フルートとヴァイオリン (第6章 オーディション)

 5月の半ばで、朝から太陽が暖かく輝いていた。
 僕は臨時に休暇を取り「ペストの像」近くのペータース教会の前で彼女を待っていた。ここは18世紀に建造されたバロック様式の白っぽい教会で、青緑色のドーム屋根が目印だ。
 間もなくマミが足取り重そうにやってきた。長い髪がポニーテールにまとめられ、チョンマゲの様だ。彼女は珍しくスーツで、グレーのジャケットに膝までのスカート姿。ヴァイオリンのケースを肩にかけ、楽譜の入ったかばんを持ち、青ざめて表情が硬い。
「やあ、元気?」と遠慮がちに声をかけた。
「そうね……まあまあ」
「どう? 眠れた?」
「それなりにね……今日は、暑くて!」
「地球温暖化かもね。でもみんな同じ条件……南国の日本人なら平気だよ」
「そうだね」
 予約していたタクシーに乗車しても、彼女は寡黙だった。
「今、緊張するのは分かるけれど、会場ではリラックスしてね」
「そう……実は私、変な事件に巻き込まれる気がするの」とマミがつぶやいた。青色吐息である。
「何故?」
「第六感で」
「そんなこと、ないよ。おヴィエンナは天下泰平だし」と言いながら思わず彼女の手を握った。
 少し郊外に出たところでタクシーがスピードを落としはじめた。目的地を見つけたのだろうか。間もなくアウガルテン宮殿の黄色く、背の低い建物が視界に入ってきた。いわゆるマリア・テレジア・イエローで、屋根が茶色っぽい。知る人ぞ知るウィーン少年合唱団の本拠地である。白く大きな鉄柵の門の前で車から降りた。僕は再び彼女の手を握り、
「それじゃあ、グッドラック。リラックスしてね!」と激励した。
「うん」と言いながら彼女は、肩にかけたヴァイオリンのケースと楽譜用のカバンと共に、宮殿の入り口に向かって行く。そして足早に黄色い建物の中へと消えていった。
 鉄柵の門のすぐ内側に小さな小屋があり、付き人はそこで待てるようになっていた。しかし中が狭く息苦しそうな様子なので、背の高いフェンスの外に留まることにした。マミは幸い、順番が4番目と早いのだ。
 周囲を見渡すと、同じオーディションに向かう若い学生風の人達が次々と到着しては建物に入っていく。女性もいれば男性もいる。みな硬い表情でヴァイオリンを肩にかけ、あるいは小脇に抱えている。
 思えば雪の中、マミと今日の課題曲の楽譜を探しに行ったら切れていて焦ったけど、当時からこの連中とは競争状態なのかと思いつつ、僕は次第に病院で子供の誕生を待つ父親のような気分になっていった。
「仮にうまく行かなかったら、彼女は日本に帰るのだろうか? その時は引き止めるべきだろうか? もう少しここで頑張れ、別のオーケストラを狙えとか言って? 大体、彼女が失敗したら責任感じるかも知れない、勉強の妨げだし……でもシューベルトの楽譜買ってあげたよな……」
周りにも同様にオーディションを受ける息子や娘、兄弟姉妹や恋人を待つ輩がいた。皆為すすべなく行儀悪くタバコ吸ったりしながら気を紛らせている。

 それから30分も経っただろうか。僕は受験者の帰りを待ちわびている南アジア系の黒髪の中年男性を見つけ、何となく親近感を覚えたので声をかけてみた。
「暑いですね、今日は」
「やあ、本当に暑い。ひょっとして、君は日本人かい?」
「そうです」
「なるほど……私は南インドの生まれだけど、母親は日本人だったよ」
「それは奇遇ですね! じゃあ、日本語も?」
「いや、アマリデキマセン」とインド人が照れ臭そうに答えた。
「上手じゃないですか!」
「もうすっかり忘れたよ」
「そうかなあ……少しお話しても良いですか?」
「どうぞ」
「今、ヨガが流行っていると思うんですが、インド発祥ですよね?」と尋ねてみた。
「呼吸法とか、ある奴だろう?」
「そう……」
「あれはもともと、ウパニシャッド哲学で」
「精神統一でしたっけ?」と繋いでみる。
「自分の意思能力では本来、コントロールしにくい体の機能まで支配し、精神も肉体も全て支配するのよ」
「すごいですね」
「そう。呼吸やポスチャーを使って心拍数とかリビドーとか、自律神経系の機能まで管理しようとする一種の覇権主義で……」と彼が解説する。
「へえ……ひょっとしてお医者さんですか?」と尋ねてみた。
「そう。フロイトを解剖学的に究明していて」
「フロイトって、無意識の発見者でしたっけ?」
「精神分析学の創始者だろうね」
「国谷イサムです。どうぞ宜しく」
「チャンドラセカールだ、宜しく」
 僕はいつぞや萩谷の読んでくれた精神分析の論文を思い出した。ひょっとして彼が書いたのだろうか? あの時は酔った勢いで、マミにアタックせよと煽りやがって。そこで気を取り直して、
「フロイトは本当にセックスを軸に据えていたのでしょうか?」ともちかけた。
「まあ、物は言いようだね」
「例えば……リビドー過剰の時は、どうしたら良いのでしょうか?」
インド人医師は少し額にしわを寄せながら、
「そうだな……十分運動することかな……」と答えた。
「運動ですか?」
「そう、なるべく屋外で」
「なるほど、それは分かりやすいです。でも狭い室内の場合は?」
「多分、意識を右脳に入れて」
「意識を右脳に?」と理解出来ない旨訴えた。
「そう。まあ……言ってみりゃ目線を左向きにしてね」と彼が言った途端、誰かが声をあげた。
 二人で宮殿の方を振り返ると、南アジア風の黒髪の女性がヴァイオリンのケースを抱えて試験会場の建物の玄関から出てきた。インド人医師はほっとした表情で、
「シリン!」と叫んだ。
「なるほど、お嬢さんか」と思いながら彼女に注目する。シリンと呼ばれた女性が鉄格子のフェンスまで近づくと、彼が駆け寄って肩を抱いた。
「どうだった?」と彼女を懸命に慰労している。
「やれやれ、ようやく」と思う間に、もう一人の女性ヴァイオリニストが出て来た。
 するとチャンドラセカールが突然、僕の所に駆け寄り、
「これは私の論文の抜粋で……良かったらどうぞ」と言いながら、何やら薄い冊子を渡してくれた。
「あ、どうも」と反応するや否や、彼はあわててシリンのもとに去っていった。
 そこで緊張をほぐすために冊子を開いてみた。
 おやおや! 表紙に英語で「エスの研究」と書いてある。これは萩谷君御推薦の論文だろう! ペラペラめくりながら拾い読みし始めた。
「人類の直立歩行に伴い、今まで地面の方を向いていた心臓は、下方の突端部分が身体の左寄り外側を向き、無防備となった。そのため火を使用する場面では熱が早めに心臓に到達するのを防ぐ為、右手を使い、また武器を使用する場面では心臓を守るため、右手で剣、左手で盾を持つ習慣となった。
 右利きが流行ると、機能交差のため左脳が重点的に活用される結果となり、狩猟、採取、炊事等あらゆる場面で仲間と意思疎通の必要から、会話用の言語野も左脳に発達した。こうして右利き・左言語野が一般化した。
 しかし次第に右脳をおろそかにする結果ともなり、無意識(エス)が意識(自我)の不在につけ込み右脳の言語野に侵入し、精神病を発症させるケースが増えたに違いない。然るに精神の健康の秘訣は左右の脳半球をバランス良く使う事であり、偏重ある場合には是正すべし」
 なるほど。そこで顔を上げるとまた一人、会場の建物から出てきた。男性だ。そして間隙を置いて、黒髪の女性。
「マミだ!」
 少し、うなだれているのだろうか。フェンスにもたれたまま待ったが、彼女が近づくにつれ、心臓が強く打ち始める。近くまで来たところで、
「マミ!」と声をかけた。彼女がうつろな表情で顔を上げる。
「お疲れ様! どうだった?」
「……分からないけど、多分大きなミスはなかったわ」と、彼女は少し力の抜けたような声で答えた。
「なら、良かったじゃない!」と言いながら、ほっと胸をなでおろす。取り敢えずセーフだろうか……。
 
 マミは帰りのタクシーの中で、ポツリポツリと試験の様子を語ってくれた。
「オーディションの始まる前にロビーで事務局の説明があったけど、やたらに長くて暑かったの……そうこうするうちに、アメリカ人の女審査員が遅刻で、顔面蒼白で入ってきて、
『9月11日が危ない……インデペンデンス・デイそのもの』とかつぶやいて、しまいに、
『2001年宇宙の旅!』って叫んだの。もう、ほとんど変だった」
「へえ……それ、古い映画だよね。今年がちょうど映画の描いた未来の年で」
「9月11日って、インデペンデンス・デイなの?」
「そう言えばアメリカの独立記念日って、7月4日だね。何故、アメリカ人だと分かったの?」
「英語のアクセントが強かったから」
「へえ……それで?」
「結局、その女性審査員が変だったので、一同しばし唖然……その後二階の控室に移って順番を待っていたら、早い番号の連中の演奏が漏れてきて……あがるせいか、結構ミスタッチもある様で、気が楽になってきたの。御蔭様で本番では大してあがることなく、課題曲をこなせて……」
「それは何よりだね!」
「まあ御蔭様でシューベルトは結構、上手くいったつもり。だけどパガニーニは楽団と演奏するし……予行演習したけど、やっぱり調子狂うよ」
「他の連中も、同じだよ」と言いながら僕は車窓に目をやった。
「取り敢えず助かった事にしよう」と彼女がつぶやいたので、
「心配するなって……9月11日には、もうメンバーだよ」と激励した。
 
 それから三週間も経っただろうか。
「イサム! 受かった、9月から団員だって!」とマミが電話口で叫んだ。
「へえ……良かったね! 信じられない!」
「シューベルトの隣人が楽譜届けてくれたし……」と言う彼女は頬ずりムードだった。

フルートとヴァイオリン (第6章 オーディション)

フルートとヴァイオリン (第6章 オーディション)

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更新日
登録日
2021-03-16

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