名前も知らない【01】

古瀬

名前も知らない【01】
  1. 01-1
  2. 01-2
  3. 01-3

01-1

01-1

 そういう店があるわけでもないのに、小雨の降る路地裏に漂っていたのはプーアル茶の匂いだった。
 荷物持ちで出かけた市場の試飲で、一度だけ飲んでみたことがある。鼻腔の奥にひっかかるような、独特の発酵臭だ。身体が受け付けなくて、何とも言えない気分で紙コップを返したのを覚えている。
 いつも利用している私鉄の、初めての駅に降り立ってから十五分ほどが経過していた。人気のない高架下を、どこかぼうっとしたような気持ちで歩いているところだった。
 古くからあるのだろう簡易郵便局の角を曲がった先で、大きくひらけていたような街並みが突然収縮したような気がした。一歩踏み入れた先に、戸建ての公営住宅や煙草屋、定食屋なんかがぎゅっと押し込まれたような路地裏が続いていた。

 漂ってくる匂いを遮断するように鼻の頭を擦って、握っていたメモをひらいた。殴り書きのそれをもう一度確認する。
 少し前に、偶然街で会った従兄がその場で書いて渡してきたものだ。道の広さも長さもまったく合っていない下手な地図の隅に、彼が新しく始める店の名前である『ギャラリー只野(ただの)(予定)』と押し込まれたように記されていた。

 ――伊丹(いたみ)の家のじいさんがこっそり持ってた物件らしいんだけど、どうも曰くつきらしくて。買い取ったっていうか、ほとんど転がってきた。

 従兄の裕道(ひろみち)はそう言って、僕にむかって牡丹餅っすよ、と笑った。
 祖母の実家、という遠いのか近いのかいまいちよくわからない家で起きた相続騒ぎに、どうして従兄が立ち会うことになったのかは知らない。もともとが人懐こくちょこまかと親族間を行き来している男なのは承知していたけれど、そこまで手広いとは思っていなかったのだ。
 裕道が言うには、去年急病で亡くなったという大伯父には家族の知らない若干の後ろめたい過去があったらしい。流山のはずれに、彼は自分名義の小さな別邸を所有していた。購入した年と記録の詳細から、それが若き大伯父のした道ならぬ恋の相手の家だとわかるまではいくらも時間はかからなかった。この時代では二束三文にもならない、長屋風に建っていることから取り壊しにもひどく費用がかかるとかで、伊丹の家ではその『忌々しい愛人の家』の処分に困っていたのだそうだ。
 それでも、様子を見に行かないわけにもいかない。
 高齢で公共の乗り物にはもう乗りたくないという大伯母に、裕道は運転手を頼まれたらしい。ブラックカラーのノアの助手席に痩せぎすの年寄りをちょこんと乗せて、彼は一時間ほど車を走らせた。
 書類に書かれていた住所に到着し、建物を見た大伯母は眉をひそめた。やだ、言ってた以上に古いじゃないの。埃っぽいとハンカチで口を抑えながら告げられたその言葉に、裕道はそうかな、という返事をしたという。レトロでいいじゃん、味があって。
 滞在していたのは、三十分ほどだったと言う。埃だらけの窓を開け、彼らは長く手入れのされていない家の中を確認した。そして、裕道は来た時と同じように大伯母を車に乗せ彼女の家を目指した。
 その一週間後、彼は通帳と判子を持って再び伊丹の家を訪ねていた。


 地図よりも住所を聞いておくべきだったと思いながら、最後は直感を頼りに細道に入る。
 煙雨にわずかに視界がかすんで、濡れた足元はつやを持ったように光っている。雨雲の下、寒さを感じる手前の空気と立ち上る湿気。
 晴れていればまた違った風情なのだろうと思いつつも、その界隈にはどことなく薄気味悪さのようなものも漂っていた。やり方はいくらだってある、と従兄は強がっていたけれど、駅からそれなりに歩くような場所でギャラリーを兼ねたイベントスペースなんか始めたところで、長く続くとは正直思えなかった。

 古い単身者向けのアパートが向かい合って並ぶむこうに、長屋風の建物をようやく発見した。
 さしていた青い傘を後ろに倒しながら、灰白色の建物を見上げる。
「古いな、ずいぶん」
 そんな言葉が、口からこぼれ落ちていた。
 看板建築と呼ぶのだろうか。コンクリートの外壁のところどころが剥がれている、二階建ての建物だ。一階の正面がガラス張りになっていて、室内を照らす白熱灯の灯りが漏れている。

 強くも弱くもならない雨の中、僕は従兄の手に転がり落ちてきたその古びた牡丹餅を見上げていた。
 まだ改装の途中らしい。窓ガラスの一部には養生が残っていて、中には配線工事中といった感じのコードが天井や壁から伸びている。あらゆる塗料を被ってマーブル模様になっている脚立が、室内の中央にどっかりと置かれている。あかりはついているものの、目に見えるところに従兄の姿は見当たらない。
 少しためらった後に、扉に手をかけてみる。雨粒のこぼれた手でそれを押してみたものの、鍵のかかった扉は固く閉ざされてひらかない。外出しているにしても近所なのだろうが、そう広くない路地の前でひとり突っ立っているのもな、と考えてしまう。

 スマートフォンを取り出そうとジャケットのポケットに手を突っ込んだとき、後ろから声がした。
「亮太?」
 振り向くと、トレーナーに黒のバンダナキャップを被った裕道が驚いた顔をして立っていた。コンビニにでも行って来たのか、小さなビニール袋を左手に提げている。
「忘れてたって顔してますが」
 おかしくなって告げると、彼は一度まずい、という顔をした。それからすぐに、ごまかすようにぱっと顔色をあかるくした。
「いやあ、ごめんごめん。俺今日木曜のつもりでいたわ、金曜だったか」
 笑いながら、ずかずかと近づいて来る。
 改装は業者任せにしているかと思っていたけれど、自分でも手を加えているらしい。よれたトレーナーの肩口が、白い塗料のようなもので汚れている。バンダナキャップを被ってタオルを首に巻き、汚れたワークパンツ姿だった。
「自分から呼んどいて忘れないでよ。俺、そんなに暇じゃないんだけど」
 呆れた気分になって告げると、彼は悪かったって、と繰り返しながら僕の隣に並んだ。

「しかしさあ、伊丹のじいさんもやるよな。愛人の実家で逢引とか」
「そんな人だったっけ? どっちかって言えば堅物っぽく見えたけど」
 ろくに話したこともない、冠婚葬祭で数回顔を合わせただけの老人だった。あまり表情の出ないような、若干の不機嫌を感じるような面立ちの人だった気がする。
 僕の言葉に、裕道はいやいや、と笑いながらワークパンツのポケットに手を突っ込んだ。小銭と鍵がぶつかっているらしいじゃらじゃらとした音を響かせたあとに、革製のキーホルダーを取り出す。
「遠くからはそう見えるけど、実際は色々やってたと思うわ。俺一度目の入院から運転手してたけど、いい話がとにかく出なくて」
 へえ、という相槌しか浮かばなかった。
「まあ、でも見てよ。けっこうなお宝よ」
 裕道の開けた扉のむこうからは、塗料やシーリング剤のつんとした匂いが漂ってくる。少しのかび臭さも。

 室内は意外にもあかるく、温かかった。作業用の裸電球とストーブのせいかもしれない。十畳ほどの店舗に、木製のカウンター風の台が一台置いてある。
「雰囲気あるだろ」
「ありすぎて、ちょっと圧倒されてる」
 聞いていた以上に古く、重厚な建物だ。すでに全面の壁に真新しいベニヤが貼られ、上に棚の位置や配線用の印なんかが描かれている。
「奥は?」
「まだ全然。日当たり良くないから、半分は倉庫かな。二階はそこそこいいから、いずれは事務所にするつもり」
 裕道が行ってみる? と訊いてきたが、落ち着いてからでいい、と答えた。長く放って置かれた建物は空気がこもっていて、またそれが見知らぬ誰かの住処だったというのも複雑な気持ちにさせられた。
 従兄はそういうことを全く気にしない性質だが、そうか、と素直に頷いた。

 裕道は気を取り直したように、それでだ、と力強い声を出した。
 店舗の隅のほうに歩いていく。木製の台のむこうに、白い布をかけられているものが見えた。
「これもセットだったんだ」
 彼は得意げに言って、大きな布を静かに剥いだ。
 出てきたのは、見慣れない形をした何かの古い機械だった。墨汁と油の混ざったような匂いが鼻先に届く。
「なに、これ」
「小型の活版印刷機だって」
 裕道はそれを、ちょっと得意げに言った。
「なに、カッパ?」
「活版。昔の印刷方法」
 言いながら、裕道はその機械のハンドルのようなものにそっと手をかけた。
 手フートって言うらしくてさ、詳しい人に見てもらったら「小型なんだけどこれは大きめですね」って、ちょっと意味わかんねえけど。そう説明しながら、丸い盤面のような場所に触れている。
「貴重なもんなの?」
「あー、人によっては?」
 答えながら、彼はその印刷機がさらに一台、活字が一通り裏のほうにあること、伝手を辿ってその手の業者に相談し修理と整備、それから使い方を習いに通うつもりだと説明した。
「つまり、これも新しい仕事にするつもり、と」
「そう。オーダーで、名刺とか? まだあんまり調べてねえんだけど、それなりに需要ありそうで」
 目を輝かせて、裕道は言った。
 埃が細かいところに詰まったままのその印刷機を撫でる彼の右手には、小指がほとんど残っていない。三年ほど前、働いていた工場の機械に巻き込まれて持っていかれてしまったらしい。話を聞いたときには驚いたが、しばらく経ってから会った彼は「あんまり使わない場所だけど、誤解を招くよな」と笑っていた。そのあいだのことは、よく知らない。
「やっぱり、こういう仕事に行き着くわけね」
「そんなつもりなかったんだけどな、縁みたいなもんかね」
 印刷機に再び布をかけてから、従兄は曲げていた腰を伸ばしている。
 基本的に大人しい親族の中で、裕道と僕はちょっと毛色の違う男児だった。子供の頃はもちろん手のかかる悪ガキで、大人になってからもその雰囲気は変わっていない。放蕩は裕道、放浪は亮太、と集まりの度に一度は誰かが口にする。

01-2

 業者からかかってきたらしい電話に出た裕道が、ちょっと待ってて、という仕草と共に奥に引っ込んだ時だった。
 手持無沙汰に眺めていた窓の向こうの景色に、赤い傘がゆっくり滑り込んで来たのが見えた。
 僕のそれよりも、十五センチほど低い場所だろうか。
 鮮やかな、形の良いその傘は持ち主の頭部をきれいに隠している。

 通り過ぎるかと思っていた赤い傘は、窓の前でゆっくりと立ち止まった。
 入り口に向かって歩き出していたと気づいたのは、ガラスに自分の顔が映り込んでいたからだ。
 ――あれ、俺、なんでここにいるんだろう。
 そう思ったものの、古いガラス戸に映っている自分の顔にその感情は見当たらなかった。どこかぼうっとした、間抜けた自分の表情。
 静止していた赤い傘が、扉のむこうでゆっくりと動く。

 持ち主の身体から離れ、まず目に映ったのは日本人離れした色のショートヘアだった。曖昧な濃淡の、ベージュっぽいあかるい髪。
 簡単に傘をたたみながらあげられた顔が、僕を認識するまではいくらもかからなかった。

 頭の中に、人形、という言葉が浮かんだ。
 こちらを見上げるその人の双眼に、僕は吸い込まれていた。


 雨の音が大きくなったのは、ガラスのむこうにいた彼女が扉に手をかけてそれをゆっくりと開けたからだ。自分の身体に意識が舞い戻った。着地に失敗したように、心と身体のあいだに妙な隙間ができたような気がした。

「こんにちは――あの、すみません」
 濡れた手で自らの前髪を軽く直してから、その人は言った。
「ここ、只野さんのお店ですよね。今度新しく始める――」
 若干戸惑ったような声で尋ねられたけれど、意味を理解するにはさらに頭の中で何度かその言葉を繰り返す必要があった。彼女は裕道の知り合いで、彼を訪ねてここまで来たのだ、と。
「そう、です」
 頭の中で、寝起きか、と言ってしまう程度には呆けた声で返事をしていた。
「今、裏のほうで電話に――呼んできますんで、中どうぞ」
 扉を大きく開ける。彼女は少し迷ってから、遠慮気味に頷いた。
 身体の皮膚の表面ぎりぎりまで前のめりになっていた意識を、何とか引っ張り戻す。ぎくしゃくした足取りになっているのが、自分でもわかった。そうさせるようなものは何もないはずなのに、空気が突然緊張したような気がした。細く強く、身体が張り詰める。
 店舗と住居の境目になる、扉を外したままの出入り口に僕は手をかけた。耳を澄ませてみる。従兄はちょうど電話を終えたようだった。
「裕道、お客!」
 叫ぶと、彼はおお? という間抜けな声を出した。
 小走りでこちらに戻って来る音が聞こえる。

「――あー」
 店舗に戻って来た裕道は、緊張したような表情で立っている女性を見てそう言った。
「ごっめん、ちいちゃんも今日だったか」
 約束したのを忘れていたらしい。自らの額に手を置いて、しまった、という顔をしている。

 ちいちゃん。

 その呼び方は、とても幼い子供を呼ぶ時のような響きがあった。親しげに呼ぶことにすっかり慣れた、昔なじみに対して告げているような。
 女性は、従兄の様子をしばらく見てからふっと笑った。
「忘れてた?」
 優しげな声で、伺うようにそう訊いている。小さな唇の両端が持ち上がって、目尻がやわらかく下がっている。警戒心がほどけたような、自然な笑顔だった。

 裕道はだあ、という奇声をもう一度発してから、
「本っ当、ごめん。俺、最近すごいとり散らかってて。書いといたんだけどなあ、すっかり飛んでた」
 よたよたとした動きで彼女に近づいてから、両手をぴったりと合わせて頭を下げた。
「覚えてたら迎えに行ったんだよ、こんな雨で」
「平気だよ。もうそんなに寒いわけじゃないし」
「何言ってんの、まだ貧血残ってるって言ってたじゃん。って、俺が言うのもおかしいんだけど」
 裕道は先ほどからは考えられない早口で、一息にまくしたてた。

 女性は、不思議な雰囲気の人だった。
 シンプルな恰好をしているのに、髪色のせいかそれを感じさせない。身長は、だいたい百六十センチ前後だろうか。色が白く、頬はつるりとしている。大人しそうにも活発そうにも見えて、外見から性格があまり想像できない。
 何かに気が付いたように、裕道が僕のほうを見た。
「亮太、紹介するよ。俺の元同僚の、中上(なかがみ)千紘(ちひろ)さん」
 彼女は、僕のほうを見てこわごわと浅いお辞儀をした。人見知りする人らしい。表情が、また緊張したように見えた。
「で、こっちが俺の従弟ね。堀井(ほりい)亮太(りょうた)
「従弟さん?」
「そう。俺とは一族の問題児コンビ」
 そうでもないよ、と答えた声が、妙に幼く響いてしまう。

「ええと、打ち合わせ? とかなら、俺帰るけど」
 妙に親しげな様子の裕道に問いかけた。従兄は既婚者だし、僕の前で焦っているという様子もない。この家のかつての持ち主のように、後ろめたい間柄ということもないだろう。大方仕事の関係者かと思ったのだ。
 裕道よりも先に、中上さんが首を横に振った。
「いえ、それならわたしのほうが」
「大丈夫です。今日、見に寄っただけなんで」
 夕方にはバイトの予定もあると告げる。裕道は困惑したような表情を浮かべている。
 僕はわざとあかるい声で従兄に告げた。
「また、天気いい日に来るわ。何かあったら連絡して」
 返事を待たずに、部屋の隅に立てかけていた傘を手に取った。



「でさ、結局小森、工場長にえらい剣幕で怒られて――うわ、その日で契約解除だってよ」
 テーブルの上に置いたスマートフォンの画面を荒っぽくスクロールさせながら、櫂谷(かいたに)はおかしそうに言った。右手には彼が先ほど「期待したほど美味くねえ」とぼやいた揚げ鶏の甘酢あんかけで色のついた、きれいに割れたとは言いがたい割り箸が握られている。
「まじ?」
 持ち上げかけたれんげを置いて尋ねた。
「どうせ一番下っ端なんだから、最初は適当に言うこときいてりゃいいのにねえ。なーんでわざわざ楯突くかね」
 きつい言葉だったが、声音にはむしろ同情が混じっているように聞こえた。笑ったままの表情で、まだ画面の中に集中している。
 バイトを終えたあとに友人の櫂谷と合流し、雑居ビルの一階にある中華の定食屋に入っていた。高校時代から何かと集まりのあった十人組のひとりである、小森の話が送られてきたのだ。

「どのくらいあそこいたんだっけ?」
「あー、確か、二ヶ月?」
 櫂谷は眉をわずかに寄せてから、そう答えた。
「けっこう大手と取引あるって言ってなかった?」
「小さい工場だけど、いいところに納めてはいるって言ってたな。ほぼ軽作業のみだからって、原なんか安心してたのに」
 へえ、と自然と口からこぼれていた。
 小森は元々、気難しいところのある男だ。学生を終えて世間に踏み出したあたりから他人とぶつかることが増えて、社会の『浅いところ』を出入りするような生活を送っている。専門学校を卒業してすぐに入った会社を辞めてからは、短いスパンで職場を転々としているはずだ。
「あいつ、仕事絡むと本当に融通利かなくなるね。付き合うぶんには普通なのに」
 椅子の上で妙にリズミカルな貧乏ゆすりをしながら、櫂谷は笑っている。

 子供時代、櫂谷恭一と友人だと知られるとよく羨ましがられた。彼の素性や交友関係を聞き出されるのも、紹介して欲しいという意味の言葉を投げかけられるのもそう珍しいことじゃなかった。
 地元では有名な画家の一人息子だ。画材に囲まれ、父親から譲られたかもしれない画才を幼い頃から期待されて育っていた。二学期が始まってすぐに廊下に貼りだされた夏休みの課題の絵画で金色のシールをもらうのはいつものことで、中学に入ってすぐに顧問教師から直々に美術部入部の勧誘があったのも覚えている。
 学生向けのそこそこ大きな賞を取ったのは、高校二年だっただろうか。それと同時にもうアナログはいいといって、高校を卒業してグラフィックデザインを学ぶための専門学校に入学した。周囲がいい顔をしなかったのは、彼が選んだのがそこまで本格派とも言えない、専門志向の強い人間だったら選ばないようなゆるめの総合学科だったためだ。
 地元に居た頃には良家の子息風にきちんとプレスされたシャツとスラックスを身に纏っていた彼は、今は適当なTシャツの上に古着のブルゾンを羽織っている。青白いような顔色をした鋭くも口数少ない少年だった櫂谷は、初対面の子供が思わず掴まるものを探してしまうような雰囲気の持ち主になっていた。

 スマートフォンから顔を上げた彼は、僕のほうを見て訝しげな瞬きをした。
「おまえのも、美味くないの」
 咄嗟に意味を理解できずにいた僕に、彼は顎でそれ、とやった。
 深めの大皿に盛られた麻婆豆腐丼が、まだ半分以上残っている。
「――そういうわけじゃ、ないんだけど」
「らしくないじゃん」
 ぼそっと言ったが、深追いするつもりはないらしい。投げやりに見えなくもないような仕草で、櫂谷は自らの食事に戻った。
 バイト先のダンススクールである『エディフィカンテ』で、今日は萩の月をひとつ振舞われた。事務所にある、いつものインスタントコーヒーも。助手の仕事に館内を飛び回って、それなりに空腹の状態で櫂谷と会ったはずだったのに。
 れんげを持ち直して、もう湯気の立っていない麻婆豆腐を掬い上げる。
 薄暗い店内には、プロ野球を実況中継するラジオの音が淡々と流れ続けている。

01-3

「やっぱ降ってんな」
 渋々といった雰囲気で、櫂谷は黒い傘をひらく。手に物を持って歩くのが嫌いなのだ。雨の日に待ち合わせをすると、彼は大抵ブルゾンのフードを被ってどこかの軒下にけだるそうに立っている。今日もそうしたかったのかもしれない。彼女がそれを許さなかっただけで。
 彼は右肩のほうに傘を立てかけるようにして、ふああ、という大あくびをひとつした。
「春って、寝れてんのか寝れてねえのかわからん季節だと思わん?」
 悪態というほどでもない、少しの不満を含んだ一言だった。確かに、と答える。なるべく深刻にならないように、軽妙な雰囲気で。
「最近、体調は」
「変わんねえな。まあ俺、内臓とかおかしいわけじゃねえから」
 僕をちらと見て笑った。そういう時だけ、昔の彼の面影と重なる気がする。伸びた髪に無精ひげ。少し向こうで、信号の光が日没後の雨によってにじんだように伸びて見える。
「薬の管理とか、蓉子(ようこ)が厳しいのよ。おまえお薬カレンダーってわかる?」
「あの、透明なポケットいっぱいついてるやつ?」
 浮かんだままに尋ねる。腎臓の弱い叔母が愛用しているのを思い出したのだ。
 櫂谷はくっくと笑ってから、そうそう、と頷いた。
「あれ、うちの冷蔵庫の横に貼ろうとするんだよ。さすがにそれはやめてくれって頼み込んでさあ」
 思い出したのか、少し機嫌良さそうに続けた。
「原色の丸ゴシックで『あさ・ひる・よる・ねる前』よ。俺これでもデザインの仕事してるんだって、あんな生活感全開なもんでかでか視界に入れたくねえんだって」
 小さいケースのタイプだってあるだろ、と言う彼につられて僕も笑っていた。彼の部屋に昔から飾ってあった『羊たちの沈黙』のアートパネルや、ニルヴァーナのレコードのジャケットを思い出したのだ。
「ああいうところがなー。何か、違う星の女なんだよな」
 ひとしきり笑ったあとに、櫂谷は小さくため息をついた。苦笑しながら。

 彼の現在の同居人である宮津(みやづ)蓉子(ようこ)さんは、櫂谷の失踪事件の後に押しかけてきた、彼にとっては大して本気じゃなかったはずのお相手だ。市内の図書館で働いている。
「でも、もう三年くらい経つんじゃなかった?」
 櫂谷はそう、と頷いた。
「喧嘩の後に、出て行きそうかな、って思ったこと、何回もあったんだけど。何日かむすっとしてたけど、結局そのまま」
 情念系っつうか、粘り腰って言うの? と低い声で笑っている。
 他人に対してあまり強い関心を抱かない性格の櫂谷にとって、その存在は時に煩わしいものではあるらしい。口数は多くないのだが、とにかくじっとそこにいるのだと言っていた。意志と意地を半分ずつ持ったような雰囲気で。
「でも、身の廻りのことされちまうとこっちも弱くなるよな」
 苦笑していた表情をふと崩して、彼はぽつりと告げた。
 別れ話を彼が蓉子さんに何度もしているのは、周囲の友人達全員が知っている。同情的な意見も多かったが、異性に縁のなかった小幡なんかは贅沢な話だと憤っていた。女性が出て行かないなんて悩みを抱えられる男、そう多くないんだぞ、と。
 思い出して気がふさいでしまったのか、櫂谷はちいさなため息をひとつついた。
 
「次、どこ行く予定なの」
 気分を切り替えようとしたのだろう、あえてあかるく出したような一言だった。
「バングラデシュとか、考えてたんだけど」
「うん」
「でも、どうだろ。前回長かったから、しばらく旅費貯めないと」
 僕のほうをちらと横目で見て、へえ、と彼が言う。
「そこ、有名なのって何があったっけ」
「基本的には、モスクとか宮殿とかかな。まあ俺、観光地ってあんまり歩かないんだけど」
 ひとつの街に一週間ほど留まって、そこらを歩き回るのが好きなのだ。広場にでも座っていれば、暇そうな誰かが必ず声をかけてくる。隠れた名所なんかを教えてくれたりして、そこに行ってみることもある。中高生の頃に躍起になってカルシウムとタンパク質を摂取した成果なのか、僕は身長も骨格もそれなりにある。物売りやスリに気を付けることはあっても、それ以上の身の危険を感じたことは幸いなことに今までほとんどなかった。まあ、ゼロではないけれど。
「いいな、おまえは。好きなことあって」
 櫂谷の呟きに、そうかな、と答えた。
 実際は、バイトしながらさすらいのバックパッカー暮らしです、なんてちょっと言いづらいご時世だと思う。宵越しの金は持たないという性格でもないつもりだけど、ふらふらと暮らしていると思われているのも確かだ。

 櫂谷には、どこか気晴らしに行ってみたらと言えない。
 いつかの彼が、周囲に黙って本州の端まで行ってしまった日のことを覚えているからだ。
 身辺の整理をして小さなボディバッグひとつで消えてしまった彼のために、僕たちはそれぞれの持っている時間と能力をすべて出し合って彼を探した。携帯電話の電源を切っていた彼とやっと連絡がついた時、櫂谷は陸奥湾が目前に広がるある駅のベンチにひとり座っていた。その辺りから動くなよと繰り返し、僕は仲間のひとりと交代で運転しながら彼を迎えに行ったのだ。半日後にやっと見つけ出した櫂谷のバッグの中には、財布と携帯電話、ジェフリー・ユージェニデスの『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』の文庫版が入っているだけだった。
 寒さで、彼の唇の皮膚は薄く切れ血が滲んでいた。凍傷になりかけの、赤く腫れあがった手。今は誰も口にしない、思い出したくもない、でも忘れられない記憶。
 櫂谷はまたひとつあくびをして、やっぱり眠い、と鼻を掻いた。


 自分の異変に気付いたのは、その翌日だった。
 櫂谷と別れた後は、いつもの電車に乗って自宅に帰った。駅から徒歩十三分の場所にある、古くてぼろいワンルームだ。旅費最優先の暮らしをしている僕にとって、設備の良い築浅の部屋を借りるという行為は優先順位としてかなり低い。
 風呂に入り、洗濯機をまわしながらスマートフォンを充電した。パイプベッドに横たわり、薄汚れたような色の天井を見ながらぼうっと一日を振り返った時も、自分の身に大きな変化が起きようとしているなんて思いもしなかった。

「ねえホリー、昨日から変じゃない? 具合悪いの?」
 バイト先のダンススクールで、オーナーの姪でありスクールの名物講師である高橋(たかはし)麻子(あさこ)にそう尋ねられた時も、ぴんとは来なかった。
「俺?」
 互いに、スタジオの反対側からモップをかけているところだった。麻子は声が大きいから、十メートル近く離れたところからでも言っていることは良く聞こえた。
「なんかさあ、ぽーっとしてない?」
 不思議そうに訊かれる。
「――してる?」
「いや、聞いてんのこっちなんだわ」
 彼女は笑いながらはきはきとフロアにモップをかけ続けている。ややエキゾチックな顔をした、快活で華のある人物だ。引き締まった、ちょっと目を引く身体つきをしている。殴られるから言わないけれど。
 何を思ったのか、麻子は部屋の隅まで一旦モップを滑らせてから「はっ」という声を出して突如方向転換した。そのまま、僕に向かって突進してくる。蛍光ピンクのもじゃもじゃしたものが勢いをつけて迫ってくるので、慌てて同じブルーのものを突き出した。
 床の上で互いのモップの先がぶつかる、かつんという音があたりに響いた。
「ちょっと麻子ちゃん、どこまでかけたかわかんなくなるって」
 互いにモップの先で押し合うという、いまいち意味のわからない行動を取りながら答える。麻子は怯まず、しばらく僕にむかって静かな攻撃を繰り返した。
「だって、本当におかしいから。何よ亮ちゃん、お腹でも壊ちたの?」
「赤ん坊相手みたいに言わないでくれないか」
 年下のくせに、僕に対してはどうしてか出会った頃からこうなのだ。からっとした姉御肌で、初日から全く遠慮がない。まあ、事務担当である彼女が融通を利かせてくれるからこそ通常だったら許されない海外放浪を避けたシフトで働けているのだが(もちろんそのたびに土産をたんまりと持ち帰っている)。

 彼女はようやくモップから力を抜いて、とん、と自分の身体の脇に置きなおした。
「まあ、何かあったわけじゃないならいいんだけど」
「何よ、俺のことそんなに気にしてくれちゃってる?」
「そういう軽い物言い、あんたやたら似合うけどちゃらい」
 麻子が小さく鋭いため息をひとつついた。
 その表情を見ながら、確かに昨日からの僕は何かがずれているような気がする、と思う。自分の中にある感情が、あるいは行動が、いつもほど身近じゃない。少し高いところから辺りを見ているような、遠い気分の中を漂っている気がする。人の中で動いていても、いつものように話していても。

「確かに、昨日からあんまり飯の味がしない」
 モップに体重を預けながら、そう答えた。
 麻子は僕のほうを見て目をぱちぱちとしている。
「病気っぽいって意味?」
「いや、体調が悪いってわけじゃないんだ。匂いもわかるし、熱もないし。ただ、何食ってもぴんとこないっていうか」
 バイトに向かう途中で買ったコンビニのサンドイッチも、昼食に近所の店で買ったいつものカップラーメンも、昨日までとは違うものみたいな気がした。
 ひどく味気ない、そう、これじゃない、という感じが。

 今自分の身体が欲しているのは、絶対にこれじゃない。
 その違和感だけが、妙にリアルだった。

「ストレス、とかじゃないよね?」
「ストレスフリーに近い生活してる、自覚ある」
 だよねえ、と彼女は深く頷いた。それはそれで、何だか失礼だが。
 眉根を寄せて、麻子はわずかに首を傾げている。普段はアバウトであかるくさばさばした人物だが、こういう時には親身になってくれるのが彼女らしい。
「ねえ、じゃあ遡ってみたら? それ、何時頃から?」
 難しい顔のまま、彼女は僕に提案した。

 言われた通りに、時間を巻き戻してみる。
 今朝にはすでにそうなっていた。
 昨日の櫂谷との食事の時も、もうそんな感じだった。
 昨日の午前にはまだそんな気配はなかったから――。

「あ」
「わかった?」
 麻子が目をいつもより一回り大きくして尋ねてくる。
 答えることはできなかった。
「え、ホリー。なんで?」
 困惑したように麻子が質問を重ねた。僕が、右手で顔を覆っていたせいだ。
「俺は、なんて鈍いんだ」
 モップを持っていなかったら、そのまましゃがみこんでしまっていたかもしれない。
 麻子は、は? という声を出したままそこに固まっている。

 昨日の記憶の中にぽつんと佇む彼女に、スポットライトのように意識が当たる。
 中上千紘。
 日常に違和感を覚えるようになったのは、彼女に出会ってからだった。 

名前も知らない【01】

▼次章
https://slib.net/105314

名前も知らない【01】

従兄が親戚から買い取ったというその店を見物しに行ったのは、小雨の降る肌寒い四月のことだった。赤い傘をさして現れたその人は、人形みたいな顔立ちをした、それでいてどこか不器用な人間臭い女性だった。病気の手術をして今は静かに暮らしているという彼女にバックパッカー生活をしていた僕はみるみる惹かれていってしまう。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-03-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted