名前も知らない【1-3】

古瀬 深早

名前も知らない【1-3】

01|インパクト

01|インパクト

 そういう店があるわけでもないのに、小雨の降る路地裏に漂っていたのはプーアル茶の匂いだった。
 荷物持ちで出かけた市場の試飲で、一度だけ本場のものを飲んでみたことがある。鼻腔の奥にひっかかるような、独特の発酵臭だ。身体が受け付けなくて、何とも言えない気分で紙コップを返したのを覚えている。
 いつも利用している私鉄の、初めての駅に降り立ってから十五分ほどが経過していた。人気のない高架下を、どこかぼうっとしたような気持ちで歩いているところだった。
 古くからあるのだろう簡易郵便局の角を曲がった先で、大きくひらけていたような街並みが突然収縮したような気がした。一歩踏み入れた先に、戸建ての公営住宅や煙草屋、定食屋なんかがぎゅっと押し込まれたような路地裏が続いていた。

 漂ってくる匂いを遮断するように鼻の頭を擦って、握っていたメモをひらいた。殴り書きのそれをもう一度確認する。
 少し前に、偶然街で会った従兄がその場で書いて渡してきたものだ。道の広さも長さもまるで正確じゃない下手な地図の隅に、彼が新しく始める店の名前である『ギャラリー只野(ただの)(予定)』と押し込まれたように記されていた。

 ――伊丹(いたみ)の家のじいさんがこっそり持ってた物件らしいんだけど、どうも曰くつきらしくて。買い取ったっていうか、ほとんど転がってきた。

 従兄の裕道(ひろみち)はそう言って、僕にむかってぼた餅っすよ、と笑った。
 祖母の実家、という遠いのか近いのかいまいちよくわからない家で起きた相続騒ぎに、どうして従兄が立ち会うことになったのかは知らない。もともとが人懐こくちょこまかと親族間を行き来している男なのは承知していたけれど、そこまで手広いとは思っていなかったのだ。
 裕道が言うには、一昨年急病で亡くなったという大伯父には家族の知らない若干の後ろめたい過去があったらしい。流山のはずれに、彼は自分名義の小さな別邸を所有していた。
 家が購入された年とわずかに残っていた記録の詳細から、その建物が若き大伯父のした道ならぬ恋の相手の実家だとわかるまでそう時間はかからなかった。この時代では二束三文にもならない、長屋風に建っていることから取り壊しにもひどく費用がかかるとかで、伊丹の家ではその『忌々しい愛人の家』の処分に困っていたのだそうだ。
 それでも、様子を見に行かないわけにもいかない。
 高齢で公共の乗り物にはもう乗りたくないという大伯母に、裕道は運転手を頼まれたらしい。ブラックカラーのノアの助手席に痩せぎすの年寄りをちょこんと乗せて、ある日の彼は一時間ほど車を走らせた。
 書類に書かれていた住所に到着し、建物を見た大伯母は眉をひそめた。やだ、言ってた以上に古いじゃないの。埃っぽいとハンカチで口を抑えながら告げられたその言葉に、裕道はそうかな、という返事をしたという。レトロでいいじゃん、味があって。
 滞在していたのは、三十分ほどだったと言う。
 埃だらけの窓を開け、彼らは長く手入れのされていない家の中を確認した。そして、裕道は来た時と同じように大伯母を車に乗せ彼女を家まで送ることにした。
 その一週間後、彼は通帳と判子を持って再び伊丹の家を訪ねていた。


 地図よりも住所を聞いておくべきだったと思いながら、最後は直感を頼りに細道に入る。
 煙雨にわずかに視界がかすんで、濡れた足元はつやを持ったように光っている。雨雲の下、寒さを感じる手前の空気と立ち上る湿気。
 晴れていればまた違った風情なのだろうと思いつつも、その界隈にはどことなく薄気味悪さのようなものも漂っていた。やり方はいくらだってある、と従兄は強がっていたけれど、駅からそれなりに歩くような場所でギャラリーを兼ねたイベントスペースなんか始めたところで、長く続くとは正直なところ思えなかった。

 古い単身者向けのアパートが向かい合って並ぶむこうに、長屋風の建物をようやく発見した。
 正面まで近づいてからさしていた青い傘を後ろに倒し、灰白色の建物を見上げる。
「古いな、ずいぶん」
 そんな言葉が、口からこぼれ落ちていた。
 看板建築と呼ぶのだろうか。コンクリートの外壁のところどころが剥がれている、二階建ての建物だ。一階の正面がガラス張りになっていて、室内を照らす白熱灯の灯りが中から漏れている。

 強くも弱くもならない雨の中、僕は従兄の手に転がり落ちてきたその古びたぼた餅を見上げていた。
 まだ改装の途中らしい。窓ガラスの一部には養生が残っていて、中には配線工事中といった感じのコードが天井や壁から伸びている。あらゆる塗料を被ってマーブル模様になっている脚立が、室内の中央にどかりと置かれている。
 あかりはついているものの、目に見えるところに従兄の姿は見当たらない。
 少しためらった後に、扉に手をかけてみる。雨粒のこぼれた手でそれを押してみたものの、鍵のかかった扉は固く閉ざされてひらかない。外出しているにしても近所なのだろうが、そう広くない路地の前でひとり突っ立っているのもな、と考えてしまう。

 スマートフォンを取り出そうかとジャケットのポケットに手を突っ込んだとき、後ろから声がした。
「亮太?」
 振り向くと、トレーナーに黒のバンダナキャップを被った裕道が驚いた顔をして立っていた。コンビニにでも行って来たのか、小さなビニール袋を左手に提げている。
「忘れてたって顔してますが」
 おかしくなって告げると、彼は一度まずい、という顔をした。それからすぐに、ごまかすようにぱっと顔色をあかるくした。
「いやあ、ごめんごめん。俺今日木曜のつもりでいたわ、金曜だったか」
 笑いながら、ずかずかと彼がこちらに近づいて来る。
 改装は業者任せにしているかと思っていたけれど、自分でも手を加えているらしい。よれたトレーナーの肩口が、白い塗料のようなもので汚れている。バンダナキャップを被ってタオルを首に巻き、汚れたワークパンツ姿だった。
「自分から呼んどいて忘れないでよ。俺、そんなに暇じゃないんだけど」
 あきれた気分になって告げると、彼は悪かったって、と繰り返しながら僕の隣に並んだ。

「しかしさあ、伊丹のじいさんもやるよな。愛人の実家で逢引とか」
「そんな人だったっけ? どっちかって言えば堅物っぽく見えたけど」
 ろくに話したこともない、冠婚葬祭で数回顔を合わせただけの老人だった。あまり表情の出ないような、若干の不機嫌を感じるような面立ちの人だった気がする。
 僕の言葉に、裕道はいやいや、と笑いながらワークパンツのポケットに手を入れた。小銭と鍵がぶつかっているらしいじゃらじゃらとした音を響かせたあとに、革製のキーホルダーを取り出す。
「遠くからはそう見えるけど、実際は色々やってたと思うわ。俺一度目の入院から運転手してたけど、いい話がとにかく出なくて」
 へえ、という相槌しか浮かばなかった。
「まあ、でも見てよ。けっこうなお宝よ」
 裕道の開けた扉のむこうから、塗料やシーリング剤のつんとした匂いが漂ってくる。少しのかび臭さも。

 室内は意外にもあかるく、温かかった。作業用の裸電球とストーブのせいかもしれない。十畳ほどの店舗に、木製のカウンター風の台が一台置いてある。
「雰囲気あるだろ」
「ありすぎて、ちょっと圧倒されてる」
 聞いていた以上に古く、重厚な建物だ。すでに全面の壁に真新しいベニヤが貼られ、上に棚の位置や配線用の印なんかが描かれている。
「奥は?」
「まだ全然。日当たり良くないから、半分は倉庫かな。二階はそこそこいいから、いずれは事務所にするつもり」
 裕道が行ってみる? と訊いてきたが、落ち着いてからでいい、と答えた。長く放って置かれた建物は空気がこもっていて、またそれが見知らぬ誰かの住処だったというのも複雑な気持ちにさせられた。
 従兄はそういうことを全く気にしない性質だが、そうか、と素直に頷いた。

 裕道が気を取り直したように、それでだ、と力強い声を出した。
 店舗の隅のほうに歩いていく。木製の台のむこうに、白い布をかけられているものが見えた。
「これもセットだったんだ」
 彼は得意げに告げると、その大きな布を静かに剥いだ。

 出てきたのは、見慣れない形をした何かの古い機械だった。
 墨汁と油の混ざったような匂いが鼻先に届く。
「なに、これ」
「小型の活版印刷機だって」
 裕道はそれを、ちょっと得意げに言った。
「なに、カッパ?」
「活版。昔の印刷方法」
 言いながら、裕道はその機械のハンドルのようなものにそっと手をかけた。
 手フートって言うらしくてさ、詳しい人に見てもらったら「小型なんだけどこれは大きめですね」って、ちょっと意味わかんねえけど。そう説明しながら、丸い盤面のような場所に触れている。
「貴重なもんなの?」
「あー、まあ、人によっては?」
 そう答えて、彼はその印刷機がさらに一台、活字が一通り裏のほうにあること、伝手を辿ってその手の業者に相談し修理と整備、それから使い方を習いに通うつもりだと説明した。
「つまり、これも新しい仕事にするつもり、と」
「そう。オーダーで、名刺とか? まだあんまり調べてねえんだけど、それなりに需要ありそうで」
 目を輝かせて、裕道は言った。
 埃が細かいところに詰まったままのその印刷機を撫でる彼の右手には、小指がほとんど残っていない。三年ほど前、働いていた工場の機械に巻き込まれて持っていかれてしまったらしい。話を聞いたときには驚いたが、しばらく経ってから会った彼は「あんまり使わない場所だけど、誤解を招くよな」と笑っていた。そのあいだのことは、よく知らない。
「やっぱり、こういう仕事に行き着くわけね」
「そんなつもりなかったんだけどな、縁みたいなもんかね」
 印刷機に再び布をかけてから、従兄は曲げていた腰を伸ばしている。
 基本的に大人しい親族の中で、裕道と僕はちょっと毛色の違う男児だった。子供の頃はもちろん手のかかる悪ガキで、大人になってからもその雰囲気は変わっていない。放蕩の裕道、放浪の亮太、と集まりの度に一度は誰かが口にする。


 業者からかかってきたらしい電話に出た裕道が、ちょっと待ってて、という仕草と共に奥に引っ込んだ時だった。
 手持無沙汰に眺めていた窓の向こうの景色に、赤い傘がゆっくり滑り込んで来た。

 僕のそれよりも、十五センチほど低い場所だろうか。
 鮮やかな、形の良いその傘は持ち主の頭部をきれいに隠している。

 通り過ぎるかと思っていたその赤い傘は、扉の前でゆっくりと立ち止まった。
 自分が入り口に向かって歩き出していたと気づいたのは、ガラス戸に自らの顔が映り込んでいたからだ。
 ――あれ、俺、なんでここにいるんだろう。
 そう思ったものの、古いガラス戸に映っている自分の顔にその感情は見当たらなかった。どこかぼうっとした、間抜けた表情。
 静止していた赤い傘が、扉のむこうでゆっくりと動いた。

 持ち主の身体から離れ、まず目に映ったのは日本人離れした色のショートヘアだった。曖昧な濃淡の、ベージュっぽいあかるい髪。
 簡単に傘をたたみながらあげられた顔が、僕を認識するのもすぐのことだった。
 頭の中に、人形、という言葉が浮かんだ。
 こちらを見上げるその人の双眼に、僕は吸い込まれていた。

 雨の音が大きくなったのは、ガラスのむこうにいた彼女が扉に手をかけてそれをゆっくりと開けたからだ。身体に意識が舞い戻った。
 着地に失敗したように、心と身体のあいだに妙な隙間ができたような気がした。

「こんにちは――あの、すみません」
 濡れた手で自らの前髪を軽く直してから、その人は言った。
「ここ、只野さんのお店ですよね。今度新しく始める――」
 若干戸惑ったような声で尋ねられたものの、こちらが言葉の意味を理解するまでにはさらに頭の中で何度かその一言を繰り返す必要があった。彼女は裕道の知り合いで、彼を訪ねてここまで来たのだ、と。
「そう、です」
 頭の中で、寝起きか、と言ってしまう程度には呆けた声で返事をしていた。
「今、裏のほうで電話に――呼んできますんで、中どうぞ」
 扉を大きく開ける。彼女は少し迷ってから、遠慮気味に頷いた。
 身体の皮膚の表面ぎりぎりまで前のめりになっていた意識を、何とか引っ張り戻す。ぎくしゃくした足取りになっているのが、自分でもわかった。そうさせるようなものは何もないはずなのに、空気が突然緊張したような気がした。細く強く、身体が張り詰める。
 店舗と住居の境目になる、扉を外したままの出入り口に僕は手をかけた。
 耳を澄ませてみる。従兄はちょうど電話を終えたようだった。
「裕道、お客!」
 小さく叫ぶと、彼はおお? という間抜けな声を出した。
 小走りでこちらに戻って来る音が建物の中に響く。

「――あー」
 店舗に戻って来た裕道は、緊張したような表情で立っている女性を見てそう言った。
「ごっめん、ちいちゃんも今日だったか」
 約束したのを忘れていたらしい。
 自らの額に手を置いて、しまった、という顔をしている。

 ちいちゃん。

 その呼び方は、幼い子供を呼ぶ時のような響きがあった。親しげに呼ぶことにすっかり慣れた、昔なじみに対して告げているような。
 女性は、従兄の様子をしばらく見てからふっと笑った。
「忘れてた?」
 優しげな声で、伺うようにゆっくりとそう訊いている。小さな唇の両端が持ち上がって、目尻がやわらかく下がっている。警戒心がほどけたような、自然な笑顔だった。

 裕道はだあ、という奇声をもう一度発してから、
「本っ当、ごめん。俺、最近すごいとり散らかってて。書いといたんだけどなあ、すっかり飛んでた」
 よたよたとした動きで彼女に近づいてから、両手をぴったりと合わせて頭を下げた。
「覚えてたら迎えに行ったんだよ、こんな雨で」
「平気だよ。もうそんなに寒いわけじゃないし」
「何言ってんの、まだ貧血残ってるって言ってたじゃん。って、俺が言うのもおかしいんだけど」
 裕道は先ほどからは考えられない早口で、一息にまくしたてた。

 女性は、不思議な雰囲気の人だった。
 シンプルな恰好をしているのに、髪色のせいかそれを感じさせない。身長は、だいたい百六十センチ前後だろうか。色が白く、頬はつるりとしている。大人しそうにも活発そうにも見えて、外見から性格があまり想像できない。
 何かに気が付いたように、裕道が僕のほうを見た。
「亮太、紹介するよ。俺の元同僚の、中上(なかがみ)千紘(ちひろ)さん」
 彼女は、僕のほうを見てこわごわと浅いお辞儀をした。人見知りする人らしい。表情が、また緊張したように見えた。
「で、こっちが俺の従弟ね。堀井(ほりい)亮太(りょうた)
「従弟さん?」
「そう。俺とは一族の問題児コンビ」
 そうでもないよ、と答えた声が、妙に幼く響いてしまう。

「ええと、打ち合わせ? とかなら、俺帰るけど」
 妙に親しげにしている様子の裕道に問いかける。従兄は既婚者だし、僕の前で焦っているという様子もない。この家のかつての持ち主のように、後ろめたい間柄ということもないだろう。大方仕事の関係者かと思ったのだ。
 裕道よりも先に、中上さんが首を横に振った。
「いえ、それならわたしのほうが」
「大丈夫です。今日、見に寄っただけなんで」
 夕方にはバイトの予定もあると告げる。裕道は困惑したような表情を浮かべている。
 僕はわざとあかるい声で従兄に告げた。
「また、天気いい日に来るわ。何かあったら連絡して」
 従兄からの返事を待たずに、僕は部屋の隅に立てかけていた傘を手に取った。


「でさ、結局小森、工場長にえらい剣幕で怒られて――うわ、即日で切られたってよ」
 テーブルの上に置いたスマートフォンの画面を荒っぽくスクロールさせながら、櫂谷(かいたに)はおかしそうに言った。右手には彼が先ほど「期待したほど美味くねえ」とぼやいた揚げ鶏の甘酢あんかけで色のついた、きれいに割れたとは言いがたい割り箸が握られている。
「まじ?」
 持ち上げかけたれんげを置いて僕は尋ねた。
「どうせ一番下っ端なんだから、最初は適当に言うこときいてりゃいいのにねえ。なーんでわざわざ楯突くかね」
 きつい言葉だったが、声音にはむしろ同情が混じっているように聞こえた。苦笑した表情のまま、まだ画面の中に集中している。
 バイトを終えたあとに友人の櫂谷と合流し、雑居ビルの一階にある中華の定食屋に入っていた。
 高校時代から何かと集まりのあった十人組のひとりである、小森の話が送られてきたのだ。

「どのくらいあそこいたんだっけ?」
「あー、確か、二ヶ月?」
 櫂谷は眉をわずかに寄せてから、そう答えた。
「けっこう大手と取引あるって言ってなかった?」
「小さい工場だけど、いいところに納めてはいるって言ってたな。ほぼ軽作業のみだからって、原なんか安心してたのに」
 へえ、と口からこぼれていた。
 小森は元々、気難しいところのある男だ。学生を終えて世間に踏み出したあたりから他人とぶつかることが増えて、今も社会の『浅いところ』を出入りするような生活を送っている。大学を卒業してすぐに入った会社を辞めてからは、短い期間で職場を転々としているはずだ。
「あいつ、仕事絡むと本当に融通利かなくなるね。付き合うぶんには普通なのに」
 椅子の上で妙にリズミカルな貧乏ゆすりをしながら、櫂谷は笑っている。

 子供時代、櫂谷恭一と友人だと知られるとよく羨ましがられた。彼の素性や交友関係を聞き出されるのも、紹介して欲しいという意味の言葉を投げかけられるのもそう珍しいことじゃなかった。
 地元では有名な画家の一人息子だ。大量の画材に囲まれ、父親から譲られたかもしれない画才を幼い頃から期待されて育っていた。二学期が始まってすぐに廊下に貼りだされた夏休みの課題の絵画で金色のシールをもらうのはいつものことで、中学に入ってすぐに顧問教師から直々に美術部入部の勧誘があったのも覚えている。
 学生向けのそこそこ大きな賞を取ったのは、高校二年だっただろうか。それと同時にもうアナログはいいといって、高校を卒業してグラフィックデザインを学ぶための専門学校に入学した。周囲がいい顔をしなかったのは、彼が選んだのがそこまで本格派とも言えない、専門志向の強い人間だったら選択しないようなゆるめの総合学科だったためだ。
 地元に居た頃は良家の子息風にきちんとプレスされたシャツとスラックスを身に纏っていた彼は、今は適当なTシャツの上に古着のブルゾンを羽織っている。
 青白いような顔色をした鋭くも口数少ない少年だった櫂谷は、初対面の子供が思わず掴まるものを探してしまうような雰囲気の持ち主になっていた。

 スマートフォンから顔を上げた彼は、僕のほうを見て訝しげな瞬きをした。
「おまえのも、美味くないの」
 咄嗟に意味を理解できずにいた僕に、彼は顎でそれ、とやった。
 深めの大皿に盛られた麻婆豆腐丼が、まだ半分以上残っている。
「――そういうわけじゃ、ないんだけど」
「らしくないじゃん」
 ぼそっと言ったが、深追いするつもりはないらしい。投げやりに見えなくもないような仕草で、櫂谷は自らの食事に戻った。
 バイト先のダンススクールである『エディフィカンテ』で、今日は萩の月をひとつ振舞われた。事務室にある、いつものインスタントコーヒーも。助手と掃除で館内を飛び回って、それなりに空腹の状態で櫂谷と会ったはずだったのに。
 れんげを持ち直して、もう湯気の立っていない麻婆豆腐を掬い上げる。
 薄暗い店内には、プロ野球を実況中継するラジオの音が淡々と流れ続けている。


「やっぱ降ってんな」
 渋々といった雰囲気で、櫂谷は黒い傘をひらく。手に物を持って歩くのが嫌いなのだ。雨の日に待ち合わせをすると、彼は大抵ブルゾンのフードを被ってどこかの軒下にけだるそうに立っている。今日もそうしたかったのかもしれない。彼女がそれを許さなかっただけで。
 彼は右肩のほうに傘を立てかけるようにして、ふああ、という大あくびをひとつした。
「春って、寝れてんのか寝れてねえのかわからん季節だと思わん?」
 悪態というほどでもない、少しの不満を含んだ一言だった。
 確かに、と答える。なるべく深刻にならないように、軽妙な雰囲気で。
「最近、体調は」
「変わんねえな。まあ俺、内臓とかおかしいわけじゃねえから」
 僕をちらと見て笑った。そういう時だけ、昔の彼の面影と重なる気がする。伸びた髪に無精ひげ。彼のさらに向こうで光る、信号の点滅が日没後の雨によって細かくにじんで見えた。
「薬の管理とか、蓉子(ようこ)が厳しくて。おまえお薬カレンダーってわかる?」
「あの、透明なポケットいっぱいついてるやつ?」
 頭に浮かんだままに尋ねた。腎臓の弱い叔母が愛用しているのを思い出したのだ。
 櫂谷はくっくと笑ってから、そうそう、と頷いた。
「あれ、うちの冷蔵庫の横に貼ろうとするんだよ。さすがにそれはやめてくれって頼み込んでさあ」
 思い出したのか、彼は少し機嫌良さげに続けた。
「原色の太い丸ゴシックで『あさ・ひる・よる・ねる前』よ。俺これでもデザインの仕事してるんだって、あんな生活感全開なもんでかでか視界に入れたくねえんだって」
 小さいケースのタイプだってあるだろ、と言う彼につられて僕も笑っていた。彼の部屋に昔から飾ってあった『羊たちの沈黙』のアートパネルや、ニルヴァーナのレコードのジャケットを思い出したのだ。櫂谷が抵抗を感じるのも無理はない。
「ああいうところがなー。何か、違う星の女なんだよな」
 ひとしきり笑ったあとに、櫂谷は小さくため息をついた。苦笑しながら。

 彼の現在の同居人である宮津(みやづ)蓉子(ようこ)さんは、櫂谷の失踪事件の後に押しかけてきた、彼にとっては大して本気じゃなかったはずのお相手だ。市内の図書館で司書として働いている。
「でも、もう三年くらい経つんじゃなかった?」
 櫂谷はそう、と頷いた。
「喧嘩の後に、出て行きそうかな、って思ったこと、何回もあったんだけど。何日かむすっとしてたけど、結局そのまま」
 情念系っつうか、粘り腰って言うの? と低い声で笑っている。
 他人に対してあまり強い関心を抱かない性格の櫂谷にとって、その存在は時に煩わしいものではあるらしい。口数は多くないのだが、とにかくじっとそこにいるのだと言っていた。意志と意地を半分ずつ持ったような雰囲気で。
「でも、身の廻りのことされちまうとこっちも立場弱くなるよな」
 苦笑していた表情をふと崩して、彼はぽつりと告げた。
 櫂谷が蓉子さんに別れ話を繰り返していることは、周囲の友人達全員が知っている。同情的な意見も多かったが、異性に縁のなかった小幡なんかは贅沢な話だと憤っていた。女性が出て行かないなんて悩みを抱えられる男、そう多くないんだぞ、と。
 思い出して気がふさいでしまったのか、櫂谷はそこで再び嘆息した。
 
「次、どこ行く予定なの」
 気分を切り替えようとしたのだろう、あえてあかるく出したような一言だった。
 僕は先週から思案し始めた次の旅先について彼に話すことにした。
「バングラデシュとか、考えてたんだけど」
「うん」
「でも、どうだろ。前回長かったから、しばらく旅費貯めないと」
 僕のほうをちらと横目で見て、へえ、と彼が言う。
「そこ、有名なのって何があったっけ」
「基本的には、モスクとか宮殿とかかな。まあ俺、観光地ってあんまり歩かないんだけどね」
 ひとつの街に一週間ほど留まって、そこらを歩き回るのが好きなのだ。そこそこ治安の良い国なら、広場にでも座っていれば暇そうな誰かが必ず声をかけてくる。教えられた場所に足を延ばしてみることもある。中高生の頃に躍起になってカルシウムとタンパク質を摂取した成果なのか、僕は身長も骨格もそれなりにある。物売りやスリに気を付けることはあっても、それ以上の身の危険を感じたことは幸いなことに今までほとんどなかった。本当に全くなかった、というわけでもないけれど。

「いいな、おまえは。好きなことあって」
 櫂谷の呟きに、そうかな、と答える。
 実際は、バイトしながらさすらいのバックパッカー暮らしです、なんてちょっと言いづらいご時世だと思う。宵越しの金は持たないという性格でもないつもりだけど、ふらふらと暮らしていると思われているのも確かだ。

 櫂谷には、気晴らしにどこか行ってみたら、と言えない。
 いつかの彼が、周囲に黙って本州の端まで行ってしまった日のことを覚えているせいだ。
 身辺の整理をして小さなボディバッグひとつで消えてしまった彼のために、僕たちはそれぞれの持っている時間と能力をすべて出し合って彼を探した。携帯電話の電源を切っていた彼とやっと連絡がついた時、櫂谷は陸奥湾が目前に広がるある駅のベンチにひとり座っていた。その辺りから動くなよと繰り返し、僕は仲間のひとりと共に現地まで彼を迎えに行ったのだ。半日後にやっと見つけ出した櫂谷のバッグの中には、財布と携帯電話、ジェフリー・ユージェニデスの『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』の文庫版が入っているだけだった。
 寒さで、彼の唇の皮膚は薄く切れ血がにじんでいた。凍傷になりかけの、赤く腫れあがった手。今は誰も口にしない、思い出したくもない、でも忘れられない記憶。
 櫂谷はまたひとつあくびをして、やっぱり眠い、と鼻を掻いた。


 櫂谷と別れた後は、いつもの電車に乗って帰宅した。駅から徒歩十三分の場所にある、古くてぼろいワンルームだ。旅費最優先の暮らしをしている僕にとって、設備の良い築浅の部屋を借りるという選択は優先順位としてかなり低い。
 風呂に入り、洗濯機をまわしながらスマートフォンを充電した。
 パイプベッドに横たわり、薄汚れたような色の天井を見ながらぼうっと一日を振り返った時も、自らの身に大きな変化が起きようとしているなんて思いもしなかった。

 自分の異変に気付いたのは、その翌日だった。

「ねえホリー、昨日から変じゃない? 具合悪いの?」
 バイト先のダンススクールで、オーナーの姪でありスクールの名物講師である高橋(たかはし)麻子(あさこ)にそう尋ねられた時も、ぴんとは来なかった。
「俺?」
 互いに、スタジオの反対側からモップをかけているところだった。麻子は声が大きいから、十メートル近く離れたところからでも言っていることは良く聞こえた。
「なんかさあ、ぽーっとしてない?」
 不思議そうに訊かれる。
「――してる?」
「いや、聞いてんのこっちなんだわ」
 彼女は笑いながらはきはきとフロアにモップをかけ続けている。ややエキゾチックな顔立ちをした、快活で華のある人物だ。口には簡単に出せないけれど、引き締まった、ちょっと目を引く身体つきをしている。
 何を思ったのか、麻子は部屋の隅まで一旦モップを滑らせてから「はっ」という声を出して突如方向転換した。そのまま、僕に向かって突進してくる。蛍光ピンクのもじゃもじゃしたものが勢いをつけて迫ってくるので、慌てて同じブルーのものを前に突き出した。
 床の上で互いのモップの先がぶつかる、かつんという音があたりに響いた。
「ちょっと麻子ちゃん、どこまでかけたかわかんなくなるって」
 互いにモップの先で押し合うという、いまいち意味のわからない行動を取りながら答える。
 麻子は怯まず、しばらく僕にむかって静かな攻撃を繰り返した。
「だって、本当におかしいから。何よ亮ちゃん、お腹でも壊ちたの?」
「赤ん坊相手みたいに言わないでくれないかな」
 年下のくせに、僕に対してはどうしてか出会った頃からこうなのだ。からっとした姉御肌で、初日から全く遠慮がない。まあ、事務担当である彼女が融通を利かせてくれるからこそ通常だったら許されない海外放浪を避けたシフトで働けているのだが(もちろんそのたびに土産をたんまりと持ち帰っている)。

 彼女はようやくモップから力を抜いて、とん、と自分の身体の脇に置きなおした。
「まあ、何かあったわけじゃないならいいんだけど」
「何よ、俺のことそんなに気にしてくれちゃってる?」
「そういう軽い物言い、あんたやたら似合うけどちゃらい」
 麻子が眉間をわずかに寄せながら鋭いため息をつく。
 その表情を見ながら、確かに昨日からの僕は何かがずれているような気がする、と思う。
 自分の中にある感情が、あるいは行動が、いつもほど身近じゃない。少し高いところから辺りを見ているような、遠い気分の中を漂っている気がする。
 人の中で動いていても、いつものように話していても。

「確かに、昨日からあんまり飯の味がしない気がする」
 モップに体重を預けながら、そう答えた。
 麻子は僕のほうを見て目をぱちぱちとしている。
「病気っぽいって意味?」
「いや、体調が悪いってわけじゃないんだ。匂いもわかるし、熱もないし。ただ、何食ってもぴんとこないっていうか」
 バイトに向かう途中で買ったコンビニのサンドイッチも、昼食のカップラーメンも、昨日までとは違うものみたいな気がした。
 ひどく味気ない、そう、これじゃない、という感じが。

 今自分の身体が欲しているのは、絶対にこれじゃない。
 その違和感だけが、妙にリアルだった。

「ストレス、とかじゃないよね?」
「ストレスフリーに近い生活してる、自覚ある」
 だよねえ、と彼女は深く頷いた。それはそれで、何だか失礼だが。
 僕の目の前に立ち、眉根を寄せながら麻子はわずかに首を傾げている。普段はアバウトであかるくさっぱりとした人物だが、こういう時には親身になってくれるのが彼女らしい。
「ねえ、じゃあ遡ってみたら? それ、いつ頃から?」
 難しい顔のまま、彼女は僕に提案した。

 言われた通り、僕は頭の中で時間を巻き戻してみる。
 今朝にはすでにそうなっていた。
 昨日の櫂谷との食事の時も、もうそんな感じだった。
 昨日の午前にはまだそんな気配はなかったから――。

「あ」
「わかった?」
 麻子が目をいつもより一回り大きくして尋ねてくる。
 答えることはできなかった。
「え、ホリー。なんで?」
 困惑したように麻子が質問を重ねた。僕が、右手で顔を覆っていたせいだ。

「俺は、なんて鈍いんだ」

 モップを持っていなかったら、そのまましゃがみこんでしまっていたかもしれない。
 麻子は、は? という声を出したままそこで固まっている。

 昨日の記憶の中にぽつんと佇む彼女に、スポットライトのように意識が当たる。
 中上千紘。
 日常に違和感を覚えるようになったのは、彼女に出会ってからだった。 

02|遺失物

02|遺失物

 鈍い音を立てながら軋む、安物のパイプベッドの上で目を覚ます。
 午前七時二十七分。遮光カーテンを使っていても、部屋の壁の白がはっきりと目に入るくらいには視界があかるい。
 口内に妙な苦みを感じるのは、寝る前に飲んだマテ茶のせいだろうか。さっさと起きて歯を磨きたいと思うものの、同じくらい、あるいはそれよりも強い気だるさを感じて動けない。
 もぞもぞと動かした手の甲で額を擦る。
 さっきまでどこか別の時空間にいたような、妙な余韻の残る眠りだった。

 ――俺、これでもけっこう(さと)い側の人間だと思ってたんだけどな。

 寝返りを打ちながら、初めに浮かんだことはそれだった。
 誰かに強烈に惹かれてしまったことに気が付かないなんて、さすがにちょっとありえない。自慢になるようなエピソードがあるわけじゃないけれど、十六で初めて彼女が出来て以来、僕は人並み程度には異性との関係を楽しんできた男のつもりでいたのだ。思い返せば恥ずかしいような背伸びした恋愛の記憶もあるし、海外放浪中、異国の地で出会った相手とそういう仲(・・・・・)になったことも、正直に言えば何度かあった。

 昨日の衝撃は、そういう類のものではなかった。
 ひどく細い針金で弱くそっと引っかかれるような、そうされたところからじわりと熱がにじんでいくような――。

 うつ伏せになって枕に顔を押し付けながら、暗くなった視界の中で昨日の記憶を手繰り寄せてみる。
 赤い傘をさしていた、頼りないような手元の形。
 僕を見上げた、わずかに強張った表情。警戒心が小さく揺れる視線。緊張の中で、精一杯礼儀正しく振舞おうとしている仕草。それから、裕道の前でそれをふっと緩ませて見せた笑顔も。
「あぶねえ」
 妄想が進んでいきそうで、独り言によってそれを止める。
 ベッドの下に腕を伸ばして、充電の終わったスマートフォンを手探りで見つける。
 引っ張りあげて、トークアプリの中から従兄の名前を探した。只野裕道。すぐに帰らせてしまって悪かったというメッセージが届いていた。
 裕道の元同僚ということは、製造系の会社にいたのだろうか。彼の言っていたことを、姿と共に思い描く。
 貧血とか、言っていなかっただろうか。持病でもあるのか? 無理をさせたようなことを、従兄が謝っていたような記憶もある。

 裕道の名前をじっと睨んでいるところで、設定していた目覚ましが鳴った。
 七時三十五分。今日は終日、ダンススクールのバイトが入っている。
 
 
「だから、俺は別に喧嘩売ったとかじゃないんだって」
 土臭いような多国籍料理店の奥の席で、酔っぱらった小森は顔じゅうを赤くしながらそう告げた。
「いや、それだけやれば充分だよ」
「むしろその勇気はどっから来るわけ?」
 嶋岡(しまおか)と並んで言い返す。
 チリワインの入ったグラスを荒っぽくスワリングしながら、小森はなんでだよ、と僕達を睨んでいた。

 朱色に近い色をした珪藻土の壁に、ブリキの小さなバケツを裏返したようなランプがあちこちからぶら下がっている店だ。メキシコの死者の日の紙飾りや淡い水色のマリア像なんかが飾ってあるところを見ると中南米色が濃いような印象を与えるけれど、モロッカングラスや南イタリアの小皿も混ざっていて独特だ。チリコンカンやブリトーの他にも豆のカレーが人気で、たまに来る。
 友人のひとりである小森祐が勤め先の工場を辞めたのは、すでに周知の事実になっていた。一定の期間で求職と退職を繰り返す小森と、それに対する友人達の反応でトークアプリのログは長くなる一方だ。仲間内では一番堅い仕事に就いたと言われている嶋岡が、これじゃ小森の育成日誌だと笑うのも無理はない。
 今回も、労りと少しの揶揄が仲間内を飛び交った。それを読んだ小森がいよいよ落ち込んだようなコメントを残したところで、嶋岡が飲みながら聞くよと打ち込んだ。平日だったことから参加者がその場で増えることはなかったが、ふたりだけなのもねと嶋岡から直々に僕が誘われた。

「話はわかったけど。でも普通、小森みたいな立場の人間がその場で帰らされることなんてほぼないんだよ?」
「まあ、そうだけど」
 言葉はやや勢いを落としたものの、納得はできていないようだった。
 警戒心が強く良く吠える小型犬みたいな小森に対して、すでに一児の父である嶋岡の物腰は余裕たっぷりだ。親子とまではいかなくても、温厚な性格の持ち主である嶋岡が小森をなだめる様子は年の離れた兄弟くらいには見える。

 元々あまり相性が良くないと思われる性格の上司の下で、小森が歯ぎしりしながら勤めに行っていたことは原から聞いていた。指示がひどく曖昧なこと、それによって起きる食い違いや小さなミス――むろん、上司自らが他者から責任を追及されるほどのことではない――を、その日帰るまでねちねちと責められ続けることも。そういうことを意図して起こし、日々の中で鬱積したものを発散する人物であるらしいとも、教えられていた。
 それでも、程度ってものがあるだろう、と誰もが思っていた。小森はそういう手合いとの縁ができやすい性質なのも知っていたけれど、どこかで楽観視していたのかもしれない。
 集団の中に入るとスケープゴートの立場になりやすい彼の前で、その上司の箍は外れてしまったのかもしれない。上司の気まぐれによって故意に作られ続けた小森のチームの小さな過失は、ある日生産ラインが止まる一歩手前のところまで拡大した。
 周囲の部署からの冷たい視線の中で、彼の上司は責任から逃れるためにいくつかの作り話をした。小森にとってはひどく侮辱的な、不名誉な、後から聞いた僕達にとっても今時それはちょっと許されないだろうと思うような表現がいくつも含まれる言い訳だった。
 それが、小森の中にある最後のブレーキを木端微塵にしたのだった。

「小森さ、もうちょっとシンプルな仕事してみたら?」
 小森がすでに一種の自棄状態に陥っていると、嶋岡は気付いている。
 同じことを繰り返してしまうかもしれないと全身を緊張させながら向かった新しい職場で、小森の精神状態が崩れていくのにそう時間はかからなかった。神経を逆立てていなかったら聞き流せるような軽い言葉にも、今の彼は強く反応するようになっている。それが相手に伝わり、関係がぎくしゃくとしはじめるまでの期間が日に日に短くなっているのが傍目にもわかるのだ。
「シンプル?」
 小森は眉を寄せて、疑わしいものを見るような目で僕達を見た。
「いや、正社員目指してずっと頑張ってるのはわかってるよ。でも最近、ちょっと疲れてるんじゃないかと思って――」
 嶋岡がやや慌てたように、両方の手のひらを小森に向けた。言い返す言葉のない小森が、そこで小さく唸る。
 焦りが強くなっているのかもしれない。最近の小森はたまに口にしていた冗談も言わないし、あらゆる物事に対して批判的だ。面接に行ってきた日に担当者への不満や雇用条件の悪さをひとしきり並べてみたり、激しい言葉で採用を辞退しているのを友人伝いに聞いていた。
「少し休むつもりで、ゆるめのバイトとかしてみてもいいんじゃない?」
 精一杯の気遣いの上で嶋岡が勧める。
 精神保健福祉士として働く立場としては、友人にあまりに寄り添いすぎたアドバイスをしてしまうのは小森にとって面白くないだろうと思ったのかもしれない。

 小森は眉を寄せたままで、再び数秒唸った。
「そういうのもいいけど――ぶっちゃけ、親が反対するんだよね」
「反対」
「うん。この歳で恥ずかしいんだけど、くどくて」
 赤い顔のまま、彼は気まずそうに頬を掻いている。
「まあ、小森勉強できたもんな。親御さん、出世期待してんのかもな」
 嶋岡がグラスを傾けながら言った。
「出世も何も、入り口で足止めされてるっつってんだけどなあ」
 手持ち無沙汰になったのか、小森は付け合わせのパセリを親指と人差し指で摘まみ上げた。そのままくるくると回転させている。
 目の前に置かれていた細身のデキャンタに手を伸ばす。そのまま、僕は小森と嶋岡のグラスにワインを注ぎ足した。彼のように表立ったトラブルは起こしていないものの、立場的には偉そうなことは言えそうにない。
「でも、そういうのも考えねえとなあ」
 小森は一度鼻を鳴らしてから、思いのほか長いため息をついた。


 酔っぱらった小森の泣き言をさらに一時間ほど聞いて、涙ぐんだ彼に別れ際に頭を下げられ――こういうところは妙に律儀なのだ――駅前で解散した。越谷まで帰る小森は、小走りで先に改札に向かって行った。
 スマートフォンを確認している嶋岡とふたりで、自由通路の壁沿いに立ち止まる。
 酔いが顔に出ない体質なのか、嶋岡はすっきりとした顔をしている。けっこう飲んだはずなのに。
「堀井は、予定なかったの」
「ああ、今日は何も」
 バイトのシフトは朝から夕方までで、予定は何も入れていなかった。
「小森も大変だな」
「本人も別にああいう生活したくてしてるわけじゃないっぽいしねえ」
 仕事を終えて船橋からわざわざ出てきた嶋岡は、淡い水色のコットンシャツにチノを合わせ、ブラウンのバッグを斜めがけしている。病院勤務らしい清潔感と親しみやすさ、それから圧倒的な信頼感を相手に与える人物だ。嶋岡はどこに行ってもあまり浮かない。適度に、ちょうど良くその場になじむ。安定感のある男だ。
 家族からのメッセージか何かを確認したらしい。きちんとホームボタンを押して、彼はスマートフォンを胸ポケットに押し込んだ。
「この頃、心配だったんだよ。あいつ前より短気になってる気がしない?」
「ああ、そうかも」
 もともと小さいことを気にする性格ではあったけれど、そこに苛立ちが入り、この頃は沸点が下がっているかもしれない。昔からの正義感の強さも、今の状況では仇になっていそうだ。
「あんまり口出しするのも気に障るかなと思って、言えなくてね」
 困ったように嶋岡は言った。 
「でも、今日の様子じゃ本人もよくわかってるみたいだし」
 店での小森の姿を思い出しながら告げる。
「ああ」
「本当に難しい状況になったら、嶋岡にまず相談するんじゃない?」
「それなら、いいんだけどね」
 彼は下を向いて、少し笑った。

 同じ人物を思い出しているのが、互いに伝わったような気がした。
「最近、恭一に会った?」
 彼は若干のためらいの後に、嶋岡はそう続けた。
「何日か前に、久々会ったよ。悪くはなさそうだった」
 記憶を遡って僕は答えた。
 櫂谷にとって悪くないと言えるのは、ハイとローどちらにも強く振れていない状態のことだ。そのふたつのあいだが、櫂谷は通常と呼ばれる範囲よりかなり広い。彼が日常の中で自らの精神状態を調整することにかなりの労力を費やしていること、それがどういった仕組みによって起きているのか、嶋岡は知っている。
「堀井といる時は何かそうなんだって、前言ってた」
「俺も、それ聞いたことある。普通に話してるだけなんだけど」
 おまえといると俺はなんでか真ん中あたりにいられるんだよ、といつかの櫂谷は言った。若干不思議そうな、笑いながらもどこか腹立たしく感じているような物言いだった。
 以前はそこに、嶋岡もいた。仲間内でも、櫂谷と嶋岡と僕は特に一緒にいる時間が長かった三人組だったのだ。
 地元にいた頃、それぞれ何の問題もなかったとは決して言えないけれど、彼らと顔を合わせれば無条件でほっとした。三人になると生まれるいつもの空気に、気持ちが自然と切り替わった。

 故郷を離れた櫂谷が自らの気分のコントロールに苦心するようになったのは、成人後、彼が小さなデザイン事務所に入ってからのことだ。長く逡巡した後に専門医に相談に行き、診察と検査を繰り返した後にこれと思わしきものを告げられた。櫂谷は僕にそれを冗談のように告げて、芸術肌の人には多いです、漱石もそうだったんですよって、悪趣味な励まし方だよなと笑ったのだ。
 それ以来、櫂谷は少しずつ嶋岡に会う回数を減らし始めた。それに気付いた嶋岡も、グループ内で話すことはあっても櫂谷個人にはあまり連絡を取らなくなった。櫂谷がそれを望んでいないと思っているせいだろう。寛解が近い状態にはなっているとはいえ、自らが投薬の必要な状態にあることを彼はどこかで認めていないから。
 互いに嫌いあったとか喧嘩したわけでもないけれど、ここ数年のふたりは少し距離を置いている。嶋岡の判断だった。櫂谷のプライドの高さは、周囲の誰もがよく知っている。
「何かあったら、すぐに伝えるよ」
 僕がそうしなくても、直接嶋岡には連絡が行くだろう。そう思った。彼らのあいだを間接的に取り持っている僕には、互いへの気持ちは全く変わっていないように見える。
「頼むね」
 嶋岡は、困惑の色を見せながらも頷いた。

 そろそろ行くか、と、切り出してすぐのことだった。
 また飲もう、と言い合っているところで、嶋岡があれ、と眉を寄せた。
 彼の視線を追いかけるようにして顔を向ける。改札を出て少し歩いたところで、人影が斜めに傾いだのが見えた。
「あ」
「まずくない?」
 視界に映ったその人は、力の入らない様子で何とか脇へと移動してからそこにずるずるとしゃがみ込んだ。
「ちょっと――」
 身体が先に動いてしまった。
 慌てて駆け寄った先には、数日前に見た人とよく似たショートヘアの女性がうずくまっていた。

「どうしました?」
 隣に腰を下ろし、もしやと顔を覗き込んで、ああ、と思った。
 真っ青な顔をしてそこにしゃがんで、引き攣れたようなぎこちない深呼吸を繰り返していたのは、やはり中上千紘さんだった。

 彼女はそれから三回ほど同じように深く呼吸してから、顔をあげずに小さく口をひらいた。
「すみません、ちょっと、めまいがして――」
 細く強張った声でそう言いながら、僕に向かってゆっくりと顔を上げる。

「あ」
 驚きを表現するにはひどく重そうな瞬きを、彼女は二度繰り返した。
「――こんばんは」
「只野くんの」
 掠れたような声で、彼女が呟く。
 すぐ後ろで、追いついたばかりの嶋岡が、堀井、知ってる人? と尋ねた。
 ああ、と僕は頷いた。
「大丈夫ですか」
 嶋岡の質問に、中上さんが小さく頷いた。ただの貧血なので、とも。
「貧血みたい」
 あいだにいる僕が再び振り向いて伝えると、嶋岡は少し声をやわらかくして質問を重ねた。
「助けを呼びますか?」
「いえ、大丈夫です」
 やや慌てたように、中上さんは答えた。目元に少し表情が戻ったように見えた。こちらを安心させようと、無理して笑みを作ったのかもしれない。
 中上さんは僕のほうをちらと見て、
「少し、休んだら立てます」
 小声で告げた。そう伝えて欲しいということだろう。
「嶋岡、俺しばらく一緒にいるわ。そっち、もう電車来るでしょ」
 改札に向かう人がだんだんと増えてきている。二分後には、嶋岡の乗る快速がやって来る。
 彼は少し思い悩むような表情を浮かばせてから、僕に向かって素早く片手を向けた。
 空気を押すような仕草で待ってて、と言い、手を下ろし終えないうちに小走りでその場を離れて行く。中上さんはまだめまいが鎮まるのを待っているようだった。

 一分も経たないうちに、小さな袋を提げて嶋岡が戻って来た。
「堀井。これ、良かったらその方に」
「サンキュ、助かる」
 差し出されたそれを受け取った。
 ミネラルウォーターと、鉄分入りのフルーツ飲料のパックが入っている。
 中上さんはまだ青い顔をしていたが、
「そんな、すみません。お金――」
 虚ろな動きで手を鞄のほうに伸ばそうとするので、嶋岡とふたりで慌てて止めた。
「でも」
「次会った時、俺渡しときますから」
 嶋岡が、その程度で要らないよ、と短く笑った。
 頭上から、電車の到着まであと一分というアナウンスが響いてくる。
「ああ、ごめん、俺もう行かないと。堀井、あと平気?」
 言いながら、嶋岡はずれた鞄を急いで肩に掛け直した。改札からホームに向かって、何人かが駆けていくのが見える。
「大丈夫。悪いね」
 僕も早口で告げた。
「また連絡するよ。――つらかったら、駅員さん呼んで助けてもらってくださいね」
 言葉の後半は、中上さんに向かってのものだった。
「ご親切に、ありがとうございました」
 つらそうにしている彼女も、少し慌てたような口調で言い足した。
 もう一度労わるように中上さんに微笑みかけてから、嶋岡は急いだ様子で反対側の階段へと向かって行った。


 彼の姿が見えなくなるのに合わせて、僕は再び中上さんのほうへと顔を向けた。
「――ごめんなさい、慌ただしくさせて」
 僕のほうを向いた彼女が、小声で絞り出すみたいにそう言った。
 聞き取れないほどの、高くて小さな声だ。
「調子が悪いときは、謝っちゃだめですよ」
 そう言ったものの、彼女は傷ついたような表情のままだった。青白い顔をしていて、まだ視線が定まりきらないのが目の動きで見て取れる。
 返事を待つあいだに、頭上のホームに電車が入線してくる音が響いた。多くの人が下りてくるなら、移動したほうがいいかもしれない。
「どこか、ベンチのあるところ行きましょうか。そこでこれ飲んで、休みましょう」
 立てますか、と尋ねると、彼女は静かに頷いた。
 そうしながらも、少し腰を持ち上げただけで頭部が危なっかしくぐらついた。吐き気も感じているのか、口元に急いた様子で手を持っていく。
 僕は慌てて彼女の身体を引き寄せて抱え、持ちます、と荷物を奪った。
「ええと――中上さん。ちょっとだけ、我慢してください」
 よろよろと立ち上がることはできたものの、そこから動くことは難しそうだった中上さんに僕は告げた。

 え、という声は、すでに耳元でしていた。
「あの」
 手を口から外したらしい、僕の肩口を掴んで中上さんが言う。
「そこのベンチまでなんで。恥ずかしかったら、顔伏せておいていいです」
 抱き上げたままで告げると、彼女はもう一度、ええ、と混乱したような声を出した。
 頭の中では色々浮かんでいるのかもしれない。めまいとふらつきで、言葉が出てこないのだろう。
 さすがに横抱きにはしなかったが、僕は中上さんを抱き上げたまま数メートル先のベンチまで彼女を運んでいた。周囲の人々が不審そうな目で僕達を見たが、青白い顔をしてぐったりと俯いている彼女の様子から、それぞれが視線を自分の進行方向へと戻していった。

 人気のない静かなベンチの前で、彼女に下ろしますね、と告げる。
 そのまま座面に座らせると、中上さんはすっかりと弱った様子で僕を見上げた。
「ごめんなさい。従弟さんに、こんなご迷惑」
「堀井です。堀井、亮太」
 あんな紹介だけでは、名前は覚えていないだろう。
 少し深呼吸しましょう、と続けると、中上さんは静かに僕の言葉に従った。そうしているあいだに、隣に腰かける。奪い取った黒の巾着風のバッグを返して、嶋岡が買ってくれた飲み物をふたつ取り出した。よく冷えたエビアンと、鉄分入りのフルーツジュース。とっさの判断でこういうものを選べるのが嶋岡の怖いところだ。

「こっち飲めますか。水もあるけど」
「ありがとうございます。いただきます」
 手渡したそれを両手で持つと、彼女はゆっくりと封を切りそれに唇を近づけた。
 それどころじゃないとは思いつつ、ついその姿を見つめてしまっていた。
 色味を抑えつつもあかるい、ベージュみたいな色のショートヘアだ。複雑な形で、襟足だけが少し長い。そこから覗く首筋に、薄いほくろがいくつか浮かび上がっているのが見える。
 生ぬるいような風の吹く、二十一時過ぎの駅のベンチ。
 彼女は僕の隣に腰を下ろして、頼りない様子でジュースを吸い上げている。 

「こういうこと、よくあるんですか」
 あまり刺激になってはいけないと、少し間をおいてから声を落として尋ねた。
 彼女は飲み口から唇を離して、いえ、と言った。
「最近は、ずっと元気だったんです。ただ、昨夜あまり寝られなくて」
 少し恥ずかしそうな表情で、そう付け足される。
 何かの事情があるのだろうかと思っていると、中上さんは遠くのほうに視線を移しながら、
「去年、わたしちょっと大きな手術したんです。元々、あんまり体力あるほうじゃなかったんですけど、その影響が残っちゃって」
「そう、ですか」
「入院中、只野くんにもすごくお世話になって。わたしこっちに身寄りがいないから、会社の人達がみんな代わりにやってくれて」
 中上さんは、ささやくような声でそう述べた。
 ホームのほうから、再び新たな車両が入線する音が響いてくる。一分後には帰宅途中の人々がくたびれたような足取りで駅舎を出てくるのだろう。
 それ以上のことを尋ねるのは悪い気がして、大変だったんですね、とだけ答えた。
 彼女はわずかな笑みを浮かべたまま、そこで小さく頷いた。
「皆にお世話になっちゃって」
「いいと思います。そういうときは、きちんと頼らないと」
 言い方が強すぎたのかもしれない。中上さんは僕のほうをゆっくり見上げると、驚いたようにまた小さい瞬きを続けて二回した。

「裕道の店に、関わってるんですか」
 少し落ち着いてきたという中上さんに僕は続けて尋ねた。顔色は、先ほどよりも幾分回復しているように見える。
「印刷物のレイアウトを頼まれたんです」
「てことは、デザイナー?」
「まだそこまでは言えないですけど、DTPの仕事をしてます。駆け出しもいいところです」
 小さな声で、彼女は言った。
「ああ、友達が前に同じ仕事してました」
「本当ですか」
 わずかにあかるくなった表情に、僕は頷いた。
 ささやくような、丸っこい、と言いたくなる声だった。そう大きくないから、耳を傾けるために顔を近づけたくなる。他の音に紛れて聞き逃してしまいそうで、つい姿勢を正してしまう。

「只野くん、今後も頼まれてくれって言ってくれて。気を遣ってくれてるんだと思います」
「いや、仕事の質をちゃんと見てだと思いますよ。そういうところは、あいつこだわるから」
 ああ見えて、職人気質でこだわりのある従兄だ。付き合いだけでは自分のテリトリーに合わない人間を入れたりはしないだろう。
 中上さんは、またちょっとびっくりした顔をした。基本的には真顔なのだが、本当にわずかに、ミリ単位で表情が浮かんでは消える人のようだ。
「俺、何か変なこと言いました?」
「いいえ」
 静かに視線を落として、彼女はひっそりと笑った。
 その動きは彼女の現在の年齢らしいものだったけれど、身体の中にはもうひとりの、本心の彼女が別にいるような気がした。その中にいる彼女がしているように、赤面してふいっと俯いてしまいたいのを、どうにかなだめてそうしているような。

 数日前は、人形と思ったのだと思い出した。
 色の白い、きめの細かい肌に。
 感情が表に出づらそうな、どこか臆病で気難しいところのある女性に。
 印象が少し変わった、と思った。


 結局僕達はそのベンチに腰かけて、二十分近く話をし続けた。彼女は口数が多いわけではなかったけれど、尋ねたことには正直に答えてくれる人だった。
 休んで回復したのかもしれない。足止めさせてしまってごめんなさい、という言葉を発しながら、彼女はゆっくりと立ち上がった。
 改札方面から出てきたのを思い出して、最寄りはここですかと尋ねた。中上さんは頷き、これからバスに乗って帰るつもりだと続けた。十分後に最終バスが出るはずだ、とも。
 バス停まで送ると告げると、彼女はやはり遠慮した。堀井さんだってこれからお家に帰るんでしょう、と困った顔をされてしまったが、まだ九時過ぎですからと押し切った。
「こんなところで解散したら、俺、従兄に後で怒られます」
 そう言うと、渋々といった感じで中上さんは承諾した。

 少し離れたところにあるバス停まで、彼女を送った。
 すでにバスは到着していて、多くの人が乗り込んでいる。
 列の最後尾で、中上さんは僕のほうを見上げた。
「ここまでで、本当に充分です。ありがとうございました」
 困ったような、それでいて、前回よりもずっとやわらかい表情だ。目が合うたびに、彼女の視線に次の言葉の一音を奪われてしまう。
「――あんまり、無理、しないでください」
 彼女はうすく微笑んで頷いた。
「只野くんのお店で、また、お会いできるかも」
「僕も、潰れる前にもう一度冷やかしに行きます」
 少しふざけて言うと、中上さんは思わずといったふうに笑った。
 ロータリーのカーブを、ひどく手慣れた動きで別のバスが曲がって来る。
 夜の駅前で、行先を示す電光表示板のオレンジ色の光がなめらかに流れていく。

「それじゃ、お家まで気を付けて」
 彼女はええ、と微笑んでから、一度僕に頭を下げてバスの中へと消えていった。

03|壁

03|壁

「何か、してくれたんだって?」
 翌日の夜、裕道に電話で尋ねられた。
「したってほどのことは――」
 ダンススクールを出た先にある広場で、僕はそう答えていた。

 発表会の開催日時が決定したばかりで、今日は事務作業に一日追われてしまった。会場はすでに押さえてあるものの、数か月先の本番まで準備することは山のようにある。その流れを数回経験している僕に麻子が振ってくる仕事の量はなかなかえげつない。バインダーを抱えて館内を飛び回る日になった。
「中上さんから電話があったから」
 今日も店舗の改装作業に勤しんでいるらしい。従兄の声のあいまに、金属同士のぶつかるような音や、何かを剥がしているような音が響いてくる。
「たまたま会ったんだよ。駅でうずくまってたから」
「あー」
 思い出した、というような声だ。
「ちょっと無茶するところあるんだ、あの人。まあ、それがたたって病気したようなもんらしいから」
「とりあえず、バス停までは送った」
 まだめまいが残っていたのかもしれない。中上さんはどこか強張ったような姿勢のまま、バスのステップを上がって行った。くるぶしの見える黒のパンツに、同じ色のシンプルな靴、長めの薄いジャケット。性別を強調するような服装は好まない人なのかもしれない。直線的な服を着ているから、かえって小さく頼りないような雰囲気が出てしまっているようにも見えた。
「無事帰れたから、おまえにお礼言っておいてくれって」
「そう、なんだ」
 あの後、駅に引き返す途中で連絡先を渡しておけば良かったかと思った。
 終始遠慮気味だった彼女に、それ以上踏み込んではいけないような気がしたのだった。

「可愛いだろ、あの人」
 裕道は、少し溜めてから楽しそうに告げた。
 
 へ、という間抜けな声が自分の口からこぼれていた。
「いや、顔はきれいな感じだけどさ。ちょっとつんとして見えるだろ? 気難しそうっていうか、簡単に心ひらかなさそうな」
「ああ」
「でも、実際は全然逆なんだよ。純粋っつうか、嘘つけないっていうの? 思ってること、本当にすぐ顔に出るし」
 死ぬほどわかりやすいんだ、と裕道が言い足した。
 ベンチに座って小さな声で自分のことを話す彼女は、静かに正直な人間、という感じがした。気づかない人間には気づかないのかもしれないが、反応が率直なのだ。驚いたときにわずかに大きくなる目や、瞬きの早さ、恥ずかしそうに唇をすぼめて、さりげなく俯いてしまう動きで、そう思った。おどおどとした雰囲気の持ち主ではなかったけれど、彼女を驚かせたいと思ったらそれを叶えるのはきっとたやすい。
「前の職場、皆田舎の人間だったから。ああいう人見てると、構いたくてね。同じくらいの娘がいるおばちゃん達とか、休みごとに交代で病院通ってたよ。退院の時、差し入れが入ってたタッパーで荷物一袋埋まったらしいから」
 裕道は電話のむこうでのんびり笑っている。
「なんか、そういう人なんだよな。人間関係いい職場だったってのもあるんだけど」
「只野さんにも世話になったって言ってたよ」
「たまに車出したぐらいよ。病院、同じだったから」
 近所にある、大学病院の名前を彼は出した。
 整形外科の外来に裕道は数か月に一度通っている。

 従兄の話を聞きながら、今更ながら思った。夢ではなかったんだ、と。
 確かにあの駅で彼女と再会し、あろうことか抱き上げてベンチまで運び(やりすぎただろうかと、その日は寝るまで落ち着かなかった)、バス停まで送ったというのに。

 思い返しているところで、電話のむこうで裕道がふざけた調子で笑った。
「おまえもだろー?」
「は」
 突然話の方向が自分に向いて、いつものように返せない。
「なに」
「いや、ちょっと意外だけどね。おまえああいうタイプに弱かったんだな」
 しみじみとした口調だ。絶対に、そして大いに楽しんでいる。
「だから、何が」
 子供からの縁というのは厄介だ、とこういうときに思う。ふいに出てくる言葉が、自分でも驚くほど幼い響きになったりするから。
 従兄は無理しなさんな、と訳知り顔――声だけでも確かにそういう表情をしているとわかった――で告げてから、
「亮太じゃ無茶なことしないだろうから、別に止めないよ。ちいちゃん、付き合ってるやつとかいないはずだし」
「だから、裕道」
「そうそう、店のオープニングパーティすっから、バイトで来てよ。全部ケータリングだから料理とかいらないし。彼女ももちろん呼んでるし。あ、おまえ前パーティ系のバイトやってなかった?」
「短い期間だけど」
 言い返すのにも疲れた気分になって、そのまま返答する。
 自らのアイデアが大層お気に召したらしい。裕道は上機嫌に笑った。
「兄さんがわざわざ接点作ってやんだから、有効活用せいよ」
「人の話をこれっぽっちも聞かないねあんた」
 駅に向かって歩きながら、僕はすっかりあきれた気分になっていた。
 裕道はわざとらしくわははと声をあげ、可愛い従弟のためだからな、と恩着せがましく付け足した。
 そして半月後のギャラリーのオープニングパーティについて、思いつくままに話し始めた。


 いつもの郵便局で記帳を済ませてから、閉店間際のスーパーで値引きシールの貼られた弁当と一本の発泡酒を買う。部屋の玄関扉に張り付いていたアシナガグモを落ちていたチラシで払い、部屋に入る。
 スマートフォンに、二十分ほど前にメッセージが届いていた。
 落ち着くまでは、中身を確認したくなかった。
『家に帰ったら連絡ください』
 母からだったが、実際に打ち込んだのは妹の絢乃(あやの)だろう。フリック入力が苦手な母は、スマートフォンに換えてから短文を入力することが大儀になったらしいから。

 最後に実家に戻ったのは、半年前だ。
 せめて東京圏からもう少し離れていてくれれば帰省の間も伸ばせると思うのに、ここから地元へは電車で数時間ほどで帰れてしまう。
 去年の秋口に戻ったときに、母はひどく気落ちしていた。父の健康診断の結果が良くなかった、精密検査が必要かもしれない、と。いわゆる自覚症状はない状態だったが、検査機関から送られてきた手紙にはそれを勧める内容が書かれていた。
 すぐに病院に行かなかったのは、結果がはっきりすることへの不安が勝ったせいだと思う。周りの言うことも聞かず、仕事だ付き合いだとだらだら先延ばしにしていたらしい。
 細かなことが分かったら連絡すると母から言われていたものの、正直なところすべてがぴんとこなかった。励ましの言葉を口にしたような気もするが、母にはそれが本心には聞こえなかったと思う。

 重いような気分で、連絡先リストから堀井公子の名前を探してタップする。母はスマートフォンをリビングの電話台の横に固定しておく人なので、離れた場所にいるときは出るまでに時間がかかる。
「はいはい」
 少し息を切らした様子で、母は僕からの電話に出た。
「ああ、公ちゃん? あたしよ」
「――母親に向かって何です」
 僕のふざけた一言に、あきれたように、それでいて小さく母が笑う。

 高校卒業後には語学の専修学校に進みたいと告げたとき、リビングのソファに並んで座っていた両親は気まずそうにそこでわずかな身じろぎをした。
 大学ではないのか、という父からの質問に、喋れるようになれればいいから別にいい、と答えたのを覚えている。
 正直に言えば、この先四年間も学生という身分をやる気持ちになれなかった。

 ――それじゃ、将来性がなさすぎるだろう。
 ――英会話が身についていて普通のことが普通にできれば、どこかしら使ってくれるところはあると思うんだけど。
 ――そもそもその英語が身につかなかったらどうするんだ。

 父の問いに、かっとした僕は「それはどこで何したって同じじゃないの」と言い返していた。
 彼の望む人生の形からどうしても逃げ出したくて、子供じみた言い訳だとも承知で、十八の僕は友人達の中でももっとも先行きの不透明な道を選んでいた。

 父はそこで、眉を寄せて黙り込んでいた。
 本当は僕を地元の大学に行かせて、経営と中国語を学ばせたいと父はずっと思っていたのだ。いずれは自らが役員を務める会社に僕を引き入れ、むこうの工場や代理店とのやりとりに一役買って欲しい、とも。
 それを表に出しすぎることで『息子に進路を強要する父親』になるのは避けたがったが、日々の中でちらちらとその願望を小出しにするのは辞めなかった。さりげなくのつもりだったかもしれないけれど、感情的な駆け引きのとことん苦手な男だった父からは自らの願望がいつもひたひたと滴っているように見えた。
 仕事だけではなく、ほぼすべての物事において。

「昼間、連絡くれたでしょ?」
「そうよ、絢乃に頼んだの」
「やっぱり絢乃か。あいつも家にいるの?」
 僕とは逆に、大人しくインドアな性格の妹だ。実家の近所のタクシー会社で事務員をしている。
「今日はもう部屋にいるの。漫画でも読んでるんじゃない?」
 厳密には、妹が好きなのは少女小説だ。表紙しか見ない母にとっては、それも漫画の一種らしい。
 母が妹の近況を話し始めたので、立ち上がって窓辺のほうへ向かう。干しっぱなしのタオルと部屋着を物干しから外してベッドの上に放り、その横に腰を下ろした。
 同じ会社に勤務する、高齢の運転手のひとりに息子と会って欲しいと言われたらしい。それまでも冗談半分で縁談じみた会話が交わされることはあったというから、妹にとってそれはまたかという感じのことだった。
 聞き流していくうちに、その息子が婚活に失敗し続けている五十前の男性であることを妹は知らされた。絢乃ちゃんだったらうまくやってくれるんじゃないかと思って、と。
 首から両腕にびっしり鳥肌を立てて帰ってきたから何かと思った、と母は言った。
 妹はそのまま二時間風呂場にこもって、茹でたように全身真っ赤になって出てきたらしい。そして自ら取り寄せて冷凍庫の底に並べている、好物のアイスクリームをふたつ続けて黙々と食べた。
「ひどいな」
「あの子、ちょっと大人しすぎるからね」
 絢乃は口数こそそう多くないが、気が弱い、という性格でもない。話しかければきちんと答えるし、同じ年齢の恋人がいた時期もあったはずだ。今はどうか知らないけれど。

「で、話っていうのは?」
 ひとしきり母が話し終えたのを確認してから、僕は切り出した。
 母は用心深く声音を落ち着けた。それだけどね、と。
「やっぱり、療養と検査のために数日間入院しましょうって」
「――そう」
 返事に感情がこもりすぎないように、僕も慎重に答える。

 母が病状を説明し始めたので、キッチンに向かった。
 冷蔵庫の扉に付いているホワイトボード用のペンを手にして、上部の冷凍庫の扉へ直接書いていく。腫瘍マーカー、小腸、胆のう、精密検査。
「入院先は?」
「総合病院。紹介状も書いてもらって」
 そっか、と繰り返した。母は、ええ、と頷いたようだ。
「近いうちに、一度帰る」
「頼める?」
「さすがに、これは仕方ないよ」
 自分の口から、仕方ない、という言葉が出てきて驚いた。続けて思う。仕方ない。でも何に対して?
 母はやや詰まったような声で相槌を打った。そう、ね。
 気を取り直して、僕は母に帰省の日を告げた。

 電話を切ると同時に、どっと疲れた、と思った。
 母や妹とのあいだに、わだかまりはない。僕はどちらかと言えば陽気な性格の子供だったし、母と妹を笑わせるのも好きだった。それなりに痛手を負った記憶もあるけれど、小学校から高校までの卒業アルバムに映っている自分の姿はそこそこ充実した子供のそれだったはずだ。
「――死ぬのかな」
 口に出してみたのは、その一言を実際に耳から入れて反応を確かめたかったからかもしれない。
 スマートフォンを手に、しばらくそこで感情が動くか待った。
 それはさすがに嫌だ、とか、してきたことの結果だろ、とか、そういう気持ちが出てくるかと思ったが、静かなままだった。
 少し前から、こうなのだ。一通り湧いてしまったのか、湧き尽くしてしまったのか、これといった強い感情が自分の中に見当たらない。


 店主の手によってすっかり改装されたその場所は、ギャラリー&フリースペース、という類の店になっていた。
 ささくれ立っていた窓辺の木枠は補修されていて、濃い灰色に塗り替えられたそれが灰白色の建物を引き締めている。内部の壁にはモールディング(という装飾らしい)も施したらしい。年齢や好みを問わず、幅広く受け容れられる雰囲気に仕上がっていた。
「あんなにボロだったのに、見違えたな」
「俺の目に狂いはなかった」
 従兄は、まあざっとこんなもんです、と僕の前で短い口笛を吹いた。考えていた以上にうまくまとまったらしい。
「さっそく、近所に宣伝かけてきた。フォロワーも順調に増えてるし」
 スマートフォンの画面を、僕に向かって誇らしげに突き出してくる。
 建物の奥にある勝手口を出た先には、小さな庭もあるらしい。今後はそこに小さな遊具を置いて、子供達が遊べるようにもするつもりだと言っていた。
「あの印刷機は?」
「二階で使うよ」
 裕道の頭の中では、すでにそれも動き出しているようだ。
 レンタルでもしたのだろうか、店舗内にはすでに二つの長テーブルが置かれ、厚手のテーブルクロスがかけられていた。
 ケータリング業者に任せるつもりでいたものの、イタリアンレストランを営んでいる友達がデリバリーを申し出てくれたらしい。オープニングパーティは今日の夜だ。

「思い切ったよなあ」
 開店祝いの花が、すでにいくつも届いていた。公子おばさんからも来てるよ、と言われてカウンターに目をやると、紫から水色の花を中心にして作られたアレンジメントフラワーが置かれているのが見えた。
「まあ、正直奥さんの理解と経済力のおかげなんだよね」
 裕道の奥さんはいわゆるバリキャリというタイプの女性だ。生命力にあふれていて、仕事が最大の趣味だと言い切る人らしい。出会った時から裕道にぞっこんで、付き合って半年後には従兄に黙って頭の中で結婚式のプランを練っていたと以前共に食事をした日に教えられた。彼が仕事中に指を損傷したと知った時は、真っ青な顔で病院に飛んできたと言う。
 病室のベッドの中で、従兄は彼女を落ち着かせようとゆっくり喋った。何てことない、命には関わりだってないんだから大丈夫だ、と。パイプ椅子に座った奥さんは、それでも二時間近くしくしくと泣き続けたと言っていた。鉄の女って感じだったんだけどな、あんなに泣くとは思わなかった、とも。
 もうあんなに大きな機械の中で仕事をするのは辞めて、と懇願されたものの、就職してからずっと製造の現場に生きてきた従兄にとって別業種への転職は気が進まなかったようだ。ずるずると答えを保留にしているところで、伊丹の空き家の話が入って来たらしい。
「というわけでね、十八時からゲスト来るんで。本日はパーティホストの一員、頼みます」
 どこから手に入れてきたのか、黒のベストとタイを手渡される。白シャツと黒のスラックス持ってきて、と言っていた理由が理解できた。
 了解、と答えて、僕は着替えができる場所を従兄に尋ねた。

 元々裕道の交友関係は謎が多かったが、それを改めて感じさせる一夜になった。
 仕事仲間、趣味の友達に、DIYを習った大工の友達、今後の取引先になるだろう相手や、前もって営業をしていた利用者見込みのお客(見学ついでにどうぞとSNSで声をかけたらしい)で、そう広くない店内はけっこうな賑わいを見せていた。
 両隣の建物も、ここと同じように放置されているらしい。右側は近所の業者が物置として使っていて、左側は閉め切られた空き家だ。多くの人が出入りしても、咎められることはないだろう。 
 僕は従兄に命じられた通り、テーブルの上に飲み物と軽食を用意して客にそれをすすめ、空いたグラスや食器をまとめて歩き回っていた。

 中上さんがやって来たのは、十九時を過ぎたところだった。
 想像していたよりも多くの人に驚いたのだろう。彼女は店の前で立ち止まって、中に入るのをややためらったみたいに見えた。
 黒の、セットアップというのだろうか。上下が同じ素材のシンプルな出で立ちで、真珠のような飾りのついた小さなバッグを斜めにかけている。華美なものではなかったが、彼女らしいという感じがした。

 受付を済ませた彼女に声をかけに行くか迷っているところで、中上さんが僕に気が付いた。
 あ、という顔をして、それから目だけでわずかに笑った。

「良かった、知ってる方がいて」
 中上さんはひっそりと近づいてきて、僕を見上げて微笑んだ。
 知ってる方。もうそういう間柄になったのか、と思ってしまう。
「こんばんは、堀井さん。先日は、本当にありがとうございました」
 そう告げた彼女の顔色は、前回よりもずっと良かった。唇がつやつやとしているのは、そういう口紅を使っているからだろうけれど。
 いえ、とだけ、何とか口にできた。彼女と正面から向かい合ってしまうと、僕はいつも微妙に言葉に詰まってしまう。
「――もう、体調はいいですか」
「はい、おかげさまで」
 中上さんは、若干困ったような笑みを浮かべている。
「あんなに色々していただいて――重かったですよね、わたし」
「いえ、全然」
 抱き上げて運んでしまったことを思い出して、微妙に声がうわずってしまった。彼女の腰のあたりの感触が、突然腕に戻って来たような気がした。
 裕道はまだ談笑している人々の中にいる。先ほどから挨拶に飛び回っているから、すぐにこちらに流れてくることはないだろう。中上さんも、従兄のほうを見ながら忙しそうですねと小声で告げた。すぐに挨拶に行くのは遠慮しようと思っているようだ。
 僕は中上さんをテーブルまで案内し、数種類あるドリンクのどれを飲むか尋ねた。
 アルコールは避けたいと言っていたので、カットフルーツを入れたノンアルコールワインを一杯すすめた。彼女はそれを少し目を大きくして受け取って――これ、もしかして堀井さんが作ったんですかと小さな声で僕に尋ねた。僕はもちろん頷いた――小さくグラスを傾けた。
「美味しい。それにこれ、メロンが星の型だ。これも自分で?」
「従兄の人使いが荒くて」
 内緒話のように口元に手を添えて告げると、彼女は肩をすくめながら笑った。
 中上さんは、何をしても、何を言ってもどこかで新鮮さを感じているような反応をする。

 テーブルの前に別の客人が付くと、彼女は只野くんが空くまでちょっと見学してきますと言ってそこを離れた。先ほどよりもリラックスしてきたらしい。改装された壁や建具、貼りだされている利用案内やメニューを楽しげに眺めているのが遠目に見えた。

「うまいことやってたな」
 数分後、忙しそうに裏へと滑り込んできた裕道がミネラルウォーターを口に流し込んでから言った。
「そうでもない」
 しらを切ったが、酒も入っているせいか話は通じそうになかった。人が集まってすぐにした挨拶では緊張した様子だったけれど、すでに馴染みの人達の中で冗談が言い合えるくらいにはなっているようだ。これも何かの縁だからなどと言いながら、知り合い同士を紹介していた。

 やがて店を一周して戻って来た中上さんが、裕道に声をかけた。
「開店おめでとう。いい仕上がりになったね」
「おお、ありがとう」
 裕道はふざけたように姿勢を正し、改まって頭を下げた。
「そうだ、昼間お祝い届いたよ。あれ、すごい欲しかったんだ」
 会計用らしい、真鍮製のマネートレイと、レジ脇に置くメモ用のホルダーをくれたのだという。改装中も何度か足を運んでいた中上さんは、従兄のイメージしていた雰囲気にぴったりのものを選んでくれたらしい。
「大したものじゃないけど」
「いや、嬉しいよ。なかなか細部まで気、まわらなくて」
 少し恥じるように、従兄は後頭部に右手を回している。
「窓の色、やっぱり茶系にしなくて良かったね」
「でしょー? 反対派が多かったから心配だったんだよな。でも、押し切って良かった」
 僕のほうを見て、
「窓枠の色さ、家族には暗めの金色がいいって言われてたんだよ。でもそれじゃちょっと女性っぽすぎるから、もう少し落ち着いた色にしたいって思ってて。たまたまその日ちいちゃん来てくれたから、相談したんだ」
「へえ」
「完全に黒だと締めすぎだから、つや消しの墨黒とかチャコールみたいな色はどうって言ったんです」
 中上さんが高い声で補足した。
「正解でしたね」
 あえて感情を込めて、僕は彼女だけを褒めた。
「ちょっと亮太、褒めるなら俺にも言ってよ」
「何? 言い方が気色悪くて聞こえなかった」
 わざと甘えたような声で称賛を求めてきた従兄に、軽く突っぱねるように言い返す。僕達にとっては、お約束みたいなやりとりだ。中上さんは、びっくりしながらもどこかで笑うのを我慢しているように見えた。
 裕道はひでえな、と苦笑してから、小さなテーブルに重ねてあるリーフレットが中上さんの制作物であることを告げた。店の雰囲気とよく合った、シンプルで品のあるものだった。従兄は彼女の仕事を褒めたたえ、中上さんは謙遜したように首を横に振った。

「そうだ、そろそろ裏でお子様に菓子配らないと」
 裏にある小さな庭でポップコーンとマシュマロを焼く用意をしてあるのを思い出して、そうだった、と答える。
 中上さんは裕道のほうを見て、
「何か、手伝う?」
「ゲストにそんなこと、って言いたいんだけど、正直助かるな。こいつに全部教えておいたから、手貸してくれる?」
 もちろん、と中上さんは頷いた。従兄は悪いねと彼女に告げながらも、帰りはちゃんと亮太に送らせるからさ、と続けた。彼女はそんなにしてくれなくていいよと遠慮しつつ、僕のほうを何をすべきか尋ねるような目で見上げている。

「とりあえず、裏行きましょう。廊下、まだ少し暗いです。気を付けてついてきてください」
「わかりました」
「五分後くらいにできるから、そしたらこっちで案内して」
 従兄に告げる。彼は短く、りょ、と答えた。
 僕は目配せしている従兄に気付かないふりをしながら、彼女を庭に向かって誘導した。

04|マグノリアハイツ

04|マグノリアハイツ

 宴の後の雰囲気はけっこう好きだ、といつも思う。
 開け放った扉のむこうから吹いてくる風によって、室内にこもっていたアルコールの匂いはほとんど飛ばされていた。白熱球のあかりに照らされた室内の床には、紙製のフォークやクラッカーの中身、スナック類の破片がちらほらと落ちている。
 従兄の店のオープニングパーティはささやかな規模ではあったものの盛況で、これといったトラブルもなくお開きになっていた。

「良かったですね。お菓子、好評で」
 中上さんは床に落ちたペーパーナプキンをしゃがんでそっと拾い上げている。ゆったりと、静かに動く人だ。
 手伝ってくれたことへの礼を告げながら、僕はT字ほうきを使って床のごみを部屋の隅へと集めた。すでに飲み物の空いた容器は裏へとまとめたし、レンタルした椅子も畳んでいる。
 裏庭で作ったポップコーンと焼きマシュマロは、大人の話に飽き始めていた子供達に思いのほか喜ばれた。その場で簡単に作ったそれを、中上さんは裕道の用意したカラフルな紙コップいっぱいに詰めて配ってくれた。子供の前で大きくテンションが変わったり、元気になるという人ではないらしい。彼女は小さな子供相手でも物静かな大人のままだった。
 裕道はまだ店の外で人と話しているようだ。薄いカーテン越しに、最後の客人が乗って帰るのだろう車のライトが点灯しているのが見える。
 ほうきをつかって大きなものはまとめられたものの、何となく満足できずに奥から小型の掃除機を引っ張り出した。中上さんは僕のほうを見ながら、ずいぶん早く片付きそうですねと驚いている。すでにボウタイもシャツのボタンも外しているが、さっさと終わらせて着替えたかった。
 外でにぎやかなやりとりをしていた裕道も、先ほどの車を見送っているようだ。車を誘導し、去っていくそれに向かって頭を下げているのがぼんやりと映った。

「終わったああ」
 店舗に戻ってくるなりそう言い、彼は子供のように万歳をした。
 僕の勧めたスツールに腰かけて足先を小さく揺らしていた中上さんは、従兄を労わるようにお疲れさま、と笑った。彼の友人がゲストのほとんどを占めるアットホームなお披露目会に近いパーティだったものの、準備にはやはり数日ほど必要だったらしい。
「こんな時間まで付き合わせて悪かったね」
「わたしは何もしてないから」
「しなくていいんだって。力仕事やれるやつ、わざわざ雇ったんだから」
 僕のほうに親指を向けるので、高いよ、と答える。
 従兄は機嫌よさげにわかってるって、とジェスチャーを送ってきた。そのまま、さっきまで氷水を張った桶で冷やしていた残りの飲み物に手を伸ばしている。カウンターにそれを並べて、中上さんにどれがいい? と従兄は尋ねた。
「もうお腹いっぱいだから」
「じゃあ持って帰りなよ。嫌いじゃないでしょ」
 まだ濡れている缶やペットボトルを、裕道は手拭きを使って簡単に拭い始めた。

「裕道、あとは」
 掃除機をかけ終えて奥にしまってから尋ねると、彼は少し考えるような表情を見せた。
「とりあえず、今日はここまででいいかな。最後に中上さん家まで送ってくれる?」
 答えを待つ前に、彼はスラックスのポケットに手を入れている。
 中上さんがはっとしたように背筋を伸ばした。
「只野くん、わたし普通に帰れるから」
「いいんだって。遅くまで残ってくれたし、帰りに亮太にうちの奥さん拾ってもらうことになってるから、ついでついで」
 そんな話は全然聞いていないので、従兄の作り話だ。ほとんど投げるように手渡してきたキーを受け取る。
 裕道はカウンターの中に押し込んでいたビニール袋の束から一枚を引っ張り出すと、手早く飲み物を袋の中に数本詰め込んだ。また相談乗って欲しいんだよ、俺やっぱりセンスって言われると自信がなくて、などとぼやいている。中上さんは従兄の勢いに押されたように頷いているみたいだった。
「場所、亮太に教えてやってくれる?」
 裕道は缶とペットボトルで形の変わったビニール袋を中上さんに手渡した。


 準備に追われていたらしい従兄の車の後部座席は、なかなか悲惨なことになっていた。
 中上さんはそれに気付かないふりをしようとしたようだったけれど、やはり車内の様子に面食らっているのが伝わってきてしまう。
「僕も同じ気持ちですけど――見なかったことにしてやってもらえますか」
 横に並んでそう告げると、彼女は目を大きくしたまま頷いた。

 助手席に腰を下ろした中上さんは、何となく所在なげに見えた。
 この人は受け答えもきちんとしているし、髪型も服装も洗練された感じなのに、奥のほうにいる本人がそもそもどこか頼りないのだ。外に見せようとしている顔に、素の部分が追いついていない気がする。
 使い慣れないカーナビに触れながら、僕は彼女の家のおおよその所在地を尋ねた。
 いくら裕道の従弟だとはいえ、よく知りもしない男に自宅の場所をそのまま教えてしまうのは怖いかもしれない。近所でもいいです、と付け加えたけれど、彼女は気にしていないふうに自宅の場所を僕に教えてくれた。
 大きな河川をまたいだ隣の市の、駅から十分ほど離れた場所にある賃貸に住んでいるらしい。
 住所で入力するよりも隣にある建物で検索したほうが早いと言うので、そうした。ここからは二十分もかからない町だったけれど、県境を超えた先だ。僕の借りているアパートからもそう遠くなかった。

「ちょっと急な坂を上ったところなんですけど、小さなチャペルがあって」
「ええと、結婚式場?」
 目的地に設定してから、運転席の仕様を確認しながら尋ねた。
「小さい式場がついてるレストラン、って感じです」
「じゃあ、人の出入りが多いんじゃないですか」
「うちはエントランスと駐車場とは逆側なので、そこまでは。でも、お休みの日に適当な服装で家を出てドレスアップした人とすれ違うの、最初は戸惑いました」
 苦笑しながら彼女は言った。つられて、何となく僕も笑ってしまう。
 発進させた車が通りに出るまでのあいだに、彼女は住まいの隣に立っているというそのチャペルについて僕に話してくれた。やはり週末に結婚式が行われることが多いこと、音楽や歌声が彼女の住む部屋にまで漏れ聞こえて来る日もあること。パッヘルベルの『カノン』がすっかり頭の中に入ってしまって、たまに外を歩きながら頭の中で口ずさんでしまう、とも。

 ひとしきりそのレストランウェディングについて話し終えると、彼女は静かに運転席に座る僕のほうを見た。 
「堀井さんのことも、何かお話してください」
 高くささやくような声で彼女が言った。
 わたしの話ばかりでは、という意味だったのだとは思うけれど、言葉にしたぶんだけを抜き取ってしまいつい返答に詰まる。
「旅がお好きだって」
「裕道が言ってました?」
「色々な国に行ってるから、聞いてみると面白いよって」
 わが従兄ながら周到な奴だ。
 今までに足を運んだことがある国を思い浮かべながら、僕はどの話を彼女にしようかと考えた。そしてふと、こんな生活を始めるきっかけになった出来事を思い出した。

「そうですね――僕、中高の成績で英語だけが飛びぬけて良かったんです」
「うらやましい。わたし全然だめだった」
 小さな声で、彼女は言った。
「他は全部平均点でしたけどね――映画ばっかり観てたせいかなって、自分では思ってて」
「映画?」
「地元、何もないところで。暇つぶしに、近所のレンタルショップの洋画を片っ端から借りていったんです」
 レンタルよりも、図書館のほうが先だっただろうか。そう多くないVHSの並ぶ視聴覚資料の棚を思い出した。県立高校と公園のあいだに建っていた市立図書館。
 好みのジャンルも監督もわからないうちは、何でも観てみようと思っていた。
 自宅のリビングに長居することのなかった僕には、自室でそうするだけの時間が充分にあった。おかげで、どのレンタルショップにも置いてあるくらいの定番だけれど実際は観たことがない、という映画が僕にはあまりない。
 中上さんは、隣で不思議そうな瞬きをしながら頷いている。
「小さい店だったから、字幕版しか選べないのも多くて。それが良かったのかもしれないですね」

 小遣いをレンタルに費やすようになってから、リスニングの成績が突然上がった。担任教師が驚いたのは、それまでの僕にはいわゆる得意科目というものが本当になかったからだ。
 選択肢が広がったような、風穴が開いたような感覚を覚えた。
 これをもう少しまともに使いこなせるようになったなら、生きていく場所の選択肢もぐんと増えるのか、と。それまで頭の中でばらばらだったものが、ひとつに繋がったような気がした瞬間だった。突破口だと、そう思えた。
 そうなる前は、あの狭く退屈な田舎町と映画の舞台になっていた外国の街が繋がっていると思うことはあまりなかった。手続きを踏んで、頭と身体を動かしていけば実は辿りつける場所だなんて、言われてもぴんとこない話だった。
 ここだけじゃない、遠くまで行けるかもしれない。
 わずかな希望みたいに思えたそれを、行動に移してみたくなったのだった。

「行動力があるんですね」
 驚きの入った、それでもどこか優しげな響きで彼女が言う。
「いや、けっこうびびりながらですよ。僕全然、自信があるほうじゃないし」
「見えないです」
「見えないようにしてるんです。偉そうに生きてたいんで」
 ちょっと茶化して答える。
 実際は、はったり半分で何とか乗り切ってきたことばかりな気がしていた。一番奥にいる自分なんて、実際のところおそろしく臆病でちっぽけだ。
「やりたいって思ってすぐに行動できるやつが羨ましいって思うこと、いっぱいありますよ」
 どこにだって、そういうやつはいたような気がする。
 普通にしているようで満たされていて、静かな、本人すら気付いていないような自信や安定感があって、していることと思っていることに矛盾が生じにくい人物。
 小さな失敗くらいで自らの価値が揺らぐこともない、ただゼロに戻るだけに見えて、そのゼロがやはり周囲より遥かに豊かなのがわかる人物が。
「僕はけっこう、何をするにも怖いと引き換えです」
 赤信号の前で車を停めながらぽろっと出てしまった一言に、自分でも驚いた。
 中上さんと話していると、当たり前のように言葉が本質のほうに向かっていってしまう。見栄を張りたい相手のはずなのに、それが剥がれ落ちてしまう。どうして普段から隠したいと思っている場所を自ら晒してしまっているのか、自分でもわからなかった。

「わたしも、断然そっち側です」
 彼女が苦笑しながら同調した。言葉の中に、自嘲するような響きもあった気がした。
「こっちに行きたいって思っても同じくらい怖かったりして、けっこうせめぎ合っちゃう」
 わかるな、と思った。
 あそこで立ち止まらなければ良かったのに、と思うことは思い返せばいくつもある。
 うやむやにして辞めてしまったこと、本心ではなかったのに引き返してしまったこと、諦めてしまったことが。

 でも、とこぼした後に、彼女はしんと黙った。
 続きを口にするか、迷っていたのかもしれない。
「その怖いで止まっちゃうと、他のことしても何かが止まったままな気がして。だから騙し騙し行くしかないっていうか。堀井さんの言う通り、本当に引き換えです」
 仕方ないな、というような、その仕組みを受け容れるしか方法がないとでも思っていそうな物言いだった。
 交差点の信号が青に変わる。前の車が動くまで、数秒間の間があった。
 何かを考えていたらしい中上さんが、わずかに陽気な声を出した。
「堀井さんと話してると、どんどん奥のほうにいっちゃいますね」
「変だな、ふたりとも怖がりなのに」
 僕のふざけた返答に、鈴を振るような声で彼女は笑っている。

 普段は蓋をしているところに、この人といると自然と進んで行ってしまうような気がする。
 互いにそれを不思議には思わないくらい、当たり前のことみたいに。

 中上さんの住んでいる家の周辺は住所に丘の文字が入っていて、文字通りゆるやかな坂が続いている台地になっていた。
 住宅が集まる一帯のさらに奥のほうに、細い坂の入り口を見つけた。交通量も多くなさそうな、それまでよりも傾斜が強い坂だ。大きく右カーブの形をしていて、彼女の住居はその上にあるらしい。
 車がなかったら暮らしにくいだろうと思ってさりげなく尋ねると、彼女は中古の軽自動車を一台所有していて、場所によってはそれで出かけていると言った。
「車があったら、車移動ばかりになりません?」
 質問を重ねた僕に、中上さんは「あんまり共感されないんですけど」という前置きをしてから答えた。
「公共の乗り物で移動するのも好きなんです。任せっぱなしにできるし」
「任せっぱなし」
「何も考えないで、ぼうっとバスに乗ってたい時とか――ない、ですよね」
 男性には今まで通じたことがあまりないんです、と彼女は笑った。
「気持ちは、わかる気もします」
 彼女の笑顔につられつつ、僕は答えた。
「でも――正直僕も、自分で運転したほうが気楽ですね。時間も気にしなくていいし」
 口にしながら、話すのが楽になったな、と思った。一定の緊張を感じながらも、車内で静かに続く会話が心地よく思えた。

 最後の傾斜に、アクセルを強く踏む。
 反対側からも同じように登れるらしい、アルファベットのCを描いたようなその坂の頂上に、チャペルレストランと集合住宅がひとつ並んで建っていた。
 見晴らしが自慢になりそうな、イクイネン、という名前の小さなチャペルつきレストランと、広めにとられた駐車場。目隠しの代わりに植えたような背の高い樹木が並んでいる。
「知らなかったな、こんな高いところがあったなんて」
 周囲一帯を見渡せる、見晴らしも良く広い場所だ。
 レストランと駐車場のまわりは舗装も整備もされていたが、少し離れたところは砂利が敷かれ雑木林がすぐそこまで迫っている。

 この裏です、と言われてぐるりと建物を迂回した。

 彼女が住んでいる建物の前には『マグノリアハイツ』と書かれている看板が立っていた。
 アパートとマンションの境をどちらにも超えられなかったような雰囲気のある、L字型をした三階建ての建物だ。手前に正方形の庭があり、そこにも小ぶりの二本の樹が植えられている。敷地は広く取られていて、裏には何台分もの駐車場があるらしい。
 車のライトによって照らされたその樹に視線をやりながら、
「僕植物詳しくないんですけど、あれがマグノリアってことで合ってます?」
 ゆっくりと停車させながら尋ねると、中上さんはどこか嬉しそうに頷いた。ハクモクレン、今年はもう終わっちゃったけど香りも良くてきれいですよ、と。
「こんなところまで送ってくださって、ありがとうございました。お話、とっても楽しかった」
 彼女は僕のほうを見て、控えめながらもにっこりと笑った。
 すみません、でも、ごめんなさい、でもなかったその一言は、胸にすっと入ってきた気がした。
 彼女が車を降りて立ち去ってしまう絵が頭に浮かぶ。
 それに抵抗するように、僕は口をひらいていた。

「あの、中上さん」

 僕の声が途端に低くなったことに、彼女もきっと驚いたはずだ。
 振り向いた中上さんの動きは、そこで静かに停止した。目の表情に、わずかな緊張の色が重なる。

「――また、俺と会ってもらえませんか」

 いかにも絞り出したような声だった。余裕のないそれが、車内に重く響いた。
 言うタイミングが適切かどうかなんて、正直もうわからなかった。このままここで彼女と別れて、やってくるかもわからない次の機会まで待てる気がしなかっただけだった。
 すでに車を降りる準備をしていた中上さんの手は、肩から掛けていた小さなパーティバッグのチェーンに添えられたままだ。僕のほうを見て、まだ驚いたような顔をしている。
 返事もないのにこれはだめだと頭で確かに思っているのに、僕の右手は彼女の頬に向かって自然と伸びていった。
 中上さんは微動だにしない。いつもより大きくひらいた目で、僕を静かに見上げたままだ。

 こちらを振り向くときに左目にかかった彼女の髪に、やがて僕の指先が触れた。
 やわらかい、光をそっと吸っては放つような、あかるいベージュの――ああ、彼女の髪だ、と思った。

 感触にはっとしたように、彼女は鋭く息を呑んだ。
 小さく細い、ひゅっという音が車内に響く。
 中上さんが、黙って首を後ろに引いた。
 僕の指先から、触れていた髪がするりと抜ける。

 ごめんなさい、と言ったのは、まったく同じタイミングでのことだった。
 僕は勝手な接触に、そして彼女は、やはりそれを拒むためだったのだろうか。
 数秒間、そこに沈黙が続いた。

「ごめんなさい」
「いえ、わたしこそ」

 彼女が静かに俯いた。今度は顔が隠れ、首筋が覗く。
 表情が見えなくなると、姿は途端に悲しげに映ってしまう。

 身体の内側からのぼってくる後悔をどうにか押しとどめていると、中上さんは小さな声で続けた。
「まだ、わたし堀井さんのこと良く知らないから」
 言い訳しているみたいな響きだ。小さな、どこかおどおどしたような声。まるでこんな迫られ方をされたのは初めてだとでも言うような。
 彼女が自らの心の揺れをどうにかして元に戻そうとしているのが、手に取るように伝わってくる。

 中上さんは、小さく震える声で続けた。
「わたし、堀井さんの年齢も知らないし」
「二十六」
 畳みかけるように言い訳を続けた彼女の言葉に横入りして即答すると、中上さんは僕のほうをもう一度見上げた。
 再び視界に入った顔は泣いてこそいなかったものの、やはり困惑に揺れていた。

「二十六です」
 彼女が口をひらく前に、僕は繰り返していた。
「誕生日は九月十二日、群馬出身で、血液型はBです。高校出てから語学の学校行って、成人してすぐにカナダで一年過ごしてます。今はダンス教室の裏方と、たまに登録制のバイトしてて、だいたい半年に一回海外に放浪しに行ってます」
 怖がらせるつもりはなかったけれど、気づけばまくし立てていた。
 中上さんは、僕の言葉の勢いに飲まれたように目を大きくしている。
「中上さんみたいな人から見たら、まともな大人には見えないかもしれないですけど。でも生命力は強いです。何でもするし、そこそこ器用だし、力仕事もできます。あと何か聞きたいことありますか。何でも答える」
 早口で、僕は言い切った。
 彼女はまだ、僕の発した言葉を理解することで精一杯みたいだった。
「裕道の店で見た時から、千紘さんのこと気になって」
 下の名前で呼んでしまったと思ったのは、すでに声に出してからのことだった。

 あの日、視界に入ってきた赤い傘を見て、覗き込みたいと思ったのだ。まだ見えないその中に、何か大事なものが隠れているような気がして。
 ふらふらと引き寄せられたあの店の入口で彼女が傘を下ろした瞬間、僕の身体の中に、何かが灯った。
「またあの店で偶然会うまで顔見られないなんて、俺ちょっと無理です」
 言葉に、恥ずかしいくらい熱がこもってきてしまう。
 彼女と出会ってからまだ半月くらいしか経っていないのに、腹のうちにこんなものが育っていたのかと他人事みたいに驚く。

 今までは、もっとうまくやっていたのに。
 どんなことになっても傷つかないような安全な場所に自分を置いて、注意深く反応を見ながら冗談交じりの好意を言葉で繰り返した。相手が気を許してくれた瞬間にするりとそこに入っていけば、そのまま関係が始まった。摩擦の少ない、それなりにうまいやりかたを心得てきたつもりでいたのに。
 千紘さん相手には、その自分がどうしたって出てきてくれない。

 この人に、もっと話を聞いてほしい。
 大げさな感情移入も強い否定もない、この人の静かな理解と肯定の前で、今まで誰にも言えなかったこと、本当のことを喋りたい。
 不器用ながら日々を何とか誠実に生きようとしているような、静かに笑うこの人に、もっともっと触れていたい。
 手を伸ばして触れて引き寄せ、もっと近くでこっちを――僕のことを、見てほしい。

 千紘さんは、僕の話にわずかに傷ついたような顔をしていた。
 その傷がごく浅いものだろうということも、彼女の表情から伝わって来た気がした。

「わたしだって、そんなにまともな大人じゃないです」
 彼女は僕を見上げて、淡い感じで微笑んだ。
「わたしのほうが、堀井さんより言いづらいことあるかもしれない」
 それでもいいとか悪いとか、そういうところまでいかないような、控えめな言い方だ。
 僕に理解を求めるつもりもない、受け容れて欲しいという期待も、きっとそんなに感じていない。たとえほんの少しそういう希望を持っていても、相手次第ですぐに引っ込めることができるような。
「ほとんど家出みたいに、地元出てるし」
「そんなの」
 仕方ないと思える事情が世の中にあふれていることは、自分の周囲だけでもよく知っている。
「その後、三年くらい水商売もしてたし、ずっと不安定な生活で。只野くんと同じ職場に入って、やっと落ち着いてきたくらいだから」
 彼女は言った。
 エンジンを切った暗い車内で、ハイツの階段下にひとつだけあるわずかな灯りを受けながら。

「水商売」

 その単語が、頭の中に不自然な大きさで響いていた。
 強烈な違和感を覚えたのは、その類の職業に対して何らかの良からぬ印象があるという理由ではなかった。
 失礼を大いに承知で、僕は思ってしまったのだ。
 この、見た目は都会的な感じのくせに本当は人一倍嘘が下手な人に、そんな仕事ができたのか?

 僕が自分の話に幻滅したと思ったのだろう。小さな声で、彼女は続けた。
「たぶん、堀井さんに見えてるわたしって、そういう感じじゃないですよね。だから――」
 もしもまたがあるのなら、只野くんの繋がりだけにしませんか、という意味のことを続けようとしたのだと思う。

 僕は思わず彼女に尋ねていた。
「千紘さん、水商売なんて、できたの?」
 僕の頓狂な質問に、彼女はここで話し始めてから一番びっくりした顔をした。
「え?」
「あ、ごめんなさい」
 早口で謝ってから、言い訳がしたくなって再び口をひらく。
「聞いた限りでも、事情があってのことだってわかるんだけど――。あの、俺には千紘さんって、全然その手の駆け引きとかが上手じゃない人に見えるんだけど」
 僕の続けた無礼な言い訳に、彼女は驚いてぽかんとしていた。
 そう、こういうところがだ。相手の言うことやることにいちいち律儀に反応しすぎるところ、感じやすさ、動揺すると簡単に声が揺れてしまうところが。
「――できそうに、見えない?」
「全然」
 僕の答え方は大いにくだけた。
 彼女への気持ちを絞り出した上に思わぬ方向へと話が行ってしまったことで、何だか調子っぱずれな感じになってしまう。

 千紘さんは、少しのあいだ黙ってから気まずそうな顔をした。
「その、まだ十八前だったから」
「ええと、それ、たぶん法的にはアウトですよね」
 褒められたことではなくても、ない話じゃないことくらいは僕にだってわかっている。ついそう返してしまっただけだった。
 それでも、僕のした指摘に彼女はわかりやすくぎくりとした。
「だ、だって、十年以上前って、今より世の中のグレーゾーンもう少し広かったでしょう。十八になるまで、半年もなかったし」
 墓穴を掘ったと思ったのだろう。だんだん小さくなるような声で、しどろもどろになっている。

 それくらいの年齢なら、もうそこにいるだけで充分か。
 容姿だけならそういう仕事も充分いけそうに見えただろう当時の彼女のことを僕は想像した。
 きれいな顔をしているのに自信なさげに初々しくて、何でも教えてやりたい男だらけだっただろう。
 未成年に最初からその手の完璧さを求める男なんてそう多くない。

 僕の考えに気づかずに、千紘さんは少しいじけたような声で続けた。
「でも、本当は働いてるあいだ、ずっと上手にできてなかった」
 ひとりごとのような響きだ。口にしながら、色々思い出してしまっていたのかもしれない。
「――そこが良かったのかもしれないよ」
「それ、ママにも言われた。あんなちゃんはこういう世界になじめそうにないところが武器だからって」
「あんなちゃん」
「源氏名」
 言いづらい経歴を口にしてしまったことで、彼女も気が緩んだのかもしれない。
 千紘さんは静かな声で、ぽつんと答えた。

「十七かあ」
 丘の上にあるハイツの周辺には、人や車はほとんど入って来なかった。
 僕はシートベルトを緩めて、そこで足を組んだ。千紘さんは気まずそうに、うん、と頷いている。
「実家に安心して居られない理由が、何かあったんですか」
 彼女は小さく頷いた。
「それで――何とか出て行きたくて、地元の不良みたいな友達に相談した、とか?」
「どうしてそこまでわかるんです」
「周囲にも、そういう子何人かいました」
 僕の返答を、彼女は黙って聞いている。

「千紘さんって、不良タイプじゃなかったでしょ」
「逆のほうです」
「あんまり、学校得意じゃなかったほうかな」
 僕にも、そういう友達がひとりいた。
 心も身体も繊細な感じで、一時期は学校に来ても保健室までしか入ることができなかった同級生だ。教室にいると息苦しいと、よく保健室で勉強していた。
 体育の時間に一度大きく膝を擦りむいてお世話になったことをきっかけに保健室に無駄に顔を出す生徒になった僕は、次第にその子とも気軽に話せる仲になっていった。堀井くんまた巡回? と少しあきれたような声で僕に告げて、夏休みの前には『TUGUMI』という小説を貸してくれた子。
 千紘さんは、ほんの少しだけその子と面影が重なる。

「もう、何でもお見通しみたい」
 千紘さんはくすくす笑った。
「ひとりだけ、友達にそういう子がいたんです。もともとはわたしと同じようなタイプの子だったんだけど、中学からちょっと荒れて。それで、地元のそういうグループに入って」
 言葉を強くしすぎないように気を付けているような、慎重な口調だ。
「その子にお願いして、先輩に話つけてもらって。十七歳の冬に」
「度胸ありますね」
「若かったから」
 彼女はもう一度笑った。そして、あ、年齢、と呟いた。
「堀井さんより、わたし三つ上です」
「見えないな、同じくらいかと思ってた」
「病気して、きっと色々出ていっちゃったんです。それまでの毒とか、アクとか。昔は、わたしもうちょっと性格きつかった」
 懐かしそうな、優しげな響きだ。

「それから、ずっとご家族と会ってないんですか」
「今は、連絡くらいはしてます。書置きも残してたし、その友達にお願いして、無事も伝えてました」
 胸の中にいるその頃の自分をそっと見ているような表情で、彼女は答えた。

 淡々とした調子で話していたけれど、実際に経験してきたことは決して軽くなかっただろう。
 元々は内向的で人見知りも強かっただろう十代の千紘さんが、信用できる人物かもわからず一か八かで他人を頼った。
 飛び出した先にあった、おそらくは順応するのに時間がかかっただろう暮らし。
 いきなり大人の世界に飛び込んで、でも後に引けなくて。
 何がそうさせたんだろう。
 何から、そんなに頼りない足取りで逃げ出さなくてはいけなかったのだろう。

「堀井さんと話してると、本当に終わらない」
 何度か手をかけようとして結局しなかったシートベルトに、彼女はようやくといった感じで手を伸ばした。高い金属音のあとに、それが外れる。
 今の千紘さんには、そういう経歴や背景の気配がまったく残っていなかった。身なりにも仕草にも、言葉の選び方にも。少し離れたところから見える彼女は、たとえ力強くはなくても自分らしさを大事にしながら自立した女性だ。
「でも、俺のことちょっとわかってくれました?」
 今度はふざけずに尋ねると、彼女は頷いた。

「何でもいいんです」
 さっき疾走感たっぷりに始めた自己紹介よりも少し抑えめに、でも同じ気持ちで続けた。
「デートしてとか、付き合ってくれとか、そういうんじゃなくていいです。でも何かさせてください。荷物持ちとか、暇つぶしとか愚痴聞いてとか、何でもいい」
 ポケットからスマートフォンを取り出す。
「繋がってて、会えたら、それでいいから」
 僕の言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。
 そして小さなパーティバッグに手をかけると、おずおずとした仕草でそれをひらいて中からスマートフォンを取り出した。
 僕のより一回り小さな、レザー風のカバーがかけられたものだった。

 五月の夜、二十二時。マグノリアハイツ前。
 僕達はそこで、互いの連絡先を交換しあった。

05|雨風

05|雨風

 とはいえ、という言葉がふつふつと頭の中に立ち上る。
 炭酸の泡みたいに、ささやかながらも確かな刺激を伴って。

 とはいえ。
 こちらは二十代半ば、それなりに活動的な男子だ。
 健康体を持ち生命力がちょっとした自慢の若い男にとって、気になる異性がいつまでもふわふわときれいなところに留まっているわけがない。

 千紘さんと連絡先を交換した翌日から、彼女とのやりとりは始まった。
 昨夜は遅くまですみませんでした、という一言から始まった会話は、細く長く続いた。彼女は積極的に話しかけてくるような人ではなかったけれど、僕の送ったことに対して彼女らしい言葉遣いで返信をしてくれた。
 意識して観ていたわけではなさそうだったけれど、千紘さんは八十年代の映画の雰囲気が好きらしかった。以前に彼女が住んでいたアパートにはケーブルテレビが入っていて、毎日決まった時間に名作映画を放送し続けるチャンネルがあったらしい。何となく流しているうちに見入ってしまうこともしばしばあったと言っていた。
 あの頃のメグ・ライアンのこと、『ラ・ブーム』のソフィー・マルソー、寝起きの頭でぼんやりと眺めていたせいでタイトルが思い出せないという、クリント・イーストウッドの初期作品。僕に解説や補足を求める形で彼女はそれらの話題を振ってきた。
 自らの生活についてはあまり語らなかったけれど、彼女の目に映ってきたものに覚えがあることが嬉しかった。いつか同じものを、別の場所で見ていたことがある、と。
 深夜まで仕事をしている日もあるらしい千紘さんから届くメッセージは、小さなささやきみたいに思えた。ささやかで、少しだけ陽気な、何か静かで優しいものに。
 僕はマグノリアハイツの前で彼女に願い出た通り、千紘さんとの個人的な繋がりと、互いがその気になれば顔を合わせることができる可能性と手段を手に入れたのだった。


 とはいえ、僕の生きている世界は彼女のそれよりもうちょっと生々しくできている。
 たとえばバイト帰りに立ち寄ったコンビニの雑誌コーナーや、スマートフォンで見ていたサイトについてくる広告、そして電車の向かいの列で無防備に組まれた女性の生脚なんかに日々翻弄される世界だ。
 世の中に散らばったそういうもの達は、今日も変わらず僕の前頭前野をノックしてくる。重ねたトランプを上から抑えつつゆっくりと横にずらしていくように、平常心の芯がずれ、煩悩が顔を出してしまう。悲しきかな性衝動。こいつが騒ぎ出すと、身体が彼女への気持ちをきれいなままにしておいてくれない。
 千紘さんとのぽつぽつと続く会話から少し離れながらも、平行して僕はそういったものに翻弄されるようになっていた。

 あー。
 カードがずれる度に、頭の中でそういう声が出る。今は出番じゃないぞ、とその気分を引っ込めながら、心の中で彼女に謝る。ごめん、そんなつもりじゃないんだ、と。自らの煩悩によって彼女を汚してしまわないように、不埒な自分をどうにか抑え込もうとする。
 彼女との会話は単純に楽しいものだったし、手すら握ったことがない相手にこんな願望を抱くのはいけないことだ。全くもって正しくない。
 確かにそう思っているのに、本音の本音は真逆だったりするから身体というものはややこしい。

 触りたい人が、久々にできてしまったのだ。
 そうなる前までは密かで心愉しい景色でしかなかったものたちが、僕の内で生まれ続ける欲求を容赦なく増幅してくるようになってしまった。まるで、活性化しつつある本能を意地悪くからかうみたいに。
 慣れと経験によって多少はこの手の厄介との折り合いを学んだはずなのに、千紘さんの存在によって今日も僕の中に積まれたカードはちょっとした刺激でずれ続けていた。翻弄され、時には自ら興じ、ひとしきり耽ってからばらばらに散らばった理性を何でもない顔をしてかきあつめている。
 彼女には決して言えない内容で頭の中を乱しては、取り戻した理性をまとめてトントンと形を整え、いつもの自分に戻ってくるだけの――。

 たとえば一日を終えて眠りに落ちる前の十分間、右手の指先をこすり合わせながら、僕はごく自然に彼女の髪の感触を思い出してしまう。
 あんなにあかるい色にカラーリングしているのに、千紘さんの髪はしっとりと潤っていた。なめらかなその感触を、僕はたびたび記憶の中に潜っては繰り返す。
 街中で似た姿の人を見かけたとき、彼女から届いたメッセージを読んだあと、それからダンススクールにいる時間、ふと廊下から外を眺めながらも。

 もう一度、あの髪に触れたい。
 髪だけじゃない、あの小さい頭に、やわらかそうな頬や、あの首筋に。
 強くそう思うのに、そこに行きつくための筋道にもやがかかってしまっていた。今いる場所からどうやってそこを目指したらいいものなのか、まるでわからなかった。
 僕の中にある、ここまでそれなりにうまくやってきたつもりのセクシュアリティ。
 それは今、十五歳の男子のように迷走してすっかり滑らかさを失っていた。適切なところで適切に展開しそうな気配が、まるでなかった。彼女の雰囲気がそうさせるのか、それとも病後の弱った身体に抱く欲望としては乱暴に思えてしまうからだろうか。

 そのくせ、欲望は変わらずふつふつと日常の中で僕を惑わす。
 あの髪、あの肌、あの首筋。
 まだ知らない彼女の声、肌の感触、それから僕を見上げる視線――。
 
 思い描けばじっと熱くなる部分が確かにあるのに、その出口が見つからずに身体の中を巡ってしまう。
 悶々としているところに新しい刺激が加わり、想像と共に欲望が増幅する。
 五月のさわやかな風を浴びながらも、僕の身体の中は八月みたいな熱を帯びた。
 度々、腹や胸がその熱によって疼きながら焦げた。


「恋煩い」
 高橋麻子がバインダーをひらきながらぽつりと放った一言に、一瞬心臓が揺れた気がした。事務室のスチール棚から、どこかにしまいこんでしまったらしい去年の発表会会場との契約書控えを探しているところだった。
 本心が表に出ないように、なにが、と尋ねた。
「してるよね、今」
 僕のほうを見ることもなく、麻子は続けた。相手の状態を言い当てたと得意げになっているというわけでもなく、実際は大して興味もない天気の話をするくらいごく自然に。
 呆気に取られて、僕は言葉を失っていた。僕達は本来の上下関係を重要視しない普段からごく自然に無礼講なふたり組だが、そういう話をしたことは今まであまりなかった。

 いつも通りの空気にならないことに、麻子は小さく笑った。
「普段は嘘みたいにポーカーフェイスなのに、意外にわかりやすいんだ」
 そう言って、一度だけ振り向いた。再び手にしたバインダーに視線を落としながら、まあホリーはポーカーフェイスっていうかジョーカーフェイスだよね、などと呟いている。
 最近、ここの経営者である喜和子先生の物忘れが増えてきた。以前のように前年のことがさっと出てこない、と言う。一度運営に関する書類をきちんとまとめておかないと、と叔母と姪で話しているところらしい。
 僕も同じように棚の中からファイルを持てるだけ取り出し、まとめて机の上に移動した。

「――通用しないんだよ。そういうのが、全然」
 さりげない返答になるように告げたつもりだったけれど、唇の先が尖ってしまう。
「今までのやり方、もう全部だめ」
 麻子は面白そうに、ふふ、と笑ったみたいだった。
「かわいそー」
「ほんとだよ、会うたびに何かしら恰好つかねえことして。恥ばっかりかいてる」
 二メートルほど離れた場所にいる相手と、目を合わさないまま話し続ける。
 麻子はうんうんと頷いているみたいだった。わかるわかる、みたいな。わかるのかよ、と尋ねたくなったが口にはしなかった。快活で面倒見もよく、申し分ない肉体美の持ち主である彼女にその手の経験が少ないとも思えない。殴られるから言わないけれど。

「ねえ。男って、やっぱり根元のほうは誰でも純情なもんなの?」
「それは、女って誰でも底の底では清純なのって訊くのと同じじゃない?」
 言い返すと、麻子は少し考えたあとにふは、と笑った。
 愚問か、と自分に言うみたいに呟く。
「でも、そんなつもりなかったのに妙に初心なところが出る相手っていない?」
「今、まさにそんな感じ」
 思い当たる節がありすぎて、ファイルをめくる手が若干乱雑になってしまう。音楽関係の権利書と保証書の貼り付けられた大型扇風機の説明書が同じクリアポケットに押し込んであったりして、本当にどこに何があるのか見当もつかない。
 麻子は僕の答えにへえ、と陽気な声をあげた。
「楽しそうだね」
「ないない。俺、その辺もうちょっとうまい男のつもりでいたんだから」
 全然駆け引きまで持ち込めないんだもん、とぼやいてみる。
「駆け引き、できないの?」
「そういうことしたら一発アウトな感じしかしない」
 だからこそ、この有様なのだ。

 千紘さんに対して、もしも僕が駆け引きじみたことを仕掛けたら。
 押してもだめならと引いてみたり、ちょっと強引に振り回したり、ほんの少し彼女の心にひっかかるような言葉を残していたずらに連絡するのを辞めたとしたら。
 僕のしたことを、彼女はきっと真に受けるだろう。そしてなぜか自分のことを卑下し、わたしが失礼なことをしたんだと思うとか言い出して、進展は終了だ。僕は元同僚で今は友人かつ仕事仲間の只野くんと仲良しの従弟として立場が固定され、無念のゲームオーバー。予想だけれど、たぶんこれは外れない。
 そういう千紘さん相手にできることなんて、正直全く思い浮かばなかった。
 有効な持ち札なんてものもなく、戦略なしで彼女に立ち向かうしかない。そんな自分からあふれてしまうこの野暮ったさ、子供っぽさ、そして、悲しいほどの余裕のなさ。

 気が短い麻子は「ここにもねえ」と荒っぽく言ってから、手にしていたバインダーをそこらに適当に放った。今度は分厚い茶封筒の束に手を伸ばしている。
 スタジオの手入れは充分にしているのに、事務室にはその情熱が届いていないらしい。仕切り用のカーテンで部屋の奥を目隠ししているだけで、人の入らない場所はすごいことになっているのを知っている。

「あ、もしかしてこれ?」
 手にしたブルーのファイルの中に、やっとそれらしき書類を見つけた。当日の会場の契約書と施設の利用規約。我が上司にそれをひらいて見せると、彼女の顔色はぱっとあかるくなった。あ、それそれ。
 彼女は素早くその書類を引っ張り出して、目当ての規約文書を探し当てている。
「発表会終わったら、一日一時間くらいここの片づけしようかな。これじゃ、来年も同じこと繰り返しそう」
 重労働だなあ、と憂鬱そうに肩をまわしている。こういうことは他の人には頼めないし、事務員までは雇う余裕ないんだよね、とも。
 そして僕のほうを見上げて、彼女はにっこりと微笑んだ。
「まあ、うちには若い男手がいるからそこまで問題はないんだけど」
「あまり聞きたくないことが聞こえましたが、覚悟しておきます」
 無表情で言い返す。
 麻子はほんっと助かるわあ、と年配の女性っぽい声音を作って僕に笑いかけた。


 母と帰省の約束をしていた日の朝、カーテンを開けた先に広がっていたのは薄暗い曇天だった。
 心模様かと思わず呟きたくなるような、降り出しそうで晴れだしそうにも思える曇り空だ。動画サイトで配信されている天気予報では、お天気キャスターが今日は関東の一帯が曇りになるだろうと説明している。
 冷蔵庫から賞味期限直前の食パンとスライスチーズを取り出して、パンの上に乗せてから電子レンジに放り込む。トーストモードで焼いているあいだに、インスタントコーヒーの粉を目分量でマグカップに入れる。
 ケトルで湯を沸かしながら、一日の予定と持ち物を思案する。
 先日小森達と飲んだ日には、二人とも彼岸の前後に帰省したと言っていた。二歳の娘がいる嶋岡の母親は一家の帰省を待ちわびていて、前日と当日の出発前に問題はないか電話してきたらしい。
 端の焦げたチーズトーストを電子レンジからつまみ出して、立ったままでかぶりついた。あいているほうの手で、いつものデイパックにTシャツを押し込む。
 トーストを半分食べ終わった状態で、ケトルに沸いた湯をマグカップに注ぐ。
 ポータブル充電器とイヤフォンをサイドポケットに押し込んでから、今日はひげを剃らなければ、と顎のあたりを触りながら思う。

 駅に向かって歩いているところで、千紘さんからメッセージが入った。
『今日はお天気良くないですね。もう出かけました?』
 その一言だけで、憂鬱だった気持ちがふわっと持ち上げられてしまうのが不思議だった。
 急いで改札を抜けて、ホームまで移動してから返信する。
『今、ちょうど駅です。千紘さんは』
『今日は自宅で仕事です。実はさっき起きたばっかりで』
 苦笑したような絵文字が横についている。
『いいな、寝坊』
『こんなに寝たの久しぶりです。電車、どれくらい乗るの?』
 たまに崩れる言葉に、頬が緩んでしまいそうになる。
『順調にいけば二時間半くらいかな』
『小旅行みたいですね』
 旅行、という言葉にぴんと来て、僕はそのまま打ち込んだ。
『それなら土産を買わないと。千紘さん甘いものとか好き?』
 郷土愛がないというわけでもない。戻ったら、名物のいくつかを持って彼女に会いに行くのもいいかもしれない。
『それじゃわたしがおねだりしたみたいじゃないですか』
『え、違うの?』
『わたしそんなに欲張りじゃありません』
 怒ったクマがふんぞり返っているスタンプがついた。
 頬を押さえつつ、くく、という声を出して笑ってしまった。
 少し前に立っている老婦人が、ちらと僕のほうを振り返る。

 少し悩んだ末に、思い切って打ち込んでみることにした。
『でも、帰ったら会いたいな。口実に何か買って来てもいい?』
 冗談交じりにそう打ち終えてから送信まで数秒、画面の上で親指が泳いだ。
 とん、とそれを押すことができたのは、どうせむこうで面白くないことのひとつやふたつ絶対にあるからだ。癒しと精神回復を目当てとした逢瀬の予約。
 誤字がないこと、既読になったことを確認したところで電車の入線を告げるアナウンスが流れた。まずはいつもの路線で北千住まで。

 千紘さんから返信が来たのは、電車が発車したすぐあとのことだった。
『堀井さんの好きなものがいいな。気を付けて行って来てください』
 どうやら、僕はうまく予約を取り付けることができたらしい。
 憂鬱の中に光が射したような気分で、僕は車両の隅に移動した。


 まあ、情緒はあるところだよな、と言ったのは櫂谷だっただろうか。
 彼の父親が静かな創作環境を求めて関東の日帰り旅を繰り返していたのは、彼がまだ母親の胎内で彼女の腹部を蹴っていた頃のことだ。ここに決めた、と独断でそう告げられた彼の母親は、慣れたこととあまり動じなかったらしい。
 櫂谷が両親からそんな経緯を教えられた年、僕達はすでに詰襟の制服姿で同じ教室の中にいた。
 渡良瀬川沿いに建っていたという古い家を彼の両親が買い取ってから十数年が経ち、農作業小屋を改築して作ったというアトリエから彼の父親はほとんど出て来ない生活をしていた。

 駅に着く前に連絡しなさいと母に言われていたものの、何となくそれができないまま大通りを歩き始めていた。
 今僕が住んでいる街よりもはるかに人の少ない、まあ、情緒あると言えなくもない景色だ。
 昼間から二十代半ばの男がふらふらしているには少しばかり不適切な。

 聞き出すのを躊躇していた僕に、千紘さんは自らを秋田生まれの函館育ちだと教えてくれた。五歳の時に両親が離婚し、翌年に母親の故郷である北海道に引っ越したらしい。当時の記憶はあまり残っていないけれど、幼稚園でお別れ会をしてもらったことはぼんやりと覚えていると言っていた。母親が再婚するまでの三年間は祖父母と母との四人暮らしで、その時代は穏やかだった、とも。
 雪国とか北国っぽい感じがするのは、見た目の印象のせいだとは思う。骨格が小さい感じで、佇まいに透明感がある。世渡りという意味で器用な人ではないけれど、それを地道さでカバーしようとしている印象だ。そのおかげか、誰かに支えてもらわなければ立っていられない、という感じはしない。
 それと同時に、僕にとっての彼女はどこか幸運なものを持って生きている人に見えた。いつからそういう雰囲気を纏うようになったのかは知らないけれど、何かに見守られているような、いざこざや不運なんかとあまり関わりがなさそうな人物に見えるのだ。
 ひとりぼっち。でも自由。
 そこにある一種の軽やかさを、彼女はどこかで楽しんでいるように見える。


「連絡なさいって言ったのに」
 結局実家までの二十分を歩ききってしまった僕に、玄関の網戸を開けながら母はあきれ
た声を出した。
「久々だったから、つい」
 自分よりも三十センチ近く小柄な身体を見下ろしながら告げると、相変わらずねえと母は大きなため息をついた。
 実家の玄関は、前回の帰省からはほとんど変化がなかった。くるみや松の実で作られた工芸品、フクロウ柄のタペストリー、和の雰囲気たっぷりの下駄箱。足元には妹のご近所用サンダル。
「お昼、まだなんでしょう?」
「何か、残り物とかある?」
 廊下を歩きながら訊くと、母は冗談でしょうといった響きでしっかり準備してありますよ、と答えた。手を洗っていらっしゃいと、すでにリビングに繋がる扉に手をかけている。返事をして、洗面所へ向かった。

 母の用意してくれていた昼食は、千切りにしたキャベツの上に湯気のあがる生姜焼き、きゅうりの漬物と厚揚げの煮物、その他の細々とした小鉢に味噌汁だった。
「わざわざ好物を用意してくれてるとか、泣ける」
 茶化しながら告げると、母はふふ、と笑った。
 リビングのテーブルで、母と向かい合って座る。
 すでに昼食を済ませている母は、湯呑を手にして僕のほうを見ている。食欲を期待されているのは、目を見ればわかった。こういうことに、母親というものは安心するようにできているらしい。手を合わせてから、僕は遠慮なくそれらをかき込んでいく。
「母上、生き返ります」
 僕の大袈裟な一言に、母は頬を持ち上げて微笑んだ。
 甘みのある母の生姜焼きは、砂糖の代わりに蜂蜜を少し入れているのだといつか教えてもらった。浜御塩とかいう対馬の塩を愛用していることも。上質な調味料が好きで、組み合わせをあれこれ試すのは母の趣味だ。今でこそコンビニやスーパーのわかりやすい味付けに慣れてしまった身体だが、もともとはこのちょっと薄めの味付けで育った。
「絢乃は、仕事順調だって?」
「みたいよ。まあ、あんまり変わりのない職場らしいから」

 十代半ばまでの妹は、雑誌の編集者になりたいと言っていた。
 それまで児童文学の世界にどっぷりだった絢乃が、小学校高学年で出会ったのがティーンズ向けのファッション誌だった。小中学生が小遣いで買うような、同年代のモデル達が校則違反しないでできる髪型や流行の文房具、制服の手入れの方法などを楽しそうに紹介しているその一冊の雑誌が、妹をフィクションの世界から現実へと繋いだ。地味で大人しい、ある意味で無頓着だった妹が自分の周囲に関心を持つきっかけになったのだった。毎月の小遣いで欠かさずそれを買い求め、溜まりすぎると気に入りの記事をスクラップして大切そうに並べていた。高校にあがるくらいまで、そういうことが好きだったはずだ。
 いつあの夢を手放してしまったのか、あるいは消えてしまったのかは聞いたことがないけれど、聞き出して欲しくはないだろう。適度な今っぽさと清潔感を保ってはいるものの、妹は服や化粧には以前ほど関心がない。
「職場のじいさんの話も、ちゃんと断ったっぽい?」
「聞き流したんじゃない? あんまりきつく言うのもあれだし」
 のんびりとお茶をすすりながら、母は言った。
 暮らしの速度があまりに違う気がするのは、僕が落ち着きなく飛び回っているせいだろうか。自分がいないあいだに、この家で繰り返される日常にはあまり変化がないように聞こえた。何も崩さず、掘り返されず、更新されずに続いている。

「それで――」
 空にした食器を手元に重ねながら口をひらくと、母は一度瞬きをしてから、手にしていた湯呑みをテーブルに置いた。
「面会って、何時からって言ってたっけ」
「十四時」
 少し俯き、硬い声で母は答えた。
 父がここから車で十分ほどの場所にある総合病院に入院したのは、一昨日のことだ。

「――二宮さんがね、色々気を遣ってくれて」
 母は僕を気遣うように、慎重な様子で口をひらいた。
「そう」
 二宮さんというのは、父の部下のひとりだ。年若いのを見つけては自分から声をかけて直々に指導しようとするので、彼にはいつも社内に子飼いと呼ばれる特別な若い部下がいる。公私の境が次第に曖昧になっていく人だから、この家にも何度か招いているだろう。正直に言えば、関係がうまく続くことはあまりない。その二宮さんも、堀井常務のお気に入りとしては四代目くらいだろうか。
 母は若干のためらいを感じさせるような表情で続けた。
 仕事の報告を兼ねて面会に通ってくれているけれど、足りないものの買い出しなども頼んでしまっていること。父には会社の人にそういうのは辞めてと言っているけれど、いつもの如く聞き入れてもらえない、ということも。

「恥ずかしくてね。二十歳そこそこの男の子に靴下だの飴だの頼んで」
 げ、という言葉が口からこぼれてしまった。同年代なら、逃げ出したいタイプの上司じゃないか。
「だから身内はそこまで通って来なくていいって言うんだけれど、それも申し訳ないでしょ。お礼だってきちんとしないといけないし」
 母は小さくため息をついた。
「――変わんないね」
「割と強かな子みたいだから、うまくやってくれてるみたいだけどね」
「助かるな」
 その関係を利用することができるくらいの人物なら、まあおいしい立場ではあるのだ。父に長く取り入るのに成功すれば、いずれ社内でそれなりの扱いを期待できるはずだから。失うものも、だいぶ大きいような気がするけれど。

 彼がそういうことをやり始めたのは、僕が地元を離れてからだ。気に入った部下に肩入れしては贔屓して可愛がり、ある種の特権を与えることと引き換えに自らの理想を少しずつ押し付けていく。
 一番ひどく揉めたのは、三年くらい前だっただろうか。確か畑山とかいう男で、父の強い干渉に耐えられなくなってほとんど逃げ出すように退職したと聞いていた。
 彼の退職の話が寝耳に水だった父に、そこまで人のことに口を出すなんておかしいですよ、といつになく感情的な物言いで彼は告げたらしい。「散々可愛がってやったのに後足で砂をかけられた」と、父がしばらく憤慨していたと聞いた。
 母と共に散々愚痴を聞かされたという絢乃は、その後帰省した僕に向かって「お兄ちゃんへの当て付けだよ」とあきれたみたいに言った。息子が近くにいなくてもうまく付き合える若者がいるんだって、むきになってるだけ、と。そんな幼稚なことに巻き込まれる部下の方々が気の毒、とも。

「でも――そのぶんじゃ、まだ余裕があるんじゃない?」
「そうでもないみたいよ。夜に何度か、不安そうな電話がきたから」
 まあ、今に始まったことじゃないしと答えると、母はそうねと頷いて笑った。
 夫に関する不満を、僕の前では吐露できないと母は思っている。無理のないことだ。小さな不満ひとつだって、僕の記憶の遠くのほうまで響き渡ってしまうから。寝た子を起こすような真似も、新しい諍いの種を蒔くようなことも、できれば避けたいのだろう。

「何時に出る?」
 立ち上がって、食器を運びながら尋ねる。
 母は顔を上げ、壁に貼っていたカレンダーに目をやっている。
「今日は四時半から先生の説明があるから――」
 三時過ぎには出ましょうか、と母は続けた。

 リビングで休んでいていいと言われたけれど、ちょっと部屋に行ってみると階段を上った。
 くるみの板で作られた自宅の階段は、スリッパよりも素足で踏みしめるのが好きだった。築三十年を迎えてさすがにあちこちにがたが来ていると母は言うけれど、この階段の感触だけは昔から変わらない気がする。
 部屋の中に、僕の私物はあまり残っていなかった。処分するのを許されなかったベッドに、棚の外された学習机、ポールハンガーに数枚の衣類がかけられているだけだ。
 はっきりと、引っ越しをした、という記憶はなかった。ずるずると少しずつ荷物を外に持ち運び、コインロッカーと気心知れた友人達の部屋にわずかな私物を分散させながら住まいを移した。部屋を借りるなりしてけじめをしっかりつけなさいと言われ、学生会館のパンフレットを宛名を母にして実家に郵送した。
 契約のためにとひとりで上京してきた母を、新宿駅の雑踏の中で出迎えた。
 行き交う多くの人の中で、母はいつもよりずっと小さくか弱そうに見えた。

 東南を向いた窓に近づき、クレセント錠を力を込めて手前に引く。
 手入れもされず固くなった窓を、勢いをつけて押し開ける。

 家の裏に用水路が流れているおかげで、隣家までは少し距離がある。ぼうぼうと伸びるススキや背の高い雑草。この部屋で映画ばかり観ていた頃は、学習机は窓辺に近い場所に置いていた。
 身を乗り出して、上半身を窓の外にやってみる。
 窓の両脇にいくつもの小さな傷が残っていて、思わず笑ってしまう。

 一番大きな傷は、櫂谷がつけた。夜によく抜け出して来たから。
 机上のスタンドライトが点灯していることを確認してから、彼は小石を拾い上げてこの家の窓や外壁に向かって素早く投げた。小さく何かがぶつかる音に、あの頃の僕は立ち上がってゆっくりと窓を開けたのだ。
 ポケットに左手を突っ込んで、櫂谷はこちらを見上げていた。そして、僕に向かって降りて来いという意味の仕草をしてみせた。何でも卒なくこなすタイプだというのに嶋岡はどういうわけかノーコンで、小石を投げる代わりに小さく鋭い犬の鳴き真似をしてみせた。そっちのほうが難しくないか、と思いながら、僕は上着を羽織って押し入れの中に隠していた古いスニーカーに手を伸ばした。彼らのいる庭の端に一階の屋根やボイラー設備のカバーを伝って降りていくのはそう難しいことではなかった。
 それぞれが、部屋にひとりでいたくなかった夜。

 建付けの悪くなった網戸を閉める。
 風の匂いは、あの頃と同じだ。


 病院に向かう途中で、土産屋に寄らせてもらうことにした。
 助手席に乗った母に尋ねると、久々に行きたいと言う。稀に県外の親戚に地元のものを送るために利用することはあるけれど、そういうことがない限りはあまり立ち寄らないし、とも。
「何、お土産?」
「世話になってる人がいるから。何か買って行こうかなと思って」
 ベージュとブラックカラーのパッソは母しか乗らないから、バックミラーもシートもずいぶんとコンパクトな配置になっている。狭いなとシートを後ろにずらしている僕の姿を、母はどこか面白そうに眺めていた。
「仕事で?」
「それも含めて」
 ざっくりと答えて、エンジンをかける。それ以上のことを尋ねることもなく、母はそう、と頷いた。
 生きていく力そのものは心配されていないけれど、いわゆる落ち着いた社会生活を僕が得られると母は思っていないはずだ。それでも、母は父や他の親戚が言う『いいかげんな暮らしをしている』僕をどうにかしようとしない。
 
 日差しの弱くなった故郷の町を、母を横に乗せて走る。
 最近はどんな仕事をしているの、という質問は、ちょっと楽しそうに車内に響いた。

「ダンス教室の雑用と助手は変わらず。あとは、短期派遣なんかをぼちぼち」
「派遣って、どんなことするの」
「倉庫の中で一日荷物仕訳けたり、イベントの設営とか。あるでしょ、催し物する時の舞台組んだりとか」
 僕の説明に、母はああ、と頷いた。
「亮太からしか、そんな話聞けないわね」
 くすくすと笑っている。
「デスクワークより、人いっぱいいる現場のほうが好きなんだ」
「あなたらしい」
「落着きないから、俺」
 ウィンカーを出しながら言う。
 そうでもないわよ、と困ったように呟く声が、隣から小さく聞こえた。

 心も体も、この町からフェードアウトした。 
 心のほうが、先に別の世界に逃げた。そこに自分を閉じ込めて、何とか形を保った。身体のほうが少し遅くて、別の街でそれらが噛み合うまでにはさらに長い時間が必要だった。心身の在り処が何とか合致したような気がするのは、実はごく最近のことだ。
 逃げ回って、飛び回って、行く先々でそうすべきことを断ち切り、振るい落とした。

「こっちのお友達とも、会ってるの」
「ああ、櫂谷も嶋岡も元気。小森も原も、まあ何とかやってる」
 このあたりの友人のことは、母も知っている。
「ああ、それから裕道もだ。花のお礼言ってたよ」
 開店祝いのアレンジメントを思い出して告げると、母は亮太も見たの、と声をあかるくした。絢乃がネットで注文しただけだから実物を確認していないと続けるので、良かったと教えた。大きさも鮮度も、問題なかった、と。
「写真撮っておけば良かったな」
「いいのよ」
 母は笑った。失礼がなかったならそれでいい、と。
 裕道の店のパーティにも、一度声をかけられていたらしい。でも今はお父さんがああだし、絢乃も仕事だったから、と母は続けた。

 落ち着いてからでいいんじゃない、と答えながら、内心では安堵していた。
 家族を、あの人に会わせたくなかった。たとえ言葉を交わすことはなくても、あの場で繋がって欲しくなかった。もしも身内が来ていたら、あの夜自宅まで彼女を送ることもなかったかもしれない。
「裕道も、まあ何とかやっていくんじゃないかな。あいつやっぱりしぶといよ」
 順調に店を動かし始めている従兄の顔を思い出しながら、母に告げた。


 地元の名物であるうどんの生麺を購入して、病院に到着したのは十六時を迎える直前だった。
「遅すぎたかな」
「大丈夫」
 母はハンドバッグを手に、慣れた様子で面会者用の入り口に向かっていく。
 守衛の男性達ににこやかに挨拶をして、母は手渡されたバインダーを手にすらすらと名前と住所、入院患者との続柄を記入していった。
 手渡されたバッジを胸元につけて、ふたりでエレベーターに向かう。
 消毒液の匂いが漂う、淡い色合いのベンチが置かれ新薬や医療機器を案内するポスターが壁に並ぶ廊下を歩いていく。

「たぶん、いつも通りだとは思うけど」
 エレベーターの中に滑り込みながら、母は言った。
「――気にしなくて、いいから」
 僕達兄妹に、何万回と繰り返してきた台詞を母は吐いた。
 そんなことは不可能だと、母自身もよくわかっている。
 それでも口にできる言葉が他にない、ということも。

「大丈夫。余計な事、喋んないから」
 三の数字と『閉』のボタンを、僕は続けて素早く押した。

06|置き去りの森

06|置き去りの森

 閉まるドアにご注意ください、という声を背中のあたりで受け止めながら、エスカレーターを目指して歩く。
 いつもの電車がホームを離れていく音と空気の振動に、帰ってきた、という気分になった。十四時半。時間帯のせいだろうか、駅の利用者はまばらでいつもよりやや風がある。
 のどかな昼下がりといった雰囲気の駅構内を、僕はとりあえず得た安堵の気持ちで歩いていた。

 昨夜は久々に会った妹と少しばかり飲んで、自室に戻ったのは日付が変わる直前だった。 酒を飲んだところで亡霊は消えないと知っていたけれど、身体の感覚を鈍らせておけば多少はごまかしが利くかと思っていた。やはり期待したほどの効果はなく、夜中に一度目覚めたときに意識にあらゆる過去の記憶が付着しているのを感じた。
 言い合いの、屈辱の、憤りの記憶。他責の気配。そういったものが家屋に染み込んでいるのか、眠っているあいだに身体を出たり入ったりしていたような気がする。
 これだから嫌なんだ、と声に出して、前髪をかきあげた。暗がりの中でスマートフォンに手を伸ばし、最近のやりとりを見返して今の自分のほうに気持ちを引っ張ってくる。立ち上がって窓をわずかに開け、外の空気を室内に取り込みながら再び眠くなるまで小さな画面を眺めていた。

 結局、時計が四時に近づく頃から階下からの掃除機の音で目覚めるまでの数時間でようやくまともな睡眠を取ることができた。
 エンジンをかけるように、いつもの自分に姿を変えていく。過去に浸ったところで気分が悪いだけ、何てことないと心の中で繰り返す。母にいつもの調子で冗談を繰り返し、リズムを取り戻しながら頼まれた力仕事をいくつか片付けた。
 正午過ぎの電車に間に合うように、再び母のパッソに乗り込んだ。
 駅前の駐車場で、また来るよと運転席に向かって告げた。母はこれから近所で買い物をして、今日も夕方には病院に行くらしい。
 ――あんまり、無理しないでよ。
 別れ際にそう付け加えると、母はあいまいに笑いながら頷いた。
 言っても無駄なことばかりを言い合ってしまうのは、僕達の中にどれだけ働きかけたって決して変わることのないものがひとつあるからだ。
 ――あなたも、身体は大事にね。
 了解、と頷きにんまりとした。しんみりとした別れは苦手なのだ。

 いつもの駅の光景が目前に広がっていることに大きな安心感を覚えて、僕はそこで長い息を吐き出していた。今の僕がいる街、そして日常。
 久々の休日が、まだ半日近く残っていた。溜まっていた洗濯を片付けようと決めて、切れかけていた液体洗剤を購入するためにドラッグストアに立ち寄る。
 買い物を済ませて自宅の方角へ歩き出した時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
 規則的な振動にテキストメッセージの受信ではないと気が付いて、それを取り出す。

『中上千紘』

 表示されている名前を見て、一瞬夢かと思った。
 彼女から電話がかかってきたことは、まだ一度もなかった。

「はい――」
 応答のアイコンをタップしてから、急いで耳元にスマートフォンを運ぶ。
「あ、堀井さん?」
 千紘さんの声が、やわらかく耳の中に入ってきた。
 
 はい、と返事をしながら、この人はやっぱり他の人と何かが違う、と思った。
「今大丈夫? あ、もう、こっち戻って来ました?」
「今、駅に着いて家に戻るところです。全然話せます」
 人気のないほうに向かって歩きながら、早口でそう答えていた。
 昨日の午前中、この周辺を歩きながら彼女からのメッセージを読んでいたことを思い出す。たった一日なのに、感覚としてはずいぶん遠い。そのくらい遠くから戻って来たんだ、と改めて思う。
「そっか。おかえりなさい」
 千紘さんは、どこか慎重さを感じさせる響きでそう言ってくれた。

 腹のあたりに温かいものが広がるのを感じて、すぐに返事ができなかった。
 寝苦しい夜の中で、この人のことを何度思い出しただろう。暗闇の中で、出会った日から覚えている限りの彼女の表情を頭に思い描いていた。交わした言葉も。
「ただいま、戻りました」
 僕の不自然な返しに、彼女は小さく笑ったみたいだった。
 昨日から続いていた重苦しい気分を、この人の声は簡単に蒸発させる。

 こんなタイミングで電話すべきじゃなかったかな、と彼女は前置きしてから、
「あの、さっき旅先の友達から宅配が届いて」
「宅配?」
 僕の一言に、彼女はうん、と頷いたようだった。
「今、熱海にいるみたいで。魚介の加工品とか、おだしとかいっぱい送ってきてね。堀井さん自炊もするって言ってたから、少し貰ってくれないかなって」
 恥ずかしそうな声で、彼女は答えた。
「だって、千紘さんにって届けてくれたんでしょ?」
「ひとりで食べられるような量じゃないんです」
「――気前のいいお友達がいるんだね」
 僕の返答に、彼女は楽しげに口をひらいた。そうなんです、と。
「仕事でストレスが溜まると、海のあるところに逃げちゃうの。それで現地で酔っぱらって、ばんばん買い物してこうやって送ってくれるんです」
 楽しい子ではあるんですよ、と付け足してから、彼女は続けた。
 干物もふりかけも、よくわからない健康グッズまで入ってる、と。

 おかしそうに告げる声に、楽しそうだな、と思った。
 その友達のことがすごく好きなんだろうな、とも。

「だしもあるって言った?」
「うん」
「わかめとかも、ある?」
「半生のがあったかも」
 彼女が箱の中をがさごそやっている音が響いた。
「ああ、あった」
「俺、千紘さんに地元の生麺買ってきたんだ」
 秘密を打ち明けるように続けると、察しの良い彼女はすぐにふ、と笑った。
「材料が、揃っちゃいましたね」
「ついてる」
「本当だ」
 彼女の楽しそうな声に、気持ちがどんどん軽くなっていく。

 空を見上げながら、どうしようか、と問いかけていた。
「正直、作ってあげたい気持ちもあるんだけど――場所がないな」
 彼女はそれまでの笑いを止めて、そう、ですね、と小声で呟いた。想像もしていなかったのだろう、声に驚きと困惑が含まれている。
「俺の部屋に呼ぶわけにもいかないし。そっちに押しかけるわけにも――」
 言葉を濁しながらも、彼女のいる部屋を想像していた。細い木蓮が二本植えられた、あの静かなハイツ。
「どこか別の場所で、トレード、しましょうか」
 彼女の最寄りの駅近くに、手頃なカフェか何かあっただろうか。

 調べて再度連絡しようかと思っているところで、千紘さんが何かを思い出したようにあ、という声を出した。
「わたしこれから車で納品と打ち合わせなんです。その後、堀井さんの家の近所まで届けに行くっていうのは?」
 ああ、今日じゃ疲れてるかな、と付け足したので、急いで否定する。
 まさか会いに来てくれることになるとは、思いもしなかった。

「それ、すげえ嬉しい」
 出した声は、無防備な感動に満ちていた。
 千紘さんは電話の向こうでほっとしたみたいだった。
「会いたい」
 続けて口をひらく。驚いたのか、返事はなかった。
「千紘さん」
「うん?」
「会いたいな」
 繰り返した言葉に、気持ちがこみあげてきてしまう。

 冗談じみたことだったらいくらでも言える気がするのに、一度本心を口にするとそこに入る感情の強さに嘘がつけなくなる。
 会いたい。会って、この人の小さく動き続ける表情や、ふっと笑ったときの目元なんかを許される限り眺めていたい。素直に澄んだ言葉遣いや、僕を見上げる遠慮交じりの視線を感じたかった。
 千紘さんは、少しの間を置いてから、うん、と言った。
「わたしも、またお話したい」
 連絡するから、家の場所を送ってくれる? と彼女は続けた。

 自宅に戻って洗濯を終え、ベランダと室内に衣類を並べて干していった。散らかっているものを拾い上げては元の場所に戻し、そんなことを繰り返しながら僕は何度も時間を確認してしまう。
 仕上げのモップに手を伸ばしたところで、再びスマートフォンが鳴った。今度はアプリのほうだった。
 十六時に近所の店の駐車場で待ち合わせはどう、という提案だった。公式ページのURLが続いて、それが僕の家から徒歩で十分ほどの場所にあるカフェだと知る。
 存在は知っていたけれど、実際に入ったことはない場所だ。ウッドデッキがついていて、周囲にイングリッシュガーデン風の植物が多く植えられているらしい。ランチプレートとケーキの店、と書かれている。
 わかりました、今から出ますと送信する。
 何となく顔を洗ってから着替え、僕は部屋を出た。



 千紘さんは、約束の時間の二分前にそこに到着した。
 落ち着いた、ココアブラウンの軽に乗っている。バック駐車は苦手ではないらしい。きれいな曲線を描いて、一度で駐車枠に自らの車を収めてしまう。
 何か言おうとしたのだろうか、じい、と下がった窓に向かって僕は自然に近づいていた。
「運転、上手なんですね」
 挨拶よりも先にそう告げると、彼女は不思議そうな顔をして僕を見た。どうして、と尋ねてくるので、停め方、と答える。
 わずかに寄せられていた眉間が緩んで、彼女はああ、と納得したみたいだった。
「駐車場の中だけは大丈夫なんです。公道は下手で」
 言いながら、シートベルトに手を伸ばしている。
 静かな所作でそれを外したものの、その後に続く行動が取れず彼女の表情がぴたりと静止した。
 僕が肘をつく形で全開にした窓に張り付いているせいだ。僕がそこから離れなければ、窓を閉めて外に出ることができない。

「ええと――まだ、なにかある?」
 僕のほうをゆっくりと見ながら、高く細い声で彼女が訊いた。
「可愛い人だな、と思って」
「やめてください」
 つい呆けて言ったことだったけれど、冗談だと思ったのかもしれない。笑われてしまった。時には人の言うことを軽くかわすこともある、大人のほうの彼女だ。

 頬杖をついたまま、僕は千紘さんを見つめ続けた。
 見たかったものだ、と思った。
 彼女が居るわけがない場所ですら、実はずっと、視界の中に探してしまっていた人。

「あの、本当に恥ずかしいから」
 困ったように言うところが可愛くなって、ますます目が離せなくなった。
 このまま黙って見つめ続けたら、彼女は恥じらいでどんどん小さくなってしまうのだろう。そういう姿も見てみたいけれど、やりすぎたら怒られてしまうかもしれない。今心を閉ざされては困る。
 残念、と呟いて、僕は窓から身を離した。

 向かい合わせに座ったカフェで、彼女は何だか楽しそうだ。
「ケーキ食べません?」
 テーブル脇のメニューを手にすると、彼女は僕にそのページをひらいて見せた。
「でか」
「全部ズコットなんです、ここのケーキ」
「だって、この一切れ千紘さんの顔くらいない?」
 フルーツやクリーム類の詰まった、ドーム型のケーキが切り分けられている写真が大きく掲載されていた。彼女はそんなことないですよ、と笑っている。たまにフルーツのものが食べたくなって来るのだと言う。ひとりのときも、同業者の知り合いと来ることもあるらしい。
「甘いの、だめですか」
「いや、そうでもないけど――」
 写真では、それは圧倒されるようなサイズ感に見えた。
「それが、おすすめ?」
「はい。チョコレートのほうが好きなら、チョコバナナもあるけど」
「千紘さん、どっちも好きなの」
「たまに迷うくらいには」
 ちょっと恥ずかしそうに、彼女は答えた。
 なじみのクライアントのところに行ってきたという千紘さんは、今日も色味のない服装をしていた。飾りのないほぼ白に近いベージュの直線的なブラウスに、細身の黒のパンツをはいている。薄青いバングルと腕時計を左腕に着けている。
 
 ケーキが運ばれて来るまでのあいだに、土産を手渡した。
 色気ないものだけど、と手渡した袋に、彼女はわずかに首を傾げたようだった。
「ひもかわ?」
「うん」
「これ、うどんなの?」
 初めて見るものらしい。不思議そうにしている。
「一応、地元の名物なんです。家でも、たまに買ってた」
「美味しそう」
 小さな甘い声で、千紘さんは言う。嬉しそうに礼を告げられた。
 簡単な調理法を説明してからおまけも入れてるよ、と手渡した袋を指差すと、彼女はおまけ? と楽しそうに僕に尋ねた。何だろうとそれを取り出してから、数秒のあとに小さく噴きだす。
「――可愛い」
 県の宣伝部長である、ポニーのキャラクターのクッキーがレジの横に並んでいたのだ。キャラクターものを持ち歩くような人には見えないから、食べ物のほうが良いだろうと思ってその小さな箱を追加した。
「本当に、お土産だ」
「千紘さんに乗せられちゃったんだよ」
「わたし、上手だったんですね」
 くっくとおかしそうに笑っている。しばらく飾っておこうかな、とも。
 ひとしきりその箱を眺めてから、彼女は隣の椅子に置いていた紙袋を持ち上げ、僕のほうに差し出した。じゃあ、トレードね、とまだ笑っている。
 家にあったものなのだろう、どこかのアパレルショップの袋のようだ。

「でか」
 受け取りながら、僕は二度目のそれを口にしていた。
「これでもけっこう頑張って詰めて来たんですよ」
 見てみて、と言うので中を覗いてみる。 
 箱から出して、色々詰め合わせてくれたのだろう。焼き菓子が数種類、練り物、塩辛、わさびの加工品やあごだし、現地のもので作られたレトルトカレーまで入っていた。
「――これは」
「すごいでしょ」
「熱海が来た」
「わたしも、開けたときそう思った」
 ちょっと神妙な感じで言って、彼女は僕のほうを見た。
 目が合うと、楽しげににっこりと笑う。
 不意打ちだった。そんなに無防備に微笑みかけないで欲しい。
「――ありがたいです。噛みしめて、食います」
 動揺してしまったのを気づかれたくなくて、僕はわざとらしく居住まいを正した。
 千紘さんは僕の冗談交じりの動作に、ちょっと驚いた顔をしている。

 ケーキと飲み物が運ばれて来てからも、僕達の話は止まらなかった。
 千紘さんはフルーツのズコットケーキ――という名前のものだと知ったのは実は今日が初めてだった――を少しずつ、かつペースを落とすことなく切り崩していく。
 ご実家はどうでした、と彼女は聞かなかった。
 二時間も電車でどうやって時間を潰してたの、とか、地元には仲の良いお友達はいるの、とか、絶妙な距離感の質問が続く。

「一番仲が良いふたりは地元出ちゃってます。ひとりは、この近所にいるんだけど」
「近くに?」
「月に一度くらい会いますね」
 櫂谷の姿を思い出しながらした返事に、彼女はいいな、と目を伏せた。
「大人になると、なかなか友達ってぱっと会えないから。近くにいるほうがいいですよ」
「千紘さんの仲の良いお友達は?」
「今熱海にいる子は、岐阜の人です。もうひとりは岡山」
「会いに行くだけで旅行だね」
「一年に一度は会おうねって言い合ってるんですけど、三人ともインドアで」
 なかなか実現しないのだと、彼女は言った。
 どちらも、地元を出てから出会った友達らしい。ひとりは彼女の勤めていた店にいた人で、もうひとりはその後個人的に出会ったと言っていた。熱海から名産品を送ってきたほうの友達は今も現役で水商売をしていて、そのうち独立するつもりでいると教えてくれた。もうひとりは美容師で、今は一児の母として地元で子育て中とも。
 
 なかなか会えないという友達の話をした後に、彼女は僕のほうを見て静かに口をひらいた。
「堀井さんは、わたしよりずっと身軽な感じ」
「そういう生活に慣れちゃってますからね」
 そう口にした後に、何となく胸のあたりがざわざわとした気がした。
「――何にも、考えないで生きてるんで」
 浮き上がってきたその感触に従うように、僕は冗談っぽく自虐していた。
 口が滑りすぎかと思わないわけではなかったけれど、それはいつもの軽い一言のつもりだった。
 そのまま、彼女がちょっと困った顔で笑って受け流してくれるだろうと思っていた。
 でもそれは、大きく外れた予想になった。

 僕の放った一言に、千紘さんは瞬きと同時に目を大きくした。
 それからわずかに眉を寄せて、見方によっては悲しげにも見えるような表情を浮かべたようにも見えた。
 あれ、という驚きと、まずい、という気持ちがそろって心の片隅に立ち上がる。

「それは、違うと思います」

 静かな目で、それでもまっすぐに僕を見ながら彼女は言った。
 いつになく真剣に、そして少し、怒ったように。

 どぎまぎするよりも、こんな目するんだな、という気持ちのほうが先に出た。
 千紘さんはそれまでとは違う、ちょっと厳しい顔つきになって僕を見ていた。

「――あの」
 言葉に迷って、動けなくなった。
 それまでの、ささやかながらも柔らかくくるくると動いていた彼女の表情が、今は目の前で静止している。
 様々な細工の施された金色の華奢なフォークを右手に、僕は彼女と目を合わせながら固まっていた。
 そんな間抜けな姿をどこかで自覚しながらも、次の言葉も動きも、身体からは出てこなかった。

 僕の投げかけた言葉が、彼女の中に引っかかっている。
 小さな困惑の入った、少し難しい表情で千紘さんは僕を見上げている。

「――わたしには、考えすぎる人にしか見えないです」
 数秒間押し黙っていた千紘さんは、そう言って俯き加減に笑った。
 引っかかっていた何かが外れて、またゆるやかに流れ出したみたいだった。
「色々悩んで、考え尽くして、今のやり方になったんじゃないですか」
 それは少しだけこわごわとしたような響きを含んだ、ひどく静かな指摘だった。

 力を持つ言葉は、必ずしもその場に強く響くわけではない、と知らなかった。
 彼女のその一言で、僕の内側にあった突っ張っていた部分、引きつっていた部分がすっと元に戻った気がした。
 どこか不自然に別のものになっていたところの力が抜けて、正しいところに戻されたような。

 再び訪れた沈黙は、もう気まずいものではなくなっていた。
「千紘さんは、不思議な人だな」
 僕の出した声には、おかしさと苦み、負けを認めるような感情が混ざり合って含まれていた。
 踏み込みすぎたかと、余計なことを言ったかもしれないと揺れているような様子の彼女と、ゆっくり視線を合わせてみる。
 どうしてこういう話になったんだっけ、と頭の中で声がした。
 話の順を追うことはできても、その理由まではわからなかった。
 思いもよらない相手の中で、僕の変形していた気持ちを元に戻す言葉が待っていた。


 そこはずっと、僕が自分自身で守ってきた場所だった。
 守るつもりが、気づけば置き去りになっていたかもしれない場所。鬱蒼とした、森の中みたいな場所だ。
 そこに、きっと僕は長いあいだ自分自身の一部を隠していた。
 表に出しては身が持たないと、きっとうまくやるからここに隠れていていいと、いつかそこに押し込むように隠した、もうひとりの僕がそこにいた。人の目から隠して隠して、やがて僕自身からも置き去りになりかけていた僕だった。
 他人にはとても気軽に見せられたものじゃない、僕の心の裏にいる、もうひとりの僕だ。あきれるほどに傷つきやすくてすぐに落ち込む、わずかな誤解でもいじけて悲観的になってしまう、手のかかる子供のままの僕だった。
 僕自身にもろくに相手をされていなかった僕を、彼女が迎えに来た、と思った。

 ああ、俺本当はずっと、こういう人を求めてたんだ。

「千紘さん」
「なに?」
「どうしよう。俺、もうあなたが本気で大好きなんだけど」
 気持ちの蓋が自然に開いてしまった僕は、彼女にそう告げていた。
 
「な」
 千紘さんは小さくそう漏らしながら、身体をわずかにびくっとさせた。
 そして、内気な子供みたいに頼りなくじわっと赤面した。
「なんてこと言うの」
 小声で、ようやくそう付け足される。

 僕は声が小さくないから、放った一言はそう広くない店内に響き渡っていた。
 周囲の席は静まり返っている。近くの席で談笑していた女性達が、あらあらといった感じで聞き耳を立てているのも伝わってくる。
 構うものか、と思った。
 そこで起きていること全部が、何だかとても、愛おしく思えた。


 昨日の今頃は、地元の病院の三階病棟にいたはずだ。個室の窓辺に立って、外を眺めていた。先客は、やはり彼の勤める会社の部下だった。
 入室してすぐに、母と並んで深々と頭を下げた。気の毒な若き部下である二宮くんは、私服姿で僕達に向かって同じように挨拶してくれた。
 数分後、ベッドをリクライニングさせた父はしわになった病院着の裾を直しながら得意げに彼に語っていた。

 ――君よりふたつも年上なんだがね、まあ風来坊で。まともなことなんて何にも考えてないんだよ、自分の人生だっていうのに。海外旅行ばっかりして、好き勝手やって。なあ君、少し叱ってやってくれないか。

 母がいつもの静かにたしなめる調子で「お父さん」と声をかけたが、彼が無邪気に発する僕への批判が終わることはなかった。
 何も聞こえないふりをして、窓辺からの景色を眺めていた。
 ちょうど、二十四時間前だった。

「堀井さん」
 周囲からの視線に真っ赤になっている千紘さんは、今にも泣き出しそうにも見えた。ひとまわり小さくなったように身体を縮め、今度は助けを求めるように僕を見ている。
 さっきの、どこか厳しいように見えた目が嘘みたいだ。
 夕暮れ前の、住宅街にあるのんびりとしたカフェの店内。
 どちらかが発するだろう次の一言を、店中の誰もが待っているのがわかる。

 彼女に顔を近づけて、声を落とした。誰にも聞こえないように。
「それ食べたらさ、ちょっとだけ、外、歩こうよ」
 内緒話のように告げる。
 彼女に対して、初めてする表情をしていたはずだ。
 
 千紘さんは、しばらく僕のほうを恥ずかしそうに見上げていた。
 それから、本当に小さな声で、うん、と頷いた。

名前も知らない【1-3】

▼次章【2-3】
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名前も知らない【1-3】

小雨の降る四月に従兄の店で出会ったその人は、人形みたいな顔立ちのどこか不器用な女性だった。 17歳で家を飛び出して以来転々としながら生きてきた人、中上千紘。 昨年手術を受けて以来静かに暮らしているという彼女に、ダンススクールの雑用バイトをしながらバックパッカー生活をしていた僕は一目で心を奪われてしまう。 恋愛 悲恋 ヒューマンドラマ

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-03-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 01|インパクト
  2. 02|遺失物
  3. 03|壁
  4. 04|マグノリアハイツ
  5. 05|雨風
  6. 06|置き去りの森