後悔
お久しぶりです。
『芸能人M君シリーズ』だよ。
いつもの設定とか時系列が複数パターンある世界観で書きました。
思いついたシーンが夏でした。
1
通学用にしているスポーツバッグは、持ち手の両サイドがほつれて毛羽立っている。平たい面の底に4つあったはずの滑り止めは、とうに擦れてほとんどなくなっていた。これでもまだ傷みの少ないものを選んだつもりだし、実際、寄付してくれた人もかなり綺麗に使ってくれていたのだと思う。側面にさりげなくあしらわれたブランドのロゴを、一度クラスが替わった今でも教室の誰も知らなかった。
何冊かの教科書とノートをすべて机の上に取り出し、少し悩んでから、A4のクリアファイルと薄いペンケースはそのままにしてファスナーを開けた状態でバッグを肩にかけた。薄日が差す図書館には誰もいない。受付のカウンターには、手書きで直線を足して行ごとに日付と名前を記入するようにしたノートが見開きで置かれている。利用者は、ここに名前と借りた本と日付を自分で書くのがここ『ひまわりの家』の決まりだった。
適当に3冊取って、自分の名前とタイトルをノートに書きつけた。書き終えてから、これでよかったのかと意味のない疑問が頭に浮かんだ。ボールペンで書いた名前を指でなぞる。もっとちゃんとしっかりしろ。何度も胸で繰り返し、浅く息を吐いた。
一応職員さんに声をかけて施設を出た。少し歩いた先にあるコンビニではなく、先にある安いスーパーに入った。お茶でも飲んで落ち着こう。ついでに真也にはジュースと、そうだ、プリンでも買ってやろうか。手で持てる範囲のものなので、カゴは取らなかった。周囲を見渡すと、こっちを見ている人は誰もいなかった。足の底がざわざわして、胸の奥が波立っていた。認めたくなかっただけで、信じたくなかっただけで、スーパーに入る前から自覚していたかもしれない。唇の端を噛んだ。視界が不穏に揺れているような気がした。
どうしてバッグの口を開けたままなのか。財布やスマホも入っているから取り出しやすいように。中身を出してくる手間と、もっと小さなバッグに貴重品だけ入れてくる手間は同じだったんじゃないか。それはもっと単純な話で、高校の制服を着ているんだから、通学鞄でそのまま歩くほうがいろいろ自然だろ。本もあるし。
――自然なのに、また盗るのか?
自問が間を置いて繰り返した頃、手首を掴まれた。声が出そうになるのを堪えるので精一杯で、プリンが滑り落ちるのは回避できなかった。お洒落に巻かれた小ぶりの生クリームが、密封された内側で形を崩している。もうこれは陳列棚には戻せない。
「今、何しようとしたの」
華奢なその手首は、俺の手首を掴んだままだった。店に入ってきてしばらく経つのか、それとも近場からで移動距離がなかったのか、掌の感触は乾燥していた。夏場の温い体温が伝わってくるだけだ。
「何、しようとしたの?」
わざとらしい区切りと繰り上げられた語尾。無意識に舌打ちしてしまい、腕を振り解いた。その手は追ってくることもなく、俺とは違う私立校指定のスクールバッグに添えられた。
「関係ないでしょう」
「関係なくない。後輩の過ちを先輩が見過ごせないじゃない」
「だから関係ないじゃないですか。学校違うし、バイトだって俺より1ヶ月早く入ってただけだし」
それでもひとつ年上なことに変わりはないけど、そんなことこそ関係ないと思う。一応社会の礼儀として年上には敬語を使うけど、施設内ではいくつ上だろうといつ入所しようと普通に話してきた。気を抜けば素の口調が出てしまいそうで疲れるから、バイト先で最も年が近い柳井さんは普段から苦手だった。
柳井さんは毛先がウエーブした長い髪を揺らし、少しむっとした。
「とにかく悪いことしないで。ほかには何も盗ってないよね」
「何もしてない。声でかいんですよ」
言われて初めて、柳井さんはド直球すぎたことを自覚したようだった。さっと視線を巡らせ、誰も見ていないことを確認すると、ついでなのか反射なのか天井を見上げた。監視カメラを探したところでどうなるというのか。
転がったプリンを拾いあげ、後の目当てだったジュースとお茶を手に取った。その後ろを柳井さんが追いかけてくる。レジさえ済ませてしまえば、もう柳井さんがついてくる理由はないはずだ。有料のナイロン袋を断って、プリンとジュースのお茶をバッグに突っ込んで口を閉じた。
「おやつ?」
「買い出しに行ってたんじゃないんですか」
読みが外れ、何故か柳井さんは店を出てもついてきた。苛々したけど、間違って怒鳴ったりなんかすれば、この人のことだからきっと倍増しでまとわりついてくる。そんなことになるくらいなら、今鬱陶しい気持ちを堪えたほうが何倍もましだ。
それに、こんな厄介なことになっているのは、俺の自業自得でもあった。
「そうだけど、君を見つけたから」
「そりゃ俺だって出没しますよ。安いし」
「安いなら最初から買いなさいよ」
正論すぎて返す言葉がない。俺が黙ると、柳井さんも黙った。
夕方とは言え、日差しはまだ強かった。鮮やかに色が変わりかかった空が、明日も晴れだと伝えていた。明日も記録的な猛暑だろうか。考えただけでうんざりだった。
「バイト行くならこっちじゃないですよ。俺は用事があるので」
「用事って?」
だから関係ないだろ――。と出かかったのを飲み込んだ。疎ましく感じるのも本当だったけど、少しくらい話してもいいと思えるのも本当だった。この人の口が堅いことは保証できる。でもほかの人には聞かれたくなかったから、歩調を合わせることにした。こうすればちょっとだけ声の音量を下げられるし、耳に入ってすぐ出ていくとしても、すれ違った通行人に聞かれる範囲も減る。
「知り合いが入院してるんで、お見舞いに」
「え?」
「怪我です。大したことないからすぐ退院するけど、年下だから」
怪我という単語を聞いて、曇っていた柳井さんの表情が和らいだ。施設出で卒業後は自立せざるを得ず、その原資を稼ぐべくバイトに明け暮れている俺に演技しても得なんてない。去年16歳になってすぐに始めたバイトは半年くらいで切られたことも、この際だからと前に話した。そこまでしても、柳井さんは俺を避けなかった。
口には安心できるとして、でも話せるのはこれだけだ。じゃあ急ぐからと足を速めた。柳井さんはもうついてこなかった。
2
病院の待合室は、少し空いているように見えた。と言っても俺が来るのはいつもこの微妙な夕方だから、そう見えるだけで判断できる材料はない。土日よりは空いているし、スーツを着た社会人っぽい人もいないから、まだ仕事終わりの人が訪れるには早いのかなと思っただけだ。
手持ち無沙汰でバッグのお茶を飲みながら、エレベーターが来るのを待った。真也が過ごす個室は6階だった。最初に聞いたときは、まずその高さが不安になった。突発的に落ちたくなったらどうするんだ? たぶんひとりではそんなことしないと思うけど、止め損なったら? 6階なんて落下したら確実に死ぬじゃないか。2階か3階だったら、運が良ければ骨の2、3本で済むのに。そんな幸運のひとつさえ望めないところなんて。
ああダメだ、疲れてる。いくら甘えたで寂しがりでかまってちゃんな真也でも、さすがにそこまでするわけない。だいたい今日はたまたまシフトの交替依頼があっただけで、最初は来る予定じゃなかった。ついでに言うと、その連絡をもらったのは柳井さんからだったけど、あの人に会う予定でもなかった。余計に調子が狂った。
病室の扉を滑らせると、予想していない轟音が耳を突き抜けた。肩から落ちそうになったバッグを辛うじて支え、急いで身体を内側に翻した。入りざまに感じた誰かの視線が痛い。見た感じ見舞客だったから、病院の人に苦情を言わなきゃいいけど。
「真也」
手早く消毒を済ませ、スリッパに履き替えた。真也は見向きもせず、ベッドに備え付けの物置台に片頬をついてテレビを眺めていた。
リモコンはすぐに見つかった。音量ボタンの下向き三角を連打する。映画か何かの再放送をやっていて、俺が扉を開けたときちょうど爆発シーンだったらしい。ややこしいことしやがって。感情任せに更にボタンを押し込むと、やっと常識的な音量になった。
「でかすぎだろ。だいたいこんなの好きだったのか」
「別に。見てないし」
苛立ったのをぐっと抑え、今度はリモコンの電源ボタンを押した。どうでもよさそうにテレビを眺めていた真也は、やっと俺のほうを見た。
頭に巻かれた包帯は、まだ新しいように見えた。
「急にバイトが休みになったんだ。今日は誰が来た?」
「多々良さん。ゲーム持ってきてくれた」
「よかったじゃないか。お前レトロゲー好きだろ」
多々良さんは『ひまわりの家』に勤続20年の大ベテランだった。結婚はしているが子供はいない。自分の子供を持ってしまったら、今までと同じ形で施設の子に接することができなくなるからだ。自分の子供が特別可愛いのは普通のことで、しかも結婚しようと言ってくれる人がいるのに、すごい選択だと思う。それを受け入れているんだから、多々良さんの旦那さんもすごい人だ。
その多々良さんの意外な趣味がゲームだった。中でも古いものが特別に好きらしく、よく持ち込んできては子供たちと一緒に楽しんでいた。ゲームなんて真也がやっているほぼ最新型のを横で見るくらい関わりがなかったけど、知らないものでもどことなく懐かしく思えるような、不思議な魅力がレトロゲームにはあった。
そういうわけで、真也に限らず『ひまわりの家』の面子にはレトロゲームは馴染みが深い。そのひとつを貸し出されたわけだ。
「じゃあ、これいらなかったかもな。暇潰になるかと思って持ってきたんだけど」
丸椅子に腰掛け、バッグの中から文庫本を3冊取り出した。裏表紙の数行のあらすじの下に、黒インクで『ひまわりの家』とスタンプが押されてある。ほとんどの本は寄付品だけど、無難な小説くらいなら数多く揃っている。俺は読まないけど、真也はよく部屋で寝転がってページを捲っていた。
「ゲームで十分そうだな。持って帰っとく」
「置いといて」
「わかった。真也の机に」
「そうじゃない。ここに置いといてって意味」
ちょっとごねたような言い方だった。俺は素直に頷けず、軽く息を吐いた。
「じゃ、これだけ」
適当に1冊を台に置くと、ほかの2冊を見せろと言ってきた。仕方なく再度バッグから取り出し、真也が選ぶのを待った。違いもへったくれもない、どれもミステリーだ。真也がミステリーを多く読んでいることは、聞いてないのに教えられたから知っていた。
「これだけいらない」
数分経って、真也は俺が選んだ1冊だけを押し返してきた。好き放題言いやがって。堪えろ、と自分に言い聞かせた。こういうところが真也にある。いつもこうなら相手しないけど、いつもではない。何か言いたいことがあるんだ。それを言ってくれればいいのに。ここで激昂なんかしたら、真也は永遠に心を開かない。最近ずっとこんな感じで、真也の我儘に振り回されている。
――俺がここまで頑張る必要あるのか?
胸の奥で、そんな声が聞こえた気がした。聞かなかったことにした。
「退院する気はあるよな?」
戻された1冊をバッグにしまいながら、俺は訊ねた。中に入ったままのジュースとプリンが目についた。今出しても突っぱねられそうだから、そしたら無駄に疲れるから、冷蔵庫に入れておこう。
返事はなかった。不貞腐れたような顔で唇を結び、薄い布団の端を握っている。一言告げてから冷蔵庫にプリンとジュースを入れて――プリンは落として形が崩れたことを一応伝えてから扉を閉め、今度は訊き方を変えてみた。
「気が乗らないなら仕事は引き受けなくていいんだぞ。普通の中学生なんだから」
敢えて仕事という言い方をした。あまり楽しい響きではないことはわかるはずだ。普通の中学生という言ったのも、それに威力を添えるためだった。
さすがの真也でも飛び降りなんて考えないと思ったけど、理由は実はもうひとつ。真也はもう、全国メディアに顔が売れたタレントみたいなものだから。事務所に所属こそしていないけど、その真也がこうして入院したことで、ネットは特に盛り上がっていた。自殺を図って更に火種を大きくするような真似は、得策とは言い難い。
「うん。お話があるのはありがたいけど」
真也の額の傷は、おそらく残るそうだ。日が経つにつれて薄くはなるけど、よく見ればちゃんとわかる。隠したいならファンデーションか、前髪を長めにして目立たせないようにするか。俺が職員さんと一緒に病院に来たのは、真也が運ばれた翌日だった。指定された場所で、園長先生が憔悴した様子で椅子に座っていた
真也の額は割れていた。でも命に別状はなく、処置も上手くいったのでそのうち目覚めるけど、錯乱しているかもしれない。やむを得ず鎮静剤を打つかもしれないから、そこだけ理解して欲しいと医師に告げられたことを、園長先生は淡々と述べた。
自分で自分の頭を割るべく壁に叩きつけていたのだから、そもそも普通の精神状態ではないのだ。生きていることに動揺して暴れる姿なんて見たくない。そう思っていた矢先にやっと目を開けた真也は、奇妙なほど落ち着いていた。
「やりすぎたかも」
泣いて叱る園長先生や職員さんを見つめて、次に俺を見て、真也は呟いた。淡々とした感想であること以外、俺には何も感じられなかった。
やりすぎたと言ったくらいだから、真也が怪しい真似をすることはないはずだ。その読み通り、病室の真也はおとなしかった。マスコミたちも果敢な病院スタッフたちに幾度となく追い返され、今では敷地外でときどき妙な車が停まっている程度だそうだ。真也は窓からそっと外を見下ろしては、何かを考えるようにじっと動かなかった。
何事もなく、数日後に退院する予定だった。放課後のバイトが2・3日ごとのシフトだから、1・2回学校帰りに寄るだけだと思っていた。それがもう今日で5回目になる。何かと理由をつけて真也は退院を拒んでおり、それが園長先生や職員さんを悩ませていた。
「ねえ」
そろそろ帰ることを告げ、腰を浮かせたときだった。真也は俺のバッグの端を掴んだ。
「ゼリー買って来て。でっかい桃とか、ざく切りしたのが入ってるやつ」
居座るだけなら、まだましだと思う。真也は俺に、思いつくままの注文をつけるようになった。言わば回りくどいアピールだった。言いたいことがあるならちゃんと言えと言っているのに、結局真也は何も言わず、もうその話題に触れなくなることもしょっちゅうだった。
「覚えてたらな」
状況が状況だけに、甘えるなと一蹴することはできなかった。
あのとき本当は何を伝えたかったのかと、散々思考の迷路を彷徨ってきた。時間が経って真也にとってはどうでもよくなったことだとしても、答えがわからない俺にとっては、その全部がふとした瞬間に影を差す嫌な記憶になる。終わったことだから気にしないでいようとしても、その意識が逆に蟠りに拍車をかけた。
――俺がここまで頑張る理由って?
自問の核は【必要】から【理由】に移った。エレベーターを待つ間に溜息が漏れた。疑問の答えも自動で出てきたらいいのに。こうやって逃げ道を意識しながら、それを選べない自分にうんざりだった。
3
土曜日、朝10時から5時までのシフトだった。スタッフ専用出入り口からすぐの狭いロッカー室からスマホとお茶を持って出ると、ちょうど出勤したところの柳井さんと出くわした。緩い髪をポニーテールにして、今日は当然ながら制服でもないし、流行りのキャラクターが揺れる学生鞄も持っていない。就職希望の自分は補習がないので、土曜日に登校する必要はないそうだ。
「知り合いくん、どうだった?」
俺を見るなり、柳井さんはそう言った。どちらかというと悪い兆候だけど、いちいち明かすこともない。
「それなりですね」
「退院できそう?」
「そのうちに」
「今日は行かないの? 私、今日4時間だけだから、君と同じ時間に上がるよ」
「……」
決められた休憩時間が消費されていくのを忘れる程に、衝撃的だった。この人は何を言っているんだ?
「あ、ちょっと待って。着替えてくるから」
柳井さんは女子更衣室へと身を翻した。俺の脳は瞬時に待つべきではないと判断し、出入り口から外に出た。休憩室は社員の溜り場だ。誰を避けるというでもないけど、なるべくひとりで過ごしたい。暑くても日向に晒されるわけでもないし、一息ついてお茶を飲めれば十分だった。
厨房に戻ると、ピザーレの制服に着替えた柳井さんが、帽子の庇を押し上げてフライヤーと格闘していた。苦戦している様子なので近づいてみる。柳井さんは俺を見ると目を吊り上げた。
「待っててって言ったじゃない」
「なんか調子悪いんですか」
昼のピークを過ぎたとは言え、それなりに店内は忙しい。鳴り響いた電話の受け手がおらず、柳井さんが慌ててそっちに走った。注文を確認して電話を切り、調理班に伝えてから戻って来た。
「フライドポテトが上手く揚がってないの。よく見たら火が消えてるみたいで」
「え」
場所を変わってもらい、フライヤーの覗き窓の前に立った。確かに種火が消えていた。最近はあまりフライヤーを担当することはなかったけど、ついさっきまでは変わった様子はなかったのに。
「あ、油が漏れてる。だから火が消えたんだ」
俺と交替した途端、柳井さんは原因を発見した。中ばかり見ようとしすぎて、他のところにまで目がいかなかったようだ。指差す箇所を見てみると、確かに給油バルブのところから高温の油が滲み出していた。いつからこんな不具合があったんだろう。
「チーフ呼んでくる。電話鳴ったら出てよ」
「わかってますよ」
まるでさっきの電話も俺が出るべきだったと非難しているようである。たまたま近くの人が出られなかっただけだろ。今この時間帯にいるピザーレのスタッフは、俺と柳井さんだけじゃないのに。
不満ともならない不満に首を傾げている間もなく、あっという間に時間が経った。ゼリーとか言ってたよな。そんなことを考えながらロッカーの鍵を閉め、来たときと同じルートで外に出ると、もうそこには柳井さんがいた。休憩のとき、自分もお見舞いに同行したいと暗に伝えられたことなんて、すっかり頭から消えていた。
「お疲れ」
邪魔にならない且つ目立つところにひっそりと立っていた柳井さんは、俺に向けて敬礼のポーズをしてみせた。もちろん返す気なんてなかった。会釈して歩き出すと、勝手に柳井さんは俺についてきた。
小走りになっているのが目について、歩幅を狭めた。隣に並んだ柳井さんが、少し嬉しそうに頬を綻ばせたのが見えた。
「ねえ、私、一緒に行ったら迷惑?」
「迷惑です」
「もしかして人見知りなの? じゃあ彼女だって言ってみてよ。話題にならないかな」
「嘘じゃないですか」
「本当でもいいよ、私」
なんつった、この人。一瞬頭が混乱して、何も考えられなかった。
「手ぶらでは行かないでしょ? 何か買っていこ」
とんでもない一言を誤魔化したような様子もなく、柳井さんは見えてきたスーパーを指差した。うっかり血迷った真似をして、柳井さんがそれを止めてくれたところだ。
適当なジュースを選んで歩いていると、おやつはいらないのかと柳井さんが言いだした。怪我なら食事制限もないし、手軽で甘くてすっきりするようなもの。
そう言われると、近くにコーナーがあることもあり、ゼリーが頭をちらついた。
「いいですよ、ジュースだけで」
手軽で甘くてすっきりするというだけなら、ジュースで十分間に合うし。そう言っても、柳井さんは敏感に俺の視線を追ってゼリーの品定めを始めてしまった。実は前回ゼリーを指定されていて、でもそれに従うと我儘が加速するから渡せない――もちろんそんなことは言えなかった。
「じゃあ私が買うから。私からの差し入れ、兼お近づきのしるしってことで」
しかもそう言われると、もう俺には止めようがない。どうしよう。真也があの調子だから連れて行きたくない以上に、真也が完全な一般人とは言い難いから連れて行けないという事情がある。テレビ文化は廃れてきたとは言え、真也の顔は、ネットでもとっくに出回ってしまっているのだ。そういえば真也の人気は、何が大元だったのだろう。きっかけになった番組の一企画は、他愛ないものだった。他の出演者たちに聞かれたことを答え、言われたことをやるような、場合によっては日を跨いだ企画に発展したりもするような。
いっそのこと柳井さんに訊いてみようか。いや、でも。悩んでいるうちに病院に到着してしまった。
「あの」
「ん?」
6階に辿り着くまでに、エレベーターは何度か人を吐き出した。4階で降りたいかにも成金っぽいおばさんのきつい香水の匂いに、思わず噎せるところだった。
「入る前に、確認してきていいですか。ついてきちゃった人がいるんだけどって」
「ああ、そうだよね。待ってるから呼んでくれる?」
はい、と言うしかなかった。個室の前で立ち止まり、ノックをして、俺だけが中に入った。柳井さんは追い返されるパターンなんて微塵も想像していない様子で、にこやかに待っていた。
真也は多々良さんに借りたレトロゲームをしていた。この時代に電池式の骨董品で、聞こえてくるBGMもぴこぴこしていて如何にもゲームといった感じだ。何時間やっているのか、机に使用済みと思われる単三電池が4本転がっていた。
「ゼリー買って来てくれた?」
苛々ゲージが急に上昇した。が、抑えた。これは却って利用できるのではないか。そうだった、忘れてたと出て行って、柳井さんには許可がもらえなかったと嘯いて。今回だけもう一度、我儘に付き合ってやったふりをして、お望みのゼリーを渡してやればいい。そうしようと結論付けて扉を開けると、柳井さんが立っていた。この展開、さっきもあった。
4
心配に反して、柳井さんは真也のことをまるで知らなかった。テレビもネットもあまり興味がないので、最低限しか見ないらしい。
「そうなんだ。普通の子って感じだけどな」
天然で言っているのだろうか。いつも使っている丸椅子は柳井さんに譲り、俺はなんとなく立っていた。真也はレトロゲームに再度目を落とし、左右の指を動かしていた。
「彼女?」
「だったらどう?」
「このベッド空けてあげる」
「おい……!」
急に下品なことを言い出す真也に出かかった手は、柳井さんは面白そうな笑い声で引っ込んだ。場を波立てないためにそうしているのではなく、裏表なさそうな自然な笑顔だった。
「デートに病院を選ぶなんて、全然ロマンチックじゃないね」
「だから違うんだよ。俺は別にそんなの」
「俺はってことは、柳井さんはその気なんじゃん」
「面白いね、真也君」
ふたりのペースに飲まれているし、柳井さんはここでも否定しなかった。俺なんかと付き合いたいと本気で思っているのだろうか。親なしで、もうすぐ帰る家すらなくなって、しかも手癖の悪い俺なんかと。
両手を握りしめた。苛々が高まると、いけないと思いながらも、つい手が出てしまいそうになる。物を盗ると、張り詰めた気持ちが楽になる。前のバイトは、これのせいでクビになった。暫く発出していなかった盗み癖が、高校生になって再発していた。
抑えられない一度目を成功させると、悪路の一途だった。気味悪いくらいバレなかった。良い子のふりをして次のバイト先を見つけ、暫くはまた悪い癖は息を潜めてくれた。あるとき、時代にそぐわない駄菓子屋に気紛れで入ったとき、やりたくなった。それが柳井さんの祖母の経営するお店だった。おばあさんは気付いておらず、柳井さんは見逃してくれた。そしてそれを口外していなかった。
たぶん変な思い違いをしてしまっているのだ。万引き癖のある男なんて、普通は身近にいないだろう。たまたま俺という問題児がいて、バイト先が同じで、年も近いというそれだけ。女のことなんてわからないけど、十代の女の子がインスピレーションを感じるのは仕方ないような気がした。
「そうだ、差し入れあるよ」
思い出したように柳井さんがバッグを開け、半透明のビニール袋に入ったゼリーを取り出した。
「夏はこういうの欲しくなるよね。よかったら食べて」
真也はゲームから顔を上げると、何も言わずにそれを見つめた。
まずい。絶対よくないことを言う。先に冷蔵庫にのけてしまおうと、俺が動いたときだった。
「いらない」
一瞬で空気が凍りついた。ゲームの無機質なBGMと、ボタンを押す音が冷たく響いた。
「俺が欲しいの、それじゃないし」
爪が食い込むほど両手を握り込んだ。また始まった。さっきは開口一番でゼリーのこと言ってたくせに。空気が急激に重たくなる。一変した部屋の雰囲気に、柳井さんは戸惑っていた。
要するに、俺が買ってきたものではないから、そのゼリーは不要というわけだ。幼稚園児レベル、いや、それ以下だ。こんな調子で15歳まで育ってきたことが不思議でならない。このレベルの我儘を、何故か真也だけは、施設では許容されているのだ。目に見えてどうこうではなく、毎日隣にいればわかることだった。
「いい加減にしろよ、お前」
低い声が喉をついた。真也は無反応だった。それがまた俺の神経を逆撫でした。
「言いたいこととか、今自分はどう思ってるかとか、そういうのはっきり言えよ。なんで俺がいちいちお前の機嫌取らないといけないんだ。意味わかんないだろ」
真也はまだ喋らなかった。顔すら上げなかった。
「今のこの入院を引き延ばしてるのは? 人が会いに来てくれるのが嬉しいのか? ちょっとバズってちやほやされだしたら鬱陶しくなったから、もともと知ってる人に優しくしてもらおうって魂胆なのか? 言っとくけど、職員さんがお前に会いに来るのは、そういう仕事だからだぞ」
「ちょっと!」
柳井さんが俺の腕を掴んだ。それでも口が止まらなかった。
「だいたいやり方もかまってちゃん極まりないんだよ。なんでわざわざ壁で頭かち割るなんて派手なことやったんだ? もっと効率よく静かに」
引っぱたかれたと自覚するまで、時間がかかった。空調の低い唸り声だけが聞こえていた。気づけばゲームの音は消えていた。柳井さんは眉を吊り上げ、涙ぐんだ赤い目で俺を睨んでいた。視線を動かすと、俯いた真也が不機嫌そうに唇を歪ませていた。
なんだよ、俺が悪者かよ。舌打ちしたくなったのを飲み込んだ。そんなことしたら火に油を注ぐ――と思うと、力が抜けた。自分が何をしているのかわからなくなった。理由やら必要やらじゃなくて、俺はただ、真也の気持ちをわかりたかっただけなのに。勝手に苛々して、勝手にキレて、そもそも俺の立ち位置はなんだったっけ? 最初から家族でも兄弟でもないのに、俺はどうしたいんだ?
右頬が痛い。熱を持ってひりひりする。
「私のせいだね、ごめんね。初対面のくせに出しゃばったことしちゃって。これ持って帰るから」
柳井さんはゼリーをバッグの中に滑り落とした。無理に明るく繕ったような声音だった。丸椅子を適当なところに寄せて、またもや俺の手首を掴んだ。
「今日は帰るね。でも、私、また来たい。友達として」
「そう」
「だから、またね。真也君」
引っ張られるままに病室を出て、エレベーターを出て、病院を出た。途中、何度も柳井さんはしゃくり上げていた。
5
引っ張られたまま歩いた。そろそろ指の痕ができていると思う。夏の陽の長さが華奢な背中を長く映す。わざと大股で歩いているみたいで、俺はときどき足をもつれさせそうになった。
スーパーに入ると、強烈な冷房に一気に汗が引いた。さらに歩き、イートインのベンチのどすんと腰を下ろした。腰掛けた後も、柳井さんはまだ俺を離さなかった。
「反省してますよ」
嘘ではなかった。止めてくれてよかった。あのまま口が動いていたら、決定的な決裂になったかもしれない。今まで誰にも言ったことがないような酷い言葉を、真也にぶつけるところだった。
「明日謝ってきます。今日はもう面会できないと思うし」
「柚井君の癖、治らないわけだって思った」
唐突だった。一連の事件なんて関係ない、本当に急な一言だった。非難しているつもりなのか、更にきつく柳井さんは俺の手首を締めた。
「たまたま上手くいくのを願ってるだけなのね。ひたすら待って、思い通りにならなかったら苛々して、悪いことするの」
「いきなりなんですか」
「どう思ってるか言えって言ったでしょ。それ、君もじゃん。わかんないならわかんないって言えばよかったのに」
「俺のことも真也のことも知らないでしょ」
「知らないわよ。だから知りたかったの。バイトが早く終わったら帰りにお見舞いに行くような、君とそこまで関わり深い子のこととか」
そう言えば、柳井さんは帰りがけや休憩時に勝手に学校のことを話すけど、俺は話しかけられた以上の回答はしていなかったかもしれない。別に友達がいないとか、特別に学校が面白くないわけでもない。話そうと思えばネタはあった。
プライベートを教えたのは、病院にお見舞いに行くと答えたあのときだけだ。それまでに万引き癖はバレていたし、延長で自分が養護施設で暮らしていることも話していたけど、リアルタイムの動向を明かしたのは初めてだった。
「私、何も知らないけど。酷いこと言ってるっていうのはわかった。だから叩いちゃった。それはごめん」
「……そんなの、別に……」
止めてくれてありがとうって言えばいいのに。曖昧に濁した自分に内心で悪態をついた。直後、こういうところだと思った。思うのに、言ったほうがいいと判断するのに、結局秘めてしまうところ。人を責めておいて呆れる。俺だって真也と同じだ。自分では動かず、夢想だけして、相手の変化を待っている。気付いてくれるのを期待している。そして上手くいかなければ、自分のことは棚に上げて、人のせいにしていじける。
物盗りの癖だってそうだった。たまたま平穏に過ごせていたら、それが続くと勝手に信じて、続かせようと努力することはない。永遠にイタチごっこだ。だから治らないまま、ここまで来てしまった。
全部柳井さんの言う通りだった。言われるまでわからなかった。少し目線を変えていれば、違うところに立ってみれば、簡単に気付けそうなことなのに。
「もう嫌いでしょ、俺のことなんか」
いよいよ自分を許せなくなってきた。
ベンチから腰を浮かせた。俺の手首を掴んだままの柳井さんの肘が、一緒に動いた。
「離してくださいよ。柳井さんももう帰ってください」
と言って、俺に帰るつもりはなかった。どこにも行きたくない。どこにも行けない。帰ったら帰ったことに気付かれるし、そのとき普通の顔をしてないといけない。絶対無理だ。いっそこのまま消えたい。そこまで思って気が付いた。極限まで思い詰めたら、周囲とかやり方とかどうでもよくて、今その場でできる方法を選ぶんじゃないのか。それが真也にとっては、壁で頭を割ることだったんじゃないか。失敗して病院で目覚めたときに「やりすぎた」と言ったのは、本当にそのままの意味で、判断を誤った、自殺なんかしちゃいけなかったと思ったからだったとしたら。
実際には心の片隅にもなかったことだ。でも、酷いことを言ってしまったのは事実だった。意味もなく我儘にごねて、許してくれるかどうかを試す。それはいつもではなく、不安になったときにそうする。真也のそれを俺はずっと知っていた。尚更訊いてやればいいことだったのに、わざとそうしなかった。
手首を解放された。さっきの質問を肯定された気がした。これでよかった。俺自身のことも嫌いなのに、誰かを好きになれるはずがない。付き合ってみたところで、こんなふうに嫌な思いをさせるのが関の山だ。
歩き出しても、当然ながら柳井さんは追って来なかった。ピザーレは結構気に入ってたけど、辞めたほうがいいかもしれない。なんでこんなに上手くいかないんだろう。真也には何があったんだろう。真也は頑なに大それたことの理由を話さなかった。だから俺は待っていたつもりだった。教えてくれないなら教えてくれるまで訊けばよかったのに、真也の傾向を知っているくせに、ずっと判断を間違えていた。
店を出るときに時計が目についた。面会時間ぎりぎりだ。今から病院に走っても、間に合うかどうかわからない。せめて連絡だけでも入れておこうか。既読にならなかったらどうしよう。
走ってみようか。間に合わなかったら仕方ない。そのとき電話すればいい。真也は個室だから、特にスマホの使用に制限はなかった。
その日の後悔を、俺は一生涯忘れないと思う。
後悔
どうもお疲れさまでした。
愛しいお目めにアイスノンをあげたい。
M君はM君でも、麻橋M君でこういうのがでてくるなんてね。