鳥が見た夢
外灯のくすんだ光の下、男はむしろを敷いて地べたに座りこんでいる。道端で商売をしているようには見えなかった。周りには人気もなく、明かりに誘われた蛾が飛んでいるだけだ。
怪しげな男に眼を向け、こんな夜中に何をしているのだろうと青年は思った。そんな彼自身も、こんな夜更けにふらふらと出歩いているのだから人のことは言えない。
見れば、むしろの上にはつづらが一つ置いてある。どうも何かを売っているらしい。
男は腰に下げた巾着から、煙管を取り出してふかした。白い煙をふうっと吐き出すと、男は青年を見て口の端を上げて笑んだ。
「いかがです」
「何か売っているのですか」
男は片手を横に振り、苦笑なのか微笑なのか分からない顔をした。単に、煙を手でよけただけかもしれない。
「いいえ、人を捜しているのですよ。夢鳥を飼っていただける客人を、ね」
「夢鳥? どんな種類ですか」
「こうという種類は決まっておりません。あなたが望むままに、お好きなように」
男はつづらを開けて、中を覗いてみろと手招きした。
「いかがです」
言われるままに覗いてみて、青年は息を呑んだ。中には、信じられないものが押しこめられていた。
「あなた、鳥を飼われますね」
青年が何も言わないうちに、男は勝手に話を進めている。しかし、青年はしばらく返事ができなかった。
つづらの中には、一人の女が膝を抱える形で小さく収まっている。普通の客であれば、これが鳥なのかと怒るに違いない。だが、青年は黙りこんでいた。
彼女が顔を上げ、彼を見て微笑む。その顔は、青年にとって忘れがたいある人に似ていた。いや、似すぎていた。それは彼女そのものだった。
青年は思わず、彼女の名を口にした。
「お気に召したようですね。なに、飼い方にこれといった決めごとはありません。ただし、くれぐれも鳥に深入りしてはなりませんよ」
男が何か話しかけても、青年はうんともすんとも言わない。眼は彼女に向けたまま、糸で縫いつけられたかのように動かない。
「お気をつけて」
青年は鳥を抱えて去っていく。いとも幸福そうな笑みを浮かべて、鳥に話しかけている。鳥は鳴き声一つ出さない。
青年の後ろ姿を見つめながら、男は誰にともなく呟いた。
「よい夢を」
男は煙管をくわえ、深く吸いこんで煙を吐き出した。
渡し場の灯りに引き寄せられて、舟は岸に着いた。舟の上には無口な渡し守と、灯り持ちの男がいるだけだ。
そこへ一人の青年が、舟に乗りこんだ。青白い顔をした青年を乗せて、舟はゆっくりと漕ぎだす。
辺りは不気味なほど静かで、白い霧が立ちこめている。艫にいる男が照らす灯りを頼りに、舟は先へ先へと進んでいく。
今自分は夢を見ているのだと青年は自覚していた。正確には、まだここは夢ではない。
「あの……」
と、青年は灯りを持つ男に声をかけた。男は何の反応も返さない。
夢鳥を飼うようになってから、青年は初めてこの川のことを知った。人は誰しも夢を見る前後にこの川を渡っていき、眼が覚めれば忘れてしまうことを。
「あなたはいつもこの舟にいますが、これまで僕のような人間をたくさん見てきたのでしょうか」
男の眼がちらりと青年を見たが、すぐに正面の川へと向く。沈黙が続いた。
「すみません。失礼なことを聞きましたね。忘れてください」
青年はおもむろに川面に眼を向けた。黒い水面が小さな波を作っては消えていくさまを、無言で睨む。
青年は懐から丁寧に折りたたんだ紙を取り出した。それを愛しげに指で撫で、重い溜息を吐いた。
青年が再び川面を覗くと、今まで暗かった水面にぼんやりと景色が滲んできた。
水に浮かぶ人影が、しだいにくっきりとした映像になる。まだ幼さの残る少年が、水面に映った。ぐっと歯を食いしばんでたたずんでいる。
少年の周りには黒服の大人が何人もおり、彼らはみな沈んだ顔で、黒い建物の前に立っている。少年の眼は、空に昇る灰色の煙を食い入るように見つめていた。
「……かつき」
青年の手から、ほとりと手紙が落ちた。それに気づかず、青年は水面の景色に釘づけになっている。
「着きましたよ」
灯りを持つ男が声をかけてから、青年は岸辺に着いたことにやっと気がついた。
名残惜しそうに川面から目線を外すと、青年はごくりと生つばを呑みこんだ。青年は振り返らずに、霧の奥へと進んでいく。
灯りを持つ男は何も言わずに、その背中を見送った。
*
火葬場から帰宅すると、暁生は兄の部屋へ向かった。
戸を開ければ、兄が変わらず部屋にいるように思えてならない。戸口で「兄さん」と呼びかけたが、やはり返事はない。
胸の詰まるような静けさを感じながら、暁生は戸口の前に立ち尽くした。兄がもういないことを痛切に実感していた。
消え入るような声で「入りますよ」と問いかけ、返事のないまま戸を開ける。顔を上げて部屋の中を見た時、暁生は信じられないものを見て立ちすくんだ。
兄の部屋に、見知らぬ男が立っていたのだ。よく見れば、土足のまま上がっている。
「君は、彼の弟さんだね」
男は暁生をじっと観察しながら、そう声をかけた。
「あなたは誰ですか」
「僕かい。僕は鳥飼いという者だ。君のお兄さんには以前、鳥を飼ってもらったことがある馴染みでね」
鳥、という言葉を耳にして緊張が走る。兄が鳥らしき生き物を飼っていたことは、薄々気づいていた。だが、その姿を見たことも声を聞いたこともない。
兄は鳥を飼い始めた頃から、部屋に誰も入れようとしなかった。何も理由を言わず、部屋に籠もりがちになった。仲の良い暁生にすら詳しい事情は説明せず、ただ「鳥がね……」と言ったきり口をつぐんだのだ。
あれこれと思い出が甦り、暁生は目頭が熱くなるのを感じた。
「どうして、あなたは、兄の部屋にいるのです」
「放っておいたら、鳥が飢え死にしてしまうだろう」
部屋を見回したが、鳥の気配は全くない。不審な眼で男を見ると、男は涼しげな顔で笑った。
「いるよ。まだ、この部屋にね。なんなら、君が飼うかい?」
男の最後の言葉は、甘く、背筋を冷たく撫でるような響きだった。暁生は、ごくりと生つばをのんだ。
「もし鳥を飼うというのなら初めに忠告しておこう。鳥に慣れ親しみすぎれば、身を滅ぼしかねない。君のお兄さんのようにね」
暁生は、ぎりりと奥歯を噛みしめて男を睨んだ。
男は肩をすくめ、あきれたように溜息を吐く。
「君は、私のせいでお兄さんが死んだと思っているようだ。私は彼に忠告したんだよ。それを聞かなかったのは、君のお兄さんに原因がある」
男が腰を曲げ、ぐっと頭を近づけて顔を覗きこんできた。暗く澄んだ瞳が、暁生の眼を捉えた。深い井戸の底を覗きこんだ時のような、引きこまれる黒い瞳だ。
「君が知りたいのは、君のお兄さんが、何を考えていたかじゃないか」
男は哀れむように、ふっと笑った。
「やめておいた方がいい。他人の心を知った所で、どうするというのだい。君のお兄さんの気持ちを知るためだけに君が夢鳥を飼うことは、私としてもお勧めではないよ」
「夢鳥とは、何です?」
「鳥は、君に望むままの夢を見せてくれる。しかし、人の心とは脆いものだ」
男は、暁生にしわの寄った紙を差し出した。一度、くしゃくしゃに丸められたのだろう痕跡がうかがえる。
「これはお兄さんから預かった、君宛の手紙だ」
暁生は眼を見開く。引ったくるように手紙を受け取る。その白い紙には、兄の書いた優しい字が並んでいた。
『暁生へ
この手紙を君が読む頃、私はこの世にいません。
君には、ひどく悲しい思いをさせることでしょう。すみません。こんな結果になったことを、私はこうして謝ることしかできません。
私が飼う鳥のことは、君も少なからず知っていると思います。私の心残りは、その鳥なのです。
私がいなくなった後、鳥を君に渡すわけにはいかないのです。その理由を、君にはよくよく伝えておかねばなりません。
私がこのような最期を迎えたのも、鳥に深く関わりすぎたことが原因です。君には、私と同じ過ちを繰り返してほしくありません。
私が飼っている鳥は、夢鳥と云うのです。
夢鳥は、人の心の奥深くに入りこみ、望むままの夢を見せてくれます。それゆえに、人は夢に溺れ、鳥に狂うのです。
このことは何度でも云いましょう。
決して、夢鳥を手元に置いてはいけません。君まで、夢鳥に心奪われることがあっては、私は悔やんでも悔やみきれません。』
そこで手紙は終わっていた。続きはない。
暁生が手紙から目線を外した時、男の姿は部屋のどこにも見当たらなかった。男が立っていたはずの場所には靴跡も残っておらず、土の汚れも落ちていない。
部屋をぐるりと見回して鳥の気配を探るが、何も感じられない。鳥はいない。男もいない。ほんの一時、夢か幻でも見ていたかのように、部屋はしんと静まり返っている。
思わず手に力が入り、手紙が余計にくしゃくしゃに歪んでしまった。紙に刻まれたしわのように元通りには戻らない。もう兄はいない。そのことこそが夢のようで、早く覚めてほしいと痛切に思った。だが、これは現実なのだ。
胸の奥にある柔らかい部分をぎゅっと掴まれたような苦しさに、暁生は堪えきれずに涙があふれた。一人きり取り残された彼には、もう泣くことしかできなかった。
窓の外からは、木枯らしが鳴いている音だけが聞こえていた。
*
渡し場には一艘の小舟が止まっている。周囲はしんと静まり返り、鳥や虫の声さえもない暗い世界である。ただ、ゆらゆらと揺れる波と、時折かすかに響く水音が聞こえるのみだ。
舟の上に落ちていた手紙に、灯り持ちの男が気づいて拾った。何の気なしに文面へ眼を通す。文脈から察するに、手紙は途中から抜け落ちたようだ。
手紙にはこう書き綴られていた。
『私はある時期、とても絶望していました。毎日が、私には耐えがたいものでした。
そんなある日、私は彼と会いました。彼は私に、夢鳥を勧めてくれたのです。
私が彼と出会っていなければと思うかもしれません。それは違います。私が彼と出会ったことは、そうなる巡り合わせだったのだと、そう思うのです。
私の暗い心が、彼を呼び、夢鳥を見つけたのです。私は夢鳥という生き物を知ってしまい、もはや後戻りはできませんでした。
毎晩、私は彼女の夢を見ていました。鳥の見せる夢は、美しく楽しいものでありました。私は幸せでした。そう、夢が覚めてしまうまでは本当に幸せでした。
私は現実に苦しみ、夢へと逃げ、そうして今度は、夢から覚めることに耐えられなくなりました。
私が夢鳥を手放していれば良かったのでしょうが、私にはできませんでした。
恥ずかしながら私は、夢を見たまま死にたかったのです。
兄を救えなかったと、君が心を痛めているのではないかと思うと、心配でなりません。私がいなくなったからといって、君のことを軽く思っていたわけではないと信じてください。
優しい君のことだから、きっと悩むのでしょう。けれど、私の心を、君が知ることはありません。そして、知る必要はないのです。
私の心を知るものは、この世で一羽、夢鳥だけでよいのです。』
手紙から顔をあげて、男は白い霧のかなたを見やる。先刻、対岸へ一人の青年を見送ったばかりだった。今読んだ手紙は、彼の落とし物だ。だが、もう彼は戻ってこない。この手紙は返すあてもない。
男は川面を覗きこんだ。ゆらりゆらりと小さな波が揺れているだけで、水面は何も映していない。そっと手を伸ばし、川の流れに手紙をのせる。手紙は少し流れて、すぐに底の方へと沈んで見えなくなった。
「全ては夢のなか、か」
ふいに背後から声がしても、男は全く動じなかった。振り返れば、つづらを背負った鳥飼いが神妙な顔つきで立っている。
しばらく手紙が沈んだ水面を凝視してから、鳥飼いは舟の上に膝をつき、慎重につづらを下ろした。つづらの蓋を開けると、中にいる鳥が小さく身動きするのが見えた。
「ふむ、美しい。あの兄さんは、さぞかし良い夢を見たのだろうね」
鳥飼いは満足したように頷き、そっとつづらの蓋を閉じた。眼をつぶり、耳をすます。そうして、声にならない誰かの声を聞いている。
「誰かがまた、呼んでいる」
ゆるゆると瞼を上げ、ふと、笑みをこぼした。
「お前、今度はどんな夢を喰うのだろうね」
鳥飼いは歌うように声をはずませて囁き、つづらを背負って立ち上がる。
鳥飼いが滑るように川面を渡っていくのを、灯り持ちの男は静かに見送った。
鳥が見た夢