クローズド・ハザード

香月 鐘二郎

  1. 序章 密室
  2. 第1章 友人
  3. 第2章 殺人
  4. 第3章 凶人
  5. 第4章 快人
  6. 第5章 闘人
  7. 第6章 封人
  8. 第7章 賢人
  9. 第8章 解人
  10. 終章 開室

序章 密室

 密室。
 それは物理的もしくは心理的に密閉された空間のことである。端的にいえば、鍵のかかった部屋ということになる。
 そこには外部から入れないし、内部からは出ることができない。
 そういう意味からすれば、その部屋は密室であったということになるだろう。

 地下室のその部屋は倉庫のようであった。
 1階は廃棄された自動車の民間車検工場である。工場とはいえ、想像するように大きなものではない。車検サービスを行う個人経営の小さな民間認証工場だ。
 70平米ほどの敷地の半分に2柱のリフトを備え、残りの部分にはスリップテスターやオパシメーターなどの測定機器が置いてある。
 とはいえ置いてある機器は古く、半ば錆び付いている。
 そう、その工場が使われなくなってから、かなりの時間が経過しているのだ。違法改造の摘発を受け、その会社はとうの昔に倒産しているのであった。
 2階には事務所があるが、そこにも随分とひとの出入りはない。廃屋であり、だからこそ犯罪者たちの温床として利用されたのであろう。

 さて問題の地下倉庫は1階のほぼ半分程の広さであり、工場内からコンクリートの階段で降りられるようになっている。
 降りた先には鉄製の門扉があり、中からスライドバーで固定されていた。
 室内からスライドバーでロックされると、外から開くことは出来ない。そのため現場に踏み込むために、エンジンカッターで門扉の一部を切断する必要があった。現場確認が遅れたのは、その作業に時間が掛かったせいである。

 倉庫は10帖ほどの広さで全面コンクリート造りだ。地下室だからもちろん窓はない。出入り口も入ってきた鉄製の門扉以外にはない。
 室内の片隅にはステンレス製の流しが設置されている。排水口は直径20センチほどの大きさで、流しの底から下水溝へと続いている。
 剥き出しの換気ダクトは、流しとは反対側の真上から天井を縫うように走り、門扉のあたりで壁の中に消えている。壁の内側を通って、1階の換気ダクトに連結されているのだろう。
 換気ダクトは30センチ四方ほど。格子があって、いずれにしても人の通れる大きさではない。
 天板はなくコンクリートの天井部は剥き出しで、天井を這わせた配電菅から、直接数本の蛍光灯が吊り下げられている。
 明かりは点いていたので室内はよく見渡せた。

 倉庫の中には、古タイヤやエンジンの部品。バッテリーやジェネレーターなどの機械類が雑多に置かれている。いずれも壊れて使い物にならなくなった粗大ゴミだ。その他にはオイルの廃液が詰まったドラム缶やら、何やら機械類が収められていただろう木箱類。モンキーレンチやスパナーの入った工具箱。バールや大型ハンマー。各種のレンチにコンプレッサーなども転がっている。

 その部屋の真ん中に、手足を拘束された女性が首を縛られて昏倒していた。床にブルーシートがひかれ、その上に横臥していたのだ。
 発見時にはすでに心肺停止の状態で、一応救急車を手配したが手遅れであろうことは一目瞭然だった。
 女性の両手は手首のところで固く縛られ、足首にも同様のロープが巻かれていた。しかも足首を縛ったロープの先は、さらに長く伸びて女性の首に絡みつき、彼女の呼吸を停めたのである。

 そこで問題となるのは、この事件の犯人はどこから脱出したのかということだった。
 先程も述べた通り、この部屋は全面がコンクリート造りで出入り口は1箇所しかない。鉄製の門扉には、これまた鉄製のスライドバーが内側から掛かっており、外からそれを外すことは出来ない。ということは、外からそれを掛けることも出来ないということだ。
 しかし犯人は確かにそこに存在していたはずである。
 倉庫に出入りできる場所が鉄製の門扉しかない以上、犯人はそこから逃走したとしか考えられない。そうだとしたら外へ出た犯人は、どうやって外からスライドバーを掛けることが出来たのか?

 推理小説などではよく、紐や糸などを使って外側から鍵を掛けるトリックが紹介されているし、事実、排水口や換気口を通してロープでスライドバーを動かす方法が立案され何度か試みては見たのだが、スライドバーとそれらの位置、力の伝わり方等のことからそれが不可能であることは立証された。
 そもそも鉄製のスライドバーはすっかり錆び付いており、内側からまともに閉じようにも相当の力を加えなければ閉めることは出来ないのだ。
 そうでなくとも、そのようなトリックが使用される余地のないことは後に証明されるのだ。

 もちろん倉庫内の壁や床や天井に、ひとの入れるスペースがなかったどうかは徹底的に捜査された。例えば点検口のような穴やピットのような窪みがなかったかどうかであるが、もちろんそのようなものは存在しない。また、室内にある多々なる物品、種々の機械類や木箱やドラム缶なども調べられたが、ひとの隠れていた形跡はなかった。
 つまりこの部屋は完全な密室だったわけである。

 とはいえ密室自体には、たいした意味はなかった。
 何故ならこの事件の犯人は、最初から分かっていたからだ。その犯人を捕らえ、その口から真実を聞き出せばいい。
 警察当局はそう考えていた。最初は、だ。
 しかし「犯人が分かっていた」というその事実自体が、この密室事件をさらに複雑なものにすることに、やがて彼らは気が付くことになるのだ。
 ところで犯人が分かっていたという理由は、その工場の地下室へ入る人間を目撃していた人物が存在したからである。
 しかもそれは刑事であった。

 ふたりの刑事がある人物を尾行していた。
 その人物は某反社会的勢力の構成員であった。この男が前述の女性を誘拐・拉致監禁している可能性があるということで、ふたりの刑事がマークしていたのだ。
 工場の前面のシャッターが半分ほど開き、男はシャッターを潜って中に入った。開いたシャッターの隙間から地下室への階段を降りる彼の後ろ姿が、尾行する刑事たちの目にもはっきりと写っていた。
 それから暫く、ふたりは中の様子を伺って工場の外で張っていたが、なんの音沙汰もないことからそのうちのひとりが様子を見る事とし、地下室へと続く階段へと足を進めた。

 くどいようだが、その時点で階段から上にあがって来た人物は誰もいない。
 階段の下は3帖ほどの踊り場になっており、すぐ右側が個室のトイレになっていた。刑事はまずトイレの中を確認し、誰もいないことを確かめた。
 それから正面の扉に向かう。それは鉄製の引き戸であり、固く閉じられていてビクともしない。その時点ですでに、スライドバーは掛けられていたということであろう。

 耳を寄せると、中からは微かに声が聴こえる。
 ひとつは女性の声で、悲鳴をあげているようだった。潜もった男性の声もそれにかぶさるように聴こえてくる。
 こちらは先程地下室に入ったとみられる、反社組織の構成員の声だろうか。
 それと前後してドンドンという、何かを床に叩きつけるような音。あるいは素手で何かを殴りつけるような音が聴こえてくる。
 男が監禁している女性に暴力を加えている、と判断した刑事は鉄製の扉を叩いた。

「警察だ。ここを開けろ」
「どうしました?」
 相棒の刑事が顔を出す。
「奴は中だ。人質の女性が危険だ。応援とここを開けるもの、何かないのか?」
 相棒はすぐに隣の金属加工工場からエンジンカッターと職人を借りて来た。その間にも部屋の中からは、先ほどのドンドンという音の他、何かを床に擦りつけるようなズリズリという音が聴こえる。女性の声や反社組織の構成員のものとみられる男の声はもう聴こえない。
 
 やがて準備が整い、丸鋸が回転をはじめた。鉄製門戸の表面から火花が飛び散り、断面が次第に大きくなる。
 高鳴るエンジンの音と鉄扉を切り裂く金属音に遮られて、もはや室内の音は聴こえてこない。
 そして鉄扉の一部が切断され、倉庫の中がわずかに覗けた。
 部屋の中央に女性が倒れている。犯人の姿はどこにも見えない。
 刑事は切断部から腕を差し込んで扉のスライドバーを引き抜いた。
 しかし、事件の犯人とみられる反社の男は、倉庫の中のどこにも居なかった。

 彼がこの部屋に入ったであろうことは確実であった。地下室への階段を降りるところまでは確認しているのだ。
 階段を降りた以上、この倉庫に入る以外はどこにも行けない。もちろん隣のトイレには行けるのだが、そこに誰もいないことは確認済みだ。
 それに倉庫の中からは男女の声と、彼らが立てたであろう物音が確かに聴こえたのだ。
 彼が確かにそこに居たことは明らかだった。
 そしてふたりの刑事がそれを目撃したということは、それが二重の密室であることを示している。
 先程ロープのトリック等で、扉の鍵を掛けるのは不可能だったといったのはこのような事情による。犯人にそのような小細工を弄する、時間的余裕はなかったのである。
 鉄の扉と、刑事の視線。
 このふたつの難題を突破して、犯人はどこに消えたというのだろう?

 これがこの物語の主題である。
 ただし、この密室が登場するのは物語の後半である。それまでの記述は、この密室を構成するために必要な事柄(伏線を含めて)を、説明することに終始している
 そのつもりでこの物語を楽しんでほしい。
 最後にこの物語は、拙作「鬼娘」の続編にあたる。この序章を読んだ方は一度読書を中断して、「鬼娘」を先に読むことを推奨する。

第1章 友人

 雨上がりの空に、珍しく青空の片鱗が顔を覗かせている。
 街角に木々の葉間からは、雨だれの代わりにうっすらとした陽光が、濡れた路面を照らしていた。
 2014年6月末の昼下がり、二階堂真樹乃(にかいどう・まきの)はオープンテラスのチェアーに腰掛けて、午後のティータイムを楽しんでいた。
 もちろんいくら週休の昼過ぎとはいえ、彼女にティータイムを楽しむような趣味があるとは思えない。この日は愛車のドゥカティ・モンスターを駆って、少々遠出をしようと目論んでいたのだが、走り出した早々アイドリングが不安定になったのだ。
 仕方がないので環八沿いの馴染みのバイク屋に持ち込んだ。
「あちゃ。キルスイッチ、やっちまったね。こりゃ、交換するしかないかな」
 往年の萩本欽一のように目尻の垂れた店のオーナーはそう診断した。それで修理の間の時間つぶしに、こんなところで携帯ゲーム器のレベル上げに奮闘しているという訳だった。
 砧公園に面した商業ビルの1階は、外資系カフェのチェーン店がはいっている。真樹乃はまるで知らなかったのだが、最近若者の間では人気のカフェだ。ニレの木陰に陣取って、ロールプレイングのモンスターを叩いていると、頭の上にサッと影が射した。
 胡散げに振り仰ぐと、色白のきれいな少女の顔が笑いかけている。
「なんだ、てめえ」
 真樹乃は途端に不機嫌になる。
「こんにちわ、刑事さん。久しぶりですわね」
 少女は不機嫌そうな真樹乃を無視して、白いフリルの付いた日傘をたたむと、栗色に染めた髪をフワリと揺らして彼女の前の席に腰を下ろした。
 今日の彼女は白っぽいジャンパースカートに丸襟ブラウスをあわせてる。襟元にはレースのフリルネック。足元はフリル付きのハイソックスに赤いハイヒールと完全無欠なロリータだ。ブラウスの袖からからスラリと伸びた二の腕や、スカートからのぞく生脚がなまめかしい。
「おいおい、勝手に座んなよ。他にいくらでも席、空いているだろ」
 真樹乃はゲームの画面に目を戻しながら言った。
「いいじゃないですか。知らない仲じゃなし」
「知らねえ仲だよ」
「いやだわ。私のこと、散々いじめたくせに」
「こら、静香。人聞きの悪いこと言うな」
 この静香という少女、銀座のKAGEROUという名のクラブのキャストである。昭和の言葉でいえばホステスということになる。
 3ヶ月ほど前、ふたりはある事件を通して知り合った。
 静香の所属するクラブの後輩が自宅で自殺し、その遺体を発見したのが彼女なのである。その後、二子玉川で起きた殺人事件の被害者が、自宅で自殺した後輩の交際相手であることから、ふたつの事件の関連性から静香は真樹乃の取り調べを受けることになったのだ。
 ふたりの関係はそれだけであった。別に友達でも何でもない。
 ちなみにロリータファッションは彼女の趣味でもある。
「あ、でも静香というのはお店の名前で、本名は・・・」
「知ってるよ、姫崎鈴音(ひめざき・すずね)というんだろ」
 静香いや姫崎鈴音はニコリと微笑んだ。
「知ってるんだ、やっぱ。調べてくれたのね。嬉しいわ」
「あー、てめー。死んじまったじゃねえかよ。どうすんだよ、コラ」
 はじめて真樹乃は画面から目を離して静香を睨んだ。どうやら彼女のアバターがボスキャラに殺られたらしい。
「お前なあ。あたしは刑事だぞ。調べたのはお前が胡散臭いからに決まってんだろ。わかってんのか?」
 そう。二階堂真樹乃は警視庁捜査一課第8強行犯捜査係、通称「ダイハチ」の刑事なのだ。
「もちろん、わかっていますわ。ということは私が桜木の養女ということも知ってるのね」
 指定暴力団・渋谷一心会の桜木統括本部長は彼女の養父だった。
「ああ、知ってるよ。前に言わなかったか」
「じゃあ、よかった。私と仲良くしておくと、なにかいいことあるかも」
「ふ~ん」
 真樹乃は目を細めて鈴音の顔を見詰める。
「逃げた3人の行方でも告る気になったか?」
「あの3人、まだ見付からないのね」
 彼女たちの言う3人とは、先程いった二子玉川で起きた殺人事件の容疑者たちである。殺害現場から散り散りに逃げていることは、近辺の防犯カメラに写っていたが、あれから3ヶ月経つ現在もただのひとりも発見されてはいない。(拙作「鬼娘」参照のこと)
「ああ。残念ながらな。まあ、お前さんがゲロってくれれば話は楽なんだがな」
「前にも言ったけど、私はなにも知らないのよ」
「あ、そう。じゃ、用はねえよ。とっとと帰んな」
「もう、意地悪なんだから」
 そう言ってプゥっと膨れる。アキバ系の童貞男子ならキュン死状態だろうが、あいにく女の真樹乃には通じない。
「実はね、私を守ってほしいのよ」
「はあ?」
 真樹乃は驚いて鈴音の顔を二度見した。
「何言ってんの? お前」
「私ねえ、ストーカーに狙われているの」
「なにぃ?」
「お願い、助けて」
 鈴音は胸の前で手を合わせて見せた。
「ちょ、待て。お前、峯岸というストーカーに狙われたのは、駒草とかいうお前の後輩だろ」
「そう。その人に今度は私がストーカーされているのかも」
 その駒草というのが先程いった自殺した後輩のキャストだ。本名は市井真由香。彼女は峯岸高文というストーカーを苦にして自らの生命を絶ったのだ。
 そして、その峯岸という男は。・・・
「峯岸といえば、お前。ニコタマのヤマのホシじゃねえか」
 二子玉川で起きた殺人事件の主犯格が、その峯岸という男であることはわかっていた。行方不明の3人のうちのひとりが彼なのだ。
「つまり逃走中の峯岸が姿を現し、今度はお前をストーキングしているということか?」
「そう。私の周囲を見張っていれば、そいつが姿を現すかも。ね、私と仲良くしてるといいことあるでしょ」
 にわかには信じ難い話である。あれから3ヶ月、玉川警察署が血眼になって捜索しても発見できなかった男である。
「お前なぁ・・・」
「なあに」
「お前の言うことはアテにならないし、第一あたしはお前のことを信用してないからな。てかお前、また何か企んでいるんじゃねえのか?」
「ひどーい。私は刑事さんのこと信頼しているのに」
 鈴音は泣きマネをする。
「あ、あとぉ、刑事さんのこと真樹乃さんと呼んでいいですか。私のことは鈴音と呼んで下さい」
「何いきなりお友達空気、かもしだしているんだよ」
「あら、お友達じゃないですか。私たち」
 真樹乃はあきらめてゲーム機の電源を落とした。
「ダチじゃねえっつの、まったく。・・・まあ、いいや。ちょっと話してみい」
「一週間ほど前からなんですけど」
 鈴音は話はじめた。
 彼女がそれに気づいたのは1週間ほど前、クラブの店先や自宅マンションの近辺で、その男を見かけるようになったという。
 いつも建物の陰や電柱の後ろに隠れて彼女の様子を伺っているという。
「その男の人着、ってか人相とかは見たのか?」
 真樹乃は訊いた。
「うん。身長180センチくらいの痩せた長身の男で、いつも黒っぽいトレーナーのフードを被っていたから顔まではわからないわ」
「あたしの身長はいくつだ?」
 真樹乃は立ち上がって訊いた。
「えっ。う~ん、153センチくらいかな」
「ふ~ん。まあ、目算は正確だな。で、そいつが峯岸だというのか?」
「さあ、そこまではわかんない。でも、他に心当たりないし、駒ちゃんだってあの男にストーカーされていたんでしょ」
 確かに捜査記録にある人着は、峯岸のものと一致する。しかし世の中には、身長180センチの痩せ型の男なんて掃いて捨てるほど居るだろう。
「でもなあ、こんだけ指名手配されてる峯岸が、わざわざ現場付近に戻ってくるとも思えないし」
「その人かどうかは分からないけど、私がストーカーされていることは事実だわ。それに3日前に、こんな手紙がポストに入っていたの」
 宛名のない封筒を鈴音は差し出した。
 それを受け取ろとした真樹乃は、一瞬迷ってバイク用の革手袋を取り出した。
「さすがに刑事さんね。ご自分の指紋がつかないように?」
「うるせえババアが、上司にいるんだよ」
 封筒を開くと、そこには1枚のコピー用紙にプリンターの文字が刻まれていた。

 静香ちゃん
 いつも君をみてるよ
 寝ているときも 食事をしているときも お風呂に入っているときも
 いつも いつでも 君をみているんだ
 いつか君を 僕のものにするからね
 楽しみにしててね

 ぞくり、と背筋に虫唾が走った。
「ね、気持ちわるいでしょ」
「ああ、ヘンタイだな。でもさ、寝ているときも 食事をしているときも 風呂に入っているときも、てのはどういうことだ? お前、風呂覗かれたのか?」
「まさか。マンションのお風呂に窓はないわ」
「部屋を覗かれたことは?」
「私の部屋はマンションの38階よ」
「トイメンの部屋から望遠で覗くという手もあるが」
「向かいにそんな大きな建物はないわ」
「じゃあ、盗撮だな。心あたりはないのか?」
「私もそう思って業者に調べてもらったんだけど、盗聴器も隠しカメラも無いみたいなの」
「なるほどね」
 真樹乃は頭を掻いた。
「お前さ、所轄の生活安全課に被害届は出したのか?」
「一応は警察に相談に行ったけど、ああいうのって実際に被害を受けなければ動いてくんないんでしょ。駒ちゃんだってそれで自殺しちゃったんだし」
「まあ、そう言われちゃうとな」
「だからお願い。真樹乃さんしか頼れるひとはいないの」
 そうやって悲しげな顔をされると、女の真樹乃でも思わず可哀想に思える。
 いやいや、騙されるな。こいつは魔女だ。
「まあ、取り合えず、この手紙は預かって調べてみるか」
「嬉しい。真樹乃さん大好き」
「お前に言われても嬉しくねえよ。それにな、あたしの部署はこんなことをする所じゃねえからな」
「あら。だって暇なんでしょ、ダイハチって」
 なんてことを言いやがる。そりゃ確かにその通りだが、なんでお前がそんな事を知ってんだ。
 てめえ、エス(スパイ)を仕込みやがったな。

 東京都千代田区霞ヶ関、東京警視庁総合庁舎の捜査一課長室にふたりは呼び出されていた。2日後の午後である。
 二階堂真樹乃。
 神宮匠。
 第8強行犯捜査係、通称「ダイハチ」の若い刑事ふたりだ。もともと呼び出されたのは真樹乃ひとりだが、捜査一課長の呉羽かすみが苦手な彼女は後輩の匠に同行を哀願したのだった。
 基本的に匠には苦手なものは何もない。特に面白そうだと思えば虎の口内にも平気で頭を突っ込む人間だ。
「その手紙に峯岸の指紋が着いていたというのだな」
 呉羽課長は苦虫を噛み潰したような顔でいった。とはいえ特に不機嫌というわけでもない。もともとこんな顔なのだ。
 呉羽かすみはキャリアではない。正真正銘、叩き上げの女性初の一課長だ。
 女性の地位向上と勤務公正化という社会的情勢もあるだろうが、捜査官としての彼女の実力は他を抜きん出ていた。鶴田刑事部長の強力な後押しも大きかったろう。
 ただし彼女には他所では公言できない秘密があった。
 まあ、いくら口をつぐんでも、彼女の日頃の言動をみればすぐにバレことなのだが、呉羽かすみの前身はヤンキーだった。
 エンピのクレハ。
 六本木や赤坂界隈の半グレ連中の間では、その通り名はもはやレジェンドだった。
 それら全てを承知で鶴田刑事部長は彼女を抜擢したのである。
 ちなみにエンピとは、「猿臂」という字を書く。猿の長い腕のことだ。一般的には、空手でいう肘打ちのことである。
「つまり逃走中の峰岸高文が姿を現した、と」
 クラブKGEROUの静香、姫崎鈴音が真樹乃にもたらせた手紙、脅迫文とも思える書面には指名手配中の峰岸高文の指紋がベタリと付着していたのだという。
「おい、ボウズ」
 呉羽は匠のほうに向き直った。彼女は匠のことを「ボウズ」、真樹乃のことは「クソガキ」としか呼ばない。
「おめえ、峯岸はもう死んでるんじゃねえかとか言ってたよな」
「はい。いまでもそう思ってるっす」
 匠は平然と応える。
「それに姫崎鈴音が一枚噛んでいるとも」
「はい。直接手を下だしたのは一心会だと思うすが、静香さん、じゃなくて姫崎がそれに関与していることは確実っすね」
「しかし、こうして指紋が出てきたってのはどういうことだ?」
「まあ、指紋だけっすからね。どうにでもなるっす。例えば、峯岸の指紋を付けた書類を保存しておいて、後からそれにタイプするとか」
「しかし、今更なんでこんなものが出てくるんだ?」
 呉羽は考えながら言った。
「問題はそこっすよね。何もせずに黙っていれば、この事件はそれで終わりっす。どうやったかは分からないすが、峯岸たちの死体はもう見つからないでしょう。そうなりゃ完全犯罪っす。死体がなければ殺人事件にはなりませんからね」
「にも関わらず、わざわざ奴が生きているように見せかけたってことは」
「彼女に何かの思惑があるってことでしょうね。事件をもう一度あぶりだしたかったのか。あるいは・・・」
「あるいは?」
「真樹乃先輩っす。先輩を何かに利用しようとしているのかも」
「あたしか?」
 それまで黙っていた真樹乃は大きな声をあげた。
「前回の事件では、彼女は自分や先輩をうまく使って、事件を自分の思う方向に誘導しました。今回もあるいはそれを狙っているのかも知れないっす」
「つまりお前さんもターゲットのひとりというわけだ」
「はい」
 匠は嬉しそうに言った。
「先輩を揺すれば、当然自分も関わらないわけにはいかないすから」
「おめえ、嬉しそうだな」
 真樹乃が口を尖らす。
「あ~、わかったわかった」
 呉羽は面倒くさそうに机を叩いて言った。
「おいクソガキ。お前その姫崎とかいう女と、やけに仲が良さそうじゃねえか」
「いや別に仲がいいわけじゃなく、どちらかといえば嫌い・・・」
「グチャグチャ、ぬかしてんじゃねえよ、コラァ。取り合えずお前、その女に引っ付いていろ」
「え~、あたしはあたしで忙し・・・」
「うっせえ。どうせヒマなんだろ、ダイハチなんて」
 鈴音とおんなじことを言う。

 真樹乃と匠のふたりは階下の刑事部屋に戻ってきた。
 相変わらず部屋でヒマそうにしているのはダイハチのメンバーばかりだ。
「おう。どうだった? 課長の話ってなんだ?」
「大方、独断捜査が過ぎるって叱られたんでしょ」
 高藤准二郎巡査部長が興味深そうな顔をすると、大丸庄司巡査長は詰まらなそうにパソコン画面に向かう。
「違げえよ。・・・仕事を押し付けられた」
 真樹乃は不満そうに口を尖らせる。
「ほう。それは良かった。お前ら暇だとロクなことはしないからな」
 チームリーダーである川浪琢朗警部補が、日経の紙面から銀縁メガネの目だけを出して言った。
 興味を示したのは高藤だけだった。
「で、どんな厄介事を押し付けられた?」
「それがさあ、聴いて下さいよ。高藤さん」
 真樹乃は情けない声を出す。
「よりにもよって、あの姫崎鈴音のボディガードっすよ」
「はあ? 姫崎って誰?」
「静香っすよ。クラブKAGEROUの静香。あたし、あの女苦手なんだよな」
「静香って、あの美人さん?」
 途端に大丸が食いついてきた。
「いいな。僕が変わりたいくらいだよ」
「じゃあ、変わってやるよ。あたしゃゴメンだからな」
「そうも行かないでしょ」
 匠が割り込んできた。
「向こうは真樹乃先輩、ご指名っすから」
「ご指名ってね、あたしゃキャバ嬢じゃねえんだからよ」
「実をいうとこの話、最初は自分のところにきたんすよね」
 匠はしらっと言った。
「はあ? なんだって?」
「メールが来たんす、静香さんから。何とかしてくれって。でも、ホラ、自分男すから、いろいろとまずいっしょ、彼女と一緒に居るの。だから、真樹乃先輩を推薦したんす」
「ちょっと待て。お前いま、スラーっと、すげえこと言ったな。なんだって? 最初は自分のところへ来たぁ。メールでだあ?」
 真樹乃は真っ赤になって目を剥いた。
「はい。彼女とはメル友っすから」
「それであたしを売ったのか? 殺すぞテメエ!!」
 いまにも掴み掛かろうとする真樹乃を、高藤と大丸が必死に抑える。
「どうせ先輩、ヒマしてるだろうって」
「エスはお前か!」
 蹴りを飛ばすが、上体を抑えられているから届かない。
「そこで問題は一心会なんすよねえ」
 さらりと話題を変える。
「なに話をそらしてんだよ、コラッ」
「いやね。クラブKAGEROUの駒草さん、市井真由香さんが一心会のヤバイネタを峯岸に売ったって自分の推理、覚えてます?」
「ああ。そういや、そんなこと言ってたな。それをネタに峯岸は一心会をユスって、反対に消されたんじゃないかって」
 クラブKAGEROUは指定暴力団・一心会の息のかかった店で、オーナーの春日ママは桜木会長の愛人だった。
 峯岸たち3人の半グレが行方を絶っているのは、それが原因で殺された可能性があるというのが匠の推理だ。
「そのネタというのが何なのか、イマイチはっきりとはしないんすよね」
「あの女、姫崎鈴音がそれを知ってるというのか?」
「なんたって彼女、一心会々長の養女っすからね」
「なるほどね」
 ようやく真樹乃も落ち着いてきたらしい。
「鈴音さんの目的が何なのかは不明っすが、これはまたとないチャンスっすよ」
「チャンスねえ・・・」
「うまくいけば警視総監賞もんだぜ」
 調子に乗って、高藤も水をむける。
「マジっすか?」
「よ、警視総監賞」
「わかりやした。二階堂真樹乃、姫崎鈴音のボディガードに当たります」
 単純バカ。
 大丸は聞こえないように悪態をついた。

 警視庁公安部参事官室は、本部庁舎とは別棟の別館庁舎の5階にあった。
 内堀通りに面した窓の外には江戸城桜田門の門構えが見える。その窓を背にして御子柴正義(みこしば・まさよし)参事官は、カッシーナのオフィスデスクを前にベルグファニチャーのチェアーに腰を降ろしている。
 室内はそれほど広くはない。30平米くらいだろうか。
 窓側の後方には、観葉植物の陰に日本の国旗がさりげなく置かれている。オフィスデスクの前には同じくカッシーナの応接セットがあるくらいだ。
 新堂武士(しんどう・たけし)警部はその応接セットとオフィスデスクの中間に立っていた。
 直立不動。
「そう、しゃちこ張るな」
 御子柴参事官は苦笑した。フッと笑って新堂は脚を開く。
 新堂警部は捜査一課第4強行犯捜査係の係長である。身長187センチ、体重110キロの巨漢だ。質実剛健。強者揃いの捜査一課の面々の中でも特出した存在である。
 しかし彼が公安の人間であり、御子柴参事官の肝入りである、人材登用課・通称「チェリー」のメンバーであることを知っている人間は殆どいない。
「ダイハチが動き出したようだな」
「はい。逃走中の峯岸高文の指紋が出てきたということのようです」
「峯岸は死亡していないということか?」
 御子柴は額にシワを寄せて言った。
「それは分かりません。だからこそダイハチが動くのでしょう」
「桜木の娘め、一体何を考えているのか?」
 独り言のように呟く。
「龍介はどうしている?」
「御門さんは相変わらず「陽だまりの家」を追っています」
「そうか」
 少し考える。
「動いているのは呉羽だな」
「恐らくは」
「呉羽かすみか、厄介な女だ。しかし問題は彼女じゃない。吾妻警部補のほうだ」
「吾妻係長・・・ですか?」
 新堂は首を傾げる。
 無能。無動。狸寝入りの吾妻。
 正直言って新堂はその存在すらも意識してはいない。
「お前ら若い者は知らないだろうが、あの吾妻という男は卒配当時の鶴田に捜査のイロハを教えた男なんだぞ」
「鶴田刑事部長にですか?」
「入庁以来40年ちかく、あの男は地方の警察署を回っていた。短い時は半年、長くても2年。それこそ北は北海道の苫小牧から、南は九州の鹿児島まで。そのうちの3年間だけ、東京の警察学校の教官を務めたことがあるのだが、その最後の教え子が呉羽かすみなのだ」
「呉羽捜査一課長?」
「呉羽はとんでもない跳ねっ返り娘でな、歴戦の教官たちも根をあげていたんだが、それを飼い慣らしたのがあの吾妻なのだ」
「信じられませんね」
「鶴田が一課長に呉羽を抜擢してダイハチを創ったとき、彼女は条件として吾妻を係長にと懇願したらしい」
「それほどの男なんですか?」
「気をつけろよ、新堂。あの男から目を離すな」
「わかりました」
 新堂は頭を下げたが、ふと思い出したように顔をあげた。
「あ、それからもうひとつ報告があります」
「なんだ? まだ何かあるのか?」
「はい。例の吉ヶ谷が姿を現しました」
「吉ヶ谷翔麻(きちがや・しょうま)。あの男、出てきているのか?」
 吉ヶ谷翔麻は元品川赤沼組の舎弟頭だった男であるが、12年前に殺人と傷害で実刑を受けている。非常に凶暴な男であり、ひがし東京最凶最悪の赤沼組ですら持て余したという代物であった。ドスと呼ばれる短刀術の達人であり、
 吉ヶ谷に刃物。
 と、呼ばれた男であった。
 その吉ヶ谷翔麻が2年間の沈黙を破って姿を現したというのだ。
「場所は?」
「新宿です」
「鬼政か?」
 新宿歌舞伎町「俥座一家」若頭岩倉正隆(いわくら・まさたか)と吉ヶ谷翔麻は因縁の間柄なのである。
「虎之助の期限はどのくらいなんだ?」
「あと2年ほどです」
 赤沼組の組長・赤沼虎之助は、5年前の「渋谷抗争」の首謀者のひとりとして懲役刑に服している。いまは赤沼組系赤龍会の会長である息子の虎次郎が組長代理を担っているのだ。
「わかった。そちらは何とかする。お前はダイハチのほうに集中しろ」
「了解しました」
 新堂警部は敬礼をして部屋を出ていった。
「さてと。聴いていたな?」
 御子柴は隣の部屋に声を掛けた。
 隣室の扉が開き、長身の女が入って来た。尻まで届くような黒髪を束ねて白い和紙で包んでいる。
 純白のスーツに同じ色のコートを羽織っている。一見すると神社の巫女のような雰囲気だ。
 しかしその小さな白面は能面のように無表情だった。
「龍介に知らせてやれ」
「新宿ですか?」
 鈴の鳴るような声。
「ああ、面白くなるぞ」
 御子柴警視正はにこりと笑った。


 
 青空の谷間を白い雲が流れている。
 雲の流れは梅雨の季節を吹き飛ばすように、空の蒼さは初夏の煌めきを取り戻しているようだ。
 空の色が鏡のような海面に映えている。
 東京江東区有明。海浜公園に面した高層マンションの38階の窓からは、陽光に照らされたレインボーブリッジが観える。
「こりゃ、億だな。うん、億はくだらねえ。億だよな。億だね、やっぱし・・・」
 幼稚園のプレイルーム程もあるリビングから観える富士山のシルエットを、ぼんやりと眺めていた二階堂真樹乃は思わずそうつぶやいてしまった。
 銀座のクラブ「KAGEROU」の静香こと姫崎鈴音の自宅マンションだ。
 先週、鈴音から電話があって、六本木でお茶をした。その時、お台場の自宅マンションに招待されたのだ。
 この馬鹿みたいに広いリビング・ダイニングの他、10帖ほどの寝室と8帖の別室がある。
 ビング・ダイニングはざっとみたところ30帖はありそうだ。ジャングルと見紛うほど観葉植物の鉢で埋まっている。
 ぎゃあ、ぎゃあ、とうるさいと思ったら、天井から吊り下げられた籠の中には、緑色の大きなインコが羽ばたいている。
 一段低くなった下の段には、天井まで届く大きなガラス窓に向かって、豪華な革張りのベンチソファがならんでいた。真樹乃はいま、そのソファーに座って窓からみえる富士山を眺めているのだ。
 先程ちらりと覗いたところでは、隣の寝室にはクィーンサイズのダブルベットが置かれていた。真樹乃がみたところ特定の男の影はなさそうだが、あの鈴音のことだから、その気になれば幾らでも男を引きずり込むことは可能だろう。
 そしてそれは紛れもなく彼女の武器なのだ。
 それくらいのことは真樹乃にもわかる。
 なんでこんなにも鈴音のことを嫌うのだろう。と、真樹乃はあらためて考える。
 男をたらし込む。それは逆立ちしても真樹乃にはできない芸当だ。
 女としての武器は、自分は鈴音に圧倒的に劣っている。それが分かるからこそ、彼女に対して嫉妬にも似た憎しみの感情を抱くのか。
 では、自分が鈴音に対して優っている武器とはなにか?
 喧嘩か?
 喧嘩なら鈴音には負けないだろう。
 真樹乃はこと喧嘩に関しては他人に負けたことはない。
 故郷の会津湯川では「湯川の鬼娘」と呼ばれて恐れられたものだ。中学3年の夏休み、福島県を縦断する阿賀川のほとりに、地元の不良高校生十数人を向こうに回しての大乱闘は、いまでも地元の語り草になっている。
 しかし喧嘩で勝てたとして、それが何だというのだろう。
 お互い中学生や高校生のガキではない。
 家主の鈴音はまだ姿を現さない。寝室に籠って着替えをしているらしい。
 真樹乃は手持ち無沙汰に室内を物見することにした。
 隣室の8帖には、ルームランナーやトレーニングベンチなどが置いてある。隅にはダンビルやエキスパンダーなどもみられる。まるでスポーツジムのようだった。
 思わず目を見張った。
 なんだこれは、まるでアスリートのトレーニングルームじゃないか。
 真樹乃の部屋にもトレーニングベンチは置いてあるが、ここのそれはまるでレベルが違っている。プロ仕様の本物だった。
 部屋の片隅の大きな姿見の隣の棚には、トランプのカードやハットやステッキといった種々のマジックグッツが置かれている。
「なんだ、これ?」
 何重にも絡み重ねられた金属リングを手に取っていると、その肩をポンと叩く者があった。
 振り向くと、部屋着に着替えた鈴音が立っている。
 ピンクのジャージの上下。
「マジック。私の趣味なんだ。ときどき、お店でも披露するんだけど、結構評判いいのよね」
 そう言いながら真樹乃の手にしていたリングを受け取ると、クルクルと手の中で回して見せた。すると複雑に絡み合っていたはずのリングは、一枚一枚剥がれ落ちて、ついには数枚の独立したリングになっていた。
 そのリングをもう一度、宙に投げ上げる。
 それを手にしたリングで受け止めると、カランという音がして手にしたリングの中に入ってしまった。1枚また1枚、彼女がリングを投げ上げるたびにリングは結合し、とうとう全てのリングは連結してひと組のリングの束に集結してしまった。
 真樹乃はそのリングを見せてもらったが、どのリングにも切れ目はない。どうしてリングが繋がったのか不思議であった。
「へえ、見事なもんだな」
「でもね、私のもっとも得意なマジックはこれなの」
 そう言いながら手首をひねると、どこから現れたものなのか数枚の短刀が握られていた。
「ねえねえ、真樹乃さん。ちょっとそこに立ってみて」
「なんだよ。いきなり」
 そこは姿見の鏡から対面にあたる壁に、人間大のコルクボードが据え付けられている。鏡からの距離は約7メートル。
「大丈夫。マジック用のナイフだから、刃はついてないし」
 いくらマジック用といっても先が尖ったナイフが当たれば怪我をする。しかし真樹乃は平然とコルク板の前に立った。
「いくわよ」
 ニコリと笑って、鈴音は無造作に手にしたナイフを投げた。
 シュッ。ドン。
 真樹乃の頭部5センチのところにナイフが刺さっていた。
 疾いな。と、真樹乃は思う。通常のマジッシャンが投げるナイフの速度より数段疾い。
「次、いきますね」
 今度は右の耳、3センチのところにナイフが刺さる。1投目よりはるかに疾い。しかし真樹乃は瞬きひとつしない。
「おい、お前。こんなもんじゃねえだろ。もっと本気だせよ」
「そう? じゃ、つぎ、いきますね」
 その一瞬、彼女の瞳に鋭い閃めきが走ったのを、真樹乃は見逃さなかった。3投目を投じた瞬間、はじめて真樹乃は動いた。
 右に1センチ。
 次の瞬間、凄まじい勢いで真樹乃の左にナイフが突き刺さっていた。彼女の左の耳からわずかに1センチのところだった。
「きやあ、ごめんなさい!」
 鈴音は口に手を当てて涙ぐんでいる。
「つい、手元が狂ってしまって。・・・どうしましょう、私」
「なんてぇこたぁねえよ」
 真樹乃は無表情にボードに刺さったナイフを引き抜いた。
 もしも右によけなかったら、ナイフは耳に突き刺さっていただろう。彼女は本気で当てようとしたのか?
「いまのが一番良かったぜ」
 真樹乃は凶暴な牙を剥いて言った。

 その前週、真樹乃は後輩の神宮匠(じんぐう・たくみ)を居酒屋に誘ったのだ。
 日比谷駅前のご当地居酒屋だ。真樹乃の故郷の会津料理を食わせてくれる店である。
 天板のない建物で、天井近くを太い梁が走っている。木創りの壁には大きな天狗の面やら、凧やら、古時計などがぶら下がっている。中々雰囲気のある店だった。
 そこで今日のことを匠に相談したのだった。
「鈴音が家に来いっていうんだよ。どう思う?」
 正直、真樹乃は気が進まなかったが、後輩の神宮匠が妙に乗り気であった。
「いいじゃないすか、行けば」
 今日は先輩の奢りっすねー、とか言いながら地酒の飲み比べをしている。
 そのときの匠を思い出す。
「あいつ、何かを企んでいるんじゃねえかと思うんだよ」
「そりゃ企んでるっしょ」
 と、匠は言ったのだ。
「真樹乃先輩。峯岸が一心会をユスったという話っすがね。亡くなった市井さんから聴いた話だけで恐喝したと思います?」
「どういうことだよ」
 急に話題を変えやがって。真樹乃は地酒を呑み始めた。
「だから、そんな又聞きみたいな話だけで、関東でも5本の指に入る暴力団の幹部を脅そうってたって、そうは簡単にいかないんじゃないすか。知らないといわれりゃそれまでっす」
「なるほど。つまり野郎は脅迫するのに十分な証拠を握っていたというわけか」
「多分そうすね」
「その動かない証拠をネタに連中を脅したわけか。なるほど、それなら奴らも無視はできねえな」
「そこで問題は、峯岸を始末した連中はそれを手に入れたかどうかす」
「手に入れてない可能性もあるってことか?」
 そこまで深く考えたことはなかった。というか、そのことを上の連中は知っているのか?
「それは分からないすが、もしもそのブツを手に入れてないとしたらどうすかね」
「峯岸は恐喝のプロだからな。簡単には手放さないだろうな」
「そうなると鈴音さんの行動にも納得がいく気がするんすが」
 わかるような、わからないような話だ。
「すると彼女はそのブツを探している、と?」
「はい」
「ちょっと待てよ。一心会の奴ら、峯岸を殺すならブツの在処を吐かせてから殺るだろう。拷問にかけたって」
「だから、峯岸はまだ死んでいない可能性もあるっす」
 おいおい、何を言い出す。峯岸が死んだと言いだしたのはお前だろ。
「逃げたということか?」
「その可能性もあるということす。まあ、その場合は自分の推理が間違っていたということで」
「じゃあ、あの指紋は本物?」
「峯岸が本当に生きていて、鈴音さんの近くに姿を現したということは・・・」
「どういうことだよ」
「わからないっす」
 ガクリと来た。
「おいおい、なんだ? そりゃ」
「いずれにしても彼女が先輩に近づいた理由は、そのあたりにありそうっすね」
「イマイチ良くわからねえな。あの女、何を考えてやがんだか」
「真樹乃先輩。彼女に招待されているんすよね」
 なにをいまさら。
「だからそうだって言ってんだろ。あの野郎、妙に慣れなれしくってよ。すっかり友達扱いだよ」
「丁度いいじゃないすか。その時、盗聴器を仕掛けて下さいよ」
 とんでもないことを言い出した。
「はあ? 何言ってんの。そんなの違法捜査じゃん」
「これって、正式な捜査じゃないすよね」
「捜査じゃなくとも犯罪なの」
「大丈夫っすよ、バレなきゃいいんす。彼女、盗聴器や監視カメラのチェックはしたと言ってましたから、また仕掛けられているとは思わないっす」
「警官の口にしていいセリフじゃねえな」
 この馬鹿、本気なのか。
 真樹乃は思う。
 盗聴は犯罪だ。もしもバレたら懲戒免職じゃ済まなくなる。
「そのときはおめえも道連れだからな。もっともお前は懲戒なんて、屁にも思ってはいないだろうがな」
「鈴音さんはそんなことチクらないと思いますよ」
 ハア? 何でそんなことが言い切れる。
「お前、いやにあの女に詳しいじゃねえか」
「彼女がなんで先輩を招待したのか、わかります?」
「は? それがわかんないから、こうしてお前に聞こうと思ったんじゃねえかよ」
「自分が思うに、どうぞ盗聴器でも何でも仕掛けて下さいというフリじゃないすかね」
「お前、自分の都合のいいように考えてないか?」
 真樹乃は呆れて言った。
「前回彼女はヘアクリームの瓶などを使って、自分たちを都合のいいように動かしました。今回もそれを狙っているんじゃないすか」
「盗聴器の仕掛けてあることを承知で、何らかの情報をもたらそうと考えてるってことか?」
「もちろんその情報の全てが真実とは限りません。でも、それによって自分らをうまくコントロール出来ればと考えるのが普通だと思うす」
「だとしたらよ。余計まずいんじゃねえか。向こうの思う壺だろ」
「虎穴にいらずんば虎児を得ず、という故事もあるっすよ」
 そう言って匠は意味深に笑ったのだ。
 そして今、真樹乃は鈴音の部屋にいる。
 さて、どうしたものか。

第2章 殺人

 東京都新宿区、歌舞伎町。
 人類の坩堝のようなこの街の底を、沈みかかった太陽が焼いている。ゆらゆらと揺れる陽炎の狭間に、多くの人間たちが行き交っている。
 若い男、若い女。うらぶれた中年男。真っ赤な唇をした商売女。黒人、アジア人、国籍不明のエトランゼ。
 夕陽は平等だ。ひとの流れは不当である。
 街全体が何やら殺気だっている。
 ドンキー横の交差点を派手な柄のリュックを背負った若者が、キョロキョロと物見をしながら歩いている。くたびれたクリーム色のTシャツに紺色のジャケット。ジーンズの膝はほつれて穴が空いている。とはいってもダメージというわけでもなさそうだ。使い古しているうちに自然と空いた穴のようだ。
 神宮匠であった。
 警視庁第8強行犯捜査係、通称「ダイハチ」の刑事である。
 まるで地方のお登りさんのように落ち着かない。
「あ、あのう。すいません」
 迷ったあげく声を掛けたのは、洒落たスーツに身を包んだキャッチャー、水商売系のスカウトマンだった。
「なんだ? てめえ」
 彼は匠の全身を眺めて、これは田舎者だと判断し舐めにかかった。
「ここはお前のような田舎者が来るようなところじゃねえよ」
「自分、宇都宮の生まれすが」
「はあ? 何言ってんだ、お前。そんなこたぁ、どうでもいいんだよ。なめてんのか、クソが」
 キャッチャーの若者は匠の首根っこを掴む。
「おいおい、なにやってんだ」
 モメ事の匂いを嗅ぎつけて、仲間のキャッチャーたちが集まってきた。
「いやね、このガキがナンクセつけてんよ」
 ギロリとひとりのキャッチャーがガンをつける。途端に他の仲間たちも口々に威嚇し始めた。
 こういうときの連帯意識は異常に高いのだ。
「はあ? いい度胸してんじゃねえかよ」
「どこのガキだよ、てめえ」
「いてまうぞ、コラァ」
 あっという間に囲まれてしまった。それでも匠はビクともしない。珍しい動物を眺める目で見回している。
 なにも知らない子犬が、獰猛な野犬の群れにじゃれついているようにも見えた。
 それはそれで彼らの神経を苛立たせるのだ。
「因縁じゃないすよ。ちょっと人を捜しているんす」
「人だぁ?」
「はい。花柳慧一(はなやぎ・けいいち)という人なんすが」
「はあ? 花柳さん?」
 キャッチャーたちの目の色が変わった。
「てめえ、花柳さんに何の用があるんだ?」
「ふざけんじゃねえぞ、このチビ」
「事と次第によってはタダじゃおかねえぞ、てめえ」
 匠はニコリと笑った。
「知ってますよね。お兄さんがた」
「知るかよ、馬鹿。とっとと消えろ。ぶっ殺すぞ、コラァ」
 襟首を掴んだ男の目の色が変わった。
 拳を握り、その手を振り上げたとき、その腕を掴む白いスーツの腕があった。
「その辺にしとけ。そのガキ、下手に手を出すと火傷くらいじゃ済まないぞ」
「は、花柳さん」
 若いキャッチャーは思わず声をあげた。
「こいつはな、こんな顔をしてるが、ホンテン(警視庁)のデカなんだぜ。手を出せば暴行罪、怪我をさせれば傷害罪でしょっぴかれるぞ」
 男たちは慌てて匠を離した。
「よう。久しぶりだな、タクミ」
 花柳慧一は爽やかな笑顔を見せた。
 オースチンリードの純白スーツに、アイボリーホワイトのハットはジェームス ロック。白い皮靴はチャーチだ。スラリとした長身の彼は、まるでファッション雑誌から抜け出たモデルのようだ。匠は襟を直しながら振り仰いだ。
 慧一と匠は身長で15センチは差がある。
「元気でしたか、ケイさん」
「ケイさん?」
 男たちは目を白黒させた。この街で彼を「ケイさん」などと呼ぶ人間はひとりもいない。
「こんな所じゃなんだな。久しぶりに付き合え、タクミ」
 そういって慧一は踵を返した。モーゼの海のように割れた人混みの中を、歌舞伎町とは反対方向に歩いていく。慌てて匠も後を追った。
 花柳慧一は歌舞伎町のキャッチャーたちのリーダーのような立場の人間だった。
 とはいえ慧一自身にはそのような自覚はない。もともと誰かと連んで行動するのが苦手なのだ。
 通常は誰とも組まないで独りで行動している。それでも自然とリーダーに祭り上げられるのは、歌舞伎町2丁目に巣食うホストたちとの縄張り争いがあるからだった。
 歌舞伎町ホストの帝王、東条銀河(とうじょう・ぎんが)に対抗できるのは、花柳慧一をおいては他にはいないからだ。
 慧一と匠は4年程前にある事件を通して知り合った。
 慧一がスカウトした女が殺害された事件だ。事件の発見者はダイハチに赴任早々の匠であった。どう見ても慧一が犯人である状況で発見されたのではあるが、匠は慧一を逮捕するどころか証拠を隠滅し、捜査本部を無視して彼と行動を共にし真犯人を告発したのである。(詳しくは「ブラット・ムーン」を参照)
 そういう意味では慧一は匠に恩がある。
 慧一は新宿3丁目のバーに匠を連れ込んだ。
 バー「クリスタル」である。
 細い路地の突き当たりにある、古い雑居ビルの地下だった。開店前で店の扉は閉まっていたが、慧一は躊躇なくドアを開けた。
「まだやってないよ」
 思いの他若い男の声がする。どうやらカウンターの下に潜って仕込みの準備をしているらしい。
「おい、遠慮せずに入れよ」
 入口で躊躇していると慧一が声を掛けた。
 細長い店である。入口から奥に向かってカウンターが伸びている。どん詰まりの扉はトイレに続くドアだろうか。
 カウンターは7~8人も並べばいっぱいであった。スツールのすぐ後ろはベニアの壁である。
 壁にはスツールの分だけ、コートを掛ける釘が打ってある。
「なんだ、兄貴でしたか」
 カウンターから顔だけを出して男がいった。
「マコト。珍しい奴を連れてきた」
「やあ、お久っす、マコト君。へえ、このお店、マコト君が継いだんすね」
そこはかってパク・ビョンチョルという北朝鮮の男がバーテンダーを勤めていた店だったが、彼が死去してからは慧一の弟分だった相馬誠という男が後を継いで雇われマスターを勤めているのだった。
「お久しぶりです。タクミさん」
「そういえばマコト君。結婚したんですってね、おめでとさんす」
 匠と慧一はカウンターに並んで腰を降ろした。
「ありがとうございます」
「奥さんは、あのユキちゃんなんですって」
「はい。お恥ずかしい」
 誠は恥ずかしそうに頭を掻いた。そのユキという女の子は匠も知っている。タイ国の出身で例の殺人事件のゴタゴタに巻き込まれ、一時は生命さえも危うかった。結局は慧一や匠の活躍でなんとか危機は脱した。そのとき身体を張って彼女を守ったのがこの相馬誠なのだ。
 いまでは籍を入れてユキの国籍取得に奔走している。
 3人はしばらく積もる話に花を咲かせていたが、慧一が煙草に火を付けると本題を即した。
「で、俺に用とはなんだ?」
 お冷かわりのバトワイザーで喉を潤してから匠が応える。誠は気を利かせて席を外した。
「はい。俥座一家の岩倉政孝さんを紹介してほしいっす。ケイさん、仲がいいんでしょ、鬼政とは」
 歌舞伎町俥座一家。
 様々な反社組織がしのぎを削る歌舞伎町で最強といわれた組織である。終戦後旧角筈1丁目の北半分と、その北に隣接する東大久保3丁目を統合した土地に歌舞伎町を創った時、その土地を守る守護神として浅草の「だるま組」から別れてこの土地に根を降ろしたのが俥座一家だった。
 俥座一家の親分は代々「火車(ひぐるま)の仁吉」を継承している。
 現在の7代目の仁吉は、歴代の仁吉の中でも最強の呼び声が高い。わずかに20数名ほどの小さな組にもかかわらず、数百はあるとされる歌舞伎町のヤクザ組織を締めているのは、この仁吉の名声も去る事ながら、俥座一家最高幹部のひとり、鬼の政孝こと「鬼政」の存在が大きい。
「別に特段、仲がいいってわけでもねえけどよ。お前、鬼政になんの用だ?」
「渋谷の一心会について知りたいんす。自分、そちらの事情には詳しくないし、新宿署の先輩は転属になったすから」
 唯一の知り合いだった新宿署組織犯罪捜査課の鬼島刑事は、2年前に足立警察署に移動になっている。
「本庁にも組犯の仲間はいるだろう?」
「自分、嫌われものっすから」
 なんとなく納得できる。慧一もそうだが、組織というのはそこからハミ出す者を嫌う。それは警察もヤクザも一緒だ。
 それが嫌なら自分のように一匹狼を気取るしかない。
 もちろんそれには相応の実力が必要だ。そうでなくてはあっという間に潰されてしまう。
「しかし、気おつけろよ。いまは奴もこの街も、殺気立っているからな」
 慧一は携帯を耳に当てながら言った。
 そういえば先ほどのスカウトマン達も妙に殺気立っていた。
「何かあったんすか?」
「ああ、ちょっとした厄介事だ」
 それから携帯で少し話してから、改めて匠のほうを向いた。
「吉ヶ谷翔麻という男を知っているか?」
「さあ、知らないすけど。何者っすか」
「元赤沼組の舎弟頭だった男だ。「吉ヶ谷に刃物」と呼ばれた凶暴な男でな、殺人で実刑を食らっていたんだが、2年前に出所してから行方がわからなかったんだが、最近この近辺に姿を現したらしい」
 慧一は2本目の煙草に火を付けた。
「12年ほど前になるのかな。その男がこの歌舞伎町で女を殺した。当時、俥座一家の組員の情婦だった女だ。この吉ヶ谷という男、少しサイコの気があるらしくてな、女はこう、股下から胸まで真っ直ぐに切り裂かれて、内蔵が剥き出しにされていたらしい。それでまあ、鬼政が出張って野郎を半殺しにしたんだが、いまでもそれを恨んでいるという話だ」
「それでその吉ヶ谷という男が、鬼政さんに報復に現れたということですか?」
「まあな。浅草だるま組の構成員が、新宿2丁目で奴を見かけたというんだ。それでこの騒ぎよ」
 新宿の街がなんとなく殺気立っているのはそのせいか。
「でも、あれっすよね」
 匠は首を傾げて言った。
「出所して2年間も音沙汰無かったんしょ。それがまた、なんで今になって姿を現したんす?」
「さあな。実をいうと俺もよくは知らないんだよ、その吉ヶ谷という男のこと」
「ふん、俺も知らねえぜ」
 背後で獅子の咆哮のような声が聴こえた。
 

 振り返ると巨大なグリズリーのような巨人が、入口の夕日をバックに立っていた。
 身長は2メートル近い。体重なら150キロはありそうだ。
 背中に焔を纒った御車の柄のついた袢纏を羽織っている。「火車(かしゃ)」という妖怪の絵柄である。
 罪人の霊魂を地獄へ運ぶという化物だ。
 短い髪。四角い顔。鋭く尖った瞳。
 見つめられただけで、並みのチンピラなら小便を漏らしそうだ。
 鬼の政孝こと岩倉政孝である。
「あんたが神宮さんかい?」
 鬼政は人懐こい笑みを浮かべながら匠の隣に腰掛けた。彼が座るとスツールが苦しそうに軋む。
 どうやら慧一が携帯で呼び出したらしい。
「噂は慧一から聴いている。ずいぶんと変わったデカさんらしいな」
「はじめまして、神宮っす」
「岩倉だ」
 ふたりは握手した。鬼政の手はグローブのように大きく、岩のように硬かった。
「おす。お疲れさまっす」
 誠が直立不動になって挨拶した。
「おう、マコト。俺にもビールな。で、なんだ? 俺に訊きたいことってのは?」
 匠はニコリと無邪気に笑った。
「岩倉さんて、喧嘩日本一とか呼ばれてるみたいすが、親分の仁吉さんと闘ったら、どちらが強いんす?」
 鬼政の顔色が変わった。
 その疑問は彼らを知る者にとっては共通の話題であった。しかし表立ってそれを聞くものはかって一人もいない。
 もちろん禁句だ。怖くて誰も訊く者はいない。
 それをこの男は初対面というのに、まるで子供のようにあっさりと聞いてしまったのだ。
 慧一が慌てて脚を蹴飛ばす。鬼政が怒りだしたら誰にも停められない。さすがの慧一も蒼白になった。
「おい、馬鹿。タクミ、やめとけ」
「だって、ケイさんだって知りたいでしょ。地上最強といわれているふたりが闘ったらどちらが勝つのか?」
 怒りで真っ赤になった鬼政だったが、赤児のように無邪気な匠の顔を見ているうちに、何やらおかしくなってつい吹き出してしまった。
「いやあ、まったく面白れえ男だな。えっ、慧一よ」
「はあ、すみません」
 慧一は代わりに謝るしかない。鬼政は笑いながら匠にビールを勧める。
「まあ、飲め」
「で、答えは?」
「バカ野郎。オヤジよりも強いなんて口が裂けてもいえるかよ」
「そうすよね。うちにもひとり居ますよ、喧嘩日本一を自称するケンカバカの先輩が。そんなもんすよね、日本一なんて」
 鬼政は大笑いをしたあと、ふと真面目な顔に戻った。
「そんな話じゃねえだろ。本題を言ってみろよ」
「はい。渋谷の一心会のことを知りたいんすが」
「一心会か」
 鬼政は覚めた目をする。
「大仰だな。あそこの桜木って男は一筋縄でいく相手じゃねえぜ」
「娘さんがいるそうすね」
「クィーンのことか?」
 鬼政は煙草に火をつける。
「クィーン?」
「もう5、6年も前になるかな。渋谷にクィーンズというレディースのチームがあったんだ。そこの総長を勤めていたのが、クィーンと呼ばれていた姫崎鈴音だった。それが桜木の養女よ」
 鬼政はそこで一旦言葉を切って、煙草を持つ手でグラスを傾ける。
「当時、道玄坂に「マリンフォース」というクラブがあってな、そこでは「ロボ」と呼ばれる合法ドラッグの取引場所になっていた。それを急襲したのが姫崎率いる渋谷クィーンズだったわけだ」
「で、どうなったんす?」
「ドラッグ取り引きの裏には池袋の金村組が関わっていてな、結局は一心会と金村組との抗争になった。それが、ほら、例の渋谷抗争の発端になったってわけさ」
 渋谷抗争というのは、全国を二分する東西の暴力団同士が渋谷のスクランブル交差点でぶつかるという、暴力団抗争史上最大といっていい事件だった。
「それで金村組は壊滅。クィーンズも解散。姫崎も行方不明って話なんだがな」
「その姫崎さん、いまは銀座でキャストをやってますよ」
「ほう、そうなのかい」
 鬼政は興味がなさそう煙を吐き上げた。
「で、本題はここからなんすが、3ヶ月くらい前に二子玉でコロシがあったんす。その事件の犯人が峯岸高文といって、元関東連隊の構成員だったんすがね」
「関東連隊か。関東近辺の暴走族OB連が作り上げた組織だな。で?」
「そいつが行方不明になった件で、その姫崎って女が関わっているらしいんすよ」
 そこで匠は半年前に起こった事件の概要を話した。(詳しくは「鬼娘」を参照)
「なるほどな。普通に考えれば、その峯岸という男は一心会に消されたということになるのだろうが」
「はい。でも、峯岸が恐喝の証拠になるものを持って逃げているという可能性もあるっす」
「だとしたら、一心会としても平静ではいられないだろう。何らかの動きがあるはずだ」
「そういう動きがあるんすか?」
「いや、ねえな。平和なもんだよ」
 鬼政は注文したウィスキーのダブルを美味そうにあおった。
「うちにもひとり、関東連隊あがりの野郎がいる。まあ、聞いといてやるが、あまり期待すんじゃねえぞ」
「はい。ありがとうございます」
「ところでホンテンの強行犯といえばクレハって女がいるだろ?」
 鬼政は思い出したように言った。
「はい。うちの一課長っすが、知っているんすか?」
「一課長? あの女、捜一の課長をやってんのか? ・・・世も末だな」
 腹を抱えて笑いだした。
「まあ、腐れ縁だな。今度あったら歌舞伎町の岩倉がよろしくと伝えて置いてくれ」
 そう言残して鬼政は帰って行った。
「ふう、驚いた」
 その後ろ姿を見送って、慧一は匠の頭を小突いた。
「まったく、いつもながらお前の命知らずにも呆れるよ。あの鬼政にあんな口を利いて、無事でいられるのが奇跡だぜ」
「そんなことより、どうにも分からないんすがヤクザと半グレってどう違うんすか?」
 匠は上の空でビールを口に運ぶ。
「そっからか? お前本当にデカだよな。いいか、ヤクザってのは正式な組織だ。昔は博徒のことを称してたんだが、いまじゃ暴力団のことだな。入会するには審査もあるし、いわいる盃を貰って正式な構成員になる。完全な縦割り社会で、親分は親、子分は子供という家長制度を取っている。それに対して半グレは横繋がりの社会だ。特定の親分はいない代わり、それぞれが自己の才覚で生きている個人経営者だな。だからまあ、誰に断る必要もない。自分がそうだと思えばそれまでだ。ただし、先輩後輩のような繋がりはやはりある。高校の先輩とか暴走族の先輩とかいうやつだ。何か事が起これば、そういった連中がどこからともなく現れて大騒動を起こす。あいつら馬鹿だからな、程度というものを知らない。そういう意味じゃヤクザ以上に厄介なんじゃないか」
「なるほど。で、ケイさんはどちらなんすか?」
「俺か? 俺はどちらでもないよ」
 慧一は苦笑した。
「ただのチンピラだ」
「よくわかりました。じゃ、自分はこのへんで・・・」
 立ち上がりかけた匠は、ふと思い立って腰を止めた。
「そういえば自分、ちょっと気になることがあるんすがね」
「気になること?」
 煙草をもみ消そうとした慧一も、思わず手を停めた。
「さっき言ってた、キチガイさん」
「いや吉ヶ谷だろ」
「その人、もと赤沼組なんすよね」
「ああ。ムショに入ってから破門になったと聴いたけどよ」
「どこかで聞いたことがあるんすよね。・・・その赤沼組って」
「そりゃ有名な組だからな、いくらでも耳にするだろう」
「いや、そういうんじゃなく、つい最近、どこかで聞いたことがあるんすが・・・」
「まあ、そういうこともあるさ」
 どうにも思い出せない。
 と、しきりに首をひねる匠の頭をポンと叩いて慧一は言った。

 それから数日後のことである。
 その日、真樹乃は鈴音のマンションの駐車場の片隅に軽ワゴンを駐めて、運転席にふんぞり返ってダブルチーズバーガーを頬張っていた。
 ワゴンの後部座席は外され、運転席のすぐ後ろにはマルチチャンネルの受信機や、音声録音ようのパソコンなどが据え付けられている。荷台はフラットになっており、寝袋などが置かれているので、この中で夜通し張り込むことも可能である。
 もちろんいまは夏だから寝袋の必要はない。
 真樹乃は大きなヘッドホンを耳にかけて半分目を閉じている。鈴音の部屋の音声は、12階の非常口に取り付けた増幅器を通して彼女の耳に届いてくる。
 盗聴器はリビングと寝室、それにトレーニングルームに仕掛けた。
 午後3時半。
 鈴音は仕事柄、午後5時前後に出勤して、翌朝の2時か3時に帰宅する。それから仮眠をとって起きるのは11時前後だ。仕事以外の外出は買い物か、美容関係の店に行くことに限られている。
 リビング仕掛けたマイクからふたりの声が聴こえる。来客があるのだろうか。
(刑事なんて部屋にあげて大丈夫なんですか?)
 先日の真樹乃の訪問が話題になっているらしい。鈴音よりやや野太い女性の声だ。
(大丈夫。彼女、私の友達だから)
(友達?)
(だからね、ちょっと試してあげたの。ナイフでね)
(あれをやったんですか?)
(あ~あ、最後は結構本気だったんだけどな。・・・彼女、見事に見切ってみせた。それもミリ単位で)
(姫姐のナイフをですか?)
 姫姐? 真樹乃は眉をしかめる。
 鈴音のあだ名か? 彼女をあだ名で呼ぶとは、かなり親しい間柄なのだろうか。
(大した動体視力と反射神経だわ。何かやってるのかしら)
(刑事なんでしょ。柔道とか合気道とかじゃないですかね?)
(ううん。たぶん・・・剣道ね。それもただの剣道ではないわ。恐らく古流剣術)
(古流?)
(スポーツ化するまえの剣術。新陰流とか一刀流とか、結構いまも残っているよね、そういうのって)
(なるほど、古流剣術の使い手ですか。でもそういうのって、型が継承されているだけで、実戦的ではないと聞きますが)
(そうね。でも、彼女のは違うわね。相当なものよ、あれは)
(そうなんですか)
(それに彼女、とっても可愛いの)
 鈴音に褒められても嬉しくはない。
 だいたい、こういう覗き趣味の捜査は真樹乃の性には合わない。訊きたいことがあれば、堂々と正面から聞くのが彼女のやり方だ。
 まったく。これもそれも、あの生意気な後輩のせいだ。
 そう思っていると、窓ガラスを叩く気配がする。噂をすれば影で、その匠がコンビニの袋を抱えて立っていた。
「ご苦労様っす。真樹乃先輩」
「おう」
 匠は助手席に滑り込んだ。袋の中から食料やら飲料らを並べる。
「おにぎりとパン、どちらにしますか?」
「いまビックマック食ったから」
 真樹乃はコーラの缶だけを取り上げた。
「で、どうす? 中の様子」
「ああ、客が来ているようだがな、特段どうという話はしてないな」
「客? 男っすか」
「いや、声の様子では女だな」
 匠はちょっと残念そうに。
「ストーカーさんではないんですね」
「馬鹿か、お前。何でストーカーを家に入れるんだよ」
 その時、真樹乃の携帯が鳴った。
「あー、はいはい」
 電話は呉羽課長からだった。
(クソガキ、交代のボウズは行ったか?)
「あ、はい。いま到着しました」
(じゃ、そこはボウズに任せて、お前は新宿に向え)
「はあ? 新宿?」
(歌舞伎町でコロシだ)
「歌舞伎町?」
 匠が聞き耳を立てたので、真樹乃は携帯をスピーカーにした。
「うちからは捜4が行っている。フォースの日吉班だ」
 第4強行犯捜査係は通称「フォース」と呼ばれている。係長は新堂武士警部だ。
 通常強行犯は5~6人の捜査員からなる、ふた組みの班によって構成される。例えば第4係なら、佐伯警部補の佐伯班と、日吉警部補の率いる日吉班のふたつだ。従って第1係から第7係まで、14の捜査チームがあることになる。所轄署から応援要請のあった場合は、それらのチームが順番に捜査に当たることになるのだ。
 ただし、匠や真樹乃の所属するダイハチにはひとチームしかない。川浪警部補が班長の川浪班だ。
 もともと第8捜査係は、それらのローテーションには加わらない遊撃班扱いである。それが鶴田刑事部長の方針なのか、単に人員の不足のせいなのかはわからない。
「でも、捜4が出るなら、自分らは必要ないんじゃないすか?」
(ローテーションでいうなら、今回は捜2の順番なんだ。ところがふたつほど飛ばされてフォースが捜査にあたることになった)
「どういうことすか? それ」
 匠が横から口を挟む。
(ボウズか?)
「誰の指示なんすか?」
(鮫島管理官の指示だ)
「鮫島警視?」
 鮫島捜査一課管理官は呉羽課長に次ぐナンバー2である。
(鮫島は公安と繋がっているとの噂もあるからな)
「そういえば、前回の二子玉のコロシの時も捜4が担当しましたね」
(ああ、まさかとは思うが、公安が裏で関わっているとなると厄介だ。クソガキ、聴いているな)
「あ、はい」
 真樹乃は慌てて応えた。
(お前は日吉の動向に注意しろ。相手が日吉班となれば、対抗できるのはお前くらいだからな)
 フォースの日吉班は、ことの他ダイハチに敵対意識を持っている。
 もちろんそんなことで動じるような真樹乃ではない。
「わかりやした。あいつら舐めたらぶっ殺してやりますよ」
 真樹乃は裏に停めたドゥカティに乗って新宿に向かった。
 残された匠は、シャケ握りを咥えながらヘッドホンを耳に掛けた。
「匠君。聴いているんでしょ」
 ヘッドホンから鈴音の声が聴こえる。双眼鏡を覗くと、38階の窓から手を振る鈴音の姿が小さく見えた。
「ねえ、ちょっと来てみない。美味しいコーヒーを入れたわ」
 匠は苦笑を浮かべてヘッドホンを外した。

 お台場のタワーマンション、38階が姫崎鈴音の部屋だ。
 ジャングルのようにお生い茂った観葉植物の鉢に囲まれて、鈴音にストロング・コーヒーをご馳走になった。窓の外にはレインボーブリッジが見渡せる。
 客だという女はどこにも見えない。もう帰ったのだろうか。
「で、話ってなんすか?」
 匠は鈴音の顔を観て訊いた。
「やだ。そんな怖い顔しないで、ちょっとお話がしたいだけ」
「暇なんすね」
「ねえ、匠君は私のこと、どう思う?」
「どうって?」
「私は仲良くしたいな」
 ソファーの対面に腰掛けている鈴音は、シースルーのブラウスに白いカーディガンを羽織っている。中のブラジャーが透けて見えそうだ。
 匠は目を細めて、そんな鈴音を眺めている。
「匠君って変わっているわね。こうして正面に座っているのに、あなたの視線を左上から感じるわ」
「よく言われるっす」
「君って、もしかしてメタ認知症?」
 メタ認知というのは「自分が物事を認知している状態を、客観的に認知している状態」を指していう。つまり自分の行動を客観的に観察する能力のことだ。それが病的にまで高まった状態がメタ認知症である。
 神宮匠の場合、殆ど独立した視線をもって、俯瞰的に物事を把握することができる。
 悪化すれば、四六時中誰かに監視されているような脅迫観念や、自分が分裂してしまったような妄想に囚われ、心身障害を発症するのだが、彼の場合あいにくそのような繊細さは持ち合わせてはいない。
「なるほどね。つまり君にはあらゆる現実が、映画のなかの出来事のように現実感がないってことか」
「鈴音さんだって似たようなもんじゃないすか?」
「私はそんなんじゃないわ」
 鈴音はクスリと笑った。
「だったら話は早いわ。ねえ、私と組まない?」
「あなたと組む?」
 匠はすこし驚いた顔をした。
「君たちの目的は峯岸高文の居場所なんでしょ」
「それは何度も質問したっす。でも、鈴音さんは知らないって」
「ごめんねえ、あれは嘘」
 鈴音は肩をすくめて舌を出す。自分が可愛くみえるポーズを良く心得ているようだ。
「だ、と思ったす。で、あなたの目的はなんすか?」
「ある人物を捜しているの」
「ある人物って誰っす?」
「吉ヶ谷翔麻って男。知っている?」
「いや」
 といったが、もちろん嘘である。俥座一家の岩倉正隆から聞かされたばかりだ。
 むしろ彼女の口からその人物の名前が出ることが驚きだった。
「そのひとはどういう人なんです?」
「さあ。私も詳しくは知らないのよ。養父から捜すように言われているだけ」
「それを信用しろというのすか?」
「その代わり、峯岸の行方を教えてあげる」
「峯岸は生きているんすか?」
「さあ、それも知らない。でも、居場所なら知ってるわ」
「どこです」
「歌舞伎町。新宿の歌舞伎町よ」
 姫崎鈴音は怪しい笑みを浮かべて言った。


 
 二階堂真樹乃が新宿警察署に到いたとき、署内は妙にざわついていた。
 殺人事件発生のため、緊急に捜査本部を立ち上げなくてはならないので大騒ぎなのだろう。
 捜査本部は別棟の2階。大会議室である。
 多くの捜査員が行き来する会議室で、鮫島管理官を見付けた。真っ直ぐに駆け寄って敬礼をする。
「第8強行犯捜査係の二階堂です」
「ふん、ダイハチか。邪魔しないようにしろよ」
 目も合わせずに吐き捨てるようにいう。カチンとくるが、まだまだこのくらいのことは何でもない。
「ご苦労。捜査状況のほうは総務のほうから聴いてくれ」
 隣にいた新堂係長が取りなすように声をかけてくれた。捜4の中ではこの係長だけが少しはまともである。

 事件が発見されたのは本日の午後4時過ぎ、場所は歌舞伎町3丁目のキャバクラ店だった。
 黒服の若い男が出勤すると、ホールの真ん中に白い脚が投げ出されているのを目に留めた。空色のナイトドレスの裾がソファの陰から覗いている。
 赤いハイヒールは左右バラバラに転がっていた。
 酔いつぶれたキャバ嬢が寝ているのか?
 そんなことを思ったボーイは、ソファーを回り込んだところで悲鳴を挙げた。
 女性が死んでいたからだ。
 しかもその状態が異常であった。
 女性は腹を大きく裂かれており、腹膜が左右に開かれていた。開いた腹膜は太い釘でフローリングの床板に打ち留めらている。
 裂かれた腹の中からは内蔵が露出しており、半分固まりかけた血溜まりが、女性の身体から床板までを赤黒く染めていた。
 それはまるで子供の頃にやった、カエルの解剖みたいな光景だった。
 連絡を受けた新宿署の機動捜査隊が、すぐに駆けつけて現場を保全した。
 女性はこの店、「カプリコン」のキャバ嬢で源氏名を「マリア」といった。本名は清水愛理28歳である。
 彼女は昨夜11時過ぎに、太客とアフターのために店を出たという。彼女の服装は店を出た当時と同じく、空色のナイトドレスに赤いハイヒールだった。
 死亡時刻は昨夜の11時から今朝の3時までの間。
 死因は首を絞められての絞殺。
 凶器は細身のロープ上のものということであった。
 腹は死亡直後に切られている。横隔膜の下から骨盤腔まで一直線に切り裂かれていた。
 その作業に少しの迷いもない。よほどこれらに精通した者の仕業なのだろう。
「これは、12年前のあの・・・」
 その傷後を観て12年前の事件を連想したベテラン捜査官らが何人もいた。
 いまから12年前、歌舞伎町を震憾した「吉ヶ谷事件」。
 元赤沼組の吉ヶ谷翔麻という男が、やはり歌舞伎町のキャバ嬢を殺害した事件だ。その時も同じように被害者は腹を裂かれていた。
 その吉ヶ谷は2年ほど前に仮釈になっている。
 仮釈中の吉ヶ谷が再び犯行を繰り返したのか?
 
 真樹乃は日吉班の篠塚という巡査部長と組んで、自取り捜査にあたることになった。「自取」とは現場周辺の聞き込みのことである。
 篠塚二三雄、35歳。日吉班の中では中堅の刑事である。
 当然頭から真樹乃を無視してかかった。
「小便臭いガキと組まされるとは、俺もついてねえや」
 真樹乃も負けてはいない。
「こっちだって加齢臭の漂う親父と組まされるんすからお互い様すね」
「なんだと、貴様。上官に向かって! 口を慎まんか!!」
 会議室が震え上がるような怒号が響く。
「やかましい! ジョウカンが怖くてヨウカンが食えるか!!」
「こらぁ、そこ!」
 鮫島管理官が大声を出す。
「騒いでないで、さっさと捜査に行け!」
 最初からこれでは先が思いやられるが、彼女にしてはこれが普通なのである。
 真樹乃と篠塚は大塚を訪れていた。
 ガイシャの太客という男がこの街で会社を経営しているという。
 株式会社「鶴巻エロクトロ」。電子部品の加工を行う会社である。携帯電話用の半導体の加工で業績を上げていた。
 そこの社長の鶴巻忠房が彼女の太客だった。
 太客とは金づるという意味だ。いい意味でも悪い意味でも、彼はマリアのいい金づるだった。
「昨夜、彼女とは寿司を食って、1時前には別れましたよ」
 と、額にバンソコを張った鶴巻は言った。
 確かに新宿西口の馴染みの寿司屋では、ふたりの姿を覚えていた。ふたりはアフターの時よくこの店を利用するらしく、店の大将も顔なじみであった。
 その後、鶴巻は自宅に戻ったが、浮気がバレたらしくカミさんと一戦交えたようだ。額のバンソコはその傷跡だろう。
 そうとうな騒ぎだったらしく、近所の住人が驚いて玄関前に集まってきたほどだった。
 いずれにしても彼のアリバイは疑いようが無い。
 そしてガイシャの死亡時刻が、午前1時以降であることもはっきりとしたのである。
 夜になって捜査会議が開かれた。
 ダイハチからも、川浪班長以下全メンバーが集合していた。フォースの日吉班とはすぐ隣の席だ。
 睨みつける篠塚に対して、真樹乃はアカンベーで対抗する。
 そして壇上には呉羽捜査一課長が立っていた。
「今回のこの事件、12年前の吉ヶ谷事件の関連が疑われる。全員そのことを頭に置いて捜査にあたること。また、吉ヶ谷は凶悪犯であることから、捜査にあたっては拳銃の携帯を命じる。では、新堂警部」
 そういって席に座った。代わりに壇上に上がったのはフォースの新堂係長であった。
「ではこれより、第1回目の捜査会議を行う」
「おい、なんだ? 吉ヶ谷事件って?」
 真樹乃が隣に座った匠の腹を突っつく。
「12年前にやはりこの歌舞伎町で、俥座一家の組員だった男の情婦を殺害した事件すよ。その事件の犯人が吉ヶ谷という男で、やはり今回と同じように腹を裂かれていたという話す」
 匠は花柳慧一から聴いた話を伝えた。
「その男を捕らえたのが俥座一家の岩倉という男で、そのことを恨んで出所後の吉ヶ谷は歌舞伎町に姿を現したという話っすよ」
「俥座一家の岩倉? 鬼政とかいう男か?」
「知ってるんすか?」
「えらく喧嘩が強いそうじゃないか。へえ、楽しみだな」
 真樹乃は嬉しそうにいう。
「先輩。物事の基準、喧嘩でしか測れないんすか?」
「こら、そこ! 静かにしろ!!」
 新堂の怒号が響き、ふたりは肩をすくめた。

 翌日。
 配られた吉ヶ谷翔麻や、12年前の捜査記録のコピーなどの資料を受け取った捜査員らは、それぞれの持ち場に散っていった。
 捜査本部の方針としては、殺害状況の相似から吉ヶ谷の犯行とみて捜査にあたることにした。
 全員に拳銃を携帯させたのは、吉ヶ谷を凶悪犯と認め、危険人物と判断したからである。
 神宮匠刑事は新宿署組織犯罪捜査課の麻生重幸(あそう・しげゆき)巡査部長とコンビを組んで、歌舞伎町2丁目の明治通り沿いを中心に自取り捜査を続けていた。
 この辺はホストクラブの多い地区だ。
「神宮さん、すこし休みましょうか」
 7月に入ってから連日暑い日が続く、麻生刑事は額の汗を拭き拭き言った。
 麻生刑事は初老のホッチャリタイプの男で、腹は太鼓腹だし頭も薄くなっている。信楽焼きの狸のような愛想のいい顔付きで、こんな男がよく新宿署のマルボーなんかを務まるものだと首を傾げてしまう。
 もっとも匠はそんなことは歯牙にもかけない。
「いいっすね。どこか涼しいとこでチャーでもしますか」
 昔ながらの古びた喫茶店の前で匠は足を停めた。
「ん? どうかしましたか?」
「こんなところにスクラップ工場があったんすね」
 貸ビルの隙間に隠れるようにして、ペシャンコになった廃車が積み上げられたスクラップ工場があった。奥のほうには事務所のような建物もみえる。
 工場の入り口には宅配便らしい、黒っぽいバイクが停められている。
 匠たちが入ろうとしている喫茶店の斜向かいだ。
「ああ、このあたりはまだ、区画整理が行われていませんから、昔ながらの建物が多いですな。それより早く入りましょう。暑くて叶いません」
 古びた重たい木製の扉を開くと、カランという大きなカウ・ベルの音がした。店内にはクラッシクなテーブルやソファ置いてある。壁には30年ほど前に流行った演歌歌手のポスターやら映画スターのサイン色紙などが飾られている。
 店は空いていた。基本的に歌舞伎町は夜の街なのである。
 取り合えずマスターに吉ヶ谷の写真をみせたあと、窓際の席に腰を落ち着けて汗をぬぐった。
「いやあ、済みませんね。年を取ると汗がひかなくて困ります」
「いえいえ、自分もそうすから」
 麻生刑事はカバンの中から捜査資料をテーブルに並べた。
 吉ヶ谷の写真は2年前に出所する時に撮られたもので、正面と側面それに全身の写真が添えられている。
 資料によると身長180センチ、体重57キロ。病的に痩せた男で、長い手足と三角の顔はカマキリを連想させる人相だ。
「麻生さんは、12年前の事件のときはどうしてたっす。新宿署すか?」
「いや、私は当時、品川署の組犯にいました」
「じゃ、よくは知らないんすね」
 匠はすこし残念そうに言った。
「そうですね、事件のことはよく知りませんが、吉ヶ谷のことでしたら多少は知ってますよ。赤沼組の本部は品川にありますから」
「ああ、そうすね。どういう男すかね、吉ヶ谷って」
「凶人といいますか、奇人といいますか。とにかく凶暴な男で、組内でも持て余していたんじゃないですか。ほら、暴力団新法が出来たところで、そういった昔ながらの暴力行為は御法度になったでしょう」
「個人の暴力行為が組全体に響きますからね」
 麻生は頷いた。
「それで赤沼組は吉ヶ谷を破門にしたんですが、それでますます荒れてましてね。何度も障害事件を起こしているんですよ。この男、刃物を使わせたら天下一品で「吉ヶ谷に刃物」とか呼ばれているんですが、女のほうにも汚くて、当時歌舞伎町俥座一家の組員だった男のレコ(情婦)に手を出しましてね。なんだかんだの末、この女を殺しちまった」
「それが吉ヶ谷事件すね」
「そうです。酷いもんですよ」
 そういって資料の中から殺害現場の写真をみせた。30代半ばの女性でやはり骨盤から腹上まで一直線に切られ、内蔵が外に飛び出している。
「しかし、これは刺殺された後腹を切られてますが、今回は絞殺の後切られているんすよね。このあたりの違いはどうなんでしょう」
「さあ、どうですかね」
 麻生は声を潜めた。
「実を言いますとね、私は今回の事件が吉ヶ谷のものであるとは、少々疑わしいと思っているんですよ」
「と、いいますと?」
「いま、神宮さんが指摘した件もそうなんですが、彼が出所してから2年も経っているでしょう。あの男の性格からして、再度事件を起こすならもっと早くに起こしているような気がするんですよ」
「気が短いということすか」
 麻生は首をひねる。
「実は彼を捕らえたのは我々ではないんです。これは表には出ていない話なんですが・・・」
「その話は聴いているっす。吉ヶ谷を捕まえたのは、俥座一家の岩崎ですよね」
「知っているのですか?」
 麻生は驚いたように言ったが、すぐにフッと笑った。
「なるほど、鬼島(きじま)が買っているわけだ」
「鬼島先輩は麻生さんの後輩にあたるわけっすよね」
「まあ、手を焼かせるヤツでしたがね」
「ところで吉ヶ谷が歌舞伎町に現れたのは、その岩崎に落とし前をつけるためと聴きましたが、本当でしょうか?」
「キャバ嬢を殺したのが吉ヶ谷なら、そうなのでしょう」
「なんで何の関係のないキャバ嬢を殺したんでしょう?」
「予告と警告でしょうね。俺は近くまできているぞ、という」
「粘着質な男のようすね」
 しかし麻生の顔色は冴えない。本当にそう思っているのか。
「そうではない可能性もあるってことすね?」
「先程も言いましたが、奴が本気で報復を考えるなら、2年間も待てる男じゃないってことですよ」
「なるほど」
 匠はぼんやりと窓の外に目をやる。斜向かいのスクラップ工場からは、バイク便の男が出てきてバイクに跨った。バイクは喫茶店の前を通って市役所通りのほうに走り去る。
 フルフェイスのメットを被っているから顔までは分からないが、スラリとした長身の男のようだ。・・・・男? いや、あれは女か?
 それにしても、ここに来て、いやに吉ヶ谷の名前が出てくるな。
 あの姫崎鈴音も吉ヶ谷を捜しているといっていたし。・・・
「あ」
 思わず声が出た。
「どうしました?」
 麻生刑事が怪訝そうな顔で訊く。
「いえ。何でもないす」
 気がついてしまった。
 そうか。鈴音のいってたストーカーってのは・・・
 なるほど、そういうことか。
 匠はあやうく吹き出すところだった。
 あいつめ、またハメやがったな。

第3章 凶人

 俥座一家の本部は花園神社の裏にあった。
 古い木造建築の一軒家で、パッと身には普通の民家のようにみえる。
 終戦直後に建てられたもので、大きな門柱を潜ると玄関まで苔むした私道が続く。玄関は横開きの開き戸で、中は広めの土間になっている。土間の土壁には「火車」の模様のはいった袢纏や、古びて埃だらけになった提灯などが飾られている。
 土間を上がると黒々とした板敷の廊下が続く。廊下のどん詰まりが親分である仁吉の部屋だ。
 そこは20畳ほどの畳敷きの部屋で仁吉の私室であった。事務室は1階の別の場所にある。
 古びた長火鉢の前に、裸に袢纏を羽織った仁吉が座っている。
 夏だから、もちろん火は煽っていない。煙管の灰を捨てるための火鉢であった。
 7代目火車の仁吉は四角い男であった。身長183センチ、体重125キロ。縦にも横にも四角い。
 黒鉄の金庫だ。
 色が黒いのは、幾分、南米系の血が混じっているからに違いない。
 7代目は捨て子だった。花園神社の境内に捨てられていたのを、6代目の仁吉が育てたのである。
 その6代目も今はもういない。
 その仁吉の前に3人の男たちが座っている。
 畳の上に直接あぐらをかいて座っているのだ。
 村田彦次郎(むらた・ひこじろう)。
 岩倉正隆(いわくら・まさたか)。
 近藤宗親(こんどう・むねちか)。
 いずれも俥座一家の最高幹部たちである。若頭と呼ばれている男たちだ。
「岩倉」
 仁吉が腹の底に響く声で言った。
 四角い顔に切れるような鋭い眼差。さすがの鬼政の額にも汗がにじむ。
「へい」
「吉ヶ谷が現れたというのは本当か?」
「はい。東新宿での目撃情報だけではハッキリしませんでしたが、3丁目でコロシがありましたから」
「吉ヶ谷の仕業で間違いはないか?」
「手口からみて、まずは間違いないかと」
「お前に意趣返しを仕掛けたという話のようだが」
「はい。奴とは因縁がありますので」
「ふん」
 仁吉は更に目線に力を込める。それは殆ど殺意にちかい。視線で岩倉を殺そうというかのようであった。
「で、どうするつもりだい?」
「落とし前はつけます」
「落とし前? どうやって?」
「これは自分の私怨です。自分に任せてもらえませんか?」
 ふう、というように仁吉は視線を外す。
「任せるとはいってもな、すでに犠牲者はでているんだよ、この歌舞伎町でな。歌舞伎町は俺が先代から預かった大事なシマだ。そこをよ、てめえの私怨なんかで、どうのこうのされたら堪らないんだよ」
「若」
 黙り込んだ岩倉に代わって年長者の村田彦次郎が口を開く。
 村田は俥座一家のいわば番頭格で、先代の6代目の頃から一家に尽くしている。7代目の教育係であった男である。
 短めに刈った頭髪にも、豊かに蓄えた口髭にも白いものが混じっている。
「もとはといえば12年前、南野の女に野郎が手を出したのが事の始まり。吉ヶ谷は南野に傷を負わせ、女を殺害したんです。それで正隆は落とし前をつけただけです。正隆に落ち度はありません」
 仁吉はジロリと村田を睨んだ。
「それはわかっている。しかし、それによって犠牲者が出ていることも事実だ。いいか、これは俥座一家全体の問題なんだ。岩倉の私怨なんかじゃねえ」
「はい」
 岩倉は頭を下げた。
「村田。全員に号令をかけろ」
「親父さん」
 それまで黙っていた近藤宗親が声をかけた。
 髪の長い長身の男である。喪服のような黒いスーツを着ている。ネクタイまでが黒い。本当に葬式帰りのようだが、これが彼の普段の服装なのだ。
「すでに警察が動いています。あまり、表立って動けば目立ちます」
 仁吉は視線を近藤に移した。
「では、どうするというのだ」
「わたしが居場所を探り出します」
 近藤は一家の中では探索方を自任している。
「その後は岩倉さんに任せます。彼がいいようにしてくれるでしょう」
 仁吉は近藤を睨んでいる。しかし彼は少しも意に返していないようだ。
「オヤジ」
 岩倉は畳に額を擦りつける。
「親父の気持ちも分かりますが、ここは自分に任せて下さい。お願いします」
「わかった。確かに表立って動くようなものではないな。しかし他の組との関わりもある。あまり遅くなるとなめられる恐れもあるぞ。・・・村田」
「わかっています。他の組は私が抑えます」
「では近藤、頼んだぞ」
「はい」
 近藤は横に置いていた木刀を掴んで立ち上がった。彼は常にこの木刀を持ち歩いているのだ。
「岩倉」
 村田に続いて部屋を出ようとする岩倉に仁吉が声をかけた。
「お前のせいではないことは分かっている。しかし俺の面子というものもある。この世界、いいも悪いも、子の仕様は親の仕様だからな」
「わかっています」
「なめられたら終わりだぜえ。岩倉よお」
「はい」
 岩倉は頭を下げて立ち上がった。
 面子を潰される訳にはいかない。
 それがこの世界の掟であった。

 その夜、こんどは匠が真樹乃を誘った。
 新宿西口にあるアジアン酒場である。タワービルの地下に設けられた韓国料理屋だ。
 入口には真っ赤な巨大な提灯が吊り下げられていた。
 白壁の桟や窓枠にも真っ赤なペンキが塗られ、店内のいたる所には韓国の歴史上の人物を描いたらしい絵が、大きな額に入って飾られている。
「おつかれーす」
 席に付いて乾杯を済ますと、真樹乃はニコニコして食物を物色しだした。
「お前が誘ったんだから、今日はお前の奢りな」
「真樹乃先輩、ご機嫌っすね」
「おう、快適。快適」
「どうっす? 日吉班と組んで」
「だから快適だよ。毎日、喧嘩してんけどな」
 ケケッと笑う。どうもこの先輩は、毎日喧嘩してないと機嫌が悪いらしい。
 捜査本部も1週間を数え、次第に事件の様相がはっきりしてきた。
 被害者の女性清水愛理は、元銀座のクラブ「KAGEROU」のキャストであることがはっきりした。4年ほど前にKAGEROUを退店して、現在のキャバクラに務めた。KAGEROUに在籍していた期間は3年ほどだ。
「また、KAGEROUっすか」
「ああ、どうにもまた、あの鈴音のやつに行き当たりやがる」
 姫崎鈴音こと静香は、KAGEROUの人気キャストだ。
「鈴音さんのことはともかく、KAGEROUが事件に絡んでいることは間違いないとこすね」
「そういうことになるな。ということは、今回の事件は3ヶ月前の峯岸の事件と通じている可能性もあるということだ」
「そのことは帳場(捜査本部)のほうでも把握しているんでしょ?」
 匠はあまり本部のほうに顔を出さないので、そのあたりの情報には暗いようだ。
「まあな。帳場では二子玉のほうも洗い直す方針で、玉川署の捜査員たちも招集されたらしい」
「峯岸が現れたという情報はどうすか?」
「それなんだがな」
 真樹乃は頼んだマッコリを嬉しそうに口に運んだ。
「クレハのババアは隠し通すつもりらしい。まあ、もっともネタモトがバレれば、あたしらの違法捜査もバレるわけで、それはさすがにババアとしても不味いんじゃねえの。もっともババアが情報を隠すのには他の理由もありそうだがよ」
「他の理由?」
 真樹乃はニヤリと笑った。
「捜4ことフォースに関する噂だよ。お前、知らねえのか?」
「噂? さあ、なんすか、それ」
「チェリーという秘密組織が公安内にあるという噂はどうだ?」
「ああ、それ。警察内の都市伝説でしょ」
「警察内外の優秀な人材を集めての秘密組織が公安内にある。それがチェリーだ。まあ、お前の言うとおり、都市伝説の一種だがな」
「それとフォースがどう繋がるんす?」
「だから、フォースがそのチェリーだというんだよ。特に係長の新堂警部補」
「そういえば、鮫島管理官も公安と通じているという話もありますよね」
「だろ。だから、ババアも用心しているわけよ」
 真樹乃は真っ赤なキムチを美味そうに食している。彼女は辛いものが大好物なのだ。一方の匠は辛いものは苦手だから自然箸も奥手になる。
「うちの大将・鶴田刑事部長は、冴木副総監と時期警視総監の座を争っているからな」
「つまり鶴田刑事部長派と冴木副総監派とに別れての派閥争いということすね」
 はっきり言って、匠にはそんな派閥争いに興味はない。一方の真樹乃はこのテの揉め事が大好きらしい。
「そうだよ。鶴田派の参謀はクレハのババア。冴木派の主催は公安の御子柴参事官だ。呉羽にあたしらダイハチがいるように、御子柴にはフォースがいると考えていい」
「なるほど。それで納得がいきました。なんでフォースが本来の順番を飛び越して、この事件に関わったのか。すべては公安というか、御子柴参事官の思惑なんすね」
「まあ、そういうことだな」
「しかし、なんでこんな事件に公安が関わるんす? そもそもこんな殺人事件、公安の取り組む案件じゃないっしょう」
「それは、あたしにも分かんねえ。しかし、上が公安を気にしていることは間違いねえな」
「ところで真樹乃先輩」
 匠は話を替えた。
「今日は、KAGERUの春日ママに話を聴きに行ったんでしょ。どうだったんすか?」
「さすがに耳が早いな」
 真樹乃はニヤリと笑った。
「別に大した話は訊けなかったな。ガイシャの清水愛理は3年ほど在籍していたんだが、それほど売上をあげていたわけじゃない。ごく普通のキャストだったて話だ。ママもあまり印象に残らない娘だったといってたな」
「鈴音さんとは一緒になったことはないのすかね」
「鈴音が入店したのは4年前だ。清水とは入れ違いだな」
「それにしても、仮にも銀座でキャストを張ったほどの娘が、歌舞伎町あたりのキャバ嬢に身を落とすとは、どういうことでしょうか?」
 匠は首をひねった。真樹乃は頷いて、
「うん、それだかな。清水には男がいたようだ」
「男すか?」
「歌舞伎町のホストだな。男に貢いで身を滅ぼした。ま、よくある話しさ」
「ホストすか。それで歌舞伎町のキャバクラに勤めたということすね。で、どういう男なんす?」
「まあ、クズだな」
 真樹乃は手帳を括った。
「今村雅俊という男で、歌舞伎町の「パリス」というホストクラブに在籍している。顔はまあモデル並なんだが性格がな。一言でいえば女に依存して生きているような男だ。まあ、そういうどうしようもないクズに惹かれる女もいるんだろ。あたしがいないと、この人はダメなの~とかいって」
「その女と吉ヶ谷の関係ってあるんすか?」
「さあな。あたしが調べた範囲じゃ、吉ヶ谷との繋がりは見えなかったな。多分、たまたまだろう。アフターの鶴巻と別れてから、忘れ物かなんかを思い出したんだろ。店に戻るところを、たまたま吉ヶ谷と出会ってしまって殺された。吉ヶ谷としては誰でも良かったんだろ、岩倉への警告になれば」
「しかし、清水さんが鶴巻さんと別れたのが午前1時とすると、それから店に戻ってもまだ店はやってますよね。店へ戻る途中で殺害されたとするなら、その後店が閉店するまで、彼は死体をどうしていたんでしょう。また、なんで閉店後の店内に入って、わざわざあんな腹を裂くようなことをしたのでしょう?」
「まあ、それが奴の意思表示なんじゃねえかな」
「それでも殺害した路上でそれをすればいい。わざわざ、店が閉店するまで待つ必要はないんじゃないすか」
「う~ん」
 真樹乃は言葉に詰まって唸った。
「それはそうかも知れねえが、あいつはマトモじゃねえからな」
「そうすね。確かにマトモじゃない。凶人す」
 珍しく匠は同意した。真樹乃はマッコリで顔を赤くしている。
「それよりお前のほうはどうよ? なんか収穫があったのか」
「吉ヶ谷のほうは収穫なしっす。目撃情報もないし・・・」
「吉ヶ谷のほうは、ということは違うほうは収穫があったってことか?」
 真樹乃はジロリと睨む。さすがにこういうことは鋭い。
「収穫というか、ちょっと思いついたことがあるんす。例の鈴音さんなんすがね」
「鈴音がどうしたって?」
「彼女の目的も、やはり吉ヶ谷みたいなんすよ」
「へえ~。そりゃ一体どういうことだ?」
「なんか親父さんから捜すように頼まれたらしいんす」
「親父って、養父の一心会の会長か?」
「そうす。つまり、吉ヶ谷の件には一心会も絡んでいるという話っす」
「どういうことだ? 吉ヶ谷はあくまで岩倉への私怨で動いているんだろ?」
「と、いう話っすが、実は違うんじゃないかと・・・」
 真樹乃は遠くを見る目をした。
「まてよ。そういえば篠塚の野郎が妙なことを言ってたな」
「なんすか?」
「いや、なんかの折にふと呟いたんだが、これは公安の案件だ、みたいな」
「どういうことすか?」
「さあ、分からねえ。あたしの聞き違いかも知らないが、確かにそう聴こえたんだ。フォースは公安と繋がっているという噂もあるしな」
「なるほど。これが公安の案件なら、フォースが出張ったことも納得がいくっす」
「しかし、吉ヶ谷と公安がどう繋がるんだ?」
 ふたりは考え込んだが、もちろん答えがでる問題ではない。
「そうそう、鈴音さんの言ってたストーカーのことすが、あれは多分吉ヶ谷のことでしょう。ストーカーの人着が吉ヶ谷のものとほぼ同じすから」
「はあ? 吉ヶ谷が鈴音のストーキングをしていたというのか?」
「というか彼女は自分のストーカーを吉ヶ谷の人着に近い人物に設定して、自分らに吉ヶ谷を探させようとしたんだと思うんす」
 匠はスラリと言ったが、真樹乃は真っ赤になって怒った。
「つまりストーカーの話は嘘か? あの野郎、また騙しやがって」
「まあ、嘘かどうかは分からないすが、彼女の目的がそこにあるのは事実っす」
「ちくしょう、あの女。今度あったらぶっ飛ばしてやる」
 真樹乃はキムチの束を一息にかっこんで、激しくむせてしまった。
 それにしても、と匠は考える。
 吉ヶ谷という男の目的は一体なんなのだろう。
 そして姫崎鈴音と一心会は、この事件にどういう形で関わっているのだろう?
 まだまだ、事件は始まったばかりだ。
 そんな気がする。


 
 夜が更けると共に、銀座の町並みは刻々とその華やかさを増していく。
 新宿が夜の街なら銀座は深夜の街だ。
 新宿の夜がひとの流れで埋め尽くされるなら、ここでは高級車の列が路を覆っている。
 銀座6丁目、クラブ「KAGEROU」。
 数々の高級クラブが立ち並ぶ銀座の1角にある老舗の店であった。もとは別の経営者がいたのだが、8年ほど前に現在の春日ママが店を買い取ってオナーママとなった。
 ビルの一階から螺旋階段を上がると、豪華な扉の前には強面の黒服が立っている。入口を潜るとスワロフスキー社製のクリスタルを散らしたシャンデリアが燦然と輝くロビーから、右に曲がったところがワインセラーを壁一面に飾ったカウンター席。その奥がワインレッドの重厚なカーペットを敷き詰められたゲストルーム。その更に奥がVIP用の個室になっている。
 午後11時半。この日3人目めの同伴客と出勤してきた鈴音は、VIPルームから出てきた3人の男たちをみた。
 ひとりは背が高く中肉中背の男だった。髪の毛を綺麗に7:3分けにポマードで撫で付けている。黒縁のメガネをかけ、一見サラリーマン風にみえるが、そのメガネの奥から覗く瞳はヘビのように冷たい。
 ふたりめはスラリとした長身のイケメンで、長く伸ばした髪の毛をポニーテールのように縛っている。着ているものもスーツではなくジャケットにノータイだ。しかしそのジャケットは、海外の有名ブランドのものであることはひと目でわかる。
 もうひとりは前述の男よりやや背が低い。その分横幅はあるのだろう。恰幅のいい、ワイルドな感じの男だ。瞳も大きく、口ひげを生やしている。
 年齢的には、背の高いイケメンは、恰幅の良い男の息子くらいの差がある。
 鈴音はその男たちを知っていた。
 サラリーマン風の男は、赤龍会の赤沼虎次郎(あかぬま・とらじろう)会長。
 長身のイケメンは、マキシマムエージェンシーの大神士郎(おおがみ・しろう)社長。
 恰幅のいい男は、金竜会の金重末雄(かなしげ・まつお)会長。
 赤龍会の赤沼虎次郎は、ひがし東京最凶最悪といわれた品川赤沼組の虎之助組長の息子であり、収監中の虎之助に代わって赤沼組を取り仕切る事実上の赤沼組組長代理であった。
 大神士郎は戦後、関東の芸能界を裏から支配したとされる、伝説のヤクザ大神源次郎の孫にあたる。ただし士郎自体はヤクザではない。彼の父親の時代に引退届を出して、ヤクザ稼業から足を洗っているからだ。
 大神士郎は現在、マキシマムエージェンシーという芸能界プロダクションを経営し、ファミリアという女性アイドル集団を用いて芸能界を席巻してしている。
 しかし鈴音は彼が完全にヤクザ社会から足を洗っているとは思ってはいない。
 彼の祖父が興した大神興行は、いまでは大原興行と名前を変えAV業界で密やかに活動しているが、士郎は大原興行の大原吾郎と陰で繋がっているとされている。マキシムの裏の部分を大原興行が請け負っているとされているのだ。
 その大原興行の舎弟組織が金竜会である。金重末雄は大原興行の若頭であった。
 その3人が一同に会している。
 鈴音はなにやら不穏なものを感じた。
「ねえ。ママ」
 鈴音は他席の接待を終えて戻ってきた春日ママに声を掛けた。
「なあに、静香ちゃん」
 鈴音はこの店では静香という源氏名で働いている。
「いま帰っていったのマキシムの大神士郎さんよね」
「そうよ」
「それと赤龍会の赤沼会長」
「詳しいのね」
 春日ママはクスリと笑った。
「あとのひとりは知らないけど」
「金竜会の金重さん」
「あの3人、よく店にくるの?」
「そう、赤沼さんと金重さんは初めてかしら。大神さんは昔はよくいらしてたげど、最近はあまりお見えになっていないわね」
「昔って私の入店するまえ?」
「ああ、そうかも浪花ちゃんとか朱月ちゃんとかが居た頃だから、そうかも知れないわね」
「そのふたりは大神さんのお馴染みだったんですか」
「そうよ。特に浪花ちゃんは永代指名だったわ。彼女、一時はファミリアに属していたこともあったらしいの」
「永代指名というと、事実上大神さんの愛人ということ?」
「さあ、どうかしら。でも、どうしてそんなこと聴くの?」
 ママはあからさまに怪訝な顔をする。
「ううん。なんでもないわ。あのふたり太客そうだから、いまがフリーなら私にもチャンスがあるかなって」
「ねえ、静香ちゃん」
 ママは真剣は表情で、鈴音の顔を見詰める。
「あなた、お養父さまから何を言われているか知らないけど、この件にはあまり関わらないほうがいいわよ」
 ドキリとした。ママは何を言っているのだろう。
 春日ママが養父の桜木晃一郎の愛人であることは知っている。この店の陰のオーナーが実は桜木であることもだ。
 しかしそのこと自体はどうでもいいことだった。
 ママが養父の愛人だろうとなんだろうと関係ないし、そのこと自体にはどうという感情もない。ただ、彼女が自分とは別の目的で動いているのなら話は別だった。
 鈴音は養父の桜木を信用してはいないし、恐らくは彼も自分のことを百パーセント信じている訳ではないのだろう。
「この件って?」
「だから駒草ちゃんの件よ」
「駒草ちゃんが自殺した件のこと?」
 駒草は本名を市井真由香といった。尾山台のマンションで自殺した娘だ。
 思えばそれがこの事件の始まりだったのだ。
「何故ですか? 私がその件にどう関わっているというのです? 私はただ、彼女の亡骸を見付けただけだわ」
「だったら、それでいいわ」
 ママはふっと視線を落として、鈴音の脇をすり抜けようとした。鈴音はその腕を掴んで引き止める。
「待ってください、ママ。ママは何かを知っているんじゃないですか?」
 鈴音は強い視線で春日ママを睨む。ママはしばらくその視線を受け止めていたが、やがて諦めたように視線を逸らした。
 そして鈴音の腕を掴んで物陰に引きずり込んだ。
「ここだけの話だけどね。いまいった朱月ちゃんが殺されたの」
「えっ?」
「彼女、ここを辞めてから歌舞伎町のキャバクラに勤めていたらしいんだけど、2日前に何者かに殺されたって」
「じゃあ、大神さんたちはその件で?」
「それは分からない。私は彼らの話を聞いてはいないから。でも朱月ちゃんのことは、いつか来た可愛いい刑事さんに聴いたの」
「真樹乃さんに?」
 ママは頷いた。そして声を潜めて、
「そう。彼女、そちらの事件にも関わっているらしいわ」
「ふたつの事件が繋がっているということ?」
「さあ、それは分からない。でも、だからこそあなたも注意してね。これ以上、知り合いに死人を出したくはないわ」
 そういって春日ママは仕事に戻っていった。
 残された鈴音も接待をしながら考える。
 大神士郎の馴染みだった朱月が殺された。それと駒草の自殺の件とは関係があるのか?
 もしもふたつの事件に関連性があるのだとすると、大神士郎や赤沼虎次郎はこの件にどういう関わりをもっているのか?
 養父の桜木晃一郎は何故、吉ヶ谷翔麻の行方を探れと命じたのか?
 吉ヶ谷翔麻とは何者なのか?
 鈴音はまだ朱月の殺害に、吉ヶ谷翔麻が関与している可能性については知らされていない。
 その夜、帰宅しようとハイヤーを頼んだ鈴音は、向かいのビルの陰からジッと彼女を見詰める男の気配を感じて振り返った。
 ビル陰に隠れた男を一瞬だけだが確認した。
 長身の痩せた男だった。異様に手足が長い。黒いフードを被っていて、顔までは確認ができない。
 あいつだ。
 と、鈴音は思う。いつぞや彼女に不埒な手紙をもたらせたストーカー。
 面白くなってきた。
 ハイヤーの後部座席に揺られながら、姫崎鈴音は上機嫌であった。


 
 その夜は雨だった。
 スコールのような激しい雨が熱しきったアスファルトを叩く。人々は突然降り出した雨を避けて逃げ惑う。
 壊れかけた雨樋が音を立てて大量の雨水を吐き出している。
 東京、赤坂。
 午後9時くらいに降り出した集中豪雨も、2時間ほどで峠を越した。時計の針が深夜を差す頃には、雨もあがり少しばかりだが星も瞬き出している。
 アスファルトの路面には、豪雨の名残がたっぷりとした水たまりを創っているばかりだった。
 藤吉小百合(ふじよし・さゆり)は裏口の扉を開けて、その日の残骸が詰まったゴミ袋を路地のゴミ置き場に捨てたところだ。
 空を見上げると、流れ去る雲間から小さな月が覗いている。
「雨、止んだみたいよ」
 店内に戻った彼女は、ただひとり残った客に言った。
 カウンターの一番奥にその客は無言で座っている。無口で陰気な男だった。
 初見の客である。
 グレーと茶色の中間のようなコートを着ている。コートのフードを頭から被り顔はみえない。
 えらく背丈の高い男であった。そのくせ、針金のように痩せている。
 男が店に入ってきた時には、まだ雨は降りしきっていた時だから、男が濡れているのは仕方がないが、ママの小百合がタオルを差し出してもコートを脱ごうともしなかった。
 黒いマスクで顔を隠している。
 なんとも不気味な男である。
 男が喋ったのは、席についてウィスキーの水割りを注文した時だけだった。それからずっと、スマホをいじっているだけで、出された飲み物には目もくれない。
 店内には何組かの客がいたが、その男が気味悪かったのか雨の中を次々と帰っていった。
 小百合は男の客と二人きりになった。
 午後11時の頃である。
 男の座るスツールの下に水溜りが出来ている。
 どうしよう。
 と、小百合は思う。気持ちが悪い。出来るなら帰って欲しいところだが、客商売の手前「帰ってください」とも言いにくい。
 第一、話が弾まない。
 何度か声を掛けてはいるのだが、男は頑なに口をつぐんだままだ。
 ウィスキーの中の氷が溶けて音をたてる。それでも男はそれを手に取ろうともしなかった。
 何が目的なのかも分からない。
 とうとう小百合は決心した。早めに店を閉める事をだ。
 もう一度外に出て、看板を中に終う。
「あのう。もう、閉店なんですけど」
 そこで初めて男が顔を上げた。
 針金のように細い眼が、キツネのようにつり上がっていた。
「浪花(なみはな)さん」
「は?」
 一瞬、何を言ったか聴き取れなかった。
「もとクラブKAGEROUの浪花さんですね」
「なんで、それを?」
 小百合は狼狽した。ここ赤坂にスナックを開いて以来、そのことを口にしたことはなかった。
「あなたのことは、なんでも知っています」
 男はこちらを向いて言った。
「20代の頃にはアイドルをしていました。マキシム・ガールズというグループです。あの折原雅がいたグループですね」
まさか。
 と、小百合は思った。なんでそんなことを知ってるの?
 確かに彼女は過去にアイドル活動をしたことがあった。でもそれはずっと昔のことで、そのことを誰にも喋った覚えはない。
 折原雅(おりはら・みやび)。
 その娘は当時、国民的アイドルと呼ばれた少女だったが、もう4、5年も前に自殺してしまった。小百合が彼女と一緒にアイドル活動をしていたのは、それから更に3年は前の話だ。
 グループにいた時から雅は特別な娘だった。
 何というか華がある。彼女がそこにいるだけで、人々の視線は自然と彼女に集まってしまう。
 敵わない。
 自分や他のメンバーは、彼女を引き立てるために存在するのではないか。小百合はずっとそう考えていた。
 歌や踊りの実力ではない。もって生まれたもの。生まれながらのスターというものが存在するなら、それが折原雅という少女なのだろう。
 雅がいわいるおバカキャラとして一世を風靡したのは、それから間もなくだった。彼女が成功し用のなくなったマキシム・ガールズは、その後すぐに解散した。
 小百合はそれでもホッとしたものだった。雅のお陰で自分の立ち位置に気がついたからだ。
 自分はどうあがいても、あの場所にはたてない。あそこにたどり着けるのは、特別な人間たちだけなのだ。
 それでも小百合は雅をうやんだりはしなかった。彼女にはそのとき、別の夢が生まれつつあったからだ。
 当時、彼女には付き合っている男がいた。
 アイドルにとって恋愛は、当時から最高レベルの御法度である。それでも彼女が咎められなかったのは、相手が事務所の社長だからだ。
 大神士郎。
 小百合は彼の勧めで引退後、銀座のクラブに務めることになった。いずれは彼と結婚するものと、彼女はずっと思っていたのだ。
 しかし、自分が騙されていたことに、彼女はやがて気が付くことになる。
 クラブKAGEROUは指定暴力団一心会の息のかかった店であった。小百合をそこに送り込んだ大神の狙いは、一心会と桜木本部長の情報であった。
 それに気づいた彼女は男に捨てられ、それでも手切れ金にと渡された金で、赤坂のこの場所に店を開いたのだ。
 あの頃のことは、クラブKAGEROUの浪花の名前と共に涙の海に捨てたはずだった。
 それが何故?
 この男は一体何者なのか?
「あなたは、一体・・・」
「探し物をしているのです」
「探し物?」
 男は立ち上がった。
「はい。・・・知りませんか?」
「し、知りません」
 恐怖を感じて思わず後退ずる。
「大切なものなのです。あなたはそれをママさんから預かってはいないのですか? 嘘をつくと、ためになりませんよ」
 何をいっているのか、分からない・・・
 出入り口に向かって走ろうとした小百合の前に、男が立ちふさがった。
 マスクが剥がれ素顔が覗いた。
 頭が大きく、顎が極端に小さい。口が大きく耳元に吊り上がっている。笑っているのだ。
 巨大なカマキリが笑うとしたら、こんな顔になるだろう。
「さゆりん」
 男はふいにその名を呼んだ。彼女のアイドル時代のニックネームである。
「僕はあなたのファンだったんですよ。みんなは雅のほうがいいって言ったけど、自分は断然さゆりん押しだった」
「・・・あ、ありがとう」
 何をいってるんだ、自分は。と、小百合は思う。
「本当に知らないのですか? ああ、・・・僕はこんなことをするつもりはなかったのです」
 男は悲しそうに頭を振ると、コートの中から棒状の何かを取り出した。小百合はそれが何か最初は分からなかった。
 しかしすぐにそれに気付くと、大きな声を上げてへたりこんだ。
 男がその棒状の物を引き抜くと、ギラギラと輝く刃物が顔を出したからだ。
「助けて、助けてください」
 泣き叫ぶ小百合の顔に、その冷たい刃物を押し付ける。
「やめて、やめて。私のファンなら、やめて下さい」
 小百合は泣い涙で顔がグシャグシャになった。
「ああ・・」
 男は悲しそうな声でいった。それでもその目は悲しんではいない。
 透明な、クリスタルのような瞳。
「きれいだよ、さゆりん。僕は本当に、君のことが・・・」
 男の表情は変わらない。
 冷たい瞳。冷たい刃物。男は笑っていた。
 小百合は気を失った。

第4章 快人

 その日の朝。新宿区立西大久保中学の森田校長はパニック状態だった。
 まず宿直の教諭から電話があったのは早朝の6時である。校長は毎朝5時半には必ず起床する。
 年をとってから朝が早くなった。長年連れ添った古女房はもっと遅い。2人の息子たちはとうに独立してもう家にはいないから、ローンの済んだ3LDKの実家にいるのは、女房と年老いた老犬が一匹。それが家族のすべてである。
 猫の額ほどの庭で犬が吠えている。朝飯をねだっているのだ。犬の飯係は校長の仕事だった。
 台所で食事の支度をしている所に、その電話はかかって来た。
 最初は何をいっているのか分からなかった。
 電話の声がキンキンいっていて、何を喋っているのか聴き取れない。ひどく慌てて取り乱しているようだ。
「落ち着け。落ち着いてゆっくりと話せ。何があった?」
 必死に落ち着かせ、ようやく聞き出せたことは、つまりこういうことだ。
 校庭でひとが死んでいる。
 そして解剖されているようだ。
 解剖?
 どういう意味かは分からないが、取り合えずひとが死んでいるというのは穏やかではない。
「おい。死んでいるというのは間違いないのか? 意識を失っているだけじゃないのか? 救急車は呼んだのか?」
「救急車?」
 電話の相手はケケッと笑った。
「救急車ってなんです。解剖されているんですよ、解剖。必要なのは霊柩車でしょう」
 どうにも混乱しているようだ。
 時計をみると6時10分。授業が始まるのは午前9時からだが、早い生徒は8時過ぎには登校してくる。
 死体があるというのなら、それを生徒に知られるわけには行かない。
「とにかく警察だ。警察に連絡しろ。それから、それの上にシートか何かを被せろ。倉庫にブルーシートか何かがあるだろう。・・・そうだ、子供たちには絶対に視せるな。俺もすぐに行く」
 その頃には女房も起きてきた。
「何してんの? タロウが哭いてるじゃない。早くご飯あげないと」
 と、生あくびを噛み締めているのを無視して、教頭と近くに住んでいる数人の教諭たちに電話をかけた。
 森田校長の自宅は中野の新井町だ。車を飛ばして10分ほどで着いた。
 学校に着くと校内はすでに警察車両で溢れていた。
 午前6時半である。
 校庭の真ん中に青いビニールシートのテントが立っている。
 どうやら死体はその中らしい。
 テントの周りには数名の制服警官や、青い作業着を着た鑑識員らしき者。中にはカメラを構えた者たちが忙しく動いている。
 その光景を呆然と眺めていると、柿色の開襟シャツを着た年配の男が話しかけてきた。
「新宿署の今張です。失礼ですが、校長先生ですか?」
 今張と名乗った刑事は警察手帳を提示した。
「はい。校長の森田です。あのう、なにがあったのですか?」
「いや、それがね」
 刑事は少し言いにくそうであった。
「人が死んでいると聴いたのですが。間違いないんですか?」
「はい。それは間違いありません。しかし、ちょっと、いいにくい状態でして・・・」
「解剖がどうとか言ってましたが」
「ああ、そう。そうですか、お聞きになられたのですね。そう、それで、特にこのような場所で人目、特にお子さん達の目に触れると、まずいというか」
「わかりました」
 何が分かったのかは分からないが、とにかく子供達にはこの事実を隠さねばならない。
 とはいえ、もうすぐ生徒たちは登校してくる。いまさら停めることは出来ない。
 どうするか。
 その頃には近くに住む数人の教諭たちが出勤してきた。
「とにかく校門を閉めろ。生徒を校内に入れてはならない。登校してきた生徒は裏門から、体育館へ集めてくれ。もちろん今日は休校だ。あとで俺が生徒たちには説明する」
 子供たちだけはなんとしても守らなくてはならない。子供たちだけは・・・。
 そして森田校長の教員史上最高に忙しい一日が始まったのである。

 二階堂真樹乃はそれを見てしまった。
 真樹乃と匠のふたりは昨夜、新宿署に泊まらなくてはならなくなった。フォースの連中にナシ割、つまり証拠物品の管理業務を押し付けられたからだ。彼らは何か用があるらしく、勤務時間が過ぎると集団で去って行った。
 被害者の自宅から押収された大量の証拠品を分類、台帳に記入していくだけでも大変な労力である。そのうえ必要でない押収物品は、速やかに遺族に返却しなくてはならない。
 そんなことをしているうちに署内に一報があがった。午前6時5分頃である。
 新宿署管内で殺人事件発生。
 すっかり退屈しきっていた真樹乃は飛び上がった。
 よっしゃあ。
 早速、ドゥカティの後部座席に匠をタンデムして、現場に駆けつけた。
 現場ではまだ、死体の上にテントを張る作業の最中であった。だから彼らはそれを観ることが出来たのである。
 ブルーシートで囲まれた区域の中に入って真樹乃は思わず、
 うっ。
 と、後退った。
 大抵の死体は見慣れているはずの彼女だったが、それはそんな彼女ですら思わず顔をしかめるほどのものであった。
 校庭の真ん中に、その女性は仰向けに倒れていた。髪の長い女である。全裸で両手両足を大きく開いている。
 まだ若い女であろう。剥き出しの乳房はきれいなお椀型をしていた。
 しかし問題はそんなところではない。
 女性の腹は胸元から骨盤にかけて一直線に切り開かれ、皮膜は左右に大きく開かれている。シートのように開かれた皮膜は、キャンプで使うペグのようなもので固定されている。
 まるで子供の頃に遊んだカエルの解剖のようだった。
 女性の内蔵は裂かれた腹腔の中に丸見えであり、赤黒い血だまりの中に埋まっていた。
 これは。・・・
 話に聴いた。そして写真で何度も確認した、清水愛理の死亡状況と一緒ではないか。
 さすがに気持ちが悪くなってきた真樹乃の横で、匠は平気な顔で朝食代わりのシャケ握りを食っている。
 こいつ。特別な肝っ玉をしているのか。それともただ単に感覚が鈍いだけなのか?
 真樹乃は後者と認識した。
「ねえ、真樹乃先輩」
 匠はモグモグと口を動かしながら囁いた。
「このホトケさん。殺されてからここに運ばれ、その後で腹を裂かれているっす」
 そう言われてみると、女性の首には赤黒く絞められた跡がみえる。
 しかし、運ばれた後に裂かれた、というのはどういうことだろう?
「出血の量が少ないからっすよ。殺害された直後に切断されたのなら、もっと大量に出血してもおかしくはないす。ねえ?」
 隣にいた若い鑑識員に同意を求める。
 その鑑識員は頷いて、
「そうですね。腹を裂かれたのは、亡くなってから少なくとも1時間は後です」
「死亡時刻は?」
「詳しくは解剖を待たねばなりませんが、午後10時から午前2時頃といったところでしょうか」
「死因はやっぱり絞殺っすかね」
「そうでしょうね。まず間違いないと思います」
「ありがとうございます」
 若い鑑識員が去ってから、真樹乃を誘ってブルーシートの外に出る。
「これはやはり吉ヶ谷の仕業とみていいんだろうな」
 真樹乃が言った。
「でしょうね。こんな死体の遺棄をするやつが、ふたりも三人もいたら堪らないす」
「しかし、なんで殺してからこんな場所に運んだのだろう?」
「本当なら歌舞伎町に遺てたかったんでしょうね」
 匠は考え込みながら言った。
「でも、ここは歌舞伎町じゃねえ」
「歌舞伎町は夜中でも人通りは絶えませんからね。こんな昆虫採集みたいなマネをしていたら、人目について仕方がないす。だから、夜中に人気のないこんな場所まで運んだんでしょ」
「だから何で歌舞伎町なんだよ」
 真樹乃はどうにも納得が出来ない。
「あくまで目的は俥座一家の岩倉への報復ということにして置きたいのでしょう」
「てことは逆にいえば、吉ヶ谷の目的は別にあるってことか」
「まあ、そうすね」
 そうこうしているうちに捜査員たちが集まってきた。
 これから捜査割り当てがあって、夜には捜査会議だな。
 真樹乃は大きくあくびをした。
 

「ガイシャの名前は藤吉小百合。32歳。赤坂にあるスナック「夢兎(むと)」のオーナー従業員。つまりママです」
 新宿署捜査一課の今張警部補が捜査手帳をみながら報告した。
 その夜の午後8時。
 場所は新宿署の第1会議室である。それまでの「歌舞伎町3丁目殺人事件捜査本部」は、「東新宿連続殺人事件捜査本部」に訂正されていた。
 捜査員たちの前面、幹部席の真ん中には呉羽捜査一課長が座っている。
 それだけでも事件の重大性が理解が出来ようものだ。
「殺害場所は赤坂のスナックの中のようです。スナック内に争ったような跡がありました。ホシはそこでガイシャの首を絞めた後、遺体を現場まで運んで腹を裂いたと思われます。死亡時間は午後10時から午前2時頃。腹を割いた時間は、午後11時から午前3時までの間と推定されます」
「問題はなんで腹を裂いたのかということだな」
 鮫島管理官が呻くように言った。
「やはり吉ヶ谷の仕業ですかね」
 そう囁いたのは、管理官の横に座った新堂警部である。鮫島管理官は頷いた。
「3丁目のホシが吉ヶ谷ならばな」
「では、次にスナック夢兎近辺の地取りの結果ですが」
 ダイハチの高藤巡査部長がメモを片手に立ち上がった。
「当夜、スナック夢兎に遅くまで残っていた常連客に接触できました。それによると、午後11時くらいまで店に居て、その後帰宅したとの証言を得ることができました。すなわち、死亡事故は午後11時以降に絞られます」
 おおっ。
 という声が会議室に流れた。
 フォースの刑事の何人かが高藤を睨んだが、高藤は無視して先を続ける。
「その証言者がいうには、その1時間ほど前にずぶ濡れになった男が入店してきて、彼が退店するまでずっとカウンターの奥に居たとのことです。その男は特定されていません」
「人着は?」
「ずっとコートのフードを被っていたので、顔までは確認できませんとのことでした。えらく気味の悪い男で、ひとことも喋らなかったそうです。その男があまりに不気味なので、証言者は早々に席をたったと言っていました」
「身長とかはどうだ?」
「背はかなり高いみたいでした。175センチ以上、恐らく180センチはあったろうとのことです。身長の高い割にガリガリに痩せていたと証言しています」
「それって・・・」
「はい。吉ヶ谷の人着にかなり近いと思われます」
 そう言って高藤は腰を降ろした。大丸がその背を叩く背後で、フォースの刑事が渋い顔をしている。
「ええと、それでは次に現場となった小学校の宿直者の証言ですが」
 続いて立ち上がったのは、新宿署の強犯課の刑事である。
「宿直の教諭は午後11時と午前3時に校内を見回ったそうですが、いずれも異常はなかったそうです。特別校庭までは注意してはいなかったそうですが、雨は11時くらいには止んでましたし、校舎の廊下の明かりが外に漏れてましたから校庭はよく見えたそうです。もちろん死体はなかったそうです」
「その後、午前5時に遺体を発見したということだな。つまり遺体がそこに置かれたのは午前3時以降、午前5時以前ということになるな」
 鮫島は腕を組んだ。
「ということは殺害時間は午前2時から、午前3時までの間に絞られるわけだ」
「遺体が裂かれたのが死亡後1時間と限定するならな」
 呉羽課長が訂正する。
「昨夜は雨が降ったため、グランドもぬかるんでいたはずだ。足痕(ゲソコン)はどうだ?」
 鑑識課の刑事が立ち上がる。
「はい。現場のゲソコンは1種類だけ。29.5センチの革靴です」
「なるほど、それはホシのものと断定していいのか?」
「はい。しかし踏み荒らされているので、靴の断定までは出来ません」
「そうか。では次に現場周辺の地取り」
 別の刑事が立ち上がる。
「何分、深夜のため周辺に目撃情報はありません」
「現場から5百メートル程先にコンビニがありまして、そこの防犯カメラを当たりました」
 そう言ったのはダイハチの大丸巡査長だ。
「午前3時15分に黒いワゴンが現場のほうに向かいまして、1時間後の4時20分に戻ってきています」
「車種は限定しているのか?」
「はい。トヨタのハイエースです。残念ながらナンバーまでは特定出来ません」
「その車が遺体を運んだ可能性が高いな。引き続き周辺の防犯カメラをあたってくれ」
「はい」
 大丸は腰を降ろした。
 今回の捜査ではうちの捜査員のほうが、圧倒的に点数を稼いだな。
 真樹乃はご満悦だったが、ライバルであるフォースの面々は少しも悔しそうな顔をしていない。そこに少し引っかかる。
「ところでガイシャの藤吉なんですが、スナックを始める前はKAGEROUに在籍していたそうです」
 フォースの刑事が言った。なるほど彼らが余裕を見せているのはそういうことか。
「また、KEGEROUか」
「つまりふたつの事件はクラブKAGEROUで繋がるってことです」
「12年前の意趣返しという線はブラフということか」
 呉羽は苦い顔をした。
「わかった。今後は歌舞伎町の線と、クラブKAGEROUの線を並行して捜査することにする」
 そう言って締めくくった。
「ところで課長」
 会議が終了したあと、鮫島管理官が呉羽課長の耳に囁いた。隣には新宿署の組織犯罪捜査課長が渋い顔で立っている。
「少しお話があります」
「どうした?」
「歌舞伎町の俥座一家が動き始めました」
 そういったのはソハンの課長である。
「俥座一家か・・・」
「これで二件目ですからね。彼らとしても目と鼻の先で勝手な真似をされては面子が立たないのでしょう」
「連中が動けば少し厄介だな」
「歌舞伎町の半グレ共を狩っているようです」
「半グレを?」
「関東連隊の残党をです。ほら、先月の二子玉のホシが、関東連隊のOBだという話ではないですか」
「つまり連中は、今回の事件と二子玉の事件が、関連していると考えているわけだな」
「そうかも知れません」
「ふん。なんの根拠があって、だ?」
 呉羽は首をひねる。
「いずれにしても連中が動けば面倒なことになります」
「わかった。そちらは私が抑えよう」
「課長が、ですか?」
「それはお前」
 呉羽捜査一課長はニヤリと笑った。
「モチはモチ屋というじゃないか」

 マンション北側の暗い駐車場の片隅に、その軽ワゴンは停まっていた。
 入口からは反対側にあたるその駐車場は、マンションの住人はほとんど利用してはいない。住人の多くは入口横の地下駐車場に車を停めるようにしているからだ。
 軽ワゴンの運転席では、神宮匠がヘッホンを耳に当てて、盗聴器から聴こえる音声に耳を凝らしていた。
 2日後の夜である。
 鈴音は電話で誰かと話している。
 驚いたことに彼女は電話をスピーカーモードにして、音声が匠にも聞こえるようにしている。
 あからさまだった。
 真樹乃が仕掛けた盗聴器は、鈴音が匠に知らせたことで、この出来レースはまったく無意味になった。それでも匠はこの盗聴を続けているのだ。
 鈴音が盗聴器を使って、何らかの情報操作をしようとしていることは分かっている。
 それは承知だ。承知の上でそれをする。
 姫崎鈴音。
 彼女が何を考えているのか、自分や真樹乃先輩を使って何をさせようとしているのか。
 匠にはそれが分からない。わからないから面白い。
 匠はそう思っている。
電話の相手は桜木晃一郎。彼女の養父である。
「ねえ、パパ。朱月さんに続いて浪花さんまで殺されたというじゃないの。これってどういうことなの?」
(どういうことって?)
「新聞によると殺したのは、私が捜せといわれている吉ヶ谷ということじゃない」
(みたいだな)
「みたいだな、じゃないでしょ。一体、吉ヶ谷って何者よ。パパは何であの男を捜しているの?」
(お前は知らなくていいことだ)
「あのね」
 鈴音は怒りを押し殺していう。
「私が何も知らないと思ったら大間違いよ」
(お前がなにを知っているというんだ?)
「今回の事件は駒草ちゃんが、パパの秘密を峯岸に売ったことが発端だわ。しかし峯岸はその証拠を受け取ることが出来なかった。彼女はそれを峯岸に渡す前に自殺してしまったからよ。で、問題はその証拠品は、いまどこにあるかってことよね」
(吉ヶ谷がそれを捜しているということか?)
「そうね。彼はそれを元KERGROUのキャストの誰かが持っていると考えたわけ」
(しかしな、その駒草という娘と、死んだ朱月や浪花とは接触がないぞ。駒草が入店した時点で、ふたりは退店していたはずだからな)
「そうなのよね。そこがイマイチ・・・」
(だいたい、俺の秘密って何だよ)
「さあ、それは分からない。でも、それが知れたらパパの将来に関わるようなヤバイやつ」
 桜木は電話の向こうでクスクス笑いだした。
(そんな重大な秘密を、駒草などという小娘に知られる俺だと思うのかよ)
「それもそうね。ところで吉ヶ谷って何者?」
(もと赤沼組の舎弟頭だった男だ)
「なるほどね。赤沼の虎次郎さんとはパパ、仲が悪いもんね」
(何が言いたい? 吉ヶ谷はとうの昔に赤沼組を破門されているんだぞ)
「そうか。するといま吉ヶ谷はフリーというわけか。誰が彼を雇ってもいいわけだ。例えば大神さんとか」
(鈴音。お前、何を知っているんだ?)
「峯岸高文はもと金竜会の構成員だったわ。金竜会というのは大原興行の孫組織。大原興行とマキシムの大神さんとはツーカーの仲よね」
(それがどうだというんだ)
「1週間くらい前だったかな。赤沼の虎次郎さんと大神さん、それに金竜会の金重さん。この三人が揃ってKERGROUに来たことがあったの。これって偶然だと思う?」
(偶然だろ)
「偶然かぁ・・・。ママね。春日ママから情報は届いているのね。なあんだ、そんなことはもうお見通しか。少し残念、もっと驚くと思ったのにな」
(鈴音、お前は余計なことを考えないでいい。とにかくお前は吉ヶ谷の行方を探すんだ)
「警察より先に?」
(もちろん警察より早くだ)
「それはどうかな。匠君はちょっと強敵」
(匠? 神宮匠のことか?)
「あれ? パパ、匠君のこと知ってるの。彼って意外と有名なのね」
(そんなことはどうでもいい。とにかく吉ヶ谷を探せ。もう、切るぞ)
「はいはい。じゃあ、またね」
 鈴音は電話を切った。
 さて、匠君。聴いているかな?
 聴いてなくてもきっと録音してるよね。
 この情報をどう捉えるか、そしてどう扱うか。それは君次第。
 鈴音はソファーを離れて窓辺に行った。高層マンションの38階の窓からは、闇夜に瞬くビル街の明かりがみえる。そのひとつひとつに生命の輝きがあるのだ。
 叶うなら、私の思うように動いてよ。匠君。

 軽ワゴン車の座席にもたれて、匠は薄くまぶたを閉じている。とはいっても寝ているわけではない。
 逆である。車の中で匠は考えている。
 電話の内容はどこまでが真実で、どこからが嘘なのか?
 盗聴をしている事を承知で電話の内容をさらけ出している以上、それが秘密の情報ではないということであろう。
 会話の内容は大きく分けてみっつだ。
 ひとつは鈴音の養父である、一心会本部長の桜木晃一郎の秘密を、吉ヶ谷が追っているということ。
 二つ目はその件に赤沼組の赤沼虎次郎と、マキシムの大神士郎が関わっているだろうということ。
 そしてその秘密を握っているのは、クラブKAGREROUの関係者であるということだ。
 赤沼や大神は桜木の、いってみれば商売敵である。そういうこともありそうな話ではある。
 問題はそれが何であるかということだ。
 それを鈴音はそれを知らないのか? あるいは知っていてとぼけているのか?
 彼女がこうして情報を漏らしている目的は、警察力を持って赤沼や大神を抑えさせようというところにあるのだろう。
 そこまではわかる。しかし、果たしてそれだけか?
 彼女の企みはもっと深いところにあるのではないか。何故かそんな気がするのである。
 そんなことを考えているうちに、ヘッドホンから電話のコール音が聴こえた。
「あ、ママ?」
 鈴音が電話に出た。その気配はあったが、その後彼女の声は聴こえなくなった。
 盗聴器の届かない場所に移動したのか。
 と、いうことは、それは聞かれてはならない電話であるということだ。
 彼女は電話の相手を「ママ」と呼んだ。
 ママ?
 鈴音は養父である桜木を「パパ」と呼ぶ。するとママとは彼女の養母、すなわち桜木の妻のことなのか?
 なんで養母からの電話を秘密にする必要があるのか?
 しかしこの時、自分らの電話を傍聴していたもうひとりの人物がいたことに、匠は気づいてはいなかった。
 その人物は真樹乃の仕掛けた盗聴器の電波を、別の場所から傍受していたのだ。
 マンションのエントランス前面に広がる公園。その植え込みの中に彼は潜んでいた。
 黒いブルゾンのフードを頭から被った男だ。長身の痩せ型の男。
 以前、鈴音が真樹乃に話した、ストーカーの人着だった。
 あるいはあの、吉ヶ谷翔麻の人着でもあった。
 男がイヤホンを外し、後ろを振り向いた時、その首に黒い腕が絡みついた。
 手袋をはめたライダースーの腕。
 グッ。
 と、呻いて男は気を失った。
 気を失った男をフルフェイスのメットを被った影が支えていた。
 その事実を、マンションの反対側にいた匠が知ることはなかった。


 
 待ち合わせ場所に現れた呉羽かすみを見て、真樹乃は思わず口を覆った。
 彼女が暴走族の着るような特攻服を着てきたからだ。
 裾まで届くような白い長ラン。背中には「暴虎馮河(ぼうこひょうが)」の飾り文字。
 それは往年最強レディース、「エンピのクレハ」といわれた時代の彼女の姿であった。
「か、課長。なんすか、その格好」
 真樹乃は笑いを押し殺していった。
「やかましい。こういうもんはな、気分なんだよ、気分。ぶっ殺すぞ、コラァ」
「あ、赤くなってますよ。ちょっと可愛いかも」
 真樹乃はケラケラと笑った。
「死ねや、オラァ!」
 呉羽も強烈な蹴りを間一髪のところでかわす。そんな彼女の姿をみても、匠はまるで意に介さない。
「じゃ、行きましょうか」
「お、おう・・・」
 冷めてやがる。・・・呉羽と真樹乃は思わず顔を見合わせた。
 おい、少しは突っ込んでやれよ。
 と、思う真樹乃であった。
 次の日の夜である。
 前日の盗聴した鈴音の電話内容を報告したあと、呉羽は真樹乃と匠を誘って歌舞伎町にやってきた。
 目的は俥座一家の暴走を抑えることである。
 俥座一家では吉ヶ谷が、組員の岩倉正隆への報復に現れたのだと思い、それに対抗して勢力を強めている。
 12年前、吉ヶ谷は岩倉の手によって捕らえられ、投獄生活を送るハメになったのだ。それを逆恨みし、意趣返しにやってきたのだろうということは十分に考えられる。
 ましてやすでに2人もの人間が殺害されているのだ。
 歌舞伎町や新宿に巣食うその種の人間たちは、それが俥座一家が彼に舐められたせいだと考える。連中が直接それを口には出さなくとも、少なくとも俥座一家の人間たちはそう捉えるのだ。
 俥座一家は歌舞伎町の自衛団を自認している。舐められたままでは、他の組織にシメシがつかない。
 だから動く。
 なんとしても「落とし前」をつけねばならない。
 花園神社の社前が赤く燃えていた。
 俥座一家の本部建物の前に無数の松明が燃え盛り、真昼のように輝いている。
 庭にドラム缶が置かれ、キャンプファイヤーのように火が燃えている。
 浅草のだるま組あたりからの助っ人連中か、庭に集まった強面の人数は正規の組員以上であった。
 歌舞伎町が異常に殺気立っている。
 その気配が、ビンビン肌に響いてくるのだ。
 そのひと渦の中を呉羽かすみを先頭に、真樹乃と匠が後に続く。
 通常の人間なら腰を抜かして、一歩も動けないところだ。しかしこうした出入りが大好きな真樹乃はウキウキとして、鈍感な匠は物見遊山にでも行くように上司の後に従っている。
 彼女たちが行くところ、人波がモーゼのように割れていく。彼らの何人かは往年の呉羽かすみを知っているのだ。
 二手に割れた集団の中がザワつき始めた。
 エンピのクレハ。
 なんであの女がここに居るんだ?
 あいつ、もう引退したはずじゃあなかったのか?
 玄関まえには俥座一家の主だった男たちが集まっていた。
 異端児佐藤光盛が、ケンカ屋久我涼太が、そして巨漢の富士武士がいる。
 その中央。右に村田彦次郎、近藤宗親。左に岩倉正隆を従えた7代目火車の仁吉が、でんと腰を据えていた。
 いいね、いいね。この雰囲気。
 真樹乃はゾクゾクして匠に囁く。匠は退屈そうにフワッとあくびをした。
 悠々と近づく呉羽の前に岩倉が立ちふさがった。同時に真樹乃の前には久我涼太が睨みを効かせる。
 額と額がぶつかりそうな距離で、激しいガンの飛ばし合いだ。
「久しぶりだなぁ、岩倉よォ」
 呉羽が凄まじい笑みを浮かべる。
「呉羽かすみ。てめえ、何しに来やがった」
「あんたの大将に話があんだよ」
 そしてジロリと仁吉を睨む。
 その横では久我が真樹乃に牙を剥いていた。
「おどりゃ、なめくさるといてまうど。オラァ」
「おう、上等じゃい。やれるもんならやってみせんかい。このチビが」
「チビはおのれじゃ。ボケェ」
 一糸触発とはこのことだ。喧嘩っぱやいふたりは、至近距離で睨み合っている。
 額と額がガンガンぶつかる。
「止めとけ、久我」
 いまにも噛み付かんとする猛犬を岩倉が抑える。
「てめえもだよ、クソガキが」
 呉羽がゲンコを落とす。
「うちの若いモンがすまんかったな。え、仁吉さんよ」
 仁吉がズイと立ち上がる。鋼鉄の塊が動き出したようなものだ。
「エンピのクレハか。噂は聴いているよ」
「そりゃあ、話が早い」
「てめえ、いまはマッポというじゃねえか。そのてめえが、この俺に何の用があるというのだ?」
 火を吹くように仁吉がいう。
「決まってんだろ、吉ヶ谷の件だよ」
「吉ヶ谷がどうしたって?」
「奴の件からは手を引け。あれは私の獲物だ」
「そいつあ、出来ねえ相談だな」
 仁吉はせせら笑った。
「こいつは、面子の問題だ。火車の仁吉がポッと出のチンピラに舐められたままじゃ、しめしがつかねえんだよ」
「ふざけてんじゃねえぞ、このガキが」
 怒号。
 聴いている真樹乃の身体がビリビリと震える。
 凄まじいほどの覇気。
 すげえ。
 これがエンピのクレハか。
「てめえのツラがどれほどのもんかは知らんがな。こちとら背中に、1300万の東京都民の生命を背負っているんだよ!」
 雷鳴が轟き、一同言葉を失った。
 さしもの仁吉も口を閉ざし、凄まじい目つきで呉羽の顔を睨みつけている。
「その1300万の中に俺も含まれているのか?」
「当たり前じゃないか。てめえも、そこにいるガキ共も、みんなまとめて私が守ってやるよ」
 仁吉ははじめてフッと笑顔をみせた。
「ふん。大した女だな。この火車の仁吉に、それだけのタンカを吐いた奴はてめえがはじめてだ。・・・わかったよ、今回はてめえの顔を立ててやる」
「すまねえな」
 ホッと呉羽も息を吐いた。
「ただし1週間だ。1週間でケリをつけろ。それ以上は俺にも抑えられない」
「わかった。1週間でケリをつける」
 おいおい、大丈夫か。安請け合いをして。
 気が気ではない真樹乃だが、呉羽は平然と背中を向けた。
「ようし、話は終わった。んじゃ、帰るぞ。野郎ども」
「へい、姐御」
 調子に乗った真樹乃の頭を叩いて呉羽が帰り始める。その背後にスッと近づく影がある。
「おい、タクミよぉ」
 振り向くと白スーツに身を固めた花柳慧一が立っていた。
「たいしたもんだな、お前の大将。あの火車の仁吉が笑う姿をはじめて見たぜ」
「大将じゃありませんよ」
 匠はニコリともせずにそう言った。
「ウチの上はもっとすげえっす」
 そんな呉羽たちを少し離れた所から、近藤宗親はうっとりとした表情で眺めていた。

第5章 闘人

 二階堂真樹乃はその日、姫崎鈴音と銀座の街を歩いていた。
 真夏の太陽が夕日に変わる絶妙な時間である。ビルの表が夕焼けに染まり、長く伸びたビル影が火照ったアスファルトを適度に冷やしていく。しかし大気はまだまだサウナの暑さを残したままだった。
 真樹乃はこの日非番であった。
 本来なら愛車のドゥカティを駆って横浜の海辺あたりをブッ飛ばしたいところなんだが、鈴音から電話があって買い物に誘われた。普段なら速攻断るところだが、上司の呉羽課長から出来るだけ彼女から離れるなと言われている。仕方なく銀座まで彼女の買い物に付き合うことになったということだ。
「ねね、真樹乃さん。これ可愛いいと思わない」
「ねえ。これなんか真樹乃さんにピッタリよ」
 鈴音はご機嫌だった。高級ブティックをハシゴしては、次々と真樹乃の躰に洋服を合わせていく。
 まるで自分の買い物というより、真樹乃のために洋服を選んでいるようだ。
 真樹乃はそれらのタグを眺めただけでため息を禁じえない。
 そもそも彼女はファッションというのに興味を感じたことはない。彼女の考えるファッションというのは、まず第一に動きやすいことと丈夫なことだ。可愛いとか似合うとかいう選択肢は、彼女の中では遥かに低いポジションでしかない。
 今日も真樹乃はいつもの黒っぽいパンツスーツである。
「こっちのワンピのほうが可愛いかな。真樹乃さんて、スカートとか履かないの?」
「スカートじゃ蹴れないだろ」
「女の子なんだから」
 鈴音は呆れたように言う。
「蹴っちゃだめよ」
「馬鹿いってんじゃねえよ」
 真樹乃は怖い顔をしながらも、フッと可笑しくなった。以前はあれほど嫌っていた鈴音だが、最近ではそれほどでもなくなった。彼女の行動に感化されたのか、慣れてきたのかは分からない。しかし油断だけはしてはならないと自分に言い聞かせる。
 彼女が自分に近づく訳は、自分を利用することだということは十分に承知しているからだ。
「真樹乃さんは可愛いんだから、もっと自分に自信を持ったほうがいいわよ」
 ブティック脇のコーヒーショップでクリームパフェを食する。
 こういう食べ物も苦手だ。
「可愛いとかなんとかは関係ねえな。あたしはあたしの好きなように生きていくんだ」
「そういうとこは、カッコいいんだけどな」
 鈴音はニコリと笑う。
 そういう笑みを浮かべられると真樹乃も悪い気はしない。
 こりゃ、男が引っかかるわけだよな。
 と、思う。
 買い物を済ませて帰宅する頃にはすっかり暗くなってきた。
 新橋から汐留方面に向かう道だ。
 普段は帰宅を急ぐサラリーマンたちで賑わう街並みだが、休日のせいか歩いている人はほとんどどいない。街頭に照らされたふたりの影が長く伸びている。
「なあ、鈴音」
 真樹乃は背後を気にしながら声を掛ける。
「前にいってたストーカー、その後はどうよ?」
「うん、しばらくは出なかったけど。この間もマンションの前で待ち伏せされてた」
「前と同じ男か?」
「うん、多分ね」
 ヒタヒタとふたりの足音だけが響く。
「付けられてるぜ」
 真樹乃がニヤリと牙を剥いた。
「うん、わかってる」
「お前のストーカーか?」
「わかんない。でも・・・」
「でも?」
「怖いわ」
 プッと吹き出した。
「嘘だろ?」
「真樹乃さん、私をなんだと思ってるの?」
「まあいいや。あいつ捕まえるぞ。協力しろ」
「どうすればいいの?」
 ふたりは脇道に入り、人気のない方へと誘導していく。エアコンの室外機やゴミ箱のせいで極端に道幅の狭くなった路地の奥に足を進める。
 ここまで来て、後をつける男の姿がはっきりとした。
 濃紺のブルゾンのフードをすっぽりと被った男。顔の下半分は黒い革のマスクで覆われている。
 身長180センチ。痩せ型。
 鈴音の言っていたストーカー、あるいは吉ヶ谷の人着にそっくりな男。
「あんた、吉ヶ谷翔麻か?」
 真樹乃がいう。
 目が細い。目尻が上に吊り上がって、笑っているように見える。
「君、クラブKAGEROUの静香ちゃんだろ?」
 真樹乃を無視して男が言った。カマキリがしゃべるとすると、こんな声だろうという感じがした。
「きみ可愛いね。僕の好きなタイプかも」
「あら、嬉しいわ」
 言葉とは裏腹に少しも恐れているようにはみえない。やれやれと、真樹乃は思う。
「あたしを無視すんなよ」
「なんだ、お前? 猫娘みたいな顔して。鬼太郎か?」
 男がはじめて真樹乃に目を向けた。
「良く言われるよ。じゃなくて、お前吉ヶ谷だろって聴いてんだよ」
「お前こそ誰なんだよ?」
 仕方がないというように真樹乃は警察バッチをみせた。男はケラケラと笑いだした。
「刑事? お前が? こりゃ傑作だ」
「職質だ。免許証をみせろ」
「やだねー」
 男はアカンベーをした。そしてポケットに手を入れる。
「うるさいとお前、殺しちゃうよ」
 抜き出した手には20センチ程の短刀が握られていた。左右の手に1本づつ。
「いいね、いいね。そうこなくちゃ」
 真樹乃は嬉しそうに腰に手を回す。その手には長さ30センチの特殊警棒が握られている。
 彼女は平時でも腰のベルトに特殊警棒を常備しているのだ。
「おい。手ェだすんじゃねえぞ」
 バックの中に手を入れている鈴音に真樹乃が言った。彼女がバックの中にナイフを忍ばせていることは知っている。
 鈴音はフッと怪しい笑みを浮かべて後ろに下がった。
 男と真樹乃の距離は約8メートル。男は両手に握った短刀を、左右の頭上に大きく開いている。
 手足が異常に長い。まるでカマキリが獲物を狙うようだ。
 真樹乃は警棒を構えて、つま先でスッと立った。まるでミーヤキャットが立ち上がったようにみえて、鈴音は思わず「可愛い」と思ってしまった。
 しかしそれは、彼女の知っているあらいる格闘技の構えとも違っていた。
 ふたりの周囲に言い得ない圧力が満ちている。
 街灯に照らされ、異様な微光を放つふたりのす姿を、姫崎鈴音は少し離れたところから見つめている。
「銃刀法違反。それに公務執行妨害、重罪だな。・・・んじゃ、行くぜえェ」
 一瞬、真樹乃の身体が半分ほどに縮んだ気がしたが、実際にはしゃがんだだけである。精一杯背伸びをした体勢から思い切り屈んだので、彼女の身体が縮んだように見えただけだ。
 十分に蓄えた足腰の反発力を利用して真樹乃は飛んだ。まるで獲物を捕らえる猛獣のごとき動きだった。
 8メートルの距離を一気に縮めると、男の下半身に強烈な攻撃を仕掛ける。
 特殊警棒を横に払い下腿部を切り裂いた。
 しかし、彼女の警棒は宙を薙いだけだった。間一髪で男が空中に飛び上がったからだ。
 空中で男は前方回転をするように逆立ちになると、真上から両手の短刀を真樹乃の上に突き刺した。
 その瞬間真樹乃は、更に前転して男のナイフをかわす。
 ふたりは別方向に回転し、お互いの位置を交換したまま睨み合った。
 息を止めてふたりの攻防を見守っていた鈴音は、
 ほう。
 と、溜めていた息を吐き出した。唇に美しい微笑を浮かべて、だ。
「やるじゃねえかよ、吉ヶ谷」
 真樹乃が凶暴な笑みをみせる。
「君って凄いね」
 男は意外そうな顔をした。
「でも、僕は君のことが嫌い。今度ひとりの時にゆっくり逢おうね。静香ちゃん」
 その時、背後から強烈な光が迫ってきた。
 たじろぐ真樹乃の前に、轟音と共に大型のバイクが横滑りのまま乗り付けた。
 黒いフルフェイスのメットを被った男が乗っている。その後部座席に吉ヶ谷とみられる男は鞍がった。
「じゃあ、またね、静香ちゃん。バイバイ」
 そう言い残して、ふたりを載せたバイクは表通りのほうに去っていく。
「チェッ」
 真樹乃は悔しそうに唾を吐き捨てた。
「折角、面白くなってきたというのによ」
 どうやら指名手配の吉ヶ谷を逃したことより、喧嘩相手に逃げられたことのほうが悔しいようだ。
「ナンバープレートは隠したままか・・・緊急無線も置いてきたしな」
 仕方がないので携帯で本部に連絡を取る。
 いずれ緊急配備が行われるだろう。
「真樹乃さん、無事?」
 鈴音が心配そうに寄ってくる。
「ああ、なんてことはないよ。それにしても、あたしの「波車」が躱されるとはな。「吉ヶ谷に刃物」とはよく言ったもんだ」
「さっき使ったあれは何? 普通の剣道じゃないでしょ?」
「椿流小太刀。古流剣術だよ」
 真樹乃は言った。
 

 真樹乃からの通報もあって、その日のうちに都内近辺に非常線が引かれた。
 高速の各インターや幹線道路に検問所が設けられたが、吉ヶ谷らしき男が引っ掛かることはなかった。
 各所にある防犯カメラの画像も解析されたが、それらしいバイクは写っていない。よほど慎重にコースを選んでいるのだろう。
 しかし吉ヶ谷に協力者らしき人物が居ることが分かっただけでも一歩前進だった。
 吉ヶ谷本人と同じような長身で痩せ型の人物。
 恐らくそれは赤沼組か、金竜会の関係者であろうと想像された。
 そして次の夜。
 真樹乃は鈴音からの電話を受けた。
 丁度、捜査本部に戻ったところだ。
(もしもし、真樹乃さん。私)
「なんだ? またストーカーが出たのか?」
 時計をみると、夜の9時すぎだ。
 横からフォースの篠塚刑事が聞き耳をたてている。
 うっとおしい奴。
 真樹乃は身体をねじって背中を向けた。
(ううん、違うの。春日ママがね、出勤してこないのよ)
「そりゃま、たまにはサボることもあろうがよ」
 自分ならありそうだ、と言うようだ。
(でも連絡もないし、ちょっと心配)
「同伴ってことはないのか?」
(それならそれで連絡はあるわ。いままで黙って不在というのは一度もないし、それに・・・)
「それに?」
(朱月さんと浪花さんが殺されてから、ママひどく落ち込んでいたの。それだけじゃなくって、今度は自分が狙われるんじゃないかって。それから、私にも気をつけろって言うのよ。昨日、私にもあんなことがあったでしょ。私、どうにも悪い胸騒ぎがして)
「わかった。携帯も繋がらないんだな」
(うん。繋がらない)
「取り合えずヤサに行ってみるか。住所はどこだ?」
(四谷の若葉町よ)
 そして彼女は住所を教えた。
(私もいまから行くわ。向こうで会いましょう)
「春日ママが出勤してこないって? どういうことだ?」
 電話を切ると、聞き耳を立てていた篠塚が訊いた。
「盗み聞きですか? まあ、そういうことすね。・・・係長」
 真樹乃はひとりだけ幹部席に残っていた新堂警部に声を掛けた。
「クラブKAGEROUの春日ママから連絡が途絶えました。前の2例から考えて、彼女の身に何か起こった可能性もあります。アンカク(安否確認)してよろしいでしょうか?」
「分かった。篠塚、お前も一緒だ」
「はあ?」
 不満そうに真樹乃が口を尖らす。
「お前らはバディだろ。そうじゃなくともお前らダイハチは、独断捜査が多すぎるんだよ」
 独断捜査うんぬんの前に、ダイハチの行動を監視するつもりだろ。
 そう思うが拒否するわけにはいかない。
「ま、そんな訳だ。よろしくな」
 篠塚の野郎、ニヤリと笑って珍しく下手に出やがった。どうにも気味が悪い。
 車を飛ばして10分ほどで現場に到着した。
 鈴音もほぼ同じ時間に着いたらしく、マンションのエントランスで顔を合わせた。
 篠塚とは初めましてだ。どんな顔をするかと思ったが、鈴音はいつも通り愛嬌のある笑顔だし、篠塚はほとんど無表情だった。
 ふん。詰まんねえ。
 エントランスのインターホンを鳴らすも反応はない。仕方がないので管理事務所に連絡をとって、リモートでキーを開けてもらった。
 春日ママの部屋はマンションの最上階、24階の全フロアだった。ベランダの外は下階の上部に大きなプライベートスペースを設けている。
 部屋の鍵は開いていたが、もともとエレベーターは最上階の部屋には、住人以外は行かれないようになっているのであまり意味がない。
 玄関を入って突き当たりが広々としたリビングだった。
 リビングの窓からは青々とした赤坂離宮の森林が見渡されるはずだが、いまでは黒々とした闇の中に沈んで何も見えない。黒く縁どられた森林の向こうに、新宿高層ビル群の明かりが、きらめく宝石のように輝いている。
 リビングの明かりは消えていた。
 鈴音が慣れた手つきでルームランプのスイッチを押す。部屋の明かりは基本的に間接照明で、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
 豪華そうなソファ。広々としたディナーテーブル。
 リビングに異常はない。
 リビングの右側が寝室なのだろう。
 ガラスの扉を開けて、ハッっと足を停めた。リビングからの明かりを受けて、ベットの上がぼんやりと見える。
 そこに人影が横たわっていた。
「ママ?」
 鈴音が声を掛けるが、人影は動かない。
 篠塚刑事がLEDライトのスイッチを押して息を呑んだ。
 ベットの上には全裸の女が仰向けに倒れていた。首に絞められたような痣が黒々と残っている。腹が大きく裂かれて、ベットが大量の血液で真っ赤に染まっている。
 前の2件の殺人と違うところは、腹腔が開かれ解剖のようになってはいないところだ。
 彼女の腹部はただ一直線に切り裂かれているだけであった。
「ママ・・・」
 鈴音が口に手を当てて絶句する。
「春日ママか?」
 そう問う篠塚に真樹乃が頷く。
「こんなの・・・ひどい。酷すぎる・・・」
 鈴音が顔を覆って泣き始めた。
 真樹乃は黙って春日ママの遺体を睨めつけている。
 昨日、鈴音が自分と一緒にいなかったら、こうして切り刻まれていたのは彼女だったかも知れない。春日ママは鈴音の代わりに殺されたのか。
 本部への連絡を取る篠塚の隣で、鈴音がフラリと立ち上がった。
 そのまま幽霊のように隣のリビングに向かう。
「おい、大丈夫か?」
 思わず声をかけた。
「大丈夫」
 ソファに座って爪を噛んでいる。その目つきが異様に鋭い。真樹乃がはじめて見る表情だった。
「おい、二階堂。ぼやぼやするな、現場保存だ」
 篠塚が叫んでいる。
 そうだ、自分は刑事だ。刑事として、やることをやる。
 いまはそれしかない。
 真樹乃は自分自身にそう言い聞かせた。

 青山霊園の斎場で春日ママの通夜が執り行われた。
 銀座の一流クラブのママの通夜だけに、同業者たちの列席だけに関わらず、政財界や芸能界からも多くの参列者を集めて華々しく行われていた。
 ママには近しい親族はいない。
 親兄弟も数年前に他界したという。親戚筋もはっきりとはしないので、銀座のクラブ会から喪主をだしていた。そういう意味では、一見華々しく見えた春日ママのプライベートは寂しいものだったかも知れない。
 桜木晃一郎は会場の喧騒を避けて、少し離れた駐車場で煙草を蒸していた。
「オヤジ、こんな所にいたのか?」
 喪服姿の鈴音が近寄る。
 店にいるときや真樹乃といるときこそ猫なで声の彼女だが、普段の喋りはこんなものである。
「それはそうだよな。愛人の通夜ともなれば大手を振っては出られまい」
 桜木は苦笑を漏らす。
「大神や赤沼も来ているぞ」
「知っている」
「なあ、オヤジ」
 鈴音は桜木の手から煙草を取り上げると口に咥えた。彼女が煙草を吸うのは珍しいことである。
「ママは何故死んだ? いや、何故死ななければならなかったんだ?」
「それを俺に訊くのか?」
「あんた以外の誰が知っているというんだ」
 桜木は新しい煙草に火を点けた。
「駒草が手に入れたあんたの秘密。その証拠となるものを持っていたのは、春日ママだったんじゃないのか?」
 桜木は黙って煙草を燻らしている。
「駒草は偶然あんたの秘密を知ってしまった。でもそれは話を聴いただけ、何の証拠もなかった。しかし峯岸はそれだけの情報で、あんたを恐喝しようとした。ところが、そのお陰でその話は大神の知ることになった。峯岸はもと金竜会。金竜会は大神の舎弟組織だから、その線から情報が漏れたのね。で、大神はその件を赤沼に持ちかけた」
 鈴音はそこで一息ついた。養父の顔を伺う。
「面白いな。続けろよ」
「大神は単に話だけではなく、確かな証拠が必要と感じたわけだ。そしてそれはKAGEROUにあると踏んだ。春日ママはあんたの愛人だからな。でも、ママが直接それを持っているとは限らない。ママが持っているとしたら、あまりにもダイレクトすぎるからな。峯岸があなたを恐喝した時点で、ママはそれを安全な場所に移動したと考えるのが懸命な考え方だ。大神は頭がいいわ」
 鈴音はニコリとした。
「大神は裏の顔はあんなでも、表向きは大手芸能事務所のトップだから、大手を振って荒っぽい真似はできない。だから赤沼と手を組んだ。赤沼虎次郎はあんたの宿敵。喜んで手を貸すだろうな」
「なるほど、それで虎次郎は吉ヶ谷を動かしたってわけか」
「そう。もしもママがその証拠を動かすとなると、現役のキャストより信頼できるOGに託したほうが得策。大神はそう考えたんだろう。あの人は頭が良すぎて、深読みしすぎの傾向がある」
「で、朱月と浪花に目をつけたってことか。しかしふたりは本当に知らなかった」
「大神の予想は外れた。業を煮やした吉ヶ谷は、直接春日ママに当たった。それが今回の事件の真相だわ」
 ふふふ。
 と、桜木は笑う。
「しかし春日もそれを持ってはいなかった。するとそれを持っているのは誰なんだろうな」
「それは私が知りたいこと」
 ふたりは至近距離で睨み合った。
「俺が知るわけがない」
「ママの腹は以前のふたりのように切り開かれてはいなかった。ただ、真っ直ぐ切られていただけだった。そこがどうにも納得がいかないわ」
 桜木はやれやれという顔をした。
「おい、鈴音。お前は肝心のところを勘違いしている」
「勘違い?」
「春日は何も知らない。そもそも証拠なんて最初からないんだ。と、いうかお前、さっきから俺の秘密がどうのこうの言うが俺の秘密ってなんだ? 俺がどんな秘密を持っているというんだ?」
「・・・」
「なあ、そうだろ。俺には最初から秘密なんてないんだ。それを奴らは勝手に邪推した。それだけのことだ」
 そう言って桜木は、吸いかけの煙草を捨てて駐車場を出た。
「また会おう。何かあったら連絡してくれ」
 鈴音は憮然として立ち尽くしていた。
 会場の出入り口のところで、鈴音と別れたことを確認した腹心の時任重光が、影のように寄ってきた。
「少し厄介なことになって来ました」
「そうか。まあ、車で話そう」
 ふたりはリムジンの巨大な後部座席に腰を下ろす。
 座席に座ると時任は桜木の耳に囁いたが、運転席との間には分厚い防弾ガラスが張ってあって、密談が運転手に漏れる恐れはない。
「どうにもママは例のモノを持ってはいなかったようです」
「ふむ、やはりな。すると誰がそれを持っているかということだな」
「吉ヶ谷が手に入れたとなると厄介です」
「大神や虎の手に渡る前に何とかしないとまずいな」
「手は打ってあります」
 時任が言う。
「例の娘を使います」
「うむ。吉ヶ谷のほうも早急に始末しよう」
「誰を使います?」
「もちろん、鈴音だよ。あいつ、春日を殺されて、相当腹に据えかねるものがあるらしい」
 思い出してクックッと笑いを抑える。
「まったくトボけた話だよ。養父とはいえ、あれは自分の父親の愛人なんだぜ」
 そう呟いて桜木晃一郎は、リムジンのケースから葉巻を取り出すとゆっくりと吸い始めた。

 一方、駐車場で桜木と別れた鈴音は、会場のほうに戻ろうとしてふと足を停めた。
 駐車場の脇の茂みに人の気配を感じたからだ。茂みの向こうには青山霊園の深い森林が続いている。
 鈴音はそちらに脚を踏み出した。
 カサリ、カサリ。
 足元では下草が微かな音をたてる。
 駐車場の明かりはまだ、かろうじて届いている。
 鈴音は闇の向こうに瞳をやった。夜目にも異様な殺気が届いてくる。
「吉ヶ谷か?」
 前方の暗闇に向かって声を掛ける。返事はない。
 更に一歩、二歩。
「静香ちゃーん」
 闇の奥から声がする。吉ヶ谷の声だ。姿は見えない。
「やっとふたりきりになれたね」
「どこ? 吉ヶ谷さん」
「とても嬉しいよ」
 微かな明かりの中に痩せたカマキリのような姿が現れた。
 鈴音は手にしたバックに指を入れる。中に細身のナイフを仕込んでいるのだ。
「私も、嬉しいわ」
 ニコリと微笑む。
 そちらに近づこうとすると、吉ヶ谷がわずかに後ず去った。
 右手で近くの枝を掴んでいる。
「そこまで。君って少し怖いから」
「あら」
 鈴音は両手を広げてみせる。
「なにもしないわよ、わたし」
「本当に?」
「ただ、あなたと愛し合いたいだけ」
 ぞくりとするほど色っぽい声でいう。
 その瞬間、街灯の明かりがキラリと反射した。鈴音の右手から光の矢が放たれた。
 ノーモーションで放った閃光の刃は、暗闇のワイパーに妨げられた。
 吉ヶ谷は掴んだ小枝を離しただけだ。たわんだ小枝が戻る反動で、鈴音のナイフは弾かれたのだった。
 その時にはすでに短刀を抜いている。
「まったく、君って」
 吉ヶ谷は長い舌先で刀身を舐めながら言った。
「なんて素敵なんだ」
「うふふ。気に入って頂けた?」
 唇に笑みを浮かべたまま、鈴音はスルスルと闇の中に脚を進める。
 その瞬間、背後に近づく気配を感じた。振り返る彼女の目に写ったものは、黒いフルメットの巨体。
 しまった。
 首筋から鋭い衝撃が走りぬける。
 吉ヶ谷の哄笑を聴きながら、鈴音は視界が黒く塗りつぶされるのを意識していた。

 春日ママの通夜が行われていた丁度その頃、真樹乃と匠はサイバー犯罪対策課の執務室にいた。
 生活安全部に属するこの部署は、インターネット上の違法情報および有害情報に係る犯罪の取締りを専門に行う部署である。ここには東京都内のあらいるサイバーセキュリティ上の情報が集まってくる。
 真樹乃や匠がここへやってきたのは、もちろん吉ヶ谷の捜査のためだ。
 汐留で真樹乃が取り逃がした吉ヶ谷だが、その後の緊急配備の網をかいくぐって行方を絶っている。しかし真樹乃の情報によると、彼には協力者がいることがハッキリとした。
 フルフェイスのメットを被った大柄の男がそれだ。
 その男が吉ヶ谷を後部座席に乗せて脱出したのである。フルメットの前面にはスモークが貼られていたため、面相までは確認できなかったことが残念だった。またナンバープレートにはテープが貼られて数字の確認も不明だった。
 前後の状況から考えて、協力者は赤龍会の構成員のひとりと思われたが、組織犯罪捜査部の絞り込みによっても未だに個人を確定できない。そもそも組織犯罪捜査部では、赤沼組や一心会の動向を抑えるだけで手一杯だったのだ。
 そこで真樹乃が目を付けたのが、犯人が逃走に使用したバイクであった。
 二階堂真樹乃の趣味は、喧嘩を除けばバイクのみといっていい。自らもドゥカティモンスターを愛用しているところからもバイクの車種には詳しかった。
 その彼女が逃走に使用したバイクの車種を覚えていた。
 スズキGS400E。
 1984年に国内販売されたスズキのモデルである。ベーシックかつスタンダードなモデルだが年式的にはかなり古い。台数的にもそれほど多くは走っていないだろう。
 それで彼らは近辺の防犯カメラの映像から、上記のバイクを割り出すことを選んだのだ。
 そうなるとあらいるインターネット上の情報が集中する、サイバー対策室の協力が欠かせない。とはいえ彼らには彼らの仕事がある。いくら殺人の捜査のためとはいえ、そうそう人員を割けるものではなかった。
 そこで真樹乃はネット捜査に詳しい、大丸巡査長を仲間に引き込むことにした。
 もともと大丸はオタクであり、アニメとネットは大好物である、大喜びでサイバー対策室にやってきた。
「へえぇ、ここがサイバー対策室かあ。いいな、いいな。ここに東京中のネット情報が集中しているんだね」
 喜々として端末の前に座った。
「で、何をすればいいの?」
「取り合えずGS400Eを捜して」
「はあ? 何、GS400って?」
 バイクにはまるで興味がない。
「こういうヤツ」
 真樹乃はバイクの雑誌を見せた。
「これを探せばいいの? 場所は汐留だよね」
 大丸がキーボードをリズミカルなテンポで打ち始める。
「時間は2日前の午後7時前後、と・・・」
 モニター上に現場近辺の路上映像が次々と現れては消える。付近の監視カメラの画像情報は、すべてここのデーターベースに集められているのだ。
「ああ、これかな」
 ウィンドウの中を走り去る一台のバイク。現場から100メートルほど離れた場所にある銀行の監視カメラの映像だ。
「う~ん。形は似ているけど、ライトが逆光になって良く分かんないな」
「夜だからね」
 パチパチと次の映像を検索する。
「あ、これこれ。スズキのGS、間違いない」
「ナンバープレートが隠されてるよね。これで間違いないんじゃない」
 真樹乃がモニターを見て言った。それは汐留から虎ノ門方面へと向かう街道であった。
「んじゃ、パイセン。悪いけどこのバイクの行く先探ってよ」
「OK」
「あ、あの。ついでにお台場の方もいいすかね」
 匠が手を上げて言った。
「お台場? 鈴音のマンションか?」
「うん。彼女の言ってたストーカーが、このバイクの男である可能性もあるっすから」
 グーグルの地図データーからお台場のマンションを割り出す。日にちと時間を設定すれば、その近辺の監視カメラの画像データーが検索されるのだ。
「あ、これだ」
 近くのコンビニのカメラに問題のバイクが映っていた。
「鈴音の言ってたストーカーは、やはり峯岸じゃなくてこの野郎ってわけか」
「そうかも知れないっすね」
 3人は顔を見合わせて頷きあった。

 大丸刑事のハッキング技術はサイバー捜査官レベルだったらしく、翌日にはほぼほぼ問題のGS400Eの走行軌跡は断定できた。
 しかしその時には、肝心の鈴音が行方不明であることが判明した。
 姫崎鈴音の失踪情報は、翌日の捜査会議でGS400Eの走行軌跡と共に報告された。
 鈴音の行確は、前日の春日ママの通夜に出席したところまでは確認されている。
 しかしその後、自宅マンションには戻っていない。銀座のクラブKAGEROUは、春日ママの殺害後店を閉めているから、そこに立ち寄る必要はない。一心会の周辺にも、南青山の桜木の自宅にも彼女の姿は確認されなかった。
 捜査会議でそれを聞かされた真樹乃は、胸が締め付けられるようだった。
 彼女が吉ヶ谷に狙われていることはわかっていた。それはあの日、吉ヶ谷と対峙した自分が一番良く知っている。
 吉ヶ谷の鈴音に対する変質的な視線。並々ならない執着。
 自分はなんで彼女から目を離してしまったのか。
 好きか嫌いかと聞かれれば、鈴音のことを好きとは言い難い。あの上から目線も、慣れなれしい態度も、平気で男に色目を使うところも、何もかにもが気に食わない。
 とはいえ最近では慣れてきたせいか、前ほど鼻にかかることもなくなった。
 ふらついているようでも、意外としっかりとした芯があるような気がする。あの華奢な身体の奥底には、何人にも侵されないプライドのようなものを感じるのだ。
 それは自分の持つものと一緒だ、と真樹乃は思う。
 彼女が小学校低学年のことだった。
 当時、学校近くの公園で遊んでいた友達が、同じ小学校の高学年の生徒たちにいじめられたという話を聴いた。彼らが野球をするために、低学年生たちを公園から追い出したというのだ。
 正義感の強い彼女は、単身上級生のクラスに乗り込んだ。もちろん身体の小さい低学年の彼女が、高学年の男子に勝てるわけがない。生意気だというので、殴られ蹴られ徹底的に痛めつけられた。
 それでも彼女は決して泣かなかった。参ったも、ごめんなさいも言わなかった。
 次の日もその次の日も、何度やられても、毎日毎日彼らに喧嘩を売った。そして一週間後、とうとう彼らは根をあげた。
「たのむ。もう、許してくれ」
 と、頭を下げたのだ。
 その時の想いは未だに彼女の心に生きている。
 身体の傷や力の強い弱いは、闘いの勝敗にはなんの関係もない。気持ちが折れなければ、心が参ったを言わなければそれは負けではないのだ。
 それと同じようなプライドを、あの姫崎鈴音も持っているに違いない。
 それがわかる。
 だから、口にこそ出さないが、真樹乃は鈴音を認めているのだ。
 その鈴音が行方を絶った。あの吉ヶ谷に拉致されたのかも知れないのだ。
 それは自分の責任だ。
 真樹乃は激しく自分を責めた。
「大丸パイセン。速攻でバイク野郎のヤサを特定してくれ」
 なんとしても彼女を救わねばならない。
 真樹乃は必死の思いで、大丸に頭を下げた。

 本庁の組織犯罪捜査部の捜査官たちが、赤沼組ならびに赤龍会の内部捜査を行った結果、吉ヶ谷が行動を共にしているバイク男の正体が明らかになってきた。鶴田刑事部長から直接、組織犯罪捜査部の部長に申し入れた結果であった。
 赤龍会の末端構成員・沢嶋義重26歳である。沢嶋はここ半月ばかり組には顔をだしていない。仲間の組員や立ち入り先の店員たちに問い合わせても誰も知らないらしい。
 ただ、元赤沼組の幹部だったという男からオフレコで聞いた話では、赤龍会の会長が彼に極秘の任務を与えたらしいとの噂を聴いたという。またある知人は、彼が姿を消す前に近々まとまった金が入ると話していたと証言した。
 新宿署の組犯が沢嶋の自宅に家宅捜査をかけたが、彼の行方を示すものは何も発見されなかった。
 沢嶋義重。身長180センチ。体重72キロである。
 沢嶋の写真を見せられた真樹乃は、汐留で遭遇したバイク男に雰囲気がよく似ていると証言した。
 また彼がもと「関東連隊」の構成員だったということも確認された。
 同様に大丸やサイバー捜査官たちの必死の活動もあって、その頃にはバイク男・沢嶋義重の潜伏先にある程度の目星がついた。
 高田の馬場の住宅街にある、自動車の民間車検工場の跡地である。
 問題のバイクがその近辺でたびたび目撃されている。
 問題の民間車検工場は3年ほど前に倒産しており、経営者は夜逃げ同然に姿を消している。その後は使用者もないまま、廃墟同然に放置されている物件だった。
 以前から何度も放火騒ぎがあったり、浮浪者が入り込んだりして問題になったこともある。それでも登記主の行方が知れないために、行政としても何とも手の打ち用がないといった現状であった。
 二階堂真樹乃刑事は新宿署の組犯課の麻生刑事と、問題の民間車検工場の斜向かいにある民家の2階に身を潜めていた。
 そこは定年を迎えた老夫婦が二人で暮らす民間住宅であった。息子はとうに独立して調布のほうに一家を構えている。麻生が捜査協力をお願いすると、二階には誰も住んでいないのでということで快く協力を申し出てくれた。
 二階のひと部屋は、独立したという息子が出て行ったままの状態で保存されていた。壁に貼られた昭和時代のアイドルの写真。子供の頃から使っていたのだろう傷だらけの勉強机。ボロボロになったマンガの詰まった本箱。埃だらけのシーツを被ったベット。
 少年期から青年期を過ごした、息子の人生が詰まった部屋であった。
 真樹乃は何故かそれを懐かしいと感じていた。
「済みませんね。息子が家を出てもう何年も経つんですけど、どうにもねえ、中々捨てられなくて」
 お茶を持ってきた老婦人は恥ずかしそうに言った。
「いえいえ、幾つになっても子供は子供ですからなあ」
 婦人と年齢が近い麻生は笑いながら言った。
「わたしも娘が嫁いでいますが、未だに離縁されて帰ってくる夢を見ますよ」
「・・・麻生さん」
 真樹乃が脇腹を突っつく。
「不謹慎っすよ」
「いやいや、これは済みません」
 婦人は頭を下げて階段を降りていった。
「で、どうかね工場の様子は?」
「はい。ここは絶好のロケーションすね」
 見ると市道を挟んで斜め下に工場の正面が見えた。右隣は金属部品の加工工場。左隣は普通の民家だ。
 工場の正面は一面錆び付いた金属シャッターに覆われ、その右脇に小さな扉が付いている。建物は2階建で下が工場、上が事務所という構成になっている。事務所の電気は消され、ところどころ割れた窓ガラスには木板が打ち付けてある。
 一階部の屋根には「松藤モータス」の寂れた看板が、ペンキ跡もかすれて架かっている。
 麻生は勉強机の椅子に腰掛けて、わずかに開いたカーテンの陰から工場のシャッターを眺めている。真樹乃はベットに腹ばいになって資料として渡された沢嶋の写真を眺めている。
「ねえ、麻生さん。どういう男なんすかね、この沢嶋って男」
「う~ん。私は赤龍会のことは良く知らないんですよね」
 麻生は初老の刑事だが、篠原なんかと比べるとずっと穏やかで物腰は柔らかい。真樹乃のような下っ端にも敬語を使ってくれる。
 彼はポケットから煙草の箱を取り出しかけたが、そこが他人の家だと気がついてすぐに戻した。
「赤龍会って赤沼組の分派でしょ?」
「はい。会長は赤沼組々長・赤沼虎之助の実子ですな」
「その虎之助って親分、渋谷抗争の首謀者として逮捕されてんですよね」
「そうです。いまは息子の虎次郎が、組長代理として組をまとめてますな。虎次郎は赤龍会の会長でもありますから、両方の運営に関わっています」
「大変だなあ、そりゃ」
「はい。大変でしょうね」
 麻生はニコニコして言った。
「でも、その件に関しては少し面白い噂もあるんですよ」
「面白い噂?」
「さきの渋谷事件、本当の首謀者は息子の虎次郎で、虎之助はその罠にかかって首謀者に仕立てられたんだという」
「へええ。息子が親を売ったんだ」
「だから噂ですよ。で、その噂を撒き散らしたのは誰だと思います?」
 麻生はいたずらっぽい顔で真樹乃の顔を見る。
「誰っすか?」
「赤沼三虎(みとら)。虎次郎の弟です」
「うぎゃあ。怖っ、ヤクザ、こわ」
 真樹乃はベットにひっくり返った。
「ちょっと待って。虎次郎に三虎? んじゃ、それ、長男がいるんじゃないの?」
「はい、いますよ。でも、長男の虎一さんはヤクザ稼業を引退して、いまでは立派な実業家ですね」
 さすがに組織犯罪捜査課。知らないとかいいながらも結構詳しい。
 真樹乃は感心した。
「おや、そんな話をしているうちに来ましたね。マル対が・・・」
 マル対というのは監視対象者のことだ。
 真樹乃が麻生の隣から顔を出すと、斜向かいのシャッターの前に黒いバイクが停車するところだった。
 スズキGS400E。
 カスタムされているが間違いはない。
 バイクから降りた男は黒いフルメットにライダースーを着ている。
「どうです?」
 麻生が真樹乃に聴いた。
「うん。体格や雰囲気は・・・似ている」
「似ている?」
「いや。本人だ、間違いない」
 そこに居る男は、確かにあの日吉ヶ谷を救って逃げた男だ。間違いない。
 しかし・・・
 何だ。何に引っかかる。
「どうします。確保しますか?」
「いや、待ちましょう。我々の狙いはあくまで吉ヶ谷です」
 フルメットの男は、後部座席に縛り付けていた大きなゴム製のバックを外すと、シャッターに手を掛けてガラガラと引き上げた。どうやら鍵は掛かっていないらしい。シャッターの奥には壊れかけた軽トラックが置かれており、その横には地下に降りるらしいコンクリートの階段が見える。
 男はバックを担いで、その階段を降りていく。
 夕日が民家の屋根に傾く頃、沢嶋らしき男は再び階段を登ってきた。肩には掛けていたバックはない。地下に置いて来たのだろうか。
 彼が地下に居た時間は10分ほどであった。
 そして彼は再びバイクに跨ると、どこかへ行ってしまった。
 真樹乃と麻生はそのまま監視を続けた。しかし30分経ってもなんの変化もない。
「どうします? 中の様子を見てきます?」
 じれた真樹乃が先輩刑事を促す。
「人質が監禁されているかも知れません」
「う~ん、そうですね」
 麻生が迷った時、一台のワゴン車が工場の前に滑り込んできた。
 黒のハイエース。
「あれは?」
 監視カメラの写真でみた吉ヶ谷の車だ。
 工場の前で停まったハイエースからは、グレーと茶色の中間の微妙なコートを着た男が現れた。
 コートのフードを頭から被り、異様に痩せた長身の男。
 吉ヶ谷翔麻。
 これは疑いようがない。
「間違いない、吉ヶ谷だ」
 あの日、汐留の路地裏で対峙した妖気にも似た、あの男独特の雰囲気。
 吉ヶ谷は車を降りて、踊るような足取りですでに半分ほど開いていたシャッターを潜った。手にはコンビニの袋らしきものを持っている。
 そして彼は地下に下る階段を降りた。
 そう。確かに彼は降りたのだ。
 それは真樹乃も麻生も確認している。間違いはない。
 しかし彼は二度と、その階段を上がることはなかったのである。

第6章 封人

 ワゴンから降りた吉ヶ谷翔麻は半分ほど開かれたガレージを潜って中に入った。
 松藤モータス。
 誇りに塗れた工場であった。工場というよりは修理場と表現したほうがいい。一般の家庭のガレージを改造して造ったような規模である。
 入ってすぐの所に壊れかかった軽トラが停められている。というか完全に壊れている。前後の車輪は外されているし、ボンネットは開かれ、エンジン部が剥き出しだ。ドアも後部の荷台も取り外されている。
 修理の途中なのか、分解の途中なのかは判然としない。放置されてから何年も経っているのだろう。
 トラックの右横には錆び付いた2本の鉄柱が、天井へと伸びている。鉄柱の間の床に、ジャッキー用の鉄板が埋め込まれていた。この柱の間の空間に停車した車を、床下のジャッキーによって持ち上げるものだろう。
 そのふたつを除けば工場の中に余分な空間は殆どない。軽トラの左横に地下に降りる階段があるだけだ。
 吉ヶ谷は迷わずに階段を降りた。
 永年劣化したコンクリの階段である。所々が崩れ、ひび割れ、全体的にうっすらと土埃を被っている。
 階段を降り切ったところは3帖ほどの踊り場で、すぐ右側にアルミ製の扉がある。そちらを開けてみると、便器一個分の狭いトイレだった。
 トイレは長年掃除をしたことがないとみえ、座るのをためらうほどに汚れていた。便座もふたつに割れており、排水口には大きな女郎蜘蛛が巣を張っていた。トイレの壁もコンクリートの打ちっぱなしであり、壁に取り付けられた物入れには、カビ付いたトイレットペーパーがふたつみっつ残されている。
 階段の正面には鉄製の引き戸が壁一杯に備えられている。
 それが地下室への入口なのだろう。
 吉ヶ谷は両手で引き戸を開けた。両手で力を込めねば開かないほど、鉄扉は錆び付いていて重い。
 地下室の電気は点いていた。
 むき出しのコンクリートと配管が走っている天井から吊り下げられた蛍光灯は、そのうちの何本かが切れているのか思いのほか暗かった。
 地下室の広さは多分10帖ほど。しかしその半分以上には、自動車の部品やら何やら分からない機械類で占められている。
 残されたわずかなスペース、室の真ん中あたりの床にはブルーシートが置かれ、その上には手足を縛られた少女が横たわっている。
 その横には折りたたみのパイプ椅子と木製のテーブル。
 横たわった少女は、栗色に染めた長髪を揺らしてこちらを振り向いた。その口には猿轡がはめられているが、それは間違いなく姫崎鈴音であった。
 吉ヶ谷は鉄扉を閉じて、スライドバーを絞めた。これでもう誰も入れない。
「はあ~い。静香ちゃん」
 彼は驚喜に満ちた声をあげた。
「逢いたかったよん」
 鈴音は拉致されたときのまま、黒い喪服のワンピースを着ている。ミニのスカートから覗く形のいい脚は黒いストッキングを履いているが、所々は破れて真っ白な素足がむき出しに晒されている。
 両手と両足は固く縛られイモムシのように転されているのだ。
 美女と喪服とロープと。
 吉ヶ谷のような変態に、これはマストアイテムだろう。
「いい眺めだね、静香ちゃん」
 吉ヶ谷は鈴音のことを静香という源氏名でしか呼ばない。その目が舐めるように、ストッキングから覗く素足に注がれている。
「うっ・・・グッグ」
「何? なに? 喋れないの? ああ、猿轡のせいか」
 吉ヶ谷は鈴音の背後に回って猿轡を外してやった。
「ああ、お願い、吉ヶ谷さん。助けて」
 すがるような目で吉ヶ谷を見上げる。吉ヶ谷は残忍な笑みを浮かべた。
「ダメだねえ。君はもう、僕の獲物。ずっと我慢してたんだ」
「我慢?」
「そう。本当はね、君を拉致した段階で、君は僕のものになるはずだったんだ。でも、あいつがさあ、君は金になるからって」
「あいつ?」
「赤龍会から来たヤツ。誰かは知らない、生意気なヤツ」
「そいつが私を、金になるって言ったの?」
「そう。一心会のオヤジが金を出すから、もう少し待てって」
「本当? あのパパが、私のために金なんてだすなんて」
 鈴音には少し意外だった。彼女の知ってる養父は、自分のためにならないことには金を出さない主義だ。
「でも、出したんだろ。だから君はここに居るんだ」
「いくら出したの?」
「知らない。でも、僕も少しもらった。300万円」
「それってどうなの? 高いの、安いの?」
 鈴音は眉を潜める。もちろん彼がもらった金額が全てではないと思うが、それにしても少し少な過ぎはしないか。
 プライドが傷つく。
「だから、君はもう、僕のもの」
 吉ヶ谷は三角形の顔を歪めてニヤリと笑った。
「ちょっと待って。ひとつ聞かせて。春日ママを殺したのはあなた?」
「春日ママ? 誰それ」
「クラブのママよ。知らないの、あなた?」
 鈴音は強い瞳で吉ヶ谷を見詰める。
「知らない。僕が殺したのは、朱月ちゃんと浪花ちゃんだけ。どっちも綺麗だったけど、君が一番綺麗」
 そうか、やっぱり。
 吉ヶ谷のいうことに嘘はないだろう。この男の性格から考えて、自分が殺ったのなら、ためらわずにそう言うはずだ。
 それは鈴音にも、ある程度の予想はついていたことだった。
 すると春日ママを殺害したのは誰だろう?
 鈴音は唇を噛み締めた。
 吉ヶ谷は薄ら笑いを浮かべながら、コートの内側から短刀を取り出した。
「きれいだよ、静香ちゃん。ほんとうにきれいだ」
 蛍光灯の光を受けて、ギラギラと輝く刃物に赤い舌先を滑らせていく。舌先が切れて赤い血の糸が絡みつく。
「私を殺すの?」
 鈴音の声は落ち着いている。
「そうだよ。君はきれいだから、生きたままお腹を裂いてあげる」
 ゾクリとした冷酷な笑顔。それに対して鈴音は、凄まじいばかりの淫乱な笑みを浮かべる。
「待って。どうせ殺すなら、私といいことしない?」
「いいこと?」
「どうせ最後なら、私だって楽しみたいわ」
 吉ヶ谷はコートを脱ぐとパイプ椅子の背もたれに掛けた。血走ったその目線は、縛られた美少女の肢体に注がれている。
「ねえ、縄を解いて」
「だめだよ。君、怖いから」
 吉ヶ谷の声が掠れている。
「せめて脚だけは解かなきゃ、いいこと出来ないわ」
「・・・そうだね」
 吉ヶ谷は鈴音の脚に絡んだロープを短刀で切断すると、大きく開いた脚の間に身体を進めた。彼女の両脚が、するりと男の腰に絡みつく。
 鈴音は縛られたままの両手を男の首に回した。
「優しくしてね」
 そういうと彼女は赤い唇を寄せていった。

 吉ヶ谷が地下に消えてから20分ほどが経った。
 真樹乃は苛立っていた。
 彼女の目線は吉ヶ谷が消えた階段に注がれている。あれから誰も階段を登ってきた者はいない。
 吉ヶ谷は確実に地下室にいる。
 鈴音もあそこに拉致されているのだろうか。もしそうだとしたら彼女が危険だ。
「麻生さん」
 真樹乃は直訴した。
「人質が中に居るとしたら危険です。自分を行かせて下さい」
「まあ、待て」
 麻生は窓の外を睨んだまま応える。
「マル被は凶悪犯だ。応援は要請した。到着まで待つんだ」
「待てませんよ!」
 我慢しきれずに真樹乃は部屋を飛び出した。
「おい。待ちたまえ、二階堂君」
 麻生も慌てて後を追う。
 市道を横断して一気にガレージ前に駆けつける。夕日は民家の屋根に消え、藍色の空がきれいなグラデーションを形造っている。
 真樹乃は地下へ降りる階段の上から階下の様子を伺う。人の気配はない。
 明かりのない地下は、すでに漆黒の闇だ。
「二階堂君」
 後方につけた麻生刑事が懐中電灯を手渡した。
「すみません」
 ライトをつけると光の輪の中に、クリーム色に塗られた鉄製の扉が浮かび上がる。踊り場は3帖ほどのコンクリート敷きだ。
 ゆっくりと階段を降りると、すぐ右側に扉がある。
 扉を開けると畳一枚分の薄汚れたトイレだ。便器も半分ほど割れている。人の隠れるスペースはない。
 踊り場の左側に扉はない。打ちっぱなしのコンクリがむき出しになっているだけだ。
 そして正面には鋼鉄の扉が固く閉ざされている。
 真樹乃は鉄の開き戸を引いてみたがビクともしない。中から鍵が掛かっているようだ。
 その時、扉の中から物音がした。
 真樹乃が耳を近づけると、聴こえてきたのは女性の悲鳴。
「やめて! お願い、やめて下さい」
 鈴音の声だ。
 真樹乃の頭にカッと血が登った。
「よして、助けて。誰かぁ。きゃあ~」
 それに被せるように潜もった男性の笑い声。吉ヶ谷か!
 扉を叩く。声をあげる。
「警察だ。吉ヶ谷、止すんだ。逃げられないぞ。ここを開けろ」
 ドンドンと扉を叩くがビクともしない。
 聴こえるものは吉ヶ谷の笑い声のみ、もはや鈴音の声は聴こえない。
 そしてドンドンという鈍い音。肉が肉を打つような、何かを床に叩きつけるような重い音が響く。
 鈴音が暴行を受けているのか?
「麻生さん!」
 鉄扉を思い切り蹴飛ばしたあと、麻生を振り返る。
「何か扉を開けるものを」
「わかった。隣の工場から借りてくる」
 息を停めて中の様子を伺っていた麻生は、事の重大性を察して階段を駆け上がっていった。
 ドンドンという音はまだ聴こえる。しかしもう、鈴音の声も吉ヶ谷の笑い声も聴こえない。
 やがて物を叩くような音は途絶え、代わりにズルズルと何かを引きずるような音が聴こえてきた。
 そして・・・
 遠くからサイレンの音がする。応援か。
 ホッとした真樹乃の背後から強い光が射した。階段の上から強烈なライトが降り注いでいる。
 麻生刑事が職人らしき男を伴って降りてくる。
「お待たせしました。隣の工場の職人さんです」
 隣は確か金属の加工工場だった。
「すみません。大至急、この扉を開けて下さい。人の生命がかかっているのです」
「わかりました」
 若い職人はエンジンカッターのスターターロープを引き、エンジンを始動させた。腹の底に響くようなアイドリング音が轟き、レジノイドブレードが高速回転を始める。
「下がっていて下さい」
 職人がブレードを鉄扉に当てると、バチバチと火花が飛び散り、分厚い鋼鉄の扉が裂けていく。
 その頃にはもう、応援の警官らが駆けつけ、息を凝らして作業を見守っている。
 真樹乃にとってジリジリするような時間が経過した後、ようやく鉄扉の一部が焼き取られ部屋の中が覗けた。
 部屋の蛍光灯は点いたままだ。
 中には吉ヶ谷がいるはずだ。うっかり顔を出せばどのような反撃を受けるとも限らない。奴が拳銃を所持しているという情報はないが、少なくとも短刀は所持しているはずである。
 真樹乃は注意深く部屋の中を覗いた。
 地下室の中は殆どが雑多な機械や道具類で埋められていた。その中央にブルーシートが敷かれ、女性がひとりその上に横たわっている。
 姫崎鈴音だった。
 真樹乃は息を飲んだ。
 鈴音は手足を縛られてシートの上に倒れている。仰向いた喉元から足首にかけてロープが張られ、身体がエビのように反り返っている。そのために首が絞められているのだ。
 まるで引き絞った弓のようだった。
「鈴音!」
 真樹乃は叫んだ。
 鈴音はピクリとも動かない。真っ白な顔に生気はない。死んでいるのか?
 扉の隙間から見える範囲に吉ヶ谷の姿はない。しかし彼が中に潜んでいることは間違いないのだ。
 扉の内側を見ると、鉄製のスライドバーが扉をロックしていることがわかる。これを外せば扉は開く。しかしその行為を、吉ヶ谷が見逃すとは思えない。
 どうする。どうする?
 真樹乃はすぐに決心した。
 隙間から腕を差込み、スライドバーに手を延ばす。
「二階堂さん」
 麻生が小さく叫び声をあげた。
 唇を噛み締める。いまにもその腕を切り落とされるんじゃないかという恐怖が、真樹乃の背筋を震わせる。しかしそのようなこともなく、バーは外され扉は開くようになった。
 真樹乃は腰のフォルダーから銃を引き抜くと、麻生刑事を振り向いた。
「突入します。援護をお願いします」
 同じく銃を構えている麻生は、わかったというように頷いた。周囲の警官たちも一様に拳銃を構えて、扉の周囲に集合している。
 呼吸を整え真樹乃は扉の向こうへ飛び込んだ。
 ネコ科の肉食獣を思わせる身軽さで一回転すると、正面の機械の陰へと身をひるがえした。
 それと同時に銃を構えた麻生が扉の前に立ち塞がる。
 しかし。
 反撃はなかった。麻生が呆然と立ち尽くしている。
 誰もいない。
 狭い地下室の中は、ひと目で見渡すことができた。それでも、見える範囲には吉ヶ谷の姿はなかったのだ。
 そんな馬鹿な。
 吉ヶ谷翔麻は地下室内から消えていた。
 麻生は愕然として立ちすくんだ。

 鈴音のもとに駆けつけた真樹乃は、その姿を見て唖然とした。
 鈴音の身体は、首から足首へと張られたロープによって、弓状に反り返っているのだ。黄色と黒に塗り分けられたプラスチックのロープが、しっかりと首元に絡みついている。
「鈴音、大丈夫か?」
 声をかけるがピクリとも動かない。
 スーツの内ポケットのナイフで首に絡んだロープを切断する。血の気の失せた顔。首には紫色の線状痕。
 口元に頬を近づける。呼吸をしていない。
 胸に耳を当てる。心停止!
「すずねぇ!」
 両手を胸に当てて心臓を押す。必死の形相で心臓マッサージを続ける。
 冗談じゃねえぞ。てめえ。
 こんなところで死ぬんじゃねえ。死なせてたまるか。ちくしょう。
 頬を涙が伝う。
 なんで泣いているのか自分でもわからない。
「戻れ。もどってくるんだ、鈴音!」
 ぷっ、はッ。
 大きく鈴音が息を吐き出した。
「鈴音」
 鈴音がゆっくりと目を開く。
「・・・まき、の・・さん」
 そしてまた、目を閉じた。
「馬鹿野郎」
 真樹乃はへなへなとその場に腰を抜かした。
 救急隊が駆けつけ、酸素マスクをはめた鈴音をタンカで運び出していく。
「真樹乃先輩」
 肩を叩かれ振り返ると、神宮匠が立っていた。緊急無線を聴いて駆けつけたのだろう。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
 ため息をついて立ち上がる。
「吉ヶ谷はどうした?」
「消えたっす」
 真樹乃は呆けたように匠の顔を見た。何を言ってるのか判断がつかない。
「消えたってなあ、お前」
 匠を睨みつける。
「真夏の蜃気楼じゃあるまいし、人間が簡単に消えるか。あたしは地下に降りる奴を確認しているんだぞ。どこにも行けるはずがない」
「ですよね」
 匠も首を捻っている。
「麻生さん」
 麻生も頷いた。難しい顔つきだ。
「そうです。私も確かに確認しました。地下に降りる階段の下は、隣のトイレかこの部屋にしか行けません。トイレも確認しましたが、誰も潜んではいませんし、となるとこの部屋に入ったとしか思えない」
「それにあたしは奴の笑い声を聴いたんだ」
「この部屋の中で?」
「当たり前だろ。外で聴いてどうする」
「なるほど」
 匠は天を仰いだ。
「どこかに隠れているんじゃねえか?」
「それはないでしょ」
 見ると多くの捜査員たちが部屋の隅々まで捜査を開始していた。文字通り蟻の這い出る隙間もない。
 地下倉庫の広さは畳10帖ほど。その半分以上を雑多な機械類が占めている。
 壊れたエンジン。錆びたラジエーター。ガソリンタンクに、取り外されたバンバーやボディ。扉やタイヤ類。その他の雑多な機械類。
 廃液のオイルの詰まったドラム缶もたくさん積み重ねられている。
 修理用の器具や道具も多く散らばっている。
 オイルジャッキーやバールや大型ハンマー。各種のレンチにコンプレッサーなども転がっている。
 いずれもが古く、埃を被って汚ならしい。
「どこかに裏口のようなものがあるのでしょうかね」
 地下室は天井も床も壁も、みな打ちっぱなしのコンクリートだ。もちろん窓はない。天井には換気ダクトの他、電気系統の配管が縦横に巡らされている。蛍光灯もその配管から吊り下げられているのだ。
 換気ダクトは扉の上方に開いている。30センチ四方くらいの四角い穴だ。穴の前面には鉄製の網が溶接されており指が通る隙間もない。
 どうやら部屋の中には裏口などはないようだった。
 となると、出入りするには先ほどの鉄扉を通るしかないということになるが、鉄扉にはスライドバーが掛かっていたし、第一部屋の外には真樹乃や麻生らがいた。そこから外に出ることは不可能だ。
 吉ヶ谷が透明人間でもない限りはだ。
 では、彼はどこから地下室を脱出したのか?
 全員が黙り込んだ。
 密室。
 というワードが真樹乃の頭に閃いた。
 確かそのようなミステリーをテレビで観た記憶がある。内側から鍵のかけられた室内での殺人。犯人はどこから外にでたのか? または、外からどうやって鍵をかけたのか? と、いうミステリーである。
 しかし今回のこれはそれらのどの例よりも難解な謎だといえた。なにしろここは、全面コンクリートに囲まれた箱のような場所なのだから。
「おい、後輩よぉ」
 真樹乃は匠を振り返る。
「お前。吉ヶ谷はどこから逃げたと思う?」
「さあ」
 匠は首をひねっている。
「でもそんなことは問題じゃないすよ」
「なんで?」
「だって犯人は最初からわかってるんす。吉ヶ谷を捕られて聞き出せばいいだけの話じゃないすか」
「そりゃま、そうなんだがよ」
 真樹乃は複雑な顔をした。
「名探偵の吐くセリフじゃねえな」
「はあ?」
 匠は目を見開いた。
「自分、名探偵なんかじゃないす」
 匠は部屋の中央に歩いて来る。その一面だけ床にブルーシートが貼られている。ここに鈴音は放置されていたのだ。
 弓のように手足を縛られ、首を絞められて昏倒していた。
 脇には木製のテーブルと金属のパイプ椅子。椅子の背には吉ヶ谷のコートが掛けられている。
 テーブルの上には彼が買ってきたのだろう、サンドウィッチと缶コーヒーの入ったコンビニの袋。それに2本の短刀が置かれていた。
「おかしいっすよね」
 匠は言った。
「なんで短刀を置いて逃げたんでしょう?」
「逃げる時に邪魔になったからでしょう」
 麻生が言った。
「どう思います? 先輩」
「いや、それはないな」
 真樹乃は腕を組んで応えた。
「奴のような男にとって刃物は身体の一部だ。置いて逃げるなんて有り得ない」
「では、なんで?」
 麻生はどうにも同意しかねるようだ。短刀が身体の一部なんて。
「さあな。あたしにはわからねえよ」
 匠は鉄扉と反対側の壁の方向に足を運んだ。ブルーシートはそちらの方向に貼られている。壁際にはステンレス製の流しが据付られていた。
 業務用だから、家庭用のものよりはだいぶ大きい。排水口の大きさは直径20センチくらいの円形。表面には蜂の巣状に穴の空いた、排水目皿が取り付けられている。もちろん人の通れる大きさではない。
「綺麗すね」
 その排水口を眺めていた匠がつぶやいた。
「はあ? お前、排水口フチか?」
「いえ、この流し、いやに綺麗に掃除されているんすよ」
「そういや、そうだな」
 みるとステンレスのシンクは綺麗に清掃されていた。どうやら排水溝まで掃除されているようだ。
「それがどうした?」
「どうしたって、変でしょ。部屋の中はこんなに汚いのに、なんでシンクだけ掃除するんです?」
「まあ、言われればそうだが、そんなこと関係ないだろ。排水溝から人が出入り出来るわけじゃあるまいし」
「それはそうなんですがね」
 匠は天井の一角を見詰めている。
「どうした?」
 真樹乃も釣られてそちらを仰ぐが何も無い。ただ、天井のコンクリートに蜘蛛の巣が張っているだけだ。
 しかし匠はそこに人の顔を認めていた。
 斜め上から見下ろす自分の顔だ。
 その顔は微かに微笑んでいる。
 どうだ。お前にこの謎が解けるか?
 と、問いかけているように。
 メタ認知症候群。
 病状は悪化しているのか。匠は小さくため息をついた。

 それから3日経った午後、篠塚刑事の運転で中野の警察病に向かっている。
 ダイハチの真樹乃と匠。フォースの篠塚刑事。そして新宿署からは麻生刑事の4人である。
 真樹乃の心臓マッサージで一度は意識を取り戻した鈴音だったが、再び意識不明となり警察病院のICUで必死の治療を行うも、それから3日間は目を覚まさなかった。一時的ではあるが心臓が停止したために、何らかの脳障害が生じた可能性があると担当医は話している。意識が戻らないのはそのためだと言うのだ。
 しかしこの日の午前中に彼女は目を覚まし、何とか事情聴取にも耐えられそうだというので、彼らが聴取に趣いたということである。
 その間、現場の検証と真樹乃たちの聴取は徹底的に行われた。
 現場の地下室には鉄扉の入口以外に、裏口等はいっさい存在しないことが明らかになった。コンクリート造りの壁は厚さが20センチ程で、基礎と一体となりひび割れや亀裂箇所は一箇所もない。また、超音波探知機でスキャンした結果では、コンクリの壁の向こうは完全な土の中で、穴のような空間はないことが分かっている。
 ただ、ステンレスのシンクがあった方向は下水の配管が通っており、シンクの排水管はそこへ通じているという。
 天井部の厚さは30センチもあり、車や機械類の重量にも耐えられるようになっている。オートジャッキーの部分は、地下室から外れた地中に基礎が打ち込まれており、しっかりと大地に根を降ろしている。
 いずれにしても吉ヶ谷の逃走経路ははっきりとはしていない。
 また、ロープ等の機材を使用して、外側からロックを掛けられないかという検証もされたが、換気口や排水管の位置からそれは不可能だと証明された。第一扉の外には、真樹乃たちが居たのである。そもそもが無理な相談だった。
 しかし本部としてはそのことに対して危惧はしていない。以前匠が言ったように、犯人が分かっている以上、どこから逃げたかということは、それほど大した問題ではない。犯人を捕らえて聞き出せたいいだけの話なのだ。
 真樹乃や麻生も聴取を受けたが、それまで分かっている事以上の情報はもたらせなかった。
 あとは被害者である鈴音の証言を待つ以外にはない。
 もちろん、都内全域規模での指名手配は完了している。吉ヶ谷のみではなく、その協力者と思われる沢嶋義重の手配写真も配布された。もはやどこにも逃げる余地はないと思われたのだ。
 現に昨日には川崎市の浅田で、市街の月極駐車場に乗り捨てられた沢嶋のバイクが発見されており、それは盗難車であることも確認されていた。
 サイバー捜査官らが付近の防犯カメラのデーターを押収して分析しているが、未だに有効な情報はあがってこない。
 そんな中で鈴音の意識が戻ったという情報がもたらされたのだ。捜査本部が沸き立つのも無理はない。
 早速、本部から聴取捜査官が選別されたのだが、現場に居合わせた真樹乃と麻生は無条件で、それからフォースの篠塚とダイハチの匠は上層部の思惑によって選ばれた。
 そういう事情によって、現在4人は中野に向かっているのである。
「どうにも気持ちが悪いんすよね」
 後部座席に座った匠は、声を潜めて隣の真樹乃に話しかける。
「ん? 車酔いか?」
「そうじゃないす。どうにも納得のいかないことが多いんすよ」
「納得のいかないこと? ああ、シンクが清掃されていたってことね」
「それもあるんすが、吉ヶ谷が現場に現れる前に、沢嶋が現れたって言ってましたよね」
「ああ。まあ、10分くらいで、すぐにどこかに行っちまいやがったがな」
 真樹乃も釣られて声を潜める。前座席のふたりは聞き耳をたてているのか、いないのか。
「その時、なにか大きなバックみたいなものを持っていたとか」
「ああ。あたしはバックって言ったけど、正確にはザックみたいなもんだな」
「ザック?」
「サンドバッグの小さいみたいな袋状の物だよ。中に荷物を詰めて口をロープで縛って、肩に担ぐみたいな。ほら、アメリカのミリタリー映画なんかで、良く出てくんだろ、あれだよ、あれ」
「ゴム製のバック?」
「そんな感じだったな。ま、近くで見たわけじゃないから、よくは分かんないけど」
「でも、現場にはなかったすよね。そんなバック」
「あ、そういやぁ、そうだな。気にしてなかったけど」
 真樹乃は手を打って思い出していた。
「中になんか入ってたんすか?」
「入っていたと思うよ。結構、膨らんでいたから。着替えの服とか食料とか、そんなもんじゃね?」
「でも、そんな物もありませんでしたよね。食料といえば、吉ヶ谷が持ち込んだコンビニの袋くらい。着替えの服とか食料とか、どこへ消えたんでしょうね」
「何処って、逃げる時に持ち出したんじゃねえの?」
「身体の一部のような短刀を置いてですか? だったら、短刀もバックに詰めて持ち出せばいいものを」
「そういやぁ、そうだな」
「それから・・・」
「まだあるんかい!」
 カミガタ芸人なみの突っ込みをかました。
「音なんすけどね」
「おとォ?」
 何故か声が裏返る。
「真樹乃先輩、鉄扉を焼き切る前に、物を殴るような音を聴いたと言ったっしょ」
「言ったっけ、そんなこと」
「言いました。それに何かを引きずるような音」
「ああ、思い出した。確かにそんな音がしてたな。あれは鈴音の声が聴こえなくなってからだな。こう、ワンツー、ワンツーってボディを叩くような。だから鈴音が暴行を受けているって思ったんだよ」
 真樹乃はシャドウをするように左右のパンチを繰り出した。
「それから物を引きずるような?」
「あれは鈴音の身体を引きずり回しているんだよな」
「だけど、鈴音さんの身体には、首を絞められた跡以外の傷はありませんでしたよ」
 真樹乃は言葉に詰まった。確かにおかしい。
 病院からの報告では喉元や手首と足首には縛られたような跡があったものの、それ以外には暴行を受けたような痕跡は見られないということであった。
「じゃあ、ほら、着替えの服の詰まったバックを叩いたんじゃないの?」
「何のために?」
「知るかよ。そんなこと」
 真樹乃は切れてソッポを向いた。
「ね、おかしいでしょ。どうにもチグハグなんすよね。何もかもが、辻褄が合っているようでまるで合ってない。気持ちが悪くて仕方がないんす」
「気持ちが悪くて仕方がないってな、お前」
 真樹乃は呆れたように言った。
「それこそ、本人をとっ捕まえて聴きゃあいい話だろうがよ」
「そうなんすけどねえ」
「お前な、つまんないことに頭使うヒマがあんなら、吉ヶ谷の潜伏先でも推理しろよ」
 そうこうしているうちに警察病院に着いた。


 
 中野の警察病院は2008年の4月に千代田区の富士見町から移転したものである。地上9階、地下2階。屋上にはヘリポートも装備している。
 もちろん警察官の家族や事件の容疑者のみではなく、一般の診療も普通に行われている。
 姫崎鈴音は1階のICUから、3階の脳神経外科病棟に転科していた。
 3階の四季の森公園に面した個室に、鈴音は入院していた。4人が病室に入ると、彼女は大きな枕をふたつ重ねて、寄りかかるように座っていた。
 ぼんやりと、窓の外の緑を眺めているようだ。窓から入る夏色の風が、長い金髪を揺らしている。
 枕もとには大きな蘭の鉢植え。
 真樹乃は思わず持ってきた花束を背中に隠した。
「よお、元気そうだな」
「あ、真樹乃さん」
 真樹乃が声を掛けると、こちらを振り向いた。
 声が掠れている。首に巻いた包帯が痛いたしい。まだ、普段の聡明さは戻っていないようだ。どこか虚ろでぼんやりとしている。
「それに匠君と篠塚刑事さん・・・あとは?」
「新宿署の麻生です」
 麻生刑事が頭を下げた。篠塚が後を続ける。
「少し聞きたいことがあるのですが、宜しいでしょうか。もしも疲れるようなことがあれば、すぐに取りやめますから」
「はい、大丈夫です。でも、その前に。真樹乃さん」
 鈴音はベットの上に正座した。
「はあ? お前、無理すんなよ」
「身体を張って、私を助けてくれたんですってね。ありがとうございました」
 深々と頭を下げる。
「い、いや、・・・まあ。市民を守るのが、警察官の役目だから、よ」
 真樹乃は照れて頭を掻いた。
「カッコいいですね。真樹乃さん」
 鈴音はにこりと微笑んだ。
「お礼といってはなんですが、私に分かることは何でもお答えしますわ」
「では、最初に拉致された時のことなんですが」
 代表して篠塚が質問をはじめた。
「あなたが拉致されたのは、春日ママのお通夜の夜ということで宜しいですか?」
「はい。斎場の駐車場で拉致されました」
「その時の様子をお話下さい」
「あの時は駐車場で養父と話をして、それから会場のほうに戻ろうと思ったのです」
 まだ喋るのが少し辛いのか、つっかえつっかえ言葉をつむぐ。
「そしたら霊園の木立の中に吉ヶ谷の姿を認めたので、そちらに向かったのです」
「吉ヶ谷が居たのですか?」
 篠塚の声が大きくなる。
「はい。少し話をしました」
「無茶なことを・・・」
「すみません」
「どのような話をしたんです?」
 謝る鈴音に麻生が声を掛ける。
「話したといっても、むこうが一方的に話しただけなんですが、私に会えて嬉しいとか、君は僕のものだ、とか」
「変態だな」
 真樹乃が呟いた。
「その話の最中、首筋にビリッとした衝撃を感じて」
「スタンガンですか?」
「だと、思います。それで気を失って」
「すると現場には吉ヶ谷意外にも何者かが居たということですね。あなたはその人物を見ましたか?」
 再び篠塚が質問する。
「気を失う直前に観た感じでは、黒いフルメットを被っていたような気がします。すみません。よく覚えてはいません」
「いえ、それだけでも、覚えているだけ立派ですよ。で、その後なんですが、気がついたときは覚えていますか?」
「はい。地下室のような場所でした」
「それはあなたが救出された、あの地下室ですか?」
「だと、思います」
「それでどうしました? すみません。話しにくかったら結構です」
「いえ、大丈夫です。最初、私は地下室のあの椅子に縛られていました。手と足を縛られ、猿轡を噛まされていました」
 鈴音は気丈にも顔を上げて応えた。
「食事とかはどうしていたんですか?」
「先ほどの男が、日に数度運んでくれました」
「あなたを拉致したフルメットの男ですね」
 沢嶋義重だな、と真樹乃は思う。
「そうです」
「顔は見ましたか?」
「いえ、彼はずっと、アイシールドの付いたフルメットを被っていたので、顔は見ておりません」
「吉ヶ谷が来ることはあったのですか?」
「いえ、彼が来たのは最後の日のみです。それまではフルメットの男だけです」
「そのフルメットの男ですが、そのう、あなたに暴行とか加えたということはないですか?」
 篠塚が聴き難そうに質問する。
「いいえ、そんなことはありません。彼は食料を置くとすぐに出て行きましたから」
「あなたから話しかけたりはしなかったのですか?」
「話しかけても、何も応えてはくれません。こういってはなんですが」
 鈴音は少し笑って、
「私、ちょっと誘ってみたんです。うまく行けば隙を突けるかなと思って。でも、全然相手にされませんでした。少しショックでした」
「あのう。済みません」
 匠が質問をする生徒のように手をあげた。
「トイレとかはどうしてたんす?」
「食料を持ってきたときに、地下室の脇のトイレに行かせてもらいました。隙をみて逃げようとも思ったのですが、手を縛られていて出来ませんでした」
「それで2日間、拉致されていたんですね?」
「地下室だったので、時間的なことはわかりません。でも、それくらいだったと思います」
 ふう。と鈴音は息を吐き出した。大分、苦しそうだ。
「大丈夫ですか? 少し休みますか?」
「いえ、大丈夫です。続けて下さい」
 気丈な娘だな、と篠塚は思う。
「では、当日の話ですが、吉ヶ谷が来る前にフルメットの男、我々はこれを沢嶋義重と認識しているのですが、この沢嶋がやって来たのですね?」
「はい。いつものように食料を運んできたのです」
「ちなみにその食料というのは何んすか?」
 再び匠が口を挟む。
「サンドウィッチです。ハムとタマゴの」
「食べたんすよね、それを」
「はい」
「食べ終わった空き箱はどうしたんす?」
「持って帰りましたよ。いつもそうするんです。黒いバックに入れて」
「バック? それって、袋状になっていて、口を縛るタイプのものすか?」
「ええ、そうです」
「あの日も彼は、それを持ってきたんすね」
「はい。いつもそうですから」
「それで帰るときもそれを持って帰った、と?」
「はい、そうです」
 匠は真樹乃と顔を見合わせた。
 おかしい。地下室から出てきた沢嶋はバックを持ってはいなかった。
 と、いう顔を真樹乃はしている。麻生も腑に落ちないのか、しきりに首を捻っている。
「でも、それが何か?」
 首を捻っている匠や真樹乃を見て、鈴音は不安そうな顔をする。事態を理解していないのは鈴音と篠塚だけだ。
「それはともかく、吉ヶ谷が来た後の話です。彼はあなたに何か言いましたか?」
「はい。お金を受け取ったと言ってました」
「金?」
「私の身代金です。300万円だといってました」
「おかしいですね。そのような話は聞いていませんが」
「養父に直接、交渉したのでしょう。養父はあのような職業の人間ですからね、警察には届けにくかったんじゃないですか」
 自嘲気味に微笑む。
「なるほど。それで?」
「手に入れるものは入れたから、もうお前は用済みだ、といって私の首を絞めたんです。私は抵抗したんですが、両手両足を縛られて身動きが出来なくて、だんだん気が遠くなっていったんです。そしたら「しっかりしろ」という真樹乃さんの声が聴こえて、目を開けたら真樹乃さんの顔があって・・・安心したらまた気を失ってしまったんです。そして気がついたときは病院のベットだったというわけです。3日も寝ていたなんて、少しも気づきませんでした」
「あのさ、鈴音」
 真樹乃が声をかけると、鈴音はニコリと笑った。
「お前、気を失う前に吉ヶ谷に殴られなかったか? なんかそんな音がしたんだけど」
「ううん。ただ、首を絞められただけだと思う。気を失ったあとのことは分かんないけど。それより真樹乃さん・・・」
 鈴音は真樹乃を強い瞳で見つめた。
「吉ヶ谷は捕まえてくれたの?」
「え? ああ、・・・それなんだがな」
「吉ヶ谷は行方不明なんです」
 篠塚が言った。
「行方不明?」
「地下室から消えてしまったんだよ。出口にはあたしと、この麻生さんが居たんだがな。どこから逃げたのか、煙のように消えちまったってわけさ」
「そんな馬鹿な」
 鈴音は大きく目を見開いた。
「あの部屋には正面の扉しか出口はないはずよ。私、なんとか逃げようと思って調べたんだけど。もっとも縛られていたから目で見ただけだけど」
「あたしだって不思議だけど、まあ、いっても指名手配はしてるから、いずれは捕まると思うぜ」
「そうね。・・・少し疲れたわ。今日はこれくらいでいい?」
「わかりました。では、今日はこれで失礼します。また、伺うこともあるかも知れません。その時は宜しくお願いします」
 篠塚は頭を下げて言った。
 鈴音は、はい、というように目を閉じて応えた。
「なあ、どう思うよ」
 帰り道で真樹乃は匠に囁いた。他のふたりに気づかれないように、だ。
「彼女、嘘をついているすね」
 匠は言った。
「嘘?」
「もしくは誤解してるとか」
「誤解? なにを誤解しているというんだよ」
「ひょっとしたら。あくまで、ひょっとしたらっすよ」
 匠は言う。
「彼女、拉致されて最初に閉じ込められた場所は、あの工場じゃなかったかも知れません」

第7章 賢人

 新宿西口高層ホテルのラウンジで、新堂警部はその男と会っていた。
 御門龍介(みかど・りゅうすけ)。
 今朝早く連絡があり、会いたいというのだ。会いたいと言われれば断るわけにはいかない。
 御門龍介はラウンジの一番奥に腰掛けていた。
 ホテルの最上階である。
 全面がガラス窓の開口部からは東京都庁の巨大な建物と、その先に広がる中央公園の緑が見渡せる。
 龍介は夜間でも室内でも、変わらずに濃い色のサングラスを掛けている。
 今日もそうだ。
 しかしそのことで責めるつもりは毛頭ない。むしろサングラスを掛けていないほうが嫌だ。
 その眼が怖いからだ。
 心法。
 という、怪しい術を使うことは知っている。彼はそれを瞬間催眠の一種であると認識していた。
 その瞳を見ると、たちまち身体の自由が奪われてしまうのだ。
 まともに眼を見てはいられない。銀色に輝く瞳、あれは人の眼ではない。
 龍介がこちらを向いて片手を上げている。新堂は軽く頭を下げてその対面に座る。
 身長は同じくらい、体重は自分のほうが上だ。身体は鍛えてある。学生時代から剣道をやっていた。警察学校に入ってからは柔道も始めた。
 剣道なら全国レベルだ。全日本でもベスト4には入れるだろう。柔道でも地区大会なら優勝出来る。
 それでもこの男と闘う気がしない。闘って勝てる気がしないのだ。
「遅くなりました」
 新堂は言った。
「いや、俺もいま来たところだよ」
 龍介は後方を振り向いた。そこには長身の女が立っている。
 白銀玉藻(しろがね・たまも)。
 龍介の秘書だという。腰にまで届くような黒髪を、和紙で包んで背中に垂らしている。白面の整った顔だちをしているが、能面のように表情がない。まるでマネキンかアンドロイドのようだ。
 しかし新堂は一度だけ、その瞳に生気が宿ったところを見たことがある。あれはまだ自分が警備部にいた頃だ、御子柴警視正にいわれてこの女を試したことがある。
 道場で木刀を持って向き合った。白銀は巫女のような衣装を着て正座をしていた。
 警視正はその頭部を木刀で打てというのだ。
 そんなことが出来るはずがない。剣道5段の自分が本気で打てば、この女はどうなってしまうのだろう。
 参事官命令である。
 上司の命令は絶対であった。しかし、どうしても身体が動かない。
 その時、不意に白銀の瞳に光が宿った。恐ろしく淫美な輝きだった。身体中の血液が沸騰するような感覚に陥った。
 メラメラと身体中が燃え上がるようだった。たまらない衝動がこみ上げる。
 それは暴力による衝動である。目の前の女をメチャクチャにしてやりたい。それは堪らない性衝動にも似ていた。
 ブチ切れた。咆哮をあげた。
 そのまま思い切り木刀を振り下ろした。
 殺してしまった。
 戦慄が駆け抜けた。脳裏に学生時代、白浜の海岸で割ったスイカのイメージが駆け抜けた。
 真っ赤に染まったスイカの実の色。
 しかし白銀は平然とその場に座していた。正座のまま、身体半分ほど右に移動したのだ。新堂の木刀はその左側を、紙一重分だけかすめて通り過ぎていた。
 信じられない動きだった。正座したまま、なんであのような動きが出来るのだろう?
 御門龍介。
 白銀玉藻。
 どちらも化物のようであった。
「神蘭のほうは宜しいのですか?」
「うん。まあ、目星がつきそうなのでな。それで、こちらのほうに寄ってみた。春日ママが亡くなったそうだな」
 龍介はそう言った。
 御門龍介がどのような男なのか、正直なところ新堂にも分からない。
 表向きはインターナショナル・システム・インテグレータ、通称ISIと呼ばれる情報管理会社の執行役員をしているという話は聞いている。あの渋沢統治郎がCEOを務める会社である。
 しかし裏の顔は新堂と同じ「チェリー」の一員である。
 チェリーというのは御子柴参事官が公安部の中に造り上げた秘密組織である。警視庁内でもその存在を知っている者は、メンバー以外には警視総監と副総監以外はいないとされている。
 正式名称は外部人材活用課。
 ようするに外部の人間を捜査員として活用する部署である。捜査員といえば聴こえはいいが、その性質上、ほとんどがスパイとしての潜入活動が主となる。違法捜査ギリギリの活動内容のため、部外には絶対的に極秘扱いなのであった。
 正直なところ内部にいても、新堂には正式のメンバーが何名居るかはわからない。この御門龍介がメンバーだということは知っているが、その他にも何名かはいるのだろう。
 そしてその内の何名かは、彼の知らないところで消息を絶っているらしい。
 知りすぎてはいけない。
 それが新堂のたどり着いた結論だった。生命が惜しいのなら、余計なことは知らないほうがいいのだ。
「その他にも、もとKAGEROUのキャストが2名、殺害されています」
「うむ、話は聴いた。この件には例のことが関わっていると、御子柴には聞かされているのだが」
「そう伺っています」
 龍介は腕を組む。
「少し厄介だな。桜木は何と言っている?」
「事がことですから、彼とは連絡を取ってはいません」
「鶴田が動いているということか?」
「はい。ダイハチが捜査本部に加わっています」
「そうか。それで御子柴は身動きが取れないということか」
 龍介はククっと笑った。
「桜木の娘が殺害されかけました」
「うん、それも聴いた。犯人の吉ヶ谷は逃げたそうだな」
「はい。例のものは吉ヶ谷が持っている可能性があります」
「春日ママから桜木の娘。そして吉ヶ谷というラインか?」
 新堂は頷いた。
「そうなるとブツは赤沼の手に渡るかも知れん」
「あるいは大神ですか?」
「いずれにしてもそうなると不味いな」
「そちらのラインは桜木さんが抑えています」
「わかった。取り合えず、吉ヶ谷を追おう。それにしても・・・」
 龍介はチラリと白銀のほうに眼をやる。
「桜木の娘、鈴音とか言ったな。あの娘が殺されかけるとは、桜木もずいぶんと肝を冷やしただろう」
「身代金として1000万、支払ったそうです」
「ほう。それはそれは・・・」
 龍介は妙に嬉しそうだ。
「実はあの娘、弟が懇意にしていてな」
「将介さんがですか?」
「マリンフォース事件で知り合ったそうだ」
「将介さんはいまどちらに?」
「中国だよ。むこうでも色々とあったらしい。じきに帰国するだろう」
 さてと。
 というように龍介は立ち上がった。
「この辺で失礼するよ。この後、人に会わねばならんのでね」
「忙しいのですね」
「いや、会うのは夜なんだが、その前に寄りたいところがあるんだ」
 そう言って龍介は去っていった。白銀も頭を下げてその後ろに続く。
 まるで白い影法師のようだな。
 と、新堂は思った。

 神宮匠は喫茶店の窓から外を眺めている。古風な木の枠を模した窓であった。
 窓の外には2車線の道路を挟んで、小さなスクラップ工場がみえる。小さなというのは出入りの間口が小さいだけで、奥に進めばそれなりの広さは確保しているのだろう。薄い煎餅状に積み重ねられた車体の山が、ずっと奥まで続いている。
 いつか麻生刑事と自取りの合間に立ち寄った喫茶店だ。昔ながらのクラッシックな店であった。
 今日もまた自取りの最中である。鈴音の事件のあった高田馬場は、ここから北西方向に3キロほど行ったところだ。
 コンビで活動していてもなんとなく単独行動になってしまう匠である。この日も相棒の麻生刑事に単独行動を申し入れた。
 ダイハチの神宮といえば単独捜査で有名である。それを非難する声は多いが、そのおかげで解決した事件があることも事実だった。
 麻生のような古狸風の刑事は、むしろそれを面白がる傾向にある。
「そうですか。それでは少々思い当たることがありますので、あとで合流しましょう」
 そう言って飄々と立ち去った。
 いっても彼は新宿署の組犯である。歌舞伎町にはそれなりのコネと地盤があるのだろうと考える。彼にしても単独行動は、むしろ願ってもないことなのではないか。
 匠にはこの日、ある人物との待ち合わせがあった。
 それは麻生のような新宿署の組犯係には一発でわかってしまう人物である。そして出来ることなら、そのことを隠して置きたい。
 それで待ち合わせの喫茶店でぼんやりしていると、いきなり肩を叩かれた。
「よう。待たせたな」
 振り仰ぐと花柳慧一が鮮やかな笑みを浮かべて立っていた。
「いえ、それほどでも」
 待ち合わせの人物とは花柳慧一であった。彼は匠の前の席に落ち着くと煙草を取り出した。この店は珍しく煙草を吸うことを黙認している。
「どうしたい? スクラップ工場がどうかしたのか?」
「いえ、別に。たまたま目に入っただけですよ。で、どうです。例の件は?」
 実をいうと匠は慧一に峯岸高文の捜査を委託していたのだ。
 匠には「峯岸は歌舞伎町にいる」といった、鈴音の言葉がどうにも引っかかっていた。彼女が誘拐される前の話である。
 こと歌舞伎町内の捜査となれば、この男以上の適任者は思い当たらないのだ。
「いや、それがな。色々とあたってみたが、それらしい人物を見かけたという者はいないな。ここまで調べて見つからないのだから、そいつ歌舞伎町にはいないんじゃないか」
「そうすか」
「ほう。意外とガッカリしてないな。予想していたということか」
「いえ、五分五分というところすかね。もともと自分、峯岸は死んでる派っすから」
「なんだい、その死んでる派というのは」
 慧一は呆れたように首を振った。
「それを聴いたとき自分、彼女に確認したんすよね。峯岸は生きているのかって。そしたら彼女、明確には答えなかったす」
「つまり、歌舞伎町にあるのは、奴の死体ってことか?」
「さあ、どうすかね。彼女、基本嘘付きっすから、眉唾くらいが丁度いいす」
「えらい言われようだな」
 慧一はまた苦笑する。
「それよりケイさん、どうですか? その後の歌舞伎町の様子は」
「俥座一家のことか?」
「はい」
「まあ、おたくの親分にどやしつけられてからは大人しくしてるよ。というか事件が立て続けに起こって、どうやら鬼政への意趣返しではなさそうだとわかった時点で、俥座は手を引こうという考えらしい。そうそう大した騒動は起こらないだろうよ。ただ」
「ただ?」
「近藤が単独で動いているらしいんだ」
「近藤さん?」
 慧一は眉を潜める。
「近藤宗親。鬼政と並ぶ最高幹部のひとりだ。「虎斬り宗親」と呼ばれる、恐ろしいおあ兄さんだぜえ」
「虎斬りの宗親さんねえ」
「この男は実力行使、いってみりゃ直情型の多い俥座の中では異質な存在でな。なんていうか頭脳派というか情報戦に強いらしい。そこを見込まれて一家の中では情報収集の任務を担っているわけだが、そいつが一連の事件の中になにやら不穏な動きを感じ取っているらしい」
「ふうん。面白いっすね」
 慧一はそこで一度言葉を切って、コーヒーを注文した。驚くことにこの店は、客がなにかのアクションを起こさない限り一切ノータッチらしい。
「御門龍介。覚えているだろう?」
「覚えているも何も」
 匠は眼を丸くした。まさかここでその名前が出るとは思わなかった。
「あれからも何度か顔を合わせてますよ」
「その御門が動き出しているらしい」
「嘘でしょ。あのひとは「陽だまりの家」の神蘭を追いかけているはず・・・。まさか今回の事件も「陽だまりの家」が関与してるってことすか?」
「さあ、それは分からんが、白銀と言ったっけ、御門にくっついている女が度々目撃されているらしい」
「銀狐の玉藻っすね」
「そう。その女が歌舞伎町で何やら調べまわっているって話だ」
「何を調べているんすか?」
 コーヒーが運ばれてきたので慧一は一息ついた。二本目の煙草に火をつける。
「赤沼虎次郎。それと大神士郎についてだ」
「大神士郎といえば大手芸能プロダクションの社長さんすよね」
 そういえば、そのような話を鈴音もしていたな、と思い出す。鈴音が誘拐拉致される前に、彼女と養父である桜木晃一郎との電話を盗聴したときのことだ。
「確か金竜会の金重会長は大神士郎と関係があるんすよね」
「へえ、よく知ってんな。金竜会は大神の懐刀・大原吾郎の関連組織だ」
「その金竜会を破門された峯岸高文が事件を起こし失踪した。それがこの事件の発端す。つまり事件の背後には大神がいる可能性が高い」
「それとも赤龍会の赤沼虎次郎か?」
「もしくはそのふたりが組んでいるのか? そこまでは本部のほうでも掴んでいるっす」
 匠は頷いた。
「その関連で御門は動いているんだろうよ」
「しかし御門さんは単独で動くような男ではありません。彼が動くとなれば必ず誰か、彼に依頼した人間がいるはずです」
「始末屋だからな、あの男」
「赤沼や大神ではないっすよね。すると桜木っすか?」
「あるいは・・・」
 慧一は意味深な言い方をする。
「あるいは?」
「まあ、そのへんにしておこう。それよりお前、今回の事件をどう見るよ?」
「今回の事件? 姫崎鈴音の事件すか?」
「ああ、ホシの吉ヶ谷はまだ見つからないそうじゃないか」
「そうすね。だからこうして自取りに歩いてんす」
「その割にはサボっているな」
「それは言わんで下さい」
 ふたりは笑いあった。
「テレビのワイドショーで観たが、厄介な事件みたいじゃないか」
「密室のことすか」
「ああ、名探偵としてはどう考える?」
「ケイさんまでそんなことを言うんすか? 自分、名探偵ではないすよ。それに密室自体にはなんの意味もないす」
「犯人を捕まえれば、それでいいというわけか」
「そうなんす。そうなんすけどねえ」
「そうだけど、何だ?」
「どうにも腑に落ちないんすよね、色々と。考えたくはないんすけど、どうにも気分が悪いんすよね」
「難儀な性格だな」
 慧一は笑う。どうにもこの匠といると、笑う機会が多くなる。
「ああ、・・・もう。ケイさんがそんなこと言うから、また気になってしまったじゃないすか。・・・自分、ちょっと行ってきます」
「どこへ?」
「現場っすよ、現場。現場百回っていうじゃないすか」
 匠は伝票を掴んで立ち上がった。
 まったく、神宮匠はいつまで経っても神宮匠だな。
 可笑しくて、ひとり含み笑いをする花柳慧一だった。


 
 御門龍介はクラブ「KAGEROU」の前に立っていた。隣にはもちろん、秘書の白銀玉藻が影のように寄り添っている。
 春日ママが亡くなってから、KAGEROUは事実上閉店している。
 店に上がる螺旋階段の入り口には何十にも鎖が巻かれ、厳重に鍵が掛かっている。入口の扉にも鍵が掛かっているだろう。
 それでもそこが直接の現場ではないせいか立番の警官の姿はない。
 龍介は建物の後方に回った。
 背面の非常階段からは店の裏口に上がることが出来るのだ。かって龍介自身、ここから外にでた経験がある。
 ドアノブを捻ると思いのほか簡単に扉は開いた。
 鍵をかけ忘れたのか、それとも誰かが中にいるのか。
 扉を開いて中に入る。
 明かりは点いていた。奥のカウンターに人が座っている。
 長い黒髪を巻き上げた長身の女性。龍介は彼女を知っていた。
「式部さん」
 声を掛ける。女が振り返った。
「あら、御門さん? 珍しい」
「よう。チーママ、久しぶりだな」
 式部は店のチーママである。店内では春日ママに次ぐナンバー2だ。
 龍介と白銀はカウンターに座る。反対に式部はカウンターの中に入った。
「白銀さんまで。・・・どうしたというの、一体?」
「いや、近くまで来たんでな、ちょっと寄ってみたんだが、ママには気の毒なことをしたな」
「ママだけではないわ。一緒に働いていた仲間が3人も、もう、まったくどうなっているのか、さっぱり分からない」
 ビールでいい? と、訊くチーママに、まだ昼間だからと言って龍介は断る。
 すると式部は自分だけグラスにはウィスキーを注いで飲み始めた。
「店のほうは、もう締めるのか?」
「ママがあんなになったんだものね。お店の子も怖がって辞めちゃうし」
「桜木はなんと言っている?」
「さあ、オーナーは自分の娘に継がせたいんじゃないの? でも、あの子も殺されかけたし」
「静香という娘だな」
「御門さんは知っているの?」
「ああ、店で何度か顔を合わせたことはある。それに彼女とは弟のほうが懇意にしている」
「へえ、そうなんだ」
「高校時代に知り合ったんだ。まあ、いまは中国へ行ってるがな」
 式部はグラスを持って龍介の隣に腰掛けた。
「あの子、ちょっと変わっているというか、なんか不気味なのよね。オーナーの養女だから表立っては言えないけど」
「不気味?」
「ううん。顔は可愛いし、頭もいい。人扱いも長けてるから人気もあるわ。そういう意味ではキャストとしては最高なんだけど・・・」
「けど?」
 式部は口を閉ざした。言おうか言うまいか、迷っているようだ。龍介は辛抱強く待った。
「じゃ、俺も貰おうか」
「そうこなくちゃ」
 龍介の前にグラスを置き、自分のグラスにも継ぎ足した。白銀だけが頑くなに固辞する。
「2年くらい前になるのかな、まだ彼女が入店して1年も経たない頃よ。梶賀組の組長で、大島剛造っていうひとが行方不明になったの。その人静香ちゃんの太客で、行方不明になったその日にもアフターに行っているのよね。もちろんその日は彼女も店に帰ってきて、組長が行方不明になったのはその後だから、直接の関係はないんだけど」
「梶賀組というのは極城会の関連組織だな。たしか当時、一心会と勢力争いをしていたはずだ」
「そう。それだけじゃなくて、彼女の周囲では時折行方が分からなくなる人がいるのよね。夜逃げしたり、蒸発したり。それにほら、3ヶ月前にうちのキャストだった自殺した駒草ちゃんを発見したのも静香ちゃんだった」
「確かあの事件の三人の犯人も、まだ見つかっていないようだな」
 龍介は考え込みながら言う。式部は我が意を得たというように大きく頷いた。
「そう、そうなの。そのうえで今回の事件でしょ。それは被害にあった静香ちゃんは可愛そうだけど、なんか私怖いのよね」
「なるほどな。そういうことがあるのか」
 龍介はビールを飲む。
「ところで大神さんは、相変わらず来ているのか?」
「ああ、大神さんね」
 式部は目元が少し赤くなっている。相当な勢いで飲んでいるのだ。
「この前も来ていたわ。ほら、赤龍会の赤沼会長と、それから初顔のお客様と3人で。ちょっとママと話した後、VIPルームで何やら話し込んでいたわ。誰も入れないで・・・うふふふ。言っちゃおうかな?」
「何をだい?」
「私、ちょっと酔ってるから、何を言うか分かんないわよ」
 本当に酔いが回っているらしい。隣の白銀に寄りかかっている。それでも白銀は意に介さない。まるで本物のマネキンのようだ。
「ああ、大丈夫。今日はオフレコだ」
「そうよね。もう、ママも亡くなったし、いいわよね。・・・実はママね、大神さんと出来ているの。浮気よ、浮気。だってママってオーナーの愛人なんでしょ?」
「愛人だからな。浮気と言っていいか、どうか」
「浮気は浮気よ。まったく死んだ人に、こんなことは言いたくないけど・・・・」
 式部はカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
 彼女は大神に惚れていたのだ。それをママに捕られて心中穏やかではなかったのだろう。
 龍介は側に置いてあった彼女のコートを背中に掛けて立ち上がった。
 それにしても、春日ママがあの大神士郎と付き合っていたとは。
 これは聞き捨てならない情報だな。
 龍介は幾ばくかの紙幣を置いて店を後にした。情報料のつもりであった。

 高田の馬場の現場に着いた時にはもう夕方になっていた。
 夕方とはいえ夏の大気は冷める気配がない。目的の車検工場に着く頃には、背中に汗をかいていた。
 さすがに入口のガレージ前には、立ち入り禁止のテープが貼られ、立番の制服警官が立っている。
 御門龍介と白銀玉藻のふたりは、現場の周囲を回り裏通りのほうへ出た。2車線の小路で足元のマンホールが半分外側にズレている。
 中に誰かが居るようだ。
 工事人だろうか。しかし工事ならそれ相応の看板なり柵なりがあっても良さそうだが、そういうものは一切ない。また近くに、工事用の車両も見当たらない。
 しばらくそのマンホールを眺めていた龍介だったが、すぐに踵を返して表通りに戻った。
 立番の警官が怪訝な顔をしたが、龍介が濃緑のサングラスをずらすと、液体水素をかけられたように固まってしまった。
 ふたりはその横を通って工場の中に入る。
 中は無人であった。
 コンクリートの階段を降りると3帖ほどの踊り場。事件当時の蛍光灯は蛍光管が外されていたが、今では新しいものが取り付けられてスイッチを入れれば普通に点灯した。右側のトイレにも電気は点く。畳一枚分くらいの広さのトイレは、相変わらず汚れていて掃除をした形跡もない。
 正面の金属の引き戸は大きく開いていた。
 右手のスイッチを入れると、思ったより明るい光が倉庫内を照らす。どうやら蛍光管はすべて、新しいものに交換してあるらしい。
 正面には埃だらけの機械類の山。ほとんどすべてがゴミなのだ。
 その手前に敷かれたブルーシートに白いチョークの跡。あそこに姫崎鈴音が倒れていたのか。
 その隣には折りたたみのパイプ椅子と木製のテーブル。
 それがこの地下室のすべてであった。
「何してるんすか? こんなところで」
 背後から声をかけられ振り向いた。
 神宮匠がそこに立っていた。
「思いもかけないところで会いますね。御門さん」
「神宮匠。・・・君か」
 ふたりは過去の事件で何度も顔を合わせている。最初の出会いは、あの花柳慧一が犯人に仕立て上げられた事件だった。
 その後、時には味方になり、時には敵になりふたりの関係は続いている。
「白銀さんも相変わらずっすね」
 白銀はいつも通り無表情で佇んでいる。
「あなたは「陽だまりの家」の神蘭を追っていると思っていたんすが」
「まあ、寄り道だよ。それより君こそ、なんであんなところに入っていたんだ?」
「あんなとこっすか?」
 龍介はニヤリと笑う。
「マンホールだよ。君は裏のマンホールに入っていたんだろ?」
「ええッ。何でわかったんす?」
「マンホールの蓋が半分ほどズレていたよ。それに君のズボンの裾、そんなに汚れているじゃないか」
「なるほど。さすがすね」
 匠も笑う。
「で?」
「で?」
「いや、なんでマンホールなんだって聴いているんだ。もしかしたら、あれか?」
 そう言って指さしたのは、部屋の隅にあった大きめのシンクであった。
「周囲の機械が埃だらけなのに比べて、あのシンクはきれい過ぎる。誰が掃除したのだろう?」
「ご明察っす。だから排水溝が繋がっている下水道は、どうなっているだろと思って入ってみたっす」
「どうなっていた?」
「綺麗なもんす。腕を突っ込んでみましたが、ほらこの通り少しも汚れません。パイプ洗浄機かなんかで念入りに清掃したんでしょうね」
「どういうことだ、それは?」
 さすがの龍介も首をひねる。
「さあ、サッパリ。あの大きさじゃ、腕が通るのが精一杯。とてもじゃないすが、人間の入れる大きさではないすしね」
「掃除好きなんじゃないか」
「誰がすか?」
「さあな。吉ヶ谷か、それともその相棒かが」
「ああ、沢嶋すか? それなら考えられるかも・・・いやいや、それはないっしょ」
 匠の冗談に珍しく龍介が微笑んだ。
「ところで神宮よ。少し考えたんだが」
「なんすか?」
「誘拐された娘、姫崎鈴音は2日間ここに閉じ込められていたんだよな」
「そうすね」
「その間トイレはどうしていたんだろう?」
 匠はパンと両手を打ち鳴らした。
「そこっす。さすがは御門さん、いい所に目を付けるすね。自分もそう思いました。ですから本人に訊いたんす、トイレはどうしたんですかって」
「そしたらなんて答えたんだ?」
「そこのトイレを使ったと、普通に答えたっす」
「しかし、そこのトイレは・・・」
「そう。どう見てもここしばらく使った形跡はありません。となると、考えられることはふたつっす」
「ふたつ、ねえ」
「ひとつは彼女が嘘をついたということす。もうひとつは彼女が誤解しているという可能性っす」
 匠は言った。
「嘘を付いたということは、この倉庫内で済ませたということなんすが、そうなるとポータブルトイレ等がなければおかしいっすよね」
「そういう物はなかったってことか?」
「では彼女が勘違いをしていたとするとどうでしょう。その場合、監禁場所はここではなかったということになります」
「つまりここと同じような監禁場所が他にもあって、そこには普通にトイレがあったってことか」
「そういうことになるっすね」
「しかしな」
 龍介は考え込む。
「捜査官らはここへ突入したんだろ。少なくともその時、彼女がここにいたのは間違いない」
「そうすねえ。となると、事件の直前に彼女はここへ運ばれたことになるっす」
「移動させられたなら、最初からそう証言するだろう」
「だから誤解なんすよ。恐らく夜中、彼女が寝ている間に移動させられたんでしょう。だから彼女はここが最初の監禁場所だと勘違いした」
「なるほどな」
 龍介は一旦了解したが、すぐに疑問を呈した。
「しかしそんなことをしたとして、だからどうなるというんだ? それで密室が出来るわけでもなし」
「そうすねえ」
 匠は頭を掻いた。
「それからもうひとつ、理解不能のことがあるんすけど」
「まだあるのか?」
「吉ヶ谷の相棒の沢嶋が、事件の起きる直前にこの地下室にゴム製のバックを持ち込んだんすが、それがきれいに消え失せたんす」
「消えた?」
「沢嶋がバックを持ち込んだことは、張り番の捜査官も確認しています。それは鈴音さんの証言にもあります。しかし彼が地下室を出たときにはバックを持ってはいなかった。鈴音さんはバックを持って地下室を出たと言っています。つまりバックは地下室から地上に上がる間に、どこかへ消えてしまったんです」
「人間がひとり消えるくらいだからな。バックくらい消えてもおかしくはないだろ」
「そうすか? 人間は地下室で消えたんすよ。でも、バックは階段で消えたんす。微妙に違っている」
 龍介は背後の白銀を振り返った。
「君はどう思う?」
「物理的にというのであれば、話は簡単です」
 アンドロイドが口を開くように白銀が言った。
「密室の謎が解けるのすか?」
 食いつく匠に、彼女は静かに頷く。
「あくまでも物理的には、という条件のもとにです」
「ふうん。聴かせてもらいたいものだな」
「簡単です。現場を張っていたという、ふたりの刑事が口裏を合わせれば可能です」
「つまり吉ヶ谷はここには来なかったということすか?」
 匠が眼を瞬かせていう。
「沢嶋という男もです。それならバックも人間も消えて当然です」
「ちょ、ちょと待って下さい。それってつまり、ふたりの刑事が犯人だということすか?」
「はい。そう申したのです」
 白銀はあっさりと言った。
「そんな話、真樹乃先輩が聞いたらブッ飛ばされますよ」
「あなたがブッ飛ばされようがどうしようが、私には関係ありません」
 匠は吹き出した。
「まじめな顔で突っ込むとおかしいすね。でも鈴音さんは生きていましたよ。もしもふたりが犯人なら、死んでいることを確認する時間は十分にあったはずすから、止めを刺さないということはないでしょう。事実、真樹乃先輩は彼女を蘇生させているんすから。それに被害者の鈴音さんも、犯人は吉ヶ谷と証言していますよ。いかに彼女が嘘付きでも、さすがにそこは嘘を付かないでしょ」
「あくまで物理的に、といったはずです。あなたの先輩という刑事は本庁の刑事でしょう。確か本庁の刑事は、所轄の刑事とコンビを組むと聞かされました。部署の違うふたりの刑事が共同で犯罪を犯すとは考えにくいです」
「まあ、そんなところだな」
 龍介が割って入った。
「どうもこの事件は我々の常識が通用しないらしい」
「どこでもドアがあれば楽勝なんすがね」
 御門は微妙な表情をした。匠のジョークが通用しなかったのだろう。
「では、我々はこの辺で、この後、人と会う約束があるのでね」
 そう言ってふたりは階段を登っていった。
「ああ、そうそう」
 下から匠が声を掛ける。
「張り番の警官、何とかして下さいよ」
 龍介は背後に右手を挙げて応えた。

 極上の空にはは満天の星が瞬いていた。
 細長い薄雲が、窓の外を流れていく。少し風はあるらしい。
 新宿西口の高層ビル。
 46階の展望レストランにふたりは向かい合っている。
 御門龍介。
 近藤宗親。
 窓際の席だ。テーブルにはクラッシクなランプ。その淡い光の中にお互いの顔がおぼろに見えている。
 食事を済ませた後、ワインを楽しんでいる。
 シャトー・シュヴァルブラン。
 注文したのは近藤宗親だった。
「なるほどな」
 御門龍介は紅色のワインをランプの灯りに透かしてみた。
「いいワインだ」
「でしょう」
 近藤は笑った。
「で、話というのは?」
「我々はひとを捜しているのです」
「ふ~ん」
「吉ヶ谷翔麻という男なのですが知りませんか?」
「このところ巷を賑わせている、連続殺人鬼だろ。確か桜木の養女を誘拐して、そのまま逃走している」
「地下の密室から煙のように消え失せたようですね」
「いまさっき、その地下室を見てきたところだ」
「なるほど。さすがに抜け目はないですね」
 近藤はワイングラスを弄びながら龍介の表情を伺う。
「で、どうですか? 密室の謎は解けそうですか?」
「さあ、どうだろうな」
 龍介は窓の外に眼をやっている。
「歌舞伎町」
 近藤は囁くように声を潜めた。
「は?」
「歌舞伎町で何をしているのですか?」
「なんの話だ?」
「何人かの組員たちが見ているのですがね」
「俺をか?」
「いえ、あなたのきれいな秘書をですよ」
「白銀か?」
「はい」
 その白銀玉藻はすこし離れたテーブルにひとりで座っている。
 龍介はつまみに付いているカマンベールチーズを口に運んでワインを飲んだ。
「で?」
「吉ヶ谷が桜木の養女を誘拐するずっと前からですよ。あなたが歌舞伎町で何かを探っていると思うのですが、それが吉ヶ谷でないとすると何んなのか興味があるのですよ」
「なんで俺がそんなことをしていると思うんだ? 白銀は単に買い物に歩いているのかも知れん」
「そうですね」
 近藤もワインを含む。
「どうです? もう一本開けますか?」
「あんたの奢りならな」
 近藤は苦笑してワインの追加を頼んだ。
「では話を変えます。御門さん、チェリーという言葉を知っていますか?」
 探るような目で龍介の表情を読み取ろうとするが、彼の表情に変化はない。
「さあ、聴いたこともないな。何なんだ、そのチェリーというのは」
「警視庁内、もっと言ってしまえば警視庁の公安部に存在するといわれている秘密組織です」
 龍介はクスクス笑いだした。
「なんだ、その秘密組織というのは。映画か漫画のネーミングだな」
「もちろん確たる確証があるわけではない。まあ、うわさ話の域をでないのですが。もしもそういう組織があったとして、今回のことがそれに関わっているとしたらどうですか?」
「今回のこと?」
「吉ヶ谷翔麻。彼の目的とするものですよ」
「話が見えないな」
 ソムリエが新しいワインを運んでくると、近藤は一度口をつぐんだが、彼が去るのを待って言葉を続けた。
「そもそも警視庁の公安部というのは、もとは特別高等警察部いわいる特高と呼ばれるものでした。終戦後、解体された特高の代わりに創設されたのが、現在の公安警察なのです。これは中央指揮命令センターの指揮下にある通称「ゼロ」と呼ばれる部署に統括され、その下にスパイの獲得や運営などの協力者獲得工作を取り仕切る外部人材活用課と呼ばれる組織があるらしいのです。これがいわいる「チェリー」なのです」
「ずいぶんと詳しいようだな」
「又聞きですけどね」
 近藤はニヤリと笑った。
「で、それと俺とどういう関係があるんだ?」
「だから、あなたがそのチェリーではないかというのですがね」
 近藤が真面目な顔でいったので、龍介は思わず吹き出してしまった。
「何を馬鹿なことを。俺はただのサラリーマンだぜ」
「始末屋とかいってましたが」
「あれはアルバイトだよ。この世知がない世の中、会社員の給料だけでは生活が苦しくてな」
「そうなんですか? まあ、いいですけど」
「何がいいたい?」
「指定暴力団一心会の桜木本部長ですがね。これもまたチェリーの一人なのではないかと」
「はあ? なんだい、それは」
「まあ、噂ですよ、あくまでも。でもね、万一これが事実だとしたら、これは大変なことです。何しろ警視庁の公安部が反社勢力の構成員を、臨時職員として雇っていることになるのですから」
 近藤は自分のことを棚に上げたことが可笑しかったのか、少しはにかんで言った。
「想像力がおおせいだな」
「恐れ入ります。で、今回のことですが、そこに遠因があると思うのです」
「それに吉ヶ谷という男が関わっているというのか?」
「慌ててはいけません」
 近藤は美味そうにワインを飲む。
「もう1が月にもなりますか、世田谷の尾山台で市井真由香という女性が首を括って自殺しました。銀座のKAGEROUというクラブのホステスです。で、この女性はある男に脅迫されて、職業上仕入れたある情報を彼に漏らした可能性があるのです。この銀座のクラブというのは、いまいった桜木晃一郎の息のかかった店で、店のママは桜木の愛人なのです」
「その春日ママも殺されているな」
「つまり彼女が手に入れた情報というのは、一心会の桜木がチェリーの一員である証拠ではないかと」
 そういって近藤はまた、龍介の顔色を伺う。
「それを吉ヶ谷が手に入れたということか?」
「いえ、吉ヶ谷とはまた別の男です。その男は行方不明になってますが、あるいは吉ヶ谷に殺されたのかも知れません」
「夢物語だな」
「夢物語です」
「しかし、吉ヶ谷がその男を殺害したのなら、その証拠とやらはすでに彼の手中にあるわけだろ」
「ところがブツはすでにその男の手から、別の人物に渡っていたとしたらどうです?」
「なるほどね。だから吉ヶ谷はKAGEROUの関係者が、それを持っていると考えたわけか」
 龍介はワイングラスを置いて近藤の顔をみた。
「何者なんだ? その吉ヶ谷という男」
「もと品川赤沼組の舎弟頭だった男です。赤沼虎次郎は一心会の桜木とは犬猿の仲ですからね。これは桜木を追い落とす絶好のチャンスではないでしょうか?」
「中々面白い話ではあるが、それがどうして歌舞伎町なんだ?」
「それはまだ」
「ふ~ん」
 龍介はまた興味のなさそうな表情に戻った。近藤はそんな龍介に探るような視線をむける。
「まだあるんです。つい先日ですが、桜木会長の娘が殺されかけました。その娘というのは」
「姫崎鈴音」
「ご存知でしたか?」
「クラブKAGEROUの静香だろ。何度か顔を合わせたことがあるくらいで直接は知らんが、弟から聞いたことはある」
「ほう、弟さんね」
 近藤は何故か嬉しそうだ。
「すべては一心会と桜木晃一郎の関係者です。これは偶然ですかね」
 龍介はワインを飲み干してグラスを置いた。
「ひとつだけ教えておいてやるよ。興味があるなら大神を調べるんだな」
「大神士郎ですか?」
「大神士郎、いま言った春日ママと付き合っていたらしい。春日ママは桜木を裏切っていたんだ。ま、たった今仕入れたネタだがな」
「ほう。それは初耳です」
「何か分かったら、是非とも教えてもらいたいものだな」
 そう言って立ち上がりかけた龍介を近藤が引き止めた。
「で、どうですか?」
「なにが?」
「代わりと言ってはなんですが、あなたが何を探っているか、話してはもらえませんか?」
「だから俺は何も探ってはいないよ」
「赤沼三虎といったら分かりやすいですか?」
 近藤は探るような眼をする。
「赤沼三虎?」
「おや、知りませんでしたか? 赤沼虎次郎の弟で、赤沼みどろ組の組長ですが」
「それは知ってるが」
「私はねえ、御門さん」
 近藤は細い瞳をさらに細くして、不気味な笑顔をみせた。
「今回の事件の裏には、この赤沼三虎が関係していると思うのですよ」

第8章 解人

 深夜の警視庁刑事部長室に3人の人たちが集まっていた。
 まずは鶴田篤朗刑事部長。
 そして呉羽かすみ捜査一課長。
 最後に吾妻悟第8強行犯捜査係長。
 鶴田刑事部長は大きなディスク背後の自分の椅子に腰掛け、残りのふたりはディスクの前に立っていた。
 刑事部長部屋の家具配置は、御子柴の参事官室とよく似た構成だがこちらのほうがずっとシンプルだ。使用している家具も特別なブランド品というわけでもなく、実用性や機能性をポイントに選んだ品物のようだ。
「まずはご苦労だった。呉羽課長」
 刑事部長が言った。いつぞやの俥座一家の暴走を抑えた件のことをいっている。
 その後俥座一家は動きを停めた。呉羽が収めたということもあるだろうが、連続した事件に吉ヶ谷の目的が、岩倉に対する意趣返しではないことがハッキリとしたということも大きい。
 鶴田は壮健な男である。
 ガッシリとした肩幅は、学生時代ラクビーのナンバーエイトで鍛えた名残だ。頭髪にはやや白いものが目立つが、それでも顔色は良く眼光の鋭さには、見る者をたじろかせる迫力があった。次期総監の地位を伺う野心家である。
「恐れ入ります」
「ま、少しやり過ぎの感がありますがな」
 吾妻がチャチを入れたので、呉羽はますます恐れ入った。関東最強ともいわれた火車の仁吉相手に、一歩も引かなかった彼女だが、吾妻係長の前では借りてきた猫のように大人しい。
「まあ、確かに警察官としてはどうかとは思うが、あの仁吉相手だからな、あれくらいのことは仕方がないんじゃないか」
 鶴田は苦笑いを浮かべて弁護した。
「ご迷惑をおかけしました」
 再び頭を下げる。鶴田は話題を変えた。
「ところで先日受けた報告なんだが」
「神宮からの報告ですね」
 呉羽が応える。
「まあ、捜査の違法性はこの際置いておくとしても、今回の件に赤沼虎次郎や大神士郎が関わっているとなると、それはそれで厄介だな」
「吉ヶ谷はもと赤沼組ですからね、彼の背後に赤沼組がいるであろうことは、ある程度予想がついていました」
「しかし大神までとはな」
「二子玉で殺害された半グレの峯岸は、大神の息のかかった金竜会の出身です。その関連から大神は、峯岸の手に入れたものを知ったのでしょう」
「問題はそれが何であるかということだが」
 鶴田はため息をつくように吾妻を見た。
「まさか、あのことではあるまいな」
「あのこと?」
 呉羽は不審げにふたりの顔を交互に見る。
「警視庁内部に反社勢力と手を結んでいる勢力があると。まあ、あくまで噂ですけどね」
 吾妻が言った。鶴田も頷いて、
「5年ほど前だ。当時ひがし東京を支配していた6っつの勢力を、公安部が中心になってひとつにまとめた。そうして互の勢力争いを封じると共に、こちらとしては管理しやすくなるという目的からだ。それがいわいる6条委員会だ」
「それは知っています」
「その時、反社勢力のトップをまとめ上げたのが、一心会の桜木総括本部長。それだけならいいんだが、裏で桜木と手を組んでこの工作をした人物が公安内にいたという話なんだ」
「つまり警察の上層部が、ヤクザの親分と手を組んだ、と?」
 鶴田は苦い顔で頷いた。
「それが本当なら大変なことですね」
「まあ、あくまで噂だからね」
 と、吾妻。
「峯岸が手に入れた情報というのは、まさかそのことなんですか?」
「それはわからん。しかし赤沼や大神が動いているとなると」
「その可能性も否定出来ないということですね」
 呉羽は口をつぐんだ。これは大変なことになるという予感がする。
「まあ、なんだな。何度もいうが、あくまで噂レベルの話で、証拠があるわけじゃない。しかし、もしもその証拠があって、それを吉ヶ谷が追っているとなると、これは由々しき事態ということになるな」
 吾妻が口を開いた。今日は眠ってはいないようだ。
「噂といえば、これも噂なんだが、公安内部にはチェリーという秘密の部署があるという」
 鶴田が話を変える。
「秘密の部署? 刑事部長も知らないのですか?」
「ああ、知っているのは警視庁総監と副総監のみだ」
「どういう組織なんです?」
「外部人材活用課。すなわち外部の人間を捜査員として活用する部署だ」
「その部署に、あの桜木が?」
「まあ、そういうことになる」
「そして捜4の新堂君」
 吾妻がポツリと付け加えた。
「フォースの新堂係長? まさか」
「彼は公安のエスなんだよ。まあ、これは僕の感だけどね」
「信じられない。あの男が?」
「警備部にいた新堂警部を一課に引っ張ったのは、公安の御子柴参事官だからね」
「御子柴参事官?」
「僕はね、御子柴参事官こそがチェリーのトップだと踏んでいるんだけどね」
「本当なんですか? 部長」
 鶴田部長は首を振った。分からないという意思表示だ。
「あくまで吾妻君の推理に過ぎないのだが、もしもそうだとすると今回フォースが捜査に加わったのにも納得がいく」
 そうか。本来この案件は捜2が担当するところだったはずだ。それをふたつ飛ばしで捜4が関わることになったのは、そういう理由があったからか。新堂警部としては、この件が表に出ることはなんとしても防がなくてはならないはずだ。
 例え吉ヶ谷の生命を奪うことになったとしても。
「それとだね。御門龍介という男がいるということだが、呉羽君は知っているね」
「はい。報告は受けています」
 呉羽は少し意外な感じがした。確かに過去、複数の事件でその男の名前は耳にしたことがある。しかしその人物が、この場で名前が出るほど重要な人物とは思えない。
「その男が何か?」
「彼もチェリーのひとりだということらしい」
「そういえばダイハチのボウ・・・いや、神宮がその人物に興味を持ってまして、なにやら調べているようです」
「神宮君がね・・・」
 鶴田は頷いた。
 ところで、というように吾妻が口を開く。
「さて、そうなると事件のキモとなるのは、やはり桜木の娘ですが、まさかあの娘までが殺害されかかるとは」
「桜木の養女ですね」
 呉羽が相槌を打つ。
「うむ、確かに。彼女がどのような立場で、どのような役目を担っているのか、そこは非常に重要なところだな」
「彼女は高校生の頃、渋谷でクィーンズというチームを作っていました。レディースのチームなんですが、彼女らはいわいる「マリンフォース事件」に関わっています。その後、チームは解散。その後、彼女の存在は一時的に消えましたが、ここに来て再び姿を現したということでしょう」
「いま、思い出したんですが」
 ポンと手を打って吾妻が発言した。
「いま話にでたマリンフォースなんですが、その事件に御門龍介の弟が関与していますね。名前は確か・・・御門将介」
 思はず呉羽は目を見張った。この人は何故にそこまで細かいところまで覚えているのだろう。
 それにしてもあの事件に御門龍介の弟が関わっていたとは、ということは今回の件は過去に起こったあの事件とも連動しているということなのか?
「しかしその娘が狙われたというのはどういうことだ?」
「春日ママも殺害されていますし、吉ヶ谷の狙いはクラブKAGEROUにあることは間違いありません」
「そうだろうな。前にいったチェリーと桜木を継なぐ証拠。それがKAGEROU内にあるのだとすると」
 鶴田は意味深な笑みを浮かべた。
「吉ヶ谷はその為に犯行を繰り返しているということですな」
 吾妻係長がいう。呉羽課長も頷いた。
「しかしまだ、吉ヶ谷がそれを手に入れたという証拠はありません」
「とにかく吉ヶ谷の確保を急がねくてはならん。彼がそれを手に入れるまえにだ」
「了解しました」
 呉羽は敬礼をして部屋をでた。
 ふたりきりになった室内で、鶴田は改めて吾妻の顔をみた。
「ところで、事件現場となった工場だが密室だったというじゃないか」
「みたいですね」
「君はどう思う?」
「密室の謎ですか?」
「そうだよ」
「さあ、どうですかね。多分、我々の見解は間違っているのでしょう」
「見解が間違う? どういうことだね?」
「見方が違うのですよ。陰と陽。黒と白。すべてが逆になっているのです。まあ、それに気付くのは神宮君くらいではないですかね」
 そう言って吾妻係長は、ホホホと愉快そうに笑うのであった。

 同じ頃、フォースの新堂係長は、公安部の御子柴参事官の部屋で報告をしていた。
 報告者は新堂警部である。先日の御門龍介との会談を報告しているのだ。
「そうか、龍介が間に合ったか」
 御子柴は落ち着いた声で言った。
「はい。歌舞伎町で何やら探っているようです」
「歌舞伎町ねえ」
 御子柴は少し考えるように首を捻る。 
「歌舞伎町になにか?」
「さあな。そちらは君のほうが詳しいんじゃないか」
「俥座一家からみでしょうか?」
 新堂が応える。
「近藤宗親が何やら動き回っているそうじゃないか」
「それはこちらでも把握しています。近藤は吉ヶ谷が、歌舞伎町に潜んでいると考えているようです」
「しかし俥座のほうは、吉ヶ谷の件からは手を引くつもりなのだろう。呉羽が声を挙げたということも大きいが、連続して起きた殺人が岩倉の件とは解離しているとのことから、歌舞伎町内での半グレ狩りの兆候は収まりつつあるとの報告を受けた」
「それはそうですが近藤は俥座のなかでも異質です。彼なりに思うところはあるのでしょう」
「近藤の真の目的は、吉ヶ谷にあるのではない、ということか?」
「さあ、それは分かりません」
「まさか。あのことに気づいた訳ではないのだろうな」
 御子柴は難しい顔をして言った。
「それはないでしょうが、彼はしきりと御門さんに接近しようとしています。その辺りが少し気にはなります」
「まあ、龍介の奴なら問題はないだろう」
「そうでしょうか」
 新堂は必要以上に龍介を信頼する御子柴が分からない。高校時代からの付き合いとはいうが、得体が知れないだけに、どうにも信用することが出来ないのだ。
「ダイハチのほうはどうだ?」
「これといった動きはないようです。姫崎の事件にはこだわっているようですが」
「密室か?」
「あんなもの、こだわっていても仕方がないと思うのですがね」
「まあ、密室などに気を捕られている分にはいいんだが、・・・それにしても、あの娘が殺されかけるとはな」
「彼女はどこまで知っているんでしょうか?」
 新堂はもっとも気にしていることを口にした。御子柴は首を振る。
「さあな。桜木とは連絡が取れないのでわからん。桜木がどれほど彼女を信頼しているかということだな」
「桜木さんは彼女の身代金を払ったとのことですが」
「それはないだろう。そもそもあれが金銭を目的とした誘拐とは思えん」
「では、何が目的だとお思いですか?」
「彼女が例のものを持っていると思ったからだろう。これまでの吉ヶ谷の殺しと同じ理由だ」
「と、すると春日さんはそれを持ってはいなかった、ということになりますが」
「そうだな」
 御子柴は鋭い眼で新堂を見詰めた。
「当初は彼女がそれを持っているものと思っていたのだが」
「赤沼や大神がそれを手にしたら、面倒なことになります」
「今のところは大丈夫だろう。桜木の娘もそれを持ってはいなかった。だからこそは彼女は殺されかけたんだ。いままでと一緒だよ」
「となるとそれは、一体誰が持っているのでしょうね?」
「わからんな。桜木ならば有難いのだが」
 御子柴は椅子に深く身を沈めて瞳を閉じた。
 そうでなければ桜木だけでなく、自分もまた身の破滅であった。
「御門さんはそれが歌舞伎町にあると考えたのかも知れません」
 新堂はふと思いついた。
「なぜ歌舞伎町に?」
「消息を絶っていた峯岸が、歌舞伎町に潜んでいるのではないかという情報があるのです」
「峯岸というと桜木を脅迫したというあの半グレか?」
「はい。例の件で桜木さんを脅迫したのはいいのですが、確かな証拠がなかったので相手にはされなかった。その後彼は消息を絶っています。一節によりますと一心会に始末されたのだとも言われています」
「そういう話は桜木からは聞かされていない」
「例えそうでも、彼がそれを言うとは思えません」
「何が言いたい?」
 御子柴がジロリと睨む。
「いえ。失礼しました」
「しかしな、それが歌舞伎町にあるというのはどういうことだろう」
「近藤が何かを掴んでいる可能性があります」
「近藤宗親か」
 御子柴は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あの男は侮れん」
「どうします?」
「いや、奴のことは龍介に任せて置けばいいだろう。それより問題はダイハチだ」
「鶴田刑事部長ですか?」
「うむ。鶴田に知られることが一番まずい」
「篠塚をつけてありますが」
「問題は神宮だ。神宮匠をマークしろ」
「神宮匠をですか?」
「お前も知っているだろう。三之宮病院の事件を解決に導いたのはあの男だということを」
「わかっています」
 新堂警部は敬礼をして部屋を出た。
 ひとり残された御子柴参事官は、しばらく考え込んでいたが、ふと思い立って手元の固定電話に手を伸ばした。
「もしもし、あー、私だ。・・・そう、こちらは大丈夫だ。それより大神だ、大神を抑えねばならない。・・・そうだ。頼むぞ」
 そう言って受話器を置いた。
 それから立ち上がって窓際に向かう。窓の外には皇居の黒々とした森が広がっている。
 暗々たる思いで御子柴はその闇を見詰めていた。

 警視庁の刑事部屋で、神宮匠は自分の机で調べ物をしていた。
 広いデカ部屋には、彼の他には誰もいない。省エネのために、半分ほど消された蛍光灯のもとで薄暗くなった室内は、夜の学校のように気味が悪い。とはいえ屈強な捜査一課の刑事たちは、そのようなことを気に病む者はひとりとしていないだろう。
 彼の調べていたものは過去の捜査記録である。
 峯岸高文をはじめとする3人の半グレどもの過去に犯した記録。吉ヶ谷翔麻の犯罪歴。
 そして、姫崎鈴音。
 彼女が過去に「渋谷クィーンズ」というレディースのリーダーであったことが分かった。にも関わらず彼女やそのメンバーの補導歴は1度もなかった。
 にも関わらず組犯課の記録には彼女の名前があった。それは彼女が一心会々長の養女だからなのか。それとも別な理由があってのことか。
 どうにも気分が良くない。何かが引っかかっているのだ。
 あの地下室を観てからだ。
 密室。
 あの部屋から脱出することは、物理的に不可能だ。
 にも関わらず、吉ヶ谷はあの部屋から消えた。これはどういうことだろう。
 超自然的な力が働いてるとしか思えない。
 匠の左上にあの顔が浮いている。もうひとりの自分の顔だ。
 その自分に視点を移すことが出来る。
 すると机に座っている自分を右下に捉えることが出来る。
 机に座っている自分と宙に浮いている自分。
 どちらが本当の自分なのだろう。
 メタ認知症候群。
 病状は悪化しているのか。
 このまま行くと、自分はどうなってしまうのだろう。
「おや。まだ居たのですか?」
 背後で声がする。宙にいる匠は、声がする前からその姿を捕らえていた。
「係長こそ」
 匠は背後を振り返って言った。その時には本来の身体に戻っている。
「いやあ、帰りそびれてしまいましてね」
 吾妻第8強行犯捜査係長は、持っていた缶コーヒーの片方を、匠の前に置いて隣の椅子に腰掛けた。
「あざす」
「どうですかね。捜査のほうは?」
「はあ、ボチボチっす」
「それは良かった」
 吾妻は手にした缶コーヒーを両手で弄んでいる。
「まるで進展がないのでは困りますからね」
「まるで進展はないっす」
 匠はあっさりと認めて、自嘲的な笑みを浮かべた。
「逃げた吉ヶ谷の行方もまだ分かりませんし」
「搜索の範囲を広げているのでしょう?」
「はい。都内から、多摩、神奈川、千葉方面まで広げてますが、まだ何の情報もあがってないす。沢嶋に関しても同じす。この前、川崎で乗り捨てられたバイクが見つかっただけっす」
「峯岸たちと同じですね」
「そうすね」
 そう言われて気がついた。確かにあの時と状況が似ている。まさかこのまま吉ヶ谷たちも消息を絶ってしまうのか。
「どうです? 例の密室のほうは」
「う~ん。無理やり理由つけをするなら、出来ないこともないすけど」
 匠は頭を掻いた。あくまで理論上はということで、現実性はまるでないのだ。
 それでも吾妻は子供のように興味を示した。
「ほう。興味深いですね」
「止しときましょう。そもそもこれは、白銀さんという方が考えたアイデアに、自分が少し補正を加えたもので、現実的には有り得ないヨタ話っす」
「いいじゃありませんか。ヨタ話でもなんでも、話してみれば分かることもあるかも知れません」
 珍しく食いつくな、と匠は思った。
「白銀さんが言うには、事件を目撃した真樹乃先輩と麻生さんが口裏を合わせて、吉ヶ谷が問題の地下室に入ったと嘘を付いたというのです」
「なるほど。もともと入ってないなら、消えていても不思議はありませんね」
「でも、そうなると、先輩たちが犯人ということになるっしょ」
「そうなりますか?」
 吾妻は首をひねった。
「そうなるっす。事実、鈴音さんは殺されかけたんすから」
「でも、死ななかったですよね。それに二階堂君は彼女の蘇生をしている。もしも二階堂君が彼女を殺そうとしたなら、なんでわざわざ蘇生処置などをしたのでしょう」
「そうすね。自分もそう思うす。しかし鈴音さんも共犯だとしたらどうすかね?」
「三人ともが共犯、ですか?」
「つまりこの事件は、最初から最後まで狂言だったということす」
「なるほどね」
 吾妻はニコニコして言った。傍から見ている限り、何も考えてないようにみえる。
「そうなると、どうしてそんな狂言を打たねばならないのか、ということになりますが」
「そうなんすよね。そんなことをしてもまるで意味がない」
 匠は頷いた。
「だから言ったっしょ。ヨタ話だって」
「アリバイ工作というのはどうですかね」
 突然、吾妻は言い出した。表情は変わらない。相変わらず好々爺とした表情のままだ。
「アリバイ? なんのアリバイっすか?」
「だから、あの時間、吉ヶ谷があの場所に居たというアリバイですよ。実は彼は別の場所にいて、それを知られるのが嫌だった。だからあんな工作をしたというのはどうでしょうね?」
「どうでしょうね、ったって」
 匠は思わず吹き出した。
「彼がどこで何をしていたって、刑事と誘拐の被害者が口裏を合わせてそんなマネをしますか? 第一、鈴音さんは死にかけたんですよ。生命を掛けてまで、何でそんなワケの分からないアリバイ工作をしなくてはならないんす?」
「吉ヶ谷がすでに死んでいるとしたら?」
 吾妻は表情を崩さずに言った。
「は?」
「吉ヶ谷がその時間に殺されていたとしたらどうでしょう?」
「どういうことす?」
 匠は驚いて吾妻の顔をみた。頭の奥で何かが閃いた。
 いや、実際にそれを感じたのは、彼の左上にいるもうひとりの彼の方であった。
「いやあ、あはは。冗談、冗談ですよ。本気にしないで下さい」
 吾妻は慌てて手を振った。
「君があまりに荒唐無稽なことを言うものですから、ついからかってみただけです。気にしないで下さい」
「・・・・」
 匠は動けなくなった。
 吾妻係長の言葉が頭の中をグルグルと回っている。
 その姿を見て、吾妻は我が意を得たというようにニコリとした。
「それでは私は帰ります。戸締りを忘れないように」
 吾妻係長が帰ったことにも気づかない。匠の脳裏には恐ろしい考えが、浮かんでは消えていった。
 確かに。・・・
 確かにその方法ならば、物理的にあの密室から脱出することは可能だ。
 もちろんあくまで理論上は、というレベルの話である。
 まさかそんなことを実際に計画して実行する人物が存在するのとは思えない。
 嘘だろう。
 匠の身体が小刻みに震えていた。

 それから2週間ほど経って、姫崎鈴音は病院を退院した。
 退院した鈴音は真っ直ぐ南青山の桜木邸に向かった。
 特別にアポイントを取ったわけではなかったが、桜木晃一郎は自宅にいて彼女を出迎えた。
「退院おめでとう。元気そうで安心したよ」
 応接室に引き入れた桜木は、がっしりした身体を豪華なソファーに沈めて眼を細めた。
「その割には一度もお見舞いに来られなかったようですけど」
「いやいや、すまなかった。警察とか色々とうるさかったのでな。中々外にも出れなかったんだよ」
「赤沼さんとか、大神さんとかですか?」
 鈴音はニコリと微笑んで、周囲を見回す。
「このお家も久しぶりだわ」
「懐かしいだろ?」
 桜木は煙草ケースから葉巻を取り出して口に咥える。
「お母様はお元気?」
「ああ、元気だよ。今日は少し、用事があって外出しているが」
「そう」
 鈴音はうまそうに葉巻を煙らす養父の顔を見詰めた。
「私が来ると知って外出したの?」
「そういうことを言うもんじゃない」
「ごめんなさい」
 その時ノックの音がして、若い男がお盆に紅茶を乗せて持ってきた。
 一心会の構成員か、それとも桜木の秘書なのか判断がつかない。
 中々のイケメンである。秘書にするよりはホストのほうが稼げそうであった。
「で、今日は何の用だ?」
 若者が頭を下げて部屋を辞すると、桜木は膝を組んだ。
「パパが私のためにお金を払ったというのは本当なの?」
「ああ、あれか」
 フーと煙を吐き出す。
「お金を払った相手は誰? 赤沼さん? それとも大神さんなの?」
「お前はどう思うんだ?」
「赤沼さんはお金を受け取らないと思う。あの人、パパを恨んでいるから。いくら貰ったってパパを許さないでしょう。と、なると大神さんかしら。あの人は、まあ、いっちゃなんだけど、最初からパパなんか眼中にないと思うわ。ただ、面白いから赤沼さんに協力しているってとこかな」
「随分な言われようだな」
 桜木は苦笑を漏らした。
「しかし大神にしても、ただ面白いというだけでなく、それなりの思惑があってやっていることだろう。そういう意味では虎次郎よりは、大神のほうが厄介だな」
「つまりお金は大神さんに渡ったの?」
 桜木は強い眼で鈴音を見詰める。
「ブラフはそれくらいにしておくもんだ、鈴音。俺は誰にも金を払ってないよ。そのことはお前が一番よくわかっているはずだ」
「そうなの?」
「お前の目的を知りたい」
 桜木は言った。
「お前は何をしに来たんだ?」
「うふふ」
 鈴音は笑って葉巻に手を延ばす。
「私も吸っていい?」
「お前も煙草を吸うようになったのか?」
「あら、私、銀座のクラブのホステスなのよ。知らなかった?」
 そしてクスリと笑う。
「な、わけないか。私をホステスにしたのはあなた。こうみえても私、パパのために随分と我慢して来たんだから」
「目的はそれか?」
 桜木は安心したように言う。
「で、何が欲しいんだ?」
「クラブKAGEROU」
「ほう」
「いいでしょ。春日ママが亡くなって、あそこはいま、閉店したままだから」
「考えておこう」
 桜木は葉巻を消して立ち上がった。そして部屋の隅のワインセラーへと向かう。
「お前も何か飲むか?」
「じゃ、スパーリングワインで」
 鈴音にはクリュッグのロゼを、自分のグラスにはドン・ペリニヨンのマグナム・シャンパーニュを注いだ。
「では、乾杯しよう」
「新しいママの誕生に?」
「鈴音の全快祝いに、だ」
 そしてふたりはグラスを合わせた。
 しばらくはグラスを重ねていたふたりだったが、ふと鈴音はほのかに染まった目元をあげた。
「ねえ、そういえばママのことだけど」
「春日ママか?」
「ママを殺したのは誰なのかな?」
「誰って、吉ヶ谷なんだろ。お前を誘拐して、殺そうとしたのも奴だ。まだ、捕まってはいないようだがな」
「そうかな。私、訊いたのよね、吉ヶ谷に。誘拐されたとき」
 桜木は驚いたような表情で鈴音をみた。
「彼、言ってたわ。朱月ちゃんと浪花ちゃんは確かに殺したけど、春日ママは殺ってないって」
「それを信じるのか?」
「さあ、どうだろう」
 鈴音は意味深に呟いてワインを口に運ぶ。
「あの吉ヶ谷という男は、私が見たところ単純な殺人狂。こういう人種は自分の殺意を隠そうとはしないわ。釣果を誇るように自分の犯行を自慢する。自分が犯した犯罪を隠そうとはしないものよ」
「随分とかっているようだな、あの男を」
「別に。下手な策謀を巡らせ、自分の罪を隠そうとする誰かさんよりは、少しはマシだと言いたいだけよ」
「それはお前も同じだろ」
「確かにね」
 少し酔っているのかな、と鈴音は思う。
「そうすると、春日を殺したのは誰だというんだい?」
 桜木は面白そうに聞いた。
「私ね、ママから電話を受けたんだ。ママが殺される少し前、そうパパから電話のあったあの日。すぐ後にママから電話があって、もしかしたら私も殺されるかも知れないと、そういうの」
 それは浪花こと藤吉小百合が殺害された直後だったろうか、だからこそ彼女は次は自分の番でないかと怯えていたのだった。
「なんで彼女は自分が殺されると思ったのだろうか?」
「それはママがパパの秘密を知ったから。パパが恐れている証拠品を持っていたのは、実はママだったのよ」
「・・・・」
「ママはそれを、自分の身をまもる、お守りのように思って身につけていたに違いないわ。でも、朱月ちゃんと浪花ちゃんが殺されて、犯人の目的がそれであることに気がついた。それでママはそれを私に託したの。パパの養女である私なら、それでパパと話をつけて、生命だけはとられないように交渉してもらうつもりだったの」
 鈴音は悔しそうに唇を噛んだ。
「でも間に合わなかった。全ては私の責任だわ」
「鈴音」
 桜木は落ち着いた声で言った。
「お前は何か勘違いをしている」
「ママはね、パパを裏切った」
 鈴音は強い口調で養父を責める。
「パパを裏切って大神さんと情を通じた。ママは心底、大神さんを愛していたの。でも、彼もまたママを利用するだけだった。ママのことなんか愛してはいない。彼の狙いはママの持っている証拠の品。それに気づいたママは、それを私に託したのだわ」
「お前はそれを持っているというのか?」
 初めて桜木が怖い顔で鈴音を睨んだ。それを見て鈴音はケラケラと笑いだした。
「それよ、その顔を私は見たかった」
「鈴音」
「ええ、そうよ。それを私はママから預かった。これが表に出れば、パパはお・し・ま・い」
「鈴音。それをよこせ。それはお前なんかが持っていいものじゃない」
「私を殺すの?」
 鈴音は清冽な笑顔を見せて言った。
「私が死ねば、それはダイハチの手元に届くようになっているわ。知ってるんでしょ、ダイハチの匠君は強敵よ。しかもその上には吾妻さんとか呉羽さんとか、もっと怖い人たちがいる。あなたの大切な誰かさんも、さぞかし困るでしょうね」
「鈴音ッ!」
 桜木は声を荒らげた。
「安心して、いますぐどうこという事じゃないの。これは私の切り札だから、簡単には使わないわ。あなたが私の敵に回らない限り、ね、パパ」
 そう言って鈴音は席を立った。
「ああ、そうそう。KAGEROUの件、宜しくね」
 帰り際、そう付け加えるのを忘れなかった。

 8月の終わり。
 ジリジリと照りつける日差しの中にも、わずかに秋の香りが感じられる。
 例えば街路樹を覆う木の葉の色。夕暮れの早さ。鳴き騒ぐ蝉の種類。
 砧公園に面した商業ビルの一階にあるカフェで、鈴音は午後のティータイムを楽しんでいた。2ヶ月前、真樹乃にストーカーの相談をしたあのカフェだ。
 あのとき悩まされていたストーカー、沢嶋義重は殺人犯・吉ヶ谷翔麻の共犯者として指名手配されているものの、未だに捕まってはいない。
 主犯の吉ヶ谷翔麻もそうであった。
 本当ならあの時のように、オープンテラスで飲みたいのだが、昼下がりとはいえまだまだ暑い。
 外に出るのは自殺行為のようなものだった。
 鈴音は本を読んでいた。ハイネの詩集である。
「相席、宜しいですか?」
 声を掛けられて顔をあげる。濃紺のサングラスを掛けた壮健な男が立っていた。
「姫崎鈴音さんですね?」
「はい」
 鈴音はその男を知っていた。
「確か・・・、御門龍介さん?」
「覚えていただいて光栄です」
「私はクラブのキャストですわよ。お客様のお名前は忘れません。それに」
「それに?」
「弟の将介さんは、高校時代からのお友達ですわ」
「そうでしたね」
 許可を得て鈴音の前に座る。
「クラブKAGEROUのママになられたとか。おめでとうございます」
「ありがとうございます。これからもご贔屓に」
 鈴音は優雅に頭を下げる。
「で、何か御用ですか?」
「用というほどでもないのですがね」
 龍介は注文を取りに来たウェートレスにコーヒーを注文した。
「お父様が心配なさってましたよ」
「養父が?」
「あなたの行動は危なかっしい、と」
 鈴音はクスリと笑う。
「ご心配頂きまして、どうも。でも、ご心配には及びません。父にそう仰って下さい」
「それが危険だというのです。赤沼や大神をなめてはいけません」
「別になめてはいませんわ。それに危険なのは彼らだけではありません」
「例えば?」
 鈴音は大きな瞳で龍介の顔をみる。
「そう。例えば、あなた」
「なるほど」
 龍介は苦笑した。
「頭のいい人だ」
「それが言いたいわけではないでしょう」
「そうですね」
 注文したコーヒーが届いたので、しばし言葉を切った。
「実は吉ヶ谷翔麻を追っていたのですが」
「それは警察も同じです」
「いろいろと手を尽くしたのですが、どうしても見つかりません。どうしてでしょう」
「さあ、私に聞かれても」
「彼がすでに死んでいるとしたら、どうですか」
 龍介は探るように、そろりと言った。
「死んでいる?」
「はい。あの倉庫の中で」
「何をおっしゃってるの?」
「密室の謎を解いたのですよ」
「本当ですか」
 鈴音は眼を見張った。
「本当です。それはあなたが一番よく知っていることだ」
「どういうことでしょう?」
「あなたにもわかっているということですよ。もっともあなたは当事者ですからね。まあ、知っていて当然といえば、当然なんですが」
「私は気を失っていたんですよ。その間のことは分かりませんわ」
「あなたが気を失う前の話なんですよ」
 鈴音は正面から龍介の顔を見詰めた。サングラス越しの瞳は表情を掴ませない。
「安心して下さい。この事件は殺人事件としては立件できません」
 鈴音は黙って首を振った。確かにこの男は全てを察しているようだ。
「それで、私にどうしろと仰るの?」
「担当直入にいいます。あなたの手に入れたものを渡して頂きたい」
「養父に頼まれたのですね」
「そう捉えていただいて結構です」
 鈴音は僅かに席を後方に引いた。開いていた本を閉じる。
「残念ですが、それは出来ません」
 詩集の背表紙にはペーパーナイフが仕込んである。
「無駄です」
 龍介が言った。
「私にナイフは効きません」
「わかっています。あなたの弟さんにも効きませんでした」
 フッと龍介が笑う。
「では、渡して頂けますか?」
「お断りします」
「仕方がありませんね」
 龍介はサングラスの淵に指を掛けた。その瞳を見てはいけない。
 ・・・兄貴は、瞳の動きだけで、相手を心法にかけることが出来る。
 いつだったか将介が彼女に言った言葉だった。
「あなたの負けです。龍介さん」
 鈴音が立ち上がった。
 龍介が振り向くと、そこにはひと組のカップルが立っていた。まるで中学生のように初々しいカップル。
「そこまでです」
 神宮匠が言った。
 隣には二階堂真樹乃が立っている。特殊警棒を構え、怖い顔でにらめつける。
 匠は警察手帳を指し示した。
「あなたにこれを見せるのは初めてですよね、御門さん。これ以上は脅迫罪にあたるっす」
「なるほど」
 龍介は鈴音を振り返る。
「あなたが呼んだのですか?」
「まさか。私は真樹乃さんとお茶の約束をしただけ。匠君が来たのは、まあ、想定外かな」
 龍介は肩をすくめた。
「わかった、神宮くん。今日の所は君の顔を立るとしよう」
「ありがとうございます」
 匠はわざと大仰に頭を下げてみせる。その横で真樹乃は、今にも噛み付きそうな顔でキバを向いている。
 真樹乃は以前、この御門龍介と対峙したことがある。その時は龍介の眼力の前に、身体の自由を奪われたことを覚えている。
 龍介ゆっくりと立ち上がった。そして鈴音に向かい、
「あまりお父さんを困らせないことですね」
 と、言った。
「なんだ、あの野郎」
 尖らせた真樹乃の口は微かに震えていた。

 御門龍介が立ち去った後の向かいの席に、神宮匠と二階堂真樹乃が腰を降ろした。
 ふたり揃ってアイスコーヒーを注文する。
「真樹乃先輩が鈴音さんに会うというので、お邪魔させていただいたっす。少しお話があるので」
 飲み物が届くと、まず匠が口を開いた。
「お陰で助かりました。御門さんとはお知り合いですか?」
「まあ、腐れ縁ってやつでね」
 真樹乃がいう。
「ありゃ、危険な男だぜ」
「ところで途中から話を聞いたんすけど、御門さんは何を出せって迫ったんす?」
「何でもありませんわ」
 横を向く鈴音を、下から匠は睨め上げる。
「もしかしたら、桜木さんとうちの公安のエライさんが会ってるところの写真とか、音声データーとかじゃないすか?」
「さあ、何のことやら」
 トボける鈴音に、匠はニコリと微笑んだ。
「まあ、いいすけどね。どうでも」
「いいんかい?」
 すかさず真樹乃がツッコミをいれる。
「嫌だというのを、警察官が無理矢理に出させるってのもなんですし、鈴音さんが持ってるってんなら、それでいいんじゃないすか。まあ、赤沼さんや大神さんの手に渡るよりはマシって話っすが」
「いい加減だな。まあ、あたしもそんな物に興味はないし、公安のエライさんがどうなろうが知ったことじゃねえからな」
「やっぱり、おかしな人たちですね」
 鈴音は可笑しそうに笑った。
「で、私にお話ってなんですの?」
「ああ、そうそう。実はあの時の話を、もう一度聴きたいと思いましてね」
「あの時?」
「ほら、例の地下倉庫で起きた出来事ですよ」
「ああ、でも私、もう全て話したし、これ以上話すことはないですよ」
「本当ですか?」
 匠は涼しい顔をしていう。
「実はね、自分、一生懸命考えたんすが、あの部屋から吉ヶ谷が逃走するのは、どうしても不可能だとしか思えないんすよね。と、なるとこれはもう、最初の前提が間違っているんじゃないかと」
「最初の前提が間違っている?」
「そう。我々の見解では、犯人である吉ヶ谷が、被害者であるあなたを殺害しようとして逃走した、ということでしょう。でも、この前提が間違っていたとしたらどうでしょう。表が裏に、白が黒になるように、すなわち犯人と見られていた吉ヶ谷は実は被害者で、被害者と思われていたあなたが犯人だったとしたらどうでしょうね?」
「私が犯人? 何おっしゃってるの、私が殺されかけたんですよ」
「だけど死ななかったでしょ」
 匠はあっさりと言った。鈴音は困ったように真樹乃を見る。
「あれはたまたま真樹乃さんが近くにいて、救命処置をしてくれたお陰で、それがなかったら手遅れになっていただろうと、お医者様も言ってました」
「偶然、すか?」
 真樹乃は何も言わない。強い瞳で鈴音を見詰めている。
 鈴音はあきらめたように目を閉じた。
「わかりました。仮に私が彼を殺したとして、死体はどうしたんです? あの地下室に死体なんてなかったわけだし」
「はい。でもですね、鈴音さん。生きている人間はあの部屋を出れないんすが、死んだ人間なら出ることは出来るのですよ」
 匠の言葉に、鈴音は眼を瞠った。
「どういうことですか? 生きていれば自分で動けますが、死んだ人間は動けない。ただの重たい荷物です。処理をするにしても、余計に難しくなるんじゃないですか?」
「そうとも限らないっす」
 匠は考えをまとめるようにコーヒーを一口飲む。
「ねえ、鈴音さん。人間は何故、こんなにもかさばるんだと思います?」
「はい? かさばる?」
「それは骨格があるからなんすよ。もしも骨のない人間がいたら、あとは肉と皮と血液ばかり、どのような形にも姿を変えることが出来るとは思いませんか?」
「・・・・」
「例えば、そうですね、直径が20センチほどのヘビみたいに細長い人間がいたとしたら、あの排水口を通れるとは思いませんか」
「そんな人間はいません」
「そうすよね。もちろん生きている人間には出来ません。でも、死んでしまった人間ならどうすかね」
「でもなあ、後輩よ」
 真樹乃が口を挟んだ。しかしそれは、鈴音を擁護するというよりは、タイミング良く話題を変えようとしてるように感じられた。ふたりの間で完全に打ち合わせが出来ているようだ。
「あたしが見たときこいつ、手足を縛られていたんだぜ。そんな状態で人なんか殺せるのか?」
「足はともかく、手首だけなら何とかいけるんじゃないすか。こう、輪になった腕の中に相手の首を入れられれば、縛られた手首を首に当ててグイッて、スリーパーみたいにね。真樹乃先輩の話では、鈴音さんの部屋にはスポーツジム並みの設備があるそうじゃないすか。相当身体を鍛えているみたいすね。自分、入院中に担当医に聴いたんすけど、華奢なようでも鈴音さんの肉体は、一流アスリート並みの筋力をしているそうすね」
 鈴音はクスリと笑った。
「いやだわ。恥ずかし」
 そういう問題か、と真樹乃は呆れた。
「まあ、なんで吉ヶ谷を殺そうと思ったのかは分かりません。KAGEROUの仲間たちの仇なのか。春日ママを殺された怒りなのか。あるいは養父である桜木に頼まれたのか。その全てかも知れません。いずれにしても、あの地下室はあなたが用意した、吉ヶ谷翔麻殺害のための大掛かりな殺人装置だったんです」
 そこで一息入れる。
「怒りました?」
「いいえ。大変面白いお話です。どうぞ、先をお勧めになって」
 鈴音は微笑を浮かべたまま言った。
「では、最初から順を追ってお話するす。あ、最初に言っておきますが、これは何の根拠もない自分の想像っすから、怒らないで聞いてくださいね」
「わかっています」
「では、まず最初に、この殺人計画には協力者が必要です」
「分かった。それが沢嶋だな」
 真樹乃が手を挙げて言った。
「いいえ、沢嶋は赤沼組が用意した、いわいる連絡係でしょう。どこかのタイミングで、あなた側の協力者と入れ替わったんすね。タイミング的には、春日ママが殺害された直後、お通夜の前あたりがベストでしょう」
 どうすかね、というように鈴音の顔を覗き込むが、彼女は顔色も変えずにただニコニコしている。
「自分、学生時代の鈴音さんのプロフィールを調べてみたんすが、あなたのクィーンズ時代の仲間の中に、馬場広海という人がいたみたいすね。通称「黒夜叉のヒロミ」、レスリングの元全国中学生チャンピオンだった女性です。彼女なら身長、体格とともに沢嶋とよく似ているっす。フルメットとライダースーを身につけたら、ちょっと気づかないんじゃないすか。あの吉ヶ谷という男はそういうことに頓着しないっしょ。例え気付いても自分に直接関係のないことは、どうでもいいとか思うんじゃないすか」
 鈴音の表情に変わりはない。
「まあ、別に彼女じゃなくてもいいすけどね、出来れば男性のほうがいいし、あるいはそれは一心会の構成員かも知れない。まあ、とにかくそのような協力者が、沢嶋と入れ替わったとしましょう。彼のした仕事は、まずは吉ヶ谷の居場所の特定っす。それから鈴音さんの拉致。というのはこの計画には、どうしても鈴音さんが拉致される必要があったからっす。その協力者、便宜上ミスターAとでもしておきましょうか、そのAは吉ヶ谷と語らって鈴音さんを襲います。でもそれは最初からのデキレースでした。
 鈴音さんを誘拐したAは、養父である桜木から身代金を要求するという口実で、彼女の身柄を吉ヶ谷には渡しませんでした。吉ヶ谷の手に渡るとすぐに殺されちゃうからっす。それじゃ困るでしょ?」
 鈴音は無言で頷く。それはすぐに殺されては叶わないだろう。
「つまり身代金うんぬんというのは、そのAとかいう奴の口実であって、実際には身代金の要求なんかなかったってことだな」
 真樹乃が言う。匠は鈴音に向かって、
「どうだったんですか?」
 と訊く。鈴音は笑って首を振った。
「さあ、どうなんでしょうね。私には分かりません」
「中々しぶといすね。まあ、そんなこんなであなた方は2日ほど時間を稼ぎました。この時間は警察がAの行動を把握して、現場である高田馬場の工場跡地にたどり着くまでの時間す。そのためにAはわざと目立つように古いバイクなどを使って、足跡を残すことに成功しました。あなたたちの思惑通り、工場の前には警察の張り込みが付き、いよいよ計画は実行されることになったのです」

 砧公園に面したカフェの中。
 周囲には部活帰りの学生、会社員、子供連れのママ友たちが思い思いの時間を楽しんでいる。しかし、彼らの居るその一角だけは、世間ずれした生臭い殺人計画の話を続けているのであった。
「鈴音さん、あなたがあの事件現場に到着したのは、事件の起きる数時間前でした。当初、現場のトイレが問題になりましたが、こうして考えると最初からトイレは使用してなかったので問題にはならなかったってことす」
 匠が言うと、鈴音はクスリと笑った。
「あれ? それを問題にしてたのは、匠君だけじゃなかったかしら」
「そうすか? まあ、いいす。で、真樹乃先輩たちが張り込みに就いたことを確認して、いよいよAは行動を開始しました。バイクで現場に乗り付けると、後部座席に固定してあったバックを地下室に持ち込みます。ちなみにこれはバックではありません。防水のゴム製の袋。サンドバッグのような、細長い袋状のものっす。大きさは吉ヶ谷の身体がスッポリと入るくらい。折りたたんであったので、遠目で見ていた真樹乃先輩にはバックのように見えたんでしょう。それから地下室に居た鈴音さんの手首を縛ります。足まで縛ったかどうかは分かりませんが、縛った目的は吉ヶ谷を安心させるのと、彼をたぶらかす目的もあったんじゃないすか?」
 鈴音は小首を傾げた。魅力的なポーズだった。
「あなたは最初に拉致された時と同じ、ミニの喪服を着ていました。拘束された美女と喪服。吉ヶ谷じゃなくとも、この組み合わせは堪らないんじゃないすか?」
「匠君もそうなの?」
 鈴音の甘えるような声に、思わず身体がブルッと震える。
 横の真樹乃が思い切り足を蹴飛ばした。
「ま、まあまあ、それは兎も角として、それから共犯者Aは帰る振りをして裏道の下水道に身を潜めます。この下水道から地下倉庫のシンクまでは排水管が通じているんすが、前もって両者の間にはロープが渡されています。これで準備は完了っす」
 鈴音はテーブルに両手を突き、顎を乗せて愉快そうにしている。おとぎ話に夢中になっている子供のようだ。
「鈴音さんの思惑通り、真樹乃先輩の見守る中で、吉ヶ谷が現場にやって来ます。そして地下室でどんなやり取りがあったかは知りませんが、先程言った通りのやり方で吉ヶ谷を殺害します。それからあなたは、吉ヶ谷の死体を先程のゴム袋に入れます。両手を縛られたままでの作業ですが、足の方からスルスルと袋を被せるようなやり方なら何とかなるっしょ。死体を袋詰めにしたあなたは、排水管から伸びているロープで口を縛ります」
「両手を縛られたままでは、こちらの方が難しいな」
 真樹乃が横から口を挟んだ。匠は頷いた。
「そうすね。多分、前もって何度か練習したんでしょうね。ねえ、鈴音さん」
 鈴音は「さあ」というように、コクリと横に小首を傾ける。
「それからが凄いんすよ、鈴音さん。確かあの地下室には大型のハンマーがありましたよね。そういえば何で民間車検工場にハンマーなんてものがあるのか、不思議に思ったんすけど、あれってあなたが持ち込んだ物じゃないすか? まあ、いいすけど。それでそのハンマーで、袋の上から死体をガンガン殴ったんすよね」
「そりゃ、酷でえや」
「頭蓋骨はボコボコ。肋骨はバキバキ。骨盤もグチャグチャ。腕の骨も足の骨もゴリゴリのメキメキ。殆ど砂利みたいになるまで叩きまくったんです。ねえ、そうなんでしょ? 骨が粉々になれば、あとは肉と皮だけすから。肉だってハンマーで叩かれば、ひき肉みたいになってスライムみたいにドロドロになっちゃうでしょ。そうすれば、直径が20センチ程のソーセージ状に加工することも可能だったというわけっす」
「気持ち悪くなってきたぜ」
 真樹乃は本当に気分が悪そうだ。
「真樹乃先輩が耳にした、ドンドンという肉を叩くような音というのは、このときの音です。それに合わせて鈴音さんは、きゃーだとか助けてーとか声をあげます。吉ヶ谷の声を担当したのは、下水道に居た共犯者Aでしょう。土管を通した声はくぐもって聴こえますから、誰の声かは判然としない。そこに居るのが吉ヶ谷という先入観から、彼の声に聴こえたというのも無理はないす」
「おい、鈴音」
 真樹乃は怖い顔で鈴音を睨む。
「お前、本当にそんなことしたのか?」
「嫌だわ、真樹乃さん」
 鈴音は平然とその瞳を見つめ返す。
「これはあくまでも匠君のおとぎ噺。ねえ、そうでしょ、匠君」
 匠は肩をすくめた。
「で? 先を進めて。匠君」
「はい。そうすると後は、下水道の向こうにいる協力者Aに合図して、ロープを引っ張ってもらうだけす。死体袋は狭い排水管を通るとき、ズリズリという音を立てます。先輩が聴いた、物を擦るような音というのは、この時の音っす。同時に排水溝の壁面は擦られたお陰で、磨かれたあとのように綺麗になります。なんで排水溝だけ掃除したのかという謎もこれで解けます。ね、こうして考えれば、全ての謎は無理なく解けるんです」
「確かに」
 真樹乃も納得するしかない。
「さて、問題はこれからっす。死体を始末した鈴音さんは、今度は自分の足首をロープで縛って、その一方を首に巻き付けエビ状に反り返ります。その頃にはもう、鉄扉を焼き切る作業は始まっていたでしょう。何でこのような縛り方をしたのかというと、ひとつはこのような状態から、吉ヶ谷を殺害することは不可能だという、一種の心理的アピールっす。それから、こちらのほうが本命なんすが、この状態からなら足の動かし方次第で、自由に首を絞める強さを調整が出来るんす。つまり、真樹乃先輩が扉を開けて踏み込むタイミングで、首を絞めることが出来たということなんです。これは重要なことす。首を締めるのが早すぎると本当に死んでしまうし、逆に遅すぎると意識を失わずに不自然な状態になってしまう。死なない程度に、心停止・呼吸停止に陥る必要があった訳っすからね」
「あたしは、まんまと騙されたってわけだ」
 真樹乃は悔しそうに言った。
「そんなことはないわ、真樹乃さん。私は本当に死ぬところだったのよ」
 鈴音は訴えるような目で真樹乃を見詰める。
「もう、いいよ」
「聴いて、真樹乃さん。私は・・・」
「鈴音さん」
 匠が声を掛ける。
「あなたは天才っす。ミンチ状になった吉ヶ谷の死体はどうなったでしょう。いや、もはや人間の遺体とは呼べないかも知れません。そのまま海にでも流してしまえば魚に喰われて、文字通り骨も残りません。まさに完全犯罪っす。ねえ、これがあなたの殺人スタイルなんでしょ。思えば峯岸高文やその仲間たち。さかのぼれば、Eソリュ-ションの鳴神社長、投資家のJ・T氏。それに梶賀組の大島組長もそうだったんじゃないすか。あなたには死体を完全に消してしまうノウハウがあった。そういうシステムが構築されていた。今回の件はその一環に過ぎなかったんじゃないすか?」
「死体がなければ殺人とは呼べない」
 鈴音は凄まじい笑みを浮かべて言った。
「この事件は殺人事件としては扱えないわ。殺人とは文字通り、死体があって初めて成立する。死体が見つからない以上、どんなに怪しくともそれは行方不明事件に過ぎない。そうでしょう。この事件はどうしたって、私の殺人未遂事件に過ぎないのよ」
「それは自白と受け取っていいすか?」
 鈴音はニコリと魅力的な笑みを浮かべた。
「あくまで一般論ですわ。私はあの時意識を失っていて、本当に何も知らないのですもの」
「なるほどね。ま、骨のひとかけら、肉片の一片でも見つかれば、DNA鑑定で吉ヶ谷さんの死はハッキリとするんすがね」
「見つかりました?」
「いいえ」
 匠は首を振った。
「ずいぶんと探したんですが、残念ながら何もありませんでした。よほど慎重に事を進めたみたいすね。袋は2重にしたんすか?」
 探るような目で鈴音を見る。鈴音は表情を変えもしない。
「用心深いあなたのことすから、もしかしたら前もって予行練習をしたかも知れませんね。ホラ、沢嶋義重という恰好の練習相手もいることですし」
 手を変え品を変え、匠は何とか鈴音を怒らせて失言を誘おうとしているようだ。確固とした証拠がない以上、そうして自白に近い証言を引き出すしか方法はない。
 しかし鈴音はあくまでも平然としている。そのような匠の戦略は百も承知ということだろうか。よほど自分の計画に自信があるのだろう。
 匠はあきらめたように眼を閉じた。
「そうですね。だから自分はこんな話であなたを怒らせて、何とかあなたから自供を引き出したいと思ったのですが、あなたがそれを自覚している以上、それも無理な相談みたいすね。如何に怪しくとも死体が発見されない以上、あなたの言うとおり吉ヶ谷があなたを殺そうとして逃亡しているのだと判断されるでしょう」
「ご納得いただいて有難うございます。それでは、もう、いいですか」
 鈴音は立ち上がった。
「私、新しいKAGEROUの開店準備で忙しいの。中々面白いお話でしたわ、匠君。お店が開店した折りにはご招待しますから、ぜひお出で下さいませ」
 そう言って立ち去る鈴音を引き止める術を、ふたりの刑事は持ち合わせてはいなかった。

終章 開室

 警視庁別館の公安参事官室にはふたりの客があった。
 御門龍介と新堂武志警部である。
 龍介はソファーに腰掛け、新堂はその背後に立っていた。ふたりの面前、大きなディスクを挟んだ席には御子柴参事官が座っている。
 龍介がこれまでの経過を報告したところだ。
「つまり例のものは、桜木の娘が持っているということだな」
「まあ、そういうことになる」
 龍介はサングラスの淵をわずかに持ち上げた。それがどういう意味なのかは新堂には分からない。
「御門龍介ともあろう者が・・・」
 御子柴は苦い顔だ。
「言い訳になるが、ダイハチのふたりが側にいた。無理やりに奪うわけにもいかんだろう。それにあの娘が持っていたほうが何かと都合がいい」
「どういう意味だ?」
「あの娘は桜木の親父とは敵対しているからな、まあ年頃の娘にはよくある親子の対立ってやつなんだろうが、彼女があれを持っていることで、桜木の動きをいくらかは牽制することが出来るんじゃないか」
「そうなると今度は、彼女の安全のほうが心配になってくる」
 龍介は口の端を緩めた。
「ほう、意外だな。お前がそんな事を心配するとはな。まあ、あの娘なら滅多なことにはならないだろう」
「お前こそ、いやに彼女をかっているじゃないか」
 ふふん。というように龍介は脚を組む。
「まあ、お前のいうように赤沼や大神の手に渡るよりはナンボかマシだな」
「それに桜木のオヤジの手に渡るよりは、だろ?」
「あの娘がいい緩衝材になってくれれば有難いのだがな」
 そこで一度言葉が途切れた。そのタイミングで新堂がふたりにコーヒーを煎れる。
「で、吉ヶ谷の捜査のほうはどうします?」
「吉ヶ谷は死んでいるのだろ?」
 応えたのは御子柴参事官である。
「死んでいることは間違ないとしても、死体が見つからない以上、殺人事件としての捜査は出来ない。ましてや姫崎は殺されかけているんだからな。それを容疑者とするのは検察が納得出来ないだろう」
「公安にしてもヘタに動けば、向こうには例の切り札があるしな。全ては計算ずくということか、中々したたかな娘だな」
 龍介が可笑しそうに言う。
「しばらくの間は、今まで通りの捜査を続けるしかないということか」
「それでウヤムヤのうちにお宮入りですか?」
 新堂は悔しそうに言った。
「ナイトランダーだな」
 煎れて貰ったコーヒーを飲みながら龍介がいう。
「はい?」
「都市伝説に出てくる殺し屋さ。ナイトランダーというのは個人の名前ではない。人を殺したいという意思、殺意というものに名前を付けるのだとしたら、それがナイトランダーということになるんだ」
「姫崎鈴音はナイトランダーということか?」
「彼女の意思がナイトランダーだということさ」
「しかし、明確に殺人を犯した者を、そのままにしておくわけにも行きません」
 新堂が強い意思をみせて言った。
「ふふ。警察官らしい意見だな。どうする? 正義」
「龍介の言う通りそれを彼女が持っているということは、桜木を牽制するという意味ではアドバンテージがある。しかしそれは逆に、我々の動きを規制することにもなる。つまりあの娘は我々にとってのジョーカーだ」
 御子柴は苦い顔をして言った。
「分かった。その件は公安の方でなんとかしよう。それより問題は大神のほうだが」
「大神は動かないだろうよ」
 龍介は考えながら言った。
「もともと彼には一心会をどうこうしようとする意思はない。六条委員会にしてもうまく利用できればと考えているのに過ぎない。六条委員会そのものを自分の物にしようと企む赤沼とは考え方を異としている。彼が赤沼の誘いに乗ったのは、たまたま春日ママからその情報を聴いて、面白そうだと思ったからに過ぎない。自分に火の粉がかかるようならさっさと身を引くだろうよ」
「となると後は赤沼か」
「赤沼に関しては少し物騒な話がある」
 龍介は声を潜めた。
「どうやら三虎が動いているらしい」
「三虎? 赤沼の三男か」
「三虎は性格的には親父の虎之助に近い、血の気の多い直情的な性格の男だ。ある意味、真っ直ぐな男と言ってもいい。従って、思慮深く策謀に秀でた次男の虎次郎とは、昔からウマが合わなかったのだが、ここへ来てオヤジがムショに入っている間に組を自分の物しようとする兄貴に腹が末兼ねたのだろう。何やら行動を起こすのではないかという話だ。虎次郎が一心会に気を取られているうちに、組を取り戻すつもりだろう。来年には虎之助も出所するからな」
「穏やかではないな」
 御子柴は眉をしかめる。
「さあな。それより、三之宮病院の事件以降姿を消していた「陽だまりの家」の神蘭だが、ここへきて動きが活発になっていることは俺のほうでも掴んでいる。それがしきりと三虎に接触を図っているというのだ」
「赤沼三虎に? まさか」
「三虎は単純な男だ。陽だまりの家の信者になったとしても可笑しくはないだろう」
「神蘭は三虎を使って何をしようというんだ?」
「それと大神だ。大神士郎と神蘭の関係は知っているだろう」
「つまりこの事件の裏には神蘭がいるということだな」
 龍介は唇の端をクイッと吊り上げた。

 真樹乃と匠は歌舞伎町の喫茶店でお茶をしていた。
 いつぞや花柳慧一と会合したあの喫茶店である。最近匠は暇が出来ると、よくこの喫茶店に通うようになった。
 8月の終わり。
 アスファルトの路面をたたく日差しに衰えはない。
 昨夜、クラブ「KAGEROU」の新装開店のパーティーがあった。真樹乃も匠もそれに招待されて出席することになった。
 最初は行くつもりではなかったのだが、上司の吾妻係長が妙に乗り気で、招待もされてないのに「行こう行こう」とふたりを急かすだ。
 仕事のほうにもそれくらいの積極性がほしいものだ、と真樹乃なんかは思う。
「きゃあ、真樹乃さん。来てくれたのね、嬉しい」
 入口のホールを埋め尽くした、スタンド花や胡蝶蘭のフラワーアレンジメントの陰から真樹乃らが顔を覗かすと、鮮やかな紫の下地に蘇州刺繍が施された訪問着に、栗色に染めた髪をアップスタイルの和髪に結った鈴音が飛びついて来た。
「別に、来たくて来たわけじゃない」
 真樹乃はブスっとした顔をして言った。実際、殺人犯かも知れない彼女と、仲良くしなければならないいわれはない。
「こっちの二人がお前に会いたいんだとさ」
「あら~、匠く~ん」
 そこでようやく匠の存在に気がついた。
「で、こちらのおじ様は?」
「うちの係長っす」
「吾妻です。よろしく」
 吾妻係長は帽子を浮かせて挨拶をする。
「ダイハチの係長さんですわね。噂はかねがね伺っていますわ」
「どうせ、大した噂ではないのでしょうが」
「あら、そんなことはありませんわ」
 鈴音はニコリと笑った。
「警視庁でも名うての名刑事さんだとか」
 そして一同はVIPルームに通されたのだ。
 吾妻悟は小柄な男である。
 その身体はいま、豪華な革張りのソファーの中に包み込まれていた。くたびれたコートごと両足を天井に向けて、柔らかな革張りの座面に埋まってしまったのだ。
「いっやー。まいったまいった」 
 顔は深いシワに刻まれた猿のようだ。笑みの張り付いた目元には何ともいえない愛嬌がある。
「係長。はしゃぎ過ぎ」
 真樹乃は渋い顔をするが、鈴音はツボにハマったように笑いころげている。
「この度はおめでとうございます。いやいや、素晴らしいお店ですな。まだお若いのに、大したものではありませんか」
「恐れ入ります」
 皮肉とも何ともつかない吾妻の言葉に、鈴音は鮮やかな笑みで返す。
 それはそうだろう。この程度の言葉で動揺するようでは、とてもじゃないが銀座のママなんて務まらない。
 と、匠は思う。
 一同の前には最上級のドンペリが運ばれてきた。
「いやー、これは。私らのサラリーではとても、とても・・・」
「あら、これは私の奢りですわ。気になさらないで」
 困ったような吾妻に、鈴音は意地の悪い笑顔を向ける。
「と、言われましても・・・コンプライアンス的に、どうも・・・」
「まあ。それは失礼。では、私がいただきますわ」
 そう言うとすまし顔で飲み干してみせる。
「いえね。私も、もういい歳でして、まあ冥土の土産とでもいうのでしょうかね、一度こういう場所に来てみたかったんですよ」
「はあ」
「もうじき退職ですし、この辺でひと花咲かせようかな、と」
「ひと花ですか?」
「はい」
「こいつら若いモンに道筋を残してやらねば、とね」
 吾妻はニコニコしながら、隣に座った真樹乃の頭をゴシゴシと撫でる。
 おい、こら。やめろ、エロじじい。
 むっとした真樹乃が乱暴にその手を払う。
「そうなんですか」
「はい。そうなんです」
 そう言って、吾妻は店を出たのだった。
 あなたの顔を見れて良かったです。
 最後に鈴音にそう言ったのだ。
 あれはどういうことだろう?
 真樹乃は匠に聞いた。
「覚悟を決めたってことっしょ」
 喫茶店の窓から、スクラップ工場を眺めながら匠は応えた。
「覚悟? 覚悟って何?」
 真樹乃はコーヒーフロートのストローを咥えながら、キョトンとした瞳を向ける。
「だからあれっす。真樹乃先輩の好きな喧嘩」
「喧嘩?」
「喧嘩する覚悟を決めたってことじゃないすか」
「喧嘩するって相手は誰よ」
「公安。というか公安の御子柴参事官。そして冴木副総監」
 匠はハッキリと言った。
「つまりあれか、鶴田の大将がいよいよ総監争いに乗り出すってわけか? でも、それがなんで鈴音なんだ?」
「鈴音さんがこの争いの要となるからっす。正確には彼女の持っているモノが、ですけどね」
「それってまさか?」
「そのまさかっすよ。だから係長は、わざわざ鈴音さんに会いに行ったって訳っす」
「それはつまり、公安や一心会に対する牽制になるってことか?」
「結果的に係長は彼らに敵対する意思を表明したようなもんすからね、賢い彼女はそれを利用しようとするでしょう。ふたつの勢力は、彼女の爆弾によって平衡を保たれる。お互い簡単には手を出せません」
「なるほど、するとなんだな。ウチと公安、それに一心会の三竦みトライアングルの中央に、鈴音が居るって図式か。そいつは面白くなってきたな」
 喧嘩好きの真樹乃は嬉しそうな顔をする。その向かいでは匠がボンヤリと窓の外を眺めている。
「ん~、お前。何みてんだ?」
「あそこにスクラップ工場があるでしょ。前々からあれが気になって仕方がないいんすよね」
「はあ? あれが何だっていうんだ?」
 真樹乃の言葉に、匠は話を変えた。
「前に鈴音さんが自分に言ったんす。峯岸は歌舞伎町にいるって。でも、いくら探しても彼の足跡はたどれない。どうにもこの歌舞伎町に滞在した痕跡はないんすよね」
「そんなのあいつのデタラメかも知れないじゃないか」
「そうすかね。彼女は嘘つきすけど、そんな意味のない嘘は付かないと思うんすよね」
「まあ、そうかもな」
「それに彼女、生きている峯岸とは言ってないいんすよね」
 匠は窓の向こうに目をやる。釣られてそちらを見ると、潰れて煎餅状になった廃車が山のように積み重ねられている。
「まさか」
 ゾクリと真樹乃の背筋に冷たいものが走った。

 それから暫くして、赤龍会の赤沼虎次郎会長が殺害された。
 品川の赤沼組事務所から出てきた所を、突然現れたヒットマンに拳銃で撃たれたのだ。
 その3日後に品川警察署に凶器の拳銃を持った男が自首してきた。
 林田偲男(はやしだ・しのぶ)。
 元指定暴力団の薩田組の構成員だった男である。
 薩田組は赤沼組の属する六条委員会の対抗組織である極城会の傘下の組織であり、かって暴力団史上最悪とも呼ばれた「渋谷抗争」の口火を切った反社組織であった。そもそもが薩田組のヒットマンが赤沼虎次郎のタマ(生命)を狙ったのが、この事件の発端なのである。
 薩田組自体は抗争の最中に消滅しているが、その生き残りが積年の恨みを晴らしに来たのだろうというのが表向きの動機であった。
 あくまで表向きのではある。
 その裏にはどのような事情があるかわからない。
 わからないまま、新たな抗争ははじまろうとしていた。



                                                                       完

クローズド・ハザード

クローズド・ハザード

姫崎鈴音死す!? 凶人・吉ヶ谷翔麻に拉致された鈴音は、二階堂真樹乃の見守る地下室で殺害される。 然るに犯人である吉ヶ谷は、完全な密室のはずの地下室から忽然と姿を消した。 果たして神宮匠刑事はこの密室殺人の謎を解くことが出来るのか? なお、この作品は拙作「鬼娘」の続編である。

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-04-05

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