幸せなソリチュード、あるいは不快なリピート

この作品のお題は【忘れ物】です。
人の記憶、それ自体にも連続した意思があったとしたら、というお話。

 それはいつも曖昧に始まる。
 濃紺の澱みの中を、藻掻くように歩く自分の姿に遠くから気付き、気付いた途端にそれがちゃんと自分自身に置き換わって、何だか息苦しいような、それでいて安心するような彷徨をしていると朧げに認識する。覚束ない足元に難儀しながらしばらく歩くと、次第に澱みは見通しが良くなり、あたりの風景が砂絵のように浮き上がって、足裏に大地を感じるようになる。そして、ついには温かな陽光の感触を肌に覚え、それにより開いている目をもう一度開けるような圧力が生まれて、意識もはっきりとし、僕はやっと、今が高校二年生の初夏で、地元の田舎道を歩いているということに思い至るのだ。
 自覚すると、その始まりの澱みについてはすぐに忘れてしまう。忘れていた。まるで朝陽に溶ける靄を掴むようなものなのだ。握った手には微かな湿り気しか残らない。
 ただ、今の僕はそれを覚えている。多分僕は、これを、何度も体験している。積み重なった曖昧さが、〈曖昧〉という一つの形として、僕にそのことを知らせた。全貌はわからないが、僕はそれを──今日を、知っていると。
 僕はその道を──通学路を、家から学校へと向かっている。制服ではない。今日は日曜日だ。大切な用事があって、休みの午前中、緊張を胸に我が身を運んでいた。
 大切な用事──そう、これから彼女に会いに行くのだ。割合で言えば六割程度の勝算しかないし、ともすれば足は止まりそうだ。しかし、矛盾しているようだが、それでもこの思いを伝えたいという青い衝動が止まらない。
 会えるという喜びと、伝えるという緊張と、答えを聞くという不安が、ない交ぜとなってぐるぐると身体を巡っていた。
 しかし、どうして彼女は会ってくれるのだろう。クラスは別だし、僕は良く見ていたが、話したことがそれほどあったわけでもない。正直、今日の誘いを断られる可能性の方が高かったはずだ。いや、それに──そうだ、自分はどうやって彼女を誘ったのだろう。どうやって声をかけたのだろう。そのとき彼女は、どんな顔をして、どんなふうに答えて、今日という約束を承諾したのだろう。
 僕は思い出せない。すでに遠くにある澱みにその答えがあるような気がするが、足を一歩進めるごとに、その〈曖昧〉はさらに形をなくしていくようだった。そもそも、〈曖昧〉とは何だろう。僕は一体何を浚おうとしているのだろう。僕は何度もそれを経験している……ようにも思えるが、現実的にそんなことあるわけがない。逃げ水のような儚い既視感を持て余しながら、僕の足はやはり止まらない。
 学校に着いた。
 正門を抜け、校舎には入らず、裏手のグラウンドにまわる。そのグラウンドの脇にある弓道場の、そのまた奥にある大きな椎の木が目的地だ。幹の裏に、揺れるスカートが見て取れた。
 堪え切れず小走りになりそうな自分を抑え、僕は敢えてゆっくりと、しっかり足音を立てながら近づいて行った。鼓動を落ち着かせるため、自然と呼吸も深く、大きくなる。緊張が高まったおかげか、わずかな影と、気配で、彼女も居住まいを正したのがわかった。そして、あと数歩のところで、彼女は思い切ったように姿を現した。
「こんにちは」
「こんにちは。待たせたかな?」
「ううん。えっと、そうですね……、少しだけ、です」
 彼女ははにかみながら答え、そんな自分に対して笑った。対する僕も、平静を装いながら、自然と頬が熱くなっていた。挨拶をしただけでこれだ。この先が思いやられる。そう、冷静な僕が判断する。
「今日は気持ちの良い天気だね」
 彼女の隣に並び、大きな幹に背を預けた。彼女も僕に倣う。一陣の風が、彼女のつける甘やかな香りを僕に届ける。
「少し暑いくらいだ」
「そうですね。でも、私、暑いのはけっこう好きです。特に、太陽が燦々として、空がからりと晴れている、爽やかな暑さは」
「そうなんだ。……へえ、意外だ。外にいるよりも、教室で読書している姿を良く──時々見ることがあったから、あまりそういう風には思っていなかった」
「え……、えっと、あの、その、すいません……」
「何を謝ることが? 僕は、君自身が爽やかな人だと思っている。意外ではあったけど、夏の清々しい暑さは確かに、君に似合っていると思うよ。その……、好感が持てる」
「あ──」
 彼女は顔を赤くして俯いた。
 僕は、内心とは裏腹に滑らかな自分の口が、まるで別の生き物のようだと感じていた。そんなこと、思っていないわけではないが、普段の自分ならたやすく口にすることはできない。極度の緊張から来る興奮の為せる業だろう。そういうものがあると何かで読んだことがある。人の脳とは、げに計り知れないものだ。
 しかし、いきなり失敗をした。当たり障りのない話題から始めて、徐々に的を絞り、その正鵠を射んとする予定だったのだ。何故僕の口は、『好感が持てる』などという恐ろしい言葉を発してしまったのだろう。ほとんど的中狙いではないか。
 ただ、彼女の反応を見るに、恐らく不快には思われていない。それどころか、もしかすると、もしかするのかもしれない。いや、そうだ。どういう経緯かは思い出せないが、彼女は僕の誘いを受けてくれたのだ。それはつまり、少なくとも嫌には思っていないということだ。
「……そうだ。今更改めてだけど、今日は来てくれてありがとう」
「いえ、そんな……。今日は予定が空いていましたし、その……、あんなに真正面にお誘いを受けたこと、なかったですから、お断りするのは忍びなく……」
「ということは、本当は乗り気ではなかった?」
「そんなことありません! ……あ、いえ、その………、私も、あなたとしっかりとお話をしてみたかったので……、嬉しかった、です……」
 最後の言葉は消え入りそうだった。
 僕はもう一度、静かに「ありがとう」と答えたが、実際のところ快哉を叫びたい気持ちだった。よくもまあ、である。よくもまあ、澄ました顔をできるものだ。人間の情動とは何とも天邪鬼である。
 彼女は顔を背けている。その横顔も愛おしい。もしかしたら、彼女も天邪鬼かもしれない。しかし、その愛おしさと、僕の真実は、違えようがない。
 僕の心は定まった。
 いささか性急に事を運ぶようにも思えるが、時機というものがある。自分でも戸惑うほど滑らかに、道筋が出来上がってしまったのだ。進むべきだろう。
「美千代さん」
 僕の声は、辛うじて上擦らなかった。
「はい」
 感じ取ることがあったのか、彼女は顔を上げ、まっすぐに僕の顔を見た。
「僕と付き合ってくれないか?」
 途端、強烈な既視感が僕を捉えた。僕はこの場面を知っている。声の調子も、遠くの景色も、そよぐ風も、空を渡る大きな雲も、大きく目を見開いた彼女の顔も、僕は以前に何度も見ている。次に彼女は、その目を潤ませ、柔らかくし、口角をあげ、両手を胸の前で祈るように組んで、まるで幸せそうにこう言うのだ。
「お受けいたします」
 僕は彼女の両手を自分の両手で包み込む。そして、互いに視線を絡ませる。それだけで心は満たされ、満たされたものが温かな水となってあふれ、全身を駆け巡っていく。これまで感じたことのない、大きな感情だ。
 ただ、どうしてだろう。僕はやはりそれも知っているように思った。おかしな話だ。何度も夢に見た光景ではある。文字通り、夢にだって見た。しかしそれを今とはき違えることは、いくらなんでもあるわけがない。
 僕は、このことは、本当に、知っていると思ったのだ。それがとても、自分の初めてを汚されたようで、腹立たしい。
 そして僕の意識はそのまま──彼女の晴れやかで輝かしい笑顔を好きだと思いながら、不可思議な不快を腹に抱えたまま、急速に現出した濃紺の澱みに攫われていった。

 窓の向こう、密閉された小さな部屋の中には、一人の老人が横たわっている。顔をすっぽりと覆うフルフェイスシールドを被り、意識はない。眠っているような状態だ。シールドの、特に頭の部分からは無数の管が延びており、それは部屋の四方を埋める銀色の機器に接続されている。機器は、老人とは対称的に、休むことなく種々の小さなランプを灯していた。
「本当に〈忘れ物〉なんてあるのか?」
「本人がそう言うのだから、あるのだろう」
「齢百にも届こうかっていう爺さんだぞ?」
「依頼は依頼だ。もう代金ももらってる」
「よっぽど記憶に自信があるのか……って、それならちゃんと自分で覚えておけよ」
「年を取るとはそういうことだ。お前だって、〈それ〉を見たことは覚えていても、どこで見たのか思い出せない、ってことくらいあるだろう?」
「まあ、そりゃあ……。でも、一時間も反応無しだぜ?」
「もらってるのは二時間分の代金だ」
「……そうですかい、っと」
 窓のこちら側にいる私と同僚は、未だ動きのないモニタに目をやり、機器を操作しつつ、何度目かの雑談を交わしていた。
 ここ、生体情報変換格納研究所は、人間の持つ記憶──思い出と呼ばれる生体情報を脳から抜き取り、種々の記録媒体に格納するという研究をしている。人は望む望まざるに関わらず思い出を忘れる。過去を懐かしもうにも、その縁を辿ることができなくなってしまう。しかしそれは決して消滅しまったわけではない。どこにあるのか、もしくはどうやって取り出すのかを忘れてしまっただけで、実際はずっと頭の中にある。生情研では、技術検証と精度の飛躍、そしてCSRも兼ねて、そんな隠れてしまった思い出を掘り起こし、記録媒体──主に、画として見ることができる映像媒体に変換格納するという事業を行っていた。ただ、まだまだ発展途上の技術であり、費用も高額なため、依頼者は公──大体は司法関係か、裕福な者がほとんどだった。
 今向こうの部屋で横たわっている老人も、そんな依頼者の一人だ。高齢になり、次第にあやふやになっていく自分の思い出を形として残そうと、大事な記憶を掘り起こしている。
 ただ、正確に言えば、その作業はすでに終わったはずだった。ほぼ百年分の思い出の内、本人の望むものは全て掘り出したはずだった。しかし作業を終えてから一年後、つまり先日、再び老人は依頼してきたのだ。「思い出を全て確認した。しかしあるはずのものがない。私にとって曖昧になってしまった〈忘れ物〉だが、それは君たちの〈忘れ物〉でもある。ついてはもう一度掘り起こして欲しい」と。それは、すでに亡くなった奥方との馴れ初めとのことだった。あの思い出を、幸せという感覚だけではなく、仔細なものとして味わいたい、と。
「よっぽどの愛妻家だったのかね」
 この案件に今回初めて関わる同僚は、私の説明を聞いてそんな感想を漏らした。
「古女房との思い出がそんなに大事なのか?」
「高校で出会い、結婚して、奥方亡くなるまでの七十年間、ずっと仲睦まじく暮らしていたとのことだ」
「うへえ。考えられん」
「お前にはわからんだろうな。……それにしても本当に見つからないな。いくら忘れたと言ったって、大体は、同じ年代の思い出があった場所近くにあるはずなんだが」
「他のはほとんど取り出したんだろ? しかもコピーじゃなく切り取り。それで残り物が目立たないんだったら、やっぱり無いんじゃないか? 思い出じゃなく妄想って可能性もあるだろ? 耄碌して、実際にはない思い出を作り出しちまった」
「だとしても、それならそれで多少はモニタが動くはずだ。それすらないということは、根本的に場所が違うのかもしれない。もう少し範囲を広げて見よう」
「へいへい」
 私は窓の向こうの老人を見遣った。思い出を忘れ行く彼に同情したわけではない。求められた結果を出せないことが、この研究に携わっている一人として許しがたいのだ。残りは三十分。彼からの費用に見合った時間を超過してでも、絶対に掘り起こしてやる。
「……ところでよ」
 意を新たに作業をしていると、手を動かしながら、同僚が再び口を開いた。
「この思い出が、本当にあるとして、だ」
「ああ」
「それは今どういう状態なんだろうな?」
 私も手を動かしながら、先を促す。
「どういう、とは?」
「前後の思い出は切り取られちまった。つまり、もう頭の中にはないってことだ。だとすれば、その馴れ初めの思い出は、脈絡なくそれだけがそこにあるってことになる」
「そうだな」
「それだけで存在しているその思い出は、それ以前にも以降にも行けない。保有されている同じ場面を繰り返すだけだ」
「まあ、わからなくはない」
「だとすれば、そいつは随分と混乱すると思わないか? どういう経緯で今──その思い出にとっての今があるんだろうって。続きも途切れちまうだろうし」
「……そいつ? 混乱? お前らしくもない冗談だな。人の記憶そのものに意思があるとでも?」
「さあな。俺らしくもないただの戯言だ。でも、ふと、そんなことを思ったんだよ。繋がらない思い出があったとしたら、それは一体、どう処理されるんだろう、ってな」

幸せなソリチュード、あるいは不快なリピート

幸せなソリチュード、あるいは不快なリピート

人の記憶、それ自体にも連続した意思があったとしたら、というお話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-29

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