青春の鼓動 ~僕たちの昭和~ 第一巻 芽生えの季節(とき)
昭和30年代以降の、愛知県名古屋市周辺の風景が変貌していく様子や、子供達が成長して行く姿を描いていきます。
昭和25年生まれの主人公松山圭司の、小学校入学から高校卒業までの様子を、愛知県尾張地方の風景や風習、家族・友人達の人間模様を様々なエピソードを交えて、少しずつ書き加えていく予定です。初恋や子供の遊び、当時の雰囲気が、少しでも伝われば嬉しいです
目次 青春の鼓動 ~僕たちの昭和~ 第一巻 つまかわ うじきよ
第一章 幼馴染(おさななじみ)
第一話 夏の景色
昭和三十四年、とある夏休みの早朝。
朝日に向かって、仁王立ちのヤコちゃんがいた。
彼の名は栗田保彦。下の名の〝やすひこ〟から『ヤコちゃん』と呼ばれていた。
〝彼〟と言っても、まだ小学六年生。この界隈の小学生のリーダー、いわゆるガキ大将だ。
彼の立つ場所は、彼が住む昔ながらの三軒長屋の、東側道路に沿って流れる小川の前。
畦道を挟んだ田んぼ越しの小高い丘からの日の出を、今まさに迎えようという瞬間だ。
ここは愛知県尾張地方、名古屋市の東側に隣接する当時は愛知郡鳴海町と呼ばれた片田舎。四年後の昭和三十八年には名古屋市に合併され、緑区鳴海町となる。
後々名古屋圏のベッドタウンとなるが、当時はまだ戦後の色合いが濃く、この辺りの住民の多くは第二次大戦の名古屋市内の空襲で焼け出された人達で、それと元々この地で農家を営む人々や、役場の職員、数少ない商家の家族等で町が形成されていた。
その地の風景は、当時の日本の田舎をそのまま描き写した様子で、当然道路に舗装なんてものは無く、雨が降れば水溜まり、普通に農耕用牛馬が行きかい糞を垂れるので、乾燥して風が吹けば牛馬の糞交じりの埃が舞うのは当たり前であった。
田んぼにはタニシやドジョウ、小川にはメダカにシジミにアメンボにフナやハヤ。
山や野原には、野鳥や野兎、野苺、土筆に蓮華草。その段々畑の山に登って西南方向を見渡せば、遥か彼方には伊勢湾を望む。
そして極め付けは、畑のあちこちで見られるある〝肥溜め〟。
ほんの六十年程前の風景である。
さて、話を〝ヤコちゃん〟に戻そう。
その朝日に輝くヤコちゃんの背中を、憧憬の眼差しで見上げる子分たち。
これから自転車に分乗して、『近くの池に〝釣り〟に出掛けよう!』と言うのである。
そのメンバーを紹介しよう。
年齢順に、六年生はヤコちゃん一人。
五年生、加藤光春(みっちゃん)、蜂須賀正彦(マーくん)、安藤美鈴(みすずちゃん)。
四年生、稲垣義男(よっちゃん)、光崎享子(きょうこちゃん)。
三年生は、この物語の主人公・松山圭司(ケイジ)と蒔田陽子(ようこちゃん)。
二年生、加藤健二(ケンちゃん…光春の弟)、安藤彰伸(アキちゃん…美鈴の弟)、それに、松山龍男(タツベ…圭司の弟)。
ほぼこのメンバーで、暗黙の〝年功序列〟の基、常に行動を共にしていた。
一年生は、まだ〝ガキ〟と言うことで、ここには入れてもらえなかったのだ。
実は圭司、釣りはこの日が初めてで、今風に言えば〝釣りデビュー〟の日であった。
前の日、ヤコちゃんや他のみんなと一緒に、近所の竹藪で適当な笹竹を切り出して釣り竿を作り、エサは長屋の裏庭のゴミ捨て場付近の土の中から糸ミミズを掘り出して、缶詰の空き缶に入れて確保していた。
釣り糸と釣り針それに浮き・錘は、ヤコちゃんのお古を使わせてもらっていた。
最初に釣り針に糸ミミズを差し込む、あの〝ヌルッ〟とした感触は、今も忘れられられない。
最初は何とも気持ち悪かったのだが、不思議なもので徐々に慣れて当日は何ともなかった。
えさの付け方の後は、浮きの見方や合わせのタイミング等、一からヤコちゃんの手解きだ。
そんな前日準備を終えて、ワクワクしながら眠れない夜を過ごした、寝不足の朝であった。
出発の時が来て、ヤコちゃんの号令が飛んだ。
「さあてと、行くでよう! みんな遅れんようについて来いよ‼」
当時はまだ、自動車なんかは殆ど走っていなくて、町内に1台有るか無いかと言う時代で、自転車の二人乗りは当たり前であった。
貧しい時代で、今の様に子供一人に自転車1台が当たり前、と言うわけにはいかないのだ。
そんなこんな色々あった結果、圭司は享子の自転車に乗せてもらうことになった。
「ケイちゃん、行くよ!」、
享子ちゃんは、スカートの裾をパンツのゴムに押し込む〝ちょうちんブルマ〟スタイルを作ってから、圭司を呼んだ。
スカートの裾がチェーンに絡まるのを防ぐための姿なのだが、当時の女の子はゴム飛びとか鬼ごっことかで、スカートが邪魔になりそうな時はよくその格好になっていた。
その一方で圭司はと言えば、
「何で俺がきょうこちゃんの自転車?」と口を尖らせて文句。
本当は、ちょっと可愛くて色白の享子と一緒で、嬉しくてしょうがないのだが、それを悟られないための〝ジェスチャー〟である。
そんなことは意に介せず、
「何を言っとるの。さっさと乗った、乗った!」と、享子ちゃん。
このくらいの歳の女子にしてみれば、一歳下の男子なんかは、幼くて全く相手にしていない。
それがまた、圭司には悔しくて堪らないところでもあった。
表面的には〝文句たらたら〟で後部荷台に座った圭司だが、時々享子ちゃんの太腿が、自分の足に触れて『ちょっとドキドキ?』の約2キロ、十五分程の二人旅であった。
そうこうしている内に、目的地の池に到着。
その池は、段々畑の様に上段と下段に分かれていた。釣り場はその下段側の池である。
何故そうなったのかは知らないが、上の池の水が、滝の様に流れ出て下の池を作っており、『双子池』と呼ばれていた。
そこから更に小川が作られ、前述の出発点近くの小川に続くと言った風景である。
さて、いよいよデビュー戦の試合開始。
圭司は、ヤコちゃんの隣に陣取り、みっちゃんとマー君、それによっちゃんは、それぞれの釣り場を確保して、圭司の釣りデビュー戦は始まった。
それ以外のメンバー、みすずちゃん、きょうこちゃん、ようこちゃんと2年生のケンちゃん、アキちゃん、タツベの〝女子供〟は、上の池から流れてくる小さな滝の辺りで水遊びである。
「キャッキャ‼キャッキャ‼」と奇声を上げて大騒ぎ。それはそれで楽しそうだ。
最初に釣り上げたのは、やっぱりヤコちゃん。10㎝程のフナだ。
「さすが!」の声が上がった。こういうところが、皆から憧れられる所以であろう。
その後、それぞれに釣果があり、未だに〝ボウズ〟は圭司だけになっていた。
そろそろ時間もいい頃合いで、皆も飽きてきたところである。
圭司はと言えば、初めての釣りに最初の内は嬉しくてワクワクして挑んだのだが、一向に成果が上がらず、周りが釣り上げる時の歓声を聞いて、焦るばかりだ。
結構、魚がエサに喰い付いて、浮きがピクピクするのだが、全然合わせることが出来なくて、失敗の連続であった。
そこで、ヤコちゃんが動いた。自分の竿に当りが来たところで圭司を呼び寄せたのだ。
ヤコちゃん「圭司、よー見とれよ。ああいう風に浮きが〝ピクッ〟と動くだろ。あれはまだ魚が様子を見て触っとるだけ、まだまだだ。」
続けて「次に〝ピクピクッ〟と来るのが食い始め言うか〝味見中〟と思え。まだだぞ!」
そして「最後に〝グイッ〟と引っ張り込まれる感じで浮きが大きく沈んだ瞬間が喰い付いた時、その一瞬を逃さずに一気に引き上げるんだぞ。ほら、今だ!」
少し腹の赤い魚が水面で飛び跳ねた。
通称〝アカハラ〟、見事なウグイである。
ヤコちゃんの実践講義通りの当りを待っていると、二十分ほどでその通りの展開が訪れた。
『おっ、来たぞ!』
一刻も早く釣り上げたいと焦る気持ちを抑えて、圭司は〝合わせ〟に集中した。
そして遂に、歓喜の時はやって来た。
「ヤッター‼」圭司は我を忘れて叫んでいた。
満を持して引き上げた竿の先には、15~20センチほどの〝アカハラ〟が跳ねていた。
その感触もまた、忘れられないもので、それから暫く圭司は釣りにハマっていた。
こうして無事に釣りデビュー戦は終わり、昼前には皆帰宅の途に着いた。
帰り着いた長屋の横の木陰では、彼らの少し上のお兄ちゃんたちが縁台将棋に興じていた。ヤコちゃんや享子ちゃんのお兄ちゃん達で、皆中学生である。
実は圭司、成長してからもずーっと将棋好きで、社会人になっても昼休みには毎日へぼ将棋に勤しむようになるのだが、それはこの頃、このお兄ちゃんたちに教えられたお陰である。
「お、ヤコ釣れたか?」お兄ちゃんの一人が、将棋盤に目をやりながら声を掛けた。
「5人でアカハラ5匹とフナ7匹。まあまあかな?」
バケツに入った釣果を見せて、自慢気に応えるヤコちゃん。
その後、ヤコちゃんや上級生が、ウグイに塩をふって竹串に刺し、焚火を焚いて塩焼きにして、昼飯替わりに美味そうに食べていた。
その頃の圭司にはまだそれを食べる勇気が無くて、喰らいつく彼らが妙に大人に見えた。
フナは誰も調理方法が分からず、みっちゃんの家の庭池に放し飼いとなった。
中学生になるとクラブ活動に入ることもあって、子供たちの遊びが全く変わってしまう。
学生服を着ると、急に大人の自覚でも生まれるのだろうか?
ヤコちゃんとの魚釣りも、この夏休みが最後であった。
遊び疲れた夜は〝蚊帳(かや)〟を吊ってその中の床に入るのが、当時の夏の習慣であった。
この〝蚊帳〟と、陶器製のブタの形の入れ物から放たれる金鳥の蚊取り線香の匂い。それが、当時の虫除けの二大アイテムであった。
〝蚊帳〟とは、蚊などの害虫から身を守る麻布製の網のことで、その頃エアコンなんてあるはずもなく、殆んどの家庭が、猛暑の夏は家中の扉を全開にして風を入れて涼を取り、蚊帳を天井から吊って虫除けしていたのだ。
その蚊帳に、数匹の蛍が飛んで来て淡い光を放つ美しい風景は、今も目に焼き付いている。
そんな風にして、夏休みの一日一日が過ぎていく。
どれも忘れられない、遠い昔の名古屋。
〝夏の景色〟である。
第二話 入学
話は前後するが、圭司が小学校に上がったのは昭和32年。
入学した鳴海小学校は、明治7年(1873年)創立。愛知県でも古い部類に入る公立小学校で、圭司が在学していた当時は、愛知郡鳴海町立鳴海小学校であった。
彼らの年代が卒業した昭和38年、愛知郡鳴海町が名古屋市に編入されたのに伴い、名古屋市立鳴海小学校と改称する。
昭和20年4月生まれ(六年)~昭和26年3月生まれ(1年)と戦後のベビーブームの子供達が小学校就学年齢真っ只中で、どの学級も60人近い児童を抱え、一年は7クラスだが二年より上はそれ以上のクラス数で、全校児童数は、3000人にも及ぶマンモス校である。
明治創立の伝統校なので、校歌も古めかしい古文調。
。 一番
♪我が学び舎の友がきは(わがまなびやのともがきは)
自律の太刀の緒を締めて(じりつのたちのおをしめて)
誠の旗を翻し(まことのはたをひるがえし)
いざ諸共に励みなん(いざもろともにはげみなん)
二番
ああ古の鳴海潟(ああいにしえのなるみがた)
今は文化の波をなす(いまはぶんかのなみをなす)
砦の松に棲む月の(とりでのまつにすむつきの)
光に心磨きなん(ひかりにこころみがきなん)♪
一年生はもとより六年生でも解るかな?という代物で、それを丸暗記で歌わされていた。
江戸時代の論語や戦前の教育勅語等の、丸暗記教育の名残である。
そんな訳の分からない校歌を聞かされた入学式が終り、各学級別に分かれての初授業。
圭司の学級は1年7組で、担任は黒ぶち眼鏡の早川尚俊(なおとし)先生。
総勢58人のクラスである。
学校敷地内の一番西側にある平屋の校舎の更に最西端の一室に58人は集まり、二人一組の小さな机に、自分の名前がひらがなで書かれた席に、少し緊張の面持ちで座っていた。
廊下側の前から五十音順で、それぞれの席の右側が男子、左側が女子の並びになっていた。
早川先生の自己紹介の後、一人一人の名前を読み上げて児童が返事を返す、恒例の〝初出欠簿確認〟があり、それぞれの可愛い返事を聞いた後、先生が話し始めた。
座席の後方はお母様方で一杯。今と違って夫婦で参加というのはないが、それでも58人は大変な人数で、後ろだけでなく廊下側にも窓側にも参観者がいて、正にごった返していた。
早川先生「これ何~だ?」一番前の席の子の持ち物を取り上げて、皆に聞いた。
「カバン!」ほぼ全員がこう応えた中、唯一人「ランドセル!」と答えた子がいた。圭司だ。
何故皆が『カバン』と言ったのか、圭司は全く理解できなかった。
家では普通に喋ってた言葉が、ここでは通じないことが、とても恥ずかしくて赤面である。
「お、松山くん、ハイカラだね!」早川先生、眼鏡の奥の優しい目で圭司に語りかけた。
「どっちも間違ってないよ。外国語ではランドセル、日本語でカバン両方とも正解だよ。」
圭司の気持ちを理解して、早川先生しっかりフォローである。
『もしかしたら、幼稚園に行ってない所為で、みんなと違うこと言ってしまったかな?』と、
少しだけ、コンプレックスの様な感情を抱いたことを彼は記憶している。
それとも、戦後まだ五年、戦時中の〝敵国語禁止〟教育の名残か?
一年生でもう一つ忘れられない思い出は、初めての運動会のこと。
鳴海小では秋に大運動会がメーンイベントではあるが、春にもかけっこ会と言う競走だけを行う催しがあり、秋の大運動会に対して、春の小運動会と呼称していた。
入学後やっと小学校生活に慣れ始めた、五月のことである。
ここでもまた『運動会の歌』と言う応援歌が登場する。
♪日頃鍛えしこの技を(ひごろきたえしこのわざを)
いざや試さん運動会(いざやためさんうんどうかい)
走れ早く空を掛ける(はしれはやくそらをかける)
鳥の如く跳べよ跳べよ(とりのごとくとべよとべよ)
すわや仲間を抜きたるぞ(すわやなかまをぬきたるぞ)
いざや勝ちたり万々歳(いざやかちたりばんばんざい)♪
入学式同様、訳も解らず丸暗記の応援歌を歌って開会式を終えて迎えた初めての運動会。
その最初のプログラムが、一年生の徒競走だった。
男女別、背の低い順に、各クラス6人ずつに分かれてのかけっこである。
圭司にとって、これも幼稚園に行ってないお陰で初めてのこと。
そのスタートの順番を待つ間の緊張感と、それに伴う胸の鼓動。
彼の人生で最初に感じた、あのドキドキ感。
〝上がる〟という感情の初体験であった。
一組から始まって、最後の七組。しかも背の順なので、最終組だ。
圭司と同じ組で走るのは、大橋育夫君・太田秀夫君・横井修君・と吉本周平君。
1年7組は男子29名なので、最終組は5人で走る。
「何か、胸がドキドキせえへんか?」圭司は初めてなので、不安になって皆に尋ねた。
「うん、ドキドキだよ。でも、いつもそうだから。」大橋君が応えた。
幼稚園で経験済の彼らには、当たり前のことだったらしい。
圭司には、それがちょっと悔しかった。
結果は、見事一着。上級生に案内されて一番の旗の下に並ぶ。忘れ難い初めての感動だった。
第三話 相撲大会
昭和33年、二年生も担任は早川先生。
組替えもなく、クラスメイトもそのままだ。
或る日の体育の授業、先生の発案で相撲大会が行われることになった。
場所は、校庭の砂場。
男子も女子も混合での大会で、その年齢では女の子の方が強いのはよくあること。
と言うより、普通のことであった。
トーナメントで勝ち上がったベスト4は、渡辺早苗ちゃんと渡辺静江ちゃんの女子2名と、大橋育夫くんと松山圭司の男子2名で、これ、偶然男子・女子それぞれの背の高い順。
こうなると男子対女子の紅白対抗の図式となり、大会そして授業は俄然盛り上がっていく。
「さなちゃん、しーちゃん絶対勝ってよ‼図体デカいけど、二人とも大したことないよ。」
女子応援団の大声援である。
「うん、頑張るよ!」
二人とも顔を紅潮させて応える。
対する男子軍
「女になんか負けたら承知せんぞ!絶対勝てよ。」
自分たちが負けたのも忘れて、これまた大声を張り上げている。
「おう、まかせとけ‼」
男子代表の二人も、自信満々で応えていた。
先ず、早苗ちゃん対育夫。
「見合って、見合って!」
先生の掛け声で立ち上がり、土俵中央で組み合う二人。
早苗ちゃんが負けそうになる度に「キャー!」と女子応援団の悲鳴が上がる。
それに驚いて育夫が力を抜いたりして、中々決め手がなく、一進一退を繰り返していた。
育夫くん、優しい子で女子を投げ飛ばすなんてとてもできなくて、何とか〝押し出し〟或いは〝つり出し〟で決めたかったみたいで、グズグズした展開になっていた。
早苗ちゃんもよく頑張ったが、最後は育夫に押し切られて土俵を割ってしまう。
「ああああー。」女子のため息。
「よっしゃー!」男子の歓声である。
次は、静江ちゃん対圭司。
女子最後の砦、静江ちゃんに対する声援は凄まじく、
圭司にも、少なからずプレッシャーとなって押し寄せて来た。
「ハッケヨーイ、ノコッタ!」
早川先生の掛け声と共に二人は立ち上がる。
両手を組み合った所謂〝手四っつ〟の格好で、暫く押し合っていた。
そうこうしている内に、疲れの見えて来た静江ちゃんの様子を圭司は見逃さなかった。
「エイ!」と両手を手前に引き下げると、あっけなく前のめりに倒れた静江ちゃん。
「ああー!」再び会場は女子のため息に包まれた。
そしていよいよ決勝戦、圭司・育夫二人とも勇んで土俵に上がった。
観客の応援は圧倒的に大橋育夫君。男女ともに、である。
実はこの勝負、普段の遊びの中では圭司が圧倒的優勢で、誰もが彼の優勝を疑わなかった。
この声援、所謂〝判官贔屓〟ってやつである。
育夫も、声援に応えて『今度こそ‼』とリベンジに燃えていた。
圭司は圭司で、勝つのは当たり前の感覚で、
『ここはひとつ、栃錦張りの土俵際逆転の〝うっちゃり〟で格好好く勝とう。』
などと、慢心で天狗の鼻を目一杯高くしての立ち合いである。
その頃松山家にはテレビは無かったが、近所のお金持ち加藤さんの家で相撲中継のテレビを毎日見せて貰っていたので、そういう技はよく知っていた。
その頃はそういった近所付き合いが当たり前で、街頭テレビではないが近隣住人がテレビに有る家に集まって、よく一緒に見ていたものだった。
そして始まった大一番。
思惑通り育夫くんはグイグイ押してきた。
彼は彼で必死である。
『よし、よし。』思い通りの展開に、ほくそ笑む圭司。
頃合いを見計らって、「エイ!」と気合を入れてうっちゃろうとした瞬間、
先生の声が、かかった。
「勝負あった!育夫の勝ち。」
圭司の足が、土俵を表す線からはみ出していたのだ。
「ええええー何で?何で?」訳も解らず、戸惑う圭司。
「ヤッター‼」大喜びの育夫。
〝勇み足〟で圭司の負け。
「くっそー‼」土俵の砂場を叩いて悔しがる圭司。
「ワー!ワー!」座布団こそ飛ばなかったけど、番狂わせに大騒ぎのクラスメイト。
こうして、2年7組〝大相撲砂場場所〟は幕を閉じた。
松山圭司くん、この頃から肝心なところで最後の詰めが甘かったのだ。
第四話 初恋
昭和34年、三年生になった。
入学してから初めてのクラス替えがあり、3年4組。
担任も土屋具視(ともみ)先生に変わった。
二年生までの早川先生に比べると、若いけどちょっと強面で怖い印象。
教室がザワザワすると、革製スリッパの裏側で教室の床を思いっきり叩いて「パーン‼」
その音で皆を鎮める、と言う特技を持つ先生である。
そんな中で、新しい友達もできた。それに、ちょっぴり淡い思い出も。
三年生になったばかりの或る日、圭司は二年生まで同じクラスだった小林章(あきら)くんと、そのご近所さんで遊び仲間の中野英雄(ひでお)くんと一緒に、彼等の家の近くにある幼稚園『みその園』の園庭で遊んでいた。英雄とは、3年4組で同級生になっていた。
圭司は幼稚園に行っていないので初めて入るが、彼等は卒園生なので保母さんも顔見知りらしく、慣れた様子で遊びまわっていた。
暫くすると、教室の窓から女の人の掛け声と手拍子が聞こえてきたので、そちらに目を移すと、白い服と真っ白なタイツをはいて、踊っている数人の少女の姿が目に飛び込んできた。
その幼稚園でやっている、バレエ教室だと英雄が教えてくれた。
その少女の集団の中に、どこかで見たことがある少女が一人いた。
英雄に聞いてみると「ああ、おるよ。同じ組の沖美津江(おきみつえ)だがや。」と言った。
圭司は思い出した。クラス替えの最初の日に、英雄と話している圭司のところへやって来て、
「松山くん、よろしくね!」と、
何故か妙に馴れ馴れしく声を掛けて来た、少し長めの髪の生意気そうな女子だ。
圭司は初対面だったが、英雄が沖美津江の幼稚園での同級生だったので、声掛けしたついでの挨拶である。
その子が、その髪をアップにして、後ろ髪を無造作にゴムバンドで止めて踊っている。
今で言うところの〝ポニーテール〟ってやつだ。
何だか全然違う人を見てるようで、ドキドキして胸が締め付けられるような、そこだけ光って見えるような、今迄感じたことのない感情に心が覆われてしまっていた。
『ああ、、めっちゃくちゃ可愛いがや‼』 初恋である。
その何日か後の席替えで、五十音順が身長順に変わり、幸運にも隣の席に座ることになる。
五月になって少し陽気が好くなってきた或る日、理科の授業か図工の授業か忘れたが、
水鉄砲を造ったことがあった。
近くの竹藪で切り出した太い孟宗竹を一節ごとに切って、その節の部分に小さな穴をあけた筒と、これまたその辺に転がっている木の小枝に、ぼろ切れを巻き付けた中押し棒で出来た、水鉄砲である。
折角造ったのだから、これを使って遊ぼうというのが子供心である。
主に男子、ではあるが・・・。
昼休みに、クラスを二つに分けて〝戦争ごっこ〟ということになった。
一つ目の組は圭司を大将とする組で、もう一つはこのクラス一のやんちゃ坊主、阪野寛(ばんのひろし)くんが大将である。
彼は、どのクラスにも必ず一人はいる、お調子者の目立ちたがり。
その上お金持ちの子供で、いつもお金を持っていて、よく同級生に駄菓子などを奢っていた。
その頃の子供の小遣いは、普通一日10円程度。
圭司などは貰えたとしても5円が精一杯で、普段は文無しなのが当たり前であった。
そんな時代に彼は、常に百円札を所持し、時には五百円札を見せびらかすこともあったのだ。
今日明日の飯をどうするかに困る松山家とは正反対の家庭環境で、目立ちたがりの上、人を見下す癖のある嫌な奴だったが、明るい性格とその財力のお陰で結構人気はあったのだ。
そんな彼の取り巻きと、それを好としない圭司を中心とする〝アンチ寛派〟の戦いである。
子供の遊びの常として、始めのうちは楽しそうに水鉄砲で戯れていたのが、時間の経過と共に気分の高揚を引き出して、気が付けば両チーム必死、共にびしょ濡れ状態となっていた。
人数的には寛チームが圧倒しているのだが、対する〝アンチ寛派〟は、どちらかと言うと、運動能力や体力に勝る子供が多い〝少数精鋭〟なので戦いはほぼ互角の様相を呈していた。
そんな中、我がチームの中野英雄は、相手の大将・寛が鉄砲の水補充の為に、引き返す後姿を見逃さず、勢いよく飛び出して追い付き、
「ヒロシ、覚悟!」と叫んで水鉄砲を向けて身構えた。
「えっ!」ビックリして寛は振り向いた。
その刹那、寛の顔面に向けて水鉄砲が発射された。
「ギャアー‼」寛は眼を押さえていた。
「なにすんだ―‼」大声で叫びながら英雄に殴りかかっていった。
これをきっかけに、両軍入り乱れての大乱闘に発展してしまったのだ。
こうなると、体力・運動能力に勝る圭司組の敵ではなく、寛組は完敗となってしまう。
屈辱的な敗北を喫した寛。
悔しくて悔しくて堪らなかったのだろう。
いきなり走り出して教室に入るや、相手の大将・圭司の机に一目散。
その机から教科書、ノートを取り出してビリビリに破り始めたのだ。
「なにすんだ―、この野郎‼」今度は圭司が大声で叫びながら、寛に飛び掛かっていく。
大将同志〝組んづ解れつ〟の大喧嘩である。
そこでも体力差は大きく、最後は蹴飛ばされて完敗のヒロシ。今度は本気の大泣きである。
一方の圭司、
『ヒロシなら教科書やノートなんてすぐに買って貰えるだろうけど、俺にとっては・・・。』
そう思うと何だか悔しくて情けなくて、大粒の涙がボロボロ。こちらもまた大泣きである。
当然その後、土屋先生からは大目玉。
〝喧嘩両成敗〟と言うことで、寛と圭司は二人廊下に立たされていた。
その二人っきりの廊下でのやり取り、
ひろし「圭司、ごめんな!カッとしちゃってよー、教科書はやり過ぎた。弁償するよ。」
圭司「おれもやり過ぎたわ、蹴飛ばしたりしてごめんな!」
そんなこんなで打ち解けていく二人。
終(つい)には、教室に笑い声まで聞こえる始末。
それを聞きつけた土屋先生、
「お前ら何じゃ‼ついさっきまで、大喧嘩しとったんじゃないのか?」
「それじゃ廊下に立たせる意味ないわ。さっさと授業に戻れや!」
もしかして、これって土屋先生の狙い通り?
授業に復帰してからは、隣の席の沖美津江ちゃんに教科書を見せて貰うことになった。
『このまま、教科書無くてもええか?』少し幸せな気分を味わう圭司。
『ひろし!ようやってくれたがや‼』その日から、阪野寛くんとは親友になっていく。
第五話 目分量
その頃の授業で、算数だか国語だか定かではないが〝目分量〟と言う言葉が出て来た。
教科書の中に『約10㎝』とかの表現があって、その説明の為に土屋先生は、〝目分量〟を持ち出して来たものと思われる。
土屋先生曰く、
「いいか、例えばみんなの家に羊羹が一本あって、それを家族で分けて食べるとする。」
「その時わざわざ定規を持ち出して、きっちり測って切り分けたりしないだろう?」
「大体半分に切ってそれをさらに分けてとか、大まかにやるだろう?」
「それを〝目分量〟と言う。」
「ここに書いてある『約10㎝』と言う言い方、その〝目分量〟と同じように、大体10㎝と言うことなんだ。
つまり〝約〟と言う言葉の意味は〝大体〟ってこと。解るかな?」
土屋先生、『結構いい説明できた。』と、若干得意げな〝ドヤ顔〟で悦に入っていた。
その時、一人の児童がこれまた〝ドヤ顔〟で手を挙げてきた。圭司である。
「先生、違います。うちでは羊羹を切る時、物差しを持って来てしっかり測ります。」
「家族7人不公平が無いように、何ミリ迄しっかりやります。」
「目分量なんてしたら、それこそ大喧嘩です。」
事実、松山家では、羊羹なんかはほぼお目に掛かれず、稀に誰かの誕生日とかで買って来ようものなら、それこそ兄弟姉妹全員で目を皿の様にしてその計測状況を監視したものだ。
一事が万事、食べ物に関しては常に生存競争の中にある。そんな家族だった。
ただ「うちも、うちも!」と、共感してくれる友達が一人もいなかったことに、圭司は少なからず衝撃を受けていた。
土屋先生、圭司の気持ちを察したのか、笑ってこう応えた。
「圭司、兄弟多いと大変だよな。先生の家もそうだったよ。まあ、圭司の家みたいな例は珍しいかも知れんけど、例えが悪かったかな?」
「じゃあ、晩飯の大皿のおかずにしよう。羊羹は測れるけど、こっちは測れないだろう?」 「煮物や鍋物、炒め物だと、いちいち測ってやる家は無いから大体の分量で分けるだろう?」「それが、目分量ってことでどうだ?」
圭司、納得。
誰も共感してくれなかったことを、先生が解ってくれたことが圭司には何より嬉しかった。
こういった、印象的な事例での授業内容ややり取りは、大人になっても忘れないものである。
第六話 学級会
昭和35年、四年生のクラス替えで4年2組。担任は田中満子(みつこ)先生になった。
但し一学期が終わると産休に入り、二学期からは大橋聖子(せいこ)先生に代わる。
クラス替えから数日後に、身体測定があった。
圭司の身長は142㎝。当時の四年生としては大きい方で、
田中先生から「あら、松山君もうすぐ先生追い越しちゃうね!」と言われた。
一学期が終わって産休に入った田中先生は小柄で、恐らく150㎝足らず。産休明けには他校に転籍されたので、残念ながら圭司が先生を追い越す場面は確認できなかった。
二学期に入り、担任が大橋聖子先生に代わってから一ヵ月程経った、学級会での出来事。
この学級会と言うのは、毎日帰りの時間に行われる、その日の反省会のことである。
学級委員と呼ばれる男女各一名の優等生が議長を務め、誰それがどの子に意地悪したとか、何々君が掃除をさぼってばかりだとか、ほぼ九割方、女子が男子を吊し上げる会と思って間違いない会合である。
いつもやり玉にあがるのは、所謂ヤンチャ坊主で、その連中は何を言われても慣れたものだ。ところが今回は、その対象が学級委員の西浦功(いさお)君だから驚きだ。
一言付け加えると、その日は学級対抗のドッジボール大会があり、惜しくも準優勝であった。
発言者は幸村恵子(こうむらけいこ)ちゃん。
「西浦君が人を差別するのはいけないと思います。」
「え、えっ? おれ⁈」それには、まず、やり玉に挙がった西浦君がビックリ。
続けて恵子ちゃん、「今日のドッジボールの試合で、私とか、そんなに上手くない人が失敗すると滅茶苦茶怒られるけど、上手な人が失敗すると『ドンマイ、次頑張ろう!』って言う。これって何ですか?自分は勉強も運動も出来るかも知れないけど、それが出来ない人もいます。どう思いますか?」ここまで一気にまくしたてた。
「そうだそうだ、そうだがや!」
もて男・西浦に対して、面白半分・やっかみ半分の男子の声。
「そんなことないわよ。チームが勝つ為に一生懸命なだけよ。」西浦ファンの女子の声。
喧々囂々、あちこちから声が飛んで大騒ぎ。それだけ皆の関心が高い議題だったのだろう。
西浦君、思ってもいなかった展開に動揺は隠せず、ドギマギしながらこう言った。
「俺、そんなつもりはなかったで。キャプテンだし何とか勝ちたかっただけだがや。」
恵子ちゃん「私だって勝ちたかったよ。だけど、あんな風に言われたら悲しなっちゃう。」
こういう時、必ずその内容に付いて茶化したり冷やかしたりする輩が登場するものだ。
クラスのひょうきん者でお調子者の、太田秀夫君がすかさず茶々を入れる。
「恵子、お前、西浦が好きだから、そんな風に言われてショックだったんだないの?」
それに怒った恵子ちゃん、「太田君は関係ないでしょ‼。部外者は黙ってて。」
太田君も反論「俺だって、チームの一員だぞ‼。意見ぐらい言ってもええだろ。」
議長の女子学級委員・児玉むつみちゃん登場して、ピシャリと一言。
「太田君の言ったことは、この議題とは関係ありません。余計な事は言わないで‼。」
「むっちゃん、ありがとう‼。」
親友児玉さんの言葉が嬉しくて、恵子ちゃん泣き出してしまった。
その後も学級会は紛糾して、男子は、ほぼ西浦擁護、女子は全員恵子ちゃん支援という形勢で、結論に至らないまま時間が過ぎようとしていた。
そろそろ授業時間が終ろうとした頃合いを見計らって、最後に大橋先生。
「みんなの色んな意見が聞けて嬉しかった。」
「大会では皆、勝つ為に一生懸命だったことは確認できたでしょ?」
「一つの目的の為に、皆が力を合わせることが大事。」
「その為にどうしたら良いか?気持ちを一つにするって何か?」
「西浦君の発言は、決して人の好き嫌いでのことではないと解ってあげてね。」
「西浦君も相手の身になって話すこと。」
「こう言うことは、これからもよくあるからね。忘れないようにしましょうね‼」
これ、永遠の課題。大人になった今以て、圭司はその正解を知らない。
第七話 友だち先生
昭和37年、圭司は小学六年生。前年、鳴海小には大量の転校生が入って来た。
一つは九州・福岡県からで、前年迄の三井三池炭鉱労働争議の影響で転職移住して来た家族。
もう一つは、三菱重工業が圭司達の住む長屋の裏山を切り崩して造った社宅の居住者で、両方とも貧乏長屋住まいの圭司達から見れば憧れの、鉄筋コンクリート製高層住宅だ。
その為、第六学年は一組増えて、8クラスになっていた。
クラス替えで、圭司は六年七組。担任は、山口徳治(とくじ)先生である。
山口先生は、背は低いがガッチリした体形、かなりの力自慢で、子供たちに握手を求めてはその握力で掌をゴリゴリやって、相手が「イテテテテ!」となる様子を楽しんでいた。
特にクラスの大柄な子供に対してその力を見せ付ける傾向が強く、圭司を含めて、蟹江邦夫、久野正義と前述の野球仲間・阪野真人の四人がいつも被害を受けていた。
その頃の圭司は身長157㎝。山口先生とほぼ同じで、他の三人もそんなに差は無かった。その所為か、何かに付けて山口先生は、この四人を〝目の敵〟にしていたのだ。
休み時間には、いつも相撲の相手をさせられ、投げ飛ばされていた。
何とか勝とうと、あの手この手で対抗するのだが、一度も勝てなかった。
山口先生は強かった。
そんな訳でこの四人、にっくき山口先生を何とかやっつけようとしている内に、いつも一緒に行動する仲間、同志の様な関係の親友となっていった。
先生もそれは解っていて、何かと言うと四人にちょっかいを出して、かまっていた。
当時先生35~40歳くらいだったと思うが、こんな友達みたいな先生は初めてだった。
二学期に入って、小学校生活最後の秋の大運動会も終わり、少しセンチメンタルな気分になっていたある日、四人は山口先生に呼び出されて職員室にいた。
ニコニコしながら先生は、
「知っとると思うけど、来月愛知郡の小中学校対抗陸上競技大会があるんだ。」
「その大会の学校代表選手を決めんといかんのだけど、その候補選手としてお前ら四人を推薦しといたで、明日の放課後から他の候補選手と一緒に練習に入ってくれ。」
「あと一ヵ月だけど頑張れ!」そして、こうも付け加えた。
「もし、代表になって優勝したら、林屋の〝たいこ焼き〟好きなだけ食わしたるでよう!」
「先生、ウソ言ったらいかんぞ!絶対優勝するでな!」
四人は大喜び、そして大張り切りだ。林屋と言うのは、名鉄鳴海駅前にある甘味処で、小麦粉をこんがり焼いた生地の中にアンコの入った焼き菓子、関東で言うところの今川焼(当地での呼称は〝たいこ焼き〟)が大評判。行列ができるほどの人気があったのだから、子供達が喜んだのは当然だった。
翌日から約一ヵ月間、各人の適性を見極める為、走る・跳ぶ・投げるの基本練習が行われた。
体育の授業では50㍍のタイムしか計ったことが無かったが、大会では100㍍走競技なので、初めてそのタイムも計測したし、長距離走の練習もあった。
その結果、阪野真人は百メートル走、圭司は走り幅跳びとソフトボール投げの代表に選出され、蟹江邦夫と久野正義はリレーの補欠として参加することになった。
練習では阪野は100mを13秒前半、圭司のソフトボール投げは60㍍、走り幅跳びは4㍍20まで記録を伸ばし、大きな期待を背負って大会当日を迎えた。
大会は隣町の豊明中学で開催され、小学の部100メートル走の阪野は十三秒台後半の記録で3位、圭司のソフトボール投げは五十一㍍で2位、走り幅跳びに至っては、ファウルが続き、最後の三本目にどうにかあわせての3㍍80で5位、の結果であった。
普段の記録であれば優勝できたのだが、ここ一番の気持ちの弱さが出て、悔しい負けだった。
それでも、団体戦では優勝し、鳴海小・中学の団体アベック優勝となった。
おかげで、約束通り〝たいこ焼き〟のご馳走にありつくことが出来た。
林家で腹一杯の〝たいこ焼き〟。小学校生活最後の、最高に楽しい思い出となった。
第八話 秋祭り
昭和三十年代の愛知県愛知郡鳴海町。
秋の収穫の時期になるとそれぞれの地域の神社ごとに、秋祭りが執り行われていた。
その頃の鳴海小学校では、農繁期とかお祭りで、それに関係する地域の子供は早退を許されることがあり、それに当たった子供達が、「バンチョ、バンチョ‼」と叫びながら、大喜びで下校する姿が微笑ましかった。
『バンチョ』とは〝万事調子好し〟の略語で、今風に言えば『やった!』とか『シメシメ』に該当する言葉。現在も通用するかは不明だが、当時の鳴海ではよく使われていた。
地域ごととは言っても狭い町のこと、小学生は学校が終われば地域に関係なく、祭礼のある神社に集まり、祭りを楽しんでいた。
秋祭りで忘れられないのは、猩々(しょうじょう)と呼ばれる、張りぼてのでかい人形が出現して子供たちが異常に怖がっていた姿だ。小学生未満の子供は100%大泣きであった。
猩々と言うのは、中国の伝説の生き物で、猿に似ていて人の顔と手足を持ち、人の言葉を解し、酒を好み紅毛赤面。日本では、酒呑みの代名詞ともなっているらしい。
この猩々の歴史は古く、最初に文献に登場するのは江戸時代中期の宝暦7年(1757年)。
ということは、260年以上も前から伝承されているということになる。
猩々にも格付けがあり、その最上位にランクされるのが、『あたらし』『ふるばば』と呼ばれる〝神様猩々〟。その二体?(二人?)は別格で、祭礼の際には裃を着て、町一番の由緒ある神輿のすぐ後を歩く役割を与えられていた。その他にも『一銭しゃもじ』、『ぷーれん』、『じゅうばこ』等の名前の猩々が数頭いて、子供達を怖がらせていた。
どれも伝説の容姿を忠実に再現していて、大きな赤ら顔と赤毛の長髪、派手な模様の綿入れを、竹で編んだ籠の胴体に纏い、その人形は出来ていた。中に人が入るのだが、その時は胴体を頭からすっぽり被って、猩々の胸の辺りにある覗き穴から外が見える仕組みになっていて、人が被ると身の丈2㍍50以上になった。例えると、『八時だよ、全員集合‼』の、ジャンボマックスのような感じで、片手に大きなグローブの様な手形を持って子供達を追っかけ、その尻を叩いて回るのだ。
子供達はそれが嫌で逃げ回る。小さい子は、それこそ泣きながら逃げ惑うのである。
秋田の〝なまはげ〟の人形のサイズを大きくしたもの。と思ってもらえれば、何となくその雰囲気は伝わるだろうか。
但し、〝なまはげ〟の鬼の形相とは違って、その表情はいたって柔和である。
故に、その怖さは余計に際立つのかも知れない。
その頃には伝統的なものとは別に、各村落で作られた新しい猩々もあって、その中では、『キューピー』と呼ばれた、ぽっちゃりした顔つきの可愛らしい一体が印象に残っている。
小さい子供は怖がるが、小学生高学年ともなると、中に人が入っているのが判っているので、「猩々のバカやあい!」と囃し立て、わざと追いかけさせて鬼ごっこを楽しむものもいる。中にはお尻をまくってペンペンしながら「バカやあい!」とからかう子供もいる。
今も続いていると思うが、楽しいお祭りであった。
圭司たちの村落のお祭りは、毎年十月十日・十一日の二日間。
その近辺の氏神様『成海(なるみ)神社』の秋の祭礼である。
各村落の子供たちが、お神輿や獅子舞で行列を作り、成海神社まで練り歩くのだ。
お神輿とは言っても、前述の神様猩々が付くような由緒あるものではなく、町内の子供会で造った、所謂『子供神輿』である。
お神輿は男子、獅子舞は女子の受け持ちで、村落のお金持ちが作った猩々も一体参列した。
「ワッショイ!」シャン・シャン。「ワッショイ!」シャン・シャン。
「ワッショイ!」は子供たちの可愛い掛け声。〝シャン・シャン〟は鈴の音である。
各地のお祭りでよく聞くところの、ピッチの早いハイテンションの掛け声ではなくて、どちらかと言うとスローテンポで、何とも盛り上がりに欠ける掛け声だ。
成海神社までの練り歩きの途中に、この祭礼に参加している別の村落の行列に出くわすと、九分九厘の確率で喧嘩が勃発した。お祭りと言えば、欠かせないのが、この〝喧嘩〟。
特に喧嘩をしなければならないと言う決まりがあってのことではないのだが、どちらが先に行くとか、そっちがぶつかっただの、そっちが先に手を出しただの、他愛のないことに、何かと言いがかりをつけて喧嘩が始まるのだ。
毎年のことなので、いい加減反省して折り合いを付ければいいと思うのだが、これを楽しみにしている威勢のいい子供もいて、いつも村落対抗のチーム戦模様を呈してくるのだった。
喧嘩と言っても子供同志のこと、声を荒げて手を出してもせいぜいひっかき傷程度で大怪我に至ることはなく、ひとしきり騒いだところで大人が出て来て収まる。というパターンだ。
男子は粋がって前へ出たがるが、女子は『また始まったか・・・。』と、冷めた目で静観。
騒ぎが収まると『ほら、大したことなかったでしょ。』と、したり顔で再び行列に加わった。
この様な、男女のテンションの差は、大人も子供も今も昔も変わらないものなのだろう。
昭和37年。その年のお祭りで、事件は起こった。
最上級生の圭司は、近所のお金持ち、加藤さんが作った猩々を被って行列に参加した。
先頭が男子の担ぐ神輿、次に女子の六年蒔田陽子ちゃんが頭を被り、唐草模様の胴体に女子数名が摑まり鈴を鳴らしながら進む獅子舞、最後尾が圭司の猩々である。
成海神社に近付くと、例年通りのイザコザが始まった。
『始まったか。』猩々の覗き穴から様子を窺ったのだが、何だかいつもと雰囲気が違う。
行列の前の方で大声が聞こえた。大人の野太い声で
「何だ、おみゃあ。何じろじろ見とる。そんなに俺が珍しいか!」どこかで聞いた声だ。
猩々姿のまま慌てて止まっている先頭に行ってみると、同学年で隣の組の稲村進がいた。
実は彼、同級生より三年年上だが、病弱の為、入退院を繰り返し、この年六年に編入されたばかりで、本来であれば中学三年生である。体は小さいが声はもう大人だった。
症病名は分らないが何らかの障害らしく、身長は1㍍にも達していないが頭部の発達のみ著しい異形の持ち主で、それを見て〝仮分数〟と揶揄する不届き者もいたのだ。
そんな彼を、我がグループの下級生が見て、笑ったと言うのだ。
その張本人は三年生の椎野誠。父親の転勤で東京から4月に転校して来たばかりであった。
稲村の勢いに押されて、もう涙目だ。
「ぼく笑ったけど馬鹿にしてないよ。ニコってしただけだよ。」必死の弁明である。
「スーちゃん(稲村進のこと)、許してちょう。悪気は無いと言っとるで。」
圭司も、猩々を脱いで調停に入る。
「いーや、こいつは嘘ついとる。俺には判るんだ。圭ちゃんは引っ込んどれ。」
稲村進も余程腹に据えかねたらしく、頑なな態度を見せた。
これまで生きてきた中で、そんな視線は何度も感じて来たのであろう。
その度に積み重ねてきた〝我慢〟が一気に噴き出したような、そんな怒りの形相であった。
相手が東京からの転校生で、何となく気取った言葉遣いと、こ洒落た服装だったのも癪に障ったのかも知れない。今でもそうらしいが、名古屋人は東京と大阪には妙な〝ライバル意識〟或いは〝劣等感〟の様なものがあり、彼らを必要以上に意識しすぎる嫌いがあるのだ。
「許せ!」「許さん!」そんなやり取りが何回かあった後、一人の男子が口を挟んできた。
「圭ちゃん、どっちでもええがや! さっさとこの子に謝らせて前に行こまいか!」
圭司と同じクラスで、稲村進と同じ村落の・荒木忠義だ。
その頃よくやっていた、放課後の三角ベースの、草野球仲間である。
彼は普段から稲村に付き添ってよく面倒を見ていたので、進の我慢をよーく分かっていた。
「この子だって少しはスーちゃんを笑ったんだから、気持ちはどうでも謝ってもええがや。」
「たー坊(忠義のこと)こそ黙っとれ。これは俺とスーちゃんの問題だがや!」と圭司。
『カチーン』ときた忠義、「なにい!俺だってスーちゃんのことは一番分かっとるんだぞ!」
「なにを!」「この野郎!」
お祭りの高揚感と相まって興奮した二人は〝組んづ解れつ〟取っ組み合いの大喧嘩である。
稲村進と下級生・椎野誠の問題が、いつの間にか同級生・友達同士の取っ組み合いにすり替わってしまっていた。
喧嘩の発端の二人は、あんぐりと口を開けて眺めるしかなかった。
流石に年上の稲村は、二人を止めに入った。もう一人の張本人、誠は泣きじゃくるばかりだ。
元はと言えばこの喧嘩、稲村進ことスーちゃんが怒りだして始まったもので、その本人が止めに入ったのでは続ける理由もなく、間もなく収まりは付いていった。
それでもスーちゃんは、自分の為に争っている二人が嬉しくて、嬉しくて、
「圭ちゃん・たー坊、ありがとう! このことは絶対忘れんぞ!」
圭司と忠義、それにスーちゃんも併せて三人で大号泣。
下級生も含めた四人の涙の中で、小学生生活最後の秋祭りは、終焉を迎えた。
スーちゃんとたー坊そして圭司の三人はそれを機会に親友となり、卒業後鳴海中学に進む。
特に、たー坊とは同じ野球部で3・4番コンビを組むことになり、中学卒業後もチームは違うが高校・社会人と、野球の道を追い求めて行くことになる。
スーちゃんのその後も気になるところではあるが、この項では中学校卒業までは一緒だったことに留め置き、その後日談はまたの機会に譲ることとしよう。
第二章 家族とその暮らし
第一話 松山家の人々
その当時(昭和三十年代初頭)は、前述の通りまだまだ戦後の復興半ばで、一部大企業に勤務する会社員や公務員、地元の有力者以外は、ほとんどが貧困家庭で、松山家もご多聞に漏れず、『今日・明日の飯が、ちゃんと食べられるかどうか?』の心配が先ず一番に来るほどの貧乏であった。
一家の主、松山清八(せいはち)は明治四十四年生まれで、高等小学校卒業後名古屋市中川区松重(まつしげ)町にある〝松山材木店〟に丁稚奉公に入ったのだが、その家の長女、松山(慶子(けいこ)に見初められ、当時としてはごく希な〝恋愛結婚〟で、養子縁組となったのだ。旧姓は〝久野(くの)〟といった。後年の話であるが、清八は「わしゃ、養子だでよ~。」が口癖で、慶子は「爺ちゃんは昔、ゲーリー・クーパーみたいな好い男でねえ。」と、自慢げに語る、結構仲の好い夫婦であった。
そんな仲良し夫婦に子供は五人。(六人誕生するが、一人は一歳を待たずに病気で早逝。)
長女は清美(きよみ)。昭和十一年生まれで、その年、父・清八は二十四歳、慶子十九歳の若さであった。
後年、圭司達兄弟姉妹は、叔母(慶子の妹)に聞いてその事実を知ることになるのだが、どうやらこの長女・清美の妊娠が判明しての、養子縁組だったらしい。
叔母は、母からは口止めされていたのだが、子供達も成長して孫も沢山出来て『もう、時効。』と言うことで話してくれたのだ。
それを聞いたのは、圭司が40歳を超えた、父・清八の葬儀の時であった。
今で言うところの〝できちゃった結婚〟。慶子の両親も従う他はなかったのであろう。
次女は日菜子(ひなこ)昭和十五年生まれ。三女の美乃梨(みのり)は昭和十八年生まれだ。
三女・美乃梨誕生の一年後の、昭和十九年十二月から終戦まで、六十回以上にも及ぶ米軍大空襲により〝松山材木店〟は跡形もなく焼失し、彼女らの祖父母もその犠牲になった。文字通り〝命からがら〟〝着の身、着のまま〟で、名古屋の中心地から田舎町『鳴海(なるみ)』へ、落ち延びたといった体であった。
昭和二十二年に長男・裕之(ひろゆき)が誕生するが、一歳の誕生日を待たずに肺炎で早逝。
その時はまだ金銭的に余裕があったらしく、当時の治療薬としては高価なペニシリンを、医師の薦めで大量投与し、長男を死なせてしまう。
一歳未満の乳児にペニシリン大量投与とは、現在なら医療事故に相当しかねない事である。清八は後々までこの件で、自責の念に苦しむことになる。
たまに酒を飲んで酔って帰った清八から、その愚痴をよく聞いた覚えがある。
「あのヤブがペニシリンで裕之を殺しやがった。奴は〝河合又五郎〟だでよう!」
この治療に当たった河合医院の姓を〝荒木又右衛門・鍵谷の辻の仇討ち〟の敵役になぞらえて、かの医師を『河合又五郎(〝また殺し〟の洒落)』と呼んで恨み続けたのだ。
その清八の最期が、後に町一番の大病院となる、河合医院改め鳴海病院の一室であったことは、何とも皮肉である。
昭和二十五年次男・圭司、二十七年三男・龍男誕生。
こんな風にして松山家は形成されていった。
圭司が生まれた時、長女清美は十四歳であった。圭司を背負って母の手助けをしている際に、弟の妊娠を聞いた時、母親に言ったそうだ。
「全く! 恥ずかしいで、もうええ加減にしてちょうせ‼」
何となく、解かる気はするエピソードではある。
第二話 貧乏暮らし
そんな家族七人が、六畳二間平屋建ての長屋で暮らしていた。
兎に角、食べるにしても寝るにしても〝大騒ぎ〟で、貧しい暮らしではあったが、『♪狭いながらも楽しい我が家~♪』の歌を地でいったような家庭であった。
ここからは、貧乏エピソードのオンパレードになる。
落語の『寿限無』ではなないが、〝食う・寝るところに住むところ〟の話から入って行こう。
松山家は、三軒続きの長屋の真ん中に位置し、東隣がヤコちゃんの栗田家、西隣がきょうこちゃんの光崎家である。
勿論〝借家〟で、家賃に関する記憶は不確かだが、その見た目から言っても、当時の最低レベル、恐らく月二~三百円程度であったと思われる。
その家賃が滞納の連続で、大家からいつも文句を言われて、本当に申し訳なさそうに謝っていた母の姿を、圭司は幼心に覚えている。
そんな訳で、大家の不興を買い、家の修復もままならず、雨漏りは当たり前で、建て付けが悪くて玄関の引き戸を開けるのに、いつもひと苦労する。文字通りの〝あばら家〟である。
その玄関の上り口に、二畳ほどの廊下の様な板の間があり、その奥が台所。左側に六畳二間が縦に配置され、更にその奥、左が便所、右が風呂場といった間取りである。
その長屋の裏の、狭い庭に物干し台が置かれ、空いた場所で、それぞれの家ごとに若干の野菜や草花を栽培していた。
生活用水は、長屋共同の井戸から汲み上げた水を各家庭の水瓶に溜め置きし、柄杓で掬って飲み水や洗い物に使用するという、まるで時代劇で見られるような光景が、当たり前に繰り広げられていたのだ。この水廻りの仕事で最も大変だったのは、風呂の水汲みである。
この作業は、子供達総出で行うのが常であった。当時の貧しい家庭では、今の様に毎日風呂があるということはなく、たまの休みの夕方に、父が薪割りして風呂焚きの準備をし、母が夕餉の支度をして、その間に子供たちが水を運んで風呂桶に入れる。という段取りであった。
共同の井戸でバケツに汲み上げた水を、自宅の風呂まで運んで入れるのだが、結構距離がある上に、風呂桶の高さもあって、非力な女子供にとっては思いのほかの重労働である。まだ小さくて風呂桶に水を入れることが出来ない弟二人が、井戸のポンプを押して水を汲み上げ、姉達が交替で運ぶ作業が繰り返されるのである。姉達は、この作業を知り合い(特に男子生徒)に見られるのが嫌だったようで、同級生が通り掛ると、隠れたり作業の順番を入れ替わったりの大騒ぎであった。
圭司が小学三年の昭和三十四年の伊勢湾台風の時には、水道が通っていたような記憶があるので、この作業は一番下の姉・美乃梨が十六歳になる迄続いたことになる。
思春期真っ只中の、乙女の恥じらいが垣間見えるエピソードではある。
続いては〝食う、寝るところ〟の内の『食』に付いて。
兎に角、お金がなくて、今日明日のご飯が食べられるかどうか?の心配が、先ず一番にやって来る、と言う暮らしぶり。少しお金が入ると、圭司は近所のお米屋さんに米一升を買いに行かされた。一升128円であった。
未だ幼かったので、当時のシステムは把握していなかったが、普通の家庭は、お米をそんな風に細かい単位で買うことはなかったようで、そのお使いの途中で近所の河合病院次男で同級生の河合博や、その他の同級生に偶然会った時言われて、初めて知った事実であった。
河合家や他の家では、お米屋さんが届けてくれるらしい。
そんな訳で、少しの米を七人家族で分けて食べるのだから、まともな白飯は出てくるはずもなく、良くて芋粥か、松山家では〝だんご汁〟と呼ばれる、いわゆる〝すいとん〟である。
裏の山では、蕨、ゼンマイ、野原で土筆等の野草を摘み、近くの小川へ行けば、いつでもバケツ一杯程のシジミが採れたので、それを毎日のおかずにするという生活だ。
その他には、近所に住む〝田んぼの加藤さん〟と呼ばれるお百姓さんが、畑の肥料用に定期的に便所の汲み取りに来て、その代金替りに置いていく薩摩芋も貴重な食糧。秋の稲の刈入れ時期には、それが藁の時もあり、それで焚火をして焼き芋を作り、藁を焼いた灰は、火鉢や炬燵の炭床にしたものであった。
今では全く見られなくなった、日本の伝統的風習、立派な〝エコ文化〟であろう。
〝寝るところ〟に付いては、推して知るべしで、そんな狭い家に七人暮らし、プライバシーなんてものは存在するはずもなく、六畳二間に四組の布団。玄関側の部屋には父と圭司、母と弟の二組。台所側では次女と三女が同じ布団に寝て、いつも「あんたの脚が邪魔だ。」とか「寝相が悪い。」とかで揉めていた。そして長女だけが布団一枚を一人占めで寝ていて、次女と三女はいつも羨ましがって、「何で、姉ちゃんだけ?」と文句を言っていた。
尤もその頃には、一番上の姉は既に就職して家計を助けていたので、誰も文句を言えた義理では無いのだが・・・。
長女と圭司とは十四歳、直ぐ上の三女でも七歳もの歳の差で、下の弟二人は全くのガキ扱い。
その扱いは、何年経っても変わらず、恐らく命尽きるまで継続されるのであろう。
親子・兄弟姉妹の関係とは、そんなものだ。
次は、少し切ないエピソード。その当時はまだテレビは普及していなくて、子供向けの娯楽としては、ラジオと紙芝居が主流であった。二~三日に一度、紙芝居屋のおじさんが自転車でやって来て、人寄せのデンデン太鼓をドーン!ドーン!と打ち鳴らすと、それを待ちかねていた子供達が五円玉・十円玉を握りしめて、満面の笑顔と共に駆け集って来るのだ。
子供達はその五円・十円で、練飴や煎餅等の駄菓子を買い上げ、その対価として、紙芝居屋のおじさんが自転車の荷台で、その頃人気の〝黄金バット〟や〝鞍馬天狗〟等のヒーローものを大袈裟に語り上げるのだが、それは、当時の小学生以下の子供達にとって、無くてはならない楽しみの一つであった。
ところが、その五円・十円の金が、当時の松山家には無かったのだ。子供達、と言ってもその頃松山家でそれに該当するのは、小学校低学年の圭司と龍男だけだが、幼い二人はやっぱりそれが見たくて、人込みに紛れてこっそり見ていたのだ。それをやはりこれも幼い、近所のケンちゃんやアキちゃんに「只見(ただみ)、只見!」と囃されて、泣きながら帰ったことが度々あったのだ。〝只見〟とは、お金を払わず紙芝居を見る〝無銭拝観〟の事である。
ケンちゃんやアキちゃんに悪気は無く、ただ囃し立てることが面白いことと『只見は駄目!』と言う、子供らしい〝正義感〟から出た行為だ。
そこで母・慶子は、紙芝居のデンデン太鼓の音がすると、二人を近くの池や小川、裏山に連れ出し、散歩ついでに食料になるツクシやワラビ等、野草の摘み取りで、時間潰しをして紙芝居終了を待つ、ということが常となっていた。
当事者の兄弟は、母ちゃんと一緒に遊びながら、ツクシを採ったり野イチゴを摘んで食べたりで、それはそれで結構楽しかったのであるが、母親としては、たった五円・十円の紙芝居を子供に見せられない情けなさで、やりきれない日々であった。
圭司がその話を初めて聞いたのは、中学生になってからで、酔っ払って帰宅した父・清八が、当時反抗期で父親に対して目も合わせない息子に、涙ながらにこのエピソードを聞かせ、「全部俺の不甲斐なさ。母ちゃんは何も悪ないがや。母ちゃんだけは大事にせないかんぞ!」それを聞いて圭司も大号泣。
清八も慶子も、後々その頃の話をすると、必ず涙になった。
何故、そんなに貧乏だったのか?圭司は日曜も働く父に時々職場に連れ出され、堀川と呼ばれる運河で、筏に組まれた材木に乗って働く様子を見ていたので、『あんなに一杯仕事しとるのに?』と、子供心にずっと不思議だったのだ。
どうやら、人の好い父・清八は、戦友の頼みを断り切れず借金の保証人となり、その所為で『働けど働けど、我が暮らし楽にならざり。』という状況に陥ってしまっていたようである。
但し、その戦友とはその後も付き合いは続いたようで、後々名古屋では名のある建築会社を築き上げるその友に、逆に助けられることになる。
人の好さ、誠実さも、時には報われるものである。人生、そうでなくては・・・‼
第三話 伊勢湾台風
昭和三四年、圭司は小学4年生。
その年の九月二六日午後六時過ぎ、後に伊勢湾台風と呼称される台風一五号は、紀伊半島の潮岬に上陸した。
その数時間前、圭司は、近所の田んぼの稲穂が、その台風の影響の強風に吹かれて波のようにうねる様子を、ワクワクしながら眺めていた。
何故か彼は、台風の強風が大好きで、いつもこの季節はこうであった。
周りでは、来るべき台風に備えて、雨戸の外側から洗い張り用の板を押さえ付けて、それを家本体に打ちつけ補強したりする大人たちが、右往左往していた。
そんなお祭り騒ぎの様な風景も、圭司の気分を更に高揚させていた。
「圭ちゃん、早う家に入りゃー。今度のは、デカいらしいでよー。」
近所のおじさんに促されて、もう少し風に当たっていたいところではあったが、渋々圭司は帰って行った。
帰り着くと、雨戸も全て閉まっていて、夕餉の支度もそろそろ終わるころになっていた。
父・清八も、その日は仕事を早めに切り上げて六畳間のお膳を前に、中日新聞を読みながら、好きな煙草を燻らせていた。今は全く見られなくなった、両切り煙草『しんせい』である。
愛煙家の父には、その匂いが染み付いていて、いつも玄関に入っただけでその存在が分かるほどであった。尤も、家が狭過ぎることもあるのだろうが。小さい頃の圭司は、何故かその匂いが好きで、常に父の傍を離れなかったのである。
夕飯も終わり、当時の台風時の常として停電用の蝋燭を何本か用意して、眠りに付こうとしていた。八時か八時半頃であろう。今と違って夜は早い。テレビが普及してからは十時なんてのは宵の口と言うことになるが、その頃の子供は八時頃就寝が普通、十時は真夜中で、年末の紅白の時くらいしか起きていることはなかった。そんな感じの時間帯である。
風の音が変わって来た。雨の叩き付ける音も、尋常ではないように思えた。そして、停電。
父はすぐに蝋燭に火を点け、家族を一部屋に集めた。
「この風はいつもの台風とは違うぞ。みんな、寝間着でなくて、いつでも外に出られる格好にして、布団もしまって一箇所に集まれ。」
真っ暗な中、蝋燭の火を頼りに体を寄せ合って、家族は一つになった。
『ブオー、ブオオー、ブオオー。』唸るような暴風の音。
『ピシッ!ピシッ!ピシッ!ピシッ!』叩き付ける強烈な雨の音。
それに怯えて、姉達は震え、弟は泣き出していた。
そうこうしている内に、皆が集まった六畳の部屋の雨漏りがひどくなり、そこを退出。
止む無く全員その奥の、もう一つの六畳間に移動することになった。
ところが強風で、雨漏りしている部屋の雨戸が、ガタ、ガタ、ガタ、ガタと妙な音を立てて、今にも吹き飛ばされそうな感じになってきた。
それを見た父・清八は『この雨戸がなくなったら、風が部屋に吹き込んで、屋根諸共に家が無くなる。』と思ったのだろう、雨に濡れるのも構わず、その戸を内側から抑えにかかった。台風に備えて早めに帰った清八が、前述の通りの方法で、雨戸補強済みなので、並の台風ならそんな必要はないのだが、今回の雨風は桁違いのようだ。
狭い家なので、戸は二枚。父はそれを、両手をいっぱいに広げて一人で抑えようとしていた。この雨戸を吹き飛ばすほどの強風が来たら、一人の力では抑えきれるわけは無いと解ってはいたが、『家族を守る!』の一念が、清八の無謀な行動の原動力となっていた。
トランジスタラジオも無い時代なので、停電になれば情報は皆無の真っ暗闇である。
未だ嘗て経験のない巨大台風に襲われ、暗闇に蝋燭の灯りだけが頼りなのだが、その灯も文字通りの〝風前の灯火〟で、不安だけが家族を押し包んでいた。
そんな中、圭司は父の必死の姿に感動を覚え、幼心にも〝男〟としての自覚が芽生えていた。
周りを見れば、母は弟をかばい、姉達は固まって震えている。
突然立ち上がり、圭司が叫んだ。「父ちゃん、俺もやるでよう!」
言うが早いか清八の隣に駆け寄り、片方の戸を抑えに入った。
「お、おう!」 父もそう応えるしかない。
清八は清八で、健気な我が息子に、違う意味での感動を味わっていた。
それを見た母・慶子。娘三人に指示を飛ばす。「清美、一緒にいりゃあ(来なさい)! あんた達二人は龍男の面倒見とりゃあ(見てなさい)!」
母と長女は、父と息子の応援に入り、四人でずぶ濡れになって、雨戸を抑える作業に就いた。
次女・日菜子と三女・美乃梨は交替で末っ子の面倒を見て、その合間に雨戸抑えの合力。
こうして家族一丸、最低気圧895hPa・瞬間最大風速75m/sを記録し、五千人以上の死者・行方不明者を出した、未曽有の巨大台風に立ち向かっていったのである。
一時間程で嵐は去り、雨漏りのあった屋根の隙間からのきれいな星空を家族全員で眺めていた。もう三十分、いや十分程度台風が滞在すれば、恐らく松山家の屋根は吹き飛び、この物語の主人公である圭司が、その後存在し得たかも怪しい状況であった。
松山家の棲家のある鳴海は、いわゆる〝山の手〟で、水による被害は殆んどなかったのだが、海に近い天白川河口付近では、満潮と台風の上陸が重なって高潮を呼び込む結果となり、甚大な被害を被ったのである。
後日高校生になった圭司は、同級生で被害に遭った、その地域の友人に当時の話を聞いた。
小学校の校庭に、蓆を被った犠牲者の遺体が累々と並べられ、その異臭が漂う中、遺体を探す家族の姿、そして肉親を見つけた時の、何とも言えない叫び声と嘆きの言葉。
生涯、忘れられない光景であると。
第四話 フラフープ
もう一つ、三年生の頃の思い出としては〝フラフープ〟がある。
当時このフラフープは大流行で、やり過ぎて腸捻転になる人が続出し、たびたび新聞の社会面を賑わせていた。
実はこのフラフープ、この一年前の昭和33年の大流行で、我が家でも欲しくて欲しくて仕方なかったのだが、何せ貧乏でそんなものを買う余裕は無く、圭司・龍男兄弟はいつも友達の物を借りて、肩身の狭い思いをしながら楽しんでいたのだ。ところがブームが去るのは早いもので、前述の腸捻転騒ぎもあり、その一年後には誰も見向きもしなくなっていた。
清八父ちゃんが、お勤め帰りに通り掛る、町役場前にある木村スポーツ店では、在庫処分のバーゲンセール真っ最中で、半額以下或いはもっと安値での購入も可能になっていた。
そこで清八父ちゃん、圭司・龍也の兄弟を呼んで大張り切り。
「フラフープ、買ったるぞ。」と言ってきた。
夏休み真っ只中、ちょっと蒸し暑い夜の夕食後に、夕涼みをしていた時のことである。
兄弟二人は、友達から借りてやっていたし、もう流行ってもいないので、『どっちでもええがや。』とは思っていたのだが・・・。
一年越しの夢をかなえてやろうと言う父ちゃんの気持ちを察して、付き合うことにした。
いつの世も、子供の流行り廃りに、大人は疎いものである。
そして清八父ちゃん、二人を連れ出し夜の町へ。15分程の、男三人の道行きである。
久し振り?と言うより、恐らく初めての男三人での〝お出掛け〟だったであろう。
狭い家での大家族暮らし、子供ながら〝男同士の話〟が出来て、圭司は嬉しかった。
程なく、木村スポーツ店に到着。
バーゲンセールのフラフープ、一年越しで待望の〝ゲット〟だ。
その帰り道、自宅近くの路地裏には入って、得意げにフラフープを手にした清八父ちゃん。
「どうだ、やってみろ!」
二人はもう何回もやっているので慣れたもの、上手にフラフープを操って見せた。
それを嬉しそうに見ていた清八
「ちょっと、やらしてみ。」と、フラフープを手に取った。
そして二人の真似をして、回そうとするのだが、全然上手く回せない。
何度も何度も挑戦する、その腰つきが滑稽で、二人は転げまわるほどの大笑いだ。
一年遅れのプレゼントだったが、父の一生懸命な姿と可笑しさが、忘れられない夜になった。
第五話 テレビ
翌・昭和三五年、圭司は四年生。
この年のトピックスは、松山家に待望のテレビが入ったことだ。
今も忘れない十月二十日の木曜日夕方、電気屋の加藤さんがやって来た。
三年生の時の同級生、加藤和義(かずよし)君のお父さんだ。
彼も阪野寛君や河合医院の息子・博君同様、圭司に米の小口買いに付いて、不思議そうに指摘した、クラスメイトの一人である。
搬入されたのは、ビクター製の14インチテレビ。景品として、お馴染みのビクター犬の置物も付いてきた。配線工事の後、室内アンテナを設置して、待望の〝スイッチオン〟。
今と違って徐々に画像が映り出て来るシステムで、何秒か後に、漸くはっきり見えてきた。
「おう!」「ホエー‼」「そうか、そうか。」あちこちから驚嘆の声が飛んでいた。
何だかんだ説明を受けて、引き渡し終了。漸く松山家にもテレビジョンが来た‼。
八時三十分からNHKの『お父さんの季節。』これが、圭司の最初に見たテレビ番組。
榎本健一(エノケン)、渥美清に黒柳徹子。懐かしい。
貧しくて、友達や近所の家を訪ねて遠慮がちに見ていたテレビ。
当時はそれが当たり前で、お金持ちの家に近所の年寄りや子供が集まって、普通に相撲中継を見たりしていたものだった。
しかも、お茶菓子付きである。千代の山・栃錦・若乃花、その技に憧れた子供たちが、それを真似て相撲を取っていた。
前述の相撲大会でのうっちゃりも、そのテレビで見てファンだった、栃錦の影響である。
圭司・龍男の兄弟、相撲以外は見せて貰えないこともあって、泣いて帰ったこともあった。
そんな時は「男のくせに、そんなことでメソメソするな!」と、父ちゃんのゲンコツである。
父・清八も情けない思いでの鉄拳制裁だった筈だ。
テレビが入ったお陰で、極端に減ったことがある。
それは、中日球場でのプロ野球観戦だ。
外野席で入場料は安いとは言っても、そこは『ちりも積もれば何とやら?』で、
愛知県では全試合中日戦の中継が有るので、その点では経済的にも大助かりである。
テレビは入場料無し。しかも、ネット裏の特等席である。
父ちゃんは、必ずナイター中継にかじりつきで、テレビの放送時間が切れるとすぐラジオ。
その所為で母ちゃんまでもが、中日ファンになってしまった。
スイッチを入れても中々画像が映らない、あの待ち遠しい感覚。
チャンネルを〝カチャ、カチャ〟回す、あの感触。
そして、歌舞伎の舞台の幔幕を思わせる様に、テレビの画面を仰々しく覆うカーテン。
どれもこれも、家族全員の宝物であった。
第六話 事件
昭和三五年、一番上の姉、清子は二十三歳である。
その頃、時々我が家を訪ねて来て、圭司や弟・龍男を可愛がってくれる若者がいた。
名を〝山森精一〟と言う、二十代後半の、背の高い爽やかな感じの青年であった。
彼は、しばしば圭司達兄弟を連れ出し、近くの山へ行ってはセミやクワガタ等の虫取り、池では石投げでの段飛びを競ったりして楽しませてくれたものだから、二人共すっかりファンになってしまっていた。
そんな日々が何日か続いたある日、彼の会社の草野球チームが試合をするというので、姉・清子と一緒に、兄弟そろって観戦ということになった。
山森は、そのチームの中ではリーダー格だったらしく、監督としてチームを率いていた。
その為、最初の内は試合には出ていなかったが、テキパキと指示したり、選手を鼓舞したりする姿は、既にファンになっていた幼い兄弟には、かなり格好良くまた頼もしく写っていた。
それに更に追い打ちをかける場面がやって来る。
追いつ追われつの接戦で試合が進んでの最終回。
得点は3対4の一点差、二死一・二塁のチャンスである。
そこで「代打山森!」自ら主審に告げての〝真打登場〟である。
もうその頃には、清八父ちゃんに連れられて何度も中日球場に通っているので、この場面がいかに重要なのか、幼いながらも兄弟二人は充分理解していた。
「かっとばせ!山森‼。かっとばせ!山森‼。」
二人とも、ありったけの声を張り上げての大声援だ。
「山さん、頼んだぞ‼」
「山森さん、打ってー‼。」
チームメイトも、応援に来ていた女子社員も大騒ぎ。
清美姉ちゃんは、両手を合わせて祈っている。
皆が固唾を飲んで見守る中、何と山森、逆転の二塁打。走者一掃のサヨナラ勝ちである。
それには幼い兄弟、痺れた! 皆と一緒に狂喜乱舞。憧れに、とどめを刺されてしまった。
『こんなお兄ちゃんが欲しい!』幼い弟二人の、正直な心の声である。
草野球とは言え、サヨナラ勝ちは気持ちいいもので、その後の大宴会は大いに盛り上がった。
圭司と龍也にとっては初めての、大人の集まり〝宴会〟。
そのお陰で、美味しいご馳走をたらふく頂いた兄弟二人。
山森の後輩社員の余興もあって、忘れられない楽しい一日となった。
その後も彼は、度々我が家を訪れ、夕食や一家団欒を共にしたりしたものだった。
そんな二人の結婚は〝時間の問題〟と家族の誰もが思っていた。
そんなある日、事件は起こった。夏の暑い夜だったと記憶している。
いつもの時間になっても帰らない清美を心配して、父・清八は自転車で駅まで迎えに行こう、ということになった。
当時の田舎のことで当然街灯もなく、暗い夜道でけしからぬ輩がけしからぬ事件を起こすことが度々あったので、男親としては当然な行動である。
家を出ようと自転車にまたがった時、行き先の方から自転車のランプの灯りが見えた。
『もしかしたら清美?』そう思ってじーっと目を凝らした。
案に相違して、それは駐在所のおまわりさん、太田巡査であった。
現在であれば、何かの時には〝携帯電話〟であろうが、携帯はおろか固定電話もまれな時代。
緊急連絡は、電報か近所のお金持ちや駐在さんの電話を拝借しての〝呼出電話〟しかない。
その駐在さんが、何かを伝えにやって来る。『ただ事ではない!』清八は直感した。
「松山さん、落ち着いて聞いてください。」太田巡査は切り出した。
「清美さんが、名古屋の市立大学病院に運ばれました。詳しいことはまだ分かりませんが、睡眠薬で服毒自殺を図ったようです。たった今、管轄の警察から連絡がありました。定期券の住所から、この駐在所を割り出して電話して来たようです。」
清八「・・・。」声も出なかった。
『兎に角、先ずは落ち着こう!』それだけを想って、太田巡査と家に入った。
家では、一〇時を遠に過ぎていたこともあって、幼い兄弟は既に夢の中である。
その中で、太田巡査の経過報告が行われていった。
聞いている途中で、多感な姉妹二人はもう嗚咽を洩らしていた。
取るものも取り敢えず、両親は姉の着替えと共に病院へ駆けつけた。
担当医の説明によれば、胃をしっかり洗浄してあるので命に別状はないとのこと。
『まずは一安心!』ではある。
そこには清美の恋人・山森と、その親友・高村靖男(たかむら・やすお)が来ていた。
二人とも名古屋地区の会社の労働組合の若手構成員で、清美もその一員であった。
彼女は名古屋駅近くにある〝日本陶器(ノリタケ)〟組合事務所の事務員で、清八の弟である叔父・久野福造(くの・ふくぞう)が、その組合長を務めていた。
その伝手での、いわゆる〝縁故入社〟である。
三人とも会社は違うが、それぞれの組合で中枢を担う〝若手有望株〟であった。
労働組合を通じての集まりの中で、〝同志〟としての会合を重ねる中で〝恋愛〟に発展していくことは、当時の若者としては自然の流れであった。
実は高村も、清美には好意を持っていたのだが、親友の彼女と言うことで諦めた経緯がある。
ところが〝若手有望株〟であるが故に、職場の人間関係或いは、恋愛関連で諸問題が発生することが多いのも、これまた否めない事実ではあった。
清美の恋人・山森は、前述の通り長身痩躯の爽やか男子で、ご多聞に漏れずもてた。
会社でも、若手有望株として将来を嘱望される逸材であった。
それでも清美が好きで、恋人として二年以上、家族とも一年程付き合い、結婚直前であった。
そんな時に、勤務先の社長から呼び出された。勤務先近くの居酒屋である。
社長は、おもむろに切り出した。「山森、今日は真面目な話だ。心して聞いてくれ。」
いつもは朗らかで冗談が多い社長が、少し堅い表情であることに山森は不安を感じた。
「娘と結婚して欲しい。そして、出来れば婿養子に入って欲しい。」
自分が見込んで育てた若者に一人娘を嫁がせ、会社の未来まで託そうというのだ。
「ちょっと待ってください。」正直、彼は困った。『迷惑!』とさえ思った。
しかし、若い頃から世話になり、自分をここまで育ててくれた恩人の願いでもある。
打算的に考えれば、将来は〝社長〟の最有力候補と言うことである。
彼は迷った。考えに考えた。そして、親友の高村にも相談した。
高村は言った。「お前が悩むのは解る。だが、清美さんのことはどうなんだ?無責任なことは言えないけど、好きなら後悔しないようにって、俺は思うけど・・、最後は自分で決めろ!」
山森が出した結論。それは〝清美との別れ〟であった。
そして、親友の高村にその伝達者としての役割を託したのである。
高村にしてみれば迷惑な話である。
「おみゃあは、たわけか?こんな話、何で俺がせないかんのだ。」
怒って当然の話である。「おみゃあはそんな卑怯者だったか?見損なったぞ!」
山森は、『本来、これは自分で伝えなければならない。』と言うことは重々承知していた。
しかし、これをちゃんと伝えることに全く自信が持てなかった。
会って顔を見れば、間違いなく愛しさが募り、冷静でいられるわけがない。
それほど清美を、愛してはいたのである。
親友の苦しい胸の内と、その想いを察知した高村は、已む無くその役割を了承した。
後日、高村は名古屋市内の喫茶店に清美を呼び出し、この件を話した。
それを聞いた時の清美の衝撃は、計り知れない物があった。
うつむき、ただその小さな肩を震わせて泣きじゃくるばかり。
まるで、一生分の涙と嗚咽がその全身を包み込んでいるような、何とも哀れな佇まいの二十三歳の娘の姿がそこにあった。
慰める言葉もなく、ただそれを見て何故か罪悪感に苛められる〝高村靖男〟もそこにいた。
そんな経緯があって後の〝清美服毒自殺未遂事件〟であった。
第七話 姉の嫁入り
先の自殺未遂事件から一年程経過した夏の或る日、何故か松山家に、かの〝高村靖男〟が来訪していた。七月の日曜日の夕方である。
前日の夜、例によって下の男兄弟二人が寝てから、長女清美が両親に切り出した。
「明日、ちょっと会って欲しい人がいるんだけど・・・。」
「なになに?もしかして誰か好いひと?」
こう言う話に真っ先に反応するのは、いつも日菜子・美乃梨の妹二人である。
その当時の我が家の常として、下の男兄弟二人は、こういった話は文字通りの〝蚊帳の外〟。
いやいや、実際にはその時既に二人は〝蚊帳の中〟でスヤスヤお休みである。
年の離れた弟の宿命で、これは高校卒業まで続く。
余談はさておき、両親はまず驚いた。そして、喜んだ。
先の事件以降、清美の落ち込み様は尋常ではなく『何とか立ち直りのきっかけはない物か?』と、家族全員が〝思案投げ首〟していた矢先である。
そんな折にこんな話で皆ビックリ! 清美の立ち直りの速さには、仰天である。
特に、感情の起伏の激しい母は、泣き出さんばかりだ。
まあ、概ねこういった恋の傷を、いつまでも引きずるのは男性の方で、女性は案外『あっけらかん。』としているものではある。
翌日、母は朝からおもてなしの準備。自慢の料理の買い出しや下ごしらえに大忙しだ。
長女はいそいそとそれを手伝い、妹二人は何だか楽しそう。
父は落ち着きなくうろうろして、弟二人だけは、何も知らずに無邪気に遊んでいる。
そんな風景が繰り広げられていた。
そして夕方、彼氏はやって来た。両親は、初対面ではなかった。
母は、一年前の事件で病院に駆け付けた時、事件の張本人・山森の隣にいた、山森に比べれば風采は上がらないが見るからに真面目そうな、あの青年だと一目で判った。
父も、それほどの観察力は無いのだが『ああ、あの時の青年だ。』とは、理解した。
高村は、型通りの挨拶の後、自己紹介に入った。
その話すところによると、彼の父親は先の大戦で戦死。母親の女手一つで、彼を含めた四人の子供達は育てられたとのことである。
ご多聞に漏れぬ貧しさで高校進学はならず、中学卒業後は三菱重工名古屋の養成工として技術を学び、その社員として現在に至る。それが彼の経歴である。
清美との出会いは前述の通りで、組合を通じて知り合い、かの事件以降は彼女のことが気になって、度々顔を見に組合事務所を訪れる内に、付き合いが始まった。との、要旨であった。
高村と清美が両親と向かい合い、両親の後列が妹二人、その更に後ろに弟二人が座っていた。
妹二人は、両親に見えないのをいいことに、もうお互いの肘を突き合って笑いを堪えていた。
それを見て弟二人も、同じ様に肩を震わせて笑いを堪えている。
この光景は、その後もことあるごとに(結婚式等の厳かな場面等で度々見られ、その都度、母親にこっぴどく叱られたものである。
一通りの挨拶が終わり、両親から〝結婚を前提のお付き合い〟の許可も出て食事となった。
両親にしてみれば、三菱重工のような大企業の社員に長女が嫁ぐなんて、夢のような話。
酒の進んだ父は、すっかりご機嫌で、酒の飲めない母もいつになく饒舌になって、久し振りに我が家にも〝心からの笑顔〟が戻った。そんな一日であった。
それからも高村は、余程このあばら家が気に入ったと見えて、度々松山家を訪れていた。
特にお気に入りは、母の手料理と、父の沸かす〝五右衛門風呂〟。母の料理は、何を食べても絶品で、それは解るのだが・・・風呂?
と言うのも、当時の一般家庭、特に市街地に住む人達は銭湯に行くのが普通で、家に風呂が有る家庭はごく稀であった。
高村家の住まいも、同じ鳴海町ではあったが、駅近くの繁華街で銭湯も近所にあったので、必然的にそこに通うようになったのである。
そんな訳で、ゆっくり一人で入れる家風呂は、彼にとって憧れでさえあったのだ。
一方松山家は、市街地からは徒歩十五分以上の田園地帯にあり、当時の交通事情から銭湯に通うのが不便な立地条件と、ご承知の通りの経済事情で、毎日銭湯へ行く余裕などあるわけは無く、冬場は週一回日曜の銭湯で我慢、夏場は裏庭で、洗濯用のたらいにお湯を張って汗を流す〝行水(ぎょうずい)〟で済ますのが常であった。
子供が幼い内はそれでも何とかなったのだが、上三人が女の子だった事もあって、長女が思春期を迎える頃には流石にそういう訳にもいかなくなり、父・清八が台所と便所の間の三帖ほどのスペースに家風呂を手造りしたのである。
幸い、材木屋に勤務していたこともあって、建築材料と燃料の木材には事欠かず、器用な清八は知り合いの桶屋と風呂屋に教わりながら、難なく増築してしまった。
その他にも、父の手による塀や縁側(えんがわ)があったことを、圭司はよく覚えている。
色々な意味で、まめな父・清八ではあった。
大人一人がやっと入れる、よくテレビで見るドラム缶風呂を、木製にして屋根を付けたような小さな風呂ではあったが、材木の端材で炊くお湯は、銭湯とは違った柔らかい感触があるらしく『いやあ、温まる!温まる!』といつもご機嫌で風呂上がりのビールを飲み干す高村。
ご満悦の表情で相手をする父・清八。それを見て、幸せそうな笑顔の母・慶子と長女の清美。
何だか、サザエさん一家のホームドラマの様な風景である。
そんなこんなで、あっという間に半年ほどが過ぎ、長女清子の嫁入りの日がやって来た。
当時の慣例として、嫁の実家で化粧や衣装の着替えをして近所の人達が見守る中を迎えのハイヤーに乗り込み、嫁ぎ先の家まで嫁側参列者の行列を作っての嫁入りだ。
本来であれば、嫁入り道具を積んだトラック数台も揃えての一大イベント〝名古屋の嫁入り〟であろうが、お互い貧しい身であることから親戚の叔父・叔母数人、タクシー二・三台程度の行列である。これから色々物入りになるであろう二人を考慮しての諸費用節約の為、まだ幼い弟二人と、その世話係りの姉妹二人は留守番となった。
父方の親戚は父の兄・久野真一。弟で清子の上司・久野福造。瀬戸市在住の弟・久野亨。
妹で看護婦の久野輝子と熊本在住の加藤雅子の5人。
母方は、旧松山木材店の当主、松山釜三郎の嫁、良子。諸事情あって、母方の親戚はいつもこの伯母だけである。
母の実家〝松山木材店〟は名古屋では少しは名の知れた老舗で、当主は代々〝釜三郎〟を名乗っていた。母の兄・三代目釜三郎は、名古屋大空襲で全焼し大損害を負った松山材木店を立て直すべく、東奔西走の頑張りを見せたのだが、奮闘努力の甲斐もなく、倒産の憂き目にあってしまう。そのストレスから、放蕩を繰り返すようになり、終には家族をほったらかしにして、以前から愛人関係にあった芸者と駆け落ちしてしまう始末である。
その所為で兄弟姉妹からは愛想をつかされ、家族離散の羽目に陥ってしまう。
そんな訳で、当時母方の親戚で付き合いのあったのは、この伯母さんとその三人の息子たちのみであった。
さて、いよいよ出発の時刻。
清美との別れの瞬間を前に、妹二人は既に涙目だ。それでも無理やり笑顔を作って
「姉ちゃん、おめでとう!」
「元気でね!」
清子「あんたたち、父ちゃん母ちゃんと圭司・タツベを頼んだよ!」
それを聞いた妹二人は、こらえきれずに大号泣!
それを見た末っ子龍男は、訳も解らず「姉ちゃん、行ったらいかん!」と、大ベソをかく。
つられて圭司も、その輪に加わって大泣きであった。
これが、松山家初の大イベント『長女の嫁入り』の風景である。
第八話 父の転職 ~戦友との再会~
この頃、父・清八は江口木材店を辞め、嘗ての戦友で同年齢の坂口重利(しげとし)が創業した電機メーカー〝スター電機〟に転職していた。
当時の街角でよく見かけた、子供の背丈ほどの白い箱の上のドーム状の硝子の中で、オレンジ色の液体が噴水を見せていた、ジュースの自動販売機。
確か、10円でコップ一杯だったと記憶している、あの懐かしい機械のメーカーだ。
材木屋の清八が、全くの畑違いの電機メーカーへの転職。
その経緯をざっと確認しよう。、
その頃務めていた江口木材は、嘗ての老舗〝松山材木店〟で清八の下で働いていた江口昭雄が起こした小さな店で、昔の恩義を感じた江口が清八を呼び寄せて雇っていたのである。ところが、その経営が芳しくなくなり、人員整理を余儀なくされていたのだ。
それでも江口は、恩義ある清八にはそれを言い出せず、努めて明るく振舞って平常を装っていたのだった。清八は清八で、薄々そんな状況は感じていた。
痩せても枯れても、嘗ては老舗材木屋の番頭である。店の状況は何となく判る。
そんな悶々とした日々を過ごしていたある日、偶然、坂口重利との再会があった。
江口木材店の最寄り駅、名鉄・金山橋(かなやまばし)駅近辺を歩いていた清八の傍らに、黒塗りのクラウンが寄って来た。
そして、後部座席の窓が空き、「清(せい)さん、清さん。」
どこか聞き覚えのある声であった。清八は周りを見渡した。
「・・・?」清八は要領を得なかった。『こんな高級車の持ち主に知り合いはいない。』
「やっぱり清さんだ。俺だよ、俺! 坂口だよ!」
「おう! 坂口のシゲちゃんか!」清八は、十数年ぶりに会う、戦友の姿を漸く認識した。
「何だ、このクルマは。おみゃあ、何か悪いことしとらんだろうな!」
久し振りの再会。運転手を待たせて、二人は近くの喫茶店に入った。
そこでの話で、坂口が昭和22年に会社を立ち上げ、現在の成功を得たこと。
清八は、婿入りした老舗の材木屋が、空襲で焼け落ちた上、跡取り息子の放蕩で倒産し、今に至っていること等、近況を報告し合った。
その話の中で、偶然にも坂口の住まいが松山家と同じ鳴海町にあることが判明したので、前述の高級車に便乗して坂口の家に寄り、更に懇親することになった。
そして、到着。驚いたことに、鳴海町の中でもほんの近く、松山家から歩いて10分程で行ける距離に坂口の自宅はあった。但し、その周辺環境は大違いで、松山家辺りの長屋住まいの集落とは別世界の、お屋敷ばかりの高級住宅街である。
到着すると、坂口夫人のお出迎えである。
「松山さん、主人からよくお話は伺っていますよ。戦地では本当にお世話になったようで。」
坂口とは同じ部隊で、生死を共にした戦友である。階級は清八の方が上だったが、同い年と言うこともあって馬が合ったのか、いつも二人はつるんで行動していた。
清八は、伍長と言われる階級までいったようである。
戦時中の陸軍の階級に付いて少し触れると、伍長と言うのは下から数えて5番目の階級だ。
民間人の入隊者は、まず最下級の二等兵から始まり、一等兵・上等兵・兵長・伍長・軍曹・曹長と上がっていって上等兵までを兵卒、兵長から曹長までを下士官と呼ぶ。
一般人は大概そこ迄で、その上の将校以上(少・中・大尉、少・中・大佐、少・中・大将)は、ほぼ職業軍人によって占められていたと言うのが実態らしい。
第二次大戦の日本陸軍上海上陸作戦に従軍し、揚子江を見た時、その広さに驚いて清八が「シゲちゃん、こんな、向こう岸が見えない川なんか見たことあるか?」
と、その時隣にいた坂口に話しかけた刹那、ピュッと今まで聞いたことの無い鋭い音が、耳元を通り過ぎるのを感じた。
その後、バリ!バリ・バリバリと辺り一面に銃声が響き渡った。
後に言うところの〝第二次上海事変〟の銃撃戦が始まったのだった。
暫くして、坂口がヒョッと横を見ると、清八の顔の右半分が真っ赤に染まっていた。
「清(せい)さん、やられとるぞ!」坂口は、驚いて叫んだ。
どうやら、先述のピュッという音は、弾丸が清八の右側頭部をかすった音だったようだ。
出血の割に怪我は大したことは無かったようだが、後年清八は、この側頭部の楕円形に禿げた傷跡を見せては、自慢げに子供たちに戦争体験を語ったものだった。
その他にも、ちょっと塹壕を移った為に被弾して戦死した友とか、その逆で助かった人とかいて、人生の運・不運と言うのは、人智の図り知れぬところにあると言うことを、身を以て感じた時期であったらしい。
そんな風に、命懸けで戦火を潜り抜けて来た戦友二人。
清八の困窮を知った坂口が、黙って見過ごす訳は無かった。
「清さん、何にも云うな! 黙って俺のところへ来い!」
清八は、涙が出るほど嬉しかった。
「シゲちゃん、ありがとう! 今の会社の社長や女房とも相談して、また来るよ。」
こうして、清八は江口木材店からスター電機への転職を決断した。
第九話 弟と剣道
父・清八の転職は、昭和36年。圭司5年生、龍男4年生、清八50歳の時であった。
清八の配属された部署は『総務部・設備課・営繕係』、社内設備や建物の修復・修繕が主な業務で、その仕事の性質上、日曜日にも出勤することが多かった。
当時は週休二日制ではないので、ほぼ休みなしの勤務体制である。
営繕係のメンバーは『棟梁』と呼ばれる清八より若干年上の大工上りの係長と、四十代のやはり元大工が二人、それと一寸ヤンチャそうな元土建屋の若者と清八の五人だ。
勤務先の工場は、名鉄中京競馬場前駅の南口徒歩10分程、桶狭間古戦場近くにあった。
清八は、日曜出勤の度に息子二人を自転車の前後に乗せて、工場に来ていた。
昔よく見た、あの荷台がやけに頑丈そうなごつい自転車の、後ろの荷台に圭司、サドルとハンドルを繋ぐ鉄棒に座布団を巻いて、そこに龍男が座っての〝三人乗り〟。
今では絶対に許されないが、当時は車も殆ど通って無いので、交通事故の心配はほぼ皆無。
そうは言っても、小学4年と5年の男子二人を乗せて4~5㎞の道のりだ。
その50歳のパワーは、今思い出しても驚きである。
父が仕事をしている間、圭司と龍也の子供二人は、工場敷地内にある野球場や体育館等をウロウロして時間を潰すことになる。当時のスター電機は創業十五年目、ジュースの自動販売機需要で景気は右肩上がり。今まさに、伸び盛りの会社であった。
そんな訳で休日出勤の職場もあり、食堂では賄いのオバちゃん達もいて、何くれとなく気に掛けたり声を掛けたりして、子供二人の面倒を見てくれていた。
そんな中、工場敷地内の野球場ではスター電機の野球部が練習試合の真っ最中。
軟式野球ではあるが、丁度昼休みと重なって、野球好きの社員数十人が昼飯を食べながらの応援観戦をしていた。それに混じって父・清八もいて、親子三人での野球観戦だ。
スター電機野球部には、元中日ドラゴンズの内野手小川選手もいて、ドラキチの圭司と龍男は胸をときめかせ、ワクワクしながら見ていた。
小川は前年解雇されたのだが、中日ファンの坂口社長が採用したとのことである。
プロでは内野手で、当時中日のスター選手井上登二塁手の控えで、そんなに出場もなかった小川が、ここではエースで四番。一方は軟式野球とはいえ、プロ・アマのレベルの違いに子供ながらも驚いた記憶がある。
野球観戦が終わり、暇をもて余して二人でウロウロしていた先に、体育館があった。
体育館とは言ってもそれ程大きい建物ではなくて、この工場では主に柔道と剣道の道場として使われていて、その日はたまたま剣道部が活動していた。
圭司は所謂〝チャンバラ〟が大好き。名鉄鳴海駅近くの映画館『長栄座』や『鳴海東映』で子供料金三本立て30円の時代劇〝旗本退屈男〟や〝新吾十番勝負〟をよく観ていた。
従って、その延長線上にある剣道には、大いに興味を持ったのである。
そんな好奇の目でそれを見ていると、その視線に気付いた男が声を掛けてきた。
「ボウズ、やってみるか?」剣道部の指導者、伊藤三郎だ。
年の頃は四十そこそこ。剣道五段の警備長で、工場の守衛を統括していた。
「う、うん!」二人は、怖ず怖ずと道場に上がった。
「おじさんは、伊藤一刀斎と言うんだぞ!」
「・・・・・?」無言の二人。
警備長は冗談のつもりで有名な剣豪の名前を言ったのだが、その名を知らなかった二人には通じず、敢え無くすべって苦笑いである。
気を取り直して警備長、二人に竹刀を持たせて語りかける。
「いいか、チャンバラごっこだと思って、遠慮なくおじさんに切り掛かって来い!」
二人はどうしていいか分からず、ドギマギしていた。
すると、「オリャーーーー!」耳を劈くばかりに場内に響き渡る大音響。
警備長伊藤五段、渾身の気合いである。
ビックリする圭司。弟・龍男は今にも泣きだしそうだ。
一転して、伊藤は優しく語りかけた。
「いいか、君たちが持ったこの竹で出来た刀は、竹刀(しない)と言う。」
続けて、「おじさんが竹刀をこうして横に構えるから、上から思いっ切り叩いてごらん。」
二人は順に言われた通り、思いっ切り竹刀を振った。
「カッシャーン!」竹刀と竹刀がぶつかり合う小気味の好い音が、場内に響き渡る。
更に伊藤、「今度は、思いっ切り大きな声を出しながら叩くんだ。さあ来い!」
訳も分からず二人は、意味不明の掛け声と共に竹刀を振り下ろしていた。
続けて伊藤、「おじさんが上の方で竹刀を横に構えた時は『メーン!』肩の辺りで立てて構えた時は『エイ!』と言って右から左から切りかかって来い。」
言われた通り「メーン!」「エイ!エイ!エイ!」と二人は交互に大声で切り掛かっていく。
伊藤はそれに合わせて、前後に出たり退いたりしながら二人の竹刀を受けていた。
10分もやっていると、二人は汗びっしょり! 。今迄にない爽快感を味わっていた。
その時道場では、剣道部員7~8人と近所の子供らしい二人が練習に来ていたのだが、主将で二段の源田武雄(げんだ・たけお)はそれを見て、周りの部員に小声でこう言った。
「見てみ、あれ。普通に打ち込みの練習やらせとるがや。」
「先生、また子供を入れるつもりだでよ。」と、半ばあきれ顔で苦笑いである。
確かに、伊藤に対峙している二人は、チャンバラのつもりで面白がって遊んでいる様に見えるが、傍から見れば、よく剣道部で目にする、基本の打ち込み練習である。
今稽古に来ている子供達も、松山兄弟と同じ様に社員の子供で、見学しているところを捕まったらしく、伊藤警備長は剣道の普及には殊の外、ご執心だったようだ。
こうして二人は、この道場で剣道を学ぶことになった。
ほぼ毎週、圭司と龍也は父の自転車の三人乗りで出掛けて行き、同級生の友達もできた。
前述の子供二人の先輩も、やはり従業員の子供で、食堂に勤める小島美津子の娘・早苗とその弟・政夫。その時、早苗は十三歳の中学一年、政夫は圭司と同級の小学5年生である。
早苗はショートカットで、最初は女の子とは分らなかったほどだったが、時折見せる笑顔が堪らなく愛くるしくて、剣道部のマスコット的な存在であった。
然し彼女は、そのアイドル的扱いを嫌って練習に打ち込む勝気な娘で、年下の政夫や圭司はいつもやり込められていた。
ただ弟の龍男は、その童顔のお陰?で結構可愛がられていたようだった。
その日曜の練習帰りに、時々父がご馳走してくれるかき氷、特に『宇治金時』は、圭司・龍也の兄弟にとって、月に一~二度の贅沢。忘れられない味であった。
政夫と圭司はその後同じ中学・高校と進み、政夫は陸上部、圭司は野球部で活躍することになる。
圭司たちが練習を始めて三か月ほど経過した、とある日曜日。
その日はいつもの練習ではなくて、名古屋の金山体育館で行われる、全国社会人剣道大会・愛知県予選の応援に行くことになっていた。
金山体育館と言えば、当時は大相撲名古屋場所も開催されてた愛知県随一の体育館である。
1965年以降は、新築された名古屋城近くの愛知県立体育館にその役目を譲るが、それ迄は東海地区の、屋内スポーツイベントのメッカである。
芸能ショーもよく行われていて、圭司も一度、父か姉かどちらかの会社の慰安行事で、当時人気の横山エンタツの漫才と火曜ショウを見たことがあった。
圭司は試合を応援することより、そこに行けることにワクワクして名鉄電車に乗っていた。
名鉄金山橋駅から歩いて10分程で体育館に到着。
館内は剣道着の人があちこちにいて、観客席も若干の空席はあるが、ほぼ九分通りの入りだ。
試合は全て団体戦、先鋒・次鋒・中堅・副将・大将5人の勝敗により決定する。つまり、3戦先勝した時点で試合は終わりと言うことである。
スター電機剣道部は、会社自体が歴史も浅く、この大会が初出場であった。
一回戦の相手は、東海レーヨン。全国的にも強豪として名が知れていた。
スター電機のエースは、主将の源田二段。
普通は大将として起用するのだが、相手は強豪。エースの試合がないままの敗戦はあり得ないので、先鋒として初戦に臨んだ。
先鋒として臨んだ第一戦、源田も善戦したが流石に相手は強豪だった。双方決め手の無いまま、時間切れの引き分けで終わってしまった。それに続く次鋒・中堅・副将戦に連敗し、スター電機剣道部は、敢え無く一回戦敗退で初出場の大会を終えてしまった。
敗戦の時の源田主将の涙。成人男子の涙を見たのは、この時が初めてで『大人も泣くんだ!』と、圭司は思った。
試合後の剣道部指導者、伊藤三郎監督の言葉は次のような要旨であった。
「負けて出る涙っていうのは、やってることに対してどれだけの努力があったかっていうことのバロメーターだ。何の努力もない奴に涙はあり得ない。努力の程度で未来が変わる。それは忘れないで欲しい。」その言葉は、小学生ながら圭司にも何となく解った気がした。
その大会後の練習から、剣道部員たちの目の色は変わっていった。
部員とは違って週一回の練習ではあるが、それにつられて4人の少年剣士たちも、稽古に力が入ったものだった。
剣道部員のお兄さん達と同じ練習に付いていくだけだったが、まだ子供の身には体力的にかなり過酷な練習で、その経験は充分その後の中学・高校生活の糧となった。
事実、その後中学生になった小島政夫はその時培った体力のお陰?で全国放送陸上愛知県大会2000メートルに出場し、県2位の成績で名古屋の私立名門高校へ特待生入学する。圭司も同じ中学で野球部に所属し、二年生からレギュラーとなり同じ高校へ特待生入学。
弟・龍也も一年下で同じ野球部員となり、エースとしての活躍が認められて岐阜県の私学へ特待生として進学することになる。
あれ?三人共に剣道をやっていない⁈。
教授料も取らず、熱心に指導してくれた伊藤先生には誠に申し訳ない結果になってしまったが、それに付いては、次話(父の入院)にて経緯を説明する。
第十話 父の入院
昭和37年圭司六年生、最上級生として、近所の子供たちのリーダーとして、嘗て憧れた先輩〝ヤコちゃん〟の役割を担うべく、やけに力の入った気分で4月を迎えていた。
その頃の鳴海小学校では集団登校が決まりで、全校生徒三千人を地域ごとの集団に分けて〝分団〟と呼ばれるグループを形成し、更にその下に〝班〟を置いて組織化していた。圭司たちの住む鳴海町文木地区の児童は、第8分団・第3班に所属し、班長は圭司だ。
同級生は、第一章・第一話『夏の景色』の項他で登場の蒔田洋子と、その他に男子二人。以下各学年二~三人ずつの15・6人の集団である。
毎朝、近所の製材所資材置き場に集合して、徒歩7・8分の距離を登校するのだ。
四月、入学式を終えた近所の新一年生の母親が、「圭ちゃん、宜しくね。」と、菓子折りを持って訪ねて来たのが、圭司には妙に誇らしく思えた。
他の地区では片道一時間以上の通学距離を有する地域もあったので、その辺は、多少の申し訳なさと後ろめたさがあったのも否めないのだが・・・。
そんな風に始まった、圭司最上級生の生活。
五年生の時と同じく日曜日はスター電機の工場で剣道、平日の放課後は草野球かドッジボールの日々が続いた五月の或る日、父・清八が肩を落とした様子で帰宅してきた。
そして夕食時、皆を前にしてこう切り出した。
「実は、会社の健康診断の胸のレントゲン撮影で異常があってよー、再検査したんだけど、その結果『結核で三ヵ月の療養を要する。』と言う診断で、参ったよ。」
幸いスター電機は、その頃既に福利厚生がしっかりしていて、入院治療しながらも全額ではないが給料は貰えるらしく、その間は〝休職〟と言う扱いで在籍するとのことだ。
次女・日菜子二十二歳、三女・美乃梨十九歳で既に就職していたので、少しは生活費も補充できていることも、家族6人が食べていくことへの光明になっていた。
「私達も頑張るから、父ちゃん、ちゃんと節制して早う好うなって!」娘たちは言った。
母・慶子は翌月からスター電機の食堂で、賄として働くことになった。
『給料は出る。』とは言っても半額程度、今迄の生活レベルを維持するためには、やはり補充は必要だったのだ。そこは会社の温情もあっての、母の就職であった。
清八の療養先は、鳴海町民病院。松山家のある鳴海町字文木の東隣、汐見ヶ丘地区にあった。
当時はまだ、結核の療養所と言えば『人里離れた山奥で感染を恐れての治療。』のイメージであったが、その頃既にその治療法は確立されていて〝不治の病〟ではなくなっていた。
投薬治療で、しっかり栄養を取って規則正しい生活を送れば、時間はかかるが治る。
そんな療養生活なので、人によっては『贅沢病』と言う人もいたくらいであった。
但し、完治には結構時間が掛かる場合が多く、清八も三か月の療養では完治に至らず、ずるずると入院生活は続いて、退院には一年を要した。
そんな事情で、父の送り迎えがなくなった圭司・龍男の剣道場通いは自然消滅となった。
その所為で兄弟二人の道場通いが途絶え、その友達の小島政夫も、何となく張り合いが薄れて、自然消滅的に剣道から遠ざかっていった。
政夫の姉・早苗も中学生になって、剣道部はあったものの当時の時代背景では女子部員が存在せず、止む無く諦めたということである。
『六年生で初段にする!』と無報酬で指導してくれた伊藤三郎先生。
その目的である〝剣道の普及〟の期待に4人共応えられず、申し訳ない気持ちで一杯だ。
そんな訳で圭司の剣道に対する思い入れは結構強く、宮本武蔵や塚原卜伝・伊藤一刀斎等の剣豪列伝をよく読んでいた。それらの物語の中で彼らの凄まじい修行の様子やその努力の果てに〝悟り〟を開いて達人になっていく経緯が大好きで、その類の映画もよく観ていた。
第十一話 姪の誕生
昭和37年夏、高村靖男に嫁いだ長女・清美は、待望の第一子を身籠っていた。
その頃の我が家の家庭の事情(父の入院及び母の就職)で、昼ご飯にも困る小学生の圭司と龍男兄弟は、夏休みの間、よく姉夫婦の住む社宅で過ごしたものだった。愛知県岩倉町にあった木造の集合住宅で、大きな共同浴場があった。そこでのエピソードがある。
清美の実家、松山家の風呂は、小さな五右衛門風呂なので一人ずつしか入れないのだが、こちらの共同風呂は銭湯と同じなので、大勢で入ることになる。
初めて高村家を訪れた日、私たちは義兄の靖男と三人で、そのお風呂に入ることになった。松山家の男兄弟は二人だけなのだが、家にある風呂が小さい所為で、一緒に入ることは殆どなかったのだ。微かに記憶にあるのは、圭司が一年生か二年生の夏休みに、清美の会社の保養所へ、家族で海水浴に行った時に入ったことくらいである。
そんな訳で、久し振りに兄弟一緒の風呂になった。
実はその頃、圭司のおちんちんの根元に、僅か2・3本ではあるが毛が生えてきていたのだ。
それは、本当によーく見ないと分からない程の物であったが、本人にとっては一大事である。
圭司は、それを指して龍男に言った。「おい、これ見てみい。」
龍男「・・・?」
圭司「これだがや、これ! よー見てみいや。」
龍男「ん? あ、おっ、おお! 兄ちゃん、すっげーがや‼。」大声で驚いて見せた。
その様子を見て、靖男も大笑いである。
そんな風に夏休みを過ごしていたある日、高村家の第一子は誕生した。長女・みゆき である。圭司は12歳、早生まれの龍也は10歳にして〝叔父さん〟になったのだ。
高村家には、三年後に次女・かおりが生まれるが、何故か二人ともに未熟児で、一般の産婦人科病院では治療不可能な難病の新生児が集まる、名古屋市立大学病院に入院していた。
1㌔に満たない小さな体で保育器に入り、鼻から呼吸用の管を入れて無心に眠るその姿は、痛々しくて可哀そうで、生きているのが不思議なくらいだった。
他にも、出産時の障害で頭に大きな瘤がある赤ちゃんがいたり、先天的奇形の赤ちゃんがいたり、中には生まれたばかりなのに手の施しようがない赤ちゃんもいて、ガラス窓の外からそれを見て涙を流しているその子の父親や祖父母の姿を見た。
その時、偶然居合わせた担当医の先生がボソッと呟いた。
「ここにいるとね、当たり前の事が決して当り前じゃないって事がそれこそ当たり前にある。〝当たり前〟である事が如何に〝ありがたい〟事かが身に染みて解るんだ。君たちも、この子たちをよく見て、自分がどんだけ幸せなのかを考えてくれると嬉しいな。ついでに教えると、『ありがたい』と言う字を漢字で書くと『有り難い』と書く。つまり『そうで有ることが難しい』と言う意味だよ。折角生まれて来たのに直ぐになくなる命もあって、その子に摂っての一年は普通の人の何十年にも相当するはず。だから短い命と解っていても、その子の為に精一杯やるんだよ。短い命も長い命も一緒の一つの命。大事にしないとね!」
〝当たり前〟であることが、如何に〝有り難い〟ことか、初めて思い知った瞬間だった。
それらの子供たちに比べれば、言い方に語弊はあるが『みゆきは、まだましだ』と思った。
両親や姉達と一緒にこの大学病院へ通ったことは、兄弟にとっては貴重な体験だった。
そんな年の差なので、この姉妹は圭司を『お兄ちゃん。』龍男を『たっちゃん。』と呼んだ。
それは大人になっても変わらずで、圭司はみゆきの結婚式の余興で加山雄三の『僕の妹に』を歌い、挨拶では、二人とも未熟児で生まれて保育器で育った入院先でのエピソードを交えて、明石家さんまの座右の銘『生きてるだけで丸儲け』を引用し、まずまずの評判だった。
それは、後年〝有り難い〟の反対語が〝当たり前〟であることを知り、一緒の病室の保育器に入っていた子供たちを思い出して、妙に納得したこともあってのことだ。
その後、松山家の清八・慶子夫妻は12人の孫に恵まれるが、夫婦で生存中にひ孫が見られたのは、このみゆきの子供だけだ。12人の孫に生まれたひ孫は、今のところ13人である。
第三章 大好きな野球
第一話 草野球
その頃の楽しみの一つに『草野球』があった。
田舎のこと故、文字通りの〝草野球〟で、春・夏はレンゲやクローバーの生えている原っぱで秋・冬は稲刈りが済んで空き地になり干上がった田んぼでもやったものだ。
低学年の場合、大概は軟式テニスのボールを下から投げて、それを素手で打ち返す『ハンドベースボール』で、二年生になるとクラス対抗の大会があって結構盛り上がっていた。
三年生になると、それでは少し物足らなくなって、近所の竹藪で適当なサイズの竹を切り出し、それをバット代わりに使って少し本物の野球に近づいた気分になったものである。
それでもまだ軟式テニスのゴム毬で、打っても飛距離は出ないので、狭い空き地でも充分遊べたし、グローブは必要ではなかった。
そんな草野球で一番の困りごと。それは、隣接する畑にファールボールが入ってしまう事だ。
主に白菜が植わっていることが多かったが、近所の農家で『田んぼの加藤さん』と皆から呼ばれていたおじさんによって、畑の肥料用に各家庭の便所から汲み取って、肥溜めでしっかり熟成させた〝下肥〟が、たっぷりと撒かれていて、そこにボールが入ると、それはもう大騒ぎで、誰が取りに行くかで決まって大揉めになった。
その日は、同級生の阪野寛、大橋育夫、横井修、中野英雄、小林章と六人で草野球。
ピッチャー小林君の投げた球を、バッター圭司が降り遅れてファール。
近くで守っていた阪野寛君が取りに行くと、案の定、ボールは白菜畑へ。
ヒロシ「おーい、ボールが糞まみれだでよう。打った奴が取りに来いよな!」
応えて圭司「投げたボールも悪いでよう。章も少しは責任あるぞ!」
小林章君「おいおい、何で俺まで?」とんだ〝とばっちり〟である。
こういう場合、大概は全員で〝ジャンケン〟と言うことになり、この日はジャンケンに負けた圭司が、そのお役目を仰せつかった。圭司は、仕方なく付近の原っぱに生えている萱を、適当な長さに切って箸代わりにし、ボールを白菜畑からつまみ出して、近くの小川で洗って持ち帰った。すると、皆から一斉に、しかも大袈裟に「くっさ!」と鼻つまみにされた。これは圭司だけが味わう屈辱ではなくて、次に同じ事態が起こってジャンケンに負ければ、誰もが同じ目に合う、所謂〝恒例行事〟なのだ。
ボールは一つしかないので、他のメンバーは洗い終わるまで待つしかなくて「くっさ!」は「いつまでも待たすんじゃあないよ!」と言う抗議の意味も込めた所謂〝いじり〟である。これでは〝臭(くさ)野球〟だ。
そんな〝草(臭)野球〟も、この年が最後。翌年には、三菱重工の社宅建設で、裏山の段々畑も田んぼも消え去る運命にあった。
四年生になると、徐々にグローブを使ってキャッチボールを始める子供が現れ始める。
ボールは、縦に細かい筋がぎっしり入って、その真ん中真横に上下を隔てるように1㎝程のベルト模様が入った、軟式野球用のゴムボールで、一見すると地球儀を小型にしたような、今では全く見られなくなった、昔懐かしい『健康ボール』である。
恐らく、それを使った最後の世代だ。
圭司も、その辺りの子供の中では恐らく最後になったと思われるが、漸くグローブとバットを手にする機会がやって来た。
それは5月の誕生日のこと。父・清八が帰宅するなり「ちょっと、来い。」と手招き。
圭司は自転車の荷台に乗せられ、以前フラフープを買う時に行った、木村スポーツ店に連れていかれた。そこでグローブとバットを買ってくれると言うのである。
「どうだ、欲しかったんだろう?」と清八。 「え、ええの?」と圭司。
貧乏なのは解っていたので、他の家族に申し訳ない。少し後ろめたいような気分であった。
今日はフラフープの時と違って、父ちゃんと二人での買い物である。
今迄、誕生日だからと言って特別にプレゼントとか、して貰ったことが無いので、少し緊張しての木村スポーツ来店である。
父・清八は先日のフラフープ購入以来、度々会社の帰りの寄っていたらしく、結構顔見知りな感じで、店員と接していた。知っての通り、清八も野球は大好き。実は高等小学校では野球部で、事情さえ許せば旧制中学へ進学して野球を続けたかったらしい。
「愛商(愛知商業)の野球部に友達がおってよう!」と、よく得意げに話していた。
きっと会社帰り、世間話の合間にそんな話をしながら、野球用品の情報を仕入れて、掘り出し物が出て来るのを待っていたのだろう。そして、やっと出た掘り出し物。
それをキープし、満を持して圭司の誕生日を向かえたものと思われる。
「圭司、どうだ‼」と清八。
子供用のグローブと、二年前の引退で売れ残って安売りしていた〝巨人・川上の赤バット〟を得意げに差し出す。
「やったあ‼」大喜びの圭司。
店のご好意で〝おまけ〟に貰った〝健康ボール〟も更に喜びに上乗せされた。
フラフープの時と同じように、近くの路地裏の街頭の下で、父と子初めてのキャッチボールとバット振り。これまた、忘れられない出来事であった。
新しいグローブの皮の匂いとバットの冷たい感触。
当時の誰もがそうであったように、圭司も嬉しくて嬉しくて、暫くの間、グローブは枕元に置き、バットは抱いて寝ていたものだ。
第二話 あこがれの中日ドラゴンズ
『権藤・権藤・雨・権藤・雨・雨・権藤・雨・権藤・・・。』
昭和三六年梅雨時の、地元名古屋のプロ野球チーム中日ドラゴンズの投手起用を揶揄した、スポーツ新聞の見出しである。
当時の中日のエースピッチャー権藤博(ごんどう・ひろし)。この稀代の名投手は、圭司にとって憧れの存在その物であった。
その年、新人でいきなりの35勝19敗で新人王。翌年30勝17敗、翌々年10勝、次の年6勝・・・。あっという間の四年間で、その投手生命を終えてしまう。
現在では考えられない酷使で、年間69試合に登板し35勝19敗・32完投・12完封、防御率1.70、310奪三振。これは、60年以上経っても未だにセ・リーグ記録である。
今の様に、投手に先発・救援と言った分業制がなく、先発完投の翌日、抑えで登板なんていうのは当たり前の時代で、ダブルヘッダーで2勝と言うこともあった。
年間130試合中の69試合登板。2試合に1試合は出てくると言う計算である。
いつの頃から中日ファンだったのか、圭司には記憶がない。まあ、言ってみれば〝生まれついてのドラゴンズファン=ドラキチ〟って言うやつか。
その頃の圭司はとにかく権藤が大好きで、その、軸足のかかとをピョンと跳ね上げる独特の投球フォームを真似て、毎日弟・龍也にキャッチャーをさせての投球練習で遊んでいた。
圭司「どうだ、権藤に似とらんか?この足の上げ方とかよう。」
龍也「ちっとも似とらんわ。どうでもええけど、たまには俺にも投げさせてくれよな。」
圭司「あほぬかせ。10年早いわ。おみゃあはキャッチャーやっとりゃええんだわ。」
案に相違して、その何年か後、龍也は高校野球でピッチャーとしてマウンドに立っていた。
バッターでは、当時の中日のスター選手〝ミスタードラゴンズ・西沢道夫〟に憧れていて、いつもその真似をして、バット代わりの棒切れを振り回していた。
真似と言っても実物を見たことがある訳でもなく、時々父が買ってくる〝中日スポーツ〟の写真を見て、その姿を見様見真似するのみであるが・・・。
四年生になると、前述の誕生日プレゼント、バーゲンセールの川上の赤バット登場である。
例によって、弟・龍也とのキャッチボールの後、それを持ち出してバットを振り続けた。
勿体なくて、未だにボールに当てたことが無かった。バットに傷がつくのが嫌だったのだ。
圭司「どうだ、西沢みたいだろう。」
龍也「川上の赤バット持って、よう言っとるなあ。この裏切り者が‼。」
圭司「何い、おみゃあには絶対貸したらんでな。ずーっと、棒切れでも振っとれ。」
やはり、その何年か後、中学生の龍也は他校での練習試合で、右打者でありながらライト側校舎二階の窓ガラスを割る大ホームランを放ち、周囲を驚かせる。
どうやら、ポテンシャルは、弟の方が上だったようだ。
最近の事情はよく分からないが、圭司が在住した1960年代後半までの名古屋、少なくとも在籍した鳴海小・中学校では、男子生徒のほぼ100%が中日ファンだ。
これは、当時の愛知県民、特に尾張地方のほとんどがそうであった。
現在ほどの放送網もなく、全国放送と言えばNHKのみで、地元の民放ローカル局では連日ドラゴンズのナイター中継。更に、日曜の朝にはドラゴンズのカンムリ番組。新聞も然り。これでは、中日ファンにならない訳がない。
やはり親会社が新聞・放送会社なのは大きい。かの読売巨人軍が、関東以北で絶対的な人気なのも、その新聞・放送網の影響であることは紛れのない事実である。
後年経験する、就職先東京の独身寮・娯楽室での巨人対中日のナイター中継観戦。
その折の半端ないアウエイ感。地元にプロ野球チームを持たない地方出身者は、九分九厘巨人ファンと思って間違いない。中日ファンというのは、ほんの一握りだと言うことを、初めて思い知らされことになる。数少ない広島・阪神ファンも『巨人を倒すのはウチだ!』と、それぞれに思っているので、中日・巨人戦ではまず間違いなく巨人を応援する。
要するに、〝長い物には巻かれろ〟って言うやつだ。
初めてプロ野球を見たのは昭和33年、圭司小学2年生。一年生の弟・龍也も一緒だった。
実は父・清八、勤め先〝江口木材店〟が中日球場の近くにあったので、会社帰りに度々その外野席を訪れ、ドラゴンズの応援をしていた。今もそうであろうが、入場料の安い外野席には、常連のファンが集うのだ。圭司も8歳だし、野球が好きなのは解っていたので、『そろそろ実物を見せてもええか?』と考えての〝親子・初観戦〟であった。
圭司は龍也を引き連れて、名鉄〝中日球場前〟駅へ向かった。これも初めての経験である。
『父ちゃん、来るかなあ⁈』二人は不安に包まれながら、父の到着を待った。
「おお、待ったか?よう来た、よう来た。」満面の笑みで清八父ちゃん登場である。
こちらも、やっと会えた安心で笑顔いっぱいの兄弟。三人で球場へ向かった。
松山家の近所にも、鳴海球場と言う古い球場があって、戦前には全米オールスターの一員として来日した、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックもプレーしたらしい。
その隣にはドラゴンズ二軍選手の寮もあり、圭司達は、高校野球や二軍戦もよく見ていた。
次女の日出子が、切符売り場のアルバイトをしていたこともあって、前述の紙芝居の時とは違い、鳴海球場では切符切りのお兄さんやお姉さんも、〝只見〟は大目に見てくれていて、「いいよ、いいよ。」と、ほぼフリーパスであった。
「父ちゃん、中日球場は鳴海球場より大きいの?」と圭司。
応えて清八「さあ、どうだろう?まあ楽しみにしとれ。」
そんな風に、鳴海球場をイメージして中日球場に着いた二人は、その違いに大いに驚いた。
その日は奇しくも宿敵巨人戦。その年の新人スター選手・長嶋茂雄人気もあって中日球場は大入り満員、観衆3万の大盛況。
圭司がまず驚いたのは、鳴海球場と違って外野に観覧席があること。
当時アマチュア野球の球場は、外野フェンスの外は芝生が植わっているだけで、稀に内野に入りきれない観客が出た場合、その芝生席に入れるという方式をとっていた。
東京六大学の、神宮球場も然りである。
それともう一つ、ナイター照明に映されたグランド、特に芝生の美しさだ。
外野席なので、選手の顔は近くの外野手以外殆ど判別できないが、照明に映し出される緑の芝生の綺麗さは衝撃的で、大袈裟に言えば『この世の物とは思えない。』と言う感覚だ。
そんな試合で最も印象に残ったのは、何と言っても長嶋茂雄のホームランである。
打った瞬間、夜空に舞い浮かぶ、ナイター照明に映し出された白球。
それを見守る観衆。そして、一瞬の静寂。外野スタンドに飛び込む打球。
総立ちの観衆。その後の、悲鳴とも歓声ともつかぬ大観衆の叫び声。
『すっげーがや‼』全てが初体験で、全身が総毛立つような興奮を覚えたものである。
その日の試合は、このホームランの所為で中日は敗退。
それでも圭司は、憧れのミスタードラゴンズ・西沢道夫を、遠くからではあるが見られたことに満足して帰途に就いた。
帰りに金山・熱田間のひと駅ではあるが、初めて蒸気機関車に乗れたことも好い思い出。
いつもならとっくに寝ている時間で、既に龍也は父ちゃんの背中で夢の中であった。
その後、何度か父に連れられて観戦したのだが、当時の中日が弱かった所為もあって、圭司の見る試合は、大方中日の敗戦であった。
特にひどかったのは、ダブルヘッダーの国鉄スワローズ戦で当時の国鉄のエース金田正一に第一試合完封され、第二試合にリリーフで抑えられて2勝を献上したケースだ。
その時の状況もまた、印象的。1試合目に完投した金田投手が2試合目、自チームが同点とした後、ウオーミングアップの為グランドに現れると、三塁側内野スタンドから「ウオー。」と、どよめきが起こった。それは我々がいるライトスタンドにも地鳴りのように聞こえるほどで、「おいおい、金田が出て来た。こりゃ、いかんぞ。」
中日ファンは敗戦を予感しザワザワザワ・・・。
スター選手というのは、登場するだけで観衆を沸かせる存在なのだと、思わせる光景だった。
その後、金田は中日を抑え、味方がリードを奪って勝ち投手になった。
前述の権藤もそうであったが、当時のエースは、そんなことが度々あったのである。
中学生になって部活での野球三昧の日々が始まるまでは、毎年5・6回の中日球場での観戦。それと、ほぼ毎試合のテレビ又はラジオでの中継観戦で、否応なしの中日ファン、いわゆる〝ドラキチ〟の体質が醸成されていったのである。
第三話 ライバル(仲間) ~パート1~
昭和三十六年、五年生の担任は小崎米子(こさき・よねこ)先生。
厳しい先生で、圭司は何故かよく叱られた。
いつも言われたのは「もっと、落ち着きゃあよ(落ち着きなさいよ)!」。
そして、圭司と常に比較されたのが、山田満夫くん。
後に私立中学へ進む、いわゆる〝おぼっちゃま〟。
彼も体が大きかったのだが、どちらかと言うと『運動よりも勉強。』と言う、優等生タイプ。
大きいくせに、いつもチョロチョロ、キョロキョロ、落ち着きのない圭司とは好対照だった。
「松山君は、低学年みたいだがね。少し山田君を見習わな、いかんよ。」と言われたものだ。
小崎先生には運動ばかりで勉強に興味の無さそうな圭司に「ライバルを作ってその能力を目覚めさせよう》との狙いがあったようだが、その目論見は残念ながら外したようだった。
その頃、鳴海小学校には、大量の転校生が入って来た。
一つは九州・福岡県からで、前年迄の三井三池炭鉱労働争議の影響で転職移住して来た家族。
もう一つは、三菱重工業が圭司達の住む長屋の裏山を切り崩して造った社宅群の家族。
どちらも、貧乏長屋平屋住まいの圭司から見れば憧れの、鉄筋コンクリート製高僧住宅だ。
この三菱社宅新設がきっかけで宅地開発が進み、鳴海町は名古屋市のベッドタウンとしての地位は確立されるが、嘗て子供達が遊び廻った自然の風景は失われ、前述の〝草(臭)野球〟の様な野原や田畑は殆ど無くなってしまう。
そんな訳で遊び場に困った圭司達は、そこから1㎞程の距離にある郵政研修所グランドに目を付ける。実はこのグランド、郵政省の研修所の所有で、五時以降はその軟式野球部が使用しているのだが、放課後から五時までは空いているので、その隙間を縫って管理人の目を盗んでは、こっそりといつものメンバーで楽しんでいたのだ。
最初は咎めていた管理人も、子供達が遊び場を奪われた事情や、本当に野球が好きなことも解って「終わったらちゃんとグランド直すんだぞ!」の一言で、使用を許すことになる。
3時頃から、研修所の野球部が練習を始める5時過ぎまでの2時間程、時には研修所の部員と一緒になることもあった。一緒にやるといっても、ほぼ球拾いだが、小学生にとってのそれは、とてもとても嬉しいことであった。
小学校に話を戻す。
そんな都会の子供達が編入されてくると、田舎の子供は少なからず動揺するものである。
五年生だけで福岡からの転校生は3~4名、三菱組は7~8名はいたと記憶している。
九州組、三菱組それぞれ違う地域の集合住宅からの集団通学で、校内でもそれぞれの仲間同士で集まることが多く、以前からの在校生とは、何となくギクシャクした雰囲気であった。特に九州組は、仲間内では九州弁で話せることもあって、その団結力は堅かった。
三菱組は普通に名古屋弁で話すし、大体はドラゴンズファンだったので比較的溶け込みは早かったが、九州組はほぼ全員〝西鉄ライオンズファン〟だったことも影響は大きかった。
そんなある日の放課後、いつもの通り郵政研修所グランドで、いつものメンバーでの野球を楽しんでいると、三菱組転校生の佐藤康夫が、何人かの仲間を引き連れてやって来た。
「仲間に入れてくれんか? 好かったら試合しよまい?(しようか?)」
「おお、ええぞ! やろまい(やろう)、やろまい。」
同じメンバーでの野球に、何となく飽きてきたところなので大歓迎だった。
そして試合は始まったが、相手は強い。と言うか、こちらが〝弱すぎ〟なのかも知れない。
人数の関係で三角ベースでの試合だが、相手佐藤投手の投げるカーブに手も足も出ない。
鳴海の田舎では見たこともない球で、皆ビックリしてしまった。と言うのが正直な所か?。
佐藤康夫は名古屋で少年野球をやっていたようで、そこでカーブの投げ方を覚えたらしい。
その後も、放課後の三角ベースを続けることで、三菱組とは仲間としての絆が出来ていった。
そして、そのグランドのすぐ横、窓からその様子が見えそうな場所に、三菱社宅よりは若干小ぶりではあるが、九州組のこれ又鉄筋コンクリート造りの集合住宅があった。
その後も三菱組に負け続ける鳴海田舎組。『何とか佐藤に匹敵するピッチャーはいないの?』
鳴海組の皆に、悔しくて眠れない夜が続いたある日、苦境を救う救世主が現れるのである。
九州組の転校生、古屋孝之だ。彼は圭司と同じクラス、5年5組への転校生であった。
小柄でちょっと可愛い、今で言うとジャニーズタイプの少年で、女子人気は高かった。
そんな古屋少年も野球が大好きで、グランド近くの集合住宅の自宅ベランダから、毎日のように行われている同年代の子供たちの三角ベースの様子を『へったくそ!だけど楽しそう。』と、彼ら、特に鳴海組の野球の下手さ加減に呆れると同時に、ちょっと羨ましい気持ちが混じった複雑な心境で眺めていた。
『行こうかな・・・? でも、あいつら下手だしな・・・?』
そしてある日、古屋は意を決してその場所に足を運んでみた。
一人では心細いので、同じ福岡県大牟田からの転校生で一年先輩の、古賀和雄、鍬山章(くわやま・あきら)の二人も引き連れての登場。
他の二人は知らないが、古屋は知っていたので圭司が声を掛けた。
「おう、古屋じゃないか!一緒に野球やるか?」
古屋にとっては〝渡りに船〟であった。「ああ、やってもいいよ!」古屋は即答である。
丁度その日は、鳴海組に欠員が出来てちゃんとした試合が出来ず、変則的に敵味方入り乱れての試合でお茶を濁していたので、圭司たちにとっても願ったり叶ったりであった。実はその試合の様子を自宅ベランダから見ていた古屋が、他の二人を誘って参戦してきたのであるが、そのことは試合中の皆は勿論知る由もない。圭司は相手のリーダー佐藤に声を掛けた。
「おおい!康夫、この三人入れて最初から試合やり直ししよまい(しようぜ)?」
佐藤「オッケー!」
鳴海組のリーダー圭司は、古屋に「誰か、ピッチャーやれる奴おらんか?」と聞いてみた。
「そんなに速い球じゃないけど、俺、投げれるよ。」古屋が応えた。
「ちょっと、投げてみ?」その時キャッチャーだった圭司は、古屋を促した。
受けてみると、確かにそんなに速い球じゃないが、コントロールは好さそうだ。
兎に角、鳴海組の投手は、誰がやってもコントロールが駄目で、試合にならないのだ。
『よし、これで何とか普通の試合が出来そうだ。』圭司は、少し嬉しくなってきた。
そして始まった試合、古屋投手は持ち前のコントロールで、三菱組を初回無失点に抑えた。
その裏、鳴海組の攻撃。助っ人の九州組に敬意を表して彼らを1~3番に並べた打順である。
先ず、古屋が打席に立った。何と、右投げ左打ちだ。今でこそ当たり前で、スター選手の多くはそれであるが、当時はプロ野球でも殆ど見たことがなかった。
『かっこいい‼』圭司は惚れそうになってしまった。
その他の九州転校組も皆上手で、その日鳴海組は初めて三菱組に勝利することが出来た。
その時の鳴海組のメンバー、沢村定吉、荒川忠義、阪野真人、横山修)、阪本鋭一と圭司、九州組の古屋・古賀・鍬山は鳴海中学に進んで野球部に入り、ともに活躍することになる。
佐藤康夫は、残念ながらカーブの投げ過ぎで肘を痛め、中学ではサッカー部に入部する。
第四話 ライバル(仲間) ~パート2~
その頃、三菱の社宅に引っ越して来た転校生の中に、一人目立つ男子がいた。
彼は、他の三菱組の仲間とは一線を画し、一緒に草野球に興じることはなかった。
聞くところによると、父親の転勤による東京からの転校生とのこと。
お父さんは結構なエリートらしくて、本人も国立の中学を目指す優等生。
体も大きくて運動神経抜群、しかもちょっと男前である。あっという間に、女子の間では評判の人気者になってしまった。
名前を、久保田由伸といった。田舎の女子は、兎に角『東京。』と言う響きに弱い。
その上、男前で勉強も出来て、運動神経抜群とくれば、もう〝いちころ!〟である。
それに対して面白くないのは、やっぱり在校生男子たちである。何かに付けて難癖を付けたりするのだが、彼は一向に動ぜず爽やかな対応でかわしていた。
女子人気が高いので、意地悪なんてしたら、学級会で直ぐに〝吊し上げ〟にあってしまう。
そんなこんなで苛ついた男子たちが、圭司をその対抗相手に祭り上げようとやって来た。
代表して、たー坊こと、荒川忠義が言った。
「圭ちゃん、久保田に対抗できるのは、おみゃーしかおらん。何とかしてくれ!」
そうは言われても、圭司もいい迷惑である。『久保田に勝てる要素なんかある訳ない。』
実際この頃の圭司は、ドッジボール・野球等の運動はある程度自信はあったが、勉強や男前度では全く彼にかなうとは思えなかったのである。
「たー坊、何とかせいと言われてもどうすりゃええんだ?勉強も顔も無理だでよ!」
「おみゃーはたわけか?そんなの無理だって、誰だって分かっとるよ!」とたー坊。
続けて「ともかく、全部久保田が一番。と言うのがいかん!野球でもドッジボールでも何でもええで、あいつに勝つものを見つけて、やっつけよう。出来れば運動は全部だ。」と来た。実を言えば圭司も、東京弁で気取った感じの、ちょっと名古屋を小ばかにしたような〝上から目線〟の久保田に、あまり好い感情は持てなかった。
『ここはひとつ〝名古屋の意地〟見せたるか!』
その日から、たー坊と二人で特訓に入った。
そして一か月後、たー坊は〝果たし状〟を持って、久保田由伸を訪ねていた。
『〝果たし状〟なんて大袈裟な。』と思うかもしれないが、当時漫画の〝赤胴鈴之助〟や、映画の〝宮本武蔵〟等で決闘の場面がよくあって、その際に使われる手紙〝果たし状〟を真似て、野球やドッジボールの試合の申し込みをするのが、鳴海小では流行っていたのだ。
若干遡って三年生の時の話になるが、次のような果たし状を送り付けられたことがあった。
これは同級生・阪野寛の姉・真紀子が、圭司に送って来たものだが、
果たし状
三年四組 男子代表 松山圭司殿
○月○日の昼休み、ドッジボールの試合を申し込む。
西運動場のブランコの前あたりに、場所を取っておくので必ず来るように。
もし来なかったら、おじけづいたと言うことで学校中の笑いものになるからそのつもりで。
覚悟してかかって来なさい。
五年七組 女子代表 阪野真紀子
何故こんなものを彼女が書いてきたのか、当時はよく分からなかったが、前述の通り阪野家はその辺りでは有名な資産家で、そのお嬢様とくれば当然、近所では評判の美人。しかも運動神経も好くて、特にドッジボールは得意だったようで、左利きの腕にボールを巻き込んで、野球のアンダースローのように投げる球は、同学年の女子では誰も取ることが出来ないほどに強烈だった。
そんな訳で、同学年女子とのドッジボールに物足らなさを感じていた矢先に、弟・寛がやっつけられた松山圭司のことが耳に入ったことに加えて、彼が結構ドッジボールも強いことも噂で知って、この果たし状になったらしい。
一方受け取った圭司は、そんなことは意に介せず、『何で女子となんか、試合せないかんのだ!』と無視を決め込んでいた。
ところが、周りの男子が黙ってはいなかった。「このまま女子に、馬鹿にされていいのか?」
特に寛は、このままでは姉ちゃんに何と言われるか何をされるかを想うと、居ても立ってもいられなくて、圭司にしつこく決断を迫って来た。
他の男子の中には、美人の寛の姉ちゃんの、例の〝ちょうちんブルマ〟スタイルが間近に見られるとあって、盛んに試合を勧める怪しからぬ輩も結構いたのだ。
そんなこんなで、クラスの大半は〝試合決行〟に傾き、その回答が寛を介して姉・真紀子に伝えられる運びとなった。
試合の方は、流石に二年の年の差は大きくて、接戦ではあったが真紀子姐さんの勝ち。その後の真紀子、その闘いが心地好かったのか、何度も果たし状を書くことになっていく。
その頃の圭司にとっては、ある面ライバルの一人と言っていい存在であった。
さて、本筋の久保田との対決だが、彼に対する果たし状、内容的には真紀子姐さんのものと変わりなく、競技名が野球に、場所が前述の郵政研修所グランドに代わっただけであった。
果たし状を受け取った久保田、彼も同学年で何かと目立つ圭司のことは気になっていたようで、『渡りに船!』とばかりに早速果たし状を持って昼休み、圭司の所へやって来た。
「松山君、果たし状ありがとう。君とは一度話したいと思っていたんだよ。」と久保田。
『〝きみ〟ってなんだ。』そんな呼ばれ方をされたことがない圭司は、背中がムズムズした。
続けて久保田「ぼくも野球は大好きだよ。試合は勿論okだけど、その前に一度キャッチボールしないかい?」と来た。
圭司は、この歯の浮く様な〝東京弁〟を聞きながら、
「キャッチボールって言ったって学校にボールもグローブもないし、帰ってから郵政グランドでやろまいか?」と提案した。
「いいよ!」と久保田。「じゃあ、果し合いも、今日そこでやっちゃおうぜ!」と来た。
そういう話は即決で、早速、仲間を集めて段取りの相談となった。
いつもの通り三菱組対三井三池九州組+地元鳴海組にチーム分けして、久保田を三菱組に編入するというチーム編成で試合することに決定した。
その時の話で、久保田は当時東京で発足したばかりの、リトルリーグと言う少年野球組織で野球をやっていたとのこと。勿論、巨人ファンでドラゴンズなんかは目じゃないらしい。
そんな〝上から目線〟も癪に触って、更に闘志を燃やす圭司達であった。
放課後の午後3時頃、メンバーは集結した。久保田以外はいつもの通りである。
圭司は久保田をキャッチボールに誘った。
『ここでは、まだ相手がいないだろう?』と考えての圭司なりの配慮であった。
始まって少し経ち体が温まると、知らず知らずに投げる腕に力がこもり、ついには全力で投げ合う久保田と圭司。
互いのボールの力に気分が徐々に高揚していくのを、心地好く感じるライバル二人だった。
その他のメンバーも準備を終え、いよいよ〝果し合い〟は始まった。
その方法は、二人がピッチャーとバッターになり、三打席対決して勝敗を決めると言うもので、守備はそれぞれのチームで行い三振は有りだがフォアボールは無し、その果し合い終了後に、改めて両チームの試合を楽しもうと言う段取りになっていた。
圭司の先攻で始まり、投手は久保田。先程のキャッチボールで、ある程度力は分かっていたので身構えてボールを待つ圭司。
第1球ズドーン、第2球ズドーン、あっという間に2ストライク。第3球、空振りで三振。
第2打席、同じ様な経過で2ストライクの後、3球目何とかバットに当たってファール。
こうなると圭司、必死である。
一方久保田は、不敵な笑みを浮かべて余裕の表情。
『ムカッ!』ときた圭司。次の球に食らいついてやっと当てるも,内野フライでアウト。
そして迎えた第3打席、圭司は焦っていた。周りの皆も懸命の応援である。
「圭ちゃん負けるな! 次、絶対打てるぞ!」たー坊も必死の声援だ。
圭司も速い球に慣れてきて、何とかバットに当たるようにはなってきていた。
その後も粘りに粘ってフォアボールとなり、四球なしのルールに従って得た第4打席。
その1球目、真ん中に来た球にバットを一閃すると、まぐれ当たりのセンター前ヒット。
圭司も応援団も狂喜乱舞する、正に値千金の一打となったのである。
攻守ところを替えてバッターは久保田。何と左打席である。
『おー、右投げ左打ち。さすが、東京はかっこええ‼』圭司の素直な心の叫びだ。
一方、1安打されたものの自信満々の久保田。
『2本打てばいいじゃん!』とは久保田の心の声。
ところが学年一の強肩でソフトボール投げ50㍍以上を誇る圭司の球は、思いのほか強烈。、
第1・第2打席共に、振り遅れの内野フライに打ち取られる。
あっと言う間に最終第3打席を迎えることになって、焦る久保田。
『嘘だろ!リトルリーグでやって来た僕が・・・。』
『こんなはずはない。』再び心の声である。
実は、球は早かったがコントロールに自信がなく、普段は九州組の古屋孝之に投手を任せてキャッチャーをすることが多かった圭司だ。
この2打席も自信満々の久保田が、打ち気にはやってボール球に手を出した結果であった。
このことには久保田も気付いて、『今度はしっかり見極めていこう!』と考えていた。
その結果、じっくり見られると制球難は隠せず第3打席はフォアボール。
圭司攻撃時と同様、第4打席での勝負へと移っていった。
そしてその第1球目、〝四球後の初球を狙え〟のセオリーに従い、打ち気満々の久保田。
圭司が力一杯に投じた真ん中高めの好球を、これまた力一杯に振り抜いた。
『やられた!』頭を抱える圭司。
『センターオーバー?』と打球方向を振り返る。
ところが、久保田の力を警戒して予め深めの守備位置をとっていた、荒川忠義こと・たー坊があっさり捕球して〝勝負あり〟。果し合いは圭司の勝ちとなった。
その後久保田とは、小学校卒業までライバルとして野球だけではなくドッジボールや運動会で鎬を削るが、学業優秀な彼は国立の愛知教育大学付属岡崎中学に進学する。
その為に暫く疎遠になるのだが、高校2年の秋の県大会決勝で負けた時、最後のバッターだった圭司が三振したのを見ていてくれたようで、熱田球場出口で待っていて、
「ホームラン打つかと思ったよ。」と、声を掛けてくれたのだ。
その時、何だかとても嬉しくて、懐かしい気持ちになったのを、よく覚えている。
何十年経っても忘れられない、幼きライバルたちの思い出である。
第五話 中学野球部の先輩
昭和37年、圭司小学六年生。
その年の秋祭りが終わった頃、いつもの草野球仲間と郵政研修所グランドで遊んでいると、中学生らしい何人かがトレパン姿で現れ、外野グランドでランニングや準備体操を始めた。『何だろう?』と思ってみていると、その内、キャッチボールが始まった。
7~8人のグループで、どこから来たのかその立ち居振る舞いが、やけに恰好よく見えた。
その時一緒にいた、草野球仲間の古屋孝之に教えられて判るのだが、鳴海中学の野球部員らしく、古屋孝之の兄・健一もその中にいたのだ。
鳴海中学野球部は夏の大会も終わり、新チームになっていた。
従って、2年生が最上級生である。
この場にいるのもほぼ全員2年生で、試験中で校庭が使えないらしく、有志がここへ来て、体を動かしているとのことで、古屋の兄貴の他に新チームのキャプテン・野々山誠もいた。キャッチボールにしても、ゴロを捕ったりバットを振ったりする姿にしても、自分たちとは雲泥の差で、『ああ、こうなりたい!』見ている小学生は、皆〝羨望の眼差し〟である。
その中の一人に、中学最後の大会も終わり、高校での野球に夢を馳せる3年生がいた。
名を〝加藤武夫〟と言う。特待生で名古屋の私立高への進学が決まっている、内野手である。
「こいつらは、まだ部活があるから試験中しか来れんけど、俺はもう中学は引退だから、ここで練習したいと思っとる。好かったら一緒にやらんか?」と言って来た。
勿論OKである。翌日から、放課後に集まっての練習が始まった。
時には、研修所の野球部員と顔を合わせることもあって、中学生を頭とするこのグループに親しみと可愛さを感じた部員達は、小一時間も練習を共にすると、「タケ!」「ケイジ!」等と、下の名前で呼ぶようになっていた。
小学生や加藤武夫にとっても〝好いお兄さん達〟であった。
圭司達小学生は5時過ぎには帰ることが多かったが、加藤はほぼ毎日、郵政研修所野球部の練習に参加することになった。
中学生の加藤にとっても、大人の先輩達との練習は良い勉強になったはずである。
小学生達は、加藤にボールの投げ方や捕り方を一から教えられて、見る間に上手くなった。
時には小学生にノックをし、時には自ら手本を見せながら、加藤は
「兎に角、足を運べ。体をボールまで持って行ってから捕るんだ!」
「捕ってから投げる時も、動きを止めずに、必ず足を投球する方向に運んで投げろ!」
「その勢いのまま、投げた相手の方向へ走り抜けるくらいのつもりでやってみろ!」
その上で、投げた後の右手をひらひらさせる巨人・長嶋の形態模写も交えて
「どうだ!長嶋みたいで格好ええだろ?」と来た。
それには皆、声を揃えて、「おお、似とる、似とる‼」と大喜びだ。
圭司もそれを真似て連日の練習に励んだ結果、投げた後のひらひらポーズが癖になってしまい、高校入学後当初の守備練習で「何、恰好付けとるんだ!」と大目玉を喰らう事になる。
中学の部活で習ったことを、そのまま伝えてるだけだが、加藤武夫にとってもこれは、好い復習になっていたと思われる。
こういうものは〝習うより慣れろ〟で、兎に角〝数をこなしたもの勝ち〟である。
小学生達も、スポンジが水を吸い込むように、技術を吸収し上達していった。
いつしか彼らは加藤を『たけちゃん』、加藤も『タカ』『たー坊』等と呼び合うようになる。
郵政野球部の大人たちも同様で、こんなコミュニティ、中々見られたものではない。
お陰で、たまに学校で野球をやれば、彼らは小学生の間では羨望の的である。
「松山君、上手い!」「たー坊、かっこいい!」等々・・・。
こんな声を聴いて、皆、得意満面になったものだ。
加藤武夫は、前述の愛知郡小・中学校対抗陸上競技大会中学の部で、百メートル走の鳴海中学代表選手として出場し、見事十一秒台の記録で優勝した。
その脚力もあっての、私立校への特待生入学である。
開会式で、郵政グランド練習仲間の、阪野真人と圭司を見かけて駆け寄り、
「おう、お前らも代表で来とったか‼大したもんだ。見なおしたよ。」
と嬉しそうに声を掛けてくれたが、こちらも、それが誇らしくてとても嬉しかった。
その自信を持ったまま、この練習仲間の殆どが翌年は鳴海中野球部に入ることになる。
当時の鳴海中野球部は、県でも有数の強豪校で、同じ地区(愛知郡)ではほぼ敵なし。
毎年愛知県の強豪高校へ、野球特待生を輩出しているいう状況であった。
鬼監督の存在も先輩達との圧倒的な力量の差も、この頃の彼らは知る由もなかった。
その後の彼らの活躍?に付いては、次巻以降に〝乞うご期待〟。
青春の鼓動 ~僕たちの昭和~ 第一巻 芽生えの季節(とき)
青春の鼓動~僕たちの昭和~第一巻第一章を最後まで読んで頂き、有難うございました。
昭和30年代の話で、記憶も定かではないことも多く、或いは間違っていることもあるかも知れませんが、私なりに当時の雰囲気は描けているのでは?と自負しております。
第一章『幼馴染(おさななじみ)』・第一話『夏の景色』と第八話『秋祭り』では、その当時の尾張地方の田舎の風景と子供たちの遊び方やその人間模様を、子供たちなりの年功序列による上下関係を通して描いてみました。
第一章・第二話『入学』~第七話『友だち先生』では、小学校入学から卒業までのエピソードを、時系列に列挙して、その人格形成に影響した人々との関わりを描くことで、圭司の成長過程をご覧いただきました。
第二章『家族とその暮らし』では、主人公である松山圭司の育った環境や、両親・兄弟姉妹のエピソードも交えて、その人となりを解かって頂こうとしています。
第三章『大好きな野球』では、圭司と後に彼に絶大な影響を与える〝野球〟との出会いや、ライバル(仲間)達との絆が描かれています。彼が、徐々に野球に傾倒していく様子が窺えると思います。
第一巻は、物語の幕開けと言うことで小学校卒業まででしたが、引き続き中学・高校編も執筆予定ですので、興味のある方は、是非お楽しみにしていてください。
中学・高校と益々野球にのめり込んでいく圭司。
中学では、1964年の東京オリンピック当時のエピソードや、野球部の友人たちの話。
高校では、進学した、当時日本一だった名門高校野球部の練習の様子や裏話も書く予定です。
2016年に出版した、弊著『野武士軍団の詩』にも続いていくストーリーとなっています。
その点でも、数少ない愛読者の皆様はご期待ください。宜しくお願い致します。