英雄になりたかった女

何者かになりたかった女の感情ぐちゃぐちゃにしたい~って思って書き始めたものです。
書きたいものと書きたい景色と、書けるもので折り合った結果、ハイかローか定かではないファンタジー。
ちなみに世界観の元ネタは他に書いている創作作品の某種族の王の決め方をもとにしています。
そちらのキャラは脇役で、気に入って作りこんだ設定もあまり出す機会がなさそうなので、ちょっと改変して世に出してみました。


感想・反応もらえたら嬉しいです。
もともと本にするつもりで書いていたのですが本文を公開してしまったので、書きおろしを足して本にしました。
https://libra.sc/products/detail/752
文庫サイズでカバー付きで、カバーデザインも本屋さんに並ぶような文庫本っぽく仕上がったのでやりたいことをやり切れて大満足ですね。

始まりの年

一、

「そこまで! 」
その宣言に会場は大きく沸き上がり、闘技場の中心に一人の勝者が決まった。
「強い! やはり『英雄』の名は彼にこそふさわしい! 」
 この大会の進行を務める男が大きく声を張り上げているが、悲鳴のような歓声をあげる人々の耳にその声が聞こえているとは思えない。そんな喧騒の中心にありながら、未だ緊張と静寂の保たれたフィールドで、女は勝者をただ見上げていた。
「君」
 勝利の末英雄の名を守り切った彼は、ゆっくりと近づいてきて女に手を差し伸べる。
「強かった。今まで出会った誰よりも」
 もとより癖のある金色の髪は先ほどの仕合により乱されていた。それもこの男の美貌をもってすればとるに足らないことだ。快活そうな笑みを向けて健闘を称える模範的な言葉をしゃべる。しかし女を見つめる紫色の輝く瞳は、けして笑っているようには見えない。
 これは女の被害妄想であるのかもしれなかった。
確かに、嘗て大会で見てきたどんな戦士よりも己は強かったと自負がある。誰よりも彼を追い詰め、彼の実力をすべて出し切らせただろう自信は確かにあった。だが、それではダメなのだ。彼女は誰よりもこの大会で勝利を望んでいた。英雄になりたかったのかはわからない。だが、賞賛を一身に浴び英雄という名を持つ男が妬ましくてしょうがなかったことは事実だ。
「ありがとう。でも負けは負けだ。悔しいよ」
 胸に渦巻く怒りと憎しみを押し殺して、女もまた完璧な笑顔を向けた。当たり障りなく模範的な回答と共に英雄の手を取る。
立ち上がり、そのまま仕合後の握手として手を握りなおす二人に皆が拍手を送り、国中にこの結果を知らせるべく幾つものレンズが向けられていた。きっと、遠く離れた地でも皆同じように拍手を送っているだろう。
「またここで戦おう。君の名を教えて欲しい」
 男は悪意の欠片もない顔で笑う。それが当たり前であるように。
しかし女はその言葉を聞いて衝撃を受けた。まさか刃を交える相手にすら己の名が届いていないとは思いもしなかったからだ。彼の目に留まりたかったわけではない。だが英雄になりたかった。いや何か地位を得て己を認められたかった。誰かに自分を認めさせたかった。何者かになりたかった女にとって、目の前の男にすら興味を持たれていなかった事実はとどめの一撃となり、絶望に突き落とされるには十分の威力であった。
「……アノニス。私の名はアノニスだ。覚えておけよ英雄」



──嘗てこの国を災いより救ったとされる英雄。
彼は災いを治め、その後も国を守り続けたと言われている。
そんな伝承の英雄に倣い、この国を守る役割を負うのが現代まで続く『英雄』という肩書の者である。そしてそれを選定するための作業が、年に一度行われる闘技会なのだ。トーナメント形式で行われるそれは、頂点に勝ち上った一人に英雄と戦う権利を与える。そして、現在英雄の座に立つものを下した者が唯一『英雄』の座に就くというわけだ。
 そんな伝統ある大会も、そして英雄という肩書すらも、近年ではその価値を失いつつあった。それを覆し、国中に英雄の名を再び叩き付け国民に伝承の存在を呼び起こした者が、現英雄のユシャであった。
癖のある金の髪に、宝石のように美しい紫の瞳。体格は細すぎずしっかりとした体つきで、鍛えられていることは一目見ればわかるだろう。そして何より、この男の鮮烈さは強さであった。慣例通り十五歳で初めてこの闘技場に立った彼は、これまでの闘技会など生ぬるいお遊戯会であったかのように圧倒的な強さを見せ観客の心をつかんだのだ。長年英雄の座を務めた知恵も経験も体格も勝るであろう相手を下し、見事英雄の座についたまま今年で二年目となる。
 彼の登場によりこの大会は息を吹き返すように盛り上がった。皆彼を見るために闘技上の入場券を求めるようになったのだ。当然彼の力を十二分に引き出すような相手は、現れることなどなかったけれど、それでも彼の容姿があれば埋められるような欠点であった。もちろんこの復権は彼だけではなく、彼の英雄性を存分に引き出すバックのプロデュース力もあってのことだ。英雄が新しくなるのと同時期に、国が長年続けてきた大会はとある大企業へと譲渡されたらしい。そうでなければ例え英雄が変わったとてこれほどの爆発的人気も出なかっただろう。大会規約も改められ、これまで少年のみが持っていた大会参加資格は、性別に関係なく十五歳の男女全てに与えられるようになった。それでも女が参加を望むのはごく稀ではあったが。
とにかく、伝承を現在に繋ぐ闘技会は嘗て以上の熱狂を取り戻したのであった。十五歳の少年に訪れる通過儀礼として行われてきた大会も、ずいぶんと変わり今では国を彩る見世物の一つだ。



闘技場の真ん中に五人の男女が並んでいる。
大会の勝者は英雄になる。それは前述のとおりであるが、トーナメントの優勝者から以下四名は英雄の従者として選ばれる。これは大会の運営が引き継がれてからできた新たな決まりだった。それは単純に英雄の仕事を分配するためか、あるいは他の者たちも英雄に続くように人気を持たせることで収入源を増やすのが狙いであったか、それとも単なる英雄の引き立て役であるのかもしれない。
確かにこれまでの英雄がお飾りであったのに比べれば、現在の英雄の仕事は多い。テレビ出演や各メディア媒体の撮影、各地への訪問。体がいくつあっても足りない場面で、英雄一団として仕事を分配すること、また一人一人が新たな仕事を得ることができれば企業としての収入も増えただろう。しかし、その二つが目的であったとするならば、それは既に失敗しているといえる。なぜなら従者たちは皆一年で顔ぶれが一新され、英雄ほどの人気を築く間もなく姿を消すからだ。英雄がトーナメントの勝者を迎え撃つように、従者たちは次年のトーナメントでそれぞれ新たな挑戦者を迎え撃つ。徐々に大会の熱が高まり、質が向上し始めたとはいえ、まだユシャ以外の実力など大差ないお遊びのトーナメントだ。一度勝ち上った結果など簡単に覆されてしまう。結局この二年も、そして三年目にあたる今年の大会でもまた従者は一新され誰一人として継続してその地位に立つものは現れていない。これでは到底英雄の代わりは務まらない。個々の仕事を得ることも難しいだろう。となれば、今ユシャの周りに集められた四人は精々引き立て役がいいところだろうか。
結局英雄以外の肩書には何の価値もないのだ。笑顔で民に手を振る英雄の横に立ち、女は怒りを必死にこらえる。英雄の首を取ることのできなかった実力不足の己が何より憎らしかった。それでもこんなところでみっともなく感情の全てを見せてやるわけにはいかない。幸いにして女は取り繕うことも人の機嫌を取ることも、自分を押し殺し役割を全うすることも全て得意としていた。英雄に倣い愛想を振り撒きながら、手を振って見せる。他の従者に選ばれた三人の男たちが心底満ち足りた顔をするなか、女は全くと言って満たされることなどなかった。

芽生えの年

一、

ワーワーと歓声が響く闘技場の中心には、昨年と同じ男と女。
「待たせたなぁユシャ! 今年こそ、お前のその首を落としてやるッ!」
 長い黒髪を一つに結いあげた女が、金髪の男の前に対峙している。女の赤い瞳は、目の前の彼の首を獲らんとギラギラと光を放つ。それを迎え撃つ男は、大仰な言葉に身振り手振りで偉大なる英雄としての振る舞いを完璧にこなしていた。
「アノニス、今年も君が勝ち上がってきたのか。ここで同じ人間と戦うことになるのは初めてだ」
昨年の大会では刃を交えている瞬間ですらすっかり忘れていたその名を叫んで、民が喜ぶように高らかな歓迎の言葉を述べる。そうして英雄然とした振る舞いを終えた男は、剣を引き抜き構えると空気を一転させ、常の誰からも愛される笑顔とは程遠い狂気的な笑みを浮かべて彼女を迎えた。男がこんな表情を浮かべるのは、彼女と対峙するときだけだ。
客席の熱が遠ざかり、この場にだけ張り詰めた静寂が訪れるような、そんな緊張感の中仕合が始まる。女が一歩踏み込むと同時に男もまた動き出す。刃を交え、互いに一歩引き、出方を窺い、隙をつき、刃を突き立てては防ぎ、交えては離れる。そんな攻防を繰り返し、繰り返し続けていた。奇策のような一手、単純に力でねじ伏せるような一手、互いに己の知恵と体をもって上手く攻めては上手く防ぎ、力強く攻め込んでは軽くいなして避ける。
男と対峙してこれほど長く拮抗した戦いを見せるのは彼女が初めてであった。観客は沸き立ち、かつてない程の盛り上がりを見せる。そして英雄である男の血もまた沸き立っていた。だが彼はまだそのことに気づいていない。彼は自分の感情を見極めることが苦手であった。与えられた英雄の役をこなす瞬間は、あれほどの笑顔を振り舞いているというのに、いざ舞台袖へと引き上げればその表情は驚くほど乏しい。そんな彼が、己の中に微かに芽生える愉悦に気づけるはずもなかった。
「そこまで! 」
もう少し、あと少し、続いてくれ。終わらないでくれ。そんな彼自身でも気づけないような小さな願いを裏切って、ついに戦いは勝者を決する。
四年目の英雄の座を死守したのは男、ユシャであった。切っ先を突き付けられた女は、まるで一年前のあのときのように悔しさと憎しみをにじませた赤い瞳で男を睨みつけている。その瞳は美しく、彼は少しの間その瞳に見惚れて英雄としての振る舞いを忘れてしまったほどだ。
「やはり、今年も最高の仕合だった。君ほど強い人と二度も戦えて嬉しいよ」
「私も、英雄様と二度も戦えるなんて光栄だ……次こそは負けない」
 ユシャが手を差し出す前にアノニスはさっさと立ち上がっていた。再び二人が中心で握手を交わすのを民達は称えたのであった。



 闘技会を終えたユシャとアノニス、そして新たに選ばれた三人の従者は室内へと引き返す。嘗て国が管理していた闘技場は、大会の運営業務と共に民間にまとめて任されている。つまり、英雄と従者に選ばれた者達の拠点となる事務所はこの闘技場に併設された施設の一室だ。古には王城であった建物が、見た目はそのままにそっくり国の政治活動の拠点として中身は最新のオフィスになっているように、この闘技場や併設の建物たちも見た目は古臭いが、中身はキッチリと最新式だ。仕合のためのシャワー室や更衣室なども用意されている他、事務所のおかれている塔には英雄役やその従者役の者達が住みこんでいるため、各部屋と生活に必要な設備が整っている。
 新たに加わった三人はこれからの生活や仕事について説明を受ける。結局今年もアノニス以外の三人の従者は全て一新されたのだ。アノニスは歴代で初めての女性従者であると同時に、従者の継続記録を更新することとなった。
この後に説明を控える三人とは別れ、廊下に残されたのは英雄ユシャと従者アノニスだけ。
「いや~相変わらず強いな、ユシャ。あーあ、動き回ったから汗がひどい。さっさとシャワーでも浴びに行こうぜ」
「そうだな」
 アノニスはいつも通りユシャへ気安く話しかける。これは昨年初めて従者に選ばれたときから変わらなかった。闘技会に出る者たちは大概ユシャに憧れを抱いた者達ばかりで、彼の従者になれることに心の底から充足することのできる者達ばかりだ。皆取り巻きのようにユシャ様ユシャ様と言う彼らから見ればアノニスは異端であった。昨年の大会を終えてすぐ彼女が発した『よぉユシャ! 人目のつかぬところだとこんなに不愛想とは、意外だな! 』という気安い言葉を聞いた周りのどよめきときたら、今思い出しても面白いぐらいだ。
余談ではあるが、観客の目につかない場所へ入ったとたん表情を消したユシャを見ても何も思わない男たちは、彼に対して尊敬を超え最早信仰の念すら抱いているようだった。一周まわって無関心を超えるほどの信仰の盲目を見たアノニスは、あれほど妬んでいたユシャ相手であっても同情せずにはいられなかった。いや、実際彼らはユシャという存在に関心などなかったのかもしれないけれど。
「そうだなって言うけど、お前ほんとに汗とかかいてる? 」
「かいているが? 」
「涼しい顔しちゃって。とてもそんなふうには見えないけどな」
 英雄ユシャにこれほど気安く話しかける者はアノニスのみであった。ユシャはそれに対し愛想の無い返事か、あるいは無言を返すのみ。それでもそこで引くのはアノニスのプライドが許さなかった。
そうして何度も声をかけ続けた結果、最近ではアノニスの言葉には必ず返事が返ってくるようになったのだ。相変わらず愛想はなかったが。
 どうしてあれほど憎み妬んだ男にこれほどまでに気さくに声をかけているのかと言えば、それもまた彼女のプライドの問題であった。負けた相手を邪険にするだなんて、すねた子供のすることだ。しかし愛想よくふるまうにしても、周りのように彼の下につくのはごめんだった。だからこうして親しげに話しかけ、対等な友人のような形を保ってきたのだ。もちろん形はどうあれ彼がアノニスをどう思っているのかなどわかりはしない。友人などとは思われていないだろうことだけは確かだが。そんなことはどうでもいいのだ。アノニスだって、彼を親しい友人だと思っているわけではない。
それでも彼女には自信があった。全ての感情を隠して、彼と友人になることを望んでいるただの一人として、すべてを騙し過ごしきる自信が。
「んじゃ、さっさと浴びてこいよ。他の奴等も説明終わったら来るだろうし、食事の前にまた顔合わせとかするだろ」
 アノニスはユシャを手前のシャワー室に押し込んで、自分はもう少し離れた場所にある少し小ささいシャワー室を使う。元より闘技会の為に作られたようなこの会場は女性用の更衣室など存在しなかった。しかし徐々に闘技会の価値が薄れるとともに、この会場はスポーツなどのスタジアムとして活用されることも多くなり、内部の設備を新しくするにあたり女性用の更衣室や、男女それぞれのシャワー室などを用意することとなったのだ。今では闘技会の会場としての印象が再び盛り返してきているが、その闘技会もまた男女に分け隔てなく開かれるようになったため、作ったことは正解だったと言えるだろう。シャワー室は更衣室に付随する形で作られているので、もともとあった男性用更衣室の隣に無理矢理作った女子更衣室とシャワー室は若干男性用のものよりも小さくなってはいるが、紅一点のアノニスにはそれで十分だ。
 シャワー室に入り結っていた髪を下ろすと、頭から湯を浴びた。時間もあまりないので文字通り汗を流す程度のことしかできないが、それでも十分だ。湯に打たれ、未だに腹の内を這いずる悔しさを落着けようとこころみる。
「また勝てなかった」
 今年こそは、本当にあの男の首を落とす気ですらいたというのに。結局は負けた。誰よりも追い詰めたはずだ。それは間違いない。今年もまた少しだけ昨年よりレベルが高まったとはいえ、やはりどの挑戦者も皆二人には遠く及ばない実力であった。アノニスはトーナメントでは圧倒的な差を見せトップに輝いた。そして立ちはだかるユシャを嘗てないほどまでに追い詰めて見せた。それでも勝てなかった。崖の淵に立たされて、あと一押しで落ちるような、そんな局面からの彼のギラついた瞳が今も目に焼き付いている。

嗚呼、強い。憎い。ああなりたい。尊敬する。羨ましい。妬ましい。

「はぁ」
 深く吸い込んだ息を吐きだす。たった一つの深呼吸。それだけで、彼女は頭の中を切り替えた。
「よ、ユシャ。髪はちゃんと乾かしたか? 」
「きみこそ。長いだろう? 」
 相変わらず動かない表情と平坦な声。愛想の無い短い返事には慣れてきた。今更気にすることもない。そもそも最初から気にしたことなどないのだ。
 アノニスは隣の、自分より若干低い位置にある金色のくせ毛の中に手を突っ込んで、少し乱暴に頭を撫でまわした。それにもユシャはされるがままで、抵抗はしない。
「ん。ちゃんと乾いてるな」
彼の隣では勝手に振る舞うぐらいでちょうどいいのだ。己のプライドの為にそうしてきたことが、最近になって最適な距離の取り方であったことに気づきはじめていた。
「ん……」
「ん? 」
「いや、なんでもない」
 好き勝手にかき乱した髪から手を放す直前、少しだけユシャの頭がこちらへ傾いた。指に髪が絡まったのか、ほんの一瞬つられたように。しかし、なんでもないとすぐに元の位置へと戻された頭を追う髪は指の間をするりと滑り簡単に離れていった。
「ユシャ……? どうしたんだ? 」
「ほんとうになんでもないさ」
 ほんの少しの違和感。いつもの変わらない表情、平坦な声、短い返事。全ていつも通りであるのに、こんなユシャを見るのはなんだか初めてのような気がした。

「ユシャ様! 」
 そんな繊細で微かな違和感など吹き飛ばす程、大きな張りのある声に二人は振り返る。
 そこに立っていたのは、今年齢十五の歳を迎えたばかりの三人の少年たち。先ほどの大会で上位に立ち、従者役に選ばれた新たな英雄の取り巻きトリオだ。容姿も声も身長も前の者達とはみな違うというのに、何故だか一様に同じ態度で、同じような言葉で、同じ表情でユシャを信仰する。全員が入れ代わったというのに代わり映えのしない三人だ。
「ユシャ様の御傍に立てるだなんて、夢のようです! 明日死んでも悔いはないぐらいだ」
 あっという間に英雄は取り囲まれ、アノニスは一人輪からはじき出される。やはり一従者でしかない自分は、彼のように価値を確立されていない。先ほど押し込んだはずの劣等感が顔を出す。英雄であることが決して楽ではないこと、それはこの一年彼の傍にいてよくわかっていた。ユシャが英雄としてこの地に登場してほんの数年ではあるが、完璧なプロデュースとそれに応える彼の働きで、一部の者達はついに彼を神格化し始めていた。それが異常であることをアノニスは理解していた。
 誰からも称えられる英雄が羨ましい。その一方で彼が痛ましいと思う気持ちが心のどこかにあるのも事実であった。彼女はまだそのことに気づけていないかもしれないが。確かに小さくそこに存在していた。



 顔合わせと食事会を終えて皆それぞれ与えられた部屋へと引き返す。今日から従者になった者達は一度家へ帰り、そうしてこちらへと越してこなければならない。それと同時に、今日で従者を終える者たちは早々にここから引き上げなければならず、今頃その準備に追われているはずだ。
 ユシャは布団にもぐり家族のことを考えていた。英雄の座についてから、あるいはその前から過去のことなど振り返ってこなかったが、そういえば自分はいったいどんな子供であっただろうか。いつからこんなにも感動の無い人間になってしまったのだろか。彼らのことを思い出そうとするうちに、そんなことが何故だか今更気になりだした。
 昔はユシャにも楽しいことがあった。そうだ、嘗ての自分は剣術の仕合を何よりも楽しいと思っていたはずだ。父も母も剣術ばかりに熱心に打ち込む自分をよく心配していた。それほどまでに夢中だった。しかしいつからつまらないものになり果ててしまったのだろう。彼は少し思い返す。
剣術の稽古は男ならば皆一度は受けなければならない。最低で三年間、スクールに通うなかで教わるそれは、いわばこの国の義務教育だ。ユシャが学生だった頃、最早闘技会の伝統など廃れつつあった当時は剣術等に興味を持つ者は少なく、スクールでの稽古を越えてこれを続けるものは少なかった。しかし幼いユシャはそれにすっかり心を捕まれてしまったのだ。
父も母もそんなユシャを止めることはなかった。夢中になれることがあるのは彼にとってよきことだと思っていたからだ。何より彼には剣術の才能があった。ただ、その才能故に周りから孤立していくユシャのことだけは、両親も心配せずにはいられなかった。
一方ユシャ自身は、両親の心配をよそに孤立していくことにも大したショックはなかったように思う。誰も相手をしてくれなくなり残念だと思いこそすれ、傷つくことはなかった。友人が居らずとも、剣を振るうことだけを考えていればそれでよかったのだ。
とはいえスクールの中だけではなく外でも相手をしたがる者が居なくなり、ついに師にまでもう勘弁してくれと投げ出された頃には、さすがに退屈を感じ始めていた。自分の技を磨くことは好きであったが、そうしてユシャが強くなればなるほど考えた戦術や身に着けた技術を全て出し切れるような仕合はなくなっていった。そうしてついには仕合そのものまでする相手がいなくなってしまったのだから、いつまでも無邪気で楽しいばかりではいられない。
ユシャは本当に剣術に心を奪われてしまったのだ。両親に撫でられること、そして彼らと手を繋いで出掛けること、他の子達と遊ぶこと、剣術に出会うまでは嬉しいこと、楽しいこと、好きなことがたくさんあった。友人も多くはなかったが何人かいたし、好きな食べ物も歌も遊びもあった。
だが、スクールで剣術に始めて触れたとき、ユシャの世界はそれ一色になってしまったのだ。嬉しいこと、楽しいこと、好きなこと、その全てが剣術となり、家族へ向けた愛も、友に向けた友情も、他の全ての心をそれへと注ぐようになった。ユシャの世界はひどく狭まり、剣術しかなくなってしまったといっても過言ではない。それほどまでに夢中になった剣術に、他を捨てて何もかもを捧げた唯一に退屈を感じ、ユシャの心が少しずつ動かなくなっていったのは、当然のことであったのかもしれない。
両親はそんなユシャをいつも心配してくれていたように思う。あのときは、いや今日まで気づきもしなかったが、少しずつ表情を失っていくユシャの姿を見つめる両親の顔はいつも心配をにじませていた。それでも彼らはユシャから剣術を取り上げることはなかったし、無理に友人をつくれとも言わなかった。ただそれとなく、もしかしたら他に夢中になれることがあるかもしれないとユシャを励ますだけ。
「そうだ」
父は、よくユシャの頭を撫でていた。そしてユシャを励ますときは決まって少し乱暴にくしゃくしゃと髪を乱すのだ。
先ほどアノニスがそうしたように。
なぜ両親のことなんて突然思い出したのか、それはきっとアノニスのせいだ。あのとき髪を掻き回す手から離れがたかったのは、きっとあの手に父を重ねていたからだ。嘗てユシャは親に撫でられることに幸福を感じていた。そして剣術に全てを捧げ、その全てを失ったように思っていたあのときも、心のどこかで彼らの手に安らぎを感じていたのだ。
 胸に揺れる微かな感情をいったいなんと呼ぶべきなのだろう。父の手が恋しいような、母の胸に飛び込みたいような、しかしそれは叶えられない。両親とは遠く離れた独りの夜。ユシャはなんだか無性にアノニスに会いたくなって、コンコンと部屋の壁を叩いた。

 その壁の向こうでアノニスもまた、眠れぬ夜を過ごしていたのだった。少しくたびれた毛布にくるまり、新たに加わった従者達の顔を思い出す。一人は穏やかそうな少年で、表面上はアノニスの実力を認め好意的に接してくれていた。ただあの穏やかな笑みの下にいったい何を隠しているのかわからない男だ。対して他の二人は非常にわかりやすく彼女へ敵意を向けていた。崇高なユシャ様に気安く話しかける女のことが気に食わないのであろう。以前いた三人も同じであった。だがアノニスは彼らから向けられる敵意など気にしたこともなかった。誰一人として彼女には勝てないような者達だ。自分を負かすユシャ以外の誰にも文句を言われる筋合いなどない。そう思っていた。
 彼女が見据えるのは英雄のまばゆい光だけ。そしてそれに群がる従者や民衆の姿である。それらが自分に敵意を向けていること自体はどうでもいいのだ。ただ彼らが光に吸い寄せられている。そのことはアノニスにとって重要であった。
「ああ早く何者かになりたい。役立たずの、何にもなれないアノニスではないなにかに」

そうしたらきっと、きっと皆が私を認めてくれるんだ。

 毛布を頭まで引き上げて目を閉じる。もう寝てしまおう。そう考えていたとき、コンコンと壁が鳴った。この向こうに居るのはユシャだ。
 彼がおきているだなんて珍しい。ユシャは仕事のためであればいくらでも睡眠時間を削れるような男であったが、その一方で布団に入ってしまえば、無駄な時間を使う気は一切ないとでもいうように一瞬にして眠りにつくような男であった。
 ただ眠っている間に手がぶつかっただけかもしれない。アノニスはどうするか少し迷ったが、コンと一度壁を叩き返してやった。すると再びコンコンと音が二つ返ってくる。
どうやら起きているらしい。
この二つの音が何を表すのか、そんなことはわからない。同じようにこちらの意図も彼には伝わらないだろう。それでもアノニスはもう寝ろという意味を込めてもう一度壁を叩く。これ以上は返事が来ても対応しないつもりでいたが、意図が伝わったのかそれとももう眠りについたのか、それ以上返事がくることはなかった。

「よ。おはよう」
「おはよう」
「……」
 翌朝顔を合わせてみればユシャは拍子抜けするほどいつも通りで、昨晩の密やかなやり取りなどまるで存在していなかったかのような振る舞いに、アノニスはほんの少し戸惑った。
アノニスは今までユシャに何度も話しかけ、短い返事を引き出してきたが、ユシャからアノニスへ話しかけることは一度たりともなかった。いや、そこまで言えば嘘になるかもしれないが、仕事を離れプライベートの話となればそれも過言ではない。そもそもユシャは仕事でなければ本当に最低限のことしか話さないような男だ。民衆の目から離れた彼はアノニスに限らず、他の誰が相手でも自分から声をかけることなど滅多にない。その彼が初めて自ら発したものが、あの壁を叩く二つの音だったのだ。彼に何か変化が起きたのだろうか。だが実際目覚めてから顔を合わせた彼は、昨日までと変わらないままであった。あの時間が夢であったのかと思うほどに。
「アノニス」
「え! ……あ、なに? 」
 突然。
英雄の皮を被らぬありのままのユシャから初めて名を呼ばれたことに、アノニスは驚き、一瞬動揺した。あまりにも彼が通常通りなものだから、昨晩のことがありながら油断していたのだ。
「昨日はありがとう。君が起きていてよかった」
 だがやはりあれは夢ではなかったようだ。
 アノニスは自分の目を疑った。彼が感謝を告げる瞬間、微かに。本当に微かにであったが頬を緩めたように見えたからだ。だがそれも一瞬のこと、アノニスが驚いて見つめている顔はやはりいつも通り無の表情で、何の感情も読み取ることはできなかった。
 ユシャは自分が伝えたいことを伝え満足したのか、返事がないことも気にせず振り返ると、そのまま固まるアノニスを置いて廊下の先へ進んでいった。
「なに。どうしちゃったの? 」
 置き去りにされた女は、ただ遠ざかっていく男の背を呆然と見つめることしかできなかった。自分も早く行かなければならないことは分かっているが、今はまだ動けそうにない。
 別にユシャから話しかけられるからといって困ることがあるわけではないのだ。彼がこのまま表情豊かな人間になっていったとしても、アノニスには何の害もない。ないけれど。それでも今まで当たり前だと思っていたものが突然そのきっかけもわからずに変化してしまったら人間はだれしも怖いと思うものだろう。それは喜びとか、嫌悪とか、そんな感情で測れるようなものではない。まるで世界がどこかおかしくなってしまったような、そんな奇妙な気持ちが今まさに彼女の中を漂っていた。
「今日一日どうしたらいいんだ……」
 英雄として引っ張りだこのユシャと、従者としてようやく存在を定着させつつアノニスでは仕事の量も変わってくる。一日中別行動で顔を合わせない日だって少なくはないのだ。であるにもかかわらず、今日に限って一日中彼と行動を共にする予定である。何故よりにもよって。そう思わずにはいられないが、仕事なのだから仕方がない。
ユシャを前にしても動揺を見せないよう、切り替えなければならない。幸いそれはアノニスにとって得意なことのはずだ。いつも通りにすればいい。
深呼吸を一つ。
それで一度落ち着きを取り戻した彼女は、男が消えていった廊下の先へ足を踏み出した。早くしなければ朝食を食べる時間を失ってしまう。
「というかあいつ、会話をするのが下手くそすぎないか? 」
 一人言いたいことだけをぶつけて、今頃固まるアノニスの事など気にもせず食事をしているであろう男を思うと、少し怒りがわいてきた。誰からも愛される英雄なら、無自覚の傲慢な振る舞いの一つもきっと許されるのだろう。あれはアノニスにはあと一歩手の届かない座について、当然のような顔をしている男だ。憎たらしい。そうだ。それでいいのだ。ユシャがどう変わろうと関係ない。アノニスが考えるべきは彼の首を獲り英雄になることだけ。
 いつも通りにすればいい。それだけだ。

 食堂の扉を開くと、中にはユシャと見慣れない三人の男達がいた。そうだ、昨日から彼らが新しい従者になったのであった。寝る間際の衝撃でそんなことも抜け落ちていた。
彼らの手元の皿は片付けられており、あるのはカップのみだ。もう食事はとっくに終わっているのだろう。ユシャはそんな三人から離れたところに着き一人で黙々と食事をとっていた。アノニスはそれぞれ一つずつ残されているパンやサラダの盛られた皿をプレートの上に集めると、とりあえずユシャのいるテーブルへ向かった。普段と変わらないように、いや普段よりかいくらか乱暴にはなってしまったが、彼の隣へ腰かけた。
アノニスは基本的に一人でゆっくり食事をとることが多いのだが、こうして適度にユシャの隣にもつくようにしていた。どちらかと言えば一人で落着いて食事をする方が好きなのだが、普段話しかける距離感と比べてあまり不自然にならないようある程度距離感を調節する必要もあるのだ。
「もう食べ終わるのか? 早いな」
 先ほど廊下で別れたばかりのはずだが、ユシャの皿はもうほとんど空になっていた。ほんの少しの間固まっていたとはいえ、それほど時間が経ったわけではないはずだ。
「君も早く食べろ。時間がないぞ」
「ああ、そうだった」
 食事を用意してくれるスタッフには申し訳ないが、少し急いで食事をとらせてもらう。普段であればもう少しゆっくりと味わって食べるのだが、今日はどこかの英雄に捕まって話をしていたせいで時間が無くなってしまった。
「お前も廊下じゃなくて、食べながら話てくれりゃあよかったんだぜ? 」
「それは……すまない。だが」
「? 」
 そのまま同意するだけなのも癪なので少しだけ文句を言わせてもらったが、それに対する彼の反応が予想外の歯切れの悪さで、アノニスは少し驚いた。彼のことだから短く、すまない。と、本当にそう思っているのかもわからない平坦な声で謝って終わりだろうと思っていた。だが彼には何かアノニスには言い難い事情があったようだ。
「……ここでは言いづらかったんだ」
「ふーん」
 ユシャは相変わらず読めない表情のままであったが、目だけは気まずげに逸らしている。お前にも言いづらいことがあるのかとか、いったい何故ここでは言えないのかとか、つつく場所はいくらでもあったが、口に物が入っていたのであまり凝った返事はできなかった。それにあまり時間もない。珍しく歯切れのわるいユシャは正直少し面白いのでここで遊んでやれないことは残念であったが、この話はまたあとでゆっくりとさせてもらおう。なにせ今日は一日中行動を共にするのだから、隙間などいくらでもあるはずだ。先ほどは憂鬱に思っていたことだが、アノニスにも少しだけ楽しみができた。

 ちょうどアノニスが皿を空にすると同時に、食堂に鐘が鳴り響いた。いや、食堂だけではない。鐘の音はこの塔内から隣の闘技場、全ての部屋廊下どこにいても聞こえるよう隅々までに鳴り響く。三回鳴らされる音は始業十分前の合図だ。さらに始業時と終業時には五回鳴らされる。この鐘はもともと闘技会の始まりを知らせるために闘技場に設置されていたものだ。もちろん現在でも年に一度はその役割を果たしているが、それ以外ではこうして日常の時間を知らせるチャイム代わりに利用されている。
「なんとか間に合った。残さずに済んでよかったな」
 空の皿を乗せたプレートを回収用の台車へ運び、それぞれの皿を重ねていく。アノニスを追ってユシャも食器をさげにいく。
「別にお前は私を待たずに先に行けばよかっただろう。ま、いいや。それより、さっきの話はあとで聞かせてもらうぜ? 」
「二人のときならな」
「そう。じゃ、楽しみにしとく」
 社長室へ向かいながら彼女は少し意地悪な笑みでユシャに言った。それを聞いたユシャは特に不満などは見せなかったが、内心どうであったか。アノニスはそれを想像して少しいい気分になった。
 英雄と従者達は毎朝社長室に一度揃ってからそれぞれの仕事へ向かう。始業時の挨拶は外部での仕事が始業時刻前に入っている場合などを除けば必ず行われる決まりであった。
 部屋の中へ入ると、先に食堂を出ていた三人は既に揃っていた。ユシャを一歩前へ出し、アノニスは他の三人の横へついた。
 全員が並び暫くして、部屋の中に鐘の音が鳴り響いた。今度は五回、始業の合図だ。
 それと同時にデスクのすぐ横にある扉から社長が現われる。闘技会とその会場運営を任されている企業の取締役だ。それに続いて、この塔に配属されている広報担当職員たち。いわば英雄や従者のプロデューサーのような存在の彼らは、英雄と従者達のさらにその後ろ、廊下に面したデスク正面の扉の前に横一列で並んだ。
「おはよう」
 まずは社長からの挨拶。それから朝から聞くには少し退屈な話をきいたのち、彼に促された職員による今日一日の流れの説明を受けて始業挨拶は終了する。
「本日はこの後撮影と取材が入っています。その後新人の皆さんは飛行訓練です。」
 新しい顔ぶれをいち早く記事にしようと各媒体から取材や撮影が入っている。しばらくはメディア関係の仕事が多くなるだろう。それから新人たちには飛行訓練もある。二週間もあればそれなりに飛べるようになるはずだが、それまでは他の仕事に入ることはできない。
「ユシャ様と従者アノニスはその間もう一件の取材を受けていただき、終わり次第高原を超えて山側にある集落へ飛んでもらいます。隣接する森から畑への侵入が確認されているそうです。足跡からしてそう大きな固体ではないそうですが、油断なされませんよう」
 そうなってくると、各地の見回りや害獣駆除などの仕事はユシャとアノニスの二人で回すことになる。
「またしばらく忙しくなるけど、頼んだよ。今年はアノニス君も残ってくれたから、助かるね」
 社長は、ははは。と笑って座り心地のよさそうな椅子に腰かける。彼が席に着いたら、挨拶終了の合図だ。
「では、皆さん。四階の多目的ホールへ移動してください」
 撮影や取材は主に塔の中で行われる。もちろん他所へ出向いて行うこともあるが、まだ飛行訓練の済んでいない新人がいるうちは、しばらくこの中で完結するようにセッティングされているはずだ。幸いなことに広い部屋はたくさんある。従者や英雄たちに与えられている部屋も、食堂として使われている部屋も、先ほどの社長が居座っている社長室や広報部所の出張事務所だって、全てそうした部屋を改装して作られている。そして、それでも余りある部屋たちを撮影や取材のために使っているのだ。
 今日の撮影は紙媒体や映像媒体など多岐にわたり入っている。新聞などの場合は撮影さえ済ませてしまえば、後の取材はスタッフの対応で構わないこともあるが、雑誌などは本人へのインタビュー記事として組まれていることも多いのである程度拘束される。だが今日はなかなか調子がいい。新人たちも非常に優秀で、トラブルなく仕事が片付いていく。四階、五階、三階、二階と各フロアを転々としながら順調に仕事をこなし、昼の時間には全員で食堂へ帰ってくることができた。
 昼食をとり終えると、三人は闘技場へと向かった。ユシャとアノニスの二人は六階の一室で取材を終え、撮影の為に外していた剣帯を装着しながら昇降機で屋上を目指していた。
 闘技場の残るこの街は、近くに王城があるように嘗て国の中心地だった。もちろん現在でも王城が政治の拠点となっており、国の中心であることに違いはないが。ここは当時から人が多く栄えていたのだ。そのため同じように当時の人たちが立てた娯楽施設や、教育施設など同じ時代に作られた建造物も多い。王城やこの闘技場が今も当時のままの外観を保っているように、他の施設もまた内装を現代の生活様式に合わせつつも見た目は当時の姿のまま残っているのだ。そしてそれらの建物に合わせて町全体も当時のままの雰囲気を残したつくりになっている。道幅なども当時のままになっており、細く入り組んだ道ばかりの迷路のような街なのだ。
そんな歩行以外の移動が適さないこの街で、急ぎの移動手段と言えば空を飛ぶことであった。今他の三人が受けている飛行訓練というのは、まさにこの技術を身に着けるためのものだ。
二人は屋上に着くと、大きな鳥小屋から人と同じぐらいの背丈がある大鷲を呼び出す。彼らの体にはハーネスが取り付けられており、胸の前でクロスしたそれが羽根を避けるように後ろに回されて、首の裏と尾羽の付け根あたりでとめられている。それを確認した二人も、それぞれ腰にベルトを装着していく。ぐるりと巻き付けられた腰のそれから上へ延びる二本のベルトを肩から背中へまわし、クロスさせた状態で後ろ腰の金具へ固定する。そうして今度は下へ垂れ下がっているベルトを、大鷲のハーネスに取り付けた。これが落下防止のセーフティベルトである。それらがしっかりと固定されていることを確認し、鳥たちの機嫌を取ってようやく鞍に乗ることができるのだ。
ゴーグルを装着して、許可を取ってから背に飛び乗る。足は下ろせないので、膝を折りたたんで上に乗り、さらにハーネスに取り付けられた手綱を握って準備は完了だ。
「ユシャ、飛べるか? 」
「ああ。いつでも大丈夫だ」
「んじゃ、いくぞ! 」
アノニスは背を借りた鷲の頭を一撫ですると、手綱を引き飛び上がった。それに続きユシャも空へと飛び立つ。
「高原の先の集落か。向かい風になるが頼むぜ」
 アノニスが唇を寄せてやると、大鷲は嬉しそうに鳴いた。
 そういえば屋上の小屋から鷲たちを呼び出すと、彼らはいつも決まってアノニスの前へ集まる。そして役目を終えた後も必ずなつっこく彼女に頭を擦り付けてから小屋へと戻っていく。
「君はこの子たちと仲がいいな」
「そうか? お前が嫌われてるんじゃなくて? 」
「そんなことは、ないと思うが」
 ないとは思うけれども、そうは言い切れない。ユシャにはあまり彼らの表情がわからなかった。
「ふふ、お前鷲使いが荒いからな」
「そうだろうか? 」
 アノニスはくすくす笑ってユシャより少し前を飛んでいく。
「まぁ嫌われてはいないと思うよ。じゃないと背中に乗せてなんてくれない」
「そうか」
「うん」
 なんだか今日のアノニスは少しご機嫌だ。今日は心なしか口数が多い気がする。彼女はユシャによく話しかけてくるが、その実あまりうるさい人ではない。気さくだがおしゃべりではないし、互いに無言でも気まずい空気を出すことはなかった。会話は続かないことに関してはユシャの返答のせいでもあったが、とにかく短いやり取りを終えたらあとは黙ってそれきりだ。それが何だか今日はよく話す。
実際アノニスの機嫌が良いのは確かに事実だ。だが、彼女がよく話す理由はユシャ自身の口数が増えたことにもあることを、彼自身は気づいていない。アノニスからすれば、ユシャの方こそ機嫌がいいように見えていることにも。
長距離を飛行する二人はその後も何度か言葉を交わしながら、平坦な大地の上空を超えていく。
「そう言えば、お前どうして食堂ではあの話をしたくなかったんだ? 」
 そんな中で、アノニスはふと朝のことを思い出したのだった。
「ああ、それは……あんな気持ちになったのは初めてだったから、なんだかそれを他の誰かに知られたくなかったんだ」
「あんな気持ち? 」
 なんだかいまひとつ内容のつかめないもやもやとした返答に、アノニスは怪訝な顔をする。やはり彼女が朝思った通り、ユシャは会話が下手なのだ。これは一つ一つをつつき返して疑問を解消していかないと話が進まないぞと小さく覚悟を決める。
「君が俺の頭に触れたから」
「は? 」
 全く話が読めない。彼は一体何の話をしているのだろうか。今の会話、それから朝のやり取りまでさかのぼってみたが、やはりアノニスには一体何にかかる言葉であるのかわからなかった。
そんなことよりユシャの一人称が「俺」であったことの方が気になってしまう。彼が自分のことを指す発言をするのは実は初めてではないだろうか。いや、だめだ。自分まで話をそらしてしまうと、今以上に話が進まなくなってしまう。そう思いなおして、再び彼の突飛な発言と今までの話を繋ごうと頭を働かせてみる。が、結局わからずじまいに終わった。
「お手上げだ。もっとわかるように説明してくれ」
「昨日君が頭に触れたから、両親のことを思い出したんだ。その、昔よくああしてもらったなと思って」
「ああ」
 彼が何の話をし始めたのか、少しだけ見えてきた。どうやら昨晩の出来事の、さらにその前の話をしているらしい。確かにアノニスは彼の頭に触れた気がする。髪を乾かしたとかそんな話をしながら。
「それで、なんとなく誰かと話したいと思った。だから、君はもう寝ているかもしれないとは思ったんだが……」
「あー。なるほどな」
 ようやくアノニスにも彼が何を言いたいのか理解が来た。
「つまり、お前はパパとママを思い出して寂しくなっちゃったわけだ」
「寂しい……そうか。そういうのかもしれない」
 理解したアノニスは少し意地の悪い言葉選びでユシャを揶揄ってやる。ユシャには全くと言っていい程効かなかったが。発言のそこに在った小さな悪意になど気づかず、アレが寂しいか。などと呟いている男を見て、アノニスは悔しさなどを感じる前に呆れてしまった。
「お前、会話だけじゃなく人間も下手くそだな」
「人間が下手とはどういうことだ? 」
 無邪気に首をかしげるユシャが面倒になって、なんでもない。と適当にあしらう。
「つまりお前は寂しくなったから、構ってほしくて私の部屋に繋がる壁を叩いたと? 」
「そうなるな」
「んで、それを周りに知られるのが恥ずかしかったってこと? 」
「そう。そうだ恥ずかしい……うん」
 わからなくはない。が、なんだか釈然としない。そもそも、自分が寂しがっていたことを知られるのをいちいち恥じらうなら、
「なんで? 私が指摘したときはなんでもないって顔してただろ。どうして他の奴はだめなんだ」
 そこに羞恥心があるというなら、先ほどアノニスが揶揄ってやったときの薄い反応は一体何だったのか。もう少し恥じらってみせても、あるいは怒ってみせてもよかったはずだ。それだというのに、ユシャはただ寂しいという言葉がしっくりきたと深く納得しただけだった。顔を赤らめることもなければ、頬を膨らますこともなく、ただいつも通りの無表情で頷いただけ。
「君にはいいと思ったんだ」
 ユシャはアノニスにちらりとも視線を寄越さず、ただ真っ直ぐ向かう先だけを見据えてそう言った。
「なんで」
「わからない」
 彼の考えていることがわからない。その言葉の真意が全くと言っていい程に。アノニスは理由を聞き返したが、どうやらユシャ自身にもそれは見つけられていないらしい。
おかしいじゃないか、弱みを見せてもいいだなんて。それも自分にだけだ。そんなのは信頼されているみたいじゃないか。たかだか一年一緒に仕事をしていただけの間柄でしかないのに。しかも毎日一緒にいたというわけでもない。仕事が同じであれば今日の様に行動を共にするが、どちらかと言えば別々の仕事を受けることの方が多い。塔内でだって、わざわざお互い時間を合わせて共に過ごすような間柄でもないのだ。ともに食事をとるときや、並んで廊下を歩くときは、大概仕事を終えた後流れで自然とそうなるからだ。そうでなければアノニスが意図的に距離感を意識して声をかけるときだけ。
そうであるように見せかけてはいるけれども、実際に二人の仲がいいのかと言われればそんなことはない。寧ろアノニスからすればユシャは憎むべき相手ですらある。
そもそもこの一年、アノニスが一方的に声をかけ続けるばかりで、ユシャからアノニスへ興味のベクトルが向く素振りなど一度もなかったではないか。
これは信頼などでは決してないはずだ。そうだ、深く関りがない人間の方が後腐れなく本音をいえるということもある。きっとそういうことなのだろう。だがユシャ本人がその答えを持たない以上、そこに当てはまるべきものなどアノニスがいくら考えたところで結局わかりはしない。
「なんじゃそりゃ」
 気がつけばユシャはアノニスの少し先を飛んでいる。その後ろ姿を眺め、彼女は深くため息をついた。
彼の背を追い越してさらに先へ視線を向ければ、前方にはもう山が見え始めている。目的地はその手前。もう間もなく到着するだろう。それまでに頭の中を切り替えなくては、英雄の肩書は得られずとも仕事は完ぺきにこなすと決めている。ああ、せっかく気分が良かったというのに。結局今日はユシャに振り回されたばかりだ。アノニスはやり切れない気持ちを飲み込むために、いつものように深呼吸をした。
目の前の山が大きくなるにつれて、目的の集落へと近づいていく。少し高度を落とせば、中の様子もよく確認することができた。集落の中では着陸に適した場所はなさそうだ。
「ユシャ。あそこじゃあ降りられない。付近の開けた場所に一度降りて、集落までは歩くしかないだろう。ついてきてくれ」
「わかった」
 着陸地点へ目星をつけたアノニスは後ろからユシャを追い越すと、右へ旋回した。彼女が導く先は畑に取り囲まれた集落の外側、高原側から続いていた森が途切れ始め木々が一本二本と生えているのみの障害物が少ない丘の上だ。二人は徐々にスピードを落とし、手綱を引いて着地を促す。羽根に風を受けながらふわりと着地する二羽の足元から波紋の様に草が揺れ、広がっていく。
民家や作物、家畜の安全を考慮し着地にはかなりの広さが必要になるのだ。都市部では十分な広さで着地場所を設けることができないため、止まり木と呼ばれる大鷲を降ろすための足場が設置されていることも多い。上部が直角に折れ曲がった形状の頑丈なポールで、地面から十分な距離を保つことで周りへの風の影響を抑えることができるものだ。鳥の背に乗る人間は取り付けられた梯子を使って、ポール伝いに上り下りをする。都市部から離れた田舎であっても町の玄関口に止まり木を設置している場合も少なくはないが、ポールの長い梯子を上り下りするのはなかなか骨が折れるので、広い土地に直接着地する方が圧倒的に楽ではある。とはいえ着地に適した場所を探すことも場合によってはなかなか難しいので、どちらの方がいいとは一概には言えないのだが。
鷲たちが完全に着地をし、羽根を折りたたむのを確認してから二人は地に足をつける。広い丘の上に降り立って、アノニスは何十分ぶりかの自由に体をめいっぱい伸ばした。膝を折り畳んだ体制を一時間近く続けていたのだ。軽く跳ねたり屈伸運動をしたりと、手足を動かして身体を慣らす。そうして一通り全身を動かしてしびれや違和感を抜くと、二人は飛行用の安全ベルトを取り外した。
「お前たちはここでいい子に待ってるんだぞ」
 撫でるアノニスの手に頭を摺り寄せて、鷲たちは返事をするように一鳴きした。繋ぐような場所もなければ待つ間に入れてやるような小屋もないが、彼らならば大丈夫だろう。
「おっし、行くかユシャ」
「ああ」
 こうして都心から外れた集落に赴く仕事は、大概の場合害獣駆除である。山や森、人間の生活圏の外から人里に侵入し悪さをする獣を追い立て、ときには切らなければならないこともある。
 どうして害獣駆除なんて仕事を英雄がやっているのかと思うかもしれないが、そもそもこれが本来の英雄の仕事なのだ。数年前、国が大会を運営していた頃の英雄はこういったちょっとしたボランティアが仕事であった。仕事と言っても出動回数はそこまで多くもなく、ごく稀に危険度の低い現場にだけ派遣されるだけ。ちょっとした人助けをする少年という、良い子の象徴としての英雄を支えるパフォーマンスでしかなかったが。しかし、そもそも当時の英雄はほとんど普通の少年でしかなく、英雄というのもお飾りの称号でしかなかったのだ。ちょっとしたお手伝い程度の仕事しかないのも当然と言えば当然だろう。
 程度はともかくとして、害獣駆除などの活動は現代の英雄という役職において、基本ともいえる仕事なのだ。そのため、体制の変わった現在においてもこうして英雄や従者がその役割を果たす。しかし、当然求められるものは変化している。こうした援助活動は存在感をアピールし、人々からの信頼を勝ち取ることで、困ったときに頼るべき存在として英雄の立ち位置を築き上げるための巡業である。国の管轄であった頃は文化としての存在感をなんとなく残し続けていればそれでよかったようなものであるが、そこに企業が関わっている以上はその存在感で利益を産むことができるレベルでなくてはならない。より強い存在感で、より多くの者の心をつかむ。例えばグッズ展開への需要であるとか、イベントの集客力に繋がるのがこういった活動になってくるのだ。
 となれば必然とこうした仕事は嘗ての英雄たちよりも多くこなす必要が出てくるし、より派手に活躍することを求められる。今までのように安全が保障された場で生ぬるい子供だましのアピールをしているだけでは足りないのだ。与えられる仕事の危険度も現在ではピンからキリだ。まだ畑を荒らしている程度であればいいが、人間を直接傷つける凶暴なものとだって戦わなければならない。相手がドラゴンなどの幻獣であると生きたまま保護せねばならず、より難易度の高い仕事になってくる。
 闘技会を勝ち抜いた上位の者達が集っているのだから、一般人に比べれば腕はたつということなのかもしれないが、それにしても子供に任せる仕事として適切なのかと言われれば正直答えることはできない。今まで大きな怪我人や死人が出ていないことが奇跡である。当然社長や英雄たちの仕事を管理している広報職員たちも馬鹿な大人ではないので、仕事の難易度に合わせて派遣する人間は選んでいるだろうが、そうなれば危険な仕事をより多くこなすことになるのはユシャと、そしてその次にアノニスだ。今のように新人の基礎研修が終わるまでは、こうした危険度の低い仕事も合間にこなさなければならない。
つまり、終わらせられるものは早く片付けてしまうに限るのだ。
「ふむ、痕跡からして幻獣ではなさそうだ。どうだアノニス! 」
 先ほどまでとは違いよく響く大きな声でハキハキと話すユシャが、これまた普段とは違う表情でニカッと笑っている。意見を求められたアノニスはその顔を見上げて少しだけ顔をしかめた。
「足跡を見るに、まだ体が小さいな。普段は畑を荒らされることも無いようだし、子供が迷い込んだだけかも」
「だとしても、このまま味を占めて何度も畑を荒らされては困るな。このまま大きくなれば人を襲うかもしれない」
「おう。でも剣を振り回して戦うような相手ではないだろう? 少なくとも今は……とりあえず捕獲機でも設置して様子見、それでだめなら畑を囲う柵を新調するぐらいしかないんじゃないか? 」
「そうだな。俺もそう思う! 」
 英雄のユシャは本来の彼に比べるとうるさいのだ。もともとの彼もまた淀みなく話す男でけしてボソボソと小さくしゃべるような男ではないのだが、英雄を演じる彼は普段よりもずっと声を響かせ大きな声で話し、笑う。その明朗快活な、太陽の様に輝く英雄がアノニスは少し苦手だった。澄んだ光を見ていると己の中にある淀みを照らされ、突き付けられたような気持ちになる。そんなものは彼女の被害妄想でしかないのだが、それでも英雄としての彼の姿を見ていると、心の底でおとなしくしていた嫉妬心がぐつぐつと煮え立ち心をざわめかせるのだ。
「英雄として、派手な雄姿を見せてやれないところは少し残念だが。そこまで危険な状況でなくてよかったよ! 」
「そうだな。だが、正直あちこちに出向いて顔を出すだけでもお前の立派な仕事だよ。皆喜ぶさ」
「そうか。国中が俺を待っていてくれているとは、ありがたいことだな! 」
「捕獲機の手配は私がしておくよ。それこそ英雄の仕事じゃないからな。従者の私にぴったりさ」
 厭味ったらしい卑屈が口をついて、少し子供っぽすぎたかと後悔する。アノニスは自分のこうした醜い部分が嫌いでたまらなかった。それでもそれを捨てることもできぬままで、ずっと生きている。やめなくては。ずっとそう思っているのに今も、どうして自分じゃないんだ。だとか、私だって求められればあれくらい完ぺきに演じきって見せるのに。だとか、私の何が足りないんだ。だとか、そんな僻みが頭の中を巡る。アノニスが英雄になれない理由など、ユシャに勝つことができないからでしかない。単純な実力でしかないというのに。それでも彼女の身体の奥深くに鎮座する承認欲求というものは、どうやらひどくものわかりが悪いらしかった。
「はぁ」
 アノニスは連絡をすると言い訳をたててユシャから離れ、一人大きなため息をついた。
 嗚呼、どうして自分はこうも醜いのだろう。彼はよくわからないけれど、人としては欠けているけれど、だけど決して悪い男ではないのだ。わかりづらいが、悪い人間ではない。返事はそっけないし、愛想もない。返事もないときだってあった。ぶっきらぼうで不機嫌にすら見えるかもしれないが、人として様々なことを取り戻せば本来の彼は英雄らしく真っ直ぐで優しい青年なのだろう。実際ほんの少しだけよくしゃべるようになったユシャは、冷たくもなく、人を見下したような嫌味もない。欠けた感情や思考で人を振り回すが、性根に悪さは欠片もなさそうだ。だというのに、それがわかっていてアノニスは彼を認められない。彼に興味を持ったこと、彼を知ろうと考えることが楽しいようでどこか悔しい。彼の行動に振り回されることが心地良いようでいて、やはり恨めしい。
「はあぁ」
 どうにもならない自分の感情に、今一度より深くため息をつく。
早く戻ろう。口実に使ったとはいえ、ちゃんと連絡も済ませている。変に遅いときっと彼が探しに来てしまうだろう。こうして己の醜さに悩んでいる姿だって醜い自分の一端のようで、彼には見せたくない。と、アノニスはそう思っていた。早く、自然に戻らなければ。村人に囲まれ望まれた笑顔で答えるユシャの元へ、アノニスは足を踏み出した。
「ユシャ! 悪い。なかなかつながる場所がなくてな.……連絡は済んだよ。あとは手配しておくから、今日は戻って来いとさ」
「ありがとうアノニス! そうか。ならば名残惜しいが、戻らねばな! 」
 もう帰っちゃうの? と寂しげに手を伸ばす子供たちへ、ユシャは歯を見せて太陽の様にニカッと笑って見せた。
「なに、また会えるさ! なんなら、将来君たちが俺に会いに来てくれよ! 」
 わーわーと騒ぐ集落の人々に手を振り、大鷲たちを待たせている丘へ向かう。見送りに来た者達が徐々に小さくなっていく。飛び立つとき足元にいたのでは、人間など簡単に飛ばされてしまうことをしっかりと理解している彼らは、こうした別れの際もいつまでもついてきたりはしないのだ。
「あんなこと言っちゃって。あの子が十五歳になる頃の英雄は私だよ」
「そう簡単に譲る気はないが、そうか……」
 ユシャはほんの少し楽しそうな顔を見せる。その表情の違いはアノニスにはわからなかったが、彼の纏う空気がふと緩んだことは彼女にもなんとなく理解できた。ユシャ自身は自分の感情の変化になど気づきもしていなかったが。確かに彼は嬉しいだとか、楽しいだとか、そんな感情をにじませていた。思い出したのだ。アノニスとの仕合を。あの高揚と言うべき胸の動きを。そこに名前は付けられていなかったが、確かにあった感動を。そうしてそれを思い出してしまえば、仕合中に自分の中を占めていた負けたくないという志向がせりあがってくる。
「やはりだめだ。俺は英雄を譲れない。だけどきっと、何年経っても俺の前まで勝ち上がり、俺に挑むのは君なんだろうな」
 まるで英雄を演じているときのような、澄んだよく通る声で彼は言った。
「なんだそれ。絶対。絶対私が勝つ。私はお前を英雄から引きずり降ろすからな」
 ユシャはアノニスの言葉を聞いて満足げに頷いた。そんな余裕のあるユシャの態度が、アノニスには腹立たしいのだけれど、彼はそんなことに気づける男ではない。アノニスも、もうそんなことは分かっていたので、全てを飲み込んで彼についていくだけだった。
 二人は準備をしっかり整えると、あの古めかしい街へ向かって飛び立つ。来た時と同じ一時間近い飛行の中、彼女はまたあらゆる感情に翻弄されながらそれを全て水面下に隠して、彼との会話をやり過ごすのだった。
 あの丘を飛び立ったのは空が茜に染まる頃。そのまま真っ直ぐ飛ばしても、闘技場にたどり着くころにはすっかり辺りは暗くなっている。二人は職場であり、今は自宅ともいえる塔へ戻ると、真っ先に広報課たちのオフィスとなっている事務所へ向かった。そこにいる大人たちに報告を済ませれば、今日の仕事は終わりだ。
 それから食堂へ向かい食事を済ませると、各々の部屋へ引き返す。生活の動線は皆ほとんど同じだ。今日の様に同じ仕事を受け持ったときや、偶然仕事を終えるタイミングが被ると、そのまま食事から寝室へ戻るまでの時間はほとんどの場合共に過ごすことになる。当然今日のユシャとアノニスも部屋の前で別れるまで一緒であった。
「おやすみ。ユシャ」
「ああ。君も、おやすみ」
 ユシャと別れたアノニスは自室へ入り戸を完全に閉めると、一人大きなため息をついた。そのまましばらく閉めたばかりの扉へ身を預けていたが、ようやく身体を動かして着替えの用意や身を清める準備を整える。仕合の後や新人が受けるような飛行訓練の後、運動後軽く汗を流すときには昨日のように闘技場の共用シャワー室を使うのだが、こうして一日の終わりに身を清めるときの為に自室にもシャワールームは用意されているのだ。
 アノニスは用意した着替えを脱衣所に置いてシャワールームの中へ入ると、念入りに体と頭を洗った。天候やルートにもよるが、空を飛ぶと砂埃など目に見えないゴミが髪や服の中に入り込んでしまう。今日の様に大鷲の背に乗り移動した日は、丁寧に全身を洗わなければ寝るにも気持ちが悪いのだ。そうして、洗い上げた体を拭いて、ワンピース型の寝間着に袖を通す。淡い色で襟元や袖口にレースをあしらったそれは少女的なデザインであったが、ゆったりとしたその形状は寝間着として着るには非常に楽で彼女のお気に入りだ。胸元のリボンを軽く結んで服が落ちないように固定すると、タオルでまとめ上げられていた髪を下ろししっかりと水を含んだそれを乾かす。長い髪は乾くのに時間がかかるのだ。シャワーを浴びるのにも時間をかけたので、すべてを終えて寝る支度が整う頃には夜も深くなっていた。
 一足早く自室へ上がっているだろう新人たちは、疲れもありもうすっかり眠っているに違いない。共に帰ってきたユシャだって、普段はベッドに入ればすぐ眠りにつくような男だ。身支度もアノニスほどに時間がかからない彼ならば、もう眠っているだろう。
少し悩んだ末に、アノニスは窓に足を掛けた。

 そのころ、どうにも眠る気になれずベッドへ腰かけて読書をしていたユシャは、ふとどこかからか聞こえる声に本を閉じた。
歌声につられるように立ち上がると、部屋の小さな窓へと吸い寄せられる。ガラスの嵌められていないそれは、窓というよりは小さな風通しの穴と表現したほうが正しいかもしれない。目の高さより幾分高い位置にあるそこまで上るため、椅子を運びその上に乗っかった。少しせのびをしてのぞき込んだ穴から見えたのは、塔を取り囲むように並ぶ列柱と、その柱に身を持たれかけて風にうたれている美しい後ろ姿であった。
この建物の側面には螺旋状の廊下がぐるりぐるりと巻き付いている。ゴシック建築に見られるような列柱の上部をアーチでつないだものに囲われた吹き抜けの廊下が、三階付近の高さらから屋上に向けて伸びているのだ。何の用途があったのかはわからない。高い塔の上まで緩やかな坂を人の足で上るのはさすがに無理がある。上るために作られたわけではないだろう。であればバルコニーのように使われていたのだろうか。ユシャに与えられた部屋にも、この廊下へつながる窓は存在する。床より高い位置をくりぬいたそれは人が通る用途の構造ではないが、出ることは可能だろう。だが、これがバルコニーなのだとしたら螺旋状にぐるりと上まで伸ばす必要はないはずだ。各階を囲むように一周させるだけで充分だろう。もしかしたらただの装飾なのだろうか。その可能性は大きい。当時の者達は皆華美なものを好んだようだから。
とにかく謎に包まれた今ではただレトロで美しいだけの外廊下だが、そのデザインが驚くほどアノニスに似合っていた。吹き抜ける風に髪をなびかせて微かな声で歌を紡ぐ姿は、ユシャの視線を掴んで離さない。
「アノニス」
 ユシャは小さく名を呟いた。本当は声をかけてしまいたかったが、そうしてあの歌を止めてしまうことはもったいなく思えたのだ。
しばらくそうして後ろ姿を盗み見ていたユシャは、歌声が止むのを聞き届けてようやくベッドの中へ戻った。目を閉じると先ほどの美しい光景が瞼の裏に浮かぶ。母親のように優しい歌声を思い出して、ユシャはゆっくりと眠りに落ちるのだった。



二か月ほども経つと新たな従者達への取材もだいぶ落ち着きはじめ、飛行訓練を無事終えた新人たちも立派に飛び回れるようになっていた。そうなれば、ユシャとアノニスはそれぞれ別々の仕事につくことが増えはじめる。二人は経験者でありツートップの実力者でもあるので、他の新人たちの付き添いとして分散して仕事にあたることが多くなったのだ。そうして新体勢も三か月目にもなれば、二人はすっかりお互い別々に行動することが当たり前になっていた。当然仕事中共にいた時間は無くなり、仕事の終了時間もバラバラになったことで食事の時間なども共に過ごすことは少なくなった。
それでもユシャはときおりアノニスを呼びだし、ゆっくり二人で話す時間を作るのだった。
今までアノニスは自然に話せるタイミングがあれば話しかけてきた。だが、ユシャとの関係はそれだけだった。避けているように見えないように、距離を感じさせないように。たったそれだけの距離感でユシャと付き合ってきた。彼と話すためにわざわざ探し出したり、予定を組んだり、そこまでの時間を割くことはなかったのだ。ましてやユシャから声をかけてわざわざ二人の時間を設けるなど、一年前であれば考えられないようなことだろう。
ユシャは時折、仕事帰りに菓子などを買って帰ってくる。そうしてアノニスを誘って二人で茶を飲むのだ。彼はもともと好き嫌いのよくわからない男だ。そもそも好悪というものが彼の中に存在しているのか、それすらも怪しい。彼が自ら望んで何かをしている姿など、少なくともこの一年の付き合いでは見たことがない。言われた通りの英雄像をなぞり、完璧に仕事をこなす。たったそれだけの行動を繰り返しているように見えた。そんな男が、生命活動に必要な三食の食事を超えて間食をとること自体まず信じられないような話なのだ。それもわざわざアノニスを伴って。
「アノニス、ケーキを買ってきたんだ。部屋に来て欲しい」
「……わかった。少ししたら行くから、待ってろ」
 ノックの音に続いて、扉越しに声が掛けられる。ユシャの声だ。
アノニスは少し考えて、結局誘いにのることにした。
「ありがとう」
 部屋に引き返すであろう足音、そして隣室の扉が閉まる音を聞き届けて、アノニスはため息をついた。
「ケーキって、生菓子じゃねぇか。断られると思ってないのか? 」
実際もう何度もこんな誘いを受けているが、断ることはなかなかできずにいる。本当に疲れていた日に一度だけ断ったこともあったが、それっきりだ。なんだかんだと彼と話す時間を楽しく思う自分もいる。それと同時に彼を憎む感情で頭の中がぐちゃぐちゃになることもあるのだが。結局ユシャが残念そうに、寂しそうにしているのを見れば、アノニスには断りきれないのだ。
脱ぎかけていた服を頭から再び被る。従者として普段着ているものは、膝丈程に丈の長いシャツと、少しゆったりした足首まである長ズボンだ。今時都心では誰も着ていないような古めかしい衣装だが、歴史を重んじてなのかなんなのか従者は皆形の似通った服を着ている。それは英雄であるユシャも同じだ。式典などフォーマルな場になれば格好の差もつくようになるが、普段は英雄も従者もほぼ変わらない。現代にはあまりないこの服装は仕事着なのだが、アノニスは私服と呼べるものをネグリジェぐらいしか持ち合わせていないので、こうして仕事終わりや偶の休みに部屋の外へでるとなると大概この格好をとるしかなかった。構造がゆったりとした服なので、着ていても苦ではないので特に不便に思ったことも無い。
 着なおした服のすそを整えて腰の紐はと考え、面倒なので巻かずに部屋を出た。
「ユシャ。入っていいか? 」
「アノニス」
「わっ! 」
 返事を待って扉を開ける気でいたが、急に中からユシャが出てきたため驚いて一歩後ずさる。
「待ってたんだ。来てくれてよかった」
「行くって言ったんだから来るさ。約束は破らない」
「そうか」
 ユシャはアノニスにもわかるように顔をほころばせて、彼女を部屋に招き入れた。どうにも最近、ユシャは表情が豊かになったようだ。アノニスは考える。何が原因かはさっぱりわからなかった。彼は変わったが、彼を取り巻く環境はほとんど変わっていない。従者達も相変わらず彼の信者のようなものだし、社長もお目付け役の広報職員も変わらない。何が彼を変えたのかと言えば、これと言ってそれらしきものは思い浮かばなかった。
「紅茶を淹れてこよう。ケーキは好きな方を選んでくれ」
 アノニスが初めて訪れたときは彼女の部屋と同じように家具だけの、その家具の中でさえほとんどから同然の部屋であったというのに、今では棚にティーセットや茶葉が収められている。今はアノニスの部屋よりも物が多いのではないだろうか。
「ずっと気になってたんだが、これ。わざわざ揃えたのか? 」
「これ? 」
「ティーセットとか。皿も」
 振り返ったユシャに、アノニスは皿を指さして見せる。彼の用意したものはポットやカップ、ソーサーはもちろん茶菓子を乗せる皿までもセットになったものだ。見たところ質もいい。安いものではないはずだ。
「ああ。君とこうしてお茶がしたくて」
「私とか? せっかくなら他の奴も呼んだらいいだろう。もったいない」
 お前の信者たちなんて泣いて喜ぶだろう。と、言ってやろうかとも思ったが、少し意地の悪さが露骨かと思い飲み込んだ。
「いいや、君がいいんだ……」
「ふーん。わからんな」
 何故ユシャのような立派な英雄が自分をわざわざ選ぶのか。アノニスは彼の周りにいる者たちに比べれば生意気な年下であるし、彼にそれほど気に入られるようなことをしてきたつもりはなかった。寧ろあふれ出る嫌味で、己の醜悪さで、彼に嫌われたとしてもおかしくはないとすら思っている。いや、いっそそうであれば少しは気も晴れたかもしれないのに。こんな醜い人間すら嫌うことのない男。さすがは完璧な英雄だ。アノニスはいつも惨めになるばかりである。しかし、同時に彼に選ばれるという喜びを感じてしまう自分もいる。誰かに認められたい。彼女が英雄を目指す一番の理由であるその空白が、よりにもよって英雄への道を阻む男に埋められている。それがまた、より一層彼女を惨めにする理由でもあった。
「わかってもらえないか。といっても、俺自身にもよくわからないが」
「そうだろうな」
 最初から、ユシャが心の機微を理解することなどできるとは思っていない。たとえ彼自身のことであってもだ。
「だが、うん。きっと俺は君と友達になりたいんだ」
「……は? 」
 とはいえ彼が何も考えていないわけではないのだ。彼は感情を理解することが苦手であるが、苦手であるなりに向き合ってしっかりと考えている。そうして時折想像もつかないような爆弾を投下してくるのだ。何かの間違いではないかと思うけれど、そういうときに限って彼は己の感情を見誤ったりしなかった。
「む。その反応は少し、傷つくというか……嫌か? 」
「あー、うん。そうだな……」
 入れたばかりの茶を携えた彼が、向かいの席に腰かけアノニスを見る。その顔はどこかしゅんと落ち込んでいるようで、その顔にアノニスは弱かった。
「いや、違う。そうじゃないさ、そんな顔するな」
 嫌、と言えば嫌だ。彼と関わることは少なからずアノニスに苦しみをもたらすものなのだから。かといってあからさまに落ち込まれると、やはり嫌とは言い切れない。彼を突き放しきれない時点で、嫌と言うのも違うのかもしれない。
「でも、なんで今更」
 そうだ。何度もこうして部屋に誘われてはいるが、友達になってほしいなど一言も言ってこなかったではないか。
「母さんと手紙で話していて、思い出したんだ」
『もしいつか友人を得る機会に恵まれたら、きっと逃してはいけない』と、それは母の言葉だ。剣術を退屈に感じはじめ、日々の退屈に感情の薄れていくユシャに父が励ましの言葉をかけたように、母もまたユシャへよくこの言葉をくれた。無理に友を作ることはないけれど、友を得ることはきっとユシャに新たな世界を与えてくれる。と、母はユシャに教えてくれた。よいことばかりではないかもしれないが、友がいれば世界を広げてくれる。それは父が与えてくれた言葉にあった、『剣術以外に夢中になれるものを見つける』ことにもつながってくるはずだと。
「お前、親と文通したりするんだな」
「両親はずっと俺を気にかけて手紙を送ってくれていたんだが、返すようになったのは最近だ。ほら、俺が寂しくなって君の部屋の壁を叩いたあの晩からさ。こう表現するのが正しいのかは自分でもわからないが、なんだか恋しくなってしまって」
 当然のことだが、ユシャにも育ての親が存在するのだ。あんなにも感情の乏しかった男の親がどんなものかとは気になったが、どうやら彼はまっとうに愛されて育ったらしい。
「話がそれたな。昔母さんによく言われたんだ。友人を作る機会があったら逃さない方がいいって。無理に作れと言われたことはないけれど、俺が剣にばかり夢中だったから心配してくれていたんだと思う」
「へえ。いい親だな」
 羨ましい。
 アノニスは思った。彼の持つ何もかもが羨ましい。アノニスの欲しかった物ばかり彼の手の中にある。
「友人も、昔はいたんだが、剣術に夢中になっているうちによくわからなくなってしまって……でも君と話していて思ったんだ。きっとこういうものを友人と呼ぶんだって」
「それで私と友達になりたいわけ」
「うん。君と話していると楽しい。と、思う」
 このうえ友人まで手に入れたいと言う。
「君だけなんだ、こんなに俺のことを気にかけて声をかけてくれるのは」
 それでも、人の子として持つべきいろいろなものを落として生きてきたであろうこの男のことを哀れに思う心もまた、アノニスの中に確かに存在していた。彼の十五年の人生はともかくとして、こんな所で英雄にされてはまともな友人などできようもない。彼が英雄に就任した一年目がどんなものであったかはわからないけれど、少なくとも二年目そしてアノニスが従者となった彼にとって三年目の年には既に、彼は英雄として多くの者に称えられていた。周りに居るのは大人ばかりで、唯一歳の近い従者達は知っての通りだ。当然街へ出たって英雄は英雄。一人の少年として扱われることも最早ない。
沢山のものを持ち恵まれているように見える彼が、実際あらゆるものを犠牲にしてあの場に立っていることぐらいアノニスもわかっている。あまりにも短すぎた少年時代に友人を作ることができなかった彼に、もしここでアノニスが嫌だと言ってしまったら、彼にはもう友人を得る機会など一生訪れないかもしれないのだ。一生というのは大げさかもしれないが、少なくとも一般的に子供時代と言えるような年齢の期間に年相応な話をするような相手はきっと見つからないだろう。
「……いいぜ。今日からアノニスはお前の友達だ」
「本当か! 嬉しい。嬉しいよ、アノニス」
 かわいそうなユシャ。寂しい英雄。そんな彼を見つめてアノニスは紅茶を口に含んだ。
続いてケーキをひと切れ口へ運ぶ。ユシャが買ってきたのは、いちごの乗った定番のショートケーキとチョコレートケーキ。アノニスはショートケーキを選び、チョコレートケーキはユシャの手元で既に半分のサイズになっていた。
「甘いもの、好きなのか? 」
「そうでもないと思うが、どうして? 」
「いつも買ってくるから」
「ああ、お客さんを呼ぶんだ。もてなすのに必要だろう? 」
 いつもと言っても毎日ではないのだろうが、アノニスが呼ばれるときは常に洋菓子が用意されている。大概はクッキーなどの焼き菓子で、初めて来たときなどは皿もなかったので行儀は悪いと思いつつ袋から直接つまんで食べていた。それから何度か来るうちに茶もふるまわれるようになり、焼き菓子は一人一皿にちゃんと分けた状態で出てくるようになった。思い返してみると、彼がケーキなど買ってきたのは初めてのことかもしれない。
「なぁ、アノニス。実は今日が誕生日なんだ」
「え、お前の? 」
「うん。ここに来るまでは、父さんや母さんに祝ってもらっていたんだ。それを思い出したら、無性に君に会いたくなってしまった。たぶん、俺は君に祝ってもらいたかったんだ」
 そう言ってユシャは残っていた紅茶を飲みほした。アノニスも最後の一切れを口へ運び、飲み込んだ。
「なぁ、泊っていかないか? 」
 カップも皿も空にしたアノニスに、ユシャが言う。
「は? 」
その意味がわからなかったアノニスは、間髪入れずに間抜けな声をあげた。ユシャは大概、突然わけのわからぬことを言ってアノニスを混乱させるような男であったが、このときばかりは今までで一番間抜けな顔を晒していたに違いない。
だって泊まるもなにも、ユシャとアノニスは同じ塔に住み込んでいるのだ。それどころか二人の部屋は隣同士。他の従者達だって同じ並びに部屋を持っている。で、ありながら隣に泊っていく理由とはなんだ。朝まで語り明かせるほどの仲のいい友人であればそれもありえなくはないのだろうが。今までの付き合いがあるとはいえ、先ほど関係に友と名付けたばかりの人間に対して距離の詰め方が急激すぎやしないだろうか。
「お前、本当に人との付き合い方が下手くそすぎ」
「だめか? まだ君といたい……と思うのだが」
「駄目っていうか。急だし、そもそもお前にその気がなくたって、異性を軽々しく部屋に泊めるのはどうかと思うぜ? 」
 男女の友情というものを否定する気はないが、それを認めない者は多くいるのだ。ユシャは皆に注目される英雄なのだから、彼自身はどうあれ周りの目も気にして生きていかねばならない。
 心底驚いたような顔をしているユシャに、ため息をついた。これはいろいろと教えてやらなければならないかもしれない。と、そう考えていたアノニスであったが、ユシャの次の言葉にまた驚かされる。
「君、女なのか? 」
「そうだが? なに、お前知らなかったのか! 」
「だって君の口調……でもそうか。シャワー室とか、あのときの格好も……」
 本当に気づいていなかったようで目を見開きすっかり驚いていたユシャは、しかし途中から何やら思い当ることがあったようで徐々にぶつぶつと一人で考えこみ始めた。そうして最後には、確かに。と何かに納得したように一人頷いてみせる。
「納得したか? 」
「そうだな」
 ユシャは真っ直ぐアノニスの顔を見上げて頷く。それから申し訳なさそうに、今度は頭を下げた。
「その、失礼なことをしてしまった。誘ったことも、今まで勘違いをしていたことも……すまない」
「いいよ。私も紛らわしい口調だし、お前人にあまり興味とかなさそうだしな」
 こうも真摯に謝られては怒りようがない。そもそも、アノニスは端から男と間違えられたことなどどうでもよいことであった。それに、ユシャが今まで他人を注視して生きてこなかったこともわかっている。こうして考えれば別々のシャワー室を使っていたことも、更衣室で鉢合わせることがないこともちゃんとわかっているというのに、それを意識して生きていないのだユシャという男は。最初からそういうものだと思っていたものだから、驚くと同時に妙に納得してしまった。
「そ、そういうわけではない。ただ、あんまり考えたことがなかったんだ。男か女かとか、だってアノニスはアノニスじゃないか」
「ユシャ……」
 アノニスは小さく驚いた。そんなこと今まで言われたことがなかったのだ。なによりその言葉を嬉しいと思った自分自身に驚き、まともな返事も返すことができなかった。そんなアノニスの反応を不安に思ったのか、ユシャが窺うように彼女を見上げている。
「あ、アノニス? 」
「いや、何でもない。本当に気にしてないからもういいよ。泊まれはしないけど、また来るからさ。次も呼んでくれよ」
 また来る。なんて、断れないことを悩んでいたというのに調子のいい話だ。それでも先ほど貰った言葉が存外に嬉しくて、また来てやってもいいかと思ってしまった。
「今日は遅いから、もう帰るな」
「ああ。ああ! また来てくれ。絶対に呼ぶから」
 嬉しそうなユシャの声を背にアノニスは部屋を去る。

いつものように部屋に戻って、身を清め寝る支度を整えて、そしてベッドの中でふと気になった。ユシャを惑わした自分の口調についてだ。いつからこんな口調になったのか、考えてみると自分でも思い出せなかった。
少し乱暴なその口調は周りに性差を感じさせないためであったのか、それとも単純に自分自身が女性性を捨てたかっただけなのか、恐らくどちらでもあるのだろう。いつだって彼女の中には己の性別への嫌悪感があった。
アノニスは由緒ある家に生まれた娘であった。彼女からすれば家の由緒などちっぽけなものだ。本当であるかも疑わしいような馬鹿馬鹿しい話でしかなかった。しかし、そこそこに大きく地位のある彼女の家は、未だ古い仕来りを重んじており、そんな時代に取り残されちっぽけな社会の中で彼女はいつだって虐げられてきたのだ。
彼女の家は古の英雄の末裔であった。本当かどうかはわからない。そんなことはどうでもいい。彼らはそれを信じているのだ。自分たちにはあの英雄の血が流れているのだと。そして、英雄たるべきは自分たちであると。
しかし長いこと新たな子を迎えることのなかった一族は、闘技会に子を送り出すことができていなかったのだ。そんな中生まれたのがアノニスであった。一族からの強い期待を向けられていながら、女として誕生したアノニスは誕生と同時に一転役立たずとなったのだ。英雄は男にしか務められない。そんな古い考えがまだこの家には残っていたし、事実当時は十五歳の少年にしか大会の参加資格は与えられていなかった。家の中のどこへ行ってもアノニスに価値はなく、何をしても評価されることはけしてない。名すら呼ばれることのないアノニスはずっと何者でもないままであった。
そして時代はついに英雄交代のときを迎える。先代の英雄はアノニスの従兄にあたる男であった。彼は長いことその座を務めていたが、ついにユシャというどこの者とも知れぬ少年にその座を譲ることとなったのだ。それは彼ら一族のプライドを傷つけ、一層アノニスへの当たりを強くするきっかけとなった。『お前が男であれば、あの出所も知れぬ小僧をすぐに引きずりおろすこともできただろうに』『出来損ないめ』『お前が男なら』『お前が女なんかに生まれなければ』『この役立たずが』もう飽きるほど聞いてきた言葉を、より一層注ぎ込まれたのだ。それとは打って変わって、彼女に生まれた五歳年下の弟のことは皆とても可愛がり、惜しみなく愛情を注いだ。
アノニスは早く何者かにならなければならなかった。英雄に。弟が十五の歳を迎える前に、自分が英雄になってしまわなければ。そんなどうしようもない焦りを抱えて家を飛び出したのだ。結局はユシャに敗北を喫し、これだから……と、あの忌々しい言葉をぶつけられる結果に終わってしまった。アノニスは今も己の性別が憎くてならない。
そして、己が英雄になる道を阻むあの男のことも。だが、彼に与えられる言葉がアノニスを喜ばせるのだ。他の誰でもなく、アノニスの為に用意されたティーセット。アノニスが女であろうと男であろうと変わらず友として認め、求めてくる瞳。彼に与えられる喜びを知ってしまったのだ。
「ユシャになど、出会いたくなかった」
 胸が苦しくなってアノニスは一人、ベッドの中で少しだけ泣いたのであった。

出会いの年

一、

 会場の熱気、熱狂する観客の歓声。その中心で膝をつく女。

 三年目。またしても英雄の座についたのはユシャであった。
 昨年と同じように声を張り上る司会。勝者の名を叫び、やはり! とユシャを称えている。そんな騒がしい闘技場の中心で、ユシャはただアノニスを見つめていた。悔し気に唇を噛締める彼女の顔をしっかりと見たのはこれが初めてであった。
 勝った。勝ったのだ。自分はこの女に。そんな実感が遅れてやってくる。どちらが勝ってもおかしくない。勝ちたいというよりも負けたくない。そんな気持ちで必死に剣を振るい、地を蹴り、刃をよけ、頭と体を動かして動かして、そうして気づいたら勝っていた。そんな仕合であった。
惜しい。と思った。もう少し、あともう少し続けていたかったのに。
男は自分がこれほどまでに仕合を好む性質だとは思っていなかった。それは今まで取るに足らない相手しか与えられてこなかったからだ。ギリギリの戦いというのはこんなにも心地よい者か、男は知ってしまった。
確かに剣術には夢中だった。周りの学生や師と剣を交えることは楽しい。そう思ってはいた。だが、ユシャが何より夢中になったのは、考えること、そうしてそれを実現すること。試行錯誤の末に己を強くしていくこと。仕合はその結果を試すものでしかなかった。だが相手の力量が限られていれば、考えた全てを出し切る前に戦いは終わる。そうして彼の伸びしろも自然と抑え込まれていったのだ。そうなってしまえば退屈を感じずにはいられなかった。
それが、彼女を相手にするとどうだ。ユシャの全てをぶつけてもまだ足りない。相手の出方、その防ぎ方。己の攻め込み方。考えた全てを実行し、それらが考えた通り完璧に機能したとしても、それでもまだ足りないのだ。アノニスはユシャに想像もできないような攻め方をする。考えた通りに、あるいはその場で思いつくままに防いだとしても、彼女の手は尽きない。そうしてユシャあらゆる手で攻め込もうと、彼女は手が尽きるまで防ぎ避けるのだ。考えてきた通りでは通用しない。それは相手がいる戦いならば当たり前のことに思えるかもしれないが、実際ユシャに食らいつき全てを出し切らせることのできる人間は、今まで彼女以外にはいなかった。
「アノニス! ああ、アノニス‼ ありがとう。最高の試合だった! 」
 ユシャが差し出した手は、しばらくの間をおいて握り返される。ずっと俯いていたアノニスはほんの一瞬鋭い目でユシャを睨み上げたかと思えばすぐにその顔を隠し、ユシャの手を握り立ち上がる頃にはすっかり清々しいような笑顔を浮かべていた。
「やっぱりお前は強いよ。今年も完敗だ」
「完敗だなんて、そんな。どちらが勝ってもおかしくはなかったよ」
そう笑うユシャのことを、アノニスは誰にも気取られないよう密かに睨む。
「勝ったのは結局お前じゃないか」
 だがそんな視線にも、聞き取れないほど小さくこぼれた言葉にも、ユシャが気づくことはなかった。

 ユシャが英雄になってから五年、そしてアノニスが従者となってから三年目の年。またしても他の従者達は一新された。
闘技会が注目されるようになって四年が経つ。この頃では参加者の質も相当にあがってきたのだが、やはりアノニスほどにユシャを追い詰める者はいまだおらず、英雄の元まで勝ち上がったのは今年も彼女であった。そんな彼女の活躍もあってか、女性の大会参加者は昨年より増えていたようだ。少しずつ、闘技会も変化している。
新たな顔ぶれに入れ替わったというのに従者は相変わらずな者達ばかりであったが、しかしこちらだって全く変化が感じられないというわけではない。昨年と代り映えの無い英雄ユシャを信仰する従者たちの中に一人、ユシャではなくアノニスに憧れてここへ来た。そう語る少女がいた。今回の女性参加者の中で唯一勝ち残った少女、アノニス以来初となる女性従者となった者だ。
大会も、それにより選ばれる者達も少しずつ成長している。世界は少しずつ変わっていくのだ。だがこの成長も長くは続かない。そうユシャは考えていた。
皆英雄に憧れ、少しでもそれに近づこうと剣を習い、腕を磨く。英雄を近くで見たい。あるいは英雄の目に映りたい。そんな期待を胸に闘技会に参加するものは多い。彼の様に強くなりたいと望むものが増えている一方で、彼を打ち負かしたいと望むアノニスのような者は年々減っているのだ。
このまま自分がこの座に居座り続ければ、このまま自分の衆望が高まれば、変化のない時代の中で唯一燦然と輝き続ける不変の英雄を皆が特別と見做してしまえば、そうなれば人々が確かに自分の中に持っていたはずの憧れは、やがて一方的に他人に背負わせるだけの期待に変わっていく。ユシャに預けられる期待の重さは年々増してきている。幸か不幸か彼はそういった重量感覚にはとことん疎い者であるので、それを苦とも思っていなかったが。しかし、今まで同じ世界の人間として彼に憧れ、彼のようになることを目指していた人間が減っていることには気づいていた。それと同時に、彼を別世界の人間と遠ざけて離れたところからその強さや活躍に期待をするだけの人が増えていることにも。
今はまだ、別世界の者であるなりに近づこうと必死な者達ばかりだが、次第に人々は研鑽を積むことに飽きていくだろう。そうしてそこに残るのはただ英雄に期待して頼り切った成長の無い人々だ。
ユシャはそんな未来予想に対してどうとも思うことはないけれども。ただそんな人々の中でアノニスが変わらずにいてくれるのかどうか、それだけは彼にとって重要な事であった。



「アノニス様、おはようございます」
「おはよう」
 ブラウンの波打つ髪をふわふわと揺らし、グリーンの瞳を輝かせる少女の名はエスワールと言った。新たに加わった新人の従者だ。アノニスは背も高く「かっこいい」あるいは「美しい」というような言葉で表現されることの多い女性であったが、それとは逆にエスワールは小柄で民衆からは「可愛らしい」と評判であった。
ユシャには人の美醜に対する感覚はいまいち理解できなかったが、その雰囲気や大きさの区別はさすがにつく。十五歳に従者となったときからすらりと背の高かったアノニスは十七になった昨年成長期を迎え、ぐんぐんと背を伸ばした。もちろんユシャも彼女より二つ年上とはいえ、まだまだ成長期の中にある身だ。彼女だけではなくユシャの身長もまた伸びはしたのだが、それでもほぼ同じであった身長は頭一個分の差をつけて今ではすっかりアノニスの方が大きくなってしまった。そんな彼女と、隣に立つ小柄なエスワール。二人の印象に差がつくこと自体は理解していた。それに、二人は雰囲気もまた正反対と言うべきか、少なくとも二人を見て似た者同士と感じる者はいないだろう。アノニスは男勝りな口調に、目つきはきりりとして、怖い程ではないがどちらかと言えば鋭いと言えるだろう。笑い方も不敵にニヤリと笑うか、口元は手で隠しつつも口を広げ、ははは! と快活に笑うことが多い。対してエスワールは口元を手で隠し、さらに口は小さく育ちのいい娘のような笑い方をする。口調も仕草も穏やかで、表情はいつもにこやかでどこかふわふわとた雰囲気を纏っている少女だ。何もかも違うようで、しかしエスワールはアノニスを慕っていた。
新たな従者が決まってからしばらく、例年通りに飛行訓練を受ける新人たちの穴埋めとして、ユシャとアノニスがともに仕事をする機会も少なくはなかった。しかし、それが終わってからはどうだ。アノニスは大抵あの新人の少女と行動を共にしている。ユシャが誘えばアノニスも時間を作って部屋へ来てくれるのだが、それ以外の時間を二人で過ごす機会は以前より減っている。年の近い同性が相手で、アノニスも話しやすいのだろう。それはわかる。理解はしているが、しかしユシャは不満を感じずにはいられなかった。早い話が嫉妬だ。当然彼は己の感情をそこまで深く理解できてはいなかったが、それでも心の底に何かもやもやとした感情が存在していることには気づいていた。
「なぁアノニス。今晩部屋に来てくれないか? 茶菓子を用意して待っているから」
「今夜? まぁいいが」
 アノニスは怪訝な顔をした。というのも、ユシャがこうして朝のうちに約束を取り付けることはこれが初めてだからだ。普段であれば気まぐれに菓子を買ってきたユシャがふらりと彼女の部屋へやってきて、今から来てくれと呼びかけるだけ。約束などしたことも無い。
「約束だ」
「わかったよ」
 念を押すユシャを見てアノニスは少々面倒そうに眼を細めて返事をした。
 本日の仕事はユシャが街中での撮影。アノニスは新人のエスワールと連れ立って三日前から追っている隣町の窃盗犯を追いかけるらしい。
アノニスは言うまでもないがエスワールもまたアノニスに次ぐ剣の腕を持っている。もちろんユシャとそれに迫るアノニスの二人は周りより突出した実力者であり、彼女たちの力量差には開きもあるが。それでもエスワールは新人の中では一番の腕だ。彼女のそれは単純な強さではない。力の差など他の男たちの持つ優位性を補って余りある頭の回転や発想力が彼女にはあった。その戦い方は少しアノニスに似ており、仕合からも彼女を尊敬していることがうかがい知れる。アノニスもまた頭の回転が速い人間だ。最終的な戦いの結果としてはユシャが勝ち越しているものの、思考や発想の点ではユシャよりも圧倒的ではないかと思うほどに。そんな二人が手を組んだ捜査だ。
もともとアノニスはこうした犯罪者を探し出し追う仕事を与えられることが多かったが、エスワールと組むようになってからはより一層仕事の精度が増し、請け負う量が増えつつある。
「お前今日は撮影か? 」
食堂へ移動した三人は朝食をとりながら互いの仕事について話しあった。どちらにせよ朝食後の始業挨拶にて全員の動きは後々知ることになるので、これは雑談程度のものだ。
「ああ場所は確か西側の街の大通り沿いのスタジオだな。社長の車についでに乗せてもらえるそうだ。帰りは歩きだが、ここからならそう遠くはないしな。街の境をまたいですぐのあそこだ」
「ああ、あのでかいビル。そうか」
 細い通路ばかりのこの街では車は身動きがとり辛い。街の外へは大通りを選んで進めるだろうが、この街の中での移動となると基本的には徒歩。ユシャ達であれば大鷲による飛行で移動する場合が多い。だが街を抜けて近隣の発展都市などを巡ることの多い社長は車を利用することも多かった。そのため、今日のように隣町や大通り沿いに目的地がある場合はついでに運んでくれることがあった。
「私たちはどうする? 飛んでいけば目立つしすぐばれるな。いまどき大鷲で飛ぶのなんて私たちぐらいだ」
「そうですね。私たちが追っていることを彼らが知っているかはわかりませんが、それでも従者が街に入ったとあれば警戒されてしまうかも」
 アノニスの言葉に、エスワールが頷く。
国の中心たる古都の街中を移動するだけでなく、遠くへ出る場合もやはり大鷲が用いられる。単純に移動手段として早いのだ。現在のような車が開発される前であれば大鷲で飛行する者も多かったが、現在では英雄やその従者、あとは緊急出動時に警察などが用いるぐらいである。もちろん個人的に所有している者達もいるが、飛行にも訓練が必要であるし、大鷲の飼育にはあの巨体に見合うだけの場所や費用が必要になってくるので、その数は多くない。
となると単純な飛行スピードの速さに加え行路の選択の幅が広いこと、また道を走る車に比べて混雑が少ない事もあり、大鷲の移動速度は他に比べて圧倒的だ。だが、欠点も当然ある。その身の大きさゆえに目立つこと、そして先ほど言ったように鷲を移動手段として用いる人間が少ないことから、誰が移動しているのか予測がつけやすい。潜む仕事には向いていないのだ。
「鉄道が無難だな。隣町ならばそう時間はかからんだろう。これが遠いとなかなか大変だがな」
「その点は幸いでしたね。でもどちらにせよこの格好では目立ってしまいます。着替えていきませんと」
 ユシャやアノニス達従者の格好は、今どき私服としてはみられないであろう少し古風な庶民の服だ。アノニスは嘗て男性が来ていたような白っぽい膝丈の長いシャツと、その下に長くゆったりとしたズボン。エスワールはそれよりも女性らしい装いで、アノニスやユシャが身に着けているシャツよりも丈の長いワンピースのような形状のものを着ている。こちらもゆったりとした構造で、長い裾の下には太ももを覆う丈のズボンをはいていた。どちらもけして華やかでも派手なわけでもないのだが、現代的でない二人の格好はどうしても目立つ。
「今まではどうしていたんだ? アノニスはもともとこういう仕事を任されることも多かっただろう」
 二人の会話にユシャが口を挟む。今までアノニスがそんなことで悩んでいる姿など見たことがなかったからだ。
「今までは最後の追い込みにまでは手を出してなかったからな。状況確認とか推理とか、そういう協力は求められてきたけど、捕まえるのはあくまで警察だ」
「ならどうして今更」
 何故その突然新たな業務を与えられたのか。それは当然の疑問だろう。
「そりゃあ、パフォーマンスだよ。社長がやれってさ。年々求められるものが増えるのはお前も同じだろう? 」
 彼らは大会によって実力を示し英雄の肩書、また従者の肩書を得たわけであるが、その立場は大会の運営を受け持つ企業の所属タレントのようなものである。彼らに広報担当がつけられていることからもわかるように、英雄も従者も社長にとっては広告塔のパフォーマーなのだ。
 今までのような目に見えないところでの捜査協力、陰の立役者そんな役割では正直物足りない。ということだろう。もっと派手な仕事をしろ。そういうことだ。
「パフォーマンスか」
もちろん潜入や罠を仕掛けての待ち伏せ、そういうことが必要になってくる仕事で堂々と従者として目立つわけにはいかないが、派手な仕事というのはそういうことではない。結果として従者アノニスが犯人を捕獲したと世に広まってくれればいいのだ。それがアノニスに求められる新たな役割であった。
「今後もそういった仕事を受けていかなければならないということだな。だが君は背が高い方だから目立つんじゃないか? 」
「そうだよなぁ。今までは泊まり込みで中に引っ込んでるか、まぁ考えを言うぐらいならここから通話でも可能だったから、あんまり気にしたことも無かったけど表立ってとなるとなぁ」
「社長も君に目立ってほしいんだろう。なら新聞記事一面に大きく君の犯人確保の瞬間が載るのはほぼ確定だ。そうなれば犯罪者たちは今まで以上に君たちのことを警戒するだろうし……」
 今後も同じように仕事を受けるとなると、大々的に犯人の捕獲実績を公表しながらも犯人たちから存在を隠して行動することが必要になってくる。だが手柄を大々的に発表すれば、当然犯罪者たちに警戒されるようになるだろう。彼らに警戒の目を向けられた中で身を隠すにはアノニスの身長は少々目立つ。女性としてはもちろんのこと、けして背が低いわけでもないユシャを追い抜く身長は男性の中でも大きい方だと言えるだろう。
「そうですね。少なくとも今後は移動を減らした方が良いかと。何度も街に出入りしていると分かれば捜査に関わっていることが感づかれるかもしれませんし、泊まり込んで作戦実行まで街に潜み捜査や推理協力を行うとかでしょうか? 」
「やっぱそうなるか。まぁそれは構わんが」
 エスワールの案にアノニスは頷いているが、彼女が良くともユシャは良くない。ただでさえ二人で過ごす時間が昨年より減っているというのに、彼女と過ごす夜の時間までも削られてしまったら面白くない。だがユシャはやはり自分の不満には気づけない男だ。何に怒っていいのかもわからない。ただただなんだか嫌だと、そう思うばかりだ。
「ま、今後の話ばかり気にしても仕方ない。今日は今日の仕事だ! 早くミーティング行くぞ」
 時計を見れば、もう間もなく始業時間十分前の鐘が鳴る頃だ。すっかり空になった食器をまとめたアノニスとエスワールが先に席を立つ。ユシャも気づけば自分の皿の上は空になっていた。残っていたコーヒーを飲み干して彼女たちを追った。

 始業挨拶を終え、アノニスはエスワールを連れ一足先に社長室を出る。その後ろ姿を見送り、ユシャは二人の新人と共に社長の支度が終わるのを待っていた。
「待たせたね。行こうか」
 彼の経営する会社、つまりユシャ達が雇われているここはリゾート施設の運営会社である。始めはリゾートホテルの運営から始まり、今では小さな娯楽施設から大掛かりなレジャー施設までにその手を伸ばしている。いまや国中の観光産業は社長である彼の手の中にあると言っても過言ではない。そんな彼が闘技会の運営を引き受けたのは、闘技場を得るためであった。そのついでに伝統ある闘技会をこの国の観光資源として上手く利用できればと、その程度のものであったのだが、それが思わぬ成功を果たし現在の形になっている。
英雄たちが活躍すれば、彼の会社の評判が上がる。その側面は確かにある。だが、それよりも英雄そして従者というコンテンツそのものが盛り上がること自体が大事なのだ。英雄の価値が上がれば、それを決定する大会の価値も上がる。そうしてこの国の目玉となるものが一つ増えてくれれば何よりだ。
「今日は撮影だったね」
 運転手が回していたらしい、塔の前に付けられた車の扉が開く。助手席を空けて一つ後ろに社長とユシャが、その後ろに二人の従者が並んで乗り込んだ。
「国外にも出るものだからめいっぱいかっこつけておくれよ」
「はい」
 普段と変わらず背を真っ直ぐに伸ばして隣に座っている英雄に話しかければ、短い返事が返ってきた。相変わらずなユシャの返答に、男は苦笑した。仕事となれば彼の求める通り、明るく快活に話すというのに、そうでなければいつもこうだ。かれこれ四年も英雄として過ごし、ついに五年目となっても彼はあまり変わらない。それでも最近はようやく少し変化してきたように見えていたが、彼はやはり彼のままなのだ。
「じゃあよろしく頼むよ」
「任せてください! さ、皆行くぞ」
 スタジオの前に一台の車が止まる。開いた扉から出てきたのは、感情の薄いあの少年ではない。一人の英雄だった。
 人目のある街へ一歩踏み出した途端に、誰もが憧れる英雄、皆を率いるリーダーの顔をしてハキハキと話し始める。先ほどの淡白な返事をした男と同一人物とは思えなかったが、しかしそんな豹変にももう慣れつつあった。これが我が国の英雄なのだ。従者達だって、誰も驚いたりはしない。彼がどんな人間であろうと、彼が英雄であればそれでよい。皆ただ彼を信じ称えるだけだ。それはしかし、やはりあの英雄としての振る舞いに求心力があったからこそできた人々の意識なのだが。
 彼ならばうまくやるだろう。今までも失敗はなかった。寧ろ予想外の成功だらけだ。国の中を大いに盛り上げ絶大な支持を得ている英雄は、きっと世界中の人々を振り向かせ、この国に富みをもたらすだろう。
「出してくれ。行先はわかっているね? せっかく外国から来ていただいたお客さんだ。待たせてはいけない」
男は英雄の背中を見送ってから、車を出すよう指示を出した。

 背後から視線を感じなくなり、社長が去ったことを認識する。それと同時に目の前の自動ドアが大きく口を開けた。左右に開く構造のそれは、高さも横幅も必要以上に大きかった。
歴史的な建物が多く残り、今も嘗ての街並みを維持している中央都市と比べると、周りの街はまるでタイムスリップしたかのように発展した都市である。もちろん中央の古都だって、中は最新になっているのだが。やはり景観は全く違うのだ。中央都市に隣接する街はそこも発展しているので、この街も、今日アノニスが向かった街も、同じようにビルが立ち並び大通りには車が行きかっているような場所だ。
ピカピカと輝く硝子張りのビルに入ると、エントランスは広く開放的な空間が広がっている。その中でユシャ達の格好は浮いていた。正装と言うべきか、式典服として用いるキッチリとした衣装も持参してはいるが、それもやはり現代的な景観にはあわないデザインのものだ。ましてや現在の格好は古の庶民の格好である。現代でも地方では着られているものではあるが、とはいえこの発展した街中ではやはり馴染める格好ではないのだ。朝アノニス達が悩んでいたのはこのためである。端的に言えばみすぼらしいだろう。だが何でもない庶民が国を救う英雄に駆け上がった。その夢のような物語こそが英雄の浪漫である。これはその夢を持って人々を魅せるための計算されたプロデュース故の格好なのだ。
みすぼらしく見えるこの格好も、英雄のアイコンの一部として人々に人気であった。そのため、まず撮影にはこの衣装をと指定されているのだ。その次が豪奢な式典服になる。他にも用意された衣装があると聞かされているが、一日かけるような撮影なのだからきっとその数も少なくはないだろう。
ユシャは心の中で小さくため息をついた。彼はあまりこういった仕事が好きではない。今まで仕事に不満を感じたことはなかったが、しかしアノニスが巧みにユシャの感情を読み取り名をつけていくせいで、最近は「これは嫌だ」「アレは楽しい」そういった自分の中の感情に気づいてしまったのだ。もちろんまだわからないことも多い。とりわけ、誰か他人を対象にした感情はいまだによくわかっていないものが沢山あるのだが。
とにかく、アノニスのせいかおかげか、自分はこの仕事があまり好きではないのだとユシャは知ってしまったのだ。何着もの服を着替え、あらゆるポーズや表情を要求され、それを作ればしばらくじっと止まっていなければならない。正直に言ってしまえば退屈だ。ユシャは剣術を好むように、元来動き回っている方が好きな性質であるようだった。じっとしていることの全てが嫌いなわけではなかったが、やはり他人の求められる像に納まってじっとしているのは窮屈な仕事であった。そもそもこの英雄という仕事自体が民衆に愛される像に納まる仕事なのだが、それでも獣を追い立て剣を振るうような仕事であるならば嫌いではない。
憂鬱だ。憂鬱だが、なおざりに済ませてしまうわけにはいかない。社長もこの企画には力を入れているようだし、しっかりと英雄像を務めるようにと言いつけられている。「めいっぱいかっこつけろ」というのは、つまりそういうことだろう。一つの撮影で一日のスケジュールを埋めるだなんて今までほとんどなかったことだ。そのことからも相当な入れ込みようであることは察せられる。
ユシャはこれまで己の指標を失ったまま生きてきた。そんな彼が従ってきたのは、周りの大人の言うことだ。とはいえユシャの父も母も、彼に何をしろと命令するような人間ではなかった。だからユシャが従い続けたのは社長のいうことだ。英雄になったあの日からあの男に従ってここまで進んできたのだ。求められれば完璧にこなす。いつも通り。ただそれだけだ。
不満の欠片も見せず受付の案内に従いエレベーターで開場を目指す。言われた通りの部屋へと入ればスタッフたちの視線は一斉に彼らに集まる。その中心で、ユシャは大きく挨拶をすると、白い歯を見せ明るく笑った。
英雄に挨拶を返しスタッフたちが再び動き出す。各々機材や衣装、照明や背景の調節に移る中、男性のスタッフが近づいてきて挨拶と説明を始めた。説明がちょうど終わるころには、粗方のセッティングが終わったようで、若い女性スタッフの声を合図に撮影が始まる。
仕事は順調だ。まだ不慣れな従者達は何度か撮り直しを要求されていたようだが、それも想定された範囲内のものだろう。着てきたまま簡素な服での撮影、その後持参した式典服に着替えて一通り撮影を行い、昼には時間通り休憩を貰うことができた。午後は用意された衣装に着替えて撮影に入る。どんな衣装が用意されているのかはまだ確認できていないが、撮影中の指示の細かさや、スタッフの人数からも相当な熱の入りようが見て取れる。わかっていたことだが、覚悟はしておかなければならないだろう。
昼食を食べ終えたユシャ達は残っている昼休憩を各々好きに過ごし、また撮影に戻る。黒いシックなスーツから、パーティに着るようなスリーピースの華やかなスーツ。ファッション雑誌の様に現代の様々な服も着せられた。何に使う写真なのかよくわからないポップな格好まで。揃いの衣装を着用して三人での撮影もあるが、各々のイメージに合わせた衣装というものもあり、当然これは一人ずつ撮影を行う。英雄であるユシャだけは揃いの衣装でも一人で別途撮るものも多く、撮影量は他の二人と比べると段違いに多かった。
今日は男性組みのみでの撮影であるが、アノニス達も同じ撮影が後日に控えている。そのことを思い出し、退屈の中でユシャは考えた。
彼女はどんな衣装に袖を通すのだろう。同じようにスーツを着るのだろうか。背のすらっと伸びた彼女にはきっと黒のシックなスーツが似合うだろう。自分たちが華やかなスーツを着せられたということは、彼女はパーティードレスでも着せられるのかもしれない。このポップで可愛らしい衣装を彼女も着るのだろうか。様々な考えを巡らせて、それが楽しみなような、どこか嫌であるような、そんな複雑な気持ちになった。この感情は何だろうか。何着もの衣装を着替えながら彼は考える。
そうして、気づいたときには撮影は終わっていた。大きく、お疲れさまでした! と声を掛けられて、ユシャはハッと我に返る。
「お疲れさまでした! 今日はありがとうございました」
 来たときと同じように、ハキハキと快活に挨拶を返し、また白い歯を見せる笑顔を作った。
 挨拶も終わり片付けに移り始めたスタッフたちと、すれ違いざまに挨拶を交わしスタジオを出た。衣装は持って帰っても良いということだったので、街を歩いても馴染めるような洋服と、金の髪を隠すための帽子を一ついただく。早速貰った服を着用したユシャは、従者達を先に返らせ、少し街の中を見て回った。朝取り付けた約束の為に、何か洋菓子を探しているのだ。
空が赤く染まり始めた時間、まだまだ多くの店が開いている。今日は何がいいだろうか。考えながら、甘いバターの香りが広がる可愛らしい店を窓ガラス越しにのぞき込む。そういえば、あれからケーキは一度も買っていない。というのもアノニスから、断られたときのことを考えて買え。と、咎められたからだ。今日は約束をしているのだから、生菓子だろうと問題はないはずだ。折角なので普段は買えないものをと、ユシャは可愛らしいその店の中へと入った。
色とりどりのケーキに迷いながら、商品を二つ選ぶ。どれも美味しそう、と言うよりは選択肢が沢山ありすぎて、何を選べばいいのかよくわからなかった。前回は無難だと思われるものを選んだが、今回は前とは違うものがいいだろうか。それともアノニスが前に選んだものをまた買っていった方がいいだろうか。店も違うのだから、同じようなものでも違いを楽しめるのかもしれない。彼女が喜ぶ顔を思い浮かべる。その目の前にある皿に乗るにふさわしいものはどれだろうか。そんなことをいろいろと考えて、結局前回アノニスが選んでいたショートケーキと、もう一つは当店一番人気と書かれていたいちごのムースを選んだ。評判のものであればきっと味は良いのだろう。
ケーキが二つ入った箱を揺らさぬように歩く。四十分程度の道のりに見合うだけの氷を入れてもらったので、クリームが溶けることはないだろう。普段から片道一時間程度の仕事場が多いことを考えると、四十分の帰路は普段より少し短いぐらいだ。寄り道をしたとはいえこの距離ならばそう遅くなることも無い。普段よりもずっと早い時間に仕事を終えたユシャは、そのまま普段より早く夕食をとることとなった。
土産のケーキは部屋の冷蔵庫に入れてある。アノニスは犯人の追い込みという大仕事にやはり時間がかかっているのだろう。ユシャが食事を終え、シャワーを済ませても尚まだ塔へは帰ってきていないようだった。
待つ間にすることも無く、椅子に腰かけてただただ時計を眺める。
退屈な仕事をやっとのこと終えたのだ。あとは朝から待ち望んでいた約束が果たされるのをただただ待つのみだった。だが、彼女は本当に来るだろうか。少しだけ心配になった。彼女のことを信じていないわけではない。だが、彼女が真面目であることも知っていた。仕事が長引けば、彼女はきっとユシャとの約束よりもそちらを優先するだろう。仕方のないことだ。逆の立場であればユシャだってそうする他ない。だからもしアノニスがここに来なかったとしても、それは彼女のせいではないのだ。そんなことは分かっているのだけれど、しかしアノニスが喜ぶ顔を想像してあんなにも悩んだ末に選んだケーキが彼女の口に入らないのは少し残念な気がした。
「早く、早く帰ってきてくれアノニス」
 いつも彼女とのティータイムに使用している少し洒落た丸机に頬杖をつく。どれほど待っているのだろうか、少しずつ瞼が重くなる。このまま横になったら寝てしまいそうだ。扉越しの隣室にはいつでもユシャを迎えてくれるベッドがある。だが彼はまだ眠るわけにはいかないのだ。何度か頭を振り眠気を追いやろうとするが、抵抗もむなしく次第にユシャの頭は机へと沈み込んでいった。

ふ、と目を覚ます。彼の居た場所は寝室ではなく、その隣室にある椅子の上であった。あのまま眠ってしまったのだと気づき慌てて端末を見た。それは社長から与えられた連絡用のもので、英雄や従者達全員に一人一台預けられているものだ。もしかすればアノニスから何か連絡が入っているのではないかと期待したのだが、期待に反して通知は一つもなかった。
彼女はまだ帰ってきてないのだろうか。それとも眠っている間に部屋を訪れて、反応がないのを確認し帰ってしまったのかもしれない。
 ユシャは深いため息とともに深く後悔した。もし眠らずにいれば彼女と今頃話ができていたのかもしれない。そう思うと無性に悲しくなったのだ。
「はあ」
 もう一度。先ほどよりもより深くため息をつく。机に突っ伏せば、そのまま再び眠ってしまいそうだ。この体勢で眠るのは体に悪いだろうと理解はしていたが、ベッドまで体を運ぶ気力はすっかりなくなってしまった。
「ユシャ」
 突っ伏していた身を勢いよく身を起こす。微かに声が聞こえた気がした。
幻聴だろうか。だとしたら自分はどれほどアノニスに会いたかったのだろう。自分と彼女の部屋を隔てる壁を叩いたときのような、そのことを誰にも知られたくないと思ったあのときのような、そんな感情が沸き起こる。確か彼女はそれに「恥ずかしい」と名付けていた。そうだ。ユシャは自分のことを恥ずかしいと思った。よもや幻聴を聞くほどだなんて。
いや、きっと寝ぼけているに違いないのだ。もう諦めて寝てしまおうと席を立った瞬間。こんこんと音が響いた。扉からではない。部屋の奥。塔の外廊下のような謎の螺旋構造に面している窓からだ。
腰より少し上の高さにある大きな窓。その向こうにはネグリジェを着たアノニスが立っていた。髪を下ろした彼女なら何度も見たことがある。この部屋に訪れるとき、彼女はいつも髪を解いているから。しかし、あの少女らしいふんわりとしたワンピース姿の彼女を正面から見たのは初めてだった。
「アノニス」
 慌てて駆け寄り窓を開けると、彼女は少し驚いた顔をした。
「なんだ、まだ起きてたのか」
「待っていたんだ。君を」
 実は先ほどまでうっかり眠っていたのだが、それは黙っておく。
「そうか……わるかったな。待たせて」
 アノニスは予定よりも仕事が圧してしまったのだと少し申し訳なさそうに話す。
「いいや、構わないさ。寧ろその、つかれているだろうに来てもらってすまない」
 謝りたいのはユシャの方だ。朝あんな約束をしなければ、つかれている彼女に無理をさせずに済んだのだから。だがアノニスは、いいよ。と言って笑いかけてくれた。
「もうこの話は終わりにしよう」
そう言ってユシャのことを許し、アノニスもそれ以上は謝ることはしなかった。
「それより、なぁ知ってたかユシャ。ここ降りられるんだぜ? 」
 アノニスは窓辺から一歩下がると両手を広げて、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「初めて知ったよ。そうか、この窓からなら外に出られるんだな」
 嘘だ。ユシャは螺旋廊下に出る術を知っていた。そこへ出られることを知っていた。そこで自由に身を翻し歌うアノニスの後ろ姿を眺めていたのだから。あれから彼女の歌声が響く日はいつも外を覗き見ていた。だがそんなことを正直に言うわけにはいかない。隠れて姿を眺めていただなんて、彼女本人に知られるべきではないことぐらいユシャにもわかっていた。それに、あの景色はユシャだけの宝物なのだ。たとえ相手が彼女であっても簡単に教えたくはなかった。
「お前もどうだ? 」
 いつも小さな窓越しに眺めていた彼女が、こちらに手を伸ばして誘っている。青白い月明りを浴びて、靡く黒い髪と、はためく乳白色の柔らかい裾。真っ赤な瞳がきらりと輝くその様は、窓の額に入れられた一枚の絵画のようであった。
「素敵なお誘いだ。でも、俺は行けないよ。どうしても今日は君に来て欲しいんだ」
 彼女だけが許されたような美しい神秘の額の中。そこへ飛び込むことは甘美な誘いに思われた。だが、だめだ。今日は、今日だけは彼女をこちらの世界に連れ戻さなければならない。
 冷蔵庫には二つの生菓子が、彼女を喜ばせるためだけに待っている。彼女の為に揃えられたティーセットも、茶葉も、皆約束の時間を待っていたのだ。
「どうか手を取って、アノニス」
「……ふふ、あははは」
 ユシャが懇願すればアノニスは口を広げて、声は小さく、されども大きく笑った。
「いいよ。お前の誘いに乗ってやる」
彼女はユシャが差し伸べた手を取ることなく、窓枠に片手をついて腰より少し高いそれを軽々と飛び越し部屋の中へと着地した。
「今日は何を用意してくれたんだ? ユシャ」
 慣れた仕草でいつもの丸机と揃いのアンティークの椅子を引きながら彼女が尋ねる。ユシャは黙ったまま冷蔵庫を開き、一つの箱を取り出して答えを見せた。
「お茶を入れてくるから、君の好きな方を選んでおいてくれ」
 テーブルの中央に箱を置き、一枚皿を手渡す。彼女が素直に受け取って箱を開くのを見届けて、ユシャはポットを手に取った。
 カップに茶を注いでやるときには、彼女の皿の上にはショートケーキが、そしてユシャの席に置かれた皿の上にはいちごのムースが乗せられていた。
「君はショートケーキが好きなのか? 」
「それを知ってどうするんだ」
「意地悪だな。君の喜ぶものを用意したいんだ。君のために選ぶんだから」
 素直に教えてくれないアノニスに、少し眉を下げる。相変わらず他人から見ると大した変化のない表情だが、それでも最近はこうして表情を表に出すことが増えてきた。
「アノニスの好きなものが知りたい。それぐらい教えてくれたっていいだろう」
「私のために、ケーキを? 」
「そうさ。クッキーだってマドレーヌだって」
 彼女を誘うために用意してきた茶菓子たちも、紅茶も、ティーセットだって全て彼女のためのもので、彼女だけのものだ。ユシャはアノニス以外を自室に招いたことなどないし、一人でいるときは茶など淹れたこともなかった。初めて彼女を招いた頃はほとんど何もない部屋で、ここにある物は全て彼女をもてなすためだけに選んだようなものだ。
「君を誘う口実が欲しかったから。でも今は君に喜んで欲しいんだ」
「……そう」
アノニスはユシャの言葉を噛みしめるように、小さく呟いた。戸惑っているようで、しかしどこか少し嬉しそうなその表情を見て、ユシャはなんだかたまらない気持ちになった。
「俺は一人だったら甘いものなんて食べないよ。そもそも間食はしない。飲み物だって水で十分だし」
 全てアノニスがいなければ用意されることのなかったものたちだ。それをもっと、もっと伝えたくてユシャは話す。
そんな彼の言葉を聞いたアノニスは、先ほどまでの戸惑いの表情から今度は呆れた顔をする。
「お前って味とか気にしたことなさそうだもんな。食べたいから食べるんじゃなくて、必要だから食うって感じ」
「そんなことはないさ、美味しいものは美味しいと思う。好きな食べ物だってあるし」
「本当か? 」
 本気で疑っているわけではないのだろう、アノニスは可笑しそうにクスクスと笑った。その笑い方は初めて見た。彼女はいつも口を開けて、大きな仕草で笑うのだ。普段の男勝りな仕草とは違い、今の彼女はその服装も相俟って年相応の少女の姿をしていた。
新鮮だ。見たことのないアノニスの姿に引き込まれる。きっと自分の知らないことが彼女の中に沢山あるのだ。ユシャはますます彼女のことを知りたくなった。
「俺の好きなものの話はいいんだ。君の好きなものを教えてほしい」
「好きなものね……なんだろう。ショートケーキは好きっていうか、ケーキって感じがするからさ」
 好きなもの。それを聞かれて答えられないのは寧ろアノニスのほうだった。
だが、好きなものといっても今聞かれているものはケーキ、もう少し広く捉えても甘いもののことだ。そんなに広範囲でもないし。そもそも甘いものが好きではない者もいることを考えれば、答えられないのも無理はないはずだ。
「ユシャは何が好きなんだ。あるんだろ? 」
「俺は、そうだな。タルトが好きだ。フルーツがたくさん乗ってるの」
 アノニスの問いにユシャは少しだけ考える。そして思い出したのは、母親が作ってくれたフルーツタルトだった。近くの森で摘んだ果物を沢山乗せたそれは、フルーツに甘いクリーム、酸味と甘みのバランスが良くできている。上に乗せるフルーツも季節によってさまざまだ。そんなに頻繁に作ってもらっていたわけではなかったが、特別な日には必ずと言っていい程出てくる母の味だった。
もうしばらく口にはできていないが、ケーキと言えばあれだ。サクサクとした食感のタルトがなによりユシャは大好きだった。
「ふーん。フルーツタルトね。じゃあ今度ケーキを買うときはそれを買ってきてよ」
「君の好きなものじゃなくていいのか? 」
 アノニスを喜ばせるために、彼女の好物を聞いたというのに、彼女はユシャの好物がいいと言う。それで彼女が喜んでくれるのであれば、ユシャはそれで構わないのだが。しかし何故ユシャの好きなものをわざわざ望むのか、彼には理解ができなかった。
「ああ。私ケーキあんまり食べたことないから、好きなものって言われても思いつかないしさ。そういうときはほら、人のおすすめをきくもんだろ? 」
「……そうか! 」
 なるほど。合点がいった。それと同時に、少しだけがっかりした。
理解ができないと思いながら、心のどこかで彼女も自分の好きなものを知りたいと思っているのではないかと期待していたのだ。ユシャはもっと彼女と仲良くなりたかった。それと同じぐらい彼女も自分と仲良くなりたいと、そう思ってくれていたらと思っていた。
だがそうでなくてもいい。彼女が自分の好きだと言った物を、勧めた物を選んでくれたことは喜ばしいことだ。
「なら次の機会にはそれを。君が好きなケーキを見つけられるように、いろんなケーキを買ってくるよ」
 それにアノニスがこうして次の話をしてくれたのは初めてのことである。次だけではない。その次も、その次も。
「待て待て! 前にも言ったが私にだって予定はあるんだ。連絡してから生菓子は買ってくれ」
 そう張り切って次も、その次もケーキを買って帰って来る勢いの彼を、アノニスは慌てて止めた。
これから何度機会があるかはわからない。きっと彼は、以前のアノニスの注意を聞き入れて、予め約束をした今日なら。と、ケーキを手に帰ってきたのだろう。だが、普段から約束をすることの少ない二人だ。約束をしたって今日のように遅くなってしまえば、反故にすることも出てくるだろう。アノニスも従者として三年目の年を迎え、仕事が増えてきている。今後お互いに時間をとれるとは限らないのだ。
ちゃんと互いの状況を連絡し合わなければ、折角のケーキも無駄になってしまう。
「折角端末があるんだから使えよ」
「それもそうだ。仕事以外で使うことなんて考えたことも無かったよ」
「そうだろうと思った」
 今更あらゆることに無頓着な彼に驚いたりはしないが、あまりにも想像通り過ぎて呆れかえる。そんなアノニスのため息を聞き流し、ユシャは楽しそうに端末を眺めていた。
「そうか。これを使えばいいんだ。なぁ、他にも君にメッセージを送ってもいいだろうか」
「ん? ああ。好きにすれば」
「本当か! じゃあ、連絡する」
 嬉しい。きっとこれはそう言いうのだろう。ユシャは彼女の連絡先を見つけて、社長や職員との連絡以外にほとんど使ったことのないメッセージアプリを開いた。そこに「よろしく! 」とためしに送れば、目の前のアノニスの端末が鳴った。その音を確認して彼は微笑む。その表情の変化は微かだったが、間違いなく笑ったのだ。
「ずいぶんと嬉しそうだな」
「ああ。これで君と約束することも話すこともできるんだ」
 アノニスは理解できないとでも言いたげな驚いた顔をしているが、ユシャは構わず話を続ける。
「ちゃんと君の予定を確認するから、だからまたケーキを買ってきてもいいか? 君の食べたことのないものをたくさん買ってくるから。君の好きなものを見つけよう! 」
「お前、ずいぶんと気が早いな。私はまずフルーツタルトを買ってきてくれって言ったんだぜ? その先の先の話まで……」
 ユシャは目を輝かせてそう言ったユシャにまた、待て。とアノニスが止めに入る。
 気が早い。確かにそうだ。次もその次も、そんな話ばかりして、少し焦りすぎただろうか。
「だって心配だったんだ」
 ユシャはこれからもアノニスとずっと今の関係を続けていきたかった。こうして二人で話す時間が欲しかった。
「君は、最近エスワールとばっかりいるから。それに、朝も話していただろう? 仕事も増えてこれから忙しくなるって」
そうなれば彼女を部屋に招く時間も簡単には作ってもらえなくなるかもしれない。だから先の先までずっとこうして共にケーキを食べる約束さえできればと、急いてしまったのだ。
「ふふ」
 ユシャがだから、と続けようとした言葉は、アノニスの笑い声に遮られる。
「お前、しょうがないな」
「アノニス? 」
 彼女はすっかり空になったカップと皿を置いて席を立つと、ほんの数歩足を進めてユシャへと両手を伸ばした。何をされるのか分からぬまま固まる彼の頭を自らの胸に預けるように抱き寄せ、背中を数度あやすように叩いた。
「しょうがない奴だな。本当に。友達になってやるって言ったんだ。私は、約束は守る。ちゃんとこれからも友達だ。別に誰かにとられるようなもんじゃないだろ? 忙しくなっても、回数は減ったってちゃんと付き合ってやる」
「……ほんとうに? 」
 突然のことに何が起きているのかすぐには理解ができない。それでもなんとか、アノニスに抱きしめられていることを自覚したユシャは、驚きに再び思考を止める。そうして脳が再起動し始めてから、ようやく遅れてアノニスの言葉を理解した。
「ほんとうに」
 身を包むようにアノニスの体温がある。それが友人としてまっとうな距離感であるか、全く知識のないユシャが疑問にすら思わなかった。
ただただ嬉しい。彼女の言葉、彼女の口からこれから先の関係を約束してもらえたことが、ただ嬉しいと思った。
「ありがとう。君の言葉で聞けて良かった。今日は、いやここ最近ずっとそうだったのかもしれない。ずっと君のことを考えていた。俺の唯一の友人がどこかへ行ってしまうんじゃないかって、きっと不安だったんだ。今まで」
 ユシャはほっとしたように息をつく。
今日会おう。明日ここでお茶をしよう。そんな一つ一つの点で出来た関係ではない。これから先の時間という線を彼女は約束してくれたのだ。たとえ約束がなくとも友人という関係を続けてくれると、約束が減ろうと必ずここへ来てくれると。
「うれしい」
 かみしめるように、あるいは自分の心を確かめるように、ユシャは小さく呟いた。そうして落着くと、安心しきって彼女に身を預ける。
「お前って、本当は寂しがりやだろ? 」
 アノニスは背を叩いていた手を止め、今度は頭を撫でまわした。あのときのように少し乱暴にくしゃくしゃとユシャの髪をかき混ぜる。
「そ、そうだろうか」
「そんなこともずっと忘れてたんだな」
「そうか、そうだったのかもしれない」
 アノニスの憐みをにじませたような小さなつぶやきを受け入れた。本当は、彼女が思うほどに傷ついてもいなかったけれど。もし傷ついていたとしても、それに気づくような力はユシャにはなかったのだけれど。幸福なほど鈍感なユシャを知らぬアノニスが、それでも自分のことを思って心を動かしてくれることがユシャには嬉しかった。
身を預けきって力を抜いた体に徐々に眠気が訪れる。ユシャは心地良い腕の中で一つあくびをした。
「もう遅いから寝よう。悪いな。私の帰りが遅くなったせいだ」
「いや、それでも来てくれてよかった。俺の方こそすまない」
「いいよ。眠いんだろ? お前早寝早起きだし、無理せず寝ろよ」
 二人の体は離れ、最後にともう一度アノニスの手がユシャの髪を混ぜる。アノニスが二人分の皿とカップを集める姿を、目をこすりながらぼんやりと眺めていたユシャは、慌てて立ち上がら彼女を追いかける。
「それは俺がやるから」
「いいからお前は寝る準備でもしとけって」
「でも」
「いいから」
 そう言って流しの前に立ったアノニスは、ユシャがどんなに食い下がろうとも譲らない。じゃれ合いのような押し問答を繰り返す間に、食器たちは全て彼女の手で綺麗に洗われていた。
「すまない……」
「だからいいって」
 それでも食い下がり謝るユシャに、アノニスは少し呆れた顔をする。
「ほら、じゃあ私はもう戻るから」
「おくるよ」
 と、言ったって部屋の窓辺まで十歩にも満たないような距離だ。それでも少しでも長く彼女と共にいたかったのだ。
わかれる間際アノニスはユシャの頭を、今度は数度ぽんぽんと優しく叩くように撫でる。そうして、手をかけた窓枠に飛び乗ると、外へと降りた。タンっと石造りの外廊下へと降り立つ彼女の、ネグリジェの裾がふわりと広がる。そのままひらりと振り返った彼女は、やはり絵画のように美しかった。
「おやすみ」
「おやすみ。また来てくれ」
 窓越しに挨拶を交わす。
彼女が窓辺を離れるのをユシャは静かに見送った。



夢を見ていた。その夢の中で彼女は幸福であった。
父も母もアノニスが生まれた日を祝い、自分の為にケーキを用意してくれるのだ。彼女は、自分の為に用意されたそれに目を輝かせる。上に揺れるキャンドルの火を吹き消せば、家族みんなが祝福の声をかけてくれた。父はアノニスの頭を撫で、祖父母はプレゼントを、母は彼女に一番大きなケーキを一切れ取り分けて渡してくれる。
皆が笑顔でアノニスを祝福する。幸福であった。それと同時に、ひどく苦しかった。
知っているのだ。こんなことはありえないと。これは夢だと、気づかずにはいられなかった。
アノニスにとってケーキは憧れだった。自分の為に用意されることは間違ってもありえない。そんな遠い存在だった。それが美味しいのかどうか、それすらも知らなかったけれど、それでも弟の誕生日に用意されるショートケーキがひどく羨ましかったのだ。
しかしアノニスの目の前に切り分けられたものは、ショートケーキではなかった。カスタードクリームの上に色とりどりのフルーツが敷き詰められたそれは恐らくフルーツタルト。透明なゼリーで覆われたフルーツがキラキラと輝いている。
きっと間違いない彼が好きだと教えてくれたものだ。
「ユシャ」
 彼の顔を思い浮かべる。途端に周りの大人たちが不気味に思えてきた。これは夢なのだ。現実であるはずがない。本来ならけして自分の誕生を祝福するはずのない人たちが、気持ち悪い程に笑顔でアノニスを見つめている。それが何だか怖くなって、キュッと瞑った。
このまま目覚めてほしい。そう願って目を開けると、そこは薄暗い部屋。脈絡のない場面転換について行けず、辺りを見回し状況を確認する。どうやらそこは塔にある英雄や従者たちの部屋であった。アノニスの部屋とは左右対称な部屋の配置、そうしてアンティークの丸机と椅子は、間違いなくユシャの部屋だ。だが、向かいの席を見ても部屋の主である彼の姿はなかった。
 テーブルの上には先ほどと同じフルーツタルト。向かいの席にも同じものが用意されている。どうして彼はいないのだろう。
一転して現実的な景色に、アノニスはここが夢であることも忘れてユシャを探した。
 ふらふらと部屋中を探して、ようやく窓辺に一枚のメモを見つける。開けばそこには、
『もう帰ってはこられないかもしれない。もし俺がいなければ、君一人で食べていてほしい。』
 そうユシャの字で書かれていた。
「帰ってこれない? どういう意味だ」
 アノニスは何だか無性に嫌な予感がして、部屋を飛び出す。力いっぱいに開いた扉が大きな音をたてたが、そんなことを気にしている間もない。塔の廊下をひたすら駆ける。ユシャを探さなければ。ただそう思った。
 早く早く。だがどんなに駆け回ろうと廊下に終わりはない。食堂に向かおうにも、社長室に向かおうにも、上ろうと下ろうと階段にも終わりがなかった。
「どうして……」
 ここから出ることはできない。彼を探すことも。
「ユシャ、ユシャ! 」
 何もできないことを悟ったアノニスは、ただひたすらに彼の名前を呼ぶしかない。
「ユシャ! 」
 だが返事が返ってくることはない。立っている地面が歪み始め、アノニスは立っていられずにその場にへたり込んだ。
「返事をしてくれ、ユシャ」
 先ほどまで張り上げていた声は、力なく床に零れ落ちる。
『アノニス』
 静寂が続き、アノニスは力なく歪み行く床に身を任せていた。そこへ、声が一つ降ってきた。彼女の名を呼ぶその声は間違いなくユシャのものだ。
「ユシャ? 」
『アノニス! 』
 声の聞こえるほうへ顔をあげると、より大きくアノニスを呼ぶ声が響いた。

 ハ、と目を覚ますと視界いっぱいに真っ白な布があった。体を起こせば、どうやら椅子に腰かけたままベッドへ頭を預けて眠っていたらしい。明らかに自室ではない景色に、場所を確認しようと視線を動かす。すると、真っ先に目に入ったのはユシャの姿だった。
「アノニス! よかった」
 安心したようにそうつぶやく彼の左肩には包帯が巻かれている。それだけではない。包帯に覆われた左腕は、さらに白い布で固定されていた。
「目が覚めたら君がうなされていたから、心配したんだ」
 そうだ。思い出した。ユシャは従者の一人を庇って大けがをしたのだ。
ちょうどあの晩から一月たった日だった。彼は、約束のフルーツタルトを買って帰ろうと思う。君の時間が欲しい。そう朝に連絡を寄越したきり帰ってこなかったのだ。
ユシャが大怪我を負って病院に運ばれたのだと聞き、アノニスは急いでここへ駆け付けた。子供のドラゴンに噛みつかれたらしいユシャは、アノニスが病室にやってきたときには蒼い顔をして眠っていた。
「お前、私の心配をしている場合か! 」
 子供とは言えドラゴンの力は強い。歯も幼いころから鋭く、噛まれれば危険なのだ。だが、やはり相手がまだ幼いドラゴンであったことは不幸中の幸いであろう。大人に比べればまだ可愛いものだ。
運び込まれたユシャは出血こそ多かったものの、それでも命に別状はないと早々に判断されていた。アノニスも駆けつけたとき確かにそう聞いている。それでも
「もしもっと大きい相手だったら、腕なんて無くなってもおかしくなかった! それどころじゃない。噛まれた場所が少しでも違えば、死んだっておかしくなかったんだ! お前、丸一日眠ってたんだぞ。私の方がずっと心配したんだ……」
 呑気に他人の心配をしているユシャに腹が立って、ここが病院であることも忘れ声を荒げてしまった。だが、そんなアノニスの言葉も徐々に力を失っていき、最後には消え入りそうなほど小さい呟きになる。
 そうだ心配をしていたのだ。あのユシャを。憎くてしょうがないあの男を、それでも心配せずにはいられなかった。アノニスがユシャにとって初めての友人であったように、アノニスにとってもユシャは初めての存在だった。初めて男でも女でも関係なく、アノニスを受け入れてくれた人だった。一生手に入らないはずだった自分のためのケーキを、彼は当たり前のように与えてくれた。アノニスにとってそれらは悔しい程に嬉しいものだったのだ。だから彼をどうしても憎み切ることができなかった。今だって、彼の為にこんなにも感情が揺さぶられている。
報せを受けたとき彼女の頭に浮かんだのは、これからもずっと友人でいたいと、こうしてまた部屋に来て欲しいと不安げに言ったユシャの顔だった。寂しいユシャ。かわいそうなユシャ。彼から友人になりたいのだと告げられたとき、アノニスの中にあったのは確かに同情だった。愛されて育ったはずの彼は、己を一人の人間として愛してくれる両親の温かさをすっかりと忘れてしまっていた。友もなくあの塔の中でたった一人、彼は人間ではなく偶像でしかなかった。だが本来の彼はきっと、もっといろんな感情を持っていて、願いを持っているはずだった。彼が大切なものを何もかも忘れてしまったのは、英雄の座に就いたせいではないのかもしれない。だが、彼がもっと早く取り戻せたかもしれないものを、英雄の座が遠ざけていたのはきっと間違いない。ずっと忘れられたままだった本来の彼は、実はもっと寂しがり屋なのだ。もし彼に何かあったら、このまま皆に都合のいい理想を押し付けられたまま一人で死んでいくだなんて、そんなのはあんまりではないか。
「どいつもこいつもどうかしてるよ。人間が死にかけたというのに、当たり前のように受け入れている。これまでだって、いつこんな事故が起きてもおかしくなかったのに。そんな仕事を幼い子供に任せてきたというのに」
 ユシャはようやく二十歳になったような青年だ。アノニスも今年で十八になるほどの齢であるし、他の従者達は皆十五歳の少年少女である。そんな子供たちが危険にさらされているのだ。だが誰もそのおかしさには気づかない。
皆英雄の身を案じていながらも、彼を一人の人間として案じる者はいない。誰もまだ若い彼が身を危険に晒さねばならないこと自体に疑問を持たない。
彼が英雄になってたった四年だ。たった四年の間に、人々の常識はすっかり変わってしまったようだった。もしこれが一年目の話であったのなら、きっと世間はすぐさま子供に危険な仕事をさせるべきではないと論じただろうに。
「ユシャは剣術が優れているだけのただの人間でしかないのに。みんなそのことを忘れてしまった」
 彼の傷を抉らぬようにか、それとも体の力が抜けてしまったのか、アノニスは力のこもらない腕で彼を包むように抱きしめた。いや、縋り付いたというのが正しいだろう。
「アノニス……ありがとう。俺は幸せだよ。君がこんなに俺のことを考えてくれているんだから」
 そんな彼女に、ユシャは穏やかに語り掛ける。アノニスがこれほどまでに心配しているというのに、それら全てをなんでもないことであるかのように目すら向けず、ただただ穏やかにそう言った。
「馬鹿野郎。私がどんなに心配したってお前の傷は塞がらないんだ。これからお前が危険な仕事をしなきゃいけないことだって、何も、何も解決しないんだからな」
「うん。でも嬉しいんだ」
 アノニスはそれが悔しくてたまらなかった。自分はこんなに心配しているというのに、彼はそれを受け入れている。いや、受け入れるどころか視界に入れることすらせずに放置しているのかもしれない。そもそも、己が彼のことを心配せずにはいられないこと自体も気に入らないのだ。こんな男を、憎んでいるはずの男を、何故かそれでも心配せずにはいられない。そこまでにアノニスを振り回しておきながら彼はあまりにも能天気に見えて、それが気に食わなかった。
 ばか。と繰り返すアノニスにユシャはただ謝る。
「ごめんね。アノニス」
「もういい」
 少しぶっきらぼうになりすぎただろうか。そう思ったが、気にする余裕もない。病室を出る彼女の後ろで、ユシャはうっすらと困ったような表情を見せたが、背を向けている彼女がそれを知ることはなかった。

 彼女を見送ったユシャは、少しだけ後悔する。彼女を怒らせてしまったと。彼女はもうここへは来ない。元より目覚めたら数日で退院できるようなものだったのだから、彼女が怒りをおさめるであろう頃にはきっとユシャはここにはいないだろう。
「ここを出たらすぐに彼女に謝りに行こう」
 手土産をもって。破ってしまった約束のフルーツタルトを今度こそ彼女に買っていこう。そんなことを考えてユシャはベッドにもぐった。
「いい心がけですね」
 正確にはもぐろうとした。だ。
しかし、少女の高い声がそんな彼を引き留めた。
「こんにちは」
「エスワール」
スライド式の戸を開いて、入り口には裾の落着いたブルーのワンピースを纏った少女が立っていた。
「英雄様。あなたはとっても素晴らしい人だけれど、アノニス様をあまり傷つけないでくださいね」
「傷つける……? 」
 傷つけた。などと考えたことも無かった。てっきり彼女を怒らせてしまったものだと。しかし、考えてみれば確かに彼女は声を震わせていた。あれは怒りではなく泣いていたのだ。
「まぁ! 気づいていなかったのですね」
 非難するような視線を受けて、ばつが悪いユシャは黙り込む。しかし目をそらすでもなく、ピクリとも変化しない表情からはユシャの感情など読み取れるはずもなく、エスワールは遠慮などせずに言葉を続ける。
「ひどい人ですね」
 エスワールの深いため息を聞き、ユシャは考えた。いったい何が彼女を傷つけたのだろうか、と。
「国民は皆英雄の負傷を悲しんでも、貴方の身を案じたりはしません」
 そんなことはわかっていたことだ。彼らにとって自分は『英雄』であって、ユシャという『一人の人間』ではないのだから。
「それに、皆にとって貴方は強い英雄様ですから、心のどこかできっと大丈夫だという根拠のない信頼があるのでしょうね。私もそう。あなたが病院に運ばれても、大した危機感などありませんでした」
 わかっている。それが社長や広報の者達が必死に作り上げてきたユシャのイメージだ。ユシャもその通りにずっと英雄を演じてきた。
確かにユシャ自身は民と違い自分が本当に最強だと信じてきたわけではない。剣の腕が人よりもずっと上であったことは事実のようだが、それでも人は人だ。死は当たり前に訪れる。自分たちの仕事が危険なものであることはわかっている。だが恐怖は無い。死を覚悟したことも、死と向き合ったことも未だなかった。押し殺すような恐怖はユシャにはなかったし、ただ当たり前のように今日も明日も何事もないだろうと、自分ならば大丈夫だろうと漠然と思っていた。
それは英雄でなくとも、人間ならばみな同じだろう。この世にどれほど痛ましい事件があろうと、不幸な事故があろうと、それがまさか今日や明日に自らに訪れるだろうとは思いもしないものだ。
「でもアノニス様は違います。報せを聞いてすぐここへ飛んできました。そうして、恐らく一晩中あなたの手を握って待っていたのですよ」
 私はずっと一緒にいたわけではないからわかりませんが。とエスワールは続けたが、恐らく彼女のいうとおりなのだろう。
「そんなに心配した人が、全く反省も後悔もなくケロっとしていただなんて、アノニス様が可愛そう」
「どうするのが正解だと思う? 」
「それをご自分で考えるのが正解では? 」
 エスワールの言うことは正論だ。だがヒントもなしではユシャだけでは到底解けないような難問であった。
 アノニスはいつも許してくれる。どんなに呆れた顔をしても、ため息一つで、仕方がない。わかっていた。もういいよ。そんな言葉で彼を許すのだ。言葉によっては諦めのようでもあるが、ユシャにとってそれは間違いなく許しであった。
彼女は優しい。ユシャがどんなに人付き合いが下手でも、感情に疎くても、それによって何か間違いを犯しても、自分を振り回す行動すべてをなんだかんだと許容してくれている。彼には理解することのできなかった感情に名前を付け、人を誘うとき、話すときのマナーを教えてくれる。呆れた顔もため息をつく姿も何度も見てきたが、それでも懲りずに笑顔で話してくれた。気安く笑いかけてくれた。
本当はあらゆる感情を隠したその表情も、うまいこと彼との関係を取り繕うためでしかない態度も、彼女の内心にくすぶる劣等感や憎しみを一つも知り得ないユシャにとっては全てが真実だ。彼は今まで彼女に受け入れられてきた。少なくとも彼はそう思っている。
 その彼女から突然突き放されたのだ。最後に呟かれた、もういい。という言葉は、けしてユシャを許すための言葉ではなかった。彼女は何も教えてくれなかった。自分が傷ついたということも、ユシャに足りないものも、何も教えずこの部屋を去ったのだ。
「英雄様は何故英雄でいらっしゃるの? 」
 答えが出ず黙り込んだユシャに、エスワールは問いかける。それがこの謎を解くカギになるのか、単純に彼女が間を潰すために選んだ雑談なのかはユシャには判断がつかなかった。
「大会で優勝したからだ」
「そういうことではなくて、なんで社長の言いなりになって『みんなの英雄』をわざわざ演じていらっしゃるの? 」
「それは、ただそう指示されているからさ」
 彼女の意図を正確に理解できていなかったらしく、問いを訂正される。
しかし、それに答えたところで彼女は首を横に振った。また的外れな回答をしただろうか。いや、単純にお気に召す回答ではなかっただけなのかもしれない。
「辛くはありませんか? 本当の自分を押し殺して、皆に求められる虚像を演じるだなんて」
「いいや。そんなことは考えたことも無かった」
 ユシャの言葉に深くため息をつくエスワールの姿は、アノニスに少し似ていた。彼女はやれやれと言った様子で首を横に振ると、それで気を取り直したように再び問いを投げかける。
「皆が自分にないものを求めていることも、自分という人間をけして見ることはないことも? 」
「そうだな。結果的に英雄なだけで誰かに望まれたかったわけではないし、自分を見てもらえないことは別に問題ない。それに、無理をして自分にないものを人に与えてきたつもりはないよ」
 確かに、振る舞いや人柄は自分にはないものであったのかもしれない。本来の自分とは違う英雄性を演じてきたことは事実だ。だが、無理をしていたつもりはない。自らを削ってまで彼らに奉仕をし続けてきたつもりは、ユシャにはなかった。
 凶暴な生き物を狩ることも、警戒心が強く攻撃的なドラゴンを保護することも、様々な土地を訪れることも、剣を交え勝利を収めることも。彼らに期待されてきたことはどれもこれもユシャが手を付けてみれば当たり前のようにこなせることばかりであった。だから、彼は今までそこに何の覚悟も不満も感じたことはない。
 否、確かに長き英雄としての生活の中に、あるいは剣に出会ってからこれまでの人生の中には寂しさもあったのだろう。それは、全てアノニスが気づかせてくれたものだ。だが彼女と出会うまでは一度たりとも寂しさなど感じたことはなかった。それを知った今振り返ったとしても。
「うん。やはり辛いとか、苦しいとか、そんな記憶はないな」
最近は自分が面倒だと思うような仕事にも気づいたけれど、しかし別に辛いと感じるほどのことではない。少し退屈で苦手なだけだ。
ユシャはアノニスと出会って楽しい時間を知ってしまった。それが彼の時間の価値を変えてしまったのだ。今の彼にとってはアノニスと共に過ごす時間が最も価値のあるものであり、その輝かしい比較対象の登場により、その他の時間のいくつかには退屈という名がついた。
彼女に会うのが待ち遠しい。と、心を弾ませると同時に、今この時間を早く終わらせたいという気持ちを知ってしまったのだ。
 そうして今まで考えることすらなかった時間の価値を比べていくうちに、『アノニスと共に過ごす時間』以外の時間にも差が存在していることにも気がついた。それらは、微かに不満のある仕事、心なしか楽しい仕事、そんな微々たる差しかないものだけれど。
「本当に一つの後悔もないのですね」
今彼が『英雄』という仕事に持つ不満のほとんどは、彼女に出会ったことで生まれたものであり、彼女と出会う前から自分の中に隠れていたものとは違う。その前から存在していた不満も確かにあるのだが、そんな小さな不満は積み上げたところでエスワールの言うような辛さ、苦しさに当てはまるようなものではないのだろう。
「アノニス様に出会った今から過去を振り返っても同じことが言えますか? 」
 彼女から見ても、アノニスと出会ったユシャは確かに変化しているらしい。そうでなければこの言葉が出てくるはずもないだろう。ユシャにも自覚のあるアノニスを起点とした変化は、他人からどう見えているのだろうか。
「君は、アノニスと出会ったことで俺の何が変わったと思う? 」
 そんな好奇心から、ユシャは彼女に質問を返した。
「私は……英雄の貴方と、素顔はアノニス様と出会った後の貴方しか存じ上げませんので、何が変わったかなんてわかりません。でも、今私と二人きりの貴方は、アノニス様が共にいるときの貴方とは違う」
 アノニス様の前にいるときの貴方はこんなにまっさらな表情ではないもの。そう続けたエスワールの言葉にユシャはなるほどと頷く。
「確かに彼女は寂しさを思い出させてくれた。楽しい時間を教えてくれた。そのおかげで退屈な時間も知ったよ」
アノニスと親しくなった今の自分と、過去の自分では価値観が違うのだ。
「だが、終わった日々に後から感情を当てはめてどうこう考えることは俺にはできそうにない。過去は過去さ」
 過去を振り返ろうと今の自分の価値観で測ることなどできはしないし、したとしてもピンとこないというのが正直なところである。
 苦しみを知らなかったのならばそれでいいのだ。それを知るきっかけとなった喜びを知らなかったことを人は不幸と呼ぶのかもしれないが。
「これまで求められてきた在り方にも、それに応えてきたことにも不満はない。と」
「ああ」
 何度問おうと覆らないユシャの言葉を受け入れたエスワールは、ならば、と続けた。
「恐ろしいと思ったことは? こんな事故、今までだって起きてもおかしくなかった。アノニス様のおっしゃったとおりです」
 確かにその通りだ。ユシャが十五の頃から今まで続けてきた仕事はそういった危険も含まれる仕事であった。
「君はどうだ。従者としての役割に恐怖したことが? 」
「私は、そうですね。恐ろしいと思ったことはありません。ええ。恐怖するほどに己の死と向き合い、深く考えたことはありませんもの」
「なら同じだな」
 それに関してもやはり、ピンとこない。という言葉が一番適しているだろう。恐怖を感じないのではない。己の仕事の危険と真剣に向き合ったことが無いのだ。この職の中で己が死ぬかもしれないという事実に真剣に向き合った事などなく、恐怖すべきものが目の前にある自覚すらなかった。
「今ならばどうですか? 私は、恐ろしいと少しだけ思います。だってあなたがこうして怪我をしたんだもの。他人事ではなく、私たちは危険な仕事をしていると気づいてしまいました」
 あなたは? 声に出さずとも瞳がそう問う。エスワールにのぞき込まれたユシャの瞳は、しかし一切揺らぐことはない。
「どうだろう? 変わった気はしないな」
「そうでしょうね。あなたならそういうと思っていました」
 端からわかり切ったことだというように、彼女は即座に引き下がる。これ以上問いを重ねる気はもうないらしい。
「さて、ここまでがヒントでした。おわかりになりましたか」
「 ……どこからどこまでが? 」
 唐突に全く種の明かされない種明かしを突き付けられたユシャは少し瞼を持ち上げて微かに驚いたような表情を作る。
「貴方が考えたこと全てが」
 エスワールは意味深にほほ笑んで、ユシャに背を向けた。
「ヒントとしてはあまり価値がありませんでしたが、私はわかりました。貴方にはきっとアノニス様の気持ちなどわからないだろうことが。そのままでは、どうするのが正解かなんてわかるはずもありませんね」
 否定はできなかった。彼女の言う通り、確かに正解は見えないままだ。離れていく背中を黙ってみつめる。
戸に手をかけた彼女が軽く振り返り、顔だけこちらへ向けた。
「そのまま素直に、君を傷つけたことはわかったが理由はわからなかった。どうするべきかわからなかった。そう頭を下げて叱られるのが一番ですよ」
 あれほど長々と、彼女曰くヒントであった問答を繰り返してでも、己で答えを探すべきだと言った彼女が、同じ口でさらりと答えを告げる。もちろんそれが「正解」であるとは、限らないけれど。それでも彼女にとっての最適解を教えてくれたのだ。
「そうか。そうだな。ちゃんと彼女に謝るよ」
 エスワールの助けも虚しく、結局解どころかその尻尾すらもつかめなかったユシャは、彼女に提示された一例をそのまま参考にする他ない。
「ええ。寄り道などせず、真っすぐ謝りに行くべきです」
 お大事に。とお決まりの挨拶を残してエスワールは病室を去っていった。
寄り道をせずに。だなんて、まるで彼女が来る前に考えていたことを読まれているようだ。何処へも寄らずに手ぶらで帰れ。と、いうことだろう。
そも、アノニスは彼の危機感の無さに怒っているのだ。このうえ怪我の中呑気に菓子など買って帰ろうものなら火に油を注ぐことになることは間違いない。ユシャはアノニスの心も、エスワールから与えられた助言の意図も理解してはいなかったが、それでもその指示だけは真っ直ぐに受け止めた。

数日後退院となったユシャは、少ない荷物をまとめ病室を発つ。社長は迎えを寄越すとも言っていたが、それは丁重に断った。怪我を負ってそのまま運ばれてきたのだ。たった数日の入院で着替えもほとんどなく、荷物と言えるようなものはほとんどないのだから助けなど必要もない。
と、思っていたのだが。
「おい。お前迎え断ったんだってな? 」
 一応有名人なので裏口を通してもらったというのに、そこには不機嫌そうな顔の女が一人、彼を待っていた。
「アノニス」
 真っ白なワンピースと言えるほど長い裾のシャツ。ゆったりとしたそのシャツの腰を細い黒のベルトで軽く絞り、下は黒い細身のパンツをはいている。就寝前の姿を除けば、彼女の私服を見るのは初めてだ。シンプルですっきりとした格好だが、下ろした髪を片方だけ耳にかけた姿は普段よりずっと女性的に見えた。
 見慣れない格好のアノニスを前に、そういえば、彼女は今日休みだったのか。と、思い出す。
「馬鹿な奴だな。私がなんで怒っているかわからないのか? 」
「すまない……」
「いい。お前に期待なんかしてないさ。さっさと荷物を寄越せ」
 彼女は当たり前のように荷物を抱え、一人で帰ろうとするユシャを睨みつけ、その荷物を奪い取った。
「お前、腕怪我したんだからおとなしくしてろよ」
「怪我をしたのは片腕だけだ。別に問題ないが」
「いいから」
 大して重くもない小さな荷物だが、それでも彼女は自分が持つと言って譲らなかった。
 そのままずんずんと進んでいく彼女の背を追う。アノニスは、ユシャが追い付く前に割り込む隙も無くすべてを先回りして済ませていった。切符を買うことすらユシャにはさせないのだから、さすがに過保護が過ぎるのではないだろうか。しかしそれを言ったところで彼女はつーんと聞く耳を持たないものだから、諦めてその後ろをついていくしかない。
平日の空いた列車の中で、二人並んで席に着く。目的の駅を待つ間、アノニスは一言も話はしなかった。だからユシャも余計なことは言わない。ただ黙って列車に揺られるだけだ。
当然普段暮らしている街にも大きな病院はあったが、距離や病室の空き状況などを見て、すぐに入れる病院へと運び込まれたらしい。帰るのには思ったよりも時間がかかった。
窓の外に立ち並ぶ、背の高いビルたち。青空を背景にしたブルーグレーの街がしばらく続き、やがて古びた外観の街並みに変わっていく。建物背丈はぐんと小さくなり目立つ大きな建造物と言えば、政治の中枢である旧王城、そしてユシャとアノニスが帰る闘技場と、その横に聳える塔のみだ。
列車を降り、黙って先を行くアノニスの背を追った。どうやら真っ直ぐ帰る気はないらしい。迷路のように入り組んだ細い道をくねくねと遠回りをして、闘技場の裏手から中を通り塔へと進む。
 その理由はすぐにわかった。表から聞こえる騒がしい声。恐らくユシャの帰りを待ち表に人が集まっているのだろう。
「馬鹿だとは思ったけど、誰もお前が列車なんかで帰って来るとは思ってないだろうから、逆に良かったのかもな」
 ずっと黙っていた彼女が、滅多に使わないエレベーターを呼び出しながら言った。降りてきたそれに乗り込み、自室のある階を通り越して上の階を目指す。
 部屋に戻る前に社長に挨拶をしなければならない。アノニスは荷物を手にしたまま、社長室のあるフロアまでついてきた。
「とりあえず無事に帰ってきたこと、報告して来いよ」
「ああ、そうするよ。迷惑もかけただろうしな」
 アノニスは中に入る気は無いらしく、ユシャの背を見送るのみだ。
 社長はいつもの席に腰かけてニコニコと笑っていた。多忙な彼がこの時間に席におとなしくついているだなんて珍しい。恐らく、ユシャの退院の為にわざわざ予定を空けて待っていたのだろう。
 おかえり。とにこやかに言う彼に報告と謝罪をするが、彼は無事で何よりだと言って謝罪は受け取らなかった。そのまま一言二言話、今後のスケジュールを簡単に説明される。明日には国民に報告の会見を流すこと、だがまだ怪我も完治したわけではないので復帰までのスケジュールは改めて考えなければならないらしいこと。
つまり、明日の会見さえ終わればしばらくは休みになるらしかった。
 前者についての説明を受け、後半の説明はまた後日ということで、今日は解散になった。社長も忙しい人だ。ユシャが頭を下げると、部屋を出るのも待たずジャケットを掴んで秘書に連れていかれてしまった。
「どうだった」
ユシャが社長室を出ると、そこには壁にもたれかかったアノニスがいた。荷物は相変わらずそのままだ。ずっとそこでユシャが話を終えるまで部屋の外で待機していたらしい。先に戻ってくれてもいいというのに。
「何もなかったな。しいて言うなら今後の話をちょっとしたよ。明日の会見と、それが終わったらしばらくは休みになるらしい」
「当たり前だ。そんな状態で働けってんなら私が許さない」
 そう言いながらアノニスはやはりエレベーターを呼び出す。怪我をしたのは腕なのだから、階段の上り下りぐらいはどうということも無いのだが、彼女が許してはくれなさそうだ。恐らくユシャが無理をしないよう見張るために、わざわざここで待っていたのだろう。
上がってきたばかりのエレベーターは、すぐに扉を開いた。
先ほど素通りした階で降り、真っすぐに自室を目指す。目的の扉の前でアノニスが持つ荷物の中から鍵を受け取ると、数日ぶりに握るドアノブを下ろして部屋の中へ入った。
「入るぞ」
「ああ。別に君なら勝手に入ってくれても構わないんだが」
 もう何度も招き入れた部屋だ。今更後ろをついて入室するのにわざわざ許可など必要もない。
「そうはいかないだろ。ほら、荷物どこ置くんだ」
 だが線引きのしっかりした彼女にはそうもいかないようだ。
他人の部屋に入るときには等しく許可をとる。乱暴な口調に反してアノニスはいちいち丁寧で、律義な節がある。荷物だって、その辺の床に放り出してくれればいいようなものであったが、適当に転がしておいてくれと言ったそれを、わざわざ部屋の端にある小さなソファの上に丁寧に置くのだ。
「ここでいいか」
「ああ。ありがとう」
 どこへ置いてくれても構わなかったのだが、一応目で場所を確認してから礼を言う。折角彼女が丁寧に扱ってくれたのだから、あまりにも興味がない素振りをしては失礼だろう。そう考えたからだ。
「そうか」
 ユシャの返事を聞き届けたアノニスは、彼とその荷物を無事送り届け、用は済んだとばかりにさっさと退出しようとする。
「じゃあ用は済んだ。私は帰るぞ。しばらくはおとなしくしていろよ」
「ま、待ってくれアノニス! 」
 すっかり油断していたユシャは、そんな彼女を慌てて引き留めた。普段よりも不愛想な顔をしながら、しかし先ほどまで自分を監視するように傍を離れなかった彼女が、まさかこんなに簡単に去っていくとは思っていなかったのだ。
「茶を飲んでいかないか? お礼に一杯淹れよう」
 エスワールに言われた通り、彼女に謝らなければならないのだ。どう切りだすべきか。それは簡単だが、立ち話もなんだ。まずは普段二人が茶会に使っている椅子を引き、彼女を招く。だがどうにも失敗してしまったらしい。彼女は露骨に顔をしかめ、不機嫌をあらわにした。
「いい! おとなしくしとけって言っただろ。私は帰るから」
 それも当然だ。ここまで荷物をけして譲らず、階段の上り下りも切符の購入すら許してこなかったような彼女が、怪我人のユシャにいつも通り客人をもてなすことを許すはずもなかった。
確かに彼女の対応は怪我人が相手とはいえど、あまりにも過保護だ。だが、それは彼女の仕返しでもある。彼があまりにも危機感が無いものだから、彼女が案じる身を一切顧みる気配を見せない者だから、彼女はこうして過剰なほどに大切に振る舞ってやっているのだ。言っても理解しない彼の為に、これ見よがしに怪我を大事に扱い、いかに彼がアノニスの心をないがしろにしているか見せつけてやろうとしている。
だが、言っても理解しない彼がそれに気づくはずもない。
「すまない……でもお願いだ。待ってくれ」
荷物の扱いには気が回るというのに、これがユシャ自身の扱いになれば全く気づかない。そういう男なのだ、ユシャという男は。
どれほどアノニスが丁寧に扱ってやっても、その身に興味を示さない。あまりにも失礼で酷い男であった。
「なぁ、俺は君を傷つけただろう? それを謝りたいんだ」
それでも彼は彼女を傷つけたことを心の底から謝りたいという。
「……わかった、聞いてやる。だが、茶は私が淹れるぞ。お前は座ってろ」
 ユシャが真摯に頭を下げれば、なんだかんだと人のいいアノニスは受け入れざるを得ない。それをユシャはわかっていた。それを知って利用してやろうと思ったことはないけれど、それでも断られることはないだろうと踏んでいたのだ。
 アノニスがユシャの椅子を引く。彼がおとなしく座ったのを見届けると、彼女は普段はユシャが扱っているポットを手にてきぱきと紅茶を淹れる準備を始めた。
 席に納められたユシャは、慣れた手つきの彼女をじっと眺める。彼女がこうして茶を淹れるところを見たのは始めただ。当然それを口にするのも。何度もこの部屋で『お茶会』をしたものだが、彼女からユシャを誘ったことは一度もない。彼女がユシャのことを憎むべき対象だと認識していることを考えれば当然のことであるが、そんなこと知りもしない彼は自分のカップに注がれる濃い赤の透き通る液体の風味を、そうしていつか彼女の部屋へ招かれることを、想像していた。
 思えば彼女については知らないことばかりであった。私服も紅茶も今日が初めてで、あれほど親しくなりたいと、友人でありたいと思い、何度もプライベートで会っていたはずの彼女のことが、それでも知らないことだらけであると。その事実にすら今まで気づけていなかった。
そもそも、人との付き合いを今までほとんどしてこなかった彼は、『人を知る』ということがその人の何を知ることであるのか理解していなかったのだ。彼女には生活があって、そのための空間がある。プライベートな時を過ごす服装がある。それが彼女の情報の一つであることにも気づいていない。知りたいと思うスタート地点にすら立てていなかったということだ。
彼女のことをもっと知りたい。彼女を傷つけた理由も、彼女が怒る理由も全て知りたい。休日の彼女が何をして過ごすのか、どんな格好をして、どんな部屋で生活しているのか。好きなものだけじゃなく嫌いなものだって、彼女の全てが知りたい。
だが好きなケーキを尋ねたとき、それを知ってどうするのだと意地悪く返されたことを思い出す。
知って、自分はどうするのだろう。あのときは彼女の好きなものを用意したいのだと、その先の答えが用意されていた。今はどうだろうか。彼女を傷つけ、怒らせた理由を知りたいのは、彼女に謝りたいからだ。そして何より、もう彼女を傷つけたくないためであった。けれど他はどうだ。彼女の私服を知って、彼女の部屋を知って一体どうするというのだ。考えたところでその先に答えなど見つからない。
「どうした? いつまで黙ってるつもりだ、ユシャ」
「あ、ああ。すまない」
 一人でぐるぐると考え込んでいる間に、中身の満ちたティーカップが二人の手元にそろっていた。温かいままのカップからして、そんなに時間は経っていないだろうが、それでもアノニスが訝しむほどの間は固まっていたのだろう。
「お前が謝りたいと言ったんだろう。別に、私は謝罪など聞く必要はないんだからな」
「すまない。もう少しだけ時間をくれ」

 アノニスは深いため息を一つついた。
そうしてユシャを不機嫌そうに睨みつける。それでも、席を立つ素振りの無い彼女に、ユシャは密かに安堵する。
「その、君を傷つけたこと、それはわかったんだ。君が怒っていることも当然。だが、肝心の理由は結局わからなかった」
 ユシャは彼女に与えられた猶予の中で、エスワールの助言通りに精一杯言葉を続ける。
「本当にすまない」
「あっそ。それで、結局何の謝罪がしたかったんだ? お前の気はそれで晴れたのかもしれないが、あいにく私はこの通りだ」
 一度下げた頭を持ち上げ、アノニスの顔を見あげると、そこには先ほどよりもずっと不機嫌そうな、いや、苦し気に歪められた表情があった。
「理由もわかってないのに謝られたってしょうがない。終わったなら帰らせてもらうが? 」
 今度こそテーブルに手をつき立ち上がった彼女に、ユシャは一層慌てる。
「違う! これは、その……理由がわからなかったこと自体への謝罪だ。俺だって理由もわからぬまま不誠実に謝る気なんてない。なぁ、アノニス。信じてくれないか」
 そうユシャが懇願すれば、アノニスは再び深いため息を一つ。眉を下げ、苦々し気な、しかしどこか悲しみをにじませた顔でユシャを見た。
悔しい。こんな男を心配してしまうことが、彼に振り回されていることが。それでも彼を許してしまう自分が、一等腹立たしい。だが許すしかないのだ。ユシャのあの顔を見てしまっては
「なぁアノニス、君が心配してくれていることはわかるよ。俺はそれが嬉しい。でも、俺は無事だ。もう退院もして、これだけ元気だ。だからもう大丈夫さ、君が傷つく必要なんてないだろう? 」
 ユシャはどうにかアノニスの傷を癒そうと言葉を連ねる。しかし彼女の傷を理解しないままの彼では、傷口を広げることしかできなかった。それでも、彼はそれに気づくことすらできない。
「もういいよ、それで。私はお前が理解できるだなんて思っていない。本当に、期待なんかこれっぽっちもしてなかったんだから」
 ユシャには理解できるはずもない。何が彼女を傷つけるのか、何が彼女を怒らせるのか。それどころか、彼女がいったい何を心配しているのかすら見誤るような彼では、理解できるはずもないのだ。そも、わかったところで理解はできないだろう。彼は彼女が案ずるような痛みなど感じることはないし、感じる理由すら知りもしないのだから。
「とにかく、もうわかったから。私は帰る! 」
「あ、アノニス! すまない。俺はまた……」
 アノニスが真に憂いているのは、今後も同じように傷を負う可能性があること。それほど危険な立場にいるユシャに対し、周りの者たちが何も思わないこと。そうして、ユシャを孤独にすることだ。
「もういいって言ってるだろ。最初から期待なんてしてないんだ。今更怒ることも傷つくことも無いよ」
 だがユシャは、どのような立場に立とうと、誰に何を期待されようと己のできることしかしないつもりでいる。危険な仕事だって、自分にできることであると認識しているから言われるままに対処しているだけである。つまり、そこに危険など感じてはいないのだ。危機感も恐怖もない。怪我をしたことなどはそのときの結果であり、この環境にあることそのものの問題を認識することはなかった。だから彼は、この瞬間の物理的な傷以外に彼は何も認識していないのだ。
彼は持つものを存分に振るう。力を持っているからそれを望まれるままに引き出して使ってやるだけだ。そこに不満は一切感じていない。そうして己が持たざるものを特別望むこともほとんどなかった。だから孤独も感じることはないのだ。
「アノニス……なぁ、俺のことを嫌いになったか? もう一緒にいてはくれないのだろうか」
 ただ唯一、今彼が望むものはアノニスだけ。彼にとって自分の理解者がいるか、友人がいるか、そんなことは大した問題ではない。ただ、アノニスが傍に居てくれるのかどうか、それだけは重要な問題であった。
「心配しなくとも、今まで通り話してやるし、呼ばれれば付き合ってやるよ」
 立ち上がったアノニスの手が、ユシャの頭へ延びる。
優しくポンポンと二回頭を撫でられ、驚いて見上げた先には相変わらず苦し気な顔をした彼女がいた。
 許すことはできないだろう。だってこんなにも苦しいのだから。それでも怒ったところで、悲しんだところで、仕方がないのだ。どうせアノニスの心はユシャへは届かないのだから。だから許せなくとも飲み込むしかない。飲み込んで、それで元通り。『もういい』というのはそういうことである。
「……早く、良くなれよ」
 そう言い残すと、ユシャが呼び止めようとも振り返ることなく、アノニスは部屋を出て行った。

 アノニスの背中を無言で見つめる。たった一度、彼女の名を呼んで、それ以上は声を出すことすらできなかった。あんな顔を見てしまっては。
自分を見下ろす悲しげな表情。眉をさげ顔をくしゃくしゃにして、それでも理解されることを諦め、無理矢理にでも飲み込もうと強引に持ち上げられた口角。けして笑えてなどいないその表情があまりにも痛々しくて、言葉を失ってしまった。
扉が完全に閉じたのを確認してもなお、動くことはできない。
背を向けた彼女は、もしかしたら涙を流していたのかもしれない。真実を知るのは彼女の身であるけれど、理由はなんであれまた彼女を傷つけてしまった。それだけはユシャにもわかっていた。
「嗚呼、またやってしまったみたいだ」
 ユシャとて、アノニスを傷つけたいわけではないのだ。だが無自覚であることが、より一層質を悪くしていた。なにせ、やめようと思ってやめられるようなものではないのだ。気がついたら彼女を苦しませている。きっとこれ以上この話を続けるべきではないのだろう。だからこそ彼女も振り返ることなく部屋を出て行ったのだ。本当は彼女のことをもっと知りたかったけれど、これ以上掘り下げて彼女を悲しませることはユシャとしても本意ではない。
「せめてさっきのことを謝りたかったが」
 しかしアノニスはもうこの話を終えたのだ。謝るチャンスは既にない。と、そんなことは知らないユシャであっても、これ以上この話を続けるべきではないことはわかっていた。
 もっと彼女のことを知ろう。そうして彼女の思いを真に理解するまで、この謝罪は胸に秘めておくのだ。きっといつか、その日が来るまでは。



 アノニスは今まで通り会話にもお茶にも付き合ってくれると、そう言った。明確に否定されたわけではないけれど、早く良くなれ。と声をかけてくれた辺りからして、恐らく嫌われたわけでもないのだろう。だが、それでももう少し何か尾を引くものがあるのだと、気まずさや飲み込み切れぬ何らかの感情が残るものだと、そう思っていた。
「よ、ユシャ。おはよう」
それがどうだ。一晩。たった一晩で彼女はあまりにも元通りである。まさかこれほどまでに『今まで通り』になるとは思ってもみなかったユシャは、少し面を食らう。まるで昨晩のことも、それどころかユシャが病院に運ばれてから今までの時間全てが消えてしまったかのようだ。
「あ、ああ。おはよう」
 部屋の前でユシャを捕まえた彼女は、そのままいつもの通り軽くはなしながら廊下を進み、そうしてエレベーターのボタンを押す。
ユシャは、そこでようやく彼女のいつも通りの振る舞いの中に違和感を見つけることができた。
「お前、しばらくは休みだろ? 」
 いつも通りの笑顔。軽く片手をあげた挨拶。軽めのトーンでかけられる声。全てがいつも通りのアノニスのようで、しかしたった一つだけ違う。
「ああ。でも朝食は食堂でとるし、そのまま朝のミーティングまでは一緒に受けるよ」
「そっか」
 エレベーターを降り、先へ進む。食堂へ着くと、すかさずユシャの一歩前へ出て扉を開いた。
 彼女はまるで何もかもなかったかのように普通に振る舞っていたが、唯一やたらとユシャの世話を焼きたがるようになった。
ユシャからすれば、そこまで丁寧に扱われる必要などない。大抵のことは一人でもできるからだ。
扉ぐらい怪我をしていない手を使えばなんてことはない。エレベーターを呼ぶのだって同じことであるし、そもそも階段だって問題なく上り下りできる。
それでもユシャは何も言わずに全てを受け入れた。彼女を傷つけた分、彼女を理解できない分、彼女を尊重しようと、ユシャは決めたのであった。
 彼女は真っ先に椅子を引いてユシャをそこへ座らせる。そうして、トレーを手に取り皿を揃えて彼の元へと運ぶと、もう一度、今度は自分の朝食をトレーの上に揃え、ユシャの向かいに腰を掛けた。
 そんな手間を、少し申し訳ないと思いつつもユシャはただ受け取る。
「ありがとうアノニス」
 礼は素直に伝えるが、謝罪はしない。理解できないなら、それでもいい。ただ彼女の心配を受け入れておとなしく従う。それがユシャなりの誠意であったし、事実アノニスの求めている対応でもあった。
 こうして、アノニスがユシャの世話を焼き、ユシャがそれを受け止める日々は、彼の傷が塞がり数週間に及ぶ療養休暇を終えるまで続いた。
 彼女は朝や夕食、時間が重なればとことんユシャの世話を焼いたし、自分の休みの日すら彼のために使うほどであった。ユシャが呼んだ日は仕事が遅くならない限りは必ず、そうでなくともふらりとユシャの部屋へと足を運び、監視ついでにと言いながらユシャとお茶会をして、これまで彼が用意していた茶菓子や紅茶まで全て彼女が用意してくれた。
 アノニスが用意する茶菓子は焼き菓子が多く、よくユシャが用意していたようなクッキーやマドレーヌ、ときにはメレンゲのような今まで用意したことのないものまであった。だが一度、たった一度だけ彼女が生菓子の箱を手にやってきたことがある。

「君がケーキを買ってくるのは初めてだな」
「偶然店が目についたから」
その日はユシャの長い休養の最終日であり、偶然だが彼女も休みを与えられていた日であった。おそらくわざわざ外へ赴いて用意したのだろう。あるいは何かの外出のついでであったのかもしれないが、そんなことはどちらでも良い。彼女がわざわざユシャのためを思って用意したというのならそれは当然嬉しいが、そうでなかったとしてもユシャにとっては価値のあるものである。
とにかく、まだ明るい時間に、見慣れぬシンプルな私服の彼女が珍しくケーキなんてものを買ってきたものだから、ユシャは少しだけ驚いた。そうして慣れない何もかもに少しだけワクワクしたのだ。
もちろん日の高いうちに私服の彼女と会う機会は、療養期間に数度あったが、やはり慣れるほどの数ではなかった。もともと彼らは世間では『ツートップ』と呼ばれているような実力者であるので、二人揃っての休みになることは今までなかったのだ。ユシャとアノニス、どちらかが抜けた分の補填をすることが可能な相手は、お互いを除いて他にいないのだから。それ故に、ユシャは彼女と揃った休日を共に過ごす度に毎度新鮮な気分であったし、ソワソワと漠然とした何かに期待する心を抑えることができなかった。人はおそらくこれを、ワクワク、あるいはドキドキというような表現をするのだろうなと思いながら、いつも彼女の来訪を待っていた。
「もしかして、復帰祝いか? 」
「いーや、そういうのじゃないよ。しいて言うなら、『怪我治ってよかったなケーキ』? 」
 アノニスを自室の玄関先で迎え入れたユシャは、彼女に引かれた椅子に素直に腰掛け、愛らしい真っ白な箱が開かれるのを待っている。
「何を買ってきたんだ? 」
その箱が完全に開ききる前に、中身が取り出される前に、待ちきれず問いかける。いや、彼女の口から答えを聞きたかっただけなのかもしれない。
彼は特別甘いものが好きというわけでもなく、以前彼女に打ち明けたように一人であればけして余計なものを口にするようなことはない男だ。そもそも、三食の食事以外を『余計なもの』と考えているような男であったのだ。それが、彼女の手の中にあるだけで、彼女に選ればれたというだけで、なんだか特別なものであるかのように感じられた。
「フルーツタルトだよ」
 彼女はちょうど箱からそれを取り出し、皿へと移しながらそう答えた。取り出されたそれは、小さなベリーと、それに合わせてバランスのいい大きさに切り揃えられた色とりどりのフルーツがタルト生地の上に小高く盛り付けられており、薄く透明なゼリーがその全体を満遍なく覆い宝石箱のようにキラキラと輝いている。ユシャの母が作る少し大きめのフルーツがごろごろとしている素朴なフルーツタルトとは少し違ったが、小さな一人分の円に整えられた美しい外見は確かに彼の記憶の中にあるあの味を口の中に呼び起こした。
 だがユシャは皿に取り分けられた美しいそれに静かにショックを受ける。何故、何がそんなにもショックであったのか、自分でもわからぬまま身体が固まった。
「……買ってきてしまったのか? 」
「なんだ、だめだったか? 好きなんだろ? 」
 聞いた途端眉を下げたユシャを彼女は訝しんだ。それも当然だ。彼女はきっとユシャの快気祝いにそぐうように、彼の好きなもの、彼の喜びそうなものをわざわざ選んできたに違いない。よもやそれを見た彼が水を抜かれた花のように萎れた反応を見せるとは想像もしなかっただろう。
「いや、嬉しいよ。嬉しいが……」
 動き出した頭が、ようやく自分の感情を整理し始める。
 そうだ。もちろん嬉しくないわけではないのだ。彼女が自分の好きなものをちゃんと覚えていてくれたこと、そして恐らくあの約束も覚えていてくれたのだろうこと、わざわざユシャがの好きなものを選んで祝おうとしてくれたこと、その全ては確かにユシャにとって嬉しいことであった。
「だがその、俺が君のために買ってきたかったんだ。君との約束だったから」
 しかしそれとこれとは別だ。ユシャはアノニスとの約束を守りたかった。彼女が初めて自分に望んでくれたことに、きちんと応えたかったのだ。
 小さい子供が親に初めてのおつかいを任されたことに胸を張るような、それを完璧にこなそうと意気込むような、ともすればそんな稚拙な感情でもあったが、だとしてもユシャは自分自身の力でそれを達成したかった。それを、よりにもよって彼女に先を越されてしまったのだから、まだ自分の心をしっかりと理解できないままであるユシャが言葉にできない感情に固まるのは仕方のないことだろう。
「……お前って意外とめんどくさい奴だな」
「なっ! 」
 そんなユシャの内心を打ち明けられた彼女の反応は素気無いものだった。
「め、めんどくさい……」
 その言葉にユシャが落ち込んでしゅんと小さくなっていれば、彼女は小さく肩を震わせてこらえるように笑う。
「ふふふ、そんなに落ち込むなよ。私も、悪い気はしないぜ」
「本当か? 」
 アノニスからすれば、自分のことをさんざんに振り回した男が、今度は自分のために悩み、落ち込み、振り回されているさまはなんだか気分がいいものであった。そんな彼女の内心を知る由もないユシャは、約束を大切にする己のことを彼女が認め、そうしてそれを喜んでくれたように思えて安堵と喜びに口元をふと緩ませる。
「ああ」
「それなら、なぁ。新しい約束を俺にくれないか? 」
「新しい約束? 」
「今度はちゃんと果たすから。だから新しい約束が欲しい」
 妙なものを欲しがる奴だ。とアノニスは訝しむが、ユシャはどうしても彼女に与えられた使命をこの手で果たしたかった。その機会を失ってしまったならば、新たな約束を、使命与えてもらう他に叶える方法はないのだ。
「そう。なんでもいいの? 」
 アノニスはユシャの目をしばらくじっとみつめて、それから彼がどれほど真剣であるかを認めると、一つ問うた。
「ああ! 」
 彼女が考えようと、そんなそぶりを見せたことに大層喜んだユシャは胸を張って首を縦に振る。
「なら、」
 そんなユシャとは裏腹に、アノニスはきらきらと輝かせる彼の瞳を少し覗いて、そうしてすぐにふいと視線を外し、目を伏した。
「もう無理をしないって約束して」
 そうして零した声はともすれば聞き取れないほど小さなものであったが、それでも確かにユシャの耳にはその声が届いて、しかしその真意までは届けられぬまま消えていく。
「俺は無理などしたこともないし、するつもりもないが? 」
 ユシャは彼女の願いに不思議そうに首を傾けるのみであった。
「だよな。お前なら、そういうと思ったよ」
 アノニスは少し残念そうに、それでももうわかっていたことだと苦笑して、それから今までの言葉全てがなかったものであるかのようにニッと口角を上げる。
「なんでもないさ」
 その表情の意味も、言葉の意味も理解できぬまま、一瞬にして普段と変わらぬ表情を取り繕う彼女をユシャはただ不思議そうに彼女をみつめた。
「さて、お前の役目を奪ったお詫びにとびっきりの仕事をくれてやらないとな」
 何がいいかと考え始めた彼女は、答えを教えてくれる気はないようだ。
もっとも、アノニスからすれば、答えなどすでに何度も告げているのだ。にもかかわらず、ユシャには結局一つたりとも届きはしなかったのだから、今更教える気など残っているはずもない。教えたところで届きはしない。いまだにアノニスの言葉に首を傾げているのが何よりの証拠であった。
 それはもう仕方がない。
「といっても、今は特に何もしてほしいことは無いな。次までに考えてくればいいか? 」
しかしそれ以外となると、これといってユシャに望むことなどアノニスにはなかった。
「ああ、構わないけれど」
 期限を延ばしてほしいと望まれたユシャは、なんだか申し訳ない気持ちになる。ユシャが宿題を望んだというのに、それが却って彼女の宿題になってしまったからだ。
「ど? 」
「いや、俺の望みのために君を煩わせることになってしまった。なんというか、すまない」
 歯切れの悪くなってしまった言葉の先を促され、謝罪をこぼす。この療養期間が始まってからは、ずっと封印してきた言葉だった。だがそれは別の話だ。この謝罪は許されるだろう。
 実際、アノニスは気にした様子もなく、いつの間にか最後の一切れになっていたタルトを口へと運んでいるところだった。
「まぁいいよ。快気祝いにわがままの一つぐらい聞いてやらないとな」
 アノニスが楽しそうにニカッと笑って見せたので、ユシャは少し考えるそぶりをしてから頷いた。彼女の親切はすべて受け入れる。それもこの療養期間中ずっとユシャが決めていたことだ。とはいえこれも別の話ではあるのだが、それでも彼女が楽しそうにしているならば、できるだけ受け入れたいとそう思ったのだ。
「そうか。じゃあお言葉に甘えよう」
「そうしてよ」
 素直にうなずくユシャを見て、アノニスはほほ笑んでいた。
「さて」
 そうして満足げに頷いたアノニスが、ふと何かを思い出したように立ち上がる。
「どうしたんだ」
 そんな彼女を、ユシャは席についたまま見上げた。
もう傷など完全に良くなってはいたが、いまだ療養中ではあるのであまり動き回ることを彼女が良しとしないのだ。もちろんリハビリというべきか、少しずつ今までのようなトレーニングも再開されてきているが、必ずプロが立ち会っている。ユシャからすれば大げさな話ではあるが、しかしアノニスはそうした立ち合いのない場面において、は未だに厳しい。
 彼女がテーブルを離れていく姿をおとなしく視線だけで追う。
「どうしたって、お前が突然落ち込んだりするから、話を聞いたまま紅茶を淹れるのを忘れてた」
 彼女は言いながらポットを手にし、こちらを振り向いた。
確かにそうだ。ユシャの話に耳を傾け席についたアノニスとそのまま話し込んでいるうちに、気づけばタルトは腹に納まっていた。
「口の中が甘いままじゃ落ち着かないだろ? 」
「ああ、確かにな」
 もちろん甘いものを食べてそのまま幸せの余韻を味わう者も世の中には多くいるのだろうが、ユシャは甘いものが特別好きなわけではない。嫌いではないし、おいしいものはおいしいが、甘すぎれば気分が悪くなる。たくさん食べたいと思うようなものではなかったし、おそらく食べることもできない。ほどほどに楽しむのが一番だ。アノニスも彼と同じく、甘いものは苦手というほどでもないが得意ではない部類の人間だった。
「君の淹れるお茶も飲み納めだな。明日からはまた俺がもてなしてもいいんだろう? 」
「もてなされるよりもてなすほうが好きなのか? 変わったやつだな。席に座っているだけで私が菓子も茶も出してやるんだから、この上ない贅沢だと思うがな」
 アノニスが揶揄うようにユシャを小突く。
「それはもちろんそうだが、それでも俺が君に来てもらうんだから、もてなすのが筋だろう? なにより、何をしたら君が喜ぶのか考えるのは楽しい」
 確かに彼女の言うとおりこの上なく贅沢ではあるが、それでもユシャは彼女のことをもてなしたいのだ。
「もちろん、君がお茶会に招いてくれるなら、俺は喜んでもてなされに行くが」
 アノニスの淹れる茶はおいしい。それは彼女が淹れたという事実がユシャにそう感じさせるのか、それとも彼女の腕が良いおかげなのか、普段からあまり茶を嗜まないユシャにはわからないが、もう口にする機会がないとなると惜しいものだ。
「私の招待状が欲しいのか? そりゃあ、より一層の贅沢だな」
「心得ているよ」
 彼女がこうして自分の誘いを受けてくれていることすら、贅沢なことなのかもしれない。
彼女は出会ったころから気さくに話しかけてくれていた。無感動で面白もみのない反応しかしない、それどころかろくに反応すら見せないようなユシャに、それでも気にすることも無く構い続けてくれていた。しかし、特別ユシャに何かを望んでいるそぶりは見せたことがなかった。それこそ、何か反応を求めることも無かったし、見向きもされずとも気にすることも無い。彼女は彼女で好きにやっていて、気まぐれにユシャを構うが、気がのらなければあえて食事を共にすることも無かったし、彼女なりの用がなければ無理に関わろうとすることはなかった。
見返りを求めずそばにいてくれる存在。といえば、一見かけがえのない美しい友情、あるいは愛であるように思えるが、実際のところ当時の二人の関係はそこまで深くもない。ただアノニスはユシャに何も期待していなかったのだ。
だから、いざこちらから彼女に興味を持ち始めたユシャは、どうしたらよいものか全くわからず困っていた。ユシャは国中の民からあらゆるものを求められる勇者であり、彼の周りにつく者は皆何かしらの施しを期待していた。救いを、目を向けられることを、愛されることを望む者もいるだろう。瞳に移すだけで、軽く手を振ってやるだけで、人々は喜ぶ。きっと、ユシャが茶会に誘おうものなら、彼らは無理にでもそれに応えようとしてくれるだろう。まだ英雄になって二年程度でしかないあの頃ですら、すでにユシャはそれほどの存在であった。
しかしアノニスは違う。彼女はきっと相手が英雄であろうと構わず、気がのらなければ彼の誘いをすげなく断ってしまうだろうと、ユシャはわかっていた。友達にすら、なってくれるかどうかわからなかったのだ。気さくに話しかけてくれる彼女が自分のことを嫌っているとは思っていなかったが、そんな期待があるからこそ、断られる可能性に少しの恐怖があった。
しかしそれでも、友になってほしいとそう告げれば、彼女は驚き、呆れ、頭を抱え、だが最後には頷いてくれた。やはり諸手を挙げて喜び、二つ返事でスムーズに事が運ぶ。とはいかなかったが、結果的に友人になることはできたのだ。
そうして得た友が、今こうして誘いを聞き入れて部屋に訪れてくれること、それは確かに贅沢なことである。と、ユシャはそう認識していた。ましてやそれを超えようだなんて、とんでもない贅沢であると、そういわれても仕方のないことだろう。
「なぁ誘ってくれなくてもいいから、最後にわがままだけ聞いてくれないか? 」
 彼女にもてなされるのもこれが最後なら、一つぐらいリクエストをしてもいいだろうか。と、思い尋ねたが
「まだ頼みごとがあるのか? 欲深い奴め」
「む、すまない」
すでに一つ宿題を押し付けてしまった彼女にそう言われると、ユシャは返す言葉がなかった。確かに欲張りすぎたかもしれない。
「冗談だよ。お前はもっと我儘にやりたいことやって、やりたくないことは放り投げて生きたほうがいいぜ? 」
「そうか、別に我慢して生きてはいないが」
「あっそ、じゃあ遠慮せず言えよ。お前のワガママってのは何? 」
 アノニスは心底呆れたような顔をしている。また何か余計なことを言ってしまったようであることにユシャは気づいたが、それがどの発言であるかは当然見当もつかなかった。冗談と言いつつも、やはり本当はユシャの欲深さに呆れているのだろうか、それとも別の理由なのだろうか、しかしそれでもアノニスは己の願いに耳を貸してくれる気でいるらしい。であればユシャに遠慮する理由はなかった。
 きっと彼女は嫌であれば嫌だと拒否するはずだ。アノニスはユシャに無理に合わせるようなことはない。自由な彼女だからこそ悩ましいこともあったが、しかしそのおかげでこうして安心して甘えることができた。
「淹れてほしいものがあるんだ」
 ユシャとの話に夢中で、ポットを手にしたまま茶葉の入った缶の上を無意味に彷徨わせたままにされていた手を止めてやる。
「この前淹れてくれたハーブティーがあるだろ? 赤いやつだ。あれが飲みたい」
 もともとユシャの部屋には茶器も茶葉も置かれてはいなかった。彼女が手を迷わせていた数種類の茶葉のほとんどは彼女をもてなすためにユシャが用意したものたちである。しかし、その中に一つアノニスが加えた缶が存在する。それが赤色のハーブティーだった。
「そんなこと? 構わないけど……」
 アノニスはユシャの希望に応え、抽出された液体の色に合わせて鮮やかな赤に彩られた缶を手にした。その中身を掬い、ポットの中に移していた手はふと何かに気が付いたように止められる。
「レモングラスがないな」
「れもんぐらす? 」
「うん。ハーブだよ。なくてもいいけど、前淹れたのとおんなじ香りにはならないかもな」
「ああ、それで構わないよ」
 ないものは仕方がないだろう。手を止めた彼女に、そのままでいいと続きを促す。
「気に入ったなら持ってきてやるよ。塔の周りに生えてたの勝手に採ってきただけだし」
「それは、いいのか? 」
「いいよ。いつも草刈してるとこだから」
 湯を流し込まれ、今頃中では茶葉が優雅に踊っているであろうポットを手に、彼女は席へ戻ってくる。
「ではお言葉に甘えようかな。教えてもらえれば自分で採ってこれるが」
「んーじゃあ今度教えてやる」
 透き通る鮮やかな赤色の液体が注がれ、程よい量の液体に満たされたカップを差し出される。
「うーん。やっぱりなんか足りないけど、まぁもともとこれはこういうもんだしな」
 ユシャにはそれほど違いのわかるものではなかったが、彼女が違うというのならば違うのだろう。正直なところそれほど香りが記憶に残っているわけでもなかった。覚えているのは精々強い酸味と鮮やかな赤色。それぐらいのものだ。淹れてほしいと頼んだのも、彼女が持ち込んだものを、おそらく彼女のお気に入りであろうそれを共有してもらえることに喜びを感じたからだ。本当はこのハーブティーそのものには特別な感情などなかった。
「俺はこのままでも嫌いじゃないけど、でもせっかくなら君のおすすめがいいな」
「おすすめってわけでもないけど、まぁ持ってくるよ。部屋に吊るしたままだし」
 彼女はちまちまと口をつけて、大事に少しずつカップの中身を減らしていく。
 あのカップが空になれば今日は解散だろうか。ユシャとアノニス、二人が揃ったところでやることなどお茶会の他には何もなかったので、日の高いうちに集まろうと、仕事を終えた夜に会おうと、小さな皿とカップを空にしてひとしきり話し終えてしまえばそれでお別れだった。
 世の中の友人同士はいったい何をして過ごすものなのだろうか。友人のいないユシャにはこれといって何も思いつかない。遠い記憶を呼び覚ましてみても、友人としたことなんて鬼ごっこやかくれんぼぐらいのものだ。さすがにこれは違うだろう。
「アノニスは、エスワールと休日を共にすることはあるか? 」
 何か参考にするものが欲しくて、ちょうど目の前のアノニスに問いかける。どこかへ出かけるにしても、この部屋で何かをするにしても、彼女が喜ぶことがいい。直接聞いてしまうほうが間違いはないだろう。
「なに、突然」
 しかしユシャが何を考えていたかなど知る由もないアノニスは、突然の問いに対し訝しげに眉をひそめた。
「いや、ちょっと気になることがあったんだ」
「んーまぁ、事件の解決後とかは二人一緒に休日をもらったりするけど」
 それがどうしたと送られる視線は、何をともつかないがどことなく疑るような色を孕んでおり、何も悪いところのないユシャも思わず目を逸らす。それでも、何も後ろめたいことなどないと言い訳をするように言葉を紡ぐ。
「いや、友人同士で過ごすってほかに何をするものなのかと思ってな。俺たちはこうしてお茶会しかしたことがなかったし」
「なるほどね」
 ようやく彼が何を考えているのか理解したアノニスは、納得したように頷いた。探るような視線が解かれ、ユシャはひそかにほっと溜息をついた。
「その、二人で出かけたりとか、するのか? 」
 どこまで踏み込んでいいのかを見極めながら、おずおずと問う。もちろん彼女は答えたくなければ答えたりはしないだろうが、それでも余計に踏み込みすぎては嫌われてしまうかもしれない。
「するよ。エスワールと出かけるときは大体買い物とか、あいつは服を選ぶのが好きだな」
 しかし彼女は意図の読めない詮索を不審がりはしたものの、ユシャが何を知りたかったのかそれさえ理解してしまえば、己の交友関係や休日を詳らかにすることには大した抵抗も無いようであった。
「なるほど、買い物か。ショッピングに出るなら服やアクセサリーを見に行くのが主流なのか?」
 お茶会以外にも彼女を誘うことができればと考えていたが、生憎ファッションに明るくないユシャには向いていないように思われた。折角連れ出した彼女を退屈させてしまうようなことがあってはならない。
「どうだろうな。エスワールがいなければ私は本屋ぐらいにしか行かないから」
 なるほど。読書であればユシャも嫌いではない。読書家というほどに時間を割くわけではなかったが、それでも空いた時間を埋める娯楽として選ぶものは本が多かった。もちろん、本と一括りにはいえないほど多種多様なジャンルは存在している。お互いの好みが一致するかはわからないが、違うならばそれはそれだ。お互いの得意な分野を薦めあうこともできる。一致するならば話は早い。過去に触れた本について話に花を咲かせることもできるだろう。お互いに気になる本や、薦める本をひそひそと話し合いながら購入する本を決めるのはきっと楽しい。
そんなことを考えプランを定めたユシャは、どうして彼女を誘い出すべきかと考えていた。しかしそんな彼の頭の中は、続くアノニスの言葉で真っ白に書き換えられる。
「服にはそんなに興味はないし、今日の服も選んでもらったやつだしな」
「君の服をエスワールが選んだのか! 」
「そうだけど? なんだよ。そんなに驚いて、私は別に服とかわからないし、今まではあの古ぼけた仕事着で休みの日も過ごしてたしな」
 そう言われてみれば確かに彼女の私服姿というのは同じ塔の中で生活していながら一度も見た記憶がなかった。唯一あのネグリジェを除いて、ユシャが見るアノニスはいつもあの古めかしい仕事着を着ている。休みの日であっても、仕事の日であってもだ。
初めて見た彼女の姿にすっかり浮かれていたが、そもそも初めて見たということ自体がおかしかったのだ。すっかり彼女の特別な姿を知る優越感などを感じて思い上がっていたが、己にはどうやら先を行く強敵がいたらしい。一体何の敵であるかと問われれば、ユシャにもよくはわからないが。
「ずるい」
 そう、ずるい。『ずるい』だ。いや、彼女が何か不正を働いてユシャを出し抜いたわけではないのだが。しかしなぜだろうか、何かが無性に羨ましくてならなかった。
「はぁ? 何、お前も服とか選んでもらいたいわけ? 」
「違う。俺も君に……いや、それも違うな」
とはいえ、やはりアノニスと同じくファッションというものに興味を持ってこなかったユシャでは彼女にふさわしい服を選ぶことは難しいだろう。それに、彼女に自分の選んだ服を着てもらいたいのかといえばそういうわけでもない。
「じゃあ何」
「何と聞かれると俺も困るのだが」
「なんで当の本人が困るんだよ」
「俺にもわからないんだ」
 アノニスのいうことは尤もだ。だが、ユシャにも、自分が何をずるいと思ったのか、そうして自分がどうしたいのか、何もわからないのだから仕方がない。
「まったく。人間へたくそ人間め」
「に、人間へたくそ人間? 」
「お前のことだよ」
 悪口、というには棘のない言葉であったが、それにしても褒められてはいないであろう言葉が彼女の口から零れ落ちる。思い返せば、過去にも何度か似通った言葉を彼女の口から聞いたことがあった。なるほど。それが彼女から見たユシャという男への評価であったらしい。
「しょうがないやつ。まぁゆっくり考えなよ、また付き合ってやるからさ」
 呆れながらも、倦厭の色は読み取れない表情で、彼女は持っていたカップをソーサーに戻す。あまりにもゆっくりと大事に飲むせいで、その中身はあまり減ってはいなかった。
「お前はエスワールのことが好きか? 」
「嫌いではないが、好きかと問われれば特別にそう思ったことはないな」
「そう」
 付き合ってやる。というのは、アノニスの考えうるすべての道を問うて潰し、ユシャを正解まで導いてやると、そういう意味であるらしい。
彼女は一つ一つ丁寧に問いを投げかけ、そのたびにユシャは否定や、あるいは曖昧な回答を繰り返す。
「なんだ。別に服に興味があるわけではないんだな」
「ああ」
 アノニスは様々な可能性を上げ連ねていくが、どれも今一つユシャにはぴんと来ないものばかりであった。
「なら人に世話を焼いてもらいたいのか? まぁ、確かにお前は意外と甘えただな。頭をなでられて私に懐くぐらいだ」
 そうしてあらゆる道を否定した先に、アノニスがたどり着いた次の可能性というのがこれだ。
「甘えた……そう見えるか? 」
「見えはしないよ。だから『意外と』って言っただろ」
 確かに彼女に興味を持つきっかけになったのはそれだ。父親と同じようにユシャの頭を撫でた彼女に郷愁を覚え、それからすっかり甘えている。懐くという表現をされるのも致し方ないのかもしれない。
 だが同じように頭に触れる者ならば誰でも良いのかといわれれば、それも今は違うように感じる。
「人に世話を焼かれたいとは、特に思わないな」
 誰かに甘やかされたい。誰かに撫でられたい。誰かに世話を焼いてほしい。誰かに服を選んでもらいたい。どれも違うのだ。
「うん。やはりしっくりこないな。そもそも」
そもそも、
「そうだ。『誰か』とか『人』とか、そういうことではないんだ」
『誰か』ではない。当然エスワールも違う。そう、
「俺は、アノニスとともに何かをしたい」
何をするか、してもらうか、そんなことは些末なことであり、ただアノニスと共に過ごしたいのだ。二人のカップが空になったそのあとも。
「そうだ。君との時間がもっと欲しいんだ。そうして、もっといろんなことをしたい」
 彼女が他の誰とも過ごしたことのないような時間を、ユシャのものにしたい。だから彼女とユシャの知らない時間を共に過ごす者が、ユシャには羨ましかった。
 ユシャがようやくたどり着いたその結論に、彼女は向かいの席でぽかんと口を開いた。
「お前って、そんなに私と一緒にいたいのか? 」
「ああ! 」
 信じられないとでもいうような表情の彼女に、胸を張って答える。
「変な奴」
「そうだろうか」
「そうだよ」
 そんなユシャを、アノニスはおかしいと言う。なぜだろうか。ユシャにはわからなかったが、彼女と共に過ごしたいと願うことは、おかしなことらしい。
アノニスが殊更におかしいと感じるのは、それが他の誰でもなくユシャという男のものであるせいなのだが。そもそも、あの何事を話しかけようとも無関心で無感動な男が他人に興味を持ったこと自体、アノニスにとっては驚くべきことであった。ましてやこれほどまでに他人に執着するだなんて、まさに青天の霹靂ともいうべき事態である。
「そこまで言うほど、人と付き合う楽しさを見つけられたなら、もっと他の友人を持ったらいいんじゃないのか」
だが、それほどまでに人と共に過ごし、人を知り、人を喜ばせることに己の喜びを見つけられたというのなら、それは人として良い変化なのだろう。だからアノニスはその先に進むことをすすめた。
友人と過ごす喜びを知ったのならば、何もアノニスというたった一人だけを友人と定めるのではなく、多くの友を持つべきではないかと。
もちろん、彼の立場上、そうして彼を取り巻く人間の性質上簡単なことではない。それでも、今まで剣術以外のことに一切の注意を払ってこなかったという彼とは違い、己から積極的に他人に関心を持ち、アノニスと話すように不器用ながらも己のことを伝えることができるようになった彼であれば、友人の一人や二人ぐらい見つけることもできるはずだ。
今はアノニス以外に友と呼ぶ存在がいないからこうして自分を取られたくないともがいているが、彼の交友関係が広がればそれもおさまるはずだと。
 だが、彼女の考えは間違っている。
「君は、何もわかっていないな」
ユシャからすれば、何もわかっていないと言わざるを得ない結論であった。
「だから『人』ではなく『君』なんだ。人と付き合う楽しさを知ったんじゃない。君と付き合うのが楽しいのさ。だから君ともっと遊びたいと言ってるんだ」
 何もわかっていない。アノニスの心配を微塵も理解しなかった男に言われるにしては納得のいかない言葉であったが、その怒りも湧かないほどに彼女は驚いていた。彼が誰か一人に対してそんな執着する姿など、目の前にあって尚想像もつかないものであったし、ましてやその対象が自分だなどと認めたくなかった。何より心の奥底でそれを期待する自分を。相手は他でもないユシャであるのに。彼がいるからこそアノニスはこの欲を満たせぬままここに収まっているというのに。その憎むべき相手に与えられる執着に甘えようとするだなんて、他人の特別になることを、認められることを渇望する自分の見境のなさに辟易する。
 すっかり言葉を失って己の中の葛藤に決着をつけようともがくアノニスの内心になど気づくことのないユシャは、彼女にかまうことなく言葉を続ける。
「君の服を選ぶ権利を持つだなんて、エスワールが羨ましいよ。いや、俺が服を選びたいのかといわれればやはり違うんだが。それでも、彼女は俺の知らない時間を君と過ごしたんだ。俺がしたことも無いようなことを、君は彼女に許したんだろう? それが羨ましい」
 以前の無口な彼のことをもはや思い出せないほどに、近頃は口数の増えた彼であったが、それにしたって珍しいほどに饒舌だ。
「こうして君に淹れて貰うお茶を、君にお茶をふるまう喜びを、君を想って菓子を選ぶ時間の楽しさを、他の誰かが知っていたら俺は少しショックを受けるかもしれない。もちろん、こんなありふれた行為をほかの誰にもしないように縛り付けることはできないとわかっているけれど」
 こんなにも捲し立てるように彼の口からたくさんの言葉が一度にこぼれたことがあるだろうか。自分の感情や考えを完全に整理したわけではないのであろう。少しの淀みはあれど、それでも言葉が止まることはない。もしかすれば、彼は己が口走っている言葉の内容など、まだしっかりと理解していないのかもしれない。
「だからこそ他の特別な時間が欲しい。それに、こんな短い茶会の時間しか君といられないだなんて、やっぱり寂しいよ」
 思考に没頭することなど許さないとでもいうように、アノニスの頭へ吐き出したかった言葉を容赦なく全て詰め込んだユシャであったが、満足したのかやがて打ち出す言葉のペース落とし、最後には寂しげな表情で彼女の顔を覗き込んで言葉をとめた。
 世の一般的な姉弟のように近くにいることを、可愛がることを許されるような間柄ではなかったが、それでも弟を持つせいであろうか、捨てられた子犬のように甘えるその顔はアノニスの弱点であった。
「そ、そうか。その……なら、今から出かけるか? 」
たとえ彼のほうが年上であろうと関係ない。あの表情でもっと傍にいたいのだと強請られれば、納得はできずとも、まだ心の整理がつかないままであったとしても、無下に切り捨てることなどアノニスにはできようもないのだ。
「本当か! 」
 ましてや、そうして折れてやった途端に一転目を輝かせて喜ばれてしまっては、逆らう気など起こせるはずもない。
ユシャは意図せずに彼女の反抗心をすべて削いで抵抗させる間もなく手を取り立ち上がる。早く、早く。先ほど思い浮かべたプランを彼女とともにと、気が急いて収まらない。ともに出かけようなどと、彼女から茶会の招待状をもらうことすら遥かに飛び越えた大層なわがままであるはずだが、そんな認識すら抜け落ちるほど、彼は夢中であった。

 彼に手を引かれ彼女は部屋の戸をくぐる。アノニスがユシャを知り三年、ユシャがアノニスと友人になり二年目。療養休暇最終日、彼と彼女は初めて義務に囚われることなくこの街を並んで歩いた。


二、

「アノニス様は最近よく本を読まれますね」
 撮影の仕事の合間に本を開いていたアノニスは、ふと顔を上げる。
声の出所をたどれば、エスワールが不思議そうに彼女のことを眺めていた。
「もともと本は好きだからな」
 読書を好むのは何も今に始まったことではないというように答えれば、エスワールは当然知っているとばかりに頷く。
「ええ、以前も伺いました。お休みの日は読書をするとか」
「ああ」
 それでもどこか納得できないとでもいうような表情を見て、これは少し長くなりそうだと見当をつける。アノニスは手元の本にしっかりと栞を挟み込んで、それからぱたんと閉じた。
「ですが、こうやって自室の外で、お仕事の合間を縫ってまで本を読むことは今までなかったでしょう? 」
「そうだったか」
「ええ」
 確かにエスワールの言う通り、今までアノニスはこれほど場所を選ばずに読書に耽るほどの読書家ではなかった。好きではあるが、それも休日の退屈を紛らわすのに最も肌に合う娯楽が本であったからだ。
その程度のものでしかなかったというのに、今はこうして休日でなくとも合間を縫って本を開いている。原因は言うまでもないだろうか。英雄ユシャのせいである。彼もまた、アノニスのように特別読書に執心するような性質ではなかったが、それでも剣を振るえないとき、空白の時間を埋める御供に選ぶのは本であった。
二人にとって読書は趣味といえるほどのものではなかったけれど、それでも趣味の少ない二人の数少ない共通の話題であった。むしろ本とのその距離感もよかったのだろう。どちらも絶妙な熱量で、内容やジャンルには良くも悪くも強いこだわりがなかった。もちろん手を付けるジャンルには癖や偏りがあったが、それは意図したものではなく、ともすれば自覚すらないようなものであった。そのため、互いに何を忌避することもなく薦められるままに本を手に取ることができた。
その結果が今の彼女だ。
今まで目を向けたことのなかったものを、手の届く範囲になかったものを差し出されたアノニスは、そこから広がった世界を追うことに時間を使うようになった。
「アノニス様だけではありません。近頃は英雄様も本の虫のようで」
「あ、ああ」
 それはユシャも同じだ。彼もまた、最近では場所を選ばず隙あらば本に視線を落としているようだ。もっとも、アノニスとともにいるときは大概彼女と話すことに夢中であるので、アノニスがその姿を見ることは多くなかったが。
「おそろいですのね」
「そう言われると、なんだか気持ちが悪いな」
 不仲に見えないようにとずっと演じてきたものだが、友人として扱われるのは未だに居心地が悪い。アノニスは彼と当たり前のように友人でいるつもりもないのだ。頼まれたから、断る理由がなかったから、避けているように見えては困るから、彼が哀れであったから、仕方なく頷いたけれど、単純にそのまま友人という関係を飲み込んだつもりはない。
「あら、ごめんなさい」
 それを照れ隠しとったのかエスワールはどこか微笑ましそうに笑う。その反応はアノニスからすれば納得のいかないものであったが、間が良いのか悪いのか、ちょうど次の出番に呼び出されたエスワールをわざわざ呼び止めるほどのことでもない。スタッフの元へ小走りで駆け寄る彼女の背をただ見送るしかなかった。

英雄の療養が明けて一か月ほど、彼らの住まう古都の塔にはもうすっかり元通りの時が流れている。変わったことがあるとすれば、英雄ユシャとそれに並ぶ実力者である従者アノニスがすっかり本の虫になってしまったことぐらいだろうか。
復帰したユシャの仕事は、相変わらずで危険な仕事も多くあったが、それでもうまくやっているようだ。あれ以来小さい怪我すら一つもない。気は抜けないが、これまでも怪我無く働いてきた男である。もちろん年々仕事の危険度は増しており、これまで通りにとは一口に言えたものではないが、それでも滅多なことがなければあのような大怪我を負うことはそうあるまい。
こうして彼が働き詰めの日常へと返ったことで、再び二人の休日は重なり合うことがなくなった。
そうなれば二人は仕事を終えた夜にお茶会を開く関係に逆戻り。するはずであったが、しかしユシャがあの日アノニスを連れて塔の外へと飛び出したことで、彼らの時間の在り方は少しだけ変化した。その変化というものが二人を本の虫へと変えた原因でもある。
それまで変わらずユシャはアノニスを自室に招き、二人だけのお茶会を開いているが、今の彼らの交流の時間はそれだけではない。休みの揃わない彼らに用意できる時間は、やはり仕事を終えた夜の他にはなかったが、日が沈み暗くなった街へ彼らは連れたって出かけるようになった。向かうのは塔からほど近い市場のその奥にある古書街だ。
古めかしい古都では沈む日と共に店を閉める者が多い。二人が出かける頃には当然市場もすっかり静かになっており、街頭に照らされた少し広いだけの通りと化している。しかしその奥へと進めば、まだ明かりはぽつぽつと残っているのだ。当然ここでも早々に店を閉める者は多いため、開いているのは十数件ある中のいくつかに限られるが。彼らはいつもそのいくつか残った古書店の中から互いに気になる本や過去目を通したことのあるものを手にして、当たりはずれを予測してみたり、薦め合ってみたりと購入する本を二人で選ぶ。
そうして選んだ本を読み、交換し合い、お茶会では読んだ本について語り合う。互いに価値観が違うので当たりはずれの感覚は違うのだが、一方が面白いと感じた感想を聞けば、なるほどそういう見方があるかと発見があり、なかなかに楽しいのだ。
やはりどこか悔しいところはあるが、それでもアノニスは彼と過ごす時間を楽しいと、そう思ってしまっている。今日だってこの仕事が終われば彼との約束があった。
話し相手であるエスワールを見送ったアノニスは、残すところ数頁の本を再び開き目を落とす。このまま読み切って、そのまま彼に貸してやろう。残念ながらアノニスにとってはさほど面白くないものであったが、彼ならばきっと楽しめるはずだ。
最近ではユシャの好みも何となく理解し始めており、こうして彼の好みそうな本を嗅ぎ分けられるようになっていた。
予定調和な大団円へと突入した物語を半ば読み飛ばし、最後の頁を読み終えて本を閉じる。ハッピーエンドが嫌いなわけではなかったが、要領を得ない解決の末に訪れるご都合主義な幸福にはいささか退屈を感じてしまう。対してユシャはあまり終わり方にこだわりを持たない。全体の流れよりものめり込める場面の有無で面白さを判断しているように思える。
今回アノニスが手に取った本は珍しくも流行りの推理小説であった。登場人物たちの無理やりにも幸福に向かっていく思考は、アノニスには納得のいかないものであったが、それでも手の込んだトリックとそれを推理していく場面はなかなかに作りこまれていた。彼はそれを評価するだろう。しかし、最後の数頁に関しては、やはりアノニスと同じように駆け足に読み飛ばしていくに違いない。
最後の一文字までなぞり終えた本を閉じる。すると、ちょうど出番を伝えるためのスタッフがこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。アノニスは彼と目を合わせると、心得たとでもいうように立ち上がり、幾重にも明りの重ねられたそこへと足を進める。
この出番を終えれば午後の予定はない。昼上がりというやつだ。あとは自由にしていいことになっていた。
昼食はエスワールと共にとることになるであろうが、そのあとはまっすぐ塔へと帰ろうか、少し街を見て回ってもいいかもしれない。たまには昼間の本屋を見て回らなければ、夜の少ない明りの中だけではなかなか目当てのものも見つかりづらくなってきたところだ。
指示されたポーズで撮影を待ちながら、仕事上がりの計画が頭の中をめぐる。
ユシャは確か、西の山の麓にある村へと猪を狩りに行っているはずだ。森の中を追い回し捕獲をするか、難しいようであれば殺すことになるだろうと話していた。従者二人と警察から兵士も数名連れて行くと聞いているので、比較的早くかたがつくであろう。今でこそ戦争もなく平和な時代ではあるが、嘗てほどでなくとも過酷な訓練を積んだ兵の手を借りているのだから、普段よりは仕事がしやすいはずだ。そもそもこうした気性が荒く攻撃的な害獣の駆除は本来彼らの仕事なのだ。
旧時代に存在した軍隊は現在警察組織と統合されている。だが一般的に警察と呼ばれるものは、人間社会、人の生活区域である街の治安を維持し主に住民を相手にする者たちのことである。そうして、人間社会の外、あるいは国の外側から国民へ害を及ぼす外敵を相手にする者たちのことを、人々は兵と呼んでいた。害獣は人の営みの外にあたる自然から来るものとされ、これらから人々やその生活を守ることは現代の兵の仕事の一つである。
つまり彼らはその道のプロと呼ばれるような存在なのだ。本来幼い英雄など戦力外であり、パフォーマンスとして彼らについていき足手まといにならないように指示に従いおとなしくしているだけの仕事であるはずだ。大体今どき時代遅れにも剣を振り回して治安を維持しようなどとナンセンスである。脅威に立ち向かうならもっと文明の利器を活用して速やかにかたをつけるべきだ。だというのに、ユシャが英雄となってからは主体が逆転していき、ついにはこのような危険な仕事にもまだ若い英雄や従者たちだけで向かうようになっていった。今日だって、英雄ユシャが兵を率いるという形で出立している。兵を引き連れたとはいえユシャが率先して事に当たることに違いはない。依然危険な仕事ではあるが、それでもやはり彼らがいれば幾分かは安全なはずである。
ユシャの戻るであろう時間も考慮に入れ、終業後の予定を決める。数件ほど本屋をめぐってもアノニスのほうが帰りは早いはずだ。それならば久しぶりに菓子を選んでやってもいい。茶会のすべてを彼に任せきりというのも、よく考えれば彼への貸しを肥え太らせているようであるし、たまには此方も何かを用意するべきだろう。彼が夕食までに余裕をもって帰ってくるようであれば、少し軽めの菓子を手土産に帰ろうか。
などと考え、予定をくみ上げるうちにいつの間にか撮影を終えていた彼女は、エスワールと共に街へ出た。
なにはともあれ、まずは昼食をとらねばなるまい。アノニスは特別に食べたいものがあるわけでもなかったので、エスワールに案内されるまま小洒落たカフェへと向かう。
半ば押し切られるような形であったが、撮影時に着ていた服をそのまま貰い受けてよかった。とアノニスは考える。さすがに普段の仕事着でカフェに入るのは場違いが過ぎるだろう。
店を選んだ彼女はショートケーキがおいしいのだと言うが、生憎アノニスは今晩ユシャとお茶会の予定であるので甘いものは控え、店のイメージに合った洒落た盛り付けの軽食と、ブラックのコーヒーだけを頼んだ。
「アノニス様はそれだけでよろしいのですか? 」
「ああ、ユシャと約束があるしな」
「あら、残念。あまり甘いものをとりすぎてはよくないですものね」
 目の前でショートケーキを切り崩しているエスワールを眺めながら、コーヒーに口をつける。彼女の小さな一口に見合うサイズにちまちまと切り分けられていくケーキは、普段ユシャやアノニスがかけるよりももっと長い時間をかけて少しずつ小さくなっていった。
 ようやく最後の一口を飲み込むころには、彼女のミルクティーはすっかりぬるくなっていた。それでもまだ温かいであろう、飲むのが猫舌のアノニスであればちょうど良い温度であったかもしれない。
「お待たせしてしまいましたね」
「いや、いいよ。味わって食べた方がケーキも喜ぶだろ」
 皿もカップも空のまま少しだけ話し、それから席を立つ。伝票はアノニスの手の中だ。
「アノニス様! 私もちゃんと出しますよ」
 彼女の意図を察したエスワールが小走りでそれを追う。
「いいよ。ま、私はセンパイだしな」
「そんな、本当にそんなつもりではなかったのですよ? ケーキまでいただいてしまったし」
 エスワールの想像したとおり、彼女は二人分きっちり支払ってしまうつもりであったが、あまりにもエスワールが申し訳なさそうに小さくなっているものだから、少しだけ彼女に譲ってやることにした。
「そう。じゃあショートケーキ代だけもらおうかな」
「そんなこと言わずに食べた分全部もらってくださいな! 」
「いいってば」
その程度でエスワールが納得することはなかったが、それでもアノニスが頑なに譲らずにいれば、彼女も引き下がる。
「……そうですか、ではお言葉に甘えます」
 やはりどこか飲み込み切れていない彼女を押し切ってアノニスは財布を出す。近頃は書店での出費が増えたとはいえ、趣味のないアノニスには金の使い道がほとんどなかった。湯水のように使う癖はないが、こういった場面でそれほど惜しむようなものでもないのだ。
好悪の感情や、そもそもあらゆる主張の薄いユシャに対し人間味がないと揶揄していたアノニスであるが、本当に好き嫌いや主張をあまり持たぬのは己の方であった。そのくせ英雄という肩書への執着、そしてその座に在って己の前に立ちはだかるユシャという男への嫉妬心だけは、一人前に膨れ上がってそこにあった。しかし最近ではそんな醜くも燃え上がる感情も、彼女を苦しめる英雄というしがらみも遠のいてしまっている。認めまいとしてきたが、やはりユシャと過ごす時間は楽しいのだ。彼と共に語らううちに、アノニスはすっかり英雄という肩書への執着を忘れかけてしまっていた。最近では彼を友と認めかけている自分がいる。その執着心を、それに伴う感情を失ってしまえば彼女は空虚ともいえるような人間であるのに、それでもすっかりそれらを失いかけているように思えた。
良くいうならば、それは満たされているということなのかもしれない。これまで望んでいた、己を認めてくれる存在を、己を求めてくれる存在を、彼女は得たのだ。
自分を慕うこの可愛い後輩の存在も彼女を満たす一つだ。そんな存在と食事を共にすることは、彼女の中に新たに芽生えた『したいこと』であり、その礼のように彼女に御馳走することもまた、趣味と言うには少しおかしいように思われるが、アノニスの望むことである。そう考えれば、そのために金を使うというのも、正しく一つの使い道であるのかもしれない。
「おいしかったか? 」
「ええ、とっても」
 少しだけ申し訳なさそうに、しかし嬉しそうにほほ笑む彼女の頭を、ユシャにするよりも優しく撫でる。
「アノニス様はこのあとどうなさるのですか」
「少し、本屋を見て回るよ。この辺りのと、塔の近くの古書街にも寄っていこうかな」
「すっかり読書の虜ですのね」
 エスワールは口元を隠し彼女らしく上品に笑う。
「私もついて行っても? 」
 それからアノニスの顔を覗き込んで、かわいらしくおねだりをするように首をかしげた。背の低い彼女がアノニスの顔を見るためには当然見上げることになる。何の意図がなくともなるべくしてそうなるのは仕方のないことであったが、それでもあまりにも愛らしい上目遣いは計算されていると思わずにはいられない。もっとも、それが計算であったとしてアノニスにとってエスワールが可愛い後輩であることに変わりはないのだが。
「いや、それはちょっとなぁ」
 それでも、良心は痛むが彼女を連れて行くわけにはいかないのだ。いや、連れて行ってはいけないわけではないけれど、あまり連れて行きたくはなかった。
「それは残念です。食い下がるつもりはありませんが、理由ぐらいは聞いてもよろしいですか? 」
「いや、大した理由じゃないけど、ユシャが嫌がるかも」
 そう。その理由はユシャにあった。彼はアノニスに特別な時間を要求したのだ。そうして彼に与えたのが、本を共に選ぶ時間と、選んだ本を読み、またその感想を共有する時間であった。もしアノニスが本を選ぶ時間に他の誰かを入れてしまえば、ユシャはきっと悲しむだろう。
 もちろん、彼自身が言ったように、ユシャにアノニスの行動を束縛する権利などありはしないのだ。彼に構わずこのままエスワールと共に買い物に出ることだって可能であるし、彼がそれを咎めることはないだろう。だが、彼が何一つ文句を言わなかったとしても、あの瞳が無口な彼の口ほどにでもものを申せば、微かにも悲しみに揺らぐその一瞬を捉えてしまえば、きっとアノニスの良心は痛むであろう。
 この可愛い後輩に負けず劣らず、あの年上の男の顔はアノニスの弱点なのであった。
「まぁ! 英雄様は意外と束縛系彼女みたいな方なのですのね」
「そ、束縛してくるわけではないが」
 エスワールは少し驚いたように目を見開くと、そのままおかしそうに肩を震わせてくすくすと笑った。少し言葉選びを考えるべきであったかもしれない。彼女が下したユシャへの評価を聞き、アノニスは少し申し訳ない気持ちになった。断じて言うが、ユシャはアノニスに対して他の誰かと本を見繕いに行くことを禁じたわけではけしてないのだ。ただ、アノニスが勝手に彼の悲しむ姿を想像して、勝手に良心を痛めただけである。
「ええ。でもわかりました。アノニス様は、ちゃんと英雄様のことが大切なのですね」
 だが、次の瞬間。彼女は肩を震わせていた先ほどまでとは違い微笑ましそうな、否、もっとはちみつを溶かしたような、甘ったるくしかし慈愛に満ちた笑みでアノニスを見ていた。
「では、私は一足先に塔へと帰らせていただきますね。アノニス様も、どうか気を付けて」
 あの顔は、いったい何を誤解させてしまったのだろうか。エスワールはアノニスが彼のことを大切にしているのだと言った。あんな表情で。アノニスがユシャへ向ける感情はそんな大層なものではないというのに。だがそれを否定する隙も残さず、彼女は背を向けて去ってしまう。
 残されたアノニスは、己の頬がわずかに色づいていることに気づき、より一層頬を赤くした。
 いまさら友人だなんて認めてしまうのは、あまりにも恥ずかしい。あれほど否定したがっていたというのに。彼を己の内側に招き入れ大切にしてしまっていることは、もはや自明であるにも関わらず、やはりアノニスはそれを認められずにいる。いや、本当はもう認めつつあるのだが。それでも最後まで受け入れきれないのは、もはやつまらない嫉妬心でもなんでもなく、ただの気恥ずかしさからであった。
 上辺だけは受け入れつつも、内心あれほど否定してきた関係を、いまさらどうして何事もなかったかのように受け入れられようか。己の欲に従って簡単に切り替えができるほど、アノニスの心は都合よくできてはいないのだ。
「……そうだ、えっと。本屋に行くつもりなんだった」
 エスワールの後ろ姿が完全に見えなくなり、尚もしばらく動くことのできなかったアノニスは、誰に対してか何かをごまかすようなそんな不自然でわざとらしい独り言を皮切りにようやく歩き始めることができた。
 いまだ引かない熱を引きずりながら足早に目的地を目指す。そうして人ごみに紛れ無心に足を動かすうちに、ようやく頬の朱を振り切った。大きな自動扉を潜り抜ける頃には、もうすっかり普段通りのアノニスだ。
 普段暮らす街とは違い、目に見えて開発の進んだこの街には、惜しみなく縦に積み上げられた大型の商業施設がいくつもある。その中に居を構える蛍光灯の白い光に照らされた明るい本屋は、普段お世話になっているあのオレンジの明かりが灯る古本屋とは全く違う景色であった。
 アノニスは迷わずに歴史書の棚へと向かうと、そこから数冊の本を手に取り、品定めしてかごへと入れる。どれも新しく出たばかりの歴史書たちだ。ユシャに付き合って物語や詩集などを読む機会も増えたが、アノニスは元来こうした本を好んで読んでいた。いや、好むというのは違うのかもしれないが。それでも彼女が自ら手に取るのはそればかりであった。行きつけの古書店で出会う、古びた表紙の歴史書も味があり嫌いではないのだが、しかし歴史の研究というものも時代と共に進み新たな解釈が生まれ続けているものだ。こうしてたまには最新の本に目を通すべきであろう。
 選び抜いて三冊程度に絞られた本を手に、大きな自動扉を潜る。
一番の目的は果たしたので、あとはついでのようなものだ。このまま塔のある古都へと帰ってしまってもよかったが、少しだけ洋菓子店を見て回ろうかと道を変える。本当はもう少しだけ頭を冷やしたかったのだ。先ほどの会話の後で、顔を赤らめずに彼と対面できる勇気がなかった。もちろん今帰ったとして、さすがにまだユシャは塔に戻っていないだろうが、それでも彼がいつ帰ってくるともわからぬあの街に戻る前にもう少し時間が欲しい。
だが、その考えが良くなかったのかもしれない。
こうして歩き回るのにはあまり慣れない街であったが、先ほどのカフェの近くにそれと似たような可愛らしく洒落た外装の店がいくつか並んでいたことを思い出す。アノニスは、エスワールと別れたあの人が溢れる広場まで引き返した。

そうして、彼女はそこで見てしまったのだ。

それを見つけてしまったアノニスは一目散にその場を離れ、気づくと塔の中にある自室のベッドの上に丸まっていた。どうやってここまで帰ってきたのかほとんど覚えてはいなかったが、微かに残る記憶の中で、すれ違ったエスワールが何かこちらに呼び掛けていたように思えた。だが彼女の頭の中は、今それどころではない。
街で見たあれは、彼らは、間違いなくアノニスの家族であった。否、本当にあれらを家族と呼べるのか、親と呼ぶべきであるのかはわからなかったけれど、しかし間違いなく彼女と同じ血を持った者たちなのだ。
幸せそうに笑う両親とその傍らに立つ表情のよく見えない弟の姿は、アノニスがようやっと忘れようとしていた劣等感を鮮烈に蘇らせるには充分すぎるものであった。
ああ、そうだ。アノニスは英雄にならなければならなかったのだ。そうでなければ、本当に欲しかったものは手に入らない。誰からも認められるには、皆に切望され、そうして何より血を分けた彼らに己の存在を認めさせるにはそれしかないのだから。
本当にそうだろうか。アノニスが心から望むものは、そんなものなのだろうか。エスワールの憧れを一身に受けるうちに、ユシャに求められるうちに、気づきつつあった本当の己の望みを、幸福を、しかし今のアノニスの大きすぎる感情はすべて押し流してしまう。
早く英雄にならなければと、蘇った焦燥がアノニスの正常な判断を奪う。だが、そんな状態であっても、己の一番の敵であるユシャのことを心の底から憎むことはいまさら難しかった。そうするには余りにも彼のことを、彼と過ごす時間を知りすぎてしまっていた。
未だどこかに残っていたらしい彼への憎悪に身を焼かれながらも、彼を嫌いになることはけして許されない。身を引き裂くように相対する己の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合ってアノニスを苦しめる。その感情から逃れる術を持たない彼女は、ただベッドの上で小さく縮こまってひたすらに耐えるのみだ。部屋の戸を叩く激しい音も、寝室に閉じこもる彼女の耳には届かなかった。



 三、

仕事を終え塔へと戻ったユシャを待ち受けていたのは、小柄で愛らしい少女。エスワールであった。
「おかえりなさい。英雄様」
 屋上に備え付けられた鳥小屋へと鷲たちを帰したところで、彼女は屋上へと現れたのだ。おそらく彼の帰りをずっと待っていたのだろう。ともに仕事にあたっていた他の従者たちに報告を任せ、エスワールとユシャは二人だけ屋上に残った。
 彼女は自分に何か話があるのだろう。それも何か大事な話が。ひどく困ったような、あるいは悲しんでいるような、眉を下げ、瞳を潤ませた彼女の表情がその重大さを物語っていた。そうでなくとも、わざわざ塔の最上階でいつ帰るともわからぬ彼を待っていたぐらいである。どうでもいい話であるはずがない。
「なにかあったのか」
 彼女がなによりこの塔の中で最も信頼しているであろうアノニスを差し置いて、わざわざ己に話すこととははたして何であろうか。どう切り崩すべきか、それ以前に全容すら見えない問題を前にして、出方を決めかねたユシャは最も無難であろう問いを投げる。その声の色の薄さは一見すると冷たく、慌てる様子の一切ない落ち着きはらった問いは、泣きそうになっている少女を相手にしているにしてはあまりにも薄情なものであった。普通の少女であればここで怯み、このまま話を続けることを躊躇っていたかもしれない。しかしエスワールはそんなことには一切構わず、そのままユシャに泣きついた。
「英雄様」
「なんだ」
 親しいとはいいがたくとも、同じ塔で暮らしているのだ。エスワールにとってユシャの愛想のなさなど今更なことであった。
「アノニス様の様子がおかしいのです」
そんなことよりも彼女にとって大事なことは、何よりも尊敬し慕うアノニスである。なぜエスワールがアノニスではなくユシャに話を持ってきたのかといえば、単純な話だ。彼女の悩みがアノニスにまつわることであったからに他ならない。
「アノニスが? 」
「ええ」
 彼女の口から出た名前に、ユシャはほんの少し眉を寄せる。
俯いてしまったエスワールには、その変化を捉えることはできなかったが、おそらく見ていたところで読み取ることなどできなかったであろう。その程度のわずかな変化であった。だが、確かにユシャはアノニスの名に反応を示した。彼女に何かあったとなれば、ユシャにとっては一大事であるからだ。
「何か心当たりは? 」
 ユシャの問いに、エスワールは黙って首を横に振った。
 聞けば、昼食を済ませ彼女と別れた頃には、まだいつも通りのアノニスであったらしい。それが数時間後、塔へと帰ってきた頃には一変していたのだという。
 具体的な様子はわからないが、もしや体調でも崩したのだろうか。原因がなんであるにせよ、とにかく彼女のことが心配だ。
「ありがとう。様子を見てみるよ」
 涙をこらえ頷く彼女へ礼を伝えて、ユシャはアノニスの部屋へと足を向けた。
さすがに最上階から下るのであれば、普段はエレベーターを使用していたが、今はそれを待つのも惜しい。それでも人間の足で駆け下りるよりはこちらの方がきっと早いはずだ。ようやく最上階までたどり着いたエレベーターに乗り込み、今度は折り返し下るように指示を出す。そうして目的の階にたどり着いたのを確認すると、扉がすべて開ききるのすら待ちきれないというように足早に降り、彼女の部屋を目指した。
「アノニス、いるんだろう? 」
 軽く扉をたたき、中へと呼びかける。エスワールの話す通りであれば、彼女はこの部屋から一歩も出ていないはずである。しかし中からの返事はなかった。
 もう一度、今度は少し激しめに戸を叩いた。だが、やはり返事はない。もう一度戸を叩く。今度は少し迷惑なぐらい大きな音をたてて。
幸いなことに他の従者たちは報告を終えてすぐに食堂へと向かったのだろう。他に人の気配のないフロアでユシャに注目する者は誰もいなかった。とはいえ、彼のよく響く声はおそらく他の階へも轟いていただろう。それほどの大きな音と声で呼んでも尚、彼女からの応答はなかった。
これほどの騒音で呼び掛けたのだから、部屋のどこに隠れていたとしても声は届いているはずだ。彼女が自らの意思でそこへ閉じこもっているのであればそれは仕方のないことであるが、しかしどこか様子がおかしかったらしい彼女がこの中で一人倒れているという可能性も捨てることはできなかった。
「アノニス! 何かあったのか! 」
 いよいよ心配になったユシャは無意味とわかっていながらもドアノブに手をかけた。するとどうしたことだろう、あっけなく扉は開いたのであった。
鍵のかかっていない部屋に、より一層嫌な想像が膨らむ。
 もしこの戸を開けて、すぐそこに彼女が横たわっていたら。自室に戻ってすぐ、自らの体を支えられなくなるほど彼女が弱っていたら。
 本来ならば他人の、それも異性の部屋に勝手に入ることを躊躇わなければならないのであろうが、今のユシャにそんな余裕はなかった。
「アノニス! 」
 扉を開き真っ先に足元を確認する。しかし彼の最悪の想像は裏切られ、そこに彼女の姿はなかった。ひとまず安心して、詰めていた息をほっとついた。入口から見渡した部屋のどこにも力なく倒れる彼女の姿はなかった。
ユシャが見渡す限り、彼女の姿はどこにもなかったのだ。
シャワー室は静かで、部屋に水音が響くこともない。となれば、残る部屋は一つ。
寝室だ。
どうにかこうにかベッドまではたどり着いたというところだろうか。そもそも体調不良ではない可能性もある。だが己に泣きついてきたエスワールの様子からして、良い状況ではないだろう。やはり心配なことに変わりはない。
先ほどよりも少し冷静さを取り戻したユシャは、無遠慮に異性の寝室へ立ち入るわけにもいかず、扉の前で立ち尽くした。
「アノニス、勝手に入ってしまってすまない。なぁ、そこにいるのか? 」
 やはり返事は返ってこない。
「君の様子がおかしいとエスワールに聞いた。体調が悪いのか?」
 それでも、応答のない扉に向かってユシャは話し続ける。彼女の名を何度も呼んで、エスワールが身を案じていたこと、そうして何より自分がどれほどまでにアノニスのことを心配しているのか、どれほどまでにアノニスのことを想っているのか、長い時間をかけて返事のない戸に向かい語り続ける。
「心配なんだ。意識があるなら返事をくれないか」
 しかし返事は一向に帰ってはこなかった。
「アノニス、返事もできないほどに辛いのか」
さすがに女性の寝室へ勝手に侵入することは躊躇われたが、この状況で彼女の無事を確かめるにはこの目で確かめる他に無かった。これまでは堪えてきたが、ついにしびれを切らした彼は意を決して戸に手をかける。
「アノニス、勝手にで悪いが入らせてもらうぞ」
 戸を開いた彼の目に映ったものは、自分の寝室と同じ位置に配置されたベッド。その上で小さく身を丸めるアノニスの姿であった。



扉の外で何やら声が聞こえる。
今のぐちゃぐちゃになったアノニスの頭では、その音が何を意味しているのか理解することはできなかったけれど、その声が今最も見たくないユシャのものであることだけは理解できた。
返事すらしたくもない、彼は何も悪くないけれど、何も悪くないからこそ口を開くわけにはいかなかった。もしそうしてしまえばきっと自分の口から醜く、そうして彼を傷つける鋭利な言葉が飛び出してしまうであろうことがわかっているからだ。
黙ってこのままやり過ごそうと、より一層膝を抱き寄せ身を縮める。
しかし、そうして無視を決め込んでいても、声は遠のくどころか逆にこちらへと近づいてくるのであった。
アノニスはそこで、己が部屋の鍵を閉めずにいたことに気づいた。仕方がないだろう。なんとかこの部屋に戻ってきたとき、彼女の頭はそれどころではなかったのだから。そして、それどころではないのは今も同じだ。最も会いたくない者が、憎むべき者が、しかして傷つけたくはない者がこちらへ迫ってきている。彼を前にしてしまえばきっと傷つけずにはいられない。この醜い口を、感情の高ぶりを抑える術を彼女は持ち合わせていなかった。
寝室の扉の前へ立つ彼は、まだしつこくもアノニスのことを呼んでいるようだ。今度こそ諦めて帰ってくれることを願いながら、アノニスは口を強く結んだ。
 しかし、ここまで無理に侵攻してきたような彼がその程度で引き下がるはずもない。アノニスからの返事がなくとも構わず、彼はこちらへと語り続ける。そのすべての意味を飲み込むことは、今のアノニスにはできなかったが、それでも断片的に、彼が己の身を案じていることだけは理解することができた。
 どうして彼は、自分のことをこんなに気にかけてくれるのだろうか。アノニスの中には彼を憎む醜い感情が溢れかえっているというのに、彼は純粋にアノニスのことを想い構おうとする。どうして放っておいてはくれないのだろう。今は彼の顔など見たくはない。早く、早くどこかへ行ってほしいのに、彼はけして諦めない、立ち去るどころか立ち止まってすらくれないのだ。
 ついに彼がドアノブに手をかけたことが分かった。あ。と、気づいたときにはもう遅い。扉は無抵抗で彼を招き入れてしまう。
「アノニス! 」
 ベッドの上で体を丸めたアノニスの姿に、ユシャは何を勘違いしたのか駆け寄ってくる。
「苦しいか? もう少し早く気づいてやればよかった」
こんなに慌てている彼を見たのは初めてかもしれない。いや、実際には目にしているわけではなかったが、背後から感じ取る気配には明らかに落ち着きがなく、こんな状態のアノニスですら容易に察することができた。
「……ユシャ」
「アノニス! よかった。意識はあるんだな」
 アノニスがか細く名を呼べば、彼はあからさまにほっとしたように息をつく。それでも、まだ安心しきれてはいないようだ。わずかに固まった声でアノニスの様子をうかがっている。
「どこか痛いのか? 苦しいのか? 何が辛いか教えてくれないか、アノニス」
「どこも辛くないよ」
 だが、今彼女はただ放っておいてほしいだけなのだ。余計なことを口走ってしまう前に、穏便に彼と距離をとろうと、どうにか彼を安心させて体よく部屋から追い出そうと、アノニスは慎重に口を開いた。
「こんなに弱々しい声で、そんなはずないだろう。なぁ、一緒に医務室へ行こう? 」
 しかしそんな言葉でユシャが納得してくれるはずもない。食い下がる彼を相手に、アノニスは言葉を選べなくなっていく。
 どうして彼はまだ諦めようとしないのだろう。アノニスにそれほど価値があるとは思えなかった。
「ほっといて」
 嗚呼、ついに突き放すような言葉を吐いてしまった。どうにか必死にせき止めていた感情が次々と口をついて溢れてしまいそうだ。
「放ってなんて、おけない。君が苦しんでいるのに。頼ってくれないか? 」
 どうかお願いだから、これ以上私の言葉を引きずりださないでくれ。と、そんなアノニスの願いもむ空しく、彼は一歩も引かなかった。それどころか、まだこちらへ踏み込もうとさえしてくる。
アノニスがいくら彼の身を案じようと一つも響かなかったというのに、自分には頼ってほしいと、自分に譲れというのだ。彼はアノニスの心配など一つも受け入れなかったではないか。そんな男に、いったいどんな権利があるというのだ。
「お前は私のなんなんだよ」
「友達だろう! 」
 ああそうか。友達か。友人。確かに彼はそうなりたいと言った。私も形だけではあったが受け入れた。このごろは名だけではなく実をも認めようとしていたほどだ。
だが、やはり受け入れることはできない。
「そうか。でも私は」
 だってアノニスは、
「最初から、最初からお前のことなど嫌いなんだ! 」
「アノニス……? 」

限界だった。少しずつ人になって輝きを取り戻していく彼が、何も知らぬまま自分を友と呼ぶ。無邪気にアノニスのことを求める。無垢な光でアノニスの中の醜い感情を照らし出して、苦しめる。
きっとユシャには誰かを心の底から妬む気持ちなどありはしない。自分にはないものを持つ人間に憎しみを抱いたこともないのだ。彼は他人にあって己にないものを知ろうとも、それを認め己にあるものを認めて生きていける男だ。エスワールを羨んで見せながらも、己には己の道があることを知り、彼女とは違うその道を進んで行ける男なのだ。己の手にあるものを知った男だ。他を憎む必要もないほど己の手を満たした男だ。
そんな輝かしい英雄が、醜い感情の一つも持つ必要のない幸福な男が、自分の中を暴いてその汚さを突き付ける。そしてきっと、心のどこかでアノニスのことをあざ笑っているに違いないのだ。違うと、そんなことはないと、わかっているのに。それでもアノニスは彼の表情からその色を探そうと疑って見てしまう。
私だって、私だってこんな醜い自分になりたくなかった。ただ己の道を、自信をもって歩んでいきたかった。それが許されたのなら、アノニスだってそうして生きていきたかったのに。
わからないくせに。誰かを妬まずにはいられない苦しみを、憎まずにはいられない悲しみを、知りもしないくせに。無垢なままで生きていられた幸福な男が、己を醜いと断ずることが許せない。許すことができなかった。
「お前はいいよな? 誰からも愛される英雄だもの! 私だって愛されたいのに、否定なんてされたくないのに、英雄が、英雄さえいなければ。私だって……」
 めちゃくちゃな感情に任せて、何を言っているかもわからずにただわめく。ああなんて浅ましいのだろう。こんな自分が誰よりも嫌いだった。誰にも知られたくなかったのに、もう自分の中だけに留めておくことはできなかった。
 悔しさのあまりこぼれる涙を見せまいと膝を抱き寄せる。アノニスはそれ以上言葉が続けられなくなくなり、部屋にシンと静寂が満ちた。
ユシャは何も言わない。呆れただろうか。それともアノニスのような小さな人間の苦しみなど彼には届かなかったのかもしれない。悔しい。憎い。許せない。でもこれできっと、もう二度と口を利くこともないのだ。最後に顔ぐらい。と、半ばやけくそになって、顔をあげる。
そして、視界に飛び込んできたユシャの表情にアノニスは目を見開いて言葉を失った。
「……どうして、どうして君まで俺をそう呼ぶんだ」
アノニスの叫びを受け止めたユシャが、呆然とした声で力なく言う。眉はハの字に下げ、見開いた眼に絶望をにじませた表情で、瞳から静かに涙を流している彼を見て、アノニスは自分の言葉を後悔した。英雄であることがけして楽な事ではないと知っているのに、自分勝手な怒りに任せて言ってはいけないことを言ってしまった。彼を傷つけてしまった。最初から、そればかりを恐れていたというのに。それでもやはり己の醜い感情を押しとどめることはできなかった。
アノニスは己の弱さに打ちひしがれ茫然として、それ以上口を開くこともできずにただ彼をみつめることしかできない。
「いやだ。他の誰にそう呼ばれてもいい。でも君にだけは英雄と呼ばれたくない」
勢いを失った主が口を閉ざし静まりかえるはずの部屋を、ユシャは音で満たし続ける。涙も止められないまま、ついには崩れ落ちるように両ひざをつき彼女の両腕に縋りついた。胸に顔を埋めいやだいやだと、まるで駄々をこねる子供のように何度も繰り返す。
「お願いだ。俺を見てくれ。この世の全てが俺を通して英雄の虚像を見ているとしても、君だけは俺を、俺を見てくれないと嫌だ」
皆に英雄と信仰されようとも、彼は重責など感じる様子すら見せたことはない。強くあることを当然のように望まれようとも、その身を軽んじられ偶像の型に押し込まれようとも、何より英雄としての機構ばかりを優先されようとも、それを当然のものとして受け入れていた。
そんな彼が、唯一たった一人の少女に英雄と呼ばれただけで、こんなにも傷ついている。
「俺は君の英雄になりたいわけじゃない。君の、アノニスのユシャになりたいのに! 」
アノニスは、自分自身のために抱えていた焦りも憎しみも妬みもすべて忘れて、それどころかつい先ほど湧いた彼への罪悪感すらもうすっかりどこかへ失くしてしまって、ただただ途方に暮れた。
 真っ黒な感情で溢れ返った頭の中が、再び真っ白に戻ったのだ。だが、街中に父や母の姿を見つけてしまったあのときとは違い、不愉快な騒めきも焦燥も今の心の内には存在しない。
「……ユシャ」
 真っ白な頭のまま、何が正解かもわからぬまま、アノニスはただユシャの名を呼んだ。
 呼ばれた彼は、ゆっくりとアノニスの胸にうずめていた顔を上げて、そうして二人の目が合った。
「アノニス」
 彼の潤んだ瞳にみつめられ、アノニスはたまらない気持ちになる。
「ごめん。ごめんな、ユシャ」
 先ほどどこかへと飛散してしまったばかりの罪悪感が、再び心の内で湧き上がる。
「私の勝手な都合でお前に酷いことを言ってしまった」
 とめどなくあふれ出すその感情は、いくら言葉にして流しても少しも減ることはなかった。
「あんなもの、ただの八つ当たりだ。傷つけたな」
 結局アノニスはこの男を憎みきれないのだ。いや、ユシャだけでない。誰かを憎むこと自体が彼女には向いていないのかもしれない。
「いいや、俺の方こそ」
 眉を下げてユシャを見下ろす彼女に、ユシャも冷静さを少しずつ取り戻したようだ。掴まれていた両腕が解放され、彼はゆっくりとアノニスから離れていく。
「君をこれほど怒らせてしまったんだ。きっと俺も何か悪かったんだろう」
 彼に非があるとするならば、それは無遠慮に踏み込みすぎたことだろうか。彼がおとなしく引き下がってくれていれば、アノニスもきっと彼を傷つけずに済んだことだろう。だが、そもそも己の感情を制御できなかったアノニスが悪いのだ。少なくともアノニス自身はそう考える。
ほんの少し取り繕って自然と距離を置けばよかったのだ。体よく理由をつけて彼の誘いを断って、怪しまれずに一人になることだってきっと器用なアノニスにはできたはずなのに、冷静さを失って選択を誤ってしまった。
「それなのに勝手にこんなに泣いたりして、恥ずかしいな。困らせただろう? すまなかった」
「いいよ。むしろお前が泣いたおかげで、驚いていろいろとどうでもよくなったし」
 こんなに急激に冷静さを取り戻せたのは彼の涙のおかげだ。
それに、彼からすれば迷惑な話だろうが、これまで抑え込んでいたことを喚き散らしたおかげで、なんだかすっきりとした気分だった。少し気が楽になったところで、何かが好転したわけでもないけれど。
しかし、ここに泣いて縋り付くほどにアノニスを必要とする人間がいることを知り、彼女が抱えてきた長年の苦しみはほんの少し和らいだようにも思える。
「そうか。そう言ってもらえると、助かるな」
 彼は、ようやく床につけていた膝を離して立ち上がると、柔らかく微笑む。
「うん。それに」
 対してアノニスは、少し暗い顔でうつむいた。
「言っただろう。あれは私の八つ当たりだ。勝手な感情にお前を巻き込んだ私が悪いよ」
「そんなことないさ! 」
 ユシャに非はないと、改めてアノニスが言えば、彼は食い気味にそれを否定する。
「そうでなければ優しい君があんなことを言うはずない」
「別に、私は優しくない」
「それこそそんなはずない! 君は優しいよ」
 アノニスの否定を、彼はけして認めない。打ち消すように、彼女がすべて言い終わるよりも早くそれに言い返された。
「いつもわがままを聞き入れてくれるし、俺を許してくれる。俺は甘えすぎているぐらいだ。年上なのに情けないな」
 そうしてそのまま、彼女に反論の隙も与えず語り続ける。
「きっと俺が君に甘えきっていたのがいけなかったんだ。そのせいで君を怒らせてしまったんだろう」
 しかし、その勢いは少しずつ衰えていき、
「 だからカッとしてあんなことを、そうだと言ってくれよ。はじめから俺のことが嫌いだったなんて、なぁ。勢いで言ってしまっただけだろう? 」
 最後には力なく語尾が消えていく。それに合わせてうつむく顔は、しかしアノニスの位置から見上げると、表情が良く見えた。普段の身長差であれば、背の高いアノニスから彼の表情を隠すことは簡単であろう。だが、彼は今しがた立ち上がり、アノニスは相変わらずベッドに腰かけているのだ。彼の不安げに揺れる表情は全てアノニスに筒抜けであった。
 優しいアノニスを、友であるアノニスを信じようとしながらも、その実彼は不安なのだ。そんなかわいそうなほど怯える彼に、アノニスは残酷な言葉を突き付ける。
「お前のことが最初から嫌いだったのは、本当だよ」
 聞いたユシャは、あまりにもわかりやすく絶望を瞳に映した。
 その変化にアノニスは堪えきれず少し笑ってしまう。ユシャに悪いと思いはしたが、彼がこんなにもわかりやすく表情を見せるようになったことがなんだかおかしかったのだ。
「半分は、な」
「半分? 」
「そう半分」
 今度はほんの少しの光を見つけたようだ。一縷の望みにすがるように、彼はアノニスの瞳を見つめ、次の言葉を待っている。
「最初はお前のことが嫌いだった。英雄であるお前のことが。憎もうとしたよ。友人にだってなってやる気はなかった」
「知らなかった。君はいつも気さくに話しかけてくれていたから」
「でも、結局私はお前を友人と心の底から認めてしまったみたいだ。嫌おうとしても、憎もうとしても、お前が傷つくことを考えると苦しいんだ」
 俯いたアノニスの、視線の先に落ちていた手をユシャが握る。彼の手は温かかった。いや、アノニスの手が冷たかったもかもしれない。
「君が俺を認めまいとしたのは、俺が英雄だったからか? 」
「そうだよ」
「そうか」
 握る手に、ほんの少しの力がこもる。
「ずっと不思議だったんだ。闘技場で対峙する君は、異常なほど俺に勝ちたがっているように見えたから」
 嗚呼、気づかれていたのか。アノニスは観念したように顔を上げ、ユシャにその表情をさらした。
「アノニス、君はどうしてそこまで英雄になりたいんだ? 」

「……私は英雄の末裔なんだ」

 ユシャにまっすぐにみつめられたアノニスは、少し視線を彷徨わせ、意を決したように話始めた。
「それが本当かどうかなんて、だれもわからないけど。でも私の家は、ずっとそれを信じてる」
己の中に流れる血と、同じ血を持つ家族について。静かな声で、ゆっくりと。
「自分たちの一族が一番英雄を名乗るのにふさわしいと、ずっと思っているんだ」
「君も? 」
「まさか、馬鹿馬鹿しいよ」
 ユシャの問を、アノニスは鼻で笑った。
 彼女は自分の家に根付いたくだらない思想のことが嫌いだった。いつまでも、血なんてものに縛られ、過去を信仰している。血の繋がりなんてつながりと呼べるかも定かではないそれにのみ頼り、遠い昔の偉人の栄光を我が物のようにして威張り散らすような者たちが。
「私の家は長いこと新しい子が生まれなくて、だから英雄を選ぶ闘技会に子を送り出すことができなかったんだ。そうして、ようやく生まれた私は英雄の選定に名乗りを上げる資格すらない女だった」
 彼女は再び俯いて、そして小さく呟いた。
「誰も、私のことなど必要としていなかったんだ」
 微かな声であったが、彼の耳には届いたのだろう。ユシャの手に強く力が込められた。
「そんなことはないさ! それに、今は性別など関係ない。誰でも英雄になれるじゃないか」
「だからどうした。世の中がどう変わろうが、そんなものが奴らに通用するかよ。今どき血筋に拘って、自分たちが英雄であるべきだと思っているような奴らだぞ? そんなに柔軟に価値観を変えられるわけがない」
 ユシャは何とかして彼女の言葉を否定しようとしたが、しかし世の変化にいつまでも追いつこうとしない家の者たちを実際に見て、そうして虐げられてきたアノニスからすれば慰めにもならない。
事実、あの家でアノニスは誰にも必要とされてはいなかった。それどころか邪魔者ですらあったのだから。
「あいつらのなかじゃ、いつまでたっても英雄は自分たちの血を引いた、それも男でなくてはいけないんだ」
 英雄になれない女の子供など、あの家では価値がないのだ。
「そんなことがあるか! 」
 手に強く力が籠められる。痛いほどに強く握られる手に、アノニスは少し顔を顰めたが、ユシャは構う様子などない。いや、気づく余裕などなかったのかもしれない。
「君は家の面子のためだけに生きているわけじゃない。英雄の席に座ることだけが価値じゃないだろう。家のために使えるか使えないか、そんなもので価値を決められるだなんて、そんなの道具でしかないじゃないか」
 彼は怒っていたのだ。ただアノニスのために、まっすぐに。
「そうだよ。道具でしかない。英雄のお前と同じさ」
 そう。彼も同じなのだ。。
「私はずっと英雄になりたかった。そうしたら、だれからも認められると、愛されると、必要とされると思ったから。でも、結局人々が必要とするのは英雄という偶像で、所詮安心のための信仰に必要なただの道具でしかないんだ」
誰もユシャという男を知らぬまま英雄という像を求め続けている。彼を慕い、彼が傷を負えば殊勝にもその身を案じて見せるが、その実若い少年、あるいは青年の彼が自分たちの生活のために命を懸けて戦うことを当然のように受け入れているのだ。そうしてきっと彼が手足を失い自分たちの役に立たなくなれば、きっと簡単に切り捨てるのだ。
「結局、追いかけた青い鳥は偽物だったんだ。空しいものだな。どうせ、私が英雄になったところで、一番見返したい奴らは女の私をけして認めないだろう。民だって、結局はアノニスを求めてなどくれないんだ」
ユシャが命を落とせば、彼らは悲しみに暮れるだろうが、しかし新たな英雄がその役割を担えると気づけば忘れるのはあっという間だ。アノニスがその新たな英雄になれたとして、また同じように消費されるだけ。そんなこと、本当はわかっているのに。
「わかっているのに、それでも私は、まだ英雄という名に執着していたようだ」
 心のどこかで、まだ期待をしていたのだ。その座に就けば、きっと家族を見返すことができるはずだと、皆に認められるはずだと。
希望がどこにもないだなんて、それを知ったまま生きていくのはあまりに辛すぎた。だから、ずっと気づかぬふりをして英雄の座を求めていた。
しかしそんな空しい夢も、ようやく忘れることができたのだ。だって、アノニスを認めてくれる者がいたならば、彼女が満たされたならば、そんな仮初の夢など追う必要もないものなのだから。
「お前といるのが楽しくて、お前がただ一人の私をちゃんと見てくれるのが嬉しくて、今日まですっかり忘れていたのに」
そう。彼女は間違いなく満たされていた。それでも、たった一瞬、両親を、己の中にある空白を目にしただけであの様だ。
満たされていたことが嘘みたいに、突然すべてが抜け落ちて空っぽの自分を思い出してしまった。そうして、アノニスが縋りついたのは結局英雄の座であった。
「まだこんなにも浅ましい執着心が残っていただなんて、我ながら呆れるよ」
「呆れることなんてないさ、君は英雄になる他に己の存在価値を得る方法を知らなかったんだから、仕方のないことだ」
 力強く握りこまれていた手が解放され、今度は両手で優しく包み込まれる。
「でも君は、英雄にならずとも価値のある一人の存在なんだ。本当はもっと早く、周りがそれを教えなければならなかった」
 彼を見上げる瞳の奥までまっすぐに見据えられて、アノニスは彼から目を逸らせなくなる。
「それに、君の想像通りさ。英雄になったところで君の望むものなんてきっと一つも手に入らない。英雄など所詮アイドルさ、皆偶像を追い求める彼らにとっては実物のユシャという男になど価値はない」
 ユシャは心得ているとばかりにアノニスの言葉をなぞり、英雄を求め、称える民の目に己自身の姿は映っていないのだと、あっさり肯定した。
「でも俺はそれを何とも思わないよ。彼らの生活を守るために戦う機構として求められることに、特段傷つくこともない。だから君が、あのとき怒った理由も悲しんだ理由もわからなかったけれど」
温かく包み込む手とは裏腹に、怒り、否、悔しさであろうか、どこかやるせない感情を滲ませた瞳が睨むようにこちらを見つめている。
「今ならわかる気がするよ」
その怒りも、悔しさもアノニスに向けたものではない。
「君を道具としてしか見てこなかった者たちのことが、自分たちのために利用できるかそればかりを考えて、君の命も心も軽んじる者たちが許せない」
 彼は、そっと彼女の手を離すと、それを背中へと回した。
 ぎゅっと、正面から抱きしめられたアノニスの耳元で、ユシャはまだ言葉をつづける。
「何者かになるということは、何かの偶像の形に収まるということさ。結局誰も君を見たりはしないんだ。アノニス、君は英雄でも従者でもない、アノニスとして認められるべきなんだ」
 何者かになんてなるべきではない。なる必要もない。だってアノニスはもうアノニスなのだから。そうユシャは言うけれど、それを簡単に認めることができたならこんなに簡単に揺らいだりはしていない。
「なぁ、お前に頼まれてた宿題。いま出してもいいか? 」
 一見何の脈絡もなく過去の約束を引っ張り出せば、さすがのユシャも戸惑いを見せるだろうか。
「もちろんさ! 」
そう考えていたが、しかし彼は嬉しそうな顔でパッとアノニスの体を離す。そうして期待の目をこちらへ向けていた。
「なんだ。何をしてほしい? 」
「英雄でも従者でも何者でもない。アノニス自身の価値を、アノニスに教えて」
 ユシャがどれほど真剣に言葉を紡いでくれたところで、そんなに簡単にはアノニスも変わらない。だってずっと英雄になることだけを考えて生きてきたのだ。そうしなければ自分の価値は認められないと、ずっとそう考えてきた。それを簡単にひっくり返すことができるならば苦労などしない。
 アノニスが自信をもって己の価値を誇れるまで付き合えと、彼女はそういうのだ。フルーツタルトを買ってくるなんてかわいいお使いと、比べれば釣り合わないほど破格に根気を要する宿題であったが、彼はなぜだかわからないが相変わらず嬉しそうに目を輝かせていた。
「そんなこと、本当に頼まれてしまっていいのか? 」
「普通そこで喜ぶか? 」
 あまりにも彼が嬉しそうなので、アノニスは訝しんで彼の意図を探った。
「そりゃあそうさ、君にこんなふうに頼ってもらえるだなんて嬉しいに決まっているさ」
「お前って、変なやつだよな」
「君が魅力的なだけさ。君に頼られたら誇らしいし、特別な役割を与えられたら己惚れてしまうよ」
 アノニスにはわからないけれど、彼があまりにも幸福に瞳を溶かして、甘くドロドロに煮詰まった目でこちらを見下ろしているものだから、それ以上に水を差すことは憚られた。
「君はまだ信じられなくても、俺にとってはそれほどの価値があるんだ。君にはね」
 この気持ちのすべてを君に教えていいんだろう。と彼はそれはそれは嬉しそうにほほ笑んでいる。もしかすると、これはこちら側にも相当な覚悟が必要な宿題を出してしまったのやもしれない。
「ああ、その。お手柔らかに頼むな」
 そんなことに気づいたところで、いまさらあんなにご機嫌な彼からそれを取り上げることなどアノニスにはできやしないのだが。
「知らない間にそんなに表情豊かになっちゃってさ」
 あんなに露骨に喜ぶ表情や悲しむ表情を見せられては、無下にはできない。
「そうか。俺は君の知っているところでしか表情豊かではないと思うが」
 それは薄々アノニスも気づいてはいたが、まさか本人に自覚があるとは思っていなかったので、アノニスは驚いた。
「だって君といるといろんなことを感じるんだ」
「やっぱり変な奴。私とお茶会するより楽しいことなんて、世の中いくらでもあるぜ」
「そんなことはない」
 彼女の発言はお気に召さなかったようだ。わかりやすく不満を顔で表すものだから、アノニスはなんだか面白くなって、堪えきれずに笑ってしまった。
「わかったよ。お前が私のことを気に入ってくれてることはさ」
 つくつくと肩を震わせながらも、ユシャのご機嫌を取ろうとアノニスは謝罪をした。
「もっと、もっとわかってもらわないとな。君からの宿題だ」
 彼も特に気を悪くした様子はなく、彼女の謝罪を受け入れて一緒にくすくすと笑いだす。

「ありがとう。本当はお前になんて会いたくないと思ってたけど、でもお前が強引に会いに来てくれてよかったよ」
 ひとしきり二人で笑い、落ち着くと彼女は少し居住まいを正した。そうして、気恥ずかしそうに顔を俯かせユシャへ感謝を述べる。
「俺も、ちゃんと君と向き合う機会ができてよかったよ」
 もし彼がこの場へ踏み込んでいなければ、きっとアノニスは何もかも負の感情を隠して明日からもユシャの友人のふりをつづけただろう。二人の間に開いた見えない溝はそのままにして。
「俺を頼ってくれたエスワールに感謝をしなくてはな」
 彼女が縋ってくれたからこそ、ユシャは彼女の異変に気付くことができたのだ。そうして、二人は三年目にしてようやく互いの本当の顔を見据え本当の意味で出会うことができた。
「そうだ。エスに謝らないと、傷つけたよな」
「まぁ、俺には泣きついてきたからな」
「かわいそうなことをした。すぐに謝りに行くよ」
 立ち上がったアノニスの顔を見上げ、ユシャはその背中を追う。
「俺も行く。それから夕食だな。食堂はまだ開いているだろうか」
「あー、そうだな。それも急がないと」
 まるで何もなかったかのように普段の温度で会話が始まる。
 そのまま何でもないようにいつものペースで歩く、少し足の長いアノニスの半歩後ろを追うようにして、ユシャが扉を潜れば、もう暗く冷たい一人の寝室には誰も残ることはなかった。

目覚めの年

一、

 歓声が包む闘技場の中で、今年もやはり二人の男女が向き合っている。
 男は、六年目の英雄の座を死守するために中心で剣を構えた。対する女は四度目の挑戦だ。今度こそその座を手にせんと目の奥を光らせている。
 対峙する二人の緊迫した空気を、解説者がそれぞれの立場を踏まえそう語った。
 構図としては確かに間違いない。立場上で言えばその通りであったが、しかし二人にとってはそんなことどうでもいいものなのだ。英雄の座など最早この場で向かい合うための口実であり、勝てば勝手についてくるおまけのようなものでしかない。
 昨年まで異様なほどに瞳の奥で執着を燃やし、ユシャを通して英雄の座をにらみつけていた彼女の瞳は、しかし、あのぐつぐつと煮えたぎるマグマのような熱をすっかり失っていた。今は一点の曇りもなく、透き通るように美しい赤が煌めいて、向かい合うユシャと同じようにバチバチと音が聞こえそうなほど光がはじけ、輝いていた。
 その瞳を見れば一目瞭然である。彼女もユシャと同じ気持ちで向き合ってくれているのだと、当然のように理解することができた。英雄ではない、ただ一人ユシャという男と向き合ってくれているのだと。
 彼はただそれが嬉しくて、そして何より楽しくてたまらなかった。
執着の荷を捨てた彼女の華麗なステップは美しく、軽やかに舞うように剣を振るう彼女はこれまでよりもずっと強敵であった。
嗚呼、なんて楽しいのだろうか。永遠にこうしていたいと思うほどの仕合。ユシャが強く踏み込めば、彼女はひらりとかわし、重く切り込めば、軽やかにいなす。
 かつてないほどに長く、一昨年よりも、昨年よりも、一層洗練されどちらが勝つともしれない接戦に、観客たちもみな揃って熱狂した。

 そうして、躱し、交わり、繰り返された長い長い戦いの末に、漸く一人の勝者が決まる。



皆が立ち上がり一際大きな歓声が沸き上がる中、拍手と紙吹雪が降り注ぐ中で、最後まで立っていたのは果たしてどちらであっただろうか。

英雄になりたかった女

英雄になりたかった女

年に一度行われる闘技会によって決定される英雄。 伝承を元に脈々と続いてきた伝統あるそれは、いまや民間企業の広告塔であり、アイドル的な存在であった。 徹底したイメージ戦略に作り上げられた虚像。本来は剣術の腕が突出しているだけのただの子供であったが、 英雄への人々の熱狂ぶりは凄く、もはや信仰の域にまで達しているようなものもいる。 そんな世界で生きる 英雄を演じるどこか人としてかけた少年と、何者かになりたい女の話

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 始まりの年
  2. 芽生えの年
  3. 出会いの年
  4. 目覚めの年