水曜日のシャツを脱いだら【上】

古瀬 深早

水曜日のシャツを脱いだら【上】

01|夕暮れの町、彼女の世界


 姉は、昔から少し奇抜な人だった。
 よく思うのだ。血縁でなければ、きっと彼女の世界とは一生縁がなかっただろう、と。
 
 わたしの姉は、利発という言葉で表現するには少々おっとりしすぎた子供だった。
 聡明、という言い方は許されたように思う。それでも、昔からどこか現実にピントが合いきらないような独特の雰囲気を持っていた。
 捉えどころがない、というわけではなかった。捉えた先から別の要素が顔を出す、相反するものを多く持った、まとまりにくい人ではあったけれど。
 妹のわたしでも、思いつくあらゆる言葉を重ねたところで本当の彼女を正しく捉えられる気はしない。そんなの無謀な試みだ、とすら思う。
 それでもわたしは、昔から何度もそれに挑んできたような気がする。

 三歳を迎える前までは、彼女は極度に無口な子供だったそうだ。呼べば静かに寄って来る、自分の立てる物音すら怖がるような性格だったという。
 腰を下ろした場所が気に入れば、時間も気にせずにいくらでもそこにいた。持っていたおもちゃから手を離して、そこに座ったままぼうっと景色を眺めていたそうだ。
 家の中で行方不明になるのも珍しいことではなくて、当時の両親にはどこかの部屋で遊んでいるだろう小さな娘を探すためにすべての部屋を見て廻る習慣があった。どの部屋でも姉を見つけることができずに青くなって戻って来たリビングのソファの影で、不思議そうな顔をした娘に見上げられ言葉を失う、ということも、珍しくはなかったらしい。

 ほわんとした雰囲気の、いつも心のどこかが夢の中にいるような娘。
 そんなわたしの姉の名前は、美里(みさと)、という。

 そんな子供だった姉は、でも言葉を覚えるのは早かったそうだ。単語が出てくるようになってから、それらをいくつか連ねて一文にするまでの期間は本当に短かったと母は言う。
 周囲の大人にはひどくおっとりと臆病そうに見えていた彼女は、言葉を覚えることで自らの印象を若干しっかりしたものへと変えた。全くそうは見えなかったけれど、実はこの子は賢いほうの子なのかもしれない、と。
 それにある種の確信ができたのは、彼女がいわゆる『なぜなぜ期』に入ってからのことだった。
 多くの子供がそうであるように、姉も両親に対して質問魔になった。小さい姉は物の成り立ちやそれが存在する理由など、何でも両親に説明を求めるようになった。
 ねえお母さん、あれは何? 何のためにあるの? それは、皆が欲しくてある物なの? と。やかましいような物言いではなかったらしいけれど、両親への質問攻めは起きているあいだじゅう延々と続いたという。隣の家のおばあちゃんがくれたひまわりの種が「しましま」なのはどうしてとか、「今」がすぐに行ってしまって戻ってこないのはなんでなの、とか、そういうことを。
 家の中で何かを調べようとしたとき、まだ辞書と百科事典くらいしか手段がなかった時代のことだ。それがたった二十数年前だなんて、今では到底信じられないけれど。
 神妙な表情と、小さな声。
 おずおずとした口調で、小さな姉は両親にあらゆる疑問を投げかけた。答えても答えても満足することはなく、両親への問いはより多く細かくなっていった。
 疲れ果てた声で、どうしてそんなに色々なことを知りたいの、と訊いた母に、姉は小さくなって答えたそうだ。
 わからないの、怖い、と。

 初めての子育ての中、両親は痛感した。
 自分達の娘は、おそらく、どこかしらが変わっている。
 そしてわたし達の両親は、娘の質問にひとつひとつ答える代わりに彼女に文字を教えることにした。同じ年頃の子供より早いかもしれない、とも思ったらしいけれど、遅いよりは良いだろうと判断したようだ。娘の持ってくる答えきれない疑問に対して「自分で調べなさい」という言葉を一日でも早く言いたかった、というのが本心だと思う。彼女はそれに、素直に従った。
 小さな読書家になった姉は、小学校に上がるまでにだいたい二年生くらいまでの漢字を含む文字を読み書きできるようになっていたという。その後も質問の嵐が止むことはなかったけれど、両親にも付き合える程度までその数は少なくなったそうだ。

 六つ年の離れた妹としてこの家に生まれたわたしは、姉の言動からこぼれる彼女の世界の欠片を浴びながら育ったことになる。
 生まれる前から『上と同じような子供だったらどうしよう』と心配されながらも健やかに生を受け、どういうわけか彼女と一字しか違わない、愛らしくも実に紛らわしい美咲(みさき)という名を両親から賜った。
 姉に比べて、わたしは奇跡のように平均的で、平凡な娘だった。寝返りも立ち上がりも、ものの食べかたもお喋りも、育児書に書かれたとおりの時期に覚えていった。姉と違って多少夜泣きが強いほうだったらしいけれど、わたしからは姉のような性質は見受けられなかったらしい。わたしは本当に、こっちが少し悪いような気がしてくるくらい、あらゆることが標準の範囲内にきれいにおさまる子供だったのだ。
 両親は、でもそれをとても喜んだ。姉を育てる上で一番に望んでいた平均と標準の世界をわたしがもたらしたから。臆病で神経質で、目に映るものを不思議がっては細部まで知りたがる第一子に彼らはひどく戸惑っていた。
 静かににこにこしていると思えば、自分達にはわからない何かに傷ついてぽろぽろと泣き、突拍子もないことを突然尋ねてくる、長女に。


 思春期を迎えた頃だろうか、姉が少しずつ周囲から距離を置くようになったのは。
 ――お姉ちゃん、また凧になってるわね。
 昔、キッチンの窓から外を眺めながら母はよく言っていた。
 学校はとうに終わっている時間なのに、姉はなかなか家に戻って来なかった。ちょっとした、放浪癖みたいなものがあったのかもしれない。学校が終わってから夕暮れまでの時間、彼女は地元の山道や高台のあるところでひとり過ごすようになっていた。
 探してくる、と言えば止められるのがわかっていた。小学校低学年のわたしに、夕暮れの時間からひとりで外出することなんて許されていなかったから。
 それでも、何とか母の目を盗んで外に出た。
 扉を出てすぐの階段を駆け下りて、わたしは補助輪のついている小さな自転車をガレージから道路に引っ張り出した。音を立てないように、細心の注意を払いながら。
 道路の端で自転車に跨って、左足で地面を軽く蹴る。
 補助輪の立てるがらがらとした音に胸をどきどきさせながら、一秒でも早く家から遠ざかろうとハンドルを強く握った。家の前の道路はゆるやかな坂道になっていて、ペダルを漕ぎ出すのはいつも坂の下まで辿りついてからだった。

 夕焼けの中、帰宅を促すチャイムが流れる町を、姉を探して走り回った。
 夏は汗をかきながら、冬はもちろん、白い息を吐きながら。
 季節がまだはっきりと四つに分かれていて、それぞれに違う匂いや感触があった時代のことだ。すべての季節の夕暮れの感触を大人になったわたしがまだありありと覚えているのは、姉を探しに家から抜け出すあの習慣があったからだと思う。
 どこにいるかわからない姉を探し出して、家に連れ帰るのが好きだった。車の混み合う時間帯にそんなにあちこち走っては危ないと母に何度も怒られたけれど、ほとぼりが冷めれば同じことを繰り返した。

 姉は、町外れの高台にある公園にいることが一番多かった。
 峠に向かってつづら折りになった県道の脇、それから廃校になった分校を再利用して作った、町でも古いほうの図書館でも――そこは姉の安息の場所だった。人のあまり立ち寄らない、埃をかぶった難解な本の並ぶ一角に姉は身を隠すようにして入って行った。
 あの頃、姉は同じ年頃の子供を意図的に避けていたのだと思う。彼女が友達と遊んでいる姿を、本当に全然覚えていないから。彼女にとっての故郷の記憶は、季節の色合いや温度、それから自分の中に積み重ね続けたあらゆる知識によってできているはずだ。関わった人達とのふれあいとか、行事の思い出などではなく。

 夕暮れの公園で、制服姿の姉が佇んでいるのを見つけるとほっとした。
 暗がりに浮かぶ遊具の色や、足元に重なる枯葉の感じを今でもよく覚えている。遠くの空に見える痛いくらいに鮮やかな橙色と、足元の靴の色すら判別できない、あの頼りない暗がりも。

「お姉ちゃん」

 遠くから声をかけると、姉はゆっくりとこちらを向いて、あ、という顔をした。そして見ていた夢から次第に覚めてきたように、わたしに向かって微笑みかけた。

 それぞれの自転車に乗って、またはそれを手で押して、わたし達は揃って自分達の家に帰った。
 夕映えの橙色が、夜空によって地平に押し入れられていく。
 そんな景色を背景に、少し先を行く姉を見ていた。

 姉は、ひとりでいることが似合う人だった。
 自分で物を考えるようになってからは、ずっと。



 そんな彼女がこの町である事件を起こしたのは、中学二年を迎えた夏休みだった。
 本当に、何を思ったのだろうと今でも思う。十四歳の彼女は、決して入ってはいけないと大人達からきつく言われていた神社の裏山に侵入し、そこに小さなテントのようなものを作ることにしたのだった。
 物静かで突拍子もないところのある人ではあったけれど、姉は世の中がどういうふうにできているかわかっていないような子供ではなかった。土地や山林には所有者がいることや、人様の場所に私物を持ち込んでその一画を自分の場所のように使ってはいけないことも、きちんとわかっていたはずだ。
 それでも、数日後に宮司のおじいさんに発見されたテントの中には姉だけの世界が広がっていた。過ごしやすいよう、すでにかなりの手が加えられていた後だったという。鎮守の森の奥のほうに、姉は邪魔の入らない自分だけの世界を少しずつ作り出していたのだった。

 ――男の子グループの秘密基地は数年に一度はあるんだけど、女の子ひとりとはねえ。おまけに中から出てきたのが、親に見せられないような物じゃなくて小難しい古本と写真ばっかりときた。この子、大したもんだよ。

 町の多くの子供の成長を折にふれて目にしてきた宮司さんは、そう言って何でもないことと笑っていた。今まで発見してきた中で、この子のが一番いい出来だったという余談までつけていた。
 大した事ではない、という雰囲気を彼は出してくれていた。それでも、テントの中から出てきた姉の趣味の世界を見て、両親は揃って深い深いため息をついた。そこにあったのは、十四歳の女子のほとんどが素通りするような、強烈に内省的な文章の並ぶ本ばかりだったからだ。
 それらをすべて没収し、父は姉を連れて関係者への謝罪にと歩き回った。姉には不法投棄に見えていた廃材の山から、一部を基地建設のために失敬してしまったからだった。実際のそれはリサイクル業者の一時的な保管場所で、きちんと持ち主がいた。
 今よりもずっと若かった、世間体を何より重要なものとして暮らしていたわたし達の両親。それまでも姉のする小さな奇行に頭を悩ませていた彼らは、周囲に長女の名前を出されるたびに言葉の続きを恐れていたみたいだった。
 あの頃の姉は礼儀正しそうに見えてひどく奔放で、目の前で繰り広げられている人間関係にあまりに無関心だった。両親が大事にしているものを、理解できていなかった。わたし達の両親にとって、住んでいる町で人様に迷惑をかけることは最大の禁忌だったのだ。
 女子中学生のした小さないたずらだったはずのそれは、どういうわけか暇な大人達によってあっという間に周囲に拡散されてしまった。中学二年の娘が作った秘密基地の噂は、瞬く間に近所の誰もが知っている我が家の恥のひとつになった。
 姉は、夏休みが終わるまで無断での外出を全面的に禁じられた。いくつかの家事が義務付けられ、一日の終わりには自分の取った行動をすべて報告しなければいけない、という罰も受けた。

 もともと物事の理解が良かった姉は、普通の高校に進学するにはまったく心配のない程度の成績には恵まれていた。もっと頑張ればそのぶん伸びるはずなんですが、と当時の担任教師に苦笑されていたことも、何度かあった。新聞折込のチラシを見て、両親はそれを思い出したのだと思う。
 自室で謹慎中の姉を、母がリビングに呼び出した。そして部屋に入ってきた無気力状態の娘に、塾に通うか家庭教師をつけるかを選ばせることにした。
 どちらにも乗り気でなかった姉に、でももう両親は譲らなかった。出来が悪いわけじゃないんだ。もう少し、現実を見なさい。おまえの本分は何だ、と。
 返事をしなかった姉にむかって、両親は続けた。いいきっかけと思って、高校の第一志望校をもうひとつ高いランクのところに変えてはどうか、と。姉は家の一番近くにある公立高校の普通科という、彼女の学力では受験勉強をする必要すら感じないような進学先を第一希望にしていたのだ。
 両親のした提案は、ほぼ強制に近いものだった。そして、姉にとっても難しい話ではなかった。本人がそれを強く望んでいなかったというだけで、彼女は成績優秀者の素質も充分持ち合わせた子供だったのだ。
 どうやって話がまとまったのかは覚えていないけれど、姉は次の週から町でも学力が高めの子供の行く塾に通うようになった。
 夕方から夜にかけて行われる、夏期講習が最初だったはずだ。とぼとぼといった言葉で表現するのにぴったりの足取りで、姉は肩から鞄を提げてその学習塾まで出かけて行った。両親は胸を撫で下ろし、静かな日々はしばらく続いた。

 そう、しばらくのあいだだけしか、続かなかったのだ。
 両親の作った新ルールは、姉に最後まで守り続けられることはなかった。姉に課せられた新生活は、やはり小さな違反により少しずつかたちを崩していった。
 そして最終的に、本人によって終了宣言が出された。
 ――こういうのはもう、いい。
 嫌だ、ではなく、もう充分だから要らない、という意味の「いい」。
 両親はもちろん、その場でぽかんとするしかなかった。

 宣言後に潔く自分の世界に帰って行った姉は、その後ペースを猛然と取り戻すように、新たな趣味へ走った。
 最初に夢中になっていたのは、ホーキング博士の著作だっただろうか。その次に凝っていたのが心理学で、どこかから貰ってきた科学雑誌の大量のバックナンバーに寝転がったまま埋もれていた時期もあった。ヒュパティアやヒルデガルトに憧れてみたり、落とし穴に落ちるようにはまってしまったというファインマン博士のエッセイの続きを借りるため、雪の中家族の反対も聞かずに長靴を履いて図書館に出かけて行ったこともある(転倒して額の端を切った上に、後日しっかり風邪をひいていた)。
 宗教史から文学に飛んで、近代詩も好んでいた。わたしもよく覚えてはいないけれど、ギリシャやインドの何とかいう聖人達の物語に、布団の中でうっとりと浸っていた時期もあったはずだ。
 歳の離れた友人から勧められて借りてきたというモーツァルトは完璧すぎて近寄りがたいと敬遠していたけれど、サティは好みの隙があってきれいだと言っていた。勉強中にはパーセルをよくかけていて、今でも出先などであのCDの収録曲が流れてくると、わたしの頭には当時の姉の横顔が浮かんできてしまう。
 ミシェル・ペトルチアーニも姉は特別に好きだった。
 十月くらいの過ごしやすい秋晴れの日曜などに、姉の部屋からはよく『Looking Up』が流れてきた。
 その曲は、普段姉の世界の入り口までしか立ち寄らないわたしでも思った。
 こんな日に聴く音楽として、もう完璧だと。姉の見つけてきた誰かの世界に、そうやってわたしも切なくときめいた。

 姉の好奇心は、一貫性には欠けていた。何か特定の分野を突き詰めるというよりも、あちこちから自分と波長の合うものを見つけ出しては集めてきた、という感じだったのかもしれない。それらが世間的にどう評価されているかにも、大した関心はないみたいだった。
 周囲の人間にはあれからも強い興味は抱かなかったようだから、同級生の中で友人と呼んで差し支えのない子達は片手を満たすほどもいなかっただろう。同じ年代の人達への苦手意識は、成人したしばらく先まで続いたらしい。
 それでも、今よりも大らかさの残る時代だったのかもしれない。わたしの姉は変わり者ではあったけれど、その存在はこの町で最終的に許容されていたと思う。読書の最中に山際のお堂の前で眠ってしまって農家の人に何かの事件かと間違われたり、物思いに耽りすぎて足を滑らせ傾斜が急な竹やぶに突っ込んだり、よその家の池に唐突に落ちたりしたこともあったけれど、姉は健やかに成長したと言えるはずだ。
 両親に幾度も冷や汗をかかせ、和菓子屋で働く父に謝罪用の菓子折りを何度も持ち帰らせたり、していたけれど。


 姉はこの町で、生まれてからの十八年間を過ごしたことになる。
 進学のために出て行ったのは、十九歳を迎える年の春だった。

 ――美里も、むこうで少し落ち着いてくれたらいいんだけど。

 姉の出て行く数日前の夜、両親はそんなことを言い合いながら薄く淹れた紅茶を飲んでいた。
 姉はあれからも、静かなる問題児のままだった。さすがに他人を巻き込むような事件を起こすことはなかったけれど、あまり家にはいつかず、少し目を離した隙に遠く遠くへと心をやってしまう暮らしを続けていた。
 両親とは、あまり口を利いていなかった。
 必要最低限の会話はしていたし、母の手伝いもよくしていた。それでも、気持ちの上では両親と大きく距離を置いているみたいに見えた。優しく無口で、でも遠い感じがした。互いの見ている世界がぶつかりあうのを避けようとしていたのかもしれない。
 そんな態度が許せなかった父は、姉に強く説教を繰り返した。厳しい口調に、当時の家庭の雰囲気は何度も険悪になった。何が気に入らないんだと姉を問い詰めた父が、何度目かの口論の後に姉だけを半月近く無視し続けたこともある。母はふたりの関係の調整にひどくくたびれてしまい、キッチンで洗い物をしながらわたしを横に置き何度か涙ぐんだ。わたし達家族の雰囲気に、一番強い影が差していた数年間。
 姉の引越しによって、それに終わりが来るのだと皆がわかっていた。
 それでも、実家から地元の大学に姉を進学させたかった両親はどことなく寂しそうだった。

 両親の会話を、おもちゃのビーズをラメのついたゴムにつなぎ合わせながら聞いていた。今は新学期から使うヘアゴムを夢中で作っているから、父さんと母さんの話は全然耳に入っていません、という顔をしながら。
 引越しの段取りや進学についてのこと、姉の性格のことまで会話は広がっていった。
 両親の会話を聞いていないふりをして、わたしはソファの上で背の部分に向かい合うように立ち、両手を上に伸ばした。少し高い位置にある出窓によじ登るようにしてから、カーテンの隙間をくぐり、そのまま窓をあける。猫みたいだからやめなさいと注意されるリビングの出窓への『よじ登り』は、当時のわたしが好きな行為のひとつだった。

 出窓から顔を出せば、外は何でもない春の夜だった。
 家と両親に守られていて、空気に色々な花の香りが混ざる、軽やかな春の夜。

 深呼吸して、月を見上げた。
 今でもよく覚えている。
 光のきれいに滲む、優しい黄色の半月だった。

 この何でもない景色の中に姉が入って来るだけで、決まりきった世界にひとつの小さな風穴が開く。そしてその向こう側からまだ知らない何かが顔を出し、ひどく抽象的なやりかたで色々なヒントを出してくる。
 姉はそこから見える景色をどうにかして紐解きたいのだと、子供心に知っていた。はっきりした言葉としてではなく、まだまだ未発達な心でそう感じていた。
 姉がしたいこと。姉がすべきこと。姉がしなくては生きていけないこと。
 小さなビーズやスパンコールが辺りに散るみたいな、その一瞬のヒントを見逃さないように、彼女はいつでも目を凝らしていた。

 姉にしか見えない何かが、この世界にはある。

 それがこちらを見つけて、わたしにも少しだけ微笑む瞬間を知っていた。姉自身がいつだってそこから目を離さないから、わたしは彼女の後ろに隠れながら同じものを見上げるしかなかったのだ。
 子供だったからかもしれない。その気配だけはわたしにもわかった。姉が忘れられずに探している失くし物の世界が、突然こちらに手を伸ばしてくるのが。
 両親には見えないし、おそらく彼らの人生にとっては大事なことじゃない。けれど、なかったことにはきっとできない。

 わたしの姉はそういう、簡単にはひらけない秘密の世界への鍵を生まれつき持っている人だった。

02|姉の帰郷


「お姉ちゃん、しばらくこっちに帰ってきたいって言ってるんだけど」

 電話を切ったばかりの母が、廊下とリビングを繋ぐ扉を閉めつつそう言った。
 三分ほど前に、廊下に飛び出して行って受けた電話だ。母の口調から、相手は姉だろうとは思っていた。話の内容までは聞き取れなかったけれど。
「帰ってくるって、こっちに戻ってくるってこと?」
 だらしなく腰掛けていたソファから起き上がり、わたしは母に尋ねた。
 チョコレートがけのアイスクリームを口から離さずに喋っていたわたしの言葉は明瞭さに欠けたけれど、母には無事に伝わったようだ。
 夕食後のリビングで、テレビのバラエティ番組を観ながらだらだらしていたところだった。
 終わりなんて来ないんじゃないかと思うほどに長々と続いた猛暑も、これからやっと下り坂らしい。ニュースがそう伝えていた。
 長い夏休みが関係ない年齢になってから、まだ数年だ。この時間にソファの上で伸びていると、網戸の向こうから吹いてくる風の匂いについ過去を思い出してしまう。夏休みの夜の匂いだ。身体がなかなかあの感覚を忘れてくれなくて、明日も同じ時間に起きて仕事に出かけなくてはいけないことにどこかで納得がいっていない気がする。
 母は曖昧な返事をしながら、まだ首を傾げている。

 姉と母の会話は、いつもの近況報告のような調子で始まっていたみたいだった。テレビの中でにぎやかにやりとりしているタレントやお笑い芸人の声ではっきりとはわからなかったけれど、途中から母の声は驚いたときのそれになっていた。
 慌てた様子で、母は訊いていた。
 もう辞めちゃったの、とか、それは構わないけれど、でもあなたどうして、とか。そして何とも歯切れの悪い返答を繰り返してから電話を切り――というよりもほとんど切られ、そのままリビングにいるわたしに向かって続けたのだった。困惑しきった表情で、お姉ちゃん、しばらくこっちに帰って来たいって言ってるんだけど、と。
 入浴中の父は、まだ出てこないだろう。最近風呂場にタブレット端末を持ち込んで古いドラマを観るのにはまっているから。
「美里、恋人と別れて、仕事も辞めたんですって。色々あって仕切りなおしの期間が必要だから、悪いけれど数ヶ月くらい置いてくれないかって」
 わたしの横に腰掛けて、母は電話で姉に言われただろう言葉を忠実に再現しようとした。
 事情がまだ飲みこめないといったふうのその仕草は、母が姉の言動についていけないときに見せる、懐かしくもおなじみのものだった。

 県外の大学に進学して以来、姉はあまり頻繁には地元に戻って来ない。
 就職も大学のある街でしてしまったし、こちらも学生向けのアパートから単身者向けのマンションに引っ越すときに一度手伝いに行ったきりだ。地元への執着が薄い人だと思っていたし、子供時代に感じていた故郷への居心地の悪さも影響しているのだろう。姉がここへ自分の暮らしを戻すことはもうないと思っていた。定期的に連絡はくれるけれど、姉にとってここはすでに古巣でしかないのだ、と。
「――お姉ちゃん、彼氏、いたんだ」
 違うことを言うつもりが、思わず先に口からそう出てしまった。姉が恋愛感情を持つことじたい、わたしにはうまく想像ができなかった。
「別れたらしいけど、そうみたいね」
 すべてが説明不足。母はそんな表情をしている。

 確かに、思いがけない連絡だった。元々あらゆることが唐突な人ではあったけれど、三十も手前の姉が実家に戻ってくるという想像は家族の誰もがしていなかった。
 成人してからの姉は、昔の危なっかしさが嘘に思えるほど常識的な大人になっている。衝動的に仕事を辞めるようなこともないと思っていたし、そうしたとしても、この町に戻ってくるとは考えられなかった。余程のことがあったのかもしれない。
「うちに、帰って来るんだ。ちょっと信じられないね」
 そう答えたものの、やや弾んだ響きが入ってしまっていた。
 母と同じ戸惑いを、感じてはいる。何があったのか心配でもある。
 でも、姉が帰って来る。そう思うと、自然と胸の中で楽しみな気持ちが沸きあがってきてしまった。彼女がこの家を出て行ったとき、わたしはまだ十二歳になるところだったのだ。ずっと電話やメールでのやりとりはあったものの、姉へのイメージの多くは子供の頃の記憶がベースになっている。電話での相談もメールの返事も姉は優しく丁寧だったけれど、それぞれの一歩踏み込んだ先にあることは、お互い何も知らない。
「あ、そしたら部屋空けないとだね」
 わたしはすでに、家族の変化を受け容れているようだ。母の腕を思わず取って言っていた。
 その前にお父さんよ、と母が続けた。

 自分の部屋に戻っても、何となく落ち着かなかった。
 そこらに散らかった服を、一枚ずつ片付けることにした。
 ベッドの上に放置してあったキャミソールや、パイル地の部屋着のワンピース、椅子の背にかけっぱなしのカーディガンをまとめてから畳む。わたしは昔から物の管理が下手なのだ。ショッピングモールの紳士服売り場で働くようになって、初めて服をきれいに畳めるようになった。正しくは、そういうふうに仕込まれた。
『しばらくこっちに帰ってきたいって言ってるんだけど』
 母の言葉が頭の中で蘇る。部屋着のワンピースを手にしながら、わたしはつい壁のほうを向いてしまう。隣は姉の部屋だ。子供部屋は二つ並んでいて、それぞれの入り口の他に壁の一面が引き戸になっている。中で一部屋として繋がるのだ。
 姉のいた頃は、よくこの扉を開けてふたりで過ごした。
 日中はほとんど開け放してあったけれど、わたしが眠る時間になると姉は音を立てないように静かに引き戸を閉めた。姉は夜型の体質で、この家に住んでいる頃は頻繁に夜更かしを咎められていた。
 閉めきらないでと言うと、姉は扉を数センチひらいた状態にしてくれた。そしてかけている音楽やラジオの音量を絞り、ひっそりと自分の内側にある世界に入って行った。
 戸の隙間から、姉の使っていたスタンドライトの灯りが漏れてきた。戸の輪郭に沿って差し込む、朧みたいに温かいオレンジ色の光だった。
 ぼんやり見ていると、やがて穏やかな眠気がやってきた。
 幼いわたしは、その灯りに守られながら毎晩眠りについたのだ。

 姉が出て行ってしまった日の夜のことも、よく覚えている。
 その日、姉は午前中の早い時間に父に車で駅まで送られこの町を出て行った。家族は引越しに同行するつもりでいたけれど、周囲の環境を早く覚えたいから落ち着いたら来て、とやんわりと断られた。
 十四時を過ぎた頃、不動産業者から無事に鍵を預かったこと、引越し業者が来て荷物を置いて行ったこと、ガスの開栓も無事に終わって、これから近所に買い物に行くという連絡が来た。
 母はまずは安心ねと告げ、姉を励ましてから電話を切った。そしてわたしから顔を背けて、一度だけ頬に落ちた涙を拭った。
 ――いつかお嫁に行ってしまうかもしれないのに、どうしてこんなに早く家を出ることにしたのかしら。珍しい学科なわけじゃないのに。家から通える大学でも良かったのに。
 実家から直接父の元に嫁いだ母には、姉が一人暮らしを選んだ気持ちが理解できないみたいだった。
 両親とわたしだけになった家の空気は、姉がいるときと比べて一回り小さくしぼんでしまったみたいに思えた。姉の持っている広がりとか揺らぎみたいな空気感が消えてしまって、何だか夢から覚めたようだった。

 家族の大きな変化に耐えられなかったわたしは、何でもないふりをすることでその夜をやり過ごそうとした。
 自分の本棚から、少女漫画を一冊引っ張り出してひらいた。寂しさと心細さは、すでに胸の中いっぱいに広がっていた。その気持ちに直面することを、何とか避けようとしたのだと思う。
 すっかり頭の中に入っているなじみの絵柄やストーリーのものを選んだけれど、没頭はできなかった。
 隣の部屋に住んでいた、淡々と変わっているあのお姉ちゃんが、今日からいない。
 漫画に意識を集中しようとすると、その事実が肩をそっと叩いてきた。

 布団から出たわたしは、怖い気持ちを抑えて隣の部屋に続く引き戸を開けた。姉の使っていたヘアミストの香りが、一瞬だけ鼻を掠めた気がした。
 向こうで使わない物はすべて置いていくと思っていたのに、私物はほとんど処分してしまったらしい。部屋の隅に白いスチール製のデスクと、何も入っていないカラーボックスがひとつあるだけだった。
 一週間前には寒さの薄れてきた春の夜が特別優しく感じたものだったのに、今は寒々しい。素足に床の冷たさが染みてきた。
 両足の先を重ねては不恰好に擦り合わせながら、わたしはしばらくのあいだそこに立っていた。
 暗がりに目が慣れてきた頃、二つの部屋をつなぐ戸の前にスタンドライトが置いてあることに気がついた。
 コンセントに繋いで、冷え始めた手で点灯スイッチを押した。

 オレンジ色の淡い光が、空になった部屋を照らす。
 昨日までの姉の居る部屋の感じに少し近づいた。

 スイッチのすぐ横に目をやると、姉が出て行く前に油性マジックで描いたのだろうスマイルマークと目が合った。
 二つの点とひとつのアーチでできた簡単なそれを、姉は時々わたしにむかって描いてくれた。
 本屋で買ってもらったドリルの採点を頼んだときや、不在の姉の代わりに小さな手伝いをしたとき。姉はメモの脇に、お礼や一言のコメントと共にその簡単なマークを描いて寄越した。思いつきでやったそれに、小さなわたしが喜んだのかもしれない。それは姉とわたしのあいだにあった、ひとつの合言葉みたいなものだった。
 昨日まではなかったものだ。姉が、わたしに残した暗号だった。
 それに向かって笑い返してから、わたしは灯りをつけたまま自分の布団の中に戻った。涙がぼろぼろと零れていたけれど、やがてやってきた眠りは安らかなものだった。
 隣の部屋は今、物置きとして使われている。季節物の家電や古い家財道具、父の仕事の資料がまとまって箱詰めされて、母が通販で買ったポールハンガーに、クリーニングの済んだコートやジャケットがカバーのかかったまま連なってかけられている。カーテンは常に閉められていて、母が休日に風と光を通すくらいだ。
 姉の部屋にあるものすべてを、新しい場所に移動させなければいけない。


「何だって?」
 翌朝、姉の電話の内容を知らされた父は寝巻き姿のままそう言い、そのまま数秒間絶句した。母のほうに顔を近づけながら、思い切り眉根を寄せている。困惑と、唐突に教えられた情報に対する不快感を遠慮なく表に出しながら、だ。
 昔からうちで一番相性が悪いのが、父と姉の組み合わせだ。わたし達の父はすこぶる繊細な、刺激に弱い男性なのだ。姉のような性格を持つ娘の父親として、正直に言うとあまり適性がないとすら思う。傷つくだろうから言わないけれど。
「恋人と別れて、仕事を辞めた? あいつ二十九にもなって何考えてるんだ?」
 朝食用のプレートの上に載った目玉焼きを、フォークで切り分けているところだった。
 レタスと玉ねぎのサラダ、卵料理とソーセージ、それからトースト。食べる順番を健康番組に教えられてから、父は律儀にそれを守っている。
「まともな仕事に就いたと思って一安心してたのに。理由は訊いたのか?」
 ほとんど喧嘩腰と言っていいその言葉に、わたしは母と揃ってじっと父の顔を見る。この類の台詞にまともに答えるのは火に油だということは、長い年月をかけて知っている。
 返答がないことに気づいて、父は少し自分の言葉の勢いを恥じたようだった。一度咳払いをしてから、それで、美里はいつ帰って来るんだ、と質問を変えた。乱暴に手を伸ばしたマグカップからはまだ湯気が立っている。父はコーヒーが苦手で、毎朝温かいほうじ茶を大きなマグカップいっぱいに飲む。
「半月後の予定だって」
 父が起きてくる前に母に言われた言葉を、そのまま繰り返した。
 父の反応を待たずに、うちの車の一台を別の場所に移動させることを提案する。引越しのトラックを停めるため、近所のコインパーキングに、三時間程度で済むだろうか。もちろん移動はわたしがやる、との言葉も付け加えた。
「全部業者さんがやってくれるから、他のことは何もしなくていいって」
 まくしたてるように、続けた。 
 父は質問したいことでいっぱいのようだったけれど、今その答えをわたし達から引き出せない、ということは理解できたようだ。荒っぽい様子で顔を下に向け、ぼやき始めた。本当にあいつは何でも勝手に自分で決める、年収だってやっと上がってきたってこの前言ってただろう、と。放っておくと長くなりそうだ。
「何か、思うことがあったのよ。どんなつもりでいるのか、聞いてみないと。ね?」
 空気を読んだらしい。動揺している父が再び手にしたドレッシングのボトルをゆっくりと取り上げながら、母が優しく告げた。わたしをちらと見る顔に、長湯も塩分の取りすぎも血圧に良くないのよ、と書いてある。父に話すタイミングを昨夜ではなくわたしのいる朝食の席にしたのは、母の作戦だろう。一対一では、父のする反応は手に余るから。
 わたしもそう思うよ。
 わたしは母にむかって目で返事した。


 姉が家に帰ってきたのは、九月二週目の土曜日だった。
 午前便で朝九時に荷物を運び出したのだという。十三時半、そろそろ連絡が来るかと思っているところでインターフォンが鳴った。むこうからは高速バスで戻って来たと言っていた。
「お久しぶりですが、しばらくお世話になります」
 姉は空いている席に腰を下ろすと、家族にそっと頭を下げた。

 引越し業者のトラックが出て行ってすぐに、一休みしようと母がお茶を淹れ始めた。父は久しぶりの娘との再会に嬉しさと気まずさ両方感じているらしく、何だか難しい顔をしている。
 部屋に運び込まれた荷物を簡単に確認してきたらしい。無事に引越しが終わったことに、姉は安堵しているみたいだった。
「久しぶりに、全員揃ったね」
 どこか落ち着かない気持ちを感じながら言っていた。
 半年ぶりに会った姉は、前よりもきれいになっていた。
 肌のきめが以前よりも整い、あかるくなっている。髪はロングのまま、ゆるくまとめて結っている。二十代の半ばを過ぎてから、姉は昔よりずっときれいになった。あまり若さが武器にならないタイプの人なのかもしれない。
 引越しの準備に追われたのだろうか。少しだけ目が腫れたような、疲れた顔をしていた。以前から常にあった、やや緊張したような雰囲気だけは変わっていなかった。引越しには少しよそいきすぎるような、無地のシフォンのやわらかそうなワンピースを着ている。
「お土産のサブレー、開けていい?」
 わたしが尋ねると、姉はどうぞ、というかたちに手を動かした。
 一番小さなトラックでと連絡が来たはずだったのに、荷物を見たところ荷造りにはあまり時間を割けなかったようだ。家財道具や小さな物に選別された気配がなかった。バターサブレーの包装紙をはがしながら、ついそんなことを考えてしまう。
 母があたたかい玄米茶を配り終えるのを、父は貧乏ゆすりをしながら待っていた。
「引越しは大変だった?」
 母がさりげなく尋ねる。
 姉は口に含んでいたお茶を飲み込んで、
「仕事の引継ぎとかで、ちょっと時間がなくて。あんまり選別しないでほとんどそのまま持って来ちゃった」
 慎重に、丁寧に答えた。今度はわたしが口を挟む。
「何年くらい向こうにいたんだっけ?」
「十一年」
 母が持ってきた皿の上に、姉のお土産を並べていく。懐かしいわね、これ。母が手を伸ばして一枚サブレーを取る。
 姉は背筋を伸ばして、黙って座っている。

 父がやっと、口をひらいた。
「それで、これからのことはどうするつもりなんだ」
 強い言い方に、それじゃあだめだよ、と思ったが言わないことにした。繊細な性格を隠すように物言いが過激になるのが彼の厄介な点で、その手の言葉には一瞬で心を閉ざすのが、うちの姉だ。
 案の定、姉が瞬間的にシャットインしたのがわかった。
 テーブルの上の湯呑み一点をじっと見ながら、姉が黙り込む。父はしまったと――もちろんいつものように――思ったようだったけれど、母もわたしもフォローはしなかった。姉は傷ついているわけではないのだ。おそらく説明が面倒だと思っているのと、父にもわかる言葉に気持ちの翻訳中なのだろう。
 姉は、父にわかりやすいように説明できる言葉を探そうとして、うまくいかないのか少しだけ顔をしかめた。一瞬でも早く自分の乱れた感情を修正したい父に、姉のその一連の仕草は余計刺激になってしまう。追加とばかりに苛立ちが顔に浮かぶ。我が家で何千万回と繰り返された、おなじみの数秒間だった。
 ――ああ、このふたり全然変わってない。
 サブレーを齧りながら、懐かしいとすら思ってしまう。母も同意見のはずだ。わたしの出す焼き菓子の咀嚼音だけが、ざくざくと部屋に響いていた。緊迫した空気のはずなのに、慣れって怖い。

「一旦、生活をリセットさせたいんです」
 姉は批判されない言葉で説明するのを諦めたのか、誤解されても仕方ないといったふうに目を伏せた。
「別に病気になったとか、もう働けないとか、そういうのじゃない。終わったらまた仕事に出ます。だいたいの目処もついてます。ただ、本当に色々なことがありすぎて、頭の中を片付けたいの。生活費は入れるし、心配させるようなことはしないって約束するので力を貸してください」
 姉は両親を見ながら言った。こういうとき、姉の声はいやに透き通る。
「その説明じゃまったくわからんだろう。むこうで何があったのかって父さんは聞きたいんだよ」
 父は質問を重ねようとしたけれど、母のほうが味方になるのは早かった。戻って来た姉の顔を見て、気持ちが変わっていたのかもしれない。
「いいんじゃない?」
「だよね」
 わたしも即答した。父だけが、変わらず難しい顔をしている。
 姉が覚悟を決めて頭を下げるとき、大抵その静かな気迫に父は太刀打ちできなくなる。本人がそれを認めないだけで、父はかなりの口下手なのだ。
「お父さん、こうやって娘に頼られることなんてこの先そうそうないわよ。ほんの少しのあいだ、別のことをしたっていいじゃない。今までだってむこうできちんとやってこられたんだから」
 母がいつものように父の肩に手を置き、優しげに囁いた。母の押し方はいつだってこうだ。母より三つ年下の父は、この人のこういうところに負けたのだとわたしは思っている。
 父はまったく納得がいかないという顔をしている。不安なのだろう、このまま姉が家にこもりきりになったり、道を踏み外すようなことがあっては困ると。うちの悲観的な部分を何故か一手に引き受けているのがわたし達の父だった。
「とは言え、父さんがこの家の当主ですから。わたし達は最後は従うだけなんだけどね」
 母が押した後だ、今度はわたしが引く番だった。姉がちらっとこちらを見た。助かる、という目をしている。
 父は数秒唸った後に、ひとつため息をついた。
 それから、威厳ある当主らしさをたっぷりと湛えた声で、
「わかった。どうせこれ以上聞いたところで、答えないんだろう。母さんを手伝って規則正しく暮らすんだぞ。気ままな単身暮らしと違って、ここは集団生活なんだからな」
 姉に向かって、厳しく言った。
 
 子供部屋が『満室』になるのは十一年ぶりだった。
 姉は二つの部屋を仕切る扉を閉じることなく、さっそく荷ほどきを始めた。手馴れた調子でパイプ製のベッドを組み立てて、薄い折りたたみのスプリングとマットレスをその上に重ねていく。
 初めて目にする柄の布団カバーやタオルケットの色を見ていると、姉が別の街でわたし達のまったく知らない生活を送っていたことが伝わってくる。遠くの街からやってきた、わたしの知らない姉の生活。
「ありがとうね、父さんのこと」
 姉が綿毛布を広げながら口をひらいた。
「悪い人じゃないんだけどね、ああしないと話が進まないから」
 仕切り扉の敷居に腰を下ろし、段ボールとビニール袋に埋め尽くされた姉の部屋を見上げながら答える。
 取り急ぎ全部持ってきた、という感じではあったけれど、箱ごとに分別だけはしてあるらしい。
 姉はひとつの段ボールの封をカッターで切り、その中から日常的に使うものらしい基礎化粧品や、身の回りのこまごましたものを取り出した。それ以外の荷物は、とりあえず部屋の端に積み上げておくことにしたようだ。
 薄く埃が舞ったのが気になったのか、姉はベランダに続く掃き出し窓をゆっくり開けた。窓、古くなってる。小さな声で呟いたあと、手つきは少し優しくなった。
 姉のいない十一年の間に、夏は長くなった気がする。
 母が先週慌てて洗濯したレースのカーテンが、部屋を通る風を受け止めてやわらかい曲線を作っている。窓の向こうにくっきりと青い空が広がっていた。高台につながる坂道に沿って建っているわたし達の家からは、歩いて行ける程度の近所がほぼ見渡せる。
 わたし達はそれぞれの部屋の扉から、狭いベランダに出た。

 日光は八月より少しだけ弱くなっていたけれど、まだまだ夏の気配が強く残っている。姉は汗ばんだ額を首にかけていたタオルで数回拭った。
 わたしの働くショッピングモールが出来てから少し垢抜けたように見えなくもないけれど、景色に大きな変化はないはずだ。都心まで電車で約二時間、すごく田舎というわけでもないけれど、暮らしやすいとも言いがたいわたし達のホームタウン。
「ねえ、何も訊かないほうがいい?」
 隣で深呼吸をしている姉に尋ねた。
 坂の下に、三年ほど前に開店した個人の中華料理店のランプが灯る。十六時手前。まだ強い西陽が、黄色い電球からもれる光を飲み込んでいる。夏はもっと遅い時間から点灯しても良さそうに思えるけれど、営業している以上はそうもいかないのだろうか。
「そうしてくれると、嬉しい」
 姉はベランダの手すりに両手を組んだかたちに置いて、その上に顎を重ねていた。
 深刻そうというよりも、頭の中に何かが詰まっている感じ。意識が半分そちらに取られているふうだった。
「わかった」
 ベランダ用のサンダルを、つま先でぶらぶらさせながら返事した。

03|日々


 地元の和菓子屋で働く父は、うちで一番早くに家を出る。
 決まった朝食を決まった順序で口に運び、洗面所で丁寧にひげを剃って、アロエの入った薬用の化粧水で肌を保湿する。エアコンで乾燥するとぽつぽつと小さな発疹が出るからだ。
 ――父さんは小柄だし、お客さんとの顔の距離が近くなりがちだから。
 そう母から手渡された化粧水を、文句も言わずにもう数年使っている。短く切り揃えた髪の半分ほどが白髪になってきて、本人はそろそろ染めるべきかと悩んでいるらしい。
 八時ぴったりに、父は玄関の扉を開ける。
 早番勤務の時のわたしは父よりも三十分ほど家を出るのは遅いけれど、身支度に時間がかかってしまうので起床時間はそう変わらない。先月髪を肩につくくらいのボブにして以来、寝癖をきれいに取るために髪をブローする時間が五分ほど増えてしまった。スマートフォンで音楽をかけながら身支度をして、まだ初心者マークのマグネットが貼ってある軽自動車に乗ってわたしも出かける。

 高校生の頃にアルバイトをしていた宅配ピザの店で労働の喜びを覚えてしまったわたしは、同世代には珍しく、早く社会に出たかった口だ。
 姉と違って、わたしは勉強がそこまで好きではなかった。そんな娘にさらに四年間の学生時代を与えたところで結局無駄になってしまうし、それは両親にとっても負担になるはずだと高校生のわたしは思っていた。
 高校二年の時の進路希望調査で、これ以上の進学を希望しないことを伝えた。少なくとも当時のわたしにとって、それはとても合理的な判断だった。
 両親は一瞬意味がわからないという顔をしてから、次のような反応をしてみせた。
 そんなこと、簡単に許せるわけがないだろう――。
 わたし達姉妹をふたりとも大学まで行かせるつもりでいた父は、わたしのその発言になぜかひどくうろたえた。おまえ達はどうしてそう、親の想像のつかないことばかりしたがるんだ、と。
 結局、高校を卒業してから隣の市にある服飾の専門学校にほぼ両親から命令されたかたちで通った。興味のあることを頭の中からどうにか搾り出して選んだ、それほど厳しくもない学校だったけれど性には合っていたと思う。
 同級生の中には自分のブランドを立ち上げたり、ファッション誌の編集者になったりした子もいるらしい。そんな素敵な夢のなかったわたしは、少しの知識と資格を得てそのまま就職した。
 販売の仕事は、自分に向いていると思う。
 あまり刺激の多くない退屈な町だけれど、わたしは地元が自分に馴染んでいるのを感じる。よほどの事がない限り、きっとわたしはこの町に暮らし続けるだろう。
 母は主婦業をしながら、キルトを作って小遣い稼ぎをしている。注文を貰って相手の希望通りに作ることも、好みのものを作って売ることもあるようだ。たまにではあるけれど、わたしも採寸やしつけを手伝う。暮らしの中にずっとあるホワイトキルトは、わたしにとって母の象徴だ。大判のそれが干された日曜のベランダを見ると無条件にほっとする。
 姉のいないあいだ、暮らしは平和で、単調で穏やかだった。その穏やかさを望む三人組が、自分達好みのふわっとした空気を作って、踏み込みすぎることも刺激しあうこともなくゆるく自由に暮らしていた。
 

「それで、名物のお姉さん帰って来たんだ?」
 天野さんの話し方はどことなく教師っぽい。文法を意識しているような、いつでも説明が始められそうな話し方だなと思う。本人も、その口調を気にしているようだ。そのせいか彼の言葉の最初はどことなく囁きじみてしまう。気を遣って喋るせいだろうか、四隅が少しずつ欠けたような感じがする。
 とっさに言葉の意味が理解できず、不思議な気分で顔を上げた。
 映画館の裏手にある立体駐車場から揃って出てきたところだった。視界が突然あかるくひらけたようで、ぼうっとしてしまっていた。
「昨日帰って来ました。あんまり変わってなかったけど」
 デートの回数が、やっと二桁に突入したところだった。隣にいることがようやく馴染んできたような気もする。デートの緊張も少しずつゆるんで、この頃は意識しなくても素に近い自分のままでいられるようになってきたところだ。

 いとこである彼を紹介したいと同僚に言われたとき、正直に言うとわたしはとても身構えた。うまくいってもいかなくても、何かと複雑なことになりそうで気が乗らなかった。同僚はあくの強い性格の女性で、どんな男性を連れてくるのか非常に心配だったというのもある。
 やんわりと断り続けていたのだけれど、どうしても合う気がするからと再三言われ最終的に根負けしたのだった。
 梅雨が明けたばかりの夏祭りの夜に、初めて彼と顔を合わせた。
 浴衣を着るのはさすがにやりすぎな気がして、やわらかいブラウスと軽い素材のロングスカートを履いて出かけた。買ったばかりの、オフホワイトの生地にレモンイエローと青緑で花柄が描かれたものだった。
 仕事を終え家で着替えてから待ち合わせ場所にやってきたという天野さんは、年齢よりも落ち着いた雰囲気のある男性だった。
 第一印象はこうだ。
 ――どうしてこの人に恋人がいないのか、まったくわからない。
 予想していた男性のタイプとはあまりにかけはなれた、真面目そうな雰囲気の人だった。思慮深い感じの笑顔で、少し照れたような初めまして、を聞いた。わたしも同じように頭を下げた。
 隣で同僚が、いたずらっぽく笑っているのがわかった。びっくりした? とでも言いたげに。
 彼は混み合う祭りの会場を、わたし達に合わせてずいぶんゆっくり歩いてくれた。好物の話をして、屋台のいくつかの食べ物を買って、少し離れた場所に座った。車の運転があるからとアルコールは飲まなかったけれど、同僚とわたしはいつもの調子で他愛ない話を繰り返し、彼はそれを大人っぽい表情で聞いていた。
 親切な人だな、と思った。けれど、わたしの印象はそこまで良くないのだろうな、とも。人見知りする男性だったのかもしれないけれど、うぬぼれたあとの失望は痛みも倍だ。わたしは帰宅してから、スマートフォンを見るのが何となく怖かった。
 同僚から、笑いをかみ殺したような声で電話がかかってくるまで時間はかからなかった。
 ――わたし、今の仕事をクビになったら結婚相談所で働こうかなあ。また次も会いたいって言ってるけど。篠永(しのなが)さん、どうします?


 あの後、姉は必要な荷物を解いてから散歩ついでに郵便局へ行ってくると言ってさっさと出かけてしまった。そのまま近所を満足するまでうろついたらしい。二時間ほどしてから、額にうっすら汗をかいた状態で帰宅した。歩いたことで気分転換にでもなったのか、すっきりした顔をしていた。その性質の変わらなさが懐かしかった。
 姉は先に入浴を済ませると、母の調理と片付けを黙々と手伝った。
 夕食の場で、久しぶりの再会だからと母が冷えたビールを出してきた。お酒に強くないわたし達は五百ミリリットルの缶ビールを、四人で分け合ってやっと空にした。
 食後の団欒には加わらずに、姉は片付けだけ手伝ってから自室へと引き上げて行った。わたしが部屋へ戻る頃には、もうベッドの中でうとうとしていた。
 球体のかたちをしたランプが、ベッドの下で淡い光を放っていた。昨日とは違う部屋の雰囲気に、一瞬自分がどこに居るのかわからなくなってしまう。
 知らない一人暮らしの女性の部屋が突然現れたみたいで、どきっとした。

「面白い人だって、以前言ってたじゃない」
 腕時計で時間を確認しながら彼が続けた。一緒に映画を観るのはこれで二度目だ。前回はわたしで、今回は彼の選んだものを観ようということになっていた。ヒューマンドラマとかかなと思っていたら、ランキングにも入っているエンタメ色の強いコメディだった。
「うん。何ていうか、独特です」
 姉の帰省が決まってから何かと話題に出していたこともあって、彼はわたしの姉に関心があるらしい。思い切ったことをする人に、ちょっとした憧れがあるのだそうだ。
 そうだ、お姉さんがいたんだったね。そのあとに続いた、どんな方? という質問に、わたしはしばらく悩んでから答えた。

 ――一見そうは見えないんだけど、実は色鉛筆のセットから好きな色だけ抜き出して、要らない残りを遠慮なく突っ返しながら生きてる人です。罪悪感とか、一切なしで。

 彼はそれを聞きながら理解しようとしたけれど、難しそうだった。努力の上でそれを思い描き、さらに次の瞬間、喉を詰まらせたように噴きだした。続けて、ごめんごめん、想像しちゃってと謝罪してきた。情緒があまり大きく揺れない天野さんの意外な顔が見られて、悪い気はしなかった。
「顔とか、似てる?」
「そうでもないですね」
 答えながら、最近の姉の写真を一枚も持っていないことに気がついた。昔から写真が嫌いな人だったし、何というか、写真に写すと見え方が変わってしまうのだ。あの何ともいえない雰囲気は、目の前に現れてみないとわからない。
「天野さんは、きょうだい、いたんだっけ?」
「呼び方、もう下の名前でもいいのに。姉がいるよ。歯医者してる」
 彼は食べ方がきれいで、ちょっとした美味しいものにすごく詳しい。雑談の多い仕事柄、そういう情報が入ってきやすいのだという。
「お姉さん、優秀なんですね」
「上だけはね。僕はまあ、平凡」
 彼は少しおどけるように言った。
 市の生涯学習課で働いている彼は、垢抜けたような見た目と丁寧な受け答えからちょっとした『王子キャラ』らしい。確かに、都市部というわけでもない場所でここまで自然にかしこまった人は珍しいかもしれない。
 喧嘩らしい喧嘩はまだないけれど、小さな擦れ違いは一度している。
 にぎやかな場所でのデート中で、話の中で生まれた勘違いから起きたことだった。その日のわたしは妙に無防備になっていて、彼の放った一言にすとんと落ち込み、会話をうまく続けられなくなった。
 天野さんはそれに気づくと、わたしの手をそっと引いて、その混み合ったビルを出た。人通りの少ない静かな場所のベンチにわたしを座らせて、自分も横に腰を下ろしそっと尋ねた。
 ――ごめんね。何か気に触ることをしたんだよね。話してくれる?
 落ち着いた優しい声だった。
 彼はわたしの気持ちの沈みようをやり過ごそうともせず、機嫌を取ろうともしなかった。目を見てこういうことを言う人は初めてだと思い、わたしはとても驚いていた。
 彼のその問いに誘い出されるみたいに、わたしは自分の受け取った彼の言葉を伝えた。天野さんはそれを否定せず、わたしに丁寧に謝ってから、自分の真意を話してくれた。
 和解するまで、五分もかからなかった。
 彼もわたしも、すぐに気持ちを取り戻してデートの続きをすることにした。実際のわたしは恥ずかしくてたまらなくて、しばらく彼の目をまともに見られなかったのだけれど。

「天野さんは、お姉さんと仲はいいの?」
「大人になってからは割と喋るかなあ。学生の頃はあんまり話をしなかったね」
 少しだけ恥ずかしそうに、彼は答えた。映画館の入り口は、細い道路を一本渡ってすぐのところにある。入口一帯が淡いターコイズブルーに彩られているのが見えた。
 天野さんは寒色の馴染む肌の人だけれど、このターコイズは似合わないかもしれない。ハッピーすぎる感じだから。プレゼントにシャツを買うときには、もっと涼しいブルーにすべきだ。彼の誕生日は十二月だから、具体的に考えるのはもう少し先になる。そのとき一緒にいるのか、まだ、わからないけれど。
「大人になると、家族も色々変わりますよね」
 姉の姿を思い出しながら、そう返した。


 天野さんと観た映画は、話題作ではあったけれどどちらの好みにも微妙に届かないといったものだった。苦笑いをしながら、映画館を出た。気まずい雰囲気ではなかったけれど、話し合いがしたい気分だった。
 もう一歩のところで二の足を踏んでしまう主人公について、助けの手を差し出しきれない脇役について、そして、ハッピーエンドのはずのラストで何故か残る複雑な気持ちについて。
 ――この釈然としなさは、次回ゆっくり話そう。中途半端になっちゃって申し訳ない。
 夜から用事の入っていた天野さんに家の近くまで送ってもらい、まだあかるい外を歩いた。
 昨日ベランダから見た中華料理屋の看板の前を通り過ぎ、車通りの少ない坂道を登る。アイボリー地にグレーの水玉が入った、ノースリーブのワンピースが少しだけかいた汗を吸って重く感じる。晩夏の夕暮れは色々な感傷があちこちから立ち上がっているみたいで、きれいだなと思う。

 後ろからやってきた親子連れのために、歩道の端に少し避けた。
 わたしを追い越す瞬間に、三歳くらいの男の子と目が合った。
 母親らしい女性の押す自転車のチャイルドシートに座っている彼は、どうやら機嫌が良いようだ。親が見ていないことを確認して一瞬ピースサインを送ると、彼は恥ずかしそうに肩を縮めながら笑った。子供というのは、笑顔で接するよりも案外真顔のほうが心をひらいてくれると思う。
 去って行く子供の顔を見ながら、ちょっと回復したなと思う。回復したということは、少なからず消耗していたということだ、とも。
 昨夜突然決まったデートで、わたしのほうが後から彼の週末に割り込んだはずなのに、こういう気持ちになってしまうのか。
 胸の真ん中に居座る物足りなさを感じながら、つい、笑ってしまう。

 彼の前に付き合った男性はふたりいる。
 ひとりは高校の先輩で、八ヶ月ほど並んで歩いた。もう一人は専門学校時代の同級生で、さっぱりと別れたのもあって今でもしようと思えば連絡がつく。
 紹介されたその日から、天野さんには悪い印象がない。親切で、話し上手で、誠実だ。いつも礼儀正しくて、わたしのことを大切に扱ってくれているのがわかる。
 それが彼の本音じゃないということも、ないはずなのだ。
 そう、きっとわたしのわがままなのだろう。もっともっと、彼の気持ちの真ん中に近づきたいと願ってしまうのは。そこに触れて、この人にしっかりと引っかかっていたいと思うのは。
 天野さんが気づいているのかはわからない。
 けれどわたしは、まだ彼に対して壁を感じている。
 

 通りから一本入ると、枝分かれした傾斜のある私道が入り組んで繋がっている。滑り止めのためにとリングや直線の型が押されたその道は、地区の人間でそれぞれ区間を決めて掃除することが決まっている。子供の頃、姉とわたしに任されたお手伝いのひとつだった。家の前の掃き掃除は子供の仕事。実際は姉がほとんどやっていたのだけれど。
 家が見えてきたところで、その回想が今の現実と重なった。姉がちょうど前の道を掃き終えて、家の中に入るところだったのだ。
 お姉ちゃん、と声をかけると姉は顔を上げて、ああ、という顔をした。続けて持っていた化繊のほうきを軽く掲げる。姉は言葉の変わりにジェスチャーをよく使う。
「掃除してたの?」
「昨日、荷下ろしのときに汚しちゃって。どこか遊びに行ってたの?」
 姉は軽い感じで、わたしに訊いた。
 自分に駆け寄ったわたしを、先に通そうと手を広げる。外階段を上って、玄関の扉を開けた。
 ちりとりとほうきを玄関の脇にある収納に押し込んでから靴を脱ぎ、姉は洗面所に直行する。拒絶感はないものの、あまり人に波長を合わせない感じで、迷いなく。
 何かを集中してやったあとの、微妙に素っ気無い感じになる姉だ。わたしは突然懐かしい気持ちでいっぱいになった。昔こういう状態の姉にきちんと注意を向けてほしくて、お喋りしながら延々まとわり着いて歩いた。
「うん。でも相手が用事があって、早く帰って来ちゃった」
 手を洗う姉の後ろに追いつき答えると、身体を半分避けて空間を作ってくれた。
「そうなんだ」
 姉は微笑みながら相槌を打って、両親は買い物に行っていると続けた。わたし達の両親はふたりとも買い物が好きで、週末は大型スーパーに出かけて次の週の買い物をまとめてしてしまう。一番大きいサイズのエコバッグ二つぶんの買い物を済ませてから、同じ施設内にあるコーヒーショップでホイップの乗ったココアを飲むまでがセットだ。高脂血症を恐れるふたりに、いつかローファットとノンファットミルクという概念を教えてあげたのを思い出す。いたく感謝された。
 キッチンに移動して、冷蔵庫の中からペットボトルを取り出す。マテ茶を小さいコップに一杯注ぐ。喉が渇いていた。マテ茶はよく冷えていて、ひんやりと身体の中をすべり下りていく。
 何か飲む、と尋ねたけれど、姉はまだいい、とソファの上に畳まれた洗濯物から自分のものを手にして部屋に戻って行った。上階に向かう途中で忘れ物をしたことを思い出したようで、リビングに戻り、紙マスクを一枚取って行く。
 
 自分の部屋に戻ると、姉との部屋の仕切り戸は完全に閉じられていた。
 ワンピースを脱ぎ捨てて、Tシャツとハーフパンツに着替えるためにクローゼットをひらく。
 部屋に入ったときから聞こえていた、がたがたいう音が突然大きくなった。明らかに、何かが崩れた音だ。
「だいじょうぶー?」
 目当てのTシャツが見つからず、部屋着のマキシワンピースを引っ張り出しながら尋ねた。返事がない。
 大きめの声で、開けるよ、と告げて戸を引くと、姉は雪崩れてきた段ボールと荷物に囲まれていた。
「ああ、もう」
 何秒も遅れて、姉が呟く。わたしはスリップ姿のまま姉の部屋に入った。
 崩れてきた拍子に蓋が開いてしまったのか、姉の周囲をバッグとヘアアクセサリー、ベルトやハンカチといった服飾雑貨が包囲している。
「何やってんの」
 わたしはついからかう調子で言い、その場で手にしていたワンピースを上からかぶる。まだ呆然としている姉の手を取って起こす。やっと我に返ったようだ。
「驚いた」
「これじゃあね。荷物片付けてたの? 手伝おうか?」
 自分の足元にまで届いている、ハンカチを拾い集めながら訊いてみる。
 姉は立ち上がり、同じように周囲のバッグを拾い、自らの左手首にひとつずつかけていった。
 シンプルな本革、エナメル、合皮のハンドバッグ、小さめのボストンやナイロンのトート。
「片付けてたというか、分別しようかなって」
 マスクをしていたのはそのためだったらしい。
 姉はそのまま、拾い上げたものを何も置いていない自分の部屋の入り口に持って行き、まとめて床に下ろした。放る、ほど乱暴ではなかったけれど、姉にしては無造作な動きだった。
「それ、どうするの?」
「これは要らないもの。欲しいものがあったらあげるからどうぞ」
 姉はわたしに向かって軽い調子で言い、元居た場所に戻ると今度はアクセサリーを集め始めた。
「それ、全部捨てるの?」
「もう要らないから」
「だって、ほぼ全部だよ?」
「うん。でも、もう要らないから」
 姉は繰り返した。それ以上の説明は求められそうにない、独特の言い方で。
 わたしは拾い上げたハンカチを姉の前にある段ボールの上にまとめて置いてから、他の荷物をかき分け、部屋の入り口に移動した。

 バッグは、傷や汚れもほとんどなく、よく手入れされていた。海外の有名ブランドのものがふたつ、残りは二十代から三十代の女性が好むようなデザインの、国産の手ごろなブランドのものだった。全部で八つのバッグ。
 振り返ると、姉の手元にはふたつのバッグしか残っていなかった。
 本革らしい半月型のチャコールのショルダーと、厚めのキャンバス地のトート。ブランドロゴがタグにプリントされて、バッグの端に縫い付けてある。脇にはエコバッグのような薄い生地のものが折りたたまれていたけれど、これは数に入らないだろう。
「お姉ちゃん、心機一転? こんなに捨てると心配になるんだけど」
 思わずそう言った。
 姉はそれをあえて聞き流すことにしたようで、拾い上げたアクセサリーのほとんどを同じように処分品の山の脇にまとめた。
 洋服についてくるようなチープなネックレスや、フェイクパールのブレスレット、バングルやモチーフのついたヘアゴム。ほとんどが落ち着きのある色のものではあったけれど、女性的なシルエットの装飾品ばかりだった。
「これも、気にいったものがあったら持って行っていいよ」
 姉はそう言いながら、次々と段ボールを開けていった。
 それは何とも過激な風景だった。
 こんなに一度に自分の持ち物を処分してしまったら、わたしだったら後々それを悔やむだろう。姉もそうやって我に返るかもしれない。もらったふりをして全部を取っておくにも、量が多すぎる。それにわたしには、どれにどんな思い入れがあるのかまったくわからないのだ。

 姉はその後、冬のコートを除いたほとんどの服を自分のベッドの上に並べた。
 一人暮らしの収納には限界があったのか決して数は多くなかったけれど、彼女はその服の山の中から気に入っているらしい二十着ほどの服を避けると、残りをクレーンゲームのように両脇にかかえて部屋の入り口に持って行った。
「いや、それは」
 どうなの、と続ける前に、
「問題ないよ」
 と押し切られてしまう。
 カジュアルなカットソーから柄物のワンピースまで、姉がむこうで着ていた服のほとんどが積み重ねられると、部屋の入り口はほぼ封鎖されてしまう。
 姉はまるで厳かな儀式でも執り行っているかのように、空になった段ボールを黙々と、そしてとても注意深くつぶしていった。手を切らないように、然るべき折り目を曲げないように。
「あのお姉ちゃん、思い出とかがあるんじゃ――」
「ノープロブレム」
 鼻につくほど優しい声で、そう返ってくる。
 本は早かった。すでに段ボールの中で紐で結ばれていたからだ。
 姉は続けて、CDを分別しはじめた。これも同じ、三枚のCDを取り出して残りをすべて処分。そのまま仕事で使っていたらしいバインダーを分解し、金属とプラスチックに分けてしまう。
 そこまでの作業を終えると、姉は一度階下に降りていった。不燃ごみの黄色い袋と、透明の大きなビニール袋を数枚手に戻ってくる。
 その中の一枚をばさばさと広げながら、
「服をお願いしていい? 欲しいものは好きに着て。そうじゃないものは、適当に畳んでここにいれて」
 ゆっくりと頷くしかなかった。

04|その準備


 段ボールのなくなった姉の部屋は、何とも言えない景色になっていた。

 あのあとも、彼女は自分の持ち物をひたすら分別し続けた。
 いくつめかの段ボールの一番上に、借りていた部屋の賃貸契約書類や家電の保証書が入っていた。緩衝材として入れていたらしい。自分の名前が見えないように裏返すと、ビニール袋にそのまま押し込む。
 仕事道具というものはほとんどなかったものの、細々した雑貨や書類の入ったいくつかのファイル、貰い物らしい使いかけのボディクリームやルームスプレーなど、まめに使うわけではないけれど捨てるほどではなかったようなほとんどのものを姉は丁寧に分別し、処分し続けた。金具のついたものはニッパーやペンチでできる限り取り外し、大きな鋏で切断していった。
 手つきには、まったく迷いがなかった。
 結局透明のビニール袋五つ分の処分品をまとめ、残ったものをあちこちに収納し終えたのは日付が変わる前だった。
 埃っぽくなった部屋で眠るのを嫌がった姉はわたしの部屋に自分の布団とタオルケットを持ち込んで、ベッドの下へ遠慮なく広げた。姉の部屋に置かれた破裂しそうなビニール袋は、彼女が直接手を下した何かの亡骸みたいに思えて何だか哀れを誘う。
 わたしは姉に頼んで、わたし達の部屋を区切る扉を閉めてもらうことにした。あの処分品が夢に出そう、と思ったからだ。
 滅多にしない決断を繰り返し続けたせいか、姉は若干ハイになっているようだった。実家に持ち込んだ荷物の八割はビニール袋に押し込んだと思う。
「あれ、次のゴミの日に出すの?」
 姉が捨てようとしていたところを思わず強奪した、高級ハンドクリームを手に刷り込みながら尋ねた。乾燥する季節ではなかったけれど、段ボールに手の油分が吸われてしまったのか、指先が日中よりも乾いていた。しっとりとした手から甘いローズの香りが立ち上る。
「明日クリーンセンターに持ち込むよ」
 うつぶせの姉が足をゆらゆらさせながら答えた。
「なんで? 普通に捨てたらいいのに」
「両親に見られたら止められるでしょ? 回収の時間に父さんの出勤時間がかぶっちゃうし」
「でも、母さんの車で行くならどっちにしろばれない?」
「うん、まあ、何とかする」
 考えながらの返事だ。
 処分されるのを待つ荷物を除けば、隣の部屋は恐ろしく、極端なほどにさっぱりしていた。ぱっと見た感覚では何もないという印象を持つほどだ。
 一人暮らし用という感じのフレームベッドに、薄型の布団。真っ白なコーヒーテーブル。元々あったシンプルな棚付デスクの上にはノートパソコンが一台置かれている。椅子は木製の回転チェアで、背もたれには落ち着いたラベンダー色の布が張られていた。ビジネスホテルというよりは海外の公共宿泊施設とか、ゲストハウスの写真で見たような部屋に見えた。
 家具の他には、自分の身なりを整えるものが両手で持てるボックスにひとつ。下着は五組、服はだいたい一週間ぶんほど。姉はそれらすべてを丁寧に畳み、クローゼットの中にある抽斗に収めていた。
 姉の勢いに押されながら、わたしは何枚かのお下がりを貰った。使い古されたものはほとんどなく、上質な類のものが多かった。基本的な手入れの行き届いた状態は、姉の性格を感じさせた。
 実家にいるからこそこうなるだけで、この人は一ヶ月前まで高給取りの部類だったのだ、と思い出す。姉は化粧品関連のOEMメーカーで開発の職に就いていたのだった。
「一応確認ね、心配したくないから。デリカシーを込めて訊くけど」
「うん」
「追い詰められての、身辺整理ではない。はいかいいえで」
 わたしは尋ねた。
「はい」
 姉は素直に答えた。
 それならまあ、としか言葉にできず、釈然としないままわたしも横になった。
 充電ケーブルをスマートフォンに差し込んでから、電気消すよ、と告げる。
 スタンドライトのスイッチを切ると、充電中の携帯から浮かび上がる赤い光が枕元に残った。家族と一緒の部屋で眠るのは久しぶりだった。わたし達家族はあまり泊まりの旅行を好まない。
 姉は布団の中で寝返りを打っているようだ。快適な恰好を探しているのだろう。

「あ、ねえ」
 明日の仕事のことを考えていると、囁くような声で呼ばれた。
「はい?」
 少し遅れて返事をした。網戸にした窓からやわらかい夜風が入る。仰向けに横たわり、前髪のあたりに右手の甲を置く。眠る前にこうすると落ち着くのだ。
「明日、仕事何時に終わるの」
「七時」
「わたし、夕方にそっちに買い物に行きたい。ご飯おごるから、予定がなかったら合流しよう」
 足元のほうから聞こえる声に、わたしは少し考える。
「いいけど、時間ちょっとずれてもいい? あとうち、社割とかないよ」
「うん。大したものを買うわけじゃないから」
 ベッドの下から聞こえた。
「じゃあ、終わったら電話するよ。携帯の電源入れておいて」
 寝覚めがそこまで良くない姉と、明日の朝予定を合わせることはしたくなくてそう言った。さっき自分のものを充電しながら、姉が手元に何も持っていないことに気づいていたからだ。実家に戻ってから、姉はほとんどスマートフォンに触っていない。
「了解。じゃあ、おやすみ」
 姉はにっこり笑っているのがわかるような声で言った。布の擦れる音で、肩までタオルケットをかけて余った端を抱きしめる動きが想像できた。姉の昔からの安眠姿勢だった。
「おやすみ」
 長い一日がやっと終わる一言だった。
 夜風に乗ってやってくる匂いまで、夏の終わりのそれだった。


 翌朝アラームで目覚めたとき、窓から入る朝の空気で部屋は少し寒くなっていた。足元に少しの冷えを感じて、足を擦り合わせる。ふくらはぎのあたりまで冷たい。眠っているあいだにタオルケットを蹴飛ばしたのだと気づく。
 ゆっくりと身体を起こしながら、自分の部屋で姉が眠っていることを思い出した。
 気忙しかった昨日が眠りによってやっと遠ざかった気がした。姉はまだ布団の端っこで丸まって寝息を立てている。
 ――無職は優雅でいいなあ。
 姉の妙に白い足をまたいで、ベランダに続く窓を閉めた。
 いつもより遅い時間まで起きていた割には悪くない眠りだったな、と思う。
 広がった髪を手櫛でまとめながら首を廻し、起きよう、と声に出す。布団によって塞がってしまっている自室の扉を避けて、姉の部屋に繋がる引き戸を開けた。
 開け放した二つの部屋は、密度がまったく異なっていた。姉の部屋はカーテン越しに入る朝日のおかげで、昨夜よりはるかに清潔に見える。一方、わたしの部屋はわたしの物とふたりぶんの寝具ですでに足の踏み場がほとんどない。
 姉を寝かせたまま、洗面所へ向かった。
 両親の寝室とウォークインクローゼット、子供部屋のある二階には小さな洗面所がひとつ備え付けられている。身支度に普段からそこを使うのはわたしだけなので、洗面台の脇には自分の化粧品がケースの中にぎっしり入っている。
 歯を磨いて顔を洗い、化粧をして髪型を整える。部屋に戻ってから制服に着替え、リビングに下りていくと両親がすでに朝食をとっていた。
「おはよう。昨夜はにぎやかだったわね」
 挨拶を返し、母があらかじめ食パンを入れておいてくれたトースターのスイッチを廻した。食器棚からはマグカップを、冷蔵庫からは牛乳パックを取り出す。半分ほど牛乳を注いだカップをレンジにかける。
「ごめん、うるさかった? お姉ちゃんの服とか片付けてて」
 意識的にざっくりと答えた。続けて小型のコーヒーメーカーの蓋を開ける。
 カップに直接コーヒーを淹れることのできる小型のそれは、ほぼわたし専用のものだ。電子レンジからマグカップを取り出して、そのままコーヒーメーカーに設置する。朝の習慣だけはすみずみまで決まっているほうが良い。
「なんだ、手伝ってたのか」
 今度は父が尋ねた。
「何枚かお下がり貰ったよ」
「で、あいつは?」
 父は続けてわたしに尋ねた。背の高いカップいっぱいのほうじ茶を、ゆっくりと飲んでいる。人一倍気にしているのに、どうしてこの人はこんなに不器用なのだろう。
「寝つきが悪かったみたい。まだ寝てるよ」
 なるべく手短に答えて、焼きあがったトーストを小皿に乗せた。コーヒーと一緒に運んでテーブルに着く。時計は七時半を指している。
「無職は暢気なもんだよな」
 父がからかうように言った。
「お父さん」
 母が咎めたけれど、本人がいない場所でわざわざ気を張るのは嫌なのだろう。父は母の顔を見てにやりとするだけだった。毎朝テレビから流れる事件のニュースに必ずいくつかの悪態をつくのだから、その対象が姉になったところで驚きはしなかった。というか、わたしも似たようなことを思いながら起きたのだ。
 日本列島に台風十二号が接近、来週上陸のおそれ、というテロップを眺めながら母に告げる。
「もしかしたら今日、夕飯要らないかも」
「そう?」
 母は、家事の中で料理に一番気合を入れる人だ。突然の『ご飯要らない』や『帰りが遅くなる』にひっそりとしょげるので、わたし達は食事に関してだけは徹底的に連絡主義の子供として育っている。実家暮らしの友人達が軽々しく家での食事をすっぽかすのを見ていると、信じられない、とすら思う。
「連絡する」
 母がお願いね、と返した。


 平日のショッピングモールの醍醐味は、平和なことだ。
 トラブルがないということではなく、トラブルを含めてなお平和、ということ。ここで起こる出来事のほとんどは、日常の枠の外には滅多に出ないから。わたしは、たくさん人のいる場所に無造作な感じで混ざっているのが好きだ。
 上司に定時を告げられ、売り場を後にする。
 ロッカーを開け持参した私服を引っ張り出していると、掃除の英田さんにシノちゃん今日は私服なのね、とからかわれた。デートじゃないですよ、とすかさず言い返す。主婦層の先輩方は、とにかく恋愛話が好きなのだ。
 姉からの着信はまだなかったけれど、アプリには二十分ほど前にモールへ到着したことが報告されていた。ここ、こんなに広かったっけ? というとぼけた一言のあとに、終わるまで色々見てます、と絵文字なしで続いていた。
 バックヤードは節電が義務付けられていて、売り場よりも空間全体が暗めになっている。労働意欲を上げさせようという目的があるのか、本社から定期的に届く見事に喧嘩を売ってくるスローガンつきのポスターは貼り替えられるたびに大不評だ。
 吹き抜けに出てから、とりあえず目視で姉を探した。目に付くところに居ればと思ったけれど、さすがにすぐには見当たらなかった。
 電話をかけてみる。姉はすぐにわたしからの電話に出ると、下の階の雑貨店にいるとのんびりとした調子で答えた。
 制服での使用は禁止されているエスカレーターに足を踏み出すとき、わずかな後ろ暗さを感じる。働き始めてからはどこのビルに行ってもそうだ。怒られないようにどこかで警戒してしまう。
 姉は知らされた店の外に立っていた。紺色の襟の立ったフレンチスリーブのブラウスに、オフホワイトのパンツを合わせている。
「お疲れ様。早かったね」
 姉はそう言って、目だけで笑ったようだった。
「買い物、した?」
「まだちょっとだけ。ゴミ捨て、やっぱり時間かかっちゃって」
 手元のバッグに隠れて、手芸ショップの袋が見えた。

 買うものは、すでに決めて来たらしい。手に持ったメモを確認しながら歩き出すので、黙って着いていくことにした。
 この時間の買い物は店員さんの力が抜けていていいよね、と姉は言った。このくらい適当な感じのほうがわたしは落ち着く、と。
 そしていくつかのショップに狙いを定めると、次々と目当てのものを購入していった。財布の一番取りやすい場所にクレジットカードを入れて、レジの前に向かうたび、それを躊躇なく取り出した。ここのポイントカード持ってる? と尋ねられたので、わたしは財布からそれを取り出して姉に手渡した。
 手にしたふたつのうちのどちらかが良いか、などで迷うことは一度もなかった。昨日の片付けといい、どうやら姉は選択することが苦手ではないらしい。さくさく、という言葉がぴったりくるほどの勢いに、同行しているだけのわたしのほうが何となくひやひやしてきてしまう。
 まずは輸入雑貨店で、姉は焦茶色の小さなトートバッグを購入した。その隣の店でフランス製の、髪をまとめるための大きなヘアクリップをふたつ。ここまでで十分とはかからなかった。
 化粧品の店でファンデーションのコンパクトと、スタンプ型のチークをひとつずつ。
 その購買姿勢が目に付いたらしい。店員に肌診断とおすすめ商品の紹介を勧められていたけれど、姉はそれを恐ろしくやわらかい態度でかわしていた。
 ごめんなさい、今日は時間がなくて。
 無口で人と接することにも関心が薄い姉の作る外面は、嘘みたいに親切で、いっそ優雅な雰囲気さえある。ちょうど良い程度の近寄りがたさに思わず笑ってしまう。
 美容部員の女性に見送られて、向かいのインテリアショップに入った。四百ミリリットルの持ち歩き用ボトルと、さらに向かいの靴屋でダークブラウンのオペラシューズを購入していた。三百円雑貨の店で二冊のリングノートを買う頃から、レジで訊かれるようになった。お荷物、おまとめしましょうか。
 姉は文房具売り場でボールペンを選ぶときだけ、他のものより時間をかけていた。ブランドのものというより、デザインと手に持った感じが気になるようだ。何本かのゲルインクボールペンを真剣な顔で試し書きする。どのシリーズのものにするか決めた後は早かった。黒と灰色、それから落ち着いたピンク。姉は学生時代から強い赤と青のペンを使わない。色がうるさくて集中できないのだと言う。
「次が最後だからね」
 両手にいくつも抱えた荷物を持ち替えながら、姉は言った。
 わたしは姉の荷物を半分抱えながら、了解、と答える。一日立っていた足がそろそろ本格的に重く感じる。
 最後に寄ったのはレディースカジュアルの店だった。
 少し自然派寄りのその店にはコットンや麻混の服が多く、そのほとんどが無地の服だ。姉はそこで何枚かのインナーと、七枚のシャツを買うつもりだと告げた。すでに購入したものの袋がぶら下がる自分の左腕に、次々と目当てのものをかけていく。
 途中で店員が飛んできて、すかさず姉の持っていた荷物を預かろうとした。
 ああ、じゃあ、お願いします。
 返事を聞いたが早いか、素早くショップ袋を取り上げて姉の両手を空にした。
 姉は自分よりかなり年下の店員の女の子――目のすぐ下にオレンジのチークを入れて、おそらく伊達の丸眼鏡をかけていた――におっとりとしたお礼を返し、キャミソールやTシャツの並んでいる木製の机の上に選んだ服を積み重ねていった。

 黒と白の、シンプルな襟付きのもの。
 紺、チャコールグレー、アイボリーの、ノーカラーのロングブラウス。
 一枚はシャツワンピースで、色は紺に近いブルーグレー。
 Vネックの、カーキのスモックブラウス。

 白熱電球の放つオレンジ色の灯りに手元が照らされたレジで、姉の選んだものは先ほどの女の子の手によってきれいに袋詰めされた。レジは奥に控えていたらしい店長風の男性が行った。
 姉は、他の店でしたのと同じ調子で支払い用のトレイにクレジットカードを置き、同じような調子で言った。カードの一回払いでお願いします、と。
 最後の買い物が最も大きい荷物になった。おそらく最大サイズのショップ袋いっぱいに入ったそれは、肩にかけると肌に食い込むほどだった。
 姉にカードを返す瞬間、店長風の男性がやはり姉に尋ねた。
「あの、よろしければ、お荷物、おまとめしましょうか?」


 名前こそ知らないものの、何となく全員の顔に見覚えがあるという職場で食事までする気にはならなかった。
 姉の荷物を手分けして持ち、従業員駐車場まで歩いた。二十時半。車も人も、まだそこまで少なくない時間帯だ。
 車の中に荷物を押し込むと、姉は手のひらについた荷物の跡を撫でながら軽く息をついた。
「ああ、やっぱり付き合ってもらって良かった。ありがと、美咲」
 人心地がついたといったふうに雰囲気が変わっている。
 運転を変わろうかと言われたけれど、丁重に断った。車の操縦にかけては姉のほうが不得手だと、免許を取ったここ数年ではっきりとわかっていたのだ。
 食べたいものはあるかと訊かれたけれど、すぐに思いつかなかった。結局、帰宅途中のファミリーレストランに入ることにする。一階が駐車場になっているその店は、住宅街に入る手前にあるせいか平日から混雑していることはあまりない。
 車外に出てすぐに、姉に先に入っていてと頼んだ。買い物をしている間に着信があったのに気づかなかった。天野さんだ。
 姉が了解、と声に出したときだった。

「あれ、篠永?」

 男性の声で苗字を呼ばれて、わたし達は同時に声のしたほうへと顔を向けた。その直後に姉のうわ、という声が続いて、相手が姉の知り合いだということを知る。
 姉に声をかけたのは、同年代くらいの男性だった。
「うわって、久しぶりでいきなりそれ? ひどくない?」
 言いながら、少し笑っている。
 店から出てきたところらしい、彼は持っていたレシートを手早く三つ折りにして着ていた黒のパーカーのポケットに突っ込んだ。よく見ると同じ色のトートバッグを肩から提げているようだ。
 近づいて来る男性の前を、一台の車が通り過ぎていく。その隙に、姉がやや急いた仕草で振り向いた。高校の同級生、と耳打ちみたいに素早く告げられる。
「西山」
「――久しぶり」
 目の前までやってきたその同級生を、姉はじっと見上げた。
 困ったような、怯むような目をしている。もしかして苦手な人なのだろうか。
「なんだよ、こっちに戻ってきてたの?」
 西山、と呼ばれた男性は、近づいてみると遠目で見た以上に長身の青年だった。
 動きはゆったりしているけれど、存在感というか独特の圧のある人だ。姉を二十センチくらい上から見下ろしている。
「うん。先週から、一時的に」
「なら連絡しろって。またしばらく音沙汰なかったんだぞ」
 言われて姉は、わずかに眉を寄せた。この表情は簡単だ。当惑。
 男性はそれを一瞬で察知したらしい。笑いながら続けた。
「ああ、今のでわかった。おまえ、俺のこと今の今まで忘れてただろ」
「そんなことない」
「いや、絶対そうだわ。もしかして、今何かに夢中になってる?」
 男性がからかう。
 言葉の後半は、姉の持っている特異な性質をよく知っているような響きだった。姉のこの癖の強さは、高校でも有名だったのだろうか。それとも彼が個人的に親しい仲なのか。
 少し後ろに下がろうかと考えていると、男性は姉の斜め後ろにいたわたしのほうを向いてゆっくりと微笑んだ。
「お友達かな? こんばんは」
 わずかに首を傾げながら、先ほどとは声色を変えて告げられる。
 姉の同級生ということは三十路手前のはずなのに、見た目は若く美男子の類の人だった。どちらかというと色白で、それでも顔立ちは男っぽい感じがする。髪や眉は、はっきりと濃い。Tシャツの胸についているポケットに、黒縁の眼鏡を入れているのが見えた。背筋のすっと伸びた人だ。
 同じように挨拶を返すと、姉が横から付け足した。
「わたしの妹」
「まじか。あんまり似てないんだ。可愛いな。お姉ちゃんといくつ違うの?」
 最後の一言だけをわたしに向かって尋ねてくる。
「西山、だめだからね」
 姉は続けて、わたしをかばうように体を移動させた。
 西山さんは姉の動きに噴きだしながら、
「人を盛った犬みたいに言うなよ。さすがにわきまえてます」
 楽しそうに抗議した。彼の言葉はどこか陽気に響く。
「あなたはその点においては昔から信用ならないもの」
 姉がすかさず言い返した。
 姉が異性とこの手のやりとりをしているところを見たのは初めてな気がして、新鮮だった。
 彼は少し驚いた顔をしたあとに、
「異論はないけど、今ちょっと傷ついた。しばらくこっちに居るの? 今度また飲みにおいでよ」
 懐かしそうな顔で笑った。
「まだ、あの居酒屋まがいの集まりやってるの?」
 西山さんの言葉に、姉は呆れた、というような声で返す。
「はい、もちろん。メンバーは毎回違うけどな。妹ちゃんも連れてどうぞ」
 妹ちゃん、というところでまた視線を向けられてしまう。
 姉との関係性がわからないうちに安易な答えを出す気にならず、曖昧に笑うことにした。姉はやれやれといったふうな顔をして、西山さんを見上げている。
「相変わらず恐ろしく社交的だね」
「いやだな、それが僕の人生だってよく知ってるじゃないですか」
「適当なこと言わないで」
「いつものことじゃん。まあ、本当に連絡しろよ。上、今なら空いてるぞ」
 彼は階段の上を指差したあと、じゃあなと片手をあげ、階段の下に停めているらしい原付のほうへと歩いて行った。
 飄々とした、気楽な雰囲気で。


「ちょっと仲が良すぎない?」
 ファミレスのシートの上でついに我慢できなくなって、姉に尋ねていた。
 姉が西山と呼んだその人は、姉にすっかり心を許しているみたいだった。旧知の仲といった感じのやりとりは、ただのクラスメイトだっただけには到底見えない。
「そう?」
 姉は否定的な表情をしていたけれど、わたしが頷くとそう、と今度は語尾を下げた。
「ええとね――うん、変な縁なの」
 アボカドとスライスオニオンの乗った白身魚のソテーを切り分けながら、姉はゆっくりと説明を始めた。

 姉が十四歳のときに起こした『裏山秘密基地事件』をきっかけに、親が押し込んだ進学塾で彼に出会ったこと。隣の校区の中学に通う西山さんと夏期講習で初めて顔を合わせ、その後少しずつ話すようになったこと。
 西山さんは当時恐ろしい偏差値を叩き出す――と言う表現を、姉は確かに使った――いわゆる秀才の生徒だったけれど、家庭の事情があり進路希望は隣の市の県立高校一本に絞っていた。
 そこは姉が、自分の起こした事件の罰として新たに第一志望校に設定することを両親と約束した高校だった。
 全体の上位一割の敷居をぎりぎりのところでまたげない、そんな成績でいた姉だったけれど、その塾でもトップの成績をキープしている西山さんには何故か気に入られた。

 ――篠永っていうの? おまえ、何か面白いな。

 自分になびかない女の子の扱いにも彼は長けていて、行き帰りに姉を見つけると必ずちょっかいを出した。
「西山って、放っておいても勉強はできるし、運動も別に苦手じゃなくて。それでちょっと大人びてたからすごくもててね、女の子達がまわりにいつもいっぱいいたの。普通に男友達も多かったし」
 彼らは結局、同じ高校に合格した。一年目から特別進学クラスに王者のように在籍していた西山さんに、高校から学力が伸びていった姉が追いつくかたちで、二年目からはクラスメイトになった。同じ教室に初めて入ってきた姉に対して、西山さんは勝ち誇ったように言ったという。一年もかかるとか、遅いんだよ。
「いかにもな優等生じゃなかったけど、周囲の信頼とかもあってね。ちょっとしたまとめ役だったというか」
「え、それだけ?」
 ジャンバラヤのトマトにフォークを突き刺しながら尋ねた。
 春菊も三つ葉もルッコラも好きなのに、パクチーだけはいまいち好きになれない。ついさっき、パクチー増量できますが、とにこやかに言ってきたウェイトレスの女性にむかって、わたしは瞬時に言い返していた。あ、結構です。本当は周りの子達が使うように大丈夫です、という断り方をするほうが気が楽なのだけど、上司達が言葉の意味がわからないと不審がる姿を見たせいか、外で常用するのには少し抵抗があった。響きが強いような気がしてまだなめらかに言えない、結構です。
 姉は左手に持っていたフォークを遊ばせるように揺らしながら、言葉に詰まった。そして、これはちょっとデリケートな話題かな、と迷ってから、
「ええとね――あの人、担任と仲良くなりすぎちゃって」
 窓の外に目をそらしながら答えた。
 はあ、という声が自分の口から聴こえた。感心と、納得でできた声だった。
 さっき一度会っただけだけれど、それは彼の悠然とした雰囲気に似合いすぎる言葉だった。想像だけで十年前に遡っても、彼が妙に大人っぽい高校生だったのはわかる。陽気な雰囲気なのに、何か厳しいものもあるように感じさせる人だった。
 姉は言葉を選びつつ、慎重に続けた。
「内藤ちゃんって呼ばれてた、か弱い感じの女の先生でね。西山、ちょっと苦労人に弱いところがあって。自分は何でも卒なくやっちゃうから、むこうから見ても頼りがいがあったのかもね。先生が本気になっちゃって、卒業直前でばれて、色々大変だったの」
 担任の先生は、事実上その年度で免職となった。春休みに荷物をまとめて田舎へと帰って行ったそうだ。西山さんはそれまでの成績と、十八歳を迎えて卒業間近だったという理由で処分は免れた。
 それでも、彼はその件で呼び出しのあった翌日から卒業まで学校には来なかったそうだ。噂話を聞いた同級生からの扱いはそうひどくもなかったらしいけれど、それほど大きくない公立高校の、特進クラス主席不在の卒業式はそれなりに気まずいものがあったという。

「ああ、わかった。お姉ちゃんはそのあいだもずっと、西山さんと普通に付き合い続けたんでしょ」
 そこまでの話で、察しはついた。
 姉は一瞬目を大きくひらいてから、
「その時期、本とか映画の貸し借りしてたからね。わたしはもともと、性別関係なかったし」
「実は好きだった、とかじゃなくて?」
 尋ねると姉は眉をひそめて、すぐに色恋沙汰にしないの、とたしなめてきた。
「それに、当時のわたしの心の支えはユング先生だったのよ。でも『ビューティフル・マインド』も『グッド・ウィル・ハンティング』も教えてくれたの西山だから、そこはとても感謝してる。美味しい知恵の実に詳しい知人って、当時は本当に貴重だったの」
 意味がいまいちわからなかったけれど、本心なのだろう。あれだけ自分を気にかけている相手に友人とは言わないのか、残酷だな、とも。
 その春、姉は北関東のある大学に、西山さんは都内の大学へと進学した。その後も繋がりはあったようで、帰省のときなどには連絡をしあっていたらしい。大学を卒業して数年後、彼は地元に戻り、姉はそのまま大学のある街に残ったというわけだ。
「優秀だし悪い人ではないんだけど、ちょっとだけ退廃してるところがあるから。うっかり会っても着いて行っちゃだめよ」
 姉は真剣な調子で言った。
 

 帰宅して姉の購入品が並べられたベッドを見て、なるほど、と思った。
 たくさんの服を処分したあとに姉が揃えたものは、それまでの彼女が身に着けていたものとはかなり変わった雰囲気だった。
 今日の目当てだったのだろう。太めの糸で織られた、飾り気のない七枚のロングシャツ。靴屋で選んだほぼ黒に近い色の本革のオペラシューズは、デッキシューズと掛け合わせたようなかたちをしている。
 そこに、姉はクローゼットから細身の九分丈のパンツを二枚取り出して脇に置いた。
 それから、装飾のついていないエナメルみたいにつやのある黒と紺のヘアクリップに、トートバッグ。中に二冊のリングノートと筆記用具、持ち歩き用のタンブラーを入れる。
 姉は先ほどと同じように、あらかじめ分別していた一粒ダイヤのネックレスと、三種類のピアスをそこに並べた。
 少し悩んでから、ネックレスを入っていた巾着にしまう。
 ベッドの上に並べられたそれらを身に着けた姿を想像すると、生活感のある小奇麗な女性、という感じになる。力が入っているわけでもないけれど無頓着でもない、見事な中庸。わかりやすい女性らしさを感じるような服装ではないけれど。
 だいたい思っていた通りの物を手に入れたようで、姉はベッドの前で手に腰を当てたまま小さく頷いた。そして、暇ならタグを取ってくれる? とわたしに告げて部屋の外に出て行ってしまう。
 明日も仕事で暇というわけでもないんだけどな、と思いながらもつい言うとおりにしていると、姉は両親のクローゼットからカバーのかけられたコンピューターミシンと裁縫箱を抱えてきた。
 他にはまだ何も置いていない机の上にミシンを慎重に置くと、カバーを外し、コードを引っ張り出す。ぱちんと音を立てて電源を入れると、手元には豆電球の光が当たり液晶にガイド画面が浮かんでいだ。
 姉がつぶやいた。動きそうだね。手芸店で買ってきた糸を、そのまま器用に通していく。
「何か直すの?」
「刺繍を入れたくて」
 答えながら立ち上がり、今度はベッドの上に重なっているシャツを一枚ずつ持ち上げては順番に並べていく。
 何度かシャツの順番を並び替え、ようやく納得がいったらしい。前開きになっているシャツのボタンをすべて外すと、一番右のものを手にしてミシンの前に戻ってきた。
 裁縫箱の中から母がいつか入れたらしいはぎれが入っているのを見つけると、姉はそれを引っ張り出した。試し縫いをするつもりらしい。
「これ、昔のお弁当袋のだ」
 懐かしそうに呟いて、チャコペンのあとがついたそれに付属の刺繍枠をセットした。スイッチを入れる。三文字のアルファベットが、そこに順番に刺されていく。
 母がこのミシンを購入したのは四年ほど前で、姉が触るのは初めてのはずだ。それなのに、指で糸の通る道を確認している手つきは淀みなかった。それどころか、どこか楽しそうですらあるのが不思議だった。
 ABC。はぎれの上に紺色の糸でその三文字が浮かび上がると、ゆっくりと文字を撫でてから、違う、と残念そうにぽつんと告げた。液晶の脇にあるボタンを何度か押して、書体をもう少し硬い雰囲気のゴシック体に変える。
 もう一度同じものを刺繍してから、姉はふう、と息をついた。満足のようだ。
 一枚目のシャツを広げて、後ろ首のあたりに枠を設置する。
「まあ、最初は失敗しても良しとします」
 姉はそれを感情のこもらない透明な声で――つまり、自分に対してだけする宣言として――告げると、打ち込んだ文字を確認してからスタートボタンを押した。針の上下を、真剣な眼差しで見つめている。
 一枚目、白の襟付きコットンシャツの後ろ首の部分に、紺の小さな文字で順番に『Monday』という文字が入っていくのをわたしも隣で眺めていた。
「なるほど」
 わたしは少し前に頭の中だけで言った言葉を今度は実際口に出すことにする。
 出来に納得いったらしい。姉は糸カットのボタンを押すと先ほどよりも機嫌を良くしたふうな様子でシャツを取り出し、元あった場所に戻した。
 次に引っ張り出したのはアイボリーの襟なしのロングシャツだった。右から数えて四番目。姉は今度はそこに『Thursday』という刺繍を入れた。同じ色の糸のものから刺していくつもりなのだろう。
「もしかして、制服みたいなこと?」
 わたしは姉の横に並んで言った。
 姉がその通りといった様子で頷いた。

 入浴のために一旦そこを離れたわたしが再び部屋に戻る頃には、姉は七枚のシャツのあちこちに曜日を刺繍し終えていた。後ろ襟首や左手首のボタンの横、前開きのボタンホールのあいだなど、場所はそれぞれ違っていたけれど。
 姉は刺繍の終わったシャツのしわを一枚一枚伸ばしていき、明日にあたる木曜を除いたすべてのシャツをまとめて抱えた。簡単に洗濯してくる、と告げて階下へ降りていく。部屋の前の洗面所で髪を乾かそうとドライヤーをコンセントに差し込んでいると、洗濯開始の短いメロディが下から聞こえてきた。
 洗濯の間に入浴を済ませたのか、姉はパジャマ姿で六枚のシャツを抱えて部屋に戻ってきた。一枚一枚しわを伸ばしながらハンガーにかけ、真っ白の洗濯ロープをカーテンレールからクローゼットの扉にむかってぴんと張る。
「明日一応陽にも当てるつもりだけどね」
 言いながら、シャツを一枚ずつロープにかけていく。
 一人でいるあいだ、家事をきちんとしていたんだなと思った。身の周りのものに黙々と手をいれる女性というのはいいな、と妹らしからぬ目線で思う。自分が家事を母親頼りにしているからこそ、余計に思う。
 すべてのシャツを測ったような等間隔で干し終わると、姉は廊下の洗面台で手を洗いに出て行った。戻ってから今度はサイドテーブルに鏡を広げ、肌と髪の手入れを始める。化粧水と乳液を肌に押し込んで、髪の毛先にオイルをすりこんで髪を乾かす。温風に乗って、ジャスミンのような香りが繋がった部屋に広がる。
 姉は、新たな生活習慣を作り出そうとしているみたいだった。
 一通りの手入れを終え、化粧水のボトルやドライヤーを先ほどまで入れていた籐のかごに戻している。ベッドの下に押し込み、それを片付ける。前からの定位置だったのかもしれない。手つきの中に習慣を感じた。

 仰向けになってスマートフォンで最近の会話を見直していると、隣の部屋の電気が消えた。間接照明の淡い光が視界の端の暗がりに映りこんでくる。
「もう寝るの?」
 部屋の壁にむかって、声をかけた。
「まだ起きてるよ。暗いほうが落ち着くから」
 姉が言った。
 昨日まとめた不用品は、ベランダから玄関にむかって直接下ろしたのだと夕食のときに言っていた。まさか投げたの、と訊くと、洗濯ロープとS字フックで、とだけ姉は返した。それでシャツを干すためにすぐにロープが出てきたのだ。
 縁日のヨーヨー釣りみたいに、姉がゴミ袋にフックをかけてベランダから地面に下ろしている姿を想像する。シュールだ。そして、言われてから改めてそれが正解だとも思った。あれだけの荷物を捨てるところを見られたら、少なくともうちの親は平常心ではいられないだろうから。身辺整理じゃないよな、何か隠しているんじゃないのか、なんて。

「今日はありがとね。おかげでほとんど整った。おやすみ」
 姉が壁のむこうで言ったのが聞こえた。

05|彼女の夏の喪失


 十月手前になってやっと、猛暑を抜けきった身体がゆるんできた。
 今年も、熱を溜め込みすぎないよう水分と塩分を損なわないようにと多くの時間と手間をかけて過ごした。だらだらと続く、長い夏だった。
 情緒にもやっと細やかさが戻ってきて、保留にしていたたくさんの気分が待っていたように胸の中に立ち上がり始めた。梅雨明けからこの時季になるまでは、考えるべき色々なことをつい後回しにしたくなってしまう。
 去りきらない夏が、今年はいつまでも身体の中に留まっていた気がする。次の季節に進めないままの服装で外をうろつくと、早い衣更えを済ませた学生くらいの年の子によく会った。
 終わっていく季節の水色と、これから訪れる秋の、深い茶色。互いに相手の姿の中に別の季節を見ているのが手に取るようにわかった気がした。
 相手の姿が見えなくなって数歩してから思った。
 今のはとても象徴的なすれ違いだったな、と。

 姉はあの買い物の翌日、遅い時間まで起きてはこなかったらしい。
 その日の仕事を終え同僚と食事をしてから帰宅すると、姉の肩甲骨を覆うくらいまであった長い髪が鎖骨に触れる程度まで短くなっていた。
 ずいぶんさっぱりしたね、と告げると、軽くなった、という答えが帰って来た。本当に嘘みたいに軽くなった、と。木曜日の刺繍が入ったアイボリーのシャツを着て、大処分の中で生き残った細身の黒いパンツを履いていた。長くも短くもない長さの髪をゆるくまとめて、クリップでとめ、耳たぶに小さなピアスを着けている。

 こういう人、生活雑誌とかでたまに見る。

 そう思ってしまうような、一種の共通の雰囲気に姉は自分の生活を合わせることにしたのかもしれない。
 玄関には昨日仕入れた靴が、姉の部屋のドア裏についているフックには半円の本革バッグがかかっていた。美容院にはそれを持っていったのだろう。
 姉の生活から、自分の身なりについてその都度選択する、ということがなくなっていた。パステルカラーと、二十代後半の女性のクローゼットの中にあるような花柄や縞や水玉も。
 何か理由があるのか、姉のただの気まぐれかはわからなかった。

 次の日から、姉は同じ生活を繰り返すようになった。
 目が覚めると、曜日ごとに決められたシャツと三着あるうちの一着のパンツに着替え身支度をする。
 そしてまず、自分の部屋の掃除。
 掃除機か埃を巻き込む紙のシートが張られたモップで床を拭い、次に洗面所に干している化学ふきんで作った雑巾で部屋の床をきれいに磨いていく。この季節は水拭きされた床も、あっという間にさらさらに乾いてしまう。
 部屋の空気を入れ替えるために掃き出し窓を大きく開けて、姉は家の前と玄関をほうきで掃きに行く。前の夜遅くまで何かしている日はそれがぎりぎり午前になることもあったけれど、正午までにいくつかの家事を済ませてしまうようだった。午後からは、自室にこもるか外出しているらしい。そのおかげもあって、家の中はそれまでよりも幾分清潔になった。暮らしの中に不思議な余裕を感じるようになったのだった。
 外出の場合、姉は長い散歩に出るか図書館に行く。その両方を兼ねることもあったけれど、わたしが帰る頃にはだいたい家に戻って机に向かっていることが多かった。洗濯された前の日のシャツがきれいに折りたたまれて、ベッドの上に置かれている。わたしの服も同じようにしてくれていた。どういう方法を使ったのかはわからないけれど、お気に入りのブラウスの襟元に薄く残ったコーヒーの染みを姉はきれいに抜き、糸が切れて深くなっていたスカートのスリットを何も言わずに直してくれたりもした。することがない時間は、ぼうっとしていることがほとんどだったけれど。
 思索。
 姉は好きなだけそれに耽っていた。それでも、生産的な行動をほとんどしていない生活は怠惰を満喫しているようにしか見えないのも確かだった。姉は黙々と働くか、黙って自分の世界の中に入り込んでいた。
 彼女は自分の思考の中に入っていると一種独特の精神状態になる。人に迷惑をかける類のものではないけれど、意識が内側に向かうと周囲への反応がほんの少しだけ遅れるようになり、黙っているときの気配がぐんと濃く静かになるのだ。思考や言葉になる以前の領域が妙に息づいて広がっていく。
 その、姉にしかない独特の精神状態になっている時間が長く続いていた。
 母とわたしにはそのスイッチのオンとオフがよくわかるけれど、父にだけは姉の持っているそれが理解できないようだった。
 父が姉のいないところで始める小言は次第に演説じみてきて、母とわたしはたびたび辟易した感情で互いの顔を見るようになっていた。わたし達の愛すべき父は自分以外の人の思考回路に対して絶望的に鈍いというか、そもそもあることを認知できているのか怪しいところがある。姉があまりに自分に同調しないので、父は自らを拒絶されているように感じてしまうらしい。父が述べる姉への不満は、彼女の言動に傷つけられたと訴えているようにも聞こえた。
 眠る前に姉の部屋を覗くと、机の前に本とノートを広げて姉は本を読みふけっていた。たまにノートに何か書きつけている。ノートパソコンからイヤフォンで音楽をかけているのもあって姉はわたしには気づかなかった。
 日中、ベランダで過ごすことも多いようだ。昨日は以前のように手すりの上に顎を置いて、そこから見える景色を長いこと眺めていた。いつの間にか蚊取り線香がベランダに設置されていたのは姉の仕業だろう。
 物思いに耽る姉は、わたし達の過ごす日常生活とは離れた場所に行っているように見えた。

 同じことを数日繰り返していると、さすがに自分が内面にはまりこんでいることにも気づくようだ。姉はわたしにむかって何かと息抜きになることを提案してくるようになった。配信の映画を観ようとか、散歩ついでにアイスクリームを買いに行くけど、一緒に行く? とか。
 適当なサンダルをつっかけて、ふたりで家を出た。夜のコンビニに向かって歩いていく途中で、姉は何度も深呼吸を繰り返した。
 こっちのほうが金木犀が咲くのが早いとか、うちで使っている柔軟剤の特殊な香料は自分の大学時代の先輩が中心になって開発したのだとか、そういったことを姉はぽつぽつと話した。それが姉の今の頭の中を占める話題ではないことは明らかだったけれど、わたしはそれに適当な相槌を打ちながら歩いた。
 
 蛍光灯の煌々と灯る店で姉にモナカのアイスを買ってもらい、わたしは路上でさっそくそれを開封した。
「あなた、本当にどこでもアイス食べるのね」
 姉は呆気に取られた様子で言い、帰り途中にある公園にわたしを誘った。せめて座って食べなさい、と言うのでブランコに腰を下ろす。
 少しの遊具と、広場がひとつある公園だった。
 昔、こういう公園によく行った記憶が蘇ってくる。姉を探して、小さな自転車を飛ばして回った。

「やっぱり小さな公園って悲しくなる」
 ソフトクリーム風のバニラアイスを舐めながら、彼女はぽつんと言った。
「ここ、そこまで小さくなくない?」
「ここじゃなくて、前の前に住んでたところ。ブランコに乗ってても気持ちが全然広がらなくて困った。就職して引っ越すことにしたとき、大きい公園が目の前にあるマンションを選ぶくらいには大事だったみたい」
 長い夏と秋の気候が交じり合って、夜の色合いが滲むように優しい。Tシャツの上に羽織ったカーディガンの上からそれが染みてくる。
「田舎者なのかもね。さっぱり広いところがいつまでも好きで」
 姉は笑った。
「空はむこうのほうが広くなかった?」
「山が遠かったからね」
 引越しの手伝いに行ったとき、姉の住む街の空の広さに感動したのだった。
「昔、ここでも空ばっかり見てたなあ」
「星に関心があるのかと思ってた」
「ちょっと違ったね。今も嫌いではないけれど」
 ブランコの吊り金具は握ると懐かしい感触がする。手の匂いを嗅ぎたくなった。きっと鉄の匂いが移っているだろう。
 アイスを口にくわえたまま少しブランコを漕いでみる。予想していなかった、ぎいぎいと悲鳴のような音がしたのでそれ以上動かすのはやめる。こういうのって管理のところに苦情がいったりしないのだろうか、目の前にはわたし達が小さい頃から建っているマンションがあるのに。
「あの頃からよく、人生ってこれだけだったっけ? みたいな気持ちになってたんだ」
 元々冷たいものがあまり好きではない姉が、アイスに蓋をしながら言った。コーンのところに届いてもいない。どうせわたしを釣るための誘い文句として使っただけなのだ。コンビニの小さい袋にそれをしまい、続ける。

「やることが決まってたわけでしょ? 勉強して、進学して。ていうか起きて、何か身体の燃料になるもの入れて、行動して、帰って眠って。合間にも娯楽とか人との関わりとか色々なことがあるけど、それ以外のことってなかったっけ、何か大事なことを忘れてなかったっけ、みたいな気持ちが抑えきれなかった。子供だったからかなとも思ったけど、そうじゃなかったなって思う。自分自身がまだまだ目の前の人生に収まりきってないみたいな感じ」

 突然、目の前の景色がぐにゃりと歪む気持ちになる。
 姉の世界の入り口は、現実や常識が何ともいえない違和感をもって歪んで見えるところから始まるのを思い出した。
「収まりきってないの?」
 わたしは姉の顔を見ながら軽く尋ねた。
「全然。わたし、思ったより社会に適応してなかった。ふりがちょっとうまかっただけで」
「ふうん。それ、割と悩んでる?」
「いえ、これはただの自己観察」
 姉がさっぱりした声で答えたので、質問の追加は避けた。
 彼女にここ数ヶ月あったことを除いてしまうと、話すことはあまりなかった。
 姉と違ってわたしはあまり沈黙が好きじゃない。わざとらしくがさがさとアイスの包装を畳んで、デニムのポケットに押し込む。
 姉がこっちのもうるさいかな、と呟いてからブランコを漕ぎ出した。


 生活に、気持ちが添いきらないことなんてあるんだろうか。
 自分のではないベッドの右半分で、まどろみながら考えていた。ざっくりした触り心地のシーツの色は灰色がかったブルーで、隣では天野さんが静かな寝息を立てている。
 ことの後は眠気に抗えなくなる体質らしく、彼は話しながらも少しずつ沈んでいくように眠りに落ちてしまう。自分で望んでいるほど充分に相手を気遣いきれずに、という言い方がふさわしいその眠りはだいたい二十分くらいだ。食事中に眠ってしまう子供とか、止まってしまったぜんまい仕掛けのおもちゃみたいだと思う。目を覚ましたときの恥じらうような、申し訳なさそうな顔が可愛いなと思った。
 彼と一緒に眠ってしまわないように、肘枕をついて寝顔を眺めることにした。わたしなら選ばない、麻混じりの暗いブルーのシーツは、きっと今日のために洗濯されているはずだ。厚みがあってしっかりした、男性好みの暗いブルーのシーツ。
 彼は鼻先にうっすらと汗をかいていて、その状態の成人男性とは思えないほど肌はしっとりと清潔に見えた。このシーツに潜り込むのは二回目で、わたしはこの手触りをもう肌で覚えていた。

 初めては十日ほど前で、きっかけになる一言を放ったのはわたしだった。
 ――天野さんがどんなお家に住んでるのか、見てみたいな。

 思い切ったことを言った、と自分でも思う。
 金曜の夜の電話だった。一週間の労働でくたくたになっていたはずの天野さんは、それを聞くとやはり電話のむこうで息を呑んだように黙ってしまった。
 なんて、と冗談にするなら今すぐだと思って、唇の端を持ち上げようとした。にっこり笑った感じの声にしなければ、余計に気まずくなると思ったのだ。
 なんて、の「な」を言い出そうとしたときに、むこうから返って来た。

 全然いいけど、面白いものとか、何もないよ。
 それでもいいなら、遊びに来る?

 彼の性格から考えて、こういう仲になるにはまだ早いと思っていたはずだ。わたし達の関係はよく言うととても礼儀正しく、悪く言えばまだ他人行儀な間柄だった。彼は、そんな期間に自分から突然間合いを詰めるような男性ではない。
 わたし達はよく掃除された彼の部屋で三十分ほど雑談し、間が持たなくなると同時にそういう空気になった。部屋でふたりきりになってからすぐ隣に控えていたようなその空気が、もう無視できないというような大きさに膨張して、問いかけてきた。
 それで、このあと、どうするの?
 案の定彼はためらいがちで、何度かわたしにこのまま進めてもいいのか確認した。その揺れている雰囲気に、これ以上は訊かないでください、とこちらも小さくなって告げた。ぎくしゃくと伸びてきた手がわたしの頬に触れたときも、まだ彼はどこかで迷っていたようだった。
 それでも、始めてしまえばつつがなかった。わずかではあれ、彼もそういうことを曖昧にできる性質を持っていたのだ。

 そして、今日も判明したことがある。
 普段の彼が纏っている端正さが失われるこんな機会を、おそらくわたしは普通のデートよりも楽しみにしている。いつも相手をうまく思いやる彼の、そうはいかない情緒の乱れに巻き込まれる、絶好の機会。
 二度目のそれを通じて、わたしはこの場所ですることが気に入った、と思った。さっきも自分の身体に重なる彼の頭を引き寄せて、つい催促の意味を持つ言葉を何種類か放ってしまったくらいだ。そうあれは、つい、だった。
 不埒だなあ、と自分でも思う。彼にも前回、眠りから覚めてすぐにおかしそうに言われた。
 君は、何だかあっけらかんとふしだらになるね、と。肌と体温を一度交わらせたあとの、緊張が抜けて自然にひらいた心身を触れ合わせながら彼はとてもおかしそうだった。
 うつ伏せになって、ベッドサイドに置いていたペットボトルの紅茶を一口飲む。彼の同僚の海外土産だという、小さなグミの袋がベッドサイドに置きっぱなしになっていた。手持ち無沙汰と退屈まぎれにそれを引っ張り上げ、パッケージを眺める。
 袋を裏返してみる。誤植のいくつかある、翻訳された品質表示のシールにはチュニジア産と書かれていた。齢二十三、どの辺りか見当もつかない。わたしは勉強がそれほどできない側の人間だったのだ。

 がさごそ言う音で目が覚めたらしい。
 天野さんはうつろにひらいた目を一瞬ぎゅっと瞑った。小さくうなりながら半身をねじり起こしてわたしの背中に覆いかぶさり、肩口に顎を乗せる。
「起こしましたか」
 もう一度、紅茶で口の中を潤して尋ねた。
「君って人は」
 天野さんは恥じらいのこもった声で言った。何らかのトラブルで緊急停止されたアンドロイドが、修復されて動き出したみたいだと思った。
 心臓の裏あたりに湿った唇の感触を感じて、思わず笑ってしまう。
「やっぱりこっちが本性だったんだな。まったく」
「そのまま喋らないで。くすぐったい」
「こんなんじゃ外で会うのが嫌になるよ」
 背中が震えると、唇の当たる範囲が広がってしまう。
 天野さんはひとしきりわたしを笑わせたあと、ベッドサイドに置いていた自分のペットボトルをわたしから受け取って残りを飲み干した。
「自分への愛情に目がなくて」
 ふざけて言い返したけれど、素直で素晴らしいね、と真剣に応えられてしまう。

 ――正直に言って、わたし達はあまり男運が良くないかもしれない。

 帰省した姉が昔、そんなことを言っていたのを思い出した。
 長い夏休みの中で、姉が実家に戻るのはせいぜい三日くらいだった。物置にしている自室にはほとんど立ち寄らず、わたしの部屋で寝泊りしていた。リビングのソファか母の仕事場で寝るからいいという姉を、引っ張り混むようにして自室に呼んだのだ。
 なんでそう思うのよ、という質問に姉は曖昧な顔をして、相手のことはよく見るようにしないと、とつぶやいた。ほとんどぼやくようだった。
 数年して、その意味がわかった。
 姉もわたしも妙なところに隙があって、そして異性に対する期待が高くなさそうに見えてしまうのだ。新しいアルバイト先ですぐに声をかけてきた先輩とのやりとりで、それに気がついた。わたし達の中にある共通の鷹揚が、ある種の異性にとっては付け入りやすく見えることもあるのだ、と。
 本当だ、よく見るようにしないと。
 遠くの姉に想念でも送るような気持ちでそう思った。その目線がついゆるんでいくことに抗えなくなるのが恋愛の怖いところだとも、もちろん学んでしまったけれど。

「ね、自分のここにほくろがあるって知ってた?」
 先ほどくすぐられた場所の少し下で、天野さんの長い指が円を描いている。
 指の触れる面積は大きくて、動きは軽い。
「知らない。そうなの?」
 顔を向けて尋ねたけれど、彼の表情は見えなかった。
 頬にはりつく髪と、西陽と、普段は来客がほとんどないというマンションの一室。
 人の目が届かない、世界の隅にいるような安心感があった。望んでいない誰かに無遠慮にひらかれたり、入り込まれたりはしないと思える空間だった。
 彼の体温は熱くも冷たくもなくて、わたしはそのことをとても、らしい、と思った。この人らしいな、と。こんな怠惰な時間は、わたし達をとても安心できるところに連れて行ってくれる。
 天野さんは息だけで笑ってから、指の動きを止めずに掠れた声でそうだよ、と囁いた。


 結局、夜まで彼の家にいた。映画のDVDを一本観てから簡単な食事を作り、帰るまでもだらだらとくっついたり離れたりを繰り返した。
 彼の部屋は普段から整頓されている雰囲気で、趣味のものも多くはなかった。仕事に必要な書類や書籍が背の高い棚いっぱいに詰め込まれていて、机になっている棚の下部に小型のデスクトップパソコンが一台置いてあった。
 学生時代はもうちょっと趣味もあったんだけど、今は全部こいつで出来ることに絞っちゃったかな。
 天野さんは恥ずかしそうにそのパソコンを指差した。
 玄関の下駄箱の上に、折り紙で作られた小ぶりのくす玉が置いてあった。百合のようなかたちの花を組み合わせて作られたもので、オーロラパールの入ったグリーンの折り紙だけで出来ていた。
 彼はそれを、担当している市民センターで年配の女性に貰ったのだと言う。すごく頑張って作っていたのを見かけてしまったから粗末にできなくてとこぼしていたけれど、おそらくは他に何らかの意味を持って置いているだろうし、そこにある物語を彼は気に入っているのではないか、と思う。そういう、快い背景の気配がした。
 わたしは彼の部屋をとても良い場所だと思って、帰り際にそう告げた。
 天野さんは少し驚いた顔をしたあとに、嬉しそうな顔で答えた。
 それは良かった。また近いうちに――いや、いつでもどうぞ。

 帰宅したときは、もう二十一時を過ぎていた。
 自分の部屋のドアを開けると、姉の部屋との仕切り扉はほとんどすべてひらいていた。ここの開け閉めはそれぞれの気分に合わせて自由になっていて、互いの状態を察することに役立っている。
 中を覗いてみる。部屋の電気は消えて、すでに灯りは間接照明だけになっていた。
 寝たのかなと思っているところで、部屋の隅で姉が壁と床に合わせて身体をL字に曲げて横になっているのを見つけた。足が壁に沿って天井のほうを向いている。ぎょっとする姿勢に、妙な声が出てしまった。

 姉に近づき、優しく訊いた。
「何か意味があってしているのはわかるんだけど、差し支えなければ理由を聞いていいですか」
 姉からも、やわらかな声で返ってきた。
「体内の暇そうな血液と酸素を松果体の周辺に集めてる。メラトニン出ないかなって思って。今日は頭を使いすぎたから」
「そんなことできるの?」
 思わず尋ねてしまったけれど、ここはつっこむところだったと気づく。
「頭に血が上ってきただけな気がする」
「起きなよ」
 慌てて告げると、姉は素直に頷いた。
「忘れてた。おかえり、美咲」

 ちょっと待ってね、まだ集中が切れないから。
 姉は言いながら、両足を揃えて右側に身体を倒し、壁の上に立つようにして起き上がった。
 こめかみを指で揉んで、首を振る。
 あー、あー。
 発声を何度か繰り返して、やっと戻ってきたらしい。彼女の持っている昔ながらの妙な儀式だった。ブルーグレーのシャツワンピースにレギンスパンツを合わせている。服装から、今日が日曜日だったと再び思い出す。
「食後にそんなことやると消化に悪いよ」
「百二十分は経ってるから。それ、いい色だね。可愛い」
 わたしの着ている薄手のニットを見ながら言った。
「去年のだよ」
 デート用だと思われたくなくて、軽く返した。母に届いた通販カタログをふたりで眺めながら『便乗買い』したのだった。サーモンピンクの、オフネックニットだ。
 姉は何も置いていない床の上で、いくつかのストレッチポーズを取って強張った身体を伸ばしていた。わたしは自分の部屋に戻って、今は実質ドレッサーになっている机の前の椅子に腰を下ろす。
 恋人と別れて帰ってきたということ以上の情報がないので、姉相手に恋愛の話をする気にはならなかった。彼女がどんな男性と出会ってどんな風に付き合っていたのか、その話の一歩先に安易に接触すべきでないエピソードがあるのかどうかも、わたしは知らない。
 椅子をぐるっと回転させると、対角線上にある姉の机の様子が伺えた。

 姉はストレッチを終えると、床に座ったままベッドに寄りかかって膝を抱えた。
 この人はすさまじく体育座りが似合わないなと思っていると、
「図書館にね、探してる本がなくて」
 首を左右に振って、肩を伸ばしながらぼやいた。わたしが小学生の頃に市役所の近くに新築された図書館は、外見こそ立派だけれど蔵書数はそんなに多くない。
「うちの市の、そんなに大きくないからね」
 ネックレスを外しながら返事した。さすがに十月も半ばに近づくとアクセサリーが汗でべたつくこともなくなってくる。
「最近閉架図書いっぱい出してもらってるから悪く言えないけど、困った」
「ネットで古本買うとかは?」
「二万近くまで跳ね上がってて。読みたい部分が一章だけで、それはちょっとね。さらに困ったことに」
 言葉にするのを憚るように唇と眉を中央に寄せている。
 姉は何度か小さく唸ったあとに、
「ちょうど西山が持ってるんだよね」
「え、じゃあ借りたら?」
 何をそんなに迷うことがあるんだろうと思うのは、わたしが異性と充実した休日を過ごしてリフレッシュしきっているからだろうか。
 実際、わたしは今日もやり遂げたという気分の中にいた。恋人と呼んでも差し支えないちょっとだけ不思議な彼に、自分の中の微々たる可愛げを総動員して乗り込んできたのだ、と。それでどんな収穫があったかは、まあ別として。
 姉は自分で打ち明けておきながら、その言葉に衝撃を受けたような顔になった。
「そうだよね。でも、あの人洞察力がちょっと振り切れてて。わたしには見えたことばんばん言うの。話してないことまで、普通に言い当てたりするし」
 そうなんだ、と相槌を打ちながらも、長年の付き合いだからでしょと思っていた。少なくともわたしの姉は、隙がないような雰囲気の持ち主ではない。
 数秒間思い悩んだあと、姉は気を取り直したように両方の手のひらを上に向けた。
「えっと、お手を拝借?」
「違う。天秤」
 そして、口の中で何やらぶつぶつとつぶやきながら右手と左手を微妙に上下させる。何度か傾き続けた末に右手ががくんと落ちる瞬間があった。
「よしわかった、観念します」
 姉は意を決したように宣言した。誰に言ってるのよ、という言葉は出てくる寸前で飲み込んだ。
 姉は滅多に手にしないスマートフォンを取り出すと、かろうじて入っていると言っていいようなトークアプリを立ち上げて、何やら打ち込んだ。送信を押してから一呼吸ついていると、すぐに着信が入る。
「毎回、この早さには驚かされるな」
 あまり連絡にまめではない姉はそう言って、表示された通話ボタンを押した。

 ――え、今外なの、あとで良かったのに。あの、やっぱりあの本借りていい? いいよ取りに行く。いつならいい? 明後日? 夜? ううん、わたしはそれはいい。だって他の人もいっぱい来るんでしょ? それはそうだけど。そっか――うん、わかった。

 通話の中で、何か新しい予定が入りかけているみたいだった。
 もう一度椅子を回転させてから、わたしは自分の机の引き出しから除光液とコットンを取り出した。わたしはセルフネイル派だ。ネイルサロンに行けばきれいに塗ってもらえるよと友人や同僚に言われるけれど、手を触られるのがそんなに好きじゃないのでどうも気後れしてしまう。
 
 姉の通話は、すぐに終わった。
 こちらに近づいてくる足音がして振り向くと、扉に寄りかかりながら姉はとても複雑そうな顔をしていた。
「話はまとまったんだよね?」
「うん。明後日の夜に呼ばれた」
「そんなしょんぼり言わなくても」
 コットンに除光液をたっぷり染みこませながら告げると、姉はそうだよね、と告げてふらふらと自分の部屋のクローゼットに向かって行ってしまった。うつろな動きでパジャマを手にして、お風呂入って来るねと部屋を出て行ってしまう。弱気になるとき、姉の声は高く優しくなる。
 ちょっと冷たすぎたかな、と考えたものの、姉を取り巻く人間関係の情報は家庭内にはほとんど持ち込まれなかったのを思い出す。自分と仲の良い人間のことほど黙っているのだ、昔から。
 両手の爪の上に広がっていた、くすんだピンクを落としていく。仕事用の薄いベージュピンクを重ねるためには、今日の色はきれいに落としきらなくてはいけない。
 一日の感情まで、一緒に落とさなければいけないような気分になった。わたしはつい、それを先延ばしにしたくなってしまう。

06|旧友


 ガムテープの上にマジックで雑に書かれた『呼び鈴故障中』という文字に触れながら、結局修理しなかったんだ、と姉が小さな声で呟いた。

 古い住宅が立ち並ぶ住宅街の片隅に、その建物は立っていた。
 大きな柿の木が隣の敷地から飛び出して、建物をかばうように枝を広げている。
 店舗付住宅というのだろうか、立方体を二つ重ねたような見た目のそれは正面に大きなガラスの扉があり、視線を上げると締め切られた腰高窓が見える。扉と窓の間の壁に長方形の跡がついているのは、看板があった名残だろうか。
 姉がそのままためらいなく扉に手をかけるので、
「勝手にいいの?」
 少し慌てて尋ねると、どうせここからじゃ聞こえないからと返ってきた。
 畳んでしまってからもう長いのか、入口のガラス戸に白のペンキで筆書きされていた『西山勝商店』の文字は、あちこち剥がれて干からびている。取り付けの悪い重い扉を力を込めて右へ引くと、かつては土間だったらしいその空間にはスチール製のラックがいくつも並び、物であふれていた。
 ビールケースや段ボールが無造作に積み重ねられ、開いているものからはパッキングされた何かが突き出したりはみ出たりしている。ゴムの長靴、折りたたみ式のテーブル、傘立てには傘だけでなく釣り竿も突っ込まれていて、古い白タイルの壁はほとんど見えないほどだった。工具箱、殺虫剤、それから大量の空き瓶。
 物の合間には湿気を吸って折れ曲がった新書や新聞が詰めこまれていて、さらにRoute66と書かれたLEDランプやアンティーク風の壁掛け時計などもビニールに入れられて積み上げられている。麻雀用の天板、スノーボード、隅のほうに昭和の蚊取り線香や化粧品の広告が印刷されたアルミ板を見つけて、ここがかつては日用品を売っていただろう店だったということが想像できた。
「混沌としてるでしょ」
 姉が、わたしの気持ちを察したかのように言った。
 入ってすぐ脇に見つけた小さな洗面台の上で、不敵に微笑む象の神様らしきオブジェが見えた。後ずさるわたしに姉がガネーシャ像だから大丈夫だよと教えてくれたけれど、当たり前のように知っていることに逆に引いた。
「あれ、何?」
「水煙草じゃない?」
「あれは?」
「タイプライターだね。あ、鉱石ラジオもある」
「じゃあ、あれは?」
「何かのエンジンの一部だと思うよ。何だろうね」
 姉はおっとりと首を傾げている。

 同行するつもりはなかった。
 百歩譲って、姉の送迎程度にしておくつもりでいた。仕事の帰り、ストッキングが伝線していることに気づいて買い足して帰ろうと思ったのも偶然だったのだ。まさか寄り道した衣料品コーナーのあるスーパーで、姉がビールを購入しているとは思ってもいなかった。
 少し前を歩いている、同じ自動ドアに向かっているらしい女性の姿にどうも見覚えがあると思ったら自分の姉だった。人の中を歩いているとき、彼女は何となくか弱そうに見える。
 わたし達は思いもよらない場所での鉢合わせに一瞬身構えたあと、何となく無言で互いの気持ちを察しあった。うん、そういう流れなんだね、という感じで。
 ――荷物、重そうだし送ろうか。
 ――ありがとう。飲み会みたいな感じらしいから、美咲も一緒に来ない?

「西山ー!」
 姉が普段はまったく出さない大きな声で家主を呼ぶと、奥のほうで何かががたがた言っているのが聞こえた。続けて、入ってこいよ、という叫び声が続く。
「ああ、奥にいるんだ」
 姉はさっさと上り框の前まで足を進め、そこで慣れた調子で靴を脱いだ。わたしのほうを振り向いて、ついてきて、という意味の目配せをする。
 外から見えたのは家の正面だけで、奥に長い建物のようだった。そしてそれよりも驚いたのが、細く長い廊下の片側の壁一面が書籍とCD、レコードの詰め込まれた本棚になっていることだった。
「すごい本棚」
「天然木のキット、遠くからわざわざ取り寄せて組み立てたんだって」
 姉がそっとその棚に触りながら答えた。柱の部分に金属製のパイプと木材が打ち付けられていて、天井から腰ほどの高さまで、四段ほどの棚板が五メートル以上の長さで渡されている。光沢のある棚板は、ニスか何かを塗ったのだろうか。彼が自分で集めたものなのか、古書らしき本も多かった。
 入り口は物であふれていたけれど、中は整頓されているようだ。廊下の床に直接何かが置かれているということもなかった。古い和風の家だけれど、廊下には流行の北欧デザインの裸電球が等間隔でぶら下がっていて、床は磨き上げられている。古民家を再生したカフェとか、センスの良い古本屋みたいな雰囲気だった。
 一番奥の部屋から、ジャズっぽい洋楽が流れてきていた。何かを煮込んでいる匂いも。
「お邪魔します」
 姉がやっとその部屋に入っていくので、慌てて追いついた。

 台所と居間が連結されたその部屋で、西山さんが料理をしていた。
「いらっしゃい。ああ、妹ちゃんも来てくれたんだ」
 この間、ファミレスの前で出会ったときよりもリラックスした様子だ。黒いカフェ風のエプロンをして、瓶入りのビールらしきものを飲んでいる。
「もう飲んでるの」
「料理してたら暑くてさ。今若いのが帰ってくるらしいから」
 姉がそうなんだ、と言いながら買ってきたビールとお菓子の袋を西山さんに突き出した。癖なのだろうか、前回と同じく彼の顔を見上げて差し迫ったような顔をしている。
 西山さんはそれに気づいていないのか、サンキュ、と姉の手渡した袋を受け取って、作業台にしているらしいテーブルの上に中身を広げ始めた。
「あ、イカの姿揚げ。さすが篠永さん、わかってる」
「ねえ、それよりあれあった?」
 姉がさっそく尋ねると、西山さんは無言で親指を廊下に向けた。
「一番左の端っこ。おまえでも届く高さに置いておいてやった」
「良かった。ありがとう」
 西山さんがふざけてした偉ぶったような物言いには一切触れず、姉はさっさと廊下に出てしまった。
 どうしようか迷っていると、
「妹ちゃんは、仕事上がりかな?」
 彼はわたしに向かって、姉に対してよりも少し高めの声で尋ねた。
「あ、はい」
「じゃあお腹すいてるよね。こっち座って」
 西山さんが椅子まで引いてくれようとするので、
「大丈夫です。あの、お手伝いは――」
 言い切る前に、そうだ、と彼は呟き、わたしをシンクのほうまで誘導した。
「手を洗って、席についてくれればいいよ。一日頑張って働いてきた女の子をこき使うなんて、うちではあっちゃいけないことなんだ」
 ひどく優しい言い方だったけれど、それ以上の言葉を返せないような強さもあった。その空気に押されて、つい言葉通りにしてしまう。
「西山、妹には優しくしてね」
 廊下のむこうから姉の牽制の声がした。
「妹にはってなんだよ、人聞きが悪いな。気になるならこっちで読めって」
 西山さんが笑いながら返し、食器棚からいくつか器を取り出して料理を盛り付け始める。そわそわしているわたしを落ち着かせてくれようとしたのか、彼は手を動かしながら口をひらいた。
「元々は祖父母の家でね。子供の頃から居候してたんだけど、ここ数年でふたりともむこうに逝っちゃってさ。そのまま僕が引き継いで住んでるんだ。ごちゃごちゃしててびっくりさせた?」
「はい、ちょっとだけ。すごく色々なものがあるんですね」
 振舞われたお茶を飲みながら答える。
「入り口のものはほぼ売り物だよ。最近ちょっと忙しくて、きちんと片付いてないけど」
 西山さんは楽しそうに答えた。大きな青い器に菜箸でロールキャベツをひとつひとつ積み上げている。
「副業みたいなものですか?」
「まあね。今はあんまりこれが本業って決めないで、色々やってます。というわけで、先にふたりで食べよっか」
 目の前に並べられた料理はどれもやわらかい湯気を上げている。
「あの、待ちますよ」
「うちは適当がルール。熱いうちのほうがうまいから。好き嫌いがないなら適当によそっちゃっていい?」
 西山さんは言いながら、菜箸や取り分け用のスプーンでわたし用らしいお皿に料理を取り分けだした。大根と鶏の煮物、ポテトグラタン、ロールキャベツ、きのこのパスタ。サラダやピザの類はすでにテーブルに並んでいる。自炊し慣れている人の料理だ。
「まあ、たぶんわけがわからないうちに連れてこられたんだろうけど、変なものは入ってないんで。召し上がれ」
 親切なお兄さんという感じで彼は言った。
 本当にその通りだったので、素直に手を合わせて西山さんの料理をご馳走になることにした。本人がこちらに気を遣ってくれているのが手に取るようにわかったから、というのもある。
 彼がビールを飲みながらにこにこと見守っている中で、わたしはお皿の一番手前に盛られた煮物を口に運んだ。良く味の染みた、優しい家庭の味だった。
「あ、美味しいです」
「それは良かった。好きなものがあったら遠慮なく手、出してね」
 彼が言って、廊下の姉にもう一度声をかけた。篠永。返事がないのは集中しているせいだろう。すみません、と言うと、慣れてるから、と彼は笑っていた。

「おそらくないんだろうけど、一応訊かせてくれる? 俺の話、お姉ちゃんから聞いたこと全然ない?」
 西山さんは苦笑いしながらわたしに尋ねた。
「――姉は、自分の交友関係はまったく家族に話さないので」
 はっきりとした肯定よりはましだろうか、と思って答えた。
 西山さんはその答えに特に驚いた様子もなく、そうだろうな、と笑っただけだった。予想通りの答えだったのかもしれない。
「ふたりは仲が良いの?」
 西山さんがグラタンを取り分けながら質問を重ねた。大きな木製のスプーンを器用に使っている。
「そうですね。喧嘩らしい喧嘩って、あんまりないです」
「ああ、してなさそう。ていうかあいつ、そんなに感情的になることってないんじゃない?」
「大人になってからは、全然ないですね。どんな気持ちでいるか、言葉で細かく説明はしてきますけど」
 わたしの答えに、彼はああ、それやるよな、と同意した。
「姉とは、中学から一緒ですよね? どんな生徒でした?」
「十四の時から、塾でね。妹さんの前で言うのもあれだけど、あの調子ですよ、昔から」
 懐かしそうに、目を伏せながら言った。この人はくつろいでいるととてもゆったりとした雰囲気を出すらしい。
 西山さんはそのまま、姉が同年代の人達の中で見せたいくつかの際立ったエピソードをわたしに話して聞かせた。頭の回転が速い彼の話は機知に富んでいて、家族の知らない姉の姿を想像するのも、そう難しくはなかった。
 彼は、姉のことをよく見ていた。
 きっとこの男の人に、姉は自分が思っている以上に世話を焼かれてきたのだろう。話の内容から、姉が集団から決定的に離れてしまわないよう気を揉んでいた姿が想像できた。
「今まで色々な変なやつを見てきたけど、やっぱりあれ以上のには会ったことないよ。あんなに何も保険をかけずに生きてて、しかも本人がまったくそれに気づいてない」
「わたしには、その辺りのことが全然わからなくて」
「大丈夫、わからないのが普通だから。ここには割と早いうちから来てたんですよ。祖父母が目当てでね」
「西山さんの、おじいさんと、おばあさん?」
「そう、すごく気が合ってたんだ。うちには男の僕しかいなかったから、篠永が来るのが楽しみで。帰るときは次の約束まで取り付けるほどだったんですよ。あいつも律儀にそういう約束、守ってくれて」
「全然知りませんでした」
「言ってないんだろうな、と思ってた。でも、こっちに戻って来たらいつも土産持って寄ってくれて、ふたりの葬式にも飛んで来てくれたんだ。ひどく泣いてね、報せてかえって悪いくらいだったよ」
 そういえば、姉が妙に頻繁に帰省してきた時期があった。
 お世話になった人のお見舞いと言っていたから、中高どちらかの先生とかだろうと思っていた。しばらくそれが続いたある日、赤い小さなスーツケースを手に姉が突然帰省してきた。傷ついた表情で「不幸があった」とだけ言って出かけて行った。確かに、数年前だった。
「僕は昔から堅苦しいのが好きじゃなくて、あまり品行方正でもなかったから。祖父母はお姉ちゃんみたいな人に何とかして欲しかったみたいでね」
 西山さんが、懐かしがるような表情で漏らす。

 言われてふと、姉がファミレスで話したことを思い出してしまった。
 ――あの人、担任と仲良くなりすぎちゃって。

 話がそちらに流れていかないようにしなくては、と思っていると、
「ところで君は、今の彼氏とは三ヶ月くらい経ったってところ?」
 西山さんはわたしのほうを見ながら、何気ない口調で続けた。
「え?」
 突然の質問に言葉を失っていると、
「あ、違ったか。何となくそんな感じに見えたから」
「それ、占いか何かですか?」
「いやいや、推測」
 西山さんは頬杖をついて、こちらに向かって笑いかけている。
 含みがあるようなものではなく、どちらかといえば無邪気な表情だった。それが余計にこちらを不気味なような気持ちにさせる。
「当たってます。ぴったり三ヶ月です。何でわかったんです?」
「ああやっぱり。いや、本当に雰囲気ですよ。僕、なかなか女性と縁の深い人生でして」
 縁っていうか、因縁っていうか。
 彼はそう言いながら、ビールの瓶をゆっくりと傾ける。
 それは人のことがわかる根拠として認められるものではないのではなかろうか、と思っていると、彼は続ける? とわたしに尋ねた。
 すでに酔っているのだろうか。恐る恐る頷くと、
「たぶんだけどさ、今、育ちの良い感じの男と付き合ってない? 落ち着いた、善良な感じの。もっと若い頃はもう少しやんちゃな感じが好きだったんじゃないかなあ。その感じに慣れてなくて、ちょっと気まずくなったりとかした?」
 西山さんが首をかしげながらも、なめらかに言った。 
 背筋が凍った。
「なんで、わかるんです」
 椅子に座ったまま後ずさりしそうになってしまう。
「持ち物の傾向、表情とか、全体の雰囲気かな。バッグは付き合う前だけど、ハンカチは最近買ったのじゃない? 感じが全然違う。髪の色もだね。ここで色が深めに変わってる」
 口にしながら彼は自分の頭の側頭部を指差した。指の長い人だな、と思った。
 説明してから我に返ったらしい。あれ、ごめん。俺もしかして今気持ち悪いか、と尋ねられる。やっぱり酔っているのだ。
「当たりすぎて、ちょっと怖いです。姉から何か言われてるとかじゃないですよね?」
 思わず両手をあげて言ったけれど、同時に姉には天野さんのことは何も話していないと思い出した。この人はいったい、何者なのだろう。
「ないない。いや、でもここまで当たるとは僕もまだまだいけそうだな。もし困ったことがあったら、相手連れて話しにおいでよ」
 西山さんは何てことない、という余裕な感じで答えた。

 姉と気が合う人物が、変わっていないわけがなかった。
 距離の詰め方といい、家の中から話の内容といい、この人は濃すぎる。

 頭を打たれたような気分になり、無意識に愛想笑いを浮かべていた。
 西山さんは仕切りなおすように、まあまあ、と言いながらコップにジュースを注いでくれた。そして、
「篠永、どうせ貸すんだからそれ持ってこいって。暗いし、長くいると冷えるぞ」
 廊下でまだ立ち読みをしているらしい姉にむかって、強めに告げた。
 少し遅れて、姉が本に目を落としたまま体だけ引っ張られてきたように部屋の中に入ってきた。
「なあ、なんだって今それが読みたかったわけ?」
 姉の手には古く色あせた大判の書籍が抱えられていた。著者の名前は、英語表記ではないらしくわたしには読めなかった。中身が難解なのは確かだ。
「前にここで読んだときに書いてあった文章を思い出したんだけど、その前後の部分を忘れてしまって。新版だったら手に入ったんだけど」
「初版じゃないとだめなのか。で、それが今やってることに関係あるの?」
「あるといえばあるし、ないといえば、ない?」
 姉が詰まったような答え方をすると、西山さんははっきりしねえな、と笑いながら立ち上がった。哲学書は元々おじいさんの趣味で、彼のものではないらしい。
「おまえ、昔から本当にその手の好きだね。変わんないな」
 姉の前にわたしと同じ皿を置きながら彼が言い、
「本当の意味でわかってはいないと思うよ。ただ、自分が見ているものが何なのか、他のものにはあんまり書いてないから」
 姉は椅子を引きながら、困ったような声で答えた。
 専門的な本を読むことをあまり良く思っていなかった昔の大人達のことを思い出したのかもしれない。良くない思い出が喉にひっかかっているような物言いに、姉の友人は苦笑した。
「それ、欲しかったらやるよ。(まさる)の本は捨てられないけど、正直ちょっと多すぎるんだ」
「形見はもう貰ったじゃない。じゃなくて、おじいちゃんをそうやって呼び捨てするの、やめなよ。誰も叱らないからって」
「まあ、考えとけって。俺はたぶんそっち側には一生関心ないから」
 姉の説教を無視して、西山さんは言った。


 あのあと、西山さんが『時々面倒を見ている』という若者達が合流して、とてもにぎやかになった。
 話を聞けば彼は友達がやっているという音楽教室で週に数回ほど音楽理論の代理講師もしているらしく、そこに出入りする若者に懐かれてしまったとのことだった。
 ――元々の講師が肝臓なんかやったばっかりに、こんなやつらとの縁が出来ちゃってさあ。
 西山さんが言うと男の子達はそれぞれのトーンで、ちょっと西山さん、と声をあげた。
 アシッドジャズ風のバンドをやっているというその三人組は、それぞれを林、有紗、祐樹と呼び合っていた。近場のライブハウスでは少しずつ名が知られてきたらしく、今度見に来てくださいよと林くんが人懐こい笑顔でわたし達に言った。
 食事をご馳走になったお礼に、食器を洗い片付けてからわたし達は家に帰ることにした。
 姉がまるで当然のようにシンクの上の戸棚を空けて布巾を取り出すのを見て、改めて驚いた。そこにあることをすっかり把握しているような仕草だったからだ。
 林くんと祐樹くんは今夜ここに泊まることになっているらしい。部屋の一角に積みあがっている大量のボードゲームの箱から、すでに何かを引っ張り出して広げ始めていた。双子みたいに仲の良いふたりだ。思わずそう口にすると、ウーロン茶を飲みながらあれはただの男子中学生だと西山さんが言った。最近仕事の邪魔ばっかりされてるよ、俺。
 わたし達は有紗ちゃんを家まで送ることにした。歩いて帰るつもりでいたという彼女の家は、うちからそんなに離れていなかった。
 右耳の後ろの髪だけ真っ赤に染めた有紗ちゃんは、家の前でふわふわした声でお礼を言った。お家まで気をつけてくださいねと、にこやかな笑顔のままでお辞儀してくれた。
「何だか、丁寧な子だね」
 姉は驚いていた。数時間前は、彼女のピアスを凝視しながら衝撃を受けていたのだ。耳に安全ピンを着けてるの、と。
「今の若い子はだいたいそうだよ。服装関係ないよ」
 いくつも違わないくせに、ついそう言ってしまった。

「西山さん、すごく不思議な人だった」
 帰りの車の中で出た一言には、色々な感情が自然とこもった。
 それまでぼうっと何かを考えていた姉は、少し遅れてうん、と頷いた。
「ちょっと過剰なところがある人だからね。変わった人達がいつの間にか集まってくるの。でも、そうね。何かひとつ違えば、全然違う人生になってた人だと思う」
 借りてきた本を、姉は大事そうに胸に抱えている。
 それはお姉ちゃんも同じだと思うよ、と返そうか迷った。
 あの混沌とした空間の中で、当たり前のように西山さんと会話をしていた姉。見るからに大人しい姉と打てば響くように喋る西山さんは、普通にしているとまったく接点のないふたりに見える。それなのに、一度口をひらくと会話は延々と続くキャッチボールみたいだった。
「同い年だけど、兄と妹みたいに見えたよ」
 わたし達には異性のきょうだいはいないけれど、もしいたらあんな感じなのではないだろうか。姉が家族に見せているのとは違った顔をしていることに、さすがにわたしも気がついていた。いつもの静かにしていたいままの大人しさで、でも素直に喋っていた。彼が自分の言葉を誤解せずに拾ってくれるとわかっているような、力の入っていない、気を許している喋り方だ。家では、あんな話し方はまずしない。
「兄と妹か。まあ、誕生日はむこうのほうが早いよ。一ヶ月ちょっとくらいだけどね」
「そうなの?」
「うん。でも出生時刻が近くって、むこうが十一時ちょうどで、わたしが十一時五分」
 十五年間あれば生まれた時間の話もするかと思ったけれど、何となくその、知っていて当たり前という感じに圧倒されてしまう。
「同じ病院?」
「ううん、あの人六歳からこっちに住んでるから。生まれたのは千葉だったかな」
 房総のほう、と姉は付け足している。
「――そうなんだ」
 何気なく返したつもりだったけれど、どこか重い相槌になった。
 正直に言うと、実はかなりの世話焼きらしい彼が当たり前のように姉の面倒を見ているところを見てわたしは寂しくなっていた。
 西山さんは姉の小さな感情の動きもまったく見逃していなかったし、姉もそのことに慣れきっていた。自分の気持ちを彼に委ねて、そこにすとんと置かれたようにリラックスして過ごしていた。まるで、言葉でのやりとりなんて交わしてるものの一部でしかないみたいに。こういう姉を、わたしは今日まで知らなかった。
 自分の姉は誰に対しても同じ態度でいる人だと思っていたのかもしれない。人の中には簡単に入っていけない性格だと思っていたのに、心を許している人物が思った以上に身近にいたのだ。この人には自分の本心を長く見せてきている、とわかる接し方だった。家族には言えないことも、あの人には打ち明けてきたはずだ。
 自分だけに懐いていると思っていた野良猫に、自由に寝泊りできる家があったと知ったら同じ気持ちになるかもしれない。離れた場所で恋人を普通に持っていた姉に対してそう思うのも、おかしな話だけれど。
「知らなかったな、全然。あんな仲のいい人がいたなんて」
「知り合って四年くらいで地元出ちゃったからね」
 姉は少し困ったように笑った。

 相手が同性でないところが、また何とも言えず複雑だった。
 同性の細かい機微に共感しづらいぶん、男友達のほうが作りやすかったのかもしれない。それでも、姉が仲良くなる相手として彼はやはりハードルが高い相手に思えた。
 西山さんは、おそらく人の輪の中にいつづけていた男性だ。
 クラスで常に真ん中にいる一番のタイプじゃなくて、その少し後ろにいる正統派の、ちょっと大人びた男の子。バランス感覚があって、どこまでが大人に怒られない振る舞いなのかをよくわかっていて、周囲にも静かな信頼を寄せられている器用な子。自分から多くは喋らないけれど、口をひらくと妙にユーモアのセンスがあったりするような男の子だ。かつてはそういう少年だった男性が、わざと自分を少し崩して振舞っているような印象があった。
 どんなふうに打ち解けたんだろう。不思議に思ったけれど、何となく雰囲気に押されて尋ねることができなかった。今はそのままにしておいたほうが良い気がする。
 現在恋人はいないと言っていたはずの西山さんの家で手洗いを借りたとき、洗面所に水滴のついたメイク落としの瓶と黒っぽいワンピースが置きっぱなしになっているのをつい見てしまったことも、わたしは姉に話さないことにした。


 水が球体のかたちに薄い膜を作る噴水のむこうに、赤いハート型の風船がいくつも浮かび上がっている。天野さんから送られてきた画像は友人の結婚式のもので、彼はその演出をわたしに見せてあげたいと思ったらしい。
 彼の配慮だろうか、当の新郎新婦の姿は入っていなかった。
 ただ噴水越しに斜め上を見上げた、中空に舞う風船の写真。
 すごく素敵、と打ってから、絵文字をどうしようか悩む。スマイル? ハート? あまり妙な意図が入らないように、驚いている顔ときらきらした絵文字を続けて入力して送った。結婚式に関する個人的なコメントをするのは、絶対、今じゃない。
「なあに、真剣な顔して」
 母がおかしそうに言った。

 母の作業部屋は、元々は祖母のために作った四畳ほどの小さな空間だ。
 一階のトイレの横にこの小さな和室を作った理由を、わたしは成人してから知った。いずれ田舎の祖母が独りになってしまったときに引き取る予定だったらしい。実際のところは独りで暮らすことが困難だと周囲に判断される前に祖母は急逝し、この家に父方の祖母が入ることはなかったのだけれど。
「人との距離感がつかめなくて」
 壁に寄りかかったまま答えた。
 母は、あなた達の世代でもそんなことってあるのねえと言いながら手元に目を落とす。老眼鏡を目の下半分まで下げているので、いつもより年を取って見えるが言わないでおく。この部屋にはテレビがないから、母は作業中にはいつもラジオをかけている。この時間はクラシックだ。
「どの世代でもそうだよ」
 言い返しながら、スマートフォンの画面をもう一度確認する。急接近も後退も無礼討ちも自由自在だからこそ、細心の注意を払わなければいけないこともあるのだ。
 母は型紙と布を見比べながら、柄を入れるらしい位置を手で測っている。ブルーのチャコペンでところどころに小さな点をつけているようだ。久々に人に頼まれた大きな作品らしい。採寸を少し手伝った後、することもなく部屋に残って母に話しかけ続けていたところだった。
 母はへえ、と相槌を打ってから、
「わたし達の時代はそんな便利な機械なかったからなあ」
 と、空いているほうの手でわたしの手を指差した。
「えっと、ポケベル世代?」
「あら良い子ね、そんなに若く見える?」
「その返しで違うなって確信しました」
 にこやかに答えると、母は大げさにわたしを睨む真似をした。
 家で仕事ができるって、向き不向きがあるんだろうけどね、わたしには向いてるわ。母が昔から幾度となく繰り返していた言葉だった。女の子ふたりのお母さんだと手がかからなくなるのは早いわよって友達に言われて、何のパートをしようか悩んだものだけど、ついてたわ、と。
「で、手がかからなくなるのは早かったの?」
「比較対象がないじゃない。でも、基本的なことは早かったわね、ふたりとも」
 即答されてしまう。
 実際、わたし達は自分の身の周りのことが自分でできるまではそんなに時間がかからなかった。母が姉に教え、姉がわたしに教えるかたちだったからだと思う。面倒くさがりのわたしのために姉が考案したいくつもの生活のアイデアは、わたしの良くない性質の一部を確実に助けたと思う。あれがなかったらわたしの部屋はもっと散らかっているし、忘れ物と探し物に悩む時間はもっと長かっただろう。

 ところで、と切り出したのは母だった。
「お姉ちゃんから、何か聞いた?」
 手元に目を落としたまま尋ねられた。
 あれからも、姉は両親に自分の話をしていないようだ。相変わらず粛々と自分に与えられた家事をこなし、運動のために散歩に出かける暮らしをしている。家に入れているお金は月に四万円。わたしより多い。働いていないのだからと母が断ろうとしたけれど、気兼ねなくお風呂に入ったりご飯を食べたいからと譲らなかった。
 最近では母と姉がキッチンに立っている姿を見ることも多い。母親と心優しい長女が信頼しあいながら家の事をしているようで、その光景は平和な感じすらした。
「あんまり、言わないね。でも、すごく凹んでるとか傷心してる感じもないよ。何か答えを出そうとはしてるけど」
 姉の姿を思い浮かべながら答えた。あれで内心ぼろぼろだとしたら、隠すのが巧みすぎてちょっとお手上げだ。
 姉は自分の世界から出てくれば、人格の静かな落ち着いた人物でもある。あまり口数は多くないけれど、迂闊なことを口にしたりすることは滅多にない、賢い人だった。

 ――自分のやっていることはよくわかってる。

 昔、奇行に近いことを繰り返していた頃だ。姉はたびたび母やわたしの前でそう言った。姉は昔から本心を打ち明けるときだけ、文章みたいな喋り方になる。
 ――周囲から自分がどんなふうに見えているのかも、人とは違うものばかり見て、母さんの言う大事な時代を無駄にしているのかもしれないってことも、よくわかってる。そのことについて、大人になったあとで泣き言を言わないし、責任転嫁もしないって約束する。
 そんな風に続けた。まるで泣き出しそうな生真面目さで。
 姉が青春時代と呼べる時代に年相応のことをどれだけしていたのか、わたしは知らない。野外のあちこちで思索に耽り、同級生の祖父母に懐き、人をほとんど寄せ付けないで。
 放課後のカラオケ。ファストフードでのだらだらしたお喋り。部活動。友人達との海。手帖や手鏡いっぱいに貼られた写真。駅ビルでの買い物。女子会。男女混合の『いつものメンバー』を持つこと。アルバイトして貯めたお金でする旅行。うちにいるあいだに姉の選ばなかった色鉛筆は、たとえばそういうものだ。
「昔から自分の本当の考えは絶対言わないのよね」
 母がふう、とため息をついた。
 理想的な娘の部分が強いからこそ、姉がより多くの不満を両親に抱かせていたのは確かだろう。姉の心優しく、周囲が必要としているものを自然と察する力を母はとても愛していた。他の厄介な部分を手放してくれたらどんなに良いかと、態度で表し続けてしまうほどに。

「何かあったら報告するから」
 立ち上がって、わたしは母の後ろにまわる。肩を揉むことにした。

水曜日のシャツを脱いだら【上】

▼つづきはこちらから
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水曜日のシャツを脱いだら【上】

「しばらくそっちに戻ってもいい?」 夏の終わりの夜にあった一本の電話で、家族に変化の兆しが見えた。 子供の頃から哲学や心理学に夢中だった、風変わりな姉が十一年ぶりにこの町に戻ってくると言う。 恋人と別れ、仕事も辞めて、でもその理由は決して家族に明かさない。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-29

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 01|夕暮れの町、彼女の世界
  2. 02|姉の帰郷
  3. 03|日々
  4. 04|その準備
  5. 05|彼女の夏の喪失
  6. 06|旧友