フルートとヴァイオリン (第7章 温泉保養地)
ウィーンに初夏が訪れた。木々には新緑があふれ、小鳥のさえずりが聞こえてくる。人間たちは明るいファッションに着替え、喜びをあらわに。観光客も増える6月中旬だった。
土曜日の朝早く、マミと僕は派手な赤いレンタカーを駐車し、ウィーン国際空港の構内に入ろうとしていた。日本で言えば大きな地方都市空港の規模だろうが、観光地らしく広々と綺麗で免税店も充実している。
「助かった。私、ペーパードライバーだからね」
「しかしこれじゃぁ、着いた途端に遠足だね」
「でも元気な人なのよ。短いフライトだし大丈夫だと思う」
「ジュンさんはどんな仕事で?」
「兄はアパレル系の会社で、イタリアに買い付け出張かな」
そこで場内アナウンスが入り、ミラノ便の到着を案内した。
「ああ、これだ!」と彼女が声を上げた。
「じゃ、そろそろ到着ロビーに移動しようか」と反応すると、彼女は嬉しそうに僕のジーパンをポンとはたいた。
到着したのは小さな旅客機だった。次々と乗客が降りてくる。暫く待っていると青いスーツケースをカートに乗せた日本人らしき男性が出てきた。誰かを探している様子だ。
「いたいた!」
マミが彼に向かって手を振った。
「お兄さん!」
「やあ!」
彼がカートをもう一押しし、ゲートから完全に出てしまうと思わず顔をほころばせた。
「おめでとう! 良かったね!」
「有難う! こちら国谷さん。車を借りてくれたの」と彼女が僕を紹介する。
「津軽です、お世話になります」
「国谷です、どうぞ宜しく」
「実はプランがあって……このままバーデンまで行っても良い?」と彼女が言った。
「へえ……バーデンって?」
「近場の温泉保養地よ。風光明媚でベートーヴェンのお気に入りだったの」
「そうか……ホテルは?」
「夜のチェックインでいいかしら? 町の中心は昼間大変なの、一方通行だらけで」
「分かった。天気もいいし、お薦めに従うか……」
「じゃあ早速、出発!」とマミが号令をかけた。
三人で空港の表玄関から出たところで、僕だけ駐車場へ向かう。赤いゴルフを二人の所までまわすと、彼の荷物を積み込み、すばやく左側の運転席に戻った。ジュンは助手席、マミは後部座席だ。
「国谷さんは、ウィーンっ子ですか?」とジュンが尋ねた。
「ええ、一応。もう抜けないでしょうね、ここの雰囲気」
紫外線が強いので僕は運転用のサングラスをかけている。日本だと少し不良っぽい感じだろうか。
「お仕事は?」と彼が尋ねてきた。
「ここの商社勤めで……」
「住み心地は如何ですか?」
「観光地だし、音楽好きなので退屈しませんね」
「音楽家だそうで?」
「いやフルートを少し。マミさんと同じ楽団で……プロと一緒だと立場ないですね」
「そんなことないわ」と彼女が後ろからつぶやいた。
「兄はピアノ弾くの」
「音楽ファミリーですね」
「祖先には、音楽好きなロシア人もいたらしくて」と彼が答えた。
「ロシア革命の頃、満州まで逃げて。そう言えばフィッシュマン先生ってルーマニア系?」と彼女が持ちかけた。
「そこで親父と知り合ったらしいね」と気のなさそうにジュンが答えた。
「彼って時々ボーッとしているけど、才能豊か……お母さん達、元気?」
「うん、一応」
「メールの感じでもそうだわね。でも時々寂しいみたい」
空港を抜けて高速道路に入ると、ぐんぐんスピードを上げていった。暫くすると田園風景となり、あたり一面に鮮やかな黄色の菜の花畑が現れた。ジュンの表情が次第に和らいでいく様子が窺われる。
「バーデンは昔から保養地で、ウィーンから名士たちが来たの……モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトも」とマミが説明する。
「へえ……」
「モーツァルト夫人もここによく身を寄せたの」
運転席のラジカセを操作すると、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」が始まった。
「結構なスピードだね」と速度計をのぞきながらジュンが言った。
右側通行に慣れていないに違いない。
バーデンに到着すると、あたりは緑豊かな保養地だった。歩行者が多いのでのろのろ運転となった。丘を見上げる大きな庭園「クアパーク」の近くに車を停めた。バタン、バタンと車のドアを開け閉めする音がする。車から出ると、あたり一面に緑の匂いがした。そこでサングラスをはずし、伸びをした。みんな真似する。
「国谷さん、お疲れ様」とジュンが声をかけてきた。
「さあ、これから歩きますよ」と応える。
勾配緩やかな丘陵を登るとクアパークが現われた。そのまま庭園に入り、三人で散策する。坂を上ると次第に見晴らしが良くなり、丘の上まで登ると重厚な丸屋根の古代遺跡の様な「ベートーヴェン・テンペル」が現れた。そこの大理石のベンチで休憩だ。鬱蒼とした木立を背景に一面に花が咲き、スイセンやクロッカスの黄色や紫が鮮やかである。
「良いね……森林浴」と言いながらジュンが深呼吸した。
「ベートーヴェンがここで第九や荘厳ミサを創作したの」
「なるほど、温泉も入ったのかな」
三人で森林浴しながら、ゆっくり坂を下りた。公園を出て暫くすると「Die Inspiration」(インスピレーション)と書いた小さな看板があり、店が150メートル先だと宣伝している。すかさずマミが、
「温泉も良いけど、大事なのは情熱。だから恋も仕事のうち」とつぶやいた。ジュンが絶句し、僕と目を合わせてきた。
「よく言うよ。勝手でわがまま、そして大迷惑!」と言いたげだ。僕も何か複雑なものを感じてしまう。
「とにかく平穏は駄目なの! ソナタの23番知っている?」
「誰? ベートーヴェン?」と反応するジュンは関心なさそうだ。
「確かに古典ですね」と適当にフォローしてみた。ピアノなら「熱情」だったかも知れないが、自信ない。
そうこうするうちに道の向こうに件のレストランが見えてきた。彼女が、
「あの店に入らない?」と問題提起した。
「良いよ、入ろうか?」とジュンが同調する。
「そうですね」と僕も調子を合わせた。一応、計画通りだ。店の前には芝生のきれいな庭があり、夏場に外で食べられるように白いテーブルが並んでいる。
「まだ少し寒いね」とつぶやき、店の扉を開いた。すると
「グリュス・ゴット」と若く背の高い、金髪のウェイターが挨拶してきた。
「グリュス・ゴット」
三人で庭の見えるテーブルについた。白と赤のチェックのテーブルクロスが鮮やかだ。
「何にしようかな」と言いながらジュンはドイツ語のメニューを見て苦笑した。
「ウィーナー・シュニッツェルなら多分はずれないわよ」とマミがすかさず助言する。
「仔牛のカツレツだろう? それにしようか」
「私は魚にする」と彼女が言った。僕も川カマスを注文することにした。
更に彼女が、
「あとでパラチンケン食べる? クレープなの、結構おいしい」と勧めた。
「詳しいねえ」
「美味しいのは、とにかくお菓子なの」
「分かった、お前に任せる」
彼らは再会を祝し、冷えた白ワインで杯を満たした。
「乾杯!」と兄妹が声をあげたので、
「プロスト!」と言いながら、運転手の僕はリンゴジュースのソーダ割りで照応した。土地の習慣に従ってグラスを挙げるが、カチャンと合わせない。
「お母さん、最近どうしている?」
「相変わらず仕事で忙しそうだよ」とジュンが答えた。久しぶりの再会なので一族郎党の話が尽きない。僕がついに痺れをきらし、
「ここのワイン、悪くないでしょう?」と言って割り込んだ。
「良いですね、フルーティーだし」とジュンが答えた。
「ソーダで割ります、シャンパン感覚で」
「へえ」
「最近じゃ、日本にも輸出していて」
「そう言えば、何故ここの紋章は双頭の鷲なの?」とジュンが尋ねた。
「ハプスブルグ家はもともとスイスの城主で……オーストリア・ハンガリーの象徴ですかね?」と説明を試みる。
「ロシアのロマノフ王朝も、双頭の鷲よね」と、マミが口を挟む。
「頭が一杯で二重人格?」とジュンが合いの手。
すると彼女がガイドブックから答えを出した。
「鷲はローマ帝国の紋章で、分裂後のビザンツ帝国では、ヨーロッパとアジアを意識して頭を二つにした」
「やっぱり東西の象徴ですかね」と付け加える僕。
「なるほど……著作権はそっちで? 国谷さんはワイン以外の取引もするの?」とジュンが話題を変えた。
「チーズとか、ハンガリーのサラミやフォアグラ、ギリシャのオリーブ、イランのサフランがありますね」
「ハンガリーのフォアグラって?」とマミが問う。
「質が良くてしかも安い」
「知らない事だらけだね」とつぶやき、ジュンは運ばれてきた仔牛のカツレツを満足げに見た。そして、
「大判金貨!」と言い放って大ぶりの檸檬を絞った。オーブン焼きにしたジャガイモがついている。
「ミラノ凱旋のラデツキー将軍が伝えたの」と彼女が得意そうに言った。
昼食が終わると三人でグランドホテル・ザウアーホフの温水プールを訪れた。マミが体に合う貸し水着がないと騒ぐので、男二人でロッカー・ルームに向かった。黒っぽい水着に着替えてプール棟を目指すと、高い天井が弧を描く白い内装の建物に辿り着いた。立ち込める湯気と揺れる青い水面が人を誘い、ほのかに硫黄の匂いがした。
「これは素晴らしい!」とジュンが満足そうに漏らした。
大きな窓から採光しているので、外の芝生の緑が目に清々しい。子供が何人も嬉しそうにはしゃぎ、声が大きく響きわたる。
「マミは随分と世話になっているでしょうね」とジュンが湯の中で語りかけた。
「いやとんでもない、私こそ……あとでカジノ覗いて見ましょうか?」とばつが悪そうに答えた。
フルートとヴァイオリン (第7章 温泉保養地)