セントフル・アパートメント102

古瀬

セントフル・アパートメント102
  1. 【01】
  2. 【02】
  3. 【03】
  4. 【04】
  5. 【05】

【01】

 高齢化恐るべし、と思う。この町の夜が、あまりに静かだから。
 二十三時前、わたしは窓をあけながら外の静寂にしみじみとしてしまう。ここ数年のあいだにも空き家がどんどん増えている、町はずれの一画にある三階建ての実家の最上階で。
 四人もいた孫の誰もがこの町で暮らすことを選ばないなんて、家を建てた生前の祖父は考えてもいなかっただろう。上から男が三人続いたというのに、それぞれが結婚した伴侶の実家の近所に居を構えることになるなんて、昭和初期生まれの彼は想像もしなかったはずだ。
 一番下の孫娘が三十路を迎えてふらふらと故郷に戻り、誰も使っていない実家の三階にひっそりと暮らすようになることも。

 外から入る空気を吸い込みながら、わたしは自分の乱れた髪を撫でつけてみる。二十一時半まで文庫本をひらいていた記憶があるけれど、そのまま眠ってしまっていた。
 手首にいつものヘアゴムがないことに気が付いて、横たわっていたベッドの枕回りを見渡す。目立つはずの黒ゴムが見当たらなくて、結局置きっぱなしになっていたクリップで髪をまとめた。
 祖父母を亡くしたあと両親は一階に住まいを移してしまったから、彼らの立てる物音がわたしのいるところまで響いてくることはない。もしかしたら、もう休んでいるかもしれない。
 わたしだけがぽかんと、あらゆるものから置き去りの状態でそこにいた。
 同年代の多くが何らかのかたちで手にしているだろう家庭とかキャリアとか、そういうものを持たないで。

 ふと今日が木曜だったことに気が付いて、クローゼットをひらいてみる。そのまま、カーキ色のカーディガンを選んで引っ張り出す。今着ているのは黒いパンツにオフホワイトのロングTシャツだ。これならまあいいか。カーディガンを羽織って、いつもの黒縁眼鏡に手を伸ばした。
 夜風がささやかに入ってくる窓を閉め、わたしは自室の扉にひっかけている小さなトートバッグを掴んだ。ドアノブに手をかけながら、バッグの中に小銭入れが入っているか覗き込んで確認する。
 よし、という声を小さく出して、部屋を出た。 
 木曜の夜にだけ、わたしには行く先があるのだ。

【02】

 足音を立てないように、家の外に出た。
 四月の半ば、この頃は夜風がようやく心地よく思える温度になってきた。
 街灯もまばらな夜の住宅街を、東に向かって歩いていく。

 人生を純粋に信じ切っていたというわけでもないけれど、このタイミングで不運と呼ばれるものに見舞われるとは思っていなかった。
 少し前まで、わたしは湖畔に建つ小さな工房で働いていた。学生時代からお世話になっていた、ある陶芸家の住まいの裏に作られた陶芸工房だった。器がメインだったけれど、置物やインテリア雑貨まで、作っているものは少なくなかった。
 近隣にちょっとした観光地があったことからついでにと立ち寄る人も多くて、ギャラリーで販売員をしながらわたし自身も置物の作品を作っていた。街から離れた場所での暮らしはやや不便だったけれど、風光明媚と言える環境で季節の感触をいっぱいに受け取りながら暮らしていた。
 自らの作品をギャラリーでシリーズものとして扱ってもらえるようになって、新作を気にかけてくれる人も少しずつ増えてきたところだった。工房のすみのほうにわたしの手から生まれたものが並び、手にしてくれる誰かを毎日静かに待っていた。そしてひとつずつゆっくりと、そこを離れて誰かの生活の中に加わっていった。
 それは本当に小さな芽みたいなものだったけれど、これから少しずつ膨らんでいくかもしれない仕事だった。すぐに大きな成果に繋がらなくても、あかるい希望がほのかに差し込んでくるような日々の中にわたしはいた。

 安全面での問題はないはずだけれど、いかにも老朽化しているようで誰も使っていない歩道橋を渡る。ところどころの塗装が剥げて錆びている、敷き詰められたタイルの隙間からも雑草が生えているような、気軽に使うのをためらう歩道橋だ。よく考えれば、子供の頃からすでにこんな感じだった。
 階段を上ってすぐの場所から斜め向かいに建つ、建設会社のビルの窓に小さな赤い光が灯っている。いつもさりげなく通り過ぎようとするのに、なぜか毎回目が合ってしまう。ライブカメラだ。宣伝になるのか、社名の入ったアカウントで道路の混雑状況を配信しているらしい。重く均等な集中が自分のほうを向いているようで、微妙に気持ちがざわついた。さっさと通り過ぎてしまおう。足取りを早める。

 裏道に入って二百メートルほど歩いた場所に、妙に凝った作りのアパートがある。
 アイアン製のガーデンアーチをくぐった先には、素焼き風のプランターや鉢植えが敷地内にいくつも並んでいる。微妙な色合いのタープが共用廊下から斜めに張られている。ブリキや陶器のオブジェがところどころに飾られていて、ちょっと夢みたいな空間になっている。
 近くの自販機で購入した缶入りの紅茶を手に、わたしはその窓の前まで忍び足で歩み寄った。
 セントフル・アパートメントと彫られた木製のプレートが掲げられているこの物件は、一階奥の一室にオーナー自身も住んでいる。


「ユキノさん、いる?」
 玄関ドアの前をすり抜けて物干し竿の影から尋ねると、十数センチあいた窓のむこうから「いるわよ」という返事が聞こえた。防犯面ではひどく無防備だけれど、近所一帯も似たような感じだからと彼女はあまり気にしていない。強盗が入ったところで金目のものなんてないしと、軽い調子で続けている。わたしの目には、そうでもないように見えるけれど。
 そこで少し待っていると、彼女が中で何かを手に取る音が聞こえた。ソファの横に置いた小さなチェストの上に、花の形をした器を置いているのだ。
「はい」
 あいている窓の網戸がわずかに横にすべり、ユキノさんの細く血管の浮いた手がゆらりと覗いた。冷たそうな手だ。顔も出さず、掴んでいたものをぱっと手放す。
 その動きに合わせて前かがみになって、わたしは彼女が手放した鍵をキャッチした。玄関まで行くのが面倒だから、自分で入ってきてというわけだ。
 木曜の夜だけは、人を招くことにしているらしい。わかりやすく線を引いてくれるところがいいなと思う。
「お邪魔します」
 窓に向かってそう告げて、わたしは再び扉の前まで忍び足で戻る。

 室内には、小さなスタンドライトがひとつついていた。大きくないテレビの中で『お熱いのがお好き』が流しっぱなしになっている。ユキノさんが見飽きるほどに見て、日頃BGMにしている映画のひとつだ。
 マリリン・モンローが実際に動いている姿を初めて見たのは、この部屋に来るようになってからだった。絵画や写真でしか知らなかった時とはがらりとイメージが変わった。こんなに可憐で純真な雰囲気の人だったのか、と。
「今日は来ないかと思ったのに」
 カウチソファにゆったりと寝そべって、ユキノさんは言った。そこに座って、という意味のジェスチャーをよこしてくる。動くのが面倒なのだ。
「さっきまで寝てたの」
 鍵を開けるためにトートバッグに入れた缶紅茶を取り出してテーブルの上に置くと、彼女はちらとこちらを見た。最初の頃はカフェイン入りのものは眠れなくなるかもしれないと思ったけれど、彼女はこれがいいと言う。どうせ眠剤を飲まなきゃ寝れやしないんだから変わらないわよ、と。
「宵っ張りは肩身が狭いわよね。裏の佐々木さんのところなんて、八時には全部の電気消えてるのよ」
 五時には掃き掃除してるしね、とつまらなさそうにユキノさんがぼやいた。
 年齢の割には白髪の少ない、濃く太い髪を肩下まで伸ばして細かいパーマをかけている。この時間は化粧を落としているけれど、昼間はアーチ形の眉をきりっとした黒で描いて、暗めのローズの口紅をしっかりと引いているのを知っている。今だって、彼女が身に着けているのはキルト生地のネグリジェだ。分厚いハーフケットを二枚重ねてかけているけれど、わたしの祖母がこの季節まで着こんでいた起毛のパジャマを選んだりしない。ぎゅっと固くなるようきつめに編まれた、厚く暖かい毛糸の靴下をはいて毛布をかけている。
「わたし達、悪い女かな」
 ふざけて告げて、わたしは缶紅茶のプルトップをふたつ続けて開けた。ひとつを彼女に手渡すと、細い指が力なくそれを掴んで自らのほうへと引き寄せる。
 ユキノさんは小さく笑って、夜遊びして飲んだくれてるわけじゃなし、と軽く返してきた。

 この町に戻ってきて再会したひとりの部屋は、場所こそ変わっていたけれどあの頃と同じ雰囲気だ。外国の古い映画、アンティーク家具、薄暗くて、ゆったりとした雰囲気。
 両親のどちらにも話さなかったから、あれは子供の頃に見た夢かと思っていたのだ。テレビや絵本の中で見て、何となく空想を繰り返しているうちに記憶の中で混ざりあい実際にあったことだと思い込んでしまったような。
 そうじゃなかったんだ、と、この部屋に来るたびに思う。セントフル・アパートメント一〇二号室。夢じゃなかった。あの頃のわたしを知らない世界に迷い込んだような気持ちにさせた人。
 立井ユキノ、八十六歳。わたしの祖母の同級生だ。

【03】

 千代さんにお孫さんがいたのは覚えてるけど、それはちょっと記憶にないわねえ。
 再会してすぐに、ユキノさんは言った。わたし達が近所にある市民センターの図書室で何気ない会話を交わし――わたしは黒のメッシュ地に水玉柄のついた透けるパンプスを履いていて、彼女がそれいいわねと言ったのがきっかけだった――わたしが近所に住む同級生の孫であることが判明したすぐ後のことだった。
 棚の前で小声で話しているうちに、遠い記憶が頭の中に浮かび上がってきたのだ。彼女の人差し指を自らの頬に軽く置く仕草や、愛想があるというわけではないのにどこか甘いものを目の奥に湛えているような様子にぴんときた。
 当時の記憶を引っ張り出して、わたしは食い下がるように彼女に確認した。
 Sの字にぐにゃりと曲がったような、不思議な形の柿の木が小さな庭に生えていたこと。煙突式のストーブを使っていて、戸棚の硝子の柄がすずらんだったこと。玄関の下駄箱の上に置いてあったひつじとぶどうの木のレリーフ、吊り下げてあるようなシルエットの分厚いステンドグラスのライトと、淡い水色と白っぽい絵具で描かれた、ドレス姿の若い女性の絵画のことも。
 少しの戸惑いを顔に浮かべていたユキノさんは、わたしの説明に目を大きくした。ああそれ、確かにうちだわ、と。よく覚えているわねえ、あの絵、確か誰かが欲しがって持って行っちゃったのよ、とも。
 懐かしそうに頷く彼女を見ながら、わたしは妙な高揚感を覚えていた。
 あの家の人だ、と。


 まだ小学校にも上がらない五つくらいの子供の頃、近所を兄達と駆け回って遊んでいたことがあった。母が少し留守にするから、そのあいだにみすずを見ていてと言ったのだと思う。すぐ上の兄が、嫌そうに「えー」と顔をしかめたことも覚えている。
 三番目の兄はひどく恥ずかしがりの性格で、それを隠すためにかしばしば近所の友達の前でわたしをからかった。こいつこんなところあるんだ、という意味の揶揄を繰り返し、一緒にいじめてやろうぜ、という意味の言葉をそこにいる友達に投げかけたりもした。
 他に妹のいる男の子も多かったから、その言葉にはさほど強い効果はなかった。他の幼い女の子のお兄ちゃんをしている男の子達にとっては、兄が自分の妹をからかっていじめるのを提案してくることのほうが意外だったのかもしれない。彼らはそこで、曖昧な、あるいは違和感を露わにした表情を浮かべていた。
 幼い兄がそれをどう受け取ったのかはわからなかったけれど、補助輪の取れたばかりの自転車にまたがった兄は結局そこにわたしを置き去りにすることにした。

 先にひとりで帰ってろよ、と言い捨てて、兄達はそれぞれの自転車に乗ってその場を去っていった。
 置き去りにされたことそのものよりも、そうする、と宣言されたことのほうにわたしは衝撃を受けていた。
 周囲に何人もいた子供達がいなくなって、ひどく頼りない気持ちでそこに立っていた。

 それでも、そこは自宅まで三分とかからないいつもの近所の広場だった。迷うことも、車の多い通りを渡る必要もない場所にある、馴染んだ場所だった。あたりはまだあかるく、道に迷うこともない。ひとりで家に帰るのも、そこまで難しいことじゃなかった。兄とその友人達からの居心地の悪くなるような視線から自由になったことで、肩の力が抜けてもいた。

 でもその解放感は、長く続かなかった。
 気落ちしながらも家に向かって歩きだしたわたしに、出入口のほうから兄達のものではない自転車が数台迫るように走ってきたのだ。
 兄達ともそこそこ仲の良い、近所では悪がきと有名な男子達だった。
 彼らはわたしを取り囲むように自転車を停め、嬉しそうに口をひらいた。
 あいつの妹だろ、兄貴にいじめていいって言われたことあるぞ、と。

 逃げる間もなく、自転車を降りたひとりがこちらにむかって手を伸ばしてきた。
 やめて、と言おうとしたはずなのに、喉が詰まって声は出なかった。

 つけていたカチューシャを乱暴な仕草で取り上げられたわたしは、そこにへたりこんで動くことができなくなった。
 女の子ひとりだからと舞い上がった母によってフリルや飾りの多くついたブラウスやスカートを身に着けていたわたしは、彼らによりか弱い子供に見えていたのかもしれない。

 ――うわ、こんなのついてる。
 小さなリボンのモチーフがついたそれは、彼らに奇異なものとして映ったのかもしれない。
 はやし立てるように何かを言い合い、ひとりがわたしのカチューシャの両端を持って左右に引っ張った。
 ――兄ちゃんがいいって言ったんだからな。
 そう言って、彼は少し持ち上げた自らの右腿に向かってそれを振り下ろした。

 カチューシャが彼のはいていた黒のハーフパンツに当たる手前で、ばきっという音が辺りに響いた。プラスチックの芯が折れたのだ。
 思わぬタイミングであたりに響いた音に、その場にいた全員が驚き小さく息を飲んだ。どう対処すべきなのか判断できない、数秒間の沈黙。彼はばつが悪そうな顔をして持ち上げていた足を元に戻した。
 つまんねえ、と言って、彼はすっかり形が変わってしまったカチューシャをわたしに向かって放り投げた。
 真ん中で不格好に折れたそれがわたしの右頬に当たり、力なく地面に落ちる。

 もう行こうぜ、という言葉を後ろのひとりが告げたところで、後ろから怒号が響いた。何してるのっ。
 鋭く響いた声に身体を一度大きく震わせたあとに、彼らは「逃げろ!」と叫んで自転車に飛び乗り、広場を走り去って行った。

 残されたわたしは、ひどい有様だった。
 そこにぺたんと座り込んで、ショックで動けなくなっていた。ぐらぐらと心が揺れて、涙がとめどなくあふれて流れる。膝が震えて、立つことができなかった。


 ――大変。

 そう言いながらわたしに駆け寄って来たのは、六十代くらいの女性だった。また知らない人だ。思わず身を固くして、涙でぼやけた視界でその人のことを見上げる。
 その人は、スカーフをヘアバンド風に頭に巻いて、丸襟のブラウスを着ていた。はいているパンツの名称がサブリナということを知ったのは大人になってからだけれど、この辺りにはいない雰囲気の人だと思った。

 ――ああ、なんてこと。かわいそうに。

 彼女はためらいなく、涙でぐしゃぐしゃのわたしを抱き上げた。わたしは大柄ではなかったけれど、自分を抱き上げる腕の感触が細すぎるような気がして、これでは折れてしまうと途端に怖くなった。
 子供ながらにいいです降ります、と言ったものの、彼女はわたしを手放さなかった。ぎゅうと抱きしめられて、背中をとんとんと細い指が触れた。
 傷ついた子供をなだめようとしている彼女に対して、わたしのほうは別の意味で落ち着かなかった。こんな華奢な人にこんなことさせちゃいけない、と。開け広げの、あまりに率直な善意にもわたしはひどく戸惑っていた。

【04】

 彼女に抱きかかえられながらその家に一歩足を踏み入れた瞬間、わたしは息を飲んでいた。

 自分の家とも、祖父母や親戚や友達の家とも違う空間がそこにはあった。優美な曲線のテーブルや、見たこともない形の置物。子供の身体じゃない、静かな表情の天使像や(大人の天使もいるのか、と思った)ばらやつたの枠が表紙に描かれた何かの本。自分の住んでいる家の近所に、別世界があった。
 ユキノさんはわたしをつやつやとした生地が張られた一人用ソファに腰かけさせて、温かなおしぼりでわたしの頬や首を拭ってくれた。
 どこも痛くない? と問われて頷く。それまでどこか厳しそうな顔をしていた彼女が、ほっとしたように微笑んだ初めての瞬間だった。

 お茶でも飲みましょうか。
 泣き止んだわたしにそう言って、彼女はすぐ後ろにあるシンクへと歩いて行った。小さい溜息をついて、昔から思ってたんだけど、と口をひらいている。
 そしてやかんを火にかけながら、あの手の男の子ってどうして素敵なものを見ると壊そうとするのかしらね、と彼女は続けて呟いた。
 あんまり目の前にあるものが素敵だと、自分が要らないものになったような気がするのかしら。居たたまれなくなっちゃうのかもしれないわねえ、とも。思いついたことを音としてそこに流してみたいだけ、みたいな物言いだったのを覚えている。わたしが聞いていてもいなくても、理解してもしなくても一向に構わない、というような。
 
 結局わたしはそこで、知らない世界から出てきたような女の人――彼女はおばさんでもおばあさんでもないように見えたから、他の言い方がわからなかったのだ――と向かい合ってお茶を飲んだ。子供の唇でも薄いと思うようなカップには細かな花が描かれていて、小皿にきれいに弧を描いて並んでいたクッキーは濃いバターの味がした。
 きょろきょろと部屋を見るのはいけない気がしてじっとしていたわたしに気が付いたのか、彼女はお部屋を見てもいいのよと笑った。
 興味があるものがある? と問われて、わたしはその中のいくつかを指さした。何なのか知りたい? と質問を重ねたユキノさんに恐る恐る頷くと、彼女はそれが何なのか子供にもわかるように解説してくれた。聖書のこと、それに出てくる天使達のこと、スペインという国のある絵描きさんが描いた、恋人のいる午後の光景の絵のこと。
 面白くてずっと聞いていたかったけれど、ユキノさんは「お母さまが心配するわね」と言い、わたしを家に送ると続けた。ティッシュを一枚ひらりと取り出して、人差し指に巻きつけるようにして口元を拭う。
 彼女はその場で小さな黒の巾着袋を取り出し、中に入っていた鏡と口紅を使って化粧も直した。そのゆったりした仕草を見るのも初めてで、どきりとした。自分の母も祖母も化粧をするというのに、まったく違うことをしているように見えたからだった。

 細い腕に再び手を引かれて家に戻ったものの、母はまだ帰っていなかった。たまたまいた祖父が出てきて、ああ立井さん、と驚いたような声を出した。
 ユキノさんはそこで簡単に事情を説明した。
 祖父はそうですかと驚いて、いやあわざわざすみません、お世話になってしまって、と頭を下げた。彼はどこかそわそわとしていて、低い声がいつもよりうわずっているみたいだった。
 彼女はいえいえと微笑んで答えたけれど、長居はせずにさっさと家へと帰っていった。

「あの時、何飲ませてくれたんだろう」
 子供の飲めるものがなくて、と言いながら、ユキノさんに手渡された飲み物は温かく、甘かった。熱すぎないように気を付けてくれたのだろう、少しぬるめで、深い甘さがあったような気がする。
 ユキノさんはああ、と声に出したあとに、
「たぶん、ダージリンに黒糖とお水入れたのよ。今思えば子供には早かったわね」
 彼女に見守られながら飲んだそれは、強張っていたわたしの身体をそっと緩ませた。 
 自分の身近にいる人物にあらかじめ許可された悪意に、よすがを失ったみたいに思えていたのだ。あの瞬間のわたしには泣きつく相手がいなくて、どうしようもない気持ちを抱えてとぼとぼ家に帰るしか選択肢はないはずだったのに。

 その夜、夕食の席で祖父から話を聞いた祖母や母はあまり良い顔をしなかった。わずかに眉を寄せて数秒間沈黙したあと、そうですか、と頷いただけ。言葉を続けようか迷っているような、何かが詰まっているような間がしばらく続いたけれど、それだけだった。
 そこで彼女にまつわる会話が続いたなら、あの家の中で見たものを話そうと思っていた。またあの女の人に会いたい、とも言いたかった。でもそれは、言ってはいけないことだったのだろう。もやもやとしたものを抱えていたせいか、食事はほとんど進まなかった。
 近所の男の子に壊されてしまったカチューシャは、飾りだけ千切るように取り外しその日のうちに母が捨ててしまった。兄を叱ってくれるかと思ったけれど、いつも通りの判を押すような言葉で軽く彼を注意しただけだった。


 外から見たらありきたりな古く小さな平屋でしかなかったあの家の中で、わたしは一種の洗礼を受けたのだろう。
 赤い背景にたくさんの小花柄が織り込まれた布がかけられた壁や、絵の描かれた陶器のプレートが中央にあしらわれた電話機。
 新鮮な驚きと同時に、心のどこかがふわっとひらいた。
 素敵なもの。教えられたわけでもないのに、自然に心が反応していた。引き寄せられた。
 そこに住む、子供だったわたしを動揺させた女の人。ゆったりした雰囲気と厳しさ両方を持った、美しい人。

 それからしばらく、わたしは近くを通りがかるたびに彼女の家の庭を見た。
 あの女の人が出てこないかなと思ったけれど、ユキノさんの姿を見ることはなかった。
 神隠しから戻ったみたいな気分で、わたしはわたしの日常に戻るしかなかった。

【05】

「みすず、もう造形やらないの?」
 ユキノさんは缶紅茶を飲みながらわたしに尋ねる。うつぶせに寝そべって、行儀悪く寝酒の缶ビールでもすするかのような恰好だ。生前の祖母が同じことをしていたら、誤嚥を恐れて慌てて止めただろうな、と思う。
 ユキノさんに対しては、そういうことをする気にならない。本人も、やりたいようにやるつもりでいる。死んだらこのアパートを含めた財産全部あげるから、生きているうちは好きにやらせてと甥とその息子に頼んでいると言っていた。ある種の契約を結んでいるようで、月に一度生活のこまごまとした用事を頼まれてくれる、とも。甥の奥さんはこの物件をひどく気に入っているから、内心はまだあの人生きてるのと思っているはずだとユキノさんは笑う。生きているだけで誰かの嫌がらせになるなんて皮肉よ、と。
「――やると、思うんだけど」
 答えたものの、言葉はあまり強くならなかった。

 老夫婦ふたりの家族の裏で営まれていた工房の仕事は、必然的に彼らの生活のサポートにまで広がっていった。だんだん数字に弱くなってきたという師匠のために伝票をまとめて確定申告用の計算をしていたのもわたしだし、血圧の薬を処方してもらいに行くという奥さんを病院まで車で送迎していたのもわたしだった。展示会の準備、販売を委託している遠方の雑貨店とのメールのやりとり、購入者へのアフターフォロー。
 まさかそれを、離婚して実家に戻ってきた彼らの娘に『乗っ取りを画策している』と受け取られるなんて、誰が想像しただろう。
 気の強い彼らの娘が地元に戻って来たことで、わたしの静かな生活は一変した。わたしはあっという間に老夫婦の持つ豊かさを搾取する悪党になり、赤の他人のくせによその家庭の中に入って余計なおせっかいを焼く邪魔者になった。近所に住む親戚を巻き込んで起こった彼女の両親奪還計画によって、わたしはあっさりと窮地に立たされていた。
 一度、自らの道具を片づけているあいだにこらえきれなくなってひとりの工房で泣いてしまったのも良くなかった。偶然立ち寄った知り合いの男の子にそれを目撃されて、慰められているのを娘さんに見られてしまった。
 涙で男の味方を得ようとするなんていやらしい、やっぱり信用ならない女だと近所に言いふらされてしまった。長い付き合いの人達は相手にしなかったけれど、それでもやはり何人か、信頼関係があると思っていた知り合いを失った。
 師匠も奥さんもずっと良い人だったけれど、弱っていく自らの身体に戸惑いを感じている最中に血縁者に強く意見されてしまったことで少しずつ考えが変わっていったようだった。
 申し訳ないけれど、という言葉を彼らは繰り返し、その言葉の響きは少しずつ被害者意識のようなものをこちらに感じさせるようになった。どうして自分達がこんなこと、とか、言われてみれば娘の言い分も確かな気がしてきた、というような。
 そして、長い期間を待たずにその日はやってきた。
 彼らの娘が地元に戻って半年ほどが経ったある朝のことだ。工房に集まった彼らは『大事な話』と前置きしてからわたしに告げた。今後は工房の経営を娘に任せることにした、と。あなたがしていたことは全部わたしが引き継ぎますから、と宣言され、引継ぎが終わると同時にほぼ放り出されるかたちで仕事を失っていた。本当に、あれよあれよという展開だった。


 わたしのした歯切れの悪い反応がおかしかったのか、ユキノさんがくく、と笑った。
「みすずは、昔からしょうもないのばっかりにいじめられるわね」
「ユキノさんだって、そんな生き方してたら女友達ほとんどできなかったでしょ」
 紅茶を一口飲んでから言い返すと、彼女は少し目を大きくしてから声をあげて笑った。週に一度、木曜の夜にここにわたしが通うようになってもう半年だ。それぞれの性格とか、人の中での立ち位置みたいなものは互いによくわかっている。ユキノさんは意志の強さを感じさせる美人だ。口数は多くないけれど、どこか毅然としたものがある。幸も不幸も来るならどうぞご勝手に、みたいな雰囲気の持ち主だ。

「わたし生まれつきこうだったのよ」
 ソファの上で姿勢を変えながら彼女は言った。
「あんたのおばあちゃんも、若い頃は旦那とわたしをあんまり会わせたくないみたいだった」
「ああ、わかる。ユキノさんて彼氏紹介したくないタイプの女だ」
「言うわね。でも本当に、わたしそういう女そのものだったわ」
 おかしそうに言うのを見て、当時の祖父の様子を思い出した。ずっと近所に住んでいたから、憧れの人だった時代もあるのかもしれない。
 実際はさっぱりした性格の持ち主だけれど、ユキノさんはどうしようもなく女の人という感じがする。本人の言う通り、生まれつきなのだろう。その状態が普通だから、他者に指摘されてもどうしようもないのかもしれない。誕生日や血液型が変えられないように、彼女の中にある当たり前の女っぽさも変わらない。きっとずっと、ある種の同性を脅かす存在だったはずだ。

「――昔のユキノさん家にあった、ひつじの顔可愛かったな」
 思い出して告げると、彼女はいたずらっぽくわたしのほうを見て笑った。表情でわかった。あれもきっと、若き日の彼女に恋をしていたひとりに贈られたものなのだろう。
「ああいうのから作ろうかな」
 リハビリに、と付け足す。
「いいわね。試作品できたらひとつちょうだい」
 ユキノさんは即答した。気が早いな、と言い返す。そうしながら、実物も見ずに当たり前に欲しがるところが可愛いな、とも思ってしまう。

 老人だらけの町の、廃墟みたいな実家の空き部屋に暮らすのが今のわたしだ。うちには窯もないし、お金もなければ恋人もいない。ただ無心になれることがひとつだけあって、それが一生できれば良いと思っていた。満足だった。ただそれだけで、ここまできてしまっただけの。

 そろそろ、再起動、しないとな。
 そう思いながら、いいよ、と答えた。

 頭の中でイメージする。ぽってりとした、さびしげで優しい目の、これからわたしの手から生まれてくるひつじのこと。安らかで可愛くて――そう、可愛くて、どこか強い感じがするといい。ちょっと生意気で、誇り高そうな姿のものが。

 ユキノさんは足元の毛布をかけ直しながら、ひつじね、と繰り返した。
 テレビの中で、マリリン・モンローがお酒のボトルを手にいたずらっぽく笑っている。

(了)

セントフル・アパートメント102

セントフル・アパートメント102

仕事を失って故郷に戻ったわたしに、思い出の人との再会が待っていた。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-05-21

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著作権法内での利用のみを許可します。

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