フルートとヴァイオリン (第4章 オペラ)
ダンスの得意な萩谷オサムは、札幌稲穂小学校の同窓生だった。卒業から約15年経てウィーンの特派員になったので「イサム、オサムの漫才コンビ」の復活である。
ある晩、僕のアパートで華やかな舞踏会の思い出に浸りながら二人で白ワインを酌み交わしていた。ここは青空青果市場や「外人ゲットー」のあるナッシュマルクト地区で、18世紀にできた石の集合住宅の一画だ。
「それにしてもアルテドナウ合奏団、本当に御苦労様! 御蔭様で楽しかったよ」と黒ぶち眼鏡の萩谷が言ってくれて、土産に持ってきた燻製生ハム「シンケンシュペック」を皿からつまんだ。
「そりゃどうも。しかし演奏するより、踊る方が賢いね」と答えながら僕も生ハムをさらう。
「我々はお客で無責任だからな……あんさんも、ヴァイオリンの彼女誘ってワルツしたら良かったね」
「ウーン……」
「いや、実は最近、面白い記事を見つけてさ……」と言いながら、彼はカバンから何やらクシャクシャッとした書類を取り出した。そして、
「この町で精神分析を始めたフロイト知っているだろう?」と問題提起する。
「ジーグムント・フロイトね」と答え、僕はグラスのワインを飲み干す。そこで彼は、
「フロイトのいたウィーン総合病院に、チャンドラセカールとか言うインド人の先生がいて、お母さんが日本人。 これは職場の訳で少し稚拙かも知れないけど……」と前置きし、声に出して読み始めた。
「人間の精神には常に自我とエスの双方が宿るが、思春期に起きる画期的な出来事は、全てエスの登場と深く関係している。子供が男性・女性として発達を遂げていく頃、頭の中では生殖本能を司るエスが突然、存在感を高めるのである。
例えば、声変わり。エスは喉の奥の迷走神経を操る様になり、声が一時的に不安定化して声変わりが起きる。その後エスは時々、自我からマイクを借りるように声を出して歌を歌い、求愛する様になる。
そしてエスの活躍できる都が、何を隠そう、ウィーンではないか!」
ここで僕が口を挟んだ。
「と言うことは、女に感じる頃には、エスが登場するわけか?」
「多分」
「信じがたい!」
「うん。でも舞台系のオジキによれば、興に乗ると突然、声を奪われてセリフが自然に出るらしい」と萩谷が解説する。
「それって、オペラ座の怪人じゃないか?」
「エスがカミングアウトするのかなぁ……」
「そういやこの間、ミス平原と良い雰囲気だったねえ!」と僕はバルの話にすり替えた。
「いや、とんでもない! 彼氏がいるだろうし」
「いいなあ。ダンス上手いと便利だろう?」
「いやいや……噂じゃあ、国谷君、バルの帰りに彼女を家まで送って」と言って彼は突然ニヤリとし、ついに、
「ウワッハッハッ!」と声を立てて笑いこけた。
僕は憮然としている。
「今度はオペラにでも誘ったら?」と彼が煽るので
「余計なお世話だね」と答えてやった。
萩谷の帰った後、国立オペラ座のウェブサイトを検索し始めた。すると三月の日程に、ちょうど良い演目が入っていた。楽団で練習の始まる作品だ。学生の津軽マミは立ち見が多かろうと、少し良い席をネットで手配することにした。そして準備が整ったところでメールを打ち始めた。
「津軽マミさん しばらく御無沙汰していますが、お元気ですか。実はオペラの切符が手に入りました。再来週の火曜日の『フィガロの結婚』だけど、一緒に見に行きませんか。幕間に、女神の彫像が並ぶテラスでシャンパンを飲もうよ。きっとお姫様の様な気分になれるから。国谷イサム」
返事が来たのは次の日、それも夜中の零時過ぎだった。
「国谷さん
お誘いどうも有難う。喜んで御一緒します。どうぞ宜しく 津軽マミ」
やったね!
国立オペラ座は、シュテファン寺院方面からケルントナー通りを下り、環状道路「リンクシュトラッセ」に出て右手のルネッサンス様式の壮麗な建物である。杮落しは1869年で、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が公演された。東京なら歌舞伎座に相当するのだろうか。
彼女との約束の当日は雪で、夜になっても降り続いていた。僕は7時前にオペラ座に到着した。地上階の周囲には二階の張り出し部分を屋根とする豪華な回廊があり、訪問者を取り敢えず悪天候から守ってくれる構造だ。そこでほっと息をつき、玄関で靴の雪を払い落しながら中に入った。そしてプログラムを買い、玄関に戻った。
暫らくするとマミがやってきた。彼女は例の白と茶色の毛皮の帽子を被っている。いつもより背が高いのはヒールのせいだろうか。
「やあ、お久しぶり!」と手を振りながら呼びかけた。
「ああ、良かった!」と彼女が答える。いつものグレーのコートが粉雪で白くなっている。
「雪の晩なのに、申し訳なかったね」
「いいえ。そんなことないわ」
「その帽子、なかなか良いじゃない」
「そうなの、お蔭様で!」
入り口で彼女にコートや靴の雪を落とさせて建物の中に連れて入った。そして二人で豪華な大理石の階段を上っていく。先を行く彼女が高いヒールで足を踏み出すたびに、長い黒髪が揺れる。階段をのぼる時は女性が先、下りる時は男性が先だ。「か弱き女性」を予期せぬ転倒から守るための習慣だろうか。
クロークの前で外套を脱ぐと、彼女は初対面の日の深緑で襟の黒いパンツ・スーツ姿で、真珠のイアリングをつけている。そして何やら香る、花のフレグランス。応対する僕はダーク・スーツに地味目なタイだった。
二人のコートを預け、切符を案内嬢に見せると、壁掛けの案内図で一階の真ん中、舞台に向かって少し右手の席を示してくれた。
劇場に入ると既に大勢が着席していた。僕は目指す列の端まで来ると、気を配りながら申し訳なさそうにマミを誘導する。
「インシュルディグング」
「すみません」
どうしても手前の観客を立たせてしまう。たどり着いてみると、確かに舞台の見渡せる席だった。
「よく来てくれたね!」と言いながら彼女にプログラムを渡した。
「あ、どうも有り難う」と彼女が嬉しそうに受け取った。
彼女のフレグランスが、どうも気になる。
「元気にしていた?」と言って、彼女の顔色を窺った。
「うん。貴方は?」
「そうね、元気。でも仕事が忙しくてね……」
「私も」
目の前の台詞翻訳用の小さなスクリーンに視線を移すと、彼女の伸びやかな足が視界に入ってしまった。そこで少し真面目に、
「このオペラの初演は1786年のウィーン、かな。たまたまフランス革命の直前で、面白い事に劇作家はフランス人のボウマルシェ。彼は結構反体制の思想家だったみたい」とささやいた。予習の成果だ。
「なるほど」と彼女がうなずく。
「このストーリー、複雑だね」と言ったら、彼女が説明してくれた。
「スペインのセビリアにあるアルマヴィーヴァ伯爵のお屋敷が舞台で、使用人のフィガロとスザンナが結婚する当日、伯爵が彼女への思いを遂げようとするの」
マミの横顔が輝いていた。
「なるほど。フィガロが伯爵の使用人で」と受け、
「スザンナは伯爵夫人の召使」と彼女が答えた。
そこでステージ手前のオーケストラ・ピットで指揮者がタクト棒を振り上げ、序曲がダイナミックに始まった。
「……ミーレドソドミ…ソーファミドミソ…ドー、シーラソドシラソドシラ、ソッ、ファッ、ミッ、レッ、ドー……」
アルテドナウ・アンサンブルで練習している、ポピュラー・クラシックとも言うべき曲だ。そこで紫色の重厚な緞帳があがっていく。舞台装置は十八世紀調で、古典趣味。鏡に見入っているのはスザンナで、フィガロが何やら床の寸法を測っている。
「これは二人の部屋で、フィガロがベッドを入れる準備中……」とささやいたら彼女が、
「シッ!」と話を遮った。
そこでスザンナの歌が始まった。
新婚のベッドの入るこの部屋は、伯爵が指定したのだが、伯爵夫妻の居住スペースのすぐ隣で、何となく怪しい。伯爵の意図や如何に? そして若い二人はどうやって切り抜けるのか、と言うストーリーだ。
本場の舞台装置も派手な衣装も大変見栄えがするし、オーケストラの小粋な伴奏を伴うそれぞれのアリアは、非常に華やかでインパクトがあるが、僕は接待を兼ねて何回も見ているので、役者が次々と登場しては歌い、椅子の陰に隠れてはまた現れる中で、次第に舞台への関心が薄れ、マミの表情や息づかいばかりが気になった。
常々、彼女の顔の左側が綺麗だと思い、隣の席から見る度に再確認していた。しかしそれも束の間、第二幕目でケルビーノが「恋を知る君は」を歌い始めると我に返った。
「VOI, CHE SAPETE…… CHE COSA E AMOR?」
ケルビーノは伯爵夫人の若い小姓で、ありとあらゆる女性に惚れてしまう奴だ。彼は日頃の行いを咎められ、
「私の愚かな恋を責めるけど、皆さんも恋の何たるか、御存知でしょう?」と訴えているらしい。
僕の好きなアリアだった。それに今日の歌手は、本当に恋をしているのだろう。マミも感動するらしく、隣で涙を流しているような気がしたが、勘違いかも知れない。
幕間の休憩時間となり、観客が次々と席を離れていく。
「少し、テラスに出てみない?」と彼女に声をかけた。
「ええ、そうね」
そこで二人一緒に席を立った。かの有名なテラスは、広々とした天井の高いバルコニーになっていて、そこかしこにウィーンゆかりの作曲家、いや楽聖たちの胸像が配されている。二人でグラスを傾けたのは計画通り、シャンパンだった。雪は既にやんでいる。おぼろげなる光が薄い雲のすき間から射しこみ、バルコニーの広い手摺り部分に等間隔で立つ女神たちを照らし出していた。
「ここまで来ると、少し解放されるよね」と言った。
「雪もやんだし、とても素敵……」とつぶやく彼女が目を輝かせる。
「そう言えば来年秋、マエストロ・オザワが招聘されるんだよね」
「そう。すごいね、その話。音楽監督だっけ?」
二人の息が白く見える。あちこちでカップルが楽しそうに歓談していた。
「いや何回みても、筋が分かりにくいね……」とぼやいてみた。
「そうね。これからスザンナに迫る伯爵を欺くために、スザンナと伯爵夫人が洋服取り替えるの」
「え?」
「フィガロとスザンナの結婚式の夜、伯爵は逢い引きに誘われるけど、結局スザンナのふりした伯爵夫人と密会するの」
「なるほど、複雑で」
「そう言えば『セビリアの理髪師』見たことある?」と彼女が話を続ける。
「アルマヴィーヴァ伯爵がまだ独身で、ロシーナを追いかけているの」
「そして、ついに結婚?」
「そう。その時、理髪師のフィガロが伯爵を助けてあげるの。だから今夜の伯爵夫人はロシーナで、フィガロは伯爵の恩人なの……」
「そうしたらこの伯爵、どうしようもない奴だね。エスの言いなり?」
「何それ?」
「エスは無意識。最近、レトロな精神分析学がブームで」
「へえ……フロイト流?」
「うん。彼はウィーン総合病院の医者で」
休憩時間が終わりに近づき、カップルが次々と本館に戻って行った。
寒くなってきたので僕達も席に戻ることにした。
そして第三幕。
借金返済の代わりにフィガロに結婚を迫る家政婦長のマルチェリーナが、何と彼の母親だと発覚する場面となり、ついつい欠伸。すると彼女が肘で小突いてきた。
「あ、いけね……」
しばらくすると「今夜、庭に出て来ませんか?」と伯爵を誘い出す手紙を、スザンナが伯爵夫人と共謀しつつ準備する場面となった。そしてスザンナが手紙を伯爵に渡してしまう。
そして長い演目も、ついに第四幕目。
筋立てはマミの説明通りだった。その晩、庭に現われた伯爵はスザンナの洋服を着た自分の奥方と密会し、求愛してしまう。今度はそれが発覚し、伯爵はスザンナとフィガロの結婚をゆえなく邪魔していた事を認めざるを得ない。彼らはとうとう大きな難関を突破、ハッピーエンドへと続く。
最後の場面では、登場人物が皆、めでたく結ばれた新婚カップルを祝福する大合唱となり、幕が下りた。
しばらくするとキャストが一人ずつ出てきて、挨拶する。その度に大きな拍手喝采が沸いた。最後にスザンナ役が指揮者を指し示すと、管弦楽団の連中もそこで立ちあがり、やんや、やんやと拍手をあびせた。
マミを見やると、彼女もほっとした表情で目を合わせてきた。
「良かったわ!」
「そうだね」
開演から実に三時間以上経っていた。周囲の観客は解放感に浸りながら、がやがやと席を立ち、劇場外に移動し始める。二人で人の群れに合わせて移動する。外に出てみると、雪景色だった。
「うわぁ、寒い!」とマミが悲鳴をあげた。
そこで客待ちのタクシーを見つけて雪道を走り、うまく乗ってしまった。そして彼女の手を固く握り締めた。
フルートとヴァイオリン (第4章 オペラ)