黒い日傘をさす男

黒い日傘をさす男

 いやぁ奥様、商談の前ですが、先日この前の通りで何とも言えない不思議な光景に遭遇いたしましたので、少しお話しさせてください。

びっくりしたのなんのって、しばらくその場で呆然とした状態でおりました。

なんでもその日は朝からおてんとう様の日差しがギラギラと降り注ぎ、背中に湯たんぽでも背負っているかのような暑い日でした。

帽子をかぶらずには街をやたらに出歩くことは避けたほうがよいと誰もが思う日でありましたから、朝の6時から日差しがアスファルトの道路を照りつけ、その熱気の照り返しがむんむんとしてまいりまして、通勤や通学途中の方たちで気分の悪くなる人もいらしたことでしょう。


 ああ、興奮して少し口の中が渇いてまいりました。失礼してお茶をちょうだいいたします。

うーっと、やはり夏は冷たい麦茶にかぎりますなあ。

どうしたって、汗が噴き出てまいりますと、この汗拭きタオルが大活躍です。

ええ、顔がほてっていますでしょう? 

冬の寒い季節でも何でも手に汗をにぎった状態でおりますので、女性の方とは手を握ったりすることはめったにできないのでして、これもひとつの悩みなのです。

本当に困りもんでして、書き物をしていても紙がぐちゃぐちゃになってしまってどうしようもないのですわ。

まあ、そんなことはどうでもよろしいのですが、こう暑いと今日の商談も話が進まないかもしれませんなあ。

暑さは感情や行動の意欲の低下を招きますので、どうしたってわたしなどは仕事の能率が上がりませんから、今日のところはもうご容赦ください。

新商品のご紹介の件はあらためて伺いますので、よろしくお願いします。

わたしは人様と話をするのは嫌いではありませんので、つい空回りをして中身のない雑談で終わってしまうことが数知れないのです。

奥様も今日はどこにもお出かけにならないとお聞きしましたので、少しの間おつきあいを願えればと思います。


 〝田舎の学問より京の昼寝〟と申しまして、昭和49年に加賀の小松より18の歳で商売を志す想いで一心不乱に東京に出てまいりました。

色褪せたなめし革のバッグに衣類や日用品の最低限の必需品を詰め込み、ごくわずかな小遣いを持ってきただけで、こちらには身寄りや知り合いなど誰もおりませんでしたから、何一つあてもなく鈍行列車を幾度も乗り継いでやっとの思いで上京したのです。

しばらく東京に出て自分の進むべき道を探してみます、とだけ書置きして出てきただけですから、両親はさぞかし心配しているのだろうと心が痛みました。

落ち着いたら、便りの一通でも出しておこうと官製はがきを購入しようかと思いながら、ぶらぶらとどこへ行く宛てもなく、東京の街をさまよっておりました。

東京はどのようなところかと、はじめは浅草や上野を訪ねてみましたが、夕方には日比谷まで歩いてきてしまいまして、へとへととしてきたので、小さな裏通りを入ったところに〈居酒屋 呑平〉という店で独り寂しく熱燗をひっかけながらこれからどうしたものかと思案しておりました。

そのうちに寝入ってしまい、店の大将に迷惑をかけたことを今でも忘れることはありません。

とにかくまずは働きぐちだけでも探して、自分で食べていけるだけの稼ぎを得なければなりません。

その〈呑平〉にはその後幾度か足を運ぶようになり、店の大将もそのうちに哀れに思ったのか、懇意にしていただくようになり、うちの店では雇えないが、知り合いの経営する喫茶店の主人に話をつけてやると言ってくださったので、その厨房で下働きを始めてみることにしたのです。

あかぎれの絶えることがない、身を骨からほぐされてしまったようなつらい日々として記憶に鮮明に残っています。

真冬の水が冷たい時の食器洗いから始まったその仕事は、はじめのうちは主人に洗い方が雑だの遅いだのと、頭を小突かれながらそれは惨めな思いをしました。

地震がくればすぐにでもぺしゃんこになりそうな四畳半ひと間アパートで毎日ひとり、要領のわるい自分が情けなく、人生の厳しさを思い知り、毛布にくるまってシクシクと泣いていたこともありました。

血のにじむような数々の苦労と屈辱を味わい、挙句の果てはたちの悪い同僚から陰湿ないじめと激しい暴力を受けて、全治4か月の大けがで長期入院したことや、自分の不甲斐なさから凶悪な犯罪事件に巻き込まれ、殺されそうになったこともあったのです。

 しかし、〈呑平〉のやさしい大将の温かい励ましで何とか3年ほど勤めあげ、どうにか釜の飯が食えるだけの生活ができるようになりました。

わたしはどうも一つのことに一生涯をかけて打ち込むタイプとは言えず、いろいろなことに手を出したくなる性分で、その後、酒造に関心を持ってみたり、プラスティック製品の加工を経験してみたり、化学薬品販売業に携わったりで、転々と職の変更を重ねてまいりました。

わたしの向上心は幸いにも社会順応意識を成熟させてくれ、ライフスタイルを確立させたい一心でここまでやってきたのです。

特にこれといった趣味も特技もありませんが、金を少しでも蓄えて安定した生活を勝ち取るため、毎日、無我夢中で働いてきました。

 あれからかれこれ40年ほど経つわけですが、その後は、こんな背格好であごの引っ込んだこの容姿ですし、真面目な性格ではありますが、外見上何を考えているのかわからないように見えるので、変人扱いされることが多いようです。

そんなことで、女性とはまるで縁がなく、常に独りで人生を歩んできたのです。

この自動車販売の営業を始めて20年ほど経ちますが、今は気持ちの余裕が出てまいりまして、好きな麻雀を仲間とすることもあれば、地元の観光ボランティアなどの地域貢献というのでしょうか、コツコツとではありますが、続けているところであります。

あっ、そうそう、この次には奥様、ニューモデルの電気自動車が登場いたしますので、ご案内させていただきましょう。

今日は慌ててパンフレットを置いてきてしまいました。

やれやれ、というような顔をされているようですが、どうも話が止まらなくなってしまいました。

身の上の話をし出しますと長くなっていけません。

それがおまえの悪い癖だと上司から言われている始末。私は歳の割にはちっとも偉くなれない万年の営業係長です。

この前、差し上げました名刺をもう一度ご確認ください。

もうかれこれ今のポジションで15年になります。

私には学歴もなく、結局好きだった文学研究も諦めてしまいましたから、学問もろくに修めておりませんので学歴もなく、昇進することはなかなか難しゅうございます。

しかし、私ももう2年で退職を迎え、勤めも終わりです。

どうです? はたから見たらつまらない人生だとお思いになりませんか? 

でも、こういう人間も中にはいるのです。考えてみてください。

能がない私なりに頑張ってきた血と汗の結晶である〝月産センドリック〟がどれだけ売れ、どれだけ巷で見かけるようになったことか。

今まででおよそ1,500台を一人で売ってきたのですよ。

この記録はなかなか他の営業マンでも破ることはできますまい。


 まあいいでしょう。今日は次の訪問先がございますので、御用聞きに伺ったつもりでしたが、奥様とは世間ばなしをいたすつもりでおじゃましている次第です。

ええと何でしたっけ・・・・・・。あっ、そうそう、この暑い日ならではのお話をさせていただくはずでした。

すっかり話に夢中になるとどうもブレーキが効かなくなってしまいます。いやはや面目ありません。


 駅からこちらに来る途中に、ずいぶんと小奇麗にしたフラワーショップがありますでしょう? 

あのあたりは日陰がまったく見られないところです。

私は暑さにうなだれながら、帽子を深めにかぶり直して足取りを速めようとしていたときのこと。後方の左の脇道から一人の人物が足早に私の進んでいる同じ方向に歩いて来るではありませんか。

後ろを振り向いたわけではありませんが、明らかにハイヒールか何かが地面を蹴る音が徐々に周囲にとどろきわたってくるのです。

その音は確実にこちらに向かって近づいてくるのですが、その時はその人物がやがて私を追い越していくのであろうというありきたりの想像を頭の片隅にふんわりと思い浮かべた程度でした。

すると濃い化粧の匂いが私の鼻をツンと突きました。

数秒後にその人物は私を追い越して前方へ躍り出たかと思うと、あっという間に私はその人物に引き離されてしまいました。

私は歩くときは、落ち着き払った像のようにダラダラと小股で歩くほうですので、同じ方向に歩く人々はよく私を「この、うすのろ亀めッ」とでも言いたげ表情で振り返っていくのですが、この時は女性姿の見た感じ気弱そうな人のようでした。

足早に通り過ぎるのを見て早く離れたい気持ちが何よりも優先しました。


 ところがです。そのあとはどうしたことか私の30メートルばかり先まで進んだところで急に方向転換し、もとの来た道を戻り始めたのです。

その女性は何か他の用事でも思い出したのでしょうか、はたまたどこかに忘れ物でも取りに戻るのでしょうか。

いずれにしても、こちらにまた近づいて来ます。

彼女は黒い日傘をさして、顔を隠してうつむいていました。

私も普通に戻るなら驚きはしませんでした。

彼女は内股で一歩一歩歩み寄ってきます。

女性特有の匂いが私の周囲に立ち込めたかと思うと、彼女は突然顔を上げ、私のほうをカッと一瞬睨めつけてきたのです。

ミニスカートの彼女と完全に目が合ってしまいました。

私はこの現実が想像をはるかに超えた魔物のいたずらかと思いました。

今までに何故気づかなかったのか、いや、このまま気づかなかったほうがよかった、何も気にかけずにすれ違えばよかったと自分の行動に後悔し始めました。

なんとですよ、その顔は黒ゴマをまぶしたかのように、数日間は剃っていない無精ひげを蓄え、顔もおでこからてっぺんにかけて禿げ上がり、もみあげから横に後頭部のところだけが丸刈りで毛が残っているおやじ頭だったのです。

いささかの迷いもなく中年のおじさんであったと断言できます。

私は度肝を抜かれて、ただただその場で呆然としてしまいました。

しばらくは空いた口もふさがることもなく、夏のカンカン照りなかを黒い日傘をさしながら、敏活に姿を消していったその男を見届けていたのです。


 私にはあの黒い日傘をさした男が、朝から何の目的であのような恰好をしていたのかという疑問がいつまでも頭から離れることはありませんでした。

最近はあの手の人間もめずらしくはないと言えばそれまでですが、首から上は化粧なしの禿げた中年男の頭、首から下はスタイルの整ったハイヒール姿のボディ。

何とも異様でアンバランス、滑稽な風貌を想像してみてください。

その日だけの仮装なのでしょうか、それとも日常あの姿で社会生活を送っているのでしょうか。

奥様にも見ていただきたかったですね。今頃はどこで何をしていることやら。

でも、もう出くわすこともありますまい。逆に〝触らぬ神に祟りなし〟ですから、一つのみやげ話としてどうぞお聞き流し下さい。

〝舌は禍の根〟とも申しますから、これ以上の無駄話はやめにして、失礼させていただきます。

黒い日傘をさす男

黒い日傘をさす男

ある車販売の営業職の男が、商談のためにある御宅に訪問し、突然何かを語り始めた...。その真相とは?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-11

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