黒夜叉

香月 鐘二郎

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 馬場広海が姫崎鈴音に初めて会ったのはその年の8月、東東京高校総体アマチュアレスリング大会であった。
 広海は高校アマレス界のホープである。
 身長176センチメートル。体重72キログラム。女子アマレス界では希有の存在であった。全国中学選手権の優勝者であり、高校1年の時には全国でベスト8まで行っている。現在2年生でありながら、早くも将来の女子レスリング界を背負って立つものと期待されていたのである。
 秋季の全国大会にむけての予選会であるこの大会においても優勝候補に挙げられている。
 この日も午前中の1回戦・2回戦を勝ち上がり、午後の準決勝・決勝に向けてしばしの休息を取ろうと会場の外へでた。
 もちろん食事は採らない。栄養ゼリーを少々口に含んだだけだ。後はスポーツドリンクを少し飲んだ。
 体育館の周囲はこんもりとした雑木林に囲まれている。真夏の厳しさを増す日差しを避けるように、広海の脚は木立の奥へと向かった。試合までにはまだ1時間以上はある。それまでに精神集中が必要だった。
「おや」
 広海の足が止まった。
 体育館の裏手、木立の奥に小さな道具小屋があるが、そちらのほうに人目を避けるようにして歩いていく、二人連れの人影を見かけたからだ。
 そのうちのひとりは、長い黒髪を肩に垂らした女子学生だった。金髪頭の柄の悪そうな男が、女学生の腕を引っ張るようにして道具小屋のほうに進んでいる。
「なにをしているんだ?」
 広海はちょっと不安になってふたりの後を追った。
 女学生はセーラー服の感じから高校生とも思われる。男のほうは高校生ではなさそうだ。不良大学生か、あるいは街のチンピラといった雰囲気だった。
「やばいかも知れないな」
 広海がそう思ったとき、男は女学生を小屋の陰に連れ込んだ。広海は建物の反対側に回り、木立の陰からふたりの様子を伺う。
 女子高生は道具小屋の壁にもたれて、男の顔を見詰めている。一方の男のほうは、腰をかがめて下から舐めるように彼女の顔を眺めている。
 というのも、その女子高生が女の広海がみてもハッとするような美少女だったからだ。
 肩にかかる艶やかな黒髪。色白の小顔。目力の強い瞳。形のいい唇。・・・
 なるほど、いかがわしい男が夢中になるのも分からなくはない。
 事実、男は下卑た笑みを浮かべて、なにやら卑猥なセリフを吐いているらしい。
 こんな娘がアマレスの大会を観に来るというのも意外だが、それに目をつけたヤンキー男が彼女を暴行しようと、こんな林の中の人目につかない場所に連れ込んだというわけか。
 何となく事情は理解できたが、はてどうしたものか。高校アマレス界トップクラスの自分なら、こんなヤンキーのひとりやふたり片付けるのは問題ないが、いまは大会の最中だ。下手に手を出して騒ぎになったら大変だ。出場資格すらどうなるかわからない。やはりここは、大会の関係者に知らせるべきか・・・
 そこまで考えて広海は少しためらった。追い詰められたはずの少女が、少しも怖がっていないというか、不安がってもいないからだ。むしろ微かな笑みを浮かべて楽しそうにしている。
「ふたりは知り合いか?」
 広海は木立のなかを少しふたりのほうに近づいた。すると二人の会話が聴こえてくる。
「ねえねえ。キミって可愛いね。おにいさん、その顔だけでイっちゃいそうだよ」
 やはり暴行目的のようだ。片手をズボンのポケットに突っ込んで、自らをシゴいているらしい。
 そんな顔を背けたくなるシーンを目前にしても、少女は顔色ひとつ変えない。
「なんで私が、あんたのオナニーの手伝いをしなければならないんだ」
「あんだと?」
 ビビると思っていた少女に無視されて、プライドを傷つけられたのだろう。口調が変わった。
「犯すぞ、このアマ」
「どのみち、そのつもりだろ」
 あくまでも平然としている少女に、ヤンキー男はキレた。尻のポケットからバタフライナイフを取り出すと、クルクルと手の中で回す。威嚇のつもりだろうが、少女にはまるで通用しない。相変わらずの微笑を浮かべている。
「そんなものを振り回すと、ロクなことにはならないぞ」
「うるせえ。その綺麗な顔をキズ付けられたくなかったら服を脱げ」
「わかった。わかった」
 やばいな。仕方がない、助けるか。
 広海が木立から出ようとしたとき、美少女はセーラー服のスカートをするすると上げ始めた。女である広海がドキリとするほどの綺麗な太ももが姿を顕した。
 あまりの美しさに、ヤンキー男は我を忘れてその脚に釘付けになった。
 その瞬間、少女の細腕(かいな)が滑るように動いた。あっという間に男の懐に飛び込み、右手の人先し指と中指で男のナイフを挟み、手首を反すとナイフは男の手から少女の手にへと移っていた。
 その瞬間を広海ははっきりと視た訳ではない。彼女の脚に目を奪われて、瞳の片隅に少しだけ写っただけだ。鍛え抜いた広海の動体視力があればこそかろうじて認識できた程度で、普通の人間には気が付くことすらできないだろう。
 それほど彼女の動きは早かった。
 事実ヤンキー男は、いつの間にか消え失せたナイフを探して、辺りをキョロキョロ見回している。
「探し物は、これか?」
 少女が可笑しそうに手にしたナイフを目の前にかざしている。
「あ、俺のナイフ・・・。このアマ、いつの間に」
 手を延ばしたヤンキー男の目の前で、少女が掌を翻すとナイフは嘘のように消え失せた。
 しばし唖然としていた男は、怒りにカッと顔を赤らめた。
「このガキッ、なめやがって!」
 キレたヤンキーは至近距離からストレートをぶち込んできた。
 いけない。
 思わず広海は木立から飛び出して女子高生の前に立ち塞がった。広海と少女とでは身長に差がある。ヤンキー男のパンチは、広海の掌の中に包み込まれていた。
「なんだ? てえめェは?」
「お前こそ女の子相手になにをやっている」
 広海は殴りかかってきた男の腕を握り、背後に回り込みながらその腕を絞りあげた。
「うっ、ぎやぁあ」
 完全に肩を極められ男が情けない悲鳴をあげた。
「これに懲りたら、ふざけたマネは止めるんだな」
 散々絞り上げたあと、広海はヤンキーを開放してやった。
「お、覚えてやがれ」
 呆れるほど陳腐な捨て台詞を残して、ヤンキー男は転げるように逃げて行った。
「きみ」
 残された少女が広海に声を掛けてきた。
「馬場広海選手だな、光輪高校の」
「あ、ああ・・」
 ちょっとヤバイかな。と思った。
 そりゃ、こんな大会に来ているくらいだから、自分の顔を知っていて当然だ。
「助かった。ありがとう」
 丁寧に頭を下げる。改めて観るとやはり美少女だ。自分が男なら惚れてしまうかも知れない。
「いや。まあ、というか助ける必要もなかったけどな」
「うん?」
「いやあ、あのナイフを取り上げたやつだよ。凄い早業だったな」
 少女はちょっと強い目をした。
「視えたのか? あれが」
「まあな」
「ほう。さすがは中学チャンピオンだな。私のマジックが見破られたのは初めてだ」
「マジック?」
「私はマジッシャンだからな」
 そう言うと、少女は何もない掌を、広海のほうに開いて見せた。
「ふつう、マジックというと、トランプとかコインを使うものだが、私が使うのはちょっと違う」
 そう言いながら手首を反すと、何もなかったはずの指の間に一本のナイフが握られていた。ペーパーナイフのような細身の、両側が鋭い刃に削られた美しいナイフ。
「ほっ」
 彼女はそれを天高く放り投げた。ナイフはくるくると回転しながら宙を駆け上がり、そして落ちてくる。少女はそれをしなやかな指先で受け止める。柄の方ではなく、鋭い刃のほうをである。人差し指の上に垂直に立ったナイフは、刃先を下にして微動だもしない。
 嘘だろう? そんなことが出来るのか? 第一なんでナイフが指に刺さらない?
 もちろんそれは少女がナイフの落下速度と同じ速さで指を下方に引き降ろしたからだ。それでナイフの勢いを殺して指先に乗せたのだろう。
 理屈ではわかる。理屈ではわかるが、やれと言われて出来る技ではない。
 マジッシャンとは、かくも凄まじいものなのか。
「私は鈴音、姫崎鈴音。神代女学院2年。よろしく」
 なんだ、タメか、と広海は思った。しかし、神代にアマレス部なんてあったかな?
「ああ、私は・・・まあ、自己紹介の必要はないか」
 鈴音はクスリと笑った。ドキリとするほどあどけない笑顔だった。
「ところで、そろそろ時間ではないか?」
 そうだった、忘れていた。時計を見ると、あと10分ほどで試合が始まる。
「すまん。先に行く。・・・それから・・・」
「わかってる。このことは口外無用だな」
 広海が駆け足で去っていくのとすれ違うように、ひとりの女子高生が歩いてきた。
 金髪のショートカット。理知的な瞳に銀縁のメガネが似合う細身の少女だ。細身とはいえ、それは脂肪がないだけで、その腕にも脚にも強靭な筋肉の束が張り付いている。
 超美少女の鈴音と並ぶとそれほど目立たないが、彼女もそれなりの美形だ。どちらかというと中性的な雰囲気をまとう美少女なだけに、宝塚の男役とかコスプレーヤーとかが似合いそうだ。
「姫姐」
 となりに立った鈴音を、彼女はそう呼んだ。
「いまのあれ、光輪の馬場選手ではないですか?」
「ふふ」
 鈴音は可笑しそうに笑った。

 試合開始時間になっても馬場広海選手は会場に現れなかった。
 相手の選手はもうとっくにマットの下に待機して柔軟などを繰り返している。大会関係者らしき何人かがマットの上で円陣を組み、何やら協議をしているらしい。
 会場がザワめき始めた。
 鈴音は体育館の2階の壁に背を預けて、その様子をジッと眺めている。
「やばいことになりましたね」
 隣に立っていた金髪の少女がその耳に囁く。
 鈴音は小さく頷いてゆっくりと歩き出した。その時、マット上にいた審判長がマイクを取り上げ、その声が会場中に響き渡った。
「馬場選手棄権により新沼選手の勝ちといたします」
 会場がドッと湧いた。馬場選手の棄権を悲しむ声と、新沼選手の勝利を喜ぶ声が交錯し、体育館全体が揺れ動くような振動が伝わる。
 馬場選手の棄権の理由がなんなのかは一切説明されない。会場を埋め尽くしたファンたちにとっては、それが不満の種なのであろう。
 鈴音は人混みをかき分けて控え室のほうに向かった。金髪の少女も後に続く。
 控え室の前は多くの人たちでごった返していた。大会関係者、報道関係、野次馬的一般ファン、それに警察関係者らしき男たちも混じっている。
 中に入ろうとした鈴音たちはその制服警官の一人に呼び止められた。
「こらこら、どこへ行く? ここから先は関係者以外、立ち入り禁止だぞ」
「私は関係者だ」
 鈴音は声を張り上げた。
「被害者は私だぞ」

 選手控え室に鈴音たちは通された。
 部屋の中には私服に着替えた馬場広海の他、学校関係者、大会関係者、そして警察関係者らがいた。その中に肩を三角巾で吊った、あの金髪のヤンキー男が座っている。
 男は鈴音の顔を視ると、バツの悪そうな顔をして顔を背けた。
「どういうことかね?」
 先ほど説明した警官から事情を聴いたのだろう、私服の刑事らしい中年の男が、鈴音とヤンキーの両方の顔を見比べながら聴いた。警察はこういうことには念には念を入れるものだ。
 ふん。と鈴音は思う。
 おおかた、このヤンキー男が腹立たしさ紛れに、馬場選手に暴行されたと訴えたのだろう、その間の事情を一切無視してだ。馬場選手が黙秘したためこのような結果になったに違いない。
「私がこの人に乱暴されかかったところを、馬場選手に助けていただいたのです」
 改めて事情を説明する。
「本当かね? きみ」
 刑事がヤンキーに尋ねた。嘘をつけない激しい目つきで見詰める。
 ヤンキーは黙って下を向いた。
「私も見ました」
 鈴音の隣の金髪少女も言った。
「この人が彼女を道具小屋の裏に引き込むのを・・・」
「馬場選手はそんなことを、一言もいっていないが」
「彼女はスポーツマンですから、そのような事をいちいち口にするのは、スポーツマンシップに反すると考えたのではないですか?」
 とうとう最後まで、広海は口を開かなかった。
 結局ふたりの証言もあって広海の送検は見送られた。逆にヤンキー男のほうが暴行未遂で取り調べられることとなった。
 しかし広海の大会棄権は取り消しようがなかった。
 その日の夕方、警察署を出てくる広海を鈴音が出迎えた。
「すまなかったな、私のせいで」
 広海は鈴音を無視して歩き始めたが、彼女が追いついてくると固い声で応えた。
「君のせいではない」
「だがしかし、何故弁解しない。あれは正当防衛だろ」
「いや、最初から君を助ける気はなかった。というか、助ける必要もなかった」
 広海は立ち止まって言った。
 鈴音は周囲を見回し、近くに小さな児童公園があるのを認めると、そこのベンチに誘った。
 広海がゆっくりと話はじめる。
「あの場合、大会の関係者なり警察なりに通報するのが普通だろ。それ以前に、君があの男にどうこうされるとは考えにくい。それなのに私が飛び出したのは、君のあのマジックを観たせいだ」
「マジック?」
「ほら、奴の手からナイフを奪った早業だよ」
「ああ・・・あれか」
「あれを観たとき、正直ショックだった。同じことをやれと言われても、出来るかどうかはわからない。そう思ったとき、頭がカッとしたんだ。わたしならもっと強い。わたしならもっと凄いことができる。わたしなら・・・・。嫉妬だな。これは嫉妬なのだ」
「・・・」
「私は君を助けた訳ではない。あれはただの自己顕示に過ぎない。私のほうが君より強いという自己主張。ふん、下らない。私はスポーツマンとしては失格だ」
 そう言って広海は去って行った。
 残された鈴音にかけてやる言葉はなかった。
 それから広海がレスリング部の練習場に現れることはなかった。しかしトレーニングを休んでいるわけでもなかった。自宅近くの公園を黙々と走っている。
 1ヶ月ほど経ったある日、トレーニング中の広海の前にひとりの少女が立ち塞がった。
 金髪のショートカット。メガネの奥の理知的な瞳。スラリとした肢体を紺色のトレーニングウェアに包んでいる。彼女は、
 水咲薫。
 と名乗った。あの姫崎鈴音と同じ神代女学館の2年生だという。
 そういえばあの時、鈴音と一緒に証言してくれたのも彼女だった。ふたりは知り合いなのか。
「スパーリング相手が必要だろ?」
 彼女は言った。
「私が相手になるよ」

 広海は古ぼけた貸ビルの1階に間借りしたスポーツジムの中にいた。
 バーニング・ジム。
 スポーツジムというよりはボクシングジムといったとほうがいい。薄汚れた壁にはボクシングのグローブや縄跳びの縄。その下には様々な大きさのダンベルや鉄アレイ。天井からはサンドバックが吊り下げられているし、部屋の中央には四角いリングまでが用意されている。しかしそのリングのロープは、一般のボクシングの4本ロープではなく、プロレスなどで使用する3本ロープのものだった。
 広海はいま、そのリングの上にいる。手にはオープンフィンガーと呼ばれる指先の自由なグローブをはめさせられ、トレーニングウェアのまま上がらせられているのだ。
 どうしてこんなことになってしまったのか?
 1時間ほど前のことである。ロードワーク中の広海の前に、水咲薫と名乗る少女が立ちふさがったのだ。
 目の前に現れた少女が只者でないことは直ぐにわかった。身体にぴったりフィットしたトレーニングウェアの下に、隆々とした筋肉の束が脈打っているのが見て取れる。一部の隙も見せないシャープな身のこなしも普通でない何かを感じる。
 だからといって、いまの彼女にはどうということもない。
「間に合ってるよ」
 と言い残して去ろうとするのに、更に声を掛けられた。
「それは残念だな。鈴音も楽しみにしていたのに」
 鈴音?
「姫崎鈴音だよ。覚えているだろ?」
 言われるまでもなく、あれから1日といえども忘れたことはない。レスリングを辞めてもこうして日々トレーニングを欠かさないのはある意味、姫崎鈴音のせいといってもいい。・・・
 そこまで考えてハッとした。私は鈴音のためにトレーニングをしているのか。いつかあの姫崎鈴音と闘う日のために、なのか? 
 薫に向き直った。声が掠れている。
「姫崎がいるのか?」
「付いて来い。案内する」
 そしてここのジムに来ることになった。
 バーニング・ジム。総合格闘技の道場だ。
 姫崎鈴音はジムのベンチに腰を降ろしていた。先日と同じセーラー服、どうみても格闘技のジムに相応しい服装とは思えない。
 ジムの中に他の人間がいる気配はない。ジム自体は今日はお休みなのだろう。
「久しぶりだな。馬場広海」
 にこやかな笑みを浮かべて言った。
「どういうことだ。姫崎鈴音」
「薫から聴いたろう。君の練習相手を紹介しようというんだよ」
 広海は薫のほうを視た。
「彼女はレスリングの選手なのか?」
 広海の記憶に水咲薫という選手はいない。薫はフフと笑った。
「別に君とレスリングで闘うつもりはない。私は総合の選手だ」
「総合?」
「総合格闘技。ここは総合のトレーニングジムなんだよ。日々私はプロの総合道場であるここでトレーニングを続けている。今日は特別に借り受けたってわけさ」
「総合格闘技、か」
 その名前は聞いたことがある。プロレスや空手を母体として、蹴って良し、殴って良し、投げても締めてもいいという何でもアリの格闘技だ。
 あの姫崎鈴音が用意した選手がこの水咲薫だ。つまり彼女は水咲を使って、私の実力を計るつもりなのか。
 即ちそれは、この総合の選手より自分のほうが強いということか。
 広海の身体が熱くなった。メラメラと闘志が沸いてくる。
 いいだろう。姫崎鈴音、必ず貴様を引きずり出す。
「わかった、やろう。しかし彼女と私とではウェートにハンデがありすぎる」
 広海の体重が72キロ。それに対する薫はわずか60キロあまり。これでは体格に差がありすぎる。
「私は別にかまわないよ」
 薫は言った。
「いずれにしても君はレスリングの技しか使えない。私は総合の選手だから、パンチでもキックでも使わせてもらう。それでどうだ?」
「わかった。で、ルールは?」
「目を突くのと噛み付く以外はノールールだ。勝敗はノックアウトかギブアップ。それから、レフリーなんだが・・・」
 薫が鈴音のほうを視る。鈴音はキョロキョロと左右を見渡してから自分を指さした。
「わかった。私がやろう。なあに、ヤバくなったら止めりゃいいんだろ」
 そしてふたりはリングの人となったのだ。

 妙に場違いのセーラー服の鈴音を挟んで、お互いにヘットギアとオープンフィンガーグローブを付けた広海と薫が向き合っている。
 広海は上体を屈め、両手の脇を締めタックルのみを狙っている。総合格闘技がどのような格闘技か知らない広海には、薫の闘い方が想像できない。しかし体格的には圧倒的なアドバンテージがある。
 そもそも格闘技とは体格と体格との闘いなのだ。同じ競技の同じ技量の選手どうしであれば、体重の重いほうが勝つのに決まっている。だから競技としての格闘技には体重によるクラス分けが必ずある。それはレスリングであれ、ボクシングであれ、果ては空手であれ、柔道であれみな同じだ。
 総合格闘技だってそうだろう。
 だから体格的に差のある自分は圧倒的に有利だ。例え一発や二発いいのを入れられても、タックルを決めて倒してしまえばそれで終わりだ。あとは脚でも腕でも首でも、好きなところを極めてやればいい。
 とにかくタックルだ。あのしなやかな脚を掴んで・・・
「はじめ!」
 鈴音の声と共に広海はダッシュした。何も考えず薫の脚に向かって思い切りダイブした。
 その瞬間、視界が真っ暗になり、鼻の奥がツンと熱くなった。正面から薫の膝がぶつかってきたのだ。
 何が起こったのか理解不能だった。わからないなりに、彼女は必死で腕を延ばした。とにかく脚を。・・・
 その両頬に凄まじい衝撃が駆け抜ける。それも一発だけではなく、何発も何発も何発も・・・まるで巨大な扇風機の中に頭を突っこんだようだ。それでも広海は下がらない。半分意識を持って行かれながら、前へ、前へと足を運ぶ。
 広海の腕が何かを掴んだ。細くて長くて、鋼鉄のムチのようにしなやかなもの。
 水咲薫の右脚だった。
 それを掴むや否や、広海は思い切りそれを引き寄せた。後頭部と顎先に同時に衝撃が走った。頭の奥に火花が散った。
 広海は薫の右膝を抱え、全体重を浴びせたまま気を失っていた。
 薫はその身体の下からようやく脚を引き抜いたところだった。
「あぶなかったな、薫」
 鈴音が声をかけた。心なしか嬉しそうだ。
「姫姐。ちゃんとジャッチングして下さいよ。もう少しで彼女を、再起不能にしてしまうところだったじゃないですか」
「いや。あんな凄い闘い、止められるわけがないだろ。それに彼女はあの程度で潰れるようなタマじゃないよ」
「確かに」
 キッと目を見開いたまま意識を失っている広海を見下ろして、薫はため息を吐いた。
「凄いやつだった。まさに怪物だな」

 それから広海は度々、神宮前にあるバーニング・ジムに顔をだした。
 別に総合の選手になるつもりはない。しかしレスリングを止めた彼女にとって、総合の選手たちと汗を流すことや、なによりあの水咲薫とのスパーリングが楽しくてならなかった。
 その格闘道場は薫の関係者が経営しているらしく、彼女の友達らしい様々な人間が集まっていた。
 その中で最も変わっているのは、黒い革のマスクをいつもしている小柄な少女だった。彼女は黒い学生マントを翻し、いつも「リカ」と呼ばれているおかっぱ頭の少女を連れている。
 もちろん格闘技とは無縁なのだろう。彼女はいつも薫に寄り添い、3人で何やら話し込むことが多い。もっとも彼女自身はあくまで無口で、いつも隣のリカが代わって話を聴いている。
 鈴音も時々やってきては、奥のソファに座って文庫本を読んでいる。いつかは彼女とも、とは思うのだが、どう見ても格闘技とは縁のなさそうな彼女にスパーリングを申し込む訳にもいかない。
 鈴音は不思議な少女だった。場違いな格好で、いつもジムの片隅で本を読んでいるだけだが、不思議な存在感があった。あの水咲薫がひと目もふた目も置いているだけではなく、はるか年上の練習生たちにも慕われているらしい。
 彼女自身は寡黙で、みんながリング上に集まってワイワイやっているのを、少し離れた場所からにこにこ眺めているだけだが、自然と人々の心を捉えリーダーシップをとるカリスマ性のようなものが感じられる。
 何よりも広海自身が鈴音のカリスマ性に惹かれつつあった。
「なあ、広海。お前は本当にレスリングを辞めるつもりなのか?」
 あるとき薫が言った。
「ああ、レスリングに関わらず、私はもはやスポーツマンではないからな」
「例の事件のことなら、それは違うと私は思うぞ」
「わかっている。別にそれにこだわっている訳じゃない」
 それ以上は説明する気にもなれなかった。

 そうこうしているうちに事件が起こった。
 その日、いつものようにジムに顔をだした広海は、ジム内の雰囲気がいつもと違っていることに気がついた。一般の練習は夜からなので、今は一般の練習生はいない。
 鈴音と薫がリングの前に立っている。その前には3人の女子高生が、身体を震わせて縮こまっている。誰も彼もが傷つき、泥に汚れている。制服の袖は破られ、華奢な肩が覗いている。
 あれは渋谷二高の制服だな、と思った。
「何があった?」
 広海は薫の腕を引っ張った。
「襲われたらしい。グリーンジャップの連中だよ」
 グリーンジャップというのは、最近渋谷の街角で頭角を表してきたカラーギャングである。もとは渋谷の街を闊歩するチーマーやフリーターだったが、いつしか緑色のメンバーカラーを身につけて好き放題をやっている。
 その連中に襲われ、暴行されたということだろう。
 少女たちは身を寄せ合って泣いている。
 そこへ例の黒マスクの少女がやって来た。薫が彼女に声を掛ける。
「いちか、分かったか?」
「はい。彼らはセンター街のブラニューというライブハウスにいます。そこは今、閉店中で・・・」
 いつも彼女の傍にいる、リカという少女が代わって答えた。そこでマスクの少女の名前が、冴木いちかであることを初めて知った。
 鈴音が無言で立ち上がった。瞳に強い光が宿っている。
 いくのか?
 身体に熱いものが込み上げた。
 薫、いちか、そしてリカが揃って後についていく。広海もそれに続こうとした。
「お前は止めておけ」
 振り向きもせず鈴音が言った。
「お前はまだ、レスリングに未練がある」
「なんだって?」
「私にはわかる。お前は薫とのスパーリングの時、どんなに追い詰められてもレスリング以外の技を使おうとはしない」
「それは私がレスリング以外の技を知らないからだ」
 そういった時、覚悟は出来ていた。レスリングを捨てる覚悟を、だ。
「姫姐」
 はじめてその名で呼んだ。
「私はあんたについて行く」
「勝手にしろ」
 鈴音はフッと笑った。

 ライブハウス「ブラニュー」はセンター街から脇道に入ってすぐの所にあった。5階建ての貸ビルの地下である。
 現在では閉店していて、店内には古い椅子やテーブルや雑貨類がところ狭しと投げ捨てられている。
 その中央に捨てられた椅子やマットレスを積み上げて、数人の男たちがたむろしていた。ビールやウィスキーのボトルを回し飲みしている、7人の男たちと、その周囲に寄り添う3人の女たち。誰も彼もがTシャツやバインダーに緑の色を身につけている。
 中央に陣取った巨体の男は、ケバい化粧をしたキャバ嬢らしき女を膝に抱いて、太い腕に注射針を突き刺している。どうやらシャブをやっているらしい。
 ふと入口のほうが騒がしいのに、そのうちの一人が気づいた。頭をモヒカン刈りにしたノッポの男だ。
「おい、なんだ? うるせえぞ」
 入口には使い走りの高校生が立番をしているはずだ。
 騒ぎが収まると、暗い地下室に光が指した。入口のドアが開け放たれたのだ。
 眩い後光を浴びて、長い黒髪をなびかせた少女が降りてくるところだった。目を覆う夕日の中でその少女は、まるで天から降りてきた天使のようにみえた。
 長い髪を手ですくと、銀色の粒子が飛び散る。誰も彼もがその美貌に圧倒されて声も出ない。
 なんでこんな女がここに居るのか? そんな疑問さえ頭に浮かばないようだ。
 女は男たちの間を縫って、正面に居座る巨体の男に近づいた。
「ふ~ん」
 膝の上に座ったケバい女に顔を近づける。女はあからさまに嫌な顔をした。どうあがいても、目の前に現れた美女には勝てないと悟ったのだろう。
「ねえ」
 とてつもなく色っぽい声で鈴音は言った。
「こんなケバい女より、私のほうが何倍もいいと思わない?」
 男の顔つきが、驚愕から卑猥な表情に変わった。膝の上の女を放り出すと、鈴音の腕を取って自分のほうに引き寄せる。鈴音は当然のようにその膝に腰を下ろした。
 一同は羨望のまなざしでその光景を眺めていたので、その間に4人の女の子たちが店内に入り込み、それぞれのポジションにつくのに気付かなかった。
「いい女だな。お前は」
 ボスらしき男は涎を垂らさんばかりに、鈴音の髪を撫でている。
「ねえ。渋谷二高の生徒らをやっちゃったというのは、あなた?」
「なんで、それを?」
 さすがに少し警戒したようだ。
「うふふ。もう噂よ。私、逞しい男のひと、好きなの。ねえ、私にも同じこと、してくんない?」
 鈴音の白魚のような指が男の股間に延びた。おおっと、男が感嘆の声をあげる。
「すごい。もう固くなってるわ」
 ゆっくりとシゴき始めた。男はうっとりと目を閉じる。
「ああ、・・・たまんねえ。すげえ、女だな。おまえ・・」
 その耳元に吐息まじりに囁く。
「ねえ。彼女たちの人生を返してあげて」
 いきなり激痛が走った。鈴音が男の急所を握り潰したのだ。
「て、てめえ。な、なにしや、がんだ・・・」
 股間から広がる激痛に耐えて、男は声をあげた。スクっと立ち上がった鈴音は冷たい瞳で彼を見下ろした。
「もう、それ。いらないでしょ?」
 なんだ、てめえ。
 何してんだ。
 ブッ殺すぞ。
 騒ぎ始めた男たちの元に、周囲から彼女たちが襲いかかった。突然の出来事に、男たちは対処ができない。まるで突然の旋風に巻き込まれたようだった。
 薫の蹴りが、広海のタックルが面白いように決まる。そしてあのいちかという少女。彼女がクルクルと回転するたびに、男たちが次々と倒れていく。それはどのような格闘技、武道とも違うようだ。彼女もまた、鈴音と同じようなマジックを使うのか?
 ややあって、ライブハウスの廃墟には7人の男たちが気を失って倒れていた。
 この日を境にグリーンジャップは壊滅した。
 そしてそれは、渋谷最強のレディース「渋谷クィーンズ」誕生の瞬間でもあった。

 渋谷という街はじつに色々なことが起きる。
 特にこの街に憧れる少女たちにとっては尚更だった。彼女たちの殆どは家庭に問題を抱え、束の間の希望をこの街に求めてやってくる。しかし彼女たちの手に入れるものは、その大多数が希望ではなく絶望だった。
 街角の闇に隠れ、無垢な女の子たちの夢を食い漁るケモノ達の群れ。それらに鉄槌を下すのが、彼女たちクィーンズの役目であった。
 そういうコンセプトの元に、この街に誕生したのが「クィーンズ」だったのだ。
 彼女たちは渋谷に巣くうヤンキーたち、カラーギャングと呼ばれる半グレ集団を片端から駆逐していった。彼女たちがヤンキー軍団を退治し、女の子たちを救うたびに仲間は増えていった。行き場を失くした少女たちは、彼女たちのチームに身を置くより方法がなかったのだ。
 クィーンズの戦闘力自体はそう高くはない。彼女たちの戦闘スタイルは、まず鈴音が囮となって男共の視線を集める。その隙を突いて広海や薫が、後方から襲いかかるというものだ。
 この作戦は笑いを抑えるのに苦労するほどうまくいった。男どもはみな鈴音の美貌に見とれていて、何の疑問も持たないまま彼女たちに倒されていった。グループの名前が有名になり、ある程度の情報が行き渡った後も同じだった。
 彼らは彼らなりに用心はしているのだろうが、鈴音の肢体を目にすると誰も彼も我を忘れた。矢も盾もたまらず鈴音と結びつこうとし、彼女たちの罠にハマるのだ。
 馬鹿じゃないか。と、広海は思う。男という生物は、かくも愚かな生き物なのか。
 それでも薫の指導のもと、戦闘班の再編成が行われた。グループの中で運動部系の部活動に従事する者の中から、特に運動神経の良いものを選抜して、広海や薫の指導のもと戦闘班の強化を図ったのである。
 グループの取りまとめは薫がひとりで請け負った。いちかは彼女のアドバイザーという位置づけだった。従って戦闘班の強化は、広海の肩に一任されることになった。
 年が明け広海たちは最高学年になっていた。広海の戦闘班は彼女が鍛えた数名の戦闘員を加え、グループの戦闘力は格段にアップした。
 渋谷クィーンズの幹部連は「三巨塔」と呼ばれるが、鈴音・薫・いちかの3人を指していうこともあり、またリーダーである鈴音を外して、広海を加えた3人を三巨塔と呼ぶ人もいる。まあ、どちらも同じことであろう。
 その三巨塔を先頭にクィーンズのメンバーが渋谷のセンター街を闊歩する。その中心にいるのはいつも広海だった。
 両サイドを固めるのは薫といちかである。身長が179センチまで伸びた広海が先頭を歩くとやはり迫力が違う。街のチンピラやちんけなヤンキーたちは道を開けて、こそこそと逃げ回るしかない。
 鈴音はいつも最後尾から、あくびを噛み殺しながらついていく。時には途中で姿をくらますこともある。そんな時は大抵その場で解散である。
 広海や薫がいくら強くても、姫崎鈴音がチームのリーダーであることを疑うものは誰ひとりいない。
 いまにして思えばそれが渋谷クィーンズの最盛期だったのだろう。
 そしてその没落は意外と早くやってきた。
 ことの発端は大宮の宮前工業高校という学校の不良生徒たちが、クィーンズの下位メンバーたちを襲ったことにある。彼らはクィーンズの噂を聞き、興味半分で渋谷にやってきたのだが、もちろん鈴音をはじめとした三巨塔に瞬殺された。
 ところがその背後には池袋の金村組という反社組織が絡んでいることがわかってきた。彼らは組長の息子である金村剛一を通して、渋谷で「お香」と呼ばれる非合法ドラッグを撒き散らし、その実験と称して西脇鮎夢という女子高生らを拉致していた。
 彼女たちにその情報をもたらせたのは、「心法」という不可思議な技を使う御門将介という男であった。薫たちクィーンズは将介と共闘して、道玄坂のクラブ「マリンフォース」で金村一派と対決。彼らを一掃し人質を開放した。
 しかしそのことが金村組と渋谷最強の暴力団・一心会との抗争にまで広がり、鈴音と一緒に居た佐々木重吾という男が負傷し、警察の介入を招くことになった。
 結果、金村組は解散。クィーンズも自然消滅することとなったのだ。
 そんなことより広海が心底驚いたのは、佐々木重吾が金村組の銃で撃たれて重症を負ったときの鈴音の取り乱しようであった。
 鈴音もまた撃たれて怪我を負ったというので、みんなで病院に駆けつけた。
 そこで彼女たちが目にしたのは、手術室の扉にしがみついて泣き崩れる鈴音の姿だった。もっとも驚かせたのは、術後の容態が悪化し、緊急の輸血が必要になった時だ。輸血センターからの血液では間に合わないので、メンバーの何人かが輸血用の血液を採取することになった。
 広海も血液型が一緒だったので輸血することになったのだが、その時鈴音は彼女の手を握り、
「頼む、広海。重吾を助けてやってくれ。頼む頼む頼む」
 そう言って、泣きながら何度も何度も頭を下げたのだ。ヘタをすればその場に土下座さえしてしまいそうな勢いだった。
 広海だけではない。鈴音は輸血をするメンバーのひとりひとり、それこそどんな新入りのメンバーにすら同様に頭を下げた。
 なんなんだ、これは。一体、何なんだ。
 あの強く、気高く、美しい姫崎鈴音が、ただひとりの男のために、なんでこれほどの醜態を晒さねばならないのだ。
 広海の知っている男たちといえば、どいつもこいつも鈴音の美貌の前に我を忘れ、その足元にすがりつくことしか知らない愚かな生物ではないのか。それがどうして、こんなことになってしまうのか?
 あの鈴音にこれほどまでに自我を忘れさせてしまう、佐々木重吾とは一体何者なんだ。
 重吾があの御門将介という男の連れであることは知っている。また、将介が心法という不思議な術を使い、鈴音のナイフを退け、薫の動きを封じたという話も聴いた。またその薫の話だと、金村の放った銃弾は彼の身体を避けて通ったともいう。
 にわかには信じ難い話だが、あの薫が嘘をいうとは思えない。それはともかくとしても、途方もなくスケールの大きな男であることは何となくわかる。鈴音が惚れるとするなら、あるいは御門将介のような男なら納得がいくかも知れない。
 しかし、その連れの男というと・・・
 はっきりいって印象すらハッキリとはしない。そもそもふたりの接点はどこにあったのだ。
 しかし、この異常事態に何らかの解釈をしているのだろう人間が、少なくともふたりはいた。そのうちのひとりが水咲薫だった。
 鈴音ともっとも親交の深い彼女は、早くからこのような事態になることを予見して危惧していたようだ。しかしその理由を、とうとう最後まで彼女は話さなかった。
 もうひとりの男というのが、かくいう御門将介だった。彼は笑いながら、
「恋は盲目というからな。まあ、そういうこともあろうさ」
 といった。
 恋って? ・・・そもそもなんで鈴音が、佐々木重吾などという男に恋をしたのかがわからない。
「お前らがどこに眼をつけてんのかは知らないが、あの重吾という男はなかなかどうして大した男だぞ。何しろこの俺様が、ただひとり親友と認めた男だからな。そこに目をつけた姫姐は、まあ男を見る目があったということだな」
 さっぱりわからない。
 男とはいったい何なのだ?

 その事件の後、鈴音は病院をでてからその姿を消した。
 学校にも来なくなったし、総合のジムにも姿を見せなくなった。南青山の自宅へも行ってみたが、そこにも帰ってはいないようだった。
 文字通り神隠しにあったように姿を消した。
 1ヶ月後には退学届けが提出されていたとのことだった。ということは少なくとも鈴音の家族は、彼女の居場所を把握していることになるのか?
 鈴音が姿を消して、クィーンズの活動にも支障をきたした。そもそもクィーンズは鈴音の神格化に依存するチームである。彼女の圧倒的なカリスマ性により求心力を維持してきた。
 しかし彼女が病院でみせた醜態。それにより彼女の神格化は瓦解した。女神は地に落ち、恋に苦しむただの女に成り下がった。
 鈴音のカリスマ性は破れ、メンバーたちはひとりふたりと去っていった。
 最後まで残ったのは薫と広海だったが、薫は本格的に総合をはじめると宣言した。プロになるというのだ。
「私はもともとプロの格闘家になるのが夢だったからな」
 と彼女は広海に言った。
「どうだ、お前も私と総合をやらないか?」
「いや。レスリングにしろ総合にしろ、私はもうそういう競技に未練はない」
 そういって広海は薫の誘いを断りただひとりのクィーンズに固執した。学校を卒業した後も大学には進学せず、渋谷で水商売系のアルバイトをしながら、そこで行き場所を失くした少女たちの相談相手のような活動を続けていた。
 ときには用心棒のような仕事もしたし、少女たちを守るために自衛団のような組織を立ち上げたこともあった。
 水咲薫が水澤カヲリというリングネームで、O1レディースという格闘団体からデビューするのを、場末の飲み屋の古いテレビで知ったときには、ひとりで盃をかざしたものだった。
 それから3年が過ぎ、広海が21歳になった年、思いもかけない出会いがあった。
 それは渋谷ではなく銀座であった。
 当時、広海はバイク便のバイトをしていた。渋谷のキャバクラ店から銀座の本店に、至急の届け物があり、彼女がバイクで向かったのだ。
 届け物を済ませ、銀座6丁目あたりをバイクで走っている途中、美容院から出てくるひとりの女性に目を止めたのだ。
 恐らくどこかのクラブのホステスなのだろう。金色に染めた髪を山のように盛り上げ、紫色のパーティドレスに着飾った女だ。
「まさか、姫姐?」
 その横顔はハッとするほど美しい。そしてもちろん当時より濃いめに化粧をしているものの、それは彼女の記憶にある姫崎鈴音の面影そのものだった。時間は夜の10時過ぎ。クラブのホステスとしては出勤の時間なのだろう。
 しかしあの鈴音が、まさかクラブのホステスなんて・・・
 広海はバイクを降りて徒歩でホステスの後を追った。声をかけるべきかどうかずっと迷っている。
 人違いである可能性も、もちろんある。何より鈴音に水商売など似合わない。そんなはずはないと思う。
 しかし・・・
 見れば見るほど、あれは鈴音だった。
 迷っているうちに彼女は貸ビルの2階に上がって行った。
 クラブ「KAGERU」
 ここが彼女の職場なのか。しかしどうする? 自分が男なら堂々と入っていくという選択肢もある。だが女である自分が入っていってどうする? 
「先ほど入っていったホステスは、姫崎鈴音ですか?」
 と、尋くのか。そんなことに応えてくれるはずがない。黒服に追い出されるのがオチだろう。
 迷ったまま店の前に立ち尽くしていた。
 2時間ほどして、店の客だろうひとりの男性の腕に、ぶら下げるようにして彼女がでてきた。ひとことふたこと言葉を交わした後、バイバイと手を振る。その時一瞬、彼女と目があった。
 間違いない。あれは鈴音だ。
 彼女はすぐに目を逸らしたが、逆にそれで広海は確信した。そして待った。仕事を終えて彼女が帰るのを、だ。
 彼女が店を出たのは午前2時すぎ、店を出ると予め呼んでいたのだろうタクシーに乗り込んだ。同伴はない、彼女ひとりきりだ。有難い、もちろん広海もバイクで追う。
 タクシーは湾岸地区へ向かう。海岸線で右に折れ公園のほうへ進む。
 こんな場所に家があるのか。
 と、思ったら公園の中程で車は停まった。すると彼女は車から降りて、こちらのほうへ向かってくる。
「よう、広海」
 彼女は言った。
「久しぶりだな」
「ひ、姫姐。本当に姫姐なんですね」
 広海は早くも涙ぐんでいる。
「安心しろ、足はある」
 それからふたりは海岸線のベンチに並んで腰を降ろした。暗い海に明滅する小さな明かりは、沖を航行する貨物船の灯りなのか。小さく汽笛が聴こえてくる。
「まあ、無視して知らぬ存ぜぬを通そうとも思ったのだがな、お前が昔の仲間に通じていろいろ探索されるのも厄介だ。特に薫やいちかには知られたくないからな。それならば、お前にこうして口止めをしたほうが早い」
 鈴音は缶コーヒーを弄びながら言った。
「何故ですか。何故、知られてはまずいのですか?」
「なぜってお前、私はお前らを捨てて逃げたのだぞ。今更どんな顔で会えばいいのだ」
「そんな、誰も逃げただなんて思ってはいませんよ」
「私がそう思っているのだ」
 しばしの沈黙の後、鈴音は足元に視線を落としながら聴いた。
「みんなは元気でやっているのか? 薫は格闘の道に進んだようだな、テレビで観たよ。いちかやリカはどうしている? それからユミカは?」
「みんなバラバラです。リカは情報系の大学に通っているという噂を聞きましたが、いちかは姫姐と同じように行方不明です。ユミカはやはりまだ、回復はしていないようです」
「そうか、あいつらは色々と問題を抱えていたからな。心配はしていたのだが」
 広海にはどうしても聴きたいことがあった。
「姫姐はどうして居たんです?」
「私か? 私はアメリカに行っていた」
「アメリカですか?」
「普通に留学していたよ」
「それがなんで、銀座のホステスなんか?」
「そんなことより、広海。お前まだクィーンズを続けているのか?」
 じっと広海の顔を見詰めていた鈴音が、強い言葉でいった。
「わかりますか。もう、私ひとりになってしまいましたが」
「因果なものだな。思えばあの日、体育館の裏でお前に会わなければ、今頃はオリンピックの選手だったのかも知れないのにな」
「昔の話です・・・」
 ・・・愚かなことを。
 鈴音はなんとも言えない切なそうな顔をした。
 何となく、はぐらかされてしまった気がする。
 夜明けが近くなり、地面がシンシンと冷えてきた。そろそろ潮時だなというように鈴音が立ち上がった。
「そろそろ行くが、今日のことは皆には内緒だぞ」
「安心してください」
 広海は言った。
「私もあれ以降、みんなに会ったことはないですから」

 事件が起こったのは、それから2ヶ月ほど経ってのころである。
 年の瀬が迫りつつある寒い夜更けの路上であった。1日の仕事を終えた広海がバイクを走らせていると、ビル街の路肩でなにやら言い合う数人の人影を認めた。
 飲み屋街からはやや離れているが、駅の方向へ向かう近道らしく人通りは結構ある。しかし殆どの人間がほろ酔い気分らしく、もめている人混みをみても、それほど特別なこととは感じてはいないようだ。
 広海は少し気になってバイクを停めた。
 というのも、人影は全部で5人。女子大生らしいひとりの女性を囲んで、大きな4人の男たちが何やら笑い合っているからだ。
 女子大生は泣き出しそうな顔をして逃げ出そうとするのだが、男たちは巧みに回り込んで退路を塞ぐ。そのうちに彼らは彼女の身体を抱えるようにして1本の路地に連れ込んだ。
 嫌な予感がして、広海もあとに続いて路地のなかを覗き込んだ。
 路地の奥では男たちが女子大生にまとわりつき、服を脱がそうとしているところだった。
 広海の頭にカッと血が登った。
 こういう場面には過去何度も出会ったことがあるが、その度に胸に込み上げてくるものがある。
 まったく、こいつら男どもときたひには、その後の女たちの人生を省みようともせずに、ひと時の快楽に身を任せるだけのケダモノではないか。こんな男らのどこに、あの気高く美しい鈴音を夢中にさせる何があるというのだ?
「やめろ、お前ら!」
 広海は叫んだ。怒りで前が見えなくなっていた。
「なんだ? お前・・・」
 男たちの動きが止まった。4人のケダモノが、巨大な猛獣の咆哮をあげたように感じられた。
 その時、広海は初めて気がついた。男どもがどいつもこいつも、尋常ではない体格をしていることに。
 広海も女性としては大きいほうである。身長は180センチに近い。しかし彼れらは誰もがそれを大きく上回る。185センチから190センチはありそうだ。体格もガッシリしている。全員なんらかの格闘技をやっていることはひと目でわかった。
 そんな男たちが4人。さすがの広海も、まともに闘っては勝ち目はない。
 しかし・・・。しかしここで退くわけにもいかない。
 路地の奥に街灯が一本、淡い光を投げかけている。広海はその中に、ズイと身体を送り込んだ。
「なんだ」
 先頭の男がせせら笑った。
「ブスじゃあねえか。お前なんかにゃ用はねえよ。とっとと失せやがれ」
 カッと頭が熱くなった。
 ブスだから用がない、とはどういうことだ。それは私は鈴音や薫のような美人ではない。そんなことは分かっている。
 だから何だというのだ。
 お前ら目の前に鈴音や薫がいたらどうする? 涎を垂らしてその脚にすがりつくんだろう。お前らの勝手な理論で、彼女たちを犯して大声で笑いあう。だけどブスには用がないって。・・・
 ふざけるな!
 広海は女子大生に絡みついている男を思い切り蹴飛ばした。今や広海はレスリングしか知らない昔の彼女ではなかった。薫との数知れないスパーリングを積み重ね、パンチもキックも玄人はだしの実力を備えている。
「逃げろ!」
 広海は自由を取り戻した女子大生に怒鳴った。彼女が裂かれた前を合わせて駆け出した後方に、広海は両手を広げて立ち塞がった。
「ふざけるな、ブス。そこをどきやがれ」
「どかせるものなら、どかしてみろよ」
 ニヤリと笑った広海に、男たちが殴りかかってきた。先頭の男のパンチを交わし、その腹に強烈な膝を突き上げる。男は呻いて、胃液を吐き出した。
 二人目と三人目の男が同時に掴みかかってきた。広海は左からタックルに来た男を蹴り倒し、右から腕を掴みに来た男に左のラリアートをぶちかました。
 しかしそれは外され、逆に大外刈りで足をすくわれる。
 地面に叩きつけられた広海を、男が大きな足で踏みつける。一発、二発。
「うっ、ぐ」
 三発目を掴み足首を掴んで引きずり倒す。すると何故か倒れた男を、四人目の男が更に蹴飛ばした。
「どけよ、邪魔だ」
 立ち上がった広海の前に、ひときわ大きな男が立ちはだかった。
 身長190センチ。体重125キロ。
 広海はその男を知っていた。
「・・・石塚陽馬。日本道大の石塚か?」
 日本黄道大学柔道部・石塚陽馬。去年の全日本学生柔道選手権の優勝者で、オリンピック強化選手だった男である。だったというのは、今年のはじめ柔道部内のいじめ事件が発覚して、強化選手の権利を剥奪されているからだ。すると残りの三人も日本道大のやはり処分された柔道部員なのか。
「来いよ、姐ちゃん」
 うすら笑いを浮かべている。少し酒が入っているようだった。
 なめやがって。
 怒りが闘志に変わる。広海は頭を下げて、石塚の腰に向けて全力のタックルを放った。
 ドン!
 肉が肉を打つ音が響いた。しかし石塚はビクともしない。やはり53キロの体重差は大きい。
 石塚はタックルにきた広海の身体を楽々持ち上げた。
 天と地が入れ替わった。
 そのまま頭から地面に叩き落とす。
 広海の頭部に衝撃が走った。目から火花を散らして広海は気を失った。

 気がついたとき、広海は後ろ手に縛られて路上の片隅に追いやられていた。気を失っていた時間は短かったのだろう。目を開けると男たちの顔が目の前にあった。
「貴様、スポーツマンとして恥ずかしくはないのか?」
 広海は真ん中でうんこ座りをしている石塚に向かって言った。
「スポーツマンだあ?」
 彼はせせら笑った。
「オリンピックじゃ飯は喰えないからな。なあ、おまえら」
「最低な野郎だな。まあ、人のことはいえんが・・・」
 石塚は立ち上がると取り巻きの男達に命じた。
「おい、お前ら動かないように押さえておけ」
 屈強な柔道部員に押さえつけられ、さすがの広海も身動きができない。
「せっかくの獲物を逃がしやがって、替わりにお前をといいたいところだが、ブスが相手じゃ気分がのらない。代わりに少し痛い目をみてもらうぜ」
 石塚は酒臭い息を吐き出しながら、尻のポケットからナイフを抜いた。
 そしてニヤリと笑った。
 深夜の星空に、広海の絶叫が響き渡った。

 2週間ほど経って事件を知った鈴音が病院を訪れたとき、広海は顔中に何重もの包帯を巻いてぼんやりと窓の外を眺めていた。
「大丈夫か、広海。えらい目にあったようだな」
「・・・姫姐」
 いつもなら、このくらい怪我のうちには入りませんよ、とか言って笑いながら強がる広海が妙に悲しげな声をあげた。
 鈴音はミイラ男のように顔を包んだ包帯を見詰めて息を飲んだ。
「姫姐。わたしは、わたしは・・・」
 彼女は頭に巻いた包帯をスルスルと解き始めた。病室の窓から入る夕日が、その顔を照らし出す。
「広海、お前・・・その顔」
 鈴音は息を飲んだ。包帯を解き、こちらを向いた広海の顔には、大きくナイフの傷後が×の字に刻まれていたのだ。
 深く刻まれた傷跡は、処置をした後も一生消えることはない。
「な、なんということを・・・」
 さすがの鈴音にもかける言葉がなかった。
「・・・あいつらは言った。本来なら輪姦するところだった、と。しかしお前のツラじゃなあ。と馬鹿にしたように笑って・・・あいつら、あいつら」
 広海は悔し涙を流した。
「こんなブスの顔じゃしょうがねえよな。・・・あっても無駄なだけだろ。とか言って・・・」
「それで、お前の顔を切り刻んだのか? たったそれだけのことで・・・」
 怒りのために鈴音の身体が小刻みに震えていた。
 ふざけやがって、ふざけやがって。女をなんだと思ってやがる。
 顔にこんな傷をつけられ、その後の人生がどうなるのか、考えたことがあるのか。
「・・・姫姐、教えてください。私の顔が悪いのですか? 私の顔がこんなだから」
「馬鹿をいえ。なにを下らないことを」
 そして広海の頬に手を当てた。
「私はお前の顔が劣っているだなんて、ただの一度も思ったことはない。お前は誰よりも強く、誰よりも優しい女だと思っている。私は、お前をこんな顔にした奴らを絶対に許さない」
 そうだ。許さない。
 女をレイプして心に傷を負わせることも、こうして顔に一生消えない傷跡を刻むのもどちらも同じだ。
 許さない。
 そんな男たちを私は絶対に許さない。
 鈴音は心に誓っていた。

 石塚陽馬をはじめとした日本道大の柔道部員は、暴行と傷害の容疑で逮捕されワイドショーなどでも取り上げられ一時は世間を騒がせたが、結局は大学側、柔道連盟側からの圧力があったのか彼らは不起訴となり、柔道界からは追放されたものの実刑は免れ開放されていた。
 鈴音は一心会本部にいた。
 指定暴力団・一心会は、西日本最大の暴力組織である住島連合会の系列組織の中でも最大級の影響力を持つ組織である。
 統括本部長であり養父もある桜木晃一郎の前に、連中の不起訴を記した新聞を投げ捨てた。
「私はこいつらが許せない」
 強い瞳で養父を見詰める。
「ほう」
 桜木は何故か嬉しそうな目で鈴音を見上げている。
「で、鈴音はこいつらをどうしたいんだ?」
「・・・・」
 どうする? 改めてどうすると言われても、私はどうしたいのだ?
「殺すか?」
 ニヤリと恐ろしい笑みを浮かべて言った。
 殺す・・・
 そう言われたとき、鈴音の心にさざ波が走った。そうか、私は彼らを殺したいのか?
「わからん」
 そう応えるのがやっとだった。それまで「殺す」という選択肢はなかった。
 せいぜいナイフで傷つける。一生消えない傷跡を刻み付ける。
 その程度の発想しかなかった。しかしそれで済むのか。広海が受けた屈辱は、心の傷は、そしてこのやるせない苛立ちは・・・
「なあ、鈴音よ」
 桜木は妙に優しい声でいった。それはまるで悪魔の囁きのようだった。
「殺人というのは、死体があって初めて殺人になるのだ。死体がなければ、それがどんなに怪しくとも殺人にはならない。死体がみつかるまでは、それは単なる行方不明に過ぎないんだ。わかるか? 死体がこの世から完全に消え失せてしまえば、誰もそれを殺しとはいわないのだ」
 そう言って桜木は傍らの時任副部長に目をやった。時任は頷いて、机の上のインターホンを押した。
 ややあって部屋の扉が開き、小柄な初老の男が入って来た。
 汚い作業着を身に付け、首にはタオルを巻いている。うらぶれた電気工事人とか清掃員という印象だろうか。
「彼はシデムシという」
「シデムシ?」
「死出虫。あるいは埋葬虫ともいう。死体に群がり食いつぶしてしまうという昆虫だ」
 シデムシと呼ばれた男は、鈴音に向かって小さく頭を下げた。
「この男をつけてやる。あとは勝手にしろ」

 年が明けての3月。春の優しい日差しが溢れている。
 街を行く女たちも冬の分厚いコートを脱ぎ捨て、色目の明るいサマーコートやブルゾンに着替えている。
 早朝のラッシュアワーも、薄着になったぶん心持ち余裕が出来るのか、人々の表情もあかるい。それでもやはり出勤時間帯の山の手線は多くの人混みに溢れていた。
 笹田宗男は駅の構内からその女に目を付けていた。いい女だった。
 薄い空色のブラウスに、紫の裾の長いブルゾンを羽織っている。スカートは少し濃目のミニスカートだ。ニーハイブーツの隙間から覗く、絶対領域がたまらない。
 胸も尻も大きく盛り上がっていて、観るからに美味しそうだった。
 髪は艶のある黒髪をポニーテールにまとめている。
 人混むの中で、そこだけスポットライトを浴びたように輝いていた。
 笹田はひと目で心を奪われた。
「こんなスタイルの女、顔はどうだろう?」
 笹田は予定を変更して女の後をつけた。もともと何処へ行くという宛もない。
 回り込むようにして顔を視る。
 思った通りの美人だ。目鼻がはっきりとして、唇の形がいい。
 笹田は決心した。
 女は山の手線の内回りホームに上がっていく。笹田は見失わないように、人混みをかき分けて女の後を追う。
 内回りのホームは混んでいた。電車を待つひとの列に並んで、女のすぐ後ろに付けた。心臓がドキドキと鳴っている。
 やがて電車が滑り込み、ドアが開いて一斉に人々が殺到した。
 チャンスだった。
 笹田は女の身体を押すようにして車内に乗り込んだ。女の身体と密着して、ふわりとシャンプーの甘い香りが鼻をついた。
 女の身長は高い。ハイヒールを履いているものの、185センチの自分の鼻のところに女の頭がある。おそらく165センチ以上はありそうだった。
 身長の割に脚が長いのか、笹田の股間のところに女の上向いた尻があたっていた。柔らかいくせに弾力に溢れた尻であった。
 笹田は痴漢の常習犯である。
 電車に乗り込むときには、女の括れた腰に腕を巻きつけるようにして乗り込んだのだ。その腕は満員の人々に押さえつけられ簡単には外れない。つまり笹田は電車に乗り込むときには、すでに女の後方から抱きつくような形を取っている
 笹田は女の背後にピタリと抱きつくと、硬く膨れ上がったモノをミニスカート越しの尻の割れ目に押し付ける。うっとりと目を閉じた彼は、電車の揺れに合わせて、しきりとその部分を擦り付けているのだ。
 女がそれに気づかないはずがない。
 それでも女が何の反応も示さないのは恥ずかしさのために動けないのか、それとも行為を容認する痴女なのか。わずかではあるが、そういう女たちが居ることを彼は知っている。
 そして彼は後者だと判断した。女が彼の動きに合わせ、緩やかに腰を動かし初めたからだ。
 なんてラッキーなんだ。こんなイイ女が痴女だなんて・・・
 笹田はその耳に囁いた。
「なあ、もっといいコトをしようぜ」
 ふっ。
 と、微かに女の笑う気配がした。
 イケる。
 次の停車駅を待って、笹田は女の手を引いた。そこは東京駅であった。
 そしてふたりは東京駅構内の車椅子用トイレに移動したのである。
 笹田は女をトイレの壁に押し付け、色白の顎に手をかけてその顔を覗き込んでいる。
「美人だな、お前。俺はついているらしい」
「私も」
 と女は言った。
「あなた、元日本道大柔道部の笹田宗男さんでしょ」
「なんで俺の名前を?」
「うふふ。あなた、4か月前にある女の子の顔に傷をつけたでしょ」
「貴様。何者だ?」
 突き放そうとした腕を、女の手が抑えた。その腕を首に回し、憂いを含んだ瞳で男の目を見詰める。
「いいじゃない、そんなこと。どうでも・・・」
 女は目を閉じ唇を近づけてくる。目の前に近づく美女のキス顔に、何もかもを忘れて唇を重ねた。
 女と唇を合わせたままの笹田の身体がブルッとひとつ震えると、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
 首の後ろ、延髄のところに細いペーパーナイフが刺さっている。
 はじめての殺人。
 しかし鈴音の心には不思議なくらい動揺はなかった。もともと他人の痛みを感じにくい精神構造である。佐々木重吾との恋を知って、少しは痛みを感じるようになったと思ったが、やはり元の彼女に戻っていたようだ。
 トイレのドアが叩かれた。その暗号のようなリズムを感じて、鈴音はドアを開けた。
 初老の小柄な男が立っていた。ケーシータイプの白衣を着て、首には聴診器を下げている。
 彼は素早く車椅子をトイレの中に持ち込んだ。
 ふたりで男の死体を車椅子に乗せ、下半身をひざ掛けで覆うと、どうみても急病人を運ぶ医療関係者にみえた。
 シデムシがトイレから出てから化粧を直し、キッカリ3分後に鈴音はトイレを出た。
 トイレを出て構内を歩きながら、はじめて彼女の心臓が鼓動を打ち始めた。

10

 いい女だな。
 と、石塚陽馬は思う。
 カウンターの隅に座った女だ。
 2012年4月12日。居酒屋「坂道」。彼の行きつけの店である。
 薄暗い店内には、ところどころに客船の廊下に備えるようなランプが点っている。船が揺れたときに、船内の物が当たって割れないように、ランプの周囲に金属のガードを施したものである。
 その他にも操舵輪やコンパスといった航行用具が、店内のいたるところに置いてある。天井からは救命ボートまでもが、吊り下げられていたりもするのである。
 もとは海と船舶をコンセプトしたバーだったところを、居酒屋に改装したものだ。内装は殆ど一緒なので、見かけよりも商品の単価は意外と安い。
 石塚は仕事帰りにはいつも、カウンターの奥に席をとって、1杯のビールを煽るのが日常だった。
 港湾労務者。それが彼の職種であった。
 4か月前、彼とその仲間は西麻生の繁華街でひとりの女を襲った。
 部内のいじめが発覚し、強化選手の資格を剥奪されたのだ。1年間の試合出場禁止も言い渡された。
 はあ?
 と、思う。いじめ? シゴキ? だからなんだって言うんだ。
 柔道なんて所詮はそんなもんだろう。実力がすべての世界。弱い奴は強い奴にしたがう。それが嫌なら辞めればいい。
 ただそれだけのことなのに、なんで俺がこんな目に合わねばならないのだ。
 腹が立った。むしゃくしゃした。
 だから、同じ仲間と酒を飲み、夜更けの道を徘徊したのだ。
 そんな時、見かけたのがあの女だった。多分女子大生だろう。モデルのようなスタイルをしている。
「いいケツしてやがんな」
 と言い出したのは最年少の笹田という男だった。この男には痴漢の常習性がある。電車の中で何度か女のケツを触っているのを視たことがある。
「おい、いい加減にしろ。問題を起こすな」
 と、何度か注意したことがある。しかしその時はたしなめる気も起こらなかった。どうせ問題は起こっているのだ、この際ひとつやふたつ増えても大して変わらない。
 前に回ってみると、顔も結構イケるほうだと分かった。俺たちは卑猥な笑みを浮かべていたのだと思う。
「なあ、ちょっと付き合えよ」
「ちょとだけ、やらせて貰えれば気が済むんだ」
「いいじゃねえかよ。減るもんじゃなし」
「あんただって、やりたいんだろ」
 そうして路地奥に連れ込むはずだった。そこへ、あの女が現れたのだった。
 女としてはデカイ方で、それなりの迫力は感じたが所詮は女である。こちらは柔道の達人が4人。まるで問題にはならない。
 それでも正義感を気取って、ターゲットの女を逃がしたので腹が立った。
 暴れる女を押さえ込むと、どこかで見た女だと思ったがようやく思い出した。
 馬場広海。
 全国中学女子レスリング選手権の優勝者だった女だ。高校生の頃、少しレスリングをかじったことがあったので、その顔を知っていた。確か高校生のときに暴力事件を起こして協会を追放されたのではなかったか。
 ふっ。俺と同じか・・・
 そう思うとなおさら腹に据えかねる。同族の癖に無駄に正義感ぶりやがって。
 逃がした女の代わりに強姦してやろうかとも思ったが、前の女子大生に比べてもあきらかにブスだった。これでは勃つものも勃たない。
「代わりに少し痛い目をみてもらうぜ」
 酔っていたのだろう。酒だけではなく、暴力にも。残忍な気分に浸っていた。
 いま考えても何であんなことをしてしまったのかわからない。
 彼女の顔に一生消えない傷を残してしまった。
 警察に逮捕されたとき、これで罪を償えると正直ホッとしたものだが、何故だか不起訴処分になってしまった。どこからの力学がかかったのかはわからないが、梯子を外されたような中途半端な気持ちはやるせない。
 今更あやまってどうなるというものでもないし、彼女だって謝られても迷惑だろう。
 だからこうして酒を飲む。どうしたらいいか分からないから、こうして酒で誤魔化すのだ。
 笹田宗男。木嶋大器。後藤覺。
 あのとき一緒に罪を犯した仲間たちはみな姿を消した。生活の気配を残したまま、突如として行方不明になったのだ。文字通り神隠しにあったとしか思えない。
 それはそれで気になっている。彼らは一体どうしてしまったのか?

 あの女がこちらを観ている。
 いい女だ。長い黒髪、小さな顔。張りのある瞳、赤い唇。濃紺のワンピースの胸が、はち切れんばかりに盛り上がっている。スタイルも抜群に良さそうだ。
 女と目が合った。彼女はニコリと色っぽい笑みを浮かべる。水商売か、風俗系か。いずれにしても堅気の女とは思えない。
 女が席を立って石塚の隣に移動した。
「ねえ、あなた。元日本道大の石塚選手でしょう」
 女が下から覗き込むように顔を見上げる。時折そうして絡む輩もないことはないが、女に絡まれたのは初めてだ。
「知らん、人違いだ」
「ふうん。わたし、強い人、大好きなの。石塚さんになら、抱かれてもいいな、と思ったの」
 そう言って首にしがみついてくる。どうやらかなり酔っているようだ。目元が赤く染まっている。
「よせよ」
 引き離そうとするが、女はしがみついて離れない。ムッチリとした弾力のある胸を押し付けてくる。
「ねえ、キスしてよ」
 目を閉じて形のいい唇を突き出してみせる。無視して突き放すには美人過ぎる。こんなチャンスは二度とないだろう。
 石塚はたまらずその唇に、自らの唇を重ねていた。
 途端に首に巻かれた両腕に力がこもった。口の中にネチョリと舌が入り込み、強烈なディープキスをしてきた。柔らかな唇の感触に頭が真っ白になった。股間が痛いほど膨れ上がった。
「ねえ、もっといいこと、しましょうよ」
 唇を離した女が妖艶な笑みを浮かべたまま言った。もはやどんな抵抗も無意味であった。
 石塚は女に手を引かれるまま、ふらふらと店を出た。
「なあ、どこまで行くんだ?」
 女に手を引かれたまま、もう10分近く歩いている。
「もう少しよ。いい所があるんだ」
 女は綺麗な微笑を浮かべたまま先を急ぐ。次第にあたりは寂しくなり、街灯の明かりも少なくなった。
「まさか、こんな所でやろうというのではないだろうな」
 やがて小さな街頭に照らされた小さな草はらにでた。どうやらもとは児童公園だったところが打ち捨てられて空き地になったものらしい。
 海が近いのだろう。暗闇のむこうから波の音が聴こえる。
「もちろん、違うわ」
 女は言った。
「あなたに紹介したい人がいるの」
 見ると街灯の下に黒い人影が浮かんでいる。漆黒なツナギのライダースーツを着込み、フルフェイスのメットを被った男。・・・いや、体型からみて女か?
 あれは、まさか・・・。
「紹介するわ。元光輪高校の馬場広海選手」
 女がメットを取った。顔の真ん中に大きく×の傷跡が見て取れた。
 石塚は大きく息を飲み込んだ。
「そうか・・・、そういうことか。ということは木嶋や後藤も・・・」
「私が始末したわ」
 広海の横に移動した美女が言った。
「始末? きみのようなきれいな娘が?」
「この際、顔は関係ないでしょ。あのね、あなたがどう思ってるかは知らないけど、私はこの顔が嫌い。小さいときからずっと嫌いだった。でもこの顔のおかげで、あいつらちょっと甘い言葉をかけたらホイホイ付いて来た。あんたも一緒だわ。ほーんと、馬鹿。まあ、そのお陰であんたたちを罠に掛けられるなら、それもいいかなと最近は思うようになってきたの」
 石塚は困ったような顔をしている。女のいうことが理解できない。
「彼らをどうした? まさか殺したのか?」
「さあどうだか。ただ、この世から消えてもらっただけよ。私はマジッシャンだから」
「マジッシャン?」
 どいうことだ? マジックでひとを消したとでもいうのか?
「あんたも私が始末するつもりだった。だけどこの広海が、どうしても自分で決着をつけたいというのでね」
 広海がズイと前に出た。
 その瞳が怒りに燃えている。

11

すると、石塚はいきなりその場に土下座した。
「すまなかった。俺の軽率な行為で、君の未来を壊してしまった。本当に申し訳ない」
 しかし広海は表情ひとつ変えない。冷たい瞳で石塚を睨みつけている。
「何のまねだ。いまさら頭を下げてどうしようというのだ?」
「謝ってすむ話ではないが・・・。君の好きにしてくれていい」
 そう言って、広海の前で膝を揃えて目を瞑る。その顔面を広海のバイクシューズが蹴りつけた。
「貴様に謝ってもらう必要はない。私がこの4ヶ月、どんな想いで日々を過ごしてきたと思っているんだ」
「どうすれば・・・」
「私と闘え。あの日の決着をつける」
 石塚は驚いて広海を視た。
「闘えといっても、俺と君とでは勝負にはならない」
 それはそうだ。石塚と広海とでは身長で10センチ、体重では45キロ以上の差がある。大人と子供の違いだ。しかも相手は素人ではない。さすがに今ではトレーニングをしていないとはいえ、元はオリンピックの強化選手にまで上り詰めたほどの猛者なのだ。
 まともに闘っては、広海に勝機はない。
「もちろん、ハンデはつけさせて貰う」
 広海そういいながら、オーバーフィンガーグローブ。両手の指が自由になっている、総合格闘技用のグローブをはめた。
「私の知り合いの女は中学生の時に、強姦魔によってレイプされた。普通ならそこで泣き寝入りすることろだが、彼女はある策を持ってその強姦魔を倒した。自分よりはるかに大きな男を、だ。彼女がどうやって男を倒したかわかるか?」
「・・・」
「あんたが私に勝てれば、この顔の件は忘れてやる」
「君が許しても、俺の犯した罪は消えない。俺を殺したいというのなら勝手にしろ」
「お前がどう思うがは関係ない。お前がこの後、どうしようともだ。私はただ、お前と闘いに決着を付けたいだけだ」
「そのハンデとは何だ?」
「闘ってみればわかる」
「つまり、そのハンデとやらのお陰で、その娘は男に勝ったというわけか」
 石塚は広海から視線を女のほうに移した。女は険しい目で石塚を見つめ微かに頷いた。
 そこまでいうなら闘ってやっても構わない。ただし、この闘いは自分が勝つわけにはいかない。
「わかった。・・・やろう」
 そしてふたりは3メートルの距離を開けて向かい合った。ひとつだけの頼りない街灯の明かりが、ふたりの影を大きく延ばしていた。
 女・・・姫咲鈴音はやや離れてふたりを均等に眺めている。
 広海は両腕を持ち上げたアップライトスタイル。オーバーフィンガーグローブを付けた両手で、自分の顔を挟むように構えている。キッボクシングの構えよりはやや両手の間隔が広い。
 一方の石塚はクラウチングスタイル。上体をやや屈め両腕を絞って、柔道流のタックルを狙うスタイルだ。
 構えを見る以上は打撃で来ると悟った石塚は、両手で頭部をガードしつつ前進をはじめた。自分よりはるかに体重の少ない広海の打撃が、自分には効かないことを彼は知っているのだ。
 用心すべきは頭部だけである。頭部以外はいくらでも殴らせてやる、と石塚は思った。その間に捉えてしまえばそれで終わりだ。広海のいうハンデとやらが何かは知らないが、捕えてしまえば体格差からいっても身動きは取れまい。
 待てよ・・・。石塚は思う。
 先程まで自分は彼女に勝つわけにはいかないと思っていた。これは罰なのだ。彼女に殴られ蹴られ、その結果たとえ殺されたとあっても仕方がないと考えていた。
 しかしそれがどうだ。いつの間にか純粋に闘うことのみを楽しんでいる。それは柔道家としての本能のなせる技なのか。
 そう思った瞬間、右の太ももに激痛が走った。まるで金属バットで殴られたような衝撃だ。
 ローキック。
 石塚は驚愕していた。どうして、この自分よりはるかに体重の少ない広海が、こんなに威力のあるキックを放つことが出来るのだ?
 石塚の全身にカッと熱い血潮が駆け巡った。久しく忘れていた闘志に火が付いたのだ。
 この女、これほどのキックを身に付けるために、どれほどの努力をしてきたのか。それもこれも俺を倒して、自らのプライドを取り戻すためなのだろう。
 そう思うと、いい加減な闘いをするわけにはいかない。手を抜いた闘いは逆に失礼だ。
 よかろう。全力で貴様の想いに応えてやる。
 次だ。次のローキックを撃つ足を捕えて関節を極める。
 左右のステップを踏んでのロー。
 来た!
 右のガードを外して、飛んできたローを捕える。しかしローは来なかった。
 フェィント!
 右の顔面を激痛が襲う。広海はローキックをフェイントにして、左のストレートをぶち込んできたのだ。
 しかも、それは・・・
「なんだ? これは」
 それは通常のストレートの痛みとは何かが違っていた。チクチクとするような、刃物で切り裂かれるような鋭い痛み。視界が赤く染まる。右目がまるで見えなかった。
「これがハンデだ」
 広海がオーバーフィンガーグローブの中に、カミソリのような刃物を仕込んでいたのだ。それで右目を殴って視界を潰したのである。
 不思議と腹は立たなかった。
「知り合いの女はこうして相手の視界を潰して勝利を治めた」
 広海はグラブを外しながら言った。
 なるほど。視界が封じられば、戦闘力は大幅に減少する。
「彼女は相手の両目を潰したが、私のハンデはここまでだ。ここから先はハンデなしの五分の勝負だ。文句はないな」
「ああ、もちろんだ。掛かってこい、相手になるぜ」
 石塚は白い歯をのぞかせた。
 広海は石塚の死角へ回り込みながらローを放って来る。石塚はそれを巧みに捌きながら間合いを詰めていく。
 左のパンチが立て続けに襲う。死角から飛んでくるそれは、避けることも受けることも出来ない。たちまちのうちに石塚の顔面は、血みどろのズタボロになった。
 しかし彼はそれを一切無視した。顔面への攻撃はいくらでも受ける覚悟が出来ていた。もともと罰としてそれを受け入れるつもりでいたのだ。それを思えば何ということはない。
 勝負はボディへの攻撃だ。その時に腹に向かって撃ち込んできた、脚なり腕なりを掴んで寝技に入る。お互いの身体が密着してしまえば、視界のハンデは無意味であるのだ。
 その攻撃が来た。膝だ。首相撲からの右膝打ち。
 その膝を掴んで懐に入る。軸足を刈って、体重をかける。
 大外刈り。
 ふたりの身体が重なるように崩れ落ちる。
 しかし広海はしたたかであった。
 倒される瞬間に左腕を引き込んで両足で挟み込む。
 飛びつき十字固め。サンボの技か?
 力の加わる方向に身体を捻る。捻る。捻る。
 ふたりの身体が上になり、下になる。関節の取り合い、極め合い。
 飛び散る汗。肉が肉を打つ音。激しい吐息。うめき声。関節のあげる悲鳴。
 鈴音はうっとりとした表情でふたりの動きを眺めていた。
 やがて、広海は石塚の背後に回り、その首を固めていた。
 チョークスリーパー。
 石塚の首が不自然に曲がって見えた。それでも広海は首を離さない。渾身の力を込めてひねる。ねじる。よじる。
「広海、もういい」
 鈴音がその肩を叩いた。
 石塚はかすかな微笑を浮かべたまま事切れていた。

「そうか、全て終わったか」
 桜木晃一郎は執務室のディスクに座ったまま、シデムシの報告を受けた。
「卒業試験も無事終了したというわけか・・・」
「はい?」
 シデムシは首を捻る。
「いや、こちらのことだ。ご苦労だった」
 シデムシが頭を下げて退出しようとするのへ声をかけた。
「ああ、そうそう。例の顔に傷を負った娘。なんといったかな」
「ヒロミ様ですか?」
「そうそう、そのヒロミという娘」
 桜木は人の良い笑顔を浮かべて言った。
「一度会ってみたいものだな」
 

                                                           完

黒夜叉

黒夜叉

姫崎鈴音の相棒。「黒夜叉のヒロミ」の誕生秘話。

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • アクション
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-02-08

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