フルートとヴァイオリン (第12章 9月11日)
9月11日、火曜日の午後3時頃、僕は職場で同僚と一緒にテレビを見ていた。皆、立ち見で業務停止状態だ。
「何これ? 信じられない!」と漏れてくる。
ニューヨークから中継されているのは、世界貿易センターのツインタワー・ビルだ。双子の超高層ビルの片方から黒い煙がもくもくと、活火山のような勢いで噴き出している。
「火事か!」と平原さんが興奮した様子で声をあげる。
しばらくすると旅客機の様なものが突然現れ、もう片方の超高層ビルに突っ込んでいった。飛行機は建物に激突し、そこから炎が恐ろしい勢いでめらめらと立ちのぼる。
「嘘だろうが! 藤沼陽子の職場だ!」
全てがリアルタイムに見える。解説によれば、最初に煙をあげていたビルにも旅客機が突っ込んだらしいが、為すすべもない。
「これは酷い! 彼女は……」
すると今度は遠方のカメラの映像で、海側からマンハッタン島の全貌が見える。煙をあげている世界貿易センタービル……アメリカ経済の象徴だ。海を隔てた左手に自由の女神像が映っている。事故なのか、あるいはとんでもない悪意なのか?
職場の仲間は、状況把握も理解もできぬまま、唯々恐ろしいシーンに見入っている。
「映画の予告編か?」と誰かがコメントする。
全てが予定通りで計画的に見えた。暫くすると最初に旅客機の体当たりを受けたビルが崩れはじめた。
「これはいけない!」と思わずつぶやいた。
「彼女、大丈夫だろうか!」
皆、あまりの惨事に唖然としていた。
「テロか?」
「恐ろしい!」
返す言葉もなかった。
「信じ難い……正夢か! 藤沼陽子と一緒に自由の女神目指したけど……フェリーから見た彼女のオフィスビルは確か、南棟。警告のメール、うまく着信しただろうか? 彼女は読んだのだろうか? うまく逃げただろうか? さもないと……無事でいてくれ!」との思いが何回となく駆け巡る。
結局、この大惨事で3000人ものオフィス・ワーカーが犠牲になった。攻撃を受けたのはニューヨークだけでなく、首都ワシントンもやられていた。ブッシュ大統領は国民の前で戦争行為だと断言し、復讐する決意を公にした。
やがて一週間後、マミから珍しく電話が入った。
「そう言えばニューヨークの藤沼陽子から、連絡ある?」
これには絶句してしまった。
「……藤沼さんのこと、知っているの?」
「彼女とは高校時代、同じ先生にヴァイオリン習っていたから」
「エッ? 僕は大学時代、同じオケで……」
ニューヨークに立ち寄った時の出来事が、走馬灯の様に脳裏を駆け巡る。当時、二人の女性は内通! だからウィーン帰還後、マミはとても冷淡だったし……それで悪夢? するとマミから貰った栗の菓子は、少し不自然か? まさか……しかし世の中も変わり、どうでも良いやと思い直した。犠牲者には日本人も混じっていたのだ。そこで取り敢えず、
「それなら誤解招いて、申し訳なかったね」と言ってやった。
「それにしても無事だと良いね! 彼女、あのビルで働いていた」
「犠牲者名簿を見ているけど、彼女の名前ないから多分、大丈夫」
「彼女から連絡ないのよ」
「僕にも音沙汰ないけど、変な予言めいた夢を見て彼女に警告したよ、9月11日、職場に絶対近づくなって」
「そうか……無事だと良いね」
「自分だけ助かっても、ショック大きいけどね」
再び、双子の高層ビルに旅客機が次々と突っ込む恐ろしいシーンが頭を過る。マミはそれ以上何も言わなかった。
そして二週間後、メールが届いた。
「国谷君、助かった! 警告してくれた日、念のため休暇取って職場に行かず、マンハッタンから離れていたの。そうしたら……たくさん、たくさんの仲間が犠牲になって! 実は貴方がメールで警告してくれた話、とても信じられなかったし、それで休暇だなんて、すっかり馬鹿にされると思って職場の誰にも言わなかったの。結果的に誰も救えなくて、後悔してばかり。仲の良い人もいたのに……どうして良いのか分からない。とにかく立ち直るのに時間かかりそうです。
自分だけ運良く、お蔭様で命拾いしたので御報告します。
どうも有難う! 藤沼陽子」
何と狂喜乱舞の結末だった。
「これは晴天の霹靂! 信じられないような大成功! プロポーズ断られた相手を救ってしまった。何と言う運命のいたずら!」との思いで気分が高揚した。しかし暫くすると、職場で自分だけ偶然助かり、茫然とする藤沼陽子が目に浮かび、彼女の悩みや迷いを想像しながら、とても暗い気分になるのだった。
東京本社から通知が届いたのは、その三週間後だった。
「正社員に採用する。これからチリのサンティアゴ支店で働くように」
さすがにびっくりした。正社員……一応、長年の夢がかなうことになる。しかし南米とは……出張で世話になった蜂須賀支店長のところだ。マミと離れてしまうと思いつつ電話を入れた。
「転勤が決まったよ!」
「え? どこ?」
「南米のチリ。この間出張したサンティアゴ支店で、しかも正社員!」
「……それは、おめでとう……でも結構遠いね」
「確かに」とつぶやき、一瞬「良かったら一緒に来ないか?」と口走りそうになった。でもその時、電話の脇の銀の音叉が目に留まった。フルートの調音用で、先が二股に分かれている。それを見ながら正直、分岐点を感じてしまった。マミは今やプロの音楽家だし、お別れかも知れない。
「またそのうち、どっかで落ち合おう!」と言い放った。
「ウィーンに遊びに来てよ。いつ出発するの?」
「多分、来月下旬……」
「見送りに行くわ」と彼女が決然と答えた。
「それじゃあ、その時に……」と言って電話を切った。
彼女との会話の余韻や思い出に耽る暇はなかった。早速、準備に取り掛かる必要があるのだ。まずは出発便を押さえ、アパートの大家に連絡し、荷物をまとめ……。
出発の朝は曇りで時々晴れ間の見えるような天気だった。マミはキャロルと一緒にナッシュマルクト地区のアパートの玄関先まで見送りに来てくれていた。マミとは抱擁も接吻もない、そそくさとした別れだった。
トランクに荷物が全て納まったことを確認すると、タクシーに乗り込んだ。隣の席に乗り込んだ萩谷が、
「ここよりチリの方が絶対明るいぞ、正社員だし……」と言いながら、涙をこらえている様子だった。
車の窓ガラス越しに手を振ると、キャロルもマミも派手に手を振ってくれた。窓を開けようと思うや否や、タクシーがアパートから離れて行く。
空港には本間支店長や平原さんら職場の関係者が見送りに来ていた。出国カウンターではフィッシュマン先生やチュンさんが待っていた。握手しながら彼らが、
「必ず再会しよう」と言ってくれたのが心に響く。
「いずれにせよウィーンとはお別れ……色んな事があったけど、一人一人、心の支えだったし。みんな、元気で……」との思いだった。
出発エリアにはパソコンをネットに繋ぐブースがあり、早速そこでメールを確認した。するとマミのメールが着信しているではないか。
「サンティアゴはその後如何ですか。
引越し、無事に終わりました。
ここは御存知のとおり、郊外のグリンツィング地区。ウィーンの森で、葡萄畑やホイリゲの沢山あるエリアです。一応、メルヘン調かな。昔、ベートーヴェンが難聴を苦に『ハイリゲンシュタットの遺書』を書いた家が近くにあります。
予定通りキャロルと萩谷さんが手伝いに来てくれました。ピアノと大きな植木以外は、レンタカーの3往復で済んだ。
二階の部屋で、窓から小さな庭が見えるの。8月末なのに木々が紅葉し、黄色や赤に染まった葉っぱが風に吹かれている。小鳥のさえずりがとても新鮮です。カチ、カチ、と時々ドングリが落ちてくる。
戻ったら、是非遊びに来て下さい。
あと二週間でアウガルテン管弦楽団の団員だと思うと、毎日がとても貴重に思えます」
今頃、馬鹿みたいだ! これを南米に居る頃に読んでいたら、全て違ったのだろうか? サンティアゴに着いたら、もう一回読んでみよう。
思う間もなくゲートから呼び込みが始まったので、搭乗口に向かった。そして一時間も経たないうちに僕を乗せた旅客機は滑走路を走りだし、突然スピードを上げると共に機首を持ち上げ、轟音と共に大空に舞い上がっていった。 (完)
フルートとヴァイオリン (第12章 9月11日)