰囲気が続いていたある朝の出勤時・・・

永福寮から永福町駅に向かって二人の寮生と一緒に歩いている時にまったく混んで
いない大通りにおいて、後ろから、私だけが車にはねられてしまった。

特に、怪我はなかったが、念のため 「医院で診断を受けてほしい」ということで、
二人の寮生には出勤してもらって、私だけ医院に向かった。

診断結果としては・・・

「外観的に、特に異常はないが、大きな病院で精密検査を受けたほうが良い」と
いう旨のアドバイスをいただき職場に電話すると人事担当から石川島播磨重工業
の総合病院で受診できるように手配をしたので、そちらで精密検査を受けるよう
にとの指示をうけて、翌日、総合病院に出掛けた。

東京の佃島にある石川島播磨重工業の総合病院に出向いて、窓口で入院手続きを
済ますと 「はい分かりました、それでは患者さんをお連れ下さい」と云われて、
「私が患者本人です」と云うと、一瞬、驚かれたが、すぐに病室のベッドに案内
されて、病人扱いとなり、精密検査を受ける体制が整った。

間もなくして、診察室に呼ばれて、歩行検査などが行われ・・・

〇 直線上を歩行すると 「まっすぐに歩けていない」 ことが判明した。

今の様に交通機関が発達した時代なら、すぐに分かる「ムチ打ち症」の発症であり
明日から、脊髄液などを採取しての本格的な精密検査をすることが予告された。

勤務先はもちろん郷里にも電話をしておく必要性を感じて母親に連絡をとると、

「二十歳かい? 女性なら厄年だが、男の場合は、厄年はもっと先だね」という
やり取りがあって「父さんが帰ったら話しておくよ」といって会話は終わった。

病院での精密検査は、その後も続き、ドクターからは・・・

「まっすぐに歩行できるようになったら出勤しても良い」と云われて勤務先に提出
するように、と、診断書が発行された。
 
寮に帰ると、翌日、ジェットエンジンの量産設計に一緒に取り組んだ先輩がチーフ
からの指示で永福寮に様子を見に来てくれた。

郷里にも「まっすぐに歩けるようになったら出勤しても良い」と云われた旨の連絡
を取り、ドクターからの目安として安静7日間程度の目安であることを伝えた。

当時は 「まだムチ打ち症の症例は少なく」サボタージュのような印象があって寮
で休んでいても、中途半端に、仕事のことが気がかりであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

実は、この直後に、父親が俊敏な行動を起こしていることはまったく知らなかった。

父親は、永福寮には顔を出さず、私の勤務地である武蔵野の事業所を訪ねて当時の
設計1課を訪ね、課長が出張中ということで、主任のN氏とH女史と面談・・・

「不肖の息子が、不注意にも、交通事故に遭遇して、業務の進捗に穴を空けてしまい
申し訳ありません」と、銀髪(日本人だが銀髪だった)の頭を下げっぱなしだったと、
後になって、入社以来、私の指導員役の一人であるH女史からお聞きした。

その時には、当時、私が応援に出ていた次世代チームのS主任にはお会いする機会
はなかったのだという。

父親があまりにも恐縮していたので、その後は、主任のN氏とH女史との世間話と
なり、父親が中島飛行機で働いていて、終戦直前に飛行試験に成功したジェット機
橘花にも話が及びお互いに親しみを抱いて話が終わったのだという?
(父親から直接的に聞いた訳ではないので不確かな話であるが)

・・・・・・・・・・・・・・・

その後、私が出勤すると、私の席は、量産設計チームの処に戻されていた。

まだ生産部門における量産開始に伴う支援活動や耐久性向上に向けた設計変更など
の業務は続いていたので、業務の多忙さは続いていて、次世代チームから量産設計
チームへの復帰は歓迎された。

やがて、次世代チームのメンバーで九州の実家に帰っていた同期生のO君もチーム
に戻り主任のお気に入りでもあったので、私が再度チームに戻る必要はなかった。

同期生の O君からは・・・

「大変だったね」と開口一番に、声がかけられて、
「今、主任は、次世代エンジンの設計コンセプトについて出口を探っている段階で
相当にピリピリしており、我々も大変なんだよ」

「ただ云えることは、自分でアイデアが浮かんでも、先ずは主任からの指示をやって
みて、余った時間で自分のアイデアも試してみる」これが主任と付き合って行くコツ
の様だよ、と、聞いて、さすがに九州男児は逞しいなと実感した。
(この仕事のこなし方は、後日、大いに役立つことになる)

・・・・・・・・・・・・・・・・

かくして、父親が、東京杉並区の永福寮まで日常の生活用品を車に乗せて寮の部屋
まで私を案内してくれて、これがミニチュア版のサーキットレース場に私を載せた
場面想定で、いずれサーキット場から私が転げ落ちるお様なことがあれば、俊敏に
対応して父親が自ら出馬、サーキットレース場に載せなおすという父親の予測通り
のレース展開となった様である(父親の洞察力の恐るべし)

これが、二十歳における転覆事件の顛末であったが・・・

これも、今、考えてみると「人間万事塞翁が馬か?」と、云えるのかもしれない。
(その後、40歳代まで、順風満帆な人生行路が続くことになる)

前述した、私の役割の一つであった「仏壇の掃除」についても、エピソードがある
のだが、話が長くなるので、機会があれば、後日、語ることにする。

そして、その後、間もなくして、次世代エンジンの出口を探っていた主任が、突然、
逝去されたことが、同期のO君から伝えられた。
(主任の母君からは、診断の結果、心身ともにボロボロの状態であったという)




006 人生航路において生き方を決める言葉を脳内キャッチ

杉並区の永福寮において、初出勤を前にして寮生の全員が揃った日に永福寮の全員
が食堂に集められて、永福寮のオーナー、食堂の賄いのメンバー、舎監(大先輩)
などが紹介され、オーナーからは「困ったことがあればなんでも云ってください」
と声がかけられた。

オーナーの年齢は不詳であったが、寮生に親しみやすいように、と、の配慮なのか
Gパン・スタイルの若々しい恰好をされていた。次いで挨拶された奥さんは気さく
な印象の方であり 「なんでも相談出来そうな」 雰囲気であった。

翌朝は、それぞれに、目覚まし時計などをかけて抜かりなく、食堂で朝食を摂ると
足早に永福通りを抜けて、井の頭線に乗り込み、渋谷駅経由で、大混雑の都バスに
乗り、豊洲地区の体育館に向かった。

体育館には新入社員の総勢 約600名が集合、石川島播磨重工業の1期生として、
全国の大学・高校からのいっせい入社であり後にも先にも1961年(昭和36年)
は最大規模の入社式であった。

入社式では、石川島造船と播磨造船が合併して誕生した 新生 石川島播磨重工業
(IHI)の代表に就任された土光敏夫社長から挨拶があり新入社員全員に向けて
一人一人の氏名が呼ばれて、土光社長とのアイコンタクトがあった。

土光社長からの挨拶(メッセージ)を要約すれば・・・

当社としては 「学歴不問」「適材適所」を貫いて活動して行くので皆さんも自分
に適した働き場所を、真剣に、自ら探し出して、自らの能力を発揮してもらいたと
いう力強い内容であった。

この後、約三か月間にわたり新生IHIの全製品事業部を把握するための中長期的
な人材育成計画に基づく、新入社員教育に移って行くのであるが、人事部長からは、

「皆さんが実際に職場に配属となりますと、必ず職場には○○長といって長の付く
人々が居ますが、これは偉い人という意味ではなく、職場をまとめるための人です
から気兼ねすることなく、なんでも気軽に相談するように」との挨拶があった。

私は、兎に角これを真に受けて「学歴不問」「適材適所」「長が付く人はまとめ役」
というキーワードを人生航路の羅針盤における「三つの三角定規」として良くも悪く
も、脳内に定着させて、行動を徹することになる。
(やがて社内が硬直化していってもこの姿勢を貫いたのでぶつかることもあった)

そして、入社式における 「土光社長とのアイコンタクト」においては・・・

中盤にさしかかって、私の名前である「佐久間 勉」(さくまつとむ)と呼ばれた
時に、土光社長の眼光にキラメキが感じられて、次の瞬間、眼光がレーザービーム
のように、私の眼に飛び込んできて、私の脳内に達した。
(これは一瞬の出来事であった)

後に、この衝撃波は私の「佐久間 勉」(さくまつとむ)という呼び名によるもの
であったことがかなりの精度で推測された。

広辞苑によれば 「佐久間 勉」 なる有名な人物は・・・

海軍大尉であり、福井県生まれ、潜水艦長として山口県新港(岩国港)沖において
潜航訓練中に水没事故により殉職、艇内で死ぬまで部下を指揮し報告を書き続けた
人物とある

そして、福井ミュージアムには(インターネット記事より抜粋)・・・

佐久間 勉 大尉:明治12年(1879年)生まれ~明治43年(1910年)没
は、死の直前に配した遺書が、世界中に感銘を与えたとしている。

佐久間大尉は明治時代の海軍軍人であり、北前川村(若狭町)生まれ 明治四十三年、
訓練中、潜水艦が沈没した時に、艇長として、最後まで冷静に行動し 遺書を残した。

乗組員全員が、最後まで持ち場を離れずに殉職しており、こうした乗組員の取り組み
姿勢や、彼の遺書は世界中に感銘を与え、夏目漱石は佐久間大尉の遺書を名文である
と絶賛し、与謝野晶子は佐久間大尉のために追悼の歌を詠んだ。

私の命名者である父親からの補足としては、当時、同じ時期に、やはり海洋において
他国でも潜水艦事故があって、この海外の事故においては我れ先にと脱出する事態が
あって海難事故を更に悲惨なものにした経緯があったために、両者の対応が比較され
ることとなり、日本の事故がよりクローズアップされることになったのだという。

私の「佐久間 勉」という命名に際して、父親が福井県出身の「佐久間 勉」大尉の
名前をナゼ重視したかというと・・・

父親:竹次郎のルーツを辿ると、群馬県前橋市萱町1丁目1番地で生糸の生産と販売を
始めた祖父の佐久間忠助は、廃藩置県で佐久間本家共々、福井県から群馬の地に集団
移転してきた経緯があり、元々は、福井藩松平家の武士で名刀などの家宝を処分して
群馬県に集団で大移動してきたという経緯がある。

我が家の菩提寺は群馬県前橋市の冷泉院であるが、お墓参りに行くと墓石には佐久間
の名前ばかりが並んでいて、久々の墓参では、我が家の墓石を探すのに時間がかかる
ほどに、佐久間家は、本家共々の大移動だったことが伺える。

父親にしてみれば福井へのこだわりがあって福井県の名士である「佐久間 勉」大尉
の名前には憧れがあったのだと思う、父親としては、佐久間 勉では恐れ多いので進
にする案もあったが、最終的に「佐久間 勉」にしたのだという。

〇 社内の昇進試験において本社の重役から佐久間勉大尉の末裔にあたる人物か?
 などの問い合わせがあったり、

〇 後に全社的な業務革新の際の全国行脚において広島県の呉地区の職場を訪れた
 際に自衛隊の宿泊施設を利用させていただき、その時に、私は課長の立場で同行
 させていただいたが部長の部屋よりも上質なシャンデリヤ配備の部屋に案内され、
 部長が、私の部屋を訪れた時には驚かれたが、これも、宿舎のフロントで勝手に
 佐久間勉大尉にゆかりの人物と推測されたためであった。
(この宿舎近郊には、実際に、佐久間勉大尉の記念館が存在していた)

私の命名についての説明が微に入り細に入り長い文章になったが、当時、土光社長
も造船業をけん引する海の男であり「佐久間 勉」の名前が呼ばれたとき瞬間的に、
レーザー光が私に向けて発せられたのだと推測するが・・・

「私にとっては、ありがたいことであった」

入社式の翌日からは、早速、新人研修の開始である。

新生IHIの全製品事業部を理解するための実習を交えた新人研修は、三か月間と
いう長い期間をかけて開始された。トピック的には、実習期間中に、興味をもった
クレーン操作を練習させていただいたことが感動的であった。
(眼下、約30メートルのワイヤーを操作する作業は、圧巻であった)

また、造船部門の実習では、私が新生IHIに入社する際に保証人としてお世話に
なった群馬の地元・太田市から毎日・東武鉄道の浅草まで出て通勤されていた小沼
さんの所属部署である木工所も見学させていただいた。
(精密な木工仕上げに驚いた)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この「三か月間の実習研修」を通じて、私は、自分の配属先の希望を・・・

〇 第一志望は 「航空エンジンの設計」

〇 第二志望は 「橋梁類の設計」

として、人事部に提出する書類に明記した。

この三か月間の教育期間の最終日に人事部から配属先が発表されて・・・

私の配属先は、第一志望通り「航空エンジンの設計」に決まった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

また、研修最終日には石川島播磨重工業の来客食堂に配属先の決まった製品事業部
ごとに食事会が催されて、フルコースのフランス料理が振舞われた。

新生IHIにおける食事について最初に驚かされたのは、入社式の当日に社員弁当
を是非一緒に味わって下さいということで、カレー食の昼食弁当が振舞われた。

弁当箱はアルミ製で、最初に弁当の蓋をあけると美味しそうなカレーが入っていた。
次いで弁当箱の蓋を開けて驚いた・・・

弁当箱の中で、炊いたお米が、揃って直立姿勢をして米粒が光っていた。みんなで
仰天して話を聞くと「アルミの弁当箱にお米と水を入れて弁当箱ごと炊くために」
このような炊きあがりになるのだと云う。

最近でこそ、近郊のトンカツ屋「和光」のレストランで、顧客一人ひとりに向けて
単体の炊飯窯でお米を炊いていて、やはり、米粒が立っていて炊き立てを美味しく
いただいているが、これは、約六十年も前の話である。

このカレー弁当とは対照的なフルコースのフランス料理の昼食の美味しさにもまた
別の意味で驚かされた。新生IHIでは、当時、造船部門を主力として大活躍して
おり、やがて土光社長の強烈な営業力により「造船世界一」の偉業を成し遂げる。

造船において、もっとも華やかな記念式典は進水式であり、大型船の進水式などに
おいては、進水式に来場されるお客様の人数も多く、来客食堂も大規模人数に対応
出来るように、フランス料理のシェフなどの料理人も、豪華メンバーが揃っており
国内外の超一流の要人などをもてなす対応が整っていると云える。

私も、その後、四十歳代の時に、管理工学&品質管理分野の講師として日本生産性
本部などからの要請で大型豪華客船に2回ほど乗船させていただいたが、偶然にも
1回目は三菱重工業製の豪華客船に乗船、2回目は石川島播磨重工業製の豪華客船
に乗船する機会をいただいたが、いずれ劣らぬ大型豪華客船であった。

その際の食事も、やはりディナー食は、フルコースのフランス料理が振舞われたが、
新入社員を迎えての研修修了時の昼食会の時の美味しさも負けず劣らずのテイスト
が提供されていたので、新人研修修了の昼食会としては、中長期への期待の大きさ
を推し量るには、大きすぎるもてなしであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次の航空エンジン事業部における教育も約三か月間が予定されていた。

航空エンジン事業部における約三か月間の教育期間中は、事業所内の工場単位での
見学実習が予定として組まれていて・・・

「機械工場」及び「板金工場」「翼工場」「熱処理工場」「塗装工場」「組立工場」
「エンジン試運転場」など、どの部署も目を見張る様な新鋭工場でその時に記した
実習ノートは、約10年間ほどは、手元において役立てた。

一番の脅威は、エンジン試運転場で、ボウッとしていると、頭の中の血を吸い取られ
るぞ、と、脅かされて真に受けていたが、要は、注意深く行動しないと危険なエリア
であった。

航空エンジン事業部における教育研修が修了すると、それぞれの配属先に顔を出して
更にそれぞれの所属課への配属が決まる。

我々の場合は、総勢5名が設計部への配属となり、人事部の案内で設計部の今井部長
のディスクの前に案内されると、今井部長からは唐突な発言として・・・

「最近の学校は、成績表に、下駄を履かせるのかね?」との一声で、案内した人事部
の方も、我々も、唖然として、今井部長の顔を見たが真意は測りかねた。
(我々は学校から、どのような形で成績表が提出されているかはしらない)

その後、5名は、各課に案内されて、私は 「設計1課」 の配属となり・・・

私は「純国産ジェットエンジンの量産設計」の末席に設計図を描くために配置された
大型の製図版の前に席をいただいた。




007 超高温部の燃焼器構造部の図面を担当


私が大型製図版で最初に担当することになった図面は燃焼温度が摂氏1200度に
達する燃焼器の構造部の図面作成であった。

図面は、全て実寸、造り易さや、組み立て易さなどは、実寸で、図面を描いてこそ、
設計者にも、製造技能者にも、直に、伝わって来るものがある。

しかも、燃焼器の構造部分は、長時間・超高熱に晒されるために、耐熱性や耐久性
という面から、クラック(亀裂)などが生じない様に、外周部からの効果的な冷却
効果が求められて来る。

そして、飛行運用上、ジェットエンジンの総体として、150時間を超える長時間
の使用にも耐え抜くことが求められてくる。

造り易さや組み立て易さは実寸で図面を描けば、脳内である程度の推測は出来るが、
この超高温への耐久性は、実際に150時間超の連続運転をして、エンジンを分解
点検してみないと、実際の耐熱性や耐久性は把握できない。

したがって、燃焼器の構造部分の設計を担当するということは、エンジンが実用化
されても、長期間にわたってのエンジンの性能維持や耐久性を保証して行くために
は、設計側の最終ランナーとして、継続的に、顧客をサポートして行く必要が生じ
て来る。

純国産ジェットエンジンの本体図面は、コールド・セクションといって空気を強烈
に圧縮する構造部と、ホット・セクションといって圧縮空気に燃料を混合させ強烈
に燃焼させる構造部とに区分され、エンジン開発段階においては圧縮機の構造部が
胆でありエンジン開発においてはエンジン玉成につながる第一条件となってくる。

そして、エンジンを円滑に駆動させるためには、燃料コントロールやオイルポンプ
といった機能システムがエンジン運用の鍵を握ってくる。

同じ設計陣でも、ホット・セクション構造部の設計者の方が、エンジンとの付き合
いが長くなるのは、耐熱性や耐久性という面から、エンジン運用の時間的な経過と
共に、エンジン燃焼によるクラック(亀裂)の発生など解決の必要な課題が生じて
来るためであり、最終的なエンジンとしてのまとめ役を引き受けることが多い。

一方で、圧縮機などの構造部は、一度、完成してしまえば、その後の長時間運転に
よる加熱などによって劣化するなどのケースは少ないため設計陣の手離れは良いが、
航空学における技術データの膨大な積み重ねが求められるという特殊性はある。
(風洞試験なども伴うため東京大学の航空分野出身の秀才が係わるケースが多い)

ここで反復すれば、超高温部の燃焼器や高温タービン回転部などは実際に超高温に
長時間、晒されて、はじめて、構造的な切り欠け部分などへの応力が集中しやすい
箇所などの実証検証が可能になるため、設計段階での予測は難しい。

そして、エンジンとしての完成形においては、実際にエンジンとして総組立をして
総合運転試験を行い、かつ長時間運転を通して、燃料供給の機能やエンジン回転部
への循環オイルの供給など、機能設計部門に向けても季節による変化などを長期的
に見通して要求事項をぶつけて行く必要があるために、長期的な、付き合いになる
ケースが多い。

私をチームの一員として迎えてくれたのは、このホット・セクションの設計チーム
であり、総勢5名、内訳は、構造部の主任のI氏と先輩と新人(私)の3名、燃焼
エネルギーをシミュレーション計算する天才H氏(東大出身)そしてコールド部と
ホットセクション部の空気の流れや潤滑オイルの流量を最適化させる数学科の天才
女史H氏という多彩な構成である。

前述の日々の設計チームの運営は、構造部の3名から成り、名大出身の主任I氏の
気配りによって、ホット・セクション部の出図は、次々と展開されていった。

主任I氏によるチームミーティングは、日々、的確に行われ働きやすい職場であり、
時折、焼き肉屋などでの懇親会などもあり、主任が、今、何を考えて行動している
かなども的確に伝わってきた。

私が最初に描いた図面は燃焼器ライナーの図面で、この円筒内を摂氏1200度の
超高温度の燃焼ガスが吹き抜ける。課題は、この円筒を組み立てるために円筒先端
に構造上の切り欠部があり、また円筒を外部から冷やすために、空気を取り入れる
穴部としてルーバーと呼ばれる構造部があり、これらの応力が集中しやすい部分の
耐熱耐久性が、どのような形状にしたら最適なのか?

やがて 「150時間の連続運転を経て」 実証実験して行く必要がある。

そして、燃焼器の構造部分の量産図面は、出図して、実際に製品として加工されて、
実機に組み込まれ、無事にフライトを終わって、整備工場に帰って来て、分解点検
され、この繰り返しの中において「科学的な取り組みが必須になってくる構造体」
であることが、長い時間をかけて、分かって来ることになる。

具体的な話をすれば、量産設計の図面が出図されて、3年後に、初等中間ジェット
練習機に搭載されたエンジンの優秀性が、評判を呼び、対潜哨戒機(P2-J)に
向けて、当時、搭載されていたところのレシプロ・エンジンからの換装エンジンと
して有力候補となり、本格的な換装に向けて飛行試験が重ねられていた。

所定の飛行試験を完遂してエンジンが整備工場に持ち込まれて分解点検したところ、
燃焼器の構造体の燃焼筒の先端部に、長時間の燃料燃焼による劣化が確認された。

エンジンの優秀性から、対潜哨戒機への換装エンジンしては、ほぼ確実視されては
いたものの、燃焼筒の先端部の劣化については、早急な改善を必要としていた。

初等中間ジェット練習機に搭載した状態では、同種の問題は発生していないために
対潜哨戒機に搭載した場合に限っての問題であると断定されて両者の相違点が検討
され、有力な相違点として「使用燃料の違い」によるものでは? と推定された。

そこで、燃焼器の該当部分をセクター的に、モデル解析することになり150時間
の時間をかけて、燃焼筒の先端部の燃焼状態を観察することになった。

該当の試験施設は、IHI東京豊洲地区の研究所内にあり、風洞設備を備えている
実験室に、モデル解析のための構造体を据えて実験を開始した。試験時間は場合に
よっては150時間に及ぶ可能性があり、私と助っ人メンバーの二人が実験のため
の専任となって、実験に当たった。

日々、燃焼筒の先端部を観察するものの150時間の燃焼試験を経過しても該当部
に変化はなく「不毛の結末」に到った。

その後、海外の研究論文から有力な情報が入って来て、燃料の違いによる影響では
ないと断定(燃焼実験のやり方などに疑念が残されていただけに)違った面からの
海外誌による考察を熟読して安堵した記憶がある。

海外の研究論文によれば・・・

航空機用のジェットエンジンを海上警備などで使用に供した場合に、塩害によって
燃焼腐食が生じる可能性がレポートされていた。その場合の防護策として最新技術
により、セラミック・コーティングという技術が開発されて効果を発揮している。

ここでの所見は燃焼器という構造物を燃焼時の強度的な側面から切り欠き部の集中
応力などを研究するのみでなく、化学的に塩分を含んだ圧縮空気と燃料の混合ガス
が燃焼する場合には、化学反応などにも配慮する必要があるということである。

すなわち、燃焼器という構造体は 「総合的に科学して行く知見が必要である」と
云うことになって来る(まさに、これは、開眼的な気付きであった)

量産設計時には 「加工し易さ」や「組み立て易さ」という知見で、設計図を描い
てきたが、ジェットエンジンとして、長期的な運用をして行くフェーズにおいては、
実際のジェットエンジンとしての運用を経てオーバーホール段階における所見など
に基づいた 「耐久性の向上」などが重要な課題になってくる。

そしてジェットエンジン量産化の中長期的な所見から・・・

純国産ジェットエンジンとして量産化のためのすべての図面について、出図が完了
した時に、量産化に取り組んでいた全員が大型製図版の前に立って、拍手をするこ
とで、お互いの担当図面完成の喜びを交換しあったが、

これからの課題は・・・

量産化図面を担当した設計者は総解散となるもののホット・セクションの構造部を
担っていた我々のチーム要員は、以降のエンジンのまとめ役として全ての設計業務
を引き継ぐことになった。

思えば私は最初に手掛けた燃焼器ライナーの図面描きの段階ですっかり手こずった。
量産設計の図面は、実寸での描画を原則としていたので、直径600cmの円筒を
側面図として描く場合には、ビーム・コンパス(超大型のコンパス)を使う。

現在は、パソコンを端末としたコンピュータ描画で、容易に作画出来るが、当時は
手書きであり、学生時代の設計図では、それほど大きな円形など描いたことがない
ために、最初、ビーム・コンパスで円を描いた時に、描いた円が一回りして出発点
に戻った時に直径で2mmほどのズレが生じる。

これも工夫することで、ビーム・コンパスの中心部の図面の裏側をスコッチテープ
を使って補強したり略図法で半円で描いたり、日常的な知恵の積み重ねで問題解決
に到るのだが、この頃から脳内に描いた図面を収納できる様になり寝ても覚めても、
自分が描いた図面のチェックが脳内でこなせるようになって行った。

そして、当時の職場環境の特筆事項としては、日本企業における労使関係が賃金を
めぐって常に緊張感をもっていた時代で春のベースアップや夏季・冬季のボーナス
交渉などが過熱して、ストライキなどが行われることもあり職場には部課長と新人
のみが出勤という状態が続くこともあった。

そのような状態においては、課長が、新入社員である我々新人の面倒をみてくれた。
課長が出張の際には部長が新人の処を巡回して相談にのってくれた。

設計部の今井部長は新人に対する面倒見も良く私が大型製図版の上で図面を描いて
いると 「すべての設計は、設計に始まって、設計に終わる」として・・・

〇 量産設計において、造り易い・組み立て易い図面を描いても、実際に製作して
 みると、製作工具の使い勝手が悪かったり、想定外の問題が起きてくる、この時
 設計者は言い訳をする前に、どうしたら上手く行くか一緒に問題解決する方法を
 考え出して、答えが得られたら、必ず、図面に反映させておく

〇 この繰り返しと積み重ねによってエンジンの完成度も向上して、設計者の技術
 や技能者の技量も向上して行く。

また、ある時には、燃焼器の火炎筒の胆の部分の図面を描いている時に空気流通部
のスリットが1個所だけ狭まっている部分があって、これは飛行試験を通じて得ら
れたアイデアであり、エンジンの火炎が飛行中に吹き消えることがあっても部分的
に狭まったスリットのおかげで火炎を保持することが可能となり、これが火だまり
となって温存されるために、エンジンの再着火が容易になる。

〇 私にとって、この知見は、後に生産部門において生産性向上運動の旗振り役を
 担うようになった時に、この種の運動には、盛衰があり旗振り役が「火だまり」
 さえ保持しておけば、再興できるという自信につながって行った。

そして圧巻は、私の大型製図版の下にクリップが1本落ちていた時にアメリカ企業
において全職場で落ちているクリップを数え挙げることで全社的に膨大な数である
ことに気付き、そこから全社的な経営改善が始まって行ったという事例を紹介して
下さった。

〇 これは、後に、私が、全社的な業務革新の旗振り役を任命された時に実際的な
活動を導入して行く際の起爆剤となって、後年、役立つことになった

今井部長は、後々も我々新人の処を訪れて、具体的な指南をして下さったのは労使
による賃金交渉がらみのストライキ時のみでなく、課長出張時には必ず顔を出され
て個々に具体的な話題を提供して下さった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

純国産ジェットエンジンの量産化のためのすべての図面が出図されると、製造部門に
主舞台が移り、量産に向けて製造が始まると設計部隊はいったん解散され、次の段階
に移るまで、僅かな期間であったが私は次世代エンジングループに応援に出たがすぐ
に量産化グループに戻ることになった。

・・・・・・・・・・・・・・・・

次のフェーズでは、まったく違った業務形態にシフトして、新しい局面での取り組み
となり、大いなる新鮮味が感じられたが、ストレス・フルな環境であった。

具体的には、150時間耐久運転試験に向けて、私は5基の試験機としてのエンジン
を預かることになるのであるが、業務への集中のスタイルが激変した。



008 ストレス発散を燃焼器から学ぶ


私がお守役として預かった5基の試験機は、既に、中間ジェット練習機として訓練
飛行を開始する前に所定の時間をかけて、地上での、訓練飛行における運用を想定
した試運転を繰り返しており、いつでも、練習機に搭載して飛行できる状態に整備
されて保管されていた。

これからの役割は、量産設計されたジェットエンジン部品で、耐久性の確認が必要
な該当品を試験機に組み込み、ジェットエンジン運転試験場において、150時間
の連続運転を行い、分解検査をして、個々の部品の耐熱・耐久性を確認する母体と
しての任務を背負っていた。

運転試験場としては、長期間にわたって試験場を占有するため防衛庁の第三研究所
が提供され、研究施設における試運転なども、運転試験に関する技術支援を含めて、
防衛庁の技官によって運転操作が行なわれ、国家的な事業としてエンジンの耐久性
向上のためのアプローチが積極的にサポートされた。

そして、我々の若手スタッフはジェットエンジンの正常な運転が継続されての連続
運転であることを、継続的に観察するため、エンジンの排気温度などが正常に推移
してことを連続的に確認・計測するため昼夜兼行の交代制で試験場に泊まり込んだ。

〇 防衛庁の第三研究所の運転試験所(控室)において、IHIの設計チームから
 差し入れのあった、当時、発売されたばかりのカップラーメンの味は、夜中に食
 したせいか、今でも記憶に残っている?

この時期における武蔵野事業所内(田無地区)での私の役割は・・・

〇 燃焼器の構造部の組立図を描くことで「個々の構成部品の不適合がないか?」
 組み立て作業上の問題は、ないか、などのチェックをすることにあった

細かいことを云えば、穴加工などで位置関係にバラツキが出たときに、ボルト類を
問題なく挿入できるか? などなど、微に入り細に入り確認を重ねた。
(組み立て作業では、加工時のバラツキについて、公差の設定が重要)

〇 製造部門からの部品製作上の疑問点や問題点には現場に出て、即、対応する。
 問題が解決されて、図面に反映する必要があれば、改訂伝票を発行して、原図
 も合わせて修正する

〇 やがて、組み立て作業が開始されると組立工場に出向いて問題があれば対応
 する必要があり、時には、一緒になって組立作業に取り組むこともある

〇 運転試験に備えてはエンジン機能について熟知しておく必要があったので個々
 の部品を総組立するイメージでジェットエンジン全体の断面図を描き、それぞれ
 の部品の材料スペックを明記して、材料スペックには予め目を通した

この時期のいそがしさは、分散的な忙しさで、量産設計の図面を描いているときの
集中的な忙しさとは、いそがしさの性格が異なっていた。

大型製図版の上に、自分の「行先表示」を明示することは心がけていたが製造工場
から組立工場に移動することもあり、本人の忙しさの割には業務への取りくみ姿勢
に対して、周りからの評判は悪かったようである。

そこで、組み立て作業が盛んになってからは、組み立て工場の片隅に業務用の机を
持ち込んで、現場で、私を探しやすくする工夫なども試みた。

結果、ストレス・フル(満載)な環境に我が身を置くことになりジェットエンジン
から 「ストレス発散の術」 を学ぶことになる。

ジェットエンジン部品の中でも、特に燃焼器の構造部品は、耐熱・耐久性から特殊
なステンレス材が使われ、構造物として、溶接作業によって形作られる部品が多い。
この時、ステンレス材は溶接作業によって強い歪が生じこの歪による内部ストレス
を取り除くために、加工後は、必ず、熱処理作業を加える。

私としても「一生懸命に働いているつもりが上司から叱られたり?」現場に出掛け
ては「こんな図面で組み立てが出来るか?」と現場の班長に啖呵を切られたり、と、
兎に角、ストレス・フルな日々で「自分自身のストレス戻し」が必要であった。

ただし、燃焼器の組み立てについては、学校で実技を学んできた経験もあり、啖呵
をきった班長に工具を借りて、燃焼器を組み立てて見せた。それ以来その班長とは
親友となり、何かにつけて助けられた。

そして、ストレス解消に向けた、日常的な手当ては 「風呂に入って手足を伸ばす」
ことであったが、それは受け身のストレス解消法であり、もっと強いストレス解消を
必要としていた。

そこで考えたのが、昼休み時の 「軽いスポーツへの取り組み」であった。

昼休みに外に出て一人でもすぐに取り組める軽スポーツとして、学生時代に楽しい
想い出がある 「バスケットのフリースロー」に取り組んでみた。

このバスケットのフリースローに取り組んでいるうちに隣のテニスコートで楽しそ
うに、ラケットを振り回しているテニスに興味を持った。テニスにも軟式と硬式が
あって、当時は、軟式のほうが取り組みやすい印象を持った。

当時は、田無の事業所勤務で周囲が住宅がであったために、周囲から強い風が吹い
てくる訳でもないので、軟式・硬式どちらでも選択可能であったが、やがて勤務地
が瑞穂地区の事業所に変わると、隣接地が横田飛行場のため風が強くテニスクラブ
の会員は、全員が硬式を選択せざるを得なくなるという変遷が後に起こってくる。

当時は、思い立ってすぐに、軟式テニスクラブに入会させていただいて、ストレス
発散には 「テニスが最適なスポーツである」 ことに気付くことになる。

「コノヤローと軟式ボールを思いきり叩けば」ゴムボールが「ごめんなさい?」と
平らに、つぶれてくれるので、ストレス発散には最高のスポーツであった。
(最近は傘寿を前にして友達の様にやさしく硬式ボールを撫でている?)

また、この時期には、量産化の図面に向けて大型製図版に張り付いていた環境から
は脱して、企業としても週休二日制の導入など、郷里への帰省などについても週末
には取り組みやすくなって来たので、二か月に1回くらいは帰省するよう心がけた。

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あれからだいぶ期間が経過してしまったが、前回の帰省はIHI豊洲地区における
新入社員教育が修了して、久々の帰省であったが、群馬県太田市の実家には大きな
変化が起きていた・・・

〇 我が家には、シェバードの子犬が、我が家の新しい家族として顔を連ねていた

聞けば、弟が兄貴である私と自転車遊びなど、いつも一緒に遊んでいたこともあり、
私が上京後は、日々、寂しさいっぱいで母親も、心配していた矢先、ご近所の懇意
にしている奥さんから 「シェパードの子犬が産まれたので育ててみませんか?」
と声がかかり、

母親としては「これだと思って」弟と一緒にシェパードの子犬を見に行くと即座に
気に入って、そのまま抱いて、連れて帰ったというのである。

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そして久々に帰省した私のことをシェパードの子犬は覚えていてすぐに跳んできた。
この時期から、定期的な帰省の楽しみが、ひとつ増えたと云える。

そして、これは余談だが「ヒトとして生まれて」ジェットエンジンから人生を学ぶ
ことが続いていたが、生身の飼い犬から学ぶことは、より多いことに気付いた。

この飼い犬からの学びについては「ヒトとして生まれて」第2巻にて特集を編んで
みることにしたい。

(続 く)

【長編】ヒトとして生まれて・第1巻

【長編】ヒトとして生まれて・第1巻

第1巻・父親の存在感

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-04

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