ボブ_ケース4 保険請求する男
ボブ_ケース4 保険請求する男
結局、保険請求したことについて、ボブは恋人からなじられた。
こうなることはわかっていたからボブは彼女に黙っていたのに、問いただされるとボブは嘘がつけないのだ。
膝の靭帯を伸ばした損傷について、ボブは自分でかけていた医療保険の会社に医療費の請求をした。
それにあたって治療代、薬代、通院にかかった交通費、その他の諸経費の領収書などを合わせ必要書類を送り保険料を受け取ったのだが、恋人はそれをせこいと言って怒った。
「私が知らないうちにそんなものをせこせこと集めていたのね。書類まで書いて」
書類を書かなければ保険料は受け取れない。
「確かに、君の意見も考えてみたさ。でも、どう考えても今回は僕の方が正しいと思う」ボブは言った。
「正しいとか間違えているとかなんてどうでもいいわよ。ただ、私はせこいって言っているの」
「せこい」という言葉にはボブはダメージを受けた。ボブはしばらく黙り込こみようやく口を開いた。
「君にせこいと言われようが構わない。僕は請求するよ。だって保険というのはこういう時のために入ってるんだから。たとえそれが君が言うところの絆創膏を貼っときゃ治るような軽傷だったとしてもね」
「するよ、じゃなくて、しちゃったんじゃない。私にコソコソ隠れて」
「別にコソコソなんてしてない」
「じゃあ、どう?私が聞かなかったら保険のことはずっと黙っていたわけでしょう?あたかも実費で治療を受けたような顔をしてとぼけて。そういうところがせこいって言ってるのよ」
ボブは何か言い返してやりたかったが何も言葉が出てこなかった。ボブは込み上げてくる怒りを抑えてグウッと空気を飲み込んだ。
「気持ち悪い」
恋人はボブから顔をそむけた。
1ヶ月ほど前、ボブと彼女は夏の休暇で旅行に出かけた。
今回は趣向を変えて、キャンプ場でテントを張り自然と親しんでゆっくりと時間を過ごす予定だった。
彼らはカヌーに乗ったり、魚釣りをしたり、木立の間にハンモックを吊って昼寝をしたり、キラキラと素敵な時間が流れた。
二人は焚き火の炎に見入り、彼女はボブの肩に頭を預け、ボブは彼女の肩を抱きながら焚き火の番を続けた。
ボブは自分がワイルドな男になったように感じた。とにかく二人はうまくやっていた。
ところがそれは旅行が終わる2日前に起こった。
その日もボブたちは湖に小舟を浮かべて優雅な時間を過ごそうとしていた。
ボブが桟橋からキンキンに冷えた白のスパークリングワインが入ったクーラーボックスをボートに運ぼうとしている時だった。
杭にくくりつけていたロープがはずれ不安定にボートが揺れた。
ボートはボブの右足を乗せ、左足を桟橋に残したまま沖に向かおうとしていた。
右足と左足の距離はどんどん広がっていく。
両手にはクーラーボックスを持っている。ボブは焦った。
重心を左足に戻して桟橋側に上体を立て直そうとした時、すでにボートに乗り込んでいた彼女が、ボブの腕をぐいと引っ張り込んだ。
それでボブはバランスを崩し湖に転落した。
さらに焦ったボブはボートの縁につかんで片側に体重をかけた。
それで結局、ボートはバランスを崩して転覆し、彼女はびしょ濡れ。クーラーボックスは湖底に沈んだ。
ボートの上で足を踏ん張っていたボブは左足の靭帯を損傷した。
「あの時、あなたがかわいそうだと思ったから笑って許してあげたのに。せっかくの楽しい思い出を台無しにするのね」
彼女はボブを責めるように言った。
「どうしてそういうことになるんだ。楽しい思い出は楽しい思い出のままでいいじゃないか。僕が保険請求しようがそれは変わらない」
「変わるわ。私はあの時、あなたが落ち込まないように努めて明るくふるまってあげたのに。自分だけ得をするようなことをして。だったら私も濡れた服のクリーニング代とワインのお金をあなたに請求するんだったわ。あのワイン、すごく高かったんだから。あなたと飲もうとすごく楽しみにしていたのに。最終日の乗馬だってすごく楽しみにしていたのに」
「だから乗馬は君一人で楽しんでおいでって言ったじゃないか」
「そんなことできるわけないでしょ!」
彼女は頭のてっぺんから甲高い声を張り上げた。
ボブの頭は傷んだ。
確かに、自分はせこい男なのかもしれない。
治療にかかった費用は数万円程度だったし、わざわざ領収書をかき集めて書類の作成に時間をかけることもなかったのかもしれない。
でも、どうして自分のやったことで楽しい思い出が台無しになるのか、ボブにはどうしてもわからないのだ。
保険請求をしようかと思った時、ボブは彼女にそのことを相談した。
しかし、彼女はにべもなくそれを一笑に付した。
「せこい。私たちの思い出を台無しにするつもり?」
ボブには彼女が言っていることがまるで理解できなかった。
それでボブは黙って請求申請をしたのだ。
「わかったよ。黙って保険請求したのは悪かった」ボブは言った。「おわびに保険金で儲けた金でパァーっとおいしいものを食べに行こう。君の誕生日も近いことだしね。そこでまた楽しい思い出を作り直そう」
恋人は喜ばなかった。その代わりに彼女は目を剥いた。
「そんなお金で私の誕生日を祝うつもり?それがせこいって言うのよ。私が言っていること、わかってる?」
墓穴を掘ったことだけはボブにもわかった。ボブは言い直した。
「わかった。悪かった。僕がちゃんと働いたお金で払うから。君の誕生日においしいものを食べに行こう」
どこから出そうがボブが払うことには変わらない。ともあれ、二人は日を改めてデートに出かけた。
彼女が選んだレストランはなかなか財布に響きそうな高級店だった。
保険請求しておいて本当によかった、とボブは思った。
窓の外には夜景が広がっていた。フロアは雰囲気のあるダウンライト。彼女はおしゃれをして、耳にはボブが以前プレゼントした小粒のピアスが光っていた。
料理は上品でとてもおいしく、会話も弾んだ。最後にサプライズで用意したデザートのバースデープレートにも彼女ははしゃいでくれた。
成功だ、とボブは思った。
幸せな気持ちがボブを満たしていた。
食事を終え、テーブルチャージをしている時だった。
「いいのよ」と言って彼女が微笑んだ。
「何が?」ボブは聞いた。
「領収書をもらって、経費で落としてもらっても」それはとても意地の悪い微笑みだった。
途端に、ボブは悲しみの底に突き落とされた。
店を出て歩き出しても、ボブは口をきく気になれなかった。
「何よ。冗談じゃない」と言って、彼女が腕を絡めてきても、丁寧にその手をときほどくのがやっとだった。
そう。ボブは頭にくるよりも深く悲しいのだった。
それから数日間、ボブは自分から恋人に連絡を取らなかった。
でも、しばらくすると彼女のせっかくの誕生日が台無しになってしまったことをかわいそうに思った。
あの時、自分が腹を立てずに受け流していれば、もっと楽しく過ごせたのではないか。ボブは反省した。
そして恋人に電話をかけた。
彼女も反省していたらしく、二人はまたデートをすることになった。
二人は中華街のある港町で待ち合わせた。
二人はこじんまりとした中華料理店を選んで食事をした。
素朴ながら料理はどれもとてもおいしく、最初はぎこちなかった会話もしだいに打ち解けた。
もちろん彼女は「領収書をもらえば?」とも言わなかった。
食事が終わると二人は港にある公園を散歩した。
潮風が心地よく酔った二人の頬をなでた。停泊した客船や貨物船が海上にライトを落とし、とてもロマンチックだった。
二人もとてもいい雰囲気だった。
酔いも手伝ってボブはとてもいい気分だった。
月がを港の水面を照らしていた。奇しくも今夜は満月だった。
「きれいね」と彼女が言った。
「本当に」
ボブはうなずき夜空を指差した。
「あれがさそり座の一等星、アンタレス。そして東の空には夏の大三角形。ほら、あの白く輝く星がこと座のベガ。あっちがわし座のアルタイル。おり姫とひこ星のことさ」
ボブは自分のロマンチックな一面をひけらかした。雰囲気に酔っていたのかもしれない。
「東の空って何?」彼女が言った。
「東の空はあっち」ボブがその方向を指で指す。
「東なんて言われてもどっちだかわからないわ」彼女が言う。
ボブは彼女の声色が変わったことにまだ気づかない。
「わかるだろ、普通。あっちに太陽が沈むから、こっちが東って考えればいいんだよ。それで、こうとこうが北と南」
ボブは大きく腕を動かして説明する。
「どっちに太陽が沈むかなんてわかるわけないじゃない。原始人じゃあるまいし、いちいちそんなもの見ていないわよ。北とか東とか、そういう言い方しないで」
「だけど普通、、」
「そういう言い方はしないで」
ボブは黙った。
二人は黙り込んで再び静かな港の公園を歩きだした。
二人の靴音が辺りに響いた。
美しい満月が波間に光のシャワーを降り注いでいた。
彼女が水際近くに駆け寄り、ボブを振り返った。
「本当にきれいよね?」
月光を浴びて微笑む彼女のその言葉は、彼にいまいちど与えられた最後のチャンスのようにボブには感じられた。
どう答えれば正解なのか、考えれば考えるほどボブにはわからなくなってしまうのだ。
ボブ_ケース4 保険請求する男