橋の上で会いましょう

浜村麻里

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ザーッと流れる川を眺める。
橋の上から見える水の流れは記憶にあるものよりも荒々しく、勢いよく石の間を通り抜けていく。
ときどきキラキラと白く光るのは魚だろうか。
冷たく鋭い風に当たりながらぼんやりと白い光の動きを目で追ってはすぐに見失う。
コンクリートでできた欄干にもたれていると、コート越しからも橋の冷たさを十分に感じることができた。
巻いてきたマフラーに顔をうずめて目を閉じる。
水の流れていく音が体の中に満ちていく気がした。
体の中が川の音で満ちていくのと同時に、いっぱいいっぱいになっていたこれまでの様々な感情が欄干を越えて橋の下へと押し出されていく。
冷たい冬の風がひらりと雪を乗せて鼻先を通り過ぎて行ったときにはすっかりと頭の中がリセットされたような心持になっていた。

2

——前、ここに来たのはいつだったかな。
そうつぶやきながら欄干に手を付き、川を覗き込んだ。
山のふもとにあり、川幅はそれなりに広いものの水深は浅く流れも速い。
水はきれいで、ゴロリと転がる大きな石たちの間を自由に泳いでいく魚の姿を容易にとらえることができた。
一見すると簡単に捕まえることができそうなそのきらめきは、幼い日々の経験からするりと手のひらをすり抜けていくことをしっかりと質感をもって記憶していた。
ぼんやりと川の表面を眺めていると、ピシャンと水の跳ねる音がした。
すっとそちらへ目線をずらせばひときわ大きな白い影が目の端に映る。

「イスだ」

ぽつりと漏れ出た言葉は川の流れへと吸い込まれていった。
ウグイの仲間であるというその魚のことを教えてくれたのは父親だったように思う。
当時小学生だった私は家具のイスが流されているのだと思い、イスが泳ぐなんて妙な表現をするものだと首をひねった。
それでも大の大人が分かりやすいほどにワクワクとした雰囲気を出しながら話しかけてくることから察するに珍しく、面白いものなのだろうと必死に川を覗き込んだ思い出がある。
なんてことはない、ただの川魚だと知った時は少し残念にも感じたが、父親が少年のようにはしゃいだ声を出しながら教えてくれた魚の名前は十数年たった今でも色あせることなく覚えており、むしろ川にいる魚=イスという認識を植え付けるのに十分だった。

いよいよ雪の降りだしそうな空を一度仰ぎ見、近頃はめっきりと見かけることのなくなった父親のことを思い浮かべる。
なんだかんだ言って父親っ子だったんだなぁと自覚したのは随分と最近だった。
わざわざ寒い日にこれまた冷え込む橋の上にやってきて感傷に浸ってみるくらいの存在ではあるわけだ。
巻いてきたマフラーを一度ほどいて、きつく巻き直す。
鼻の上まで覆ったそれからは普段使用している柔軟剤に混ざり、どこか安心する家の匂いがした。
コートのポケットに両手をつっこみ、随分と指先が冷えていたことを自覚する。
もう一度だけ寒々とした川面に目をやり、重たい足を来た方向へと向けた。
ポクポクと広い欄干脇の歩道部分を歩く。
田舎にあるにしては立派な橋で二車線の道路までついており、山沿いに伸びる国道とそのふもとに広がるささやかな町とをつなげている。
年末の、それも午前も早い時間であるためか国道を走る車の数もまばらだ。
それは橋の上も同じで、私が川を見下ろしていた間に車は一台も背後を通ることはなかった。
ほう、とひとつ息を吐く。
口から出た空気が一瞬で冷やされ、目の前を白いもやが遮った。
もやを突っ切るようにして一歩右足を出した時、50mほど前方に人影があることに気が付いた。
向こうはこちらへ向かっているらしく、人の形はだんだんと大きくなっていく。
鋭い冬の空気の中、どこからかマイルドセブンの香りがした。
私は橋の3分の1程まで進めていた歩みを止めて、ゆっくりと欄干に向き直り相変わらず勢いよく流れていく川へ意識を集中させた。
目をつむった時にうっすらと涙が出た気がしたのは冬の空気が寒くて乾燥していたからだ。

ざあざあと流れる川の音に混じって重い靴音が近づいてきた。
ガサリと丈夫な布の擦れる音がしたかと思うと私のもたれている欄干の50cm程離れたところにねずみ色の作業着に包まれた腕が置かれていた。
キラリと白い光が目の端を走る。

「イスだ」

そうつぶやいた声は記憶していたものと比べ、随分と落ち着いていた。

「禁煙、失敗したんだ」

先ほどから漂ってくるマイルドセブンの匂いを指摘するためにひねり出した声は、再会時の第一声としてはひどくくぐもって聞こえた。
しかし彼はそんな事には意に介さないのか、んー、と何とも言えないような音だけをよこし、がさごそとズボンのポケットを探っている。

「はい」

唐突に何かを握った手を差し出された。
大きく、重いものを長い間持ち続けてきたのであろう関節のゴツゴツとした手は浅黒く、とても懐かしく感じるものだ。

「何、これ」

そういいつつも素直に受け取ってみると手のひらには3個の飴玉が乗せられていた。

「落花飴。おまえ、好きだっただろう」

そう言った彼は自分の分も取り出して外の包みをはがしている最中だった。
私も貰ったうちの1つを口にいれた。
これでもか、というほどの落花生の風味が鼻を抜け、みたらしのような甘じょっぱい飴の味が口に広がる。

「久しぶりに食べた」

そうつぶやいて先ほどきつく巻き直したマフラーに顔をうずめたのは赤くなった目の端を見られたくなかったからだ。
そんな私のしぐさを見て何を思ったのか、またもやがさごそとやり始めた。

「はい。もう大分ぬるくなってるけど」

そういって出してきたのは缶コーヒーだった。

「なんでも入ってるね。そのポケット」
「まぁ、金以外ならな」

そんなところも変わってないなぁと考えながら、ふんわりと温かいスチール缶を受け取った。
さっそくあけて一口飲んでみたそれはブラックだったが、まだまだ口の中に残っている落花飴と混ざりほんのりと甘く感じた。

「……こっちにはいつ戻ってきたの?」

缶を両手で包むように持ちながら大事にコーヒーを取り込んでいく。
どちらかと言えば苦手なこの風味も、横にいる彼が昔から好んで飲んでいたのだと思うと懐かしく、ここで飲み干してしまうのはもったいなく感じた。

「戻ったのはついさっき。でも、」

続いたであろう言葉は私たちの真後ろを通り過ぎていったトラックに掻っ攫われていった。
取り残された排気ガスの臭いも、川から吹き上げられる冷たく澄んだ空気に一掃される。
4tトラックが去った後の橋の上は、前よりもさらに静かに感じた。

「……そういやお盆に帰ってくるもんだと思ってたから、びっくりした。家には顔を出したの?」

聞き逃した言葉を再度聞き直すのは何となくはばかられ、違う質問をぶつけた。

「夏はおまえ、帰ってこないだろ。確実に会えるのは年末だと思ってさ。実際、その通りだった」

声に色がついたように感じた。
それも暖かい黄色やらオレンジみたいな暖色系統の。
私に会えたのが嬉しいと、そんな気持ちがにじみ出ているようでむず痒い。
そのせいで、知りたかったことと若干異なる回答をもらったことも気にならなかった。

「時期はいいとして、なんでこの橋の上で会えると思ったわけ?家や、私のアパートに来るほうが確実じゃない」

照れ隠しのために少々突っかかった言い方をしてしまった。
顔の表情を見られたくなく、ごそごそと欄干に身を寄せて橋の真下を覗き込む。
川の真ん中で大きな鳥が1羽、寒そうにたたずんでいた。
サギだ。
よく田んぼで見かけるアオサギではなく、シラサギだったのが少しだけ珍しいと感じる。

「急にアパートに行くと、おまえ嫌がるだろ。家だと二人きりにはなれないし。やっぱり橋の上で偶然出会うってくらいが丁度いいんだよ」

がさりと音がして、隣の彼も私と同じように橋の下を覗き込んだのが分かった。
お。シラサギ。と、嬉しそうにつぶやく声は、十数年前まさにこの川でイスの存在を教えてくれたものと同じ響きを持っていた。

「あと、おまえ。落ち着いて考え事をしたいときは川辺に来るじゃないか。大学でここを離れるまでよく、この欄干から川を眺めてぼんやりしていた。だから今日もいるんじゃないかって思ってさ」

自分の行動パターンをこうやって指摘されるのは普段ならば不快に感じるのだろう。
でも今、鼻がグスグスいうのはそのようなマイナスの感情からのものではなくて、安心感から来るものだと自覚していた。
ああ、私寂しかったんだな。
ふいに肩に重さと温かさを感じたかと思うと、マイルドセブンと少しばかりの家の匂いが私を包んでいた。

「小さいころはよくこの川辺で遊んだもんなぁ。俺にとってもいい思い出ばっかりだよ」

おまえ、お父さんっ子だもんなぁ。と、言った声は明るく、思わず私も声を出して笑っていた。

「よく見てるね」

感謝の気持ちを乗せて出した声は、ちょっとだけ水っぽかったがすっきりとした響きをたたえていた。

「あたりまえじゃないか。いつでもみてるよ」
「うわー。ホラーだ」

そう言ったものの正直その言葉は嬉しく、とても心強く感じた。
ポンポンと肩を軽く叩き、私を支え肯定していた手の重さがそっと離れていく。

「そろそろ行くかな」

わざと明るく出したような彼の言葉にハッとし、ここで初めて顔を見上げた。
笑顔の彼は前回最後に会った時と全く変わってないように見えた。

「また、会えるよね。父さん」

思わず口走った声には懇願の色が混じっていて、我ながら幼なく感じる。

「ああ。また橋の上で。偶然にでも会おう」

約束とも言えない約束を口にした彼は、じゃあな。と、右手を差し出してきた。
私も手を出し、しっかりと握手をする。
すっぽりと私の手を覆ってしまうこの手はなんだかんだ頼りがいのあるもので、私を支えてくれているんだと実感した。
それじゃ。と、差し出してきた時と同じくらい簡単に手を引っ込め、彼はポケットに手を入れた。

「あ。忘れるところだった。これ、母さんに渡しといてくれ」

そう言って渡されたのはマイルドセブンの青い箱だった。

「禁煙しようと思って」

何度聞いたか分からないその言葉に声を出して笑う。

「分かった。ちゃんと母さんに言っとくよ」

しっかりと約束をして、今度こそお互いに真逆の方向に足を進めた。
振り返らずとも、ごつごつと安全靴の重たい足音が遠ざかっていくのが聞こえる。
私も残りの3分の1を渡り切り、ふと空を仰ぎ見た。
さっきまであれほど暗く垂れ込んでいた雪雲に青空がのぞいていた。
鋭く冷たい冬の空気に変わりはないが、差し込んだ太陽の光が背中を温め押し出してくれる。
ちらりと川を振り返るとシラサギも流れの中にある石の上に移動していた。
太陽の光を受け日向ぼっこをするその姿はより一層白く見えた。

3

ガラガラと引き戸を開け、ただいま、と言った私の声に返事はなかった。
無駄に広い玄関で靴を脱いでいそいそとスリッパに履き替える。
木造平屋のこの家に床暖房なんてものはついておらず、裸足だととても冷えるのだ。

「ただいま」

居間へと続くふすまを開けながらもう一度声をかけた。
畳のため、スリッパを脱いでからふすまを閉める。

「おかえり」

今度は返事があった。
玄関と違い石油ストーブの付いた部屋はとても暖かく、気温差から生理的な鼻水が出てきた。
ストーブに当たりながらマフラーを取り、コートをハンガーに掛けてから素早くこたつへと潜り込む。
温かさにホッとしていると、かごに入ったミカンが天板の上に乗せられた。

「おばあちゃんから届いたの。後でお礼言っておいてね」

そう言うと母さんもこたつに入ってきた。
よく見ると部屋の隅に今朝までなかった有田ミカンのダンボールが置いてあった。
早速ひとつ手に取る。
ヒンヤリとしたそれの皮をむくと、さわやかな香りが居間全体に広がった。

「晩御飯はお蕎麦として、お昼は何にしようかしら。……何が食べたい?」

帰ってきてから毎食ぶつけられるこの質問に、何でもいいよ。と、これまた毎回と同じ答えを返す。
一人暮らしを始める前はリクエストなんて聞いてきたことなかったのに、と可笑しく感じ思わずニヤニヤした。
大学で一人暮らしを始め社会人になった今、実家に帰ってくる頻度が年々下がり、それに反比例する具合にもてなされ度は上がっていた。

「じゃあ、チャーハンにでもしようかしらね」

私がミカンを一房口に入れ咀嚼していると、母親はのっそりとこたつから出て隣の台所へと体を向けた。

「ちょっと早いけど食べちゃいましょう」

誰に言うでもなくつぶやかれたその言葉に、声は出さずとも首を縦に振る。
母はこちらに目を向けていないため意味のない行動には違いなかったが、そうすることで何となく穏やかな気持ちになれた。
ただの自己満足だってことには気づいている。

トントントントンと包丁のリズミカルな音が聞こえてくる。
私はこたつの上に上半身をしなだれかからせ、目をつむった。
ジュワーっと食材の焼けていく音が耳に楽しい。
こたつとストーブの温かさにまどろんでいると、醤油の焦げるにおいがしてチャーハンの出来上がった気配がした。
コツンコツンと中華鍋からお皿にご飯が取り分けられる音がする。
ここで私は上体を起こし、台所へと続く扉へ目を向けた。
少しだけ開いている隙間からお皿が3つ出ていることが伺えられた。
母はそのうちの1つをお盆にのせて、廊下へと続く扉から台所を出て行った。

「今日、父さんに会ったよ」

台所を出た後、玄関の横にある仏間に入っていった母親の背中に向かって声をかけた。
電気の付いていないこの部屋は昼間と言えど薄暗く、入口のわきに立っている私の位置から詳細はよく見えない。

「元気そうだった」

母の仏壇のロウソクや線香を準備する手つきは慣れたもので、晩御飯時には御経も読むこともある。
毎朝取り換えられる花の横に火が灯ると故人の、生前好きだったものもいくつか供えてあることが確認できた。

「……川辺かい?」

ロウソクから線香に火を移し、チーンと1つ鐘をたたく。
それら一連の動作を終え、こちらを振り返った母の表情は穏やかで驚きはないようだった。

「うん。橋の上で。あいかわらずポケットに何でも突っ込んでた」
「あの人はカバンを持たないからねぇ」

線香の香りが私の立っているところまで漂ってきた。
それはここ数日で嗅ぎ慣れたもので、もはやこの家の匂いともいえる落ち着くものだった。
そういえば、と母に言伝があったことを思い出す。

「父さんが、これ渡してって」

そう言って懐からマイルドセブンの箱を取り出し仏壇の前の座布団に座っている母のところまで数歩近寄った。

「禁煙するんだって」

父の言葉と箱を、母に手渡す。
そうすると穏やかだった母の表情が泣き笑いのようなものに変わった。

「……何度目よ」

それだけつぶやくと、母はもう一度仏壇へと顔を向けた。

「じゃあ、これもいらないのね」

と落果飴やブラックコーヒーなどと一緒に供えてあったタバコの箱を取り下げた。

「……嘘だって思わないの?」

あまりにも自然に受け入れてくれたため思わず聞いていた。
タバコなんてどこでも買えるし、落ち込んだ母に対するジョークだと思わないのかと疑問が浮かんだのだ。

「だって、こんなものまで渡されちゃね」

にっこり笑った母は、両手に持ったタバコを見比べていた。

「あなたはタバコを買ったことないから知らないのかもしれないけど、マイルドセブンって銘柄はもうないのよ」

あの人、まだこれなのね。と笑いながら2つの箱を目の前に出してくれた。
両方とも青を基調としたパッケージだったが、片方にはメビウスと印字してある。
マイルドセブンはいつからかメビウスという名前へ切り替わっていたらしい。
供えてあるタバコのブランドが違うことには気づいていたが気にしたことはなかった。
タバコなら何でも良かったんだと思ってた。

「……禁煙成功するかな」

ようやくひねり出した声はどことなく震えていた。
それは、ついさっきあった出来事を私自身が半信半疑でとらえていたことを示していた。

「するんじゃない?これからはお供えしないし」

あはは、と笑った母の声は明るく近頃はあまり聞くことがなかったものだった。

「いつでも見てるらしいよ、父さん」
「どこのホラーよ」

思わず、といった突っ込みは私の言ったものと同じで可笑しく感じた。

「さて、冷めちゃうしご飯食べに戻りましょう」

よし、と立ち上がった母の背中を追って私も仏間から出た。
部屋の扉を閉める前にチラと仏壇へ視線を向けるとロウソクの炎が笑うかのように揺れていた。

橋の上で会いましょう

橋の上で会いましょう

家を離れた私が久々に戻った年末の地元。 思い入れのある川に架かる橋の上で私は懐かしい人と再会した。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-27

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