【かりのやどりの】① 猫かぶりの君
僕には名前がない。というより覚えていない。記憶喪失なのだ。名前も職業もどこに住んでいたのかも分からない。
自分がどこの誰か分からないのは、どうも居心地が悪い。中身がフニャフニャしている感じだ。そう言うと、そんなこと関係なく君って人間がコンニャクみたいな奴なのさ、とススキさんに一笑された。
コンニャクはないだろう。変な例えを言って人をからかう、このススキさんというのは僕がお世話になっている家主さん。そして、貸本屋の店主だ。
「君、迷子かい」
と言って、ススキさんに拾われたのはつい先日だ。
僕は記憶喪失で迷子だった。ぼーっと突っ立っていたらススキさんに声をかけられたのだ。
「君、名前は?」
ぼんやりしている僕を見て、ススキさんは顔をしかめた。
「おやまあ記憶喪失か。珍しくもないけど厄介だね」
と言い、「ふむ」と顎に手をそえる。藍色の着物がよれていて、ちょっと目つきの悪い男。それがススキさんを見た第一印象だった。
「一階は貸本屋で、二階は下宿屋だから住めばいい。君みたいな困った人は別に珍しくもない。遠慮する必要も理由もない。ということで住め」
……で、今に至っているわけだ。
思い返せば腑に落ちないことだらけだ。
ああ、僕はどうしたらいいのだろう。
間借りした部屋の天井を見つめながら、僕はうつらうつらとした。人間は悩みすぎると眠れなくなるのを通り越して逆に眠くなる、のかもしれない。ああ僕は眠い。
欠伸をもらした。
「暇そうだね」
いつの間にかススキさんの声がした。戸にもたれて、僕を見下ろしている。ススキさんの方がよっぽど暇そうに見えたが、何も言い返さなかった。
「時間を持てあましているのなら、猫でも借りてみたらどうだい」
「はあ……」
「知り合いに猫貸し屋がいるんだが、最近めっきり借り手がいないらしくてね」
猫貸し屋とは何だろう。耳慣れない言葉に、僕は首をひねる。
はっと気がつき、寝転んでいた畳から起き上がった。
「僕はお金がありません」
無一文なのだ。いくらかかるか知らないが、借りるなんてとんでもない。猫のエサどころか、自分の食い扶持すらないのだ。
「金の心配はいらないよ。うちで一匹借りようと思ってね」
ススキさんは笑った。
猫を借りたくても世話ができないのか。ススキさんは大雑把で適当な人に見える。
「大の大人が昼日中にごろごろしているなんて無駄でしかないよ。有意義に過ごすべきだ。記憶喪失に無一文。うむ大変なことだ。先行きが不安で何も手につかないだろう。そんな君にいきなり働けとは言わないが、猫の世話くらいやりたまえ」
そして、口が悪い。
「暇だろう?」
だめ押しの一言。
僕は観念して「はい」と答えた。
ちょっと借りてくるよ、と言ってススキさんは出かけた。
僕は店番だ。じゃあ任せたよ、と軽く頼まれた。頼まれたはいいが、説明も何もない。勝手が分からないので、とりあえず座っている。
カウンターと思われる机の上には、本が山になっている。一冊でも本を抜けば崩れそうだ。いや、触れただけでも崩れるかも……恐ろしくて居られない。
別の椅子に座って、とりあえず店番らしく構えてみた。が、すぐに飽きてきた。暇すぎる。客は来そうにない。
店内を見渡す。壁いっぱいの本棚には、もうこれ以上入らないと言わんばかりに本がつまっている。入りきらない分は床に置かれた段ボール箱の中に並んでいる。
もとから照明が弱いのか、たくさんの本に威圧されているせいか、店内の雰囲気は薄暗くて重い。息苦しい。毎日ここに居るススキさんは、よっぽど本が好きなのだろう。僕はごめんだと思った。
ススキさんの店が貸本屋だと聞いた時、その気もないのに「何か面白い本はありますか」と言ったことがある。単に会話が欲しかっただけで、実は本に興味がなかった。
ススキさんは僕の顔をじっと見た。
「ここにある本達に聞いてみるといい。読むべき本がある時は、本に呼ばれるものだよ」
と、意味深に笑う。本が呼ぶだの猫を借りるだの、奇妙なことを言い出す人だ。
あふ、と欠伸をもらしたところでススキさんが帰ってきた。
「君は実に暇そうだね」
「僕がというより、このお店が暇すぎるんじゃないですか」
「君の言うとおりうちは暇だよ。だからこそ思うさま本が読める」
ススキさんは笑った。その胸元に黒い猫を一匹抱いている。
猫が顔を上げ、僕を睨んだ。品定めするような目つきだ。
「なかなかの美人だろう」
ススキさんは言い、艶やかな毛並みをゆっくりと撫でる。
「名前はタマキだ」
にあ、と猫が鳴いた。
さて、店番を頼んだよと言って、ススキさんは家の奥に引っこんでしまった。
僕は何をするでもなく……ぼんやり座っているのも退屈なので、店の前を掃除する。箒で掃いてみた。うん仕事をしている感じがする。が、たいしてゴミはなかった。暇すぎるのだ。
「こんにちは」
声をかけられて振り向いた。そこには、何匹も猫をつれた爺さんが立っていた。
「ススキ氏はいらっしゃいますかの?」
好々爺といった風貌だ。笑う顔は、猫のように目が細くなる。
ぞろぞろいる猫達は行儀良く、鳴かずに静かだ。
「はい、呼んできますね。ところで、どちら様で?」
「わしは猫貸し屋です」
「あ、もしかしてタマキの?」
「ええ。お世話になってます」
爺さんは深々と頭を下げた。僕もつられてお辞儀する。
「ススキさん」
呼んでも返事がない。様子を見にいくと、ススキさんは居間で寝ていた。
「ススキさん!」
んあ、と言ってススキさんは寝転んでいた体を起こした。頬には畳の跡がくっきりと残っている。横になって本を読んだまま寝ていたようだ。
ススキさんのお腹で寝ていた猫も一緒に起きた。くああ、と欠伸をする。
「どうした?」
「お客ですよ。猫貸し屋さんだそうです」
「んん、そうかい」
ススキさんは店先へと出ていく。
僕は猫を見た。猫は僕にそっぽを向いた。
飼い始めてから、黒猫のタマキは僕に一向に懐かない。ススキさんにばかり愛想を振りまいている。ご飯をあげているのは僕だというのに。
猫もススキさんの後を追いかけていった。
「おお、爺さんか」
ススキさんの声が聞こえる。なあ、と親しげなタマキの声もした。
椅子を出して、店先でのんびりと話し出す。お茶と羊羹を用意したのは僕だ。猫たちは放っておかれている。借りてきた猫のように大人しいと言うが、借りられる猫たちとはこんなに静かなものだろうか。
タマキは爺さんに寄りかかって甘えている。あの可愛らしさの少しでも、僕に対してあればと思う。
僕を見て、ススキさんが笑った。「妬くな妬くな」と肩を叩かれた。それはそれで腹が立つ。
爺さんはふんふんと言いながら、黒猫と何やら対話をしている。猫語が分かるはずがないのに、そう勘違いしそうになる。
爺さんが顔を上げた。僕と目が合う。
「タマキは随分この家が気に入ったようで」
と言って笑った。
僕は本当だろうかと少し疑った。
そりゃあ良かったと言って、ススキさんも僕を見た。楽しそうな顔だ。
「できれば、もう少し借りていただけませんか」
「ええ、そのつもりですよ」
ススキさんは快く引き受けた。
爺さんはしばらく喋ってから去っていった。何匹もいる猫たちがぞろぞろ爺さんの後を追う。猫貸し屋も大変なのだろう……その後ろ姿を見つめながら、僕は思った。
ふいに、ススキさんが僕の肩を叩いた。振り向くと、タマキを差し出された。
「じゃあ、よろしく」
猫を押しつけて、ススキさんは居間に戻った。
思わず抱きかかえたタマキを見下ろす。丸い瞳がじっと見つめ返す。そういえば、タマキを抱いたのは初めてかもしれない。いつも逃げられて、触らせてくれないからだ。
柔らかくて温かい。よく見れば、ススキさんの言うように美人かもしれない。
「いっ……て!」
爪で引っかかれた。手を離すと、タマキはひょいっと床に下りた。爪を立てられた手の甲がひりひり疼く。
「お前、ちょっとは仲良くしようって気がないのかよ」
タマキが鳴く。エサを催促しているようだ。
まるで女王様だ。そうすると僕は家来なのか。では、ススキさんは?
考えると落ちこみそうなので、僕は考えるのをやめた。
「おい、下宿人」
ススキさんは僕をこう呼ぶ。
「あの、その下宿人っていうのはやめてくれませんか」
「なぜだい?」
あらためて聞かれると返事に困る。
「君の名前が分からないのだから仕方ない。下宿人でいいじゃないか。それとも居候のほうがいいかい?」
「……下宿人でいいです」
ススキさんは意地悪だ。
「それで何か用ですか?」
「タマキの姿が見えないんだが」
「そうですか」
「捜してきてくれ」
「放っておいても帰ってきますよ」
「捜してきてくれ」
ススキさんに凄まれて、僕は思わず「はい」と言った。
引き受けたからには仕方ない。僕はしぶしぶ探しに出た。
華やかとは言いがたい商店街の通りに、ススキさんの貸本屋はちょこんと建っている。点々と他の店もあるが、シャッターが下りていたり空き家のような建物もある。
さびれている、という言葉がぴったりだ。
「タマキ~タマキ~」
猫の名を呼びながら歩いた。姿は見えない。猫というより人気すらない。
小さな路地、狭い隙間、あっちこっち捜すが見つからない。一体どこへ行ったのだろう。
歩き回ったから喉が渇いた。そう思って顔を上げたら、ちょうど駄菓子屋を見つけた。美味そうなソーダの瓶が目に入る。
『いらっしゃいませ』
と、書かれた紙が店のドア硝子に貼られていた。
ごくりと喉が鳴る。だが、お金がないことに気づいてうな垂れる。
「どこ行ったんだよ、タマキ~」
にあ、と声がした。駄菓子屋の店内からだ。
店に入ると、タマキがいた。
「タマキ!」
のんきに煮干しを食んでいる猫を、憎らしいと思った。
中には店主らしい人間が一人。帽子の影に隠れて、顔はよく見えない。首には長いショールをぐるぐる巻きにしている。
『君の猫?』
と、スケッチブックに書いた文字を見せて、店主が尋ねた。
「はあ、まあ、そんな感じです。すいません、お邪魔しちゃって」
『いいえ。お客様は大歓迎です』
「煮干し、ありがとうございます」
『彼女のモデル代です』
スケッチブックをめくると、タマキの絵が描かれていた。なかなか上手い絵だった。
僕はタマキを睨んだ。猫は、つんと澄ました顔だ。
『随分お捜しでしたか?』
「ああ、いえ」
店主は腰を上げて、商品棚へ向かう。冷蔵庫からソーダの瓶を取ると、僕へ差し出した。
「いや、お構いなく」
正直欲しかったが遠慮した。
店主はスケッチブックに字を書いた。
『ソーダ一杯で、君の絵を描かせてもらうというのはどう?』
片手にスケッチブック、片手にソーダの瓶を持って、店主は首を傾げた。
「それなら、いただきます」
僕はソーダの瓶を受け取った。よく冷えていた。
「ということがあったんですよ。聞いてます?」
「ああ聞いているとも」
ススキさんは、膝にのったタマキを撫でている。タマキは大人しい。これが僕ならば、すぐに逃げるか爪を立てているはずだ。
僕は、タマキが駄菓子屋にいたことを話していた。
「あそこの駄菓子屋は最近できたばかりだな」
ぽつりとススキさんがこぼす。
「店名は何だった?」
「あれ。そういえば、店に看板はなかったですね」
「じゃあ、店主から名前を聞いたかい?」
「いいえ」
「そうか。じゃあ今度挨拶に行ってみようかね」
そう言ったきり、ススキさんは黙った。
黒猫のタマキは、日がな一日ごろごろと寝そべっている。そして時折、姿をくらます。駄菓子屋へ行けば、そこで煮干しを食べている。
僕は猫をじっと観察した。愛想はないし、じっと寝てばかりだ。起き上がったと思ったら、別の場所に移動してまた寝る。居心地の良い場所を探しているようだ。
僕を見てふいっと逃げるくせに、ススキさんには甘えた声で寄っていく。愛想を振りまき、膝にのる。ススキさんは慣れた手つきでタマキの背を撫でている。
「おや、機嫌が悪いようだね」
僕の顔を見て、ススキさんが言った。
「そんなことないです」
タマキを見ると、欠伸をされた。僕は眼中にないようだ。
「懐かれてますね」
「なんだい。君、焼き餅か」
「べ、べつに」
「そんな恐い顔をしていたら嫌われるよ」
その言葉にむっとした。ススキさんは笑っている。
ススキさんは空いたほうの手で、ぱらぱらと本を流し読んでいる。特に決まった好みの本はないようだ。いつも雑多な書物を開いている。
「それは何の本ですか」
「猫の話さ。猫が化けて人間になるんだ」
「ああ、怪談話でしょ。飼い猫が、主人の敵を取るために人間に化けて出る」
「それもある。だが、猫は恨みで化けるだけじゃない」
僕は首を傾げた。ススキさんは意味ありげに笑んだ。
「まあ、君みたいな鈍い奴には分からないだろうな」
なあ、と猫が小馬鹿にしたように鳴いた。
猫貸し屋の爺さんがまた来た。たくさんの猫たちも一緒だ。鳴くこともなく、相変わらず静かだ。
ススキさんは留守だった。お茶を出すと、「いえいえ。お構いなく」と言いつつ、爺さんは茶菓子をつまんだ。
タマキは爺さんにべったり甘えている。僕は羨ましくなんかない。
爺さんの連れてきた猫たちは、思い思いに寝そべったりうろついたりしている。つい先日まで、この群れの中にタマキもいたのだ。
もしかしたらタマキは他の家で借りられていたのかもしれない。そう思うと、奇妙な気持ちだ。
「また恐い顔をしているな」
ススキさんの声がした。コーラの瓶を三本と、膨らんだ紙袋を持っている。
「そこの駄菓子屋へ行ってたんだ。おまけで、たくさんもらえた」
ススキさんは紙袋を振った。
「駄菓子屋というと、新顔さんですな」
「ああ。まだ名前はないそうだけど、近々つくだろう」
「そうですかい」
爺さんがしんみりと言う。そして、ちらっと僕の顔を見た。
「絵を描く人だが……そうそう、君とタマキの絵を見せてもらったよ。タマキはいいが、君はちょっと男前に描きすぎている」
「なんでススキさんにダメ出しされなくちゃいけないんです」
「なに。そう思ったから言っただけさ」
と言って、ススキさんは笑った。
僕はコーラをぐいっと飲んだ。炭酸が鼻につんと来る。
爺さんが僕を見ていた。
「あなたさんは、猫がお嫌いですかい?」
「別に。嫌ってはいません。でも……」
「でも?」
「懐いてくれません」
僕はタマキを見た。タマキは爺さんの膝から離れて、ススキさんにすり寄っていた。
「そんな顔で睨んでいれば、猫だって逃げ出しますよ。何も心配いりません。優しく接してやればいいんです」
爺さんは目を細めた。笑うとやはり猫に似ている。
「まったく君は面倒くさい奴だね」
ススキさんが言う。タマキを抱いて、僕を見た。
「タマキは可愛いだろう?」
「はあ」
「そんな言い方じゃ誠意がない。もっと素直に褒めてやれ」
「あ、はい。タマキは、なかなか美人な猫だと思います」
やれやれと、ススキさんは肩をすくめた。
「ぞんざいに扱われれば猫にも分かるさ」
爺さんもススキさんも笑っている。笑わないのは猫たちだけだ。
僕はなんだか居たたまれなかった。
しばらく雑談した後、爺さんは帰っていった。
タマキが鳴いた。腹が空いたのだろう。僕に向かって鳴く時は、エサの時間だけだ。
猫用のご飯皿に盛られたエサを、タマキは行儀良く食べる。思えば、この猫は品の良い食べ方をする。駄菓子屋で煮干しをもらっていた時もそうだ。絵に描きたくなる気持ちが少し分かる。
僕は、タマキをじっと見つめた。
「可愛い、か」
タマキの背中に恐る恐る手を触れる。ゆっくりと毛を撫でた。艶やかで綺麗な毛並みだ。僕が撫でていてもタマキは大人しかった。ご飯を食べている。
タマキが顔を上げて、にあと鳴いた。
僕は、先日の駄菓子屋へ行った。店主は『いらっしゃいませ』と書いたスケッチブックを見せて、軽く会釈した。
「煮干しをもらえますか。あの、タマキがここのを好きなみたいで」
店主は頷いて、いくつかの煮干しを紙袋に入れた。
「支払いは……」
『君の絵を描かせてくれればいいですよ』
店主は椅子を指した。僕は黙って座った。
店主はスケッチブックをめくり、鉛筆を滑らせる。鉛筆の芯が紙をこする音。それ以外は静かなものだ。
前回もそうだった。僕はどこを見ていればいいのか分からない。店主を見ていても気恥ずかしいので、店内の売り物を眺めていた。
色鮮やかな飴の棒が刺さった瓶、整然と並ぶ駄菓子の箱、よく見かける棒菓子の袋たち。天井から吊されたモビールには魚のオモチャがついていて、くるくると回っている。
しばらく経ってから、鉛筆の音が止まった。
『ありがとうございました』
と書かれたスケッチブック。終わったようだ。
「あの、見せてもらってもいいですか」
ススキさんに言われたからでもないが、どんなふうに描かれたのか気になった。
店主が絵を見せてくれた。ススキさんに言われるほどでもないと思った。
「タマキの絵も見せてもらっていいですか」
店主はスケッチブックをぱらぱらめくり、前のページを見せてくれた。
そこに描かれていたのは、長い黒髪の美女だった。
「あ、いえ。猫のタマキの絵なんですが」
店主はそのページを指さした。とんとん、と叩く。
「タマキですか?」
店主は頷いた。
猫を人間に見立てて描いたのだろうか。不思議に思ったが、それ以上は聞かずに帰った。
晩ご飯に、タマキの皿へ煮干しを置いた。タマキは喜んで食べた。完食後、僕の足にすり寄ってきた。これは初めてだ。
撫でてやると、聞いたことのない甘い声で鳴いた。
「可愛いな」
と、思わず口から出た。
それ以後、タマキが少しずつ僕に懐き始めた。ご飯をねだる仕草も愛らしく、時々僕の足に体をこすりつけて甘える。
朝方寝苦しくて目が覚めた。見ると、タマキが布団の上に寝ていた。そのうち、布団の中に潜りこむようになった。
こうなると可愛くてたまらない。
タマキが膝にのり、丸くなっている。僕は、その背中を撫でた。
「ご機嫌だな。片思いが実ったからか?」
ススキさんの言葉に、僕は余裕で笑った。
「今じゃあ、僕の方がタマキに好かれてますね」
僕と猫を眺めて、ススキさんは苦笑した。
タマキは薄目を開けて様子をうかがう。短く欠伸をもらし、目を閉じた。気持ち良さそうに寝ている。
「タマキはいつまで、ここに?」
僕はススキさんに尋ねた。
借りた猫なのだ。返さなければならない。
ススキさんは考えこんで、「近いうちだろうね」と言った。
その日が来るのが寂しかった。そう思うほど、僕はタマキが愛おしくなっていた。
夜中、目が覚めた。布団の上が重い。さてはタマキがまた乗っているな。そのまま寝直そうとしたが、これは変だと思った。猫の体重にしては、やけに重い。
布団の上で、ごそごそと動く気配がする。頭の上に近づいてくる。目を開けようと思ったが、できなかった。ひどく気怠くて、まぶたが重い。
小さな息遣いが聞こえる。生温かな吐息が顔にかかる。一体、何が自分に覆い被さっているのか分からない。僕は、眠気で意識が半分ぼやけている。
鼻先に甘ったるい息がかかる。唇に柔らかな感触があった。誰かが僕の唇をついばんでいる。唇の形をなぞるように何度か舐められた。
愛撫、と言うには違和感がある。その行為に甘さを感じられない。例えるなら、猫に顔を舐められた時に似ていた。
ふっ、と気配が顔から離れた。僕はのろのろと目を開けた。じっと人影を見つめる。月明かりの中、輪郭がにじんで見える。
女だった。
眠りから覚めると、外はすっかり明るくなっていた。陽のまぶしさに目を細める。起きあがり、周囲を確かめる。何も変わった所はない。
昨晩のことを思い出した。夢とも現実とも分からない、奇妙な夜だった。あれは夢だったのだろうか。
自分の唇を指でなぞった。生々しい感触を覚えている。とても夢とは思えない。
「おーい、下宿人。いつまで寝ているんだ」
ススキさんの声がする。
僕が居間へ行くと、ススキさんはいつものように本を読んでいた。
「なんだい。まだ寝ぼけているのか」
僕の顔を見て、ススキさんは笑った。
「随分寝こけていたようだが、良い夢でも見ていたのかい」
「……い、いいえ」
昨晩のことは話さないでおいた。ススキさんのことだ、からかわれるに決まっている。
時計を見たら、もう昼時に近かった。
はっと気づいて、辺りを見回した。タマキに朝ご飯をあげていない。
「ススキさん、タマキはどこです。朝ご飯はあげたんですか」
「いいや。それに、彼女は君の出すご飯しか食べないからね」
ススキさんの言うとおりだった。
タマキは大人しく待つような猫じゃない。腹が空いたら遠慮なく僕を叩き起こすはずだ。何かがおかしい。僕は不安になった。
「タマキはどこですか」
「さあね。おそらくもう帰ってこないだろう」
さらりとした言葉だったので、何を言われたのかすぐに理解できなかった。借りた猫に逃げられて、なぜこんなに落ち着いていられるのか。
僕が出ていこうとすると、ススキさんにやんわりと止められた。
「捜さなくていいよ。彼女の意思で出ていったのだから」
「でも、猫貸し屋さんには……」
「ああ、爺さんも分かってて貸してた。だから気にしなくていい」
その言葉は、僕に諦めろと言っていた。追いかけてはいけない、と。
ススキさんは微笑んだ。
「あの猫は、君をひどく気に入っていたからね。いなくなって寂しいだろう」
僕は、こくりと頷いた。
最初は冷たくされていたが、懐かれた後は嬉しくて愛しさがわいた。離れがたくなっていたのは確かだ。でも、こんな別れ方をするとは思っていなかった。
「タマキが初めから君に気があったことに、気づいていたかい」
僕は首を振った。当初のタマキの態度を思い出すと、とても信じられない。あれは絶対に格下に見られていた。
鈍い奴だ、とススキさんはため息混じりに呟く。
「冷たくして、君の気を引いているのが丸分かりだったよ。実際彼女の策に、君はころりと落ちていたじゃないか」
そう言われればそうかもしれない。僕は、いなくなった黒猫を思い出して、そっと溜息をもらした。
一人で感傷に浸っていると、ススキさんが言った。
「猫の話を覚えているか」
「何のことですか」
「猫が化けるという話さ」
そんな話があったようなことを思い出す。
「猫が人間に化けるのは、恨みだけじゃないと言っただろ」
「何ですか、突然に」
「人に恋をして、化ける猫もいるんだよ」
ススキさんは笑みを浮かべて、ぱたんと本を閉じた。
【かりのやどりの】① 猫かぶりの君