最果ての星を拾いに【中】

古瀬 深早

最果ての星を拾いに【中】

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06|Under my skin

06|Under my skin

「美里ちゃん。もう、小さくなったふりはしなくていいからな。もう乗り切ったんだから、好きなことしていいからな」
 祖父が、彼特有の深い眼差しで篠永に向かって言った。
 篠永はすでに目尻を赤くしていて、祖父を見ながら何度も頷いた。

 十八の春、うちにも別れがやってきた。
 それぞれの第一希望だった大学に合格した僕達は、三月の終わりにふたりとも地元を離れることになっていた。合わせたつもりはなかったけれど、偶然にもその日が彼女と重なった。
 知らない土地へ移り住むことへの緊張はもちろん感じていたが、今日までに感じてきた地元のあらゆる『これが当たり前』の重圧から解放されることに、僕達は共にひどく気が楽になっていた。
「おじいちゃん。わたし、このお家とのお別れが本当に一番寂しい」
 彼女は祖父母を見ながら、もう泣き出しそうだった。
 祖母が、細い指で篠永の肩をそっと支えた。ゆっくりと撫でながら続ける。
「困ったことがあったら、うちの孫を頼りなさいね。お互いそんなに離れてないんだから、助け合ってね」
 篠永は返事ができなくて、同じように頷いた。うん。
 彼女の頬にはもうあふれた涙が幾粒も零れていた。

「ちょっと、そんなに泣かせないでやってよ」
 わざとあかるく言うと、祖父母ははっと我に返ったような顔をしてから、少し笑った。
 僕が声をかけないと、祖父母と篠永による恐ろしく善良な感傷の時間は延々続くのだ。
 人情ドラマじゃないんだからそのくらいにしてよ、という言葉をどれだけ言ってきたかもうわからないほどだった。
「帰省するとき、なるべく声かけて連れて来るから」
 祖母に言うと、彼女はそうよね、と気丈に笑った。
 七十台後半に入ったふたりを置いて家を離れるのはあまり考えたくなかったが、長くここに住んでいて知り合いの多い祖父母はまだまだ普通に暮らせると僕に言った。当時はまだ元気だった、江田さんや柏田さんの繋がりもあった。
 彼らも、もちろん背中を押してくれた。
 名実共に、自慢の孫になって来い、と。
「ふたりとも、お願いだから元気でいてね。病気とか怪我、しないでね」
 篠永が、祖母の手を何度も握り直した。

  
 良く晴れた一日だった。
 話しながら歩いているうちに、気づけば十六時を迎えていた。 
 春の色合いがだいぶ滲んできた景色を、彼女を家まで送るという名目で並んで歩いていた。逆方向になったのは、一番の大回りをしようとふたりで話したからだ。
 少なくとも、しばらくはこの道をふたりで歩くことはない。
 運転免許でも取ったら、歩くことさえなくなるはずだ。

「泣き虫め」
 五分前に祖父母にいってきますという挨拶をしたばかりの篠永は、ティッシュでまだ涙を抑えている。
「そうさせられたんだよ、西山家に。わたし、人前で泣かない子供だったのに」
 鼻声のままで、篠永は言った。
 着ていたコートの左ポケットは、すでに丸めたティッシュの墓場になって不自然に膨らんでいる。
「なのに、こんなに変えてもらった」
 言葉にするとこみ上げてきてしまうらしい。
 その気持ちにピントが合わないように、わざとらしく目を反らしている。
「良かったな」
「うん」
 素直にそう頷かれてしまって、僕はすぐに言葉を返せなかった。

 十四歳の出会いを思い出していた。
 あんなに頑なだったのに。あんなにひずんで、やられきって、苦しそうだったのに。
 篠永の内面はやわらかくなっていた。変わらず多感なままだったが、そういう自分との付き合い方も少しは覚えたようで、優しく健やかになっていた。
 祖母の言う、年頃の娘、という言葉がしっくりくるようになっていた。
 こっちが本当だったんだと驚かされ、同時に思った。どう見たってこっちが自然だ、と。

「本当に、帰省する前に声かけてくれる?」
 僕がさっき言った言葉を思い出したのか、涙まじりの声に訊かれる。
「嫌じゃなかったら、かけるよ。高速バスのほうがいい?」
 費用は大して変わらなかったが、都心で待ち合わせしたとしてもこの町の駅までは数回の乗り換えが必要になる。
 バス停からのほうがそれぞれの家に近いし、面倒がなくていいかもしれない。
 その姿を想像したらしい篠永が、あえて少しあかるい響きで尋ねる。
「わたし達がそれやると、遠足みたいにならない?」
「確実に、なるね」
 言い合って笑った。
 能力的なものとは別に、僕達は何となく子供っぽいふたりだった。
 会話のテンポが速めなのと、話題に落ち着きがないせいかもしれない。
 ふたりで言葉でふざけあってると、周囲の知らない大人によく笑われた。

 ――まあ、ぽんぽんと良く出ること。仲が良いのね。

 僕はそれに愛想笑いを返し、篠永は恥ずかしがって下を向いた。


「でも、この町を出て行けるなんて全然信じられない。そんなことできるなんて思ってなかった。ずっとここにいるしかないのかもって思ってた」
 町を見下ろしながら彼女は言った。見える景色は、古い住宅と田畑ばかりだ。
 彼女の生まれた町。僕を受け止めた町。春の早い時間の夕焼けで、淡い金色に照らされている。
 本音を言うと、冬のほうが僕は好きだ。輪郭がはっきりしているから。
 もやもやとした、あちこちで少しずつ色々なものが育っていく春は、物事が捉えにくくて気持ちを落ち着かなくさせる。
「おまえはずいぶん夢のない家庭に住んでたんだね」
 僕が言うと、篠永は思わずといったふうにくすくす笑った。
「気持ちいいくらい、遠慮がないね」
 自分でもそう思う。
 だが、勝と幸恵の教育のせいではないのだ。
 僕は実際、よその家の親御さんを簡単に悪く言ってはいけないという躾もきちんと受けてきた。実践しなかったのには、それなりの理由がある。
 彼女がここまでの頻度でうちに通ってくるようになったわけを、祖父母も僕もよくわかっていた。
 自分の家族といることに、篠永はいつも消耗していた。
 彼女が彼らとは明らかに違う性質を強く持っているから。
 そして、そのことから可能な限り目を逸らされていたからだ。

 篠永の両親は、自分の娘の周囲とは異なる部分を肯定的な目で見はしなかった。
 若さゆえに自意識が過剰なだけで、最終的には自分達と何ら変わりのない人物だと彼女に繰り返してもいた。そうあるべきだ、とも。
 その空気の中、篠永は長所も短所もなかったことにされ自分を見失いかけていた。

 彼女が自らの家庭で強い孤立感を感じていると気づいても、うちの祖父母は彼女の家族を批判しなかった。この小さな田舎町で周囲と揉めず問題なく暮らしていくために必要なことを、商売人である彼らも同じようにわかっていたのだろう。
 だからこそ、この感情はそういうことに納得のいかない若く未熟な僕の担当だったのだ。
 自分自身でいることに、篠永は疲れきっていた。
 反抗心がなかったわけではなかったけれど、表に出したところで自分が傷つくだけだと心は閉ざしていた。

 ――少しでも批判されたと思うとだめな人達だから。違う意見を娘が持ってるってことが、もう嫌みたい。

 篠永の持っている深い諦めを見ているとこちらも悲しくなり、やりきれなさと怒りが沸いた。
 彼女は自らの両親に人格の一部を認められているものの、他の大部分に関しては今も黙殺され続けていた。
 何とか化けているだけで、普通という枠の中にはもともと入りづらかったやつだ。親御さんはさぞかし大変だっただろうと思う。
 それと同時に、娘を他の小さな何かにしながら傍に置いておくことを望む彼らを、僕は祖父母のように受け容れることができなかった。

 当然のように実家から通える大学を進学先の候補にしていた篠永に、僕はいつになく強めに理由を尋ねた。

 ――おまえが自分を抑えれば抑えるほど安心する人間のそばに、何で好き好んでいたいんだよ。もっと嘘をつかないといけなくなるんだよ。そうしなきゃいけない理由とか事情が、何かあるの?

 このときは、祖父は僕を止めなかった。
 隣に座って、同じ気持ちで彼女を見つめていた。

 篠永は少し考えたあとに、ない、と答えた。自分でも驚いていた。

 ――そっか、ないんだ。別の県の大学を選んでもいいんだ。わたし、それは最初から許されないって、思い込んでた。

「でも、進学したら嫌でも距離を置けるから。経済的にも、まだお世話になるわけだしね」
 彼女は続けた。もう何度も均した地面の上を、あまり色々考えないようにしながら歩いているような言い方だった。
 わたしはこれで今は納得してるから、西山もそういうふうに見て、というような。
 明日の朝、篠永は電車を乗り継いで三時間ほどかかる北関東の街に引っ越していく。研究者の多くいる街らしいから、この町よりもずっと暮らしやすいはずだ。
 僕も、合格した大学の近くに借りた部屋へと午後に引っ越すことになっていた。

 互いの住む場所は、乗り継ぎがうまくいけば一時間程度で辿りつく。
 それぞれの携帯電話の番号も、メールアドレスも登録しあっている。
 それでも。

「あんなこと言っておいてなんだけど。正直言うと、ちょっと心配してるんだよね」
 ガードレールをまたいで、道の端から夕暮れの町を眺めている彼女の背中に向かって僕は口をひらく。
「他のところに行って、ひとりでやっていけそう?」
 小さな背中が、動揺したように見えた。
 この町を出ることで、いくつかのしがらみからは確実に解放される。
 けれど、その先で篠永の追いかけている何かがまた彼女を人とは違う場所へ誘ってしまうのではないか。
 また孤立気味になったとしても、僕はもうそれを調整してやることができなくなるのだ。

「うん」
「今の、嘘だろ。本音を言えって」
 ガードレールをはさんで、篠永は立ったまま町のほうを、僕はそこに腰を預けて山のほうを向いていた。
 顔を合わせてしまったら、こいつはきっと何も言わない。

「――少し、怖いかな」
 篠永は、諦めたように答えた。
「大学に行くのも、その先の社会生活も、上辺は何とかできると思うんだ。でも、気持ちはずっと道のないところを歩いてるから。西山のいないところでひとりでやるの、ちょっとだけだけど、怖い」
 耳を意識的に傾けていないと聞き取れないくらいの声でしかそれを言えないのは、弱音なんて言い慣れていないからだ。

「なあ」
 この、なあ、に、彼女が振り向かないことはもうわかっていた。

 車が一台、僕達のいる場所を通り過ぎていく。
 木々に覆われていない見晴らしの良い場所だから、むこうから僕達は散歩している地元の若い男女にしか見えないだろう。
 頻繁に並んで歩くようになった僕達は、良く会う人達からは仲の良い遠縁の親戚同士ということになっている。
 僕達の町では、遠い親戚、という単語の持っている力はなかなかあなどれなくて、その一言を言えばああそうかと引いてもらえることがほとんどだった。余計な好奇心や、不快な一言を防げたのだ。何でもないことだけど、そういう小さな積み重ねに僕達は度々神経を参らせていたのだった。
 自分達の言動によって起きる周囲の反応を、僕達はいつでも最小限に留めようとしていた。
 無遠慮な小言や誤解混じりにやってくる偏見にくたびれきってしまわないよう、いつもふたりで知恵を絞っていた。外側に出す態度と、本心を注意深く分けた。

「さっきじいさんがいいところ全部持ってったから、今日は俺、むちゃくちゃ恥ずかしいこと言うことにしたよ」
 断ってから、人のいないほうに顔の向きを変える。
 三月の夕方は油断するにはまだまだ寒い。
 着ていたジャケットの襟の部分に、僕は顎を少し沈めた。
「美里」
「うん」
 彼女も、こちらを見ないままで返事をした。
「おまえがもしもこの先、見えたり感じたりする色々なことに耐えられなくなって、味方もいなくて、どうにもならないと思ったらさ――そのときは余計なこと一切考えないで、俺のところに戻って来な」
 どう言ったって、口にした先から羞恥が沸くのはわかっていた。
 だからこそ、茶化すのはやめた。
「おまえのこと、今は俺が一番わかってる。助けて欲しいときは、おまえのために俺の頭を使ってやれる。おまえが選んできたことが間違ってないって、絶対言ってやれるから」

 出会った頃、彼女は同級生の中で不恰好な振る舞いしかできていなかった。
 それを至らない自分のせいだと思い込んでいて、自らを責めていた。自分にしかない何かを持っているからこそだとは、考えてもいなかった。
 祖父が言っていた。外から見てわかりやすい才能じゃないからこそ、あの子は大変なんだと。でも必ず、あの子には何かがあるよ。

 寺院の脇の階段で彼女が泣いている姿は、僕がこの町で見たものの中で一番悲しい光景だった。
 誰にも期待なんてしていない、誰にも手渡せない、ただ自分が引き受けるしかない気持ちを、篠永はそこでひとりで吐き出していた。
 それは、身に覚えのある行為だった。
 それがどういう痛みを伴うのか、僕はよく知っていた。
 僕はそんな彼女に手を貸すことで、かつての自分のことも救っていたのだと思う。

「あーあ。さっきせっかく泣き止んだのに。俺もうティッシュないよ」
 僕は彼女のほうを見ないようにしながら、笑った。
 手を伸ばして、それを軽く握る。
 篠永の手は、僕のそれに比べて小さく頼りなかった。
「だって、泣くよ。そんな事言われたら」
 声が詰まって、最後は潰れたみたいに聞こえた。

 まだ若くて不安定な自分達を守るために、彼女と交わしたたくさんの言葉が頭の中に残っている。
 自分の抱く悪意にくたびれてしまわないように、痛みを冗談でくるんで、時にはわざとらしくはしゃいで、思春期の四年間をやりすごした。
 どこかで諦めてしまうこともできたのだ。
 あの時代の、僕達の受け付けられないあらゆる価値観に降参して、それを継承するひとりになってしまうほうが楽だったのかもしれないと思うこともある。
 考えることも感じることも辞めてしまって、教えられるまま、求められるままに譲れないものを手放して、こんなものだと色々なことを諦め悲観して、ただ受身になることだって。
 でも、僕達はそれを選ばなかった。

「西山は、出会った頃よりも頑張り屋さんになった」
 篠永に、嬉しそうに言われたことがあった。
 頭のスイッチが入っていないときは言葉遣いが特別間抜けなんだよな、と思いながら、僕はもうちょっとちゃんと説明して、と彼女に求めた。
「もともと優秀だったから、そのままでも全然生きていけちゃうんだろうなって思ってた。でも最近はもっと良くなったね。研ぎ澄まされてる感じ。前よりも、真剣に生きてる感じ」
 思い出した。十八歳の夏休みだ。
 いつもの河川敷だった。何か飲みながら、ふたりで話していたはずだ。
 互いの家からさらに少し下ったところにある大きな堤防の端に、欅の木が一本立っていた。
 何度か、そこで待ち合わせたことがあったのだ。

 ちょうど良い日陰だからと、篠永はそこにグレーと白のボーダー柄のレジャーシートを敷いていた。
 一畳あるかないかのそれに、彼女は座り、僕は足を外に投げ出して横になっていた。
 今から思えば傍目には完全にデートの形なのだが、僕達はそれにはお互い言及しないようにしていた。学校から直接並んで歩くことも、この頃には気にしなくなっていた。そう思われても別にいい、あと半年くらいでどうせ出て行く身なのだとどこかで思っていたのかもしれない。
 彼女はあの日、涼しそうなロングスカートを履いていたはずだ。
 薄いピンクと紫の混ざったような色で、歩くとひらひらと裾が揺れた。

 高校二年の夏頃から、篠永美里は驚くほどに垢抜けた。
 仲の良い友達があれこれ口を出したらしく、それに乗ったようだ。本人がその気になると、女子が変わるのはすぐなのだと思ったのを覚えている。
 髪と肌に少しずつ手を入れるようになった篠永は、夏休み明けには僕を含む何人もの男のクラスメイトを驚かせていた。
 無造作に結ばれていた髪がきれいに切り揃えられ、まっすぐになっていた。
 あんなに色白だっただろうかと、教室で誰かと喋っている姿に僕は思わず首を傾げた。
 化粧はしていなかったが、それでも与える印象がだいぶ変わっていた。
 それまでがしなさすぎただけなんだけど、と本人は恥ずかしそうだった。
 母も妹もいるのに、あまりそういうことを相談しなかったらしい。最低限のことはしてたけど、それでも無頓着だった、と。
 特別気にしなければいけないようなところはなさそうに思えたが、本人はやはり少し恥ずかしかったらしい。

 前よりも、真剣に生きてる感じ。
 ペットボトルにキャップをしながら、僕はその言葉を反芻していた。

「自分じゃ、変わってない気がするけど」
「そんなことないよ、変わったと思う」
 彼女は引かなかった。
 目の前を流れるのどかな河川にリラックスした呼吸を繰り返しながら、どこかのんびりとした雰囲気で。
 観念して、僕は正直に答えることにした。
「だって、俺が今よりずっと鈍くて野暮ったくなったら、おまえ自分の考えてること俺に話さなくなるもん。俺はもう精神的にだれるってことができなくなったんだよ」
 目の前で、彼女はきょとんとしていた。
「おまえのせいだぞ、って言ったの。わかってる?」
 顔を覗き込むようにして、僕は一文字一文字を強調しながら尋ねる。

 実際に、篠永は全然立ち止まっていなかった。
 表面上はおっとりと物静かなままに見えたが、黙々と自分の世界を深めていた。
 時には僕や祖父母の前で気を抜いてめそめそ泣いたりもしていたが、それはあくまで彼女の持っている一面でしかなかった。芯は変わらず、ひとつの方向しか目指していないように見えた。
 そんな人間が、全面的な信頼を持って向かい合ってくるのだ。こちらも、そう気を抜いてはいられなくなってしまった。

 もしも僕が彼女はこういう人物だからと油断したり、彼女との関係を過信したら。
 篠永には、その緩みをきっとすぐに気づかれてしまう。そして、少しずつ距離を置かれてしまうだろう。篠永は、自分の内側で起きていることを本当に信頼できる相手にしか伝えないから。彼女はある種の緊張感を僕にもたらす人物でもあったのだ。
 僕の中から、曖昧さや他人に対する都合の良い期待がなくなってきていた。
 無闇に、他力の幸運を願わなくなっていた。

 彼女との付き合いの中で、やがて僕は将来についても本気で考えるようになっていった。
 実際そういうことになるまで後回しにしておきたいと思うような、五年後十年後の自分に降りかかるだろうこと。それまでに出来るようにならなければいけないことや、早めに対処しておけば先々で楽になるだろうこと。
 そういう事柄に、僕は自然と目が行くようになっていた。以前の自分だったら、そこはまだうやむやにしておきたいと目を背けていただろう。自分から大人になりにいく必要を、そこまで強く感じたりしなかったはずだ。
 覚悟して向き合った将来の予想には、憂鬱な感情もついてきた。荷が重い、とも思った。それでも、自分のすべきことが理解できると頭がすっきりとした。
 ゲーム感覚で、僕はそれらをひとつひとつ攻略していくことにしたのだった。

 必要なこととそうでないことがはっきりと別れて、僕は自分の時間とエネルギーをどこに注いでいくべきなのかだんだん掴めるようになっていた。優先順位がはっきりして、自分の周りからそれまで多少は持っていた緩慢さが薄れてきた。
 そんな僕を見て、祖父母は少し僕に対する態度を変えた。
 彼らは、以前よりもより大人に近い存在として僕に話しかけるようになっていた。
 自分の中心に、色々なものが定まっていくような気配があった。
 ほんの少し、それは僕の気分を冴えさせた。

 僕の発言に数秒停止していた篠永が、やっと我に返ったような顔をした。
「鈍くて野暮ったい西山を、まず想像できなくて。あなたは最初から打てば響く人だったし、今まで出会ってきた誰より理解力があったから」
 言われる側からしたら褒め言葉にしか聞こえない、ということをわかっていない発言だ。
 本人は、事実として言っているつもりらしい。
「そっか。最近凛々しくなったの、わたしのせいだったんだ」
 ちょっと嬉しそうに言って、彼女は笑っている。
「楽しいの?」
「かなりね」
 そのまま顔を背けてくすくすと笑うので、何となく毒気が抜けた。
 籠バッグの中に、虫除けスプレーや絆創膏を入れたポーチが入っているのが見えた。
 ちょうど良いサイズだからと、祖母のあげたものだ。化粧品を買ったときにもらったらしい、白地に銀色で何かの花がプリントされたものだった。

「西山、またもてちゃうんだろうなあ」
「そんなことないって。受験生だし、そういうのはいいよ」
 川から上って来る風が心地よくて眠くなりそうだ。
 気温が高い割に湿度が低く、こういう日は外もいいと思った。
 反応がないので、目を開けて隣を見上げた。
 彼女はそこから僕を見下ろして、少しはにかんでいた。 


「二十四日、うちとすみれの店で宴会やるけど。おまえも来る?」
 電話が繋がるとすぐに本題に入るのが江田さんだ。
「ええと――そうですね、仕事が早く終われば、かな」
 曖昧に答えると、電話のむこうで彼は意味ありげに笑った。
 ここ数年、クリスマスイブにすみれさんの店は貸切になる。江田さんの周囲の人達が集まって、パーティと称した飲み会をするからだ。
 元々大きな店ではないので、その日だけはガレージと連結した仕様になる。
 貸切の看板を駐車場に掲げる必要があるのは年に二回、クリスマスと、納涼祭だった。

「別に無理にとは言わないよ。おまえまだ独身だし。彼女と約束あるならそっち優先でいけよ」
 まだ独身、という言葉の響きに、連想ゲームのように再びこの頃のことが繋がって驚いてしまう。
 店舗の棚の中から工具箱を探しながら、僕はその日周辺の予定を考えてみる。
 レーザープリンターのトナーの部分に何かが詰まってしまい、先ほどから動かなくなっていたのだ。手についたトナー汚れがスマホに移らないようにタオルを一枚はさませて会話していた。
「いや、特別予定があるとかじゃないんで」
 いつもなら打ち返せるはずなのに、今日は何となく彼に押されてしまう。
 江田さんはあまり気分の波のない人で、いつも同じだけのものを同じだけ放って生きている。
 彼の祖父譲りの、根拠のない確信じみた態度が彼の特徴だ。
 強運、という言葉を体現しているような雰囲気の持ち主だった。
「わかった。まあ適当にやってるから、気が向いたら来て。うちの妻も待ってるんで」
 おまえ本気で気に入られてるよ、得だよなあ。
 江田さんがいつものように僕をからかった。


 突然実家に呼ばれたと言って、林が地元に帰って行った。
 てっきり近場の人間かと思っていたら、富士山のほうですよ、と言われて驚いた。
 具体的に、というと、お茶のほうですと彼は答えた。焼きそばがうまいところです。うなぎの湖はもっと西です。さてどこでしょう、と。

「――なんでそんな遠方から、都内じゃなくてこっちに出てきてんの?」
 左折のためのウィンカーを出しながら、僕はそう質問した。
 外出のついでだと、駅まで車に乗せていたのだ。
 駅周辺の道路が混み合っているので、特急が出るふたつ先の駅まで行ってしまうことにした。
「兄貴がこっちにいたんです。追っかけてきたのに、逃げられまして」
 聞けば、林には僕と同い年の兄がいるらしい。
 近所の大学を出てそのまま警備会社に就職し、数年間はこの町にいたのだそうだ。

 林本人は、高校卒業後に進んだ専門学校で見事に堕落したのだという。
 自堕落な生活をしているうちに実家の居心地が悪くなり、兄のもとにほとんど家出の状態で出てきたのだそうだ。少し大きめの部屋を借り直して数年間一緒に暮らしたあとに、兄の結婚を機に一人暮らしを始めたとのことだった。
 楽器可の物件を借りてしまったせいで、家賃が割高なのだとも。
 ブラコンなのは、彼の普段の様子から想像がついた。

「一緒にむこうに帰ろうかとも思ったんですけどね。なんかこっちに馴染んじゃって。居心地いいんですよ、この周辺。真壁さんと繋がってから、商店街関連の知り合い増えたし」
 林は、大きな黒いリュックサックを背負っていた。
「あとは経済的なところなんですよね。何とかしたいんすけどね、俺、集団行動が壊滅的に苦手なんですよ。何かあんのかな」
 助手席で、林はぽつぽつ喋っていた。
 バンドメンバーが抜けるかもしれなくて、実家から急用で呼び出されてでこいつもなかなか大変そうだ。
 ロータリーで、車を停めた。林にすばやく礼を告げられる。
 黒い細身のパンツはこの時期なのに少し短くて、足首のあたりに緑のソックスの柄が覗いている。

「というわけで、明日の夜に帰ります。西山さん、待っててくださいね」
 色々おかしい、と思ったが、時間もないしと頷く。
 そのまま、茶封筒を一枚目の前の男に手渡した。
「なんでしょうか」
「なんだろ。冬季賞与的な?」
 すでに年末料金になっている交通機関もあるのだろう。
 林は、バイトと僕のところで単発の仕事をしてやっと何とか生活ができる男だ。

 林は、ぐっときましたと返してきた。深々と頭を下げて、それを受け取る。
「西山さんはやっぱり、愛の人ですね」
「そういうの俺、ちょっと苦手だな」
 わざと無愛想に答える。すぐ後ろに別の送迎の車がついた。
「俺のいないあいだに、西山さんが人生を変えてるといいんだけどな。でも一日しかねえからなあ。明日の夜、作戦会議しましょう。地酒を土産に買ってきます」

 ドアを開けながら、林は言った。
「西山さんには、幸せになってもらわないと困るんです」
「理由によっては礼を言うけど?」
 そうはならないだろうな、とどこかでわかっていたが、訊いた。
「だってそうじゃなきゃ、俺、そこにぶらさがれないでしょ。では殿、行ってまいります」

 おい、と言い返すところでドアが閉まる。
 林は一度頭を下げてから、くるりと身をまわし駅の入り口に向かって歩き出していた。

 自分が地元で最も強く関わっていた人間が群を抜いて浮世離れしていた人物だったと改めて気づくまで、あまり時間はかからなかった。

 都心にある大学に入学して、生活はがらっと変わっていた。
 新生活の不慣れなところをようやく抜け、人の多い街にも、時刻表を見る必要のない頻度で走っている電車にも違和感を感じなくなっていた。
 十九歳。
 人の中に埋もれることの安心感を、僕は初めて感じていた。地元で生活しながら纏っていたあらゆる属性を一息に手放せた気がして、とてつもない解放感を感じたのだ。

 自分よりもはるかに優秀なのが一見してわかるような連中の前で、僕は神童という肩書きをすっかり捨て去ることができていた。
 それが焦りにならなかったところが、何となく自分の性格だとも思っていた。あれだけ褒めそやされ期待もされていたけれど、所詮は飛び道具に頼っていただけだった、と。
 噂話の種を長く提供し続けてきた家の事情も、ここではまるでなかったことにできた。 
 進学のために上京した、ひとりの男子大学生。
 抱えている事情や背景なんて必要としない、大多数からされるその気軽な扱いに、僕の肩の力は自然と抜けていた。

 決めていたことはいくつかあった。
 何があっても、留年はしない。好きなことに関するバイトをする。
 そして数年後、この街を離れるきっかけになるだろう出来事に、できるだけ備えておく。

 周囲がまだ出会っていない何かに対して期待に胸を膨らませている中、自分の考えていたことは何て地味なんだと笑ってしまったが、生活には満足していた。
 周りの浮き沈みある学生生活とは異なっていたけれど、自由な空気の中にいるだけでも似たようなことをしているような気分になった。
 勉強の合間、僕は好きな音楽に溺れ、その手の店でアルバイトを始めた。
 グランドピアノのある、カフェを兼ねたアットホームなジャズバーだった。裕福な夫婦の経営する小さな店だったが、運良くスタッフ募集の張り紙に気がついたのが幸運だった。
 始めは裏方として入ったものの、年配の人の扱いに異様に慣れていることがきっかけでやがて店にも出るようになった。
 七十過ぎの白髪の常連客の一人が、終活のために捨てようとしていた電子ピアノを譲ってくれた。
 週に二回その店に弾きに来ていた師に、それなら俺が叩き込んでやると酔った勢いで言われたのも、そのあたりだ。

 篠永とは、たまに連絡する程度の付き合いになった。
 むこうも慣れるべき新生活があると思うと、なかなか連絡ができなかった。
 普段あんなに抽象的な世界に生きていながら、彼女は勉強に関してはやはり理系寄りの人間だった。彼女は化学系の学科に進学していた。

 ――人間関係が、びっくりするくらい楽。女の子少ないから、自然と仲良くなった。

 ある夜にかかってきた電話で、そう言っていた。夏の入り口で、篠永は家にいた。
 僕は家に帰る途中で、高い声を聞き取るために携帯電話を手に脇道へと入っていた。
 元気そうな声だ、と思った。
 一人暮らしになったのも、きっと良かったのだろう。
 
 ――まだ数ヶ月だけどね。楽しいなって思ってるよ。こっちに出て来て良かった。まだ話はしたことないけど、共感できそうだなって思うような人がたくさんいるの。
 ――やっぱり、俺が言った通りだったろ。おまえ外に出るべきだったんだ。
 ――うん。わたし全然気づいてなかった。西山には敵わないなって、いつも思ってる。

 飲み会で、うっかり口を滑らせたことがある。
 早い人間が四杯目を飲み始めた頃で、僕も三杯目のチューハイを半分ほど空けていた。
 そこまでアルコールに強い体質ではないとわかっていたくせに、その日はつい周囲のペースに合わせてしまった。
 女子が三人ほど前にいたから、クラスの集まりだっただろうか。
 当時の僕は、周囲から『ノリが悪いわけではないけれどあまり表立ってはしゃがない、大人っぽいけど純情そう』という扱いを受けていた。そう振舞う必要がなくなってからは、さすがに王様とも言われなくなっていた。

 目の前の女子のひとりが、いわゆる男好きするタイプだったことは覚えている。
 岩下とか、岩田とか、そういう苗字だったはずだ。
 男女の関わりに関して、自分が周りよりも数歩前に出ていることがわかっているという感じの子だった。
 どんな経験をしてきたのか聞くつもりはなかったが、自信がありそうな態度で奥手な女子達に一生懸命何かを語ったり、いじっていたりするのを見かけたことはあった。鋭い言葉に笑いが起こることも多かったが、言われる側の女の子の中にはあとで泣いた子もいるんだろうなと思わせる類の台詞も多かった。

 斜め向かいの、大木という男の話を聞いていた時だ。
 胸元に入れていた携帯電話が鳴ったことに、僕は気づいていなかった。
 あの頃の主流だった、折りたたみ式の携帯だ。

 薄手の、水色のシャツを着ていたはずだ。
 ポケットの中で光が点滅しているのを例の岩下さんが気づいた。

「西山くん、鳴ったんじゃない?」
 指差されて、僕もやっとそれに気がついた。彼女に礼を告げて携帯電話を取り出す。
 大木の話はまだ続いていた。
 バイト先にこの頃よく現れるという、変わった雰囲気の中年女性の話だった。

 それは、メールの受信を知らせる光だった。
『篠永美里』
 名前を見た途端に、僕はおそらくとても急いて携帯をひらいてしまっていたのだ。
 酒が入っていたのと、困ったことがあったら連絡するようあいつに繰り返していたのもあった。心配な感情が、そのまま言動に出てしまった。
 慌てて読んだメールの内容は、何てことはない、帰省に関することだった。
 どの日に戻るつもりか教えて、と昨夜こちらから連絡をしていたのをすっかり忘れていた。
 ほっとして我に返ると、目の前で頬杖をついた岩下さんがにやにやと笑っていた。

「――何か、すごい珍しいもの見た」
 岩下さんに言われて、僕は彼女が僕のした一連の行動を見ていたことに気がついた。
「いや、その」
 しまった、と頭の中で声がした。
 あまり隙を見せたくない相手だと思っていたのに。
「今の、女の子の名前だったよね?」 
 彼女はあっという間に席を移動した。
 テーブルの端に座っていた僕の、すぐ左にするっと入って来る。
 わくわくした目で、岩下さんは僕を見ていた。彼女もかなり酔っていたのだろう。
「西山くんって、そういう話全然しないから。興味ないのかなって思ってた。彼女って、学外の子? いつ出会ったの?」
 岩下さんに慣れた感じでそう問いかけられて、言葉を失う。
 どこか見下されてそうだな、という感じは正直あったのだ。いつか標的になりそうだと思い、あまり深い話をしないようにしていた。彼女のこなれた恋愛観に無遠慮に自分をジャッジされそうな気がして、正直に言えば避けていた。

「いや、ただの地元の友達だよ」
 最初から結論を言ってしまうことにした。
 それまで気にならなかった周囲の環境が、突然不快に感じられるのが不思議だった。
 座っている座布団が少し湿って感じること。テーブルの端にお絞りのビニール袋が溜まって、グラスからついた水によってべたっと絡み合っているように見えたこと。
「そういうふうには、見えなかったよ?」
 声を少し上ずらせて、岩下さんは首を傾げた。
 目の周りを、太い線ときらきらした化粧が囲んでいる。
 強気な顔立ちは元からなのだろうか、それとも作っているだけなのか。

 目の前で露骨な関心を持たれながらじっと見られて、判断が鈍ってしまったのかもしれない。
「ちょっと、心配なやつだったから」
「心配って?」
 それが結論なんだからそれ以上追いかけてこないでくれよ、と思いながら、会話をどうにか切り上げたくて、僕は最後だと口をひらいた。
「中学時代からの付き合いなんだけど、あんまり世慣れてない感じの子なんだ。大人しいから、変なことになってないかたまに気になって」
 口にしながら、篠永の様子を想像した。
 元々、人が理性的でなくなる姿を必要以上に怖がるやつだ。なるべくこういう場所には行かないようにしているだろう。繊細な人間同士で、静かな店で食事するついでにちょっと飲むくらいがあいつには向いている。
「えー、何それ」
 理解ができないという顔で、岩下さんは言った。
 強く放たれた声の中に、批判めいた冷たさを感じた。
「それで、男の西山くんに色々頼ってるの? 他にも同級生いっぱいいるのに? 女の子でもいいわけじゃん。付き合ってるわけでもないんでしょ。なんで?」
 そうきたか、と思うと同時に、それ以上の理解に諦めがついた。言っても仕方ない相手だ、と。
 岩下さんは、篠永にとっての「向こう側」の人間なのだ。
 高校のクラスにもそういう子たちはいて、いつもうっすらと彼女達からの対立を感じていた。岩下さんが男女間で本当の友情なんて成立しない、と言ってたのを聞いたこともあった。何らかの駆け引きのある関係だと思ったのかもしれない。

「たまたま、だよ。気が合ったってだけ。もうこの話、いいよ。何かすごい身内の話っぽいしさ」
 僕はさりげなくそう告げて、顔の向きを変えて大木の話に合流しようとした。
 そう、したのだ。
 岩下さんは、会ったこともない篠永美里に対して確かな悪意を向けていた。
 明らかにそれまでより大きな声を出した。いっやあ、と。
「それ、絶対計算だよ。西山くん利用されてるか狙われてるよ。ね?」
 そこにいるふたりの女子に向かって、笑いながら同意を求める。
 ひとりは同じように頷き、もうひとりは彼女をたしなめた。
「岩下、もうやめなって。今日相当酔ってるよ」
 席が離れているぶん、何もできなかったのだろう。
 こっちの席に戻りなよと、岩下さんのために少し場所を空けてくれたけれど。

 それでも、岩下さんは引かなかった。
「いやいや。だって、ねえ? それでわざわざ西山くん選ぶって相当だよ。その人、かなりのあざとい系じゃない? 相談って形使ってるだけだって。実際はすごい強かだよ」
 だんだん声が大きくなってくるので、話がテーブルの中央のほうまで届いてしまう。
 少しずつ周囲が彼女の話に耳を傾け始めているのが伝わってきた。
「――岩下さん。その辺で、もう勘弁してもらえないかな」
 そもそも最初に僕が声をかけなければ篠永とは仲良くなることなんてなかったのだ、と伝えれば良かったのかもしれない。頭が回らなかった。回っていたとしても、話した先から岩下さんの解釈によって話が淀んでいきそうな気がした。
 自分だけは騙せない、という表情の彼女に、伝えたいことが伝わるとはもう思えなかった。

「ほら、岩下。知らない相手なんだからその辺にしときなって。西山くん困ってるよ。ごめんね西山くん、この子飲みすぎてる。今日ちょっとおかしいの」
 わかってる、大丈夫だから、という意味の手を振った。
 本当に、酒のせいなのだろう。
 普段の彼女がここまで感情的ではないことも知っていたし、彼女の中に今映っているのは彼女の苦手とする、大人しそうに見えて人をコントロールするのが得意な、絶対に損をしないように振舞えるある種の女性達のことなのだろう。
 篠永には、そういうところはまるでなかった。
 それができるところまで普通の人間関係が把握できていたら、あいつはそもそもあんなことにはなっていなかったのだ。

 おかしい、という言葉が良くなかったのかもしれない。
 岩下さんは余計意地を張ったような態度になった。
「別におかしくないよ。ていうかまずね、男に普通にそういう相談メールとかしてる時点で、純粋でも何でもないから。計算だよ。あざとい側。そんなことする、ええと、世慣れてない女? とか、普通にいませんから!」
 冗談じみた彼女の大声に、わけもわからずの空気であれその場はどっと沸いた。

 テーブルを蹴飛ばさずに済んだのは、あぐらをかいていたからだ。
 膝を立てていたら、やっていたかもしれない。

「いや、あんまり一緒にしないでくれよ」

 口にしてから、声に思った以上の怒りが篭ってしまったと気づく。
 何人かは僕の言葉に笑い、空気を読む力が残っている何人かが、まずい、という表情を顔に浮かべた。

 でも、それだけだった。
 やりすごすことができたのは、想像がついたからだ。

 自分のすぐ後ろに、あいつが居るような気がした。
 僕の背中に隠れて、想像の篠永は身を縮めていた。
 少しだけ泣きそうな顔になって、でも口元だけはわずかに笑っている。
 こんなの初めてのことじゃないよ、もう慣れてる、と言いたげに。
 そして言い返そうとしている僕の後ろから、背中に触れつつ小声でこう言うだろう。
 
 ――西山、もういいよ。もういいから。ねえ、もう帰ろう。

 僕はひとつ呼吸を取りなおしてから、
「でも、岩下さんさすがだな。そこまで言われ続けると、確かに俺騙されそうだなって思っちゃうよ。こう見えて『純情』だからさ」
 ここで笑ってくれというサインを出して言ったおかげか、周囲の何人かがそれに合わせて声をあげてくれた。わずかにこめた皮肉に、気づかれることもなかった。
 若干のわざとらしさのある笑いの中で、岩下さんは決まり悪そうに黙り込んでいた。

 帰り際、彼女の友人に謝られた。
 君が悪いわけじゃないでしょ、と言ったが、申し訳なさそうな顔をしていた。
 岩下、その子が西山くんに本当に大事にされてるのがわかっちゃったんだろうね、と。西山くん、話しながらすごく優しい顔してたから。
 あの子ね、最近浮気されて別れたばっかりなんだよ。
 相手社会人で、本気だったみたい。むこうはそうでもなかったっぽくて。
 そうなんだ、と答えたけれど、それは自分でも驚くほど感情が篭らない虚ろな返答になっていた。
 
 解散してすぐに、僕は道の端で篠永にメールを打った。
『あとで電話する。予定なかったら、そのつもりでいて』
 歩いて帰るあいだに、酔いも覚めるだろう。
 あの場を台無しにしてでもいいと思ったほどの強い怒りも。

『了解 あとでね』
 短い返事に、ほっと息をついた。
 あいつの、俗っぽさを感じさせない声を聞きたかった。
 
 僕はその日以来、篠永の話を打ち解けていない他人にするのをやめた。

07|境界線

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 僕が二十五歳を迎える直前の春、祖父が性質の悪い風邪を引いた。
 眠っているあいだに布団を落としてしまったらしい。冷えた身体が発熱するのはすぐだった。
 痰が絡んで、そのまま気管支に入ったという。年寄りの身体は肺炎になると命取りだ。

 金曜の夜に仕事を終えて飛んで行くと、熱は下がっていたもののごろごろとした音を胸元から出していた。
「薬は、ちゃんと出てるの?」
「錠剤と吸引のがね。どんどん痰を出さないといけないんだけど、力が出ないのよ」
 祖母が困ったように言う。
 まめに身体を起こして、背を前に倒させたりさすって叩いたりするように言われているらしい。
「そこまで重度じゃないからって言われたけど、ひどくなったら入院みたい」
「まずいな」
 祖母の作った煮物を、僕はテーブルに運びながら答えた。
 朝に、駅のコインロッカーに荷物を預けていた。スーツのまま、職場から実家に向かっていた。
 置きっぱなしにしていたパーカーとスウェットに着替えて、やっと気が少し落ち着いていた。
「いつもならこんなことしない人なんだけどね」
 味噌汁を器に注ぎ入れながら、祖母は静かに答えた。

 祖父と同い年の親友である江田秀雄さんが、前の年に亡くなった。
 夏の暑さに身体がついていかず、脱水症状を起こして倒れたのだ。
 入院して点滴を入れたが、意識は戻らなかった。
 葬式のために戻ると、江田さんはすみれさんと一緒にずっと働き続けていた。僕を見つけると、おまえも来てくれたんだなと背中を叩かれた。

 ――江田さん。本当に残念です。
 ――ああ。夏なんて、毎年笑ってやり過ごしてた男なのにな。

「そろそろ、俺戻って来るよ。いや、遅いくらいだけど」
 食卓には、焼き魚と納豆、ほうれん草のおひたしと惣菜のから揚げが並んでいた。
 きっと、最後のは僕のために近所まで買いに出たのだ。言ってくれれば駅前で何だって買って来るのに、祖母はそういうことを僕にさせるのを嫌がる人だった。
「せっかく、良い会社に入ったのに」
 祖母は胸を痛めたような顔で、俯いた。
「そんなに大きくない会計事務所だよ? お世話になっておいて言うのもあれだけど」
「本当よ。私達にとって、内定の知らせがどれだけ嬉しかったか」
 味噌汁の入った椀をふたつ盆に乗せて、食卓に置く。それを受け取って、向かい合わせに並べる。
 祖父はすでにベッドで食事を済ませていた。薬を飲んで、うとうとしている。
「でも、二年もむこうで働かせてもらったから。もう充分だ」
 炊飯器の前に移動して、蓋を開ける。
 昼にむこうから連絡をしたので、それから三合炊いたのだろう。

 好きなだけよそって食べなさい、と祖母が言うので、言うとおりにした。
 どれくらい食える? と尋ねると、祖母は半分くらい、と答えた。
 小さな茶碗にたった半分。二口ぶんほど多めによそって、確認させずに食卓に運ぶ。
「苦労かけるわね。仕送りまでしてもらってたのに」
「俺は孫だよ? 二世代ぶんもずっと子育てして、こっちに何もさせないつもりじゃないよね?」
 笑って言ったが、祖母の表情を変えることはできなかった。
 僕を引き取らなければ、彼らは今頃どこかの高齢者向け住宅でふたり仲良く暮らせていたかもしれないのだ。
 少しだけ様子を見て、また連絡するからそれまでは動かないで、と言われた。もしかしたら、すっかり治るかもしれないから。
 頷きはしたけれど、頭の中で段取りはどんどん進んでいった。

 週末の二日間を実家で過ごし、日曜の夜に東京へ帰った。
 翌日のごみ収集のためにまとめておいたものを袋に押し込めたが、半分ほどの余裕があった。
 すぐに捨てられるものを探して、ビニール袋を持って歩く。

 篠永から着信があったのは、そのときだった。

「ねえ、おじいちゃんどうだった?」
 久しぶりに聞いた声は、心配そうだった。
「いくら勝が好きだからって、繋がってすぐ本題に入るなよ。久しぶりの俺にご挨拶は?」
 携帯を頬と肩に挟んで、僕はふざけてそう言った。
 キッチンの脇に置きっぱなしにしていた何かの箱を見つけて、拾い上げる。
「こんばんは、西山くん。ご無沙汰しています」
 篠永は恥ずかしそうに、言い直した。くんがついたのは久しぶりだ。
「久しぶり。最近あんまり連絡来なかったな」
 箱を潰しながら答える。
「うん、ちょっと忙しくてね。それで、おじいちゃんは?」
 ご挨拶、したんだからもういいでしょう、という感じで彼女は同じ質問を繰り返した。
「おまえ雑談する気ゼロか。せっかちなところなんてなかったのに」
「だって、文字だけだと重症なんじゃないかなって、心配で」
 少し肩をすぼめているところが想像できるような物言いだった。

 大学のあった街がとてつもなく気に入ったとかで、篠永はそのままその土地で就職してしまっていた。
 院には進まず、化粧品メーカーの研究室で研究開発の仕事をしているらしい。
 学生時代と変わらず帰省の時には声をかけるようになっていたが、休みが合いにくくなり、最近はそれぞれが別口で帰ることも多かった。ひとりの時も、彼女は祖父母のことを気にしてうちに立ち寄ってくれている。

「気管支炎になってた」
 あまり重くならないように言えれば良かったのだが、そうもいかなかった。
 電話のむこうから、はっとしたような息遣いが聞こえた気がした。
 近所に住んでいた自分の祖母を、彼女は中学時代に亡くしている。何かと手伝いに行っていたらしいから、色々わかっているのだろう。

「まだ、ばあちゃんには動くなって言われてるんだけどさ。俺、来月あっち帰るわ。じいさん、これから自力での生活しんどくなってくと思う」
 篠永に告げると、実際にそういうふうに現実が動き出すような気がした。
「西山」
「大学出て、二年もこっちに居させてもらったんだ。充分だよ」
 祖母に言ったのと同じ言葉を繰り返した。

 自分が優秀な学生だったかと尋ねられたら、はいとは言えない。
 大学には、芯から賢い上に意欲的な連中がごろごろいた。遠くない未来に頭角を現すのが目に見えているような、溌溂としてエネルギーにあふれた学生達だって。
 僕はその中で淀むことはなかったが、特別冴えていたというわけでもなかった。
 専攻していた社会経済学は自分には向いていたが、やはり丸暗記しては頭の中でそれらを繋ぎ合わせることばかりしていた。 

 入学当初に決めたことは、何とか達成できていた。
 留年はしないで済んだ。音楽に関わるバイトは、意外にもそのレッスンがおまけとしてついてきた。年上の常連客からいわゆる大人の趣味というようなものもいくつか教えられ、運転手の名目で学生では簡単に入れないような場所に足を踏み入れたりもした。
 奥様方の『引率』として、歌舞伎だのクラシックコンサートだのにも着いて行った。帰り道、若いからという理由で面白がった彼女達に死ぬほど食べさせられたり、突然恐ろしく高価なイタリア製のジャケットを土産にもらったりもした。そんな僕を見て、店の隅で飲んでいた師匠が笑った。どぶ鼠から貴族までって、おまえ前世で何したの?
 もう少し、場末っぽい雰囲気のあるジャンルかと思っていた。
 働き出した店が高級志向だったのは、ちょっと想像していないことだった。
 田舎の貧しい商店の息子だった僕がその世界に夢中になることはなかったが、良い勉強にはなった。裕福な人達はあかるく親身で、どことなく透明に見えた。あの独特の雰囲気は、地元にいたらわからなかった。

 いつか祖父母の元に帰る日のためにと、僕はその手の市民講座にも足を運んでいた。
 相変わらず知的好奇心の強い篠永は、わたしも行きたいと行って何度かそれについてきた。市役所や都内のホールのパイプ椅子に並んで座り、僕達は医師や介護福祉士の話に揃って耳を傾けた。数日の講習で取得できる資格を取ったりもして、これじゃ認定証コレクターだと笑っていた。
 就職を、こっちでしても良いか迷った。
 先に地元に戻ってしまってから仕事を探すべきか考えていると、祖父母はそこまではまだ大丈夫だと笑った。俺達が頑張れてるあいだにおまえが帰ってきたら、反動が一気に出るぞ。もうちょっと、そっちで頑張れ。
 嘘みたいな話だが、バイト先に良く現れていた大学のOBだった公認会計士が助手として来ないかと言ってくれた。気骨ありそうなやつが欲しかったんだ、西山はその辺が何か古風なんだよと笑っていた。就活が二十分で終わるなんて何て強運なの、と当時の篠永に笑われた。
 学生でいるよりも、それは自分に向いていた。
 二年間、僕はひたすら仕事に打ち込んでいた。

「そっか」
 電話のむこうで、彼女が元気をなくしているのが伝わってきた。
 ビニール袋を一旦そこに置いて、僕も、意識を胸に集中した。
「ついに、そういうときが来たよ」
 笑って言ったが、うまくいかなかった。
「そうだね。お年の割にはふたりとも元気でいてくれてたからあまり考えてなかったけど、ふたりで頑張って元気でいようとしていたんだろうね」
 声が、途端に優しくなった。
 こういうときの篠永の声は、心にそっと入って来る。
 僕の中に入って、自分に差し出せるものがないか思慮深く探そうとする。
「そうだろうな」
「西山がこっちで立派に働いてるってことが、おじいちゃんにもおばあちゃんにも、励みになってたと思うよ。それに、これから帰ったらすごく頼もしいはずだよ」
 胸の中に、淡い桃色の声が優しく入って来る。
 言葉を使って、彼女に気持ちをほぐされている気がした。
「だといいけど」
「西山、頑張ってたよ。そんなに働いたら身体壊しちゃうんじゃないかと思ってたくらいだった」
「このくらいじゃ大丈夫だよ。俺丈夫なほうだもん」
「でもこれから、また頑張らなきゃいけなくなっちゃうんでしょ?」
 困ったような顔で笑っている表情が想像できた。
 篠永と話していると、あっという間に不要なものが削ぎ落とされていく。
 騒がしい現実の中から、彼女は静かに大事なものだけを取り出し続けていた。
 離れて暮らして六年。会う回数は少し減っていたが、変わっていなかった。
 それどころか、より洗練された形で彼女の内側はしなやかになっていた。
「覚悟は、してたから」
 素直に告げると、彼女は静かな声で、うん、と言った。

「ねえ」
「なんだよ」
「ねえ、西山くん、西山くん」
 篠永が繰り返した。ちょっとふざけた声だった。
「どうした? ちゃんと聞いてるよ」
 少し笑うと、彼女も同じ反応をした。
「わたしも、またそこに参加してもいい? 前よりはたまにになっちゃうけど、少し離れているけど。また、四人家族みたいに西山家に入っていってもいいかな」
 篠永は、僕にそう尋ねた。
「大変だよ。おまえ離れてるし」
「大丈夫。こっちの駅からも、去年から地元に直通バス出るようになったの。それに、西山はわたしに本当の無理はさせないもの」
 そうでしょ、と言いたげな目を思い出した。
 篠永の表情は、どんなものでも思い出せた。
「だろうね」
「わたしまた、皆でご飯食べたりしたい。今度は洗濯したり、掃除したり、おかずを作り置きしたり、そういうこともしたい。まだあのふたりに、わたしお返ししてないの」

 それにきっと、四人で居られるのはこれが最後だから。
 そういうふうに、胸の中では思っていたのかもしれない。

「俺、断らないよ。いいの?」
「断ってほしくない。断られたらわたし、けっこう本気で怒るかも」
 篠永は言った。
「篠永に? 怒られたくないなあ。わかった。でも自分の生活を崩すまではだめだよ。それはやらないって、約束してくれる?」
「うん」
 篠永は、あっという間に十七歳くらいに戻っていた。
 誠実で、愛情深くて、素直だった。

「――俺、今ちょっとおまえのこと抱きしめたいわ」
 冗談のように言ったけれど、本心だった。
 電話のむこうで、彼女が照れたように笑った気配がした。


 翌月、久しぶりに篠永が僕の住んでいた部屋を訪ねて来た。
 引越し作業の手伝いに来たと言い、彼女は部屋をきれいに磨き上げてくれた。会社によるけど、きちんと掃除しておくと敷金返却の判断が違うこともあるみたいだよ、と。
 大学を出てから社会人向けのコンパクトな1DKに引っ越しして学んだらしい。

 勤務先の会社の洗剤まで持参して、壁も建具も磨き疲れてしまったのだろうか。
 二十時半、彼女は僕の部屋の分厚いラグの上で小さな寝息を立てていた。

 ――こんな珍しいことがあるんだ。

 小さなランプを点して、僕は天井の電気を消した。
 起こしてしまうかと気にしながらも、部屋の隅では寒いだろうとラグごとゆっくり引っ張って部屋の真ん中に運んだ。
 ん、という声を出したが、篠永は起きなかった。
 大判の毛布を彼女にかけ、何かでもらったままだったクッションを首の後ろに入れてやった。
 小さな頭をそっとずらすと、まとめて留めてあった髪の束が僕の指に絡まる。

 篠永の寝ている脇に、僕は頬杖をつく形で同じように横たわった。
 出会ってから十年、寝顔を見るのは初めてだった。

 うつぶせになる手前くらいの姿勢で丸まって寝ている姿を、可愛いと思った。
 今までも何度も思ってきたことだったが、そのときも、強く思った。
 
 ――俺、気を張ってたんだ。
 
 彼女の寝顔を見て、僕はやっと、それに気がついた。

 地元に帰れば、しなければいけない多くのことが待っている。
 自分には出来ないかもしれないとは思っていなかったが、力が入りすぎていた。
 篠永の寝顔を見て、驚くほど心が緩んでいた。安らいでいたのだ。

 篠永美里は、信頼関係を結べばひたすら可愛げのある人物だった。
 大人になった彼女は大抵のことは自分でできるような器用さを発揮するようになっていたが、根元のところは変わらず妙に透明なままだった。
 自分から僕に甘えてくるようなやつではなかったが、僕のことを信じきっているのは手に取るように伝わってきた。
 その迷いのない信頼が、彼女を妙に可愛く見せた。
 僕はそれに、自分でも驚くほど癒されていたのだ。

 わたしは自分の見たいものをきちんと見るために、頭の中を常に片付けておかなきゃいけないの。
 彼女は良くそう言っていた。シンプルにしておかないと、見えないくらい細かい場所にしかわたしの知りたいものに近づけるヒントがないから。
 そう口にする篠永の中には、彼女によって作られていた浄化槽のようなものがあった。
 故郷の町の、あの寺院と同じ役割をするものだ。自分の中に堆積しそうになった暗く重いものを、それを使っていつも浄化していた。
 その浄化槽はすべてを一度に清められるほど力強くはなく、時には時間をかけていることもあったが、絶えず動かし続けていた。
 自分の内側が濁ってしまうことを、あいつはとても怖がっていた。
 そうなるくらいなら、多少弱くても世間知らずに見えても、透明なままのほうがいい。

 彼女はこうも言っていた。
 わたしができるだけ素直でいようとするのはね、それがわたしの目指している場所へ辿りつく一番の近道だからって、どこかで思っているからなんだよ。
 ネガティブな感情だっていっぱい沸くよと笑って言っていたが、それを自力で管理しつづけているぶん、表には滅多に出てこなかった。

 二十分ほど前、ピンクの花柄のシュシュがひとつベッドの下から出てきた。
 篠永が、眠そうに瞬きを繰り返していた時だ。
 彼女に見えないように背を向けて、僕はそれをごみとしてビニール袋に押し込んだ。
 元々の持ち主はもう忘れている。覚えていたとしても、連絡してくることはないだろう。

 この部屋に住んでいるあいだに、三人の女性とそういう関係になった。
 大学の同級生。後輩。友人の友人。
 皆、同じタイプの女性だった。
 色白で物静かな、高く小さな声で喋る優しい感じの子。
 僕がつい気になってしまうのは、そういう女性ばかりだった。

 一年以上一緒に居た相手はいなかった。おそらく、一番長くて十ヶ月だ。
 学生らしい絵に描いたような恋愛というものも経験したけれど、始まりも終わりも、相手からだった。
 笑って去って行った子がひとり、怒りに青くなっていた子がひとりいた。
 あとのひとりは、苦しそうだった。

『泰智くん、いつも優しかった。でもそれ、わたしだからでも、わたしにだけでもないよね?』

 違う、とは言えずに謝ると、彼女達はもうたくさんだという顔をした。
 
 寝顔を見ながら、眠ってしまったらしい。
 もう一度目が覚めたとき、自分の身体にも毛布がかかっていた。一度起きて、篠永がかけてくれたのかもしれない。ヒーターはついていたが、足先は冷たくなっていた。
 厚手とはいえ、ラグの上だ。
 腰の辺りが重いと身じろぎしようとして、はっと気づいた。

 篠永を、腕に抱いて寝ていた。

 驚いたが声を出すわけにもいかず、そこでしばらく硬直した。
 時計の針は、午前三時を差していた。

 ――何も、してないよな。

 咄嗟に、互いがしっかり服を着ているかを確認してしまう。
 アルコールも入ってない状態で、記憶が飛ぶこともないだろう。
 まずは安心だ、と思う自分を笑ってしまう。
 そういう衝動なんて、今までいくらでも抑えてきたのに。

 腕の中にある、小さな頭を見ながら思っていた。

 ――今の俺じゃ、おまえの負担になるだけなんだよ。

 自分と彼女の抱えている事情を考えると、そこにはどうにも踏み込めなかった。もう何年も、そうだった。
 諦めようとして、他の女性には手を伸ばせたくせに。
 篠永よりも美人だと思われるような女性とも、感じのいい、周りの男から一番人気だった相手とも付き合ったのに。彼女達がそれぞれ持っていた魅力を、確かに好きだと思ったはずだったのに。
 それなのに、誰もこいつに代わるような存在になんてならなかった。

 彼女が起きて動揺する前に身体を離しておかなければと、腕から動かそうとした時だ。
 篠永が、うん、と唸った。
 起こしたか、と思って一旦腕を止める。
 寝息が戻ったのを確認して、もう一度ゆっくり背中から手を離す。
 途端に、身じろぎが伝わってきた。目を閉じたまま、彼女は腕を上げて小さな手で僕を探していた。
 そして僕の二の腕の辺りを探り当てると、そこをきゅっと掴んで、額を押し付けるようにしてしがみついた。

 ――やだ。

 寝言だったはずだ。目を閉じたまま高い声で、寂しそうに言った。やだ。
 離れたくないと、眠ったまま彼女は主張していた。

 自分が笑いたいのか泣きたいのか、わからなくなった。
 あの町とは違う場所で、篠永は居場所を見つけたと思っていた。
 大学で気の合う友人もできて、好きな環境で良い仕事に就いて、もう自分はひとりではないと安心できたのかもしれないと思っていた。
 彼女の仕草で思った。
 ただの勘違いだったのかもしれない。
 まだまだ、ひとりぼっちのままなのか。あの頃みたいに。

 もう一度、背中に腕を回した。今度は意志も感情も込めた。
 腕の中にいる彼女の頭を、起こさないように撫でていた。
 聞こえないほどの小声で、ようやく口にした。

 うん。俺も嫌だよ、離れるの。
 だからもうちょっとだけ、こうさせて。今だけだから。
 

「あんなに慌ててたのに、すっかり忘れてるとかおかしくない?」
 久しぶりにうちにやって来た高城有紗に、紙袋を手渡しながら尋ねた。
 玄関先に立っているのは、二十歳を過ぎたばかりの小娘だ。
 不満を告げるよりも先に、しっかりしろよ、という気持ちが出てきて笑ってしまう。
「すみません、きれいに忘れてました。クリスマスに着ようと思って探してたんですけど、見つからなくて。良く考えたら西山さんの家に置きっぱなしだって」
 玄関先で、彼女は右手で髪を右耳にかけながら照れたように笑っている。
 少し見ないあいだに、髪の色が白に近い金色になっていた。

 篠永姉妹がうちに本を借りに来た数日前、新曲が出来たからと林と祐樹がやって来た。
 いつもならうちにまでは顔を出さない高城有紗は、その日予定がなくなったとかで彼らについてきたのだった。

 スマートフォンで撮影された、レンタルスタジオで演奏したらしいその曲は、彼らの言うとおり悪くなかった。
 僕には馴染みのない分野だが、祐樹には確かに作曲の才能があると思う。最初からバンドの音で曲が浮かぶのだと言う彼は、パソコン一台で先にすべてのパートを同時進行で打ち込んでしまうらしい。
 前のより全然いい、と答えた。
 前回持ってきた曲も個人的には好みだったが、聴く人を選ぶな、とも思っていたのだ。

 祐樹は珍しくいつもよりはしゃいで、これで天下取れますかね、と僕に尋ねた。
 そこまでの保証はできないよと返すと、彼は続けた。
 西山さんってこういうところシビアなんだよな、夢も見れねえ、と。
 僕は目利きでもその業界のプロでもないと知っているのに、彼らは年長者の僕をそれなりに頼りにしてくれているらしい。搾取の気配が、しなくもないが。
 いつものように、名曲誕生記念に何か食わしてください、と言う。
 林がすかさず付け加えた。西山さんの手料理で、と。

 三十手前の男の手料理をうきうき頼んでくる林があまりに愚かに見えて、僕はつい同情してしまったのだ。

 ――林、おまえはやっぱり少しおかしい男なんだね。かわいそうに。いいよ、三日後の夜とかなら。

 日付を設定しなおせば「やっぱだるいっすね」とか言いながら断られるかと思ったのに、誰も反対しなかった。
 墓穴を掘ったかと思いながら翌日商品発送のために外に出ていると、篠永からメッセージが入った。おじいちゃんの本、借りたいんだけど。
 僕はすぐにかけなおし、その食事に彼女を誘った。

 高城有紗がその日着てきた長めのワンピースは、暗い紫色のものだった。
 キッチンの作業台に近づいたときに何かにぶつかったらしい、スペアリブ用のソースを、膝の周辺に大きく零した。
 全員がああ、と同時に声をあげた。もちろん彼女も取り乱していた。

 ――西山さん、何でも良いんで服貸してください、服。これ『ジル』のなんです。やだ、染みになっちゃう。

 慌てて洗面所に向かって行くので、右の棚にある化粧落としを使っていいと告げた。
 祖母が使っていたものだったが、彼女もよくつけたばかりの染みをそれで抜いていた。

 火を止めて、僕は二階に上がった。
 紺色のニットと、偶然残っていた高校生の時に履いていた黒のコットンパンツを引っ張り出した。それを祐樹に手渡して、洗面所まで持って行ってもらったのだ。
 つけ置きしたままのワンピースを有紗がそのままにして帰ったのは、祐樹が何か言ったのかもしれない。あとは俺がやっとくから、とか。
 篠永姉妹と一緒に彼女が帰った後、洗面所の棚に残ったそれを見つけた。
 一晩つけて置くつもりなのだろうと放置していたが、鳥頭の祐樹と林はその存在を翌日にはすっかり忘れていたのだった。
 僕は仕方なくそれを洗濯ネットに入れて、デリケート用洗剤を使って洗濯機でソフト洗いにした。
 気まずさに内心うんざりしながら家の中に干したものの、乾いたそれを手頃な袋に入れたまま僕自身も忘れていたのだった。

「俺も林に渡してもらおうと思って忘れてたから。染みにはなってなかったよ」
「ああ、良かったあ」
「悪かったね、勝手に触って。あいつら、次の日そのままで帰っちまって」
 きまり悪く謝罪すると、紙袋を抱いたまま有紗は素早く首を振った。 
「いえ、逆にわたしのほうがすみません」
「あの後、すぐ帰ったの?」
「はい。篠永さんたちに家まで送ってもらいました。親切なお姉さんたちでしたよ」
 親切なお姉さんたち。
 篠永の妹とは二つくらいしか離れていないはずだが、そう見えるものなのか。

「またここで会うかもな」
「そう、ですね。ぜひ、よろしく伝えてください」
 有紗が言った。最初が詰まったところで、ああ、と思った。
 館山祐樹も昨日うちに来ていたが、彼女の話は何もしなかった。
 たぶん今、祐樹と有紗の関係は瀬戸際だ。


 あの日、久しぶりにうちの台所に立つ篠永を見た。
 ご馳走になったから、片付けくらいはして帰るよ。
 篠永はそう言って、僕の返事も待たずにスポンジを手に取った。馴染んだ古い台所に立つあの背格好に、僕は一瞬めまいがしそうになった。
 妹と並んで、彼女はその日使った食器と調理器具をすべて洗い片付けてくれた。
 高城有紗も拭かれた食器を食器棚に戻していたが、元の場所がわからないぶん誰かの指示が必要だった。
 僕が席を立とうとすると、篠永が代わりにそっと有紗に声をかけた。
 大皿は右の上のほうかな。そっちのグラスは、左の中段に入ると思う、と。
 そして僕のほうを振り向いて、座っていて、と小さな声で告げたのだった。
 そして彼女は誰にも気づかれないように、グラスに一杯のウーロン茶をそっと僕の前に置いた。飲酒のあとに、僕が良く求めるものだった。
 胸の奥で、疼くような痛みが起きた。
 僕が腰を浮かせたのを彼女は肌で感じて、そうしたのだ。昔のように。

 すっかりきれいになったそこで彼女達に礼を告げると、篠永は妹に向かってにっこりと笑った。帰ろうか。
 彼女の妹が、有紗ちゃんもこの近所? 一緒に乗ってく? と尋ねている。

「そうだ、篠永。おまえ前回うちに忘れ物してなかった?」
 とても軽い響きで、ちょっとだけからかうように僕は尋ねた。
 呼ばれた当人はいつものごとくびくっとしたように顔を上げ、僕のほうを慎重な動きで見た。
「何か、あったかな。覚えてないけど」
 咄嗟に対応できず、慎重に言葉を選んでいるのがわかった。
「書斎にだよ。あの刺繍の袋、おまえのじゃない? ちょっと見に来てよ」
 僕はそう続けた。
 もちろん、忘れ物なんてしていなかった。その場をひとりで離れさせる口実が他に思い浮かばなかったのだ。
 刺繍の袋というのは昔祖母がどこかでもらってきて、柄が似合うからと彼女にあげたものを思い出したのだった。
 僕が先に立って廊下に出ると、彼女はしぶしぶついてきた。

 無言のままで、階段を上った。
 上りきったところで一度振り向いてから彼女の手を掴み、僕は祖父の書斎の中に篠永を引っ張り込んだ。
 え、という声が小さくしたが、足音は大きく響かなかった。
 そのまま、急いでふすまを閉めた。

 部屋に入ってすぐのところで、僕達はその日一番近い場所で向かい合って立っていた。
 書斎は、しんと静かだった。
 電気はつけていなかったが、窓のすぐ外にある街灯の白い光が、代わりになって彼女の輪郭を拾った。そうやって見る篠永は青白く、不安そうに僕を見上げていた。

「西山、手、いたい」

 小さな声で漏らしたその一言に我に返って、慌てて力を抜く。力強く手を握りすぎていた。
 二年ぶりに触れた、水仕事をしたばかりのまだ湿っている手だった。
 力は緩めたが、離すことまではしなかった。
「ごめん」
 彼女は表情を強張らせたまま、僕の謝罪の返事として首を小さく振った。

 静かな声で、どうしたの、と尋ねられた。
 答えは浮かばなかった。目の前に立っているのが、以前と同じ自分に近しい存在なのかわからず、僕は混乱していた。
「俺、この態度でいいの?」
 代わりに、そう質問した。僕から彼女が連れて来た妹へしていた言動や、話している内容に自信がなかった。
 元々、篠永はずっとここを自分の実家と切り離しておきたがっていたのだ。うちの人間と自分の家族が交わらないよう、中学生の頃から細心の注意を払っていた。
 そんな場所に、彼女は家族をひとり連れてきている。
 無難な話題でやり過ごしたものの、何か別の意図があるのかとずっと思っていた。

「そうだよね。ごめんなさい。わたし、何も話してなかったね」

 自分の非を認める時の、少し硬くなる声だ。
 そのまま、近すぎる身体を引くように後ろに下がろうとする。
 僕はそれを防ぐために、彼女の両肩へ手を伸ばしていた。

 両肩を掴んで、引き寄せた。
 腕の中に収めてしまうのは、あの頃と同じく、簡単だった。

 西山、という声に、僕は返事をしなかった。
 両側から腕を回して、強く抱きしめる。

 この形だ、と思った。
 懐かしかった。さっきの空気感も、あの立ち姿も。
 どうして失ってしまったのか、思い返す度にやりきれなかった。

 そのまま、僕は片手を持ち上げ彼女の髪をまとめていたヘアクリップを外した。
 束になっていた髪は多少の癖を残したが、ほとんどが下にすとんと落ちた。やっぱりだ。肩より少し下くらいに髪を短くしていた。
 なんでだよ、と問う声が掠れた。ずっと、長い髪をしていたのに。
 手のひらで流れを追うようにして、暗がりで僕は彼女の髪の感触を何度も確かめた。
 後頭部から首筋。もう背中にまで届かない髪。
 またひとつ、あの頃から篠永は変わってしまっていた。

「あのまま、もう戻って来ないかと思ってた」
 言葉にすると、あの日の景色が頭の中に浮かびあがった。
 一面を漂っていた金木犀の香りの中に差し込んできた、線香の匂い。喪服。
 下の庭で僕を待っていた、篠永の頼りない後姿。
 自然と、名前が口から零れた。美里。
 搾り出したような響きに、篠永は背中を震わせた。
「俺に何も話さないで、このまま全部変えていくつもりなの?」
 何も打ち明けないまま、彼女は僕達に関する何かを変えようとしていた。
 あんなに僕の存在が家族に知られないよう警戒していたのに、妹を連れてきて思い出話をさせ、何度も呼ぶまで自分はそこに同席しなかった。僕とふたりきりにならないように、妹を連れてきたのだろうか。
 林達と談笑している姿にも、違和感があった。
 大勢の前では最低限しか口をひらかない人物だったはずなのに、自分から祐樹にむかってバンドの活動について質問し、有紗の爪の色を自然に褒めた。そのくせ、僕に酔い覚ましのコップを差し出す手は、あの頃のことをすべてよく覚えていると言っているようにも見えた。
 何がしたいんだ、とずっと訊きたかったのだ。

 篠永は、返事をしなかった。
 僕の腕の中で、硬直したようにじっとしている。

 どこからか隙間風でも入るようになったのか、書斎の中はしんと冷えている。
 古い木の本棚のあいだを、冷たい空気が染みるように満ちている。
 祖父は、一人になりたい気分のときよくここに篭っていた。寒くなかったのだろうか。
 腕の中にいる女の体温が染みてきて、眠っていた感情が動き出してしまう。
 篠永がいまどういう状態にいるのか、触れているだけで伝わってくる。もうすぐ階下が騒ぎ出すだろう。解放するなら、早いほうがいい。

「急にこんなことして悪いと思ってるよ。でも、おまえの本心が見えないままでこういうのは、俺も混乱する。すぐじゃなくてもいいから、いずれちゃんと説明して」
 最後にこうやって彼女を抱きしめたときの自分を思い出していた。
 あの頃、僕は篠永の手を引いて何度も繰り返した。来て、美里。そうやって、この温かい身体に縋りつくように手を伸ばしていた。
 僕達がふたりでいることで、互いを傷つけてしまった初めての時期。
 互いの力になることができなかった、歯車が逆に回転した時期だ。
 それを作ったのは、僕だった。

 黙っていた篠永が、うん、と頷いた。西山、ごめんね、と。
「いつか、ちゃんと全部説明するから。それまで、今のままで続けてくれる?」
 わかったと告げ、彼女を放した。

 階下から、お姉ちゃん? と呼ぶ声が響いた。
 ふすまを開けて、僕はわざとらしく大きめの声を出す。
「うわ、俺完全におまえのだと思い込んでたわ。誰のだろ」
 少し後ろで、彼女は髪をもう一度まとめなおしている。
 右手をこちらに差し出してくるので、まだ持っていたクリップを手渡す。
 勝手に髪を解いたことを、篠永は怒らなかった。
 彼女も声を大きくして、僕に合わせた。
「だから言ったのに。わたし、ここに忘れ物なんて、今まで一度だってしたことないでしょう?」

08|あいのうた

08|あいのうた

 祖父が気管支炎を起こして寝込んでから一ヵ月後、僕は荷物をまとめて地元へと引越した。五月の、連休に入ってすぐのことだったはずだ。
 仕事を辞め、友人達に別れを告げて廻ると最後の一週間は毎日外食になった。
 平日から付き合わせてしまったと思いつつも、約七年過ごした場所での記憶が何度も蘇ってきた。都心の込み合った電車の中から見える景色に、どことなく感傷的な気分にもなった。
 しなくてもいいと言ったにも関わらず、祖母は僕の部屋をきれいに掃除しておいてくれた。
 多くない荷物を片付けるのにも、そう時間はかからなかった。

 高齢の祖父母のためにあれこれ気を廻してくれていたらしい柏田さんや江田さんに土産を持って挨拶に行き、頭を下げた。
 七年のあいだに白髪の増えた柏田さんは、ここでは皆そうやってきてるんだからと笑った。
 二店舗目の雑貨店を開店したばかりの江田さんも、大したことはしてないぞと、やはり笑った。おまえんところのじいさんたち、ひたすら上品で慎ましいから。あれで良く、うちのがさつな秀雄と仲良くできたな。

 ――でも、嬉しそうだったよ。おまえがむこうでしっかりやってるって。自慢はしない人だけど、聞かれればそうやって答えてた。

 祖父はあの風邪が原因で大きく体力を損ない、五月には食事量と運動量が以前の半分くらいになっていた。十日寝込むだけで老人の身体はこんなになってしまうのかと思うと、しっかりしているように見えていた祖父が突然とても儚いものに見えて参った。
 こたつで横になっている時間が増え、その場所がベッドに変わるまではいくらもかからなかった。
 梅雨時は冷えるからと寝巻きから着替えるのも面倒になり、八月にはもうそこが所定の位置という感じでほとんど動かなかった。店番は祖母と交代でやっていたが、シャッターを半分下げておく日が増えた。

 ――少しは身体、動かさないと。どんどん弱っちまうよ。

 肩を貸して起き上がらせようとすると、やがて大儀そうな気弱な顔をするようになった。
 ほとんど寝たきりになったのは八月からで、そこからは早かった。
 いわゆる認知症の症状はほとんど出なかったが、眠っている時間はどんどん長くなった。栄養のあるやわらかいものをなるべく選んで食べさせていたが、高カロリー飲料やゼリーを取り寄せて何とか口に入れるという感じだった。
 とにかく眠くて困る。
 祖父は布団を被って、よく苦笑いをしていた。

 約束どおりに月に二度ほどうちにやってくるようになった篠永は、祖父に甘える形で彼に色々なものを食べさせた。

 ――おじいちゃんのために作ったの、食べて欲しいなあ。

 ベッドの脇で湯気の立ち上る雑炊などの入った器を、匙でかき混ぜながら言った。
 出会ってからずっと可愛い孫娘のように扱ってきた篠永にそんなふうに言われた祖父は、それを断れなかった。笑いながら器に向かって手を伸ばし、背中を起こしたベッドに寄りかかってそれを少しずつ口に運んだ。
 むこうの名物らしい菓子を、ベッドの脇の椅子に座って祖父と仲良く分け合って食べていたこともあった。
 様子を見に店から回ってきた僕が楽しそうだなとからかうと、篠永はそんなに言うなら西山も仲間に入れてあげるよと言って、楊枝に刺したその焼き菓子をひとつ僕に差し出すのだった。

 月に二回、土曜の十五時頃に高速バスの停留所に彼女を迎えに行くのが習慣になっていた。
 運転手に礼を言いながらバスから降りてきた篠永は、僕を見つけるとぱっと顔をあかるくした。コンクリートの階段を、急いで上って来る。転びそうになって、自分で笑っていたこともあった。いつも、一泊分の旅行用トートを持っていた。
 内側からドアを開けてやると、嬉しそうに乗り込んで来る。
「ありがと、迎えに来てくれて」
「元気そうだな」
「うん。本当に、バス開通して良かったよ。駅前からここまでずっと座ってられるなんて、本当ありがたいよ」
 彼女はご機嫌で言った。
 その表情のあかるさに、僕はさっそく気が楽になっていた。

 祖父の仕事を引き継いでの介護生活は、祖父本人の性質と状態が幸いしてそこまで憂鬱なものではなかった。知り合いの中でも、自宅介護の経験のある人達は特に気にして訪ねてくれた。
 知らなかったいくつかのサービスを紹介されたり、外せない外出のある日には数時間ほど祖父を見ていてくれた人もいた。
 それでも、同年代の人間と顔を合わせることがない生活はそれなりに堪えた。独特の会話のテンポや、感情の身軽さが恋しくなるのだ。
 地元に戻るのに合わせて声をかけてくれる同級生はいたし、僕自身も時間を見つけては一時間ほど家を抜け出して真壁やすみれさんの店に顔を出したりはしていた。それなりに息抜きをしていたつもりでいたものの、生活の中心にあるのはやはり静かに弱っていく老人の発する雰囲気だった。

 読書家で自分の世界を干渉されるのが好きではなかった祖父は、デイサービスのようなものも好まなかった。
 一度行ってみたらと言われ近場の施設で半日ほど過ごしたこともあったが、帰って来た祖父は何となく傷ついた雰囲気だった。
 想像していたよりもずっと、弱者っぽい扱われ方をされたのかもしれない。繊細な世界を好む人だから、食事や排泄に関することを他人に明け透けにされるのにも抵抗があったのだと思う。悪いがああいうのは俺は遠慮させてくれ、と悲しそうに笑っていた。ああいう場所に通うには、俺はちょっとひねくれすぎてるんだ。
 良かれと思ってしてくれているのがわかってしまうぶん、それを素直に受け取れないことを気にしてしまうのが僕の祖父だった。
 無理することはないよと頷いた。ああいうのも、合う合わないはあるはずだから、と。

 あかるい音楽をかけて、篠永を助手席に乗せて車を走らせる。
 少し寄り道をした後にスーパーに寄って、食材を買って帰ることがほとんどだった。色気のない行き先だったが、気分転換にはなった。
 西山、何食べたい? 
 篠永はうたうように僕に尋ねた。
 始めに僕にメニューを決めさせて、それを調理中に年寄り用と分けるようにしていた。
 普通に作るぶんと、細かく刻んだり水分を含ませたりやわらかくするぶんに分けた。
「俺はこの年頃の男が好きそうな食事に餓えている」
「じゃあお肉だね。ハンバーグにしようか。お年寄りのぶんはお豆腐混ぜれば固くないかな。おじいちゃんも、体力つくし」
 篠永が先に立ち、僕は後ろからカートを押した。
 彼女の家の反対側のスーパーにしたのは、帰省を家族にはあまり言わなかったからだ。
 篠永は、祖父の介護中は地元に来てもあまり実家には立ち寄らなかった。僕の家に泊まり、祖母と一緒の部屋で眠っていた。日曜の午後に、特急の出る駅か高速バスの停留所まで送った。
「二十代女性の作るハンバーグ? 癒される気しかしないんだけど。俺のだけハートの形にしてくれない?」
 僕はカートのもち手によりかかるようにして、ふざけて言った。
 生活があまりに静かなせいか、いつしか篠永に対して口説くような冗談が自然に出るようになっていた。
「西山、何かおじさんみたいなこと言ってるよ。それ、まだ早いよ」
「俺が都落ちしてどれだけ地味な生活送ってると思ってんの?」
 反論すると、篠永は笑いながら謝った。そうだったね、ごめんごめん。
 三個入りの玉ねぎの入ったネットをいくつか持ち上げて、これというものを選んでいる。
「わかった。そこまで言うなら、冷凍するぶんも作ってあげます」
「おまえは本当に天使だ」
「でも楕円形ね」
「わかった、そこは妥協する」
 調子に乗って続けた。
 目の前でカートを押していた七十代くらいの老婦人が、不思議そうなものを見る目で僕達を見ていた。

 一度、篠永のご両親と鉢合わせしそうになったことがある。
 スーパーの入り口でそれに気づいた篠永は、かごに手を伸ばしていた僕に後ろから素早く告げた。
「西山、廻れ右」
「今、もしかして俺に命令したのか」
 いつもの調子で尋ねたが、目が本気だった。さすがに何かあったのだろうと、カートを戻して言うとおりにした。
「知り合いでもいた?」
「父と母がいた」
 顔を見合わせる。それはまずいと、ふたりで笑った。
 店の脇にある自販機で飲み物を買って、車に戻った。
 篠永の父親が運転する車が出て行くまで三十分、僕達は車の中でいつものように喋り続けていた。
「すごくいけないことをしてる気分だ」
「そんなことない。わたしはもう成人してるし、西山家に遊びに来てるだけだもん」
 実際は、居るあいだじゅう働いているのに、遊びだと言う。
 本当に何でもしようとするので、料理と祖父母の相手だけでいいと言った。掃除は男の僕でもできるし、洗濯物はまだ祖母が干していた。年寄りから全部仕事を奪うのはそれはそれでいけないことだと言い、納得させたのだ。

「嫁入り前の娘に、こんなことさせてさ」
 頬杖をついて、ついそう告げていた。
 言いながら、これは失敗だと気づいていた。
「その予定、ないもの」
 篠永は膝を抱えるようにして言う。
「ないか」
「あったらこんなことできないよ」
 笑って言うので、救われた。
 店舗の前にある駐車場で、エンジンを切った車の中に並んで座っている。
 目の前のスーパーの窓には、サッカー台がずらっと並んでいる。篠永の両親がレジを済ませれば、ここからわかるはずだ。むこうからも姿がわかってしまうので、その時は身体を縮めて隠れることにすると彼女は言った。
 
「反則なの、承知で言うとだ」
 コーラの缶をドリンクホルダーに戻してから、口をひらく。
「うん?」
「そんなことになったら、むちゃくちゃ妬くよ」
 篠永は、驚いたように僕を見た。
 ミルクティの缶を左手に持ったまま、ぽかんとしている。
「――そんなに?」
「え、そんなに、意外?」
 聞き返してしまった。あっさりと送り出すと思われているのか、と思い、それでも文句が言えない立場だということにも気がつく。
 僕達は、この感情に対しては一箇所だけが繋がっていてあとはひどくちぐはぐなのだ。話をしなければ繋がらないけれど、繋げてしまえば、そこでまた新たな問題を抱えることになる。だから互いにそれを避けていた。
 異性の親友。
 あの頃の僕達にとって最善の関係はそれだった。
「ううん、わかんない」
 篠永は、濁すように言った。
 これ以上は詰めないほうがいいんじゃないかな、という態度だった。
 いつもなら、それに同意したはずだ。

「――妬いて妬いて、たぶん狂うよ、俺」
 
 口から勝手に、そう出てしまった。ハンドルに寄りかかって、前を見ながら呟いていた。
 彼女のほうから、息を呑む音が聞こえた。
 何言ってるんだろう、と自分でも思っていた。
 自覚がないだけで、僕は疲れているのだろうか、そこまで切羽詰っている毎日を過ごしているわけでもないのに。篠永の前で衝動的に口をひらいてしまうことは今までもあったけれど、ここまで強いものを出してしまうのは久しぶりのことだった。

 空気を修復できそうになくて、僕は篠永のほうを見た。
 ごめん、という顔をしていたはずだ。やっちゃったよ、ごめん。

 彼女も静かに僕に顔を向け、目を合わせてきた。両目にうっすらと涙が浮かんでいる。
 ようやく唇を持ち上げて彼女が言う。
「西山。それは本当に反則だよ」

「西山ってさあ、普段自炊なの?」
 商店街の中ほどにある鉄板焼き屋で、コーラを飲みながら尋ねられた。
 暇ならこの後ご飯でも行かない? という誘い方をするのが真壁で、その声音に僕は毎回育ちの良さを感じてしまう。
 目の前で熱を上げていく鉄板に油を塗りながら答えた。
「かなり適当にね。買ったものと組み合わせる程度だけど」
「えー、偉い」
「いや、手抜いてるよ。実家だから、台所がきちんとあると何かやんなきゃいけない気がして」
 熱を帯びてきた鉄板に手をかざして、真壁に合図をした。
 かき混ぜていたお好み焼きの種が入っている器を、目の前でゆっくりと傾けていく。
「まあ、俺達くらいの年齢なら、一人暮らしだったらあんまりしないよね。俺、学生時代本当に同じものばっかり食べてたもん」
 実家暮らしの真壁は、音大在学中に大阪で四年間一人暮らしをしていた。
 関西の音大にした理由は、好きな講師がいただけでなく地元を離れられるのは学生時代だけだから、できるだけ遠くの土地で暮らしてみたかった、らしい。何だかんだいって長男だからさ、と彼は笑った。でも、ずっと地元だけっていうのもつまんなくて。
 金属のヘラを生地の下に少しだけ滑り込ませて、彼は焼き加減を確かめている。
「部屋の掃除とかもしてた?」
「俺はけっこうまめにしてた。古いところだったから」
「俺はそっちもあんまりしなかったな。部屋に居るときはピアノとベッドのまわりだけで生きてた」
 思い出したのか、懐かしそうに笑っている。
「詩織がさあ、家事をちゃんと覚えておいてって今すごい言うの」
 お好み焼きを引っくり返しながら真壁がぼやいた。粉もの特有のにおいが店の中に立ち込めて、肺の中にまで入ってくるようだ。
「そこらへん、やっぱりちゃんとできなきゃまずいよね」
「今は普通に半々だからな」
 同級生の何人かが、それで嘆いているのをここ数年で何度も聞いていた。
 実家暮らしで母親に身の周りの世話を焼かれたまま結婚した連中は、突然の折半に大抵一度は大喧嘩をする羽目になっている。
「母親世代と全然感覚違うもんね、俺らの世代って」
 きれいに焼き色のついた生地を、上からぺんと叩いて真壁が言う。
 詩織さんとそういう話をするということは、将来的な目処が立っているということなのか。
 本当に、皆それぞれ考えていたんだなと驚かされていた。

「そうだ。こっち戻ってから、お見合いの話、何度来た?」
 真壁が当たり前のことのように訊いてきたので、僕は一瞬固まってしまう。
 これじゃ誰かと同じだと、届いたばかりの海老とブロッコリーのサラダに手を伸ばした。
 真壁との食事は、それぞれが黙々と届いたものを取り分け合うので、余計な気遣いがなく仕事っぽくていい。
「もう覚えてない」
「すっごい来たわけね」
 おかしそうに言った。
 真ん中で割り火が通ったのを確認して、鰹節や青海苔を楽しそうに乗せている。

「いや、話だけだよ。何だっけ、但書じゃなくて――」
 真壁がそれじゃ領収書だよと笑った。
「釣書きね」
「そうそれ。そこまでのは二件で、あとはその気あるかみたいな感じ。あるなら世話するぞって言われたけど、もちろん断った」
「西山、スペックやばいからなあ。この辺じゃ履歴書無双でしょ」
「いや、上には上がいるから。とんでもないのも、いっぱい見てきたし」
 サラダを分けた小皿を真壁に手渡す。
 交換のように、ヘラの上に乗ったお好み焼きが手前の皿に下りてきた。 

「学歴あって、気遣いできて、見た目もそれでさ。そんだけ色々持ってると逆に無欲になっちゃうの?」
「無欲に見えるか?」
 つい驚いて尋ねてしまった。
「見えるよ。だってね――気を悪くしたらごめんだけど――俺だったら、自分の家族がひとりもいなくなったらやっぱ焦っちゃうよ。すぐ結婚して、子供欲しいって思うもん」
 少し気の毒そうな顔をしている。
「まあ、それが普通なんだろうな。でも俺、そういうのあんまりぴんとこなくて。昔っからなんだよ。何か失くしたりさ、欠けたところが出てもすぐに埋めたいと思わなくて」

 でもね西山、それじゃ、自分だけになってしまうのを待ってるみたいだよ、と昔言われたのを思い出していた。
 レジャーシートの上で、篠永は珍しく自分から僕に触れてきた。
 僕はいつものようにそこに横たわっていて、彼女は額にかかった僕の伸びすぎた前髪を細い指でそっと避けた。てんとう虫の小さいのがいたの、と言った篠永の穏やかな笑い方と指先の感触に何となく安心して、また目を閉じた。

 真壁は僕の言葉を、痛いような、言い返したいような表情で受け止めていた。
 そんなに悲しいことを言ったつもりはないのだが。
「西山は今からでも、欲しいもの全部手に入るんだけどね。ここらのやつらだったらもう、今から人生を大幅に変えるって簡単にはいかないけど」
 言いながら、彼はサラダのしらがねぎを箸でまとめている。
 店の端でかけっぱなしのテレビで、クイズ番組が流れている。気を取られているふりをしたが、実際は大して関心はなかった。
「まあ、来年からだよね」
 真壁は気を取り直したように言った。こういうところが善人なのだ。

「真壁もその調子じゃ、来年は身、固めそうじゃん」
 口元についたマヨネーズを拭って尋ねた。
「だといいけどね、僕の彼女、じゃじゃ馬だから――」
 少し疲れたような顔で笑ったような気がして、何かあったの、と尋ねる。
 ちょうど次の種が届いたので、焼く作業をしながら訊くことにする。
 真壁はほんの少し、眉を寄せたような顔をした。
「あのさ」
 急に声のトーンが真面目になって、鉄板の上に器を持っていった手がつい止まる。
「なに」
 手を引っ込めて、尋ねた。
 次に見た真壁は、降参だという顔で笑っていた。
 こういうことを器用にできるような性格ではない、ということを自分で認めているような表情だった。
「絶対に西山から何かやったわけじゃないって俺わかってるから、気を遣わないで教えて欲しいんだけど。詩織、西山に気があるような態度、取ったことある?」

 言われて、ああ、それで今日か、と思った。
 これが訊きたくて、食事に誘われたのか、と。
 
 数日前に、しばらく彼女はいないと詩織さんに告げた。
 彼女は言った。そうなんだ、もったいないね。
 手の甲と小指が、意味ありげな動きで触れてきた。気がしたという程度だったのだが。

「俺の勘違いってことも、充分あるからね」
 僕は正直に答えた。彼らの付き合いの長さから、その手のことを口にするのは憚られてつい黙っていた。
「元々ボディタッチの多い人だから、そんなもんかと思ってたけど。でもここ数ヶ月、ちょっと増えた気がしないでもない」
 真壁が顔をしかめた。あー、という珍しい男っぽい声を出す。
「あいつ安定してくるとやるんだよ。俺だけじゃなくて他の男にも行けるんだって、示したくてさ。いつまで一緒に居ても全然対等になんないの」
 彼は鉄板に油をもう一度広げ、感情を込めた動きで伸ばしていく。
「どっかしら、不安定っていうか? 不確定にしとかないとだめなやつなんだよね」
「――それ、正直あんまり結婚向きじゃなくない?」
 友人を不幸な結婚から救おうという志があったわけではないが、詩織さんが真壁に最も似合うタイプという感じでもないのは確かだ。
「別に浮気してるわけじゃないと言われればそれまでだからさ。でも、結婚してからやるとしたら、うちの弟とか親戚も対象になる気がして」
 真壁だけに安定できずに周囲に少しずつ愛情を求めてくるような人だとしたら、彼のような人間が育つような家庭にとっては火種だろう。

 二枚目のお好み焼きとシーフードのホイル焼きを鉄板に広げていた真壁に向かい合って、口をひらく。
「ちょっと俺、真壁に話したいことがあるんだ。でも、先に食おう」
 話しながらだと不味くなるから、ということは言えなかったので、あかるく告げた。

 林は、地酒と蒲鉾(かまぼこ)を買って戻って来た。
「思い出に耽ってましたね」
 玄関で僕の顔を見るなりそう言うので、うるさい、と答えた。
「本当にうちに帰って来たのかよ。部屋は?」
「あんな寒いところ帰るの嫌ですよ」
 エアコンのスイッチを入れればいい話なんだよ、と言ったところで返ってくるのは同じだ。電気代。林は本当にびっくりするくらい生活力がない。
 年齢的にはまだ仕方のない話でもあるのかもしれないが、まったくそういうふうに見えないところが気の毒なくらいだ。
 キッチン側のテーブルに、林はすとんと落ちてきたように腰を下ろした。
「ああ、我が家の香り」
 うっとりと言うので、さすがに言った。おまえいいかげんにしろよ。
「笑ってるじゃないですか」
 本当に犬っぽいからだ、とは言わないことにした。
 グラスといくつかのつまみを出してやる。
 夕飯食ったの、と尋ねる。林は淡々と答えた。むこうのマックで。
「茶漬けくらいなら出せるぞ」
「兄さん、林はわさびのがいいです」
 右手を挙げて言う。
 兄さんはやめろ、それにその態度もだ、と言い返した。

「それで、実家は何でもなかったの?」
 冷や飯を軽くレンジにかけながら尋ねる。棚の奥のほうに入っていたわさび茶漬けは偶然にも賞味期限が先週だった。
 少し考えてから、気にしないで出すことにした。林ならいいか、と。
 彼はんあ、というような声を出した。ぼうっとしていたらしい。
「まあ、想定していたことではありましたので」
 言うつもりはないらしい。そうか、と答えた。
「やっぱ年末前ってどこも混んでて疲れますよ。老若男女でごった返して」
「そのままむこうで正月迎えれば良かったのに」
「今からなら半月近くあるんですよ? 田舎の正月の面倒くささ、西山さんも知ってるでしょ」
 軽い気持ちで言ったことだが、瞬時に打ち返されてしまった。
 わさび茶漬けの他に、少しの惣菜が残っていたので出してやる。
 林は手を合わせてから、あっという間にそれを平らげた。
 彼は酒呑みではないので、締めとしてでなくても良いらしい。

 林によってグラスに注がれた日本酒は、辛口だった。
「どうすか」
「俺詳しくないけど、うまいよ」
 あれから真壁と三枚のお好み焼きといくつかの鉄板焼きを食べて帰宅していた。
 少し飲みたい気分だったのだ。
 林はおそるおそるといった調子でグラスを傾けて、
「やっぱり俺、ワイン派なんだよなあ」
「出してこいよ。おまえのストック冷蔵庫に入ってる」
 実際は勝手に入れられているのだが、最近はもう気にならなくなっていた。林はスーパーで売っている小さなワインが好きだ。グラスに注がず、それをそのままいく。
 彼は小走りでそれを取りに行った。
 実家で親にも会ってきたのか、ちょっと少年くさい感じの雰囲気になっている。

 赤の小瓶を手に戻って来て、林はそれをさっそく開けた。
「癒される」
 ぎゅっと目を閉じて言った。
「西山さん、このチーズ入ってるの一番うまいすよ」
 皿に空けた蒲鉾を勧めてくる。
 ひとつ口にして、本当だ、と答えた。
「やっぱ海あるとこって加工品うまいもんだね」
「こっちは内陸ですからね」
 林はブラウンのシャツを着ている。ますます犬っぽく見えた。
 自分で言っておきながら、海、という言葉でその景色を思い出してしまう。
 こういうものも、確かに名産だったはずなのだが思い出せない。
 
 それで、という林の声で思った。忘れていなかったか。
「美里さんの奪還作戦ですよ」
 篠永のお姉さん、という言い方はやめたらしい。確かに長い。
「気合、入りすぎじゃない?」
「何言ってるんですか。まさかチャペルでちょっと待った、やるつもりですか? トレンディドラマじゃねえんだ」
 さっそく酔っているのか。話題が変わったことで、林は突然体力を取り戻したようだ。
 リュックサックから出した筒型のポテトチップスを開封しながら、彼は続けた。
「俺、これでも移動中考えてたんですよ。ない頭、しぼって」
 ほお、という相槌を打つ。当事者なのにその相槌か、とつっこまれる。
「まあ、良く考えるも何もね、俺にはおふたりのことって全然わかんなかったですよ。ずっと近くにいたけど、何らかの事情があって付き合わなかったんでしょう? 手だけ繋いで歩く程度の仲だったって、想像つかないですもん」
 林はワインを一口飲んでから続けた。
「だって、そんなに気になってたら、俺だったら我慢できない」
 直球だ。そして、たぶんそれが普通で健全なことなのだ。
「西山さんは変態的に理性が強いんだなって思いました。それかビビり」
「適切な表現だとは思わないけど、まあ間違ってはない」
 ちびちびと舐めていた、グラスの酒が少しずつぬるくなっていく。
「酔ってるから言いますよ。それがいけないんです。その立場で彼女の初めての男にならなかったとか、まじでわかんない」
 力を込めて林は言った。俺なら、もらえるものは全部もらう。
 胸とはらわたが、同時に絞られるように痛んだ。
「痛いところを」
 酒が足りない、と手でやると、林がちょっとずつですよ、と注いでくる。
 軽い気持ちで話したつもりだったが、数日間、本当に真剣に考えていたのだろう。珍しくも林はふざけようとしていなかった。
「きっと理由はいっぱいあるはずですけどね。でもあんた、人の苦しんでるところにとことん弱いから。美里さんの弱いところいっぱい見て、自分のしたいこと全部引っ込めたってことも、あるんじゃないですか」
 対面で座って目を見て言われると、逃げられないような気持ちになる。

 その通りな部分がないわけではない。
 でもやはり、全部じゃなかった。

「その姿勢の辞めどきわかんなくなって、タイミング逃したのかなって思ったんです。だとしたら今すぐ辞めるか、死ぬまで続けるかどっちかしかないですよ」
 林は僕のほうを見て、まっすぐに言った。
「死ぬまで」
「そう。ここ逃したら、死ぬまでです」
 林は、いやに優しい声でそう告げた。

 疲れているところに赤ワインが効いたらしい。
 林はそのまま酔っ払ってうちの居間で眠ってしまった。
 二階から厚手の掛け布団を持ってきて、いつもの座布団の上に横たわる酒臭い身体に乱暴に放る。
 風呂には明日入らせてやろうと思った。
 いつもだったら、そうなるまで散々言葉の応酬があるのだが。

 テーブルの上を片付けながら、先ほどの言葉を思い出していた。

 今すぐ辞めるか、死ぬまで続けるか。
 確かにそうだったかもしれない、と思い返していた。


 祖父との二度目の、そして最後の同居生活は僕が地元に戻った翌年の一月であっけなく幕を閉じた。
 祖父は自宅のベッドの上でゆっくりと弱っていき、起き上がれなくなってから一週間後に静かに息を引き取った。
 老衰による多臓器不全。
 最期は救急車で運ばれた病院のベッドの上だったが、本人の望んだ通りの晩年になったと祖母は目頭を押さえた。できるだけ、家族と一緒にいたいって言ってたから。
 仕事を休んで朝一番のバスで病院に駆けつけてくれた篠永は、冷たくなった祖父の手を両手で包み込んで静かに泣いた。俯いてすすり泣く姿に、十四歳の彼女の姿が重なった。 
 葬儀を終えた次の休みにもうちを訪ねて来た彼女は、小さな花束を持っていた。
 仏花じゃないけどきれいだったからと祖母にそれを手渡して、お線香をあげていい? と僕に尋ねた。
 二月に入ったばかりの寒い日で、前の晩に降った雪が薄く地面を覆っていた。
 身体が冷えてるだろうから部屋をもっと温めてあげてと祖母に言われて、僕はストーブのスイッチを強に変えた。

 線香をあげた篠永は、祖父の遺影をそこで静かに眺めていた。
「おまえに渡して欲しいって言われてたんだけど」
 後ろから声をかけると、篠永はゆっくりと僕を振り返った。
 紺色のワンピースを着て、黒のタイツ姿だった。
 この家にそんな恰好で訪れる人物は彼女だけなので、篠永が来ると家の雰囲気が変わる。
「形見。もらってやって」
 僕を見上げていた篠永は、意味を理解してから優しく頷いた。

 祖父が彼女に形見として遺していたのは、持っていた文学全集の中の室生犀星集だった。
 あとは好きなものを持って行かせてくれと言い遺していたが、それだけは彼女にあげたいと指定されていたのだった。
「おじいちゃん、ちょっと似てる感じがするって思って昔言ったことがあったの。覚えててくれたんだ」
 篠永はそれを嬉しそうに受け取り、表紙をそっと撫でた。
 実際はかなりの知恵者だったが、祖父はどちらかというとずんぐりとした見た目の男だった。
 丸顔で首も短く、髪も濃くはなかった。大抵の人にとって、祖父の第一印象は気の優しい商店のおじいさんだったはずだ。

 ――でも、目元から鼻にかけてが犀星似な気がする。

 確かに、何度か彼女はそう言っていた。
 嬉しい、と沁み入るように呟いて、篠永は祖父の遺影に向かって大事にしますと微笑んだ。ありがとう、西山、とも。

「表紙、ひらいてみなよ」
 僕の言葉に、篠永は少し首を傾げながらも従った。
 表紙をひらいたところに、祖父の字で『孫娘の美里に』と書いてあった。
 篠永はそれを見て、小さな声で祖父に呼びかけた。
「わたしのことも、孫にしてくれたんだ」
 大切なものを扱う手つきで、祖父が筆ペンで書いた文字をなぞった。
 涙が零れ落ちないように、顔を本からわざと離していた。


 それからも、篠永は度々うちを訪れた。
 もうそんなに頻繁でなくていいから、少し自分の生活に戻ってくれと彼女に告げた。
 一ヶ月の週末の半分をうちのために奪ってしまっていたのだ。
「うん。でも、わたしは良かったって思ってるよ」
 ほとんどパジャマのような姿で、彼女は言った。
 祖母は九時前には眠ってしまうので、僕達はリビングでそのあと数時間ほど酒を飲んだり音楽を聴いたりして過ごしていた。
 化粧を落として素顔になった彼女と向かい合っていた。
 篠永はもともと眉毛が薄く、化粧を落とすと途端にあどけない顔つきになる。前髪を下ろしてそれを見えないようにしていたが、もともと素顔を知っている仲だからと彼女はこだわりなく僕に接してきた。
「後悔せずに済んだ」
 昼間にスーパーで選んでいた、桃の酒を飲みながら笑う。
 これとろとろでおいしい、と瓶を差し出してきたので、空いていたグラスに受けて一口飲んだ。
 昔のネクターみたいだと言うと、懐かしい、と笑った。あれ好きだった。うちの近所ではあまり売ってなかったけど、見つけるとよく買ってもらった。大人になってからは、全然飲まなくなっちゃったけど。

 僕達は幼い頃の話を互いにあまりしなかった。
 どちらも、あまり面白くない話のほうが多かったからだ。

 ――小さい頃、わたしこの世界の勝手が全然わからなくて、毎日すごく怖かったの。でも、六歳から西山がこの町にいたんだって思ったら、六歳から十四歳までの怖いが半分になった気がするよ。わたしも単純だなあって。

 いつかそんなことを言っていたのを思い出した。

 ――駅とか、お祭りとか、図書館とかですれ違ったこともあったんだろうね。
 ――風邪ひいて、病院とかでも?
 ――そうそう。案外、同じベンチで待ってたこととかあったりしてね。

 篠永は楽しそうにそう語っていた。
 お互い覚えていなくても、偶然目が合ったりしてたら面白いのにね、と。

 ――わたしは、西山がこの町に来てくれて本当に良かったって思ってる。

 俺が自分で選んだんじゃないよと言い返したが、それはいつも言葉にしあうよりもずっと深いところにある部分を、そっと温める一言だった。

「俺は、やっぱりちょっと後悔がある。やってもやっても何かしら心残りになるもんだなって」 
 篠永にグラスを返してから、こっちも飲むかと尋ねた。
 篠永はうんと頷いて、空にした自分のグラスを静かにこちらに滑らせてきた。
「身内なんだもん、当然だよ」
 一口飲んで、西山はウォッカベースが好きねと笑った。そんなにお酒、強いわけじゃないのに。
「そうかな」
 彼女はもう一度、うんと頷いた。椅子の上で体育座りのように膝を抱えている。
 あまり似合わない姿だなと思うのだが、楽なのかもしれない。
 僕の話が続かないのを確認してから、篠永は続けた。
「あとは、個人の資質かな。西山は、そういう気持ちになりやすいと思う。愛情深いから、やってもやってももっとがある気がしちゃうんじゃない?」
 当たり前のようにそう言うところが篠永らしかった。
 素でそう思ってるから言ってるだけだよ、といつも言い訳するところも。

 祖父は、手のかからないほうだったはずだ。
 亡くなる一週間前まで自力でトイレに通えたし、感情的に振舞うようなこともほとんどなかった。自分の内に篭って気弱な雰囲気にはなっていたが、穏やかな晩年と言って良い最期だった。
 彼よりもずっと、僕のほうが余裕がなかった。
 店の仕事を増やせばそちらに集中したくなり、病院の付き添いや急な彼からの呼び出しに苛立ちを感じたりした日も、何度もあった。そこで目を閉じ、息を整えてからやっと動き出せたことだって。
 あれだけ恩を感じる相手でも芽生えてしまうその感情に自分自身が嫌になり、誰にも聞こえないように小さな舌打ちをした日もだ。

 篠永はそんなとき、店のパソコンの前に座る僕の背中を少しの力を混めてゆっくりとさすった。
 肩甲骨や背骨の形に添って、そこに詰まっているものを押し流すように小さな手が動いた。
 そうされているあいだは、お互い何も言わなかった。
 しばらくそうしてさすられると自然とほぐされ背中が軽くなり、深くまで息が吸えた。
 少し詰まっていただけよと彼女は言った。西山のせいじゃない。

「とても頑張ってた。ここまでできる人は、なかなかいないと思う」

 あの時と同じ手が、僕の腕をさすっている。
 胸がいっぱいになって、手を捕まえて、握り返した。
 
 僕達の精一杯のスキンシップは、いつもこうだった。
 それがすべてで、でも何よりも、相手のことがよくわかった。

09|あの日の子供

09|あの日の子供

 翌日、仕事がひと段落したところで思い立って原付に乗った。
 この季節にこの年齢で、あそこまで自転車を押して行く気にはもうならなかった。
 狭い山道を車で移動するのも、気が乗らない。
 十五時過ぎで、まだ陽が射していた。
 師走の大通りは交通量が多く、車で混み合っている。すり抜けて裏道を選んだ。マフラーを巻きつけていたが、それでも寒さが肌を刺してきた。

 これであの寺院がなかったらちょっとした怪談にもなるのだが、十数年前からまた少し古びたその建物はしっかりとそこに残っていた。
 あの不思議な佇まいが気になって、ネットで調べてはみたのだ。
 地図から名称を探り当てて町の名前と一緒に検索してみたが、公式サイトがあるどころか詳しい情報はまったく載っていなかった。
 住職もいない寺なんてそんなものかと思ったが、山歩きが趣味だという人のブログでやっと写真と少しの解説が載っているのを見つけた。そのくらい情報の少ない場所だった。
 寺の前で原付を下りる。
 見晴らしも良く、山中というわけではなかったが、往来は少なく静まり返っていた。

 二段目の、一番隅だっただろうか。記憶の中からその絵を呼び出す。
 今だって大して変わりはないのかもしれないが、あの頃の僕達はそれぞれが未熟で、自分の身に起こることをいつだって簡単には受け止め切れなかった。
 起こることそのものというよりも、それによって生まれる感情に対応できなかったのかもしれない。篠永は意志の強い人物ではあったけれど、同時に物事に反応しすぎるようなところがあった。口をひらくことと黙っていること、両方に対して賢くならなければいけなかった。親しみはあっても時には荒っぽく、自他の境界の曖昧な田舎の人間関係の中で、彼女は自らのやわらかいところを隠すしかなかったのかもしれない。
 出会った頃、篠永は外に向けている自分と内側に向かう自分で真っ二つになっていた。
 そのふたつは大きく離れていて、それらを繋ぐものを彼女は持っていなかった。僕の家で初めて、彼女はその部分を補うことができたのだ。
 昔の自分を見ているようだった。祖父母が彼女に当てる穏やかな光に、はじめはぎこちなく、それでもだんだん表情を増やしていった。
 そしてある日、彼女は自分の中にある美しい景色と夢について語り始めた。
 とても不思議で、俄かには信じがたい、けれどその話は彼女の実感と感慨でひどく現実味を帯びていた。純粋な希望の気配があった。
 篠永は言った。それだけは、何があっても信じてきた、と。
 寺院の周辺は、何も変わっていないように見えた。
 そこらに放置されている千切られたビニールシートの切れ端すら、あの頃からあるような気がしてくる。人の立ち入りの多くない場所だからだろうか。
 見下ろす町の景色にも、木々の形もあの頃のままに見えた。

 ――それじゃまっすぐ帰れないだろ。うちに寄っていけって。

 瞼を直接ハンカチで抑えないようにして腫れを最小限にした泣き方を篠永はすでに心得ていたが、それでも泣いていたのは一目瞭然だった。

 ――いいよ。今おじいちゃん達に優しくされたら、また堰を切っちゃう。

 細い声で、彼女が言った。

 ――おまえの中にはいくらでも、あるんだな。

 少し呆れた声になったのは、そう言わないとまた彼女が泣くからだ。

 ――自分でも、時々びっくりするよ。

 篠永は僕に向かって、冗談の響きで返した。

 今の景色の中であの頃の自分達を思い浮かべていると、突然背後でがさがさという音がした。その後に続いたこんにちは、という声に驚いて振り向くと、作務衣を着た五十代くらいの女性が立っているのが見えた。
「こんにちは――すみません、勝手にお邪魔して」
 ここの寺の関係者だろうかと思い告げると、彼女は途端に破顔して、
「ああ、わたしすぐ裏の家の人間なので、気にしないで。元々人は滅多に来ない場所だから驚いちゃって。ええと、バイク? 故障とか、お困りじゃないわよね?」
 良く見ると彼女は右手に鉈を持っている。
 今のような時季にも草刈は必要なのか、手にはめられた軍手には土がついていた。

「大丈夫です――ここのお寺の方かと思ってしまって」
 服装からそう思ってしまったことを打ち明けた。
「住職はここからもっと下の、同じ宗派のお寺の人がやってますよ。わたしはたまにお参りついでに草刈りしてるだけ。嫁いで来たときから、ちょっとお気に入りの場所なんですよね」
 にこにこしながら、そう続けた。
「お兄さん、旅行か何かでいらしたの?」
「いえ、僕も市内の人間です。昔、ここに何度か来たことがあったのを思い出しまして――」
 まさか突発的に訪問の背景を説明することになるとは思わなかったが、その人の佇まいから何となく正直に言ってしまった。

 彼女はそうですか、と微笑んで、
「静かで落ち着くでしょう?」
 穏やかな声で、僕に尋ねた。
 はい、と答えた。いつかの篠永も言っていた。ここは、静かですごく落ち着く、と。
「観音様のお寺なんですよ。あの掲示板のところに書いてあるでしょう、大悲って」
 手が向いた方向には、ガラス窓のついた木製の掲示板が立っていた。確かに、木彫りの文字でそう書いてある。他にも何か彫ってあったが、見慣れない字で読むことは出来なかった。
 女性はその掲示板を遠目に眺めながら、簡単に僕に説明した。大きな思いやり、慈悲ってことかしらね、と。
「そうだったんですね。ここ、調べても何も出てこなかったんです」
「有名なお寺とかじゃないからねえ」
 女性はのんびりした様子で答えた。

 過ぎてしまえば何てことない気がするのは、過ぎるまでにどっぷりと向かい合いきってしまったからだろうか。
 時々だが、あの頃の自分達を思い返すと何がそんなに苦しかったんだ、と思うこともある。
 具体的に上げ始めれば、きりがないことではあるのだ。
 誤解や押し付けや決め付けに少しずつ自分達を削られていくような気がしたのは、受け止める器がなかったということかもしれない。教えられたことをそのまま実行していけば良いわけではなかった僕達は、決定打を打たれてしまう前に自分達だけのやりかたを見つける必要があったのかもしれない。

「元々、友人がたまに来てたらしいんです」
 宗教的な知識もそれなりに嗜んでいたようだから、書いてあることの意味を知っていたのかもしれない。大きなものの下で、心を休めたかったのだろうか。
「何で知ったのかしらね。有名っていうわけでもないのに」
 冬の山の匂いが鼻先を掠めてくる。
 枯れたような草の匂いは、昔はそこまで好きではなかった。
「歩き回ってるやつだったので、偶然かもしれないですね」
 顔を合わせていれば女性も思い出すかと思ったが、そういうことはなかったようだ。
 彼女はそうですか、という相槌を打ってから、僕に向かって笑いかけた。
「わたしが言うのもおかしいけれど、ゆっくりしていって」
 女性に言われて、頭を下げた。

 伴侶を亡くした後も女性のほうは長生きするものだと周囲に散々言われたものの、実際祖母が弱るのは早かった。
 祖父の四十九日を過ぎたあたりから身体の動きが鈍くなり、口数が減って、まるで祖父にやり方を教えてもらったとでも言うようにベッドの外に出たがらなくなった。
「ばあちゃん、元気出してよ。まだそんなになるほど老けちゃいないだろ」
 そう言って近所に連れ出そうとしたが、聞かなかった。
 商店の奥さんとして店舗に出ていた頃とは比べ物にならないくらい彼女は落ち込んでいて、月に一度の楽しみだった美容院にも行きたがらなくなった。
 影響力のある人を伴侶にするということは、そういうことなのかもしれない。
 近所の奥方様方が話に寄ってくれるのは有難かったが、祖母は以前のようなしなやかな活力を失っていた。困ったように微笑み、聞き手に廻るようになった。

 そんなある日、トイレに起き上がろうとしてベッドの柵にぶつかり右肩を痛めた。
 僕は店に置いていたパソコンで発注作業をしていた。
 叫ぶように名前を呼ばれて飛んで行くと、すでに襟元まで内出血が広がっていた。
 連れて行った病院で診てもらうと骨まではやっていなかったが、ひどく痛がって立ち上がれなくなった。
 祖父の使っていた紙製の下着を使うしかなくなってしまったが、これは嫌と言って、布団の中で顔を背けた。粗相を二回ほど繰り返してからは、涙ぐんだものの何とかそれを使うようになった。

 そんな生活に入ってすぐのことだ。
 寝巻きを着替えをさせようとする僕に、祖母は言った。
「わたしはやっぱり泰智にこういうことはさせたくない。お願い、なるべく早く、どこかへ入れて」
 最期まで自宅にいたかった祖父とは正反対の言葉に驚いていると、祖母は急にしっかりした顔つきになって、
「あなたにこんなことさせるなんて、本当にとんでもない」
 悲痛な面持ちで首を振った。恥と屈辱で、傷ついた顔だった。
 翌日、介護保険の申請をしにかかりつけ医に出かけた。デイサービスを利用しながら、介護老人保健施設を何件かまわり、ひとつと契約をした。祖父の生命保険金がそのまま入所費用になった。

「本当にいいの?」
 契約書類を読むために、祖母は眼鏡をかけていた。それも数ヶ月ぶりの姿に見えた。
「もう、いいのよ」
 祖母が書類から顔を離して、僕を見た。母親の顔で笑っていた。
 それが自分のことなのか、僕にむけてのことなのかはわからなかった。


 祖母が介護施設に出て行く日の朝、彼女を背負って家の中のすべての部屋を廻った。
 しばらく留守にするから、点検だ、と。二階の僕の部屋から、元々は祖父母の寝室だったふたつ続きの寝室、小さな物置と、祖父の書斎へと歩いた。
「あなたが音楽に懲りだしてから、夜寝るときはいつも隣の部屋からおしゃれな音楽が聴こえてきてた」
「うるさかったら言ってくれっていつも言ってたのに」
「うるさくなかったもの」
 三十四キロの祖母の身体は、いかにも脆そうな感触だった。
 骨の細さや、筋肉量と脂肪の少なさが背中から伝わってきた。
 子供を背負うように、バスタオルをひっかけて落ちないように固定した。
「ごめんなさいね。もうちょっと弱る前に、古い服なんか片付けておくべきだった」
「謝らないでよ。どうせ落ち着いたら、あの服探して持って来いとかって言うよ」
 笑って告げると、背中からも弱く笑いの気配がした。
 僕に彼らしかいなかったように、彼らにも家族と呼べる人物は僕しか残っていなかった。
 そうではなかった時代が確かにあると、家の中に残る痕跡が物語っている。祖父母もまた、多くを失った人達だった。
 持って行きたいものがあったら言いなよ、と何度も繰り返しながら、すべての部屋をゆっくりと見て廻った。

 まだ七十台手前だった彼女が朝七時に僕を起こしに部屋に入ってきたときの、きびきびとした動きが懐かしかった。
 カーテンを勢い良く開けて、あの頃の祖母は僕に向かって言った。
『ほら泰智、起きなさい。また夜更かししたわね』
 小学校の高学年からすでに夜型の兆しが見え始めていた僕に、彼女は呆れたような、しかしすでにそれを許しているといった響きで告げた。
『ああ、学校行きたくねえ』
 三時頃まで趣味に浸っていた僕に、彼女はため息をひとつつく。
 あれは十四歳の春だっただろうか。
『まったく、困った子ね』
『すみません、おばあさま。僕、母に似まして』
 布団の中で、起き抜けの声で言った。きつい冗談でも、あの頃の祖母は怯まなかった。
 楽しそうに笑ってから、寝起きの僕の髪をくしゃくしゃに乱す。
『もう、朝からやめなさいよ。休むの? 学校行ってたほうが良かったと思うくらいこき使うわよ。店の重いもの全部持たせてやるから』
『ばあちゃんがそれで楽できるならいいよ』
『ばかね。わたしを楽させたかったら学校に行くの』
 ベッドの脇に腰を下ろして笑っていた。
『起きて、支度します。次のテストも楽しみにしていてください』
『はい、頑張ってね』
 頭上でくすくす笑っている祖母の声を聞きながら、うつぶせで僕も笑っていた。
 
 最後に辿りついた台所で、祖母が涙ぐんだのが伝わってきた。
 ここはずっと、彼女の場所だった。

 大丈夫? と尋ねると、彼女はええ、と頷いた。平気、動かないで。
 そして一度息を吸ってから、詰まった声で続けた。

「六歳まで会えなかった孫に初めて食事を作ったとき、わたしがどんな気持ちだったと思う?」
 祖母は細い指で、僕の肩にしがみついた。
「生まれたことしか知らなかったの。名前も、住所も教えてもらえなかった。ふたりとも元気なら便りがなくてもいいって、おじいちゃんといつも言い合ってた」
 か細い声が震えている。
「うちに来たとき、あなた枯れ木みたいにやせ細って、肌が黒っぽくなってた。野菜を全然食べさせてもらってなかったのね。うちで初めて生のトマトやレタスを食べたって知って、勝さんとふたりで夜に泣いたの、まだ覚えてる」
 あまりに慣れない生の野菜の味と食感に、あの頃の僕はよく難しい顔をしていたのだという。美味しくないの、と首を傾げた祖母に、僕は言ったらしいのだ。
 そうじゃないけど、良く知らない味だ、と。今までほとんど、食べたことない。
「一番最初の日の夕飯、俺覚えてるよ。ケチャップかけたハンバーグと、サラダと肉じゃがと、コーンスープだろ。わかめと豆腐の味噌汁も」
 祖母の作る食事は、いつも少し甘かった。
 子供の僕にも食べやすいような味を考えた末にそうなったのだと、大人になって知った。
「もしきちんとしたものを食べてなかったら、汁物のほうが消化に良いかと思ったの」
「いっぱい残して悪かったよ。緊張してたんだ」
「すぐに、こっちがびっくりするほど食べるようになったじゃない」
 祖母は笑っていた。成長期の男の子の食欲はどの時代に生まれても同じね、とおかしそうだった。
 そっと手を伸ばして、彼女は壁のフックにかけられたフライ返しやお玉に指先で触れた。
「あの子とここに立つのもね、本当に楽しかった」
「――篠永?」
 尋ねると、そう、という返事が返ってきた。
「おばあちゃんおばあちゃんって、女の子らしい声でね。泰智も男の子とは思えないくらい色々なことに気づく子だったけど、女の子は女の子の目があるから。小さいことに気づいて、さりげなく手をかけてくれて」
「まさか、あんなに気が合うなんて思わなかったよ」
 篠永と並んでいる祖母は、男の僕や祖父といるときとはまた少し違う顔をしていた。
 内緒話のように篠永の耳元で何かを打ち明けているとき、祖母はとても可憐な人に見えた。

 調理道具から手を離してから、祖母はふたたび口を開いた。
「美里ちゃんね。あの子、あなたのことしか見てないわよ」
 突然言われて、思わず身体の動きが止まった。
 祖母は続けた。
「おじいちゃんもわたしも、重荷になるから言えなかったけど。でもね、やっぱりあなたたち、最後はお互いしかいないと思う」
「そう、かな」
「そうよ。わたしが生きてるうちとは言わないけど、素直になれるときがきたら、きちんとしてあげなさいね。あなた、もうしばらくしたらひとりになっちゃうんだから」
 祖母は僕にしがみついていた手を一旦離して、肩のあたりをぽんぽんと叩いた。そういうのやめてよ、と答えたら、きっと祖母はそうじゃないという反応をするだろう。
「わかりました」
 僕の返事で、自分の言いたいことが伝わったと祖母は思えただろうか。
「さあ、さすがに重いでしょう? 下ろしていいわよ」
「そうでもないって。四十キロないんだよ?」
「男の子っていいわね。泰智も細身なほうなのに、そんなこと言えるのね」
 祖母が、気を取り直したように笑った。


 祖母が入ったのは自宅から車で二十分ほどの場所にある、山際に建っている施設だ。
 六十人ほどが利用定員とされていて、周囲からの評判も悪くはなかった。
 祖母はその暮らしに、思いのほか早く馴染んでいった。
 商売が長かったこともあり、彼女はやはり人付き合いが上手かった。

 僕は週に二度ほど、その施設に面会に行った。
 洗濯は基本的に身内がすることになっていて、消耗品の補充と合わせるとそのくらいの回数でちょうど良かった。
 僕はさっそく西山さんのところのお孫さんして施設内で認知され、あっという間にあだ名のようなものもつけられていた。基本的に利用者の子供か嫁のような立場の人達が面会に来る中で、二十代半ばの男の孫というのは妙に目立ったのだ。
 流行の演歌歌手と似ていると言われるようになったのも、その頃だ。
 面会のためにやってきた篠永に車の中でそう話すと、
「気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど。顔の系統、全然違うんじゃないかな」
 最大限に思慮を込めたというような響きで言いつつも、彼女は唸りながら首を傾げた。
「よーく、わかってるから。年寄りっていうのはそういうもんなんだよ」
 山道のカーブにブレーキを踏みながら笑った。
「西山って、意外に流行顔なんだよね」
「意外ってなんだよ。失礼だな」
 交換用のタオルや肌着の入った袋を抱いて、篠永はおっとりと言う。
「見た目も感覚も、けっこう今時なの。でも話すと今の子にしては男っぽい喋り方だし、考えをよく聞くとところどころが昭和なの」
「おまえ喧嘩売ってんのか」
 昭和初期生まれの老夫婦ふたりに育てられたぶん、確かに僕には古風なところがある。
 気を抜いて喋っていると年寄りしか使わない単語が出てしまうこともあって、十代の頃はけっこう気にしていた。喋り方は、祖父のそれがうつってしまった。真壁のような優しい物言いを不快に思うことは全くないが、自分がするとなると何かが落ち着かない。

 篠永は僕の質問を無視して、
「大学の頃に、麻が入ってるちょっときれいな白シャツ着てたことあったでしょう? くるぶし丈のパンツと合わせてて、クラシックな眼鏡かけてたとき」
「ああ、四年の夏とかじゃない?」
 良く覚えているなと思った。
 その年に出ていたオックスフォードシャツのサイズがオーダーメイドのようにちょうど自分の肩幅と背にぴったりで、ホワイトとサックスを色違いで着ていた。
 湘南にある、シャツ専門店のものだったはずだ。
「あのときの西山、今までで一番目立ってた。帰省のときに八重洲口で待ち合わせしたじゃない? わたし、声かけづらかった」
「なんで?」
「すれ違う年頃の女の子のほとんどがはっとした顔で見てるんだもん。立って待ってるあいだも、ちらちら見られてたし」
 懐かしそうに笑いながら、篠永はドリンクホルダーに置いていたミルクティの缶を手にしてそれを一口飲んだ。
「思い出した。それでわざわざ携帯にかけてきたのか。どこにいるんだって聞いたら、真後ろだもんな」
 あの日、篠永はヨーロッパの映画に出てくるようなブルーと細かい花柄のワンピースを着ていた。夏は綿のほうが涼しいからと、夏場だけは少し素朴な雰囲気の服装を好んでいた。

「あの西山には、お待たせ、って駆け寄れなくて」
「気にしすぎだよ。別に誰にも声かけられてなかったし」
「本人はこれだものね」
 あの日、振り向くと二十メートルほど離れたところで篠永は苦笑いしていた。
 こっちまで来て、と小声で頼まれて、首を傾げながら荷物を転がしたのだ。
「それで、おまえはそのときの俺をどう思ったの」
 祖母のいる施設が見えてきた。今日は篠永も一緒だから、きっと喜ぶだろう。
 実質一人暮らしになってしまったうちに泊まることができなくなってしまったので、篠永は日帰りか実家に泊まるようになっていた。
「西山は元々、目立つような雰囲気があるから。その上にものすごく似合う服装をしてたから、ああなってたんだと思う」
 あの建物? と尋ねられたので僕は頷いた。
 篠永は出していたハンカチをしまったり手にしていた荷物を持ち直したりしている。
「それは考察だろ。俺はおまえの感想を聞いたんだよ」
 ちょっと意地悪な気持ちではあった。
 篠永ははたと表情を固めて、しばらく首を傾げていた。

「感想って?」
「ひとりの男としては、おまえにどう見えてたかってこと」
 もしかしてこういうことを聞くのは初めてではないだろうかと思うと、少し新鮮だった。
 自分の容姿について、彼女に何か尋ねたことはほとんどなかったはずだ。
 褒めてもらえることが多かったし、おそらくそれなりの利益も享受してきたのだと思う。
 しかし、残念ながら僕自身は直近の遺伝元である人物がふたりとも気に入っていなかった。そのせいもあって、良くも悪くも自分の容姿に関しては受け容れるという感情が先行していた。
 それ以上の気持ちになろうとすると、余計な感情がついてまわるから。

「それ、わたしに聞くの?」
「ぜひ聞きたいね」
 篠永の声が傷ついたそれでないことを確認してから、そう続けた。
 駐車場入り口まであと三十メートルほどだ。
 今日もきっと、祖母と話しているうちにひとりふたりとシニアが増えて、いつの間にか団体での談話になってしまうのだ。祖母のまわりのお年寄りたちに、僕は完全に新しい暇つぶしのおもちゃと思われている。ひとりのお年寄りに言われた、わたしがあと四十歳若かったらね、という一言に二十歳で充分ですよと言い返してからだ。祖母にはこれ、と叱られたが、お相手の女性は声をあげて笑ってくれた。お兄さん機転がきくね、と。

「かっこよかったよ。近づけなかったくらいだもん」
 篠永は、反対側の窓の外に気を取られているというふりをして、唇を少し尖らせて答えた。
 思わず運転席で笑ってしまう。満足な答えだった。
 彼女はそれを聞いて、顔を赤くして俯いた。
「ひどい。意地悪」
「おまえ可愛いな。こういう話になると初心すぎ」
「人のこと言えないでしょ。わかってるんだから。もう、おばあちゃんに心配されちゃうよ、こんな顔してたら」
 窓を開けて深呼吸しはじめるので、笑いながらもごめんと謝った。
 その日の彼女は祖母との再会を喜んでいたが、妙に恥ずかしがって僕とは目を合わせようとはしなかった。
 
 祖母は結局、十四ヶ月ほどその介護老人保健施設の世話になった。
 つきっきりで見るということがないぶん時間には余裕が出来たが、どこかで拍子抜けもしていた。
 祖父母の物がそのまま残っている家の中でひとりで暮らしていると、留守番をしているという気分になるのが不思議だった。もう三人の暮らしが戻ることはないはずなのに、旅にでも出ている彼らを待っているような気持ちになった。

 半営業くらいになっていた祖父の商店を畳むことにしたのは、祖母の面会に施設に通うになってすぐだった。
 一ヶ月ほど前に店の前に張り紙をすると、近所の人達が惜しむように立ち寄ってくれるようになった。初盆を過ぎたばかりの祖父の思い出話を少ししてから、今すぐ必要なわけでもなかっただろう日用品をいくつか購入していった。祖父の仕事ぶりが見えた気がした。閉店までの最後の一ヶ月の中には、何度かじんとくるシーンがあった。
 店の棚をすっかり空にしたあとに、すべてを掃除してから配置を変えた。
 スチールラックと、複合機タイプのプリンターを一台購入した。
 ネットショップのモールとフリーランスの求人サイトに登録すると、途端に仕事で一日の予定が埋まった。

「西山って、やっぱりけっこうワーカホリック体質だよね」
 真壁が遊びに来て、物であふれた元店舗で口にした。
「外で勤めてるわけじゃないから、そう見えるだけじゃない?」
 完全介護とはいえ、祖母のことで呼び出しがあることも考えられる生活の中再就職をしようとは考えられなかった。
 出来ないことはなかったが、そうすることで祖母のことを人任せにして終わらせてしまったような気分になりそうだったのだ。自分が自営向きの性格だと思ったことはほとんどなかったが、始めてみれば自由な雰囲気が肌には合っていた気がする。

 真壁は丸椅子に腰掛けて、周囲を見回していた。
 うちのような古く飾り気のない家は彼にとって見慣れないものだったのかもしれない。

「こういうときに言うのもあれなんだけどさ、今度商工会のイベントでライブやるんだよ。角の銀行の前に、特設ステージ作って」
 年に一度、市の文化祭に合わせて彼のいる商店街が催し物をしていることは知っていた。
 僕にはあまり身近なことではなかったが、彼らにとって町おこしというのはそれぞれのしている仕事と同じくらい重要なことらしい。繋がってるからさ、と真壁は言う。
「ああ、毎年のあれ? 真壁出るの?」
「うん。今年はトリオだよ。先輩に話つけてるところ。演者の空きがまだあるから、西山も何かやらない?」
 組んだ足をゆらゆらと動かしながら、彼は言った。
「俺? そんな、人前でやるような腕じゃないよ」
「そんなことないって。良い先生についてたの、見てればわかるよ。基礎がしっかりしてるもん」
 音大出の真壁に言われて、師匠の顔を思い出した。
 口は悪かったが、技術については真面目な人だった。
 声をかけてくれたのは、境遇が似ていたからだったのかもしれないと後になって気づいた。
 地元に戻ることになったと店で報告した日に、一番熱心に僕を止めたのは彼だったのだ。

 ――まじで、何とかなんないの。俺まだおまえを調教し終わってないんだけど。
 ――嬉しいんですけど、逸脱した言い方はしないでもらっていいですか。

 真壁が、どう? と繰り返した。

「興味はあるんだけど。でも今年はちょっと、何があるかわかんないんだよな」
「そうだよね」
 ほんの少し目をすがめて、彼は言った。
「でも、また声かけてよ。落ち着いてたら、たぶん乗れる」
 付け加えるように口にする。
 彼は顔色をぱっとあかるくさせて、
「もちろん。これからも毎年やるから、一度くらいは入ってよ。俺、地元で一緒に音楽やれるやつ減らしたくないんだよ」
 品の良い温厚な笑顔で、真壁が言った。


 祖母の危篤の連絡が来たとき、僕は江田さんに呼ばれて彼のガレージを訪ねていた。
 八月半ばの土曜日で、猛暑続きだった一ヶ月にようやく落ち着きが見え初めてきた頃だった。
 江田さんとすみれさんに、今後の仕事のことでいくつかの相談をしていた。
 突然鳴り出したスマートフォンを、彼らに頭を下げながら胸ポケットから取り出す。
 祖母のいる施設からだと気づいて、それに出た。

「西山幸恵さまのご家族さまの携帯でしょうか」
 挨拶もそこそこに尋ねられ、
「そうです。幸恵の孫です。祖母に何かありましたか」
 僕も簡潔に答えた。
「おばあさまが、先ほど心筋梗塞を発症されて――」
 ほとんど意識がなく、危篤の状態だと告げられる。
 すぐに向かいますと告げた。

 目の前で僕の様子を見ていた夫妻は、電話を切った瞬間に同時に動き出していた。
「しっかりしろ。車出してやるから、すぐ行こう」
 江田さんが立ち上がって、僕の左側についた。
 背中を、右手でばんと叩かれる。まだ電話のむこうに引っ張られていた意識が、やっと戻ってきた。
「はい。すみません」
「すみれ」
 鍵や財布をポケットに押し込みながら、江田さんが自らの妻の名前を呼ぶ。
 彼女はスマートフォンを彼に手渡しながら即答した。
「早く行って。こっち全部閉めてから、追いかける」
 そして江田さんの反対側から僕について、
「江田もわたしも、ついてるからね」
 静かな声で言い、彼の車の前に着くまで僕の手を握り続けた。

 
 最期に一度、奇跡的に、祖母と目が合った。
 祖母の頬に触れながら声をかけた。
 ――ばあちゃん。聞こえてるか。俺だよ。
 小さい目が、薄くひらいて僕を見た。
 弱々しい目でも、確かに一度彼女は僕を認識した。
 ――そうだ、泰智だ。
 左手で、祖母の手を握った。
 この一年ですっかり痩せてしまった、小さな手だった。徐々に弱ってはいたものの、突然こんなふうになるとは想像できないくらい、数日前の彼女はしっかりしていた。
 強く目を合わせようとしたが、涙で叶わなかった。
 どんな言葉もふさわしくない気がして、言えなかった。
 ――ばあちゃん。俺、ここにいるよ。ここに、一緒にいるよ。
 やっとの思いでしぼり出した。周囲の看護師が慌てて動き出した。ひとりが読み上げている、モニターに表示された数値がどんどん下がっていく。
 最期の一分、繋いでいた手から力が抜けていくのを引き止めることができなかった。
 僕はただ、祖母のいなくなる感触を自分の手で感じていた。
 
 
 江田さんとすみれさんが、すべてに付き添ってくれた。
 死亡診断書を待つあいだに、廊下に出て、ロビーまで歩いた。
 顔見知りになった人達の何人かに励まされ、何人かには、気遣わしげに目を合わされた。
 ロビーから繋がっている小さなバルコニーの扉を開けて、外に出る。アルミの押し戸が、外の熱を受けて熱くなっている。

 生ぬるい風の吹く、昼過ぎだった。
 八月の午後の光がいっぱいに射していたが、心身の中までには不思議と入ってこなかった。
 身体の外側のあかるさに、内側が着いていかなかった。
 いつもより現実が遠くに感じる。祖父のときも、そうだった。
 利用者向けとは言いがたい、段差のあるそのバルコニーの手すりに寄りかかって、電話をかけた。
 
 はい、という声に、胸の中を触られたような気がした。
「俺」
 篠永は落ち着いた声で、西山、と言った。
「今、家か?」
「外だけど、帰るところ。もうすぐ家だよ。どうしたの? 何かあった?」
 彼女は僕の声で、すぐに異変を察知した。
 外で篠永にショックを与えたくなくて、先が言えずについ黙ってしまった。
 電話のむこうから小さく聞こえて続けていた足音が、そこで止まる。
「西山。大丈夫。わたし今、ちゃんと話を聞ける。言ってみて」
 聞こえてくる声に、やわらかさと集中両方が感じられた。
 いつの間にか目を閉じていた。すべての神経が、彼女の声に向かってひらいているようだった。
 もっと話してくれないかと願ってしまう。その声で、さっき胸に開いてしまった穴を埋めてくれと言いたくなる。しばらくのあいだだけでいいから、と。
「もう、家の前の公園だから。言って。おばあちゃんに、何かあったのね?」
 
「一時間くらい前に、施設に呼ばれたんだ」
「うん」
「知り合いのところにいて、一緒に来てもらった」
「――うん」
 篠永の相槌が、どんどん優しくなっていった。きっともう察している。

「亡くなったよ。ついさっき。急性の心臓病だって」

 自分の発した言葉が、胸に突き刺さった。
 電話のむこうで、篠永が鋭く息を呑んだ。
「――うん」
 途端に、彼女の相槌が水気でいっぱいになる。
 それ以上あふれ出さないように、我慢しているのが通じてきた。

「おまえに、一番に言わなくちゃって思って」

 互いに声が震えていた。
 祖父のときも、こうやって彼女に一番に連絡をした。
 本来は近い親戚からなのはわかっていたが、電話帳は自宅に置いたままだった。何より僕が、一番に彼女に話したかった。
 彼女は、うん、と返事を重ねた。

「篠永――」

 名前を呼ぶのが、精一杯だった。
 その先にある言葉にできなかった感情は、けれど彼女がすべて察した。

「西山。今からわたし、支度してそっちに行くからね。少しだけ、待っててね。夕方にはそっちに着くから。すぐに会えるからね」
 ああ、と答えた。
「途中でも、必要なものがあったらメールか何かで連絡して」
 今は泣かないと決めたのだろう。
 声にだんだん芯が戻ってくる。

「悪いな。急がないで、いいから」
「ううん――連絡ありがとう。続きは、直接会ってから言わせて」
「気をつけて、来て。待ってる」
「わかった。またあとでね。すぐに行くから、待っててね」

 彼女はそう繰り返した。
 僕がそのとき一番欲しかった言葉を、彼女は完璧に理解していた。

10|彼の楽園、その墓標

10|彼の楽園、その墓標

 数日かけた葬儀が終わり、近所の人達も親戚も家に帰った夜のことだ。
 僕は祖父のときと同じ場所に設置した中陰壇の前に腰を下ろし、長い線香を一本、祖母のために供えた。

 八月の暑い日で、部屋の中は扇風機の音だけが小さく響いていた。
 静かだった。線香と、蚊遣りの匂い、それから供えられた百合の甘く強い香りが和室の中に広がっていた。
 祖母を施設に送ってから、二年も経っていなかった。
 実家でひとりで暮らすことには慣れていたが、それはあくまで祖母を預かってもらっているという認識の上にあったものだった気がする。
 帰って来ないのだ。
 この家に、僕が家族と呼んでいた人達は。

 遺影に使われている祖母の写真は、画像加工がされて実物よりも少しだけ肌がきれいに見える。それももう、比較もできないのだが。
 数日間下げ続けた頭の付け根が、固く張っていた。
 汗を全く吸わない喪服の中でできた、いくつかの湿疹がひどく痒かった。シャワーを浴び部屋着に着替えて、ようやく人心地がついた。

 二十七歳で、二度目の喪主をすることになるとは。
 人を見送る手順と作法を覚えてしまうには、さすがに早い年齢かもしれない。

 何となく横になり、そこでそのまま眠ってしまったようだ。
 西山、という声で目覚めると、そこには篠永が立っていた。

 通夜にも葬儀にも、納骨にまで参列してくれたのだ。
 二日間ほぼ同じ空間にいたはずなのだが、ばたばたとしていて言葉はほとんど交わしていなかった。小さな手伝いをあちこちでしてくれていたようだ。
「鍵が開いてたよ、危ないよ」
 自宅で着替えてきたのだろう。篠永は黒っぽい地味なワンピースを着ていた。デニム生地を薄くしたようなもので、花柄のように襟元が切り抜かれている。同じ色の、細いベルトで腰のあたりが締まっている。この色を着ると彼女はいつもよりずっと色白に見える。
「買い物してきた。ご飯まだなら少し食べない?」
 食欲はなかったが、頷いた。
 台所には送られた供花の中身がこれでもかと詰まれている。近所の人達に配ってもなかなか減らない、缶詰や味噌や調味料。店をひらけるな、という言葉を江田さんから先ほど言われて、閉めたんですが、と言い返したのだ。

 篠永はそこで、祖母としていたときと同じように調理を始めた。
 袋からすでに調理済みの生麺を取り出して、祖母の使っていた小さな鍋でそれを軽く茹でなおした。
 もう片方のガスコンロに火をかけ、薄切りにした茄子と豚肉をしょうが焼きにする。茹で上がって水でしめた麺の上に乗せ、刻んだ薬味を添えてから、つゆをかける。
 僕はそれを、ダイニングの椅子に腰掛けて何ともなしに眺めていた。
 薄墨色の服を着た色の白い女が、物静かに手を動かしているのを。

「この頃の食事、買ったものばっかりだったでしょう」
「うん」
 危篤の連絡が来て以来、まともな食事をとっていなかった。
 コンビニだの、病院の売店だので買ったパンや弁当を押し込むみたいにして食べた。
 とにかくやることだけが山のように目の前にあって、それどころではなかったのだ。
「うちのときも、そうだった。夏は水分もいっぱい取らなきゃいけないし、疲れたよね」
 篠永は、近所に住んでいた自分の祖母を中学一年のときに亡くしている。
 スーパーの袋と一緒に持ってきたらしい紙袋から、篠永はラップとゴムのかけられた紙コップと、紙でできた使い捨ての小さな弁当箱を取り出した。ラップをはずしてからそれを一緒にレンジにかける。

「色々、悪かったな。連休丸潰れだろ」
 やっと目が覚めてきた。
 彼女の週末を、両日うちのために使わせてしまった。きっと有給も使っている。
「うち、休みはけっこうしっかり取れるから」
 篠永は僕の後ろにある食器棚をひらいて、湯呑みを取り出していた。
 そして、僕の前に持ってきたものと作ったものを並べた。
 しょうが焼きの乗った、茄子の冷やしうどんと、かぼちゃのポタージュ。それから小さな紙製の弁当箱に、鮭と昆布の小さな結びが入っていた。実家で作って来たのだろう。

 僕に背を向けて、片付けをしながら、召し上がれ、と言った。
 そこに同席しないところがどうしようもなくこいつらしくて、日常に戻ってきたように思った。実際の篠永はふたつ隣の県で暮らしていて、祖父のいた頃よりも彼女の料理を口にすることは減っていたのだが。
 暑気あたりを通り過ぎてすでに気力だけで立っていた身体に、それはすんなりと入っていった。
 無闇に身体を温めようとも冷やそうともしない、適切な食事だった。
 篠永は昔から人のためにする行動に心を込めすぎない。自分がそれをすると暑苦しくてだめだと、なるべく冷静に、透明に動こうとする。
 紙製の弁当箱には淡い黄緑色で描かれた細かい花模様が入っていた。
 彼女がふたり姉妹の姉であり、女の多い家庭に育ったことを思い出した。

 調理器具を丁寧に洗い片付けてから、篠永は僕にお茶を淹れた。
「おまえも飲みな。少し座ってさ」
 言いながら振り返り、戸棚から湯呑みをもう一つ取り出す。
 彼女はうん、と返事をしてから、そのとおりにした。
 茶筒に入っていたのは、緑茶ではなくてそば茶だった。かなり前に見舞いとしてもらった物だ。詰め替えたのは十日ほど前の自分なのに、もう忘れていた。

 ひっそりと湯呑みを傾けた彼女は、
「大変だったね」
 慎重な声で、僕にそう告げた。
 ああ、と答えて、そこから先に迷う。どの点から話せばいいのか。
「じいさんの相続のこととか始めた頃だったかな、あっという間だった。あんなに簡単に人間って弱ってくんだな。持病とかじゃなくて、老衰で」
 そうだ、祖母は亡くなる直前まで身体のどこにも疾患を抱えていなかった。
 少しの怪我はしたものの、老衰というしかないその流れは祖父がいなくなったことで確実に加速していた。
「本当に仲が良かったからね。離れていられなかったんだね」
「俺達、何度かあてられたよな」
「そうだね。何度かあったね」
 ふたりで昔を思い出して笑う。
 祖父母は軽い言い合いのようなことも普段から好んだが、最後はいつも、互いを立てて会話を終わらせた。

 ――勝さんがうちにはいるからね。
 ――幸恵さんのおかげでね。

 そう言って顔を見合わせてにこにこしているのを見て、僕達は何度も顔を見合わせた。またいつものだよ、という気持ちで。
 篠永は、でも憧れる、と微笑んでいた。
 おじいちゃんたちは本当に素敵な夫婦だよね、と。

「西山、疲れた顔してる」
「むちゃくちゃ忙しかったもん。もう親戚が全然役立たずで、さんざん引っ掻き回されたよ。俺は一族の突然変異だなって思ってたけど、今回も同じ感想」
「おじいちゃんのときもそうだった」
「貧乏育ちが悪かったんだろうな、ずっと地元だし。ばあちゃんには悪いけど、まずは無事に終わって良かったよ。色々助けてくれてありがとな。失礼なことを言った身内がいたのも、申し訳なかった」

 篠永が、あの場にいてくれて良かったと素直に思った。
 金勘定ばかりしているようなのや、仲違いしているとかで周囲に気を遣わせるようなのが目立つ中で、篠永がひっそりとした佇まいで静かに動いているのを見るとほっとした。
 俗っぽい連中の集まる場の中で、優しい手つきで書類を整えたり、走り回っている親戚の子供に飴をあげてなだめている姿を目にした。祖父と違って小さな規模で行った葬儀なだけに、身内の濃さにやられそうになっていたのかもしれない。
 ここに、心を許せる人間が少なくとも一人いる。

「いいえ。西山、ここ数年で大人っぽくなりすぎちゃったね」
「老けたんだろ。ただでさえ年寄りと暮らしてたんだし」
 僕はわざと軽く言い返した。
「わたし、おばあちゃんには本当にお世話になったの」
 少しの沈黙のあと、篠永が口をひらいた。
 夏の夜には、線香の匂いが似合いすぎて嫌になる。
 立ち上るそれが部屋の中に漂うと、気持ちがそれに乗って妙に広がっていくようだ。
「ここでおじいちゃんと色々な話をして、西山と冗談とか軽口を言い合って、そういうところをいつも優しい目で見ていてくれた。自分の考えていることを口にするとき、あんなに優しい目で見てくれる女の人は今までいなかった。驚いたりからかわれたり、怖がられたり、わたし昔はそういうことばっかりだったから」
 篠永が、いつもの微笑みを顔に浮かべた。
 色々な感情を経た最後に、いつもする顔だ。

「西山」
「うん?」
「あのとき、大事なおじいちゃんとおばあちゃんをわたしに紹介してくれて、ありがとう」
 彼女は揃えた指先をテーブルにきれいに置いて、僕に頭を下げた。
「本当に、かけがえのないものをおふたりにいただきました」

 彼女をこの家に連れてくるきっかけになった、一冊の本を思い出した。
 塾で少しずつ喋るようになってから、二ヶ月ほど経った頃だ。
 早く来たらしい篠永は、その日塾の教室で文庫本を広げていた。

 ――あれ、本変わってる。今度は何にしたの?

 僕はいつもの調子で、彼女の前の席の椅子に反対向きに腰掛けた。
 あの頃の篠永は、まだ警戒心を微妙に残した表情を向けてきていた。
 君はわたしと話すようなタイプの男子じゃないでしょう、という目で僕を見て、実際に何度かそう口にもしていた。きつい口調ではなかったけれど、どこかで不思議がっていた。西山くん、毎日ここに一度は座るのって、わたしのことからかうため? 
 そんな経験もしてきたのだろう。男子に突然大きな声を出されたり、茶化されたりするのではないかと怖がっていた。実際はその警戒心を解きたくて毎日少しずつ声をかけていたのだが、人に対しては臆病な篠永が僕に完全に心を許してくれるまで、実はけっこうな時間がかかった。
 まるで砂山崩しのように、僕は外側から少しずつ彼女に話しかけるしかなかったのだ。中央の棒をうっかり倒したらその後の信用はない、とどこかで思わされるような雰囲気をあの頃の彼女は持っていた。

 その日も、篠永は不安そうな表情を残したまま顔を上げた。
 そのとき、目に入ってきた文庫本の表紙の知っている水色に僕は気がついた。

 ――ああそれ、うちのじいさんも好きで良く読んでる。

 彼女が手にしていたのは、ヘッセの『シッダールタ』だった。
 十四歳の女子中学生がそんな渋いもの普通に読んでるなよ、と今になっては思うのだが、とにかく彼女はそれを聞いて、一瞬だがぱっと表情をあかるくした。

 ――西山くんのおじいさん、こういうのが好きなの?

 初めて篠永美里から個人的な質問をされて、どきっとした。
 今でも彼女のする、わずかに首を傾げながらの質問だった。
 好奇心を感じながらも、少し返答を怖がるような表情だ。別に訊いてきたことを怒ったりなんてしないのに。
 僕は祖父が活字中毒であることを彼女に伝え、恐ろしい蔵書で家の一室が埋まっていることを話して聞かせた。さらに彼が内向的な性格の持ち主で、かつ頭と心がかなり片付いている類の人間であることを説明すると、篠永は驚いたような嬉しそうな顔をこちらに見せた。
 そうなんだ、西山くんてそんなおじいさんと一緒に暮らしてるんだ。

 そして帰宅後、夕食の皿にかかったラップを剥がしながら、僕は目の前でルーペを使い新聞を読んでいた祖父に言ったのだ。

 ――今日塾で『シッダールタ』読んでるやつがいたよ。

 あまり同級生の話をしない僕がそう告げたのが意外だったのか、ちゃぶ台の上に新聞を広げていた祖父は静かに顔を上げた。

 ――おまえの年でか? そりゃまた、変わりもんだね。

 祖父が笑った。 

 ――しかも女子だ。

 僕が答えると、祖父はほう、と目を丸くした。
 あれから、僕を介した祖父と篠永の会話が始まった。
 伝書鳩のように彼らの会話を四往復ほど伝え、すっかり面倒くさくなり直接連れて来ることにしたのだった。

 ある秋の日曜の、午後だった。
 うちの場所を知らない篠永を迎えに、近所の大きな通りまで出て待った。

 私服の篠永は、お嬢さんみたいな雰囲気だった。
 左右に分けて編んだ髪をひとつにまとめて、白いブラウスにベージュのスカートを履いていた。

 ――こんにちは。はじめまして、篠永美里といいます。

 緊張して声が高くなっている篠永が、僕の後ろで祖父母に向かって丁寧にお辞儀をした。
 祖父母が、あんなふうに顔を綻ばせたのを見るのは初めてだった。


 ああ、という声が彼女のほうから聞こえた。
 僕の知っている中で、それは最もやわらかく静かな響きのああ、だった。

 ぼろぼろと勝手にあふれ出してきた涙に、僕は抗うことができなくなっていた。
 美しい出会いだった。それぞれが思慮深く目を合わせて、その出会いの空気を大切に扱っていた。何か新しいことが始まると、全員が気づいていた。
 そう思うと、もう止まらなかった。
 理性を、頭の中で探し回る。
 いつもならすぐに動き出してくれるはずのそれは、今日はどこかに隠れてしまって見あたらない。疲れていたところに、思い出なんか掘り起こすんじゃなかった。壊れてしまった。

 篠永は椅子からゆっくり立ち上がり、座ったままの僕に向かって腕を広げた。
 僕が自分からは決してそれを求めないと知っている彼女は、こちらに半身を倒すようにして、そのままそっと僕を抱き寄せた。左手が胴に、右手が後頭部に廻される。
 良く知っているようで、実際はこんなふうには触れたことのなかった女にされる、何度目かの抱擁だった。身の周りの空気ごと包まれるような抱擁。
 その動きのやわらかさに、僕は身体を押し返そうとする気持ちを削がれてしまう。
 花のような、石鹸のような匂いが鼻を掠めた。

 彼女は何も言わなかった。
 励ましも、共感も、労わりも。優しさすら出さなかった。
 それが自分の役割だからと心得てしまっているような、ただ静かな受容だけがあった。
 
 自分から湧き出たものが、篠永の身体に向かって流れ込んでいくのがわかる。
 彼女はそれを、ただ受け止めた。吸い込む、という意図すらなかった。
 ただそこに器としての自分を置いただけというような、静けさがあった。

 感情の乱れを見られることは、何より苦手だったのに。

 僕は初めて、他人に完全に自分を預けていた。
 僕自身も消えてしまったように思った。
 ただの喪失だけが、身体の中から湧き出して止まらなかった。

 二度と戻ってこない人が、またひとり増えてしまった。
 両親に手を離された僕を、拾い上げたひとりだ。
 子供ながらに受け止めきれないと思うくらい、これでもかというほどに愛された。
 結局それに報いることなんてできやしなかった。

 祖母は芯のある女性だった。雰囲気にも、それが強く出ていた。
 彼女の愛情は細やかだった。僕に引け目を感じさせないよう、いつも一生懸命だった。
 孫に恥をかかせたくないからと、僕の母親と同じ年頃のお得意さんによくアドバイスを求めていた。泰智くらいの子の親は、どういうものを選んでるのか、教えてくれる? と。
 授業参観の度に、何を着ればましに見えるか彼女はいつも悩んでいた。
 畳の上には洋服を、鏡台の上には持っている化粧品を並べ、祖母はよくそれぞれの色を見比べていた。

 ――いかにもおばあちゃんじゃ困るのよね。でも、若作りしすぎと思われるのも嫌だわ。どっちも泰智がお友達に言われちゃうもの。

 言われないよ、と笑った。言われないし、言わせないから。
 祖母は頼もしいわねと笑い、これがいいよと僕に手渡されたあかるい色の口紅を言われた通りに唇に引いた。
 僕が中学にあがる頃には、祖母は和装で授業参観に訪れるようになっていた。
 世代の違う父兄の中で、小柄な祖母は凛とした佇まいで僕を見ていた。

 何も恥じることなんてない。
 交わす目線の中に、そういう気持ちを織り交ぜた。
 そんなふうに手を取り合って、僕達は厄介なことをいくつも乗り越えてきたのだ。

 篠永の手が、ゆっくりと僕の髪を撫でていく。
 祖父母との日々の中に、彼女は特に親しい相手として度々参加していた人物だった。
 祖父母と僕、そして、いつからか頻繁にやってくるようになった彼らのお気に入り、孫息子の同級生の篠永美里。
 それは度々僕の日常に現れた、四人で作る新しい家庭だった。
 三人とは違った健やかさと善さが、そこにはあった。
 篠永の存在が、祖父母が僕を見るときの哀れみや引け目を感じているような眼差しをあかるいものへと変えた。彼らは、僕を産んだ娘の代わりに思っていたのかもしれない。申し訳ないと。篠永は祖父母にとって、それを忘れさせてくれる存在でもあったのだ。
 夏でも火の入ることのある掘りごたつを囲んで、四人で季節の果物や菓子や店屋物を飲み食いした。大人になってからは少しの酒が入ることもあったし、篠永の土産だった動物を模した洋菓子に、祖母が可愛いと珍しくはしゃいだ声をあげたこともある。

 いくらでも、僕達は喋った。
 世相のこと、学問のこと、文学のこと、芸術のこと、歴史のこと。
 音楽のこと、人間関係のこと、そしてそれぞれのものの見方のこと。

 どれが正しいということよりも、思いついたことをそこに積み重ねていくのが良かった。
 誰かの一言を別の誰かが引き継いで、その日の会話が積みあがっていく。知らない言葉には解説が入り、祖父は少し眉を寄せたような顔をしてその事柄が載っている書籍の名前を言ったりした。
 すぐに廊下の本棚にそれを探しに行くのが篠永で、その合間に祖母はお茶を淹れたり手洗いに立ったりした。

 いつまでも終わらないその会話の中で、次第に飽きてしまった僕が携帯をいじったり漫画を読んだりし始める。
 音量を絞ったままつけっぱなしだったテレビの中では、昔の歌謡曲が流れている。
 店のほうから声がして、祖父の代理で飛び出していったことも何度もあった。

 僕達ふたりの大学の合格祝いをするために、祖父母がずいぶん長く足を伸ばしていなかった街のほうへ書置きだけ残して出かけて行ったこともあった。
一寸(ちょっと)駅のほうに買い物に行ってきます、お昼過迄に帰ります』
 夜型の僕は昼過ぎに起きてやっとそれに気づき、ほとんど寝巻きのまま家の外に飛び出したのだ。
 彼らは書置きの時刻通りに上機嫌で帰宅した。少しだけ余所行きの服を着て、タクシーの座席で祖母がケーキの箱を大事そうに抱えていた。

 篠永は、彼らとの約束を律儀に守った。
 うちの台所に立つ祖母と、洗われたばかりの食器を布巾で拭っては重ねていく篠永の穏やかな横顔。高いところにある大皿を取ってと僕を呼ぶ声。
 永遠みたいに思うほどに温かい、むせ返るように円満なあの空気。
 心のあやういところまでついひらいてしまいそうになって、慌てて少し拗ねたような態度を取ってしまった。
 あのたくさんの週末。もう二度とない。

 いつか来ることがわかっていた夜だ。
 覚悟だって、まるでなかったわけじゃない。

 嗚咽を何とか切り上げてその場を取り繕おうとすると、彼女は僕を抱きなおすようにしてそれを阻んだ。耳元で、喋らないで、と囁く。
 薄墨色のワンピースから伸びた白い手足は芯こそ温かかったが、表面は夜の空気に晒されたのか、ひんやりとしていた。

 あの夜、ひどく深い場所でそれを受け止めなくてはいけなかった。
 祖父母をふたりとも喪ったあと、彼らの不在に向き合うことになる最初の夜。
 それがきっと一生で一番心のやられてしまう夜だと、僕は幼い頃から恐れていた。
 自分の部屋として与えられた和室の六畳間の窓を開けて、眠る前に近所の景色を眺めながら何度も覚悟していた。誰にも言えない、覚悟の練習が僕にはあった。
 一人で受け止めるしかない、逃げられない夜がいつか必ずやってくる、と。
 大人の自分がいたことで、その衝撃は恐れていたほどでもなかった。
 その上で、芯の部分では昔の自分が想像していた通りのことが起きていた。
 起きた出来事に、僕は引き千切られていた。切り裂かれ、打ちのめされていた。

 それでも、想像とは違うこともあった。
 実際のその夜には、篠永美里が一緒にいた。
 僕の中で起きていることのすべてを、彼女は理解していた。
 他の誰にも出すことができない、僕の一番やわらかいところに起きていたその喪失と破損に、彼女は立ち会っていた。
 僕にぴたりと身を添わせて、物も言わずに。

 彼女はその夜、実家にも、借りているマンションにも帰らなかった。
 僕の部屋で、僕のベッドで、僕達は抱き合って眠った。
 痛みを彼女と半分ずつ分け合っても、夜は長いままだった。
 篠永のやわらかい腕に、壊れ物のように包まれて眠った。

 翌朝、さすがに色々な感情を見せすぎてしまったと気まずい気持ちで目を覚ました。
 彼女はすでに起きていたのか、ぼやけた視力でもすぐに目が合った。

 篠永は、僕が普段から野暮ったい感情を出すことを避けて生きていると知っている。僕は生活感を特別に愛しているが、それでも緩慢なものは耐えられない類の人間だった。そこだけは譲れないと、田舎暮らしの中で軽妙な雰囲気を失わないようあがいていることを彼女も良くわかっていた。普段は触れないようにしている部分に触れてしまった、そういう複雑さを互いにどうにかしなくてはいけなかった。
 僕達は何も言い合えないまま、ぎこちなく身体を離した。
 手足をすっかり絡めていたので、それには少し時間がかかった。

 起き上がった篠永は、寝乱れた髪を肩の左側に寄せてから、しわになったワンピースを手でぱたぱたと伸ばした。
 僕となるべく目を合わせないように立ち上がり、タオルケットをきれいに整える。

 一言目は、洗面所を借りるね、だった。
 篠永は洗面所で、僕はキッチンの水道でそれぞれ顔を洗い、歯を磨いた。
 自分がどこにいるのか、まだはっきりしないような気分で。

 洗面を終えた彼女が玄関のほうに向かうので、つい後を追っていた。

 シャッターを閉め忘れていたせいで、店の中は午前中の陽に照らされていた。
 紙袋に、葬儀関連で受け取った書類や冊子が乱雑に押し込まれ放りっぱなしになっている。
 十時手前。
 深い眠りの中で、忙しなかった数日間の出来事は区切られたように終わったことになっていた。

 靴脱ぎのところに、小さな赤のスーツケースが置いてあった。
 篠永はそれを開け、身支度のための何かを引っ張り出していた。
「昨夜、むこうに帰るつもりだったの?」
 何となく、申し訳なくなって訊いた。声が少し掠れていた。
 頼りない響きが恥ずかしくなり、強めの咳払いを繰り返す。
「場合によってはね。でも、チケットとかは取ってなかったから、問題ないよ」
「仕事は」
「二日間、夏休みをずらしてもらった」
 だから夜の七時すぎにその先の予定もろくに決めず出て来られたのか。
 昨夜持っていたスーパーの袋から考えて、移動手段はおそらく徒歩だ。彼女の家からここまでは、歩いて三十分はかかる。
 自分の疲れもろくに考えず、僕に寄り添うつもりだったのか。
 そう思うと、申し訳なさを通り越して苛立ちすら覚えてしまう。 

「おまえは、どうしてそうなの」

 僕は、いつもの口調で篠永に問いかけた。
 彼女が彼女の内側で遊ぶのに夢中になって、外側の世界に対して何らかのつまずきを起こした時みたいに。
 篠永も、同じだった。
 こちらを振り向いて、少しの自嘲も込めてふふっと笑った。いつもみたいに。

 耐えられなくなって、僕は寝巻き姿のまま彼女の手を引き、そのまま強く抱きしめていた。

「ああもう、次は絶対に抱く。俺としたことが、千載一遇だったのに」
 言いたいことはこれではなかったが、感情に沿う言葉としては適切だったと思う。
 ここ数年間、何度こんなこと口にしただろう。
「そんなことしないよ、西山は」
 篠永は腕の中で、僕を信頼しきっているようにくすくす笑った。
 あるいは、僕の弱みをすでに握っているとでも言いたげだった。
 僕にとって篠永と一線を越えるのは、この関係の中にあえて不安要素を追加するのと同じだと彼女はもう知っている。そこまで勇敢になれない僕の性格も。

「うるさい。そういうところが可愛くないんだ」
 何でもお見通しの、そういうところ嫌いだ、と言いそうになった。
 まるで頼りない、この家に来たばかりの恰好のつかない子供の頃みたいで自分で笑ってしまう。
 篠永は、僕に抱擁をやわらかく返しながら目を閉じた。
「大丈夫。これからも、あなたとわたしはここの四人家族の遺された子供同士だよ」
 恥ずかしいことを、と思ったけれど、もっと奥では安堵で崩れ落ちそうだった。
「生き延びてね」
「わかってるよ」
 そう、わかっているのだ。
 ここからまた、始めるしかないことは。

 篠永は僕の返事を聞くと、僕の両肩にしがみつくようにして背伸びした。
 耳元に唇を近づけて、内緒話のように囁く。
「大きなことを言うけど、笑わないでね。あと、今から言うこと、覚えていて」
 僕を昨晩のように抱きなおすと、彼女は背伸びしたまま続けた。

「今後わたしがどこで誰といても、何を思っていても、わたしは昨夜のあなたの悲しみに仕え続けるって、約束するよ。この先の人生全部かかってでもいい。西山がもういいって言うまで、わたし昨夜のあなたと一緒にいる」

 自分の目が見開かれるのを感じた。
 その言葉の意味は、昔からの彼女を知らなければきっと正しく理解できなかった。
 篠永の言葉に耳を澄ませてその出所を感じ取り、意味を推測し、唸りながらひとつに繋ぎ合わせ続けてきたのはこの瞬間のためだったのかもしれない。

 僕の胸の中にはまだ、生々しいままの喪失の跡があった。
 これからの僕に着いてまわる痛手だ。
 ゆっくりとこの痛みに慣れ、傷が塞がり、疼きながらもやがては薄れて、いつか懐かしいものになるまで共に生きていくしかないもの。
 それが起きた場所は、外からは絶対に見えないほど深くにある。
 だからこの先、僕は決して自分から他人にその場所を見せたりはしないだろう。その周囲に、簡単に人に立ち入られないよう新しい囲いを作ることすらするかもしれない。そういうふうにしか、振舞えないし振舞わない。
 僕はそういう男だから。それを篠永はよくわかっていた。
 わかっているからこそ、そこで僕をひとりにしないと言ったのだ。
 誰も入れたことのない、今後も入れるつもりがないその場所で、僕に寄り添うつもりだと。

 今抱いている身体が離れたら、昨夜の僕達は僕の心の底に深く埋葬されていく。
 昨夜の抱き合った姿のまま、ふたりで分かち合った一番深いところに沈んでいく。
 そこで彼女からの抱擁を受け、彼女から漏れる光に寄り添われながら、この痛みが消えてしまうまで共にいる。人知れず、ずっとふたりきりで。僕がそれを望まなくなるまで。あるいは、僕の人生が終わるまで。
 そこで僕の悲しみに仕えると彼女は言った。
 それは、篠永が僕の痛みに自分の一部を添い遂げさせると誓ったのと同じだった。

「何てこと言うんだよ」

 声が震えた。
 身体中の血が突然沸いたように熱くなった。
 離れがたかった。もうこのまま、すべてを忘れてこいつと交じり合いたかった。
 完全にひとつになってしまうまで。どこからが自分でどこからが相手なのかわからなくなるまで。心身両方が砕けて、あとかたもなく溶け合ってしまうまで。

 その欲求を満たせるかもしれないと思える手段は、もうひとつしかなかった。
 衝動が意識の脇に湧き上がっているのももちろん感じていた。

 篠永の後頭部に衝動的に右手を廻したが、それを使って彼女をこちら側に向かせることはできなかった。
 簡単なことのはずなのに、どうしてできない、と自分を問い詰める。
 振り向かせて、首を傾け顔を近づければいい。それだけじゃないか。そこまでできれば、あとは勝手に進む。身体はすでにそれをよく知っている。なのに、どうして動けない。

 身体は一時のことだ。また餓える。いずれは終わり、我に返ってしまう。
 その事実に僕はきっと耐えられない。だってまた分かたれてしまうのに。

 足りなくて、もっともっとと求め続けて喰らい尽くしてしまうかもしれない。
 そのくらい、餓えていた。餓えている自分を起こしてしまった。

 全部が欲しかった。
 自分の全部を、こいつに与えてしまいたかった。

 じゃあ、何をすればいい? 
 何をすれば、このままもう二度とおまえを離さずにいられるんだよ。


 僕を瞬間的に貫いた強い絶望に、篠永は気づいただろうか。
 芽生えた願望を実現する手段が、何一つないという絶望に。
 頭の中で、自分の理性の声が聞こえた気がした。

 ――その願望自体が正しくないんだよ。それに、今までそのことをどうにもできなかったのはおまえだろ。

 打ち抜かれたような衝撃だけが残った頭で、僕はそこに立ち尽くしていた。

 
 彼女が身を離したのは、それを終わりにしようとしたからだろうか。
 篠永はゆっくりと僕から身体を離し、僕に向かって微笑んだ。
 全身に触れていた身体の感触はなくなったが、胸の底に何かが残って沈んでいった気がした。言った通りのことを、彼女はしたのだ。

「帰るのが嫌になっちゃう前に、出ることにするね」
 篠永は気を取り直したように帰り支度を始めた。

11|心から

11|心から

「女ってのは、どうしてああなんすかね」
 館山祐樹がノートパソコンから顔を上げ、唐突にぼやいた。
 耳のすぐ上にヘッドフォンを乗せるようにしてかけている。音を完全に遮断しないようにするためなのか、わざと隙間を作っているようだ。
 うちのテーブルでノートパソコンを広げている僕と向かい合って、彼は作曲に使っているというDAWソフトをいじっていた。機材にはこだわりがあるようで、パソコンもヘッドフォンもきちんとしたケースに入れて持ち運んでいる。

「急にどうした?」
 テンキーから指を離して、僕は祐樹にむかって尋ねた。

 住んでいるアパートの屋根に塗装工事が入っているとかで、祐樹は朝からうちに来て作業をしている。
 カフェとかファストフードのほうが気分が乗るんじゃないの、と尋ねると、西山さん何かに毒されてないですか、と冷静に返された。公共の場で集中できないやつもいるんですよ、見世物じゃあるまいし、と。
 いきなり年寄り扱いされたような気がして、少々気分を害したところだった。
「有紗のこと?」
「ですね」
 椅子を後ろに下げて、背中を伸ばしている。

 祐樹は、いつも文系大学生のような服装をしている。
 素になればなるほどやんちゃに見える雰囲気の林に対して、祐樹は普段から冷静で物静かな印象を与える男だ。林に合わせて冗談を言ったりはするものの、実際の彼はかなり繊細で気難しい。
 元々、こういう形での音楽活動をするつもりはなかったらしい。
 パソコン一台で音楽自体は作れるし、自分はデジタル向きだと思っていたと言っていた。いずれはそっちと半々くらいの活動にしたい、とも。

「最初はアレンジのことでちょっと言い合いになってたんですよ。今回、俺クラシックのフレーズ入れたくて」
 ゆっくりと身体を左右にひねりながら、彼が続けた。
「今時『月の光』とか『カノン』なんて珍しくも何ともないって、これはわかるんですよ。俺もあの曲、何かのサンプリングで知ったくらいだし」
「まあ、よく聴くね」
「そういう話をしてたんですけど、だんだん有紗、意見が音楽から離れてきて。俺が待ち合わせの時間守らないとか、全然感情表現してくれないとか、もうそれ普通の喧嘩じゃないかって。それでついにあの一言ですよ。『あの時だってそうだったじゃん』」
 ああ、という相槌が自然と出た。
 パソコンの左側に置いていたマグカップに目をやる。
 乾燥した空気に喉が渇いていたが、すでに中身は空になっていた。
「本当に、なんなんすかね。あの時空を超えてく怒りは。それ今関係あんのっていつも喉元まで出ますよ」
「言ったらかなりまずいやつだぞ」
「わかってます。でもやっぱり、何回経験しても納得いかないんですよ」
 祐樹は難しい顔で言ってから、いつもより乱暴な仕草でそこに腰を下ろしている。

 立ち上がって、僕はケトルで湯を沸かすことにした。
 茶要るか、と問うと、祐樹は大丈夫です、と答えた。二十代前半の男に尋ねることではなかった、と思いなおす。ビタミン系飲料の毒々しく鮮やかなペットボトルを彼はいつも持ち歩いている。
「未練がないわけじゃないんですけど、この首の皮一枚な感じ、もうやだなと思って」
 椅子の上で身体を前後に揺らしている。
 高城有紗は、女の子らしい女の子、という言葉がぴったり来る子だ。
 そういう性質に疑問を持つような環境にいたこともなさそうで、良くも悪くもそのまま、という印象があった。
「ただ、今別れたらそのまま脱退されちゃうんですよね」
 祐樹はがっくりうなだれる。あいつ腕はいいんですよ。本当に、俺のイメージしてるちょうどいい音出すんです。

「関係だけ解消できるのがベスト?」
 それもひどい話かもしれないなと思いつつ、祐樹に尋ねる。
 ケトルのボタンが消灯しながら高い音を鳴らした。
「ベターってところです」
「複雑すぎるだろ」
 笑うしかない状況だ。
 有紗と林はまだ未知数だが、祐樹は音楽を生業にする力がある男な気がしていた。
 音楽を、というよりも、これと思ったものを物にすることができるような何かを感じさせた。良いものがあるんだからあまり誘惑になるようなものに負けないで欲しい、と真壁もよく言っている。
「来年、うちのバンド一回ばらばらになるかも」
 僕の考えをよそに、祐樹はあーあとテーブルに倒れこんだ。
「――まあ、なるようにしかなんないよ」
「ですね。でもつい、都合の良いこと考えちゃうもんでしょ、人間」
 ゲルインクのボールペンを一本手にして、右手で弄んでいる。
 大人っぽいことを言う、と思った。
「すげえ可愛かったんですよ、あいつ。俺、今までにないくらい尽くしちゃった」
 関係の先がもう長くないとわかっているような口ぶりで、祐樹は唇を尖らせた。


 祖母の葬儀関連の支払いや手続き、挨拶回りを終えてから、僕はしばらく何もしないで過ごしていた。
 夏の葬儀に心身共に困憊していて、一日に何度も強烈な眠気に襲われた。
 ちょっと横になるつもりが二時間ほど眠り込んでしまうこともしばしばで、一日の記憶がおぼろげになった。江田夫妻は葬儀後も様子を気にしてくれて、まめに色々なものを届けてくれたり、食事に呼ばれたりもした。
 江田さんが一度、定期的に通っているという医者にビタミン注射に行くから付き合え、と言ってきたので同行した。
 彼と並んで、初めて行く医院で一時間ほどの点滴を受けた。そのあいだも、何となく朦朧としていた。

 祖父の体調不良で地元に戻って来てから、二年と少ししか経っていなかった。
 想像した以上に短かった彼らとの最後の生活が終わり、拍子抜けしたのかもしれない。しばらくお休みしていっぱい寝るといいよ、とすみれさんに言われてしまった。そういうこと、君はしたことないでしょ、とも。
 日中に眠ってしまうせいか、夜は妙に冴えていた。
 寝室で昔のレコードをかけながら、ぼんやりしている時間が増えた。大人になってからはあまりテレビを見ない生活をしていたが、眠気覚ましにと幾度となくつけっぱなしにして過ごしていた。
 長い夏の熱気がじわじわと土に飲み込まれていくように、次の季節の気配が立ち上っていた。
 寝起きの無防備な身体にはそれが妙に細かく映りこんで来て、干しっぱなしの洗濯物を夜に取り込みながら僕はしばらくそこに立っていた。
 祖父は冬に、祖母は夏に死んだのだ、と。

 篠永はそれからも、二週間ごとに家にやってきた。
 連絡もまめにくれたが、わたしが顔を見たいのと言っては変わらずにうちを訪れた。
 線香を供え、家のことを少しして、あとはふたりで何もせずに過ごしていた。
 あの夜のことは、どちらも話題には出さなかった。
 それでも、すでに彼女を腕の中に入れてしまうことに抵抗はなくなっていた。

「来て」
 手を引くと、篠永は黙って身を寄せてきた。

 生きているものに、触りたかったのかもしれない。
 すべてが停止している空間で、僕は彼女を腕に抱えたまま何度も眠りに落ちた。
 篠永も僕に合わせるように一緒に眠ったり、どこを見ているのかわからないような目でぼんやりとしていた。
「美里」
 名前を呼ぶと、少し心が落ち着く気がした。
「うん」
「なあ、美里」
 彼女の首筋に鼻を埋めると、化粧品や整髪剤の匂いとは別に、どこか甘いような匂いがした。女の身体というのはこんなに皮膚がやわらかいのかと触れる度に驚きながら、彼女の首筋に頬を押し当てた。肌越しに感じる脈に、耳をすませる。

「俺、今何も手につかないかも。こんなの人生で初めてだ」
 嘘みたいに眠いんだよ。
 言う先から、瞼が落ちてきそうだった。
「それだけ、色々やってきたんだよ。苦手なんだろうけど、少し休まないと」
 彼女は僕の肩や背中に触れながら、小さな声でそう答えた。

 ふと思い立って、訊いてみることにした。
「おまえの仕事の話、してよ」
「それでやる気出ちゃったら、また無理するんじゃない?」
 抱き合ったまま、なだめるように背中をとんとんと叩かれる。彼女は少し笑っていた。
「だって、あんまり訊いたことなかったから。何でもいいから話して」
 薄い眠気がすでに頭の中に押し寄せていたけれど、彼女の声を聴いていたかった。

 篠永は少しのあいだううん、と考えて、少しずつ口をひらく。
「今は、ベビー向けの低刺激なシャンプーとかクリームの開発チームにいるよ。アレルギーとか、アトピーの子向けの保湿ローションなんか、需要が増えたから」
「そんなことしてたんだ」
「うん。アレルギーいっぱい持ってる子って大変だよ。お母さんも、人一倍気を遣わないといけないから。西山はあった? アレルギー」
 背中をゆっくり撫でられていた。僕も、彼女の髪の一束に触れていた。
「子供の頃だけね。柑橘類がだめだったな。喉、腫れちゃって」
「昔からなんだ、喉に出やすいの」
「美里は」
「わたし、全然なかったんだよ。自然児だったからかな」
 篠永は笑って言った。
 そういうふうにはまったく見えないのは、重ねてきた月日のせいだろうか。

「そんなに優秀なのに、月に二度も、こんなところまで来てくれてたんだ」
「別に優秀じゃないよ。わたしだけ基礎化学の出身だし。うちは薬学の人達が多いから、知らないことばっかりだもん」
 しっかりした仕事に就いていたんだな、と思わされた。
 自分の頭の中のことは良く話すのだが、篠永は実生活の話はほとんど僕にはしない。おそらく、誰にもしていないはずだ。本人がそれを一番に重視していないからかもしれない。一人暮らしを始めたときは楽しくて色々凝ったりしたとも言っていたのだが。
「大学でしっかり勉強して、良い仕事就いて、おまえ偉いよ」
「そんなに褒めないで。西山に見えてるほど、きちんとなんてできてないよ。思ったほど理系の頭じゃなかったし。至らないことばっかりだよ」
 少し身体を起こして、彼女が笑った。

「それに、そういうことが出来る土台を作ってくれたのはこの家の人達だから。ここに来ることなかったらって、考えると怖いもの」
「怖い?」
「うん。もしかしたら、一度どこかで零れ落ちてたかもしれないね」
 姿勢を変えて、今度はうつぶせになる。肘をついて、彼女は僕を見ていた。
「だから、こんなところなんて言わないで」
 弱気な発言が増えてきたことに、彼女も気づいていたのかもしれない。
 ああ、と答えた。答えてすぐにあくびが出てしまう。
 少し寝ようか、と彼女がおかしそうに言った。
 カーテンの隙間から入ってくる光が、腕の中に横たわる篠永の背中に当たっている。
 これあったかい、と彼女は言い、僕は自分の手の甲にもそれが当たっているとようやく気がつく。
 建てた人物のもういない、古い寝室。
 外は昼間で、その時間にされるのがふさわしい営みの音があちこちから聴こえて来る。昔風邪を引いて部屋で寝込んでいるときも、その音に不思議な気分になった。

 すべてを置き去りにして、または置き去りにされて残った空間だった。
 果てしなく鈍く寂しい場所なのに、安息という感じがした。

 眠りにつく手前で、いくつかの記憶が再生された。

「俺、本当はおまえに何だってしてやりたいよ」
 まだふたりとも地元に住んでいた、十七かそこらの頃だ。
 彼女を家に送る途中で、目の前の背中に向かって呟いていた。ほとんど勝手に口から零れたに近かった。
 少し前を歩く篠永は星空を見上げていたから、僕の声は聞こえないと思った。
 十二月の後半、二十時近い夜道は足音が響き渡るほど静かだと知っていたのに。マフラーで首廻りを覆っていたからかもしれない。
「わたしも同じこと西山に思ってる」
 篠永は振り向かないまま、今更当然だというふうに言った。
 篠永は後ろに僕がついているからといって、ふらふらと奔放に遊びながら歩いたりはしないやつだった。そういう可愛げのないところは面白くなかったが、三十分近くかけて家の近くまで送り届けるのは嫌いではなかった。
 背中で僕の気配をしっかりと感じ取りながら、一定の間隔を保ったままでゆっくりと彼女は歩いた。

「俺はおまえほど大変そうには見えないだろ」
 心外だ、という意味で彼女に抗議した。
「ううん、全然。とても大変そうに見える」
 やっとこちらを振り向いて応えた。
 どうしてそういう考えになるの? とでも言いたげな、納得できていない顔をしている。
「おい――」
「西山」
 反論しようとしたところで、名前を呼ばれた。
「大変じゃなかったらね、わたしのこと、西山はきっとこんなに好きじゃないよ」
 好き、という言葉を雑談の中であいつが使ったのは、あのときだけだ。

「は?」
 予想していなかった答えに、僕はつい大きな声を出していた。
 隣に並んで、じっと顔を覗きこんでしまう。
「おまえ今日熱でもあるの? わかった、風邪ひいたんだろう。昨日寒かったもんな」
「早合点しないで。別に健康です」
 篠永の、あまり感情が乗らないような喋り方は出会った頃からだ。それでも冷たく聞こえないのは、元々の声が優しい高さなのだろう。

 彼女は前を向いて、歩き出しながら続けた。
「言葉を変えるね。大変じゃなかったら、西山はわたしをこんなに気に入ってないと思う」
「別に、訂正までは求めてないから」
 それを必要とするくらいなら、最初の言葉なんてどうせ出てこないのだ。
 彼女に伝えていた種類はどうであれ、僕は篠永美里という人物のことが好きだった。
 気を許している自覚も、許されているという自負もあった。
「そう?」
「そうね。それに、おまえが俺を好きな程度には、俺もおまえが好きだと思うよ」
 そう答えたのは、反撃のつもりもあった。 
 何て返ってくるか待っていたが、思いのほか長い沈黙が続いた。
 次第に、胸がざわついてしまう。

 篠永の目に、涙が浮かんでいた。
 零れないくらいのわずかな量だったが、それに気づいた瞬間にやってしまった、と僕は青くなっていた。
「あー、ごめん。悪かった。余計なこと言ったな」
 僕はすぐに謝罪した。女の涙には弱かったが、僕は彼女のそれにはすこぶる、何十倍と言っていいくらいに弱い。人に泣かされているときには余裕ぶって傍にいられるくせに、自分が泣かせてしまう側になるともうだめだった。

 泣かないでくれよ、頼むから。
 胸の中で願った。

 その祈りが通じたように、彼女はそれ以上泣かなかった。一瞬だけど、強く奥歯を噛んではいたのだが。
 そして、彼女は止めていた息をそこでひとつ大きく吐いた。
「わたしのはね、もう好きに入りきらない」
 前を見ながら、笑ってそう告げられた。 
 言葉を、返すことができなかった。
「何だってしてあげたいのは、わたしだって同じだよ。この歳でこんな気持ちになっちゃうなんて、もうどうしたらいいのって思ってる。人生の順番がばらばらで。現実が全然追いついてこないんだもの」
 負けを認めるような笑顔だった。
 手袋越しに、小さな手を握る。
 同じ気持ちだったからだ。気持ちの強さが途方もなさ過ぎて、どこから手をつけていいのかわからなかった。

 それは、他の女の子達の言ってくれる『好き』とは、何もかもが違っていた。
 同じ年頃の女子達が伝えてきた、壊れやすく小さなおもちゃみたいな、不安定で脆い『好き』。いたずらに投げ合っては、反応が気になって相手の言動に答えを見つけようとしてしまう『好き』。
 そこにある繊細な浮き沈みのようなものを、僕は彼女から感じたことがなかった。他のどんなことからでも。
 そりゃあ、遠巻きにもされるだろう。篠永は一部の女子には徹底的に擁護され好かれていたが、一部の女子には理由もなしに嫌われるというタイプだった。
 そして、前者からの好意にこいつは昔から悲しいほど鈍感だった。
 
 自分で掘り返しておきながら、これは失敗だったと思ったときだ。
「ああ、西山。もうここでいいよ」
 篠永が、ゆっくりと僕のほうを見上げながら言った。
 大きな通りにまで出ているが、篠永の家の近所は道が入り組んでいて薄暗い。
「まだ家まであるよ」
「むこうの通りに、父が」
 さりげなく、手が離される。
 そこには、小柄な男性がグレーの上下のジャージを着て不機嫌そうな顔をして立っていた。
 車通りの多い街道の端から、僕達がいる歩道とは違う方向を見ている。娘が帰ってくるかもしれないと思っているのかもしれない。
 ウォーキングか何かのついでに、探しているのかもしれない。
「一緒に行くよ。今日はじいさんが引き止めすぎた」
 いつもは飲まないくせに、その日は珍しく祖父が酔ってしまい彼女に甘えた。
 そろそろ帰らないと、という言葉をいつもよりも饒舌になった口で三回ほど引き止めたのだった。
「いいよ、ここで」
「でも」
「あれは、いつもよりかなり怒ってると思う。二週続いてだし。父に大きい声で怒られてるところ、西山に見られたくない」
 篠永が、下を向きながらやわらかい声で続けた。
 狭い町だから耳には入っているかもしれなかったが、僕の家に彼女が頻繁に通っていることを彼女の両親は知らない。


 ――普通に、話していいのに。

 いつかそう言うと、彼女の身体のまわりの空気が一箇所、びりっと千切れたように見えた。
 身をぎゅっと縮めて、搾り出すように篠永は答えた。

 ――入ってきちゃうの、うちの両親。知らないままじゃ嫌で、そっとしておいてくれないの。心配だから、わたしが人様のおうちで迷惑をかけているかもしれないからって。親が挨拶するべきだって。

 もう何度も繰り返してきたことだ、というような口調だった。

 ――おじいちゃん達とも、知り合いになりたがるだろうし。そしたらもう、わたしは家にいるのと同じわたしになるしかなくなるよ。空気、全部塗り替えられちゃうから。

 それを望んでいないのは、説明させるまでもなくわかった。

 ――だから、秘密にしたままでもいいかな。ちゃんとしてないけど、それじゃあだめかな。わたし、ここにだけは両親に来て欲しくない。


「――わかったよ。何かあったら、あとで連絡して」
「うん」
 横断歩道の前で、彼女は頷いた。信号はもうすぐ青に変わる。
「あー、美里ちゃん。俺、すごく心配なんですが」
 僕はたまにする、祖父母の呼び方を真似て彼女を呼んだ。「みさと」の「と」の部分の発音が小さめなので、その響きはみさっちゃん、に近い。
 最初のうちは揶揄られていると思ったのか表情を固くして嫌がっていたが、繰り返すうちにこの呼び方をすると笑うようになった。
「慣れてるから平気。でも、今日はわたしのほう、振り向かないで」
 篠永はそう言うと、気合を入れるように頷いた。
 さっきまでのゆったりした雰囲気が嘘みたいに、彼女の周りに固い空気が生まれる。鎧だ、と思った。

「今日も送ってくれてありがとう。また明日学校でね。なんて、学校ではわたし、あんまり声かけないけど」
「かけてこいっていつも言ってるじゃん」
「政治的な意味もあるんだよ。じゃあね西山、おやすみなさい」
 信号が変わると同時に、篠永はそれより早足で道を渡っていった。

 西山、おやすみなさい。
 僕は篠永のする、この夜の挨拶だけは文句なしに好きだった。

 あのあと、僕は篠永の願いを聞かなかった。
 そんなこと、できるわけがなかった。

 彼女が通りのむこうから一度振り向くのに合わせて、僕は来た道を戻ろうと身体の向きを変えた。
 そしてしばらく歩いてから、街道沿いに植えられている欅の影に入って、むこうからはわからないように反対側を振り向いた。

 視界の端で、気まずそうに彼に近づいた篠永が父親に頬を打たれたのが見えた。
 短い怒鳴り声が続いたが、何と言ったのかは聞き取れなかった。
 強く手を引かれて顔をゆがめている姿から、目を反らすことができなかった。

 甘くほの暗い、依存関係だったといえばそうなのかもしれない。
 あの時代、僕達は本当に互いがいないとだめだった。
 強く相手を必要としていて、そうしているからこそ自分の輪郭を何とか保てた。周囲と同化できない部分を、そのままにしておけた。
 たったひとり、自分自身の芯の部分を映し出すことができる相手が、彼女だった。
 思い入れはどんどん強くなっていった。
 その後それぞれが別の場所に住み、新しい人間関係を作ってもその色が薄れることはなかった。互いの深いところに作ったあの地下通路も、失われることはなかった。どんなに離れていても、いくつかの情報のやりとりでその回路はすぐに復活し、機能した。
 繋がりだけは強く、けれど決して、互いの邪魔にはならないこと。
 負担になってしまえば、どちらかが寄りかかり続けてしまえば、関係自体が重く耐え難いものになってしまうことを頭でっかちの僕達はわかっていたのだ。

 わかっていたからこそ、あの日どちらにも揺れることができなかった。
 祖母の四十九日法要のあとに、家に来た彼女と言い合いになった。

 ひどい眠気の中で何度も突然の眠りに落ちたあの半月を終えたあと、少しずつ現実と自分の意識が噛み合うようになってきた。一日の時間の流れ方を思い出し、うやむやになっていた生活も形を取り戻していた。
 それでも、日常に戻ったという気はしなかった。
 半月のあいだに別の世界に入り込んでしまったかと思うほど、それ以前の暮らしが自分に馴染まなくなっていた。
 独特の焦りとして現れたそれを、僕は持て余していた。
 もう、誰かのために生活を変える必要がなくなっていた。
 中断されていた、自分が真ん中にある生活に、僕は放り出されたように戻されていた。
 
 四十九日の法要に、篠永は告別式と同じ喪服でやってきた。
 後ろのほうでひっそりと参列し、そのあとの会食には参加しなかった。少し疲れていたのだと思う。目の下に、青っぽい隈が浮いていた。
 鍵を渡して、それなら家で休んでいてくれと告げた。帰りに何か昼食を買って帰るからと言うと、途中で何か調達するから大丈夫と返された。
 わたしの事は心配しないで。西山、忙しいんだから、と。

 僕が帰宅したとき、彼女はすでに私服に着替えてうちの小さな庭に立っていた。
「そんなところで、何してるんだ?」
「金木犀の匂いがする、と思って。こっちはもう咲いてるんだね」
 祖父母が植えたわけではなかったが、窓の目の前に立っていたそれは毎年秋の訪れを教えた。祖母が少し窓を開けておくと、香りが廊下に漂った。窓の影になるからと定期的に鋏を入れる必要があったが、他の庭木よりも控えめにしていた。一年に一度、この時季のためだけにだ。
「むこうは?」
「まだだよ。あと一週間くらいかな」
 そうか、と答えた。近いようでもやはり気候や気温は違うのだと思うと、何となくそのまま気が沈んでしまった。
 この程度のことで、と自分でもわかっていた。気持ちが滑り落ちてしまうきっかけとしては、あまりに小さい。距離を感じてしまう出来事に、あまり触れたくなかったのだ。
「うちに入ろう」
 彼女の背中に手を廻して、僕は玄関へと誘った。
 歩きながら、昼飯は、と尋ねた。帰りにコンビニでおにぎりを買った、と返される。

「今日は少人数だから、一緒に来ればよかったのに」
 近所の和食の店でした、ささやかな会食だった。一番小さな座敷で、ごく親しい相手だけ呼んでいた。
「ごめんね。今日はちょっと、頭が重くて」
「それなら別の日だって良かったんだよ、来るの」
 言い方がいつもよりきつくなってしまう。
「――そうだね」
 返事までの間で、途端に後悔してしまう。まただ、と。
 どうしてか、彼女に以前のように振舞えなくなっていた。ほんの少しのずれのはずが、なかなか修正できずにいた。

「ごめん」
 居間に辿りついてそう謝ると、篠永は首を横に振った。
「ごめんな」
「大丈夫」
 そう返されたが、本心ではなかったはずだ。
 喪服の背広を脱いで、椅子にかけた。彼女は僕をゆっくりと椅子に座らせて、大丈夫、と繰り返した。僕はそんなにひどい顔をしていたのだろうか。
 労わるようにそっと髪に触れてくるので、僕は椅子に座ったまま篠永を抱き寄せた。
「――半月って、こんなに長いの」
 前回篠永が訪ねて来てから、十四日間だ。
「恋しかった」
 仕事に追われ、祖母の居る施設に通っていればすぐに過ぎていた二週間が果てしなく長いものに感じていた。
「苦しい」
 呻くような声でつい言ってしまったその一言に、彼女が同じように胸を痛めているのが伝わってきた。

 少し距離を置くべき時期だったと、今ならわかる。
 平常心を失っているあいだに、篠永とは接触するべきじゃなかった、と。
 考えがまとまらないでいた。それを、口にしてしまってもいた。僕の言葉をいつでも信頼してすべて受け止める彼女にとって、それはとても扱いづらい状態だったはずだ。
 二週間前も、僕は彼女にひどいところを見せていた。

 ――この家処分して、俺も別のところでやり直そうかな。

 この町に住んでいる以上、彼女との距離はずっとこのままだと思ったからだ。
 篠永は悲しそうな顔で、よく考えてからにしよう、と答えた。
 少し経つと、今度は別の思いに捕らわれた。

 ――おまえ、どんどんきれいになるのになんで彼氏作らないの。言い寄ってくるやつ、多いだろ。
 ――そんなことないよ。
 ――いや、見てればわかるよ。これから色々なやつがおまえに声、かけてくるよ。

 選んだ言葉によって、じくじくと自分の胸を痛めた。
 自分を責めるために発した言葉で、篠永を巻き添えにしていた。

 ――西山、やめて。わたしはそんなこと望んでないよ。
 ――どうしてこんなだめな男のところに通ってくるのか、俺、不思議なんだよ。
 ――だめじゃない。ずっと、ずっとだめなんかじゃなかった。

 篠永は強情を張る子供みたいに、僕に向かって首を振った。

 そんなことを言ったあとに、こみ上げてくる気持ちを抑えきれなくなった。
 日帰りでむこうに帰るという彼女を、バス停まで送ろうとした時だ。
 いつか、四人の時間を過ごすために楽しそうに駆け上がってきたあの高速道路脇の長い階段を、今は少し怯えたような顔で上ってくるようになっていた。僕を心配して、または、僕に振り回されるのを恐れていたのかもしれない。
 玄関で靴を履くために背を向けた篠永の肩に、僕は無意識に手を伸ばしていた。
 不意打ちのそれにびくっとしたのは、驚いただけではなかったはずだ。

 ――おまえがいればいいんだ、俺。

 彼女を背中から抱いて、そう言っていた。

 ――他のものなんて一切いらない。おまえだけいれば、俺はいいんだ。

 僕の心の揺れに、彼女は消耗しきっていた。


「西山」
 椅子に座ったまま、彼女のみぞおちに額を押し付けていた僕に向かって言った。
「なに」
「わたし、いつ戻って来てもいいんだよ」
 顔をあげさせないように、後頭部にそっと手が置かれている。
「もし本当にわたしを必要としてくれるなら――わたし、ここに戻って来るよ。わたしがずっと西山をどう思ってるか、わかってるでしょ」
 声は優しかったが、少し震えていた。
「わたしは――もう、あなたが誰より大事なんだよ」

 頭上から降ってきた言葉に、嘘のように頭が冴えていった。
 重い気分はそのままだったが、止まっていた頭が廻り始めた。
 いつの間に、このふたつが完全に重なっていたのだと気がついた。ずっと別物だったのに。

「西山のわたしへの気持ちは、これからもずっと同じ、かな」
 篠永の声が、だんだん小さくなる。
「何言って――」
 顔を上げる。

 彼女は微笑んでいた。
 微笑みながら、でも泣いていた。

 決して言わせてはいけないことを、言わせてしまった。
 篠永が恐れているのが伝わってきた気がした。
 今までうやむやにすることで保ってきたものを、こんな状態ではっきりさせようとするのは間違いかもしれない、と。
 あんなに悲しい思いを積み重ねた場所へ、僕のためにすべてを手放して戻って来てもいい。
 口ではそう言っていたが、それが怖くないわけがなかった。
「ねえ、本当のこと言っていいんだよ。色々な気持ちになってるの、わかってるよ。そういうところもわたし、受け容れたい」
 一番の勇気を、彼女のほうから奮わせてしまった。
 
「それをやったら、今の俺は本当におまえを壊しちゃうんだよ」
 ため息のあとに、僕はそう告げていた。
 ほんの少しの隙から湧き出てしまうほど、大きな渦を抱いていた。
 抑えきれないほど、僕は自分自身の感情を持て余していた。
「わたし、そんなに簡単に壊れない」
 子供みたいな否定の仕方だった。彼女の涙が僕の頬に落ちた。

 重ねてはいけないところまで、自分達を重ねてしまっていることに気がついた。
 罪の意識からか、気持ちがどんどん冷静になっていく。
 正さなくてはいけない。距離を、関係を、自分の気持ちを。

「だめ。それに、俺まだ聞いてないよ。おまえが知りたいって思ってたこと、判ったって。結論が出たって」
 彼女の腕を解いて、身体を離してから目を合わせた。
 それを放り投げて僕のところに戻って来たら、僕の気持ちに飲み込まれてそれどころじゃなくなるだろう。あれだけこだわっていたことをうやむやにして、ずっと居心地の良くなかった場所に戻って、彼女に何が残るのか想像しただけで恐ろしくなった。
 それなのに、篠永は僕を見て泣きながら続けた。
「もうそんなのいい。充分追いかけた。色々な人に迷惑かけて、誰にも返せなくて、こういうときにだって結局何もできない。もう充分だよ」
 搾り出された言葉の中に、悲鳴を感じた気がした。

 怒りが沸いたのはおまえに対してじゃない、と言わなかった僕がいけなかったのだ。
 瞬間的に立ち上がって、僕は篠永の両肩を強く掴んでいた。

「そんなこと簡単に言うな」

 子供の頃から周囲の大人の男に怒鳴られ続けて、彼女がそれを最も怖がり普段から避けようとしていると知っていたのに、声を張り上げていた。

「今まで何のために苦しんできたんだよ。おまえ、うちに初めて来た頃ぼろぼろだったんだぞ。そうなっても諦められなかったことがあったの、忘れたのか。うちの家族が、今までずっとどんな思いでおまえを見てたと思ってる」
 
 きれいな夢を持っている彼女の、味方でいようと決めていたのだ。
 たとえそれが年を追うごとに薄れて消えてしまうようなものでも、大人になってみればあっけないものだったと気づくとしても、それで良かった。知りたいと思っていることを追いかけ続けるには少し力が足りなかった彼女に、力を貸したかった。
 まずは僕から。そして、ふたりの家族を巻き込んで。
 そんなのいい、と言ったのは、答えじゃないとわかっていた。
 まだ先があるとわかっていながら、それを辞めてしまうことだった。

 彼女は僕の声を、真正面から受け止めていた。
「ごめんなさい」
 傷ついた顔で、そう言った。
「美里のせいじゃない」
 言わせたのは僕で、怒っているのは、自分自身にだ。
 彼女は唇を噛み締めたまま、首を横に振った。
「ううん、わたしのせいだと思う」

 しばらく沈黙が続いた。
 ああ、本当になんてことをしていたんだという気持ちでいっぱいになっていた。
 出会ってからずっと、これだけは避けていたのに。
 後悔で、肩が小さく震えていた。

 篠永は、僕をそこにもう一度座らせた。
 なだめられるように、静かに抱きしめられる。
 祖母のいなくなった夜と同じ、静かな抱擁だった。
 何かを覚悟しているんだ、と思い、その衝撃に備えた。
「今までいっぱい甘えて、ごめんね」
 表情は見えなかった。やめてくれと言いたいのに、声にならない。
 甘えさせたんじゃない。頼って欲しくて、そうしただけだ。
 この二年間、甘えていたのはむしろこっちのほうだった。
 口をひらけば嗚咽にしかならなそうで、僕はそこで力を入れて黙っていることしかできなかった。
 彼女は僕に謝ると、同じように泣くのを我慢しながら出す細い声で続けた。
「わたし、しばらくあなたなしで頑張ってみる。それでもう一度、あのこと最初から挑戦してみるね」
 落ち着いた声を出そうとしていたのだろう。でも震えていた。
 背中に廻る手に、同じような震えを意志で抑えている気配があった。

 ゆっくりと、身体が離れた。
 言われた言葉に目の前を遮断されたように、感情も身体も止まっていた。
 篠永は眩しいときにそうするように目を細めたような表情で、僕に向かって微笑んでいるようだった。

 嫌だ、と言わなくちゃいけない。
 頭の奥でそういう判断だけが瞬いたが、やはり動けなかった。
 やわらかく小さな左手が、僕の頬にそっと触れた。
 一度だけ、右目の下に唇が押し当てられた。

「泰智、ありがとう。わたしは本当に、誰よりあなたに感謝してる」

 その囁きが、最後だった。
 動けないままでいた僕から身を離すと、彼女は自分の荷物を掴み僕の家を出て行った。

最果ての星を拾いに【中】

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最果ての星を拾いに【中】

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-06-14

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  1. 06|Under my skin
  2. 07|境界線
  3. 08|あいのうた
  4. 09|あの日の子供
  5. 10|彼の楽園、その墓標
  6. 11|心から