猫の死に捧ぐ

マツダシバコ

 「猫の死に捧ぐ」

 僕は旅の途上にいる。
 まさか自分がこんなに長い旅に出るとは想像もしていなかった。
 いや、実際の僕はまだ旅に出ていない。
 1日の大半を部屋の中でぼんやりと過ごしている。
 それでも僕の魂はすでに遥か遠くの地を漂っている。
 そこは本当に実在する場所なのか否かわからない。
 恋人はいつの間にか僕の前から消えてしまった。
 でも、いつの日かまた何もなかったように僕の元に帰ってくるのかもしれない。
 そう、すべてはあやふやの元に成り立っている。
 「死」と「生」ですらも。
 ある死をもって、僕は生を意識した。
 死と生は、川のあちら側とこちら側のようなものだ。
 全く違うもののようでいて、実はそれほど違わない。
 事実、僕らは生きながらにして、死んでもいる。
 それは僕の中で毎日、数千億個もの細胞が死んでは生まれることを意味してもいいし、すでに生き終わった過去のことを死と表現してもいい。
 普通のことだ。
 また当時の僕はこういう言い方もできた。
 僕は生きてていても死んでいてもいいような人間だった。
 実は今だってそうだ。僕は何も変わっていない。
 僕はやる気がない人間だし、できれば楽して生きていきたいと思っている。
 ただ、以前の僕と違うのは、それを許容しているという点だ。
 一日中、部屋に寝転がって過ごしたとしても、それは間違いなく僕の人生だ。
 たぶん、それで十分なのだ。

 川のあちら側に渡る前、(実際僕は本当に川のあちら側に渡って、その世界を見てきたのか定かではないけれど)その頃、僕がもっとも恐れていたこと。
 それは猫の死だ。
 その猫は僕の飼い猫ではない。
 特別かわいがっていたというわけでもない。
 撫でたことさえなかった。
 でも、その猫に僕の目のつくところで死なれると、きっと自分のダメ人間ぶりが露呈するのだろうなという予感はあった。
 僕はそのことを恐れていたのだ。
 
 猫は僕が住むマンションの隣の駐車場に住み着いている野良猫だった。
 何年かそのマンションに住む間に、猫は2匹になったり3匹になったり、別の猫と入れ替わったりしたけれど、白黒のブチ猫はいつもそこにいた。
 駐車場には朝と夕方にネコおばさんがやってきて、猫たちに食事を与えた。
 ネコおばさんがやってくると、猫たちはおばさんの足にすり寄っていく。
 けれど、餌をあげない僕が近づいていくと、猫たちは疑わしい目を向けて僕から遠のいていく。
 猫は何年経っても、少しも僕に懐かなかった。
 たまに道ですれ違っても、大きく回り込んで僕をよけていった。
 それでも僕は猫たちがいないよりいる方がいいと思っていた。
 僕は懐いても懐かなくても猫という動物が好きなのだ。
 だから僕は猫を見かけるたびに「やあ」とか「おい」とか彼らに声をかけた。
 僕はいつも無意識に猫の姿を視界にとらえていた。
 だからこそ、その変化に気づいたのだ。
 ある時から白黒のブチ猫は頻繁に水を飲むようになった。
 猫たちのいる駐車場には造園屋の軽トラックが停まっていて、泥だらけになったタイヤを洗うために水を張った大きなバケツが置いてあった。
 ブチ猫は洗車用のブラシが入ったそのバケツに頭を突っ込んで、チロチロと水を飲んでいた。
 僕はそれまでそこにバケツがあることに気づかなかった。
 つまり数年間、猫たちを眺めてきたが、水を飲んでいる姿なんて一度も見かけたことがなかったのだ。
 なのにここ数日は、ブチ猫を見かけるたびに水を飲んでいる。
 僕はそこに不穏な空気を感じた。
 ブチ猫はおそらく具合が悪いのだ。
 猫は生まれつき腎臓が弱く、年を取ると腎不全になる猫が多いのだと聞いたことがある。
 ブチ猫は毛がごわごわとし、動きも緩慢でずいぶん古びているように見えた。
 僕はブチ猫を見かけるたびに、憂鬱な気持ちになった。
 ある朝、僕が家を出て駐車場の前を通りかかると、バケツの前にブチ猫が倒れている。
 そうしたらどうだろう。
 僕には、ブチ猫に駆け寄って迷わず動物病院に連れて行くという自信はなかった。
 迷った末というのも難しいだろう。
 動物病院は料金が高いというし、上司に遅刻する理由も考えなくてはいけない。
 僕は近所の猫が病気なので遅刻するなんて言い訳をする気は毛頭無いのだ。
 それに死にかけの猫を触るなんて、僕にそんなことができるのだろうか。
 僕は見ないふりをして会社に行ってしまうかもしれない。
 仕事から戻ったときに猫が死んでいたら、僕は猫を見殺しにした自分を責め、ダメ人間のレッテルを自らに貼り付け窒息死することになるだろう。
 そのことを思うと気が重くなるのだ。
 願わくば、、と僕は思う。
 ネコおばさんが最後まで責任をもって猫を病院に連れて行けばいい。
 もしくは猫は猫らしく人知れず静かに息絶えてほしい。
 それがダメなら、僕が気づいた時にはすでに死体であってほしい。
 そうすれば僕は良心を痛めつけることなく保健所に電話をすることができるから。

 そんなことに気を揉みながら1ヶ月を過ごす間に、ブチ猫は本当に姿を消してしまった。
 いつの間にか他の猫たちも姿を見せなくなった。
 猫が先かおばさんが先かわからないけれど、とにかくネコおばさんも来なくなった。
 そして最後には造園屋の軽トラックも水を張ったバケツも消えた。
 僕は空っぽになった駐車場を、ブロック塀の囲いにもたれて眺めた。
 まるで元から何もなかったみたいだった。
 カラスがどこからか飛んできて、僕の隣にとまった。
 そのことに僕は何かの意味を感じ取るべきなのか迷ったが、迷っているうちにカラスはどこかに飛んでいってしまった。
 そして僕には猫の分が差し引かれた日常が戻った。

休日に彼女が訪ねてきた。
 僕は透明のガラス製のカップで、ピンク色に染まるお茶を入れてあげた。
 そういうことを彼女が喜ぶと思ったからだ。
 「きれいね」彼女は言った。
 彼女はベランダから外を眺めていた。
 猫が通りかかるのを待っているのかもしれないと思い、猫が消えてしまった話をしようかと思ったが、猫を病院に連れて行かなかったことを責められる気がして、結局猫の話はしなかった。
 夕方になるとサンダルを履いて外に出て、商店街のはずれにある中華屋で夕食をとった。
 それから二人で部屋に戻った。
 僕が後ろから彼女の腰に両手を当てると、振り返った彼女の吐息はすでに熱く湿っていて、僕らはそのままソファに倒れこんでSEXをした。
 「窓が開けっ放しだったのね」彼女が笑った。
 「いいさ」僕も笑った。
 それから彼女は服を着て、僕らは再びさっき食事をした中華屋を通り過ぎて駅に向かった。
 「またいつか」彼女は改札で手を振った。
 「またいつか」僕も手を上げてそれに応えた。
 彼女は束縛されない自由な付き合い方が好きなのだと言った。
 僕もそれで異存はなかった。

 僕が猫の死骸を見つけたのは、ブチ猫とそれを取り巻く一連の世界が消えてからしばらく経ってからのことだった。
 僕はその死体を近所の河原の草はらで見つけた。
 夏だったし、死んでから数日経っているのだろう。
 死体はかなり痛んでいた。
 わんわんと黒い雲のように飛び交うハエの群れの下に白と黒の毛皮が見えた。
 それで僕はあのブチ猫だと思った。
 僕はかがんで死体を覗き込んだ。
 むき出しになった犬歯の歯茎にはぎっしりとウジがわいていた。
 目は信じられないほど吊り上がり、干物のように乾いた瞳が宙を睨みつけていた。
 壮絶な死に様にも関わらず、何故だか僕はそれほど怖さを感じなかった。
 辺りには誰もいなかった。
 草原と猫の死体と僕だけだった。
 保健所に届けることも考えたが、僕は結局そうしなかった。
 誰かが不快に思えば、その誰かがそうすると思ったからだ。
 
 その日を境に僕はほぼ毎日、出勤前に猫の死体を見にいった。
 僕は死体の傍らに腰をおろし、草の上でしばらくの時間を過ごした。
 小さな死体にも関わらず、ハエの群れは数日経っても大きさを増すばかりだった。
 むっとするほどの草いきれ、真っ青な空。
 この河原にはサイクリングコースもあり、早朝からジョギングや犬の散歩の人たちで行き交うはずなのに、あいかわらず辺りには誰もいなかった。
 
 最初、僕はそれをハエの群れの中の1匹の黒い点として認識していた。
 しかしその点はみるみるうちに大きくなって、人間の形となって僕に近づいてきた。
 それは小さな子どもだった。
 「これはなに?」と子どもが言うのと、「どこから来たの?」と僕が尋ねたのはほぼ同時だった。
 「あっち」子どもは適当な方を指差すと「ねえ、これはなに?」と僕を見上げた。
 「猫だよ」僕は言った。
 「ふうん」子どもは死体を覗き込んだ。「ずいぶんと大きいんだね」
 「猫はこれで、これはハエだよ」僕は言った。
 「ふうん。僕には違いがわからないな」子どもが言った。
 僕は通勤用のカバンの中から昼食のパンが入った白いビニール袋を取り出すと、ハエの群衆の上にかぶせた。
 驚いたことに、ビニール袋はハエの羽の力で宙に浮かんだ。
 「この袋に入っている部分がハエだよ」僕はそれを指差して言った。
 「アハハ、まるで風せんみたいだ」子どもはよろこんでハエ風せんを弾いた。「あ、これがネコだね。ネコは風せんが好きなんだね」
 「いや、これは死体だよ」
 けれど、死体のはずの猫は、子どもと一緒にハエ風船にじゃれているのだ。
 「ふうん。これはシタイなの?」
 「ネコの死体さ」
 「ネコのシタイ」
 「死んでいるネコ。ネコノシタイ」
 僕らがそう言うと、猫の死体は静かに草の上に横たわった。
 そして再びハエの群衆が死体にたかった。
 「さて、僕はもう行かないと」僕はカバンを持って立ち上がった。
 「どこにいくの?」
 「会社だよ。さようなら」
 僕は子どもと別れた。
 
 次の日には雨が降っていたのに、子どもは傘をさしていなかった。
 「今日はハエはいない。ネコはいる」子どもは言った。
 「雨だからね」
 「雨だとどうしてハエはいないの?」
 「羽が濡れて飛べないから」
 僕はすごく面倒臭かったけれど、子どもを傘の下に入れた。
 「ネコはぬれてもいいの?」
 「死体だからね」
 「ふうん」
 僕はあきらめて子どもを彼の家に送り届けることにした。
 そして結局、自分の家に着いた。
 子どもはいつの間にかいなくなっていた。
 僕は会社を休むことにして、部屋に寝転がった。
 雨は降り続いていた。

 猫とハエと子どもはいつの間にかワンセットになっていた。 
 「どうして猫の死体なんて見に来るんだい?」僕は子どもに尋ねた。
 「あなたこそ」
 「僕は何というか、最後まで見届けるべきではないかという気がするんだ」
 「あなたが殺したから?」
 僕はドキリとして子どもを見た。
 「僕は殺してない!」
 僕が思わず大きな声を出すと、子供がきょとんとして僕の顔を見た。
 「でも、僕を見捨てただろう?」
 「き、君は猫だったの?」僕は息を飲んだ。
 「僕はネコじゃない。ネコはそっち」
 子どもが指差す方を見ると、白と黒のブチ猫がすっと背筋を立てて座っていた。
 「死んだんじゃなかったのか」僕は猫に向かって言った。
 「死んださ。君のいる世界ではね」
 「ここは、、どこなんだ?」
 見渡す限りの草原がザザッと風に揺れて、僕は急に不安になった。
 「と、いうことは、もしかして君も死んでいるの?」
 「わからない。僕は僕だよ」子どもが言った。
 「そんなことより、僕がどうやって死んでいったのか見てみたいだろう?」
 「見たくない!」
 そうはっきり言ったのに猫の話は進んでいった。
 「僕は死期を感じて、ヨロヨロとこの草原にたどり着くと一人で静かに死んでいった、、」
 猫がそう言うと、僕の頭の中でそのストーリーがリアルに展開された。
 孤独に健気に死んでいった猫に対して、僕の中に悲しみと畏敬の念がこみ上げてきた。
 「僕はある男に嫌というほど蹴りつけられて死に至った。内臓はぐちゃぐちゃになった、、」
 そこには頭の薄くなった中年の男がスーツ姿で立っていた。
 急ぎ足の男の足元にたまたま道を横切ろうとした病んだ猫が通りかかった。
 歩行を邪魔されたことに腹を立てた男は、先の尖った革靴で猫の腹を蹴り上げた。
 それでも怒りは収まらず、男はまるでサッカーボールのように猫の体を弄んだ。 
 極めつけに猫の頭を踏み潰した。
 今度は僕の中に煮えたぎるような激しい怒りが込み上げてきた。
 あの男だ!と僕は思った。
 あの男は僕の住むマンションのフェンスの鍵を蹴破って不法侵入してくるあの男に決まっていた。
 僕は殺意を覚え、想像のなかの中年男の喉元へ掴みかかろうとした。
 その時、再び声がした。
「しかし、本当は、、、」
 その声に振り返ると、猫は美しい光に包まれ微笑んでいた。
 「本当は、、僕は幸せな死に方をした。ネコおばさんが僕を病院に連れていってくれた。ネコおばさんが僕にごちそうを食べさせてくれた。猫おばさんが僕を看取ってくれた。ネコおばさんは僕のために涙を流してくれた…」
 途端に僕は心が洗われたような気持ちになった。
 胸に温かな光が差し込んで幸せな気持ちになった。
 「やっぱり、ネコおばさんが最後まで面倒をみてくれたんだ。僕の思った通りだ。よかったなあ」
 「それに比べて、君は僕を見殺しにした。ずっと友だちだと思っていたのに」
 猫が恨めしそうに僕を見ていた。
 子どもも責めるような目を僕に向けていた。
 「違うんだ…」
 でも、言い訳の余地はない。
 僕は確かに猫を見殺しにするような男なのだ。
 僕は自分に絶望して、その場に膝を落とした。
 「さて、それはさておき、真実は、ただ僕は死んだということだけなのさ」
 そう言って、猫が草の上に横たわると、再びハエは雨雲のように集まってきた。

 夜中と言ってもいい早朝に突然やってきた彼女はずっと不機嫌だった。
 きっと小雨のせいだろう。
 彼女はサッシのガラスにもたれてベランダの向こうをぼんやりと眺めていた。
 「ねえ、あの人たちは何をしているのかしら?」
 僕は首を伸ばして彼女の目線の先を見た。
 「ああ、あの人たちは不法侵入をしているんだよ」
 僕は降り続く雨つぶのように冷たい気持ちで言った。
 「どうして?」
 「ここを通るのが駅までの近道だからさ」
 「急いでいるのね」
 「さあ、どうなんだろうね」
 僕は彼らのことが嫌いだった。
 当たり前だ。いい年をした大人たちが近道をするために、他人のマンションの敷地を横切っていくなんて。
 以前、マンションの中庭に抜ける通路には、鉄格子の扉がありそこに厳重な鍵がかかっていた。
 しかし、鍵は壊された。
 何度、オーナーが取り付け直しても鍵は必ず壊される。
 そのうち鉄の扉は針金でがんじがらめになった。
 「それで?どうなったの?」
 「城門は破られた」
 ある日、鉄の扉は錠前を針金にがんじがらめにされたまま、ヒンジを蹴破られ朽ち果てていた。
 「あいつがやったのさ」
 僕は頭の薄い中年男の後ろ姿を思い出していた。
 「あなたはその男を責めることを正義だと思ってるのね?」
 「当然じゃないか。これは違法行為だ。どうせその男だって、民衆のために障壁を取っ払ってやった正義の味方ぐらいに自分のことを思っているのさ」
 「ねえ、すごいわ。列ができている。200人、いえ500人はいるかもしれないわ」
 見るとマンションの中庭を善良な市民たちが列をなして歩いている。
 「カツカツカツカツカツカツ、来る日も来る日もこの靴音にうんざりなんだ。早朝5時から始まって、僕が出社するまでの2時間半この音は繰り返される。僕は早くに目が覚めてしまうし、ノイローゼ一歩手前さ」
 「そんな奴ら殺してやればいいのよ」 
 「えっ?」
 「法を犯した奴らなんて」
 僕は猟銃のような長い銃を構えて、不法侵入する奴らを片っぱしから撃ち殺していった。
 うるさい靴音を立てる足を撃ち、ずるいことを考える頭を撃ち抜いた。
 「どうしてこんなにもたくさんの人々が、罪を犯してまでここを通りたがるのかしら?」
 「それは、ただ…、彼らは遅刻をしたくないだけなんだ」
 僕がそう言うと彼女は笑い転げた。
 「ところで、あなたは?あなたはまだ出かけなくていいの?」
 「このタイミングで僕が慌てて出て行ったら、君はきっと僕のことも大声で笑うんだろうね」
 「だったら、ここにとどまる?」
 「いや、ただ僕が言っておきたいのは、みんな必死なんだということなんだ」
 僕が靴音を立てて中庭を通り過ぎると、彼女の笑い声が聞こえてきた。
 
 次の日、原はらは戦場のようになっていた。
 「どうしたんだ。この死体の山は」
 僕は草の上に転がる果てしのない死体の数々を見渡した。
 「どうしたもこうしたも君が殺したんじゃないか」
 猫が呆れたように言った。
 「まさか。あれは僕が頭の中で想像しただけのことであって、つまり妄想だ」
 「でも、覚えがあるんだろ?今度こそ、言い逃れはできないぞ」
 猫と子どもは腕組みをして僕をじっと見ていた。何だか線が引かれたような、遠巻きな視線だった。
 「僕は悪くない。悪いのはこいつらだ」
 僕は山積みの死体を指差して叫んだ。
 「不法侵入したから?」
 「そんなことで殺されちゃうの?」
 猫と子どもは口々に言って、さらに僕から距離をおいた。
 僕は非常な孤独を感じた。
 「やあ、穴を掘りはじめたよ」子どもが言った。
 見ると、死体たちがむっくりと立ち上がって地面に穴を掘っているのだ。
 「墓穴を掘っているんだな。自業自得の。ははは」
 僕は意地悪に言った。
 「秘密を埋めるための穴を掘っているんだ。みんな自分を恥じているのさ」
 猫が言った。
 彼らは秘密を埋め終わるとバタバタと地面に倒れ込み、そしてやがて雨雲のようなハエの集団に包まれた。
 「おにいちゃん、あれをやってよ」
 子どもが僕の足をゆすってせがんだ。
 「ちぇ、こんなときばっかり、おにいちゃんだなんて」
 僕はしぶしぶとズボンのポケットからビニール袋をとりだし、ハエにかぶせた。
 草原の上で、あっちにもこっちも白い風せんが宙に浮かんだ。

 週明けの月曜日に会社に行ってみると、突然、僕に直属の上司がついた。
 僕はもう何年もこの会社に勤めていたけれど、見たこともない男だった。
 挨拶のつもりなのか、上司だという男は紙コップに入ったコーヒーを僕の机の上に置いた。
 「どうも」
 僕はそう言って、紙コップに口をつけた。
 そのコーヒーは思わず吹き出してしまうほど甘かった。
 「同じ金額のコーヒーを買うのに砂糖を入れない奴の気が知れない。そうだろ?」
 上司はそう言ってニヤリと笑った。
 猫だ、僕は直感的にそう思った。
 
 上司は毎日、仕事をしているようなしていないような感じで、のらりくらりと時間を過ごしていた。
 そして適当なことを言うのだ。
 「はっ、その発注の件でしたら、私の部下が完璧に進めております。ご心配なく」
 「僕はそんな注文は受けていませんよ」
 僕は電話を切った上司に言った。
 「そうだったかな。確か君に頼んだ気がするけれど。ところでどんな注文だったんだろう。ま、発注なんてしなくったって大したことじゃないさ」
 上司はそのままうやむやにした。
 案の定、その注文が通っていなかったことが大事件になった。
 まず、イベントの前日になってクライアントから商品が届いていない旨の連絡が入った。
 しかもそれは得意先が主催する大きなイベントで配るはずの記念品で、納期の変更は効かなかった。
 僕は一日中駆けずり回り、代わりになる品をかき集めた。
 それから先方のところへ行き平謝りをして、イベントに間にあわせるために、袋詰めだのラベル貼りだの名簿のすり合わせだのの準備を徹夜行った。
 イベントが終われば大目玉を食うために部長の席に向かった。
 報告書と始末書を作成し、もちろん顧客から契約を切られないために、今回のミスを水に流してもらうための新たな提案書も作成しなければならなかった。
 本来、上司がすべき仕事のために、僕は一週間で一年分も働いたような気分だった。
 その上司はといえば、くだらないダジャレを言ったり、質問をしたりして僕にちょっかいを出すぐらいのことしかしないのだ。
 猫なんてそんなものだ。
 僕はそれらをすべて黙殺して作業に打ち込んだ。
 「な、大したことじゃなかっただろ?」
 すべてが済んだ後で上司は涼しい顔で言った。
 きっと、この人の大したこととは、一家離散とか頭を斧でかち割られるとか、そういうことなのだ。
 「そういえば、この間の質問ですけど」
 僕は死ぬほど砂糖を入れたコーヒーの紙コップを、上司の机の上に置いて言った。
 「人生最後の食事が選べるとしたら?ってあれです。僕はオムライスを選ぶと思います。亡き母がよく作ってくれたんです。僕の大好物でした。あなたは?」
 上司は鼻先にしわを寄せて、コーヒーをすすった。
 「何が食べたいかなんて、その時になってみないとわからないな」
 
 会社の仕事は上司に任せて、僕は会社を辞めることにした。
 「すごいじゃん」
 そのことを話すと子どもは言った。
 「まあね」
 僕は言った。
 「それでどうするの?」
 「旅にでも出ることにするよ。何と言うか、今まで僕は見る世界が狭すぎていたような気がするんだ」
 「ふうん」子どもは小さくなってひざを抱えた。「もう、ここには来ないの?」
 「そうなるね」僕は言った。
 子どもは猫の亡骸をじっと見つめて口をつぐんだ。
 僕が子どもの頭に手をのせると、子どもはそれを振り払った。
 「まあ、また来るかもしれないよ。そのうちね」僕は言った。
 「うそだ!」
 僕は子どもの隣にしゃがんでひざを抱えた。
 言えるべきことは何もなかった。
 「ねえ、じゃあ最後にあれをやってよ。ハエがパァーって風せんになるやつ」
 子どもが明るく振舞って両手を広げた。
 「残念だけど、できないな。だってハエはもう一匹もいないもの」
 いつの間にか猫の死体は骨と毛皮だけになっていた。
 僕は申し訳ない気持ちになった。
 子どもはくちびるを尖らせて猫の毛皮をヒュウと吹いた。
 白黒の毛がまるでタンポポの綿ぼうしのように舞い上がって風にのってやがて消えた。
 「あなたもこんな風に旅に出るんだね」
 「まあね」
 僕は地面に残された猫の骨を拾い上げた。
 そしてそれを木琴のように紐でつなぎ合わせた。
 指で弾くとそれはとても愉快ないい音がした。
 子どもは僕が奏でる音に合わせてぴょんぴょんと踊って笑った。
 「君にあげる」
 紐を通して首にかけてあげると、それはまるで子どもの新しい肋骨のような具合だった。
 「じゃあ、僕はもう行くからね」
 そう言うと子供はくるりと背中を向けた。
 僕はぴょんぴょんと踊りながら小さくなっていく子どもの後ろ姿を見送った。
 子どもは途中で立ち止まって振り返ると、再び僕に向かって走ってきた。
 「どうしたの?」
 「あのさ、これを持っているといいよ」
 子どもは首から下げた骨の端っこを指でちぎると僕に差し出した。
 「どうして?お守り?」
 「なんて言うかさ、猫のことを忘れないように」
 「わかった。ありがとう」
 僕は骨のかけらを受け取るとズボンのポケットにしまった。
 そして、僕らは別れた。
 風が吹いて草はらを吹き消していった。
 僕は、子供の頃に母が言っていたことを思い出していた。
 「あなたの胸の骨はね、まるで誰かにちぎられたみたいに、片方だけ生まれつき少し短いのよ」

猫の死に捧ぐ

猫の死に捧ぐ

猫は死んだ。 猫の死から僕の物語ははじまった。 生きながらにして死んでいるような僕と、死にながらにしてどんどん存在感を大きくなる猫。 川のあちら側は僕にとってどんな世界なのか?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-19

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