最果ての星を拾いに【上】

古瀬 深早

最果ての星を拾いに【上】

▽『水曜日のシャツを脱いだら』の続編です
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01|冬の再会と彼女の虚誕

01|冬の再会と彼女の虚誕

 断然、フラットシーツ派だ。白すぎない白のものならなおいい、と思う。
 厚手の綿のものが一番好みだが、目が粗すぎるのは良くない。少しの絹が入っているのも確かに悪くはないのだが、やはり軍配は綿百に上がるだろう。妙なプリントやストライプなんかの織り柄も、ちょっと遠慮したいと思う。
 ベッドのスプリングから一息で引き剥がせるところが好きだ。洗いたてを干すときの物干し竿にかけられた、あの気持ちの良い長方形もいい。
 陽や風の強い日なら、干したシーツは二時間あればすっきり乾いてしまう。じゃああとは適当で、と言い続けてもなぜかうまくいく、気の合う友人関係みたいな気楽を感じさせる。

 そして、一番の魅力はここだ。
 ゴム入りのボックスシーツをセットするときにはない、ベッドメイキングの厳かな気分と、あの集中。前後の寸法に合わせて一種の儀式みたいにそれを広げるとき、僕は神聖な時間の中にいるような気さえする。
 一連の作業はあかるいうちでないとだめだ。寝る前だと何となくみすぼらしい気分になるから。
 目が覚めたとき、眠っているあいだにパジャマからずれて飛び出したふくらはぎや手の甲が、すべらかなシーツに触れている。
 至福だと思う。完璧の条件が整っている、と。

 それだけこだわっている寝室は、聖域のはずだったのだが。
「殿、何か仕事をいただけませんか。あとパンも。このままではジャン・ヴァルジャンするのも時間の問題です」
 想像力がうろうろと時空をさまよう、寝覚めには全くふさわしくない言葉で目を覚ました。

 薄目を開けて、声のほうに顔を向ける。
 男が頭を畳に擦り付けているようなシルエットが見えた。光がまぶしい。
「おまえね、寝室にまで入って来るなよ」
 枕元に置いて寝たはずの眼鏡を見つけるために、僕は手探りでそこらに手を伸ばす。

 声と内容で判別はついてはいたが、林が二つ続きの和室の、ちょうどふすまのところで土下座していた。
 位置を計算したのか、本当に時代劇の真似事をしているみたいに見える。
 わざとだったら笑ってやるのだが、起き抜けでその判断まで頭が廻らなかった。
「階下からお呼びしたのですが、気づいていらっしゃらなかったようなので」
 林は変わらず、家来のように振舞っている。

 二十歳そこらの頃って、朝からこんなに元気だったのか。
 九年ほど前を思い出そうとしたが、夜型の僕にとって朝八時は夜明けくらいの感覚だった、ということしか思い出せなかった。
 あの頃は、午前中という時間帯はくまなく眠かった。参考にならない。
「俺がひとりじゃなかったらどうするつもりだったんだよ」
 眼鏡に補われた視力で室内の様子を確認しながら、身体を伸ばしてみる。
 加湿器の水を足してから眠るのを忘れていたらしい。喉の奥がわずかに乾燥している。
「殿はよほどお気に召したご婦人以外は、ご自宅にはお招きにならないでしょう。そして今、その対象になる特定の方はいらっしゃらないはずだ」
 しれっと言うところがむかついた。こいつ、よくわかっている。

 祖父の店の真上にあったふたつ続きの六畳間の一番奥に、スプリングを二つ重ねて置いているのが僕の寝室だ。室内に他の家具はない。
 二階には、あとふたつ別の部屋がある。
 かつてはそのうちの一つを自分の部屋としていたのだが、階下の祖母からの呼び出しにすぐに出られるようにするために、四年前から階段の真上のこの部屋で眠るようになった。
「あれ? でもおまえ、今日派遣のほうに行くって言ってなかった?」
 やっと頭がはっきりしてきた。
 林は昨日の午前に前日の忘れ物を取りに来て、西山さん、明日の夜とかどうですか、と訊いたのだ。ゲームと風呂と飯を目当てに、林はよく家を訪ねてくる。
「先方の都合でキャンセルになりました」
「なんだよ」
「本当になんだよ、ですよ」
 林が憤りを込めて言うのを、おまえのことも含めて言ったんだよと思いながら眺める。

 林は、柴犬っぽいトーンの見た目をしている。髪の色があかるめで、肌の色も若干薄めに見える。
 つぶらだがどこか達観したような目の持ち主で、出会った当初はさぞやしっかりした男なのだろうと思っていた。蓋を開けたらこれ、という表現がこんなにしっくりくる男もいなかったわけだが。
 本来は、どちらかと言えば秀でた類の人間のはずだ。同時に、どういうわけか適応できる範囲が狭い性質でもあるらしい。会う度に少しずつ社会不適合者の匂いを出し始め、うちに来るようになってからはもうそれを隠そうともしなくなった。
 本人も僕には本性を知られているとわかっていて、最近はここを法人化して自分を雇えと言う。
 おまえバンドでプロ目指してるんだろ、そっちどうすんだ、と訊くと、このご時世で自分のような人間が音楽一本でやっていけるわけがない、天才ではないから兼業すると言う。しっかりしているのか、保険として使われているのか僕にもまだわからない。そもそもこんなに細い、祖父から引き継いだ店を魔改造しただけのいんちき商売で何をやれと言うのか。

「わかったよ。チャリを貸してやる。午前中以内に銀行全部、記帳巡りと送金行って来て。戻ったら問い合わせのメール対応。注文があったら緩衝材で梱包。俺のいないあいだに事務所の掃除。十四時(にじ)十六時(よじ)に宅配便が来るからその受け取り。来客対応。日給は前回に同じ、税金計算が面倒だからそれ以上は出さんが飯は食わせてやる」
「御意」
「毎回言うけど、さぼったら次はないからね。ポレイルで盗みでもして、投獄でも何でもされるんだね」
 うちでもよく使う、近所のパン屋の名前を挙げて僕は林を追い出すことにした。
 僕の『レ・ミゼラブル返し』を受けた林は、
「そうなったらネットでここの店のめちゃくちゃなレビュー書きますからね。『無情の林』ってニックネームで」
 ふざけた顔で言い返して、部屋を出て行く。

 殿のパンも焼いときますよ、と廊下から聞こえた気がした。
 朝食からか、とため息が出た。今年で一番ひどい目覚めだ。


 階下に下りていくと、林はすでにトーストを食べながらさっき出した指示を紙にまとめていた。こういうところは、しっかりしている。
「外は銀行だけでいいですか」
「あ、あと印紙買ってきて。二百円の、とりあえず十枚で」
 他にすぐ必要なものはなかったはずだ。どのみち今日は午後から講師の仕事の予定がある。
 キッチンとつながるリビングのエアコンをつけて、洗面所に向かった。
 今日はそこまで寒い日ではないらしい。

 一人暮らしには古くて大きな店舗つき住宅の我が家は、現在は主に一階を仕事と来客用、二階を物置と僕の寝室として使っている。
 六部屋あっては管理が大変かと思ったものの、娯楽を除く私物を極限一歩手前まで減らしたおかげで何とかなっている。その娯楽、が曲者なのだが。

 こういう暮らしを始めて、四年目になる。
 完全に必要に迫られて始めたものなので、生活も仕事もつぎはぎだらけというのが正直なところだ。

 まだ、祖父の介護用ベッドをリビングに置いていた頃のことだ。
 都心から荷物をまとめて戻ったばかりの僕は、これから数年に渡るだろう介護生活をどうやって組み立てていくべきか迷っていた。
 最初は、伝手を頼って事務のバイトでもしようかと思っていたのだ。
 そこで祖父がまだ廃業届を出していないということ、祖母が祖父の介護関連の手続きをほとんど何もしていなかったことなどを知って、電話をかけるのをやめた。

 ――別の仕事とかも入れていいなら、俺が続けるよ。ずっとかはわかんないけど。

 この店まだ動いてたのか、という衝撃を受けながら、僕は祖父に尋ねた。
 祖父が僕の言っていることを理解できたのはそれから五ヶ月くらいのことだったから、それは飛び込みでの引き継ぎみたいなものだった。彼は頷き、僕は祖父のやっていた小さな小さな商店の跡継ぎになった。
 年金暮らしの老人のする、洗剤や調味料といった近所の人間が喋りついでにちょっと買いに来るようなものだけがある、寂れきっていた店だった。
 店主になってすぐ、僕は店の帳簿と現在何らかの支払いのあるすべての契約書を祖母に出してもらった。
 それによって、僕はよくこれで大学まで行かせてもらえたと思えるような家の経済状況と、今の世の中を知らない年寄りがいかにオプションサービスの餌食にされているのかを知ることになる。
 学生の頃は家電量販店だの携帯ショップだので契約させる側のバイトをしていた友人も多くいたし、その大半に個人的な悪意がないこともわかっていた。
 それでも、不要な支払いの一ヶ月ぶんの合計額を見せると祖母の表情は固まり、みるみる申し訳なさそうになった。僕の仕送りしている額の三割ほどの額だということに思い当たって、言うべきではなかったと悔やんだ。
 祖父母は勤勉な性質だったが、経済的には無防備なところもたくさんあった。
 昭和一桁生まれが海外R&Bの専門チャンネルなんて本当に好き好んで観ると思うのか、とケーブルテレビの会社に凄んで電話をかけ――はさすがにしなかったが、それからの僕は祖父母名義でされたあらゆる不要なサービスを解約し、生命保険を見直し、介護保険に関する手続きを行ったのだ。

 あの年は、いくらでもやることがあった。

 がらがらだった店の半分に、店舗販売の商品をまとめた。
 コンビニだってないわけじゃない、高齢化の進む住宅街にある小さな店にわざわざ買い物に来る層なんてたかが知れている。まだあの頃は祖母も店に立てたから、数年ぶりに会う常連客は僕もよく覚えていた。
 店の半分を仕切って裏にパソコンを置き、ネットに繋いだ。
 学生時代の、薬学部に通っていた健康成分おたくの友人に連絡して、価格帯別に「田舎の親に送るならこれ」というサプリメントだの健康食品のリストを送ってもらった。あちこちからそれを取り寄せて店に置くと、やがて少しずつ出るようになった。若干凝った雰囲気のある贈答品、冷えを取るためのサポーター類、少量の安価な衣類、ぽち袋。糖尿病と高血圧に対応した菓子類は特によく売れた。
 仕入れたものは年寄りの性質を知っている者なら誰でも思いつくようなものだったが、それまでの売り上げとは明らかに違った手ごたえが見えてきた。これは意外なことだったが、近隣までに水や米やティッシュなどをサービスとして届けるようになると、あれを持ってけこれを持ってけで差し入れの量がそれまでの倍になった。祖父母のそれまでの人徳ならではなのだが、あの頃は近隣の家庭菜園で取れた野菜に大変お世話になった。
 他にも色々やった気がするが、夢中になりすぎていたのかあまり覚えていない。
 大きく何かに挑戦できるような時期ではなかったが、死にかけていた店に新たに小銭の循環する環境を作れたことは満足だった。延命措置だ、と思ったのを覚えている。

 ほとんどが学生時代に読んだ本の受け入りで、実際はトイレや食事や入浴の介助などが仕事の合間に入るスローな生活ではあったのだ。
 それでも、外貨を求めて家から離れる時間を作らなくて良くなったことはありがたかった。

 そんなふうにどうにか毎日を過ごしていると、祖父は次第に日中から傾眠傾向が強くなり、トイレ以外に立つことがなくなった。
 祖母とふたりで看続けたが、結局それから半年経たずに逝ってしまった。
 享年八十三歳。僕が二十五歳のときだ。
 数年がかりになると覚悟していたその生活は思っていた以上に早く終焉を迎え、僕はそのまま祖母とこの家で半年、それからは一人で暮らしている。


「どれだけ俺がここで待ってたか、わかる?」

 これから叱られることがわかっている子供のように居心地悪そうな顔でこちらを見てくるので、つい言ってしまった。
 うちのリビングの、前回の来訪とは違う本来の定位置で彼女は小さくなっている。

 師走の半ば、十八時を過ぎていた。外はもうすっかり暗い。
 一ヶ月ぶりに会った僕の篠永美里(しのながみさと)は、その妹に聞いた通り一回り痩せていた。

「ごめん。怒ってるよね」
「怒ってない。やたら謝るなよ」
 気まずそうに謝る声に対して、ついそう答えていた。
 弱って見える人間に強く言い過ぎた気がして、わずかな後悔を感じてしまう。

 篠永は、焦げ茶色のタートルネックのニットを着ていた。
 白の混じった灰色の、温かそうなコートを羽織ってやってきたばかりだった。前回はずいぶん質素というか女らしくない恰好をしていたが、今日はきちんと前髪も巻いて、歳相応の化粧をしているようだ。
 頼りない体つきになってしまってはいるが、血色もよく安定しているように見えた。
 前回はやはり、何かが少しおかしかった。

「一時的に戻って来てるって言うから、すぐにむこうに帰るのかなと思ってたのに」
 何か事情があって、少し長めの帰省をしたのかと思っていた。
 まさか、荷物をまとめて引き上げてきたとは想像もしていなかった。
「こっちに、引っ越してたんだな」 
「うん」
 せめて返事だけはしっかりしようと思ったのか、慎重に彼女は頷いた。

「驚いたよ。ここ出て行くとき、俺達一緒だったよな? 俺が四年前にむこうから戻って来るときだって、おまえ手伝うってわざわざ出て来て俺の部屋に泊まりまでしたのに」
 言いながら、僕は祖母から受けた電話を思い出していた。
 上京してから七年ほど住んだ、代々木の古く小さなアパートで洗濯機を回し始めたところで、祖母がどこか申し訳なさそうな声で電話をかけてきたのを。

 ――おじいちゃん、このあいだの風邪でだいぶ弱っちゃって。もうそろそろヘルパーさんをお願いする頃かもしれない。あんまり起きて過ごせないのよ。

 話し終える前には部屋の解約申込はがきを探し始めていた。
 ついに来たか、と思いながら、僕は翌日に上司に話を通すことを決めたのだった。

 泊まり、という言葉に篠永は目を大きくして僕を見た。
「泊まりって、人聞きが悪い。あの日、ちゃんと帰ろうと思ってたんだよ。三十分だけ休ませてって言ったじゃない。西山、起こしてくれないし」
 言っているうちに、だんだん声が小さくなっていく。篠永は昔から静かな声でゆっくり喋るので、話していると次第にこちらの勢いも落ちてきてしまうのだ。
「幸せそうな顔して寝てるから起こせなかったんだよ。犬猫かってくらいすやすや寝てたから」
 当時の彼女の姿を思い出して、僕はつい笑ってしまう。

 普段人の家で居眠りや雑魚寝なんて全くしない性格の篠永が、どういうわけかその日は十九時過ぎたあたりからぼんやりしはじめた。
 もう少し部屋を片付けたら食事に出て、そのまま彼女を駅まで送ると約束していたのにだ。
 午後からうちに来て細々した片付けを手伝ってくれた彼女に、夕方頃の僕は夕食を奢る約束をしていた。何が食べたいか尋ねると、少し考えてから「玉ねぎの揚げたの、あとは任せる」と返ってきた。食欲がピンポイントで沸くやつなのだ。僕は串かつ屋でいいかと尋ね、彼女は頷いた。
 数時間後、細々したものをダンボールに詰めていた篠永がそこで突然うつらうつらとし始めた。
 どうしたと尋ねた僕に、彼女は喋るのもおっくうだという様子で「本当にごめん、三十分だけ寝ていい?」と答えた。そのまま部屋の隅へずるずると移動して、動物みたいに丸くなった。十秒後には寝息になっていて、あっけに取られたのだ。珍しいことで、よく覚えている。
 じゃなくて。
「二年ぶりだったんだよ。やっと会えたと思ったら様子がおかしいし、何も話してくれないし。妹さんがいるからかなと思ったら、今度は家に連れて来るしさ」

 講師の仕事から帰る途中、僕は仕事の備品を求めて少し足を伸ばしていた。
 書類を広げたくてファミレスに立ち寄ることに決めたのは、ほんの気まぐれだった。
 店を出て階段を下りていく途中で、駐車場に立っているふたりの若い女性が目に入った。
 片方が篠永であることに気づき、声をかけると彼女も僕に気がついた。

 そう、二年ぶりだったのだ。
 二年前の秋にここから彼女が出て行ってから、僕は篠永とは直接会っていなかった。
 しばらく音信が途絶えた後に少しずつ文字や声となって繋がりを取り戻してはきたが、あの日ファミレスの駐車場で再会するまでの約二年間、僕達は全く顔を合わせていなかった。

 再会のとき、彼女は会話の途中で明らかに何かを恐れていた。

 ――あの空気、出さないで。

 彼女はアイコンタクトで確かにそう伝えてきた。
 僕はそれを察して、彼女と話す雰囲気を本来の自分達のそれよりかなり軽めに設定しなおしたのだ。他の同級生にするくらいの態度に、わずか十秒で。
「まさかあんなところに西山がいるとは思ってなくて。あの日は美咲とそこまで接触させたくなかったの。本当にごめんね」
 篠永は困惑の表情を浮かべたまま、きまり悪そうに僕を見上げている。

 篠永美咲(しのながみさき)。彼女の妹だ。
 姉のする家族の話からその存在は知っていたが、実際に顔を合わせたのはあの日が初めてだった。
 顔は、あまり似ていなかった。篠永は温和で眠そうな猫みたいな顔をしているが、妹はもっとわかりやすく表情の変わる娘に見えた。姉よりもはるかに人の中を生きるのに長けているのがわかる、嫌味のない性格の持ち主だった。

 ――なるほど、こちらが寵愛対象だったわけだ。

 本人が悪いわけではないのだが、僕の目線には自然と皮肉が混じっていた。

 それを反省したのは、後日彼氏とこの家にやってきたときだ。
 彼女は篠永のことでかなり思いつめていて、僕に助言を求める目には姉への愛情がいっぱいに湛えられていた。
 驚いた。想像していた以上に善良な娘に見えたからだ。彼女の恋愛に口を出すことで姉の情報を引き出そうとしていた自分の性格の悪さに、その後少しばかり落ち込んだくらいだった。

 あの妹とその彼氏がうちを訪れた翌々日、渡した名刺に書いていたアカウントにメッセージが届いた。

『篠永の妹です。先日はありがとうございました。姉、どうやら落ち着きそうです。そのうちに挨拶に行かせます! それから、わたしは根が単純なので騙すのは簡単だったと思いますが、正直ちょっと悔しいです。いつか仕返ししますからね(笑)!』

 後半の意味はわからなかったが、こちらにまったく寄りかかってこない、快活な雰囲気のメッセージだった。
 何か察したな、とは思ったのだ。でもそれ以上は追求できなかった。
 あれだけ彼女たちに対して訳知り顔でいておきながら、今回の僕は完全に篠永の意図していた計画から外されていたのだ。
 
「それから、これは予想だけど。おまえさ、俺に関する何か不名誉な話を妹にしなかった?」
 何となく、彼女の妹から感じた気遣いの視線を思い出して尋ねた。
 ああいう素直な性質の人間が、あらかじめ教えられている情報なしに僕に偏見のある目をするようには思えなかった。警戒半分、配慮半分のような。
 姉による何らかのネガティブキャンペーンがあったに違いないと思いながら、僕は彼女に精一杯『姉の友人の親切なお兄さん』役を演じたのだ。
 
 篠永はそれを聞いて、わかりやすくびくっとした。
「へえ」
 その態度に、予想が的中したことを悟る。
「あの日、そんなに俺に声かけられたのまずかったんだ?」
「違うよ。わたしだって久々に会って嬉しかったよ。本当だったら、ゆっくり話したかった」
 言葉で説明できる自信がないのか、彼女は慌てて首を横に振っている。
「あのあと、妹がご飯食べながら西山とのこと興味津々で聞いてくるから。今後美咲が偶然西山に会ったりしたときに色々詮索しないようにしなくちゃって、わたし予防線を張ろうと思ったの」
 確かに、そんな感じの雰囲気のある子だった。
 あの後、彼女達はファミレスのシートに向かい合って僕の話に花を咲かせていたのかと思うと、何とも気まずい気分になる。

「あの子、人に合わせるの上手だから。どんどん人と打ち解けちゃうし」
「それで、女性絡みの話でもしたわけだね」
 間髪入れずに尋ねる。こういうときは、かわされてはいけない。
 篠永は渋々頷いた。
 彼女に知られている異性関連の問題を、思い出したくない順に脳内でソートするという痛々しいことをしなくてはいけなくなってしまった。

「――十八の頃の?」
 嫌な予感がしながらも、質問を重ねた。
 言葉にしただけでも、胸のあたりがもやもやした。
 篠永は、否定をしなかった。
「うわ、よりにもよって、それ?」
「他の、思いつかなくて」
 小声で答えて、さらに両方の肩を縮めている。
 
 篠永が怖がらないように、僕は再びゆっくりと質問した。
「『受験の指導に行き詰った担任に頼られて、ちょっと個人的に病院とか付き添ったら、そういう意味に勘違いされた』って、言ったんだよな?」
 言葉にすると、舌の奥が重くなってそのまま食道のほうに落ちていきそうになる。

 僕達のいたクラスは、確かにその年良い戦果を挙げなかった。
 今年の特進はどうも良くないようだ、という評価が年明け頃から広がっていて、担任の内藤教諭は焦っていた。
 気の弱い人だったのだと思う。
 初めて大学受験をする学年の担当になった彼女は、私生活で抱えていた問題と併せて感じていたストレスによってかなり追い込まれていたらしい。偶然出先で会った日、担任は青い顔をして今にも倒れそうだった。
 行先を訊いた僕に、彼女は医者に行く途中だと答えた。そんな様子で一人で行動したらだめですよ、と言うと、西山くんは優しいね、と涙目で言われてしまった。
 僕は仕方なく、彼女の目指していた近所の医院まで付き添うことにしたのだ。どうして歩くことにしたのかわからないほど、内藤教諭は弱っていた。
 診察室から出てきた彼女は、ふらふらと戻ってきて僕の隣に腰を下ろした。神経性の胃炎を起こしていたらしい。多めの薬を処方され、穴が開く寸前ですからくれぐれも無理をしないようにと看護師に言われていた。
 同じように歩いて帰ろうとする彼女を、僕は慌ててタクシーに押し込んだ。

 頼ってもらうのは、別に構わなかったのだ。
 まさかそのあとに、あんなことになるとは思わなかっただけで。

 僕はその半月後、放課後の教室で思いつめた彼女に抱きつかれ唇を奪われ、驚いているところにベルトに手をかけられる、という高校卒業前の大イベントを経験することになる。
 慌ててそれを止めて身体を押し返すと、彼女は拒絶されたことがショックでその場に泣き崩れた。廊下を通りがかったらしい、隣のクラスの岡山先生が勢いよく教室のドアを開けて叫んだ。西山、おまえ。
 何度思い出しても、あれは悲劇だ。

 ストレスでおかしくなっていたらしい担任は、年度いっぱいで高校を去っていった。
 余計な刺激になるのを避けようと、僕は周囲より一足早めの春休みを頂戴することにした。それが許されたのは三年間の成績と、合格した大学名のおかげだと思う。特別進学なんて名前のついたクラスがあっても、ここらの学生の学力は周辺地域に比べて芳しくない。

 僕が複雑な記憶を思い返して苦い気分になっていると、篠永が答えた。
「いやあの、確か『担任と仲良くなりすぎて相手が本気になった』みたいに言った、かも――」

 さっきまでされていた謝罪の意味が、全部飛んだ。
 目の前に座っている人物の目線があらぬ方へ泳いで行くのが見える。
 担任と、仲良くなりすぎた?

「なあ、本当に何やってんの?」
「重ねてお詫びします」
「ほんとだよ。そりゃ引くっていうか、よくあの子彼氏を先に車に戻したな」
「なんのこと」
「おまえの知らない話」
 つまり篠永の妹は、僕のことを受験期に軽い気持ちで担任に迫り相手を本気にさせるような男だと思っていたわけだ。
 確かに僕の周りには昔から女子が集まってくるところはあるが、それは祖父の教育のせいなのだ。異性への扱いに対して、祖父には一種の哲学があったから。
 その哲学にどっぷり浸かって育った僕に、彼女達はあらゆるものを求めにやってくる。
 トラブル避けに軽めの社交的な人格を纏うということを、十代で学んだ。
 案外効果があったが、所詮はポーズだ。本物の遊び人が僕を見たら、入り口にも立ってないと鼻で笑うだろう。

 これは根気が必要だ、と思い、僕は一度大きく息を吐く。
「昔から言ってきただろ、篠永に情報操作は無理だって。散らかすだけ散らかして、いつも回収できなかったじゃないか」
 彼女が昔やった、隠し事失敗例が自然と頭に浮かんだ。
 出会った頃から、篠永は自分のことを他人に詮索されるのがとてつもなく苦手な人間だった。話題を反らすために情報を微妙にぼかそうとするのだが、内心の混乱が影響するのかその度合いを間違え、大抵は虚言化した。

 ――そういうときは、困った顔して黙って首でも傾げとくんだよ。

 嘘をついてしまったと自己嫌悪に苛まれている制服姿の彼女に、何度かそう言った覚えがある。
 この癖、まだ直ってなかったのか。

「話してくれたら俺が考えるからって、前から散々言ってたのに」
 少し、拗ねたような声になってしまった。
「ごめんなさい。あの時期、あんなに偶然が繋がっていくと思わなくて。わたしも自分のことに夢中になってて、混乱しちゃって妹に大げさなことを言いました」
 罪悪感を感じているらしい。
 彼女は先ほどからずいぶん身体を小さくしている。
 
「もういいって。俺も軽めに見えるように振舞ってたし、怒ってないよ」
「本当に?」
「おかしいことしてるときは、全部理由があると思ってるから」
「――ありがとう」
 やっと、目の前の人物の表情が緩んだ。
 元々僕は篠永に対して怒るということはほとんどしてこなかったはずなのだが、久しぶりのふたりだけの会話に互いが緊張しているのかもしれない。

「でも、戻って来た理由は知りたい。十八でここ出てったときのこと、覚えてるだろ」
 目の前で、少し頭を上げ始めた篠永に尋ねた。
 まだ俯きがちだ。何かからは抜け出しているようだが、迷いのようなものを抱えている印象を与える。
「美里?」
 久しぶりに下の名前を呼ぶと、篠永は痛そうな顔をした。
 

 この町を出て行く前日も、彼女はやはりうちにやってきた。
 祖父母に挨拶をしに来たと言い、いつものように店のほうからこの部屋に入って来た。
 もはや勝手知ったる他人の家で、彼女は玄関から居間に向かう途中で洗面所に寄り手を洗うようになっていた。お年寄りがいるうちだからと、彼女は最初から手を洗って部屋に入りたがった。外からわたしが何か持ち込んだら困るから、と。

 そういう生真面目さが、彼らに好かれたのかもしれない。
 祖父母と篠永は、纏っている雰囲気に近いものがあった。

 畳に腰を下ろした彼女は、何度も感謝の言葉を伝えた。
 このお家とのお別れが一番寂しい、と祖父母に伝え、彼らを涙ぐませた。
 すぐに帰るつもりでいたらしい篠永を祖父母は二時間も引き止めて、飲み物と菓子をあれこれすすめた。彼らのお気に入りだった篠永は、その様子をおっとりとした雰囲気で受け止めていた。
 時々僕に何かを目配せしたり、軽口を叩く僕をいなしたりもした。

 それはいつもの、そしてこれから先しばらくないことが分かっている四人の時間だった。
 結局夕方に、僕が篠永を家まで送った。それも当時の習慣みたいなものだった。まだ外はあかるかったが、祖父はいつも通りそれを僕に命じたのだった。

 帰り道、ふたりで遠回りして町を一周することにした。

 篠永にとっては生まれ故郷、僕にとっては六歳から住んでいるこの町には、それぞれ愛着があった。それは確かだ。
 同時に、僕達はあの頃のこの町の空気から相手を徹底的に庇い合っていたふたりでもあった。
 土地柄というべきものと、あの時代にそれぞれの居た環境、そして僕達の個性の組み合わせによって生まれてしまった強い摩擦があったのだ。

 僕はまだある程度それを抑えることができていたが、共感と同調、そして古い体質の男達には従順であることをことさら求められる性別だった篠永は、その摩擦をほとんど最大限に経験する羽目になった。
 要領の良くない子供だった彼女は、この町にいるあいだ僕の何十倍もの葛藤を覚えたはずだ。

 ――一度出たら、もう、一人では戻って来られない気がする。

 篠永はあのとき僕に確かにそう言った。
 少し高い場所にある、町を見下ろす車道の脇でガードレールに寄りかかりながら。

 目の前から、一度深く呼吸をする音が聞こえた。
「西山」
「うん?」
「わたしね、西山にふたつ話したいことがあるの」
 篠永は穏やかな口調でそう言った。
 彼女が妹の前で隠したがっていた『あの空気』になった。
「いいよ。何」
 僕はようやく、今日まで伏せられていた真実が聞けるらしい。

 目の前に座っている、長年の友人に目線を合わせる。
 出会って十五年間のあいだ、会う度に強く合わせてきた目だ。
 何度もそれぞれの存在を確かめ合って、知恵を絞り、意見を合わせ、本音を伝えて、そして―――。

「ひとつめ。わたしは、ずっと知りたかった、わかりたかった世界のことをようやく満足に理解した。八歳の頃からこれが欲しいって思ってたものを、ここでやっと自分のものにできたの」

 篠永の言葉に、僕は息を呑んでいた。
「できた、のか」
「うん。この半年で」
 彼女は口をひらきながら、目でしっとりと微笑んだ。

 子供の頃に見たという、忘れられない景色にずっと心を奪われていることは知っていた。
 あれは普通に起こることじゃない、と思春期の頃の彼女は話していて、あの世界が何なのか昔から知りたがっていた。
 まるで魅入られているようだった。
 それを解決させない状態で、本当の意味ではこの先の人生はないとでも言いたげだった。
 それ故にかなり偏った形の子供時代を過ごしているが、よく話を聞いているとそこには確かに一貫性があった。僕はそれを、祖父母とともに応援していたのだ。祖父母は篠永のその物語を、ロマンチックだとすら言っていた。夢があっていい、と。

 良かったじゃないか、と言いかけた僕に、彼女は続けた。

「ふたつめ。再来週水曜に、うちに元恋人が復縁の話をしに来る。たぶんプロポーズされると思う」

02|ダークなオーラ

02|ダークなオーラ

『再来週、プロポーズされると思う』

「西山? どうしたの? 大丈夫?」
 はっとして顔を上げた。訝しげな表情の真壁(まかべ)に、下から顔を覗き込まれていた。
「ああ、悪い。ちょっと考え込んでた」
 現実に戻らなければと、数回頭を振る。
 カウンターの前で、広げたテキストの一点を凝視していたらしい。
 基本スケール、という見開きページにいくつもの全音符が整列している。

 真壁楽器店は友人の店で、奥のほうで小さな音楽教室もやっている。専門はジャズだ。音楽理論の代理講師と店員を兼ねて、僕はここで週に四日ほど働いている。
 音大で専門的に音楽を学んできた彼と違って、僕は学生時分に偶然近くに住んでいたジャズピアニストから六年ほどしごかれた程度の経歴しか持っていない。
 学生の頃にバイトしていた、グランドピアノのある店で出会った人だった。
 酔っ払ってはいたが、本人から面白がって声をかけてきた。

 ――おまえみたいなやつに女泣かせの道具を一個増やして持たせたら、破滅しそうですげー楽しみ。

 三つほど年上の若き師は、よくそういう物言いをする人だった。
 口の悪いところが、おそらく合ったのだろう。あの習い事は、長くて十年ほどになるだろうと思われた都心での生活で僕が唯一自分に許した贅沢だった。
 徹底的に基礎は叩き込まれたが、上には上が際限なくいる世界だ。
 何年経とうが素人の域から全く出ることのなかった僕に、その後地元の友人が講師をやらないかと声をかけてくるなんて思ってもいなかった。
 恐れ多いよと何度か断ったものの、実技というわけでもないし、期間限定の代理だからという言葉を繰り返され、最終的に承諾した。以前は基本の理論もピアノ講師が担当していたらしいのだが、肝臓を壊して現在は休職している。

 ――言ったって理論だから。ビギナーに基本を教えるだけだから。覚えなおすにしたって、せいぜい百年の歴史だから。

 大らかな性格の真壁は、本気でそれでいいと思っているらしい。
 この店先は大丈夫だろうかと稀に思うのだが、集まる顔ぶれを見ることで僕は次第にその選択に納得がいった。同じ趣味の人間同士で楽器店に集まるための口実とか、有閑主婦の新しい趣味のひとつとかが主な需要だったからだ。本格派は大手の音楽教室か、音大に現役で伝手のあるような個人教室のほうへ行く。
 週に四コマ程度でほとんど個人指導状態なので、度々「俺、別に要らないんじゃないかな」と真壁に尋ねるのだが、彼は何言ってるんだよ、といつもの調子でにこにこしている。

 ――だって西山、華があるから。招き猫にもなるかなと思って。

 男でそれはあまり褒め言葉にならない気がするが、礼を言った。それはどうも。
 もともとが裕福な家らしい。グランドピアノの屋根の形を模したこの建物は、左半分が真壁楽器店で右半分はテナントだ。僕個人としては右のほうの二階にある学習塾講師のほうがまだ適性がある気がしているが、なかなかそれが言い出せずにここまできてしまった。
 現在は、店主が教室にいるあいだは店舗スタッフとして立ち、楽器を拭いたり会計をしたり電話番をしたりしている。
 真壁のサックスに合わせて、いたずらに鍵盤を叩くなどの客寄せ風なことも、たまにする。
 もっとも、本人の温和でほがらかなムードに反して空気を粗く削っていくような重い音を好む真壁と、周囲の硬派達に時に笑われながらもスムースやイージーリスニング寄りの軽やかなものを好んできたタイプの僕とでは、ぱっとしない感じもしなくもないのだが。

「そういえば、彼女さん最近元気?」
 何となく話題を変えたくて、真壁に尋ねることにした。
「元気だよ。この前の週末、野辺山高原行って来た。ずっとねだられててさあ」
 真壁は専用のクロスで窓についた小さな汚れを拭っている。
 ポスターやフライヤーの類にひっかかる埃が、静電気で窓にも張り付くらしい。
「この季節に? 星とか趣味なの?」
 酔狂だ、とつい思いながらも質問を重ねる。
 真壁が四年付き合っている彼女は彼の二つ年上の女性で、何というか、夜っぽい。ゆったりとけだるげな雰囲気で、特徴的な喋り方をする。真壁のほうが彼女に負けている関係なのが一発で見て取れた。
「メインは温泉。すんごい寒かった。軽い気持ちで行くと耳取れるよ、あれ」
「だめじゃん、商売道具だろ」
 テキストを閉じながらおかしくなって言う。彼はですよね、と笑っている。
 そして少し窓の外を眺めてから、真壁は口をひらいた。
「そろそろ結婚のこと考えないとかな、とか思って」
 
 結婚。
 その単語に、またどくんと心臓が鳴った。


 あのあと篠永は、僕の反応を見るためにこちらを向いたまま唇を締めて黙った。
 もちろん、僕がふたつめの話により動揺しているのが伝わっていたのだろう。

「ええと、すぐに冷静になれないんだけど」
 太腿のあたりに力を入れて、僕は気持ちを鎮めようとした。
 元恋人。復縁。プロポーズ。向かってきたその言葉ひとつひとつに力がありすぎる。
 篠永は物を結論から言うやつなので必ず補足や説明がつくとわかっていたが、くらくらした。
「でも、まず、一個目についてはおめでとう」
 頭の中を何とか整えながら、手振りも混ぜて僕はそう言っていた。
「良かったな。おまえ、ずっとそのこと頑張ってたから」
「西山がいなかったらできなかったことだから、一番に話したかったの。ありがとう」
 篠永はそう答えたが、声はこちらの顔色を伺いながらという感じで表情も硬かった。

「それで――」

 続けて口をひらこうとしたが、うまくいかなかった。
 まず結婚という言葉が、篠永と結びつかないのだ。
 さすがに学生の頃とは違って垢抜け女らしくはなったが、口数は少なく、どこかぽつんとしている。
 化粧品メーカーの研究員の仕事は性に合っていたらしく、六年ほど続いていたようだ。妹の話によるとそれも辞めてしまったらしいが、繰り返しの生活が苦ではない彼女はここ数年いつ会っても同じ調子だった。
 僕が地元に戻って来てからも、帰省に合わせてここを訪れていた。
 彼女にとって、この家はもうひとつの実家でもあるのだ。本当のそれよりもとは言わないが、彼女にとってひとつの拠り所であったのは確かなはずだ。

 そう、以前の彼女は帰省する度にこの家にも戻って来ていた。
 こんにちはとただいまを言いに、時間を見つけてはうちに立ち寄り続けていたのだった。

「――それが、おまえの出した答えなんだ」
 棘のある響きはどうにか避けられたが、それは口の中で何とか潰すことができただけな気がする。そのぶん、言葉そのものが重くなった。

 テーブルの上に置いていた腕を、今度は胸の前で組みなおす。
 篠永は僕の動きに反応したように一瞬身を縮め、身体を震わせた。

「そっか」
「あのね、西山。それでなんだけど――」
「いや、いいんだ。ごめん、ちょっとびっくりしただけ。全然、想像してなかった展開だったから」
 思わず、あかるく言い返していた。
 篠永は何か言い返そうとしたが、結局苦いような顔をしてゆっくりと下を向いた。

 僕達の沈黙の中に割って入るように、消防団の車が外を通り過ぎていく音が響いた。
 カンカン言いながら、乾燥の季節です、火事には特に気をつけましょう、という棒読みの声が繰り返される。若手が少なくなってからは昔ほど活動は活発ではないらしいが、うちの地元にもその手の団体がいくつもある。
 静かになったと思ったら、今度はヒーターから給油を促す音が鳴り始めた。
 椅子から立ち上がって、そこへ移動しスイッチを切る。残量ゼロ。点滅している箇所を見て、僕もだ、と思う。

「その、相手は?」
「夏まで付き合ってた人。むこうで知り合った」
「年齢と職業」
「二個下。知育玩具を輸入販売とかしてる会社の、サラリーマン」
 篠永は丁寧に答えた。
 声の粒を慎重に揃えながら、といったふうの回答だった。
「どのくらい、付き合ったんだよ」
 気まずい気持ちのまま、そう尋ねた。最後の問いのつもりだった。
 篠永はその質問にだけ、答えを言い淀んだ。
「篠永、教えて」
「一年半、いかないくらいかな。去年の春から、今年の夏までだから」
 消え入りそうな声で、彼女は言った。
 僕がすぐにその地点にまで記憶を遡らせるのを警戒していたのだろう。

 ああ、という声が頭の中でした。
 実際口をついて出たかはわからなかったが。

「あの後、か」
 篠永から、本心を打ち明けられて半年くらい経った頃だ。
 目の前に座っている女が、それまでのイメージとはまったくかけはなれた人物のような気がしてきた。

 篠永美里は、現実感のあるあらゆる概念との相性が良いとは思えない人間だった。
 身体の線が滲んで見えるような、淡い空気感の持ち主だった。昔からひとりでいつもゆらゆらしていて、目には見えない世界のことばかり考えていた。
 夢見がちで、妙に素直で、黙々と自分の世界を生きている女に見えた。これからもそうやって生き続けるのだろう、と何となく思わせるような雰囲気を纏った人物だった。
 そんなイメージが、他の誰かによってすっと一箇所に収まってしまったように感じた。

「全然気づかなかったよ。おまえの妹から、付き合ってるやつがいたとは聞いてたけど」
 篠永が大学時代ふたりの男とごく短いあいだ交際していた時期があるのも知っている。
 それでも、彼女が誰かのものに見えたことはなかった。
 ずっと彼女は何よりも強く彼女自身のもので、それが揺らぐときは僕のものだった。僕に自らの問題を預けて回復を待った。そうやって生きてきたつもりでいた。少なくとも、彼女が僕に自分のことを何でも話してくれた十数年のあいだは。

 それも、もう終わっていたのか。
「そっか。本当に予想してないニュースだった。おめでとう」
 篠永は、さっきと同じどこかが痛むような顔をした。  

「だって、別に付き合ってなかったんでしょう?」
 スナック菓子を開封しながら、林が言った。
 この頃は事務仕事が多いのもあって、リビングに会議用の机を並べることはあまりない。元々は知り合いの喫茶店が閉店するとかで、折りたたみのものを譲ってもらったものだ。今日は板の間にそれを三つ並べて立てかけている。
 テレビの前に置いたこたつに、林と僕は向かい合わせで座っていた。
「そんな率直に言わないでくれない?」
 僕は林のほうに顔を向けずにそう返した。

 地上波初放送という、去年の頭にヒットした映画をかけっぱなしにしていた。
 公開時に話題になったミュージカル映画だ。あれからもう一年半も経つのか、と驚かされる。
 一年半。
 篠永に少し前に言われたことを瞬時に思い出して、何とも言えない気分になった。

 ――一年半、いかないくらい。

 彼女は寂しそうな顔つきでそう言った。
 充分だろう、長すぎるくらいだと言い返したかったが、立場上ぐっとこらえた。
 おめでとう、という言葉からもう口を動かす気にならなくなった僕に、篠永は今日は帰るね、と俯いた。いつもなら送っていくのだが、身体が動かなかった。
 部屋の入り口にかけていたコートを彼女はゆっくりと羽織り、僕にむかって静かに口をひらいた。

 ――また来る。今回は、本当にごめんなさい。

 返事を返せたかどうかも、覚えていなかった。

 その後、林は「今日は絶対スマブラですよ、そういう気分なんだ」と言いながら入ってきたらしい。
 次に出た言葉は後の本人曰く、何事ですか、だ。僕の耳には入らなかった。
 目の前に現れたすらっとした柴犬男に、西山さん? どうしたんですか、と尋ねられて僕はやっと我に返ったのだ。キッチン側のテーブルで、頬杖をついて黙り込んでいたらしい。
 ダークなオーラが出てましたが、と彼は言った。

「この家に昔から通っていて、家族ぐるみみたいな付き合いがあって、でも男女としては付き合ってたこと、ないんでしょう? どうしてそれで、篠永さんのお姉さんを自分のだって思ってたんですか」
「そこまで思ってない。ていうか、もっと事態は複雑なんだ」
「え、いけない仲とかだったんですか。人に言えない――」
「そんなんじゃないから」
 冷めてしまった冷凍ピザを一切れ手で切り離す。
 外に出る気もしないと思い、夕食はあるもので済ますことにしたのだった。

 この話を誰かに理解してもらうのはとても難しいと、僕は今更思い出した。
 今まで飲み会や地元の友人との雑談で、相手が誰かは伏せた状態で篠永との仲を漏らしたことはあった。
 手ごたえのある返答が返ってきたことは、一度もなかったが。

「林さ、誰かと何ひとつずれずに意思疎通ができたって思うこと、ある?」
「どういうことですか」
 林は、画面に集中しながら首を傾げている。
 二十過ぎの若者に話しても無駄かもしれないが、僕自身が篠永と最も近づいていたのはちょうどそのくらいの年の頃だった。
「だから、思ったことが相手にそのまま通じて、相手の思ったことがそのままこっちに届くみたいな。あいだに何もない感じっていうか、一部が重なって、ずっと反射しあうっていうか。壁がゼロになるみたいな」
 言いながら、言えば言うほど嘘っぽく聞こえるな、と自分でも思った。
「ないですね。それ、けっこう危ないことだと思います」
 林ははっきりと言った。
 珍しく、曖昧なところのない返答だった。
「だよな」
 答えて画面に集中することにしたが、音楽が陽気すぎて自分の中に入ってこない。

 林があぐらをかいていた脚を組み替えながら、西山さんってああいう女性が好みだったんですね、ともらす。俺は妹さんのほうがタイプですと聞いてもいないのに答えてくるので、あの彼氏見ただろ、と僕は言い返す。おまえが逆立ちしたって勝てないよ。公務員だし、育ちも良いもん。
「まあ、与太話ですから。お姉さんは何ていうか、ぱっと見から内気そうじゃないですか。西山さんはむしろ逆方向の女性のほうが好きそうに見えますけどね。気、強そうでタフな感じっていうか」
「俺、そういう子全然合わないよ」
 林が選んできた炭酸飲料を開けながら答える。
 ライム系の風味で、子供向けの甘さだ。
「まじすか」
「こっちが押されるから。相手、何かどんどん重い感じになってくし。喋っててテンポ悪いのも、どうもだめで」
「意外だな。でも、篠永さんのお姉さんってかなりおっとりしてません? あんまりテンポ良く言い返す感じじゃなさそうだけど」
「あいつは要点掴んでるから。やりとりしてて全然無駄がない」
 林の言うとおり、篠永は普段は恐ろしくおっとりした女だ。
 夢見がちで、ぼけっとしてるか、ふんわりしている。

「俺は今まで付き合ってた子達、けっこうバラエティに富んでたなあ」
 何て失礼な物言いなんだと告げると、花々しくていいでしょと打ち返された。
「俺には言ってることが何ひとつわかんないですけど、とにかくあのお方にご執心されていた、と。その原因として、若かりし頃に何らかの強い繋がりがあったと、そういうことですね」
 異論はなかった。
「若かりしって、俺まだ三十前なんだけど」
「西山さんは色々平均超えてる人なのでもう年齢関係ないですよ」
 CMになったテレビを見ながら、ああハワイ行きてえ、と林は言っている。寒い季節にこういうコマーシャルずるいですよね。
「それ、褒めてんの?」
「もちろんです。俺だってきちんと相手を見てから懐柔するかどうか決めてるわけですから」
「そういうこと素直に言うんじゃないよ」
 最近はこの手のジャンクな食事を身体が微妙に拒絶するようになったなと思いながら、固くなったチーズの乗ったピザを炭酸で流し込んだ。
 三十過ぎたあたりから食の好みがぐっと変わるよと周囲には散々言われていたが、実感するには少し早いような気もしていたのに。
 そっち片付けてと言うと、林は缶とペットボトルをまとめて流しに運んだ。
 二十時半。冬の夜は静かだ。
 むちゃくちゃこじらせてますよね、と林は僕に対して告げ、イメージが変わっちゃうなあ、と続けた。
「俺、西山さんが何かを後回しにしてるの知ったの初めてかも」
 イメージが変わっちゃうな、と林は重ねてぼやいた。

 篠永に関しては、自分の中にあるルールなんて最初から通用しなかった。
 それまで接してきたあらゆる女子の中の、どの例にも該当しないやつだったのだ。
 思いつく理由は、ふたつある。
 ひとつは、彼女が思っていた以上に理屈っぽい人物だったこと。
 そしてもうひとつは、彼女が見えていた以上に周囲にやりこめられていたことだ。

 ――おまえ、ずいぶん色々なこと考えてるんだな。

 はじめは、たった五分の雑談だった。
 塾の教室に、篠永が早めにやって来るのは知っていた。さっさと目的地に辿りつかないと寄り道したまま衝動的にさぼってしまうからだと、後に口数の増えた彼女自身から聞いた。
 生徒が増え始めていく教室で、僕は彼女の席の前に反対向きに腰掛けることが日課となっていた。西山が篠永さん苛めてる、と仲の良い数人にからかわれた。

 ――そんなことない。もっとしっかり考えたいのに、土台がだめなの、自分でわかる。ぬかるみみたいで。

 篠永は悲しそうに呟いた。

 あの頃、彼女はいつも言葉に詰まっていた。
 言い淀み、ためらって、次第に小声になり、最後は黙った。考えを言葉にしては、違う、という顔をして、それが大きな失敗だとばかりに自分を責めるような悲しい表情をした。いつも青いような顔をしていて、でも頑なだった。
 思い切り力を入れて握った厚紙みたいに、篠永の内側は皺が寄って小さく固くなっていた。
 常におどおどしているというわけではなかったが、僕には彼女が何かに怯えているように見えていた。

 それがのびやかになったのは、うちの祖父母と引き合わせてからだった。

 篠永のことを、僕の祖父母はとても気に入っていた。
 根のところがうちの孫とそっくりだと、含み笑いをしながら度々言い合っていた。

 ――美里ちゃんは、いいね。君の頭の中は実に興味深い。

 僕の祖父は、よく彼女にそう言った。
 その手の世辞は言わない人なので、本心だったはずだ。

 学生時代が太平洋戦争と重なってしまったうちの祖父は、高等教育とは縁がなかったが野趣に富む教養の人だった。戦後に工場勤めを経て小さな商店をひらくまで、休憩時間や家での休日のほとんどを読書に費やした人物だ。
 時代が時代ならそれなりの学校に行っていたのではないかと尋ねたこともあったが、うちは昔から貧乏だったからそれはないなと笑われた。
 店の手伝いをしながらつい、勿体無い、と口にしてしまったことがある。
 彼は僕に笑いかけ、これも悪くないぞ、と続けた。
 ビール瓶やジュースの入ったケースを持ち運んでいる彼のズボンの後ろポケットには、いつもカバーの外された中古の文庫本が入っていた。

 僕を引き取ったばかりの頃、祖父は家の中を一通り案内したあとに楽しそうに訊いてきた。

 ――泰智(たいち)、おまえ読書は好きか?

 僕は彼を見上げて、頷いた。字は好きだ、と。
 僕がそれまで住んでいた遠くの町の海沿いにあったアパートは、大人がいない時間がひどく長かった。
 テレビで文字を覚えてから、あの頃の僕は退屈しのぎに何でも読んだ。バラエティや音楽番組でタレントの喋る言葉がそのままテロップとして表示されるようになったのは、確かあの頃からだったはずだ。

 若き祖父は僕の返事に、唇の端を持ち上げた。

 ――それなら、いずれここに自由に出入りするのも良しだ。

 言いながら、彼は二階の廊下で目の前のふすまを楽しげに滑らせた。
 五畳ほどの和室は彼の書斎になっていて、壁は書棚で埋め尽くされていた。
 サイコロ型の昼寝枕と、長座布団が一枚、重ねて隅に置かれていた。古い本と木の甘い匂いと、ひとつだけある大きな擦り硝子の窓から入る光で、そこはとても温かな空間に見えた。

 ――すげえ。

 それは、宝の山かもしれなかった。

 ――いいだろ。

 彼は得意げに言って、僕の頭を撫でた。嬉しそうだった。

『一九二〇年代ものが廻ってきたけど、見に来ない?』 
 八時半に入ったメッセージ音に起こされ、並んだ文字を見て飛び起きた。
 昨夜は林と二時頃までアナログゲームをしながら話しこみ、眠ったのは三時を過ぎていた。

 すぐに行きますと返事をして、僕は慌てて身支度をする。
 冬の気温に冷え切ったデニムに脚を通して、適当なTシャツを着てからネルシャツを重ねる。
 ダウンジャケットを手に階下まで駆け下りて、洗面所で顔を洗い、寝癖を直して眼鏡を選ぶ。今日は黒だ。僕はあまり髭が伸びない体質なので、朝は剃らない。

 歯ブラシを口に突っ込んだまま、洗面所を出た。
 林は居間の畳の上に座布団を並べ、毛布を身体を巻きつけて幸福そうに眠っていた。十二月だというのにそれだけで風邪も引かないとなると、いよいよこいつは筋金入りのあれだろう。
 あきれた気分で、僕は冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注ぐ。
 その流れで、キッチンで泡だらけの口をゆすいだ。

「林、起きろ」
 牛乳を飲みながら、寝入っている男の太腿を軽く蹴る。 
「ん、なんすか」
 片目をつぶったまま、林は唸った。
 泊まるなら上の部屋を使えと言ったのに、それも聞かず座布団に埋もれて幸せそうに眠っている。
「江田さんのところのガレージだよ。ああ、もういい。一時間くらい留守番してて」
 聞いているのかいないのか、んあい、という気合に欠ける返事がもれた。
 コップをシンクに置いて、マウスウォッシュでもう一度口の中をすすぎ、部屋を出た。
 廊下の本棚の中央に並べてつけたアイアンのフックから車のキーを掴み、マフラーを巻く。

 朝から良いニュースが届いた、と思う。
 店ではなく、自宅の玄関から家を出ることにした。下駄箱の上に置いているガジェットケースの中に愛用している電卓やルーペ、綿手袋などがまとめて入っている。
 外は霜が下りていた。息が白く色づく。
 裏の門扉に続いて、僕は車庫のシャッターを開けた。
 さすがに凍ってはいなかったが、古い車庫の匂いがきりっとした寒さに混じって鼻先に届く。
 仕事道具を脇に挟んだまま、愛車であるバイオレットカラーのハスラーに乗り込んだ。
 エンジンをかけると、前回再生したままにしていたCDが自動再生される。
 目が覚めてきた。
 
 一応住宅地とはいえ、ここらはいわゆる町の中心部からは離れている。
 やがて見えてきた屋敷と締まった灰色の壁を持つ大きなガレージにむかって、僕は仕事の幸運を祈った。通学通勤時間は過ぎていて、江田さんのガレージまでの五分間、すれ違った対向車は三台だけだった。
 土地持ちの彼の家のガレージは改装を繰り返され、彼好みに空間が整えられていて居心地が良い。今も大してやっていることは変わらないのだが、昔はよくここで地元の連中と訳もなく集まって話をした。
 一昨年、古物商許可を取ったと話したのも、雑談の延長線上だったはずだ。
 僕の一言に何かを思い出したような顔をして、江田さんが言った。
 ――俺のところにもけっこうその手の相談来るんだけど。紹介しようか?
 僕はもちろん、それに飛びついた。

「おはようございます」
 ガレージ内に作られた事務所の中に入っていくと、江田さんは大きなテーブルの前でコーヒーを飲んでいた。彼の気に入りのロジャー・ニコルズが小さな音で流れている。いつ聴いてもさわやかな曲だ。江田さんは六十年代からの洋楽に異様に詳しい。
「早かったな」
「飛び出してきましたから」
 座れよ、と言われて、僕は目の前のソファに腰掛ける。
 同時に彼が奥に向かって少し大きな声で叫んだ。すみれ、来たぞ。

 並んだ棚の奥のほうからはあい、という声がして、奥方であるすみれさんが湯気の立つマグと皿の乗ったトレイを運んできた。
「おはよう、西山くん。もしかして起きたばっかり?」
「おはようございます。ばれましたか」
「ここに来る人達、基本的に朝型いないから。軽くだけど朝ごはんにどうぞ」
 そう言って、彼女はコーヒーとホットサンドを僕の目の前に置いてくれる。

 すみれさんはガレージと繋がっている裏側の建物で週に五日、小さなカフェをやっている。ここは川沿いの立地なので、その小さな店から見える景色は何となくのどかで落ち着く。サンドイッチやロコモコを洒落たペイントをした軽自動車に詰んで売りに出かける日もあるらしい。
 この時間はいつもなら仕込みをしているはずだ。

 ホットサンドは半分にカットされ、ワックスシートで食べやすく包まれていた。
「うわ、いつもすみません。嬉しい」
「すみれ、前からおまえには甘いんだよな」
 江田さんはコーヒーを飲みながらにやにやしている。

 言い返せずにいると、代わりのようにすみれさんが答えた。
「だって、妹の初恋の人ですから」
「それ、普通は気に入らないほうに入るんじゃないの? 深紀(みき)ちゃん、振られてるんだろ」
 気まずい言い合いを始めたので、いただきます、とコーヒーをもらうことにした。
「十代のなんてそんなものでしょ。妹の初めての手作りチョコレート見て、わたし感動したんだからね」
 すみれさんは丸型のトレイを抱えながら言い返している。
 本題にはまだ入らなさそうだ。もう一度手を合わせて、僕はホットサンドを頂くことにした。
 中には、トマトとハム、チーズと卵が入っている。先に加熱してあるらしいトマトがとろけて、チェダーチーズと混ざって美味しい。

「いや、でも西山ってそのときのことあんまり覚えてないらしいよ」

 江田さんのした突然の暴露に、僕は思わずむせかけた。
「ちょっと、江田さん――」
「え、そうなの? わたし、何かすごくいい感じの雰囲気だったって聞いてたんだけど。深紀に騙されてた? どうなの、西山くん」
 立ち去る気を無くしたらしい。
 すみれさんは江田さんの座っているヴィンテージのカリモクソファに浅く腰を下ろして、僕のほうをじっと見つめている。
 こういうとき、昔からの付き合いの人達というのは大変だ、とつい思ってしまう。朝から餌付けされて言うことではないのだが。
「どうだったかな――。あの頃、受験勉強であんまり寝てなくて、よく覚えてないんですよね」
 我ながら朝から大嘘つきだなと良心の呵責を覚えつつ、そう答えた。
 本当は、一日八時間近く眠るふてぶてしい受験生だったのに。

 多宮深紀(たみやみき)。すみれさんの妹だ。
 十五歳、中学最後の二月十四日に、確かに僕は彼女から手作りのチョコレートを受け取っていた。

 周囲の男達から何とも言えない視線を浴び続ける一日だった。
 放課後には、廊下で偶然会った担任教師から「西山、なんで紙袋とか持ってこなかったんだ?」と無邪気に尋ねられていた。いたずらっぽい目で僕の鞄をのぞき込み、彼は大漁じゃないかと僕に向かって口笛を吹いた。
 学生気分でも続いていたのか、高校受験のシーズンだというのに年若い彼は生徒達をまるで諌めなかった。卒業前というのもあって、大目に見ることにしたのかもしれない。
 校則で禁止してますよね、と言い返した僕に、おまえみたいなのってどの年代にもひとりはいるもんだよ、いいよなあ。
 担任は、そう言って笑った。

 帰宅途中、誰かに後ろをつけられている気がして振り向いた。
 そこには、僕の動きにつられたように動揺して小さく飛び跳ねる多宮さんの姿があった。

 多宮深紀は、僕に見つかるとその場でぴたっと固まった。

 ――多宮、さん?

 どうすればいいのか、まったく分からなかった。
 その場で互いに立ち尽くしていると、彼女は少しずつ僕のほうに寄ってきた。
 そして、持っていたその小さな箱をこちらに突き出した。

 ――もらって。

 それは、赤とピンクの厚紙で作られた箱だった。
 ハートの形に立体加工されていて、手のひらに乗るほどだったのを覚えている。

 手が震えているのを見て、僕はそれを軽い気持ちで受け取るという選択肢がないと気づいた。

 ――ええと、俺にくれるの。

 多宮深紀は、腕を突き出し下を向いたまま頷いた。

 ――そっか。ありがとう。

 他に何て言えばいいんだ、と途方に暮れながらそれを受け取った。
 手が軽くなったのを確認して、多宮深紀はゆっくりと顔を上げた。
 目にうっすら涙を浮かべているのに気がついて、僕は内心、大いに怯んだ。

 多宮さんは、前髪の一部をまっすぐに切りそろえて、他の部分はわざと長さを変えているような女子だった。少し尖った感じがありながらも、仲間内ではちょこんとそこにいるような雰囲気もあった。
 ちょっと癖のあるバンドとか漫画が好きな女子なんだろう。
 雰囲気から、勝手にそう思っていた。

 ――去年から好きでした。西山くん、他校の子と付き合ってるって聞いてたんだけど、どうしても言いたくて。

 彼女は手の甲で涙を拭ってから、にっこりと笑った。
 え、あの、と言いかけたが、彼女はすでにすべてわかっている、という顔をして続けた。

 ――わたしにはチャンスなかったけど、受け取ってくれてありがとう。高校は違うけど、また会ったら声かけさせてね。

 青春映画そのままだ、と思うくらいにさわやかに、彼女は笑って走って行った。
 その笑顔は単純に可愛らしいと思えたのだが、僕は多宮さんによって放たれた言葉と共にそこに完全に取り残されていた。

 他校の子?

 思い浮かぶのは、あいつしかいなかった。
 

 江田さんにつつかれて、すみれさんがはたと気づいたように腰を上げる。
「あ、そろそろベーグル焼けるから行かないと。じゃあ西山くん、ごゆっくり」
 トレイに皿だけ載せるのを見ながら、ご馳走様でした、と僕は頭を下げた。
 有難かったが、何だか高くついた気がした。
 ばたばたと去っていったすみれさんを見ながら、江田さんが
「あいつ、俺の仕事を邪魔する天才だね。やっと本題だよ」
 苦笑いしながら、テーブルの下から黒の箱を取り出し天板の上に置いた。
 口元と手を拭き、僕はそれを覗き込む。
 彼は得意げな表情で、黒く短いベロアの生地に包まれたその箱をゆっくりとひらいた。

 うわ、という声が先に出た。

「どう?」
「――素晴らしい」
 そこには、年代物かつ未使用品であることが一目でわかる、レトロな眼鏡が並んでいた。
 耳かけの部分が円形にカーブした、黒縁が四つ。ガラスと象牙のものが二つ、そして、ホワイトゴールドのフレームが二個。彫金の細い線が美しい。これは日本製ではないはずだ。
 糊付けされた小さなタグに、今はまったく違うテイストを売りにしている眼鏡ブランドのロゴが入っていた。
「しかも、中古じゃなくてデッドストックとは」
「言ってなかったな。うちのスタッフでさ、実家元眼鏡屋だって。廃業したまま眠ってたのが最近出てきたんだって。うちはこういうの、ちょっと扱いがないから」
 江田さんは、市内で複数の雑貨ショップを経営している。
 それぞれが雰囲気の違う店だが、各店のバイヤーがこだわっているようで人気がある。

 触ってもいいと言うので、ひとつひとつ、光にかざした。
 年月を経て固く小さくなった古い紙の箱の質感、そこに書かれた会社名には覚えがあった。
 さらにレンズのぽってりした感じ、金属加工の粗さから見ても約百年前のものに間違いはないだろう。技術的にレプリカを作ることは簡単だが、この雰囲気まではやはりちょっと再現できない。意図してやったところで精密すぎるのだ。

 すべて、塗装の剥げや欠けもなくきれいだった。
 この手の品は多少の粗があっても味とされるものだけど、今回のものは珍しいくらいの美品だった。

「よくしまっておきましたね、こんなにきれいに」
「田舎の納戸なんてそんなもんよ。時空、簡単に超えるからな」
 江田さんが笑った。
 確かに、と答えて、僕はそれを箱に戻した。
「ちなみに――まあ余談な。おまえのところなら、どんなもん?」
 言いながら振り返り、デスクの上に置いてあった黒い電卓を掴んで僕にむかって突き出してくる。

 僕は目的の数字を打ち込んでから、回転させて江田さんに電卓を見せた。
「そうだな。うちでしたら、こんな感じです」
「――本当に?」
 彼が驚いたような顔でこちらを見る。
「俺もそこまで詳しくないんですけどね。でも物好きにはたまらないはずだ」
 ヴィンテージの眼鏡は、うちの店でも人気の品だ。
 もともと僕の趣味でもあったのだが、販売サイト内に小さなコーナーを作り、雰囲気のある写真を少しの薀蓄と一緒に載せたらあっという間に目玉商品になった。
「それならたぶん即決だわ。普通に処分しようか迷ってたって言ってたくらいだから」
 持ち主に連絡する、と江田さんがスマートフォンを手にした。僕もケースからショップカードを取り出す。
 法律の関係で、実際の買取行為はここではできないことになっている。
 見に来ないか、という言葉を彼が使ったのはそのせいだ。

 相手が電話に出るのを待ちながら、江田さんは僕にむかって夜のほうが都合いいだろ、と尋ねた。はい、と頷く。
 倉庫勤務だという眼鏡の持ち主は、六回目のコールで江田さんからの電話に出た。
 その場で話がまとまる。彼の終業後に、ふたりでうちに来ることになった。

「持つべきものは顔の広い先輩ですね」
 ガジェットケースに綿手袋を収めながら、ついそう言ってしまった。
「過去の思い出をほじくるのが好きな嫁もいるけどな」
 江田さんは少し眉を斜めにして、困ったように笑っている。

 多宮深紀は、二十五歳で結婚して岐阜のほうへ引っ越したと聞いている。
 すみれさんは時折僕の話をするそうなのだが、本人にはやめてよ、と恥ずかしそうに言われるだけなのだそうだ。

03|チョコレートマフィンとオルレアンの乙女

03|チョコレートマフィンとオルレアンの乙女

 我ながらひどいと思うが、その後多宮深紀からもらったチョコレートを食べたかどうか、僕は覚えていない。
 あの日、帰宅した僕を待っていたのは、祖父母と例の『他校の子』である篠永だった。

「あ、おかえりなさい。お邪魔してます」
 僕に気づいた篠永は、あかるい調子でそう言った。
 制服姿ではないから、すでに一度家に帰っているのだろう。
 おう、と答えて僕も部屋に入った。
 店に祖父が居ない時点で想像していたが、やはり来ていたか。僕は畳に鞄を放って、手を洗いに向かった。
 バターと、チョコレートの匂いがうすく家の中を漂っていた。
 うちではちょっと珍しいことだ。

 台所の作業台で、祖母が滅多に出さない茶器を使って紅茶を淹れていた。
 祖父は機嫌良さそうに、いつもの席に座っている。

 祖母のほうに近づくと、彼女は紅茶用のポットをゆっくりと揺らしながら僕に言った。
「美里ちゃんがね、チョコレートの、マフィン? 持ってきてくれたの。バレンタインだからって」
「マフィン?」
「妹が、やっぱり気になる男の子にあげたいって言ったから、一緒に作ってて。いっぱい焼いたから冷めないうちに持って来ちゃった」
 照れたように、篠永が言った。
 こいつでもこんなことするんだ、という気持ちになったのを覚えている。少なくとも当時の篠永の言動からは、いわゆる乙女心というものをあまり感じなかった。それどころじゃない、という感じだったのだと思う。

「また、すごい量だね」
 僕の膨れ上がった鞄を見て、彼女はそう続けた。
「篠永、少し持ってかない? さすがにこんなに食えない」
 手作り以外のものだけでも引き取ってもらえたら嬉しいんだけど、と付け足した。
 もっとも、僕は打ち解けていない状態で手作りのものを口にするのは苦手な性質だったのだが。
 篠永は、ううん、と唸ったあとに僕を見上げた。
「それは、ちょっと複雑な味がしそう」
 それに、手紙とか入ってるかもしれないよ。遠慮気味に、そう続けている。

 祖母に呼ばれて、篠永がカップをトレイに並べ始める。奥のほうで、祖母がレモンを薄切りにして小皿に重ねているのが見えた。
 手伝うべきことが思い浮かばずに、僕はそこで何となくふらふらしてしまう。
「あ、でも今年はお返し前に卒業なんだ。どうするの?」
 篠永に訊かれ、少し考えてみる。面倒くさい、というのが正直なところだった。

 答えあぐねているあいだに、キッチンから居間に向かって篠永は紅茶のトレイを運んでいく。
「いや、正直全然わかんない。どうすべき?」
 受験期の応援という名目のものがほとんどだったから、そういう意味ではお返しは不要なのかもしれない。そもそも、きちんとお礼やお返しの物品を手渡した覚えがなかった。
「わたし、西山以上にその手のことわかんないよ」
 篠永がおかしそうに笑った。訊く相手を間違えてる、と。

 新聞を読んでいた祖父が顔を上げ、テーブルの上を見て言った。今日のうちは洒落てるな。珍しい。
 祖母が薄切りのレモンを載せた皿と、砂糖を持って僕達に追いついてくる。
 僕達はそこに四人で座り、祖母が日常的に口にする『お茶の時間』を始めた。

「ああ、美味いな、これ」
 祖父が篠永の持ってきた焼き菓子を頬張り言った。
「チョコレートじゃないんだね。ココアかな。ほろ苦い」
「そうです、甘くなりすぎちゃうから。チョコチップも入ってるけど」
 祖母は紙のカップの切り目がどこだかわからず、篠永に開けてもらっていた。
 小皿に載せて、フォークでそれを崩している。
「ああ、焼きたてでやわらかいわね。泰智ももらったら?」
 祖母が自然にそう言った。僕は篠永の顔をつい見てしまう。
 僕の家で屈託のないあかるい顔を見せるようになった、塾の同級生。
 篠永が僕の視線を受け止めるようにこちらを向いて、目が合う。
 何とも言えない動揺を感じて、僕は少しだけ身構えてた。

「嫌じゃなかったら、どうぞ。でも凝ったものじゃないよ」
 何と返ってくるか少しだけはらはらしたけれど、彼女は僕に向かって、自然にそう答えた。
 うちに来るようになって一年足らずだが、祖母とも気が合った篠永はすでにうちの台所で祖母と一緒に料理をする仲になっていた。冷やし中華や焼きそばやカレーなんかを、彼女達はあれやこれやと喋りながら楽しそうに作っていた。

 嫌じゃなかったら。
 その前置きに対して、僕の声はどこか気難しい感じに響いていたかもしれない。
「嫌では、ない。――いただきます」
 そう言って、彼女の顔を見ないように僕は手を伸ばした。
 抵抗はなかったが、篠永の突然の女っぽい振る舞いにひどく気恥ずかしい思いがした。


「ああもう、おまえらが揃うと仕事になんない」
 十五時過ぎ、うちには林だけではなく同じバンドの館山祐樹が訪ねて来ていた。
 ふたり揃うと無条件に男子中学生になる男同士の組み合わせというものはどこにでもいるものだが、彼らもまた揃うと犬っころのように無邪気で、すこぶる頭が悪くなるのだ。
 今もふたりで恐ろしく低次元な言い合いをしながら、手にしたスマートフォンで何かの対戦に励んでいた。
「働く家主の前で寝転がってきゃっきゃと遊ぶなよ」
 端から蹴飛ばしていこうかと思ったが、体力が勿体無いと自分に言い聞かせる。
 ここ二年ほどで、自分がどんどん粗暴な男になってきているのがわかる。
 この不適合児達への説教のせいだろう。他に要因が思い浮かばないのだ。

 彼らは返事もしないまま、揃って尺取虫のような動きで起き上がってその場に正座した。
 手にしたスマホから顔を上げないで操作を続けている。
「それに林、おまえはいつ帰るんだ」
 良く考えれば、林は昨夜からずっといる。
「俺はここにいつの間にか住み着いてたいんですよね」
 本当は今いいところなんだけど俺は優しい人間だから返答してあげますよ、という感情の篭った言い方だ。画面から顔を上げずに、一息にそう言われてしまった。

「――同棲目当てのやつみたいなこと言うんだね」
 もういい、と適当に返した僕に、林がぱっと顔をあげる。
「うわ、身に覚えがあるんですか? もしかして西山さん、東京で同棲してたんですか? 祐樹、どう思う?」
「大人だあ。やらしい」
「ねー、やらしいよねー」
 共感を求める言い方はやめろと、言おうか迷った。
「俺は同棲は経験してない。ていうか、おまえらだってそんなに純朴になんて生きてないだろ」
 中学生男子みたいなはしゃぎっぷりにこっちが恥ずかしくなって尋ねると、
「殿。僕達はバンドマンですよ」
 林が先ほどまでの人格をあっさり脱ぎ捨てて答えた。愚問はやめてほしいな、とばかりに。
 僕に言われたくもないだろうが、ちゃんと生きろ、という言葉がこんなにも響かない男達でいいのだろうか。

「林のところ、家賃どれくらいだっけ?」
「管理費込みで四万八千円です」
 この辺りのワンルームにしては少し高めだ。
 築浅か、バスとトイレが別とかなのかもしれない。
「それ、住んでないとやっぱり損だよ。光熱費の基本料金分もあるし」
 簡単に日割り計算してから彼に告げる。
 林は三日に一度はうちに来るし、この頃は泊まりの日が異様に増えた。
 家族と暮らしているのなら何らかの理由があるのかもしれないと思わなくもないのだが、わざわざ一人暮らし用の部屋を借りてまでするような生活とも思えない。

「そっかあ。やっぱり解約ですかね」
「いや帰れって」
「西山さんの家の人間になって、早くボスと呼びたいんですけどね」
 言ってることがいつにも増してむちゃくちゃだ。
「あ、そしたら俺もここに就職したい」
 すかさず、祐樹も同意した。揃いも揃って、音楽への情熱はどうした。
「そんな楽なもんじゃないんだよ。俺だって一人だからこんな適当でも生活できてるけど、おまえら雇えるだけの売り上げ出さないといけなくなったらこうはいかないって」
 両手を挙げて、肩を伸ばす。
 ここ数年で販売用のウェブサービスが増えてくれたおかげで以前よりも出品作業は楽になったが、細かい注意書きにはいつも気を遣う。詳細に書いたところで、読まないやつは全く読まないのだが。
 首を左右に倒す。
 傾げた反対側の筋肉がみし、ときしんだ。

 林が残念そうに、そうですか、と肩を落とすのが見えた。
「西山さんの下で、現代日本とは思えないくらい牧歌的に生きるのが俺の夢なんですよね」
「それ、俺にはだいぶ悪夢なんだけど」
 それに、僕はそもそもこの生活をずっと続けようとは思っていないのだ。
 色々な事情が重なっては変わって、辿りついてしまった場所がここというだけだった。

 そう思っているくせに、目の前のことについ夢中になってそれを忘れてしまう。

 腑抜けのふたりを追い出して、溜まっていた事務仕事を片付けながら思い出していた。
 あの日、つい会話を白熱させてしまったのはテレビで解説していたジャンヌ・ダルクの生涯を見てしまったからだろうか。

 篠永の持ってきたチョコレートマフィンをすっかり食べてしまい、僕達はいつものようにそこで雑談を続けていた。
 すでに時刻は十六時を過ぎていた。
 きっと彼女は、あと三十分もしたら帰り支度を始めるだろう。

 オルレアンの乙女、という言葉がテレビの右端に白地の文字で浮かんだ。
 それをぼんやりと眺めていた祖父が、こういう慈悲深さは美里ちゃんにもあるよなあ、と半分冗談みたいに告げる。
「ここまで立派なものじゃないです」
 彼女が恐れ多いとばかりに手を振りながらそう言うのを聞いて、僕はつい頭の中に浮かんだことをそのまま言ってしまったのだ。
「おまえみたいなのは、最初はちょっと変わってるとか言われて意外にもてはやされるんだよ。けど、やっぱり最後は火あぶりとかで終わるタイプだよな。権力者の機嫌を損ねるとか、世渡りうまくできないとかでさ」
 差別発言のつもりも、喧嘩を売ったわけでもなく、本音だった。
 むしろ、ちょっと同情的な気分でさえいた。

 彼女と出会って一年、僕はすでに篠永がたまに見せてくる恐ろしいまでのバイタリティに何度も気圧されていたのだ。
 外からは曖昧なところが多そうに見えるのに、彼女は意志のはっきりした人物だった。
 運命的に、とか、病的に、とかいう言葉を前につけたくなる程度には。

 普段はぽわんとした雰囲気を纏っていて、こいつこれで大丈夫なのかと心配したくなるくらいおっとりしているのだが、それはあくまで表向きの人格だったらしい。
 これを知りたいと思えばそうせずにはいられなかったし、これが嫌だと思うことに対しても、理由までとても明確だった。一度こうするというスイッチが入ると、それまでの雰囲気が嘘のように対象にのめりこんでいくようなところもあった。

 あの集中力は、他じゃちょっと見られない。

 普段はやわらかく発散されているムードが急に逆側を向いて、篠永の存在感はいつもよりも増し、同時に少しだけ排他的な雰囲気の持ち主になる。話しかけられれば普通に答えてくるものの、気持ちの一箇所が別のところに行っているのは明らかだった。彼女がそういう状態になったときは、僕はしばらくのあいだ篠永をそっとしておくようになっていた。
 満足するまで興味の対象に入り込んだあと、彼女はぐったりといった感じでこっち側に戻って来る。そのまま頭の中に読み込んだことを何となく漂わせてはつなぎ合わせる作業に入り、いつの間にかまた物静かでにこにこした大人しい女子に戻っている。
 そういう波を、自分の中に持っていた。

 追求していく力には、どこか凄みのようなものまであるように感じた。

 ――え、あれもう読み終わったの?

 当時なぜか彼女のレーダーにひっかかったらしい西洋の宗教美術史に関するシリーズものの新書を、彼女は一晩ですべて読み終わって内容を把握していた。

 ――面白かったけど、ちょっと物足りないかも。続編、まだかな。

 言いながら、彼女は寝癖のついた髪を何度も撫で付けていた。
 今日はいやにあくびが多いと思ったら、昨夜の読書が止まらなくなって五時まで起きていたのだと言う。夕方の塾で会う頃にはすでに眠気に負けそうになっていて、頬杖をつきながら頭がかくんとなるのを抑えていた。
 きっかけになるのは、好奇心が動くかどうか、だけらしい。
 別の世界に行っている篠永は、充実しているようにも危なっかしいようにも見えた。気もそぞろで、無防備で、隙だらけの状態に。
 当時の僕の青い自意識には、彼女のそんな様子はどこか気の毒なものとして映っていたのだ。

 周囲が多感で過敏になっているのが当たり前の思春期に、そんな様子でふらふらしていたら敵意だって浴びるに決まっている。彼女を見ながら、僕はもっとうまくやってくれ、とひやひやしたり苛立ったりしていたのだった。篠永は特異な部分が多く興味深い人物ではあったけれど、周囲の環境とは全く共存できていなかったから。

 僕のほうを見ながら、彼女は慎重な口ぶりで繰り返した。
「わたしが、火あぶり」
「そう。かわいそうにな」
 彼女の代わりに祖父がこちらを向いて、泰智、とたしなめてきた。
 体裁なだけで、本当に怒っているわけではないのだ。どんな返答が返って来るか、むしろ楽しんで待っている。
 篠永は僕との言い合いにさすがに慣れてきたのか、気を取り直したように言い返してきた。
「現代は、さすがにそんなに野蛮じゃないよ。そんなのいよいよ理性の敗北じゃない」
 落ち着いた調子で、彼女は再び口をひらいた。
 理性の敗北。良い表現だな、と思った。
 ちら、とこちらを見てくる彼女の目の奥に、さあ西山くん、いつもみたいな続きをどうぞ、と書いてある。僕につっこまれるのを楽しんでいるのだ。

「理性の勝ってた時代があるって、篠永は思ってるの?」
「そんなの割合の問題でしょう? 別に世の中、一枚岩なわけじゃないし」
「へえ、そこまではわかってるんだ。それなのに、これだけ色々な道具が揃ってれば直接吊るされたり燃やされたりする以外の方法もある、とは思わないの? 精神的にそれに値することをやられる可能性とかは、考えないわけ?」
「それは、まあそうかもしれないけど――わたしごときに、そこまで人って過激になるかな?」

 去年異端児としてこの田舎町で散々つるし上げられたことを、もう忘れているらしい。
 神社の裏の暗い森で、複数の男子大学生達と人に言えない色々なことをしていたらしい、見かけによらず悪い子な篠永さんちのお姉ちゃん。
 噂は完全に鎮火しているが、終わっただけで消えてしまったわけじゃないのに。

「関わる人間全員が話せばわかる相手なわけないじゃん。毎度のことだけどさ、おまえの根元のハッピーさには心底呆れるよ」
 食卓に頬杖をつきながら答える。僕の癖だ。
 篠永は祖父に向かって小声で言った。
「少し分けてあげたくなる」
 愛用していた万年筆の箱をティッシュで拭きながら、祖父がおかしそうに頷いていた。
 彼は僕と篠永が始めるこの手のやりとりが異様に好きだった。おまえ達が言い合いするとどうしてどこか滑稽なんだ、といつも笑っていた。
「聞こえてるから。間に合ってるよ。俺は篠永を心配してるんだって」
 そんなに自分の感覚だけで勢い任せに生きてたら、どんな落とし穴に落ちるかわからないぞ。少しは保身にも走ってくれ、とこの一年ですでに何度も伝えたはずなのだが、きかないのだこいつは。
「図書館にひきこもって、きれいごとばっかり追いかけてるし」
 僕の言葉に、篠永は少しむっとした顔をした。
「――だって、最終的に無垢なところを目指してない知性になんて、わたしには何の意味もないもん。そんなのただの虚飾だらけの幻想だよ」
 少し勢いが落ちたが、それが本心なのだから仕方ない、という姿勢までは崩れなかった。
 恐ろしく過激なことを言っているのに変わりはなかったが。

「情熱的だとは思うけどさ、それ、絶対極論だから。おまえ以外の人間にはそうそう適用されないよ」
 篠永がこういうときに言う理屈は、ほぼ彼女個人の信念だった。
 本人もそれを良くわかっていて、あえてこちらにそれを投げて来るのだ。
 僕がこの手の発言に一度は想像力を働かせる性格だと、彼女はよくわかっていた。頭ごなしの否定はしない、と。
 その上で、彼女は自分の世界のはみ出した部分を僕に質されるのが好きだった。
 好きなだけ自分の世界を撒き散らすから一緒に遊んで、という感じの表情に、僕はよく引きずられてこうなってしまう。そんなときの篠永は、ドッグランに辿りついたばかりのわくわくした目をした小型犬にしか見えない。

「そういう西山だって、野暮ったい理屈には目もくれないじゃない。塾にいた社会科の菅野先生のこと、本当はばかにしてたの知ってるんだから」
「おい」
 慌ててつっこんだが、篠永はつんとすましている。
 祖父がほう、と自らの顎を撫でているのが視界の隅に映った。まずい、と頭の中で声がする。『他人がどんなに自分より一見して至らない存在に見えたとしても、安易に人を判断して見下してはいけない』というルールがうちにはあるのに。

「それにわたしは、知性に一個人の人生を支えてくれる以上のことなんて求めてない。自分が先人の積み重ねたものを誠実に継承しながら社会に貢献できるような人間じゃないってこと、わたしはよーくわかってるもの」
 ひらき直った女子そのもの、という表情で告げられてしまう。
「その言い方が今日で一番女っぽいって、どういうこと? バレンタインだよ? おまえ自分の世界に篭りっぱなしか?」
 引いてます、という顔をしたが、そろそろ限界だった。
「自分の性質をよく理解しているのは、悪いことじゃないはずです」
 篠永はすました顔を続けていた。彼女もすぐにでも笑い出しそうだったが。

 そろそろ頃合いだと思ったらしい。祖父が口をひらいた。
「美里ちゃん相手だとすぐにむきになるな、おまえさん」
「むきになんてなってない。お嬢さんすぎて呆れてんの」
 祖父へ言い返すと、食卓の上を片付けながら祖母が笑って、
「あら、いいじゃないお嬢さん。泰智に一番必要なものよね」
 篠永に向かってね、と首を傾げた。
 彼女もそれに同じように応えた。
「ばあちゃんまで、そっち? 俺また、四面楚歌?」
 そう訊きながらも、いつもの着地場所に戻って来たな、と思う。
 この手の会話の最後は、祖父母が客人の篠永の肩を持ってまとめ、僕が不満を漏らし、そしてこう終わるのだ。
「いや、三人とも味方だけど?」
 三人がそれぞれの語尾を選びながら、そう返ってきた。
 またそれかよ、と返すまでがお決まりだった。


「今日の西山家、楽しかったな」

 あの日の帰り道、篠永が高い声でぽつんと言った。
 楽しかった、という言葉はもっと楽しそうに言うものなのではないかと思うのだが、余韻があるときほど物静かになるやつだった。
 自転車だし、今日は本当にひとりで帰れる、と彼女は言った。
 まだ完全に陽も落ちていないし、このくらいの時間だったらまだいつも外に居るよ、と。
 こう言ってるけど、という顔で祖父を見たが、彼は何を言ってるんだとばかりに首を横に振った。
 僕は一旦部屋に戻ってから私服に着替え、コートを羽織って彼女に言った。ほら、行くぞ。

「本当にひとりで大丈夫だったのに」
「ああいうときのじいさんの命令は絶対なんだよ。勝はおまえが可愛いの」
 あまりよく整備されていない坂道で、僕は篠永の自転車を代わりに押しながらそう答えていた。
 自転車を押せないほどか弱くなんてない、と篠永は言う。それでも、雑木林を切り拓いて作ったらしい県道は充分な歩道もない上にときどき湧き水なんかも漏れ出していて、足元が不安定だった。ここだけそれ貸してと、ようやく譲らせたのだ。
 路側帯の狭い道に出た。僕が先に、自転車を押しながら入る。
 このあたりの土地はでこぼこしていて、あまり歩行者には優しくない。 

「あ、そうか。ごめん、もしかして、今日誰かと約束とかしてた?」

 唐突に、後ろから尋ねられた。
 思い出したというような響きで、途端に申し訳なさそうな声になる。
 通り過ぎる車の音にかき消されないように、僕は後ろを振り返って答えた。
「いや、ないけど。なんで?」
「わたしの二月十四日と、西山の二月十四日は違うんだった」
 難しい顔をして、独り言みたいな響きで彼女は言った。
 こちらに顔を向けてはいるものの、目が合っている感じはしなかった。
「わたしには急に思い立って聖ウァレンティヌスのこととかカカオ豆の種類とかを調べだしたりしちゃう日だけど、西山はチョコレートを山ほどもらったり、女の子と遊んだりする」
 気が付いたような声で、彼女が呟く。自分に言い聞かせるみたいに。
 いかにもこいつらしいな、と思った。調べ物が異様に好きなのだ。
 市の図書館で分厚い百科事典をひらいてうっとりとしている篠永に出くわしたことが、僕はすでに何度もある。
 朱色の高い背もたれがついた図書館の古い一人がけソファに、彼女は靴を脱いで横座りしていた。制服姿でその座席にぴたっとはまって座る姿は、ちょっと絵になっていた。膝の上に、重そうな百科事典を載せていた。
 僕はもちろん、友人の誰かと一緒の冷暖房目当ての来館だった。
 気に入ったシリーズものに夢中になったり偶然手にした一冊を読み込むことはあったが、僕は祖父ほどの読書家というわけでもなかったから。

「――もう付き合ってないよ」

 自分でもおかしくなりながら答えた。篠永は『彼女』のことを言っているのだ。
 そう、今月に入って離れたばかりだった。
 胸が痛みもしないので、たぶんあれは勘違いと気分による茶番だったのだと思う。
 後味だけが、何とも悪かったのだが。

「そうなの?」
「うん」
 狭い道を出ると、今度は高低差のある側溝がある。
 この百メートルをどうにかしてくれるという人が市長選で現れたら五年後には絶対投票するのにな、とふたりでよく話す道だった。
 篠永は、それ以上のことは尋ねなかった。その代わりに、
「ね、もう一回答え合わせしたんだけど、やっぱり特進は難しいと思うんだ」
 感情を抑えた声で続けた。
 後ろからやってきた白のセルシオが、勢い良く僕らを追い越して行く。
 こんな狭い道でよくやる、と小さなため息が出る。

 僕達は前の週に、揃って隣の市にある県立高校に合格していた。ふたりとも、一般入試での受験だった。
 僕のほうは、担任に推薦枠を他の誰かに譲ってくれと頼まれたからだった。
 彼の言う「おまえなら一般でも上位三人には入るから」という言葉にいい気になり、そうした。篠永は単にぎりぎりまで進路が定まらなくて、推薦を逃しただけらしい。

「篠永が? いや、それはないでしょ」
「ううん、社会科が足を引っ張ってる気がする。わたし、公民が特に低くて。あと古文もひどかった」
 指折り数えながら告げている。
 当時の僕にはものすごく意外だったのだが、篠永は理科が一番強いのだ。
 だからと言って数学もいけるかというとそうでもなく、理科の次が英語、国語と続いてから数学社会になる。
「まあ、二年目であがってくるって方法もあるからさ。俺だってまだわかんないし」
 合格後に進学向けクラスの希望調査があり、希望者の中で入試の点数が上の者から埋まっていくシステムだ。
 僕達はふたりとも『希望する』にチェックを入れたが、篠永はそれが実現するとはあまり思っていなかった。
 そのまま、入試の日にそれぞれの制服で校舎の中を一度すれ違ったのを思い出す。
 目が合うと、彼女はあ、という顔をした。そして表情が顔に出ないように、唇をきゅっとすぼめた。
 笑い出さないためにする、いつもの癖だ。

「上昇志向じゃないわたしが?」
「そこは少し頑張んなさい。おまえなら普通に入れるよ」
 笑って言うと、彼女もそれに続いた。やっと広い道に出て横に並ぶ。

 何もない田舎の道を、篠永は静かにゆっくりと歩く。
 同級生にすでに何度か見つかっているが、学校が違うせいか僕達はこの奇妙な友情をそこまで詮索されていない。もっとも、噂はもう広がっているらしいけれど。

「あれ? また背、伸びてない?」
 並んだときの視界に違和感を覚えたのか、彼女はそう尋ねてきた。
「ばれたか。昨日計ったら、百七十三あった」
 僕はもともと平均よりも若干高めの身長をしていたが、十五を過ぎたあたりからまた成長痛を感じる夜が増えた。痛み止めが効かなかったので、この頃は運動部でもないのに毎晩二十分のストレッチをしてから布団に入るようにしている。

「うわ、この前まで百七十だったのに」
「まだ伸びると思う。身体痛いし」
「男子って、伸び始めるとめきめき伸びるね」
 篠永が感心したように続けた。
 彼女は十五歳の時点で百五十六センチあったが、たぶんこれ以上ぐんと伸びることはないと思うと自分で言っていた。

「おじいちゃんはそんなに大柄でもないのにね。誰に――」

 似たんだろうね、と言いかけて、途中で気づいたのだろう。
 篠永は、あ、と小さな声を出した。顔をしかめて、そのまま俯いた。
 数秒間黙ったのは、感情がそれ以上乱れないようにぐっと力を入れたからだろう。

「西山。今の、ごめんなさい」

 小さな声で、彼女にそう告げられた。

 瞬間的に、かわいそうになるほど落ち込んでいる。
 こっちの感情は、まだ動いていなかったのに。
 そもそも静かな、落ち着いた声で篠永が言うことに僕が気分を損ねるはずがなかった。

「聞いてなかった」
 そう答えた。
 そう、僕は聞いていなかった。
 僕の父親を連想させるような、互いが気まずくなるようなことは、何一つ。
「嘘」
 篠永は少し前からは考えられないほどの細い声で、僕に言った。
 こんな小さなことひとつで、恐ろしく自分を責めている。泣きそうになっている。

 ごまかすとか、すればいいのに。
 そのままからっと言い切って、僕に突然変異だよとでも返されれば良かったのに。
 おまえそんなんじゃこの先生きていけないぞ、という気持ちが沸いてきてしまう。

「本当に、聞いてなかった。今日のあれ、俺好みの甘さだったなと思ってた。あれ、妹も明日同じ味の持ってくの?」
 篠永が焼いてきたチョコレートマフィンは、祖父の言うとおりほろ苦かった。
 ところどころに入っているチョコレートの塊が甘みを出していたが、後味が控えめで、単純に良かった。
「――妹のは別だよ。途中でボウルを分けたから。あの味は今日持って行ったぶんだけ」
「まあ、小学生にはあれは早いか。篠永、やっぱり料理うまいんだね」
 祖母と台所に立っているとき、包丁の使い方が慣れているのを見てやはり驚いたのだ。
 あまり、そういうことが好きそうには見えなかったから。
「あれは全然難しくないよ。それにうちは、女は料理を勉強するのが当たり前の家だから」
 篠永が、言い訳みたいに言った。
 古風な家なのは早いうちから聞いていたが、性別で随分役割が変わってくるらしい。

「嫌じゃなかったらさ、またばあちゃんとカレー作ってよ。おまえの親子丼はうちと違って悪くないから、それも」
 祖母も料理には堪能な人なのだが、なぜか昔から丼ものが苦手だった。
 自分でも言っていた。わたしがやるとどうして、甘くてぺらぺらの味になっちゃうのかしらね、と。
「――いいよ」
「よし。言質、取ったからな」
 言い返すと、篠永は下を向いて笑った。
 一度洟をすする音が聞こえてきたが、僕はそれも聞こえないことにした。 

「それじゃあ、本日はここまでにしましょうか。何か、質問とかありますか?」
 目の前でノートを広げていた女性に対して、僕は確認するために尋ねた。

 十四時半の、商店街の中だ。
 今日は朝から良く晴れていて、こういう日の商店街というのは不気味なほどのどかだな、と思う。すべてがゆるく、平和だった。
 昼すぎに出勤してすぐ、店の前のモザイクの敷き詰められた歩道を掃いた。
 真壁はそんなことまでしなくていいよ、と言うのだが、うちの祖父母は店の前に枯葉を溜めておくことをとても嫌がる人達だったのだ。何となくそれを受け継いでしまって、道具を借りることにした。
 俺好きなんだよ、掃き掃除。
 真壁に告げて外に出た。空気は乾いていたが、そこまで寒くもなく快い日だ。

「大丈夫です。こういうことだったんですね。コードって全部ばらばらに覚えるものかと思ってました。法則性があったなんて」
「ギターから入った人とかにもそういう方、多いですよ」
 昔師匠に言われた言葉を繰り返す。実際はもっと、小ばかにした口調だったが。
 パイプ椅子から立ち上がって、僕はすぐ前に置いていた五線譜の入ったホワイトボードを元の位置に戻した。
 今日の生徒は、クラシックピアノの経験が子供の頃に八年ほどあるという二十五歳の女性だった。
 結婚して趣味の時間を作れるようになったとかで、いずれは子供のために童謡やポップスをピアノで弾けるようになりたいと真壁音楽教室にやってきたのだった。自分の経歴はとても話せたもんじゃない、と思いながら、僕は彼女にトライアドの説明から始めた。

 ノートを片付けてバッグに押し込みながら、彼女は続ける。
「そうだ、ここ、発表会はないんですか」
「ああ、やらないこともないんですけどね。大人の生徒さんばかりなんで、近所のライブハウスを夜に貸しきる形です」
 まだ一度しか参加したことがないが、アルコールの普通に入る、あまり締まりのない発表会だった。どうせ次も、林と祐樹がおかしなMCをするのだろう。
「あ、もしかしてそれ、『Tosca』ですか」
 ライブハウスの名前だ。
 入ってすぐのところでカフェバーもやっていて、ものすごく不思議なドリンクメニューが八種類くらいある。店の名物らしい。
「そうそう。ご存知なんですね。来年はたぶん、十月じゃないかな」
「楽しそう」
「参加できますよ。春頃から、希望受付しますから」
 本当ですか、と言った表情は、ぱっとあかるかった。

 教室側にある小さなガラスの扉から生徒を見送り、店舗に出ると詩織(しおり)さんがレジのところに立っていた。真壁の彼女だ。
 こんにちは、とこちらに向かって笑いかけてくる。僕も同じように返した。

「お久しぶりです。真壁、どこ行ったんですか」
 尋ねると、彼女ははす向かいの履物屋を指差した。
「お客さんが棚に躓いて転倒したらしくて。呼ばれて出て行ったよ」
「うわ、大丈夫かな」
「大したことはないみたい。でも一応、同じ商店街だから」
 詩織さんはゆっくり喋る。
 ゆっくりだけど、同時にしっとりもしている。水気の多い感じのする美女だ。
「こういうところは繋がり、強いですね」
 真壁に、商店街の集まりにも出て欲しいと言われるようになったのはここ最近のことだった。若者がとにかく少なくてね、商工会の青年部に名前だけでも入って欲しいんだけど、と。
 他の仕事もしているからという理由で保留にしてもらっているが、実際にあまり人通りの多くないこの商店街は、新しい店が入ってもあまり長続きしない。環境自体は良いはずなのだが、やはり大型のショッピングモールが街のはずれに入ってからは客足は低迷しているらしい。
 よく見てみると、なるほどと思う反面こだわっている店も多いのだが。

「今日、わたし達お揃いね」
 詩織さんが僕を見上げて、ゆっくり笑った。
 自分を見下ろしてから、僕もそれに気がついた。
「ああ、本当だ」
「もしかして、言われるまで気づかなかった?」
 ふたりとも、杢グレーのVネックニットを着ていた。
 詩織さんは細身で色白で、驚異的にメリハリのある身体つきをしている。身体に沿って、服も大きく曲線を描いているのが見て取れる。気づいても、言い出せそうにはなかった。
 去年のあそこ? とブランド名で聞かれたので頷いた。
 色まで同じというのは、確かになかなかない。

「西山くん、Vネックがすごく似合うね」
「そうですか?」
「彼女さんが選んだの?」

 彼女さん。

 その言葉は、遠くのものに感じた。
 まったく何もなかったというわけでもなかったが、ここ数年そういう立場に誰かを招くことはしなかった。
「いや、しばらくいないんですよ、俺」
 他意はなかった。普通に、そう返しただけだ。
 詩織さんは窓の外を眺めたまま、そうなんだ、と言った。

 そうなんだ、もったいないね。

 真壁が履物屋から出てくるのがちょうど見えた瞬間だったことから、僕はその軽い接触を偶然のものだと思うことにした。
 恋人を見つけて扉の近くにまで出ようとした彼女の指が、ちょっと僕の腿にぶつかっただけだ、と。
 絡むような、腿をくすぐり撫であげられるような動きだったのもたまたまのことだ、と。

 真壁はやれやれといったふうに道路を渡り、店のドアに近づいてくる。
 両手を伸ばして、あくびまでしている。大事ではなかったようだ。

「ただいま。あ、西山授業終わったんだ。お疲れ」
 彼は店に入ってくるといつもの笑顔でそう告げ、その後とても怪訝そうな顔をした。
 詩織さんがどうしたの、と、いつものしっとりした声で尋ねた。
「ああ、一瞬制服なんて作ったかなと思っちゃった。なんだ、同じ色着てたのか」
 真壁は笑い、すごい偶然でしょ、と詩織さんが続けた。

04|地下通路の異端児達

04|地下通路の異端児達

 柏田(かしわだ)さんの事務所に呼ばれるのは、大抵夜だ。
「ちょっとパソコンの具合が悪いんだ。悪いけど近々見に来てくれないか」
 夕方にかかってきた電話で、彼はそう言った。
「今からでもいいなら、すぐ出れますよ」
 壁掛け時計を見上げながら答える。おまえさんがいいならそれで頼みたい、と返ってきた。
「悪いな、泰ちゃん」
 彼のいつもの口癖に、つい笑ってしまう。何てことないから、と答えた。
 コートとマフラーで厳重に防寒対策をしてから、しばらく使っていない原付に乗った。
 彼の事務所の前の駐車場は、この時間は満車のはずだ。近くにある飲食店が人気なのだ。

 江田秀雄(えだひでお)柏田進(かしわだすすむ)、そして僕の祖父である、西山勝(にしやままさる)
 幼い頃から仲の良い三人組だったと聞いた。若い時期には、この辺りの三羽がらすと謳われた時期もあったらしい。
 この町でどこかがはみ出しがちだった若者が集っていた江田さんのガレージに年の離れた僕がひとり呼ばれるようになったのも、祖父同士の縁がきっかけだった。
 今より若くすみれさんとも出会っていなかった彼は、自動車整備業をしていた実家の一角に小さなたまり場を作っていた。僕も、教育上良くないとされていることは大抵そこで学んだ。『西山のところの孫息子』として、僕は江田さんからずっとある種の庇護を受けていたのだ。
 法的に問題があることは、しなかったはずだ。江田さんもまた、豪傑だった自分の祖父を尊敬していたから。秀雄さんに空き缶を溜めるなと怒られればせっせとそれをまとめリサイクルセンターまで捨てに行っていたし、多少柄の悪い連中も揃っていたが所詮は悪ガキという程度のものだったはずだ。

 柏田さんにも孫はいるらしいのだが、離れた土地に住んでいてなかなか会うこともないのだという。
 母親ってのが強い人でな、と柏田さんは笑った。
 結婚するときにこっちでは暮らせないって言い切ったらしいんだよ。
 彼の事務所は駅の近くにある。小さな駅ビルと、それと同じくらいの規模のいくつかの商業施設、英会話塾やビジネスホテルが立ち並んでいる。

 彼の事務所は一等地からは少し離れた、雑居ビルの中にあった。
 古めかしい造りだが重厚感があって僕は好きだった。

「こんな時間まで仕事場にいるなんて、柏田さん、若いですね」
 挨拶のあとにそう続けると、彼はついていたデスクからそっと立ち上がって、
「僕が一番年下だから。とはいえ、七十過ぎたらさすがにな」
 人懐っこい笑顔を浮かべている。
 小さいチェックの入った、茶色のウールっぽいスーツを着ていた。
 この人の好む服装が僕は昔から好きだった。堅実で、落ち着いている。良識を感じさせるのだ。僕がビジネススーツを着ていたのは二年程度だが、とにかくあのてかてかとした感じが好きになれなかった。
 小さな事務所ではあるが、いつ来ても良く片付いている。昼間は娘さんと、他何人かの従業員が入っているらしい。高校生の夏休みに、僕もここでアルバイトをした。ひたすら伝票を入力するだけの仕事だったが、向いていると言われて何かが見えた気がした。
「で、どれがおかしいって?」
「こいつだよ。何だか良くわからん英語が出てな」
 彼の指差すデスクトップパソコンの前に、失礼しますと腰を下ろす。
 起動していいと言うので、そのまま電源を押して立ち上げる。

「最近、何か新しいことしました?」
 起動には若干の時間がかかった。購入する際に、詳しい人間がいなかったのかもしれない。
「繭子が何かを新しくするって言ってやっていたんだが、詳しいことは聞かなかったな」
 柏田さんは困ったように述べ、奥のほうに歩いて行く。いつものでいいか。お構いなくと返す。
 戻って来た彼の手には、いつものブラックの缶コーヒーが握られていた。ホットじゃないぞ、と手渡される。

 起動後の画面から、僕はプログラム一覧をチェックした。
 気になった箇所でそれを設定した最新の日付を確認すると、不調の理由はすぐにはっきりした。
「ああ、わかった」
「もうわかったのか」
 柏田さんが目を丸くした。
 娘さんが更新したという会計ソフトには、フリーのセキュリティソフトが付属していたらしい。すでに使われているものと、問題のあるファイルの隔離合戦をしていた。
 新しいほうのセキュリティソフトを停止させてから再起動すると、エラー表示は出なくなっていた。
「ええと、そうだな。二つの自警団で捕虜の取り合いしてたようなもんですかね」
 ジェスチャー混じりに説明すると、彼はなるほど、と笑った。
 昔からおまえさんはこういうのにも強かったな、と。

「ついでに何かやることあるならやっちゃうけど?」
 五分もかからずに解決するとは思わず、彼に訊いてみる。
「そんなこと言ったら、頼みたいことばっかりだよ」
 柏田さんはそう言いつつ、事務所の窓の鍵を確認してカーテンを閉めている。
「いいですよ。しばらくやってないし、少し復習しないと」
 答えつつ、一番軽いセキュリティスキャンをかけた。
「まあ、来年からな。僕もあと数年で退役予定だから。そのときは、色々頼む」
「ありがたいです。頑張ります」
「勝さんの倅がいるんじゃ、片付けは楽だろうな」
 柏田さんは笑っていた。
 幼い頃は気も身体も弱かったという彼は、自分をずっと庇ってくれていたという祖父をとても慕っていた。
 チェック終了、お使いのコンピューターに問題はありません、というメッセージを確認して、僕はパソコンの終了というタブを押す。
 彼は事務所の戸締りを終えたらしく、予定がないなら飯でも食いに行こうと笑った。ふたりとも飲めないけどな。

 
「なんでこんなところにいるんだよ」
 尋ねる声が、思った以上に不機嫌そうに響いてしまった。
 十七歳の、初夏だったはずだ。
 僕に見つかった篠永美里は、しまった、という顔をして、そこに立ち止まっていた。

 彼女は予想外のことが起きると一時的に意識を停止させる癖がある。
 現実との再接続まで、数秒ほどの沈黙があった。いつものことだ。僕はもうすっかり慣れていた。
 二十時すぎのコンビニから、彼女が小さな袋を持って出てくるところにばったり出くわしていた。
 互いの家から少し離れたところにある店だ。大きな河川の脇に、何件かのチェーン店が集まっている。ファミレス、靴屋、カメラ屋、レンタルショップと漫画喫茶、それから青い看板の紳士服。そこの周囲は夜でも煌々とあかるい。
 狭い町だから偶然鉢合わせることも珍しくはないのだが、時間帯を考えれば何かがあったと考えるのが妥当だ。
 大方、親御さんのどちらかと揉めたのだろう。
 高校に入ってから、篠永は家族とあまり良い関係を保てていない。

「――そっちこそ」
 篠永は言葉に詰まってから、ようやくそう言った。
 後ろから人が来ることに気づいて、僕は後ろ来るよ、と急いで告げる。
 彼女は半袖らしい大きめのシャツに薄手のパーカーを羽織って、いつものそっけないデニムを履いていた。
「また、親父さんと喧嘩したの?」
 袋の中に入っているだろうコッペパンと牛乳を思い描きながら尋ねた。
 出されたものは黙って食べるやつだが、自分で選ぶものはいつも質素で偏りがあるのだ。
 顔を向けると、店舗の脇に見知った自転車が止まっているのを見つける。

「うん。そっちは?」
「――親戚が来てて。色々面倒になったから」
 誰かに会う気分ではなかった。
 去年できたばかりの漫画喫茶で、時間をつぶそうと思っていた。
「わたしと大して変わらないじゃない」
 篠永が笑った。
「おまえは俺と違うだろ。女子高生なんだよ。こんな時間に一人で外にいるなよ」
 自分が男から価値を勝手に見出されてしまう年代にいるのを、篠永はいまいちわかっていなかった。

 少し前も、放課後の川沿いの道で一人考え事をしていて二十代の無職風の男につきまとわれたばかりなのだ。
 その日も、篠永をうちに連れて行くという約束をしていた。
 少し遅れて行った集合場所で彼女が絡まれていることに気づいた僕は、その場で一瞬、血の気が引いた。
 携帯電話で素早くその姿を撮影してから、そこに駆け寄った。ちょっと軽い、彼氏のふりをしてだった。

 ――美里、お待たせ。待った? え、何かあったの。

 彼女の腰にわざとらしく手を回し、近い場所で顔を覗きこみながら尋ねた。
 男は僕の出現に小さく舌打ちをして、踵を返しそこを去っていった。口の中で何か罵倒の言葉を呟いたようだったが、聞き取れなかった。
 相手の姿が見えなくなってから、大丈夫か、と篠永に訊いた。
 彼女は明らかに混乱していた。怖かったというような感情にすら辿りついていない、何が起きたのかまったくわからない、という表情をしていた。
「そっか、そうだよね」
 そのときのことを思い出したのだろう。彼女はごめんなさい、と素直に謝った。
 あれから篠永は、僕の家や図書館などではない外出ではあまりスカートを履かなくなった。防犯ブザーも持ち歩いているはずだ。

「連絡してくれば良かったのに」
「何か悪くて」
「まあ、結局合流してるからいいか。俺も何か買ってくるから、雑誌のところにいて」
 自転車の止まっている場所では、目が届かないぶん心配だった。
 篠永は困ったように、でもゆっくりと頷いた。うん。

 河川敷のベンチに座るとき、篠永が持っていた手提げから虫除けのスプレーを取り出して腕と足にかけた。
 そのままこちらにむけてくるので、同じようにそれを浴びる。
 子供向けなのか、青いソーダみたいな匂いがした。

 生ぬるい風の吹く、蒸し暑い夜だった。
 目の前の川は真っ暗で、水が流れているのすら良く見えない。
 僕達はそこで、コンビニで買ってきたものをそれぞれ開けた。

「街灯少なすぎて何も見えないな。まったく風流じゃない」
「こんなところで何か食べてると追われてる人みたいだね」
「おまえと逃避行したらすぐ捕まると思うよ」
 おっとりした口調と同じ速度で返すと、どうして、と訊かれてしまう。
 何となく、と僕は答えた。シュールなことを言い合っている。

「なんでこっちの店に来た?」
 ベンチの上で足を組みながら尋ねた。
 彼女の家からだと、自転車で十五分くらいだろうか。
 川沿いの暗い遊歩道をたまに歩いているのはジョギングをしている人か、犬の散歩のために出ている人くらいだ。
「ここならあかるいから、何かあっても人がいるかなと思って」
 自己評価はどうであれ、自衛することの必要性は学んだらしい。
 篠永はやはりコッペパンを齧っている。飲んでいるのは牛乳ではなく、カフェオレだったが。
 頬張っていたメンチカツサンドを飲み込んでから、僕は答えた。
「偉い。成長したじゃん」
「西山は? 漫画喫茶?」
「そう。俺は誰かと違って、野外に長時間いる趣味がないの」
 茶化して答えると、篠永もひどいね、と笑った。
「わたしも、色々気をつけるようになったんだよ」
「わかるよ。最近篠永変わったよ」
 彼女はあのくらいの年齢から、社会性というものに少しずつ目覚め始めていた。
 元々著しくそれに欠いた人物というわけでもなかったが、自分のことで精一杯だったのかもしれない。出会った頃、外の世界と彼女はうまくかみ合っていなかった。

「自分でも変わったなって思う。たぶんね、西山と同じクラスになったからだと思うんだ」
 篠永は言った。あまり食欲がないのか、手にしたパンがなかなか減らない。
「俺?」
「うん」
 膝の上に置いていたカフェオレを一口すすって、彼女は続けた。
「今まで集団に自力で順応しようとしてたんだけど、西山と同じクラスになったらその手間が省けちゃって。それで余裕が出たんだと思う。後回しにしてたものを、しなくて良くなった」
 もうすでに一度自分で考えた結論だ、というような答え方だった。

 高校一年は別のクラスだったが、篠永は二年目から僕と同じ特進クラスの一員になった。
 僕達は出会ってから少しずつ物理的な距離を縮めていて、三年後には毎日同じ空間にいるようになったのだった。

 もちろん僕は、初日から篠永にちょっかいを出した。
 彼女は僕に対しても他の生徒と同じように接するつもりでいたらしいが、僕は同じことをするつもりはなかった。

『おい、待ってたぞ篠永。一年もかかるとか、おまえ遅いんだよ』

 彼女が教室に入るなり、入り口で待ち構えていた僕は大きめの声で、いつもよりずっと馴れ馴れしく言った。
 大いに歓迎してやろうと思ったのだ。

 篠永は、目をまん丸くさせながら僕を見上げていた。
 あきらかに慌てているときの表情だった。下げている鞄の持ち手を、不安そうに握り締めている。今までそんなことしなかったのに、どうして人前でここまでフレンドリーな態度を取ることにしたの、という顔をしていた。
 僕はそれを、敢えて無視した。
 周囲に居る級友達が、知り合いか、という目で僕達を見た。

『西山、その子友達?』
 仲の良かった数人が尋ねてきたので、そうだと頷いた。
 親戚筋っていうか、昔から身内関連の集まりでたまに会うんだ、と。
 多少の脚色はしたが、まあこのくらいは言ってもいいだろうと思っていた。
 もちろん、それは計算だった。僕はあらかじめ牽制をしていたのだ。大人しい上に風変わりな人物としてこいつに悪意が向く前に、僕は僕の持っている見えない権力を久々に行使したのだった。
『何か西山とはずいぶんタイプ違うみたいだけど』
 小声で言ってきた友人の一人に、続けた。
『そうかもな。でも、こう見えて実は面白いやつだから。可愛がってやってよ』
 ふざけて言うと、彼らは笑った。おまえ王様かよ、と。
 その反応に、僕は少しだけほっとしていた。
 篠永という新入りの生徒に、僕はあらかじめ注意書きをつけることにしたのだ。西山泰智のお気に入り、と。
 僕はクラス内でも特別人を引っ張るような性格ではなかったし、むしろ机の上にべったりとうつ伏せて音楽でも聴いているほうが幸せな生徒だった。わかりやすく努力家というわけでもなかったので、自分がいわゆるエリートタイプではないのだということもその頃には良くわかっていた。
 僕の素は、競争心にいまいち欠ける快楽型の人間だったのだ。
 祖父母の手前本分を怠ることはしなかったが、机に向かっている時間が長いというわけでもなかった。家族に対して恩義を感じ勉強を頑張る、というふうになるのが普通だったのかもしれないけれど。

 それでも、総合すれば恵まれた立場にいたと思う。
 ライバルという意識が自分にないぶん、僕には特にこだわりのない友人付き合いができた。それなりに、発言力もあった。進学に特化したような少人数のクラスで、篠永が理由もなく孤立するとも思えなかったが。
 僕は昨年彼女がいた普通クラスでの扱いに納得がいっていなかったのだ。
 本人なりに精一杯の協調性を出していたが、篠永は全体のムードからはやはりいつも少し浮いていた。
 本人がそれを苦痛に思っていたわけではなかったが、息苦しい瞬間がずいぶん多そうだった。

「最初の日は、どうしてあんなこと言ったんだろうって思ったんだよ。でも、あのあとに声をかけてくれる人達がみんな気を遣ってくれてるのがわかった。わたしにではなくて、西山にね。でもそのおかげで、変な空気にはならないで済んでるから」
 川面を眺めながら、篠永は笑った。
「最初だけだろ。普通に話すようになってから、皆おまえの良いところに気づいたよ」
 実際に、僕は何人かから耳にしていた。
 ――篠永さんて、最初とっつきにくかったけど、いい子だな。
 そうやって、少しずつ篠永は人の中に入ってきた。

 数日前も、昼休みの終わりに彼女が新しく打ち解けたらしい女子と遊んでいるのを見た。
 篠永は自分の席に座り、後ろでいつもまとめていた髪をほどかれ凝った形に結い直されているところだった。僕に気づくと、恥ずかしそうに目だけで笑った。
「それなら、嬉しいけど」
「心配しすぎだよ」
 僕は、篠永が僕といるときに出しているリラックスした雰囲気がどうして他の人間の前で出ないのか不思議だったのだ。
 彼女は人に対して失礼な態度を取ったりしないし、一緒にいる人間に恥をかかせるような人物でもない。マイペースで細かいところは果てしなく細かいのだが、それを人に強要するような性格でもなかった。
 力を抜きながらも締まるところは締まっていて、無理がなく、自分を傷つけない存在。
 見えないところで色々悩んではいるようだったが、彼女は一緒にいることに慣れてしまうと他の人物では代用が効かなくなるような雰囲気を持っている、稀有な人物だった。異様に居心地が良い相手だったのだ。そう感じるのは、僕だけではないはずだ。

「これってちょっとずるいよね、って自分では思ってるんだけど」
「なんで?」
「だって、自力で他の人と繋がってないから」
 パンのすみをまた少し齧って、もういいや、とばかりに袋の中にしまっている。
 どうしてそうなる、という気持ちと、こういうことに関しては芯から生真面目なのはなぜなんだという感情が同時に発生していた。

「最初はいいんじゃないの?」
 誰でもやっていることのはずなのだが、納得がいっていないようだ。
「そうかな」
 自信なさげに言うので、僕は次のパンの封を切りながら続けた。

「俺だって、今良くしてくれてる人達の半分くらいはじいさんの人脈から来てるんだよ。西山勝の孫だからって理由で始まって、そのまま続いてるだけ。俺個人をどう思ってるかわかんないし、実は我慢させてるところもあるかもしれないけど」
 多くの顔が浮かんだ。
 彼らがどうして自分に親切なのか、不思議に思う瞬間はそれまでにいくらでもあった。
 どうしてこんなにこの人達は、何も知らないうちから僕を気にかけてくれるのだろう、と。
 ここに来るまで身内の知り合いから好意的に構われるという経験がなかった僕にとって、それはとても不思議なことだった。
「でもおまえは、俺のそういう付き合い方をずるいとは思わないだろ?」
「うん。全然思わない」
「そういうことだよ。続くときは続くし、縁がなかったら自然になくなるよ」
 じいさんみたいなことを言ってるなとは感じたが、篠永相手なのでいいかと思うことにする。
 いつか僕が感じた同じような疑問に、祖父が笑って言ったのを思い出していた。
 理由なんて考えなくていい。でも、できる限りでいいからおまえも相手を気にかけてやりな。それだけで、おまえはうまくいくから、と。

 炭酸飲料の蓋を開けて、濡れたペットボトルを傾ける。
 舌に炭酸の泡が当たって心地よかった。

「それに、俺だって篠永の友達だって理由で、自分じゃ出来ない何かを得るかもしれないだろ」
 飛んできた蚊を手で振り払いながら告げた。さっさと食べ終えて、歩いたほうが良さそうだ。
「それは、ないんじゃないかな」
 眉を困らせたように下げている。
「わかんないよ。おまえは良くも悪くも、何をしでかすかわからない」
「そう? ――ああ、でも」
 篠永は少しためらってから、続けた。
「もしわたしが、八歳の頃に見たものに自分のどこかで追いつくことができたら、西山に真っ先に報告するよ。それができるかも、できたところで何かの役に立つものなのかも、まだわからないけど」
 僕のほうを見上げながら、彼女は静かに笑った。

「それで、もしそれが人のために使えるものならね。わたしをずっと助けてくれてる西山だけは、好きなだけ使っていい」

 付け足された言葉に、一瞬僕が泣きそうになったことに彼女は気づいただろうか。
 時々こいつはこうやって、僕が予想もつかないタイミングで大きな何かを手渡してくる。

「ストレートにきたな。告白みたいじゃん」
 僕は同じ表情で返した。
 篠永の発した言葉は、ぎゅっと濃く光っているように感じた。
 その響きから、本気なのだろうと気づかされる。

「ある意味そうだね。一人じゃできないことなのかもって、最近思ってるから」
「――そんなに、良いものだったの?」

 八歳の彼女が、学校帰りに出会ったもの。
 途方もなく大きい、彼女の元に突然やってきた何か。

 その頃の僕は、この町で三度目の春を迎えていた。
 やっとここを、自分の居場所だと思い始めていた。突然足元が揺らいで、また別のところへ運ばれてしまうかもしれないと思うのを、ようやく辞められた頃だ。
 祖父母を家族として、自分の中にしっかり固定できるようになってきた頃。そうしても大丈夫だと自分に言い続けていたのは、あの頃だったはずだ。油断はしていなかったが、ここで始まった生活の最初の緊張からは抜け出していた。
 その頃、篠永は同じ町の片隅で子供の心では抱えきれないほどの新しいものに出会っていたのだ。

「うん。すべての物の見え方が変わっちゃうくらい、良いものだった。あれはね、人の一生を支えるよ。もしできるなら同じものを見せてあげたい」
 返事には、迷いがなかった。
 圧倒的な何かを、彼女は身体で掴んでしまっていた。
 その価値を覆そうとするあらゆる出来事が起こっても、自分にとっての真実を譲らなかった。強情を張る子供みたいに、篠永は自分の体験したものの価値を固く信じていた。

「余程のものなんだろうな、とは思ってるよ。いつも」 
 彼女はベンチから浮いた足を交互にゆらゆらさせている。
「わたしにそれがわかったところで、別に大発見とかそういうのじゃないと思うんだ。もっと個人的で、普通だけどすごく健全みたいなことなのかもしれない。本当の意味で、偏りのない場所みたいな。でもそれは、辿りつくまで全部見てみないとわからないよね」
 篠永がこの話をここまで具体的にする相手は、僕だけだと知っていた。
 大抵の人には最初の一歩目で笑われてしまうから、そうなったらもう続きは話さないことにしている、とも教えられていた。
 それで、本格的に面白いのはそこからまた何十歩も先なんだよ、と篠永は笑う。西山には、わかったところまで話しちゃってるけどね。
 確かに、突飛だった。
 僕がああいう祖父を持つことなく、また彼女が教養を重んじる人間でなかったら耳を貸すことすらなかったかもしれない。そのくらい、篠永の見ているものは深く壮大だった。

 だからこそだろうか、誰にも遠慮することなんかない、と僕も思うようになっていた。
 どうせ簡単には理解されないのなら、遠慮なくそこに辿りついてしまえと彼女の背を押す存在でいようと決めていた。
 自分の手の届く、一番のものが欲しいと篠永はずっと望んでいたから。
 そんな姿勢に、僕は胸を打たれていたのかもしれない。

 いつかもっと重い現実に縛りつけられてしまう前に、その門を開けてしまえと思っていた。
 開け放たれたむこうからあふれてくるかもしれない、まだ見ぬ何かが見たかった。
 周囲と同化できずに傷ついて小さくなっている彼女の姿を、見るのがつらかったのかもしれない。
 本人にはわからないような仕草で彼女をからかういくつもの視線を、僕は蹴散らしきれなかったから。

「篠永。それ、辞めるなよ」

 もう何度も繰り返した台詞を、僕はまた告げていた。
 目の前の景色が、何だかとても遠ざかって見える。気持ちが強くなるときはいつもそうだ。
 夏の夜の匂いが、風の中に混ざり始めている。
 緑がやたらと元気で、彼女はこの季節を迎えるといつもより少し活発になる。

「辞めないよ」

 彼女は前を向いたまま、自然なあかるさでそう答えた。
 その返事に、僕はいつものようにほっとしていた。
 今は彼女だけにしか感じ取れない何かを、僕もどこかで必要としていたのかもしれない。

 どうせ「もうたくさん」なことばっかりの世の中なんだ。
 それをわずかでも変えられる何かを、おまえは持っているかもしれないんだ。

 だから、誰に否定されても遠慮なんかしないでくれ。
 苦手なことなんて、いくらだって代わってやるから。
 おまえのやりたいことは、間違ってなんかないから。
 その感情を素直に認めて、僕は教室であんな白々しい芝居を打ったのだった。

「だからそれまで、西山とは大喧嘩にならないようにしなくっちゃって」
 篠永が照れ隠しに言った。
「大喧嘩? イメージが沸かないよ」
「沸かないほうがいい。そのままにしておいて」
 慌てて言うところが、おかしかった。

 今年の干し柿は、残念ながらいまいちだった。
 毎年うちの前に大量に生るそれを腐らせると面倒になるからと、祖父母は定休日などにうちの裏で加工して干し、年末に配っていたのだ。
 隣の敷地はもともとうちが貸していたもので、物置としてのプレハブ小屋があるにはあるが今は使っていない。
 少し落ち着いたら取り壊さなくてはいけないと頭ではわかっているものの、手続きが面倒でつい放置してしまっている。

「あー、だめだ。今年のあんまり美味くない」
 一口齧ってから、期待を裏切られたことを知る。
 暖冬なのがいけないのか、祖父母が作っていたような甘みが出なかった。
「でも別に、食えないとかじゃないですよ。普通ですよ」
 林は紐もろくに外さずに、黙々と干し柿を咀嚼している。
 おまえ若いのにこういうの普通に食うのかと訊くと、バンドマンは干し柿やみたらし団子や粕汁食べちゃいけないとかあるんですか、と返された。
「何それ」
「オシャレ系バンドマンのイメージじゃないって言われたことがあるものです」
 林は淡々と言っていたが、憤慨気味らしい。今日はいつもより微妙に機嫌が悪いようだ。
「いや、俺は年齢的なことから尋ねたんだけど」
 僕はすでに林に何かを言い返す気を失っていた。

 ――真壁さん繋がりでクリスマスに商店街でケーキ売るんですけど、俺、聖夜に光るトナカイになりたいんですよ。西山さん、LED付けるのやってもらえませんか。

 百均で買ってきたらしい小さなイルミネーションライトとトナカイの角がついたカチューシャを取り出しながら尋ねられたのが、一時間ほど前だった。
 領収書の打ち込みをしていた僕は、文字通り開いた口が塞がらなくなった。

 ――俺、おまえの親とかだったっけ?

 圧倒されながらようやくそう訊くと、西山さんまでそれ言うのかよ、と彼は屈託なく笑った。絶対に笑い事ではないはずだ。彼の過去に関わった女性たちに思わず同情してしまう。
 祖父がそれを女に言わせる男になってはいけないと僕に叩き込んできた言葉のひとつを、林はきっと何度も言われている。わたしは、あなたのお母さんじゃない。

「俺、ちょっともらっていっていいですか。普通に朝とかに食います」
 確かに食えないというほどでもないが、配り歩くなら言い訳も一緒にだと思ってしまう。
「いいけど」
「やった」
 嬉しそうに言って、彼は紐のついたままの干し柿を首にかけていく。

「まずい。最近俺、おまえのそのペースに前以上に慣れてきた気がする」
 ノートパソコンに数字を打ち込む手が、動揺して止まってしまう。
「いやあ、理想的な展開ですね」
 林は干し柿をひとつにまとめながら笑っている。
 西山さん、割とちょろいって言われませんか。実は騙されやすいほうじゃないですか。
「失礼だよ」
 口ではそう言ったが、図星だった。一度自分の中に受け容れてしまった相手に対して、僕はとてもガードがゆるい。世話好きの人間だと誤解されてしまうくらいに。
 経費の打ち込みが終わったので、今度はメールの返信をすることにした。
 林は畳のほうに座り込んで、新聞に入っている折込チラシを一枚ずつ読んでいる。

「真壁さんのところの、最後の授業いつですか」
「二十六日かな」
 二十六日の十六時。
 それで、代理講師の契約期間は終了する予定になっている。
「最後、俺ももぐろうかな」
「林。うち、個人指導だから」
 即答すると、つまんないっすね、と林は呟いた。
「来年からは、石居さん復帰ですか」
「そう。入院長かったけど、あれでも軽度だったらしいよ」
 石居さんは真壁音楽教室設立時からのピアノ講師で、二年前に肝硬変を患って休職している。長い付き合いの真壁が、あれこれ世話を焼いているのを僕達も知っていた。
「西山先生じゃなくなっちゃうんですね」
「真壁のことだからな、発表会にはどうせ駆り出されるよ。来年またおまえ達の頭の悪いMC聞かされるんだ」
 メールの送信ボタンをクリックする。
 知り合い伝いにまた仕事の相談が増えてきたところだった。
 これでは便利屋だ、と思いつつ、できることを引き受け続けて半年くらいになる。いよいよ自分が何屋なのかわからなくなってきていた。

「まだ一年近くありますよ。つまんねえな」
 いつもは言わない、つまらないが二度続いた。やはり林は、今日は少し調子が良くないらしい。
 怠惰でひょろひょろした男だが、楽器を演奏し始めると林は変わる。一種独特の集中力があって、顔立ちが途端に涼しげになる。うちで弛緩しきっている姿を見ているとあの顔を忘れそうになるのだが。
「それまで、もう少し本腰入れてバンドやれよ。今割とどっちつかずだろ」
 完全なアマチュアよりは確実に腕はある連中だが、プロ志向と言うにはやはり今一歩足りない。
 演奏している動画をアップロードしたり、ライブを増やしたりすることでもう少し認知度も高くなりそうなものなのだが、どこかであやふやなところがある三人組だった。

 林はああ、と肩を落としてから、続けた。
「有紗が、辞めるかもしれないんですよ」
「え、そんな話になってんの?」
 今日の不調はそれが原因だったのか。
 林はあぐらをかきながら答えた。
「二日くらい前ですね。たぶん、祐樹とやりあったんです。バンド内恋愛ってやっぱりこうなるんですよねえ」
 キーボードの高城有紗が館山祐樹と付き合っているのは、春頃に聞いていた。
 バイト帰りに真壁楽器店に立ち寄った林が、いつもの電子ピアノの椅子に腰掛け言い出したのだ。僕達はそれぞれの仕事道具や楽器を手に、いつもの雑談をしていたところだった。
 個人同士のことだし好きにやればいいんじゃないか、とは言っていたものの、実際はあまり良くない傾向ではないかと僕は真壁と顔を見合わせていた。
 真壁も学生時代、友人達といくつかのバンドを組んでいたから、その手の話の結末がどこに落ち着きがちなのかよく知っていた。
「もともと俺達、スリーピースにこだわってなくて。合う新メンバーがいればって、ずっと募集してたんですけどね。もしかしたらキーボードも再募集しないといけなくなるかも」
 林は苦々しげに言った。
「良く話し合えとしか言えないけど。勿体無いな、せっかくまとまってきたのに」
「ですよね。何だか今年の冬は、忙しないです」
 太陽光発電のチラシで飛行機を折りながら、林はため息をついた。

「――そういう年もあるよ」

 ここ数年間、冬は毎年そんな感じだった気がする。
 一昨年の冬は、前向きなことはあまり手につかなかった。
 逆に去年は仕事で多忙を極めていて、とにかく目の前のことを片付けていかなければ前が見えてこなかった。
 そうやって手と頭を使い続けてやっと、今年の穏やかな冬を迎えたつもりでいた。
 僕はようやく、この静かな年末に辿りついたつもりでいたのだ。

「いやあ、西山さんだってそうでしょ」

 僕の発言で思い出したらしい、林は僕のほうを素早く見て言った。
 話題が変わっていく方向を思い描く。嫌な予感がした。
「篠永さんのお姉さんに、連絡しました?」
 飛行機を折る手を止めて、柴犬男が真顔で尋ねてくる。
 やはり余計な一言だったと思ったものの、ごまかせそうにはなかった。

 目を反らして、答えた。
「――まだ」
「いやもう四日も経ってるから!」
 林が強調して言う。
 篠永が訪ねて来た日から、今日で四日目だ。

「いや、だって――話し合いのしようがなくない?」
 一週間後、篠永の元彼とやらはこの町にやってきて、彼女の前に跪いて言うのだ。
 永遠とか、ずっととか、そういう言葉から始まる例の一言を。
「でも、そしたらこのまま彼女人妻ですよ」
 林は眉を険しい形に寄せて、真剣に訴える。
「忌々しい響きだね」
 エンターキーを押す指に、思わず力が入った。

 正直に言うと、まだその話に現実味を感じなかった。
 あの篠永が誰かの妻になるなんて、まったく想像がつかないことだった。
 あいつがこの先を、誰かと並んで、寄り添って生きていくなんて。
 思い出だけが頭上から降り注いでくるようで、僕はあれからずっと夢の中にいるような感覚が続いている。

「本当にとことんですね、この件に関しては」
 林が僕に向かってチラシで折った飛行機を放った。

05|探しに行きたい

05|探しに行きたい

 高校二年の二学期、期末テストで初めて篠永に一教科追いつかれた。

 あの日の僕達は、高校の帰り道で話し込んでしまったままうちに流れついていた。
 祖母はあらあらと笑って、昼食にと肉野菜炒めを大量に乗せた焼きうどんを出してくれた。美里ちゃんもお昼まだよね? という一言に彼女は遠慮したが、祖母は気にしなかった。
 僕達の高校は成績順位について貼り出すようなことはしないところだったが、結果を報せる用紙にはもちろんそれが記載されている。
 僕のそれを見たい見たいと騒いだので、家に着く直前に鞄の中から引っ張り出して手渡したのだ。
 本当にいちばんだ、と嬉しそうにしていた。僕以上に篠永には競争心というものがない。

「ねえ、西山はどうしてそこまで何でもわかるの? 性格は全然優等生タイプじゃないのに」
 失敬な物言いだなと思ったが、理由が知りたいだけなのは顔を見ればよくわかる。
 今回は、でも実際のところ僅差だったのだ。
 隣のクラスの二位の生徒とは四点しか離れていなかった。
「天賦なんだよ。ありがたいことに」
 いつものこたつのいつもの席で、僕は正直に打ち明けた。

 実際、僕が大した苦労もせずに勉強ができるのは生まれ持った記憶力のおかげだった。
 祖父母とこの家で暮らし始めてすぐ、小さな僕は近所でちょっとした伝説を作っていたのだ。

 ――この子、本当に何でも覚えてるのね。

 目の前のお客の前回の来店日からその時の服装、購入した商品や連れの相手のしていた話まで、当時の僕はすべて事細かに記憶していた。レジ裏にあった祖父の小さな作業机の前で、ずっと遊んでいたせいだ。

 気難しい子供だったし、気分のむらも大きかった。
 そして、自分にとって当たり前にあるものは、皆同じように持っていると思い込んでいた。

 人間は自分の見てきたものをそのまま映像として記憶している生き物なのだと、幼い頃の僕は思い込んで生きていた。どうやらそれはごく少数の人間だけに起きている事象で、自分が偶然その中のひとりだということを教えられたのは七歳になってからだった。
 同じ種類の頭を持っている人達の中には過去の映像を呼び起こしては拡大したりして、そこでまた新しい情報を得ることができる人もいるらしい。
 僕の場合はそこまで驚異的なものでもなく、単にそのときそのときの鮮明な記憶が溜まっていく、という軽度のものだった。
 それでも、今よりも膨大な空き容量があったことから子供の僕は周囲が驚くほどの出来事を頭の中に詰め込むことができたのだった。

 小学校に入学してすぐ、担任から個別に連絡が来て大きな病院で検査を受けた。
 青白い蛍光灯が照らす床は大理石風で、待合のベンチの脇には三段のカラーボックスがひとつ置かれていた。
 僕はその中から、カバーの破れかけた宇宙の秘密というような名前の本を引っ張り出して眺めていた。祖母はいつもよりも少し上等な服を着ていて、よそ行きの祖母が履くいやに白っぽいタイツが印象的だったのを覚えている。

 脳波を測るときの、こめかみや頭皮に塗られたワセリンのようなクリームが気持ち悪くて、早く帰って頭を洗いたいと思っていた。
 いくつかの検査を受けた後に、脳の活動量がその年齢の平均値よりかなり高めであることを医師に告げられた。
 くたびれた白衣を着た医師が、暗い部屋で祖母に説明した。
 記憶力の高さも、そこから来ていると思われます。現在は発達面に偏りがあるというわけではなさそうですが、少し他の子と違う部分があるかもしれないですね。今後何か気になることが出てきたら相談して欲しい、とも。

 帰宅して結果を教えられた祖父は、わずかに俯いておかしそうに笑った。

 ――妙に聡いやつだなとは思ってたけど、やっぱりな。まあ、そのくらいのおまけがあっても罰は当たらないよ、おまえには。

 子供の頃はよくそれで消耗もしていたのだが、やがては馴染んできた。
 祖父母は内心心配していたらしいが、特にそのことで困るということもなかった。
 成績以外は普通の、それなりに物分り良く要領も良い子供として僕は育っていた。

「でも、授業だけはちゃんと聞いてるよね」
「それが一番効率がいいんだよ。勝手に目と音で覚えてるから、あとで呼び出せばいいわけ。カメラ置いてる気分で座ってるだけ」
 説明すると、篠永はぱちぱちと瞬きした。感心しているらしい。
 すでにいつもの席になっている場所で、篠永はゆっくりと祖母の作った焼きうどんを食べている。物静かに、少しずつ。何をするにも大事そうに動くところがあるやつだ。
 慎重というか臆病というか、大切そうに生きている、という感じにも近かった。
 今日の祖父は、江田さんのところに呼ばれて出て行ったきりらしい。
 きっと話しこんでいるのだ。行けば毎回、三時間ほど引き止められ続けて帰らないから。

「それで学年の主席って、神様も趣味が悪いね。努力してる子達いっぱいいるのに」
 あの頃の僕達の流行は、確か『神様』だった。
 雑談の中で言い出したのをきっかけに何となく気に入ってしまい、どちらかが言い出すと何にでもつけた。
「全然しないわけじゃないけどね。録画しっぱなしでも、結局見なきゃ意味ないだろ」
「そっか。それに、その映像から必要な情報を抜き取ったり自分で解釈できるっていうのは別の能力だもんね」
「おまえはさすがに話が早いね。その通りだよ」
「じゃあ、やっぱり元々が賢いんじゃない。その上でいくらでも細かいデータが入るってことでしょ? 学者さんになれるね。いいな、その神がかった記憶力」
「忘れたいこともなかなか忘れられないんだぞ。後から思い出して嫌な記憶にならないようにって、普段からブレーキかけることもあるし。『神』経質にどうしてもなるもん」
 恩恵だけではないのだ。
 ありありと思い出したくない記憶だって、今も鮮やかに残ってしまっている。

「俺はこう見えて、けっこう『神』妙に暮らしてるんだよ」
「あ、今の上手」
 篠永はそう笑ったあと、それは確かに辛そうだね、と一旦箸を置いて真面目な顔をした。
 自分が当事者だったらどんな感じがするのか、じっくり想像しているのだ。冷めるから後にしなよと伝えた。
「それでも、俺は知の神様には愛されてるらしいんだ。だから"ひらめきちゃん"のおまえに順位が抜かれることは今後もないんじゃないかな」
 脇に置いていたテストの結果表をつまんで、ひらひらとやった。
 直感と感性が優先している彼女をいつものようにからかうと、篠永はわざとむっとした顔で僕を見た。

 子供時代に自分の考えを否定され続けたことをきっかけにして、篠永は他人の前で自分の意見を口にすることを辞めてしまっていたらしい。
 うちに来てからそれを流暢に喋れるようになるまで、彼女は順序立てて物を話すということが本当に下手だった。
 今のような話し方ができるようになったのは、本人とうちの人間の努力と忍耐の積み重ねによるものなのだ。

 高校に入る前くらいまで、僕は目の前に座る不思議ちゃんの感性が赴くままに散らかった話を時に苛立ちながらここで聞き続けた。
 本人は普通にひとつのことを話しているつもりなのだが、聞いている側からすると話が飛びまくる上に会話の中で視点や角度が常に動き続けているのだ。常人の頭の中では繋がらない場所同士が当たり前のように連動していたりもして、僕は篠永の発する言葉の意味を全神経を研ぎ澄ませて聞かなくてはいけなかった。
 質問と確認を繰り返し、彼女が不思議そうな――どうしてそんなに当たり前のこと聞くの、とでも言いたげな――表情で頷くことでやっとその筋道が見えてくることも、珍しくなかった。

 まるで巨大迷路、あるいはジグソーパズルだった。

 彼女の世界から不規則に出てくるパーツを何とか繋ぎ合わせ、わかりやすい言葉に何度でも翻訳した。ときには互いにへとへとになるまで、それに取り組んだ。
 何を言ってるのか分かってもらえた、何を言ってるのか理解できた、という単純な喜びのために、僕達は両極からそうやって近づきあっていったのだった。
 
 ――西山、すごい。そうなの、わたしそれが言いたかったの。

 篠永は僕に自分の考えが通じると、両手を合わせて目をきらきらとさせながら小さな女の子みたいに喜んだ。
 それまで理解されずにいたところから一歩戻って来られたというような、ほっとした表情をしていた。まるで、閉じ込められていた場所から救出されたみたいに。
 それは、外で彼女が見せている顔とはまるで異なるものだった。実際の篠永は、人前に出すのを自分で恥じて隠してしまうくらい純粋なところのある人物だった。

 僕にとっても、彼女との会話は新鮮な体験だった。
 中学生の彼女はだいぶ取り散らかった頭の中に住んでいたが、その奥のほうで考えていることにはいつも一定のあかるさと軽さがあった。
 会話の途中、本人も気づかないタイミングで沸き上がってくるそれに、僕は何度も遠くに連れていかれたような気分になった。

 それぞれが反対の役割にまわることも、もちろんあった。
 僕が頭を捻って篠永の言うことを理解しようとしていたのに比べて、持ち前の感受性のおかげか彼女が聞き間違え以外で僕の話を誤解したことはただの一度もなかった。
 僕が他の同級生にはしないでおいた少しだけ難解だが興味深いと思った話は、まるで吸い込まれるように彼女の頭の中に入っていった。
 それらが内部でくるくると処理されて、ぽんと出てくるのは大抵、その物事の本質的な部分を彼女らしい言葉で捉え直したものだった。そういうことじゃないんだけど、という気持ちに一切ならない会話ができるのは僕にとってもこいつだけだったのだ。

 彼女が察するのは、考えだけでもなかった。
 家族以外には滅多に悟られることがなかった、僕の中の微妙な気分の違いもきちんと感じ分けた。

 ――ねえ、今日どうしたの。元気ない。

 篠永は戸惑ったような小さな声で、僕に尋ねた。
 誰にも気づかれなかったのに、と思ったり、さすがだな、と思ったりした。
 何でもないよ、と言う日もあったし、それがさあ、と話すこともあった。
 僕がどんな答えを選んでも、彼女はそれに合わせてくれた。
 篠永は、僕の話を静かな相槌を打ちながら聞いてくれた。巧みに話の道筋を整えて、僕に平静を取り戻させた。ほんの少しの自信がおまけについてくるような、褒め言葉をうまく使った。
 感情的な反応をする人物ではなかったが、味方だった。
 僕達の違いは、互いを補う合うのに充分なものだったのだ。
 僕はすでに出来上がったものを吸収し自分の中に整頓していくことが得意で、篠永はそれがさほど上手じゃなかった。あまり関心がなかった、に近いかもしれない。
 彼女は彼女なりに自分で見聞きしたものを頭の中にまとめていたが、どうやったってそこには自分の味が入ってしまうのだ。

 十代の頃の篠永は能力的にはかなり凸凹していて、常にバランスに欠ける状態にいた。
 それでも、彼女にしか出せない味のようなものがそこにはあった。
 くもの巣のように、織物のように、篠永の頭の中は色々なものが独自の形で繋がっていた。
 十代の後半くらいからはそれを少し自分の奥のほうにしまい、表面上は外側の世界に合わせるようにしたようだが。
 そのあたりのことも、だんだんうまくやるようになっていった。

 僕にからかわれたことで、気が変わったらしい。
 もう言っちゃえ、と小声でもらしてから彼女はいたずらっぽく笑った。
「でもわたし、今回物理九十四点だったよ。初めて西山と同点になった」
 神の采配かも、と付け加えている。

「嘘だろ?」
 思わず聞き返してしまった。あやうく器を落としかけた。
 嘘じゃないよ、とおっとりとした返答が戻ってくる。
 こういうとき、篠永は単純に嬉しそうな顔をする。
 僕のように茶化したり見下したりといった冗談を彼女は言わない。言わないぶん、その手の煽りをきれいに無視することも多いのだが。
「今回はこう、わたしの頭の状態にぴったりはまった。ついてた」
 満足げに頷いている。たまに悦に入るところがあるのだ。

 祖母が少し離れた場所で笑っているのが聞こえた。
 泰智、あなたもそろそろ頑張らないといけなくなるんじゃない?
「うわ、何かすごく悔しい。屈辱。俺、知の神様への信仰心が足りなかったのかな」
 僕がそう言うと、篠永は笑ってむせた。『神様ごっこ』まだやるの?
 ほら水、とコップを指差すと、手を震わせながらコップを手に取っている。

「――その分野なら、わたしの圧倒的な勝利だね」
「信念って意味でおまえに勝とうとか、間違っても思ったことないよ」
 表面上のふんわりに騙されてはいけない。
 根元の部分では、誰の言うこともきかないやつだ。

 篠永はまだ喉の奥で変な音を出している。
 僕は手を伸ばして、小さい背中を数回叩いた。

 ふたりで食器を洗い片付けると、篠永は祖母に言った。
 何かちょっとお手伝いしたいな、と。
「じゃあ、針に糸を通しておいてくれる? 最近また視力が落ちてね、針穴がよく見えないの」
 祖母が小さいほうの裁縫箱を食卓の上に置く。
 ちょっとした裁縫をするとき、この頃の祖母は苦戦している。
 僕も祖父もそれほど手先が器用ではないため、あまり力になれなかったのだ。

「白と黒と、五本くらいずつでいいですか? 長さは?」
「五十センチくらいで、両端を軽く縒っておいてくれる?」
 篠永はわかりました、と返事をしてから、白黒両方の糸をそれぞれ五本ずつ同じ長さで取った。
 丁寧に鋏で切ってから、一本ずつ針に通していく。
「助かるわ。ちょっとボタン取れてたりするとき困るのよ」
 通した糸を針に巻きつけて、篠永は全部で十本の糸を針に通し終えた。

「器用なもんだな」
 手先を見ながら告げた。
 僕は裁縫の類は苦手で、家庭科の授業は常に憂鬱だった。
「ありがと。母はこの倍くらい早いよ」
 そういう仕事をしている人なのだとは聞いたことがあったが、母親の話を篠永はあまりしない。仲が悪いというわけではないのだが、単純にあまり話をしないらしい。

 篠永は針をすべて裁縫箱にしまってから、祖母に手渡した。
「おばあちゃん、減ってきたらまた言って。わたし、いつでもやるから」
 祖母は嬉しそうだった。ありがとうね、と何度も言った。
 篠永は首を振り、いつも色々ご馳走になってるから、と答えた。

 記憶の切れ目で、ふと今の自分に戻ってくる。

 楽しい面だけではなかったんだよな、と、寝室に入って考えていた。
 壁掛けの小さなプレイヤーから、デューク・エリントンが流れている。
 『ムーン・ミスト』だ。
 あの時代のノイズが強く入っている音源で、それだけで昔の雰囲気が立ち上がって落ち着く。

 二年前は、この部屋に一通の手紙を置きっぱなしにしていた。
 彼女がこの家を飛び出してから、しばらくして届いたものだった。

 スマホもパソコンも使っている身で、私用で手書きの手紙なんて受け取る機会はほとんどなくなっていた。
 僕自身が悪筆なのもあり、打ち込んで済むものはすべて道具を使うようにしていた。

 秋の終わりに届いたのは、落ち着いた淡いグリーンの封筒だった。
 表書きには筆圧の弱い字で、西山泰智様、と書かれていた。
 裏返すと、差出人に篠永の名前が書いてあった。一瞬、息が止まった。
 青のボールペンを使って、あの街で彼女によってゆっくり書かれただろうその手紙を、僕はこの部屋で開封し言葉の通り何百回も読んだ。


 本当はあなたが今みたいな思いをする時期に、一番そばにいたいと思ってた。
 若い頃からずっとそう思ってたのに、こういうふうにしかできないことが本当に悲しい。昔からあなたはわたしに色々なものを与えてくれたのに、わたしはどうして同じことができないんだろうって、今も思ってる。
 ごめんね。本当に、そればかり悔やんでる。
 許してくれるならいつかまた、西山にだけは絶対に会いたい。
  

 二枚の便箋に収められたその手紙は、当時の沈んで乾ききっていた僕にやわらかく降り注ぐ雨みたいだった。
 読みながら、ばかだな、と何度も言った。
 そう口にした回数のうちの何回かは、いつものようにこらえきれず僕も泣いていた。

 何でそんなに気にしてるんだよ。悪いのは全部、俺だったのに。
 僕があの時期篠永をみっともなく振り回しただけなのに、彼女はそれに応え切れなかったと自分を責めていた。
 もっと甘えて、自分をぶつけてきてもいいと、何度も彼女は言った。そういう場所にわたしを置いて、とも。

 ――ひとりでそんなに抱えないで。西山、お願い。

 あの頃も彼女はいつだって僕に対して、真剣だった。
 
 音楽と電気を消して、横になった。
 冬は特に、この辺りは静かだ。


 十代の頃の篠永には、秘密の場所があった。
 その場所はきっと、彼女の周囲にいる人間でも僕しか知らない。
 泣きたくなったときに彼女が行くその場所は、県道の脇を更に少し入った、徒歩圏で一番高い場所にある普段は無人の小さな寺院だった。
 市内を見下ろすことのできるその寺院の階段に、あいつはよく座り込んで泣いていた。
 無造作に生えた周囲の木々が、彼女を人から隠した。
 ラジオの音だけが聞こえていたのは、下のほうの畑で農作業をしている人がいたからだ。危険な野生動物と遭遇しないようにと、ラジオや音楽をかけておくことが推奨されているような場所だった。
 喜怒哀楽がさほど激しくないように見えた篠永は、実際は人一倍やりきれない感情を胸に蓄えて生きている人物だった。吸収する力が強すぎて、処理する力が追いつかなかったのかもしれない。
 日々の中でそれをどうにか零さないようにしていても、間に合わなくなってしまうこともあったのだろう。言葉にしなくても、いつも色々なものを感じ取っていた。

 彼女と長く一緒にいるうちに、そろそろあの場所に行くんだろうな、というタイミングがわかるようになってきた。物静かさに、少しの重さを感じるようになるのが。

 両親が、何かをきっかけに彼女への風当たりを強くしたとき。
 悪意のない冗談の形で、体面を保ちたい相手の目の前で娘の性格を批判したとき。
 自分達が今まで見てきていないことは存在しないと、彼女の考えを切り捨てたとき。

 学校で、どうやっても相容れないような女子生徒から続けて悪意を浴びた日。
 自分の信じているものを、誰かが当たり前のように否定しているのを聞いたとき。
 小さな失敗を、誰かが喜んで人前で披露しているのを聞いたとき。
 誰かが不当に苦しめられていることや、想像もつかない形で傷ついていることにひとり気づいてしまった日も。
 篠永は自分の中に生まれるやりきれなさを吐き出しに、その寺院へ行くようだった。
 
 理解があるとは言えない家族の目を気にしなくてはいけない彼女は、自宅で泣くことができなかった。だからこそ、そういう場所が必要だったのだと思う。
 自分が感情的に振舞うことで、それを受け取った家族からより大きくなった反応が戻ってくることを篠永はとても怖がっていた。どういうわけか、篠永の両親は自分の娘が独特のやわらかさを持っている人物だということを認めない人達だった。

 止めないけど、危なくないようにして行きなよ、と言った。
 本人は頷いていたが、結局僕のほうが心配になって次の日の夕方自分の自転車を押して行ってしまった。
 空振りならそれでも良かったのだ。
 僕が、ただ探しに行きたかっただけだった。

 家から三十分、何度もカーブを繰り返した坂の上、少しひらけたような場所に出た。
 紺色の自転車が、想像した場所に停めてあるのを見つけた。
 自分の自転車を置いて、音を立てないようにそこに歩いて行く。

 寺院の階段の脇で、篠永はやはり背中を丸めて泣いていた。
 まるで身体から重いものを搾り出すみたいな泣き方だった。胸がいっぱいで、一日だって我慢できなかったのだろう。
 その姿は、見ていると次第に胸が冷たくなっていくように痛々しかった。

 周囲に馴染んでいるふりをしていても、実際は毎日が違和感の連続なのかもしれない。
 何をしていても、彼女はどこか所在なさそうに見えた。
 おまえは海外とかのほうが合ってるんじゃないのと言ったこともあったけれど、うちの親はそういうのって認めないし、わたしのために人生計画を変更したりはしないよ、と彼女に静かに返された。それにわたし、西山の家から離れたところにはまだ行きたくない。
 
 僕が隣に腰を下ろすと、やっと気づいたらしい。篠永は驚いたように顔を上げた。

「本当に、静かに泣くね」
 冗談には聞こえないように、でも笑って言った。
 握り締めていたタオルハンカチで頬を拭って、彼女は喋れるように呼吸を整えようとした。
 僕はそれを、笑って制した。
「いいよ、喋んなくて。気が済むまで泣きなよ」
 町を見下ろしながら、僕はそう告げていた。

 そこは変わった色に着色された六地蔵や、倉のようなものや、井戸まであった。
 少し不思議な雰囲気のある寺だった。人が普段から立ち入らないのが良くわかる、あまり動きの感じられない場所だった。
 日当たりも風通しも良い小さな寺院だったが、人によっては肝試しの場所かもしれない。
 いつ探し出したのだろう。
 本当に、こういうふうに過ごすのに絶好の場所だった。

 僕はそれから、篠永のほうは見なかった。
 隣から、しゃくりあげる音が聞こえるようになった。


 互いの痛みを見せ合っていくと、だんだん相手へと繋がる回路のようなものがそれぞれの中に出来上がってきた。
 僕達は言葉と、もっと深いところのふたつでやりとりをするようになったのだった。
 この町に住む少し異質な子供同士として、僕達はさらに近づきあっていた。

 交わす言葉は、やがて軽い冗談交じりのものか、隠すことのできない本音のどちらかになっていった。
 まるで、寄り添って座る獣のようだと、あの頃思っていた。
 互いの内面が混ざり合って、ある種の幻想でも生んだのだろう。ライオンのような気もしたし、狐のような気がしたこともあった。
 篠永は、僕の中に蓄えられた暗いものを肌で吸い取ってはその色合いを悟った。
 並んで座るだけで、ごく当たり前のようにそういうことが起きるようになっていた。彼女はその、微妙な色合いに合わせた形の優しさを僕に向けるようになっていた。
 あらゆる理不尽や不文律にやりきれない怒りを持て余しているところを、僕は何度も彼女に見せた。弱みだとは思わないようにしていたが、親のいないことは僕を気に入らないやつらにとってはやはり最高の弱点だった。神童だとか秀才だとか言われていた反面、その言葉と同じだけひどいものも暗いところから度々聞こえてきた。名前も知らない先輩に胸倉を掴まれたことも何度かあったし、あまり調子に乗るなと下校時の擦れ違いざまに言われたこともあった。
 そういうことがあった日、篠永は何も言わずに黙って僕に寄り添った。
 僕の表情で何があったのかわかってしまったのかもしれない。
 そういうときは、横に並ぶことをまったくためらわなかった。

 同じ場所に相手がいるときのほうが、彼女はより厳しかった。
 篠永の世界から、そういう人物はあっという間に追放された。
 憐れみの篭ったような目で彼らを一瞥し、それが別れの合図みたいに目もくれなくなった。
 話しかけられれば普通に答えるのだが、どこか空虚な対応になった。
 か弱く大人しげに見える女子だった篠永に恐ろしくやわらかいやりかたで切り捨てられるのだから、同じ年頃の子供としては屈辱だったと思う。どうせここに馴染めやしないからという気持ちでもあったのか、あいつは年上の人間に対しても全く物怖じしなかった。

 そんな彼女に対して、僕もまた必要なことをした。
 外側に見せる自分像をうまく作ることができなかった篠永は、いつもうっすらとした悪意を浴びて生きていた。自分達とは違う奇異なものとして、彼女をさりげなく排除したがる生徒がどこにでもいた。
 女子は違和感には敏感だから、とよく苦笑していた。
 わたしは理屈っぽいところもすごく強いから、気をつけていてもああなっちゃうんだよ、と。女性同士の共通の空気の中にうまく入れず、疎外感と孤立に対して耐えることしか選択肢がなかった。大人びてしっかりした女子や一芸に秀でたような生徒とは気が合っていたようだが、本心を話せるのは結局僕だけだと言っていた。
 あの頃の僕達には、確かに互いにしか感じ取れない共通の繊細さがあった。
 周囲の人間にはなぜか認識されにくい、それぞれの状態を正しく読み取り合うことができた。

 目を反らしてしまいたくなるほどにバランスを崩した、篠永の痛々しい状態に僕は何度も立ち会った。
 あんな不気味な子と仲良くするのやめなよ、とストレートに言われたこともあったし、通りがかった廊下で偶然悪口を耳にしたこともあった。
 好き嫌いがはっきりと分かれる人物だったのかもしれない。
 家族との仲も決して良くはなかった篠永にとって、心の落ち着く場所は野外か僕の家しかなかったのだろう。

 互いに、ひどい脆さがついてまわった十代だった。
 彼女の身体に刺さった僕にしか見えない棘を、口に含んでは抜いた。

 祖父は、篠永を猫かわいがりするくらいの勢いで甘やかした。頼りない足取りでうちを訪れる彼女の言葉を、否定せずいつもにこにこと頷いていた。
 時にすっと冴えた目になって、見逃していた部分を優しく指摘することもあった。
 家に来れば僕を使って自宅まで送り届けたし、しばらく来ない時期があるとやはりどうしているか僕に尋ねた。

「ちょっと、やりすぎかなって思ったりしない?」

 大学受験にむけた勉強の息抜きとして、店の棚にはたきをかけながら僕は祖父に訊いていた。
 十八歳の、冬だっただろうか。
 自分のことは棚に上げてるなと、目の前にある実物を見ながら思った。

 都内の大学を進路の候補に挙げたのは、僕ではなく祖父母だった。
 そんなこと考えてもいなかった僕は、途端に色々なことが気になり彼らを質問責めにした。

 ――だって、学費は? 奨学金てこと? むこうに住むなら家賃とかもかかるんだよ? バイトはもちろんするけど――。

 祖父は少し考えたあとに、打ち明けてきた。
 その費用だけは、おまえの父親の家にもらってある、と。
 高校を公立にしてもらったぶん、大学はおまえの好きなところに行けるようにしたかった。微々たるもんだが、今までそこに俺達も積んで足してきた。だから大学くらいは、好きなところに行ってくれ、と。

「やりすぎって、何がだ?」
 箱から醤油のボトルを一本一本取り出しながら、祖父がとぼけて聞き返してきた。
 味噌と醤油は常に動きがあって、まめな補充が必要なのだ。
「あいつのこと」
「美里ちゃんか」
 祖父は、名前を出しただけでももう嬉しそうだった。
 おかしな関係だ、と思いながらも彼らを見ているのは嫌いではなかった。篠永も祖父に懐いていて、心理学や哲学の知識のある彼へよく意見を求めたりしていた。
 真剣な話題のはずなのだが、ふたりとも笑顔でのんびり喋るせいかそれは妙に平和な光景に見えた。何しろ彼らは昔の偉人達の言葉を、近所に住んでいる知り合いのようにのどかに当たり前のように話すのだ。小さな孫と、その祖父の会話みたいだった。

「おまえくらい賢くても、ぴんとこないかね」
 祖父は僕を見て、にやっとした。
「なにが」
 空き箱を潰しながら尋ねる。
 十八の時点で、祖父がこの仕事を続けられるのはあと数年のことだろうと思っていた。
 重いものを運ぶのを避けられない職種だからだ。本人は、死ぬまで店は閉めたくないくらいだと言っていた。わかりやすく社交的という人物ではなかったが、それでも人が好きだった。

「俺達があれだけやって、ようやく少し釣り合うくらいなんだよ」
 祖父は言った。
 言葉の意味がようやくわかって、なるほど、と答える。
「そういうところ、やっぱ、すごいと思う」
 正直にそう言った。
 祖父は、篠永が周囲から向けられている感情のバランスを取るためにあえてああしているのだと言ったのだ。
 もしも彼女がもっと理解者に恵まれていたら、もう少し祖父の好意は控えめだったのかもしれない。それでもきっと、人一倍以上だったとは思うが。
「どうだろうな。自分が若い頃にされたかったことをしてるだけかもわからん」
 スチールの棚に、醤油のボトルを並べながら祖父は笑う。
 味醂拭いてくれるか、と言われたので、僕はレジ脇にあるペーパータオルを取り出して彼の元へ向かった。足元に近い場所にあるぶん、味醂のボトルは埃をかぶりやすかった。
 僕の祖父は内向的な人物だった。ソフトで賢く、そして情にも篤かった。
 それらのバランスが絶妙なところで取れている人だった。いわゆる人格者だったのだ。

「おまえも充分感じてることかもしれないけどね」
 商品棚を整頓しながら、彼は口をひらいた。
「いずれ大きく目のあく人間の子供時代なんて、多かれ少なかれしんどいもんだよ」
 油断をしていたわけではなかったが、それは自然と心に沁みた。
「わかるだろ」
「多少はね」
「おまえさん、普段偉そうな割に肝心なところはなかなか謙虚だね」
 それぞれの手を動かしながら、笑った。

 ――引き取った孫が慧眼な人間に育つくらい、嬉しいことはないぞ。
 いつか、彼は僕に向かってそう言った。
 ――そうなったとしたら、祖父譲りだよ。
 冗談交じりに、僕はそう言い返した。

 この人の家に導かれたことは、一生で一番の幸運だと思っていた。
 ひねくれ者の素質だけは充分に持ち合わせていた僕が、尊敬という感情を素直に持てる相手だった。
「今後、どうなるかはわからないけどな。でもな、あの子とは簡単に縁を切るなよ」
 祖父が、同じように低い位置にあるサラダ油を整頓し終えて、腰を上げた。
 屈んでいたせいか、立ち上がる時にゆっくりと腰を伸ばす必要があった。
「そのつもりだよ」
 照れがなかったわけではないが、僕はそう答えた。
 もう充分、篠永への思い入れを感じていた。
 祖父母の次に、大きな出会いだったのかもしれないと思うようになっていた。

 祖父は、ならいいんだ、と続けた。
 十九時。店じまいの時間だ。
 祖父は疲れたな、と呟きながらレジのほうへ向かった。
 台所のほうから、出汁と魚を焼く匂いが漂っていた。

 足をわずかに引きずる音で、その言葉は少し聞き取りづらかった。
「おまえ達はたぶんずっと、お互い必要な人間同士だよ」


「休憩!」 
 その日三人目の生徒を見送ったあとの真壁が、廊下の棚に置いていた自身のテナーサックスを手に取った。
 ストラップを首にかけながら店舗のほうにやってきて、慣らすようにいくつかの短いフレーズを繰り返す。
 そして、僕の特別好きな曲を演奏し始めた。
 オスカー・ピーターソンの『自由への賛歌』だ。
 初めて聴いた日から夢中になって、しばらく狂ったように練習した。

「ああ、やっぱりいつ聴いてもいいな、これ。すげー好き」
 壁に寄りかかって言った。真壁は目で笑っている。
 肘で売り物のピアノのほうに行けとやるので、乗せられて前に座った。
 最近は練習を怠っているという自覚があった。
 真壁にはきっと、すぐにばれてしまうだろう。楽しさ優先、という人間なので気にしないだろうけれど。

「――西山って、やっぱこういう雰囲気の曲似合うよね。うまいよ」
 マウスピースから口を離して、真壁は言った。
「最近全然触ってなかったけど、こういうことがあるとまたやんなきゃなって思うね」
 一歩外へ出れば、商店街はクリスマスの装いだ。
 ささやかなイルミネーションライトが電柱伝いに張られ、クリスマスソングがかかっている。
 選曲には真壁が一枚噛んでいるらしく、日本ではそれほど有名ではないものも多く入っていた。
 今は権利の問題があるから、これでもだいぶ削ったとも言っていたが。

「今の季節やりたい曲ばっかりだよ、俺」
 真壁が純真な感じの表情でそう続けた。
「ミニライブとか、またしたらいいのに」
「しようかなあ。最近、大人しくしすぎてたかも」
 楽器を首から下げたまま、そこで軽く飛び跳ねる。
 彼の気質的に、講師と楽器店店主だけでは何かが偏ってしまうのかもしれない。
 楽譜の棚のほうへ移動して、真壁は売り物の一冊を手にぱらぱらとひらいている。
「本性って、我慢できないもんだよね。いや、できる人もいるのかな?」
「少なくとも俺達の周辺にはあんまりいないと思う」 
 何人もの顔を思い出して、基本的に自由人ばかりだと気づく。やはり類は友を呼ぶのだろうか。僕のいる人間関係は、そういう者同士が田舎で都合しあって生きているという雰囲気だ。
「だよね」
 真壁は素直に同調した。

「うち、元々母親がショパン弾きでさあ。クラシック畑だったから子供の頃のレッスンすごい厳しかったの」
 今は音楽教室には出ていない、真壁の母親のことを思い出した。
 僕のいない日に、楽器店の店番をしている。ピアノの先生、というのが一目で見てわかるような雰囲気と服装の人だった。
「真面目にコツコツやるのとか、すごい大事なのわかってたんだけどね。俺はやっぱり途中でもうだめ、全然合わないってなってさ。こっちに流れてから本当に楽になったんだよね」
 懐かしそうな目で言った。
 彼も、高校時代にジャズと出会ったのだ。
 高校二年。彼が店番をしていたところにスタンダード曲をまとめた楽譜を探して僕が声をかけたのが始まりだった。真壁はここから電車で四十分ほどの場所にある音楽科のある高校に通っていて、僕らは初対面だった。
 気がついたときには一時間以上話しこんでいた。それ以来の仲だ。
 興が乗ってきたのかもしれない。
 彼はレジ脇の引き出しからすでに印刷してあるスコアを取り出し、数枚取り出して僕の目の前に置いた。次、次、と。

「今日は俺の好み優先なの?」
「いいじゃん、やろうよ」
 子供のように言うので、懐かしいと思いながら鍵盤に指を下ろした。
 バート・バカラックの『世界は愛を求めてる』が、店先に響いた。

最果ての星を拾いに【上】

▼次章
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最果ての星を拾いに【上】

十四歳の夏、塾の夏期講習で出会ったその女子は 強く光る何かを抱えている人物に見えた。 幼い頃に見えたというあるものの正体を知りたいと この世界の秘密をひとり探求していた変わり者、篠永美里。 見るからに大人しく物静かな女子生徒だった彼女は 同級生と足並みを揃える術を知らずに、ひとりでゆらゆら生きていた。 六歳で祖父母の家に引き取られた僕は、大人になるまでの道を最短で駆け上がっていく。 複雑な家庭に育つ神童という立場でもがく僕の隣には いつも特別な何かから目をそらさず前に進み続ける篠永がいた。 親友という関係を保ったまま大人になった僕達に、転機は訪れる。 二十代最後のある冬の日、久々に会った篠永は言った。 「再来週、元恋人にプロポーズされると思う」と。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-06-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 01|冬の再会と彼女の虚誕
  2. 02|ダークなオーラ
  3. 03|チョコレートマフィンとオルレアンの乙女
  4. 04|地下通路の異端児達
  5. 05|探しに行きたい