最果ての星を拾いに【下】

古瀬 深早

最果ての星を拾いに【下】

▼前章
https://slib.net/106821

12|君のいない惑星

12|君のいない惑星

 玄関へ向かう彼女の名前を、一度だけ叫んだ。
 返事がない呼びかけになったのは、あれが初めてだった。

 すぐに電話をかけたが、彼女が出ることはなかった。まだ近所にはいるはずだが、見つからないように別の道に入ってしまっているかもしれない。それでもスマートフォンを耳に当てながら外に出た。
 見廻した視界の中には、やはり彼女の姿は見当たらなかった。

 後悔に浸りながら、家の中に入った。
 廊下に、うっすらと金木犀の匂いが漂っていた。
 僕のいないあいだに、少し窓を開けていたのだ、祖母がそうしていたように。書棚から気になった本を引っ張り出して、窓の前に座って読んでいたのかもしれない。木製の丸椅子の位置が少し変わっていた。

 その日も、翌日も、篠永から返答はなかった。
 彼女に対してだけ発動される心配性が、頭の中で警報を鳴らし続けた。
 それが止まったのは、解決したわけでも諦めがついたわけでもなく、ただ壊れたからだった。

 ――あいつ、本気なんだ。

 一週間後、既読にならないメッセージを見てようやく、僕はそれを受け容れた。

 いくつもの後悔を、その後も並べ続けた。
 どうして、こんな状態で彼女と会い続けたのか。
 どうして、感情が抑えられなかったのか。
 どうして、あのときに篠永の言葉を否定しなかったのか。
 どうして、同じ気持ちだと伝えなかった。

 致命傷になったのは、一番最後の後悔だ。
 あれがなかったら、少し時間を置いて我に返れば和解ができたかもしれない。ごく稀にではあったが、僕達は感覚を研ぎ澄ませすぎてつい言い合いが過激になり、互いの心を折ってしまうこともあったから。数日間頭を冷やして、ゆっくりとまた近づきあうのがいつもの仲直りだった。そういう共通の理屈っぽさを、ふたり揃って仕方ないねと笑っていた。
 彼女は良く言っていた。ここまで言葉を尽くしちゃう仲なんて、西山以外にいないよ、と。
 そういうところに落ち着かなかったのは、僕が篠永の気持ちに何の答えも出さなかったからだ。

 ――西山のわたしへの気持ちは、これからもずっと同じ、かな。

 ああいう言い回しにしたのは、彼女の優しさだろう。
 僕への、そして僕の発したかもしれないつらい言葉を受け止めるだろう、自分への。すぐに互いに気持ちが通じてしまう僕達は、相手だけではなくて自分のことも同じだけ大事にしなくてはいけなかった。自分の悲しみがすぐに相手へ伝わってしまうからだ。
 どんな結果になろうと、言うべきだった。

 ――同じじゃないよ。もう、友達としての好きじゃない。

 本当はそんな時期、ないようなものだった。
 それを伝えることをずっと避けていたから、彼女は僕が最終的に自分を友人として見ているのだと思い込んでいた。自分は異性として好かれているわけではないと、そう思っていた。
 もしも気持ちが変わっていたなら、僕の全部を受け止めるつもりで彼女はあんなことを言ったのだ。
 僕のために彼女が振り絞った勇気を、僕はうやむやにしていた。

 ずっと、色々な理由をつけては着かず離れずで過ごしていた。
 強く繋がっている必要があったあの時代から離れて、もう故郷の町でそれぞれを庇い合う必要もなくなっていた。
 僕は結局七年で地元へ戻ってしまったが、篠永がこの先この町に帰ることはないだろう。

 地元を出て、まだそれぞれが新しい暮らしに慣れたばかりの頃のことだ。
 圧倒的な自由の中で、戸惑いながらも目の前のことに夢中になるよう自分に暗示をかけた。
 それぞれが故郷を思い出させるきっかけになってしまうような気がして、あまりが連絡ができなかった。できるなら、僕を通じて連想してしまう思い出したくないものからもあいつを庇ってやりたかった。
 雑踏の中で、彼女のことを何度も思った。無事を祈り、携帯電話を肌身離さず持っていた。

 進学先で先に異性と付き合ったのは僕で、篠永は十九の終わりに初めて恋人ができた。同じ大学の先輩で、心理学を専攻していた男らしい。
 期待していたほど気が合わず、三ヶ月も持たなかったと祖母に話していたと後から知った。そうなんだ、と答えながらも、それからしばらくあまり眠れなかった。
 他の誰かと付き合ってみても、いつも物足りなかった。
 帰省のタイミングを合わせれば、それだけでその日が楽しみだったのに。
 どちらかの住んでいる街へ相手を送ったり、迎えに行ったり、そういうことをしているあいだにだけ、戻れる自分がいたのに。

 互いにとって慣れない街を案内しあった。
 名所を眺めてはふたりで歩き廻った。そのあいだもずっとふざけあっていた。

 牛久大仏の前で、小さな子供みたいな喧嘩をした。
 言い合う内容がくだらなすぎて、最後はふたりとも笑い出していた。
 東京国立博物館の入り口で、バイト先の常連客に見つかって恋人だと思われたこともある。
 必要以上に慌てて、地元の友人です、と言いかけた彼女の服の裾を引っ張って、僕は小さな声で言った。
 ――いいよ、誤解させとこう。
 あの頃はまだ、そういうことが軽い気持ちで言えた。そういう遊びが、いずれ本当になるかもしれないと夢に見られた。
 いつか、と、いずれ、がまだあかるい意味を持って使えた時代だった。

 別れ際に僕達ふたりが駅で交わす言葉は、いつも同じだった。
 じゃあ、また次の休みに。健闘を祈る。

  
 地元に戻って数ヶ月後、祖母とリビングにいるところを寝たきりになった祖父に呼ばれたことがある。
 近づいてどうしたのと尋ねると、何か帳面はあるかと彼は言った。
 事務所に使っていないノートとペンを取りに行き、僕は祖父のところに戻った。
 祖父はそれから毎日、僕に記録していないことを伝えてくるようになった。
 口頭で伝えるから、メモを取っておいてくれと。
 俺がいなくなったあとに読み返して使ってくれと。
 家の権利や財産相続についてなどのことから始まり、親戚とのこと、地域との繋がりや僕の知らない義理のこと、僕の父親に関するいくつかの関わりについても話された。

 あらかたを話し終えた祖父は、これは書かなくていいぞと言って篠永を話題に出した。
 おまえには秘密にしていてくれと頼まれたんだが、と前置きをしながら教えられた。
 いつか、僕が風邪をひいて寝込んでいる日、祖父は店で篠永にあることを打ち明けられたのだと言う。

「あの子な、九歳になる春に、本当にひどい思いをしたらしいんだ」
「どういうこと?」
 僕は彼の横たわるベッドの横で、丸椅子から身を乗り出して訊いた。
「俺も、全部を聞いたわけじゃないぞ」
 そんな前置きのあとに、祖父は続けた。
 話によると、あの不思議な体験を初めてする数日前、八歳の篠永は偶然聞いてしまった自分に関する会話によって、それまでにないほどひどく傷ついたらしかった。
「それって、両親のかな」
「はっきりは言ってなかったけど、そうかもな」
 彼女が耳にしたのは、もう自分自身としてこれ以上ここで生きていくのは無理だと強く思ってしまうくらいの言葉だったらしい。
 自分が聞いているとは知らないでされていたその会話によって、小さな彼女はとても思いつめることになる。

 子供ながらに、もうこの世界から出て行かなきゃって思ってたんです。
 わたしは、ここにいちゃいけないって。
 ここにいたら、わたし以外の誰かが壊れてしまうって。
 今なら何でもないことなのに、わたしそのときの言葉を受け止められないまま、あの春は家に帰りたくなくて寄り道ばっかりしてた。
 どうしようどうしようって、ひとりになる度にその方法を考えてたんです。
 そうしなくちゃいけないとだけ思っていて。
 でも実際はいなくなるのって痛そうだし、怖いのも嫌で。
 今思うと、思いつめすぎたって、わかるんですけど。

 だからあの日に見たものは、何かがわたしに意味のあるものを見せようとして現れたものなんだと思うんです。
 わたしの気をそらすために。その先も、まだ生きていけるように。
 わたしの命が、あそこで終わりにならないようにって。
 誰かが声をかけようとして、わたしをあそこに呼んだんじゃないかって。

 特別意味があると自分で思えるものに出会えれば、わたしは夢中になってそれを追いかけるから。
 それがどんなに痛いことでも、絶対に追いかけるから。
 単純なわたしは、きっとそれにまんまとのせられてしまったんです。


「なんであいつは、俺にそれ黙ってたの」
 僕は祖父の前で、堪えられずに泣きながら尋ねていた。
 祖父は昔のように僕の頭に手を置き、続けた。
「知ったら、泰智くんはわたしにもっともっと優しくするしかなくなるからだって。優しすぎる人だから、そんなことになったら自分のことを全部後回しにするに決まってる。それは望んでないって、はっきり言ってたな」
 篠永が良く使う言い回しのひとつだった。それは望んでない。
 祖父がどうしてその話をしようと思ったのかはわからなかった。
 僕達を見ていて思うところがあったのかもしれないし、寝たきりになった心身が緩んで、秘密がつい口から出てしまったのかもしれない。
 僕は祖父に頭を撫でられながら、こみ上げるものを素直に身体の外に出すしかなくなっていた。
 
 彼女は、生まれる前からたくさんの期待を背負っていた。
 僕はある意味歓迎されない子供として、都会から離れた場所で目立たないように出生した。
 離れた場所で、互いに傷つくことの多い幼児期を過ごした。
 六歳からは同じ町に住んでいたが、十四までは互いを知らないままだった。


 ――わたしが、西山をこっちに呼んだのかも。得意の念で。

 彼女がいつか、冗談で言った。ちょっとふざけたジェスチャーまでつけて、僕を見ながら、得意げに。

 ――なんで?

 また面白いことを言うんだろうな、と思いながら尋ねた。
 記憶の中の自分は学ラン姿だったから、十五歳だろうか。

 ――ええと、話が通じる相手がいなさすぎから?

 理由を訊かれると思っていなかったらしい。質問の形で返された。

 ――なんだよそれ。ちゃんと考えてから言えよ。

 並んで歩きながら、笑った。
 おそらく、僕の家へ一緒に帰るところだっただろう。

 ――じゃあ、面白くなかったから。わたしにはもっと面白いことが必要だったから。

 彼女は続けた。
 かつて警戒心の中で怯えながら僕を睨みつけていた彼女は、いつの間にか僕だけには何の隠し事もしない、ひどく正直な人間になっていた。

 ――で、こんな辺鄙なところまでわざわざ俺を呼び寄せたのか。それで、その希望は叶ったわけ?

 彼女の少し後ろで、僕は茶化しながら訊いていた。
 あの日の夕焼けの色は良かったな、と今でも思う。
 空が透けたように淡くて、雲に映りこむ光の色合いが不思議と変化して、どこか遥かなものを見ているように思えた。
 雲の縁が、金色に染まっていた。
 淡い橙色が水色の空に差し込んだような、薄い色の夕日の中だった。
 彼女は振り向いて、僕に向かっていたずらっぽく笑った。

 ――もちろん叶ったよ。

 元気な声が出るようになったものだなと、思ったのを覚えている。
 この妙に優しく不思議な生き物に、僕は呼ばれてここに来たのかもしれない。
 そのときだけ、僕はそう思うことにした。
 思わず泣きそうになるのをぐっとこらえて、篠永の笑顔に同じ表情を返した。

 あの笑顔は、もしかしたらなかったものかもしれなかった。
 それがたとえ子供の感じた絶望だとしても、あいつならわからないから。
 本当にもう限界だと思ったら、どうにかしてここを去ろうとしたかもしれない。
 彼女はそこまで衝動的な子供ではなかっただろう。けれど彼女の揺れる気持ちをなだめられる、僕の祖父母のように心に余裕のある大人が周囲にはいなかった。だからこそ、それを実行したかもしれない。
 篠永は、もしかしたらいなくなっていた人なのかもしれなかった。

 一度だけ、僕はそれを想像した。
 ビルの灯りが上の階から少しずつ消えていくように、思い出の中からひとつひとつ彼女が消えていく。
 僕は十四歳で篠永と出会うこともなく、あの教室で倦んだ気分で窓の外を見ていたかもしれない。
 誰とも分かち合えない自分自身を持て余して、鬱屈していたか、祖父母の手を焼いていたかもしれない。
 あの河川敷には目もくれず、あの夕陽の中で、やりきれない感情を抱えてひとり家を目指していたかもしれない。
 彼女に支えられることなく、衰えていく祖父母の姿と向かい合わなくてはいけなかったかもしれない。自分に許されなかったあらゆる自由を持っている人間を妬み、自らの境遇を呪っていたかもしれない。

 そう思うと、恐ろしくなった。
 そしてあの日、彼女をこちら側に引き止めたものに初めて感謝の気持ちを感じたのだ。
 あんなに夢中になって、僕達を巻き込んでまでそれを知ろうとしていた篠永は、確かに幼い日の絶望から逃げ切っていた。
 いつか僕にも、打ち明けてくれるつもりだっただろうか。


 十一月の、下旬に入っていただろうか。
 激しい後悔に埋もれながら、ひとりになってしまった日常をやり過ごしている頃だった。
 淡く落ち着いた、黄緑に近いグリーンの封筒がポストに投函されていた。午前十一時半のいつもの郵便配達だ。バイクの音が近づいてくるのを眠りの中で何となく捉えたが、妙な時間に寝起きしてしまったせいかまた眠りの中に沈んだ。
 十三時過ぎに、僕はようやく郵便受けの前に立った。


 ◆  ◆  ◆

『 西山泰智様

 あれから、連絡しないままでごめんなさい。 
 色々謝りたいことがあって、初めてあなたに手紙を書くことにしました。

 あの日あんなこと言うべきじゃなかったって、今とても後悔しています。つい感情的になってしまって、わたし達の関係のことやわたしの夢のこと、よく考えずに結論を出そうとしてしまったって。あなたはわたしに対して冷静でいようとしてくれていたのに、あの日のわたしはいつもみたいにできなかった。
 今までずっとわたしを見守ってくれていたあなたに対して、あの日のわたしはとても失礼なことを言ってしまいました。本当に、ごめんなさい。
 
 十四歳から今まで、わたしは本当にあなたに支えられて生きてきたんだなって、あれから毎日思っています。西山と一緒に過ごしていた頃のことを思い出すだけで、これからもわたしはやっていけるんじゃないかなって思えるの。それはあなたが、こんなわたしをずっと受け止めてくれたからだって強く感じました。
 西山がいたから、わたしは人の中で生きていけるようになったんだよ。
 わたしは小さい頃からずいぶん変わった体験をしてきて、そういう自分に見えているものを気に入ってたつもりでした。わたしには若いうちから目標があったし、知りたいこともたくさんあった。変なことばっかりに興味があったから、多少は周囲から浮いてしまうことも仕方ないと思っていてね。それでも、自分なりにしていることを大事に思っていて、上手にじゃなくても何とか生きていけるんじゃないかって思ってた。
 でも、実際はそんな自分を持て余してもいたんだと思う。同年代の人達の中でどう振舞ったらいいのか、そのルールがうまくつかめなかった。頭ではわかっていたけれど、心はいつも違う方向にしか向いていなかった。だからいつも、最後の最後で上手に馴染まなかった。
 色々なやりかたを試してみても、ぎくしゃくしたところはなくならなかった。仕方ないな、って諦めがついた頃にあんなふうに毎日が変わるなんて、あの頃は全然思っていませんでした。

 出会ったばかりの頃、少しだけあなたが怖かった。今までわたしの不恰好なところを大きな声で指摘してきた男の子たちと、あなたは仲が良かったから。同じことをされるのかなって思ってた。でもそれはちょっとだけで、もっと怖かったのは、あなたがわたしを助けてくれる人だってどこかで気づいていたからかもしれません。
 塾の前の席にわたしのほうを向いて座った西山は、もうその時点で賢くて優しい、大きい人に見えた。わたしの中で起きている混乱や、外から投げ込まれた色々な痛いものにあなたはすぐに気づいてくれたから。
 西山だけが、わたしに訊いてくれた。何を考えているのか、何に耐えられないのか。それから、どういうことがしたいのか。
 それを上手に説明できないのがもどかしくて、あの頃のわたしはひとりになってから何度も何度もその内容を考え直した。わたしにとって、初めての経験でした。誰かに本当にわかって欲しくて頭を使うということを、わたしはやめてしまっていたんだなって思った。
 高校二年で同じクラスになって、すごく楽になったの覚えてる。
 それまで埋まらなかった周囲との大きな溝に、あの頃の西山は持っている賢さを全部使って橋を渡してくれた。そしてわたしのほうへ、怖くないからと手を伸ばしてくれた。わたしはあなたの手を取って、あの年でやっと皆のいる岸への渡り方を覚えたんだと思う。
 あなたはわたしがふたつの世界を行き来するのを、いつだって助けてくれた。それにどれだけ救われたかは、きっと言葉にしてもしきれないくらいです。感謝しかないのに全然伝えてこなかったなって、反省しました。
 ここでだけど、言わせてね。
 ありがとう。わたしを見つけてくれて、ずっと助けてくれて本当にありがとう。

 本当はあなたが今みたいな思いをする時期に、一番そばにいたいと思ってた。若い頃から、ずっとずっとそう思ってた。重いものを背負ってひたすら頑張り続けてきたあなたを、わたしはどんなかたちであれひとりにしたくなかった。昔からあなたはわたしに色々なものを与えてくれたのに、わたしはどうして同じことができないんだろうって、今も思ってる。
 ごめんね。本当に、そればかり悔やんでる。

 今は、あなたの心に平穏が戻ることを一番に願っています。
 これからどんなふうに人生が進んでいっても、わたしは西山のことがずっと大事で、大好きなままだと思う。そのくらい、あなたはわたしにとって大きな存在だった。
 わたしがこれ以上あなたの人生に入っていけなくても、あなたの幸せを誰より祈ってる。あなたには、いつでも人に愛されるところにいて欲しい。おばあちゃんのことがあったときに言ったことも、離れているけど今でも心から思ってる。

 あの日も言ったけれど、しばらくひとりで頑張ってみるね。
 近くにいるとつい甘えてしまうから、あなたを自分から少し取り上げて"お預け"にすることにします。それでおじいちゃんとおばあちゃんと、あなたに応援されてきたこと、もう一度きちんと取り組んでみます。自分自身とも、周囲の人とも、真剣に向かい合ってみます。
 勝手な判断でこんなことしたから、もうわたしのことは嫌になっちゃったかなとも思うけど。
 許してくれるならいつかまた、西山にだけは絶対に会いたい。

 本当に、あなたにだけはいつだって会いたい。』


 ◆  ◆  ◆

 僕はその手紙を寝室に置き、毎晩、眠る前にひらいた。
 その中にあったすべての感情が、僕の中を静かに整えていった。

 役に、立てていたのか。
 俺がいたことで、おまえは少しでも生きやすくなったのか。

 いつだって、無力感でいっぱいだったのだ。
 何もしてやれてないと、ぎこちなく下手に生きていた十代の篠永を見て思うばかりだった。

『しばらくひとりで頑張ってみる』

 その言葉で、彼女の芯の強さを思い出した。
 寺院の階段で泣きはらしたあとの、瞼を腫らして恥ずかしそうにしている表情と、そういう自分をふふっと笑って立ち上がる姿が蘇ってきた。あんなに傷つきやすい人間から、どうしてあの強さが出てくるのかずっと不思議だったのだ。
 大丈夫か、と尋ねた僕のほうがおろおろしているようで、時々恥ずかしくなった。

 ――こんなにずっと見ていてくれる人がいるんだから、大丈夫だよ。

 篠永は赤くした目で、それでも僕に向かって微笑んだのだ。

 ひとりで頑張るのは僕も同じだ、とやっと思えた。
 ひどいところを見せてしまった。終わりかもしれないと思っていた。
 届いた手紙の中には、それでもやはり、希望があった。
 彼女なしで、もう一度立ち上がらなくてはいけない。
 僕は一通だけ返信の手紙を送り、自分の暮らしの立て直しに集中することにした。

 それからの二年、篠永と会うことはなかった。
 帰省しているだろう時期になると車を運転しながらつい視界の中を探してしまったりもしたが、同じ町で彼女の姿を見ることはなかった。そんな簡単にはいかないと笑って、彼女のいない日常に戻った。
 手紙のやりとりをしてから、翌年の夏まで互いに連絡をしなかった。季節が変わり、家の中も、僕の生活も少しずつ変化していった。
 祖母の一回忌を迎える手前に、墓前にと菓子が送られてきた。彼女の住所から少し離れた場所にある店の、焼き菓子の詰め合わせだった。送り状には、少し右上がりの字で僕の名前が書かれていた。
 電話をかけてはいけない気がして、少しのためらいの後にメッセージを送った。

『無事に届いたなら、良かった』
『ありがとな。毎日暑いけど元気か?』
『うん。西山は?』
『そこそこ。でも、頑張ってるよ』
『うん、わたしも』

 文字のあとに入った、照れたように笑っているクマのスタンプは何となく彼女に似ていた。
 互いに励まし合ってから、じゃあまた、と話を終えた。
 数ヶ月に一度、そうやって少しだけ文字でやりとりをするようになった。

『そういえば、最近忙しいせいかな、気が張ってちょっと寝つきが悪いの。寝る前に聴ける落ち着く音楽とか知らない?』

 そんなメッセージが届いたのは、手紙のやりとりをしてからちょうど一年が経った頃だ。近況連絡のように送った、最近どうしてる、という言葉に彼女はそう返してきた。
 仕事が一段落して、椅子の上で足を組んでいた。石油ストーブから吐き出される熱気と独特の匂いが部屋を満たしていた。
 ちょっと待ってて、と返信して、そのまま通販サイトへつないだ。
 彼女の手紙に書いてあった住所に、二枚のCDを直送するように手続きをした。出すぎた真似かと思ったが、何かしてあげたかった。
 一年以上篠永の姿を見ず、声も聞かずに過ごしたのは初めてだった。
 ヴィンテージ小物も扱ったネットショップと、真壁楽器店での仕事、知り合いの中学生相手に家庭教師もしていた。音楽教室での発表会を兼ねたライブが終わり、林や祐樹が頻繁にうちに訪れるようになったのもあの頃だ。祖父母の法要や法的な手続きもまだまだ残っていて、あちこちに顔を出して走り回っていた。
 やっと、この先の計画が見えてきた頃だった。

 電話がかかってきたときは、江田さんたちと真壁の店の近所で飲んでいた。江田さんの店の関係者ばかりが十四人ほど集まる、忘年会のようなものだった。
 メッセージで連絡が来るかと思っていたのに、テーブルの上で鳴り出したスマートフォンの発信元には彼女の名前が表示されていた。
 息を呑んだ。
 江田さんが、出ないのか、と僕に尋ねた。
「ああ、出ます。ちょっと抜けます。すみません」
 座敷の隅に急いで移動して、通話ボタンを押した。
「はい――」
 電話のむこうで、鋭く息を飲む音が聴こえた。
 自分からかけてきたのに出られて驚くのか、とさっそく唇が緩んだ。

「――CDのタイトルだけ、教えてくれたら良かったのに」

 むこうから聴こえた声に、僕は笑いながら胸が張り裂けそうになった。
 涙ぐんだような、懐かしい声だ。あの日、最後に僕に礼を告げて去って以来の声だった。
 右の頬骨に、一度だけ静かに触れてきた唇の感触を思い出した。一度きりのそれは、年端も行かない子供にされたような静謐なキスだった。
「たまに恰好つけたことしてないと、老けるような生活してるんだよ」
 言い返して、笑った。
 彼女は僕にどこか外にいるのかと尋ねた。飲み会だと答え、もう終わるから話せるよと返した。
 そのまま、店の外に出ることにした。
 彼女は家の中にいるのだろう。静かで、落ち着いた雰囲気が伝わってきた。
「CD、わざわざ送ってくれてありがとう。元気だった?」
 高めの、囁くような声にゆっくりと訊かれる。
「うーん。まあ、そこそこ? そっちは?」
「わたしも、そこそこかな。この頃、仕事が忙しくて」
 声を聞きながら、商店街のモザイク風の歩道の上で街灯越しの冬空を眺める。胸に入ってくる冷気で、自分の肺がどんな形をしているかがわかるようだ。
 遠くにいる。
 実際は、車を飛ばせば二時間かからない場所だ。それでも、彼女は今、僕から離れたところにいる。そう思った。遠くの星からの、途切れ途切れの交信のように思えた。僕達が生活を完全に切り離してから、季節が一周していた。
「そっか」
「だから訊いてみたんだ。寝る前に少し、ゆっくりしたくて」
「周囲にも、詳しいやついたんじゃないの?」
 目の前を、何台かの車が通り過ぎていく。
 シャッターの下りた店ばかりだが、飲食店からは灯りがもれてきていた。空気がずいぶん冷たい。気温が高めの冬だったことと忙しさにかまけて、師走を迎えていたのにまだコートを出していなかった。ネイビーのジャケットの上から、冷たい空気が刺してくる。
 彼女は、変わっていないだろうか。
 長い髪で、小さな肩で、冬になると良く着ていたコートをもう出して着ているだろうか。

 喉元まで、名前が出かかっていた。
 美里。
 名前を、何度でも呼びたかった。

「また、たまにかけてよ。たまにでいいから」
 少しだけ、距離を詰めたくてそう言っていた。
「――うん」
 彼女が、少し困った表情で笑ったように思えた。
 夜空を見上げ、白い息をあげながら約束していた。
「大丈夫。俺達、元に戻れるよ。努力する」
 
 
 いつものように林が訪ねて来たのは、その日の仕事を片付け終わったところだった。
「あれ、今日早くないですか」
 ぐるぐるに巻いていたらしいマフラーを頭を逆に廻しながら外すという、それ本当に意味があるのかと尋ねたくなるような仕草をしている林に訊かれた。
 時計の針は十六時過ぎを差している。いつもなら良い感じに集中できている時間だ。
「早く終わらせる必要があったから」
「ほう」
 濃いグレーのライダースジャケットを脱いだ林は、下にノルディック柄のニットを着ていた。シカだかトナカイだかが入ったそれに、季節を感じる。
 林はコンビニの一番小さな袋を手にしていた。さっそくうちの椅子に腰掛けて、すでに開封済みの五百ミリパックのミルクセーキを飲んでいる。
「なら俺、留守番してよっかな」
 林が空気を読んだふうにそう言った。
 リビングの椅子の上に、すでに薄手のダウンとマフラーを置いていた。マフラーは、CDのお返しにと同じように彼女が送ってきたものだ。長年の付き合いだけあって、僕の持っているすべての上着に合う色のものだった。

 電話は、あれから数えるほどしかしなかった。
 やりとりする回数は少し増えたが、距離感はそのままで変わらなかった。
 それはそうだろうと、今になっては思う。彼女にはその頃、すでに恋人がいたのだ。篠永が今まで付き合ったことがある男達の中でも群を抜いて長い期間を、彼らは共に過ごしていた。

 二つ年下の、会社員だと言っていた。
 年下と聞いて、内心とても驚いていたのだ。
 
 先ほど空にしたペットボトルをすすぎながら、林に告げる。
「どっちでもいいけど、適当に夜には帰ってて」
 帰りが何時になるかわからなかった。その時の自分が、どんな気分でいるのかも。
 意味ありげですね、と林が笑う。
「いや、普通におまえ泊まると散らかすし、色々面倒くさい」
「ひどいや。俺、こんなに殿を慕ってるのに」
 ちびちびと飲んでいるミルクセーキのせいか、今日は妙に子供っぽく見えた。このまま正月までこの町で過ごすなら、年末年始には何日か泊めてやるべきかもしれない。さすがに三十も手前になると同級生の友人たちはそこまで暇でもない。せめて正月には一度と新年会を予定していたが、他の日はまだ空白のままだ。
「わかってるよ。おまえが色々気を遣ってくれたのは」
 スマートフォンの充電を確かめ、キーケースをテーブルの上に放る。
 何となく人に深入りしそうにない林が、ここまで親身になってくるとは思っていなかった。
 マイペースで社会不適合っ気が強く生活力もない男だが、それだけではなかったな、と思った。本人が言わないようにしていることから彼の裏側をあまり見ないようにしていたが、こいつもけっこうな事情を背負っていそうだった。
「だから近々、褒美を取らせようと思ってるけど。林、まだしばらくこっちにいる? 荷物まとめて地元戻る予定とかある?」
 棚のほうから財布を取り出してキーケースの横に置いた。
 これで全部か、と確認してから、ダウンを椅子から引っ張りあげて羽織る。

 椅子に座って退屈そうに足をぱたぱたしていた林が、顔をあげて僕を見た。元気がない、という顔ではなかった。単に身体の動きに特徴があるやつなのだ。
「いますよ。俺、地元しばらく帰れないもん」
「え、そうなの」
「はい」
 言いながら、少し寂しそうな顔をしているように見えた。
「何か、やった?」
 簡単には話さないだろうと思ったが、尋ねてみる。
 林は椅子の上で、変わらずに足を揺らしている。
 今日は恰好がいつもよりまとまっている。林は蛍光色も好きな男で、防犯用のカラーボールのような派手なピンクのパーカーを愛用している。僕が一度も身に着けたことがないそのピンクも、あかるい蛍光グリーンも林は気に入りの色らしい。
「それなりにドラマチックな理由はあるんですけど、まあ追々にしましょう」
「気になるんだけど」
「大丈夫ですよ。生まれた村の窓ガラス全部割って出てきた、とかじゃないですから」
 喩えが過激なんだよと思わず言うと、ひひ、と笑った。
 菓子ないですか、と言われたので戸棚を指差した。来客用の菓子盆の中から賞味期限の経過したものを定期的につまみ食いするのは、林の任務だ。
「褒美、楽しみにしてます」
「あんまり期待するなよ。おまえの期待は、ちょっと斜め上だから。あと帰るときは暖房、切ってって」
 ダウンジャケットのポケットに財布や鍵を押し込みながら答えた。
 スマートフォンの下部に点滅は見られなかった。予定の変更や、追加の連絡も特にない。約束どおりに訪ねていいということだろう。

 本来なら、すぐにでもが良かったのだろう。猶予はあと二日しかない。
 それでも、思い出を辿りながらもう一度自分に尋ねたかったのだ。
 今度こそ、覚悟はできたのか、と。
 
「ええと、殿。林の読みは合ってますかね」
 林は立ち上がって、珍しく心配そうな目で僕を見ている。彼女の名前を思い浮かべているのだろう。
「たぶん、違ってると思う」 
 苦笑いが浮いているだろう自らの顔を思い描きながら答えた。
 林は、え、と小さく口にした。
「だって、もう月曜ですよ。水曜日ですよね、その――」
 篠永のところに、元恋人がやってくる日。
 僕の人生から親密な存在がひとり、完全に遠ざかってしまうかもしれない日だ。
「そう」
 車にすぐに乗ってしまうしマフラーは持って行くだけでいいかと思い、巻かずにそのまま首にかけた。

 不思議そうな顔をしている林に向かって、口をひらく。
「最後に、意見を聞きたい人がひとりだけいるんだ」

13|サンクチュアリ

13|サンクチュアリ

 アンティークゴールドの小さなベルとリースが飾られた、木製のドアに手を伸ばす。
 ひらいた先で、中央のテーブルを片付けていたすみれさんがほがらかな表情で顔を上げた。
「いらっしゃいませ――ああ、西山くん。時間通りだね」
 お忙しいのにすみません、と頭を下げる。彼女はいいのよと笑い、カウンターどうぞと片腕を広げた。
 オルゴールの音色で、賛美歌のような曲がかかっている。ここもクリスマスムードになっていた。
「いつもの?」
「お願いします」
 四席ほどあるカウンターには、誰も座っていなかった。
 窓際にいる主婦らしいふたり組は、腰を下ろして長いらしい。カップも皿も空になっているようだ。夢中で話し込んでいる。
「忙しかったの? 最近」
 ネルフィルターを手にしながら尋ねられ、はい、と答える。
 年末だもんね、うちのお客さんもみんな忙しそうよ、と彼女は笑った。わたしもちょっとばたばたして、こないだいつものシードル仕入れ忘れちゃった。人気メニューなのに大失態だよ、と。
「まあ、旦那から色々聞いてはいるけどね。仕事、片付け始めてるって?」
「ええ、一旦全部畳もうかなと思ってたんですけどね、意外に引き継ぎができそうなやつがいて、少し検討中というか」
 すみれさんの店は、素朴な漆喰の壁とブラウンの家具をベースにヨーロッパの色々なテイストを少しずつ取り入れたような雰囲気がある。素朴にもなりすぎず、近寄りがたくもならずといったところでうまくまとまっていた。知り合いを連れて来るようにするからあまり広告を大きく出さないで、という常連達の声にこたえて、あえて少し見つけづらいようにしているらしい。そういう営業の仕方が向いている人だった。

「そうなんだ。同性の方で?」
 ドリップポットを傾けながら訊かれた。そうです、と答える。
 年内いっぱいで閉店しようと思っていたウェブショップを、林に譲ろうかと考え始めていた。細々ではあるが一通り形は整っているし、基本的にひとりでできる仕事だ。いつまでやるにしても、一人暮らしができる程度の売り上げを出すのはそこまで難しいことではないだろう。
 すみれさんにそう打ち明けると、彼女ははっと何かに気づいたように僕のほうを見た。
「もしそうなったら、うちのお店で売るカフェオレベースとか置いてくれないかな。来年からギフトセット作ろうと思っててね。外部にも販売したいんだけど、さすがにわたしひとりでウェブショップまでは廻りきりそうになくて。委託とか、お願いできたら助かるんだけど」
 さっそく、魅力的な提案が来た。
「もちろんです。ああ、やっぱりその方向で話を進めた方が良さそうだな。明日にでも話、してみます」
 丁寧に淹れられたコーヒーが、カウンターのテーブルの上にそっと置かれた。厚みのあるソーサーが良い音を出す。
「案外、この辺でもそういうこと考えてるお店多いと思うよ。声かけてみたらどう?」
「いいですね」
 数日ぶりのはずなのに、すみれさんのコーヒーの味は懐かしく感じた。

 雑談をしているあいだに、主婦ふたりが席を立って会計をしにやってきた。
 すみれさんはカウンターの端のレジに移動し、彼女たちの注文した内容を確認し、それぞれの価格を伝えている。いつもの支払い方法なのだろう。
 ふたり組が出て行くと、店の中はさらに静かになった。
「だいたいこの曜日は、六時までは静かなの」
 すみれさんはあっという間に皿やカップを引き上げてくる。
「やっぱり、すみれさんってカフェ向いてますね」
 この人は、自分の空間を持っていることが向いている人のように思えた。そこに人を招いたり、憩わせることが。
「ありがと。旦那を脅してでもこっちで始めて良かったよ」
 はじめは、三つある雑貨店の中のアメリカンテイストの店の中にカフェを作る予定だったらしい。もともといつかカフェ開業をと夢に見ていたすみれさんにそこの店主としてやってみないかと話した江田さんは、そこじゃハンバーガーとかポテトとかサンデーみたいなメニューしかできないじゃない、と呆れたように言われたと言っていた。
 わたしの趣味じゃない、夢を応援してくれるのは嬉しいけど、ちゃんと細部まで聞いてからにして、と。
 結局、事務所として使っていたガレージの裏に新たに小さな店舗を作った。
 川沿いにあって、大抵の客は車でやってくる。ローカル雑誌に載っているのも何度か見た。
「おふたり、やっぱりお似合いですよ。江田さんが今唯一勝てないのってすみれさんだけだもんな」
 誰もいないからおまけ、と言われて、小皿に乗ったガトーショコラの欠けた切れ端をもらう。俺、甘やかされてるなあと思わず口にしてしまう。
 すみれさんは使ったフィルターを片付けながら、ふふふと笑った。

 すみれさんもこの町の出身で、短大を出てから六年ほど別の地方で暮らしていた人だ。夏の帰省の際に、妹と薬局で買い物をしていたところに江田さんと遭遇したという。
 彼は彼女に一目惚れして、周囲の目も気にせずにその場で彼女に猛烈なアプローチをしたのだそうだ。

 ――びっくりしたよ。人前であんなにぐいぐいくる? ってくらい、押しが強くて。何かばかげて見えたけど、わたし、たぶんそのくらい単純な男が良かったんだね。何だかんだで江田、仕事はできるし。 

 いつかここでそんなふうに話していた。
 江田さんの婚約者としてすみれさんを初めて紹介された日のこともよく覚えている。
 彼女は初対面の僕のほうを見て、少し驚いたような顔をした。

 ――こんなに繊細そうな男の子が周囲にいるなんて思わなかった。あなた、本当に大事にできてるの?

 江田さんを見上げて、まるで彼の母親のように尋ねた。
 本当にいたずらなんてしてないわよね、というような、子供に真実を問いただしているような姿に面食らった。そこまではきはきと物を言う人には見えなかったのだ。彼女はいわゆる福相というような、柔和な、雰囲気のある美人だった。きれいな人として生まれて、以来ずっとその状態を崩したことのない人、というのがすみれさんの与えるイメージだった。

 ――繊細? 西山が?

 江田さんは不思議そうな顔をして彼女に尋ねた。

 ――そう見えないなら、あなたおかしい。

 ほとんど間髪入れずに彼女は返し、当時見るからに彼女に惚れこんでいた江田さんがさっそく動揺していたのを覚えている。
 その後彼から僕に関する情報を耳にしたらしいすみれさんは、次に会ったときにはもう僕の姉のように振舞っていた。

 ――あの、すみれさん。そんなに俺、気を遣っていただかなくても。

 あまりに当たり前に親切なので思わず恐縮していると、

 ――迷惑? なら言って。
 ――いえ、そんなことはないです。
 ――じゃあ、続ける。

 はっきりとそう断言されてしまった。


「西山くんは、結婚したらすっごい愛妻家になる気がするな」
 カウンターのむこうで手を動かしながら、すみれさんは言った。
「そう、ですかね」
「君は全然このあたりの男っぽくないから。わたし、実はそれを見てみたくってね」
 下を向きながら、楽しそうに笑っている。箱から角砂糖を出して、ガラス瓶に移しかえているようだ。
「僕そんなに、良い男じゃないですよ」
 ここ数日の自分の記憶を振り返って、そう答えた。
 思ったよりも響きが深刻になりそうになって、途中で腹に力を入れなおす。
「それ、少し自己評価が低いんじゃない? 普通に、すごく女性を幸せにできるタイプよ」
「そうですか?」
 三つの小さなガラス瓶に角砂糖を入れ終えて、金属でできたロックをかけている。
 それらをすべて一箇所にまとめてから、彼女は僕のほうを見た。
「ねえ。今日はそういうこと、話す感じでいいんだよね?」

 驚いているのが顔に出てしまっただろう僕に、すみれさんは続けた。
「おじいさまとおばあさまも心配してるかも、って、おせっかいにも思っちゃってるの、わたし。君は誰か、一緒に生きていきたい人はいないの?」
 すみれさんは、声を少し細くしてから僕に尋ねた。
 祖父母の葬儀どちらにも、江田夫妻にはつきっきりになって見守ってもらった。
 まるで兄夫婦のように、喪主としての振る舞う僕の後ろで彼らは控えていて、必要な指示をひとつひとつ出してくれたのだった。


「ずっと、もうめちゃくちゃに気に入ってた女性がいたんです。俺」
 もうこれ以上、自分の中に押し込めておいていいことではないと気づいた。
 あいつがうちを訪ねて以来、気づけば周囲が皆そういう話題を投げかけてくる。
 まるでもう逃げるなと言わんばかりにだ。
 すみれさんは少し驚いた様子で、そうだったの、とこぼした。
「はい。身近に居て――もう、居るのが当たり前で。中学生の頃に出会って、友達のままでどんどん仲良くなっちゃって。タイミングを逃したっていうか」
 話しながら、篠永の色々な表情が浮かんでいた。
 出会った日の、初めて塾の前の席に腰掛けたときの、打ち解けたときの、そしてうちに初めてやってきた日の、少し緊張した表情も。
 すみれさんは僕のほうを向きながら、黙って頷いていた。
「そいつ、大学進学のときに他県に引っ越して行って、今年になってこっちに戻って来たんです。むこうで色々あったらしいんですけど、話してくれないんですよ。なのに、この前うちに来て言ったんです。元恋人が復縁の話をしにくるって。たぶんプロポーズされると思うって」
 すみれさんが、え? という声を確かに出した。

 ふたつ話があるの。
 あの日の篠永が着ていた、やわらかそうなニットが頭に浮かんだ。ふわふわに巻かれた前髪も。
 あの日、玄関の扉のむこうに立っていた篠永は、生まれ変わったみたいに見えた。
 前回の、あらゆることが謎のままだったところからすっかり落ち着いていた。
 僕を見上げて、久しぶり、と笑った。やっと他に誰もいない状態での再会だというような、その笑顔の中には照れと喜びが確かに見えた。
 僕はその微笑みだけで、実際は赤面して口元に手をやってしまいそうだったのだ。

「こんな年齢まで何もしてこなかった俺が、今更なのはわかってるんです。でも、どうしても受け容れられなくて」
「気持ちを、伝えたことがあるの?」
「一度だけ、手紙で。でも、ずっと態度に出てたので全部伝わってると思います。信頼関係はあったんです。でも、彼女も僕も目の前のことで手一杯で」
 そうなの、とすみれさんは言った。
「君はおじいさま達ふたりの介護もあったしね。その子も、何か事情があったってことだよね?」
「はい。一度知ってしまったことが忘れられなくて、すごく難しいことに挑んでました。祖父母も特別可愛がっていて、本当に家族みたいで」
 大人しそうな顔して、一等星を本気で捕まえに行くような子だねと祖父は笑っていた。

 ――生きてるうちに見れるかな。あの子が何かをものにするの。そしたらきっと、取り合いになるよ。おまえ、好きなら今のうちだよ。

「もしかして、おふたりの告別式とか、法事にもいた? わたし覚えてる」
 ふいに思い出したのか、すみれさんは少し声を大きくして言った。
「本当ですか」
「色が白くて髪の長い、物静かそうな子だよね? わたしよりちょっと小柄の――そっか、あの子か」
 記憶の中で繋がったらしい。
「江田が不思議そうに見てたんだ。あれ知らないな、西山の彼女かな、雰囲気ある子だねって。俺に黙ってるってことは本気の相手かな? って」
 最後の、よくわかってるよね、とすみれさんは笑った。
「ずっと、手伝ってくれたんですよ。僕がこっちに戻って来てから」
「そうだったんだ。あの子、西山くんのことずっと心配そうに見てたよ。そのあと何かでふたり並んでたところ見て、すごくしっくりきてたから覚えてる」
 雰囲気が、溶け合ってたから。
 すみれさんはそう付け加えた。
 僕達はあの時代、並ぶだけでひとつの空気を作っていた。
 長年かけて作ってきたひとつの色の中に、彼女といた。
「そっか、あんな雰囲気でも、ふたりは付き合ってなかったんだ。逆にそれは、すごいことだね」

「すみれさん。住吉馨(すみよしかおり)って人、知ってますか」
 僕の口にした名前に、彼女は一瞬不思議そうな顔をした。
 でもきっと、すみれさんは知っている。彼女と住吉は同級生だから。
 案の定、彼女はああ、という顔をした。
 そのああ、は良い印象のある相手への表情ではなかった。
「十五歳のときに、俺、その人と付き合ってたんです。本当に短いあいだですけど」
「だって、三つも上だよ? どこから――って、それ、江田が紹介したんじゃないよね?」
 そこには気づかないで欲しかったな、と思った。
 でもやっぱり、この人は鋭い。
「きちんと断れば良かったんです。でも俺、それができなかったんですよ。篠永――その子とも、まだそこまで打ち解けてなかったし」
 
 僕より六つ年上の江田巧真(えだたくま)という人は、昔から何か強いものを持っていた。
 肝の据わっているような、怖いもの知らずな雰囲気がそこにいるだけで伝わってくるような人だった。
 彼がある日のガレージで僕に言った。
 まだ今の事務所にもなっていない、寒々しい自動車修理工場のプレハブつき駐車場でのことだった。

 ――おまえのこと、すごく気に入ってるやつがいるんだよ。三個上だけど、えらい美人だ。おまえ、誰とも付き合ってなかったよな? 会ってみろよ。つーか俺、もう約束してきちゃった。

 江田さん、困りますと言ったものの、あまりに何度も言われ続けて仕方なく一度だけ会うことにした。僕が受験生だったことを気にする人はそこにはいなかった。
 一度だけがあと一回になり、もう一回だけが重なって、気づけば彼女の年下の彼氏になっていた。
 当時の僕はその手の関係のかわし方が全然わかっていなくて、江田さんの義理は果たしただろうと思う頃にはもう抜け出せなくなっていたのだった。
 
 住吉馨は、確かにかなりの美人だった。
 女っぽい容姿をしていて、婀娜っぽい雰囲気の持ち主だった。
 全日制の高校を辞め、週に三日ほどどこかの予備校に通っていた。
 周囲でも妙に目立って、江田さん以外にも力を持った男の知り合いが多かった。

 どうしてそんな人が自分を気に入ったのか、わからない。
 美貌と共に激しさを兼ね備えていた彼女は、ある種の男には確かに麻薬になったはずだ。でも、それを魅力として見るには僕には何かが足りなかった。または、多すぎたのだろう。
 精神的に、とても激しい人だった。
 不安定で、飢えていて、気分屋だった。 

 この人、誰かに似ている。
 そう思ったとき、僕は五歳の自分に戻っていた。

 自分の母親が元々はそういう人ではないことを、家に残っていたアルバムや古い日記を盗み見て知っていた。僕は明らかに母親似で、祖父母はそれがとても切なかったはずなのだ。
 僕の身の上に関する色々な噂話は、昔から近所で一定の周期で広がっていた。祖父母の日頃の行いによってかなり抑えられていたものの、初耳だと思うことを他人の口から耳にするのはやはり良い気がしなかった。
 十四歳を迎えてすぐ、祖父に本当のことをすべて教えてくれと頼んだ。今更荒れたりしないから。ただ本当のことを知りたいだけなんだ、と。
 祖父はひとつため息をつくと、テレビを消して話し始めた。

 自分の娘が、短大を出たばかりの身で勤め先の会社の社長の息子に手を出されたこと。
 その息子の子を孕んだという彼女が、中絶を強要されそうになって行方をくらませたこと。
 海のある田舎町の助産院で、飛び込み出産をするしかなかったこと。
 当時の価値観で、家庭の形を持たずに子供を育てていくことの大きな引け目も、想像ができた。僕が眠ったと思ってしていた祖父母の寝る前の話の中で、母はもっと優しく健やかな人だった。その面影も、僕は忘れていなかった。

 僕の中の母親には、ふたつの顔があった。
 この家で、善良なものを受け止めながら育った素朴で優しい人柄。
 それから、追い詰められて鋭く痩せこけ、もう女という性別を使うことでしか生き延びることができなくなった、激しい性格の持ち主。

 後者の母親は、住吉馨と良く似ていた。

 食糧は母が週に一度まとめて買い置いていた。
 そのまま食べられるものか、お湯を注ぐものばかりだった。仕事の帰りに惣菜や弁当を買ってきて、僕に与えることもあった。たまに店でもらってきたという果物は、気が向いたときにナイフで剥いてくれた。
 僕が四歳になるまでは、託児所のある仕事場で働いていたはずだ。
 それでは食べていけなくなって、少しずつ夜の仕事もするようになっていった。

 彼女が部屋で何かしている姿の記憶は、ほとんど残っていない。
 眠っていたか、かけっぱなしのラジオをぼんやり聴いていたか、爪の色を塗り替えながら黙って泣いていた。
 疲れたから泣く、という表現がしっくりくる泣き方だった。喉が渇いたから水を飲むように、眠くなったから眠るように、疲れたから泣く。しばらくそうすると満足して、水道水で目を冷やして、コップ一杯のそれを飲んで布団に入った。
 自分から僕には触れたがらなかったが、頭はよく撫でられた。泰智は頭の形がきれいねというのが口癖で、その一言を口にするときだけはいつも優しかった。
 二年だけ保育園には通ったが、休みがちだった。母が連れて行くのを嫌がるようになったからだ。自分達に、そこに入っていけるような雰囲気を感じなかったのだろう。健全な場所に行くことで感じる疎外感に耐えられるような人ではなかった。元々は自分も馴染んでいた空気から、弾き出されてしまったと思っていたのかもしれない。
 日中は眠っていて、夕方から夜に仕事に行っていた。
 母の眠るアパートの中で、退屈しのぎに文字を覚えた。世界が突然広がった。単純な喜びを感じて、小学校低学年くらいで習う漢字はすぐに読めるようになった。
 同じアパートの階に住んでいた大学生に頼んで、海辺の図書館に連れて行ってもらったこともある。面倒見の良い人で、途中で自販機で缶ジュースを買ってくれた。蓋がプルトップ式になったばかりの頃だ。
 どこを歩いても、潮の匂いがする町だった。

 僕が六歳を迎えた直後のある日のことだ。
 母は仕事に出て行ったきり、家に帰って来なかった。

 アパートの大家のおばさんに、お母さんは? と訊かれて困った。
 数日はごまかしたが、子供の嘘だ。すぐにばれた。
 すぐに電話をかけたらしい。ひとりの警官と役所の人間が飛んで来た。
 数日間知らない建物の中で寝泊りし、僕は自分を連れに来た、その日初めて会った祖父母によってこの町に足を踏み入れたのだった。

 古いシビックに四時間以上揺られて辿りついたこの町には、どこまでも広い海も、潮の匂いもなかった。平地の中に低い山が続く、関東のはずれにある田舎町だった。
 若かった祖父に犬猫みたいに洗われて、祖母に温かいものをたんと振舞われた。
 半分も食べられなかったが、叱られはしなかった。
 良く干された布団が、彼らのそれのあいだに敷かれていた。環境の変化についていけず、自分の心臓の音がうるさくて眠れなかった。寝返りを繰り返していると、伸びてきた祖母の手が背中を撫でてくれた。その手に安心感を覚えるようになるまで、それから半年近くかかった。
 翌日に祖父母のかかりつけの医者で色々な検査をしてから、医師の厚意で初めて予防接種を受けた。ごく軽度だが、栄養失調も起こしていた。若い看護師のひとりが涙ぐんで、付き添いの祖母に謝った。もしかしたら同じくらいの年の子供がいたのかもしれない。
 この町に来てから半年ほど、僕はずっと不思議そうな顔をしていたと祖母は言う。
 何をしても、ぴんときていないようだった、と。
 これは本当に現実なのかと思っているような、不思議そうな顔が忘れられないと。
 
 決別したかったのは、記憶の中の自分なのか、あの人か、住吉かはわからない。
 あの町に置いてきたつもりになろうとして、できなかったのだと思った。母さん。僕にとって、住吉馨はそう呼びかけていた人の亡霊だった。
 別れるなら死んでやるから、と言う住吉馨を、それまでしたことのない力で振り払っていた。その言葉を使われるのは三回目で、迷いがなくなったのもそのときだった。

 僕に払いのけられた彼女は、よろめいてその場にしゃがみこんだ。
 僕を下から睨みつけている住吉に、目を合わせて僕は告げた。 

 あなたが苦しんでいるのはわかります。
 俺にも覚えがありますから。
 でも、生死を取引に使われるのって、俺は本当に無理です、と。

 まるで理解できない、という相手だったわけじゃなかった。
 あんな言葉で人にしがみつくしかない彼女にも、それなりの経緯があったのだろう。僕の中に同じ種類の何かを見たからこそ、住吉はろくに喋ったこともなかった僕を気に入ったのだ。
 うちの祖父母のような存在が必要な人だったのだ、とも思う。
 偏りのない、何気ない愛情と関心が必要な人だったはずだ。それを彼女は求め続けるだろうし、同時に、注がれる機会からは逃げ続けるだろう。そういうものを素直に受け止めるには、十八歳の住吉は戦略と武器を持ちすぎていた。僕といるあいだも、色々な男から声をかけられ続けていたから。
 祖父母に会わせてあげたいと、一度も思わなかった。
 あのごく短い住吉との時間、僕は祖父母と自分と、そして篠永美里のいる空間が心から恋しくて仕方なかったのだ。

「西山くん。その、訊きづらいんだけど」
 すみれさんに言われて、いいですよ、と答えた。
 そう返答したものの、具体的な質問をさせるのは悪い気がして自分から告げた。
「そうです。大抵のことは、あの人が最初に」
 思い出したくない思い出だったが、悲しいことにすべて良く覚えている。
 すみれさんはそこで、がっくりと肩を落とした。
「ああ――もう、江田のデリカシーのなさによる被害者エピソードがまた増えた。本当にいくつ出てくるのよ。あとで殴っておくからね」
「いえ、本当に僕が甘かったんです。何もわかってなくて。それに江田さんだったら巻き込む側だから、住吉の性格なんてそれほど気にならなかったのかもしれないですよ」
 そう、江田さんだったらきっと、彼女のあの強い餓えにだって負けなかっただろう。
 すみれさんは泣きそうな顔になっていた。
「君はもっとやわらかい子なのに」
「当時の江田さんは、シンプルに自分の弟分に美人の彼女を作ってやって、楽しい思いをさせてやろうと思ったんだと思います」
 そういうところだよー。すみれさんはわざと強めの声で言った。
 もう、あの人、なんでああなのよ。
「今は住吉馨って、こっち住んでないよね?」
「ええ。結局次の年に知り合いの飲み屋のオーナーと結婚したみたいです――それで、その住吉の妹、いま友達と付き合ってるんですよ。そこでたまに僕も仕事してるんですけど、このあいだちょっと、粉をかけられたというか」
 勘違いかもしれないですけど、と付け足したが、すみれさんはうわあ、と言うだけだった。

 住吉詩織は、姉に良く似ていた。
 たまにこちらに目配せするときの目の感じは、ほとんど姉と同じものだった。
「あそこの姉妹ね、そういうところがあって。皆気をつけてたんだよ。自分の彼氏だって言った途端に興味持ち始めるから。それであの見た目でしょ? けっこう色々、やってると思うんだよね」
 すみれさんは、疲れたようにそう言った。
「江田も、昔はまともな感受性なかったでしょ。後先考えないで、何が出てもエンターキー押して歩いてるみたいな男だったでしょ?」
 奥方だけあって喩えが秀逸だ、と思った。確かに彼にはそういうところがあった。無謀な態度で、何が起きても自分を押し通せるだけのものを持っていた。
「だからね、西山くんみたいな子が近くにいるのが本当に不思議だったのよ。秀雄さんと勝さんの関係を見るまでは」
 すみれさんが、懐かしそうに首を傾げた。
「あのふたりも、不思議な関係でしたね。名コンビだったけど」
 とにかく豪快で、堰を切ったように物事を始めては進めていく秀雄さんに、参謀のように助言を重ねていた祖父。
 頼もしい男達、という雰囲気がそこにはあった。

 住吉は、人前でべったりと男にくっつくのが好きだった。
 だから僕は、普段通る道になるべく近づかないように住吉を誘導する必要があった。
 引け目があったのだ、自分のしていることに。
 けれど、その日住吉はとても機嫌が悪かった。
 一歩入った道に行こうとする僕の腕を捕まえて、何か飲みたい、と言ってきた。自販機でいいか尋ねたが、コンビニまで行こうよと繰り返された。

 誰にも会わないように祈りながら、僕は彼女と通り道のコンビニに立ち寄った。
 目当ての飲み物が見つかった住吉は、そこの駐車場の花壇に腰掛けてから僕を隣に引っ張った。そしてわざとらしく寄り添って、僕の腕に半身をぴたりと沿わせた。鼻腔に入って来たのは、当時大流行していた南国っぽい香水の強い匂いだった。

 ――こういうところで、やめてよ。

 少し離れようとすると、なんでよ、と彼女は言った。
 顔は笑っていたが、その一枚下には不満と怒りがうごめいていた。少しの刺激で飛び出してきそうなそれをなだめることに、あの頃の僕はいつも気を遣い続けていた。

 ――人に見られるだろ。
 ――見せ付けてやったらいいのよ。ほら、あの子とかは?

 あの瞬間の記憶だけ切り取れたらどんなにいいか、と思っていた。
 住吉に言われて顔を上げた僕の視界に、一番会いたくない人物が入ってきた。

 紺色の、三つひだの入ったスカートと、細い襟のついたブレザー。
 隣の中学の女子生徒だと思うのと同時に、別人であってくれと願っていた。
 一秒にも満たないその瞬間、事実を拒絶するように視界に靄がかかった気がした。

 願いは叶わなかった。
 篠永が、見てはいけないものを見てしまったという目で、僕達を見ていた。

 住吉は、目の前に立っている女子中学生が僕の友人であることを知らなかったはずだ。
 だからこそなのか、年下の制服姿の篠永に向かって、ふふんといった顔をして軽く挑発の合図を送った。僕の腕に上半身を意味ありげに押し付け、耳元でわざと何かを囁くような仕草をした。
 相手を嘲笑するようなその仕草を、止めようとしても身体が動かなかった。
 篠永は、傷ついた表情でそこから顔を背けた。
 そして悲しみと非難を込めた動きで、その場を立ち去って行った。

 うちに向かっていたのだ。
 祖父母か、あるいは僕に会いに。
 住吉はそれを見て、興ざめだというような顔でひとつ息を吐いた。

 ――ちょっと刺激が強かったかな。真面目そうな子。面白くないの。

 怒鳴りつけてやっても良かったのだと、今ならわかる。
 篠永を追いかけようと腰を上げかけた僕の制服を、住吉はぎゅっと掴んだ。

 ――江田ちゃんに、わたしのことお願いされたの、忘れたの?

 大事なものの手を、初めて自分から離してしまった日の記憶。
 
「僕が住吉と付き合っていることを知って、あいつは友達の位置に自分を定めてしまったんだと思います。どんなに気持ちが変わっても親友同士だって、その後もずっと思い込んでいて。僕もそこから彼女を引っ張り出すことができなくて。あいつも背負ってるものがあって、僕も、本音を言う勇気がなかったんです」
 
 祖母を喪ったあとの僕を見て、篠永は初めてその関係を改めようとしたのだ。
 僕はそれを拒絶し、彼女はそうしたことを悔やんで去って行った。
 相手のためにと傷つけあって、気づけば二年も空白の時間を作っていた。

 それまでの、ひとりでいる篠永を当たり前と思っていた。
 誰かと出会っても、結婚を考えるようなところまで行く事などないだろうと高を括っていたのかもしれない。
 たった二年で、自分以上に彼女を理解できる人間なんて現れたりしない。
 どこかで、そう思い込んでいたのかもしれない。

 厳かなクリスマスソングが流れている店内で、ひどい話をしているなと思う。
 すみれさんだって、こんな話になるなんて思っていなかったはずだ。
「君もその女の子も、大人びてたんだろうね。十代なんてもっと未熟で、流されっぱなしでもおかしくないよ。周囲に期待して、甘えっぱなしでも普通なくらいだよ」
 色々な思い出が蘇ってきたのだろう。唇を閉じたままで、彼女はくすっと笑った。
「そうかもしれない。俺達、本当に全部、ふたりで決めてきたんで。祖父母もそのあたりは口出ししなかったし、そういえば誰にも相談ってしなかったな」
「そうしなきゃいけないような状態に追い込まれてたんだろうな、とは思うけど。でも、自分でしたことの全部の責任を自分で背負うには、十代くらいじゃまだ早いよ。まだまだ大人が必要だよ」
 カウンターを布巾で拭いながら、すみれさんは笑った。

 彼女の一言には、確かな余裕があった。信頼関係の中で生きている、今日もまたその中を細くなりすぎないように気をつけながら、確かに生きていく。自分の歩幅で。それを繰り返し続けている大人の余裕だった。祖母にもそれがあった。人の中で培われた余裕だ。
 子供のうちに大きな何かを一度損なってしまった、僕と篠永にはなかったもの。

「もう、間に合わないの?」
「どうだろう。すごく、苦しめたから」
 中途半端な態度と、どこにも着地できなかった執着で。
 本当に、良くあそこまで付き合ってくれたと思う。何の約束もできなくて、自分のやり方にだけこだわって心をひらかなかった僕に、彼女は一度ももう嫌だと言わなかった。周囲が結婚して親になっていくのを、どんな気持ちで見ていたのだろう。
 再会のときはいつも、彼女は笑っていた。
 もう嫌、西山なんて大嫌いと言われてもおかしくなかったのに。

「やっぱり、最初に違和感があるのよね」
 考えを巡らせていたらしいすみれさんが、口をひらいた。
「違和感、ですか」
 話の最初に戻ったような顔つきで、少し悩んでいるようだった。
 目を伏せて、彼女は一度ぎゅっと瞼に力を入れた。ひらいた目が、まっすぐに僕を捕らえる。
「西山くん。わたしなら、だからね」
 布巾から手を離し、カウンターに両手を広げたまま続ける。 
「わたしなら、結婚するつもりの相手のことを『元恋人』って、言わないよ。復縁って言葉と、プロポーズって言葉も同じ台詞の中で使わない気がする」
 わたしだけかな、という言葉を漏らしつつも、彼女は続けた。
「それにね、されることがわかっていても、他の誰にも言わないと思う。特に異性の、完全に友情だけじゃなかった相手には」
 言いながら、やっぱりこれが気になっていたのという顔をしている。言葉にすればするほど、それがはっきりしてきたような。
「言いませんか」
「うん。その言葉には、他の意味か、続きがあったんじゃないのかな」

 言われて、あの日の記憶を呼び起こした。
 僕は篠永の一言に動揺して、自分の気持ちが外に出てしまわないように慌てて続けたのだ。そっか。そして、ごめん、ちょっとびっくりしただけだと言い訳した。
 そのあいだに、篠永は何かを言いかけてはいなかったか。

『あのね西山、それでなんだけど――』

 はっとして顔を上げた。
 すみれさんは、どう? という表情で僕を待っていた。

「言いかけてました。それでなんだけど、って」
「ああ、それよ。それ、続きがあったのよ」
 ほとんど叫ぶようにそう言って、彼女はカウンターの高いところをひらいた右手でばんばん叩いた。
「早く早く。確認、確認して、西山くん」
「確認?」
「連絡するとか、彼女のところに行くとかあるでしょう」
 言われてやっと、そうかと気づく。この件に関しては、僕は本当に頭が弱くなる。
 篠永があの後に言いたかった言葉を、つい想像してしまっていた。

 それでなんだけど、結婚式のことで西山にお願いがあってね――。
 それでなんだけど、実はもうわたし、お腹に――。
 それでなんだけど、また引越しなの。今度はもっと遠くに行くんだ――。
 
 いくつかのひどい妄想の最後に、ひとつだけ浮かんだ。
 賭けるなら、もうこれしかなかった。

 それでなんだけど、わたしその話、断ろうと思って――。

「すみません、長話になって。江田さんのことも、悪く言ったみたいで」
 姿勢を正して、頭を下げた。
 すみれさんは、僕の様子でどうするかをすぐに察した。
「大丈夫。わたしは江田と喧嘩しながら生きてるし、そうすることで生きる活力を得てるから」
 そういう愛もあるのよ。
 すみれさんは、すこしふざけたような物言いをした。

 彼らが結婚して、そろそろ十年になるはずだ。子供がいないのはふたりの共通の体質のせいだと言う。
 そのことで悩んでいた時期、彼女に一度だけ尋ねられたことがある。納涼祭の宴会だった。ガレージの前に広げたテーブルの上に、持ち寄られた料理と色々な酒のボトルが並んでいた。
 花火が始まる前、わずかなあいだだがそこに僕とふたりになった。
 少しの言葉のやりとりのあとに、周囲に他の誰かがいないのを確認してからすみれさんは小さな声で僕を呼んだ。あの時期、彼女は見るからに元気がなかった。

 ――ねえ西山くん。わたしは、六歳の君と同じ気持ちを知っているような子にとって、良いお母さんになれると思う?

 頼りない響きだった。
 養子を迎えることを、ふたりは考え始めていたのだった。
 彼女が言い終えたと同時に、遠くで花火が上がり始めた。
 ビールの匂いと、湿度の高い空気を押し流すような夜風の中、すみれさんは僕の返答を怯えたように待っていた。

 なれますよ、と答えていた。
 出会ってからの彼女との関わり方から、それを疑う必要はなかった。

 ――なれますよ。あなたのところに辿りついたら、その子供は絶対、運がいい。

 すみれさんは一度くしゃっと顔をゆがませて涙を見せたあとに、俯いた。
 そして顔を両手で覆いながら、ありがと、と言った。
 夫妻の願いは、けれど江田さんのご両親が許さなかった。
 江田さんがすみれさんの長年の夢だったカフェを作ろうと言い出したのは、それからすぐのことだった。

「出会ったときからずっと、わたしに君は異様にいい子に見えてたんだよ。この子、いい子すぎて人に全然寄りかかれないんだなって。どんなもの背負ってるんだろうって、切なかったよ。そういう子に手を貸せるならね、わたしは本望よ」
 すみれさんは笑っていた。美しい上に、タフな笑顔だった。
 江田さんはやはり強運の人だ。こういう女性と一緒に生きているのだ。
「すぐに行く?」
「はい。ええと、会計を」
「いらないいらない。仕事仲間からは取らないから。ていうか江田からまとめてもぎ取ってるから」
 彼女は笑った。僕はもう一度、お礼を告げた。

 氷の溶けたグラスを手にして、レモン水を飲み干す。
 次の行き先は、もう決めていた。

 すみれさんは奥のカウンターから出てきて、店の扉の前まで僕を送り出してくれた。
 店を出るときにかかっていたのは、ボーカルのない『メリー・リトル・クリスマス』だった。

 小さな装飾用の電球がゆっくりと点滅するドアの前に僕を立たせ、その後ろですみれさんは真剣に言う。

「よし。西山くん、準備はいい?」
 はい、と答えた。
「どんなことになっても、わたしは今日の君の勇気を称える」

 彼女のくれたラストチャンスかもしれないよ。行ってらっしゃい。
 すみれさんが、僕の背中を両手でとん、と押した。

14|Tying the (k)not

14|Tying the (k)not

 空の色は、もう暗かった。
 かつて祖父に命じられて何度も共に歩き、成人してからは車で送り届けもした彼女の家の近くくに僕は到着したばかりだった。

 高台に向かって家が立ち並び、数年に一度CMやドラマの撮影でも使われたりする長い坂道がある。
 この周辺に近づくと、何となく息を詰めて歩いていた。彼女の家族に見つからないように、一本内側の道を選んだりもした。
 ほんの小さな、たとえ小石くらいのことでも、家庭の中に投げ込むことで返ってくる反応を彼女は気にしていたからだ。
 それが長年の癖だからという理由でも、僕はそれに応え続けていた。彼らの目に付かないようにしていた。彼女自身を守るために。
 
 コンビニの向かいにある空き地に車を停車させて、そのまま電話をかける。
 篠永は、八度目のコールでやっと僕からの電話に出た。

「――西山?」
 高い声が、尋ねる形でそう言った。
 ここ十五年で、僕の苗字を一番呼んだのは彼女だろう。下の名前が出るのは稀だった。立場を気にしたのかもしれない。
「良かった、繋がって。今、家にいる?」
 車の外に出て、冷たくなった空気を吸いながら尋ねた。
 言葉を発しながら、居てくれよ、と祈っていた。
「う、うん」
 僕の語気に押されたように、篠永はどもったような返事をした。
「よし、なら今から行く。そのまま家にいて」
 夕食時にこれでは完全に迷惑行為だな、と思いながらも止まらなかった。服や化粧の都合がある女性の家に簡単に突撃するものではない、というルールも、一旦忘れることにした。今の自分の中にある勢いを止めてしまいたくなかったのだ。

「え? どういうこと?」
 篠永は、明らかに焦った声で僕に尋ねた。
 ひどく慌てているくせに、昔のように断線しにくくなったな、と思っていた。
「話があるから。実はもういつものコンビニまで来てる」
 煌々とあかるい店舗に目をやった。
 金と銀の星の形をした風船がぐるっとアーチ状になって、自動ドアの前に飾られている。
「待って待って。今、家族皆いるの。わたしがそっちに行くのはだめ?」
 じゃあそのまま待ってて、と電話を切ろうとした僕に、揺れる声で彼女が尋ねた。
 困惑しながらも、僕がいいよと言うと信じている。今までずっとそうだったからだ。そうやって自分達を傷つけるだろうものや手を焼くことから身を遠ざけて、僕達はやっと自分自身として振舞えたのだ。煩わしいことを言ってきそうな周囲から隠れて、たくさんの言い訳や理由で塀のように自分達を囲って、その中でとことん互いの味方でいた。
 でももう、僕達はそんなに隠れたところにいなくてもいい。

「だめ」
 久しぶりに、彼女にそう答えていた。
 篠永は電話のむこうで、驚いているようだった。
「もう、こそこそした仲も嫌だ。おまえにもおまえの家族にも、俺は何言われてもいい。間違ったことをしてるわけじゃない。今までだってずっと、本当は隠れなきゃいけないことなんてしてきてなかった」
 責めたいわけではなかったが、やはりそれが真実だった。
 彼女の心をかき乱すようなことを僕のいないところで言って欲しくなくて、黙っていただけだ。ほんの小さなことでもこいつは胸の中に入れてしまうから。
 そうやっていっぱいになったものを、一人で泣きながら吐き出させたくなかったから。
 でももう、僕達はあの頃みたいに無力じゃないはずだ。

「俺、今なら全部うまくやれる」
 まるで約束するように、そう言っていた。
 強気の言葉を口にすると、実際にそうできるような気がしてきた。
 かつて自分の中に落として見失い、相手が拾い上げてくれた力が僕達にはあるはずだ。
 僕達は、それぞれの持つ力を引き出し合えるふたりだったのだから。 
 大きく出ることをずっと選べなかった僕達も、でももういいだろう。
「おまえがどうにもできなかったことも、一緒に片付けられるよ。とにかく話がしたいんだ。五分くらいで着くから、待ってて」
 
 
 廃止されたごみ捨て場の前に、小さなスペースがあった。
 そこに車を停めて、彼女の家の外階段を駆け上がる。
 初めて立つ篠永家の玄関前で、一度深く呼吸をした。
 玄関の扉は白く、蔦のような飾りが小さな窓の上に配置されている。全体が白っぽい、僕の家の雰囲気とはまったく異なる佇まいの家だった。
 いくつものプランターがドアの近くに置かれている。
 天使が下から支えているような形の鉢植えや、犬の置物も置いてあった。

 両頬を一度強く叩いてから、僕はインターフォンのボタンを押した。
「――はい?」
 女性の声がした。彼女の母親だろうか。
 カメラに向かって頭を下げてから口をひらいた。
「こんな時間に突然お伺いして、すみません。美里さんの同級生の西山と申します。美里さん、ご在宅でしょうか」
 篠永美里の母親。
 十四歳から、長年姿を見られないようにしていた相手だった。
 祖父母がいたときにスーパーで見かけただけかもしれない。小柄で、何となく線の細い人だった。篠永と頬のあたりの輪郭がそっくりだったのを覚えている。
 ちょっとお待ちください、と言う声から放たれたように、ばたばたと家の中から走ってくる足音が聞こえた。サンダルか何かつっかけたのだろう、足音が変わって数歩でドアが勢い良くひらいた。

「あ」
 出てきたのは、彼女の妹だった。
 ピンクと白のもこもこした部屋着を着て、驚いた顔をしてそこに立っている。
 ドアに飛びついたように上半身が前傾していて、姉よりも背の高いその妹に僕は見上げられていた。
「西山さん? どうして家に?」
「美里いる?」
 尋ねると、妹はさらに目を見ひらいた。名前、と呟く。
「ええと、いますよ。呼びますか?」
「できたらお邪魔したいんだけど、構わないかな」
 言い方は尋ねる形になっていたが、ほとんど確認に近かった。
 篠永の妹は大丈夫ですよと扉のむこうへ身体を引いた。それに合わせて、扉の中に身体を滑り込ませる。
 白が基調の、オレンジ色のランプが灯る落ち着いた玄関だった。
 家族の履物が並んでいて、下駄箱の上には小さなクリスマスツリーが飾ってあった。

 入ったところから見える階段の一番上に、篠永が立っているのが見えた。
「美里」
 目が合うとびっくりしたように身体を震わせて、奥のほうに逃げてしまう。信じられない、という顔をしていた。きっと混乱の真っ最中だ。
 彼女の妹が階段を数段上りながら、ちょっとお姉ちゃん、と叫んだ。
 返事がない代わりに、階段の横から続いている廊下の奥の扉がひらくのが見える。ご両親らしき人達が、並んでこちらを見ているのが視界の端に入って来る。不審そうな、心配そうな顔をしている。
「すみません、お邪魔します」
 僕はそこで急いで頭を下げ、靴を脱いだ。
 すべてが不躾だったが、気を配っている余裕はなかった。

 彼女の妹は、困った顔をして階段の上を見上げている。上の階の姉を呼びに行こうか迷っているのかもしれない。僕は階段の同じところまで足を進めた。
「ああもう、なんで篭っちゃうの?」
 美咲、という名前の妹はすっかり参ったような声を出した。
 双子でもないのに美里と美咲なんて名前をよくつけたな、と思っていたのだ。
 ふたりともミサちゃんなのね、と最初に気づいたのは祖母だったが。
「いいよ、行くから」
「すみません。あれは、自分でも何してるかわかってないと思います」
 美咲ちゃんは僕を見上げながら申し訳なさそうな顔をしている。
 大丈夫だよ、と告げて、階段を上ることにした。
「ごめんな、色々嘘ついて。いつか全部、正直に話すよ」
 美咲ちゃんは驚いたように一度目を大きくした。
 心配そうな顔を見ていると、なぜか彼女が小学校に通いだしたばかりの年頃の女の子に見えてきた。
 不安そうな表情に、つい頭に手を置いてしまった。前髪の感触に我に返って、ふさわしくない行為をしてしまったと気がつく。天野くんにも借りができてしまった。
 数段上がってから、部屋、一番奥で合ってる? と尋ねた。
 美咲ちゃんは我に返ったように、はい、と頷いた。昔まだ徒歩で送ってきた頃に、自分の部屋がどこか篠永が言っていたのを思い出したのだった。
「え? これ、これって、あの夢?」
 何かを思い出したらしい妹の声を聞きながら、彼女の部屋を目指した。

 教えられた扉の前に立って、口をひらく。
「美里、聞こえてるよな。出てきて」
 ノックのあとにそう声をかける。
 扉のむこうで何かの音がした。きっと中にいる。

 高揚もしていたが、不思議な気分だった。
 今まで自分の家に彼女を呼ぶばかりで、僕は篠永の暮らしている空間を想像したことがほとんどなかった。だからこそ余計に、ゆらゆらとした人物に見えたのかもしれない。彼女は出会ってからこの歳になるまでに落ち着いた人物へと変貌していたが、それはあくまでそうじゃないところから一周まわってのことだった。
 玄関からここまで歩いただけでも、女性の選んだ物で出来た家という感じがした。部屋の扉の脇についているランプのカバーは飴色で、階段から続く吹き抜けには木製の柵がやわらかな線を描いている。
 こんなに整えられていても、若い彼女には耐えられなかった空間なのだと頭の片隅で思う。
 ここで十四歳の篠永はひどく追い詰められて、混乱したまま自分の世界の象徴たちを神社の裏の森に逃がしたのだ。ひ弱な腕で、重いものなんて大して持てやしないくせに。

「おまえがこの前うちで言ってたことの意味、やっと気づいたんだ」
 扉に向かって続ける。
「美里、話そう。ここじゃ嫌なら外に連れて行くから。出てきて」
 さすがに今の僕でもこの扉は蹴破れない。

 じっと待っていると、真鍮のドアノブに手をかける音が聞こえた。
 ゆっくりと、臆病な感情の篭った動きで扉がひらいた。

 扉に身を半分ほど隠しながら、篠永は僕を見上げていた。
「――気づくの、遅い」
 泣きそうな声で言われてしまう。
「悪かった」
 顔を見た途端に、弱気な自分がまた出てきてしまう。
 彼女は、そこにいるだけで僕を三十路前の男から十四歳に戻してしまうのだ。

 ふっと笑ったような気配のあとに、扉が大きくひらいた。
 篠永は、諦めたみたいに笑っていた。
「でもわたしは昔から、西山のことだけはいつも上手に怒れない」

 ――家族がいるから、外に出てもいい? ここはやっぱり、喋りにくい。

 ざわめきの聞こえてくる階下のほうを見遣ってから、彼女は僕に尋ねた。
 頷くと、着替えるね、と一旦扉が閉まる。すとんと足元まで落ちる、美咲ちゃんが着ていたものと同じ素材のワンピースを着ていた。淡い紫と白の縞模様だった。
 電話を受けてからは部屋の中をうろうろして、着替える余裕なんてなかったのかもしれない。

 廊下で、何分待ったのだろう。
 階下からは変わらずにぎやかな話し声が聞こえてくる。
「あれが、美里の前の恋人か? 前住んでたところから来た男、ってことか?」
 男性の声がそう尋ね、彼女の妹がそれを必死に訂正しているのが聞こえた。
「違うよ。あの人は同じ地元の人。同級生だよ」
「同級生の男? なんでわざわざうちに来るんだ」
「お父さん、そこまで言わないとわかんないの。お姉ちゃんがいるからだよ」
「だっておまえ、前のと別れたばっかりだろう。あいつそんなにもてるのか? あんなにぼやっとしてるのに?」
 合間には、彼女達の母親らしき人の声も混じっている。
 全員、物の言い方が強い人達らしい。想像していた以上の賑やかさに、思わず何度か瞬きをしてしまう。
 物静かな年寄りと住んでいた僕にとって、それは新鮮な賑やかさではあったがやはり不慣れなものだった。
「廊下じゃうるさい上に冷えちゃうね」
 簡単に着替えを済ませた篠永が、部屋の外に出てきて言った。
 階段の下のほうを向いて小さくひとつため息をもらしてから、一旦部屋に入れてくれる。

 そこ座って、と彼女はデスクの前のチェアを指さした。ヒーターを同じ場所に移動してくれる。着替えた服はすでに簡単に畳まれて、ベッドの上に置かれていた。
 彼女は手鏡を取り出し、先ほど驚いて沸いてしまったらしい目尻の涙をティッシュで拭いたりしている。
 自室で身支度している姿すら、新鮮に見えた。うちでするのとはまた違う横顔だった。

 その部屋には、簡易ベッドと机があるだけだった。
「ここ、本当におまえの部屋? 物が全然ないけど。引っ越してきたんだよな?」
 さすがにピンク色のひらひらしたカーテンやぬいぐるみがコレクションしてあるような部屋とは思っていなかったが、そこは想像していた以上に殺風景だった。
 他の荷物はまだむこうにある、と言われてもおかしくない。

 彼女は、手にした鏡を見ながら頷いた。うん。 
「ほとんど全部、捨てちゃったから」
 静かな声で言った。
 その一言には、何となく気迫があった。
 篠永が鏡を閉じて、半月形の鞄にそれを押し込む。スマートフォン、財布、リップクリーム、ハンカチ、最後に自宅の鍵も。
 最後に彼女はクローゼットの中からこのあいだ家にも着てきたグレーのコートを取り出して羽織った。
 鞄を斜めがけにして、やわらかそうな真っ白いマフラーを巻きつけ、髪を引っ張り出してからやっと僕のほうを見る。
 それまで背中まであるのが普通だった髪は肩の少し下くらいまでしかなくて、カットの種類にもよるのか少し幼げに見えた。

「捨てちゃえるくらい、思い残しないくらい、できることは全部やった。だから戻って来たの」
 それは彼女が昔から思うような結果を残せなかったときにしていた、困ったような笑顔だった。
 篠永がヒーターのスイッチを切った。
「お待たせ。出よう」
 そう言った彼女の手を取って、部屋を出た。

 お邪魔しましたのあとに続けた、すみません、お借りしますという挨拶は、我ながらおかしいことを言ったと思っていた。
 さすがにそのときだけは手を離したが、リビングから再度飛び出してきた妹の後ろで、やはりふたりの両親は不思議そうな顔をして僕達を見ていた。喉元まで質問で詰まっていたのだろう。あふれ出さないうちに行って、と言いたそうな美咲ちゃんが彼らの前に立ちはだかっていた。

 そして今、篠永は僕の車の助手席に静かに座っている。

「行先、決めてるの」
「いや、まだ」
「じゃあ、わたし決めていい?」
 この車に乗せるのも二年ぶりだと思うと、二年分の色々な思いが立ち上ってきてしまう。
 あらゆる感慨が混ざり合って、さっきから手に負えない。
「いいよ。どこがいいの」
「見晴台ができたの。昔、一緒に歩いたところに」
 シートから顔を浮かせて、カーナビを指差す。
 可動モードに変えると、篠永は白い指で目的地まですぐに地図を動かした。
「わたしここに行きたい」
「いいよ」
 決定ボタンを押すと、ルートを計算し始めた。
 どのみち選択肢が多いわけではないので、気にせず進むことにした。

 田舎町ではあるけれど、地方色はそんなに濃いというわけでもない。学生時代、九州出身の友人から年末年始の帰省に片道八時間かかると言われたりすると申し訳ないくらいだった。
 都心まで毎日通勤している人もいないというわけでもない、かといって垢抜けているということもない僕達の町。
 十五年かけて、変わったのはどっちだろう。
 あの頃の半透明みたいにやわらかく多感だった僕達なのか、情報や物資の流通も以前より盛んになって、駅の近くにベッドタウンとしてのマンションが何棟も建ち、ひらけたような雰囲気になったこの町のほうだろうか。
 それでも、冬空の暗さと空気の冷たさはあの頃と変わらない。
 クリスマスっぽい装飾を施している家はたまにあるくらいで、ほとんどは暗い峠沿いの田舎道だ。

 学生時代に彼女と一度歩いた、皇居の近くのイルミネーションを思い出した。
 一緒に帰省しようと決めていた日、篠永の乗ってくる電車が強風で大幅に遅延し、予約していたバスに間に合わなくなったことがあったのだ。
 待ち合わせ場所に三十分遅れで到着した彼女は、手を合わせ僕に謝った。気にするなと笑って、バスのチケットを取り直してから東京駅の外に出た。二時間半後のバスに乗るまで、飯でも食ってふらふらしようと予定を変更した。
 目の前に広がるイルミネーションに、篠永が珍しくもわあという声を出した。
 少し歩くかと訊くと、嬉しそうな顔をした。
 たった三十分くらいのことだけれど、よく覚えている。

 指定されて辿りついた場所は、十八の春に遠回りして歩いた町外れの山道だった。
 以前は重機か何かがまとめて置いてあった場所が、車が五台ほど置けるように舗装されていた。申し訳程度に見える夜景が眺められるよう、いくつかの木目調のベンチも置かれている。そこから見える山の名前と、町名などが書かれているだろう案内板の上を、大きな灯りが照らしていた。
 何の特色のない景色だが、長距離運転中に少し停まったりする車もあるのだろうか。
 戻って長いのに、こんな場所が出来たことすら知らなかった。
「ここでいいの?」
「うん。降りよう」
 だいぶ気温が低いはずなのに、篠永は気にしなかった。
 ふたりで、その見晴台という名前の広場に並んで立った。
 師走の夜に鉄柵が冷え込んでいる。息が白く上がった。

 彼女はゆっくりと口をひらいた。
「わたしはちゃんと言ったよ。"元"恋人が、復縁しに来るって」
 元、というところを強調して言う。少しだけ拗ねたような声だ。
「普通に、結婚するって意味かと思ったんだよ」
 僕も同じように答えた。
 何人かの交際相手を作ったことがあっても、今まで結婚の字が浮かぶことなんてまったくない状態で別れてきた僕にとって、その言葉が作る世界は未知のものだった。
 篠永が少し笑って続けた。
「いつもの察しの良さはどうしちゃったの。全然ぶれないと思ったのに」
 柵の上に両腕を乗せている。冷たくはないらしい。
「ぶれるよ。本当に、ただ事じゃなかった」
 僕は正直に答えた。
 町の灯りが見えるまでに、杉の森が続いていた。
 少しの街灯があるものの、ここから見える景色の半分は暗がりの中だ。稀に車は通るけれど、互いの他に人の気配はない。 
 篠永の立っている柵のすぐ後ろにあるベンチに、僕は浅く腰を下ろす。

「あの朝から、俺ずっと迷ってた。おまえの全部が必要だって思った。あんなに強い気持ちになったの初めてだったんだ」

 祖母の葬儀の翌日、篠永に抱きしめられて言われた一言で僕は真っ二つになっていた。
 それまで色々な理由をつけては自分で認められなかった感情が、もうこれ以上は無理だと理性を突き破ってきたのだった。
 彼女の全部が欲しくなってしまった。
 それを叶えなければ、この先することに何の意味もないと思うほどに、そう思った。
 乗っ取られてしまうと思うほどの欲望が、自分の中に生まれていた。
 絶対に欲しい。絶対に、失敗したくない。
 僕はあの日、生まれて初めて自分から生まれた欲望に溺れた。強く湧き上がり続けるそれを持て余し、気づけば篠永に困惑するような台詞を繰り返していた。

 彼女が家を飛び出して行った後も、その気持ちに変化はなかった。
 ひとりで過ごしたあの時間、通り過ぎてきた思い出が僕の頭の中で次から次へと瞬いた。幼い頃の記憶、どこか非現実的に見えた、あの頃の町の景色。それから篠永が僕にもたらした、やわらかく不思議な色合いに包まれた思い出も。
 あらゆる感情が混ざり合って、目の前に見える景色が何度も滲んだ。
 自分の生きてきた時間の、本当の重さが身体の中でうごめいた。
 それまでしてきたコントロールがまるできかなくなり、僕は一旦自分の気持ちをすべて吐き出してしまわなくてはいけなくなった。

 おかしくなってしまったと思った。
 そのくらい、日々の中に一喜一憂が繰り返された。

 その渦の外にしか彼女との未来はないと気づかなければ、あの場所から動き出せなかっただろう。そのくらい、自分自身の感情に手を焼いた。
 あのまま篠永と会い続けていたら、きっと互いの心も関係も壊していた。
 途方もない量だった。
 不慣れなそれを、僕はひどく持て余していた。

 僕の祖父母は、静かに暮らしながらもくすむことなくきらりと光り続けるものを持っている人達だった。ある種の清らかさを、ずっと守って生きてきた。
 手探りでありながらも芯の確かなその生き方に、惹かれる人々がたくさんいた。

 僕が成人するのとほぼ同時に彼らは八十代を迎えるのだと、十二歳のときに気がついた。

 実の子供と音信の途絶えている彼らに、頼れる人間はいないだろう。人に迷惑をかけるのを嫌う人達だから、他人には極力頼らずに老後を過ごそうとするはずだ。
 そんな祖父母を看取るのは、自分しかいないと思っていた。
 僕が彼らに拾い上げられたように、彼らの晩年に心細い思いはさせないといつしか僕は心の中でそう決めていた。
 それを不満に思ったことはなかった。僕はそれだけのものを、彼らから与えられてきたのだ。実の両親と暮らすよりも、ずっと優れたものを受け取ってきたかもしれないとすら思う。

 二十代は、きっと必死で駆け抜けるしかない。

 そんな予感が外れることはなく、成人してからはやるべきことがいつでも山積みだった。
 それらを片付ける力がついていくのを感じるのも、嬉しかった。僕は家族と共に居られる時間を、最後まで何とか平穏に過ごしたかったのだ。そのためにすべきことを考えながら動いていた。
 それなのに、地元に戻る日、心の底から浮かんできたひとつの思いがあった。

 ――仕事、辞めたくなかったな。

 楽しくなってきたところだったのだと思う。
 学生でいるときよりも、自分が生き生きしていることに気づいていた。毎日に、確かな手ごたえがあった。人並みに嫌な思いもしていたが、それよりも楽しさが勝っていた頃だった。
 学生の頃よりもまとまった額を祖父母に送金できることが、僕に大きな自信を与えた。
 僕は彼らの人間性を尊敬していたが、清貧暮らしだけはどうしても塗り替えたかったのだ。

 ――大学出て二年もこっちに居させてもらったんだ、充分だよ。

 祖母にも、篠永にもそう言っていた。それも嘘ではなかった。あのタイミングで地元に戻るのを決めたのも自分で、その決断を後悔するとも思っていなかった。
 すべて納得していたはずなのに、あの日の僕は祖父母には言えない感情に駆られていた。

 ここからだったんだよ。
 ここから、俺はやっと力を持てるんだ。
 なのにどうして今なんだ。どうして、あなたたちが親じゃなかった。
 親だったら、まだまだ時間があったのに。
 
 彼らとの時間の短さを、理解していたつもりでわかっていなかった。
 育ての親の遺影はあっという間に二つ並んで、あの時代を過去のものにした。祖母の死によって、僕はあらゆる意味でゼロになってしまっていた。

 僕に残った愛するものは、もう彼女しかいなかった。
 あまりに忙しなかった生活を終えた僕は、そこから自分の人生をもう一度形にし直さなくてはいけなくなった。家族のために組み立てていた生活や仕事を解体して、感情の整理をし、これからの人生の土台を新しく作る必要が。
 もちろんそれは、彼女のためのものでもあった。
 粗末なところに引っ張り込むには、もう篠永は僕にとって大切すぎる人物だった。自分はこの程度しかできない男なのだと、彼女に思われるのも嫌だった。

 待っていてくれと言いたくて、でも言えなかった。
 最も強く彼女を求めたあの日、僕は男として篠永に与えられるものを何ひとつ持っていなかった。そんな状態で、将来的な約束なんてできるわけがなかった。
 篠永がそんなことを気にしない人物だということもよくわかった上で、僕は彼女への気持ちを押し留めるしかなかった。

「全部がいいって、知ってたよ。伝わってきてたし、同じだった」
 彼女はひっそりと笑って言った。
「でも、そうしたらわたしが西山のために自分を捨てちゃうような気がしてたんじゃない? したいこととか、全部」
 彼女はこちらを振り向かずに、遠くを見ながら続けた。

 驚きを感じると同時に、不思議と身体から力が抜けていく。
 何だ、それすらわかっていたのか。

「俺、自分が原因でおまえが悲しい顔になるの、本当に耐えられないんだよ」
 それは言いながら、笑ってしまうほどの本音だった。
「西山は昔からそうだった。わたしは本当は人並み以上に強いのに、なぜかわたしを悲しませたり、傷つけることを怖がって」
 やっと振り向いて、柵に寄りかかりながら懐かしそうに笑う。

 威勢の良いことを、篠永にはたくさん言ってきた。
 その無防備な物言いや、世間知らずなところをからかった。
 人がそこまできれいじゃないことだって充分理解しているだろうに、どういうわけか彼女の中には何をしても崩れない、愛することが当たり前のような世界があった。そこから出てくる油断しきったようなことに、昔の僕はいちいちつっかかっていたのだ。

 篠永は大抵、僕が軽い気持ちで言葉を投げ込んでいることに気づいてその遊びに応えた。
 僕達は昔から、いくらでも言葉で遊べるふたりだったから。

 それでも、目標を外してしまうこともある。
 篠永の目に蔭りが出る一言を、つい言ってしまうことだって。
 彼女が黙って痛そうな顔をするのを見つけると、僕は途端に深く後悔し、すぐに謝罪した。他の人間には決してしない早さで。

 ――ごめん。悪かったよ。許して。

 そのくらい、僕は篠永の悲しい顔を見るのが苦手だったのだ。


「出会い方が、良くなかったんじゃないかな」
 夏の夜の、そう大きくない塾の教室。ホワイトボードと、古いエアコンの出す重い音。廊下では切れかけた蛍光灯がちかちかと瞬いていた。僕が篠永美里と出会った場所。
「わたしあの夏、ひどかったからね」
 彼女が少し下を向いて告げるのは、そのとき傷ついていたという証だ。
 それでも、ゆっくりと顔を上げた篠永は優しく笑っていた。
「ねえ、前から気になってたんだけど」
「うん?」
「あのとき教室に戻って来たのって、やっぱりわたしのためだったの?」
 小さな声で、彼女は僕に尋ねた。
 今までされたことがなかった、あのときにまつわる初めての質問だった。
 昔から変わらない、細くて透明な声だ。

 僕はあの日、授業が終わるまでずっと篠永の後姿を見ていた。
 小さく痛々しいものが、自分のすぐ近くで強い光を放っているように見えたのだ。

 ――俺忘れ物したかも。先行ってて。

 授業が終わって一旦出たその教室に戻るために、気づけば白々しい嘘を友人達についていた。
 まだそこにいるはずの篠永美里に、もう一度会いたくて。

「なんだ、ばれてたのか」
「うん」
 僕も、本当のことを打ち明けた。
「見てられなかったから」
 同じ学校でもない、その日初めて顔を合わせた女子生徒だ。
 声をかけるにはまだ何の共通点もなくて、怖がらせるかもしれなくて、でもあの表情をずっとさせておく気にはどうしてもなれなかった。
 教室に戻って、あのとき言おうと思った言葉は何だったっけ。

 ――あれ、まだいたんだ。また明日な。

 言えたとしても、そんなところだろう。

「そういうところがね、本当にどうしようもなく、優しすぎるのよ」
 やわらかな声に、泣き出したい気持ちになった。
「おまえは俺にとって、本当に弱点そのものなんだよ。だからどうしようもなかったの」
 僕の後ろにゆっくり廻り、篠永はいつかのように僕の両肩にそっと手を置いた。以前と同じ、やわらかい手だった。
 もうすぐこの手の一箇所に、僕があげられなかったものが嵌められてしまうかもしれない。
 そう思うと、十日間ほど気が気じゃなかった。どうして俺から二年も離れたんだと、理不尽にもなじってしまいそうになる。
「おまえは親友だったし、妹みたいだったし、女でもあったんだ」
 腰掛けたまま、僕は両手で顔を覆っていた。
 篠永は、ゆっくりと僕の肩をさすってくれている。
「うん」
「賢いのにいつも危なっかしくて、なのに俺のこと何でもわかってくれて。何でもしてやりたかったよ。おまえのためなら、俺何でもできるって思ってた」
 両手で遮った中で、涙が滲んできた。

「俺は、おまえが好きだったんだ」

 篠永の手が、止まった。
「西山」 
「本当に、どうしていいかわかんないくらい好きだったんだよ」
 口にして、ああ、これが言いたかったんだ、と気づいた。

 篠永美里のことが、どうしていいかわからないくらい好きだった。
 出会った瞬間から、心を動かされてしまっていた。

 彼女と出会った夏の日、僕は篠永に確かに見惚れた。心の底から。
 あの年頃の男らしい気持ちでではなかった。予感でだ。
 僕の目に飛び込んできたのは、僕の知らない何かを秘めた、そのくせそのことでどうしようもなく傷ついていた女子だった。何か特別なものを握り締めていて、それを生きるのを諦めたくなくて、それでももう一人では戦えそうにない。助けてという言葉を誰にも言えずに、そこでただ耐えていた。
 そういう篠永の背景の作る気配が、僕に大きな予感として届いた。
 助けてあげなくては、守ってあげなくてはいけない。意味のある何かを、どうにか奪われずにここまで来たんだ。そこに埋まっている特別なものを理解できるかもしれない、僕のいるところまで。
 そこから彼女と始める日々が僕に新しい物語を連れて来ると、あの日の僕は知っていたのかもしれない。
 僕の中に眠っている、まだ知らない自分自身をこの子が引っ張り出してくれるのだ、と。

 彼女が諦めきれないと思っているそれに、手を貸したい。
 それが現れるのを一番近くで見ていたい。他の誰にも、その場所を譲らない。
 彼女が手にするだろうものを、何より必要とするのは未来の僕だから。

 ひねくれた男子中学生の持った、青臭い妄想混じりの感情だったかもしれない。
 それでも、それは出会った日から決して失われない類の気持ちだった。
 彼女を支えたくて、喜ばせたくてしたことが僕をどんどん強くしていった。

 十四歳の夏だった。
 油断のできない、いつだって新鮮な、篠永との真剣勝負の日々の始まり。
 僕を決して安易なところで立ち止まらせてくれない、たったひとりの、どうしようもなく手がかかる理想主義者が現れた日。
 これからの僕を決してひとりにしない人を、やっと見つけた日。

 篠永は、後ろから僕を優しく抱きしめた。
「伝わってたよ。色々、わたしの勘違いもあったけど」
「好きだった。あの頃から、本当に一番好きだった」
「うん、わたしも。今もだけど、あの頃から西山が好きだよ。大好き」
 彼女の鼻先がうなじに軽くぶつかるのを感じた。 
 涙で濡れていないことに、少し安心した。

「俺は、最初から間違ってた。別の人と付き合うべきじゃなかった」
 背中に触れている温かい身体が、強く僕に張り付いてくる。
 自分のしていたことはとても残酷なことだったと、ここ数日で痛感していた。
 篠永が女性としての自信や価値を自分に感じていなかったのは、僕のせいでもあったのだ。
 決定打を恐れながらも手放せなくて、近づきも離れもできないようにしたのは僕だった。

「あなたは昔から、恋愛だけすごく下手だった。自分からきちんと好きにならないうちに相手の期待に応えちゃうから。本当は、好きになったら嘘みたいに純粋なのにね。自分をそのくらいきれいな人間だって、どうして思えなかったの?」
 最後の声は笑っていた。
 抱きしめ方は女のそれだった。くっついたまま少し力を抜いたような、しなだれかかるような感触があった。
 頬が、背中に押し当てられているのが伝わってくる。

 その言葉に、僕はまたひとつゆるされていたことに気づかされていた。
 篠永から見た僕は、他の相手を選んでいた時期さえも彼女への初恋を続けていたのだ。
 何の形式も持たず、僕達の通じ合っていた一番深いその場所で、僕は彼女のことをいつだって誰より特別に扱っていた。

「ああ、俺何もわかってなかった。ずっと傷ついてた?」
「たまにはね。でもいつの間にか自然と許しちゃってたな」
「どうして、そこまでできたんだよ」
 胸に廻る手を握りながら尋ねた。
 篠永はこの町を離れるまでひとりでいたから、僕は彼女が誰かと並んで歩いているところを目にしたことがない。僕だったら、もっと取り乱した。

 篠永はいつかそうしたように、照れたようにふふっと笑った。
「そういうところも、愛しかったから」

「なんて、わたしも同じだったんだけど」
 声に少し、笑いが含まれた。
「夏まで、須川って人と付き合ってたの。このあいだも言ったね」
 それを聞き出した日のことを思い出した。胸が軋むように痛んだ。
 僕の気持ちを感じ取った彼女は、話を短くまとめるように少しだけ口調を早めた。
「西山と離れて、すぐにできた友達だったんだ。うちの近所で怪我をして、手当てのために部屋に上げてね。そのときに西山からの手紙、見られちゃって。ああ、封筒だけね」

 思い出して、突然恥ずかしくなった。

 篠永から届いた手紙に返事を書くことで、ひとつの区切りをつけようとしたのだ。しばらくの別れを受け容れなくてはいけない、と。
 気恥ずかしさを何とかこらえて、僕はそこに自分の気持ちを書き綴った。大切に思っていること、感謝していること、これから先も誰より特別な人だ、とも。
 それだけのことを書いたあとに、友情を選ぼう、という意味の言葉を続けていた。
 これから自分の暮らしを立て直すから、次会うときにはいつかみたいな親友に戻っているから、と。
 そう書いておけば、そのあいだ篠永を失うことはないと思っていた。
 傷つけることも、期待させたまま消耗させることもないだろう、と。

『もしも好きだと思えるものや人と出会ったら、人生を前に進めて。俺はずっと美里に対しては意気地がなかったし、きっとこれからもそうだ』

 そんな臆病な嘘まで、丁寧についてしまっていた。

 素直に、待っていてくれと書いておけば良かったのだ。
 本当に大事だから、誰より好きだから、待っていて。
 必ず迎えに行くから、と。

「西山とのこと、付き合う前に全部聞かれて話したの。十四歳からずっと、ひたすらわたしを守ってくれた男の子がいるって。いつでも味方で、他の人と繋いでくれて、わたしを外の世界に逃がしてくれたって。たくさん愛情をくれたのに、逆のことは全然させてくれなかったくらい優しい男の子がいるって話したよ」
「やめろよ。また泣く」
 そう言ったけれど、篠永は言葉を止めなかった。
「わたし達、もう出会ってからの期間のほうが長くなったんだよ。そんなになるのに、西山はわたしに本当に与えることしかしなかったんだよ。わたしからはなかなか受け取ってくれなかったのに。その人には勝てないって彼も言ってたし、わたしもそう思う」
 話すことに夢中になり、身体が少しずつ離れていく。前に廻る腕を抱くと、気づいたように張り付きなおしてきた。
「こっちからすると、大事すぎて、何もできなかっただけなんだけど」
 結局臆病だっただけだ。失いたくなくて、嫌われたくなかった。今日は全部、それを白状しに来たようなものなのだ。
「わたし、これでも須川くんと付き合うのすごく悩んだんだよ。だってあんな手紙書いてから半年も経ってないのに、これじゃ全然一途じゃないなって。でも言われたの。自分の気持ちが落ち着くまでひとりでいるっていうのは、結局その期間もその人といるのと同じだって」

 それは、本音半分駆け引き半分の台詞だろう。
 須川という男が、とにかく押したのだということがわかる言葉だった。
 僕にできなかったことを、彼はしたのだ。
 傷つくことを恐れずに、情熱を持って、彼女を口説いた。

「わたしはふられたんだって思ってたし、西山以外の人ともきちんと向かい合ってみなきゃって思って」
「ふったわけじゃ――」
「うん、今はわかってるよ。それに、前を向くのが別の男性と付き合うってことなのも、何だかなって思ってた。わたしもあっちで、今まで経験したことないことが起きていてね。けっこう混乱してた」
 背中から、苦笑いのような気配が伝わってくる。
 互いに、別の渦に飲み込まれていたのかもしれない。

「西山っていう大きい存在がいながら、他の男の人を好きになるって大変だった。友達だとしても存在感がありすぎるんだもの。全然やましいことなんかなかったはずなのに、両方に罪の意識を感じるし」
 篠永は笑っていた。笑っていたが、その響きはやりきれなさで満ちていた。
「でもわたし、ちゃんとした恋愛を初めてしたんだ」
 不思議な声で、彼女は続けた。
 懐かしくて、でも悲しいような言い方だった。
「わたしがすることだから、もちろんひどかったよ。でも素敵だった。すごくやわらかい人だった。生活ってこんなに楽しいんだ、って初めて思った。わたしのする小さいこと全部を見ていて、一緒に楽しんでくれることもいっぱいあるんだもの」
「――えっと、一緒に、暮らしてたの?」
「うん。一年くらいかな、わたしの部屋で一緒に住んでた」
 篠永は素直に頷いた。
 言葉はやわらかく放たれていたが、内容はぐさぐさと胸に入ってくる。
 そうだった。やると決めたら、とことんやる人物だった。

「明後日、その須川って元彼来るんだろ。おまえに、復縁と結婚申し込みに」
 度胸のある男なのだろう。自分と別れて地元に帰って行った元彼女を追いかけてくるなんて、なかなかできることじゃない。
「たぶんね。前もそういう雰囲気出してたし、電話でも匂わせてた。あの人ならやるかなって」
 彼女はゆっくりと身体を離した。手をまた、僕の両肩に戻す。
 薄手のダウン越しに、触れている箇所の感触が伝わっては離れていく。

「それ、断ってくれないかな」

 驚いたのか、彼女は鋭く息を呑んで言葉を失った。
 こっちに来て、と言うと、後ろから回り込んで素直に僕の隣に腰を下ろしす。
 横を向いて、篠永の目を覗き込む。
 僕のほうを見つめながらも、少し怯えたような目をしている。
「本当に今更だけど。でも断って。頼むから」

 ――結婚するなんてことになったら、妬いて妬いて、たぶん狂うよ。

 以前、口からこぼれ出た言葉を思い出していた。
 あの時期の身動きの取れなかった僕を置いて、彼女が遠くに行ってしまうのを想像したのだ。女々しいその想像にまかせて、抑えきれずに言った台詞だった。
「ここまで言ったんだ。俺、もうむこうに帰せないよ」
 篠永は、同じ表情のまま僕を見ていた。
 僕のほうを見てはいたが、自分の中に広がっている衝撃に気を取られているのだろう。
 僕はそのまま続けた。
「美里、そいつと結婚しないで」
 彼女の瞳孔が、脈を打つように一瞬大きくひらいた。
 このまま彼女を他の誰かのところへやっても、自分の元へ引き込んでも、ここまで自分の中に入れてしまった人間なのだ。ことあるごとに揺れ動くのはもう変わらないだろう。
 覗き込んでいる目に、ゆっくりと感情が戻ってくるのが見えた気がした。
「うん」
 篠永は、僕と目を合わせたままゆっくりと頷いた。

「気持ちが釣り合わなかったからなんだ、別れたのって」
 我に返った篠永は、僕から視線を外して下を向いた。
 僕の手を取って、そっと握る。
「須川くんとは気は合ったけど、いつも関係が落ち着かなかった。それがつらくて、夏の始めにもう無理だって思ったの。わたしの選んできたこと全部、間違ってたとしか思えないって」
 声の中に、様々な思いが入っている気がした。
 篠永は一年半、心からその男のことが好きだったのだ。
「そうなってからはね、あそこで西山が言ってくれた言葉ばっかり思い出してたんだ」
 篠永は右手で、来るときに通り過ぎたひとつ前のカーブを指差した。

 大学進学のためにこの町を出て行く前日、家まで送って歩いた道だ。
 遠回りして、ここを通って彼女に告げた。春の、淡い金色の夕焼けの中だった。

 ――おまえに見えてる色々なことに耐えられなくなって、味方もいなくて、本当にどうにもならなくなったら、俺のところに戻って来な。

 十一年前の、青臭い自分の言ったことだ。
 決意だけは確かだったが、本当にそんなことができるなんて思っていなかった。
 ただそうしたかっただけで、気持ちと勢いに任せて出た言葉だ。

「むこうで、わたしも頑張ってみたんだよ。新しいこともしたし、できるようになったこともいっぱいあった。でもやっぱり苦しくなって、思ったの。わたしもう、西山のところに帰りたいって」
 帰りたい、という言葉のところで、彼女の目の中で何かが瞬いた気がした。 
「須川くんとのことは後悔してないけど、やっぱりあなたにしか辿りつかない関係だったって思う。わたしが誰かと一緒に生きていくこと選ぶとしたら、それができる相手はもうひとりしかいないんだって」
 篠永はもう一度僕を見上げた。
「でも、しばらく会うつもりなかったの。二年経ってるし、新しい相手がいるかもって思ってた」
「それはないよ」
「今ならそれもわかる。でも、結局すぐに鉢合わせしちゃったね。あんなところで」
 まだ夏の気配の残る、ファミレスの駐車場。
 町でも、外れのほうにある店だ。僕は真壁のところの仕事を終えて、重要な書類を印刷するための用紙を買いに足を伸ばした。彼女の妹の働くショッピングセンターに、篠永よりも早い時間に。
「確かに、あっち方面で会うことってなかったな」
「こういうの、縁なのかなあ。あんなところでばったり会うなんて思わなかったよ。本当に焦った。妹にもおかしなこといっぱい言っちゃうくらい、焦った」

 二年ぶりの再会は、理想的なそれではなかった。
 須川という男におそらく大事に扱われてきただろう篠永は、以前よりも女性的でやわらかい雰囲気になっていた。
 きれいになっていた彼女に一瞬目を奪われ、次の瞬間には二年分の感情が湧き上がっていた。
 目が合ったときの、うわ、という声に思わず笑ってしまった。驚いたときの声の出し方が懐かしかったのだ。目の前に立ったときに見せた、どこか泣きだしそうな顔も。
 彼女がひとりでないことを思い出して、言葉にできずにじっと目を見た。年の頃から、連れの女性が妹である可能性は考えていた。
 久しぶり、という言葉が出てくるまで、何秒か必要だった。
 もしもふたりきりだったら、僕は何と言っただろう。

「二年かけて、西山もずいぶん変わってたね」
 篠永はベンチにまっすぐ座りなおし、僕の片腕を抱くようにしてから小さな頭を肩に預けてきた。
「変わってた?」
「離れてるあいだ、ものすごく前に進んでた」
 彼女のした含みのある言い方で、僕は察した。
「林が言ったの?」
「うん。おじいちゃんの本を借りに行ったときに、西山うちの妹と部屋の中にいたでしょ? あのときね、林くんが忍び込むみたいに家に入ってきて」
 あの日か。廊下からなかなか戻って来なかったのは、読書に夢中になっていただけではなかったのだ。
「廊下で鉢合わせして、挨拶して。最近良く来てるっていうから、気になって聞いてみたんだ、西山の近況。相変わらず、すさまじいね。びっくりしたよ」
 篠永はそう笑ってから、続けた。
「残りの科目も、無事に合格したんでしょ?」
 彼女はそう言った。カレンダー見たよ、とも。
 僕を見上げて、彼女はひどく嬉しそうな顔をしている。
 それはとても懐かしい、僕の成績表を見てはしゃいでいた高校生の頃と同じ笑顔だった。

 二年間、ずっとこれが見たかった。

「おいで」
 隣に座っていた篠永に、僕は初めて自分からやわらかい気持ちで腕を広げた。
 ゆっくりとそこに入ってきた身体を、そのまま立って抱き上げる。
 わ、という声が、耳元から届いた。
「西山」
「あーもう。どうやったっておまえには勝てないな。三十を目処に、全部仕切りなおすつもりだったの、俺は。じいさんの親友の会計事務所で、来年から世話になることが決まってます」

 彼女の優しい身体の形を感じたくて、強く抱きしめた。
 本当にどうしてか、こいつはただ居るだけで僕を報われたような気持ちにさせるのだ。
 がむしゃらに走った先にいつだって立っていて、僕のすべてを受け止めるから。

「あんなに大変な時期に、努力したんだね。偉いよ。本当に、そういうところ敵わない」
 頭を抱え込まれ、子供みたいに撫でられた。
 篠永に、何度もこうやって頭を撫でられた。小さな手で、優しい手つきで。
 彼女の表情が静かだったことから、それを拒む気にならずに済んだ。気恥ずかしくて、やめろよ、と言うほうがしっくりくる性格の僕が黙っていたのは、そこに愛情を見たからだ。
「あの夜、おまえに助けられたからね。あれがきっかけかもしれないよ」
 祖母と別れた夜。このやわらかい腕に、護られた夜だ。
 彼女はベンチに足をつけて、そこに立った。
「もう、自分の幸せを考えていいんだよ。なんて、自分だけのためにはなかなか動けないのが西山だけど」
 いたずらっぽく笑われて、僕は何となく素直に頷いていた。戻って来て欲しい人物を何とか捕まえなおして、どうやらこれからの僕にはずいぶん楽しい日々が待っているらしい。
「これから、俺達面白くなると思うよ」
「今度こそ、近くにいたいな。昔河川敷のベンチでした約束、覚えてる?」

 もしわたしが、八歳のときに見たものに自分のどこかで追いつくことができたら。
 それが人のために使えるものなら、西山だけは好きなだけ使っていいよ。

 離れているあいだに、彼女は夢見ていた世界に辿りついていた。
 手紙に書いていた通り、自分の理想と向かい合ってきたのかもしれない。あの頃よりも、芯のところに静かな強さを感じた。
 これからもっと広がって、内側から彼女を飲み込んでしまうもの。
 深く静かな、そして絶えない喜びのようなもの。
 本当に、篠永は何かを掴んで帰ってきたのだ。
 須川という男との交際によってそれを成し遂げたことだけは、もちろん不愉快極まりないが。

「本当に、好きなだけ使っていいの?」
 少しふざけた調子で僕は尋ねた。
 目の前に立つ篠永は、かつての祖父と同じ目を持っていた。
 静かで落ち着いた、僕を包み込むような視線だ。そこから湧き出る、これからの僕を走らせ、休ませ、癒すもの。彼女だけが持つ、強く優しいもの。尽きることがないそれは、何て呼ぶのが相応しいだろう。
 使う、というのとは少し違うかもしれない。それでも、きっと求め続けてしまう。
 本当は臆病で怠け者の僕がすることに、確信を与えて欲しいから。
 自分のしていくことが未来を少しでも照らすと、そういう男として生きていけると、信じたいから。
「そんなに使って、一体何をするつもりなの?」
 篠永は笑っていた。
「でも、もちろんいいよ。欲しいだけあげる。尽きないから」

 篠永が圧倒的に輝くものに出会ったあとにやってきた、苦難の時代に僕達は出会った。
 最初の数年は彼女を支え、その後の数年は僕が支えられた。

 果てしない美しさと歓喜、果てしない痛みと光の届かない心の底。
 そのふたつのあいだにできた長い長い道を、ふたりで歩いた。
 時には並んで、時には離れて。

 その中で探していた。
 このどこかにあるはずなんだ。僕達の最高の遊び場が。
 いつか見つけ出せるはずのその場所に持って行く道具を、それぞれ探しながら歩いていたのかもしれない。同じ景色を見ていたことも、まったく違うものを見ていた時期もあったのだろう。
 適当なところで「もうここでいいよ」と言えなかったのは、彼女がいつでも真剣で、僕のことを信じきっていたからだ。

 ここでやっと、僕達は互いの居る場所に本当の意味で辿りついたのかもしれない。
 僕だけでは見えない場所。彼女だけでは目指せない場所。
 僕達がふたり揃ってやっと叶う、夢みたいな現実に。

 ――それでも、十五年はさすがに長すぎやしないか。

 思わずそう笑ってしまうほどの月日が流れていた。

 ベンチから降りた篠永が、ひとつくしゃみをした。
「やっぱり、こういう場所は長く居ると冷えるね。あったかいもの飲みたいな」
「いいよ。うちに行こうか」
「わたしの第二の実家に?」
「おっしゃる通りです。でも、その前に俺――」

 言いながら、彼女の頬に両手を添えていた。
 篠永はすぐに、それを察した。

 そっと身体を近づけて、今までずっとできなかったことを彼女にした。
 薄い唇だった。言ったとおりに冷えていたが、やわらかかった。
 彼女のそれが温まるまで、自分の唇を重ね合わせ続けた。

「好きだ」

 合間に、そう告げていた。
 大げさでも構わない。永遠に好きだ。
 少しでも考え出すと、身動きがとれなくなるくらいに。

「もう、どこにも行って欲しくないよ」
 また唇を離して告げる。
 離れてしまう間が惜しくて、何度も繰り返す。
 やっと、感情と行動が一致した。途方もなく長いあいだ、このふたつがかみ合わなかった。
 絡まってこじれて、やっとここまでほどけた。

「美里、俺のそばにいて」
 小さな肩を抱きしめた。
 篠永はくすぐったそうな顔で笑いながら、僕を見上げていた。
「どこにも行かないよ。ずっと、ここにいるよ」
 笑いながら泣かないでくれと、言葉にできなかった。同じ状態になっていたからだ。
 腕の中で、僕を優しく見上げながら彼女は続けた。
「一緒にいるよ。だからあなたも、もうわたしを遠ざけないで」

 コーヒーメーカーに、ミネラルウォーターを注ぎ入れる。
 挽いた豆を、セットしたフィルターの中に量って入れる。すべてを整えてから、僕はすっかり指に馴染んだスイッチをいつものように押した。
 あのピアノのあるバーには、元々は皿洗いと閉店後の清掃スタッフとして入った。辞める頃にはほとんどすべての業務に関わっていたし、『あのお店の人』としてそこにいるのが当たり前だった。
 帰宅前にマスターが気まぐれに淹れるコーヒーがいやに美味く感じて、彼のこだわりを色々訊いた。就職してその店を辞めてしまってからは、客として稀に話しに行くようになった。
 このコーヒーメーカーは、地元に戻るために部屋の解約手続きをしたと彼に報告した二十五歳の僕に、マスターが贈ってくれたものだ。ドリップだけではなく、カプチーノやエスプレッソも作ることができる。

 ――地元の生活での休憩用に。頑張れよ、西山。

 彼はそう言って笑った。
 はい、と目を見て約束した。

 篠永は、上機嫌でテーブルについていた。
 家につくなり合格通知書が見たいと言うので、部屋に取りに行ったところだった。
 第二の実家というのにふさわしく手洗いを済ませていた彼女は、コートを脱いでいつもの椅子に座り、僕を待っていた。
 茶封筒を手渡すと、両手でうやうやしくそれを受け取る。
 楽しそうにそれを取り出して、小さい歓声をあげていた。

「また華麗に転身したね。だって、かなり難関資格なんでしょう?」
 相変わらずすごいな、とはしゃいでいる。
「まだ合格しただけだから、すぐに登録はされないよ」
「時間の問題だよ。実務経験だってあるんだし、上手くいかない理由がないよ」
 わくわくした目で言うので、それ以上言い返す気にはならなかった。
 人がのた打ち回って努力しているときに僕以外の男と楽しく過ごしていたくせに、と思うと笑いがこみ上げてきた。
 それまでひどい扱いをしてきたのも別の相手を選んでと手紙で告げたのも自分だったのに、実際されるとこうだ。
 私生活が楽しいと初めて思ったなんて、それまで寂しがらせていた証拠なのに。
 彼女じゃなかったら、とても付き合いきれない男だったのに。

 どうしてこの試験を受けることにしたの、と尋ねられた。
「感動秘話だよ」
 篠永は不思議そうに僕を見ている。

 勉強を始めたのは、彼女と手紙をやりとりした後だった。
 あの年の終わりから、家を片付け始めたのだ。
 手を動かしていないと、家の中に漂う過去に飲み込まれそうだった。自分を見失わないために、何かしていないといけなかった。
 祖父母は、戦前生まれらしく物を捨てることに抵抗のある人達だった。簡素な生活を好んではいたがもらったものや使い切れないものを溜め込んでもいたので、家中の不要品を処分し整頓し終えるまで数ヶ月かかった。
 押入れから出てきたテキストを、懐かしくなってひらいた。
 現役の学生のうちにと、二科目受験して合格していたのを思い出したのだ。バイトに夢中になってしまって、それ以上のところまでいけなかったけれど。
 これだ、と思った。そこからは早かった。

「それ、だけ?」
「まあ聞いてよ。あの時期、正直あんまり寂しくなかったんだ。本当におまえが一緒にいてくれてるんじゃないかって思うくらい」
 口にするのもどうかと思うような気持ちだったけれど、実際にそう思っていたのだ。

 ――あなたの悲しみに仕え続けるって、約束する。

 祖母との別れの翌日に言われた言葉は、あの日の彼女の姿と共に心の底に沈んでいた。
 その後に届いた手紙を読む度に、深いその場所で静かな温かさを感じた。
 愛されている、と思った。
 十四歳の夏に出会った特別な人に、僕はずっと愛されている、と。面白くもなかった子供時代から今まで、そしておそらくこれから先も、丸ごと彼女からの優しい想いに包まれていると。
 それに応えない生き方なんてないだろう。

「だって、一緒にいたもの。わたし本気だったし」
 篠永は、それを本当に当たり前のことのように言った。
 そういう思いが強くあったとかなら理解もできるのだが、残念ながら彼女の中にはこれを完璧に説明できる理屈の世界がある。もちろん、一般常識からはかけ離れている世界だが。
「おまえにとっては普通だろうけどね、それは現実社会を生きる成人男性には簡単には通用しない感覚なんだ」
 僕は昔のように、彼女に噛み砕くように言った。
 篠永の、この手の不思議表現の重ね技には昔からひどく手を焼いた。
 こちら側からはまったく理解ができない上に本人は至って本気なので、解読するのにどれだけの知恵を絞ったかわからない。集合的無意識がどうだとか阿頼耶識がどうとか言っていた時期もあったが、結局は自分の中から出てくる素直な物言いに落ち着いていた。
 表現が"おまえすぎて"わかんないんだよと文句を言い、頭をかきむしりつつ、祖父母に笑われながらここで繰り返した台詞がある。
 ――ええと、俺なりに話を整理させてもらうよ。

「でも、いたよ」
「そう思ってたって」
 僕はもう反論しなかった。
 どこにいても、彼女は意識をきっとこちらに向けていた。
 僕が寂しくないように、道に迷わないように、ずっと本気で気にかけてくれていた。
 さすがに須川という男には言っていないだろうが、どこで何をしていてもそうだったのだろう。僕は無事と幸せを、ずっと祈られていた。
 そうやって僕の中に残った彼女が、未来を僕に探させたのだ。

「一緒に居てくれたからこそ、俺は偶然出てきたテキストを見て思ったんだよ。これに合格してやったらおまえはどのくらい喜ぶかなってさ」
 篠永が驚いた顔をした。
「良い話で感動した?」
 僕はふざけて言った。
「した」
 彼女は素直にそう言って、僕の目をじっと見た。

 不思議な顔なんだよな、と昔から思っていた。
 賢そうで冷静そうなのに、どこか抜けている。笑うとちょっと幼く見えるのに、集中して冴えているときは誰にも負けないとでも思っているように自信に満ちて見えた。
 すましていると気ままな猫みたいに見えるし、目を離したら泣き出してしまうんじゃないかと思う日もある。
 忙しいやつだと思いながらも、僕を見つけたときのあ、という顔と、そのあとの少し照れたような笑顔に慣れることは一生ないだろう。

「なに?」
「遅くなる前に帰らなきゃいけないから、今日の西山をじっと見ておきたくて」
 両手で持っていたコーヒーカップは、もう温かくはないだろう。
 最後の一口を先延ばししていたのだ。会話が終わらないように。
「え、このまま泊まるんじゃないの?」
 そのつもりでいた、というわけでもなかったが、そのつもりになってもらうぶんには何の問題もなかった。
「今、わたし実家暮らしだから。男性に連れられて出て行って、そのまま朝帰り、はちょっと心証が」
「昔から、本当に門限厳しかったよなあ。わかった、ちゃんと送ってく。必要なら、ご家族に挨拶もします」
 美咲ちゃんの驚く顔が浮かんだ。
 彼女とは仲良くなれそうだ。何しろ最初から醜態を披露してしまっている。

「それ、わたしが一番先に卒倒しそう」
 彼女は両頬を手で押さえながら、そう言った。
「よし、それ飲んだら何か食いに行こう。そのまま送るから」
 自分の中に生まれている動きの気配が、単純に嬉しかった。

 ――わたし達繋がってるよ、思ってる以上に。
 ――ねえ西山、本当の本当は、人って愛らしいものだよね。
 ――わたしもっとあれに近づきたい。解き明かしたいの。そしたらあなたにもあげられる。
 ――だから見ててね、わたしのこと。大事なこと、見失わないように。

 新しい関係と、新しい仕事と、そしてきっとこの先もずっと続いていく、ふたりで答えを出していかなければいけない、厄介で面倒なこと。
 向かってくるだろうそれらをふたりで引っくり返したり塗り替えたり、これからもそれの繰り返しだろう。
 でもそれは、彼女と取り組むことでどこか無邪気な遊びになる。
 思春期の頃に巻き込まれるのを恐れた、冴えない気分に足首を掴まれて重く沈んでしまわないように。
 それに捕らわれてしまう日には、互いを助け出せるように。
 いつかの諦めに、追いつかれないように。

「あ、待って。お線香あげたい。わたしも、ふたりにご挨拶しないと」
 篠永はコーヒーを慌てたように飲み干してから、仏壇の前に移動した。
 
 ――あの子とは、簡単に縁を切るなよ。
 ――やっぱりあなたたち、最後はお互いしかいないと思う。

 彼女が手を合わせているあいだ、ふたりの言葉を思い出していた。
 言わないだけで、彼らはもっと色々な話をしていたのかもしれない。
 彼らが生きているあいだにではなかったが、もしも親孝行という言葉で言い表せることがあるとしたら、きっと一番はこれだ。
 自分達がいなくなったらひとりぼっちになってしまうと彼らに心配されていた僕は、彼らが特別に可愛がっていた人とこの先共に生きていく。
 気が早いかもしれない。けれどもう、手を離すつもりはない。
 戦後間もない頃、大恋愛の末に結ばれたふたりに育てられた僕だ。
 ここから先は、心得ている。

 合わせていた手を下ろして、彼女はふう、と息をついた。
「長かったな」
 伝えることがたくさんあったのかもしれない。
 彼らによって素直な泣き虫にされた僕の篠永美里は、やはり一度、目元を手で拭った。
 そしてゆっくり顔を上げ、僕に向かってはにかんだ。
「だって、普通のことがわたしはあんまり上手じゃないから。良く見守ってもらわないと。絶対に、失敗できない相手だから」

 失敗したって、実は何度でもやり直せるけれど。
 互いにそう思ってはいるものの、そういう思いは少ないほうがいい。
 
 普通のことが、あんまり上手じゃない。
 昔はその通りだったなと思い、笑いながら答えた。
「だから俺は、おまえをずっと放っておけなかったんだ」

(了)

最果ての星を拾いに【下】

最果ての星を拾いに【下】

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-06-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 12|君のいない惑星
  2. 13|サンクチュアリ
  3. 14|Tying the (k)not