或る物書きの遍歴・最終章

樫本誠士

或る物書きの遍歴・最終章
  1. 医療特区 2030
  2. 如来来迎
  3. 遡行

拙著「或る物書きの遍歴―一つの解としての」(2017年文芸社)は諸事情により、最終章をカットして出版されました。出版社との契約が切れたので、本来の最終章を投稿サイトで発表することにしました。

医療特区 2030

 冷めたコーヒーを飲み干してパソコンを閉じた。今日は何も書けなかった。しばらく目を瞑り、机から離れ、窓から夕景を眺めた。山並みが幾重にも重なる先に市街が微かに見える。その上に薄っすらと三角形の山が浮かんでいた。山頂から少し下がった中腹から噴煙がたなびいている。その噴煙が今、恐竜の首のように見えた。頭の部分は刻々と濃淡を変化させながら形を変えていった。
 
 霧島へ来て一年がたつ。もともと南紀の別荘地を終の棲家と決めたつもりはなかった。震災から三年が過ぎ、私は八十歳になっていた。大鷹百合との関係は一年余り続いたのち、彼女が去っていった。田中夫婦は突然農園をやめて和歌山市に帰った。残った知人らも高齢になって次々に去り、近所に空き家がめっきり増えた。
 病こそ得なかったが体力はめっきり落ちた。一人暮らしが心細く感じられ、日々寂しさが身にしみた。経済的にも行き詰った。震災による国の財政逼迫で年金が減額され、月々の赤字を埋めていた蓄えも乏しくなった。物心両面で先が見通せなくなり、気分が塞いだ。
 そんな時、猫田から葉書が届いた。郷里の新潟のケア付き高齢者住宅に入ったという知らせだった。手書きだったから、わずかな知人にのみ送ったのだろう。昔写真を見せてくれた初恋の人については何も記していなかった。電話して直に聞く気にもなれず、形式的な文面の葉書を返しただけだ。猫田の近況を知って私はようやく決心した。山の上の別荘暮らしはもう終わりにしようと。
 だが、次はどこに住む? 震災前だったら、新しい住まいを探すのに多少は心が弾んだかも知れない。しかしその夢を実現させる資力はもうない。蓄えが尽きかけた今、年金だけで暮らしていける住まいを探すほか無いだろう。つまるところ、私も父同様に老人ホームに入るべきなのだ。故郷の老人ホームをいくつかあたって見ようと、私は渋々決心した。
 ある日の朝、新聞を開いていると小さな記事に目が行った。南九州の医療特区を紹介していた。特区に新設された長寿研究センターで、新薬の臨床試験を行うための治験者を募集していた。その瞬間、何かが閃いた。
 応募条件は、七十五歳以上の健康な単身者で、施設内に定住することが条件だった。居住費を支払えば終生住むことも可能とあった。私は躊躇なく応募した。大阪で二日に及ぶ精密検査と面接を受けた。
 
 面接では、創薬のための臨床試験のほかに、薬以外の実験のモニターになる意思があるか、高いリスクの治験も参加できるか聞かれた。私はすべて参加する意思があると答えた。審査に合格すると、施設入所と臨床試験に参加するための契約書や誓約書などの書類に署名捺印した。正式に入所と治験の参加が決まると、私は別荘を引き払った。
 荷物の大半を処分して、霧島の山あいに建設された長寿研究センターの定住者のための宿舎に入居した。入居者は十名だった。施設長から説明を受けた後、治験コーディネーターの郷田千鳥が紹介された。看護師でもある郷田は治験全般にわたる世話役だと言った。郷田は私たちが暮らすことになる宿舎と治験施設を案内して回り、当面の日程や生活全般の説明をした。
 宿舎は個室で、ビジネスホテルのシングルルームのようだった。バスタブはなくシャワーブースにトイレと洗面台、そしてベッド、小さなデスクとクローゼットがあった。テレビなどの電気製品も備えてあり、Wi-Fiが使えて冷暖房完備だった。居住費と食事代は有料だが、治験の期間は食事が無料で提供される。すべての自己負担金を年金の範囲で支払うことが可能だった。私が応募しようと思い立った最大の理由である。
 日常生活は厳格に管理された。治験の必須条件だった。規則を守れない者は退去させられた。ここで一生を終えるという覚悟を持ったものだけが残った。最初の一か月で一名が去った。定められた食事と運動。管理された睡眠。温泉地でありながら温泉浴場での入浴は一日一回と制限された。運動で汗をかいた場合のみ、シャワーが許可された。
 
 入所して三週間後の四月、最初の治験があった。老化予防薬の第一相の治験だった。
 朝、食事の前に臨床試験部の大部屋に十名が集められ、規定の量の水で大きなカプセルを飲んだ。すぐ採血の針が静脈に刺され採血用のホルダーがテープで固定された。そして十分毎にホルダーにつながった注射器で採血された。昼食まで計18回採血された。その間安静にしていなければならず、トイレ以外は大部屋のベッドの上で過ごさなければならなかった。コーディネーターから助言されていたので、全員端末や本を用意していた。私はタブレットで昔の喜劇映画を見た。
八月が過ぎ次の治験があった。アルツハイマーの予防薬だった。その日台風が上陸した。私たちは腕に注射されながら、窓ガラスに降りかかる雨を眺めていた。
 秋が過ぎて冬が訪れた。南九州でも山あいでは雪が降る。十二月の雪の舞う日、画期的な若返り効果を謳う薬の治験があった。直後、体調不良で二名が集中治療室に収容された。センターに隣接する病院で長期入院することになり、規定でセンターは退所となった。年が明けると新たに三名が入所した。

 ――なぜ〝ここ″を志願したのか。
 誰から言い出すまでもなく、食事や休憩時に囁かれた。
 年金の範囲で一生暮らせる。最新の長寿研究の成果をいち早く受けられる。老化予防薬の治験で健康が維持できたら、小説を書き続けられるからと私は答えた。
 しかし老化防止への期待以外に、あるいはそれ以上に〝ここ″を希望する切実な理由があることを迂闊にも私は知らなかった。初日にそれを知って驚いた。そしてすぐ納得した。〝ここ″では安楽死が可能だということだ。
 長寿研究センターは高齢者の健康な長寿を目指す研究機関である。老化予防や若返りを実現する医薬品の治験実施機関でもある。と同時に非公式だが、高齢者の安楽死を実施していた。重度の要介護者になる前に死を選びたいと考える者にとって、安楽死を予約できる施設は他に無かった。健康で自立した生活が出来なくなる時に、あらかじめ決めておいた段階で死ぬことができる。自分の意思だけで決められて、親族や第三者の同意などは不要であることに皆強く惹かれていた――。

 治験がない期間を私たちはブルーと呼んだ。配布された日程表でその期間が水色に彩色されていたからだ。一年の大半はブルーで、四半期ごとにある一週間の赤色の帯が治験の予定期間でレッド。その前後のピンク色は治験の準備と事後の安静期間だった。ブルーの期間は、基本自由に過ごすことができた。少量の酒やカフェインレスでない普通のコーヒーを飲むこともできた。私は自室で小説を細々と書き、ウエブの投稿サイトにアップロードしていた。
 
 ブルーの期間でも、一定の規律はあった。インストラクターの指導でストレッチは毎日、ウオーキングや器具を使った軽い筋力トレーニングを週二回させられた。トレーニングの後は温水プールで軽く泳ぐことが推奨された。規則正しい生活と適度な運動、完全な食事、定期的な診察で私たちは健康を保った。それだけで十分長生きができる条件がそろっていた。その上治験で健康寿命が増進するとされる薬剤を体に入れるのだから、副作用がなければ私たちはさらに寿命を延ばすことになる――。
 
 噴煙が少し収まったのか、上空へ立ち上った煙は風に流されて変形し、今は鳥のくちばしが引き伸ばされたように西へ流れていた。そして山並みの上の空が薄紅色に染まってきた。腕に付けた端末が六時を告げた。私は食堂へ向かった。
 カフェテリア方式のカウンター付近で盛んにブザーが鳴っていた。トレイを受け取ると、トレイに埋め込まれたICチップが各自の端末に紐付される。禁酒対象者が酒をトレイに載せると端末のブザーが鳴り、トレイのランプがオレンジに点滅するのだ。酒は不可なのについ手が出てしまうのだろう。今日は新人が多いらしい。
 私は夕定食と焼酎の湯割りをトレイに載せた。グリーンのランプだ。オプションでいちごミルクを追加した。これはオレンジが点灯した。カロリーオーバーらしい。仕方なく配膳ケースに戻した。テーブルにトレイを置くと、私は焼酎を一口飲んだ。直後、
「一週間の禁酒はきついですよね」
 声の主は斜め前のテーブルにいた。六十代後半の赤ら顔の男が急いで視線を逸らせた。
「この前は一か月禁酒でしたよ」
 向かいに座っている年長らしい禿げ上がった頭の男が応えた。
「長生きの薬をただで飲める上に、日当が良いんだから我慢しなきゃ」
 その隣の七十代後半に見える白髪の男が言った。
「それはそうですね」
 最初の男が真顔でうなずいた。
「食事が管理されるから、体調が良くなりまして」
「そうそう」
 二人が同時にうなずいた。
「決まった時間に運動までやらされるし、ここにいれば、薬を飲まなくても長生き出来ますよ」
 最初の男が言った。
「私らみたいな短期のプランじゃなくて、定住プランというのがあるじゃないですか」
 男が私の方をちらと見たような気がした。
「いわゆる、終の棲家コースのことかな?」
 白髪の男が聞き返した。
「ええ。死ぬまで面倒見てくれるとかいう」
「ああ、あれは良い。私は女房がいるから応募できないが」
 禿げ上がった頭の男が言った。
「羨ましいですよね。長寿研究の被験者で衣食住が保証されて費用が安いとか。こんな時代だから、希望者殺到でしょう」
 最初の男が白髪の男に問うた。
「短期のわれわれだって高倍率だったから、それはもう狭き門だろう」
 白髪の男が続けた。
「七十五歳以上の健康な単身者が対象で、長寿研究の治験だから、参加者は百歳以上生きられるとか。ただし……」
 男は声を落とし、相手に顔を寄せてひそひそ声で話し始めたので、全く聞き取れなかった。男が話す内容は想像できた。たぶん安楽死のことだろう。あるいは薬の副作用かもしれない。一定の確率で重態に陥り、死ぬことさえあるのだ。

 私は食事を終えてラウンジへ行った。一足先に鳥羽遼がコーヒーを飲んでいた。私はカフェインレスのコーヒーをマシンから紙コップに注いで隣に座った。暮れかかる景色が眼前に拡がっている。南の方角は私の部屋と同じ眺めだ。水平線上の火山が見える。東の窓からは県境に至る連山が見渡せる。山裾の上に突き出た峰が夕日でひときわ光っていた。
「相変わらず早いですね」
 私は鳥羽遼に言った。
「飯を食うのに並ぶのが嫌なのさ。震災の時の行列を思い出すじゃないか。今日は六時五分前に食堂の入り口にいたぞ」
「それでも先客がいたとか」
「一人いた。せっかちなやつだ」
 それは自分のことだろうと、私はおかしくなった。鳥羽は私より五歳年上だ。皆から「教授」と呼ばれている。大学で哲学を教えていた。
「それにしても、今日は新人が多いですね」
「コーディネーターの話では三十人だそうだ。第一相で二週間」
「フェーズ・ワンで三十人も?」
 私は驚いた。普通は十人程度だ。
「製薬会社が急いでいるんじゃないか。カイザーだとさ。製造販売の承認を早く取りたいのだろう」
 新薬の開発は動物実験を経て、人体で臨床試験を行う。三段階実施するが、第一相(フェーズ・ワン)では、薬物の安全性や体内動態を確認する。動物の試験で確認できなかった毒性や副作用が出現するリスクを見るのだ。
「治験者が多くなれば、万一事故が起こった時の人数も増えますよね」
 私は素朴な疑問を口にした。
「仮に事故があっても、副作用のデータが数多く取れるからいいんじゃないか」
 鳥羽が言った。
「ふむ、なるほど」
「女史に聞こうじゃないか」
 鳥羽が小声で言った。
 鷺沢八重が青い液体の入ったグラスを手に持ってやってきた。近くの椅子に座った。
「それは何?」
「あ、これ? カクテルですわ。ノンアルコールの」
 私は鳥羽とのやり取りを鷺沢に話した。鷺沢が青いカクテルを一口飲んだ。
「教授のお考えの通りです。ここは特区ですから審査がありません。治験参加者から誓約書も取っているし、事故が起こっても大して問題にならないわ。逆に数多くデータが取れて、開発も迅速に行えるというわけ」
 鷺沢は七十五歳。製薬会社の元主任研究員である。退職したことになっているが、今も会社とコネクションがあると噂されている。博士号の学位を持つので、陰で「女史」と呼ばれていた。陰でというのは、本人がその呼称を嫌がるからだ。
「はっきり言って、今回治験を実施するカイザーの新薬も期待できないと思います」
 鷺沢があっさりと言った。
「え? そうなの?」
 鳥羽が意外そうな顔をした。
「十年前から若返り効果をうたった薬がいくつも出ましたけど、私も含めて皆さんが身を以て試験されたように、若返り効果は見られませんでしたよね」
 鳥羽がうなずいて、
「長寿遺伝子を活性化させて老化を遅らせるという狙いだが、若返りどころか老化を抑制する効果も微々たるものだった、しかも強い副作用が出てしまった」
「そういえばあの二人、その後どうなったのかな」
 私は口をはさんだ。ずっと気にかかっていたのだ。
「退院してお二人とも地元に帰ったらしいです」
「それならいいけど」
 私は釈然としなかった。が、今はその話題ではない。
「で、カイザーの新薬も効果がないというのは?」
 鳥羽が促した。脱落した二人に関心はないのだ。鷺沢はグラスをテーブルに置いた。中身が半分残っている。
「たしか2015年頃、メディアで話題になりました。六十歳の老いたマウスにある酵素を与えると、細胞が二十歳の細胞に若返ったとか。でもマウスとヒトは違いますよね、当たり前の話ですが。現に、人間を対象に何度も臨床試験を行いましたが、ほとんど効果がなかった。それでもその後出てきた薬は、みな同じ酵素でした。私たちが治験した薬もそう。メーカーが違うだけで」
「カイザーの今度の薬は、別の方法で長寿遺伝子を活性化させると聞いたが」
「そうですね。残念ながらその方法でも限界があることが判ってきたんです」
「ヒトも含めて生物一般は細胞分裂ができる回数があらかじめ決まっていて、老化というのはその回数が減ってくることだ。だから、改変したRNAを血管に注入して細胞分裂回数を増やせば、寿命が延びるということだろう?」
「はい」
「不老不死の実現は、細胞を不老不死化すればいいのだが、細胞が癌化する恐れがあるということだ」
「さすが教授、よく勉強してらっしゃる」
「ネットで調べただけだ」
 鳥羽がぶ然として言ったが、鷺沢は取り合わない。
「細胞が無限に分裂する能力を持つというのは癌細胞になるということですから。それで件のRNAには、一定時間だけ細胞分裂能力を向上させるタイマー付きの機能を持たせるようにする。それを定期的にヒトの体内に送り込んで、その都度分裂回数を増やそうという狙いです」
「それでも効果がないのかね」
「癌化するスイッチが入らないように、安全装置を強化したので、そのぶん効果が弱まった。しかも、これは若返りではない。体内に投与された時点で、死へのカントダウンの数字が、例えば二や三しかない残りの生存年数が七か八に増える程度。寿命が少し伸びるだけで、決して若返るわけではないのです」
「それに、癌になる可能性もゼロではないでしょう」と私は問うた。
「そうなの?」
 鳥羽も問うた。
「十パーセントくらいですかね」
 鷺沢が小首をかしげた。
「三十人のうち三人が癌か」
 私は低い声でつぶやいた。食堂にいた連中を思い出した。彼らの内の三人が癌になるのだ。鳥羽がうーんと唸った。鷺沢は青色のドリンクを飲み干した。
「本当の意味での若返りというのは、やはり無理か」
 鳥羽が少し落胆した口調で言った。鷺沢女史は空になったグラスをテーブルに置いて夕景を眺めていた。西の山裾に日が沈んで山容は宵闇が濃くなってきた。東の連山の峰の上に一つ二つ星が瞬いた。
「ホクトが今動物を使って新薬を試験しています。年内にはヒトによる治験が始まるでしょう」
 さりげなく女史が言った。ホクト薬品とコネクションがあるという噂は本当だった。私と鳥羽は顔を見合わせた。
「ということは……」
 鳥羽が問いかけた。女史は意味ありげに微笑を浮かべた。
「画期的なクスリになると思いますよ」とだけ言い、空のグラスを取り上げて女史は去っていった。

 二か月後の六月。私たちは治験コーディネーターの郷田からミーティング室に呼ばれた。
「四月に実施したアルツハイマー病のジェネリックの治験以来、参加の申し込みがありません」
「何か問題がありますかね」
 鳥羽がとぼけて言った。
「八月の治験に参加して頂きたいのですが」
 それに答えず、鳥羽が単刀直入に言った。
「十二月にホクトの治験があるよね」
 郷田が驚いた。
「よくご存じで。まだ発表前ですが……」
「われわれはそれに参加しようと思っている。八月の治験に参加したら薬の影響が僅かとはいえ残る怖れがあるからね」
 鷺沢が横でうなずいた。
「そうでしたか。なるほど……」
 郷田はしばらく考えてから、
「よくわかりました。しかしブランクが空くのは問題なので、お三方には別の試験に参加して頂こうと思います」
センターの業務は可能な限り参加しなければいけない。入所時に署名した誓約書にもそんな規定があった。
「それで、どういう試験なの?」
「終末看取りと言いまして、認知症が進行している高齢の患者に生物学的な死より〝少し早く″死に至らしめる処置を施します」
「それは現に実施してるんじゃなかったかね」
 鳥羽が穏やかに口を挟んだ。
「その件についてはお答えできません」
 すました顔で郷田はかわした。
「ここで実施されているのは、あくまでも、安楽死が法的に認められる時のための先行的な臨死研究です」
 安楽死の処置はセンターの付属病院で実施されている。このことは公然の秘密だ。関係者は肯定も否定もしない。特区の名の元に生命が軽視されているという非難をかわすためだ。安楽死という名のホロコーストだと週刊誌から叩かれたこともある。その時は政府筋が巧妙にメディア操作をして、燃え広がりそうな火を消した。それ以来長寿センターでは、安楽死の実施と受け取れる表現を極力避け、臨死研究のための治験を行っていると言うようになった。
「当センターでは、今後安楽死が容認されるために、処置のプロセスを倫理的に洗練されたものにする必要があると考えています」
郷田によると、死に至る間際に本人が希望する幻影を体験できるシステムが考案された。それが「終末看取り」であるという。
「つまり死ぬ前に最後の夢を見させるってわけだ」
 鳥羽がつぶやいた。
「被処置者は薬剤によって苦痛なく緩やかに死に至りますが、並行して麻薬や幻影を起こさせる装置によって、希望するストーリーを仮想体験することになります」
「その終末看取りとやらに我々が参加するということは、つまり死ぬということだ」
 鷺沢がくすくす笑った。郷田は苦笑しながら否定した。
「いえいえ、お三方が臨死の状態になるわけではなく、催眠剤で眠った状態で夢を見て頂くということです――」

 私たちは開発に参加することになった。各自が得意な分野を生かした。鳥羽は倫理面をチェックし、鷺沢は製薬会社の協力を得ながらクスリを選んだ。私は様々なストーリーを収集し、提供した。自分の作品の題材は使わなかった。ネタとして思いついたが、文章にならなかった夢や妄想などだ。死ぬときに見たい夢――それはどんな内容の夢でも許される。文字通りいかなる内容でも本人が希望すれば許されると鳥羽は判断した。その人は死んでいくのだからと。
私たちは自分が死ぬときに見たい夢を仮想体験することになった。私は「如来来迎」を選んだ。私が作ったシナリオである。時代は室町。場所は都と思しい山麓のとある屋敷。
ヘッドギアのような器具が頭に被せられ、電極が頭の表皮に張りつけられた。
「コンピュータから出力された信号が、ヘッドギアにつながった電極から脳に送られて、人為的な夢をあなたが見ることになります」
 医療技師が機器を一つ一つ説明した。
「眠剤を飲んでください」
 郷田から手渡された錠剤を口に入れ、コップの水と一緒に飲み下した。薬を飲んだことを郷田が確認して、私はベッドに横になった。私が見ることになる映像は、夢がそうであるように視点が定かではない。主人公の視点ではなく他のキャラクターの視点になるかもしれない――説明を思い出していると照明が徐々に暗くなった。薬が効いて意識が朦朧としてきた。そして私は眠りに落ちた――。
 

如来来迎

 主人は己の住居を「庵」と呼んだが、その実、背後の山を巧みに借景に取り込んだ庭の中の広壮な屋敷とも言うべき住居で、主人は世間から離れた隠棲の身であることを慮ったらしい。都がようやく戦火の灰燼から復興したころである。
 ある日、連歌仲間が主の病気見舞いにやってきた。甚だ世事に通じた俗っぽさ丸出しの英珍と片や連歌師としてメキメキ売り出し中の宗長という組み合わせだった。
 主はほとんど食が進まないと聞いていたので食べ物は避けて、野に咲く花と数種の歌を二人は持ってきた。
 客人には別室でささやかな酒肴が振舞われた。元より病気見舞いであったので、別室とは言え病人の傍らで飲食する気は無く、彼らもはじめは固持したが、接客に当たった老女から「ご遠慮なさらず召し上がりませ。当家の主の強い希望でございます」と言われ、膳が置かれた別室に案内されれば、二人ともようやく盃を手にしたのだった。

 庵は山裾に抱かれるようにあった。全山燃え立つような紅葉の只中にあったが、山の端に日が沈むと、さすがに鮮やかだった色彩がくすんでいった。

 病人はその時分から容態が急変した。友が帰って後のことである。一時前まで客の話に熱心に頷いていた。ことに、能弁な英珍が唾を飛ばしながらしゃべり散らす巷の噂、どこで仕入れたのか刺激的な艶笑話や馬鹿馬鹿しい滑稽譚に主も頬を緩めていたのだったが――。
 
 供回りや下男下女らはあいにく皆出払っていた。その時屋敷には身の回りの細々とした世話をする童女が只一人、庵主の枕元にいるのみだった。
 容態が急変し、一刻も猶予ならぬ状態であることは、童女にも容易に見て取れた。目は閉じられ、顔が土気色となり、息も絶え絶えとなった。千代は動転したが、屋敷内には他に誰もいなかった。医者を呼ぶ暇もないように思われた。千代は腹をくくった。もとより健気な性質だった。千代は庵主の襟の内に手を差し入れて首筋の脈を診た。か細い脈が辛うじて指先に触れた。
「翁さま、翁さま」
 千代は翁の耳元でささやき続けた。
 ようやく一筋の息が漏れた。
「千代か……」と聞き取れた。
「千代にございます」
 再び翁の口元から息が漏れ出た。干からびた唇が僅かに動いている。何かを伝えようとしていた。千代は病人の口元に耳を寄せた。
「水を……」
「水でございますか」
「石清水……」
「はい」
「石清水を、汲んできておくれ……」
 微かだが意外にはっきりとした声で千代に命じた。
「ただいま汲んで参ります」
 と千代は応えて座敷を退くと、弾かれたように台所に行き、小さな手桶を選んで広縁から庭に出た。庭を横切って木戸を抜けた。あたりは刻一刻と夕闇が濃くなっている。半丁ほど離れた小路の突き当たりに、山からの水が湧き出る岩組みがある。千代は小路を走った。岩組に取り着くと、一筋の滴る水を桶で受けた。
 桶に茶碗一杯分の水が入る頃合いで取って返そうと踵を返して頭を上げると、異様な光景が千代の眼中に入った。
 暗い山の上から、遠目にも赤々と光る雲が降りてきていた。雲は熾火のように脈打ちながら光り、山の斜面を流れ降りてきていた。雲の上に何かがいた。
 それは金色に輝いていた――。
 あれは阿弥陀如来ではあるまいか。さらに、如来の周りには――大勢の菩薩がひしめくように控えておられる。そして如来や菩薩ら全体が、金色の光で靄のように包まれている。
 ――仏衆を乗せた雲の塊が向かう先は明らかだった。
 我に返ると、千代は庵に向かって走った。桶の水を零してならぬと気遣いながら、千代は木戸から庭に走りこんだ。
 今しも如来が二人の菩薩を従えて雲から縁に下りるところだった。いつの間にか障子が開かれており、寝間の上で横になっている翁の姿が見えた。
 千代は如来が放つ強烈な金色の光に立ちすくんだ。しかしその時、千代は自分が呼ばれているような声を聞いた。光を左手で遮りながら庭を横切った。途中で庭木の葉を枝から一枚もぎ取り、草履を脱ぎ跳ばして縁に上がった。
 見えない力が千代を動かせていた。千代は翁の枕元へにじり寄り、桶から木の葉で水を掬うと翁の口に流しこんだ。干からびた土気色の唇の端から数滴の水が零れた。それでも口中に入った水を飲みこんだようだ。のど仏が動いた。
 突然、翁がむっくりと起き上がった。正確に言えば、寝ている翁の中からもう一人の翁が分離して起き上がったのだ。起き上がった翁は末期の病人には見えなかった。如来の前で頭を垂れた。すると菩薩の腕がすっと伸びて翁の手を取った。そうして立ち上がった翁は如来に導かれて雲に乗り込んだのだった。
(翁さま!)
 千代は思わず叫ぶ。しかし声にはならない。だが翁はくるりと振り向いた。千代に向かって小さく頷いた。笑みが浮かんでいた。翁が向き直ると、仏衆と翁を乗せた雲は一気に斜面を駆け上り、山の頂からすーっと夜空の一角に飛び去った。後には翁の亡骸が残るのみだった――。

遡行

 ホクト薬品の新薬の第一相臨床試験スケジュールが発表された。カレンダーの十二月一日から二十日までの期間が、薄いピンク色と二つの赤色で彩色されていた。二つの赤色は、治験を二組に分けて実施することを意味した。定住組十人のうち、八月の治験に参加しなかった私と鳥羽、鷺沢の三人は一組で初回の治験に参加し、残り七人の二組は二回目の治験となった。

 一組の私たちは小宴を開くことにした。食事制限が始まる前日のことだ。
「これが今生の別れになるやも知れん」と鳥羽が提案したのだ。ホクトの元研究員である鷺沢も「送別会をしておいた方が良いですね」と率直にリスクを認めたのだった。郷田コーディネーターの許可を得て、私たちは飲み物と肴を持ってミーティング室に集まった。テーブルの上に酒やノンアルコール飲料、つまみが並んだ。
「治験の成功を祈願して――」
 いつになく神妙な面持ちで鳥羽が乾杯の音頭を取った。右手にウイスキーのグラス。私はビール、鷺沢はウーロン茶だった。
「え? 酒は飲まないの」
 私は思わず鷺沢に言った。
「あとで新薬の動物実験のデータを解析しますので。少し気になることがありまして」
「気になることって?」
「ゲノム編集でヒトの寿命に関わる遺伝子情報をすべて書き換えたはずじゃなかったのかね?」
 私が言いたいことを鳥羽が言った。
「ヒトの寿命に関わる遺伝情報はすべて把握したことになっていました。ところがそうでもないのではないかと、つい最近言われだして……」
「動物実験では成功したはずだ」
「そう、でもヒトの場合は既知の遺伝情報のメカニズムだけじゃなくて、未知の遺伝子が作用しているのではないかと……」
「それは、ジャンク遺伝子と呼ばれているDNA領域のことかな」
「そのとおりです。ヒトの場合、そのジャンク、つまりガラクタ遺伝子と言われる領域が全遺伝子領域の九七%を占めていると言われています」
「そこにも、ヒトの寿命を左右する機能を有する領域があるかもしれないということだろう」
「そうなの! 教授」
 鷺沢は教授を指さしながら笑った。
「分子生物学で解明されだして、現在その研究成果が医学や薬学にもたらされているってわけ」
「それはいいとしてさ、さっきあなたが言った気になることって何なの?」
 もう一度私は問うた。
「ああ、だからAIを使ってヒトの全ゲノムの寿命を司る遺伝情報を書き換えたけど、それらは、現在までに明らかになった寿命の仕組みをすべて取り入れたものなの。しかし、それらの仕組みが重なり合って無効になるか、あるいは思わぬ暴走をもたらすかもしれない。従来無意味とされてきた九七%のDNAの中に整合性を持たせる機構があるのかもしれない。今度治験を行う薬は三%のDNA領域だけで見れば完全だけど、九七%の領域での知見が無いという意味では不完全なものだと思います。今できることは、せめて動物実験のデータを見て、リスクがどこに潜んでいるのか予測するしかないわ」
「そうか……」
 他の二人は黙って聞くしかなかった。薬が原因で自分たちは死ぬかもしれない。ここへ来た時からそれは覚悟していた。もしそうなればそれは仕方がないじゃないか――いつか鳥羽が言ったことを私は思い出した。その時ドアがノックされた。
「はい」
 鳥羽が返事をした。
「こんばんは」
 郷田が私服で入ってきた。
「参加させてもらってもいいですか」と恐縮した素振りをしてみせた。
「もちろんだよ」
 鳥羽が手招きした。郷田が来ることは私も鷺沢も鳥羽から聞いていたのだ。郷田は地酒の芋焼酎と焼きおにぎりの載った大皿を机の上においた。地元産の豚味噌がたっぷり添えられていた。
「お腹が空く頃じゃないかと思って」
 と言って鳥羽の横に座った。ちょうど二人ずつ向かい合う形になった。
「いやー、グッドタイミングだね」
 鳥羽が相好を崩した。鷺沢の目が焼酎に行った。
「私焼酎を頂こうかな」
 それは地元産の希少な芋焼酎だった。郷田が口金に被さった包のひもを解いてキャップを開けた。
「そうだよ、データの見直しなんて今日はやめとき」
 鷺沢はいそいそと焼酎の湯割りを作った。鳥羽も私も湯割りに替えた。
「データの見直しですか?」
 郷田が女史にたずねた。
「女史は例の薬の動物実験のデータを今夜精査つもりだったのさ」
 女史と言ってしまったが、本人は気にしていないようだ。
「せっかくのお別れ会だもんね。今日の作業は中止よ」
と機嫌よく鷺沢はグラスを傾けた。
「高いリスクがあるかもしれないという皆さんの胸中をお察しします」
 郷田がうつむいた。そして
「皆さんの勇気に感謝します」
と言って突然鼻を詰まらせた。
「すみません」
 郷田はティッシュで目尻を拭った。
「まあまあ」
 鳥羽が郷田の肩を軽く叩いた。
「二週間も先のことだし、今日はまあ気を抜いてさ、ゆったりと銘酒を楽しもうじゃないか」
「はい」
 郷田は素直にうなずいた。箸を取ると焼きおにぎりと豚味噌を小皿によそって配った。
「ありがとう、頂きます」
 いち早く鳥羽がおにぎりの小片に豚味噌をつけて口に運んだ。私も鷺沢もおにぎりに箸が伸びた。
「旨いね」
「おいしいわ」
 とりあえず空腹を満たすと豚味噌だけを肴に焼酎を飲んだ。
「ところで……」
 郷田がくつろいだ表情で聞いた。
「クスリで若返ったら、皆さんどうされるんですか?」
「無事にだろ?」
 鳥羽が小声で付け加えた。
「もちろん全員無事クスリが効いたという前提ですよ」
「うーん、成功するかどうか分からんのに、今それを考えても……」
 すると鷺沢が、
「教授、今夜は楽しくお話をする会なんだから、前向きの答えを聞きたいのよ」
と言った。鳥羽は「そうだな」とうなづいた。
 鷺沢が郷田にたずねた。
「で、私は何歳になるんでしたっけ?」
「理論的には三十年若返りますから」
「四十五かしら」
「そうですね」
「四十五になれば薬理研究所に戻ります。戻って、ゲノムの未知の領域を解明していきたいわ。未知の若返りの仕組みを見つけて、より安全なクスリを開発したい」
「それって分子生物学の分野じゃないの?」
 私が指摘すると、
「そっか。となると、大学院で勉強し直すべきなのかな」と鷺沢は首をひねった。
「私は五十六てところかね」鳥羽が呟いた。
「理論的にはそうなりますね」
「また現役に復帰できるよな。でもさ、前の大学が私を受け入れてくれるかな。十六年も前に退職してるんだぜ」
「論文を書いて送ればいいじゃないですか。それで評価されれば採用されるかもしれない」
「しかしだ、中村さん。例えば履歴書はどう書く? わしは七十で大学を退職した。その後本を出したりカルチャーセンターで教えたりもしたが、まあ言わば隠居生活だよな。その後八十五でここへ入所した。で、治験を色々やって、一年後に薬で三十歳若返ったと……」
「若返った、というのは書かなくて良いんじゃないですか。八十六でも大学で研究ができるということを論文で実証すればいいんですよ」
「でもな、面接はどうする? 実年齢と見た目が全然違うんだぜ」
「こういうのはどうです? プロに頼んで老けメークをするんです」
「それじや何のための若返り薬かね」
「だから、公的な場に出る時だけメークするんですよ」
 鳥羽が両手を開いてため息をついた。郷田が割って入った。
「これからは色々考えていかなきゃいけませんね。教授に限らず、鷺沢さんも中村さんも。それから後につづく人たちも……」
「あなたはどうするんだい? 三十若くなったら」
「私は五十二だとしたら……やっぱり小説を書くかな」
「肉体年齢が五十二だとしたら、まだまだ現役世代だ。でもさ、あなたの小説は売れるかな。頭の中身、つまり心は八十二のままだ。それで現役世代の読者の共感を得られるようなものが書けるのかな」
 痛いところを突かれたと思った。
「小説は売れないでしょうな」
 思わず苦笑していた。
「でも、それは同時代の読者の時代感覚とずれているということより、そもそも私の作風は、若い頃つまり二十代の頃から、読者の要求を満たすものではなかった。もともと私のバックボーンはSFですから、私を支持してくれる読者は少数なんです。だから売れない理由は、三十年前と同じですよ」
「今の小説はSFめいたものが多いと聞くが」
「それを言うなら、SFの技法なんて前世紀から映像などの動画や漫画で当たり前に使われてきたんですよ。当然小説の書き手もSF的な手法を使ってきました。時代小説でさえ昔は儒教臭がしたが、今はどこかSF臭がします。書き手も意識することなくSF的な手法やヴィジョンを身に着けている」
 SF論になると語ってしまう。昔も今も同じだと私は自嘲した。
「私なんかは、家族の問題のような身近なことを扱った小説がいいですね」
と郷田が言った。私は大きくうなずいた。
「そうなんですよね。一番本を読むのは女性で、子育てが一段落した年代なんだ。郷田さんも含めて、そのぶ厚い読者層は女性作家が描く、一見平凡に見える家庭の様々な問題を切り取って、スリリングな展開で読者の要求に応えているんですよね」
「たしかに――」鳥羽が頷いた。
「カルチャーセンターの私の講座でも受講生はほとんど女性だった」
「私が書くものは、男女間の事でも男の視点なんで、女性からは敬遠されていました」
 鳥羽が軽く咳払いをした。
「中村さん、いずれにしてもだ。本が売れないとしたら、どうやって生活するのかね」
つい「年金で」と言いいかけて、
「年金はどうなるの? もらえるのかな」
「もらえないだろ。現役の肉体を手に入れるんだから、相応の仕事に就くなりして稼ぐべきなんだ。私は返上するつもりだ」
「私も返上すべきだと思う」と鷺沢がつづいた。私は弁解気味に、
「いやしかし仮に返上するにしても、一定の猶予期間というものはいるんじゃないですか」 
「そういったことも含めて、治験の結果次第で検討すべきことがたくさんありますね」
 郷田が穏やかに言った。鷺沢が微笑を浮かべながら、
「本当に三十歳若返るかどうかも分からないし、事故が起きるかもしれないけれど、せめて今夜は楽しく飲もうって会であることをお忘れなく」
「そうだったね」
 鳥羽がうなずき、私も「そうでした」と同意した。
「何の話をしていたんだっけ」
「私が若返ったときの生活費のこと」
「ああそうだった」
 鳥羽はグラスを傾けた。
「また学習塾でもやりますかね。細々と」
 私も言いながらグラスを傾けた。
「なるほど。でもそれじゃ、昔と変わらないね」と私を覗き込んだ。
「それは教授だって同じだ」
「そうでもないんだよ」
 鳥羽は苦笑した。何か言いたげだった。が、首を振って話を切り上げた。酔ったか、それとも、若返りが当たり前になる世界を考えたら、哲学などすることが嫌になったのかもしれない。皆の話を聞くでもなく、鳥羽は黙って焼酎を飲んでいた。
 鷺沢はホクトの、郷田はセンターの人間関係をゴシップを交えてひそひそ話しながら低い声で笑っていた。
私は自分の身の振り方を考えた。自分が若返った状態を何回も想像してみたが、リアルな感じは今一つ湧かなかった。実年齢は八十二だが肉体年齢が五十二なのだ。娘の蛍は今年四十九のはず。どう考えても父と娘には見えないだろう。それどころか、娘が年上に見えることさえあるかもしれない。それが一番困る。蛍に会う時は冗談でなく、老けメークをしなければいけないだろう。しかし役者をしている蛍には見破られるのではないか。用があっても直接会わず、ビデオ電話で面談すればいいか……。
いつの間にか鷺沢と郷田の話も途切れ、鳥羽は寝ていた。それで宴はお開きとなった。


 十二月一日、治験第一組は臨床試験部の一室に集合した。前夜は九時から絶食で、起床後は水だけ飲むことが許された。病衣に着替えた三人は、ベッドに横たわり血管に薬剤を注入された。十回採血された二時間後に採血ホルダーが外され、その日の薬剤注入が終わった。
郷田が部屋に入ってきた。
「ご気分はいかがですか」
 鳥羽がぐるぐる首を回しながら「なんともないよ」と返事した。
「私も別に」と鷺沢。私は「異状なし」と答えた。
「そうですか。昨日お伝えしたように、今日から三日間は治験部の個室に入ってください。くれぐれも皆さん安静に過ごしてくださいね。食事も部屋に運びますから、それだけ召し上がってください」
 三人はひとまず個室に入った。ベッドと洗面台とトイレにシャワー。容態をモニターするカメラが天井にあった。あとはテレビと、各自が持ち込んだ本や端末など。ミーティングルームは自由に出入りができたが、私たちは皆部屋にこもっていた。そうして二日目、三日目と計三回薬剤が注入された。
三人とも無事平穏に過ぎた。薬剤注入後も二日間個室に留まることになった。異変が起きたのは一日目の深夜だった。慌ただしく廊下を走ってくる複数の足音で私はベッドから跳ね起きた。両隣でベッドを廊下に出す音がして、私は部屋から出た。看護師が二人づつ二台のベッドを廊下に出した。ベッドの上で鳥羽と鷺沢が目を閉じていた。
 ――まさか。鳥羽のベッドを引く郷田と目があった。
「緊急事態です」とだけ言って、向かいの集中治療室にベッドを運び込んだ。私は寝るどころではなく部屋で待機した。明け方ベッドに横になり数時間眠った。
「中村さん、体に異常はありませんか」
 ドクターの声で目が覚めた。朝だった。
「二人は?」
「鳥羽さんと鷺沢さんは回復しました。安心してください」
「良かった……」
 診察を受けた。体温、血圧、心音など――。
「全然問題ありませんね。でも何故だろ?」
 微笑しながらドクターが聴診器を仕舞った。ドクターが出ていくのと入れ違いに郷田が入ってきた。やつれた顔に笑みがあった。
「お早うございます。お二人とも無事回復しましたから安心してください。でもあと一日は安静にする必要がありますので、今日は面会できません。中村さんも明日までこの部屋で安静にしていてくださいね」
「分かりました。二人が無事で良かったです」
 郷田は会釈して部屋を出ていった。

 翌日の午前、鳥羽と鷺沢に面接ができることになった。ミーティング室に入った。一見して二人がそれほど変わったようには見えなかった。
「無事で良かったです。それと、おめでとうございますと言うべきなんですね」
 と二人に言った。
「ああ、我々は成功したんだよ」
 声のトーンが高いと思った。顔つきも若返っていた。皺が減って肌の色つやもよく妙に滑らかだった。鳥羽は無秩序に伸びた前髪を滑らかな手でかき上げていた。二日前まで禿げていたところだ。
「でも、あんたは……」 
 とだけ言って鳥羽が言葉を切った。
「私だけ薬が効かなかった。どういうわけか」
「どうしてかしらね」
 鷺沢も病衣姿のままで化粧はしていない。しかしたしかに、顔も首も手も若返っていて、四十代半ばの女性の色香が出ていた。その鷺沢が首を傾げると色っぽく感じられた。彼女も生物時間を遡ったのだ。
「来週再試験があるみたいだよ」
 鳥羽がかん高い声で言うと何だかおかしかった。
「私が、ですか」
「そう」
 鷺沢がうなずいた。
「だから、中村さんは来週まで治験部に引き留めなの」
 女史の声はあまり変わらない。もともと歌が上手い人だからか?
「そうですか」
「おとといの夜は、どんな異変が起きたんですか?」
「それが我々も分からないのさ」
「眠っている最中の出来事なの。急に意識を失って。何でも脳波や心肺などが突然乱れて、集中治療室に運び込んだけど、原因不明で手の打ちようがなくて、見守るしか無かったらしいわ。朝方には何事もなく収まっていて、ふと見ると若返っていたというわけ」
「…………」
 なぜ私だけ薬が効かなかったのか。朝のドクターの言動からしても原因は分からないのだと思った。
「我々も居住部へはしばらく帰れないんだよ」
「どうしてですか?」
「情報の漏洩防止だ。今回の治験の結果は、当面極秘だそうな。治験二組の連中にも今は知らせないと郷田さんが言ってた」
「そうなんですか」
「いつまで隔離させられるのか。早く普通の生活がしたいと思うよ」
 鷺沢が同意するように大きく頷いた。

 私たちは始終ミーティング室に集まった。隔離された状態で他に行く所が無かったからだ。鳥羽と鷺沢は継続して検査が続いていたが、体調の急変について依然として解明されていないようだった。
「哲学の教師はやめようと思うんだ」
 ある日鳥羽がぽつりと言った。鷺沢が笑った。彼女は薄く化粧をしていた。郷田から差し入れてもらった服と化粧品で、すでに年齢相応(と言うべきか)の外見となって、知的な婦人という雰囲気が出ていた。
「教師でないとすれば、何をするんですか?」と私は聞いた。
「小説でも書くか」
 笑うしか無かった。
「冗談だよ。実はジゴロにでもなろうかと思ってる」
「悪い冗談だ」
 私はため息をついた。しかし目の前の鳥羽は、黒い髪をきれいに撫で付け、チェックのネルシャツと黒ビロードのズボンなどお洒落に着こなして、女のヒモになりたいと言う、本心の一端が出ているようにも見えた。
「ジゴロって……。いったい誰の? 募集でもするんですかね」
「いや、その必要はないんだよ」
 と言ってにやにやした。すると、鷺沢が私を向いて意味ありげに微笑した。彼女の目がまさに伝えていた。
 ――まさか。私は絶句した。
「この人と世帯を持つことにしたんだ」
 鳥羽が鷺沢を見やった。鷺沢が微笑みながらうなずいた。そういうことだ。少なからずショックだった。嫉妬と言ってもいいかもしれない。鳥羽に先を越されたと思った。鷺沢への恋愛感情は私には無い。彼らが一歩早く先へ進んでいることへの妬みだろう――。
「おめでとうございます」
「いや、ありがとう」鳥羽が返した。
「こういう展開になっちゃった」
 鷺沢が照れた表情を浮かべた。
「ホクトの採用が決まったの。奨学金と生活費を貰いながら大学院へも行けることになって、この人の扶養手当も出るから、ジゴロとか言ってるけど、本当は百姓をするって言ってるのよ」
「同じ境遇の者同士、一緒にいたほうがいいと思うんだ」
「そうですね。私もそう思います。でも農業は大変ですよ」
 鳥羽は笑いながら
「農業とかじゃなくて、家庭菜園ってやつだよ」
「なるほど、よくわかりました。お二人とも幸せになってください」
 気持ちが落ち着くと、彼らが一緒に暮らすことが最善の方法だと、私は改めて思った。

 再試験の日が来た。前夜九時から絶食、朝は水のみ可。前回と同じだ。今回は個室で薬剤の注入を受ける。八時に看護師と郷田が来た。今日は左腕の静脈に針を刺した。最初に薬剤を注入し、採血ホルダーを固定して十分に一回ずつ採血。今回は二時間で計一二回採血された。
 私はテレビを見ながら時間を過ごした。そうして一日目の薬剤投入が終わった。治験の間は部屋から出られない。鳥羽や鷺沢とタブレットで面会した。が、特に話すこともないので短時間で切り上げた。病院食のような夕食を食べ終わると、テレビを見る気にもならず、私はベッドに寝転がった。頭に浮かぶのは鳥羽たちの変わりようだ。
自分は薬が効かないのかと思った。効かなければ、それはしようがない。だが今回の薬が効かなくても、すぐ改良されるだろうし、他の製薬会社が有力な若返り薬を開発するだろう。とすれば、いずれ私も若返ることになる。

 ――だが、本当に私は若返りを望んでいただろうか?
 
 私は終の棲家としてこの施設を選んだ。少ない年金で快適な余生を全うできると考えたからだ。衣服は最小限でよく、食事は栄養的に完璧に配慮されたものだ。住居は一年中空調が整っている。その上長寿を実現するための生活指導で、私は平均寿命以上に健康に生きられるだろう。それでも年数を経たら次第に老衰していき、父や母や妻の泰子のように最後は死ぬ。認知症になれば安楽死だ。死んだら施設の霊園に葬られる。娘の蛍や、泰子の子供らも弔いに来るかもしれない。
薬の治験はここで暮らしていくための条件だった。仕事とも言える。だから数種類の薬を体内に入れてきた。そして究極の治験が若返り薬だった。こいつを体内に投入して若返ったら、私は何をして生きていけばいいのか。いずれ年金は停止されるだろう。塾の教師? 誰が雇ってくれるのか。履歴書にはどう書けばいい? 生年月日など偽りを書くしかないではないか。 
 あれこれ思案しているうちに、人生設計を考えること自体、何かひどく面倒くさいことのようにように思われてきた。何で今さら、またあくせくした人生を送らねばならないのか。私の人生は最終章にかかっていたのではなかったか――?
こんなはずではなかった。仮に薬の副作用で異変が起きたとしても、そのまま死んでもいいと私は思った。

 二日目に続いて、三日目の薬剤が注入し終わった。これで再試験の薬剤注入が終わったことになる。採血ホルダーが外された。
「中村さん、再試験が終わりましたよ。そのまましばらく安静にね」
 看護師が私に声をかけた。はいと返事した。が、声にならない。うなずくことさえできない。体が全く動かないのだ。
「大丈夫? 中村さん、中村さん」
 郷田が私に呼びかけている――。


「中村さん、中村さん……」
 誰かが遠いところで呼んでいた。次第に声が近づいてきた。郷田が覗き込んでいる。
「気がついた? 中村さん」
「ああ……」
 少し眠ったようだ。
「安静にしていて」
「さっきは急に身体が動かなくなった」
 今は自由に動かせる。
 ――と、首から背中と腰、そして両足に激しい痛みが走った。私は思わずうめいた。郷田が優しい声で、
「しばらく安静にしていて。一週間もベッドの上で気を失っていたから、身体がついていかないのよ」
「一週間?」妙に甲高い声だ。
「あのね、中村さんは最後の靜注の後、気を失ったんです。それから一週間意識が戻らなかったの」
「……」
 ということは、ひょとして――、
「薬は効いたの?」
 郷田の表情が変わった。
「驚かないでね」
 手鏡を渡された。鏡を見た。状況がのみ込めなかった。鏡に映っているのは私の顔だ。他の誰でもない。だが……。懐かしい顔がそこにあった。高校の卒業アルバムで見た自分だ。ということは――。
 
 鳥羽と鷺沢が入ってきた。彼らは私を見て息を呑んだ。
「クスリがよく効いたみたいなんだ」
 私は彼らに言った。手招きするとようやくベッドの側に来た。二人は相変わらず呆然とした表情で、何を言ったらいいのか言葉を探しているようだった。
「私の体内時計はいったい何歳まで遡ったんだろう」
 と私はつぶやいた。すると郷田は、
「DNA検査によれば十代、おそらく十六歳くらいだそうです。先の薬の効果が何かの理由で発現が抑えられていた。後から入った薬がきっかけになって、結果二倍効いたそうです」
「…………」
 私は自分の体をあちこち確かめていた。確かに若い肉体に違いなかった。声も少年のそれだ。その時ドクターが入ってきた。まだ意識が回復していない間に入念な検査をしたのだろう。簡単な診察だった。ドクターは「前回の薬と今回の薬が一遍に効いたんだね。三十年と三十年合わせて六十年。少し暴走してプラスアルファ分の六年とで合計六十六年、DNAレベルで若返ったということです」と言って微笑しながら部屋を去った。
「これからどうするかね」
 ため息をつきながらようやく鳥羽がしゃべった。
「そうですね」
 郷田が相づちして、
「当面は鳥羽さん鷺澤さんと同様に、こちらの治験部に留まっていただくことになります。薬剤の安全性が得られるまでの間、二組七人の治験は中止になると思います」
「厳重なかん口令が敷かれるんでしょうね」
 鷺沢は冷静に見通しているようだった。
「そうですね。皆さんの状況を隠ぺいするために、居住区のお荷物をいったんセンターの収納庫に保管します。二組の皆さんには、一組の全員が副作用で重篤な症状になったので、設備の整った病院へ転院することになったと説明しておきます」
「二組に親しい人間がいるのだが、しようがない」
 と鳥羽がつぶやいて
「それにしても中村さん、あんたえらいことになってしまったな」
「はあ……」
 それより急に空腹を感じた。それで
「食事をさせてください」と私は郷田に訴えた。あまりに切実に聞こえたのだろう、郷田は「今準備しますから」と言って廊下を走っていった。すると鳥羽が
「そりゃあんた、高二の体になった上に、一週間飯を食ってないんだから」
 と笑った。鷺沢も「本当に十代の少年になったのね。中村さん、可愛いわ」と目を細めた。まるで母親が息子を見るようだった。そして後日、それは現実となった――。

 一か月後、私たちはセンターを去った。一月の暖かい日だった。ホクト製薬が差し向けた大型のワゴン車に旧姓鳥羽、今は鷺澤遼と鷺沢八重、そして私が、人目につかないように乗り込んだ。郷田も車に乗り込んできて、最後の別れのあいさつを交わした。郷田は私たちと両手を握り合った。もう目に涙を浮かべている。
「皆さんのことですから、上手にやっていくことでしょう」と鼻を詰まらせながら言った。
「中村さん、いや、鷺澤太郎と改名したんだ今は。太郎さんは、われわれ夫婦の養子ということにしたが、生きていくためのこれは方便なんだよ」
 鳥羽が今さらくどくど説明した。
「分かっていますよ。どこから見ても紅顔の少年なんだから。方便にしろ親子にしといた方が良いに決まってますよ。ね、八重さん」
「そもそも私が言いだしたことなの」八重が胸を張った。
「で、十八になったら自分で進路を決めるのよね、太郎くん」
 と郷田が私に振った。
「郷田さん、何べんも言ってるけど、太郎くんはないでしょ。こう見えても私の本質は八十二の爺さんのままなんだ。あなたより遥かに年上なんだぜ。身体の生物年齢は十六まで遡ったけど、記憶は八十二年分保っているんだよ。それと、八重さんにも言っとくけど、母さんとか絶対に言わないで欲しい」
 と言ったものの、少年のかん高い声になってしまうものだから、本当は十六歳で、元は八十二歳だったという意識が、我ながら少し曖昧になってきた。傍から見れば、まさに十代の息子が四十代の母親世代に文句を言っている図だろう。五感と身体が意識を形成するとすれば、今まさに私は十代の意識に戻りつつあるのかもしれない。そして八十二の中村虎太郎ではなく、十六の鷺沢太郎として、すでに自己が作られつつあると私は感じた。
「はいはい、分かりました」と八重は案の定私の言うことなど上の空で、聞き流していた。
「じゃ、太郎くん、じゃなかった、太郎さん元気でね。八重さん、遼さんもお元気で」
 郷田がようやく車から降りた。車が動き出した。鷺沢がウインドーを下ろして叫んだ。
「千鳥さん、さようなら」
 郷田千鳥が涙を流しながら叫んだ。
「みなさんお幸せに!」
 車は駐車場を出て坂道を下った。郷田が視界から去ると、私たちはシートに座り直した。
「さて、これから我々は新天地へ向かうことになる」
 遼が独り言のように宣言した。
「一期一会の家族がここに始まる」
 と八重が謳うように言った。
「新しい人生の扉が開く」
 とこれは、十六歳の少年になりつつある私のつぶやきだった。
 

            ―完―  

或る物書きの遍歴・最終章

或る物書きの遍歴・最終章

古今問わず人は不老長寿に憧れる。古来より生命の水、あるいは妙薬を求めて海を渡り遠く秘境を目指す話は枚挙にいとまがない。2030年南九州に開設された新薬開発のための医療特区で長寿薬の治験に参加した高齢者たち。彼らの身の上に何が起こるか――。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-05-17

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著作権法内での利用のみを許可します。

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