フルートとヴァイオリン (第10章 ニューヨーク)

 それにしてもサンティアゴからのフライトは長かった。ほっとして搭乗機を後にし、ラガーディア空港に入ると早朝なのにごった返していた。
「本当に会うのだろうか、プロポーズ断られたのに。結婚していたら……国谷陽子か」と当惑しながら、外に出てタクシーを捜すと何となく空気が重たく、北半球を肌で感じてしまう。萩谷流に言えば季節もさることながら、南北の磁力線も元の方向に戻ったはずだ。
 そしてマンハッタン島のタイムズ・スクエア近くのホテルに乗り付けた。チェックインして荷物をエレベーターに載せ、5階までのぼっていく。部屋に入るなり、思わず窓のカーテンを開けてみた。大通りが見え、イエロー・キャブや観光客が行き交っていたが、土曜日で時間が早いせいか、予想したほど耳障りではない。ほっとしてベッドに倒れこんだ。サンティアゴの誘致合戦は血気盛んな連中にあおられ、熱気を帯びていたのだ。
 一息つくとクローゼットに上着をかけ、内ポケットから彼女のメールを取り出して電話番号を確認した。そしてサイド・テーブル上の電話から外線に繋いだ。「ツー……」と言う通信音。電話の横には「緊急時には911番を」との派手なシールが貼ってある。そこで電話番号を入力すると、何回目かの呼び出しで「カチャッ」と手応え。
「Yes, hello?」と懐かしい声!
「藤沼さん?」
「あ、国谷君、着いたのね!」
 藤沼陽子は、まるで昨日別れたようだった。
「そう。お久しぶり!」
「元気? フライト、長かったでしょう?」
「まあね」と言いながら彼女にホテルの名前と住所を告げた。
「了解、これから行くわ。ロビーで待っていてね!」
 30分の後にロビーに降りると、彼女が先に到着していた。中肉、中背で、髪はショートカット。少し年下のはずだが、ほぼ同じに見える。
「あ、国谷君、お久しぶり!」と言いながら彼女が右手を差し出した。
「やあ!」と言いながら、僕はアメリカ人の乗りで握手した。
「お会いするの、何年ぶり?」
「3年くらいかなぁ……」
「フルート続けている?」
「ウィーンでは結構役に立つけど、所詮、商社マンしながらだからね……」
「音楽やるなら、ウィーンも手かも知れないね。でもクラシックばっかりでしょう? ジャズも良いわよ」
「随分、大人っぽくなったね」。
「もう、いいおばさんよ」と彼女が嬉しそうに答える。
「いいや、そんなことない」と言いながら彼女を見つめた。
「有り難う。サンティアゴで大変だった?」と同情に満ちた目で彼女が尋ねた。
「まあ天気は良かったしメシも悪くなかったけど、仕事ばかりで……」とカラ元気で答えた。
「何か、誘致合戦で?」
「そう、でも札幌じゃオリーブ作らないし」と答える声が小さくなる。
「何それ?」
「意気消沈しても、意味ない様な話」
「そうか、疲れたでしょう? ま、アメリカ大統領選と比べれば、何でもないね」と彼女が話をそらしてくれる。
「そう言えば去年の11月だった?」
「そう。よく覚えているね」と彼女が眼を輝かせながら答える。
「今度のブッシュ大統領って、共和党だっけ?」
「そう、オヤジさんと同じよ。国谷君はニューヨークでも仕事?」
「うん、月曜日には白ワインの試飲会で……ニューヨークは長いの?」
「もう一年くらいになるけど……」
「どう? 面白い?」
「悪くない、とても刺激的」と彼女は誇らしげだ。
「ヴァイオリン、続けている?」
「仕事していると無理みたい。Well, what a pleasant surprise anyway! 良かったわ、この週末ちょうど空いていて。どこ行こうか? 自由の女神、近くで見たことある?」
「いいや」と答える僕は、ただの観光客でしかなかった。
「ちょうど良いかもね……行ってみようか?」
 そこで二人でマンハッタン島最南端のバッテリー・パークまで地下鉄で行くことにした。
 地下鉄の車内は人種のるつぼだった。皆、個性的ないでたちで画一性がない。色遣いがとても明るく、柄も派手だ。そう言えばウィーンでは、黒人はあまり見かけなかった。アジア人でさえ少ない。オーストリア・ハンガリー帝国が地域限定だったからだろうか。
 
 バッテリー・パークに到着して外に出たら、公園の芝生と海そして空のコントラストが鮮やかだった。また沢山の観光客がいて多様な言語が飛び交っている。波止場まで行くと、フェリーが何隻か乗客を待ちながら停泊していた。ブラスバンドがすぐ近くで土着系ジャズ・スタンダードを演奏し、ホリデー気分を盛り上げている。二人で並び、切符を買って乗船した。
「天気が良くてラッキーね」と言いながら陽子が微笑みかけた。
「チリでは鬱屈したなぁ……」
 フェリーが周りに白い水しぶきをあげながら、だんだんマンハッタン島を離れて行く。すると摩天楼街が、エンパイア・ステート・ビル、クライスラー・ビルをはじめ、徐々に最上階まで視野に収まり、絵葉書のごとく全体像を現す。暫くすると、その絵葉書が今度は縮小していく。海風が心地良い。船の揺れは規則的で、まるで乗客に催眠術をかけているようだ。
 彼女が添乗員よろしく解説してくれた。
「意外と手前に見えるのが、世界貿易センターのツインタワー・ビル。ソウ銀のオフィスがあるの」
「二棟あるよね」
「その右側で、南棟の45階なの。下の方がウォール街」
 僕は潮風に当たりながら、景色を悠然と眺めていた。そして緊張がほぐれ、気分の回復を感じながら言った。
「ツインタワーか……そう言えば『インデペンデンス・デイ』見た?」
 マミがオーディションで聞いた話を思い出したのだ。アメリカ人の女性審査員が
「9月11日がインデペンデンス・デイになる、2001年宇宙の旅!」と叫んだ話だ。
「……壮絶な映画でしょう?」
「そう、独立記念日に宇宙人が巨大なスペースシップで侵略してきて、この摩天楼街もやられてしまう……」
「そうそう、そうだったかも知れない……国谷君、ここでも仕事あるの?」と彼女が話題を変えた。
「ノブナガって言うレストラン、知っている?」
「ああ、あそこはポピュラー過ぎて予約取れないの」
「月曜日、試飲会でオーストリアの白ワイン売り込む」と豪語する。
「なーるほど」
 風がとても強い中を進行方向に目を向けてみると、自由の女神像が少しずつ見えてきた。全身パステル調の青緑で、右手で高く掲げたトーチから金の炎が立ち上る。
「移民が船で到着すると、まず目にしたのよ。そして本当にアメリカに来たって実感したの」と彼女が感慨深げに説明する。
「なるほどね」
「独立戦争を助けたフランスが、独立百周年に贈ったプレゼント」
 少しずつ女神像が近づいてくる。古典古代風の灯台の上にあり、想像よりはるかに大きかった。
「巨大なサザエだね」と口から出てしまう。
「あの頭? 七つの大陸と海に自由が広がるように、って」
「ここまでよく運んだね」
「バラして軍艦に乗せたの」
「すごいプロジェクト」
「そう。自由と独立のシンボル」
 フェリーがリバティー・アイランドに到着した。下船のため長蛇の列ができてしまい、順番待ちしてから島に上陸した。
「新世界だなぁ……ウィーンは、いまだに19世紀の雰囲気だよ。キリスト教圏の最前線にあったし、双頭の鷲やら十字架やら、古いシンボルだらけ」
「そうよね。でもフロイトとか、時代を先駆ける人もいるじゃない?」と彼女が気のなさそうに言う。
「フロイトって夢に出てくるもの全て、男女のシンボルに見立てた奴?」
「うん……アメリカ人もフロイトだとかユングだとか、通ぶるよ」
「意識に影響を及ぼす無意識って、本当にあるらしいね」と問題提起する。
「右脳左脳と関係あるの?」
「右脳と左脳は、言ってみりゃマックとウィンドウズのマシンで、起きている時に無意識が言語野に侵入すると、精神病になるらしい」
「へえ、奇抜」と言って彼女が呆れる。
「眠っている時なら、単なる夢で」

 夕方、帰りのフェリーは強い風にあおられ、結構揺れた。そしてマンハッタン島に着き船から下りる頃、僕は物思いに耽っていた。
 そう言えばホテルから電話かけた時、緊急番号は911だって、派手なシールが貼ってあった……日本の110番や119番と同じだ。ひょっとして9月11日、誰かが緊急連絡用の911をダイアルするような事件を起こすつもりだろうか、あの恐怖映画のノリで……と考えていたら彼女が、
「あまり顔色良くないけど、大丈夫?」と問うてきた。
「いや、船酔い……」と上の空で答える。チリのクーデターも9月11日だった。
「疲れが出たのよ、きっと。少し休んでいこうか?」と彼女が尋ねてきた。
「時差もあるね」
「目が血走っているよ。分かった、うちのアパート近いから行きましょう。38階からの眺め、悪くないのよ」と言いながら、彼女はうまくタクシーを拾い、運転手に自分の住所を告げた。

フルートとヴァイオリン (第10章 ニューヨーク)

フルートとヴァイオリン (第10章 ニューヨーク)

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-05-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted