人間毒
四日前 ― 店頭の電話口で
「—お電話をいただきましてありがとうございました。そういたしますと、昨日お越しの際に、トイレの個室にコートをお忘れになられたのでございますね。―そうですね、トイレをお探ししたのですが、見当たらなかったようでございます。今一度よく店内を見直してみます」
「そうなのよ。それがね、帰りがけにトイレに寄ってから、お会計をしようと思ってね。確か個室の中の上着を掛けるところだと思ったわ。ちゃんと捜してちょうだいね。昨日は暖かかったから上着のことを何も考えずにそのまま帰ってきてしまったのよ。気が緩んだのね。でもさぁ、昨日の料理はおいしかったわよねぇ。なんだっけ、〝地中海風なんちゃらかんちゃら〟・・・・・・」
「はい、ありがとうございます。〝地中海風ブイヤベース〟でございますね。これはもとは南フランス地方の鍋料理でございまして、地中海で食されている野菜や青魚をハーブやスパイスで煮込みました。そうですね―、わたくしどもでは、店舗内のトイレは一日に4回ほど定期的に清掃しておりますので、その時に大抵はお客様のお忘れ物は気づいて保管しておくのですが、現時点ではコートは見当たらなかったのでございます。その日に見つかった物は老眼鏡一点と携帯電話一台しかございませんでした。」
「いいえ、確かにトイレに間違いないの。んー、あの、あれ。あそこのねぇ。扉を開けて裏側よ、裏のフック―。それからね、その老眼鏡もあたくしのよ、明日取りに行くから保管しておいてちょうだい」
「わかりました。コートのほうは今一度よく確認しておきます。ございましたらご連絡いたしますので、ご連絡先をお聞かせいただけませんでしょうか?」
「あなた何を言うの? 個人情報は簡単に教えられませんことよ、このご時世にそんなこと。こちらかご連絡するわ」
「そうですか、ではまたお待ちしております。この度はご不便をおかけして申し訳ございません」
「あっ、そうそう。あたくし、これから11時半に内科の予約を入れているのよ。咳の発作がこのところひどくてね。どうもちまたで流行っている百日咳じゃないかと思うのよ。飛沫で感染して広がっちゃうから、ワクチンでも打っていただこうかと思っているわけ。でもね、あたくしは注射は子供の頃から苦手なのよね。あたくしも八十過ぎにもなっておとな気ないですわね、オホホ。でも、嫌なものは嫌ですもの。我慢できないものはできないわ、さすがにね。あっ、そろそろタクシーを呼ぶ時間だわ。もう歩けないから、移動はもっぱら車を使っておりますのよ。とにかく、また電話するから、よーく捜しておいてちょうだい。あれがないと明日以降はまた寒くなるっていうでしょ。確かなんだから、なかったらあなた弁償よ。誰か持って行ってしまってたら、あなたたちの管理不行き届きじゃないの。まだ買ったばかりなんだから。(えっ、何? もう時間? はい、はい)いや、すみません。家人がもう、いろいろ言いますので、じゃあまた後日」
「わかりま―。あっ、切れちゃった。ずいぶんだわね。じゃあ、もう一度店内をよく確認してみなきゃ。また、連絡いただけるっていっているから、そのときにまた状況をお伝えするようにしましょう」
昨日 ― 飲食店内で
「いらっしゃいませ。〈レストランアンシャンテ〉にようこそ」
「あのね、2、3日前にここに、コートをね―」
「はい、数日前にお電話いただきましたお客様でございますね。どうぞ、こちらにお掛けになってください。わたくしども、あれから一生懸命お探ししたのですけれども・・・・・・」
「それがね、あたくし―。よく見たら家の洋服箪笥にあったのよ。昨日はほかのものを着ていたのねぇ。あたくしとしたことが何をやっているんでしょうね。あと、老眼鏡もちゃんとバッグにあったわ。いつもはこんなことないんですけどね。これでもまだ耳も聞えますしね、視力も悪くないのよ。あらあら、そんなにあきれた顔してにらまないでくださる? 悪気はないのでどうぞお許しくださいましね。そういう風によかったと言ってくださるだけで、あたくしも安心できるというものですわ。ここだけの話ですけどもね、今はねえ、こんなよぼよぼの年寄りだけどね。若い頃はあなた、〝ミス日本〟のファイナルまでいったの。それはもう順風満帆の輝かしい時だったわ。ファイナルと言ってもね、そりゃあ、雑誌の取材やら放送局のインタビューまで当時はそれは忙しいスケジュールだった。美味しいものもいっぱい食べさせていただいて、いい思いをさせていただきましたわ。うちは北条家の血筋でございましょ? 子供の頃から必ず毎日家訓を唱えさせられましたの。それが終わらないことには、あと何もできなかったからね、結構不自由しましたのよ。あたくし、わがままですから、そのようなことはすぐ飽きてしまってね、眠くなってうとうとしていたら、父親はものすごい剣幕で怒鳴り出しましてね。子供ながらにいや気がさしてしまったんですの。ほんとにこんな家系でしたけども、普通の生活をしたかったですわ。うちの主人は五年前に亡くなりましたけど、YCP社の社長でございましょ? 愛車はポルシェ、普段は東京青山離宮にいっしょに食事に行ってたんですけどね。主人には贅沢させていただいてほんと感謝していますわ。もうあたくしは車の運転はできない年齢ですから、タクシーで移動するしかないのよ。こちら様のように、たまには庶民の方々がいらっしゃる格安のお店もよろしゅうございませんこと? オホホホホ」
「そうでございますか。さぞかし―」
「でも、お食事はおいしいものをたくさんいただけて幸せでしたわ。あとは―」
「お客様、そろそろ店内がランチタイムで別のお客様で席が埋まってまいりました。奥をご案内いたしますので、ご移動をお願いしてもよろしいでしょうか。どうぞこちらへ」
「いいのよ、お気遣いいただかなくても。ああ、そうそう。内科の予約を13時に入れてあるのよ。この前も言ったけど、咳がひどくてね」
「—でも、お客様」
「いいって言ってるでしょ。あたくしのお話を少しはお聞きなさいな。病院もいかなきゃいけないし、一週間後に食事会に招かれているから、ネックレスを新しくあつらえたいのよ。だから、忙しいから、今回のコートのお話は―」
「申し訳ございません。店内が大変立て込んでまいりました。お話はよくわかりましたので、よろしければこのあたりで・・・・・・」
「何言ってるのよ、まだ話は終わってないの! まったく失礼しちゃうわね。コートはね、おうちにあったから、ゴホゴホゴホ、ゴホッゴホッ」
「お客様、お客様、大丈夫でございますか?」
「ゴホ、ゴホ。構わないでちょうだい。何であたくしの話を―、ゴーホッホッ」
「ですから、この席でお食事をなさらなければ、奥の別席にお移りいただきたいのです。この席はお食事をなさらなければ他のお客様にご利用いただきますので―、あちらのお客様は注文に来るのをずーっと待ちくたびれていらっしゃいます。もう一人の接客係だけでは回らなくなってまいりました」
「うるさい。あたくしも血の気が多いほうなの。もうね、こうなったらあたくしね、用が済むまで帰れないわ」
「顔色もよろしくございません。どうか早く病院に向かわれたほうがよろしいかと・・・・・・」
「ええぃ、黙りなさい! あたくしを何だと思っているのよ。あたくしは北条家末裔の―。あああ」
「お客様、お客様。しっかりしてください。誰か、誰か! お客様が倒れられました。早く救急車を!」
「ああ、救急隊員の方がなんとかお客様を説得して病院に向かわれたわ。だいぶ興奮されていたので、急に頭に血がのぼって気を失われたのよ。しばらくすると気づいて、本人は大丈夫だからとしきりに救急車に乗ることを拒んでいたけれども、とても立ち上がれる状況ではなかったし、あの分では診察をしてもらって少なくとも安静にしていないといけない状態だわね。救急隊員の方々も説得をして何とか連れて行かれけども、だいじょうぶかしら」
今日 ― とある新聞紙面で
〝十六日午後、東京都港区広尾の山の手病院に資産家の北条千代(八五)さんが区内の飲食店から救急車で搬送された。軽い脳梗塞で一時意識不明に陥ったが一命を取り留めている。病院に到着後、一時間ほどで意識は回復したが、安静にするよう担当医師が指導したにもかかわらず、忙しい医師に身の上の話を延々と話をし始め、次第に興奮状態に昇りつめると、再び床に卒倒したという。その当日、飲食店で以前忘れたと錯誤したコートが自宅で見つかったことを告げるために、この飲食店に訪れ、事情を説明している最中に同様に倒れ気を失い、救急搬送されていた。北条さんは地域でも有名な浪費家で、日頃から、普通の生活では飽き足らず、衣食住に莫大なお金をかけていたという。病院では身の上話を一向に止めようとせず、看護師が安静にベットで休むよう指示しても突っぱねていた。自分の気持ちを抑えきれず、言いたいことはすべて口にしておかないと気が済まないようで、自慢話を看護師相手にぶちまけていたものとみられる。持病の百日咳がそのうちに止まらなくなり、苦しみ出してそのまま昏睡状態に陥り、高度治療室で懸命の処置が行われている。〟
(了)
人間毒