空っぽの天使
1.イライラ
ハルカと付き合い始めたのは、大学一年の6月、サークルの飲み会がきっかけだった。俺たちは写真部に入っていた。まあ写真なんて名ばかりで、単なる旅行好きの集まりだったけど。料理を撮るやつ、猫を撮るやつ、人物を撮るやつ。いろいろいた。俺は夜空が好きだから、星の写真ばかりを撮って。ハルカは空の写真を撮っていた。
香住ハルカは美人でもなんでもなかった。胸も尻も小さいし。中性的というのか、160センチくらいで細身で、髪は短くて。いつもズボンをはいてる。
声は小さく控えめで、あまりしゃべらない。でも暗いって感じでもなくて。いつも微笑んでいて透明感があった。その透明感のあまり、存在感が薄くて。小さいサークルなのに、来てないことに気づかれない時もあった。
俺はハルカのそういうところ全てに苛立ちを感じた。初めて会った時からそうだった。
「こんにちは」
ふわっと優しく笑いかけるその笑顔がもう、嫌だった。なんで初対面の俺なんかにそんなふうに笑いかけるんだよ。
その笑顔を誰にでも見せるのかよ。嫌だった。こいつのやさしさのすべてが、俺の神経を逆なでした。
俺はいつもハルカと目を合わせないようにしていた。あの澄んだ瞳に見つめられるのはどうしても嫌だった。そのくせ、ハルカの横顔、後ろ姿はいつも目で追っていた。だって危なっかしすぎるんだ。飲みの誘いもハッキリ断わらねえし。
あんなに無理して笑顔作って、内心嫌で仕方ないだろうに。誘うほうも誘うほうだ。先輩のくせに、断りづらいのを承知で18の後輩を強引に誘うなんて。卑怯だ。
そのまま持ち帰られたいのかって思った。尻軽なのか馬鹿なのか、男ばかりの飲み会に行くなんて。襲われたいのか。まったく理解できない。
「俺も行きます」
誘われてもないのに、気づいたら俺は口走っていた。
「もっと女子も誘いましょうよ」
先輩に笑顔を作って。イライラしていた。
2.危なっかしい
飲み会では俺は常にハルカの隣をキープして、でも始終無言で飲んでいた。まあジンジャーエールなんだけど。何かしゃべればいいのに。ハルカは他人の話に微笑むだけで何の会話もふってこない。俺に興味ないのか。
俺はイライラして山盛りの唐揚げをむさぼった。ハルカはウーロン茶を飲みながら、俺の箸の動きを見るともなく見ていた。
「お前も食えよ」
俺はイライラして、直箸で取った唐揚げを小皿に盛り付けてハルカに押しやった。
「ありがとう」
ハルカはちょっと驚いたように俺の頬を見た。俺が前しか向いてないから、俺の顔は見られないのだ。
「美味しいね」
ハルカは俺に言われたとおり唐揚げをほおばると、嬉しそうに言った。イライラした。なんで言われた通りに食っちゃうんだよ。何か盛られてたらどうするんだよ。飲みかけのグラスを空けずにトイレに立つのも嫌だった。戻ってきて座ると、また何の疑いもなくそのグラスに口をつけて。なんでつゆほども疑わないんだよ。危なっかしいんだよ。俺がいい奴だって保証はあるのか? 世の中には危険がいっぱいだってのに……。
俺は唐揚げとサラダとフライドポテトと鍋と、とにかく元を取ろうとやたらに食った。取り分けられたハルカの鍋の具が必ず俺に回されて。
「ありがとう」
皿を渡すたび、ハルカは微笑んで俺に礼を言った。
3.迷子か何か
居酒屋を出て、次カラオケ行こうかって話になったとき、俺はハルカの手を取ると迷わず駅方向へ歩いた。
「お先失礼します!」
申し訳程度の挨拶を、ハルカを強引に誘ってきたサークル代表に投げつける。ヤリサーにするつもりなら今すぐ抜けようと思った。写真を出しにするな。イライラしていた。
強く手を握ったまま、ほとんど引きずるようにハルカを引っ張って歩いた。そのことも、駅まで来て手を離してから気づいた。
「ごめん」
強く握りすぎたかと思った。でも、嫌なら言えよ。受け身ばかりのお前も悪いよ。言ってることと思いが矛盾して、頭ん中がごちゃごちゃする。
「ありがとう」
ハルカはこんな俺の身勝手にも嫌な顔ひとつすることなく、笑って礼を言った。その微笑みに、俺の何かがブチっと切れて。
「ついてきて」
俺は再びハルカの手を取ると、最寄り駅まで電車に乗り、家まで歩いて帰った。ハルカは始終おとなしくついてきた。馬鹿かと思った。お前は迷子か何かか? なんで大して話したこともない俺に黙ってついてくるんだよ。俺を信用してるのか? お前は俺の何を知ってるって言うんだよ。犯されたいのか? 一瞬たりとも握った手を離せなかった。21時台の電車は混んでいたのに。俺たちは双子のように、ぴったりくっついて帰った。
4.付き合って
家に着いて灯りをつけて。俺たちは何もしゃべらなかった。ただ、靴を脱いで上がっていいのか困るらしく、
「お邪魔します……」
ハルカは遠慮がちにつぶやくと、俺の背を見ながら玄関で突っ立っている。
俺は荷物を放ってソファに座りこむと、しばらく黙っていた。連れて、来てしまった。よく考えたら俺もこいつのこと何も知らねえわ。一人暮らしの男の部屋に何の疑いもなくすんなりついてくる女、普通に考えてヤバいのでは? と今更ながら思った。何も知らない危なっかしい女なのではなく、実はすごいやり手の美人局か何かじゃないか? つか俺、こいつに惚れてんのか? 少なくとも他の男には抱かせたくないと思った。特にあのサークルにたむろするチャラい奴らには絶対やらせたくない。なんて俺が思うのも変だよな。こいつに男がいるのかどうか、こいつの過去も今も、俺は何も知らないんだから。
「あがれよ」
頭ん中がぐるぐるして、いつも以上にイライラした。居酒屋の酒や揚げ物のにおいが体に染みついているのも嫌だった。でもそれ以上に、ハルカを手放したくない気持ちが勝っていた。今ここで手を離したら。こいつは間違いなく他の男に持っていかれる。こいつが何か拒否するのを俺は見たことがなかった。来るもの拒まずって感じで、いつも流されて。それが俺をむしょうにイライラさせる。
「お前、彼氏とかいるの」
「ううん」
ハルカは俺の座るソファではなく、隣のフローリングに横座りをした。ゆるく首をふる仕草が妙にエロくて。俺は酒なんて飲んでないのに俺自身の思考に酔っていた。今すぐこいつを押し倒してキスがしたい。服を脱がせてベッドに沈めて、怯えてひるむ姿が見たい。快楽に喘ぐ声をききたい。身じろぎもせずソファに座りながら頭の中では完全に犯していた。
「じゃあ俺と付き合って。今すぐ」
「えっ……?」
戸惑う姿にイラっとした。お前はなんでも拒まないんだろ? 俺の何が気に入らないんだよ。俺のことなんて何も知らないくせに。俺は俺自身の容姿がブサ寄りでないことを知っていた。女がいたこともある。うぬぼれやのつまらない女だったけど。
「嫌なの?」
「夜男の家に来るって、そういうことだろ」
俺は畳みかけるように冷たく言った。彼女がフローリングを蹴るように立ち上がってこのまま帰ってもいいと思っていた。もうこりごりなんだ、お前の言動に振り回されるのは。嫌なら嫌とハッキリ言ってくれ。俺は振られたくなかった。一方で振られたい気もした。彼女の口からノーが聞きたかった。彼女の初めてのノーになりたかった。お前自身の意志を示せよ。本音のお前が見たいんだよ。
5.確かめたい
「ごめん……」
彼女は俺が知りうる限り一番困った顔をして、泣きそうな声で答えた。うつむいた睫毛と、膝の上で合わせた手が少し震えて。俺ははじめて彼女に勝ったと思った。
「なんで?」
もっと、もっと聞きたい。彼女の声を聴きたい。俺は冷たい眼差しと声音で問い詰めた。
「なんで断るの? 期待させといて、それはないだろ」
玄関はすぐそこにあった。出ようと思えば出られるのだ。でも彼女はそれにすら気づいていないかのように困っていた。監禁されているわけでもないのに逃げられないと決めつけて、自分の思考を檻に入れてる。そういう女とやりたいわけじゃないんだ。後で訴えられても困るし。
「付き合えないなら、帰って」
冷たく言い放ちながら駅まで送ろうかと思った。これをショックに身を投げるように他の男に抱かれても困る。俺は彼女が好きだった。好きだけど嫌いで、嫌いだけど好きで。イライラして悔しいがどうしようもない。一生囲っておきたかった。俺のことを好きになるまで他の誰にも触れられないように、守って、囲っておきたい。心から好いてほしいのに自由にしておくのは嫌で、惚れているのに彼女を信じられなかった。帰ってと言いながら、今夜は絶対帰したくなかった。
「ごめんなさい。私、誰かと付き合ったことなくて。ぼんやり、してて……日生くんが手を引いて歩いてくれるのが、なんか嬉しくて」
ごめんね、と彼女は謝った。何に対する謝罪なのかまったくわからない。
「俺のこと嫌いなの?」
「ううん。でも、好きかどうかもわからなくて……」
彼女は困ったように微笑すると、またうつむいた。その横顔と首筋が美しくて。誰とも付き合ったことがない? 本当なのか? こんな受け身な女が。俺は全然信用できなかった。自分の手で確かめたい。
「じゃあキスするから。それで判断してよ」
彼女は目を大きく見開いたまま俺を見て、しばらく固まっていた。逃げないならOKと取るよ。俺は彼女の手を引いてベッドに座らせると静かにキスをした。彼女はぎこちなく、下手で。ふたりの唾液が混ざって長く、甘く感じた。
6.ロック、かけてないの?
結果から言うとハルカの言うことは正しかったらしく、彼女はおくてで処女だった。処女との夜ってはじめてで、俺は最後までできなかった。でも無理やりやったら嫌がられるよな。
俺と付き合うのもOKらしく、あれほど欲しかった女が存外簡単に手に入ってしまって俺は少しガッカリした。もっと拒んでほしかったかな。でもまだ完全にやれたってわけじゃないから。まだ気が抜けない。
「俺のスマホ見ていいから。ハルカのも見せてくれない?」
「いいよ」
ハルカは風が吹くより涼やかに俺にスマホを渡した。なんの抵抗もなかった。
「ロック、かけてないの?」
俺はびっくりしてしまって。なんて防犯意識の低いやつだ。これじゃ危ないと思った。
「俺と同じパターンでいい?」
俺は自分と同じロック設定をハルカのスマホに施すと、解除方法も説明してやった。
「あとこれはGPSアプリな。何かあったら助けに行くから。消さないで」
続いて彼女のスマホに位置情報共有アプリを入れた。これでいつでも互いの居場所を確認できる。安全確保なんて言い訳で、浮気防止のためだった。ハルカは悪いやつではなさそうだったが、何より押しに弱いので。ぱっと連れて行かれたりしたら困る。メッセージアプリの友達登録や会話履歴もざっと見せてもらった。今のところ変な奴はいなさそうだな。というか友達少ないわこいつ……何か地雷を抱えてるのかもしれない。
「俺とID交換しよう」
俺のほうが異常なんだろうという意識は一応あった。ただ目の前でスマホ見られて追跡アプリ入れられて好き勝手やられてるのに、ハルカはいたって涼しい顔をしている。俺のスマホにも興味ないみたいだし。普通の女ならやれプライバシーだ、束縛だと嫌がりそうなものだ。俺の前では黙っててもアプリ切ったり、履歴消したり。でもハルカにはそういう所が一切なかった。もうアホかと思うほど何もない。「秘密」という単語を知らないのではないかと思った。俺が頼めばいつでもどこでも見せてくれる。知的に遅れがあるのかもしれないとも思った。でも同じ大学に入れてるわけだし。一緒に授業を受けてみればハルカのほうが優秀で。俺はこの鷹揚な彼女に激しく嫉妬した。
7.本命別にいるんじゃねーの?
付き合ってほどなくして、俺はハルカの部屋にはじめて行った。オートロックのない1LDKのマンション。外観は古いが内装は綺麗だ。一応RCなのか、隣室の音は聞こえてこない。地下鉄駅から徒歩5分ほどで、明るい道沿いにあり、防犯上はいい所だと思った。
ハルカの部屋にはベッドとテーブルとテレビ、クローゼットがあった。俺はベッドに腰掛けた。枕元に大きい羊のぬいぐるみが置いてある。
「羊すきなの?」
「そう、だね。お母さんが買ってくれたの」
まだ大学一年の夏だったので、ホームシックなのかもしれないと思った。ハルカはそれほど感慨深そうでもなく、冷蔵庫の麦茶を注いで、ローテーブルに置いてくれる。俺はエアコンの効いた部屋でいちゃいちゃしたくて。ハルカを後ろから抱きしめると、ベッドに誘った。
ハルカはいつもどこか怯えていて。目をきゅっとつぶって、必死に耐えているという感じだった。それでつい一線を超えられなくて。秋になり、冬になる。
俺とハルカは映画に行って、遊園地に行って、水族館にも行った。一緒に教習所に通って免許を取って、車を借りてドライブもした。ハルカはビビりで、必ず制限速度を守るから逆に危なっかしいと俺はいつも笑った。
食べ物にはいっこうに興味がなくて、俺が作ってと言えば、レシピを調べて、その通りに調理するだけ。その代わり、俺が作ったものにも一切文句を言わない。俺は料理が結構好きで、アレンジや創作も得意だった。途中から気づいてきたが、浮気を疑ったりして、俺のほうが女みたいじゃないか……?
何が欲しいとか、どこに連れて行けとか、ねだることも一切なかった。誕生日もクリスマスも我関せずで、ケーキもプレゼントも欲しがらない。あまり寂しいので、俺の方から頼んだり、身に着けてほしいものを贈ったりした。友人たちに訊いてみても、これほど金のかからない女は珍しいらしい。「本命別にいるんじゃねーの?」とからかわれたこともあった。実際割と本気で疑っていて。行動履歴を調べてみるが、一向に怪しいところはない。講義を受けて、週3でバイトして、俺とも遊んで。図書館と美術館にたまに行っているようだが、そこで浮気って考えづらいよなあ……小学生かと思うほど、彼女の行動はワンパターンで、友人はいっこうに増えなかった。
8.全然足りない
こいつもしかして、性転換した元男とかじゃないか……? それで体の関係を拒むのかもしれない。欲求が抑えきれずおかしくなってきた俺はこんな疑いを持ったりもした。でも体形は間違いなく女の感じなんだ。柔らかさ、骨格、声も。彼女の体は隅々まで撫でまわしてきたけど、やっぱり男って感じじゃない。って、その手の人に詳しいわけでもないし、断言するのもおかしいけど。ハルカは女だ、そう信じたかった。
「なあ、ハルカの弟さんに会わせてくれない?」
完全にお手上げだと思った俺はある時、ハルカにそう頼んでみた。母子家庭で育ったらしいハルカには4つ下の弟がいると言っていた。
「いいよ。連絡してみるね」
ハルカは弟とのやり取りも逐一見せてくれた。要所要所に「これでいいかな?」と確認してくれるのが嬉しい。ハルカのこういう丁寧なところを俺は愛していた。頭が男なんだよな、おそらく。ハルカは物事を効率で考えてくれる。「今日〇〇ちゃんがさ~」といった、女子によくある無駄話もしないし。まあ無駄話できる友達がいないんだろうけど……。
俺が弟君に会ったのは、ハルカと俺が互いに20歳の誕生日を過ぎた頃だった。付き合い出して1年以上、欲求に耐えたことになる。俺って結構凄いんだな。俺は、自分はもっと狼みたいにがっついたやつだと思っていたが、いざハルカを前にすると、それほどでもなかった。ハルカはエロい服で俺を誘惑してくるってこともなかったし。俺と一緒にいられるだけで嬉しいって顔で、ただニコニコしていた。それが余計俺をイラつかせて。俺はこんなんじゃ全然足りないのに。もっとハルカを知りたいし、汚したかった。ハルカの過去に何があったのか、男を避けるようなトラウマがあったのか。知りたかった。
9.ハルカの弟
ハルカの実家は俺の最寄り駅から急行で一時間ほどの隣県にあった。弟君は今年高校に受かったそうで、駅前のカフェチェーンに制服姿で現れた。
「こんにちは!」
ハルカの弟はハルカとあまり似ていなかった。いや、笑うと似てるかな。ホイップクリームを乗せた甘いドリンク片手にさわやかな挨拶をくれる。
「ねーちゃんに彼氏ができるなんて! 驚きました」
「そうなの?」
明るい第一声に、こいつならいろいろしゃべってくれそうだと思った。
「ハルカってさ、男嫌いかな?」
「嫌いって言うか。ねーちゃんがまともにしゃべったことある男なんて、俺と親父くらいじゃないすか?」
スマホに来たメッセージに次々返信しながら、俺の目も見て器用に答える。
「離婚したお父さんとも、まだ繋がりある?」
「年一くらいで会ってますよ」
「その……離婚原因って、わからないよね」
「借金らしいっすよ。親父の実家が潰れて、その借金を被ったとか」
離婚理由をずいぶん詳しく子どもに話すものなんだなと俺は思った。まあ、あのハルカの母親だから……この弟もだが、およそオープンな家系らしい。
「ハルカってさ、友達少ないよね」
「あー、ねーちゃん変わってるから」
「イジメられたりとか、なかった?」
父親からの虐待の線を消した俺は、男子からのイジメについて聞き込みしてみた。
「イジメって感じじゃないんすけど。ねーちゃんって独特の世界を持ってるみたいで。あまり仲いい子とかいなかったっすね」
「君は嫌じゃなかった?」
「えっ?」
弟君が唐突にスマホから目を離して俺を見つめるので、俺は失言を詫びた。
「ごめん。失礼なこと言って」
「いえ。俺はねーちゃんを迷惑に思ったことないっす。それにねーちゃんって、俺らの間では結構人気あったんすよね」
「えっ?!」
10.ハルカと寝たい
聞き捨てならないと思って、俺は思わず椅子から身を乗り出した。年下にモテるのか? 年下キラーなのか?
「ねーちゃんって不思議な感じだけど、話しかけると優しいし、勉強教えてくれるし。俺の友達よく家に来てました」
「そいつ、今でもハルカと連絡取ってたりする?」
俺は急いで脳内にハルカのスマホの連絡先を表示した。男っぽい名前は、この弟と父親以外なかった気がするが。偽名で登録してるのかもしれない。
「まさか。俺らが小学生の時の話っすから」
弟は屈託なく笑うと、カバンを持って席を立った。
「すいません、俺これから中学時代の友達と遊ぶ約束があって」
「そうか、忙しいのにごめんね。いろいろ聞かせてくれてありがとう」
「ID交換してもいいっすか?」
「ああ」
弟君から言ってくれたので気が楽になって、俺も自分のスマホを取り出した。
「ねーちゃんに彼氏ができたってきいたら、親父もお袋も喜ぶだろうな~」
あざーす! と言って軽く頭を下げながら、ハルカの弟は機嫌よく去っていった。
なんだろう、この感じ……まあ、明るそうな弟で良かったと思った。俺の味方になってくれそうだし。親が喜ぶって、ハルカはそれほど片付かない問題児なんだろうか? 今まで俺が知るところ、浪費癖も借金癖もないようだった。浮気癖もない。後はなんだろう、精神疾患持ちとか……? 確かにあの男嫌いは、精神的なものかもしれない。俺、汚くも臭くもないよな? 乱暴でもないつもりだし……。
とにかく、ハルカの弟に会ったおかげで今後のハルカへの対応が決められそうに思った。俺はやっぱり、ハルカと寝たい。でも無理強いは嫌だ。ハルカにその気になってもらえるよう、仕向けるしかない。カップルカウンセリングに行ってもいいと思った。俺はハルカと寝たい。もう我慢できない。今すぐ同棲したい。そのことをもっと真剣に伝えてみよう。俺はいろんな段取りを考えながら帰りの急行に乗った。
11.情けない
「ハルカ、一緒に住もう」
イヴの夜、一緒に過ごして。ハルカを背中から抱きしめてコタツに座りながら俺は言った。本気だった。
「俺と寝て」
ギュッと抱きしめて、ハルカに頬を摺り寄せる。好きかどうかなんて当たり前のことはもうどうでもよくなっていた。彼女が完全に欲しい。
ハルカは長い間黙っていて。でも俺はその無言が心地よかった。無言を苦痛と思わないほど俺たちは馴れていたし、彼女の無言は控えめなOKの意だと付き合いの長い俺は捉えていた。
「遼くん、あの……」
ハルカの戸惑いがちな声に、俺は抱きしめる腕を強めた。優しく、するよ。今までそうしてきたように。いや、今まで以上に大切にする。
「私と、別れてくれないかな」
今夜ハルカをどうするかということばかり考えていた俺は、この言葉に思わず我を失った。
◇◇◇
「……は? なんで?」
この体勢で言うことかよと思って、俺はハルカの腕を握りしめた。逃げられないようにするためだった。
「俺の何が気に入らないの?」
「ううん。遼くんのせいじゃ、ないんだけど……」
「じゃなんで?」
「うん……」
イライラ、する。久しぶりに、付き合う前みたいなイライラが戻ってくる。何なんだよ。ハッキリ言えよ。
「他のやつを好きになったの?」
「ううん」
ゆるく首を振るからイライラした。他の奴に目移りしていたほうがまだよかった。そいつを消せばいいだけなんだから。
「じゃ何?」
「うん、えっと……遼くんの期待に応える自信がない、っていうか……」
「俺と寝たくないってこと?」
「なんかやっぱり、怖くて……」
「なんでそんなに俺のことが嫌いなの?」
俺は、あまりの怒りに泣くのではないかと思った。
「まだちゃんとやってみたわけでもないのに、なんでそんなに俺を嫌うんだよ? ハルカは俺の何を知ってるって言うんだよ。やってみて下手だとか言われるほうがよっぽどマシだよ。試してもくれないのかよ……」
「ごめん……」
情けないってこういう感情なのかと思った。本当にこいつ、情けがなさすぎるよ。
12.絶対許さない
「俺と別れてどうすんの? 一生処女を守れるわけじゃないんだろ? ハルカの性格じゃ絶対無理だよ。俺以外の、もっと押しの強いやつに負けて流されるように、結局体を許すんだろ?」
そんなの、絶対嫌だよ。お前を信じてここまで待った俺が馬鹿みたいじゃん。そんなの、絶対許さない。俺はこれほど殺意がわいたことは生まれて初めてだと思った。俺を裏切ったハルカと、ハルカを抱く未来の男に、激しい殺意を抱いた。
「俺は別れないよ。絶対、別れない」
ハルカの体を持ち上げながら立ち上がると、投げるようにベッドへ転がした。馬乗りになってその目を見つめる。ハルカの目には涙がたまって、澄んだ瞳をより美しく見せていた。お前は悪魔だよ。俺を踊らせて、俺の気持ちを弄んで楽しいか? お前の「お付き合い」は所詮ままごとだ。お前のこと束縛して調べ上げて、ずっと一緒にいてもいいと思ってた俺の気持ちがわかるか? ただの体目的じゃない、結婚して一生そばにいたいとまで思い詰めてた俺の気持ちが、お前にわかるのかよ。
「ごめん、もう無理。やるよ」
ガチャガチャとベルトを外して、上着もシャツも脱ぎ捨てた。
「寝てればいいから。力だけ抜いて」
「うん……」
ハルカは怯えたようにぎゅっと目をつぶった。目から耳にスッと一すじ、涙が落ちて。それから恐る恐る目を開くと、涙ぐみながら俺を見て、つぶやくように言った。
「ごめんね。遼くんの好きなように、して……」
涙に濡れた睫毛が震えて。悲しくて悔しくてエロくて、俺の頭は沸騰しそうに沸いていた。イヴの夜1年以上付き合った彼氏の家に来て別れ話って、無理があるだろ。誰だって我慢の限界だよ。結局乱暴なやり方じゃなきゃお前は手に入らないんだろ? そんなに怯えなくたって殺しやしねえよ。死なんて逃げ道、与えると思うか?
俺はハルカの両手を恋人繋ぎで強く押さえ込んだ。今まで拒んできたこと、後悔させてやる。理性どころか、記憶も飛んでいた。
13.俺が悪かったの?
起きたら明るくて、頭が少し混乱していた。朝、じゃない、昼か……? ハルカはもうベッドから出ていて。こたつに座って、ぼんやり外を見ている。俺は裸の上半身だけを起こして。すべてはもう戻らないのだと悟った。
「ごめん……痛かった、よな」
謝ったって仕方がなかった。やってしまったんだ。どうしてきっぱり別れてやれないんだろう。どうして俺はここまで、この人に執着してしまうんだろう。こんなに苦労せずやらせてくれる女なんて山ほどいるじゃないか。ハルカなんて、顔も体も大したことないじゃないか。どうして。
ハルカの背は心なしか小さく見えた。一晩で痩せた……? まさかな。俺が貸した男物のスウェットのせいかもしれない。ハルカはゆっくり振り向くと、少し笑った。産後の母親のような感じを俺は受けた。年の離れたいとこが生まれてお見舞いに行った時の叔母さんが、こんな目をしていたと思った。
「私こそ、ごめんね。遼くんにずっとつらい思い、させちゃって……」
ハルカの目が涙で潤んで、俺は抱きしめてやりたく思った。でも泣かせたのは俺なんだ。加害者は、俺。
「ごめん……」
もう、終わりなのかな。俺は無言で、脱ぎ散らかした服を着た。
「病院行こう」
今日何曜だったかな。あまり遅くなると医者が閉まってしまう。産婦人科か? そもそも何て言って受診したらいいんだろう。彼氏に強姦されましたって……? 何をしてもハルカを傷つけるような気がして、ベッドに座ったまま動けない。
「大丈夫だよ、そんなに痛くないから」
ハルカは照れたように笑うと、うつむいて膝を抱えた。もっと二人で幸せになりたかったな。もっと、幸せにしたかった。この人につらい体験をさせただけの男に、俺はなっちゃうのかな。好きな女と付き合って、イチャイチャして、ラブラブで。そんなどこにでもいる、ありきたりな二人になりたかっただけなのに。俺はどこで間違ったの? 全部俺が悪かったの? 好きな女を抱きたいと思うのは、そんないけないことなの? 俺はどうすればよかったの……? 教えてよ、ハルカ。
14.俺を知って
細くてあたたかい腕に包まれて。抱きしめられているのだとわかるのに時間がかかった。ハルカは俺の隣に座ると、細い腕で俺の頭をかかえるように、そっと抱き寄せた。
「なんで……抱きしめたりするんだよ。今すぐ逃げてよ。また襲いたくなっちゃうよ、俺……もう、耐えられないよ……」
熱い涙がハルカの胸を濡らして。泣いているのは俺の方だと気づいた。
「……俺は、ハルカに泣いてほしいわけじゃないんだよ。笑ってほしかったんだよ。俺に抱かれて、俺の胸で気持ちいいって笑ってよ。俺を愛してるって言ってよ」
俺を愛して、受け入れてよ……。
熱い涙がボロボロ流れて。こんなに泣いたのはいつ以来か思い出せないほどだった。このまま別れれば俺も楽になれるかもしれないのに。やっぱり絶対、別れたくなくて。これで終わりにしたくなくて。
「気持ちよくなるには、時間がかかるんだよ。終わりじゃなく、ここを始まりにしたいんだよ。サイテーな始まりだろうけど……」
もっと俺を知ってよ。もっと俺とケンカして、傷ついてよ。体で俺を覚えてよ。こんなんじゃ全然満足できないんだよ。もっとハルカを知りたいし、ハルカに俺を知らせたいよ。
バージン捧げてほっとしたって顔してる彼女に心底腹が立っていた。俺と寝るのがそんなに苦行なの? ハルカをもっと気持ちよくしたいし、君を気持ちよくできるただ一人の男になりたいのに。このまま忘れ去られるくらいなら、嫌われても記憶に残ったほうがずっとマシだよ。他の誰かに抱かせるくらいなら。俺がやるよ。
「キス、するよ」
唇に触れるか触れないかのキスをして。ハルカにゆっくり自分の頬を摺り寄せた。互いの体温を感じ、目を閉じて。囲われ絡めとられたのは俺の方かもしれないと思った。
15.妙な浮気
とりあえず、前のめりに同棲しようとしていたことは止めて。俺はハルカとの関係はそのままに他の女とも付き合ってみることにした。スマホに出会い系アプリを入れ、軽いプロフィールを書いて。ハルカは全て知っているが、俺に何も言わない。
投げやりと呼ぶにはあまりにも冷静な気持ちで。他の女に夢中になれるなら乗り換えたいと思っていた。それがお互いのためのような気がして。我ながら打算的で、妙な浮気だ。
自分の経験値不足が気になるのもあったし、ハルカにハマりすぎている状況が恐ろしくもあった。もっと視野を広げて、冷静に選ばないと。女はたくさんいるんだから。
ハルカは俺が他の女と寝ている方が気が楽なのか、俺に何の不満も言っては来なかった。嫉妬すらされないのが悔しくて、女と会った直後にわざとハルカに電話したり家に押しかけたりした。我ながら最低だが、ハルカは俺が誰とどこにいようと文句を言うことはなかった。
「人の心は縛れないし……遼くんの人生だから」
無理している感じもなく。ハルカはいつもの透明な笑顔で優しく言う。すがすがしいほど冷たい人だと思った。
浮気相手は皆、俺に彼女がいることは知っていた。彼女から俺を奪おうとする人もいた。でも何かが足りなかった。顔も体も魅力的なのに、何かが決定的に足りなくて。俺は不倫夫のように結局ハルカの元に戻ることになる。大学を卒業して就職してもこの状態が続いた。俺がどんなに遊んでても、ハルカが仕返しに浮気するということはなくて。
「なんでハルカはしないの?」
「遼くん一人で、充分だから」
苦笑して言うその意味も本当と捉えていいらしかった。他の男と寝たいわけじゃないんだ。俺はなぜか安心できる気がして。誰かと会って遊ぶたびハルカならどんな反応をするだろうと考えたりして、予習というか実験台にしてしまっているところがあった。世の中には浮気歓迎、遊び大好きって女が多いことも知った。俺含めこんなドロドロした世間に身を置いているのにハルカだけはどこ吹く風って様子で、違う世界の住人であるかのごとく、いつも透明で明るかった。ハルカを捨てるために浮気してるはずなのに結局ハルカの尊さを思い知るという困った状況に俺はなってきた。全部自業自得なんだけど。俺は真正の愚か者らしい。
16.結婚してくれない?
俺の子を妊娠したとかいう女がハルカに喧嘩を売ってきたとき、この無駄な争いに終止符を打とうと俺は思った。
「結婚、したら……? お子さんにはお父さんがいたほうがいいと思うよ」
いつもは何も言わないハルカもさすがに堪えたのか、俺に意見してくれた。俺は嬉しかった。こんなクソみたいな事情でも、彼女の静謐な湖面に少しでも波風を立てられたことが純粋に嬉しかった。
「あの女の言ってることは嘘だよ」
「えっ?」
「俺は必ず自分のゴム使ってるし、『ピル飲んでる』も信用してない。そんなヘマはしないよ」
絶対の確信があった。「DNA鑑定する」と言うと、女はあっさり引き下がった。
「他の男との子を、俺に育てさせようとしてたのさ」
「…………」
ハルカはそんな人種がこの世に存在するのかと目を丸くして、ただ俺を見つめていた。そんな奴もいるんだよ、この世界にはさ。
「ハルカ、俺と結婚してくれない?」
俺は何の前置きもなく言った。仕事帰りに寄った居酒屋で。ディナーも指輪もなかった。
「ハルカよりいい女、この世に存在しないみたいだから」
「そんなことはないと思うけど」
ハルカは冷静に苦笑して否定した。大げさすぎることは俺もわかっていた。だいたい横取り狙いの女と比べられたって、嬉しくもなんともないよな。でもフリーだと嘘をついて誰かと付き合うのは嫌だったし、ハルカと別れるのはもっと嫌だった。俺には他に方法がなかった。
ハルカはしばらく黙ったまま、運ばれてきたカシスソーダを一口飲んだ。俺は生ビールのジョッキを傾けて。最初の一杯なので、互いにまだ酔ってはいなかった。
「俺は浮気するから、嫌?」
「ううん、それは全然、いいんだけど……」
いいんだ……。ハルカに女友達がいない理由がわかる気がした。この価値観、なかなか共有できねえわ。
「私って、空っぽじゃない? 何にもないっていうか……」
俺たちはカウンター席にふたり並んで座っていた。ハルカがぼんやりと、前を見るともなく見る視線がうつろで美しい。
「私昔から、好きなものとかどうしても欲しいものとか、何もないんだ。自分はどこか欠けてるんだろうなって、いつも思ってて」
料理も下手だし、と言ってハルカは控えめに笑った。下手というより興味がないんだろうと俺は思っていた。食についてあれこれ考えないことで脳の効率化を図っているというか。毎日同じものを食ってても一向に構わないと思っているところがハルカにはあった。外食も苦手で、ファストフードとかチェーン店のファミレスとか、温めるだけ、揚げなおすだけのマニュアル化されたメニューを出された方が安心するといった節があった。見た目から味が想像できない物は食べたくないという、一種の怖がりかもしれない。
17.控えめな愛
「ハルカは自分は空っぽだって言うけどさ、掃除や洗濯は得意じゃん」
俺はお通しの枝豆をつまみながら言った。
「ゴテゴテ何かを作り出すより、綺麗さっぱりゼロに戻す方が好きなんじゃない?」
「そう、なのかな?」
ハルカは「ほわー」としか形容しようのない不思議なため息を漏らして首をかしげると、俺を見つめた。
「俺の話もよく聴いてくれるし」
何を見たとか何処へ行ったとか、俺は自分のことをよくハルカに話して聞かせていた。放っておくとハルカは何も訊いてこないので。俺のことをもっと知ってほしいし、俺の好きなものをハルカにも好きになってほしかった。ハルカは俺がすすめるとたいてい試してくれて。その空っぽの器を、いつも俺で満たしてくれた。まあ、何に対しても熱狂するってタイプじゃなさそうだけど。
「俺は、ハルカが好きだよ。いろんな女見てきたつもりだけど。ハルカが一番好き」
「……ありがとう」
ハルカは恥ずかしそうに頬を染めると、また酒に口をつけた。いつも何も食わずに飲むんだよなあ。一杯目で目がとろんとしてきて、耳がエロくて。俺が軽く舐めると、驚いて細い首をきゅっとすくめる。
ハルカに最も欠けているのは独占欲だろうと俺は気づいていた。自分からの浮気は生理的に無理らしいが、俺の浮気は止めないと言うか、「自分にそんな権利はないから」という感じで放っておいてくれる。自分と俺の境界線をハッキリ区別している。
俺のことなんてどうでもいいから、大して好きじゃないからそうなんだろうか。でもそれにしては愛があるんだ。対面でもメッセージでも、ハルカには俺に対する優しさや思いやり、控えめな愛がある。しばらく会わないとやっぱり寂しそうにしてるし。まあ、寂しいのは俺なんだけど。
「結婚して、一緒に住もう。俺たち職場も近いしさ」
一人でサラダと揚げ物を平らげ、適度に腹も膨れた俺は、2杯目のジョッキを空け会計に向かった。ハルカもちょうど飲み終えたようだし。今すぐハルカとホテルに行きたい。ほろ酔いのハルカは最高だから。
「遼くん、あの……」
会計を終えハルカの手を取ると店を出た。細い手を握ったまま、俺はいつもの癖で駆け出すように歩く。ハルカの執着心の薄さは、俺に白い風船を思わせた。自殺願望なんて微塵も口にしないのに、手を離した途端、ごく自然に空に帰ってしまいそうな危うさがあった。だから手を離せなくて。やっと信号待ちで止まったとき、ハルカの息は少し上がっていた。
18.遠い星
「私より好きな人ができたら、私を捨ててね」
「えっ?」
「遼くんには、幸せになってほしいから……」
ハルカは潤んで、揺れる瞳で俺を見た。
「それができてりゃ苦労しねーんだよ」
俺は投げやりになって言った。もう何年も探してるのに、全然見つかりゃしねーんだよ。何ならハルカが連れてきてよ。
「既婚者のほうがモテるって言うしさ」
ハルカはそんな俺を慰めるように謎の応援をしてくる。これから結婚しようって時に、不倫すすめてくる新妻がどこの世界にいるんだよ。
「ハルカは無責任すぎるよ。ハルカが俺を幸せにしてよ」
やっと信号が青に変わって。俺はハルカの手を引いて歩き出しながら笑った。舟のような三日月が綺麗で。
「だって……自信ないよ」
「そのセリフ、子どもがいても言えんの?」
「それは……」
さすがに子どもに気の毒だと思ったのか、ハルカが沈黙して考えている。良かった、そのくらいの情はあるんだと思って俺は安堵した。俺たちは吸い込まれるようにホテルに入って。俺はハルカと繋いでないほうの手でエレベーターのボタンを押した。
「もっと俺を夢中にさせて。虜にしてよ」
部屋へ入るなり、耳元でささやいて長いキスをした。よろけるハルカを支えて、ベッドに運んで。ハルカを喜ばせたいって俺の願いは、少しずつだけど叶いつつある。
「今夜の星、綺麗だったね」
ハルカとまた星を見たいと思った。サークルを抜けてから、デートがてら通った海。夜の砂浜に二人並んで、遠い星を数えたい。
ハルカは裏も表もないような人だが、どこか底知れぬところがあり、俺に海を思わせた。俺の知っているハルカは、ただ光が届く上澄みの部分だけなのかもしれないと思うと、矢も盾もたまらず、どんな危険を冒してでも、もっと深く知りたくなってしまう。気づいたら溺れてる。危険な女だ。
「ハルカ……好き」
俺はハルカの裸の胸に飛び込むと子犬のように甘えた。なんにも要らないんだ。ずっと、俺とここにいて。
「不倫だけは絶対しないでね。俺以外、誰も好きにならないで」
俺は自制できる自信がなかった。気づいたら殺してたってことに、ごく自然になりそうに思った。
「しないよ。私も……遼くんが好き」
ハルカは眠そうな目で俺を見つめると、優しく抱きしめてくれた。ああ、本当に……なんて透明で空っぽで、罪深い天使なんだろう。無力な俺を悪魔に変えておきながら、自分は虫一匹殺せないって顔で、ふわふわ俺に抱かれている。こんな女を捨てられる男がいるのだろうかと俺は思った。なんの邪魔にもならず、控えめで、誠実で。いつも笑って、世界を眺めている。こんな女の手を離せるやつがいるのだろうか。この世にはもったいないくらいだ。お前は背中に羽でもはやして、永久に天国で遊んでいるべき存在だよ。
そんなハルカにかりそめでも昇天気分を味わわせてやるのが、夫となる俺の義務のようにも感じていた。まあ何事も永遠じゃないんだ、俺もいつか衰えて、ハルカと縁側で茶でもすする間柄になるんだろう。早くそうなってくれたら楽なんだけど、とハルカが内心期待しているような気がして。それが悔しくて、必死に抗おうとする自分もいた。与えあい、奪い合ったって何も残らない。ハルカ好みの、あっさりしたやり方で。
ハルカの寝顔を見たら、俺も眠くなってきて頬を寄せ合って眠った。生まれ変わっても記憶があったら、またこいつを見つけ出して意地でも一緒になってやる。今度は絶対待つもんかと思った。
空っぽの天使